今日は“パートナーシップ”についてインタビュー!

ようこ

今日は、“パートナーシップ”というお題でインタビューします!

いさどん

ちょうど今、そのテーマで話が出るといいねって和子ちゃんと話していたところ。

ようこ

気があったね。でも、このパートナーシップというのは、いわゆる恋人ということだけではなくて、すべてのパートナーシップだな、と思って。

いさどん

そうそう。これは話が広い。大きい。これは単なる恋人との関係から、もっと言えば、一人の人間がいて世の中に関わっているものすべてがパートナーなわけだから、それが近いものと言えば、恋人とか夫婦とか家族となる。そうすると、最終的には、自分が出会う可能な個がパートナーだと思っているんだけれど、実は究極には、お釈迦様の教えである、自分と宇宙、自分と神様のパートナーシップ。ところが、自分と神様を区別するのは自分がいるから区別するのであって、それは宇宙が一つだということになると、パートナーシップって消えるんだよね。だから、ものすごくテーマは大きい。これだけで一冊の本ができるよね。

ようこ

例えば、具体的に、パートナーが自分の思い通りにならないという人に、アドバイスはありますか?

いさどん

パートナーが自分の思い通りにならないということは、思い通りにならないのはパートナーということだけではなくて、つまり、思うようにならないということは、思うようにしたいという心が働いているということ。思うようにしたいということは、相手を無視しているという状態。こちらの思い通りにしようとすれば、相手にとっては無視されている状態だから、必ず抵抗がおこる。だから、この関係はうまくいかない。そして、当然のように思うようにならないことが起きる。これを解決するには、相手を無視して単純に相手を自分の思うようにしたいと思うところに問題があるのだから、相手を無視しないで、相手の意向を配慮しながら、自分の意向を伝えていく。そうすると、相手は自分の思うようになる可能性がある。

ただこの場合、お互いが共通する価値観を持ち合わせていない場合もある。そうなると、そこのところをよく確認して、共通するものに対して、自分の意向を相手に伝える。相手の意向を聞く。その中で練り合わせて調整して、相手を思うようにする。そういうふうにしていけば、良い人間関係が築ける。

ようこ

相手のエゴが強く、相手が自己主張ばかりする場合、相手の意向を聞くときのバランス、コミュニケーションのとり方はどうすればいいのかな?

いさどん

パートナーシップを別の形で例えると、スポーツで言ったら、1対1の競技。相撲とかボクシングとか何でもいいけど競技なんだよね。そうすると、同じ土俵とか同じリングに立っている。その場合、同じ土俵の上で、二人で、これからあるルールをもってお互いの関係性を決定しようとなったときに、そこでは最終的に勝ち負けがあったり、どちらかがイニシアチブをとったりと、そういうことはある。

だけれど、同じ土俵に立っているということは、そのルールでやっていきましょうという約束事のもとにやっているわけだから、相手が一方的にルール違反したとか、わがままを言ったということにはならない。そのルール違反もわがままも、その土俵に立っているからこそ、それもルールの中に入っているわけだから、つまり、相手が私のほうを向かないで他を向いているということがあるとしたら、それはこちらのほうが相手を他に向かせるようなルール違反を先にするから。あなたはこっちを向いていないよ、というふうに何かの形で言っているのに、実は言っている側が自分がそうさせていることに気づいていない。だから、自分が引き起こした種、きっかけを全く無視して、相手にだけルール違反をしていると言っているんだけれど、この土俵では必ず、相手と自分しか当初はいなかったはず。そのときに、自分が相手の方に向きあわないで、別のほうへ向いてしまっていたということを全く検証していない。そういう意識をもっていないものだから、相手が一方的に向こうを向いてしまったというふうに考えているのだけれど、必ずこれはお互いの関係の中でどちらかからこういう投げかけがあって、そのことに対してそれに呼応するような行動があったからこそ、すれ違いが起こっている。

そこを全く見ないで、相手だけを問題と言っているのは見当違いで、相手をもう一回こちらに向かせようとしたら、向かせようとする側が、先に種をまいたことをしっかり振り返ること。相手に対する自分の心の動きや行動をずっと正確に分析していったら、その履歴の中に必ずここからだ、ここで見過ごしていた、というのがあるはず。そこを全く見ないで、ただ表面だけを見て、私の思惑と違うと言ったら、あなたの責任はどこにあるのか?

この場合の関係はいつも50:50であり、それがパートナーシップというもの。だから、一方的に一方のためのパートナーシップというものはない。お互いに、そこではちゃんと自分が相手にしたこと、それがふさわしく自分に返ってくる。お互いにそういう関係性の中で成り立っているということ。だから、一方的に相手がわがままでこうなったと見ている人は、自分の姿勢こそ改めていかなければいけない。

ようこ

もともと学びのために修行のために、パートナーシップは与えられているけれども、でも、それだけでもないのかな?

いさどん

修行という意味で学んでいくことは、それは個人としてのスタンス。ところが、全体としてこの生命の世界を表現するという意味では、宇宙生態系の中で生命としての自分の役割を果たしながら、同時に個人の学びや修行をしていく。そのふたつのスタンスがある。でもそのふたつは、最終的には、宇宙生態系の表現という形でひとつである。

ようこ

あと、パートナーシップのお題でよく出てくるのが、「パートナーが欲しいのですが、どうすればいいですか?」という質問。そういう人に対して、何かコメントはありますか?

いさどん

パートナーが欲しいということは、パートナーがいないと思っているということ。さっきも言ったように、究極には自分と宇宙というパートナーシップもあるように、いろんなパートナーシップがあるのだけれど、ここではわかりやすいから恋人同士のパートナーシップとする。そのパートナーシップの結果もたらされるものは、恋愛、愛というもの。

愛には非常に幅があって、高い愛と低い愛がある。まず、一番最初に現れてくる愛は、自分がかわいい、自分を大切にしたいという、自分に対する愛。これは実は万物がもっていて、鉱物でも植物でも動物に至るまでもっている生命の愛。生命が自分を保っていこうとする愛。鉱物すら意図的に意思が働いて、鉱物であり続けようとする。植物が虫に食べられないように自分を守る。動物が危険から逃げていく、又攻撃するのも自己愛。これが一番原始的な、最初の愛。

次に、もうちょっと高度なのが、種を保護しようという愛。植物で言うなら、おしべとめしべがくっついて、自己受粉するものもあれば、他の花粉をもってこないとだめというものもある。そこで、虫や風の力を利用しているものもあり、すべて自然の生態系の中でもらっているもの。動物も本能というものをもらって、あるとき発情し、交尾をして、そして子孫を残していく。そうして、自分がなくなっても、自分の情報が、種があり続ける。

ここで面白いのは、人間はあるときパートナーシップを求めること。そして、それは自分の意志だと思っている。ところが、自然界の植物や動物の世界では、それが季節とか生命としての積み重ね、熟し度によって、それまで全く興味がなかったオスがメスを、メスがオスを求める。そこに、愛情という感情、情があるのが人間であって、情がないのが植物や動物である。そうすると、その情というものが複雑になって、植物はただ自然のままに、動物はただ本能のままに、そして人間は情のままに表現するということが、ある意味では進化である。ある意味では、生命の表現の仕方の体系、順番の違いのようなものである。

さて、そこで愛というもの、つまりパートナーシップというのは、そこに必然性、必要というものが見いだせる。なぜなら、自己愛、自分を存続させたい、そこから始まっている愛の変化を見てきて、ここまで歩んできたのだから。

愛というものは、本来、人を愛するときに発生するもの。でも、恋愛ははたして愛するためにあるのだろうか?実はその背景にもうひとつの愛があって、それは愛されたいという、つまりギブ&テイクの愛。恋愛の愛は、自分が相手を気に入った、愛する、その時点で愛は成立していない。だから、何が働くかというと、相手が自分を愛するように働きかける。そして、自分の思うように愛されないと、自分の相手に対する愛が攻撃に向かうとか、不愉快に思うということに変化する。これが条件付きの愛。これが恋愛。

ところが、愛というのはそういう条件付きの愛ではなくて、どういうものかというと、例えばカップルが見事に結婚して、子供が生まれた。そうすると、恋愛の関係では、自分が相手に愛を向けて、相手がそれを返してこないといけないギブ&テイクの愛。これは何かというと、相手がまだ自分ではない状態。ところが、結婚して夫婦として月日が過ぎると、身内という関係になり、相手の利害と自分の利害が一緒になってくる。そうすると、利害に関係なく、相手のために行動する。

「相手は自分の思うようにならないけど、まあ、夫婦だから。これをやってあげましょう」と。もっというと、相手も自分も一緒なんだから、「もう何でもしてあげよう」と。でも、この夫婦というのは、離婚すると他人になってしまう。

ところが、子供ができ、完全に身の内になると、自分を思うように相手を愛する。極端なことを言えば、溺れている子供がいれば、自分を犠牲にして救おうとする。それは、無条件の愛。本来、親が子供を思う心は無条件の愛で、自分のいのちと同じように相手のいのちを大切にするということ。相手が本当に自分自身となった状態。自然界の植物たち、動物たちは、それに近いものをもっている。それは、この世界をつくった神様が、自分を分けて、自分を変化させて、この世界をつくったから。だから、神様は、自分自身としてこの仕組みをみんなに与えているから、神様の愛は無条件の愛。

ところが、人間はそこから分かれてきて、自分が特定というところで愛そうとするから、条件付きの愛。人間が、相手を自分の思い通りにしようとする愛は、確かに愛ではあるんだけれど、どちらかというと自分に近い愛。それが、家族をもらって、いのちがひとつなんだよ、自分から生まれているんだよ、という愛、つまり、神様の愛を知る。

すべての親は神様だから、すべては神様の子供。我々はみんな兄弟である。その仕組みを本当に知ったときに、我々は、子供を通じて神様の愛を、親である神様の心を学ぶ。

ようこ

この世界が、すべて神様の愛でできていると真に体感できたならば、パートナーが欲しいとか、誰かを自分の思い通りにしたい、と思う心は瞬時に消えてしまいますね。いさどん、ありがとうございました。


引き分けが一番楽しい~空気の色の見方

今日は、ファミリーメンバーのようこが、日頃思っている疑問をいさどんに質問します。

ようこ:

自分で悪い空気を出しているのに、それに気づかない人を見るたびに思うことがあります。自分が醸し出す空気に色がついていたらいいのに。例えば、怒りは赤色。自分なんかだめなんだと思う人は灰色というふうに。なんで、人は自分の出している空気に気づかないのでしょう?いさどん、教えて下さい!

いさどん

ちょうど自分も同じようなことを考えていたんだよ。

悪い空気というのがどんな感情かというと、例えば怒り、悪意、不調和、孤独。それに対して反対の空気は、愛、調和、善意。そういう相反する心があるとすると、ある感情を出している人を見て、物理的な色は見られないんだけれど、その感情に対して色をあてはめてみることはできるよね。

だから、ようこちゃんの言っている、怒りは赤、自分に自信がなくて落ち込んでいる人は灰色っていうのは正解だと思うし、おおむね誰でも感情に対して色をつけることができると思う。便利がいいから、例えば怒ってるときには顔が赤色になっていくとか、それこそ、だんだん気持ちが滅入っていったときには顔が灰色になってくれば、人はその人の心の中を見なくても、色で判断すればいいよね。

でも、残念ながら、人間は肉体をもっているので、自分の肉体的外観と心の中を、別々にすることができるような機能をもっている。だから、顔で笑って心で泣いてとか、顔で笑ってるけど心の中で怒ってるということができるのが人間の特長で、これは人間以外の生き物にはないもの。これは、ある意味、人間が優れているとも言えるし、人間がそれだけ複雑で巧みなもの。もっと言えば、悪だくみと言われるように、一歩、能力の使い方を変えれば、悪いことにも使うことができる。

ただ、何でこんな機能が人間についているのかということを考えると、我々は肉体をもらって、その肉体が魂の中に封印されている。これを、肉体と魂がセットになって生きている、という見方もできるけれど、もっと言えば、魂がわざわざ肉体に封印されてこの世界におろされている。そして、人間は、自分の感情や他人の感情を色や形で見せることなく、自分の感情を出し、又他人の感情を受けながら、その中で自分の心を悟り、そして自分の心の問題事に出会うことによって、それを痛みとして感じ改めていく、それが生きてる人の姿。そういうふうに言えるかなって思います。

それで、最初の質問に戻ると、人は、自分の出している空気に気づかないんじゃなくて、その人流に気づいている、その人流の気づきの歩みがあって、その人の歩みにふさわしく気づいている。人はそれぞれ自分の学びのスピードだとか学び方があって、だから1回でわかる人もいれば、100回聞かないとわからない人もいて、ひょっとすると、ある部分のことについてはある人にとって生涯わからないかもしれない。でもそれは、生まれ変わって次の人生のプランとしてやり直す、そういう人もいるわけだから、気づかない人ってのはいないと思う。

だから、「なんで気づかないのでしょう」ってのは、気づいている人から見た解釈であって、まわりに対して問題ある空気を出してる人は、確実にまわりからその空気を出している反応をもらって、さらにまわりからの反応に対して自分も反応している。だから、我々は人間関係をもらっているし、誰一人として同じ人間関係をもらっていない。そして、一人ひとりに対して違う感情を表現している。僕は色も感じるし、それからその人のまわりから出てくるオーラのようなもの、その人の過去に持ってるトラウマから発生するものなんかで、人の感情を感じることがある。

ようこ

そうすると、私が人を見て、あの人悪い空気を出してるな、なんで気づかないのかな、と思うのも私の枠っていうことだよね。

いさどん

それは枠ですね。悪い空気を出してるっていうことは、悪いというのがさっきの不調和、対立、怒りということだとしたら、その感情がその人の中にあるわけだから、もし仮に『調和が大切、怒ることはだめ』という場所があるとしたら、そういった感情があるにもかかわらず、その人に自分の感情を出さないでおこうという心がはたらく。

本来、人は自分の中にあるものを表現することによって、気づくことができる。また、自分が気づかなくても、まわりの人がそのことを受けて、その人に伝えてあげられる。そういった場所があることによって、その人はそういう心が自分にあることに気づくというチャンスをもらえる。気づいて改めるということにつなげられる。

また、非常に悪いこと、ずるいことを行い、自分の中の悪い感情を表現している人がいるとする。何を自分から発していることに気づかないでいる人に対して、その人が気づくために、自分の中に怒りの感情がなくても、敢えて怒りの感情をもって伝えてあげる。お釈迦様もイエスさまでも、そういったことがあったって僕は思っているし、悪意に対して怒りをもって伝えたという記述を読んだこともある。悪意に対して怒りをもって伝えることによって、相手がその怒りを受けて、自分が発しているものに気づく。

そういうことができるという意味では、いい感情、悪い感情と区別するのではなく、そういったいろいろな感情を表現することによって、自分の中に何があるのか気づくことができ、そのために感情があるんだって理解すれば、いろんな感情をどういう目的に使うのか?使う目的によって、有効にもなり悪いものにもなる。

例えば、ほんわかした心がいいのかというと、ある人がとても行き詰って孤独な状態でいるときには、ふんわかしたあったかい感情はとても有効だけれども、わがままで自分勝手なことばかり考え、その人がどうにもそこから抜けられないときに、『それでいいんだよ、それでいいんだよ』と言うことがいいわけではなく、厳しいことをその人の気づきのために、伝えてあげることも大事。

それから、世の中にある戦争や対立も、それが悪いのかというと、悪いことがそこに起きているのではなく、人の心の中にそれを引き起こす感情があるから現れてくるのであって、対立や問題事から、それを喜びとするにはどうしたらいいのか、という学びを得ることもできる。そうすると、いろんな感情をもって生きていること、またいろんな人たちから感情を受けることは、そこから学ぼうとするならば、なんでもいいことだということにつながるのかなって思います。

ようこ

なんだって、まわりを想ったり、人を想うことの練習の材料になりますね。

いさどん

そう。だから、すべての出来事を有効に、善意に使うこと。最終的には、愛を表現し、伝えていけば、この世界は調和でつながり、そういった心がいつも働いている世界だってことに気づくことだと思います。

ようこ

最近、子供会議でも大人会議でも、一人ひとりがその場を担っている自覚を持とうということが言われているけれど、そういったことがなかなか持続できない人もいる。やっぱり人から言われて、反省ぐせがついている人に対して、その人がその心を持続できるようなアドバイスはありますか?

いさどん

個々のアドバイスっていうのは、あんまりないんだよね。それは、一人ひとりが自分の中でオリジナルに湧いてきた気づきによって気づいていくというのが原則だから。

個々のアドバイスはないんだけれども、大切なのは、我々が単独で生きていないということ。集団で生活をしながら、人生を学びの旅にしている。とするならば、木の花のように敢えて意図的に集団で暮らしていなくても、この世界に人として生きてるってことは、みんな集団生活をしているということ。大きく言えば、地球という村に、いろんな役割の人が、人類という集団生活をしている。

個々にも役割があって、目的がある。全体にも役割があって、目的があるとしたならば、我々は、自分がどういう心をしているか、そしてそれがいいものか悪いものか。自分にとって全体にとって何をもたらしているか。悪いものは悪いもののように役割を果たしているんだけれど、悪いものは痛みを与える。それは、善意であり愛であり調和であるこの世界では、悪意は改めるような仕組みになっていて、善意、愛、調和に反することは、ちゃんと痛みを感じられるようになっている。そして、それを改めることが喜びとなるようにできている。そこのところに気づくということだと思うんだよね。

みんなで心を通じ合わせながら、お互いを鏡として伝えあい、気づいて改めることによって、善意、愛、調和を表現していくこと。それがこの世界の目的なのだと思います。だから、一人ひとりに調和的に幸せな毎日を送ろうという意思と、まわりの人たちも、そのことを求めている人には一生懸命いろいろな表現の仕方をもって手助けをしてあげる。それは、問題事すら調和の材料となるということで、いいことだと思う。

ようこ

そういうふうに皆で助け合って暮らしていけるならば、空気に色がないことはいいことだよね。何でも自己完結せずにできるっていう醍醐味を味わえるよね。

いさどん

そう。空気に色がついていたら、形を見てわかってしまったら、人間は心を感じとるということ、心を伝えることができなくなってしまう。

我々は肉体をもっているか?本質は見えない心によって生きてますから、敢えて物理的な色を見ることができなくなっている。でも、物理的な肉体を卒業して魂の世界になると、実はすべて丸見えの世界。だから、もともと物理的な世界が我々の本当に存在する場所なのか。魂の世界、つまり死をもって肉体、物理的なものを全部生態系の中に返して旅立ったとき、そちらのほうが我々にとって本当の存在の場所。

宇宙のオアシスのような地球を建設するために、地球に心を表現した物理的な世界の理想郷を築くために、それは善意であり愛であり調和を表現するために、我々は地球上におろされて、あちらとこちらで役割の場を行ったり来たりしている。そういった意味でこの世界に死はない。愛に対して、我々はわざわざ遠い孤独というところに置かれて、その愛の方に向っていくことによって、喜びを表現しながら、この世界の目的を悟って、役割を果たし、神様に還っていく。

そういう仕組みの中にいるのならば、ある意味で、問題事は問題事だけを見るとつらいことのように見えるけれど、違う見方をすればこれはゲームだと。ゲームだからそんなにむきにならなくていいのよ。悪いことだ!辛い!となる必要もなくて、今提示されていることをどういうふうに受け取るのか、自分を試されている。

僕は、いつも神様とのゲームをしているんだけれど、うっとすることがあると、そこでうっとして怒るとか悩みそうになってしまったときに、待て待て、この世界はすべて神様が起こされているとしたら、そのもとは善意であり愛であり調和であるのだから、自分がぐちを言ったり悩むを表しているとしたら、それは自分の思いが湧いてきているのであって、それはあんまり自分にとって愉快じゃない。じゃあ、それを善意であり愛であり調和のほうにどうやって自分が解釈したらいいいんだろうって思った時に、『神様、待って下さい。私の中から怒りを出そうとして、そういうふうにされているあなたの働きかけを、あなたの配慮、善意だと解釈します』と神様に投げかけると、神様は、『おお、また引き分けになったのう』と返ってくる。そうすると、僕も怒りの感情を笑いに変えることができる。

それに対して、怒ったり悩んで落ち込んでしまうと、『このゲームは私の勝ちだな』と神様の勝ちとなる。いつもこのゲームは神様に負けがない。自分が負けることはある。そして、負けないように、神様の善意を受け取ることで引き分けになる。神様の勝ちか引き分け。自分には引き分けか負け。それしかない。なぜかというと、この世界は、神様が神様の自分という世界の中で、自作自演している世界だから。神様に負けはないんだってことになる。それで僕は愉快と思って生きていくことができるということですね。

ようこ

いいね、引き分けっていうのが一番楽しいというのが。皆仲良く楽しそうでいいね。

いさどん

そう。勝ち負けじゃなくて、だから神様に負けているうちはだめで。いつも引き分けってのは、ゲームだから。ゲームはもう一回やり直すこともできるんだから、もう一回チャラにしてやり直そうよ。損も得もないのよ。そういうふうに人生を生きられたら、もっと楽に、もっと有効なものとして使えるよね。

ようこ

疑問もすっきり解決して、いさどん、ありがとうございました!

いさどん

人生はゲームである。だから、どんなことも楽しく愉快に生きていられるってことですね。


いさどんがあなたの悩みに答えます!

東京在住ファミリーメンバーのさのっちからいさどんに質問です。

「心のくせのままに生きていると言われますが、自分では精一杯心を磨いているつもりです。では、具体的に何をどうすればいいかアドバイスを下さい。」

今日は、そんなさのっちに代わってメンバーのようこが、いさどんにインタビューします。

いさどん

まず、この答えに対しては、『具体的に何をどうすればいいかアドバイスを下さい』というところに、その人の人間性が出てるんだよね。つまり、『アドバイスを下さい』ということは、自分が人に何かを求めているということで、本来、その人にしか気づけない、見つけられないという仕組みの中で、この世界に生まれてるってのが正解。だから、一人ひとりが自分の中で気づきを得ていくっていうこと。そのためには、『自分では精一杯心を磨いているつもりです』っていうところに答えがあって、いるつもりをしているだけで、その人は精一杯生きてない。本当に真剣に、精一杯生ききったならば、必ず気づきがあって、そして答えは出る。

もうひとつ。くせというのは、個性の変化したもので、自分の中にある個性が自分の意識、コントロールをはなれて、勝手に出てきてしまったのがくせである。『あ、出てきてしまった』と思うことや、ひとから『こういうところがあるね』って言われたこと。それからもっと言うと、そこから害が起きてしまって、こんなことをやってしまったということ。それが何度も繰り返し続くのがくせの状態。大切なのは、くせが出てきたときに、それが自分の中にあることを否定するのではなく、自分の中にそういった部分があるということをしっかり認める。そして、しっかり認めた上で、次に出てくるときにコントロールする。

“くせの出方6段活用”というのがあって、

①くせが出てしまった、そして問題が起きてしまった、でもそのことにいつまでも気づかない人。これが一番重症。
②くせが出てしまった、問題が起きてしまった。そこで気づく人。
③くせが出てしまった、問題が起きてしまった。自分がそのことに悩んでる。困ったと自分で思ってる。
④くせが出てしまった、その時点で問題が起きる前に気づいた。で、問題は起きなかった。
⑤自分のくせを思った。自分の中にくせが湧いてきたときに自分で気づいた。それで、そのくせが出る前に自分でとめた。
⑥自分の中にくせがある。そのくせを必要な時に必要な形で活かした。

最後の段階が一番高いレベルで、自分の中にあるくせを捨てることはないということ。それは大事な個性だから。そうすると、一番最後の方法が一番有効なくせの使い方で、その場合、くせが個性となって活かすことができる。そうやって、くせというものを個性に変えて自己コントロールする。

さのっちの場合、『くせのままに生きていると言われる』っていうことは、自分には問題があるということを人に言われているんだから、ひょっとすると②の段階。自分のくせに気づいてはいるんだけれど、人のアドバイスがないとわからない。

もうひとつは、自分を客観的に判断するということから言うと、自分との距離が近すぎて、自分を観察できてないという状態。くせっていうのはどれも概ね同じような形で出てくるケースが多いものだから、ひとつ自分のくせの出方の方程式を見つければ、あとはどれにも応用できる。それを自分の中で整理して、まずその方程式を確立する。それから、一つ一つのくせにあてはめる。そして自己観察をする。観察をしたあと、自己コントロールをする。

具体的なアドバイスというのはありません。それは、具体的なことは個々のケースだから、数がありすぎてできません。だから、今のような方法を通して、毎日の中で自己観察を心がけること。この場合、今まで自分ができてなかったこと、自分が見ることができなかった自分の部分であるから、これができるようになると、非常に面白い。楽しい。

そして、こういった形で自分を見ない人は、自分の問題部分というふうに、このくせを考えてしまって避けてしまう。人に言われると不愉快に感じてしまう。でも、自分でそれが見えてくると、楽しくなり、生きがいにもなる。その楽しみを見つけて積極的にやって下さい。はい、アドバイス終わりです。

ようこ

今いさどんが言った方程式を日常生活の中で実践すれば、さのっちのくせも個性として活かされるね。

いさどん:

さのっちのくせは、移り気でありながら新しいことに対する恐怖があるということ。これがくせとして出ると、気持ちに持続性がなく心にばらつきがあって、一つのことを完結していないのに、他のことに気持ちがいってしまう。恐怖ということに対しては、新たなものに対して、自分の中で勝手に恐怖のイメージをつくってしまい、実際の対象の実態を把握するのに、余分なエネルギーを使ってしまう。さのっちのくせが個性として活かされた場合は、移り気が好奇心旺盛に、恐怖が慎重さ、確実性、効率性として活かすことができる。あとは、慎重さがないわりに好奇心が強いから、積極的に行動してしまって、自分を客観的に見てないがために、あとでまわりから指摘を受けたり、まわりから高い評価を受けたいという心から、非難されたときに自分のイメージが落ちるので、それに対して怒りを感じたり、抵抗してしまうというくせがある。

ようこ

さのっちがよく、『自分をわかってもらえない』と言うのは、そういう心から出ているんだね。

いさどん

『自分をわかってもらえない』というのは、自分が思っているイメージ通りに相手が評価してくれないってことなんだけれど、実は相手の方が正しく自分を見ているのであって、自分はこう見てもらいたいっていうイメージで自分を見ているから。わかっていないのが自分であることに、相手の評価から気づくのが正解で、だけれども、この場合に、人を見る目がない人が言っていることもあるから、だからこそ、自分自身で客観的に自分をとらえることが大切。自分というものの判断がしっかりできている人は、相手から言われたことに対して受け取るべきことと、反対に、相手に対して伝えるということのコントロールができるようになる。自分が客観的な目を持っていないと、相手から受け取らなければいけないときに、怒りをもって相手にぶつけてしまったり、相手の問題であるのに自分が全てを受けてしまって相手のためにならない。

ようこ

今のことが実践できていれば、東京で離れて暮らしていても心を磨けるね。

いさどん

それはもちろんで、人間は肉体をいただいて、この人生という期間の中で生きてる。ということは、肉体をいただいて生きている場所は地球の上です。この場所で我々は自分自身を学ぶ、そういう機会を誰しもがもらっている。地球上が学ぶ場所であって、地球上すべてが聖地、修行の場であるから、場所はどこでもいい。だから1か所を聖地とするのは、これからはやめなければいけない。地球自身がこの宇宙の中で特別な存在で、他に見つけることができない特別な場所である。そして、人間という形で成立していること自体が、他の生命と比べたら、特別中の特別の姿をしているのだから、地球の上、人間であるというだけで、どこでも自分がそのことに気づけば修行になり、自分を高めることができ、そして他のものの役にたつことができる。

ようこ

そしてそれは一人でもできるっていうことでいいのかな?大勢の中でじゃないと難しいと思う人もいるかもしれないけれど。

いさどん

この世界に、一人でいる人間がいるのか、ということを考えると、人間は集団で生きている生き物だから、一人で生きている人はいない。とすれば、どんなに縁が薄いと思っている身近な存在でも、薄いという縁をもらって、その人が学ばなければいけない出来事は常にまわりにある。出会う人が多い人は当然同じであって、もっといえば、この世界で誰も出会う人がいない人がいるかもしれない。南海の孤島かなんかで。もしくは、積極的に山の奥地に行って、修行者のように一人で暮らしてたという人がいたとしても、そこでは実は、自分というものとつきあっている。自分の心の中には、真実の部分と、取りさるべき垢の部分がいて、これは一人とは言えないかもしれない。もっといえば、この世界という、自分であって自分でない、この世界というものとつきあう、わかりやすく言えば、神様と自分、宇宙と自分という必ず対比させる存在と自分がつきあってるわけだから、一人で存在する人間はいない。だから、どんな孤独な人も一人じゃないから。そして、自分をそこで見つけていくと、生きがいというのがうまれて、孤独で辛いという人はいないはずなんだ。

ようこ

ただ、こういった心磨きは、同じ志を持つ人と一緒にする方が楽というのはあるのかな?

いさどん

それは当然で、例えば恋人やパートナーを見つける。その以前に、親をもらう。兄弟をもらう。そうやって家族をもらう。それだけではなく、我々は仕事とか学校とかいろいろな形で、パートナーシップをもらう。それは自分対誰かということで、いろんなテーマに基づいてパートナーシップをもらって生きている。だから、無限な学びの場をもらっているのであって、それは学ぼうと思えば、無限な学びができるチャンスを我々は与えられている。そのことに気づかないと、自分は学ぶチャンスを、学ぶ相手をもらっていないと思ってしまう。それはたくさんあるのにそのことに気づいていないからであって、一度気づけば、この学びの水の中に浸かっているようなもの。こんなにどっぷり浸かっているのになぜ気づかないの?という状態で、本来は気づかない方がおかしい。だけれども、自分に対して興味がありすぎたり、我々は肉体をもらっているから、この物理的な刺激のほうに興味を持ちすぎると、そのことに気づかない。ちょっと客観的にいろんな出来事に疑問を持ったときに、それはものすごい緻密な中に我々は入れられていて、もう完全にこの世界のつけものになっている。この世界の、というよりも、神様の意志のつけものになっている状態なんだ。ということは、我々自身が神の働きの中にいるってことは、我々自身が神そのものであるということ。我々がいつでも神の側に立って物を考えることもできれば、いつでもその強烈な緻密な世界に浸かっていることから離れて、孤独になったり、自分自身しか見えないことにもなる。自分の持っている個性すら、コントロールできない状態で生きることもできるという。さて、人間はどれほどの気づきをしているのか、気づいていないのかってことを、自分に置き換えて考えてみたらいいと思う。

ようこ

やっぱり最後には、神様の話で締めますね。

いさどん

それは、すべての想念、すべての現象は、この世界の中にいるんだから、この世界の仕組みから外れて語ることはできない。だから、どんなことから語っても、どんな想いを馳せても、そこから外れて存在するものはない。見事に神は、人それぞれ本当にその人にふさわしく与えてくれている。これほどぴったり与えてくれている。それが人生だから。わからないときにはわかりやすいところへ、高度になったらどこからも学んでいけばいい。どれほど愛されて、どれほど配慮されて自分が存在しているかということ。そのことに気づいたら、毎日幸せで幸せで仕方がないということですね。


そしてみんなが語りだす

ただ今、いさどんは名古屋に出張中です。「おやじの館」も休館と思いきや、そうは問屋が卸さない!のが木の花ファミリー。

朝、まりちゃんが、「昨日のブログの続きが出てきたから、ようこちゃんに渡すね」とメモをくれました。その小さな一枚のメモにはこんなことが書かれていました。

「最近、『木の花の歩みは自分たちで作っている訳ではなく、すべて神様におまかせなので、究極の無責任でいられる』なんて、ジョーダンぽく言って皆で笑っていましたが、究極の無責任は究極の信仰心があってこそ出来ることだなあと思います。全てはそこから頂くのですから、天の御意思を正確に受け取れるクリアな自分をいつも目指したいと思います。

初期のメンバーは、バカの一つ覚えみたいに、『神様に心を向ける』が合言葉でした。信仰心が深まることにより、自分から離れていくもの(我や不安)、そして自分に入ってくるもの(感謝、愛、調和)を皆で体感し続けた15年でした。もちろん今もこれからもそう。みんないてくれてありがとう。」

これを読んだ初期メンバーののりちゃんは、

「まりちゃんの全ては私の全てであり、だから泣けた。でもそれは喜びの涙。全部一つ。他人も自分も天も地も、全てを一つだと感じるよね。さらに、自分の中で区別がなくなっていく。神人和合の境地をやり続けることが神様の喜びだからね。これがとまらない、やめられない!最高!」

さらにあいちゃんは、

「いつもいさどんは、『富士の裾野に人神の里ができる』と言っていた。みんなが心を磨き合ってる姿はとても美しい。一人ひとりが心を磨いている姿を見るのが好き。その中にいられる自分はとても幸せもの。これからは、この心、世の中に発信させ、みんなにも幸せになってほしい。心やんでる人、この心に会いたい人、待ってるからおいで。」

そしてちなっぴは、

「私は超ありがたい人生だなっと思って。もう素晴らしくて。なにしろありがたい!」


15年目の合格

今日は、「おやじの館」の主のリクエストによるブログのパート2です。今回は、木の花創立メンバーのひとり、まりちゃんの物語。題して、「15年目の合格」です。

私は毎朝、キャスターハウスで精米をしていますが、時々いさどんが粉挽きに来て、一緒になります。そんな時は必ずといっていいほど、心の話になり、今朝も例にもれずそんな時間になりました。

この前の創立メンバーヒアリングの話題はいさどんの家出話でしたが、その時期は丁度、私の「集中心のトレーニング期間」で、毎日いさどんとマンツーマンで心のやり取りをしていました。本当に出来が悪かった。まれに何も滞りのない1日が過ぎようとしていても、「今日は何か心配りをしたのか」のいさどんの一言から始まり、「正直、素直」が身についていない私は、正解を出そうと悪戦苦闘、最後は自分の正直が何なのか、分からなくなってしまう始末。丁度、昔のジャッキー・チェンの映画で、師匠は全部を語らず平然としている中で、師匠にへばりついて痛い目をしながら技を学んでいく、あんな感じです。

その日々の中で、いさどんに言われてきたのは、「空気のような存在にならなければいけない。そこに居るのかいないのか分からないが、なしでは生きていけないものだ」。つまり、自己主張するのでもなく、でしゃばりもせず、しかしそこにいて、この道には欠かせない者になれ、ということ。

いさどんは今のように全部を語らないので、私が自分で考えようとしない時には、「勘違いするな、寄り添っていくのが似合う魂と、一人で立つ魂がある」、つまり私は後者であるということ。

「グレードは違うが、俺と同じコンピューターをもっている」。つまり、的外れをなくし、いさどんと同じものの解釈ができるようになるはずだということ。

私はこの3点をいつも心に留めて、学び続けました。いつの間にか、毎日言われない日々がやってきて、私がどう変わったから集中トレーニングが終わったのか、その時はわかりませんでした。しかし、今のようにいさどんの秘書や助手として活躍するようこちゃんやいさおちゃん、ひろみちゃんはいなかったので、その後は、いさどんの助手として、書き物をするのも、ハウスを建てるのも、ケアを担当するのも全部私でした。過ぎてみると、必要だったなあ、ということが実感です。集中トレーニングが終わったからといって、心の鍛錬が終わったわけではありません。助手をする中でも、色々な出来事からも皆で学び続け、「続けること」を教えられました。

そんなことを、いさどんと振り返っていて、3ヶ月くらい前でしたか、ミーティング後にいさどんが「万里子の物の見方や信仰心は俺にそっくりだなあ」って言ったんです。「ははっ」って言いながらその場をはなれましたが、「15年かかったぁ」と心の中でつぶやきながら、涙が止まりませんでした。このまま続けていけばいいんだな、まっすぐ神様に向かって、お仕えすることだけを考えていけばいいんだなと、15年目の合格をひとつもらって、思いました。しばらく泣いて、「私、自分ごとで泣いてるじゃん」と思って、そのまま流してしまったことなのですが、思い出していさどんに話したら、いさどんも泣いて、久しぶりに2人で泣きました。