未完成交響曲

今朝7時過ぎ、「おはようございます」と厨房に入りながら、あいさつをするいさどん。とても昨夜(今朝?)、夜中の1時半に3日間の京都出張から戻ってきたとは思えないほど、普段通りのいさどんです。

早速、いさどんがいなかった間、いさどんブログに関するメールが読者の方からあったこと、それについて皆で話し合ったこと、それをブログに載せたこと、を伝えると。。。

両手を前に出して、「ええんじゃない。要は何でもいいのだから」といさどん。

また、ブログの中の「自分は伝えたいという欲があるから、自分だったらようこちゃんのような表現はしないな。ようこちゃんは材料だけを提供するけれど、自分だったらそれにメニューやレシピも一緒に提供したいと思う」ということについて、「自分は、いつも相手に提供しすぎてしまうからね。ぼくみたいにメニューやレシピも与えてしまうと、新しい発想がうまれるのを妨げることになるかもしれないから、ようこちゃんみたいに、材料だけを提供するのでぼくはいいと思っている。」

「未完成を提示することで、皆で考えるチャンスをつくる。自分は、つい完成したものを与えたいと思ってしまうけれど、でも、それだと、いさどんの考えになってしまうからね」と、微笑みながら話すいさどんの眼差しは、普段にもましてあたたかいものでした。

さあ、あなたは、完成したものを与えられることに幸せを感じますか?それとも、未完成なものをともにつくりあげていくことに、喜びを見出しますか?

いさどんも、無事、京都出張から戻ってきたことですし、「おやじの館」も本日より「開館」です!


ちょっとブレイク~みんなでつくるいさどんブログ~

ただ今、いさどんは京都方面に出張しているので、「おやじの館」は休館中です。プログもお休みにする予定でしたが、いさどんブログの読者の方から下記のような提案をいただいたので、みなさんにもちょっと紹介したいと思います。

「今のブログの書き方だと、『木の花はいさどん個人を絶対視して崇拝する場』『いさどんを教祖として、それを信じる人の集まり』というふうな間違った印象を与えがちなので、『いさどんは、大黒柱としてみんなの尊敬を集める存在だけれど、でも同時に私たちと同じ神様のもと学びの途中にある存在』『木の花は、世界の調和に向けた道具として己を磨いていく自立した個人の集まりであり、いさどんはその一メンバーであると同時に、みんなに慕われ頼られている存在』という表現を心がけ、万人にわかりやすく受けとめやすい形や内容で提供していくことが大事なのでは?」

「それから、『神様』や『宇宙の意志』といった表現を使う時も、読む側にとって千差万別の理解をされていく言葉だと思うので、たとえば、『私たちは、特定の宗教の神ではなく、この世界や宇宙全体を成り立たせている自然の法則であったり、また宇宙を始め存続させているある偉大な意志のことを、神様と呼んで、そのこころのままに生きていくことを目指している共同体です』というような解説や、木の花としての言葉の定義をときどきブログに書くといいのでは?」という提案です。

早速、大人会議でこのことについてシェアしてみると、「神様を全面に出してもいい時代が来ているのだから、変にぼかさず、大切は大切として伝えていけばいいのでは?どんなにわかりやすく書こうが、万人に受け入れられるということは難しいのだから、心の大事は大事で伝えていくのがここの姿勢だね。それで求めている人には必要な出会いとなるのだから」というのが大半の反応でした。

ツꀀまた、これは私個人の考えですが、一番大切なのは、その言葉の奥にある心であり、その心を伝える言葉は二の次だと思っています。その言葉を含め、読む人がどう受けとるかは、読む人に100%おまかせしています。

そんな私に、いさどんは、「自分は伝えたいという欲があるから、自分だったらようこちゃんのような表現はしないな。ようこちゃんは材料だけを提供するけれど、自分だったらそれにメニューやレシピも一緒に提供したいと思う」と言います。

また、いさどんは、よく前日の大人会議の自らの発言をふり返り、自分の言葉がみんなにとって圧力となってないか、 それが出来ていない人にとって自己卑下をうまないか、私に聞いてくることもあります。いつだって、自分が何をもたらしているか問うているいさどんの姿勢から、私たちは学び続けるものである、ということを改めて気づかされます。

この世の中に、何が正しくて間違っているのか、ということはないと思います。ただ、「自分の思い、言葉、行動が、自分にまわりに何をもたらしているのか」、それが調和をもたらしているのか、不調和をもたらしているのか、その結果が与えられるというのが真理です。

いさどんブログ「おやじの館」は、こちらが一方的に何かを与える場ではありません。読む人との双方の交流があり、共に作っていく場です。みなさんの中にも、そういう意識があるとありがたいです。ですので、いつだって、みなさんからの質問、提案を喜んでお待ちしております!


ないからこそ豊かさに気づく

「自分の思いを自分だけの中にしまっておくと、それはただ単に自分だけの思いだが、それをいったん自分から外に出すと、みんなに共有されてみんなの思いとなる。ただ、自分の思いを実現したいという思いがあると、それが叶えられない時、自分が否定されたと思ってしまう。自分から見たら素晴らしい考えで、全体の調和を生み出すように見えることでも、それが現実には他の幸せをこわし、自分をこわしていることに気づいていない。

物事を片面からではなく、多面的に見るということ。では、どうしたら、そういった見方ができるようになるのか?とよく聞かれるけれど、それには、『人の思い、言葉、行動に心を向けて、自分の思い、言葉、行動に心を向けて、それが何をもたらすのか、じっくり観察すること。』そういった意味で、大人会議は検証のいい場であると言える。

『いただく心』、『信ずる、神様に心を向けること』、『神様じゃなくても、多様性、いろんな考えを認める心』が、物事を観ていく上で大切。

いそがしいから、ゆったり過ごしたいと思っても、それが与えられないから不満を抱くのでなく、『ないからこそその豊かさに気づく』ということ。そういった心の在り方で生きていけることが幸せへの鍵」

常にみんなのこと、全体のことを考えていて、頭を休めることがないいさどんですが、今朝のいさどんから感じられる空気は、とても優しくやわらかいものです。それは、「ないからこそ豊かさに気づいている」いさどんの心の現われだからでしょう。

「ないから不満」と「ないから感謝する」。同じ出来事でも、その心がまわりにもたらす影響は、あなたが想像する以上に大きいものです。さあ、今あなたは、自分自身に、まわりに何をもたらしていますか?


自らが尊きものとなり

昨日のブログでは、私たちが常に互いの心を確認し合い、日々、御心のままに生きようと努めていくことについて触れました。木の花ファミリーで、互いの心を確認する格好の場が、大人全員が集う夜の大人会議です。

その大人会議でよく引用される、いさどんを通じて湧き出た神様の言葉があります。ファミリーそれぞれが、日々心を磨いていく中で、神様に語りかけていく中で、大切にしている言葉の数々。今日は、それらのうちの三つを紹介したいと思います。

神様の知恵の泉が、みなさんの心を少しでも潤わしてくれますように。

「この道は貴き道ゆえ、心して来るがよい。そして、いつか修行を終えたあかつきには、我らがもとへ来るがよい」

「尊きもののところへ行き、救われることよりも、自らが尊きものとなり、他を救えるものとなれ。これからは、ひとりびとりがイエスやブッタであるぞ」

「これからは、組織をつくるのではないぞ。人々が集え。集って語り合え。語り合う中から真理がうまれてくる時代であるぞ」

追記

「尊きものの~」は、悟りを人生の第一とする、たっちゃんの大好きな言葉です。畑をやろうが食当に入ろうが何をしようが構わないけれど、この生き方だけは譲れないと熱く語ります。

大人会議で、いさどんが大事を語る時、いつだって真っ先にいさどんに質問をするのはたっちゃんです。それだけ、彼の中に求める心があるのでしょう。

心の大事を道理で伝えることができるたっちゃん。今後ますます、木の花で重要な役割を担っていくことでしょう。

お誕生会の席で心の抱負を語るたっちゃん
お誕生会の席で心の抱負を語るたっちゃん

コミュニティとしてのブッタ

「なかなか、自分の姿を客観的に観ることは、難しいよな。だから、たくさんの人とおって、互いを見合わなあかん。」

今朝のいさどんから出たひとことです。「自分のことは自分が一番よくわかっている」と思いたいひとは、とかく人から何か指摘されると、自分を守ろうと対立を生むことがあります。「自分のことを知れば知るほど、自分のことを知らなかったことに気づく」人は、常に謙虚に、素直にまわりの人の言葉を受け取ることができます。さあ、どちらが自分にとっても他人にとっても、幸せな人生を歩むことができるでしょうか?

木の花を訪れる人で、今の生き方に行き詰まりを感じている人の中には、「大勢で住むと仲良く楽しそう!」とすぐに移住したいと思う方もいらっしゃいますが、その仲良く楽しく暮らす生活の奥には、それぞれが「自分の心を磨いていく」志があります。心のどこかで、「今の自分を変えたくない」と思う人には厳しい道かもしれませんが、「どこまでも成長し続けたい」と願う人には、楽しく希望にあふれた道です。

ベトナムの僧侶、ティク・ナット・ハンの以下の言葉は、まさに私たちの心をそのまま表しています。

「次のブッタは人間の姿で現れることはないだろう。次のブッタはコミュニティの姿で現れるかもしれない。それは他者を理解しようと努め、互いに慈しむ優しさを持ち、大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、最も大事なことではないだろうか」

ひとりひとりがリーダーとしての意識を持ち、神様の御心のままに、みんなの心をひとつに合わせていくこと。昨夜の大人会議でも、みんなの心を確認する大切な時間がありました。私たちはそうやって、日々、互いの心を常に確認しながら、神様の心をみんなで表しています。