不退転の決意を自らの魂に問う

新年明けましておめでとうございます!

今年最初のいさどんブログは、元メンバーが一部インターネット上で木の花ファミリーを批判し、それに端を発してメンバー数名が木の花を離れたことを受けて、昨年末にいさどんが語ったものです。

元旦の朝、初日の出に向かう木の花ファミリーメンバーたち
元旦の朝、初日の出に向かう木の花ファミリーメンバーたち

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
これまで、木の花は信頼をベースに維持されてきた。それが崩れるとすごく厄介だよ。
今回なぜ崩れたかを振り返ると、ここではまず『絶対に崩れない』というお互いの信頼がもとにあり、崩れそうになったときには、そこからまた再構築していくという約束があった。それが不退転ということでもあった。しかし、そうではないところへ行ってしまった、ということが現実でもある。
その現実を受けとめなければいけない面も確かにあるが、それは信頼をベースの場所ではルール違反だよ。しかし、そういうことが起こるのがこの地球上だということでもある。違う視点でみれば、“絶対”がない場所ということでもある。

ひとみ:
地球が?

いさどん:
そう。そうやってこの世界の法則がつくられている。だから、こうだと思い込んだことに保証はないぞ、ということになる。だからこそ、それを越えた揺るぎない場所を創ろうとしている。
そんなことを考える人はほとんどいないし、それを目指した人達はほとんど断念してきた。むしろ、今我々がやろうとしていることを成し遂げた人たちはいないのではないかと思うんだよ。例えばヒマラヤの奥地で精神性だけで営まれてきた村や中国のタオの世界などにはあるけれども、それは限られた環境の中でそういった精神性が保たれてきたのであって、それもラダックなどと同じように、今の文明の魅力やエネルギーが流れ込んで崩壊しつつある。だから幻の場所になってしまっている。色々なものを汚染してきた文明の側からその世界を発生させる作業は初めての試みであり、挑戦だと思う。

ひとみ:
そういうことはインディアンのような先住民族に伝わる予言にも出てくることだよね。白人たちの文明が流れてきて多くの仲間が道を失っていった。

いさどん:
我々の生き方を、20世紀型の価値観に慣らされている人々は、その大切さがわからない。

ひとみ:
その価値観にすっかり浸かってしまっているから。

いさどん:
そう。多くの人の中に、そこに理想世界があるのではないかと築こうとした動きはあったのだけれど、それが無理だという結論になってきたと思うんだよ。神さまから『難しいことを与えておるゆえ、心して行け』と言われるわけだよ。本当にその言葉通りだと実感している。でもその難しいということは避けて通れということではない。難しいのを覚悟してその自覚があればいける、との励ましでもある。誰もこのようなことに気が付かない斬新な視点だよ。

この視点は今の人類が抱えている問題点を解決する要素を秘めている。その視点で歩んだときに、今の人類の価値観がガラリと変わる。それには、今の人間たちが持っている幸福感などを自らの意思で捨てなければいけない。何が大切かをよく考えて、そこではどちらに価値があるかを汚染されていない心で見極めなければいけない。自らの内にある真我の叫びに問うて真の歩みに繋げなければいけない。

今、このように文明が発達して豊かな社会なのに、人々はそのことによって不安を取り去り幸せを享受することにはなっていない。相変わらず豊かさは経済を押し進めて政府は物理的に豊かになろうと提案し、そこに国民の支持が集まって極端に強い政府が出来上がっている。それはインフレを呼び、格差を拡大させ、競争社会の中で更に矛盾を発生させて病気や犯罪などの問題を生む原因にもなっている。
そういったものを自らつくりながら、今度はそういった矛盾を解決するための産業として、医療や警察で手を打たなければいけなくなり、お金がたくさんいる社会ができるわけだ。そしてこれは世界中で起きている。それは人類の問題でもある。

国はますますエゴになり、自らの国のことしか考えない。そして今、とてもきな臭い国家間の関係が現実に育ってきた。そのために、最も不必要な軍事力の整備にお金をかけるようになっている。これは統合的にものを考え、何が一番大切なのかの冷静な判断の視点を失っている状態である。人々やこの国のリーダーたちが、そのことを切り取って対処療法的に捉える視点の中で思考しているからこそ、このような状態になっている。
これはイタチごっこのように繰り返されているが、そろそろ宇宙の中の天の川銀河・太陽系の第三惑星地球は奇跡の星であることに気付くべき時が来ている。ところが、地球にいる人間の中でも優れていて能力の高い人の意識が、そこから外れている。これはまさしく生命の中でいう蘇生の仕組みから外れた癌細胞のようなものだよ。
生命の中にも癌細胞はいて、それにはそれの相応しい役割があるのだけれど、人類の癌細胞的な営みが何を意味しているのかを今考えて、人類自体の歩む方向を変える必要がある。自らが癌細胞であった時に、自らの存在に対して誇りを持って喜べるのか、誇りを持って進めるかということなんだよ。

木の花ファミリーが今まで歩んできた中で、確かに切り取ってみれば、トップダウン的なことも言ってきたし、厳しいことも言ってきた。そういうことだけを切り取って見て、理解しない人がたくさんいた。しかしその厳しく見える背景には、美しい心や美しい地球に相応しい者になるにはどうしたらよいかということを伝えていた。
そのことがわからないエゴを主張する人達がこのコミュニティの中にいたものだから、自らの意思でコミュニティに入った限りは不退転の決意で自らを磨いていくというルールの元にあるのだと言うことを伝える必要があったんだよ。

ひとみ:
このコミュニティはそういった目的を掲げていて、その目的を理解して本来は入ってきたはずということだね。

いさどん:
入ってきたこともそうであるし、それを継続していく約束の元にあった。そして、そこから外れようとする者に対して問うたわけだ。そのことが、ここに参加する意識を忘れて自分の主張をする者に対して厳しい結果になった。それが今回のある意味での禊(みそぎ)になったのだけれど、本当はどこに問題があったのか、ということなんだよ。それをもう一度我々は確認して、ここに参加する者たちの厳選をするべきであると同時に、改めてこのことの意味を問わなければいけない。

外から見る人は、物事を切り取っては本当の意味やその奥にある善意を受け取れないでいる。そして形だけに反応している。そうすることで大事なことを見失ってしまっている。今こうして木の花の矛盾が出たことについても、ただ部分的に切り取ってバッシングするのではなく、本当はどうだったのかを振り返るチャンスだと思うんだよ。
我々は大事な歩みをしてきた者として、ここは外すことはできない。そうであるならば、世の中は安易に判断するのではなく、深くそのことを見直して世の中そのものが変わっていかないといけない。このことが統合的に冷静にものを捉えるチャンスでもあるし、今の社会通念や法律がなんであっても、ここは絶対譲ってはいけないことだと思う。おかしいものはおかしいのだよ。人類自体に問題があるとしたならば、その人類がつくっている慣習を変えなければいけないのに、未熟な慣習をつくってそれをかざし、「これは間違いである」とか「これは正しい」などと言うこと自体がおかしいんだよ。
そういった広い視点にこの世の中や人々がなれるかどうかの狭間に来ているのだと思う。だから、我々はそこを曲げてはいけない。昔、天理教の中山みきさんが『世法を恐れて神の道は行けぬ』と言われたけれど、決してこんなものは神の道と言わなくても、宇宙の法則に基づいた生命の価値を表現することだよ。

今こそ人類は宇宙の奇跡である地球の生態系の法に合わせた思考を持ち、己を捨てて絶対調和の中にあることの自覚と共に、その調和の表現の推進力にならなければいけない。そこはどんなことがあっても外せない。
そこの視点に立てない者はこのことがわからないんだよ。だから、それを理解する側に立っている者の責任として、これを進む。観えている者の責任としてそこを進んで、いつか人々がそれを必要としたときに伝えられるように、常に日の出となって行くことを決意する。そういった覚悟が大切である。その大事に気づかない者たちに、もう一度自らの魂に問いかけてみることを勧めたい。

ひとみ:
大事な話だね。
 
 


2 thoughts on “不退転の決意を自らの魂に問う”

  1. 素晴しいコミュニテイーの生活に応援のエールを送ります。
    FBで何時も感心を持って投稿を見させて頂いています。
    今年もよろしく!

  2. 林智安寿さま
    こんにちは。FB等ご覧いただいているのですね。
    これからも、日々の変化を発信していきますのでどうぞお楽しみに!
    今年もよろしくお願いします。^^

ともこ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です