心と体の免疫力

今回のブログは、
先日の大人会議でのけいこちゃんの報告を紹介します。
ちなみに、けいこちゃんがケアをスタートしてから
6週間が経ちました。

けいこちゃん:

今朝、
「これから卒業まで何かテーマがあるといいね」
とようこちゃんに言われて、
今までは自然と浮かんできた自分の心の垢に対してだけ、
いろいろ掘り下げていったりしていたんですけれど、
これからは、意識して自分の心の垢を見つめていこうと思いました。
それを自分のテーマにしていこうと思っています。
まだ、ちょっと取り繕っているところがあるんですけれど、
多分ぽろぽろ垢が出てくると思いますので、
皆さんに指摘してもらえたらなと思っています。

まり姉:

意識して自分の垢を見なくてもいいかなと。
どういうふうに垢を見ていくのかわからないけれど、
しんどくなるんだったら、
無理やり探さないほうがいいんじゃないかと思います。
自分で「こういうところがあるんだな」と気がついた時に、
次はそれをなくしていこうという感じでいいんじゃないかな。

ようこ:

今朝、けいこちゃんに伝えたのは、
ここで淡々と生活することはもうクリアできているからね。
これから卒業に向けて何かテーマがあると、
ここでの滞在がさらに充実するよねという話をしました。
そうしたら、これから毎瞬毎瞬自分の心を意識して見続ける、
ということをテーマにしますって。
ここでメンバーが毎日心磨きをしているように。

ただ、けいこちゃんはその時すでに、
それをプレッシャーに感じていて、
卒業までにそれをやり遂げないといけないと
ネガティブに捉えているようだったから、
これは私たちも一生かけてやり続けるものだからね。
卒業しても一人でそれができるように、
ここにいる間にコツを掴んでいけるといいよねと話しました。

いさどん:

この間、あっくんが優等生として
卒業してくれたのだけれど、
またタイプが違う優等生だなと
けいこちゃんのことを観ています。
ケア担当者の僕にとってはありがたいことで、
こちらの手はほとんどわずらわせず、
自分で心の癖に気づいたり、
みんなとの出会いの中で
自分の問題あるところは直していて、
とても良い事例だと思います。

心の垢ということについては、
問題がなくても垢を掘り起こすように探すということだと、
人によってはちょっと問題なのかなと思うんですけれど、
今の発言からすると、けいこちゃんは、
どちらかというと積極的に
そういうことをやっていきたいほうだと思います。

ケアをスタートしてから1カ月が経って、
両親と面談をした時に、彼女の希望の中で
病気になってしまった自分を見て、
そういったことを自分にもたらした癖を
しっかりとコントロールできる自分になりたい。
病気はもう治ったし、
また自分が病気に戻ることはないと思う。
そういう実感はしています、
と語ってくれました。

僕はいつもケア担当者として、
ケアの人たちを預かる立場にいるんだけれど、
ここまでの意識を言ってくれる人は、
本当の意味で卒業段階にきていると思います。
その状態になって、
ここでの完治ということになるんですよね。

中には、お医者さんに行かなくてもいい、
薬に頼らなくてもいい(病気については完治)という状態で、
敢えて卒業させる人もいます。
それは、ケアプログラムに依存していて、
自分の意思で次の段階に
進んでいくことができない状態でいる人です。
そういった人は、心の学びとしては
60点くらいの段階で元の生活に戻ってもらって、
違った意味でのプレッシャーを感じてもらい、
自分の意思で人生を築きあげてもらう
チャンスを持ってもらうようにしています。

けれど、もっと良いことは、
けいこちゃんのような取り組みをして、
自分にしっかりとした実感を持ってもらい、
心の免疫力をつけて
卒業していくことが大切だと思います。

ファミリーに滞在すると、
体の免疫力は確実につけることができます。
それと同じように、自分の心の癖を見て、
それをしっかりと理解して、個性として活かし、
自己コントロールまでマスターしてもらったら、
必ず良い人生が来ると思います。
それが心の免疫力で、
心と体の免疫力の両方をつけるというのが、
一番いいことです。


自信を持って生きるには?

今回は、「いさどん人生読本(仮題)」第2弾の質問、
「どうやったら、自信を持って
生きていけるようになりますか?」に、
いさどんが答えます。
生原稿をどうぞお楽しみください!
皆さんからの感想もお待ちしておりますね。

「どうやったら、
自信をもって生きていけるようになりますか?」
ということは、
未来に不安のある人の質問である。
いつも何か自分の将来が約束されている、
というような安心を持っていたい人の質問。

この質問を受けると、
こちらに「自信をもって生きていく」という
概念がないから、
どうやって答えたらいいのだろうとまず考える。

未来に対して信頼や自信を持つ必要がある人というのは、
心の病気を持つ人、
病気まで至らなくても、
心が落ち込んで日々の生活が十分に歩めない人。
そういう人に、
「大丈夫だからね、行ってごらん」というように、
ある程度の自信を持たせることは必要である。
けれど、それだって最終的には、
これで大丈夫という人生の保証はできない。

この「自信」という文字は、
自分を信ずるということ。
でも、自分を信ずるという心に対して、
信心の心というのは、自分ではなく、
自分では捉えられないもの、
運命やこの世界の仕組みを信じるということ。

例えば、全く信仰心がない人でも、
本当に困った時には
「神様!」と言ってしまうことがあるように、
誰の中にも、
自分以外のものが自分を存在させていたり、
究極の窮地に陥った時に自分を救ってくれる、
そういうことを信じたいという心がある。
それを信じているか信じていないかは別にしても。

自分が強くある人には、
自分自身の考え方、やり方で
未来を生きていこうとする。
自分の描いた未来に対して、
思うようにならない現実が自分に来た時に、
思うようにしたいという心が働き、
いつも来る未来が
自分の思うようになっていくことで安心とする。
すべて自分の思うように未来が来ることによって、
自分自身を信じられるのだから、
それが自分を信ずるという自信になる。

けれど、この自信というものが、
自分の思うように未来が来るところから
生まれるということをよく検証してみると、
やはり事が成る時には、自分の努力や、
すべてそれにふさわしいことを
自分が行った結果で成ると捉える。
しかし、
努力で全部結果が成るのかというと、
それだけで、この世界は成り立っているわけではない。
流れとか、運命、縁とか、
そういったものが織り重なって、
未来が自分の所へ訪れてくる。

この世界は鏡であるということ。
自分がこの世界の出来事と出会う時に、
自分の中に種を持っていて、その種を播く。
種というのは、想いである。
想いがこの世界をつくっている。
想いに基づいて、人は行動する。
その行動に基づいて、想いがうまれる。
さらに行動する。

自分はこの世界を鏡として、
自分自身を見ている。
だから、決して、この世界で起きることを、
自分以外のものから来て、
自分がそれを他人のせいにしてはいけないという結論にいく。

神社に行って神様の所に会いにいくと、
そこには鏡があって自分を見なければならない。
御神体が鏡ということは、
この世界全体が私たちにとって
鏡として与えられているということ。
だから、忠実に自分を見れば、
鏡としてこの世界を神様から与えられている。

自信というのは、
そういった自分を取り巻くすべてのもの、
この世界の仕組みを理解して、
それがマスターできた時に、
ああいうふうになってほしい、
こういうふうになってほしいという心ではなくて、
人生をいただく心から生まれるもの。
いただくということは、
常に新しいものを自分の中に取り入れるのだから、
自分を壊して枠を広げていく。
自分を壊して新しいものを取り入れる、
それこそが成長である。
そうすると、その仕組みがわかれば、
未来から来るものに悪いものはなく、
ただ安心して、
自信を持って生きられるようになる。

しかし、明らかにこの質問をしている人は、
自分に都合のいいような未来が起きて、
それでもって
自信を持って生きていけるコツを聞いている。
だけど、そんなコツはない。
自分の思うようにではなくて、
自分が発したものが
どういうふうに返ってくるのかという仕組みを知って、
自分がそれをコントロールできるということ。
だから、自分がこういった癖や種を播いたから、
こういうふうに返ってくるという仕組みがわかると、
コントロールして種を播かないようになる。

その仕組みがわかると、未来に対して、
「この種を播くと、どういう答えをもらうんだろう」と
その答えを自分が見てみたいという希望が湧いてくる。
そういった希望や仕組みを理解することによって安心する。
仕組みがわかることによって、
未来の答えがある程度想定できると、
自己コントロールできるから、自信が湧いてくる。

この場合、自信という言葉にあるような、
自分に都合のいいように信ずる、
ということではなくて、
何でもいただいていく想いになった時に、
強い自分、非常にたくましい自分がいて、
その自分を信じられる。

自分に都合のいい答えが返ってくることを期待しながら、
そういう上で自信を持っていくという
安心の場所をもらった人の自信ではなく、
何であってもしっかりと受け取って、
それを自分の学びにしていくという自分を持った時に、
強い自分を持つ安心からくる自信、
それで安定した人生を送ることができる。

私たちは、日々生きていると
いろいろなことに出会います。
その出会いは、
どんな仕組みで起きてくるのでしょうか。
多くの人が、
出来事は偶然起きているように思っています。
また、人によっては、問題事に出会うと、
その出来事と一緒に出会った人のせいにしたり、
運が悪かったと考えてしまう人もいます。
しかし、そういった物事の捉え方は、
自己中心的で偏ったものの見方からくるものです。


人生は宇宙の中の芸術

いさどん:

みんなで生活していることを
意識していると同時に、
ひとりで生きていることにも
気づいていればいいんだよ。

みんなが平等な場所、
誰もがブッダである場所を
つくりましょうとなったら、
実際この世界は、
誰もが大切な存在として生きている。
でも、その解釈が人によって
ちょっと違っているのかもしれないね。

それぞれが自由意思を持っているでしょ。
皆、それぞれ自分を大事にしたいと思っている。
だから、外が原因でも自分自身が原因であっても
自分の思いどおりにならないことが続いていくと
人は自暴自棄になる。
そして、そういう場所を
どうしても自分の側から見た都合でしか評価できなくなり、
良くない場所としてしまう。
こんな風に自分の希望を叶えることを優先して、
みんなで生活していることを
意識できていない人が現れてくると、
そこはみんながご機嫌な場所ではなくなる。

この世界は、どうできているのだろう。
自然を見ると、小さい虫がいて、
それを食べる虫は
そのいのちを犠牲にして
自分のいのちをつないでいる。
それは、一方的な搾取に見える。
そして、この世界には序列もある。
序列があるのだけれど、
弱いものは何をもって
強いものに対抗しているかというと、
数や擬態などそれぞれの特技を持って、
種が成り立つようにできている。

人間の世界では一律同じようにと考えるけれど、
自然界では全部一律ということはない。
つまり、序列(多様性)があることによって、
もうひとつ大きなものをつくる役割を果たしている。
自然の中では、自分の位置に対して、
他のものと比べたり、羨ましく思うようなことはない。

ミツバチの世界では、
働きバチと雄バチと女王バチがいて、
全然違う働きをするのに、
完成された調和の社会を創り、
もうひとつ大きな一群という生命を成り立たせている。
それと同じ仕組みを考えたら、
自分の立ち位置をしっかりこなしていくことが、
そこで構成されている
もうひとつ大きな組織をつくることであり、
その組織全体がブッダになることである。
それが広がっていくと、
世の中が調和的理想になっていく。
そのこと自体、その中にいる一人ひとりが
序列はあっても全員がブッダだということになる。

そう考えられたら、
「自分が」という位置を求めなくてもいい。
全体として自分たちが
「~ができているね」というところにいく、
そういう精神性が求められている。

一人ひとりの質を高めることはもちろんだけれど、
一人ひとりの能力の違いを個性として見れば、
足らない部分は他の人が補えばいい。
みんなのためにやれることを、
自分のやれることとしてやっていけばいい。
個人も全体もそういう考えになると、
初めてもうひとつ大きな機能、
もうひとつの生命がそこにできて、
それが自然の仕組みと同じように、
ルールのない芸術的な調和となっていく。

ようこ:

「皆がひとりのブッダ」として
意識していければいいんだよね。
「自分が」ということばかり観るのではなくて。

いさどん:

そう。ティク・ナット・ハンの言葉、
「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。
次のブッダはコミュニティの姿で現れるだろう。
それは他者を理解しようと努め、
互いを慈しむ優しさを持ち、
大事なことを常に意識しながら、
人々が暮らすコミュニティである。
これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、
最も大事なことではないだろうか」であったり、
僕がお釈迦様からいただいた、
「これからの時代は、組織をつくるのではないぞ。
人々が集え。集って語り合え。
語り合う中から、
真実がうまれる時代であるぞ」
ということ。

一律に皆が同じ人になる。
皆がいさどんを一つのモデルにして、
皆がいさどんになることじゃないよね。
いさどんはいさどんで独特で、
誰も真似できないような個性があるのだから。
それだけを良しとして、
一つの見本として掲げるとしたら、
それは間違いで、
第一、いさどんばかりいたら気持ち悪い。

そこのところが、
皆の中でよく理解されていそうで、
実はされていないところもある。

私たちは、
皆で暮らしていることを意識しながら、
一人で暮らしていることを意識しないといけない。
私たちはパーツであり、パーツが集まって、
全体をつくっていることを意識すること。
それが今私たちの中でテーマになっている。
このテーマは永遠に続くのかもしれない。
両方が同時に成立する世界を
いただいているわけだから。

僕が、お釈迦様の思考は
どこから働き出したんだろうって考えた時に、
出てきたことは、「己と宇宙」。
大きさの違いはあるけれど、
己と宇宙は同等のものなんだ。
己は宇宙に対してすごく小さなものだけれど、
己があるからこそ、この世界を認識できる。
宇宙だけだったら、認識も何もない。
己があって初めて、
宇宙というものと対面でき、
己を認識しながら、
宇宙を認識していく。
そういう世界だからね。

常にそれは同時に成り立っている。
そうすると、
己と木の花という世界を認識した時に、
自分を入れている器を通して見ることによって
葛藤する人がいるとする。
そこではどちらも自分であって、
大きなものをつくっているのも、
小さい自分も
自分自身だということに気づいたら、
どちらの役にも立てる。
葛藤する必要がなくなる。

この世界に当てはめてみても、
世のため人のために、
そして個人的にも、
良い人生を送ろうとすることも同じ仕組みである。
自分がいて家族がいて、
自分がいてこの社会があって、
自分がいてこの国があって、
自分がいて人類があって地球があること。
それはすべて、同じことである。

僕が強く思うのは、
どう考えても自然の仕組みがモデルだと。
自然と人間社会というのは、
「自然と人工」と表現されるように、
違うもののように思えるかもしれないけれど、
そこに流れている基本的なものは、調和。
ひとつひとつが存在しながら、
他を活かすリズム、利他の仕組み、
そういう根本的な仕組みがそこにはある。
自然には法律がないのに、美しく流れている。
その流れは芸術のように美しい。
海の中の生物の世界や、
土の中の微生物の世界など
いたる所に表現されているように。
すべての自然に美しく表現されている。

人間は、そういったものの先頭を行っている。
先頭だから全部をマスターしているのかといったら、
学びながら歩んでいる立場でもある。
自然の奥にある芸術、
それを音楽や美術、宗教として、
人間は取り出すこともできる。
自然の奥にある、心、メッセージ、
その表現を観ることのできる能力を、
人間には与えられている。

私たちは今、
「木の花」という
生きた芸術を創りだそうとしているんだよね。
最近、僕がよくプレゼンテーションで語るのは、
宇宙の総意で創られた地球は芸術であって、
私たちは宇宙の芸術を仕上げるために、
現地スタッフとして派遣されている。
身近なことでいえば、自分自身や
自分の家族を仕上げることを任されている。

ようこ:

そうそう。
私も大人会議は、
皆でつくる芸術作品だなと思っているんだ。

いさどん:

スタンスで言えば、
大きな芸術を創る時と、
今日一日の芸術を創る時がある。
理想は、今日一日の芸術を創りながら、
それが1カ月の芸術、
1年の芸術というふうに
大きな芸術になればいいよね。
そして、一生かかってできるものもある。

常に、そういう仕組みの中で
役割を担っているんだと気づいていれば、
今日一日で答えが出なくても、
自分がちょっと落ち込んでいても、
それはそれでいいということ。
今日の滞りは、
もっと大きなことにつながるのだから、
一生かかって完成するものの一部を
今日やったと思えば、
できなかったと思う必要もない。

ひとつの人生物語は、
一日で完成することもあれば、
一生かけて完成するものでもあって、
さらに、何度も生まれ変わって完成するような
大きなものもある。
そして、宇宙全体が芸術であり、
一つの物語でもある。


何も出ない朝

昨夜の大人会議では、ゲストのれいこちゃんから
「大人会議で寝ている人は、
部屋で休んだらいいのにと思う」
というコメントをいただきました。
それに対して、いさどんが語りました。

僕は以前から、
ミーティングで寝ている人に対して指摘しているんだよね。
だけど、皆が寝ていることに対して評価もしています。
というように、一辺倒のものの見方はしていない。

僕は、物事が順調に進んでいることに対して、
それはいいことだと評価します。
しかし、順調に進まないことも大事にしています。
皆が寝ていることに対して、懲りないなと見ている。
一方で、きっとこの人たちには、
それなりの日常の事情があるんだということも
理解しています。
同時に、その日常の事情を変えて、
この時間を起きていられるようにしたらいいのに、
という心も持っています。

反対に、眠っている人を見たら、
この人たちは寝ててもその場にいたいという、
それだけの情熱があるとも思う。
僕は、寝るんだったら、
自分の部屋へ寝に行ったらいいのに、
と言うんだよね。
だけど、そう言った時に、
「そうですね」って言って寝に行く人がいたら、
がっかりします。

このように、僕の中には
物事に対して矛盾する心が沢山あります。
それは、どれも正しい。
そして、見方によってはどれも正しくない。
だからこそ、私たちは
どんな出来事もよいこととして受け取れるし、
どんな出来事も悪いこととして受け取れる。
それが、大事かなと思う。
すべては自分の心次第ということ。

今朝のいさどんは、起き上って座ってみるものの、
どこか途方に暮れたような様子。
しばしの沈黙の後、こう語り出しました。

いさどん:

頭の中にぐるぐる回っていることがあるんだけれど、
それがまとまらないんだよね。
これをどういうふうにしたらいいのか、
どういうメッセージとして
受け取ったらいいのかと思うと、
なんだか無理やりつくりあげないといけないような気に
なってくるものだから、
それもいいとも思わないし・・・。

ようこ:

私は今、いさどんの感じていることが、
私にも絵やイメージのように全部見えたら、
いさどんの想いを理解できるのになと思ってたんだ。
でも、もしそれが見えたら、
自分流にいさどんの感じていることを
解釈してしまう恐れもある。
だから、今のように、
わからないからこそ自分の解釈を入れずに、
ただいさどんを感じて、
心を寄り添えることのほうが
大切だなと思っていたよ。

いさどん:

それは、とてもありがたいこと。
ただ、まわりの状況に関係なく、
自分がただ停止している時は、
どうしようもなく停止している。

昨夜ミーティングで話したように、
ものにはいろいろな見方があり、
観る位置によってよいことにも悪いことにもなる。
よいことにも、
自分に都合よくということと、
本当によいことがあるだろうし、
悪いことも、
先につながってそれが種となるようなら、
決して悪いことばかりではない。

そうすると、こういう朝もあるさ、と。

ようこ:

私は、今ここにいさどんといて、
いつもそうなんだけれど、
この場の空気を共有していると思っていてね。
こうやって、
いつもいさどんの想いや空気を共有していれば、
いさどんが何か話した時に、
その奥の想いを自分もそのまま感じ取れると思っていて。
「同じ想いを共有できますように、
いつもいさどんと同じ想いでいられますように」って。
だから、いさどんから言葉が出ても出なくても、
自分にはこうやって空気を共有し、
一緒にいられることがありがたいなと。

いさどん:

自己評価よりも、
他の人からの評価は、
正しい自分の見方でね。
自分で自分はこういうものだって悦に入っていたら、
それこそ自己満足になってしまう。
人のいろんな見方がある中で、
自分に与えられた評価は、
一番自分の真実に近い。
中には、人からの評価が
受け取れない人もあるだろうけれど。

ただ、自分の中から
引き出そうという力が働いている時は、
スムーズに言葉が出てこないし、
ある時には出そうとしなくても、
ほわんと出てくる。
それだけのことで、
そこには何かリズムがあるんだろうと思う。

今、人生の中で滞りを感じている人たちは、
そのリズムに気づかないで、
感情の起伏に呑まれてしまっている。
呑まれながらも、
呑まれているなと気づいていれば、
同じように呑まれているように見えても、
自分を客観視しているということ。
だから、呑まれているわけではない。

自分がそういう状態だと知っていれば、
違う波、つまり回復の波が来た時に
さっと乗っていけるはず。
そのことを知っていないと、
ただ悶々と思考停止状態でいる人もいれば、
不愉快な心の状態のまま、
切り替わる波が来てもそれに気づかず、
ただ日々を送っていく人もいる。

自分に感情の波があって、
今、落ちているんだと知りながら
落ちているということが大切。
もうひとつは、
自分がそれを知っているとしたら、
いつかは上がってくるさ、
と考えることもできる。

こうやって話していくと、
どんどん時間が経っていくでしょ。
今日の作業のことを考えると、
この時間の使い方がいいのか悪いのかと思いながら、
でもこれがどこかで役立つこともあるんだと思いながら。
でも、別のところでやるべきことが
待っているなということを思うと、
どこかで追われているんだよね。
ということは、欲が深いということだ。
いっぱい抱えているということは。
やれることは、ひとつずつしかできないのに。

僕が、ぽつりぽつり話していくうちに、
窓から見えるあのおじさんは、
田んぼ一枚耕してしまった。
あの人にはあの人の想いがあって、
きっといろいろと想いが巡っているんだろうけれど。
少なくとも、僕よりは
具体的な作業は一つこなしたなと。

僕が今この時間を過ごしたことと、
あの人がトラクターで田んぼ一枚耕したことは、
違うのか同じなのか。
あの人は今、それができるからやっている。
僕は、この時間をこういう心の状態を持って、
思考しながら過ごしている。
何でも有益に有益にということではなくて、
益になろうがならまいが、
漠然とではなくてこの時間を過ごした。
客観的に自分を眺めながら。
いいとか悪いとか自分を認識しながら、
時間を送っている。

今日は、調子が出ないね。
自分の中に、山ほど想いが眠っているのに、
それが気持ちよく出てくる時と、
全然出てこない今日のような日もある。
でも、調子が出ないなら出ないように
この時間を過ごすことによって、
さあ、今から作業に行こうか、
という気持ちにもなってくる!

ようこ:

今日のような日もあって、
いろいろあっていいよね、いさどん。


いさどんインドへ行く ~ 色が水に溶けていくように

僕がインドへ初めて行ったのは、
今から27年前の12月26日。
僕が31歳の時だった。

カルカッタ行きの飛行機の中で、
田中さんという添乗員が僕の隣に座っていた。
何でインドへ行きたかったのかを彼に話しながら、
「今日は何日?」と聞くと、
彼は「26日ですよ」と答えた。

僕は「お釈迦様が初めて僕の頭の上に現れた日だ」
と気づいた。
お釈迦様の生きた国、嗅いだ匂い、
吸った空気を、踏んだ土を味わいに来た。
それが偶然にも、12月26日だった。

「カルカッタの空港にあと1時間で到着です」
というアナウンスを聞いた。
涙を流しながら、
なぜ自分がインドへ行くのかということを
ずっと田中さんに話していた。

カルカッタの空港に着いた。
空港では、滑走路の脇で
沢山の人がお百姓さんをしていた。
飛行機の窓から、
そこらへんを人が歩いているのが見えて、
異国に来たんだな、すごいな、と思った。

ロッキードのジャンボジェットの扉が開いて、外に出た。
空気を吸った瞬間、
「やっと来たなあ、懐かしいなあ」と思った。
こんなに懐かしい気持ちになったのは、
生まれて初めてだと思った。
自分の故郷に久しぶりに帰っても、
こんな気分になることはなかった。
「何だろう、この懐かしさは」。
頭の中に想いが巡った。

それまで僕は、
お釈迦様の聖地であるインドという地を
客観的に捉えていた。
ものすごく親しい人が生きた土地を訪ねにいくような。
だから、知らない所を
訪ねてきた感覚になるのだろうと思っていた。
「初めて来ました。やっと来ました」と、
そういう気持ちになるのだろうと思っていたが、
そうはならなかった。

実際に来てみたら、
「うわあ、帰ってきたなあ」と、
自分の中の細胞が感じていた。
自分は、確実に以前、この国で生きていた。
なんだ、自分の故郷に帰って来たのか、と思った。

空港の税関の向こう側では、
「ルックツアーの皆さんこちらですよ」と
言っている男の人がいた。
その呼び声の主を見ると、
顔はインド人の顔をしているのだけれど、
日本語が上手で、
彼の雰囲気がすごく日本人みたいだと思ったのを
覚えている。
普通に日本語で冗談を言うような。
僕は誰にでも冗談を言うから、
片言の英語と名古屋弁丸出しの日本語で
ばんばん冗談を言うのだけれど、
彼はそれにちゃんとついてくる。
そこには、インドへ行った雰囲気が全然なくて、
がっかりした記憶がある。

彼は、ツアーのガイドをしている時以外は
ずっと僕の隣にいて、
何で僕がインドへ来たのかを聞いてきた。
僕は旅の間中、涙しながら話していた覚えがある。

その旅の間の話はひとまず置いておいて、
インドを離れる前日のこと。
ニューデリーの空港の近くのホテルに宿泊していた。
僕は、最後の夜だからということで、
瞑想をしていた。

心地よく瞑想に入っていく。
「こんなに心地のいい瞑想をしたのは久しぶりだ」
と味わっていると、音楽が流れてきた。
僕がイメージの中で美しい景色を見ると、
頭の中でベートーベンの「田園」が流れてくる。
その時もそれが流れてきた。

瞑想の中、
僕は晴れている場所で
8の字を描きながら空を飛んでいる。
最初は、上昇気流に乗って上へ上へと飛んでいた。
下を見ると、草原に花がいっぱい咲いている。
コスモスのような、けしのような花畑で、
すごく広い。
そこを僕は鷲かトンビになって、
8の字を描きながら、ずっと下を見ている。

だんだん高度が下がってきた。
下の花畑は、全く見たこともない景色で、
今の時代の景色ではないことがわかる。
そこには人間の営みが全くない。
自然のままの風景。
明らかにこれは、ずっと昔の景色。
8の字に飛びながら、その景色を眺めている。
そのうち、どんどんどんどん下に降りていく。

地上に近づいた時に、
大理石の大きな門がぽつんと見えてきた。
その大理石に向かって、さらに近づいていった。
その門に向って急降下しだして、
その門をくぐり抜けようとするちょっと手前の所で、
その門いっぱいに顔が現れた。

それは、インド人の顔だった。
ちょっと色が黒くて、眼が鋭い、
凛々しいインド人という雰囲気。
皮膚がピカピカしていて、弾力があって、
生きている顔。
その顔は何も言わない。
笑いもしない。
ただ、「真理」という顔をしていた。
真理とはこういうものである、という顔。
その顔が目の前にばーんと出てきたら、
ふわっと瞑想が終わった。

ああ、見た。見たな、と。
僕がインドに来た目的は、
お釈迦様の吸った空気、嗅いだ匂い、
そして踏んだ土をこの肉体に感じて、
「あなたは、ここで
心を人々に説いたんですね」と確認したかった。
そして、お釈迦様の
生(なま)の生きている顔を見たいと思っていた。
そんなことはできようもないけれど。

僕が大理石の門の所で見た顔は、
生(なま)の生きている、真理という巨大な顔だった。
それが自分の前に現れて、
「見た!ありがとうございます。
そんなことが叶うなんて、想ってもみなかった。
この顔は絶対忘れない」と思った。
その時に、いつか
絵を描くのが上手な人に出会えたら
描いてもらおうと思って、自分の眼に焼きつけた。
あれから27年も経っているけれど、
今でもはっきりとイメージできる。

僕はそれで満足して、
瞑想を終えて休んだ。
次の日の朝、トイレに行った。
便器の左横には洗面台があって、鏡があった。
僕は前を見て座った。
何気なく、ふと左の鏡を見た。
すると、鏡には
昨夜あの門の所で見た顔が映っていた。
その顔が僕の首の上に付いていた。
「ああ、昨夜の顔だ」とじっと見ていたら、
すっと自分の顔に戻ってきた。

それだけの物語。
それで僕の目的は全部達成されて、
インドから戻ってきた。

僕は、お釈迦様が生きていた時の生の顔、
誰も見ることのできない、
その顔を見たいと思っていた。
それが叶えられた。
それが自分の顔に映っていたというのも、
何となく、
これからそういうふうに生きていくんだという予感もした。

今、僕のまわりに、
何となくあの方がおいでになるという感覚がある。
あの方が、神様のように、
この世界に遍満しておられる。

お釈迦様に縁をいただいてから9年後、
天上に昇られる時、
「私はまだ赤子のようで、
あなたなしでは歩めません」と言った。
しかし、お釈迦様は、
「赤子と思っておるのは、そなただけじゃ。
歩んでみなさい。
もう十分に育っておるから」
と諭されて、
「わかりました」と答えた。
そして、今日まで歩んできた。

その頃、ある女性のシャーマンとの出会いがあり、
彼女は僕にこう伝えた。
「古田さん、お釈迦様は決して
あなたから離れていこうとしているのではありません。
ただ、役割が終わったから、
天上の世界へ帰られるというだけなのです。
これからは上からあなたを見守っておられます。
そして、何か大切なことがあったら、
いつでも戻って来て、
あなたの力になるとおっしゃっていますよ」と。

あれ以来、
一度も音を上げたこともないし、
力を欲しいとお願いしたこともないけれど、
2か月前、これからますますこの心を
人々に伝えていくと思った時に、
「どうかあなたの力をお貸しください」とお願いしたら、
もともとそうだったけれど、
僕の発想はますますインド哲学的になってきた。
「ああ、おいでになるな」と思った。
自分の想いの中に、
色が水に溶けていくようにおいでになる。

そういう僕とお釈迦様の物語。