「真釈天技場」という文字が下りてきて~前編

「選挙が終わった。」今朝、開口一番いさどんから出た言葉です。そのあとに、「選挙のことで一つ思い出したことがある」といさどんは続けます。

僕が、30歳のときに、お釈迦様からこの道をいただいて、こういった宇宙の真理、人があるべき生き方を世の中に広める場所をつくろうと思っていた。自分の生まれた土地で、うちの先祖の土地があいていたから、父親にその土地を自分にくれないかと頼んだ。当時、僕は親にとっては大変孝行息子で、物心ついたときからずっと親孝行を考えていたから、親は僕が何をするかわからないけれど、僕がやりたいことに対していいよ、と言ってくれた。毎週日曜日になると、田舎のその土地に行っては、北側の山を削っては南側に足して、石垣を積んで、それを丸い土地にしようとしていた。その目的は、本当に人々があるべき生き方を伝えるための道場をつくるということ。丸い土地ができたら、そのまん中に八角形の建物をつくって、そこでみんなで一緒に宿泊することもできる、合宿所だよね。

そして、その道場にどんな名前をつけたらいいのか、と思っていたら、真釈天技場という文字が下りてきた。真実の生き方を解釈して、その技を表す場所。ただ、その道場はきっかけの場に過ぎず、つまり、「真釈天技場というのはどこの場所を指すのですか」と尋ねると、「それは地球のことである」と。肉体を与えられた人間が、自分たちが地上に降ろされた本当の意味を知り、地上を理想郷にしていく。そして、そういったことから外れてしまって道を歩めないものに対して、真実を伝えて、どう生きたらいいかを伝える場。それが、真釈天技場だと。

僕には、他にもその田舎の場所に対してビジョンがあって、その地域はいずれ、住んでいる人たちが高齢化でいなくなってしまう。そのときに、その土地を全部使って、治外法権のような村づくりをしよう。杉やヒノキだけで埋まっている山を、もっと緑豊かな自然の山に変え、もともと田んぼや畑だった棚田をもう一度開墾して、人々が本当に自然とともに生きていく場。僕らが子供の頃のように、田んぼも小さいけれど棚田になっていて、その一番上から眺めると、春にはれんげがいっぱい咲いて。その段々畑をみんなで、上から駆け下りてくる。それをすごく楽しみにしていた。時々野壺があるから、落ちないように気をつけないといけない。そういったのどかな風景。そして、山がおい茂ってしまって川には光が入らず、自然の山ではないから虫もいなくなってしまい、やまめもいなくなってしまった川の生態系が戻って、山の動物たちも里に下りてこなくてもいいようにして。そういったところで、動物と人間、自然と人間がにこにこ笑って生きている。そういった里づくりをする。そして、その里を自分は眺めて微笑んで、満足しているというイメージがある。そんな場所で生きていく人々の心、それを学ぶ場所が真釈天技場なんだと。

その理想を僕の中でイメージしていたら、自然と人が調和して生きている。そして、そこには今のようなハイテクはないけれど、人々が笑って生きている。それを眺めている僕のところへ、お客さんがやってきた。この国を司る役割を持っている人たちが何人か訪れて、僕に問いかける。

「私たちは、一生懸命この国を豊かな国、本当に人々が幸せになれるように、この国を治めようとやってきましたけれど、これはと思うことをいくらやっても、それがどうにも上手くいかない。本当に国を正しく豊かに治めるにはどうしたらいいのでしょうか、良い案が出ず考えあぐねています。どうしたら、正しくこの国を導くことができるのでしょう」と問いかけてくる。それに対して、僕はこう答える。

「それはね、制度やしくみをつくることではないんですよ。ここにある自然を見てください。そして、そこに生きている人々を見てください。このような心や考え方、それで人々が暮らせるような国づくりをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。」

そして、僕が40歳になってから、いよいよそれを実現しようということで、両親の住んでいる田舎に行って、農業を勉強し、両親の面倒をみながら、人々にもそういった心を伝えていこうと、自分の生まれた土地に移り住んだ。でもこれは、半年くらいで断念して終わるという結果となった。それは、僕が思っていた親孝行と、両親が考えていた親孝行にちがいがあって、両親は息子が商売でもっとお金を得て、豊かな生活をすること、そういう一般的な価値観をもって、それを自分たちの喜びとしている。僕は、世の中がよくなって、みんなが助け合って暮らせる、そういった幸せな社会づくり、そしてみんなが競争しない、平等な世の中をつくりたい。そのために、その場所として、自分が生まれた土地、先祖の土地を活かしていこうと考えていた。だけど、両親が自分の理想を理解できなくて、悩むことになってしまった。

結果、それまで住んでいた愛知県の小牧へ戻って、そこで考えたのは、富士山麓へ行こう、兼ねてより自分の憧れの地であり、神様から啓示をいただいた地である富士山麓へ行こうと、考えたのでした。ツꀀそういったことをいつか伝えるために、僕は富士山麓に理想郷をつくろうと。そして、その里の名前は「菩薩の里」でした。人々が、自分の願いを叶えていくのではなく、世のため他人のために生きて、世の中がよくなっていくこと。人々が幸せになって生きていくこと。それを見て喜びとする人々。それを菩薩と言う。菩薩は、自らの喜びを喜びとせず、世の中や人の喜びを喜びとするものだ。菩薩の里の建設が自分の目的なんだと。

自分の田舎にそれを夢見て、その土地を開墾して、八角形の建物を建てて、そこで真釈天技場の精神を世の中に広めて、理想郷をつくる。もともと、僕の両親、僕の先祖のそのもとにつくるというビジョンではあったが、すべての親はすべての子の親。すべての先祖はすべての子孫の先祖としたならば、たまたま肉体の縁をもらった自分の両親だからといって、特定の人を大切にするということではなくて、すべての人を大切にするという心につながるためのきっかけをいただいたにすぎない。自分の生まれた家の先祖や、自分をこの世に出してくれた親に執着するためにそれらが与えられたのではない、ということがわかって、もっと広い世界に向けてこの心を伝えようと。真釈天技場というのは地球のことである。だから、特定の場所ではなくて、もともと聖地であるこの星を理想郷にするということが目的であることをのちに教えられて、富士山麓に来ることになった。 ~後編につづく


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