多次元宇宙を生きる 〜人類の挑戦〜

3月21日春分の日、木の花ファミリーは創立から満20周年を迎えました。
その記念となるメッセージを、皆さまにお届けします。

3月21日 太陽が真東から昇る春分の日の朝日
3月21日 太陽が真東から昇る春分の日の朝日

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いさどん:
想いが巡っていることを録画して、みんなが観ることができるといいね。言語にしたことしか人には伝わらないのは、とても不自由なことだ。
自分がどのような想いを持っていて、その心の色がどんな色か。それを伝えようと思っても、人はそれぞれその歩みに相応しい器と色を持って受け取ることになるから。想っているように相手に伝わらない胸の内を、パッと開けて見せたいものだ。伝わらないことに苛立ちを感じるわけではないが、気持ちは曇る。それは、与えるということではない。客観的に捉えれば、一人一人の歩みが尊重されるということでもある。

我々、肉体を持った人間は、他者とコミュニケーションをとる時に、肉体というバリアがあって、言語や音などの形を通じてしかコミュニケーションがとれないようにできている。面倒くさい仕組みだ。そういった余計なものを取り去ってしまえば、そのままの心が直接お互いを見て、すぐに相手の真実が見える。それは、人間が肉体から去った時の姿と同じ。そうであるとしたら、我々がこの肉体の中に入って、このような制約の中で生きるのは、この肉体の制約を超えた視点を持ちなさいという気づきのメッセージとも言える。
我々は今という瞬間を生きるようにできているが、今は過去の積み重ねで今に至っている。そして今の積み重ねが未来を創っていく。つまり、今の自分を観れば過去の自分が観えてくる。

そのような頭の中の想いを録画できたら、想いを直接見せあうことでコミュニケーションが取れる。そうしたら、人と人はどんなに解りあえることだろう。
想いを言語化して音で受け取り解釈する肉の体を介在する制約の為に、真実を伝え合うことがない。しかし、我々が肉の体から離れると、それが当たり前の世界になる。それを、肉の体を持っている状態のままでできないものかと思う。それが木の花の大いなる実験だ。

我々は肉体という衣をまとっているが故に、五感の刺激に捉われてしまって、過去から未来への無限なる宇宙の情報を自らの内から取り出せないで生きている。しかし、「我」のバリアを取り去ると、それを自由自在に取り出すことができるようになる。すると、他者のことが自らの内なる思考のようにわかるようになる。そこでは一切隠し事のない世界が生まれる。
我々はそういった世界を目指している。今の多くの人間は「個」を尊重し、その個を尊重した上でより良い世界を考えている。それは、個が尊重されなかった時代からすると、進んだ世界のように思われている。しかし、人間の歩みには次の段階がある。そこでは、個の個性がそのまま生かされつつ、積極的、発展的に調和し、生かされていくことによって、個がさらに巨大化してこの世界の実体のままに存在する世界になる。それは個が個の主張を取り払うことにより、個の限界を超えた個の姿になる。それが次の個の活かし方だ。

今の時代、その世界へ、木の花ファミリーはどこまで挑戦できるか。常に今を良しとする姿勢でいると、前も後も他者も間違いになる。宇宙は無限に連鎖し、変化変容を繰り返しながら輪廻している。それを理解するためには、自分という個を超えなければならない。その世界では、他者は自分であり、自分は他者である。表現を変えれば、自分は世界であり、世界は自分であるということだ。

個が尊重されない時代から個が尊重される時代へ行きつくと、個が尊重されることは良いことのように思える。しかし、個が尊重されることを良しとして、特定の価値観の中に縛られ執着することによって、善悪が発生する。今の人々はその状態になっている。
そもそも、特定の価値感に囚われるから次の世界が観えなくなる。特定の価値観に囚われることで、善悪に囚われる。肉体から発生した自我のバリアによって、人々は二次元的善悪のマインドコントロールにかかっている。三次元の世界にいながら、二次元的思考で生きている。それを解きたいと思う。そこで、「あなたを捨てなさい」と伝えると、今を良しとして変化を拒む二次元思考の人々は自らを否定されたと思うのだ。

常に今を生きることは大切だ。今を生きるとは、特定しないフリーな状態で今を生きるということ。そこで囚われの心がある者は、今を「所有」し続ける。しかし、今を所有し続けても、今は次から次へと訪れ、次から次へと過去へ行ってしまう。だから、この世界では所有はできない。
それでも、人々は所有しようとする。それは、この世界が常に変化、変態、変容しながら循環していることに、抵抗している状態。しかし、肉体をもらい、地球上に生命として生きることは、それを体感する為にある。そのことを今の人間達に伝えたい。
それがわかると、何も恐れることはなくなる。今出会うことは、そこから学び、変化成長するためにある。捉われがなくなると、そういった解釈の元に、有難く豊かに生きられる。

すべてのものはいずれ死を迎える。そして見える世界から見えない世界へと旅立って行く。それは、見える世界が終わり、見えない世界に生まれたということ。そして、それが我々の存在する「ある世界」の実相だ。いずれ全てが終わるとしたら、それは「ある世界」が「ない世界」に生まれるということ。そして「ない世界」から「ある世界」に生まれてくるということだ。

そのすべては、物語だ。宇宙物語の始まりから永遠に、その物語は縁によって紡がれ、ここまで来た。その無限なる情報は、この世界の法則として我々の中にすべて内包されている。その永遠に続く法則を理解するためには、自我の器から出て法則の循環の中に思考を置いてやる。そうすると、観えてくる。
そのような永遠に長く巨大なものを、我々のように微細で、思考の限界、物理的肉体の限界、そういった様々な制約のあるものが、どのように理解するかだ。

我々の実体は、想念という無限なるものだ。だから、肉体や思考の制約を自らの囚われとして、そこから解き放ってやれば、たちどころに無限の存在になることが出来る。そしてその無限の状態からこの世界を観てみると、この世界の仕組みが解る。それは永遠なるものの永遠が循環している世界。永遠に・・・
今の目の前にある事象に出会うことは、永遠に続いていく今に出会い、そして循環していく姿。永遠の目で観れば、それが簡単に解る。囚われることは何もない、多様で自由な世界だ。

しかし、それはそれだけの尺度のある思考を持って観ないと理解できない。まだこれからたくさんの時代を刻んで進化していくのに、今に囚われていては、その歩みが囚われの歩みになってしまう。人々が今に囚われれば囚われるほど、この世界とのギャップが生まれ、問題ごとの多い世界ができる。その世界ではいつも善悪が飛び交っていることになる。
21世紀は、その囚われのない、善悪のない、常に自由に変化する世界、そこに入る段階に来ている。しかし、それがなかなか人間世界に顕れて来ない。それを伝えようと思っても、この胸の内にある心を直接見る仕組みがないために、形に囚われている二次元思考の人々には伝わらない。三次元、四次元思考の人々は、その形を超えた世界を観ることができる。

二次元世界とは、平面の善悪思考のこと。それに対して三次元思考というのは、そこに天の視点が加わる。つまり、見えないものの思考が加わる。そうすると、形の見えるものがどんな背景によって現されているかがわかる。そこでは、善悪二元論では語らないことになる。
さらに、宇宙は四次元だから、三次元を見える世界とするならば、宇宙は「ない世界」から生まれて「ない世界」に還っていく。その「ない」ところの視点ができると、四次元思考になる。それは、解説のない世界。その世界に出会ったものが、ただ「ああそうなんだ」と納得するだけの世界。
21世紀を生きる人々は、その段階へ到達する。それを伝えようと思ってはいるが、肉体を持っている者が伝えようとすると、心の目で受け取る人にしかそれは伝わらない。つまり、肉体の制約があって心が直接伝わらないのだ。真実を伝えるのに言葉はいらない。その人なりに感じ取れば、本当は伝わる。それを言語を使えば使うほど伝わらなくなる。言語はとても便利がいいもの。しかし、便利が故に、真実が伝わらない不自由なものでもある。

わかるかな?この妙な苛立ちの気持ちを。そこの世界では細かい話はどうでも良くなってくる。直接その心と出会って、それが美しければそれで良しになる。形に囚われない世界。そしてその心が汚れていたら「汚れているよ」と伝えるだけでいい。

ひとみ:
それが四次元の世界。

いさどん:
いや、これは三次元の世界。

ひとみ:
三次元?大まかでわかるということ?

いさどん:
変な質問してくれたね?大まかではないの。何も吟味しなくても瞬間にわかるということ。それを阿吽というんだよ。

ひとみ:
阿吽だね。

いさどん:
それは三次元だからね。それはあるものを理解しようとする世界。

ひとみ:
四次元になるとどうなるの?

いさどん:
三次元が、あってあるものの世界。それに対して、その「ある世界」を存在させているのが「ない世界」だよ。「ある世界」は、常に変化し続ける世界。その世界を特定して固定することはできない。それは変化し続けているから特定されない。しかしあり続けるもの。
それはその奥にある「ない」世界から「ある」ものが生まれているということ。この世界の実体は、我々が認識するからあるんだよ。認識なんてものは瞬間にしか過ぎず、特定するからあるのであって、本当はないものなんだよ。特定することはできない世界。だから、世界は「ない世界」でもあるんだよ。この世界の実体、「神」は、あってあるもの、なきてなきものと言える。

ひとみ:
その「ない」という世界が四次元なの?

いさどん:
四次元とは言わない。高次元というんだよ。

ひとみ:
層になっている?もっと上まで。

いさどん:
そう(層)。チーン(笑)。

ひとみ:
三次元世界(現象界)に対して、潜象界はなんなの?

いさどん:
ない世界だよ。

ひとみ:
だからそれが層になっているの?

いさどん:
そうだよ。それが神々の存在する世界。それは今ここにもあるんだ。

ひとみ:
なるほど。

いさどん:
それが21世紀に人間が想念で理解する世界。その世界では制約が何もない。

ひとみ:
今の脳では解析ができない。

いさどん:
今まで使っていた脳で解析するものではないんだよ。今まで使ってきた脳で解析していては、二次元的思考でしか理解できない。つまり、解析しない脳、感じる脳で解析する必要があるんだよ。それは解析することではない。ただ感じるだけ。脳で感じる。そして、心で感じる。

ひとみ:
でも理解じゃないんだね。

いさどん:
理解というのは自分の中で解析した状態。だから、解ろうとするのではない。事実がそこにあるだけ。情報に出会って、それを受け取るだけの世界。そうすると人間は二次元思考の世界から解放される。

ひとみ:
まだやってない。

いさどん:
それはどうかな。あなたは、既にしているよ。

ひとみ:
気がついていないだけ?

いさどん:
あなたは今、多次元の宇宙を生きているんだよ。この世界を生きるということは、無限の事象に出会って、無限の選択をしていくことになっている。人間は、一日に3,000回の選択をしているそうだよ。認識していないでしょ?つまり、理解しないところで我々は生きているということ。その中のどれだけの分を認識しているか。
人体の細胞から始まって、無限の選択の中で今を生きているということ。理解を超えたところで生きているわけでしょ?この世界は、昔からそうなんだよ。それは生かされているということでもある。しかし、多くの人は自分を特定したと理解して生きている。その時点でマインドコントロールされている。目が狂っているんだよ。

ひとみ:
すごい!面白い!今までこんな話に出会ったことがない。でも、こういう話が聞きたくて生まれてきたんだな。

いさどん:
あなたは「いさどんが生きている間に、いさどんからどれだけ学ぶか」と言っていたでしょう。まだまだ情報は沢山(無限)にある。

ひとみ:
私はこういう話を聞きたかった。まだ、自分が解らないところを・・・ああ、嬉しいなぁ!(涙)

いさどん:
その心は、その喜びは、誰もが持っているんだよ。すべての人々にそこに到達するだけの種があるんだから。

ひとみ:
今まで余分なものがあるから、いさどんからこれを引き出せなかった。もっといっぱい詰まっているのに。

いさどん:
この世界の実体だね。
我々は人類のために生きている。人類の目覚めのための大いなる実験をしている。

ひとみ:
ひとつに溶け合うことが大事だよ。

いさどん:
あなたと私に差はない。

ひとみ:
そしたらこういう世界が展開されていくんだね。

いさどん:
そしたらさ、「ゆるいつながりがいい」なんて言わなくても、思いっきり一つになれる。

ひとみ:
すごい自由な楽しい世界だよね。

いさどん:
こうやってハグするでしょ。ハグすると体の限界を感じるんだよ。
男と女でも引き合って、一つになろうとするでしょう。でも、ほんの一部分しか一つになれない。それは肉体の限界。気持ちが相手を愛していると心は一つになろうとする。しかし、体の制約があってそれがならない。
そこを突破することはできる。もっと大きな枠組みでこの世界を抱えている宇宙は一つだから。その次元(高次元)に意識が到達すれば、誰でもこの世界(宇宙)と一体になれる。

ひとみ:
それが、理解ではなくて感じることだね。
 
 


One thought on “多次元宇宙を生きる 〜人類の挑戦〜”

  1. 新しい個性の生かし方。
    まだ腑に落ちていません。

    >>個の個性がそのまま生かされつつ、積極的、発展的に調和し、生かされていくことによって、個がさらに巨大化してこの世界の実体のままに存在する。
    個が個の主張を取り払うことにより、個の限界を超えた個の姿になる>>

    むむ。

    霊界から地上に落ちてきた魂の1雫が肉体に宿る。
    汚れ濁りのある一雫。

    魂の、霊的エネルギーの一片。
    一雫の源流が霊界にあって、類魂という小さな池に仲間達がいる。
    地上に落ちた一雫を霊団は応援している。一雫の自分は霊団の皆んなであり、皆んなの代表が地上に落ちた一雫である自分。

    地上で切磋琢磨し、喜怒哀楽を経験して、少し濁りが薄まる、清くなる。
    清くなった一雫が、元居た池に帰ったとき、池の水が少し浄化された。

    そんな感じでしょうか?

    霊界の応援団=広義でイコール自分。
    応援団の声を聞きながら、個性の故郷の代表として地上で個性の花を咲かせる。
    私利私欲でなく、類魂の代表として地上で振る舞うことで
    一雫の小さな利己でなく、(小さな池か大河かの違いはあっても) 自分属する自分の故郷とする高次元の霊の道具として振る舞う

    ということでしょうか。

    宇宙界の粒々エネルギーを地上で受けて
    今生で大活躍してね、ということでしょうか。

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