今日は、ファミリーメンバーのようこが、日頃思っている疑問をいさどんに質問します。
ようこ:
自分で悪い空気を出しているのに、それに気づかない人を見るたびに思うことがあります。自分が醸し出す空気に色がついていたらいいのに。例えば、怒りは赤色。自分なんかだめなんだと思う人は灰色というふうに。なんで、人は自分の出している空気に気づかないのでしょう?いさどん、教えて下さい!
いさどん:
ちょうど自分も同じようなことを考えていたんだよ。
悪い空気というのがどんな感情かというと、例えば怒り、悪意、不調和、孤独。それに対して反対の空気は、愛、調和、善意。そういう相反する心があるとすると、ある感情を出している人を見て、物理的な色は見られないんだけれど、その感情に対して色をあてはめてみることはできるよね。
だから、ようこちゃんの言っている、怒りは赤、自分に自信がなくて落ち込んでいる人は灰色っていうのは正解だと思うし、おおむね誰でも感情に対して色をつけることができると思う。便利がいいから、例えば怒ってるときには顔が赤色になっていくとか、それこそ、だんだん気持ちが滅入っていったときには顔が灰色になってくれば、人はその人の心の中を見なくても、色で判断すればいいよね。
でも、残念ながら、人間は肉体をもっているので、自分の肉体的外観と心の中を、別々にすることができるような機能をもっている。だから、顔で笑って心で泣いてとか、顔で笑ってるけど心の中で怒ってるということができるのが人間の特長で、これは人間以外の生き物にはないもの。これは、ある意味、人間が優れているとも言えるし、人間がそれだけ複雑で巧みなもの。もっと言えば、悪だくみと言われるように、一歩、能力の使い方を変えれば、悪いことにも使うことができる。
ただ、何でこんな機能が人間についているのかということを考えると、我々は肉体をもらって、その肉体が魂の中に封印されている。これを、肉体と魂がセットになって生きている、という見方もできるけれど、もっと言えば、魂がわざわざ肉体に封印されてこの世界におろされている。そして、人間は、自分の感情や他人の感情を色や形で見せることなく、自分の感情を出し、又他人の感情を受けながら、その中で自分の心を悟り、そして自分の心の問題事に出会うことによって、それを痛みとして感じ改めていく、それが生きてる人の姿。そういうふうに言えるかなって思います。
それで、最初の質問に戻ると、人は、自分の出している空気に気づかないんじゃなくて、その人流に気づいている、その人流の気づきの歩みがあって、その人の歩みにふさわしく気づいている。人はそれぞれ自分の学びのスピードだとか学び方があって、だから1回でわかる人もいれば、100回聞かないとわからない人もいて、ひょっとすると、ある部分のことについてはある人にとって生涯わからないかもしれない。でもそれは、生まれ変わって次の人生のプランとしてやり直す、そういう人もいるわけだから、気づかない人ってのはいないと思う。
だから、「なんで気づかないのでしょう」ってのは、気づいている人から見た解釈であって、まわりに対して問題ある空気を出してる人は、確実にまわりからその空気を出している反応をもらって、さらにまわりからの反応に対して自分も反応している。だから、我々は人間関係をもらっているし、誰一人として同じ人間関係をもらっていない。そして、一人ひとりに対して違う感情を表現している。僕は色も感じるし、それからその人のまわりから出てくるオーラのようなもの、その人の過去に持ってるトラウマから発生するものなんかで、人の感情を感じることがある。
ようこ:
そうすると、私が人を見て、あの人悪い空気を出してるな、なんで気づかないのかな、と思うのも私の枠っていうことだよね。
いさどん:
それは枠ですね。悪い空気を出してるっていうことは、悪いというのがさっきの不調和、対立、怒りということだとしたら、その感情がその人の中にあるわけだから、もし仮に『調和が大切、怒ることはだめ』という場所があるとしたら、そういった感情があるにもかかわらず、その人に自分の感情を出さないでおこうという心がはたらく。
本来、人は自分の中にあるものを表現することによって、気づくことができる。また、自分が気づかなくても、まわりの人がそのことを受けて、その人に伝えてあげられる。そういった場所があることによって、その人はそういう心が自分にあることに気づくというチャンスをもらえる。気づいて改めるということにつなげられる。
また、非常に悪いこと、ずるいことを行い、自分の中の悪い感情を表現している人がいるとする。何を自分から発していることに気づかないでいる人に対して、その人が気づくために、自分の中に怒りの感情がなくても、敢えて怒りの感情をもって伝えてあげる。お釈迦様もイエスさまでも、そういったことがあったって僕は思っているし、悪意に対して怒りをもって伝えたという記述を読んだこともある。悪意に対して怒りをもって伝えることによって、相手がその怒りを受けて、自分が発しているものに気づく。
そういうことができるという意味では、いい感情、悪い感情と区別するのではなく、そういったいろいろな感情を表現することによって、自分の中に何があるのか気づくことができ、そのために感情があるんだって理解すれば、いろんな感情をどういう目的に使うのか?使う目的によって、有効にもなり悪いものにもなる。
例えば、ほんわかした心がいいのかというと、ある人がとても行き詰って孤独な状態でいるときには、ふんわかしたあったかい感情はとても有効だけれども、わがままで自分勝手なことばかり考え、その人がどうにもそこから抜けられないときに、『それでいいんだよ、それでいいんだよ』と言うことがいいわけではなく、厳しいことをその人の気づきのために、伝えてあげることも大事。
それから、世の中にある戦争や対立も、それが悪いのかというと、悪いことがそこに起きているのではなく、人の心の中にそれを引き起こす感情があるから現れてくるのであって、対立や問題事から、それを喜びとするにはどうしたらいいのか、という学びを得ることもできる。そうすると、いろんな感情をもって生きていること、またいろんな人たちから感情を受けることは、そこから学ぼうとするならば、なんでもいいことだということにつながるのかなって思います。
ようこ:
なんだって、まわりを想ったり、人を想うことの練習の材料になりますね。
いさどん:
そう。だから、すべての出来事を有効に、善意に使うこと。最終的には、愛を表現し、伝えていけば、この世界は調和でつながり、そういった心がいつも働いている世界だってことに気づくことだと思います。
ようこ:
最近、子供会議でも大人会議でも、一人ひとりがその場を担っている自覚を持とうということが言われているけれど、そういったことがなかなか持続できない人もいる。やっぱり人から言われて、反省ぐせがついている人に対して、その人がその心を持続できるようなアドバイスはありますか?
いさどん:
個々のアドバイスっていうのは、あんまりないんだよね。それは、一人ひとりが自分の中でオリジナルに湧いてきた気づきによって気づいていくというのが原則だから。
個々のアドバイスはないんだけれども、大切なのは、我々が単独で生きていないということ。集団で生活をしながら、人生を学びの旅にしている。とするならば、木の花のように敢えて意図的に集団で暮らしていなくても、この世界に人として生きてるってことは、みんな集団生活をしているということ。大きく言えば、地球という村に、いろんな役割の人が、人類という集団生活をしている。
個々にも役割があって、目的がある。全体にも役割があって、目的があるとしたならば、我々は、自分がどういう心をしているか、そしてそれがいいものか悪いものか。自分にとって全体にとって何をもたらしているか。悪いものは悪いもののように役割を果たしているんだけれど、悪いものは痛みを与える。それは、善意であり愛であり調和であるこの世界では、悪意は改めるような仕組みになっていて、善意、愛、調和に反することは、ちゃんと痛みを感じられるようになっている。そして、それを改めることが喜びとなるようにできている。そこのところに気づくということだと思うんだよね。
みんなで心を通じ合わせながら、お互いを鏡として伝えあい、気づいて改めることによって、善意、愛、調和を表現していくこと。それがこの世界の目的なのだと思います。だから、一人ひとりに調和的に幸せな毎日を送ろうという意思と、まわりの人たちも、そのことを求めている人には一生懸命いろいろな表現の仕方をもって手助けをしてあげる。それは、問題事すら調和の材料となるということで、いいことだと思う。
ようこ:
そういうふうに皆で助け合って暮らしていけるならば、空気に色がないことはいいことだよね。何でも自己完結せずにできるっていう醍醐味を味わえるよね。
いさどん:
そう。空気に色がついていたら、形を見てわかってしまったら、人間は心を感じとるということ、心を伝えることができなくなってしまう。
我々は肉体をもっているか?本質は見えない心によって生きてますから、敢えて物理的な色を見ることができなくなっている。でも、物理的な肉体を卒業して魂の世界になると、実はすべて丸見えの世界。だから、もともと物理的な世界が我々の本当に存在する場所なのか。魂の世界、つまり死をもって肉体、物理的なものを全部生態系の中に返して旅立ったとき、そちらのほうが我々にとって本当の存在の場所。
宇宙のオアシスのような地球を建設するために、地球に心を表現した物理的な世界の理想郷を築くために、それは善意であり愛であり調和を表現するために、我々は地球上におろされて、あちらとこちらで役割の場を行ったり来たりしている。そういった意味でこの世界に死はない。愛に対して、我々はわざわざ遠い孤独というところに置かれて、その愛の方に向っていくことによって、喜びを表現しながら、この世界の目的を悟って、役割を果たし、神様に還っていく。
そういう仕組みの中にいるのならば、ある意味で、問題事は問題事だけを見るとつらいことのように見えるけれど、違う見方をすればこれはゲームだと。ゲームだからそんなにむきにならなくていいのよ。悪いことだ!辛い!となる必要もなくて、今提示されていることをどういうふうに受け取るのか、自分を試されている。
僕は、いつも神様とのゲームをしているんだけれど、うっとすることがあると、そこでうっとして怒るとか悩みそうになってしまったときに、待て待て、この世界はすべて神様が起こされているとしたら、そのもとは善意であり愛であり調和であるのだから、自分がぐちを言ったり悩むを表しているとしたら、それは自分の思いが湧いてきているのであって、それはあんまり自分にとって愉快じゃない。じゃあ、それを善意であり愛であり調和のほうにどうやって自分が解釈したらいいいんだろうって思った時に、『神様、待って下さい。私の中から怒りを出そうとして、そういうふうにされているあなたの働きかけを、あなたの配慮、善意だと解釈します』と神様に投げかけると、神様は、『おお、また引き分けになったのう』と返ってくる。そうすると、僕も怒りの感情を笑いに変えることができる。
それに対して、怒ったり悩んで落ち込んでしまうと、『このゲームは私の勝ちだな』と神様の勝ちとなる。いつもこのゲームは神様に負けがない。自分が負けることはある。そして、負けないように、神様の善意を受け取ることで引き分けになる。神様の勝ちか引き分け。自分には引き分けか負け。それしかない。なぜかというと、この世界は、神様が神様の自分という世界の中で、自作自演している世界だから。神様に負けはないんだってことになる。それで僕は愉快と思って生きていくことができるということですね。
ようこ:
いいね、引き分けっていうのが一番楽しいというのが。皆仲良く楽しそうでいいね。
いさどん:
そう。勝ち負けじゃなくて、だから神様に負けているうちはだめで。いつも引き分けってのは、ゲームだから。ゲームはもう一回やり直すこともできるんだから、もう一回チャラにしてやり直そうよ。損も得もないのよ。そういうふうに人生を生きられたら、もっと楽に、もっと有効なものとして使えるよね。
ようこ:
疑問もすっきり解決して、いさどん、ありがとうございました!
いさどん:
人生はゲームである。だから、どんなことも楽しく愉快に生きていられるってことですね。