悟りの道は己の健康から

いさどん:

世のため、人のために生きることが大切ということはよく言うけれど、では具体的に何をすればいいのだろうか。そこで答えるのは、ボランティア活動をしなさいとか、寄付金をどこかにしなさいとか、そういうことではない。

ツꀀまずできることは、自分を健康にすること。健康にするということは、体も心も健康であるということ。そのためには、健全な日々の生活リズムや食習慣など、沢山心がけなければならないことがある。木の花のような生活をしていても、生活リズムを乱すこともあるから、しっかりと整えていくことが大切で、そんなに簡単なことではない。季節の変わり目に体調を崩すこともあるから、心していないといけない。

ツꀀ心の健康というと、やっぱり自分をいつも振り返らないといけない。しっかりと自分を振り返って、自分の考えが自分の行いにどうつながるのか。自分の行いが自分のまわりに何をもたらすのか。家族、地域、社会、国家、この地球とどんどん波及していくわけだから。自分を健康にするということは、一人分、この世界を健康にするということ。

ツꀀこれを別の視点から捉えると、私たちが生きているということは、自分の在り様によってこの世界に自分一人分の影響を与えている。神様から、地球一人分、託されている。それは、何か大きなことをしなさいと言うわけではなくて、自分が一人分この世界を健康にする。健康ということはつながるということ。自分のいのちのリング一つを健康にしたら、この世界はきれいないのちの鎖となって、世界全体が健康になる。

ツꀀこの世界は無限の織物。縦糸、横糸、斜め、そしてそれが立体となって、高密度の織物になっている。すべてがつながっている織物。

ツꀀだから、自分が不調和を発したら、いろんなものに影響を与える。「自分一人を健康にするのは、意外と難しくない、簡単だ」と思っている人もいるかもしれないけれど、その人が考えている以上に至難の技である。一人一人がそのことが大事だということに気づいて、心がけていった時に、この世界が仕組み通り見事に仕上がる。そこには、「世のため、人のため」、で受けとれる表現以上に大きな重みがある。

ツꀀ世のため、人のためというのは、自分から外に対して何かをしてあげるような発想になるのだけれど、その「世のため、人のため」の中に、自分自身も含まれている。自分自身が自分のものではなくて、世の中のものであって、自分が存在していることが世のため人のためであるんだ、と理解できた時に、初めてそれがよくわかる。

だから、「世のため人のため」、それだけの言葉でも、その受け取り方によって、深くて重い受け取り方、軽くて表面的な受け取り方がある。

ツꀀ世の中の一人として、一人分世の中を健康にするポイントは、嘘、偽りなく生きること。それは、自分が日頃語っているように生きているかどうか。木の花では、「現象を持って真実とすべし」といって、どんなに立派なことを語っても、それが行動に表われなければ真実ではない。それを何度も繰り返していたら、嘘を語っていることになってしまう。立派な言葉でカモフラージュしていたら、詐欺師になる。決してそれは、警察に捕まるような詐欺師ではないけれど、あなたの価値としていつかは返ってくる。心の罪として、いつか出会う矛盾となって返ってくる。それくらい大事なもの。

ツꀀだから、世のため人のためだからこそ、他の人の景色が見えた時に伝えてあげることも必要。それを強い愛情のもとにしてあげることは、大切なことになる。同時に、人のために愛を持って伝えた分だけ、その人は自分というものをしっかりと振り返る必要がある。そういう心がないと、嘘つきだったり、詐欺師になってしまう。

ツꀀようこ:

これは、「世のため人のため」ということだけではなくて、「悟りたい」ということも同じことだよね。まずは、自分の健康からって。

ツꀀいさどん:

「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは衆生のためにあり。」まさしくこの言葉通りで、悟るということは、尊い境涯。人が人として生きる、最終到達地点。目標なんだよね。悟ってしまったら修行がいらなくなってしまうから、人として生きるという道はなくなってしまう。そうすると、仏という存在になった時には、この地上に肉体を持って生きていないことになる。

ツꀀこの世界が、一定の方向に向かって動いているとしたならば、その奥、元の所で動かしている側の立場、神の存在するところで役割をすることになる。

ツꀀそうしたら、仏になる前の段階として、生きている菩薩の境涯。菩薩は世のため人のために生きて、世の中、人々が幸せになることを己の喜びとして生きるもの。その菩薩の境涯に立って生きていく、ということをとりあえず人間は目指すわけだよね。

ツꀀそして、それが完全に仕上がった時に、仏という境涯になる。仏という境涯になると、そこには「自分の」という願いがなくなってしまって、自分の悟った境涯を衆生に伝えるという側に立つわけだよね。与える一方。わかりやすく言うと、善意で愛で調和をもたらす側のものになる。

ツꀀ私たちはこの世界の仕組み、自然の仕組み、利他の仕組みの中にいる。仕組みの中でつながって調和している。それが乱れると、乱れを伝えるための現象が起きて、修正されるようにできている。これを神様の意思、仏の意思というふうに見ると、まさしくこの世界は、私たちが学んで健康になっていく仕組みになっている。

ツꀀこの世界が、その仕組み通りの世界だとして、この世界は私たちに何かお礼をしてくれとか、料金を払ってくれとか、要求しないんだよね。料金を払ったかい?と問いかけたりもしない。仕組みをもって、ただただそれができていないよって現象を与えて教えてくれている。その人に応じてふさわしく与え続けていること。それが神様の意思だよね。

ツꀀそして、私たちが菩薩から仏になると、それを運営する側、神様の側に立つ。それが悟りの世界。悟りの境涯。だから、「悟りたいんだ」という気持ちはわかる。それを願うことは、大切な生き方だけれど。「悟りたい」と願うことが、悟りの境涯に立つことに通じるとは限らない。

ツꀀ悟りとは、「悟りたい」と思って歩む道ではない。

ツꀀ「悟りたい、悟りたい」と想えば想うほど、悟りの道から外れていく。そういった自分の中から湧き出てくる自我の側を離れて、対岸にある世界の側に立つことなんだよ。

ツꀀようこ:

そうだね。人のためになりたい、人のためになりたい、と言って、人のためにならないのと同じだよね。

ツꀀいさどん:

そう。だから、まずは自分を健康にしましょうということだよね。

そうか、今日のテーマは、「悟りの道は己の健康から。」

ツꀀようこ:

仕組みとしてはこんなにシンプルだけど、悟りたいと強く想っていると、一瞬頭でこのことを理解したつもりでも、またすぐに戻ってしまうんだよね。

ツꀀいさどん:

自分というものが強すぎると、自分の側からの目線ばかり見えてしまって、自分がこの世界の中にいて、この世界に影響を与えながら、この世界からいっぱい影響を受けて自分がある、そのコラボレーションでこの世界がなっていることを忘れてしまうんだよね。それが「我先の心」、自分の想いが勝ってしまうとそうなる。

ツꀀ自分対この世界、宇宙、コラボレーションによって自分を取り巻くいろいろなものと、自分の存在が出来事を引き起こしていて、起きてきたことによって自分を見ている。この世界は鏡だということ。そのことを忘れてしまって、こうなりたいと結果を先に求めていると、いただくということを忘れてしまって、いただくことによってこの世界の仕組みから自分自身を見せてもらって学び、成長することから外れてしまう。正しく学んで、自分を健康にすることができなくなってしまう。

ツꀀよく考えてみたら、簡単で単純な仕組みなんだけれど、動物や植物に自分の歩みに対して悩むという機能が与えられたら、きっと動物や植物も悩むんだろうね。そうすると、ああいうものがいかに尊いか、ということと同時に、悩むということが与えられていないということは、すごく楽な生き方を与えられているということ。反対に、人間は愚かだなと思う。その半面、想い悩む自由を与えられたんだと思うと、尊く素晴らしい道を与えられていることがわかる。

ツꀀ悩みながらも、悩むことの尊さ、喜びを感じられる。同時にそれがあるよね。生きていることの臨場感を感じられる。

ツꀀ今窓から西の空が見えて、例えば、あの雲が悩んでいるとか。そこにある柿の木か悩んでいるとかね。今日はすごく元気がなくて、しゅんとしてるとか。どうしたの?って柿の木に聞いたら、実は今年の収穫がとか、このままいったら来年まで生きていけるんだろうかとか答えるとしたらね。

ツꀀそれこそ、私たちはすごく落ち込むよね。人間、自分の身の回りだけでもこんなにいろいろ悩むのに、自然がいつもそういう想いもなく、いつもただいてくれるから。淡々と四季を迎えてくれるからこそ、人間は悩んでいける。自然の猫だとか猿だとか、虫もみんなが、それこそ木の花菌を仕込む時に、木の花菌が悩んでいたら、僕らは救われないよね。

ツꀀこの世界で人間以外悩むことを与えられていないということは、人間はこの世界にいかに救われているか。

ツꀀ今日は、いいことを知ったぞ!

ツꀀようこ:

面白い!自然までも悩んでいたら、騒々しくて仕方がないよね。

ツꀀいさどん:

というか、もう嫌になるよ。この世界が皆、人間のように悩むことを与えられていたらね。だけど悩むからこそ、いろんなことにも気づいて悩んでいける。これを辛いことだといったら、そうなってしまうけれど、そんなふうにも解釈できるとなると、すごい能力が人間に与えられていて、それこそが喜びだよね。

ツꀀ馬鹿馬鹿しいのか、喜びなのか、なんだかわけがわからなくなってきたけど。ということは、悩むことが馬鹿馬鹿しいといって、悩みから外れ、悩みがなくなってしまったら、いかにこの世界が味気ないかということになるよね。

ツꀀこの世界を悩みだけにしたら、それは辛いばかりだけれど、この世界が確実に悩まないことを目指している世界として私たちを包んでくれているから、私たちは本当に安心して悩むということを与えられていける。それは、本当にありがたいことであって、喜びになる。

なんだかよくわからない結論になってきたね。

ツꀀようこ:

いつもそうやって煙に巻く、ゲームですから。さあ、このカラクリをどこまで人間は理解できるでしょうか。

ツꀀいさどん:

なんだか、答えが出なくても、笑っちゃうじゃん。とりあえず、いのちは与えられた寿命だけあるんだし、できることは今回与えられた役割分だけあるんだし、想い悩むことはないよね。というところにいくんだけれど、想い悩むことがなくなったら、生きている実感がない。生きているということは、想い悩むことだから。そうすると、想い悩むことなく、悩んでいけと。

ツꀀようこ:

そうそう。とりあえず、絶対安心の中にいることは間違いないのだから。

ツꀀいさどん:

間違いなくね。そして、何もないところで生きていくのではなくて、悩んでいきなさいと。なんだか、わけのわからないような、わかったになった。

ツꀀこれはすごく難しい!

ツꀀようこ:

これは、文章にして、どこまで理解できるかな。

ツꀀいさどん:

ここまで語れたということは、相当の結論だよね。今日もいい話ができてやる気になってきたぞ。さあ、作業に行こうか。


今日のテーマは愛~愛は減らない

ここのところずっと想っていることがある。木の花で、今、自分の心をコントロールできなくて、どうしても自分事を優先してしまって、そこから抜け出せない人がいる。

それは、一般社会では当たり前のことだよね。だけど、木の花という社会では、自分事が優先してしまっている人ってどうしても浮いてしまう。皆がそれを問題あるよと言って、厳しく浮き立たせているのではなくて、自分事ばかり考えている人がここで毎日生活していると、不思議といろんなトラブルが起きたり、作業で失敗したりと、その人の中から不調和な部分が出てくる。

それが自然の仕組みの中だと、自然は調和の中にあるから、調和が崩れると淘汰されるというふうに力が働く。たとえば、自然の中ではバランスが崩れて調和から外れると、病気が出たり、怪我が出たりする。増えすぎると、天敵に襲われる。そういったことがあるように、それと同じような現象がここの社会の中でも起きてくる。

そうすると、その人は、自分を見る目がなくても気になるのか、それを自分で認識して、大人会議の報告で出したりするけれど、歯切れが悪い。自分を積極的に誘導できないばかりに、毎日同じような歯切れの悪さを出す。人によって陰性的で消極的な出し方と、陽性的に自分がアクセルをふかしすぎてしまって、行きすぎてしまうような人。それから、十分自分をコントロールできなくて、コントロールというのはアクセルをふかしすぎてコントロールできないのではなくて、前に進めなくてそこで苛立っている人がいてね。それをこういうものだよって言ってあげても、なかなかそれができない、涙があったり、落ち込んだりということがある。

それに対して、そこから抜け出るためのアドバイスであったり、言葉がけというのは、そのひとが救われるための、一番大切な愛がそこに向けられている。これこそ愛だな、と。その人のことを大切に想う愛。

けれど、受け取る人によっては、自分の中から滞りが出てきたのに、それができない自分がずっとあり続けて、その姿をしっかりと見てたら、ああ自分の問題なんだなと受け取れるだろうに、それを外の人からこうするといいよというふうに指摘されると、いつまでたっても直らない。

それはどこに原因があるのだろう。自分の問題点を人から言われている、という意識に知らない間に変わってしまったり、中には人が自分に厳しいことを言っている、自分が責められている、と思うことになる。でも、それは本来、自分から発したもの。それに対して、その人がそこから抜け出せるようにその人のことを想って、適切で客観的なアドバイスをしているにも関わらず、それが責められているように感じてしまう錯覚に陥る。

今の段階で、木の花で起きていることはそんなに重症ではない。皆、どの人も自分のこととして受け止めているけれど、一般社会ではそういうことはありえる。

僕はケアで人をお預かりする時に、常にその人のことはその人のこととして、前もって伝えておく。それはあなたのことですよ、と。自分のことなんだってことを常に理解している状態でないと、全く本末転倒になってしまい、おせっかいになってしまったり、伝えようとすることが伝わらなくなってしまう。

だから常に、自分から発したものが何であるのか、自分の中に原因を見ていかないといけない。外から来たものも、外に原因を見ると言うことだけではなくて、自分がそれに出会ったのだから、自分の中からまず見ていかないといけない。そういう場合は、外にも原因が当然あるのだから、客観的な目で外の原因を見る必要もあるのだけれど、大事なのは、まず先に自分の中に、自分から発したものを見る。そして、外から来たものも、それに出会ったという自分の中を見る。最後に外を見る。正しく物事を見るためには、その姿勢が必要だと思う。

今日は愛がテーマ。愛というものは、語っても語っても、語りつくせないものだけれどね。

僕は最近、陽子ちゃんとほとんど毎日対談をするんだよね。陽子ちゃんは、僕の中から湧き出してくる想いを見事に受け取って、忠実に表現してくれる。会話する言葉というのは、どうしてもわかりづらいから、そこで文章に仕立てていくということをするんだけれど、目的や会話の中の意図が僕らの中で共通していないとできない。事務的にやっていたのではできない。

それは、すごく強い絆と信頼があるからできる。さっき、陽子ちゃんが部屋に入ってきたときに、陽子ちゃんはなんでこれをやっているんだろう、と言葉にならない問いかけが発生したんだよね。それは、きっと楽しいからとか、希望があるからとか。そういったことを超えて愛しているから、ということなんだろうと思った。僕もなんでこれを毎日やっているのだろうと思ったら、僕も陽子ちゃんをこのことのパートナーとして最良の存在だと思っているから。

昨日ね、大人会議後、ひまわりから本宅に帰ってくる時に、たまたまみかちゃんと一緒だったんだよね。みかちゃんに、「みかちゃんね、僕らは愛し合っているよね。僕らはもう他に誰も割り込むことができないくらい愛し合っていて、そしてこんなに愛深く日々が生きられるということは幸せだよね」って言ったら、「そうだよね。私は昔、愛というものを自分が人を支配することだというふうに思っていた。だけど、こうやって愛をお互いに向けあって、そしてあふれるくらいの愛を表現することができるんだよね」ってこう言うんだよ。

同じことを陽子ちゃんに感じて、僕は今みかちゃんとか陽子ちゃんって名前を挙げたけれど、それはじゅんじマンやこうちゃん、なかのんにも、ここには沢山の男の人もいるけど、どの人にも感じるって、その時に言ったんだよね。

人の中に、相手を独占したいとか、そういうことで悩んでいる人がいる。そういった人は、愛には限りがあるもので、自分に向けられている愛がどこか他に向けられたら減る、と思っている。しかし、それは間違いで、愛は実は減らないものである。特定のものに対して、独占する心が生まれると、対立が起こり愛が消滅してしまう。愛は育てていくもので、無限に増えていくものなんだ。

もしも世の中のすべてが嫌だとなった時に、この世界と対立しているのかと言ったら、実は、そういったせまい心になった自分と対立している。一番始めの愛の対象である自分と対立していることになる。

ところが、愛というのは、すべてが喜び、すべてが感謝。すべてに愛を向けるということができるという広いもの。

一般社会の中で人と人が愛し合うっていうと、非常に相性のいい夫婦がいて、生涯を睦まじく生きた。大恋愛をして、恋愛の見本のような愛をもって生きた。それは、特定の人の間にある関係だよね。

僕は、その特定の人同士が持てる、ほとばしらんばかりの愛を誰にも持てるな、と最近思っていて、どの人を見ても、その人の奥に本当に深い愛を持っているなと思っている。それを皆に感じるようになった。本当に幸せだよねってそこでは伝えて。

その時その時に、100%相手に愛を向けたからといって、それですべて、愛の泉が枯れてしまうということにはならない。どの人に対しても同じ気持ちが湧いてきて、枯れることがない、これはすごい世界じゃないかと思っている。素晴らしい。そういう世界を僕は今生きている。これを聞いた人たちは、その世界を想像できるだろうか。イメージできるだろうか。

実際に僕は、毎日そういう心を持って生きている。そうするとね、それを拡大していくと、僕らがまだ出会わない人たち、そういう人たちのことも愛の心で見ることができるんだよね。そこでいろいろ想い、悩んで苦しんでいる人がいたとしても、その想い悩んで苦しんでいることも、温かく見守ることができる。

神様ってこういう心で、この世界の見えない場所から私たちのことを見ているんだろうなと思う。そして、私たちも誰にでもそういう心を向けられる。それだけでも、なんて素晴らしい所に生きているんだろうと思う。

愛は減らない。お互いがお互いの関係の中で、めいいっぱいこれ以上表現できないっていう愛を表現しながら、それがどの関係の中でも同時に表現することができる。愛は減らないんだよと。なのに、独占しようという心が起きた時に、いろんな所に向けられる愛が、なんだか自分の取り分が減ってしまうような、なくなってしまうんじゃないかって思う。その愛は自分だけ得しようというエゴの愛。自己愛。

どんな縁にも意味があって、それを健全なほうに育てていきたいよね。健全な方に育てれば、そこには当然いい人間関係が生まれてくる。それを無理やり維持しようとせず、いただいた縁を本当にすくすくとそのまま育てたいなと。にこにこ笑いながら。

目的、会話の中の意図

自殺する愛から究極の尊さまで

先週末、東京で村的暮らしをテーマにしたシェアハウスを運営されている「やかまし村」の皆さんが1泊2日のツアーを組んで、ファミリーを訪れてくださいました。いさどんがプレゼンテーションを行った後、質問タイムが設けられ、そこではいろんな話で大いに盛り上がりました。参加者の中には、「この時間が一番ためになり、楽しかったです!」とコメントされる方もいらっしゃいました。

その質問タイムの中で、いさどんが感極まって涙を流す場面もありました。涙した理由と、その奥にある想いとは・・・

まず、自分がどういう想いを持っているのかということが、確実に自分の未来に現象となって訪れる。これは、科学では説明のつかない話だけれど、物理学の最先端をいっている人たちの中には、それこそが最先端の物理学なんだと言う人がいる。「木の花で想うことは成る」と言っているんだよね。それは一般社会でもそうなんだよ。悪意を想えば悪意の世界ができるし、対立を想っている人には対立が起こる。

木の花で想うことは、すべて善意。だから、私たちがこういった考え方をもっと世の中に伝えるために、人々が訪れるための施設が欲しいと想ったら、それは社会のためであって、自分たちの欲を満たすためではない。そうすると、それに必要なお金や施設は、社会が与えてくれる。一方、自分の生活のために生きている人は、自分の稼ぎ、やり繰りでしか生きていけない。

私たちの今の年収は、ひとり70万ですよ。だけど、これほど豊かに生きていける。

自分が想うことによって、未来を創ることができる。そうしたら、何を想うかということを、真剣に考えないといけない。その想念が未来に実現するのだから。

でも、想うことのカギが間違っている人が結構いる。執着を強く持って、それを維持することが幸せだと思っている人。例えば、お酒が好きな人。お酒はある程度は、体にいいとも言う。でも、それが憂さを晴らすためのお酒になった時には、目的が違ってきてしまう。そうすると、憂さを晴らしたいから、それを忘れるまで飲むことになる。憂さというものの根本の原因を解決しないで、お酒で忘れるという手段にもっていくと、問題は何も解決されていないから、何度でも繰り返すことになる。そうすると、お酒をやめられなくて、いずれはアル中になる。

最初は幸せだったのに、その想いがバランスを失ってしまうことがある。そのときに、自分が楽になりたい、欲求を晴らしたい、と幸せを追求していくのも、実は愛。この世界は、全部愛が変化したもの。自殺するのも愛。自分を幸せにしたい、そういった自己愛。辛くて仕方がなくて、自分を解放してあげようと自殺するわけだから。

だけど、愛もそこまで歪んでしまうと、生まれてきた根本の目的を放棄するという、最も不幸なところにまでいってしまう。そこは、考えないといけない。自分の愛がどんな愛なのか、しっかりと考えないと。

これほどすばらしい世界にいながら、なぜそこまで自分を苦しめるのか。なぜそこまで辛い心を持つのか。

それを思うと、涙が出てくる。

なぜ、自分のいのちを絶つようなところまで自分を追いやるのか。他人に追い込まれていると思っているけれど、自分で追い込んでいる。

なぜ、そこまで見えないのか。これは、何とかしなければいけない。この世界の創造されている目的、真実の目的に気づかなければいけない。

これも、僕が肉体の中に入っていて、心がせまいから、そんなふうに思うんだけれど。神様は、「それもプロセス。もっと先があって、今があるんだから。今を悲しんではいけない」と言われる。

それは、上から見たら確かにそうかもしれない。僕もこの肉体を返して、それこそ惑星間を旅しているようだったら楽しいのかもしれないけど。でも、今ここに現実に肉体を持っていて、そういうことを目の当たりにしたら、全部ゲームだって笑ってばかりもいられない。

毎年8月になると、ものすごい馬鹿な時代を振り返らないといけない。あの第二次世界大戦で行われた、あの不幸は何だったのかと。人間があれほど真理から外れて、馬鹿になってしまうような。人が人を食べるような。何もそこに益がないのに。肉弾で殺戮の中に走っていき、それを他人に強要するような。それを泣きながらやるような、泣きながらならやめろって思うのに。人間ってのは、そこまで愚かなものになることがある。

自然を見てごらんよ。自然の中にはそんなものはいない。でも、人間は、そこまで愚かだからこそ、そのエネルギーの反作用を生かせば、究極の尊さまでいくこともできる。

これは、神様のゲームなんだから。テレビゲームを作っている人たちでは、こんなすごいゲームは作れない、すごいゲームなんだ。

話し終わって、「そんな神妙な顔をしなくていいんだよ、世の中が明るくなるように話をしているんだから」といさどん。

いさどんから湧き出してくるものが何であろうと、それはいつだって善なる愛なる調和なのです。

真剣に話を聞く「やかまし村」のみなさん
真剣に話を聞く「やかまし村」のみなさん

木の花昔ばなし

ようこ:

今、本づくりの材料になるかなと思って、あいちゃんの日記を借りて読んでいてね。そうしたら、いさどんが16年も前から、「一人ひとりが木の花を背負っている。トップであり代表である。木の花を見ている人たちが沢山いる。木の花全体を背負っていることを忘れてはならない」と皆に語っていたのを知って。今と全く同じことを16年も前から言っていたんだなって。言っていたというか、神様のお言葉だけれど。

ツꀀ「うそつきはここにいられない」とか、全く同じことを言っていたんだなって。

ツꀀいさどん:

そういうことを聞くと新鮮だよね。そう、ずっと同じことを言っているんだよ。

ツꀀようこ:

他にはね、皆で住む家を買った日に、「自分の財産を全部、志同じものたち、皆に使ってほしい」といういさどんの夢が実現したと書いてあったり。それに対し、あいちゃんのコメントとして、「やっと夢が現実になり、自分のものがなくなって本当によかったね」って。

ツꀀこれを読んで思ったのは、いさどんは、ずっと変わらないんだなって。それで、皆が変わって。そして、新しい人たちが来て、その人たちもどんどん変わっていくんだろうなって思うと本当にありがたいよね。

ツꀀいさどん:

でもね、昔と今で違うのはね、まわりの人たちの理解度が違う。それに、世の中の環境も違うよね。だから、僕も落ち着いていられる。昔は、まわりの人たちが全然わかっていなかったから。

ツꀀようこ:

最近のりちゃんから聞いた、面白い話がね。いさどんが相手のことを想って時にはきつく接している時代に、いさどんがのりちゃんに、「神様は何て言っておられる?」と言って、そしたらのりちゃんが「すべて愛である」というお言葉をいただいて、いさどんに伝えたというのを聞いてね。のりちゃんとしては、いさどんが直接神様に聞けばいいのに、とか、もし神様からお言葉をいただけなかったらとドキドキしながら、でも神様を信じてただ聞けばいいんだ、と思った裏話も聞いて。その時のこと、いさどん覚えてる?

ツꀀいさどん:

よく覚えてないな。ただ、あんまりにも一途で真っ直ぐな心を、自分でも持て余しているという頃はあったね。

ツꀀようこ:

それは、やりすぎているんじゃないかってこと?

ツꀀいさどん:

そう。本当にあまりにも一途でやっていると、何か取り返しのつかないことになった時の恐怖。でも、信じていくっていうことの両方があった。

ツꀀようこ:

そういう時でも、あいちゃんの日記にあったけれど、まわりが育てられて、神様が作業中であるって。神様が作業中であるって面白いなと。

ツꀀいさどん:

富士山に来る前に、約束というのがあってね。それは、富士山へ行ったら、何が起きるかわからない。何があるか、起きることに対しての約束はできない。それは、未知の生活をするんだから。路頭に迷うかもしれないし、大変な苦労をするかもしれない。

ツꀀけれど、約束できることは、そこから自分が逃げない。皆と一緒に同じ苦労をしていく。だから絶対に逃げない。

ツꀀそれともうひとつ約束できることは、今の延長線上にいる。言うことは変わるかもしれない。成長していくからね。言うことは変わるだろうけど、でも、今の延長線上にいる。だから、同じことをやっていくということは約束できるって。

ツꀀようこ:

日記を読んでいると、まさしく全く同じことをいさどんは言っているよね。創立メンバーも今ではわかっていても、当時は「一体いさどんは何を言っているんだろう?」「尊き人になるっていっても、まず尊いってどういうことなのかわからなかったよ」ってのりちゃんが教えてくれたりね。当時は、ただ無我夢中で付いていくしかなかったって。

ツꀀいさどん:

よく一人前の人たちがね、自分の人生、自分というものを全部捨てて、賭けたものだよね。みんなその人なりの価値観はあったのに。

ツꀀようこ:

あともうひとつ、日記を読んでいて面白いと思ったのは、いさどんが指を切った日に、それをいさどんは、「体がへったけど、心がふえた。とてもいいことだ」と言っているんだよね。それに対してメンバーのコメントが載っていて、「ちなっぴは、今までいさどんに頼りすぎていたので、もっと自分がしっかりしなければ。」「のりちゃんは、病院から帰ると、いつもと全く同じ明るいいさどんに勇気づけられた。」「和子ちゃんは、私はいざという時にオロオロするばかりだけど、もっとしっかりしなくてはいけないと思った。」「あいちゃんは、いさどんの体に異変が起きた時は流れが変わる時。今まで以上に、このことによっていさどんの奥深さ、心の偉大さ、広さ、愛が表され、示される時。こんなに木の花が心を痛め、考え、泣いたことを無駄にはしない。今日、木の花の指がなくなった」と。

ツꀀ「体がへったけど、心はふえた」っていい言葉だね。

ツꀀいさどん:

そういう神様の名言がいっぱいあるんだよ。

ツꀀようこ:

そうそう、日記の中にも、いさどんから出た神様の言葉がいっぱいあるからね。今度出版する本の中にも、16年前の言葉も一緒に入れたら、全く同じで面白いなって。

ツꀀ言うことが変わる人はいるけれど、こうやって何十年も変わらず同じことを言い続けて、実践している人って本当になかなかいないよね。

ツꀀいさどん:

本当だ。きっとどこか到達地点に行っているんだよね。だから、変わらないんだろうね。

ツꀀようこ:

悪いことが変わらないで頑固、というのはよくある話だけれど、いいことが変わらないというのは、この世の中でもめったに出会えないよね。木の花昔ばなし、その心は、今も昔も変わらず大事を生きる、ということでした。


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