『人間』という宇宙的実験 〜 2022年冬至のメッセージ

「夜明けは近い」という印象的なフレーズが繰り返される『友よ』という歌があります。この歌は、1960年代末の学生運動が盛んだった時期に、社会変革を訴える歌として世の中に受け止められ、ベトナム戦争の時にも反戦歌としてよく歌われていました。あれから半世紀が過ぎた今、夜明けが近くなるどころか、世の中の闇はさらに深まっているように観えます。
現代は、一人ひとりの個人も、地域社会も、世界全体も、大きく滞っています。その根本は皆共通しており、そこから腐敗が発生し、広がっていることが感じられます。今、現代の地球上にこの事を発しなければならないという思いが湧き、それが言葉となって湧き出してきています。2012年12月21日の銀河の冬至から10年となる今日、2022年12月22日冬至の日に、その事を皆さんにお伝えします。

地球生命の歴史の中で、時を経て、人間は他のいかなる生命とも違う歩みをするようになりました。その最大の特徴は、個の喜びを追求するようになったことであり、それが自我の増幅を際限なくもたらしていることです。
生命の成り立ちとは、元々、個の喜びを追求し、自我を表現することではありませんでした。人間以外の生命は、人間のように強い自我による意志を持たず、地球生態系の大調和を定めとし、その大いなる循環の中でそれぞれの位置を与えられ、役割を果たし、全体の調和を表現してきました。それは絶対的で、揺るぎのないことです。不調和をもたらす目的で地球上に生まれてきた存在はいないのです。
そのような生命世界に、人間は誕生しました。そして、自我を持つことにより、『人間』という生命は、宇宙的実験を使命付けられました。

人間は、個々の目的を達成することを喜びとする特殊な生き物です。それは、探求心を持ち、過去の経験を現在に繋ぎ、未来に向かって自らの意志で現在の状況を変えていくことができる、特別な能力を持っていることでもあります。しかし現代の人間は、その特別な能力を、自らに都合の良い未来を想定し、全体を無視して自分だけの利益を追求することに使うようになりました。それは自我から生まれる自己実現の欲望をくすぐり、欲望が満たされれば満たされるほど、人間はその虜となっていきました。それを可能にしたのは、自らを他と区別し、差別するようになった人間の心です。
区別とは、自分と他との違いを認識し、その違いを個性として互いに補い合い、全体を繋いでいくものです。ところが人間は差別をすることにより、自分と他とに差を付けて違いに優劣を生み、違いを生かすのではなく、違いによって優越感を見出したり、反発したりするようになりました。そして、自らが他のために存在するという、生命の根幹たる姿勢が失われていったのです。

現代の人間社会の営みは、すべてがゲームやスポーツのように、地球生態系の大調和の中にある生命本来の在り方とはまったく違った感覚で行われ、自然界には決して無い生き方を貪るようになりました。そして自我から生まれる欲望の自己実現をすることが、当然のこととして、代々伝承されるようになりました。生命として生まれ、新鮮な欲求が新たに湧いてくるというよりも、DNAに刻まれた欲望の心が自動的に湧き出してくる状態です。それがあまりにも身近にあり過ぎて、そのことが何をもたらしているのかが観えないのです。
欲望を叶えようと、誰もが当たり前にするようになった結果、大調和の下にあった地球の生態系は大きく乱れました。今や人間というひとつの種が、地球上に汚染をまき散らし、まるで地球のガン細胞のように、全体の生命バランスを破壊するところまで来ています。人間が欲望を叶えるために創った経済システムは、自然界とはまったく異なる「人工」という世界を構築しました。それは一見、人間の特殊能力である探究心や創造力、テクノロジーによって豊かさが表現されているようでありながら、その実態はこの世界の秩序を無視し、自然を破壊する力を持ち、地球全体を貧しくして危機的状況に陥らせる驚異の源泉となっています。
近年の地球規模の危機的状況は、多方面からの情報によって多くの人々の知る所となりました。ところが、特別な能力を持つ賢い生命であるはずの人間は、その深刻な事態を知っているにも拘らず、自らの欲望を満たす快楽の方が勝ってしまい、危機的状況の源泉である自らの生き方を改善することができない状態に陥っています。それは、個人という小さな単位の生き様に現れているだけではなく、国という単位の国家エゴにも如実に現れています。それぞれが自らの欲望の延長に生きた結果、他者との不調和を生み、最終的には自分自身の健康や生命としてのバランスさえも脅かし、自らの行いが自らを破壊する自己矛盾を創り出す生き物となったのです。

宇宙は、極めて道理の通った世界です。その宇宙において、人間が道を踏み外し歩んできた結果、地球上にしかない矛盾に満ちた現象が、問題ごととして発生しています。歴史を紐解き、世界観を広げ、高い視点から未来までを見通して現在の実体を捉えてみれば、今地上で起きている現象は、時代の流れの奥にある時(トキ)からの大いなるメッセージであることが感じられます。それは、宇宙の始まりから常に世界をひとつの方向へ導き続け、壮大なる生命進化の物語の果てに人間を地上に降ろした「宇宙的意思=大いなるもの」からのメッセージです。
21世紀に入り、25800年ぶりの銀河の冬至(2012年12月21日)から10年の「統合」を迎えた今、道を踏み外して物事が観えなくなっている人間たちに対し、時の物語は様々な現象を起こし、メッセージを送っています。しかし、自らの側だけに立ち、欲望を叶えることの虜になっている人間には、そのことがまったくわからず、気付こうとさえしないのです。そこに、地上に理想世界が生まれないすべての原因があります。
ネイティブアメリカンの言い伝えにもあるように、人間が本当に馬鹿になってしまったように見える闇の時代の局面を今、私たちは生きています。銀河の冬至が明け、霊的な光が差し始めたことで、これからさらにその闇が浮き彫りとなってくることでしょう。それでも真実に向かうことを諦めず、歩んでさえ行けば、その先に確実に光が観えてきます。

地球の生命進化の歴史を振り返ると、過去6億年の間に、6回の大量絶滅が起きています。時の意思と共に進み続ける進化の物語にそぐわないものは淘汰され、その度に質的転換が起き、新たな種が誕生してきました。
近年、人類という種の営みは、地球生態系の調和を破壊する特に見苦しいものとなっています。その愚かしさの極みを、時のメッセージを受けて自ら振り返り、それを痛みとして善きものに転換する能力を、人間は発揮するべきなのです。このまま7回目の大量絶滅に向かうのか、それとも、人間の叡智がそのことを学習し、絶滅を伴わずに次の進化へとソフトランディングするのか。それは、次の時代を生きる人間の新しい姿がもたらすものです。
有史以来の6500年間、人間は文明を築いてきましたが、それは人間の地球上での身勝手で我儘な振る舞いを表現するためのものでした。自我から生まれる願望が、たとえどれほど他を傷付けるものであったとしても、一たび勝利者となってその願いが叶えられれば、それが正義となり、その有利な立ち位置に立てば何をしても良く、それこそが正義であると称えられる時代でした。しかし本来、他の生命にはない特別な能力を与えられた人間は、この多種多様な生命の大循環の中でコンダクターとしての位置を与えられ、宇宙の奇跡として創られた命あふれる星、地球を、その大調和の法の下に、より美しく、より優れたものに仕上げるための存在でなくてはならないのです。
人間は元々失敗作であったのか、それとも宇宙的実験の結果、失敗に至ったのか。或いは、大いなる宇宙的意思の下、本来の尊さへ向かうための物語を今、歩んでおり、現象を通して気付きを得ることで、その広く高い視点から世界を観ることを学ぶプロセスの中にいるのか。前者であれば、人間はこのまま気付くことなく、自らの矛盾によっていずれ破壊を生み、地球生命進化の歴史の中で7回目の大量絶滅のプロセスを迎えるのかもしれません。その結論を今出すことはできませんが、できれば後者でありたいものです。その可能性を、示したい。

過去から現在の自分へと連なる人類の歴史を理解し、それを学びとして自らを転換すれば、現在の自らが浄化されると同時に、結果としてその先にある未来も、そしてその元となった過去も、すべてが浄化されます。「あれがあったから、こうして今気付くことができた」と、過去の愚かしい出来事が、気付きへと繋がる尊いことに変わるのです。あなたのベースを築いた祖先が愚かであったとしても、あなた自身が目覚め、優れた者となることで、そのあなたにつながる祖先もまた尊い者となるのです。
これまでの人類の歩みは、浄化どころか、更なる愚かしさを積み重ね、次世代へ負のカルマの連鎖をもたらすものでした。しかし、銀河の冬至が明けて宇宙的ターニングポイントを迎え、時代は闇から光へ、即ち浄化の方向へと舵を切りました。ですから、この事を理解した者は、信念の下に、誰もがそれをやり切らなければなりません。時代がそれを後押ししています。それは、このターニングポイントに生まれてきた者としての一番の醍醐味と喜びにするべきことです。現代人は、お金を稼ぐことや、物に執着することを生きる上での最優先事項にしていますが、それは本来、生命として最も大切なことを育む時に付随するものでしかなく、最優先事項ではないのです。

過去、人(ヒト)である事の尊さを探究する道は、狭い視野での修行や、そういったことを行う人々が組織となった宗教などによって探究されてきましたが、それはまだまだ宇宙的存在としての人間の実体を掴んでいなかったがために、人類の歩みを訂正して人間を尊き者へと導き、この惑星を本当に美しいものとする能力を人間にもたらすことはできませんでした。人間は、個々の自我が持つアイデンティティを自らのためだけに積み上げてきたのであり、人類という種としては、地球上における宇宙的な役割に対して何も積み上げてはいないのです。それが、人類がどうしても大局に立てない原因となっています。どれほど自己矛盾を生んでも、地球や、宇宙にまで汚染をもたらしていても、それに気付くことができず、そのことの重大さについていくら語って聞かせても、その道理の響きが響かないほど、汚染が蔓延しているのです。
そこで今、なぜこの話が湧き出しているのかというと、現在のその実態がようやく人々にも観える時代に来たからです。そして私たちがこの生き方をしてきたのは、そのことに気付いてもらうためなのです。
残念なことに、現在は個々の人間の霊的な価値があまりにも低くなっています。願わくば、こういった気付きを持つ者を、天から多く地上に降ろし、真理の気付きのウェーブを人類にもたらす、風を起こしたい。事実、天はそのような気付きを持つ者を少しずつ降ろし、時代を現わしていることが感じ取れます。その時代の流れの中で、こういった気付きを体系化し、語る者が地球上にいることも、また事実です。ここに道理があるということは、それがほんの小さなものであっても、今その動きが始まっているということです。そしてそれは、大局の視点に立ち、大いなるものの側から観た道理であるから、時代は必ずこれを進めていくのです。
その時に、願わくば人間一人ひとりが自らの自我を超えてこの視点に立ち、その延長に生きることを少しでも早く成し遂げることを望むものです。

個人の希望はどうでもよいのです。個人の小さな使命や願望の下に、大いなる使命を果たすのではないのです。個であっても、大局の使命は持てます。それは、私たちは皆、この大いなるものの一部であるからです。
物理的には人間には限界がありますが、霊的には無限の存在です。なぜなら、私たちはこの大宇宙の中にあり、大宇宙と共にあるのだから。そのことを、霊的には悟ることができるのです。一日の些細な行いであっても、人間がその姿勢を改めることで、大いなる宇宙と共に世界を生き、救っていくことができます。人間にはそれだけの能力があるのです。
その揺るぎない心をもって、互いの違いを生かし、補い合い、その喜びを分かち合うパートナーシップを組む。それこそが大切であり、私たちが生まれてきた意味です。それは、過去に個として修業を重ねた者たちには到達し得なかった境地です。
どれほど歩みが外れたとしても、人間の成り立ちの根本は、その尊き仕組みの下にあることを忘れてはなりません。そこに気付けたことの喜びを持ちたいものです。そしてそれは、ひとりの者が気付きとして発しても、あまり意味がありません。これを発するためには、同じ価値観をもってそれを受け取る対極の受け皿がないと、発する響きは微細なものにしかなりません。そして、その対極の受け皿が無限に連鎖していけば、世界は変わるでしょう。人間は個人ごとを離れ、大局を生きることを求められる時代に立っています。かつて孔子の語った「大同世界」は、古い時代の話であり、人間の生き方に限定されたものではありますが、大局を歩むための悟りの出発点でもありました。

人間は魂を与えられ、自らの手の中にはない世界に降ろされました。肉体を返上した魂はどこへ行くのかも、自らが選ぶのではなく、自らに相応しいところへしか行くことができません。しかし逆に言えば、自らに相応しいところへ行ける、ということでもあります。
その最終段階の結果は、日々の生活をどのように積み上げてきたかという、それぞれの人生の道のりの先にあります。ですから、日々を怠ってはなりません。この尊き道には、特別に美味しい食事もなければ、お金が山と積まれているわけでもありません。この世界において最優先するべきことに歩みを進めるからこそ、そこに価値が生まれるのです。
その人生の過程で、自らの事に限定し、心がうきうき、わくわくするのは、心が低い位置にあるからです。自然療法プログラムを受けている人の症状が良くなっていくと、主治医としての私の心はうきうきわくわくしますが、自分自身のことに対しては常に冷めています。人間は、自らが低い位置にいて、高い所を目指す時に、うきうきわくわくするものです。そこに差があることで、そうなります。それはある意味、そういった美味しい餌(高揚する心)で、天は人間を釣り上げているのかもしれません。

天に近い所に意識があると、特別にうきうきわくわくすることはありません。意識が低い位置にあると、例えばカジノやゲームなど、人の心を刺激するものの依存症にもなります。それはうきうきわくわくするものですが、同時に落とし穴も常に伴うものです。今や、人間は皆、欲望の依存症になっています。その結果、欲望が人間を支配するようになりました。その依存症に陥っている自らを取り戻し、自己コントロールすることによって、初めて自らを有効に活かせるのです。それには、己を離れ、高い位置から俯瞰して捉える目線を持つ必要があります。それは、現代を生きる人々には難しいことであるとも言えます。
得をしようと思えば、「何か得するものは落ちていないか」と目線が下を向き、視野が狭くなります。その目線の違いを自ら認識し、心次第で自分はどちらを向いているのか、判断する必要があります。その時に基準となるのは、物理的な上中下ではなく、霊的な目線です。今日一日自分はどこを向いていたのか、その目線を振り返れば、自ずとわかるはずです。
私は近ごろ、日々の作業の中で、充実した時間を過ごしています。それは、作業を目的としているのではなく、今ある流れに乗っていこうという、その姿勢の延長に作業があるからです。それは、自我で算段をするのではなく、流れに沿い、今するべきことを淡々と進めていくことになりますから、結果として良い時間を過ごすことになります。自然療法プログラムを通しても、心身を病んだ人々と向き合うことで、不要な思いを乗せない、ある意味冷めた視点を育ててもらいました。私がどれだけ相手を治そうと思っても、私の誘導に乗らない人もいるのです。ですから、そういった人々と出会った時には、「可能性は彼らの中にしかない」と、相手を治そうとする自らの欲を捨てるのです。

人間という種の歴史は数百万年、猿人を含めると一千万年の歴史があるそうです。その種としての歴史を紡ぎながら、人間は今もこの世界で個として地上に降ろされ、生まれてきます。他の生命は種として地上に降ろされ、その種を存続させ、大いなる生命の大循環を表現するために存在しています。
人間は、強い自我を持ったがために、自我の欲望に囚われて大循環を破壊する存在にもなれば、自らの自我と対峙し、それを超越することで、この世界の全容を捉える広く高い視点のもと、世界をより良き方向へと導くコンダクターの位置にも立てるのです。
古の中国の「天盤の巡り」では、文明の発祥からおよそ3000年間の「青陽期(王の時代)」、その後約3000年間の「紅陽期(聖人の時代)」を経て、1927年より「白陽期(民衆の時代)」が始まることが予言されていました。それは、これまでのように王や聖人が人々をリードしてきた時代から、個々が自ら宇宙と対話することによって真理に目覚める「個の悟り」の時代に入ったということです。
「個の悟り」とは、特定の経典を学ぶように、個の救済を目的としたり、個々の満足を得るためのものではありません。個が悟るということがウェーブになると、人間の価値が本来の位置へ戻り、人類の種としての役割を果たすことになるのです。

今、あるイメージが浮かんでいます。それは、女性のお腹の中に卵があり、そこに魂の種が入り、子宮のベッドで新しい命として育まれるのと同じように、個々の人間もまた、人として生まれてきた本来の役割や尊さを自らの中に表現するため、長い時をかけて築かれてきた生命の土台の上に、肉の身体を与えられ、そこに魂を宿らせて、地球上で育まれてきたということです。
今も私たち人間は、ここ地球上での様々な修行の結果もたらされる、個の悟りのために生きています。個の悟りがウェーブとなり、連鎖すると、初めて人類としての悟りがもたらされます。それはつまり、「コミュニティの悟り」です。
お釈迦様の時代は、「個の悟り」の探究でした。その後宗教は「個の悟り」をご利益のように扱い、その本来の目的を見失ってきました。21世紀の悟りは「コミュニティの悟り」であり、それはお釈迦様の時代より宇宙的に進化したものとして、私は語ってきました。しかし、今私が語っているのは、21世紀から30世紀(3000年)に向けての悟りとして語られているものです。いずれ人間がもっと大局に生き、魂が進化していくと、肉体を超越してこの宇宙を運営していく存在となります。
私たちが肉体を持って生きるこの物理的世界は、背景にある霊的世界が運営しています。我々人類も、役割として、そこに立てる時が来るのです。今は、地球生命生態系の中の一生命である、人類という枠の中での役割を果たしていますが、この間違いが一体どこから始まっているのかを、徹底的に紐解いたなら、それは「30世紀の悟り」へと到達するのです。

個々の悟りは、宇宙の大樹に、花を咲かせます。その一つひとつの花は小さくとも、一たびそれが連鎖し、無数の花々が咲き出せば、それは乱舞の如く宇宙に花開く、満開の大樹となるでしょう。そしてその大樹に、個の花が咲き切った時、この宇宙の実体である大いなる精神の花 ——— 宇宙生命曼荼羅が誕生するのです。

 


ヒフミヨイムナヤコトの道

ある日の大人会議で、チナッピーが、養蜂で山梨に行く時に道を間違えそうになったことについてシェアしました。


チナッピー:
山梨の養蜂場へ行く時の運転を私がしたのですが、その時のことをシェアします。いつも、山梨に行く時は明るい時に行くのですが、今回、夜に向かったので、いつもより感覚が鈍っていました。宿泊先に行くには、荒田という信号を右へ曲がって入る、その前にコンビニがある、という事だけが印象に残っていて、行く途中に、まだその場所ではないのに、コンビニがあり、「もう荒田だ。すごく早く着いた。」と思い、間違ってその信号を右折しようとしました。その時に、後部座席のジイジから「どこへ行くんだ。まだだぞ。」と言われて、まっすぐ進んだという事がありました。
私は、道を間違えそうになったという事を、そんなに重要なこととして捉えていなかったのですが、今朝、ジイジがともちゃんとぴっぴにこの件について話しているのを聞いたとき、これはすごく重要な事なんだという事に初めて気が付きました。それがどれぐらい重要かという事を、ジイジが二人に事細かに解説していました。道を間違えることから、私がどのように人生を歩んできたのか、日々どのような暮らしをしているのかという事を紐解いてくれました。
ジイジと私の違いという事でいうと、ジイジだったら、山梨の目的地に行く前に、そこへ行くまでのポイントを、一個ずつ確実に風景を見て押さえながら行くので、間違えないのが当たり前で、そのように日々ポイントを押さえながらやっているという事。一方、私がなぜ間違えるのかというと、全体が見えていないこと、一個一個のポイントを押さえていないという事を、比較しながら説明してくれました。日々の中でポイントを押さえる事や、道が1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と順序だてて続くとすると、それを飛び飛びにやるのではなく、確実に一つずつポイントを押さえていく事が大事だという事を、今日学びました。

ジイジ:
このように事細かに出来事の素性をフィードバックしてもらってから、チナッピーは「そうだな」と受け取っていくから、身につかずに同じことを繰り返していく。そんな学習は一回でいい。どんなことでも同じ姿勢はいろんなところへ出るのだから、本当はある一つのことを経験し、それを自らの人柄に置き換えれば、その経験は似た様なケースで常に生かすことが出来る。ましてや、同じことだったら、一度そのパターンを理解したら、それ以外の出来事においては、学習は不要になる。しかし、同じようなことを繰り返すという事は、言われたから反省し受け取っているという条件反射の反応をしているからであり、それでは身につくことがない。
そうではなく、例えば、言われて気づいたとして、それをきっかけに、これからそのような場面に出会ったら、どう気付いてどう対処していくのか、というように考えれば、そのことは確実に実力となる。その出来事の問題を指摘されなくても、同じような場面に出会った時、自ら気づくことが出来、その対応が適切にできることで、そういった場面の話は卒業できていく。

僕は人の癖からくる問題点を観て、その人がその視点の位置にい続けることは、くり返し問題を引き起こす原因となり、それでは良い人生に出会うことができないことをずっと伝えてきた。その背景には、その人が自らの個性をよく理解し使い方をマスターすることで、行いが的を射たものとなり、活躍できる日々を生きることを願っている。そうすれば、そういった人たちと共に、今の世の中がイメージすることが出来ないところを、みんなで完結していくことにつながる。そういった投げかけの元にある精神は、大いなる善意。
しかし、そのハードルを皆がクリアしないとなると、僕は切り替えてこう考える。その進歩のない繰り返しはあなたの価値を落とすことであって、僕の人生の上にあることではない。だから、あなたがその大事を実行しなかったとしても、さらに、木の花が天の道を歩んでいるとはいえ、その道を木の花が行かなかったとしても、そのプロセスに天も僕も常に寄り添っている。そして、その大事をしっかりと押さえ、常に努力を惜しまないので、僕の歩みは外れることはない。そうすると、この場合、あなたが外れる対象になるだけなんだよ、ということ。それは残念ながら仕方がない。それは、一人ひとりが自らの価値を自らの意志でつけるための歩みなのだから。
もし、その大事をあなたが、つまりメンバー一人ひとりが達成することになれば、木の花の存在の目的が実現され、ここの価値も上がれば、世の中も是正される。そこでの個人の価値は自動的に上がる。しかし、そういった目覚めない位置にい続けることは、結果、高い誇りと尊厳をもって生きることは出来ない。今、ここの日々の生活に、病を貰ったり物を壊したりと、様々な反省をしなければならない、歓迎されない出来事が起き続けている。

生きる事は、宇宙の法に基づき現象に出会う事。我々がいかに視点を法に向け、それに寄り添い生きるかにより、病気を得ようが、対立しようが、その問題ごとの上に出来事が有益な学びとなり、自らの人間性を高めていく事につながる。しかし、天に寄り添うことで出来事が思い通りにいくかというと、そうではない。それでは、その場に相応しい出来事が起きる法則(因果応報)により人生を通して自らの姿勢を学ぶ機会を失ってしまうことになる。その結果、世の中も、人の人生も、進化しないことになる。自分の現状に対し、相応しい刺激をもらうから進化する。その適切に与えられる刺激により、常に出来事を天の法則にあてはめることで自らが進化していく。それが、良い流れを創っていく事につながる。そうでなければ、法則の意のままにあり続ける動物や植物と同じことになる。人間は人生を与えられ、その歩みの中で常に進化し、精神性の高い者になるための道を与えられ生きている。それは、大本から分かれた、分け御魂である証である。そもそも、人として生きる事の本義として、別れてきた一番の大本へ帰るための旅をしている自覚が欲しいものである。

僕がこういうことを語るとき、地球上にこのような意識の人々が発生した事を、銀河のセントラルサンに向かい発信する。「今、私はまぎれもなくこの境地であります。それは、あなたたちと常に呼応しながら連携を取ってきた結果だと自覚しています」と。
このようなことを語れば語るほど、上からはとても喜ばしいという響きが返ってくる。地球が喜ぶどころか、銀河が喜ぶ。人間の本質はそういった能力や可能性を秘めた生き物。そして、人間にはそういった大いなる使命が託されている。それを達成するからこそ、いよいよ21世紀の最終目的、宇宙時代を迎える。その結果、2102年には、今の北極星ポラリスと地球の地軸の焦点が合うところに行く。あと81年をもって、宇宙に創造された本当の目的を人類は見出し、地球上に表現できるかどうか、そのターニングポイントに向けて、今、我々の意識は宇宙への進化のプロセスにいることになる。しかし、その前に人類には、今までの目覚めない行いのつけである、2030年から始まる問題が立ちはだかり、人類に対してはそのターニングポイントに到達することが出来ない可能性も秘められている。人類は、自らに対し自らを改める姿勢をもって、今までの無自覚な地球上でのふるまいの結果を振り返り、改めるべき時を迎えている。

潤三:
ジイジの話はスケールが大きく、こういった話をジイジだけに話させていているようなことでは、皆が共に作り上げる場にはならないので、駄目だと思う。

ジイジ:
僕はね、自分でこういった話をしながら、いいな、このような人生を生きたかった、そんなことを語る人に出会いたかった、と思う。そして、ふと気づいて、あ、それは自分のことだった。なんてラッキーで、喜ばしいことか。良かった。僕はこのような人生のプロセスを歩む自分のことを大好きだと思う。その喜びは、とても魅力的なものであるが、さらに大いなる喜びがあることを知っている。

それは、神様はその昔(大いなる過去)、自分だけの存在だった時、潜象界にいて自らの存在を認識できなかった(対向発生する存在がいなかった)。そこで神様は、潜象界という「潜っている世界」から、対向発生としての現象界を創る為に、「カ」(宇宙最極小微粒子)を噴出させ、そこにヒフミヨイムナヤコトの仕組みを配置し、対向発生するべき魂たちを、自らを切り分けて遠くへ置いた。そのことにより、元の位置から離れた場所との間に空間ができ、そこから元へと帰る動きが始まることでトキが発生することとなった(時空の発生)。この時、対向発生するべき切り分けられた存在たちは、元々のこと(自らの出生の事情)を忘れてしまった。
そして、トキの道を歩む者たちは、同時に元へと帰る歩みを自動的に歩むこととなった(アウノスヘシレ)。
その者たちが歩む道は、回転しながら(マワリテ)螺旋を描き(メクル)、現象宇宙の基軸であるトキに沿い、その後、電気、磁気、力というトキを動かす直流のハタラキに対し、螺旋の動きによりコイルを巻く力(マワリテメクル)により自動的に現象を引き起こす動きが始まった。それが大いなる宇宙(現象界)の創造の始まりとなり、その行先は、いずれ元の魂(大いなる宇宙の大本)に帰る道となる。

それは、その構造を理解する者であるならば、大本にある故郷と対向発生する者としての役割を果たすと同時に、始まりの存在にある高次の響きの発生源(ア)の位置(イ)に帰ることの喜びを表現することでもある。つまり、宇宙に生きることの目的に目覚めるとは、その根源にあるアイに帰ることである。故に、この現象世界に起きる出来事の全ては、アイに始まり、全て(現象宇宙)に遍満する大本の神(カがミつって現象化を引き起こし、現象界に遍満する物理性)の意思に基づいて現れていると言える。
我々、現象界に存在する物質生命は大本にその起源を持ちながら、今現在、世の中で神を語る者に出会うことはたやすいが、その歩みの上にある存在としては、最も歩みの目的を忘れている状態にある。人々は、神を語っているが、その悟りは宇宙の実態からはかけ離れてしまっている。
その螺旋の無限なるハタラキは、トキを軸にして、ゼロに帰ろうとするハタラキである。我々の感覚で言えば、時間は未来に向かっていると思うかもしれないが、その未来に向かっている我々の旅は、実はゼロに向かって帰ろうとすることでもあり、その大本にかつての出発点が待っている。
人はしばらくの間、自我を膨らませ表現することに奔走し豊かさの追及をしてきたが、その行為は人の本質の愛から離れ、孤独になる道であった。長い間、本当の愛から離れることにより、人々は真心に染み渡る愛の場にいつしか出会うことを憧れ、そして、その愛の場の空気に触れたとき、言いようのない懐かしさと喜びを感じるものである。それは、かつての聖人聖者が求めてきた個のサトリ、さとりを超えたサトリ、フトマニのサトリ、コミュニティのサトリ、に到達する精神となる。

個のサトリ
コミュニティのサトリ
フトマニのサトリ

みかこ:
今の話を聞いて、「神一人でも多くの人民に帰って来て欲しいのぞ」と、火水伝文に書かれていたことを思い出した。前にジイジがまことの家で、神は人間の前にヒフミヨイムナヤコトと行く道を敷いてくれたという話をしてくれたことがある。

ジイジ:
それはお釈迦様の話。仏教には、他の宗教にはない道という教えがある。つまり、生きることは道を歩む旅だという。
30歳を過ぎ「私は一体何をすればいいのですか」とお釈迦様に聞いた時、「私は、その問いには答えん」と言われた。「その問いには答えん」という事は「聞いても無駄だという事ですか」と問うと、答えてくれたんだよ。どう答えてくれたかというと
「お前は今、道の上に立っておる。その道が一だとしよう。道は十をもって目的地とする。そうすると、お前は今一に立っていて、十はどういう答えなのかと問うている。
しかし、十を聞くと、人間というものはおかしなもので、飛び越えて十に行きたくなる。賢明な者でも、一、五、十と行きたくなる。
しかし、この道は道の上のレールに乗っておる。という事は、どうしたらいいかという事を聞かなくても、目の前に向かって進めばよい。そうすると二が見えてくるだろう。
二の目の前を進めば、三が見えてくるだろう。そうしたら、四になり、五になり、六になり、いずれは九となり十となる」と言われた。
「しかし、お前は地上を行くものである。そして、私は地上にお前の行く道(レール)を敷いた。
それは、私の位置から見るとまっすぐの道である。ところがお前は地上を行くものであるから、山にあたれば上り坂となり、つらいという。そして山を越えたら、今度は下り坂となり、怖いだのと言う。川を渡るときには落ちそうだという。しかし、私はまっすぐの道を引いた。
例えば、お前が山の麓まで行き、山に登らず迂回して道に戻ったとしても、それは私が敷いた一本の道にはならない。なぜかと言うと、これはまっすぐの道なのだから。そこにヒフミヨイムナヤコトの道がある。」
お釈迦様は、そう言われた。
「要は、余計なことを考えずに、目の前の道を進み、出会ったことをいただいていけという事か」と思った。それは、誠実に、誠実に出来事をいただいて行かなければならない。野心(自我)を持って歩むようでは道を見失うことになる。

みかこ:
この話はとても重要な話だと思った。人間はヒフミヨイムナヤコトの道の上にいながら、一、三、七、十とか、一、六、九、十というように、みんな癖があって都合のいいように飛ばしたり、迂回したりして行こうとする。

ジイジ:
人は目の前の出来事をいただいて歩むことより、目的を先に描き、行こうとする。そこでは、いただくという精神がないから、現実の伴わない理想を追い求めても、継続することは難しい。みんな評論家になって、その理想を所有することになる。

みかこ:
私もプレゼンを創ったりして、ヒフミヨイムナヤコトの道の上にいる事は頭では理解していたけれど、自分がヒフミヨイムナヤコトを確実に歩む事は、目の前に与えられた日常の全てを一つひとつクリアーしていく事の先にしかないんだと、改めて思った。そうすると、私はよく帰りたいと、目的のない思いを巡らすのだけれど、それは、どこかで目の前にあることをすっ飛ばして帰りたい気持ちが有るからだと思う。しかし、そうではないと、今、理解した。

ジイジ:
それは、ヒフミヨイムナヤコトの道順をきれいに歩んで、全てきれいにして、整えて行けという事。

みかこ:
そのような姿で、神様は帰って来てほしいんだね。

ともこ:
だから道順を間違えてはいけないんだね。

ジイジ:
神様のところへ帰るという事は光の中へ帰るのだから、一輪の汚れ、にごりがあってもいけない。

しゅうご:
さっき、潤三君がスケールの大きい話と言ったけど、日常の小さい中にもその道があり、その緻密な作業を怠っていることがある。

みかこ:
だから、面倒と思っても、今、目の前のこれを、きちんとクリアーしないといけない。

ジイジ:
カタカムナで定義づけられている「カ」は、この世界を現象化するための最極小微粒子、最小単位なんだよ。これは人間が物理的に観察できないもの。それが、どこでどのようにこの世界を創っているのかというと、そもそも「ない世界」すら「カ」で創られている。現象界という「ある世界」、その中の「見える世界」と「見えない世界」、つまり我々の物理性も霊性も「カ」で出来ている。現代人の一生が28000日だとして、人は一日に約3000回の選択をするといわれ、一生ではその28000倍の選択をする。さらに、物理性だけでなく、思いは走馬灯のように常に巡っているのだから、毎日頭に巡ることはどれだけあり、夢の中の思いも含め、そのすべてが「カ」で創られているわけだよ。それは、全てカミの遍満する領域。物質の「カ」は荒いが、霊性の「カ」はとても緻密。

あや:
響きも「カ」なのかな。

ジイジ:
そう。全ての原料が「カ」なのだから。という事は、「カ」は微細に違いを表現しながら、全てのところに満つり、現象化している。それは、思いとか、物――たとえば鉱物とか植物とか動物とか、そういった形でそれぞれに相応しく「カ」が満つっている。この「カ」が満つっている法則は、全て「カミ」という物理性によって創られているもの。この世界は、「カミ」という物理性が秩序としてハタライて動いている。因果応報の流れでも時すらも「カ」が満つることにより創造され動いている。つまり「カ」が満って現れている以外に存在するものはない。「カミ」は全てに遍満している。我々がこのように感情をもって、自らの人間性を表現することにすら「カミ」のハタラキは関わっている。

ともこ:
わかった。だからやっぱりヒフミヨイムナヤコトの順序を怠ってはいけない。どれも飛ばしてはいけない。

ジイジ:
我々は、この世界を創造するときに現象として働く神の法則ほど完璧に生きることはできない。しかし、常に己にとって必要な一番を最優先にし、日々の一つひとつを大切に生きなければいけない。だから、脱いだ履物をそろえなさい、と言うんだよ。

みかこ:
天は潜象界の側から現象界を創るときに、カミがヒフミヨイムナヤコトの順序に沿って世界を創ったわけでしょ。でも人間は創られた側から、帰る時にヒフミヨイムナヤコトの順序にのり、自らの意志でゼロに戻っていく事の出来る唯一の生き物なんだよね。

ジイジ:
だから、意志がそこに伴っていることで、大本のゼロと対向発生の対象に選ばれた。ライオンはライオンのままで、物理性の対向発生の対象にはなるが、霊的な対向発生の立ち位置には立てない。

みかこ:
それが、今わかった。カタカムナの三層構造の図があるでしょ。そこにはアマ界があり、そのエリアは、カムの側からこの世界に飛び出していて、人間の側からも現象界からの意識をアマ界に向けたとき、カムの世界の側に意識が飛び出すことになるのだけど、ジイジがあるとき「今の人間には、アマ界の存在も潜象界の存在も意識にないから、そちらに意識を向けることはない。だから、アマ界との対向発生が成立していない」と言った。人間が天の方に心を向けたとき、人間の意識の中にアマ界が成立し、天との共同作業が起こる。

ジイジ:
あのね、天に心を向けるというが、このオモイを竿の先にくっつけて天に届けるなんてことは出来ないんだよ。つまり、天の存在とはどのような存在なのかと言うと、テンだから点なんだよ。実際に天はどこにあるのかというと、僕は斜め45度先のセントラルサンを意識するけれど、それは宇宙の中の微細なたった一つの天の川銀河の中心にしか過ぎなくて、本来、天とは大宇宙全体のことを言うんだよ。ただ、我々はこの天の川銀河生命として地球に存在するのであり、もっとその天について身近に考えると、それがどこにあるのかというと、ここも、ここも、ここもそう、これって点て言うんだよ。この点が宇宙に無限に集合し、天を創っている。そうすると、その一点の微細な単位は「カ」の事と言ってもいい。つまり、天とは、全て「カ」でできているのであり、宇宙の至る所にその「カ」が満つり、遍満し、カミの物理性を表現している場ということになる。そうすると、あえて斜め45度に心を向けるということも、日頃からそういった特定の方向に意識を向けていることにもなる。そのからくりが解ければ、意識を向けるべきセントラルサンはどこに有るのかというと、いたるところ、どこにも、その存在があると言える。しかし、我々、地球上六方向に生きるものとして、とりあえず斜め45度上方に意識を送る、それで良いのです。そもそも宇宙に方向はないのだから。

みかこ:
回転しているしね。

ジイジ:
そもそも、我々の成り立ちは、マワリテメクル(自転公転)のもとに時間軸の上にのっているのだから、宇宙の中では向かう方向というのは、特定できない。そうすると、テンというのは何なのか。テは二面性。ンは前の音を強め起動させ発生させる。だから、テンというのは二面性が強く、起動し、動き出すということ。そこで、二面性の一方のテンとは、天と言い、無限なる宇宙のことを指す。もう一方のテンとは、点と言い、無限なる宇宙の最極小微粒子のことを指す。それはどちらも、極限の世界からの発生であり、出発点のことを指す。我々が認識する宇宙の二方向の極限の対向発生源のことを指す。点は天を創り、天は点を内包する。

そういった原理で、我々が解釈できる宇宙に対し、全ての発生源は、物理的に言えば、とりあえず、我々の生命原理の元である天の川銀河の中心であるセントラルサンのことを指しているが、本来はさらに大きな宇宙の元のことであり、それは特定できないが、天というのは二つあって、見えない天の巨大すぎて解釈できない面と、そのように捉える物理性でも霊性でもないある位置、心を向ける位置という天がある。
お釈迦様は、法華経の前に、色即是空を弟子の舎利弗に向かって説き、それを舎利弗が般若心経として体系化した。全ては空であると。特定するから多いとか少ないがあるのであって、それは位置を特定しなければ「ない」のだ、と語った。これは、今ここにあると思えばあるが、そこに気が行かなければ無いのと同じだ。
例えば、酒飲みが、町で酒屋の看板しか目につかず、ほかの景色が目に入らないとか、彼女にぞっこんになると、どんな欠点もよいことに見えてしまうとか。この事例はあまりにも我々の身近に基づいていて、あまりにも巨大すぎて見えない天の解釈とかけ離れているように思われるが、どちらもこの世界のことである。要はこの原理は、そこに意識が行かないものには、観えないものであり、ないのと同じこと。
これは、ある一点に集中して意識を向けると観えないものが観えてくる、そういった境地を説く視点のことであり、囚われている人間を救済する道であり、きわめて奇抜な理論だが、屁理屈でもある。身の回りに囚われて不自由になっている人間が囚われから解放される、究極に楽になる方法を説いたんだよ。

みかこ:
いくらお酒が好きで酒屋しか目に入らなくて、それ以外のものが見えなくても、酒屋以外のものもあるものはあるよね。

ジイジ:
あるものはあるという事を、よく目を開けてみる。そうすると、この世界が何かという事が初めて理解できる。現代人の物理性に汚染された偏った目線により、意識が届かないものを観ることを怠り、それをないものとして自らの理論を成立させ納得することは、偽物を真実として見ていることになる。

みかこ:
ごまかしだね。

ジイジ:
ごまかしなの。

みかこ:
そうすると、あるものは全てあるのであって、それが全てつながり合ってこの世界が成り立っているというところに行って、初めて、この世界の実態というものが観えて来る。

ジイジ:
我々が、現象界において、あるということを理解し、自分もいるという事を理解する、それが生きているという事。それに相応しく現象に出会っている。そして、現象に出会いながら、一体全体、自分は何者なのか、何故自分はここにいるのか、自分はどうしてこの状態なのか、という事を探っていくと、宇宙の成り立ちに行きつく。なぜなら、今ここに、銀河の仕組みがあり、太陽系があり、他の惑星と姉妹としてここで地球が活動している。そのすべての活動は、どう考えても、地球を絶妙な位置において、今のこの目の前ことを表現するためにあると、確信のように感じる。そうすると、自分という存在は、宇宙の、さらに奥の、潜象界の意向が働いて創られたととれる。その昔、神様はいつまでたっても孤独だった。その延長に、自らの存在に対し理解の確信を得ようとしたとき、そのための現象化を、長い間、どれぐらい長いかというと、僕が一生語り続けても足りないぐらい(笑)長い間続け、今やっとここまで来て、互いを理解する対象として出会い、それを表現(現象化)するところまで来た。(喜び)

みかこ:
ジイジは、ものの観えない人間にものが観えるように導いて、対向発生するものを育てているんだと、今思った。

ジイジ:
60才になる前に僕が言い出したのは、どうも地球が狭いということ。実は太陽系も狭い。これからは銀河を意識して生きていこうと思い、生前葬を行った。
今度70歳になって、全ての人間に目覚めるための道しるべを示す、つまり、悟りにいざなうことが、自分が生まれてきた目的だという事が分かった。だから人間に対して差別的に見る目は何もない。厄介なことに、人間というものは、あまりにも自分の癖性分に溺れすぎた神様の失敗作なのかもしれない。そのように、自らが観えない。歴史を振り返って客観的に見ても、あまりにも幼稚で愚かしい。それに、邪悪で巧妙なところが、擁護のしようがない。そのような愚かしいものであるならば、動植物の様に自我を持たない生き物ならよかった。しかし、それでは、この大いなる対向発生の対象としての価値は消えてしまう。
一体全体、どこまでいけば人間たちは、この大いなる舞台に出現した目的に相応しいものになるのか。

みかこ:
今、この話を聞いていて、人間って物が観えないじゃない。例えば、酔っぱらいの親父の話。自分も一緒だと思うんだけど、ジイジに出会わなければ、自分の実態をわからないままに、なんで自分の人生にこんなことが起こるんだろうと思いながら生きてきて、過去を置き去りにしながら終わっていくだけ。そんな人生を歩む人々は、自分の価値感でしか捉えられない狭い範囲で世界を観ているけれど、観えていないところにもいろんなものが存在し、そこに影響を与え、その結果、与えた影響が自分に返ってきている。例えば、酒飲みの親父の意識にはネオンしか見えないけれど、街にはいろんな存在がいる。

ジイジ:
その、酒屋しか目につかないというのは、ある意味、経典がもたらす境地だよ。他のものは「無」なんだから。意識にあるのは酒だけ。

みかこ:
それは偏った境地だよね。でも、その酔っ払いの親父には、奥さんがいたり、子どもがいたり、奥さんは泣いていたり、あるいは浮気していたりと、背景にはいろんなことがあって、それが世界に影響を及ぼしている。使っている紙はどこかの国の森林を伐採したもので、捨てたごみはどこかを漂流していて、そうやって自分がやった何かが、風が吹くと桶屋が儲かる式に、すべてがつながり連動して、こうやって今のような地球の2030年問題にまでなっていったことを、人類はわからなきゃいけない。

ともこ:
なんか今、いろんなことが分かったという気持ちがする。今朝ジイジが話をしてくれた時、いつも語られている話なんだけれど、それは、天にお伺いを立てると同時に、自分が気付いたことを天に返しているんだと聞いた。最近、自分はお伺いを立てる事はするようになった。自分の自我が手に余るものだから、どうしたらいいでしょうかとお伺いを立てるようにはなったけれど、もらう一方で、それが自分の中で何か気づきになった時、向こうに返すという事を全くやっていないと思った。今この話を聞いていて、自分の中でカタカタカタと色々つながっていく感じがあって、これを今この瞬間返していく事なんだなと思った。

ジイジ:
人間の動きと天は連動しているのだから、目覚めた人間が、その目覚めの方向に行けば行くほど、天、もしくは大いなる存在は、常に喜びをもって迎えてくれる。しかし、目覚めに移行した段階では喜びは発生するが、それをそのままにしておくと今度は停滞していくことになる。宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しながら進化していくプロセスで、そのプロセスを通じて発生する喜びが、神様の食べ物。だから、人間が学んで成長し喜びを発することが、神様の食べ物となる。そのように考えたら、今更宗教に走る必要はなく、物理性の世界を観察していくとその奥が見えてきて、その成り立ちがより理解できる。そのように生きたとき、自己コントロールができるようになり、生きる事が整っていくと、それが「生きることは直会」という、天の意向を現象化し、天の代理として地上に表すことになる。それは、生きることが、対向発生として天と共に世界を創造していく充実した人生を歩むこととなり、人が地上に生み出された本来の目的に目覚めることと言える。

僕は今、この話をしながら、そういった大いなる仕組みから外れた現象や存在は、この世界にはないと思うんだよ。それでも、違う観点から見ると、それぞれの立場からの視点で、なんだかんだと人間たちは物申すが、それも多様性のうちにあることとして、個性的であっても良いのだろう。しかし、この視点を原点として、多様性が展開されることが望まれる。

ともこ:
今改めて、最初のチナッピーの話に戻ると、だから道は間違えてはいけないんだと思った。

ジイジ:
あの交差点から右へ回ってどこへ行こうとしているのかを振り返ると、道は日本中つながっているのだから、そのまま先へ行くことも良し、間違いに気づいたらUターンして戻ってくるのも良し、というような話ではない。それこそが、道が間違っているという事。目が観えていなければ、そのまま進んでいくのが人生であり、人類でもある。
まっすぐの道というのは、天から見るとまっすぐな道だと、お釈迦様が言われた。方向は、どのみち神様へ帰っていく悟りの道として、まっすぐ引いてある。それは、一人ひとり同じではなく、上る苦しみ、下る苦しみ、渡る苦しみ、いろんな事に出会うが、上から見たらそれはまっすぐの道なのだ。いろんなものに出会うのが地上を生きるものの定めであり、それを、山の手前で「上り坂が厳しいから迂回しよう。」と迂回し、向こうへ行ったところで、道はまっすぐではなくなってしまう。そもそも迂回したのだから。だから、まっすぐ目の前に進め、と言われる。
確かに、上るときはエネルギーも時間もかかるかもしれない。降りるときも怖いと不安が出たり、その道に出会ったことについて不満が出るかもしれないが、それがまっすぐの道を行く者の定めであり、その姿勢が、外さぬ道を歩むことにつながる。
だから、悟った者にとっては、困難は問題ごととはならない。それは、レールの道を歩む上での枕木にしか過ぎない。悟れば悟るほど、己の自我を超え、さらにスケールの大きなことや、他者のことが課題となり、道を進めるための原動力となる。
かつては、山にこもり、瞑想し、世情の汚れから解放され、無の境地に至り、美しく昇天したものたちがいた。しかし、この世に貢献するためにある人の道、定めを断って道を究めたからといって、それを尊いとは言わない。この世に人として生を受けたものは、世に出ることにより、ヨコシマな世を味わい、その歪みを正してこそ、人としての歩みを全うしたと言える。それは、どんな賞賛よりも価値のあることである。
ヒフミヨイムナヤコトの大いなる定めを、正直に、素直に、前向きに、怠らず歩めば、人を必ず目的の地にいざなう。

 

 


ただただ、他者を思い生きること 〜 2021年1月1日

私は、夢を見ました。

それはどこか工場のようなところで、ほこりっぽく、あまり衛生的とは言えない閑散とした場所でした。そこにビニールのようなものに包まれた、卵よりも二回りほど大きな水のかたまりが、ほこりにまみれて、いくつか転がっていました。それはどこからか現れて、少しずつ増えていきます。そして増えるごとに、その場が幸せになっていくのです。
その感覚を、言葉でどう説明したら良いのかわかりません。そこは美しく整っている場でもなく、近代的な設備もないのに、まだ未完成のその工場を稼働させ、実験を繰り返していると、不思議と幸せな気分が満ちていくのです。何かを創ろうとしているけれど、何を創ろうとしているのかわかりません。何かのエネルギー源がそこにあるのかというと、そういうわけでもない。ただ幸せな気分が生産され、広がっていく。生産の仕組みはよくわかりませんが、そこにある原理は、「ただただ、他者を思って生きなさい」ということでした。
もしもこんな世界があるのなら、これを最終到達地点としていいのではないか ——— そう思えるほど、その場は不思議な満足を与えてくれました。大きな卵のような水の玉が、その空気を生んでいるようでした。そこには美味しい食べ物が並んでいるのでもなければ、快適な空間があるわけでもない。何もたいしたものを生産していないのに、こんな気分ならもう何もいらない、これでいい ——— そう思いました。

先日、木の花ファミリーではクリスマス会がありました。会の最後に、大人も子供も一緒になって、木の花楽団の新しい歌を合唱しました。その歌はまだ不完全で、私は初めて聴いた時から「この歌には何かが足りない」と感じていました。ところがいざ合唱が始まると、小さな子供からお年寄りまでがひとつになって、みんながその場を良い場所にしようと歌っていました。みんなはこの日に向けて練習をしていましたが、それで何か得をしようとか、見返りを求めていた人はいなかったでしょう。ただ誰もが、人を喜ばせようとして歌っていました。
その時私は、次の世界を見たような気がしました。そうすると、何かを得ようとする心が消えていくのです。もっと少ないエネルギーで、満足して生きていける。そういう世界を味わったのです。
夢の中の工場はまだまだ未完成で、さらにレベルを上げるために探求をしていました。ちっとも美しい場所ではないのに、そこには「なぜだろう。どうしてこんな気分になるのだろう」と不思議になるほど、幸せな気分が満ちているのです。まるでこれまでに体験したことのない麻薬でも使っているかのようでした。そのベースにあるのは、ただただ、他者を思って生きること。それがその場の原料となり、自らの幸せの元となり、新しい時代を創っていく原動力となるだろう、と感じたのでした。

今、新型コロナウィルスの感染拡大や地球温暖化など、世界が大きな行き詰まりに直面する中、それでもなお、人々は現在の暮らしの延長線上に未来を描き、それを維持することでしか先が考えられない状態になっています。しかし、過去を振り返ってみれば、現代の私たちの暮らしは、人類が歴史上経験してきた多様な歩みの中のたった一つである、ほんの一瞬のものに過ぎません。現代の人々は、そのたった一つの生き方に縛られ、社会の先行きに不安を感じながら、今なお同じ生き方のままで突き進もうとしています。しかし、それは進めば進むほど、さらに無理のある世界を突き進めていくことになるのです。
その進んできた道を振り返り、冷静になり、本当にこれしかないのかを考える時が今、来ています。視野を広げ、客観的に捉えてみれば、これまでの延長線上を突き進むのとは違う、新たな方向が観えてくるはずです。

世界はもともと、調和で創られています。調和が表現されれば、そこには自ずと持続可能な世界が現れてくるのです。人間以外の生命は、すべてが調和し連鎖していく大生命生態系の循環の中にあります。近年、私たち人間がより豊かでより幸せな暮らしを追求してきた結果、現在の世界が持続可能でなくなっているとあなたが思うならば、私たちはもう一度、豊かさとは何か、幸せとは何かを捉え直す時に来ています。
現代の人々は、何かしら心に不安を抱えて生きています。不安であるが故に、人と同じになることで安心を得ようとし、一律に同じものを求めてきました。個性の違いを無視し、一律な尺度で人と比較することで優劣を生み、人より豊かになろうとして争うようになったのです。そして自らが得することばかりを考え、その優越感を持ち続けなければ不安を感じるようになりました。その一方で、他者のことを顧みず、自らの好きなことだけで日々を送る人々も増えています。そのどちらも、根底にあるのは「自分さえ良ければいい」という心です。その結果、地球の本来の姿である大循環生命生態系とは程遠い世界を創ってしまったのです。
しかし自然界の生き物を見れば、一見自らのためだけに行動しているようでありながら、その行動には節度があります。ここまで得たらそれ以上は求めない、即ち「足るを知る」ことを本能的に知っており、生態系のバランスを崩すことなく、自らの必要を満たしているのです。かつて人間も、他の生命たちと同じように、自らの命をつなぐために必要な分だけを生態系の循環の中でいただき、その仕組みから逸脱することなく生きていました。ところが産業革命以降、科学技術の発展によって自らの願望を叶える快感の虜となっていった人間たちは、際限なく欲望を膨らませ、他の生命を犠牲にしてまでも、自らの豊かさを追求するようになりました。

現代を生きる私たちは、とても豊かな暮らしを享受しています。日々働いてお金を稼ぎ、そのお金で物を消費し、食べ物を食べ、余暇を楽しみ、何も悪いことはしていない、当たり前のように思っている私たちの毎日の暮らしが、他の生命の犠牲の上に成り立っていることを認識している人々が、世界にどれだけいるでしょう。

人間は、多種多様な地球生命の長い進化の物語の末に、地上に誕生しました。その命は、自然から与えられるものによってつながれてきました。今もその仕組みに変わりはありません。ところがその仕組みの中にあって、人間はいつしか自分のことだけを考えるようになり、人間のためだけの社会が地球上に異様に展開するようになりました。
その行き過ぎた人間の行いに対し、地球は今、警告として様々な現象を起こしています。他の生き物たちは、人間の行いの犠牲となっていくことはあっても、それを危機だと騒ぎ立てることはありません。ただ人間が気付くように、自らが絶滅するといった現象を通して、メッセージを送っています。それは、声なきメッセージです。そのように、強いメッセージを発することのできないもののことを思う心が、これからの時代を生きる人々には必要です。自己主張のできる人間のことばかりを優先することは、もう終わりにしなければなりません。それが、他者のために生きるということです。

今、新型コロナウィルスには外出規制や治療薬の開発、温暖化にはリサイクルやクリーンエネルギーの推進というように、世界中で起きている様々な現象を、人々は物理的な対処によってのみ解決しようとしています。しかしその物理的現象はすべて、人の心が元となり、発生しています。「自分さえ良ければいい」という根本に不調和を生む人間の心を変えることなく、テクノロジーの力で問題ごとの表面的な解決を図っても、その根本的な解決を先送りすればするほど、さらなる問題が現れてくるのです。
人間は楽になることが豊かさであると思い、その高い能力を使い、便利なものをたくさん創りました。しかし、便利なもので身の回りを固めれば固めるほど、自らの生きる力(生命力)を失っていくのです。そして能力を失ったことで、さらなる問題が自らに起き、それを解決しなければならなくなるのです。だからこそ、際限なく求め続けるのではなく、「足るを知る」。そこに気付く必要があります。
それには、既に十分であることに気付くことです。私は既に、十分与えられている。自分で獲得したと思っていたものも、実はすべてこの世界の大いなる循環の中で与えられたものであり、私がこうして存在していること自体が、生きることを与えられている。存在することを与えられている。ありがたい。そのような謙虚な心になった時、初めて、これまで追い求めてきたものとは違う豊かさに出会うこととなるのです。それは、心の豊かさから生まれてくるのです。

人間がこれまで築いてきたものを否定し、返上しようということではありません。この世界が循環によって成り立っているならば、循環とはすべてを肯定することです。これまでにあったことはすべて、それが必要な時代だったから存在したのであり、それが行き過ぎた結果様々な矛盾が現れてきたということは、私たちは自らの姿勢を振り返る段階に来たということであり、それは次のステージへ進むために大切なことです。否定ではなく、肯定し、そこから学ぶ。そうすることによって、私たち人間は進化することができるのです。
有史以来の6500年の歴史の中で、地上には様々な文明が生まれては消えていきました。その消滅の原因は、行き過ぎた文明の発達によってバランスを欠いた環境破壊であったと言われます。産業革命以降の急速な科学技術の発展により栄えた現代文明は、過去に類を見ない速度で環境を破壊しながら、その高度なテクノロジーにより文明を維持し続けています。しかし、矛盾の根本にメスを入れることなく、矛盾を生み出す元である現代文明を人工の力のみで保ち続けることは、さらなる重大な結果をもたらすことになります。だからこそ、その根本の原因に気付くことで、偏った豊かさを突き詰めてきた鋭い矛先を収め、破壊の手を止めなければなりません。
右肩上がりの経済から一歩引き、本当に必要なものは何であるのか、余分なものは何なのか、その仕分けをする時が来ています。今まで通りの生活を維持することから、求める心を少しだけ引いて80%にしてみれば、足りないものはみんなで共有するチャンスを得ることができるのです。それが難しければ、まずは90%から始めてみる。やってみて大丈夫なら、今度はさらにその90%にしてみる。そうやって少しずつ慣らしていくうちに、みんなで助け合い、無駄がなくなり、生きることの新たな方向性に出会えるのです。

それは難しいことのように思えるかもしれません。しかしこれまで他の生命の犠牲の上に成り立ってきた私たちの欲望は、100%でも飽き足らず、さらに120%も200%も求めてきたのです。その矛を今収めなければ、鋭い矛先がいずれ、自らに向かうことになるでしょう。
新型コロナウィルスは、その行き過ぎた人間の行いに歯止めをかけました。今はコロナウィルスによって無理やり強いられているように思えることを、私たちが自らの意志でできるようになったなら、コロナウィルスが現れることはなくなるかもしれません。その力を借りる必要がなくなるからです。それが次の時代に求められる私たちの生き方です。
人間は失ってから気付くものです。だからこそ今、これまで当たり前であったものが失われようとしていることで、世界は私たちにメッセージを送っています。しかしそのような痛みをもらわなくとも、私たち人間には、これまでの行き過ぎた行いを振り返り、そこから学び、傷付いた世界を再生させ、新たな方向性を見出す能力と可能性が秘められています。その道の始まりとなる心が、他者を思うことです。

世界は、共有のもとに成り立っています。私たちはすべての生命と、太陽や水や大地や空気や風を共有しながら、大いなる命の循環の中で生かされています。その中で、他者を思い、他者のために生きることは、私たち生命にとって当たり前の姿なのです。
私たち人間の本質は、愛や絆によって、みんなで力を合わせて生きることが幸せな世界を生む元になると、どこかで知っています。ところが自我が膨らみ、自分のことだけを考えるようになった人々は、他者のために生きることがまるで自らの自由を阻害されるかのように感じるマインドコントロールにかかっています。しかし、他者のために生きることは、本来とても心地良いことなのです。
これまでの価値観では、人に何かをしてあげることは、「自分がしてあげた」とある意味優越感を持つようなものでした。或いは、人にしてあげることで自らのものが奪われるように思う人もいます。しかし人に何かをしてあげるということは、こちらが人に対して何かをさせてもらえる、ということです。そこには、人のために生きたという価値が生まれます。そうすると、「してあげる」ではなく「やらせていただく」という心になります。ただ他者のために生きる、という、生命の定めを表現した時に、その人は自ずと、自らの価値を上げていきます。そして自らの行うことが、世の中を良くしていきます。そういった仕組みがこの世界には流れており、自らが生きることで、その仕組みが現象化するのです。
それは何も難しいことではありません。高度なテクノロジーやコロナウィルスのワクチンを開発することの方が、ずっと難しく、お金やエネルギーもかかることでしょう。それは誰しもの心の内に秘められた、世界の掟です。自分のことばかりを考えて生きて、そのことがわからなければ、その大いなる仕組みを感じ取り、寄り添おうとすることにこそ、自我を発揮しなさい。「私の目的は、この世界の仕組みが健全に表現されることであり、それを喜びとするのが私の自我です。」そして、この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる —————

私は、夢を見ました。それは、いとも簡単にその世界へ行ける夢でした。
そこでは、何かを求める気持ちは消え去り、ただ心が満たされていました。今の現実の中では、それは本当に夢のようで、程遠い世界に思えるかもしれません。しかし、心がその意識に目覚めれば、可能なのです。
この世界には、様々な可能性が秘められています。一人ひとりの人間が、どのような精神状態で生きるかによって、それにふさわしい世界が目の前に現実化してきます。そのたくさんの可能性の中でもっとも大切なのは、世界が幸せという生産物で満たされることです。それは目には見えないものですが、心身ともに健康な世界を創ってくれます。その原料は、他者を思う心。他者の幸せを願い、他者のために生きていけば、実現できるのです。
そこには、幸せになるための音楽が流れ、幸せになるための食べ物があり、幸せになるための会話が交わされ、幸せになるための日々の暮らしがあるでしょう。そして欲しがる心は満たされて、多くを必要としなくとも、少しのエネルギーでたくさんの幸せが生まれるでしょう。それはどこにあるのかというと、人の心の中にあります。そのスイッチを、あなたが入れればいいのです。

そのような世界があることを、私は観たのです。

 

 


美しく生きる覚悟の先にあるもの

先日、ある大学の学生さんと指導教官が、フィールドワーク実習の一環として木の花ファミリーを訪れました。研究テーマは「日本でのエコビレッジ進展について」。「日本でエコビレッジ活動が広まることの利点を調査する」ためのアンケートが渡された翌日、二人はいさどんのいる養蜂場を見学しにやって来ました。そこでいさどんは、こんなことを話し始めました。


 
今日、あなた方は養蜂場に来ています。僕は、我々人類の未来のあり方の見本がこの蜜蜂の生態の中にあると考えて、蜂を飼うようになりました。その一番の目的は、蜂蜜が欲しいからではありません。この生態の中に、我々の体の構造と同じ仕組みがあるのです。
近ごろは医療の世界でも、細胞の一つひとつに意志がある、ということを言うようになりました。「全身全霊」という言葉があるように、それは細胞の一つひとつがパラボラアンテナのように開いている状態です。そのような状態になると、人間はこの世界の奥にあって、この世界を動かしている様々な仕組みを感受できるようになります。それだけの能力が人間にはあるのです。

地球にも、そこで営まれる生態系のネットワークにも、もともと無駄なものは何ひとつありません。ところがそこに人間が現れて、ゴミを生むようになりました。宇宙はプラスマイナスゼロの世界なのに、人間が現れて、人間の叡智が偏り、プラスを過剰に求めるようになりました。だから今地球上にはプラスのエネルギーが蔓延していて、ゴミも発生し、ある意味熱中症のような症状になっています。
だからそういった矛盾を解消するためには、我々人間一人ひとりが何を考えて地球上に生きているのかということが、とても重要です。それが地球の未来を創っていくのですから。今は世界のリーダーも、学者も、自分が何を発しているのかということよりも、一般の人々が何を求めているのかというニーズに基づいて活動をしています。政治家はひとりひとりの一票によって選ばれる仕組みの中で、結局は、人々の意志がどのような世界を求めているかによって、世界は動いていくのです。リーダーがこの世界を動かしているわけではなく、地球の細胞である人間の意志が集まって、世界の現状を創っているのです。
ならば時代とは、本来特別なリーダーが現れて革命を起こすのではなく、一般の人々 ─── 自分の存在なんて大したものじゃないと思っていた普通の人々が革命を起こすのだと、僕は感じています。蜜蜂はまさにそのモデルです。私たち一人ひとりのわずかな想いが、どのような意志に基づいているのかによって、世界がどのような方向に進むのかが変わっていくのです。ですから、私たち一人ひとりの意志はこの世界にとって大変重要なものなのです。

今ここを飛び交っている蜂は、大部分が働き蜂です。働き蜂1匹の能力は小さなものです。寿命も短い。花が多い時期がもっとも寿命が短く、成虫になってから40日しか生きられません。
働き蜂はみんなメスですが、巣箱の中にはオス蜂もいます。オス蜂の寿命は3ヶ月です。オス蜂は働かないので、12月にもなると働き蜂から巣の外に追い出されます。冬の間ただエサを食べるだけで、必要のない存在だからです。しかし春になり新しい女王が出ると、女王が卵を産むために交尾の相手が必要になるので、働き蜂はオス蜂を育てるための部屋を用意します。
「女王蜂」というと、群れ全体を支配している存在のように思うでしょうが、それは人間の発想です。実は女王蜂は、働き蜂の奴隷とも言えるのですよ。女王蜂がどこにどれだけの卵を産むのかは、すべて働き蜂の指令に基づいているのです。
働き蜂は、私たちの体の細胞と同じように、次から次へと生まれては、働いて、死んでいきます。その蜜蜂たちのDNAの中に、代々受け継がれてきた情報が刻まれており、それを使って蜜蜂たちは生きることの全てを読み解いているのです。天候の先行きが悪いと感じれば産卵を控え、天候が良く花がたくさん咲きそうなら産卵を進めるよう女王蜂に指示します。一番寿命の短い働き蜂が、群全体の行く末をコントロールしているのです。

私たち人間の感覚は、自分が学習して記憶したことをやるというものであり、自分が体験したことのないことは知らないことになっています。例えば女性が妊娠すれば、出産についての本や子育てについての本を読んで学習します。だけど、以前ここではヤギを飼っていましたが、ヤギのための出産の本というのはないですね(笑)。ヤギは家畜ですから人間が介在しますが、自然界の生物はそれもありません。しかし彼らは、先祖からずっと受け継いできたように出産し、ちゃんと子育てもします。
群れで暮らすとは、それと同じことです。今、ひとつの巣箱の中に1万匹ほどの蜜蜂がいます。最盛期には巣箱が3階建てになって、5万から10万匹にもなります。それがたった1匹の女王のもとにいるわけですが、それは女王蜂の意志で動いているわけではないのです。どんどん生まれては死んで新陳代謝していく働き蜂がその指令を送り、群全体を維持しているのです。
さらに、働き蜂はいろいろな役割をしています。幼虫から成虫になったばかりの働き蜂は幼虫の世話や巣の掃除をし、ある程度成長して一人前になった働き蜂は外へ出て蜜を集めます。成長に応じて役割が変わっていき、分業制になっているのです。そこでは、とても流れの良い循環の仕組みが自然に流れ、ものごとが滞りなく進んでいくのです。

昨日、あなたから渡されたアンケートを見ました。ここはとても特殊な所です。地球に現れた人類の変態というか、奇跡というか。こんなことを僕が言うのは変かもしれませんが、僕は少しヘンな発想を持っています。しかしこのヘンな発想は、世の中の価値観が変われば当然のことなのです。
今、1組のカップルがゲストとしてここに来ています。男性の方は統合失調症で、女性の方は精神が不安定です。彼らは親がとても裕福なので、お金には苦労していませんが、人生には行き詰っています。「僕は生涯薬を処方されながら精神障がい者として生きるんだろうか」と彼は言います。彼女はそんな彼に同情して一緒に暮らしていますが、人生に見通しは立っていません。
彼らは1週間ほど前に、男性の方の両親と一緒にここへやって来て、僕と話をしました。今回二人で来たのは、ここの取り組みにかけて、自分たちの人生を立て直そうと思ったからです。

ここは治療院ではありません。医者は彼に「薬がなくなったら混乱を起こして入院することになる」と言って薬を処方し続けています。ある意味、脅されているようなものです。そして障がい者年金を受給しながら、この病院の患者であり続けなさい、ということを言っているようなものなのです。
先日彼が両親と来た時に、僕は、なぜ今彼は病気になっているのかという、病気の仕組みについて話しました。そして彼女に、どうしてあなたは彼と付き合っているのかと聞きました。それは、彼女自身の中にも歪みがあるからです。そして傷口を舐め合っている。お互いに依存しながら、苦痛を感じているのです。それは薬では治りません。
ここは、薬を使わずに治すところです。なぜなら、それはもともと薬で治すものではないからです。それは「正常に戻す」ということです。今、地球上では「お金がなければ幸せになれない」「お金があるのが成功者だ」という価値観が蔓延しています。それは狂っているでしょう?僕はそこを今の社会に問いたい。だからこの暮らしをしているし、蜜蜂を飼っているのです。

この話と蜜蜂の話をつなげることは、とても深いことです。しかしあなたからのアンケートには自分の発想から出た質問が並んでいて、それに答えてくださいと言われれば答えられますが、そこで問いかけているのは表面的な仕組みについてのことだけです。けれども実際は、なぜ木の花ファミリーがあるのかといったら、そこにはもっと奥の深い物語があります。同じように、なぜ今地球がこのような状態であるのかということにも、わけがあるのです。

そこで僕は、(先生に向かって)先生であるあなたに伝えたい。なぜなら、あなたがどのような投げかけをするかによって、学生たちが目を向ける方向が変わってくるからです。
この深い宇宙観を今の人々に語ることは、無理なことかもしれません。無理かもしれませんが、そういったことを大事だと感ずる人には、またその機会が与えられるでしょう。これは社会運動です。大学という現場は本来、優れた人材を社会に輩出するためにあるはずなのですが、今は既製品のような人材を育て、それも知識の漬物のようにしてしまっている。知識というものは、生きることには大きな力にはなりません。大切なのは、瞬間瞬間状況が変化していく中で、智恵を持ってそこを乗り越えていく生命力です。
近代物理学の世界は今、行き詰っています。物理学の行き詰まりの先にあるもの ──── 宇宙をどう解釈したらいいのかということについては、ここにヒントがあります。しかし物理学者は、現象をもってしか真実としない。現象の中にしか真実を見ようとしないのです。それでは、私たちの心はどうなるのでしょう。心は、目で観察することはできないのです。

昨日、僕の中学の同級生が遊びに来ました。彼は、これまで自分の心の中にずっとあるものを抱えていました。
彼は小学校に上がる前に、友だちが持っていたナイフが目に刺さって、片目を失いました。そのことで大変なハンデを持って生きてきました。そして今も、5つほどもの病気を抱えています。彼はいい人なのに、どうしてそんなにたくさんの病気を持っているのでしょう。
「病気」は、「気が病む」と書きます。病気になるということは、心に歪みがあり、矛盾を抱えているということです。では、あんなにいい人がなぜ病気になるのかという原因については改めて分析する必要がありますが、そう思っていたら、彼の方から僕に話してきました。

僕は子どものころ、友だちの傘が刺さって彼の目はああなったのだと聞いていました。ところが実際はそうではなかった。子どもの僕たちにとっては、彼はただ単に片目が見えないというだけで、それ以上のことは何もなかったのですが、その後彼は社会の中で大変なハンデを背負うことになりました。免許を取る時でも、就職する時でも、そのハンデによってたくさん辛い思いを体験したと語りました。何度自殺したいと思ったことか。そうやって自分が辛い思いをした分だけ、彼は人に対してやさしい人になりましたが、その分心に矛盾を抱え、気を病むようになりました。それが病気になって現れていたのです。
昨日、彼はその矛盾を吐き出しました。66年間生きてきて、やっと吐き出せた。そして自分がこれまで闇雲に生きてきて、どれだけ矛盾を抱えていたかということに気付いたのです。そこで僕は彼に伝えました。「これであなたの中にあるガンは改善に向かうよ」と。
彼は自分の中に溜めていた思いを、外に吐きだしました。彼はいい人ですが、中には苦痛を溜めていたのです。その苦痛の上に、「いい人」としての彼がいたのです。そして本当のいい人になるために、その苦痛を吐き出した。彼はこれまでは自分の目にコンプレックスがあって、女の人の顔を真っ直ぐに見られなかったそうですが、思いを吐き出した後、初めて女の人を正面から観られるようになったと言いました。「見ていろ。あなたの病気は絶対に回復に向かうから」と僕は言いました。「よかったなぁ」と。ここの存在が、人の人生を変えるのです。

先日、昔からの知り合いの、今は96歳のおじいさんがここに来ました。娘と婿とおばあさんと一緒に来たのです。そこで僕は、生きるとはどういうことかという話をしました。特に死のお迎えが近い人は、どう生きて、どう死を迎えるべきかという話をしていたら、途中でおじいさんが、山形弁でこう言い出しました。

─── ちょっと待ってくれ。わしは今、あなたの話をずーっと聞いていたが、話が耳から入って、反対の耳へ抜けていってしまった。だけど、自分の中から湧いてきたものがあるから、それを話させてくれ ───

そこで彼は、「わしは第二次世界大戦のミッドウェー海戦の生き残りだ」と話し始めました。戦艦ではなく護衛艦に乗っていて、その護衛艦はポンコツで小さくて足も遅かった。それでアメリカ軍も爆弾を落とすのをもったいなく思ったのか、他の船が次々と攻撃される中、その護衛艦だけは無傷だったのです。
そして戦いが終わった後、海にはたくさんの死体と、まだ生きている人々が浮いていました。そこでまだ生きている人たちを、一生懸命船の上に引き上げた。ところがふと気づくと、甲板が負傷者でいっぱいになっていました。そこで彼は「こんなことをしていたら全員がダメになる」と思い、何を始めたのかというと、助ける人と、助けない人の選別を始めたのです。「この人は助かりそうだ」「この人は助けても死ぬだろう」と選別し、助かる見込みのない人たちを、海に捨てました。それは上官に指示されたのか、自分の意志だったのか、記憶にないと彼は言います。そのくらい必死な場所だったのです。
「どれだけの人を捨てたかわからないが、30人は捨てただろう」と彼は言いました。その時に、捨てられる人は、自分の命がもうないことがわかっていても「助けてくれ!」と叫ぶ。それを捨ててきた、と彼は語りました。そしてそれは、心の奥にずっとしまわれてきた重りとなっていたのでしょう。

彼はそのことを、これまで誰にも語ったことはなかったと言いました。その話を始める前、彼は「わしはまだ死にたくない」と言うので、僕は「どうして96歳にもなってまだ生きたいの」と言いました。人間は毎日を充実して生きていたらいつでも死ねるよ、僕なんか毎日わからずやの人間たちを相手にしていて面倒くさいからすぐにでも死にたいけど、まだやることがあるから仕方なく生きてるよ、と僕は言いました。だけど96歳にもなったら、土星が太陽の周りを3周も回っているのです。最初の30年で自分を知り、その次の30年でそれを経験して、最後の30年で死ぬ準備をし終末を迎えるところを、そこから6年も余分に生きてるのにまだ生きたいだなんて、どうしてそんなに生きることに未練があるのだろうと思っていたところ、彼はその話を初めて語り出したのです。最後に彼は、「ありがとう、心が軽くなった」と言いました。そしてこう言ったのです。「わしもこの話が話せたから、もう逝けるかな。」

それは、本当にいい話でしょう。あの96歳のおじいさんが、そんな人生を生きてきて、旅立つ前にこんないい土産を我々にくれた。
心の中にずっと重いおもりを持っていた人が、ここに来て、それを手放せた。それがここの醍醐味です。思いというのは、重い。その思いを手放すと軽くなる。旅立つ時には人は物理的な質量をなくし、肉体から解放されて天へと昇っていきます。しかしいくら質量のある肉体を手放しても、思いが重ければ地に居続けることになり、その魂は地獄を生きることになるのです。そのおもりを吐き出せる場所 ──── それがここの本質です。

生きるということは、大事なことです。美しく生きて、そして未練のない状態で死んでいかなければいけない。そうでなければ、人間はこの世界に、執着という心のゴミを残していくことになります。
今、人間は欲ばかりになってしまって、美しく生きるということを忘れてしまいました。だから木の花ファミリーは、美しく生きることを目指すのです。美しく、人のために。自らを美しくすると、人のために生きるようになります。そしてそういった人たちが多くなると、世の中は美しくなります。この世界はすべてが生命ネットワークの中にあるのですから、どんなに小さなミミズでも、微生物でも、すべてが役割を果たして無駄がないようになっています。そして自らが存在するために役割を果たしてこの世界に貢献すると、自分自身がその美しいネットワークの中で生かされるのです。

それを表現したのが、ここの生き方です。世界のエコビレッジの生き方といいますが、そんなものよりもずっと重くて、深い。でもこれが完成したら、21世紀の人類の見本になります。その見本の見本が、これ ──── 蜜蜂です。
巣箱の外に、蜜蜂たちの死骸があるでしょう。これは無駄になってはいません。存分に群のために働いて、そして終わっていく。個が全体のために完全燃焼するのです。その生涯は決して無駄にはなりません。それによって、群全体が次へとつながっていくのです。

私たちはとても大切なことをやっていると思っています。それは、誰かの評価を求めているわけではありません。重荷を秘めていた人がそれを吐き出し、当たり前に人々が軽くなって、癒されていく場を創ること。その自分の中で大切と思うことを、人生を通してやり切れるかどうか。その覚悟が本物であることの証として、今の社会からは評価されるばかりではない道を歩んでいます。それが真実であるためには、評価を求めるものではないのです。たとえ何の評価がなくても、自らの心は、濁ることがない。
その覚悟のもとに創る場の空気は、社会に多くのものを還元します。そして人々を、その存在の最終目的地である、悟りの地に導くのです。

 

 


3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ

2014年7月26日のマヤ新年の祭典

7月26日はマヤの新年です。3年前の2014年7月26日に、メキシコの太陽マヤ族最高司祭である尊母ナーキン氏が木の花ファミリーを訪れ、富士山を望む聖地・宮ノ下広場でマヤ新年を祝う祭典を行って以来、木の花ファミリーでは毎年この日に地球を祈りのウェーブで包む祭典を行ってきました。
2017年7月26日早朝、霧雨の降る中、宮ノ下広場にファミリーメンバーが集い、カタカムナのウタヒや舞を奏上した後、いさどんは次のように語りました。

 

3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ

ー 人生の中で出会うことはすべて、私たちの生きた証 ー

 
今、この祭典に立ち会い、曇り空の下、ミストのような雨が降る中で、頭の中にある映像が浮かびました。それは、宇宙空間に浮かぶ地球の姿です。

地上に雨は降りますが、地球そのものに雨は降りません。それは、地球が宇宙空間にあるからです。今この場所には、天の配慮のような霧雨が降りそそいでいます。これは、私たちが地球に生きる証である、生命の水です。それを不愉快なものと捉えれば、不愉快な世界が地球上に展開されてゆくでしょう。しかし、命の潤いを与えられているのだと思えば、そしてそれを「いただきます」という心で浴びるならば、それはとても尊いものをいただいていることになります。その恵みがあるから、私たちは命を紡いで生きることができるのです。

今日は7月26日、マヤの新年です。なぜ私たちはこのような祭典をしてマヤの新年を祝うのかというと、そのようなことに出会う生き方をしてきたからです。それは、私たちが生きた証でもあるのです。

私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。

この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。

私たちが今日ここに集うのは、そういったことを理解した者として、自らの人生にそれを現象として顕わす自覚があるからです。そこには損得勘定や、より良い人生を生きたいというような願望はありません。ただひたすら、時代が要請するままに、宇宙が成り立っていくように生きる。そのことによって、この大きな節目の時にあたり、その先の時代を人々はどのように生きるかを明快に示すことができます。それを自覚した者として、皆さんはここに立っているはずです。

今、雨が降りそそいでいます。祭典の日はカラッと晴れるのが天の恵みなのかというと、それは人間の勝手な都合の思いであり、欲です。もしもずっとカラッと晴れ続けたら、私たちは生きていけないでしょう。今のこの恵みの雨は、そういったことを示しています。宇宙空間から見れば、これは地球の生命循環の作用です。こういった仕組みを私たちは生きていることの証として理解し、愉快なことも不愉快なこともすべてが命の仕組みの中にあることを理解する必要があります。そのことを理解した者たちは、自らにとって都合の良い心で生きることはありません。それが、宇宙の法のもとに、欲望を断ち切った美しい生き方をするということです。

毎年が特別な年であり、毎日が特別な日です。私たちは毎日毎瞬、未知の場所へと進み続けています。その中でも、今年2017年の7月26日は特別な日です。個人的に僕には「来る時が来た」という心境です。というのは、今この祭場の四隅に、樫の幼木が植えられています。つい先日植えたものですが、僕は何も意識していませんでした。ポットに種を播いて、春が来て、梅雨が来て、ある程度育った幼木がポットの中のままで夏を過ごすのは苦痛だろうなと思い、ではこれをどこに植えよう、と考えた時にふっと閃いたのが、この宮ノ下広場の祭場の四方に植えることでした。そしてここに植えることにより、この祭場の意味が完成したのです。

ヒマラヤ樫の幼木

この樫は、ヒマラヤ樫です。この名前は僕が付けました。というのは、3年前にヒマラヤのハルトラビレッジから招待を受けてそこを訪れた時に、何か記念になるものをと思いながら村を歩いていたら、樫の木がありました。そこにまだ熟していない青い実がなっていて、僕に「持って行きなさい」と言うのです。そして木の根元を見ると、その青い実が落ちていました。未熟ですが持って行けというものですから、いくつかを拾って持ってきました。そしてその実を播いたら、その中の4つだけが育ちました。そしてその4本の幼木を、この祭場の四隅に植えたのです。

物理的には何の根拠もありませんが、ヒマラヤは僕の魂のふるさとです。僕が今から1000年ほど前に地球に降り立った時に、最初に暮らした地です。そして3年前にインドの友人から招待を受けてヒマラヤを訪れ、ヒマラヤの山と対話してきました。「戻ってきたよ」と。それは自分のルーツを確認する旅でした。その証として、今は日本の富士山麓にいます。富士山は、地球上で最も霊的に高い山です。プレートとプレートがせめぎ合い、高い地球の波動を発する中心点にあるのが富士山です。それはもっともエネルギーが高いところであり、地震や噴火など天災が起きる場所ですが、それは命の再生が激しいというこというです。それは宇宙の実体を表しています。破壊と再生をくり返し、生きるということです。

命とは、常に変化・変容・変態をくり返し、循環し、巡り巡って、未知なる未来へ進んでいきます。私たちが、10年、20年、30年、40年と生きていく中で、同じところに立ち止まったことは一度もありません。赤ん坊としてこの世に誕生し、そこからずーっと人生を刻んできましたね。そのことを、どこかで忘れています。私たちは二度と同じところに存在することはできません。それは、命だからです。私たち人間だけではなく、地球もその旅をしていますし、宇宙全体もその旅をしています。私たちは、その命の物語を地球と共に、太陽と共に、銀河と共に刻んでいるのです。

さて、今の地球上の人々に、そういった意識が日々の中であるでしょうか。ないでしょう。ないから、意識が人間意識であり、自我に囚われ、感情や欲望のままに生きているのです。

すべての出来事は、そこに関わる人の意識がどのレベルにあるのかによってふさわしく出会うようになっています。これは宇宙の仕組みです。今の人間社会がなぜこのような状態なのかというと、日ごろの意識がそこにあるからです。そして、その意識にふさわしい現象が起きているのです。そう言うと罰を与えられているかのように聞こえるかもしれませんが、この仕組みの真実を知ると、「なんてありがたいのだろう」という想いが湧き上がってきます。それは、人生は自らの意識のままに、思いのままになるということです。すべての出来事は、そのことを教えてくれているのです。

3年前、僕の魂のふるさとであるヒマラヤから樫が来ました。富士山が、天から宇宙の法が降りてくる天教山なら、その教えが天教山を通って地球へと入り、マグマを経て再び地上へと吹き出す地教山がヒマラヤです。そのヒマラヤへの旅の前に、日本の地教山、即ち世界の高天原へ挨拶をするために、富士浅間木の花祭りの舞の奉納に行きました。その地が熊野です。前日は、930hPaの台風が直撃するという予報の中熊野へ向かい、一度も暴風雨に出会うことはありませんでした。そして早朝に熊野三山奥の院である玉置山の玉置神社へ辿り着いた時には、辺りはとても清浄な空気になっていました。無事に舞を奉納し、帰りに辺りを散策していた時に、神代杉に出会いました。そして「この種を持って帰れ」と言うのです。それを持って帰って播いて育ったのが、祭場の中央に植えられているこの木です。

これを植えた時に、木の花の神主であるひろっちに「200年後にあなたがここで祭典をする時には立派な熊野杉になっていますから、それを楽しみにしてください」と言いました(笑)。今は幼木ですが、その命は確実に、地球の高天原である熊野の神代杉から受け継がれ、ここに定着したのです。

熊野と言えば、国之常立神の地球の住まいです。その艮(東北)の方角には富士山があります。地球のへそと言われるインドから艮の方角を見ると、日本があります。日本という地には富士山という山があります。天の教えが富士山を通って地球の中へと入り、マグマを経てヒマラヤから地上へと吹き出し、それがガンガー(ガンジス河)を通って南へ流れ、インドの南端であるポンディシェリに辿り着いて、インド洋から世界へとその教えが広がりました。それは6500年の歴史です。そして今、その文明がこういった形で地球上に広がっています。2012年12月21日に銀河の冬至を迎え、その文明のリセットの時が来たのです。

私たちはその文明の次を生きる時に来ています。「私たち」とは、すべての人間のことです。幸いなことに、チバニアンの発見によって地球の磁場が逆転するということが立証されました。これまで何の根拠もなく磁場の逆転を語ってきましたが、それが立証される時代が来たのです。磁場が逆転するということは、ものの価値観が逆転するということです。

これまでは、命をないがしろにする時代でした。命を壊していくことによって、物理的な豊かさを求める時代でした。これからは、命の尊さに沿い、命をつなぎ、調和を表現していく時代です。私たちの命のもとは太陽です。それを現象化し、顕わすのは地球です。次のサイクルは、自らの自我によって命を壊し、欲望を満たして豊かになろうとするのではなく、命の法、即ち宇宙の法に則り、連携し、調和して、愛豊かに生きる時代が始まりました。これまでは、こんな簡単なことが、自らを自我で愛することによって、表現できない時代だったのです。 

まだまだ世界の人々は、欲望と競争と怒りと争いの中で豊かさを求めています。エネルギーとエネルギーをぶつけ合ってそれを消耗させて、豊かになるわけがないのです。地球生態系は、つながることによって豊かになっていきます。それは無限なのです。命は形を変えながら次へ次へとバトンをつなぎ、そこに破壊はありません。そして命のネットワークを築いて、より世界を豊かにしていくのです。それはまさしく、太陽と地球、惑星たちの関係そのものです。それによって私たち人間も生きているのです。

皆さんは、縁があって木の花ファミリーへやって来ました。特別な決意を持ってここに集っているのですが、毎日の生業に没頭してはいませんか。それでは、本当の豊かさは現象化しません。縁があって集い、生涯を通じて決意したことを毎日自らのベースとして意識しながら、日々与えられる出来事をいただいて生活していく。そうすると、天体が織りなす無限で持続可能なエネルギー、即ちフリーエネルギーが、生活の中に顕れてきます。人類はまだ、その豊かさを知りません。人々がすべてを分かち合い、自然と一体で、命はひとつであることを表現した時に、地球上に、今は想像もできないような豊かさが顕れてきます。それを私たちはこの地に顕わし、もうすぐそこまで来ている新たな時代の先駆けとして、その見本とならねばなりません。

2014年に、ここ宮ノ下広場で、太陽マヤ族の最高司祭である尊母ナーキン氏と共にマヤ新年10OCを祝いました。今日はメキシコのトニナ遺跡でマヤの祭典が行われています。今は午前6時40分です。2017年7月26日の早朝にあたり、地球を祈りのウェーブで包む儀式の始まりがここです。こんなふうに地球を常に意識して、私たちは地球人としての意識を持って宇宙を生きていく。そういった意識を持った人々の地球規模の祭典の始まりです。

もう一度、始めの話に戻ります。

日ごろどのような意識を持って生きるかによって、私たちは未来に出会う出来事の縁を紡いでいます。ですから、出会ったことに不満を持ってはいけません。それは忠実に、あなた自身が持っている意識を現象化してくれているのですから。それに不満を言うようでは、自らの姿を見ずして他者に文句を言っていることになります。出会ったことを潔く受け取り、自らの姿勢を正したならば、一人ひとりの人生はより豊かで、優れたものになるでしょう。我々はそれを自覚して生き、見本となるべき者として生きてきたのです。

僕は、多くの人にとって意味のわからないことをたくさん語ってきました。富士山という山を艮の方角にいただいて、地教山の樫の木と、地球の高天原の神代杉がこの地に根をおろしました。僕の語ることに、根拠はありません。地球上で磁場が逆転するということを語ってきたのも、そこに暮らす人間や生命の価値観が変わっていくよ、ということを語っていたのです。そこに根拠はありませんが、湧いてきたこと、降りてきたことは、真実です。

損得勘定を持って邪な思考で考えたことは、その人だけの思い上がりです。しかし本来私たちは、宇宙の法のもとに顕わされた生命なのです。自らの心が美しければ、宇宙の智恵が自然と降りてきます。自らの心が美しければ、生命の始まりから未来まで、無限なる智恵が自らの中から湧き出します。ですから、自らを磨かなければなりません。どうやって磨くのかというと、今自分が何を思って生きているのかということを、常に観ていくこと。そしてそれは誇れる意識かどうかということを、常に意識して生きること。そして毎日の役割を果たしていくのです。

そうすると、宇宙があなたの生き様に顕れます。地球生態系という、無限なる命の連鎖があなたの生き様に顕れます。それは愛ある、優れた、豊かな生活を私たちにもたらしてくれるでしょう。

長く話していたら、ミストのような雨がやみましたね。このミストは本当に、私たちの命をつくってくれている元の波動です。今日を機会に、思いが本当に現象化するのだということを、しっかりと認識してください。それは恐ろしい事でもあるのです。ろくでもない思いを持って生きれば、それが現象化するのですから。だからこそ、自らをしっかり監視すること。監視するべきは自らの心です。

2017年7月26日早朝。マヤの新年ではありません。地球意識の夜明けのセレモニーとして、ここにいる人々と共に、3000年に向けて新たな時代を生きる人々へのメッセージを確認しました。

宇宙は無限なる世界を、私たちに命として示してくれています。それを汚すことなく、忠実に表現していきたいものです。

 

2017年7月26日 ー 熊野の神代杉とともに