人生って何のためにあるんですか?

いさどんブログ読者の方、お久しぶりです。というのも、実は「いさどん人生読本」(仮題)出版プロジェクトが4日前から始まり、そのテープ起こし、原稿をまとめておりました。この本のねらいは、世の中の人が持っている様々な疑問や課題に、いさどんが順番に答えていき、「大切なこと」を伝えていくこと。生きること、人間関係、パートナーシップ、健康という個人的なことから、仕事、社会、宇宙、神様という大きなテーマにまで話題は広がります。木の花流“人生のヒント集&参考書”。別名「スピリチュアルな哲学書」。

今日は、その一つ目の質問、「人生って何のためにあるんですか?」にいさどんが答えます。生原稿を皆さんともシェアすることで、一緒に本づくりをしていければと思っております。では、出来立てほやほやの原稿、第1弾をお楽しみください。

ツꀀ

第1章 生きること
1、人生って何のためにあるのですか?

まず、「人生は何のためにあるのでしょう」という質問に答える前に、人生というものをどう捉えたらいいのか、ということを考える必要がある。人生を「人が生きる」と解釈するのか、それとも、「人が生かされている」と解釈するのか。それによって、大きな違いがある。

ツꀀ人が生きていると捉えるとしたら、人は自分の意思を持って生きているということ。それは、現代社会の人たちをイメージすることができる。人が、生きるために働く、家族を持つ、生活をする。目的を達成するために、いろいろと考え、行動する。目的を達成するために、いろいろな仕組みをつくり、社会をつくっていく。その結果、この現代社会ができている。

ツꀀ同様に、人生を人が生かされていると考えたときに、宇宙の始まりから、銀河、太陽系、そして地球の創造。ここで、考えておかないといけないのは、すべて「創造された」ということです。何かによって、創られたということ。そして、地球が創造されていく中で、宇宙空間にあったアミノ酸が細胞として変化し、地球上に生命が現れる。それがどんどん複雑な生命に進化し、植物から動物へ、魚類から両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、そして人類という生命の歴史、つまり宇宙の歴史がある。

ツꀀこのように、人生を人が生きていると解釈すると、現代の社会、日常の身近な生活をイメージできます。それは、人生を自分の意思で生きているとイメージできるからです。でも、私たちは生きているのか、それとも、生かされているのか。人生を生かされていると見たときに、この宇宙の始まりから今まで、さらにこれから先ずっとこの世界があり続けること、そこまでイメージできるということ。このように、非常に大きな違いがある。

ツꀀ私は過去に、「人生とは何だろう」「自分とは何だろう」「この世界とは何だろう」と考えることがたくさんありました。考えるということは、常にそこに自分がいるということ、自分がいるからこそ考える。これは、お釈迦様が仏教を説くときに、最初に立った位置で、自分は確かにいる。確かにいるから思考する。思考の上にこの世界を解釈する。そして、自分に見えて解釈できるところから、見えずに解釈できないところまでをこの世界として、その世界も、そして自分自身も理解できる、というところに行き着いて、その法則や仕組みを語ったのが仏教である、と解釈しています。

ツꀀそういった解釈の仕方を通して、人は生きているのか、はたまた生かされているのか、ということをずっと考えてきました。私が、今回生まれてきた使命に目覚めて、生きる目的、生きる意味について考えてきた結果、結論は、人は生きているのではなくて、生かされているということです。どんなふうに、どんな切り口で考えても、人が生きているという結論に至ったことがない。

ツꀀ例えば、人は、何かをする予定があるから朝起きて、朝食をとる。そうすると、自分の意識で朝食をとったということになる。それは、生きているか、生かされているかといったら、生きているということになります。

ツꀀけれど、違う解釈をすると、食べるということは、お腹が空くからです。お腹が空くということは、人間は食べ物をエネルギー源にして活動しているので、そのエネルギーが切れたということです。エネルギーが切れたという指令のもとに体の中のセンサーが働いて、脳に信号を送ります。それを脳は感知して、朝食をとろうとする意識が働く。その意識は、体の機能、仕組みからうまれている。

ツꀀさて、仕組みを抜きにして、自分の意志で朝食をとることを考えているのか、それとも、仕組みがその思考を働かせているのか、どちらでしょう。厳密に言うと、仕組みが先に働いて、思考が後からくる。これを、考えていると呼ぶのか。そして、その延長線上に行動したと言うのであるならば、人は生きていると言えるでしょうか。

ツꀀまた、私たちは生きていくために、ほかの生き物を必要としている。それは、食べ物のみならず、食べ物を得るための大地、大地に降り注ぐ光、水、空気、そういった自然の作用、生態系の中に食べ物というものがある。そして、私たちがいのちを取り入れるときに、必要な分だけ吸収して、不必要な分は排泄するという仕組みがある。排泄することによって、その排泄物が次のいのちにバトンタッチされるという仕組みになっている。こうして、いのちが伝承され、いのちがつながり続けている。

ツꀀそうすると、私たちが排泄するということは、自分の意思で排泄するのかと言ったら、これもいのちの伝承の上での役割であったり、この世界の仕組み、機能である。この宇宙が創造され、巡り巡って回っている中のある時点が今だとしたら、そういった仕組みの中で、私たちのいのちがあるということ。この現代社会に生きていると、自分の考えや意思、自分の目的を持って行動していると、仕組みの中で生かされていることに気づけない。けれど、この世界にあるものを細かく分析していくと、思考すらこの仕組みの中で湧き出ていることがわかる。

ツꀀ自分がああしたい、こうしたい、また人生が思うようにならないと思う人は、自分の過去を振り返ってみて下さい。きっと、自分の思考が、行き当たりばったりのようにころころ変わりながら、一定していないことでしょう。もし、自分の意思で自分が生きられるのだとしたら、強い信念の延長線上に生きることが可能なはずです。しかし、自分が生きていると考える人には、そういったことができない仕組みになっている。

ツꀀ反対に、私たちは、仕組みによって生かされているという発想を持ったときに、その仕組みは、宇宙の始まりから今まで、そして未来まで、ずっと変わらず、進化し、変化し、あり続けるのですから、安定したものです。生きている目的を変更する必要は、全くないのです。同じ延長線上に、同じ目的のもとに、同じ役割のもとに生きている、非常に安定した景色が見えてきます。

ツꀀしかし、この世界の仕組みから意思が外れて、自分の中で独立した心を持って、人間の思考が勝ってしまった状態で生きていると、この世界の役割から自分を切り離して、自分の意思で行動するようになる。そうすると、仕組みから外れているわけですから、病気になったり、人と対立したり、問題事が起こったりする。問題事が起きて、自然に修正するという仕組みが働く。だから、自分で生きていると考えている人は、常に修正を余儀なくされ、その修正をされていることが、外れているのを元へ戻してもらっていると考えるのか、外れてしまった、失敗した、思うようにならなかったと考えるかは、大きな違いです。果たして、私たちが単独で、この世界で自分の目的を達成して生きていくという仕組みがあるのかというと、実はそんな仕組みはないのです。

ツꀀ人生が何のためにあるのかを考える前に、人生というのは、私たちを生かしている仕組みの中にある人生と、その仕組みがあるにも関わらず、それに気づかないで無視して生きる人生の両方がある。前者は、生かされて生きているという安定した生き方。後者は、自分が生きているという意識のもとに不安定な人生があるということですね。

ツꀀでは、ようやくここで、「人生は何のためにあるのでしょう」ということですが、自分で生きているという人たちにとっては、自分の目的がある。勉強して一流大学に入る、会社を経営する、贅沢な暮らしをする、それが豊かさであると、自分の目的を達成しようとする。でも、その思考というのは、この現代社会の価値観の中にあって、非常に近い世界の話である。逆に、自分が生かされているという人にとっては、この仕組み、宇宙の始まりから、いのちの伝承の中で自分の役割を果たす、自らを向上、成長させるということが目的となる。

ツꀀとなると、「人生は何のためにあるのでしょう」という質問は、人によって全く答えが違ってくる。だから、私が皆さんに、人生とはこういうものですよ、と言うことはできません。ただ言えることは、自分だけの目的を持っている人でも、この宇宙が始まってからずっと途絶えることのないこの仕組みの中に今、生きている。そして、未来へもずっとつながっている。始まりはこの世界がひとつであって、今現在もひとつです。これからもそのひとつの中で未来へ、また始まりに戻ってあるのだとしたら、私たちは独立して、自分の意思でこの世界を生きているのか、ということはあなたが判断することです。答えは皆さんの中にあります。

ツꀀ人生は、自分の物語です。自分と宇宙という自分の物語。だから、何のために人生があるのかということは、自分が紐解いていく。小さく自分の人生をみるのもいいし、大きくこの世界の仕組みを見るのもいい。自分が生きていると見るのもいいし、生かされていると見るのもいい。

ツꀀでも、明らかなことは、私たちの思考を超えて存在するこの世界の中に自分がいるのは事実ですから。そうすると、理解するということは、その思考を超えた彼方まで理解する道があるということ。しかし、人によっては、全く身近の自分が考えられる行動範囲、思考の届く範囲、その中に自分の人生がある。どちらを選ぶのも、あなたの人生の旅。


あなたの場所で地球づくり

今日は、いさどんがブログを読んでいる皆さんに問いかけます。

昨日までのブログが大人会議で読まれているのを聞いていて思ったのは、みんな言葉を聞いているときには「その通りだ」って思うんだろうなって。だけど、いざ自分の日常となると、「そうは言ってもなあ」って心が働くんだろうなって。

その延長線上に人生を送って、旅立っていくときに、何を持っていけるのか。成功した、お金がいっぱいあった、地位が高かった。そういった現世的な価値観を求めたとしても、それは自分の魂を磨くための材料だから、全部置いていかなくてはならない。

だから、やっぱり魂磨きだけに専念することが大事なんだろうけど、きっと人それぞれにふさわしい魂の形や大きさを持っているんだろう。だから、あとはそれを磨いていく。内から出る光が美しくほとばしるように。

こういった考え方や生き方に共鳴する人たちが、たくさんいるよね。今まではその人たちがここへ来ないと、こういうことが伝えられなかった。魂に投げかけて、共鳴してもらうということができなかった。だけど、このネットの時代で、ブログを通じて呼びかけられるようになった。

面と向かって語ると、恐れおののく人もいるんだよね。自分流に解釈して、自分流に受け取っていきたいという人たちもいるし。確かに、その人なりの歩幅とか、歩みの進め方のかたちがあるから、ブログを通じて覗けるのはいいなと思うけど、目的は、覗いてもらいながら共鳴してもらうこと。共鳴してもらって、この国づくり、地球づくりにみんなに参加してもらうこと。それは、「あなたのその場所で国づくりができますよ。あなたのその場所で新しい社会、未来づくり、そして地球づくりができますよ。同時にあなたづくりができますよ」ということなんだからね。

それは、特別にボランティアをやりなさいとか、自分の持っているものをどこかに施しなさいということではありません。それなら、世のため人のために何をしたらいいのかというと、まず、自分を健康にしましょう。そのために、自分を正しく見ましょう。自分を振り返って、自分の身のまわりをきちんとしましょう。自分が自分に対して何をもたらしているのか、よく把握しましょう。それだけのことだからね。

自分の身のまわりを整理整頓して、いい風が吹くようにすれば、そしてそのことの大切さをネットワークで広めれば、世界中がよくなる。そこでは、「自分が何かをしたい」とか「大きな仕事をしたい」というようなことも、実はいらないんだよね。そういうことに気づいてほしいと思う。

政治で国をよくしようと思ったり、健康法で健康になろうとしたり、宗教によって道をいただこうとしたり、まだまだそういうことも必要だけれども、究極は、ひとりひとりが目覚めること。そこにすべての解決策がある。一人ひとりが目覚めるための教育であったり、人と人の出会いであったり、家庭であったり、世の中をよくするための企業であったり、政治であったり。一人ひとりの目覚めを支援していくための人間の活動、つながり。

この国を司る人たちがこのことの大切さに気づくのは、まだしばらく先になる。それまで、この大切な道を生きていく。でも、それは、イライラガミガミと「これを分かれ!」ということではなくて、「いいんじゃないの、それぞれの歩みがあるのだから。歩みの中で、それぞれが気づいていけば。決して手遅れということにはならないんだから」というふうに見ていきたいね。

天上の世界から人間の在りようを見て、神様は「ゲームじゃ、ゲームじゃ。楽しめ、楽しめ。ゲームなんじゃから、むきになるな」って。まったくその通りだね。

いさどん曰く、「『おやじの館』の『おやじ』はね、面白いとか、滑稽なというのが一応のイメージなんだよね。いいんじゃない、いいんじゃない、って。」

皆さんも、私たちと一緒に神様の視点からゲームに参加しませんか?まずは、あなたの場所で地球づくりからスタートですよ。


「真釈天技場」という文字が下りてきて~番外編

いさどんブログは、出るたびに毎回大人会議でシェアされ、メンバーの心磨きの材料として、大事を確認する場として活かされています。昨夜の大人会議で、「真釈天技場という文字が下りてきて~後編」をみんなでシェアしたあと、いさどんがみんなに問いかけました。

自分で自分に問うてもらいたい。この稀にみる大事な生き方に自分が出会って、そこからみすみす離れていくのか。

僕は、この心をいただくようになって、辛くて仕方がなかった。それは、自分の愚かな部分を捨て切れなかったから。でも、僕が辛い心を上に向けたら、お釈迦様は、「ならば、その心をやめるか?」と言われた。「この道を行くのをやめるか?」と言われた。

腹が立った。自分に対して腹が立ったというよりも、お釈迦様に対して腹が立った。

「この貴き道を知らずに行かぬものは、世の中にいっぱいおります。けれど、ひとたびこの貴き道に出会って行かぬものがおりましょうか。私は、そんなことは絶対に信じられません。今、自分が辛いのは、愚かな自分がいて、それをとっていくのが辛いだけです。けれども、私は絶対にこの道を貫き通します。どんなに辛くともやり通します。ただ、今、私が愚かであるがために辛いことは、このような自分の姿を見てご理解下さい。言わずとも、あなたはすべてお見通しだけれども。だから、私は弱音は吐きますが、この道は生き切ります。」

その意思があったなら、どんなに出来が悪くても行ける。その決意があれば、闇の中にいても真理に向かって歩んでいける。

この貴き道を貴いと思うならば、行ったほうがいい。でも、自分の欲望を叶えていくこと、自分の中に湧き出てくる心の迷いに魅力があるのならば、そちらに行ったほうがいい。その人にとって、この貴き道は貴くないのだから。

何人(なんびと)であろうと、それまでどんな生き方をしていようと、たちどころに優れた生き方、誇りある人生に変わることができる。でも、それはその人の心次第である。

『仏の悟りは、仏のためにあらず。仏の悟りは衆生のためにある』と言って、優れた生き方は、その人のためにあるのではなく、世のため人のためにある。それを悟った人には、人々に伝えていく責任がある。それこそが優れた生き方。それが、ブッダとして、キリストとしての生き方である。

そして、その素質はすべての人に備わっている。


「真釈天技場」という文字が下りてきて~後編

それで今日思っていたのは、僕の父親は政治家だったし、田舎だけれど代々、村会議員や市会議員をやっていて、子供の頃から政治のことを身近に語る父親のもとに生まれてきたから、政治についてずっと昔から興味があった。でも、父親は政治家になってから人間性がすごく変わって、表面的に理想を語るわりに、駆け引きや自分の欲望を叶えていく姿を見て、自分はそういった世界には行かないでいこうと思った。

ツꀀ政治家は、人々の総意、一票というものによって選出され、政治を司らなければならない。つまり、人々の意見、考えの代表である。それは、民主主義ということで、一見非常によいことのように見えるけれど、ここで一番の問題点は、人々があれもしたい、これもしたいという自分の欲を叶えてくれる政治家を選んで、その代表が政治をやっていくということ。

ツꀀこの世界を治めるにあたって、いろんな制度がある。まず、王がいて、優れた王のもとに、人々が幸せに暮らすような制度。次に、共産主義のような、人間を仕組みで統率すること。その優れた仕組みの中に人間が入って、理想社会をつくる。それから、今のような資本主義。人々が切磋琢磨しながら技術革新し、世の中を物理的にも経済的にも豊かにする。そういった社会を築くこと。

ツꀀでも、その王の治める国は、王の質にかかっていて、独裁者になってしまうと、人々が虐げられ貧しい国になってしまう。また、共産主義はその制度は優れていても、人間は部品ではないから、人間の心の中にあるエゴ、怠慢によって、国が立ち行かなくなる。制度が勝ってしまって、人間を無視した社会ができてしまい、壊れていく。残った資本主義からくる民主主義。これは、非常に優れて勝ち残ったように見えるけれど、今、社会にはこれほどの問題を抱えている。それは、人々の願いを叶えていくこと、人々の心の中にはエゴというものがあって、このエゴの願いを叶えるということになると、今のような社会ができる。

ツꀀ人々は、食べ物をたくさんあるからと言って食べ過ぎて、自分の体を壊してしまったり、自由だからと言って何でもやって、他人との調和を乱し、家庭すら崩壊していく。そして、テクノロジーが進化し、それがビジネス化されることによって、人々は自分が理解できないような高度な機械技術に操られ、お金がそういったものを得るために使われ、人々がお金を使うのではなくてお金に使われるようになる。さらにお金を得ようとして、競争の果てにストレスが起きて、ストレス社会の中では、いろんな病気や問題が発生し、それがまたさらにビジネスチャンスとなって、それを解決する策として企業の思惑が反映されていく。それが今の豊かさを支えている世界。

ツꀀしかし、本当に人間が理想としなければならないのは、一人一人の人間がこの世界の仕組みを会得して、自分の欲望を叶えるのではなく、社会の健全、人々一人一人の幸せのために役割を果たしていくこと。一人の王が理想をもって人々に幸せを与えるのではなく、一人の救世主が現れてこの世に理想を築くのではなく、制度が人々に理想をもたらすのではなく、一人一人の人間の中にある愛、調和の心から生まれる善意の心。それによってつくられる社会ができなければならない。欲が勝ちすぎてしまってこういう世の中になったことをしっかり見て、謙虚に改めることは改めて、そして自然の中で生かされていることに感謝しながら、自然の仕組みに基づいた社会をつくること。それが、宇宙のすべてをつなげておられる神様の意思。それにのっとった政治が、最終的には行われる時が来るでしょう。

ツꀀ今回の選挙で、戦後初めて一党でこれほどたくさんの議席を得た民主党ではあるが、では人々のどういった心によってその議席をもらったかというと、まだまだ欲を叶えたい、もっといい生活がしたい。そういった人間の欲の心の上で票をもらったのであるから、理想郷を築いていくのは大変なこと。願いが叶わないと思えばすぐにまた、反対に回る人たちであること。

ツꀀそうすると、菩薩の里を自分の故郷でつくることは断念したけれど、この富士山麓に来て、まさしく心を学び、自然と調和し、その自然の奥にある精神とともにこの世界に理想郷を築いていこうという志のもとに開かれた木の花ファミリー。そして今、新たな歩みとして京都の綾部の地に、みろくの世を再現するということで“みろくビレッジ”。みろくとは、弥勒菩薩のことで、まさしくそれが菩薩の里である。その雛型は、この富士山麓、聖地富士のもとに開かれた木の花という菩薩の里が見本であって、15年かけてこの理想を築いてきた。行く先が見えないで、ただただ導きのままに、闇の中を突き進むかのように、闇の中で本当に一筋の光を見るだけで、その結果を考えずに歩んできた。今ここまできて、その理想が見えてきたことによって、今度は本当の意味での雛型として降ろそうというのが、みろくビレッジである。これは、誰かの指導のもとにすることではなく、たくさんの人々の志を結集して行われる場所。そういった生活に根ざした理想の場所が必要になってくる。

ツꀀその目的は、いつか、この国を司る人々が本当に素晴らしい国をつくろうと思って政治を行ってきたんだけれど、どうにも理想が開けない、何でだろうと思っていたら、理想の村づくりをしている人々がいるってことを聞いた。ぜひ、そこで国づくりのヒントをいただきに行こうということで訪ねてくる。その日まで、我々はこの理想の暮らしを続けて、この国を司る人々にこの国づくりの型を伝え、バトンタッチするまで、役割として果たしていかなければいけない。

ツꀀ昔、富士の山に登れと言われ、日の出前に富士の山の頂上で神の命を受けよと言われて、そこでいただいた言葉は、「これからは、その心、日の本の国全体に説くがよい」と伝えられた。「だけど、とてもとても自分の力では、そんな日の本の国になんてできません」と思っていたけれど、日の本の国というのは、日本のことではなく、この地球のことであると。その型が日本であって、だから日本は太陽を国旗にいただいて、日の本という国の名をもらっているのだと。新たな人類の国づくりの方向が、この日本という国から表わされて、それがこの地球の理想である。その生き方は、人々が助け合って生きる暮らしにある。そして、自然と調和し、人々は自分の欲を叶えていくのではなく、宇宙の総意に託された国づくり、地球づくりをする。それは、善意に基づいた愛と調和の世界。人々が生かされていることに感謝して生きている生活。

ツꀀそれに向かって、今、着々とことが進んでいることを感じます。今回の民主党の大躍進もその始まり。始まるということはまた新たな問題が起きて、抵抗勢力が出てきたり、紆余曲折があるけれど、一番大切なことは、一人一人の人々が本当にブッダとしての自分に目覚め、キリストとして生きていくこと。そのために、我々は、決して自分のことを優先せず、木の花の精神、「己を忘れて、他人のために生きる。世のため、他人のために生きていく」、そういったことをひしひしと感じていた今朝でした。


「真釈天技場」という文字が下りてきて~前編

「選挙が終わった。」今朝、開口一番いさどんから出た言葉です。そのあとに、「選挙のことで一つ思い出したことがある」といさどんは続けます。

僕が、30歳のときに、お釈迦様からこの道をいただいて、こういった宇宙の真理、人があるべき生き方を世の中に広める場所をつくろうと思っていた。自分の生まれた土地で、うちの先祖の土地があいていたから、父親にその土地を自分にくれないかと頼んだ。当時、僕は親にとっては大変孝行息子で、物心ついたときからずっと親孝行を考えていたから、親は僕が何をするかわからないけれど、僕がやりたいことに対していいよ、と言ってくれた。毎週日曜日になると、田舎のその土地に行っては、北側の山を削っては南側に足して、石垣を積んで、それを丸い土地にしようとしていた。その目的は、本当に人々があるべき生き方を伝えるための道場をつくるということ。丸い土地ができたら、そのまん中に八角形の建物をつくって、そこでみんなで一緒に宿泊することもできる、合宿所だよね。

そして、その道場にどんな名前をつけたらいいのか、と思っていたら、真釈天技場という文字が下りてきた。真実の生き方を解釈して、その技を表す場所。ただ、その道場はきっかけの場に過ぎず、つまり、「真釈天技場というのはどこの場所を指すのですか」と尋ねると、「それは地球のことである」と。肉体を与えられた人間が、自分たちが地上に降ろされた本当の意味を知り、地上を理想郷にしていく。そして、そういったことから外れてしまって道を歩めないものに対して、真実を伝えて、どう生きたらいいかを伝える場。それが、真釈天技場だと。

僕には、他にもその田舎の場所に対してビジョンがあって、その地域はいずれ、住んでいる人たちが高齢化でいなくなってしまう。そのときに、その土地を全部使って、治外法権のような村づくりをしよう。杉やヒノキだけで埋まっている山を、もっと緑豊かな自然の山に変え、もともと田んぼや畑だった棚田をもう一度開墾して、人々が本当に自然とともに生きていく場。僕らが子供の頃のように、田んぼも小さいけれど棚田になっていて、その一番上から眺めると、春にはれんげがいっぱい咲いて。その段々畑をみんなで、上から駆け下りてくる。それをすごく楽しみにしていた。時々野壺があるから、落ちないように気をつけないといけない。そういったのどかな風景。そして、山がおい茂ってしまって川には光が入らず、自然の山ではないから虫もいなくなってしまい、やまめもいなくなってしまった川の生態系が戻って、山の動物たちも里に下りてこなくてもいいようにして。そういったところで、動物と人間、自然と人間がにこにこ笑って生きている。そういった里づくりをする。そして、その里を自分は眺めて微笑んで、満足しているというイメージがある。そんな場所で生きていく人々の心、それを学ぶ場所が真釈天技場なんだと。

その理想を僕の中でイメージしていたら、自然と人が調和して生きている。そして、そこには今のようなハイテクはないけれど、人々が笑って生きている。それを眺めている僕のところへ、お客さんがやってきた。この国を司る役割を持っている人たちが何人か訪れて、僕に問いかける。

「私たちは、一生懸命この国を豊かな国、本当に人々が幸せになれるように、この国を治めようとやってきましたけれど、これはと思うことをいくらやっても、それがどうにも上手くいかない。本当に国を正しく豊かに治めるにはどうしたらいいのでしょうか、良い案が出ず考えあぐねています。どうしたら、正しくこの国を導くことができるのでしょう」と問いかけてくる。それに対して、僕はこう答える。

「それはね、制度やしくみをつくることではないんですよ。ここにある自然を見てください。そして、そこに生きている人々を見てください。このような心や考え方、それで人々が暮らせるような国づくりをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。」

そして、僕が40歳になってから、いよいよそれを実現しようということで、両親の住んでいる田舎に行って、農業を勉強し、両親の面倒をみながら、人々にもそういった心を伝えていこうと、自分の生まれた土地に移り住んだ。でもこれは、半年くらいで断念して終わるという結果となった。それは、僕が思っていた親孝行と、両親が考えていた親孝行にちがいがあって、両親は息子が商売でもっとお金を得て、豊かな生活をすること、そういう一般的な価値観をもって、それを自分たちの喜びとしている。僕は、世の中がよくなって、みんなが助け合って暮らせる、そういった幸せな社会づくり、そしてみんなが競争しない、平等な世の中をつくりたい。そのために、その場所として、自分が生まれた土地、先祖の土地を活かしていこうと考えていた。だけど、両親が自分の理想を理解できなくて、悩むことになってしまった。

結果、それまで住んでいた愛知県の小牧へ戻って、そこで考えたのは、富士山麓へ行こう、兼ねてより自分の憧れの地であり、神様から啓示をいただいた地である富士山麓へ行こうと、考えたのでした。ツꀀそういったことをいつか伝えるために、僕は富士山麓に理想郷をつくろうと。そして、その里の名前は「菩薩の里」でした。人々が、自分の願いを叶えていくのではなく、世のため他人のために生きて、世の中がよくなっていくこと。人々が幸せになって生きていくこと。それを見て喜びとする人々。それを菩薩と言う。菩薩は、自らの喜びを喜びとせず、世の中や人の喜びを喜びとするものだ。菩薩の里の建設が自分の目的なんだと。

自分の田舎にそれを夢見て、その土地を開墾して、八角形の建物を建てて、そこで真釈天技場の精神を世の中に広めて、理想郷をつくる。もともと、僕の両親、僕の先祖のそのもとにつくるというビジョンではあったが、すべての親はすべての子の親。すべての先祖はすべての子孫の先祖としたならば、たまたま肉体の縁をもらった自分の両親だからといって、特定の人を大切にするということではなくて、すべての人を大切にするという心につながるためのきっかけをいただいたにすぎない。自分の生まれた家の先祖や、自分をこの世に出してくれた親に執着するためにそれらが与えられたのではない、ということがわかって、もっと広い世界に向けてこの心を伝えようと。真釈天技場というのは地球のことである。だから、特定の場所ではなくて、もともと聖地であるこの星を理想郷にするということが目的であることをのちに教えられて、富士山麓に来ることになった。 ~後編につづく