ようこ:
今年から木の花ファミリーのホームページ上に「富士の麓のユートピア・菩薩の里」と銘打つようになったでしょ?「菩薩とは他者の喜びを自らの喜びとする存在」だといさどんはよく説明するけれど、ここで改めて、初めて菩薩という言葉を聞く人にとってもわかりやすく説明してもらえたらいいと思う。
いさどん:
菩薩は仏教的用語で、広辞苑で調べると、「成仏を求める(如来になろうとする)修行者。後に菩薩は、修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、庶民の信仰の対象となっていった」と書いてある。ただ、概念的に菩薩を捉えると、小乗仏教で言われる菩薩は、人間がある境地まで悟った状態のことであるとしている。そのためには、まず、自らの欲や我、執着から離れること。
木の花流に言うと、この世界はいのちの世界であり、いのちとは循環して巡り巡って変化するもの ―― その仕組みは、自他の区別なく巡っている状態。そうすると、そこにある己とは全体を循環させる役割のためにあるのであり、自己意識とはその構造を認識するための意識であって、本来そこに自他の区別がなくなった状態であることが望まれる(菩薩意識)。
だから、「菩薩とは、この世界の仕組みが健全であることや、そこに存在する人々が健全であり健康であることを喜びとする」ということになる。そして、その精神を世の為・人の為に生きることは菩薩道を歩んでいることになる。それを大乗仏教的菩薩道と言うんだよ。
だから、菩薩の状態は喜びを持っていることになる。喜びを持つということは、欲があり、感情が動く状態だということ。つまり、人間としての感情が残っている状態なんだよ(詳細は、いさどんブログ「全ては善への旅」「神の食べ物は喜びである」をご覧ください)。
ようこ:
いさどんが地獄界・人間界・菩薩界・仏界の心のランキングの話をするでしょ?一番上の段階である仏界ではなく、その下の菩薩界、すなわち「仏の里」ではなく、「菩薩の里」を私たちが表現することに意味があるのだと私は感じている。
いさどん:
菩薩とは地上に理想郷(地上天国)をもたらす境地のものたちで、それが完成されて天に昇ると、仏の役割に入っていくわけだ。地獄でも、人間界に近い地獄もあれば、無間地獄といって救いようのない世界もある。
ようこ:
そうだね、底なし沼のような世界もある。今日、いさどんに菩薩について改めて聞いてみたいと思ったのは、一番上のレベルの仏界ではなく、その下の菩薩界の境地がこの暮らしのポイントだと思っていたからなの。
いさどん:
菩薩界で生きることは天に通じている状態だが、人間界で生きることは天に通じていない。だから、菩薩界で生きることが神人和合の境地であり、世の為人の為に生きている状態なんだよ。
ようこ:
では、地上で生きている人間で、仏界の境地、つまり仏の心で生きている人はいないのかな?
いさどん:
仏の心で生きている人は・・・ほとんどいないね。
ようこ:
いさどんは仏?それとも仏と菩薩の間に位置する?
いさどん:
何だろうね・・・時々自分の精神状態を振り返るのだけれど、人間をやっているものだから変化・変容するんだよね。そうすると、この世界を憂いて悲しく思うときもあれば、この世界を喜んでいるときもある。
悲しいときを分析すると、その心は愚かしいものを観て救いたいとか、人々が健全に目覚めることを願う心から発している。喜びの心を分析すると、そういった愚かなものが健全になった(真実に目覚める)ことを喜ぶ心から発している。だから、世の中や他者の健全を常に願っていることは確かなんだよ。そこには揺るぎがない。
ただ、怒りも出てくることがある。それも分析していくと、汚れたものが美しくなってほしいと願う心であり、それも他者を想う心から出ていることが確認できる。
では、自分の為にという感情がどれほど働いているかというと、感情を色で言ったら七色で出てくる。その感情の色によって表現が違ってくる。それはどれも人を想う心であり、人が健全であることを望んでいる心であることは自分で確認できている。だから、どこかで、「この心でいいのだ」と思っている。
ただ、心が曇るときもあるのは、それが通じないことがあると、心が揺れることにもなるが、世の中や人の健全を常に願っているという意味では、菩薩界の段階にいるのだろうと思う。
肉体を持ってこの世界でいろいろな刺激をもらう状態で仏の境地にあることは、ほとんどありえない。それは生きていないような状態だから。仏の境地はすべて超越して、この絶対なる宇宙の法のままになっている状態だから、肉体を持って極めることは菩薩の状態の高いか低いか、ということなのだろうね。
現象界に仏が存在するとしたら、それこそ木や銅で創られるような単なる偶像崇拝の対象物になってしまう。そこに魂が入っているとして、何かしらの利益があったとしても、そのような対象になってしまうことだろう。
ようこ:
それでは新たな社会のモデルを創る存在ではないね。
いさどん:
そう。だから、人間がブッダの境地、つまり菩薩の境地に至ってこそ、人々に見本が示せるのだから、あの「菩薩の里」という表現はまさしくぴったりの表現だよね。
それで、菩薩にもランクがある。法華経で言うと上行菩薩とか、上行菩薩があるということはそこに至らない菩薩段階もあって、菩薩でもまだ初期の段階にいるものもいることになる。
ようこ:
菩薩にも色々なランクがあるということで、ここのメンバーもそれぞれオリジナルな菩薩を表現していければいいね。
いさどん:
そうだね。今の時代によく観られる人間の姿は、ある意味知識的に豊富になってすべてをわかったつもりになっている。それがお釈迦様の弟子の中で最も優秀であった「舎利弗」の状態であり、これは菩薩界に到達していないものが知識が豊富になって、自分が優れていると思い込んでいる状態だよ。
ようこ:
それが「もどき」だね。
いさどん:
そう。今の時代には、そのような人々が多い。彼らを冷静に分析していくと、自らの願いや考えに囚われ、自らを肯定しようとしている。それから、自らの考えを正しいとして、自らを肯定したいがための理屈を展開している。だから、大切なことは、その内容が万人に通じるものなのか、それとも個人だけのものなのかを客観的に分析してみる必要がある。
時代は確実に進んでいて、昔はいきなり刃物や武器を持って戦う時代があった。しかし、今の時代の人々は逆に、良い世の中にしようとして自らの囚われの中で生きているものもいる。
ようこ:
そうだね、原発反対の人たちとかね。
いさどん:
そう。それは社会を良くしようという心であることは確かなんだよ。ただ、自意識が強いばかりに、結局対立を生むことになってしまっている。だから、世界観を広めて、自らと他者・この世界との区別がなくなってくると、そこは解消されるだろうと、特に最近は世界観について語っているんだよ。そこが認識できれば、自らに対する囚われが少なくなる。
それを理解できればできるほど菩薩に近くなるし、世の中が良くなっていく道なのだけど、中には自らの都合が良くなることを目的にしているものもいる。「優れた人間になりたい」とか「悟りたい」とか。そこにはまた落とし穴があり、「自分が」ではなく、「世の中が良くなるために生きる」「他者のために生きた結果、自らの価値が高まる」ところに行かないと、結局利益のための道になってしまったり、自らの救済のための宗教になってしまう。しかし、そこでは結果として、自らが救済される境地にならないといけない。
それで、自らの願望を叶えるために生きている人は、ここでは生きられない。ここで生きる者は、自らを超えて社会や他者のために貢献することに共鳴している者たちだから。それが不十分であってもね。
それを道理として理解できている者もいれば、理解できないけれど大事だと思って共にいる者もいて色々だけど、他者のために役割を果たしていこうという自覚のある者が残っていることはたしかだよ。その自覚があるからこそ、ここにいるということ。しかし、自らに執着する心が優先する者は、「自分は正しい」と理屈をこねる。
ようこ:
そうだね、菩薩は理屈をこねない。
いさどん:
そう。菩薩は何を語るかというと、情報として観える景色を淡々と伝えるだけ。理屈をこねるということは、自らを正しいとしたいがために言葉を使うということ。
ようこ:
菩薩は結果も所有しないしね。
いさどん:
そうだよ。だから、いつも自らを正しい側に置いておきたい心を超えると、正しい・正しくないではなく、ただ道に沿って歩む安定した心の状態になる。不安定な心が出てきたら、それを安定させるために鍛えられているぐらいに思っているといいよね。不安定は安定するための指針をもらっているということだから。そうやって、人は元にある心が揺らがない状態になっていく。
ようこ:
菩薩は心が揺らがない?
いさどん:
揺らがないわけではないんだよ。喜びがあったり、憂う心もあるのだが、その奥は、他者やこの世界を想う境地になっているということ。
ようこ:
そこは揺らがないということだよね。
いさどん:
そう。だから、菩薩の状態だと揺らがない心になっているとも言える。
ようこ:
感情が出てきたとしても、元の心は揺らがない。
いさどん:
人間は揺らぎっぱなしだよ。自分のために生きているのが人間界の者たちだから。
ようこ:
自らの損得や思惑があるから、そこは大きな違いがある。
いさどん:
だから、己を捨てないと、人間界から菩薩界には行けない。
ようこ:
それが一番のポイントだね。
いさどん:
そこは明快なことで、多くの人は己のために生きているんだよ。それで、人間には知識的な能力の差があるものだから、賢ければ賢いほど、それを理屈で使って自らのために生きている状態が人間界の姿だ。そちらへ行くと、優秀でもやっかいだよ。ただ、人間的優秀さが菩薩につながっていけば良い世の中になるのだが、結局人間の欲や執着のほうに使われるようになると、良いことを主張しているようで、どんどん地獄が形成されていくことにもなる。だから、人間界で成功することは喜ばしいばかりではない。
ようこ:
ちゃんと後でそのツケが返ってくる仕組みになっているから。
いさどん:
それは確実に返ってくる。だから、意識が菩薩界に到達することが大切だよ。
ようこ:
そのためにも、ここが「菩薩の里」となって世の中に表現していくことが重要だね。
いさどん:
菩薩の世界は今の地上世界にはなかなかないからね。個がそこまで至ったものは過去にはいるけれど、その結果、みんな宗教などになってしまって、生活の中にそれが落とされていることは、僕が認識している限り、なかったのではないかと思う。
人間は生命であるから、生命を生み育むということは、そこに性が関わってくる。そうすると、生活の中に菩薩の心が反映されて、そこに菩薩の性が表現されるということ。性の世界はとても重要で、菩薩の性がそこに表現されると、天上人が降りてくるようになる。つまり、神の魂が降りてきて、菩薩として地上を生きるようになる。
しかし、未熟な人間がそこにいると、天上人ではなく、未熟な人間の魂が降りてくるようになる。だから、地上はなかなか良くならない。神聖なる性が愚かしいものに汚染されてしまうと、地上がなかなか優れた世界にならない。そうやって人間の意識によって、次の時代が決まってくるんだよ。
先祖から子孫への代々の継承がある中で、そこに優れたものを継承していくのか、それとも愚かな因縁を継承していくのか。その結果、コミュニティができ、社会ができてくるわけだから、そこでも大切な世の中づくりをしていることになる。
ようこ:
大分、「菩薩とは何か?」が観えてきたね。
いさどん:
常に他者や世の中を意識して、そこでは己が後に控えている状態でないといけない。だから、この生き方は己が勝っているものにとっては苦痛にもなる。
ようこ:
自分にとって苦痛だから、違う存在をバッシングしたりするんだよね。
いさどん:
そう。ただ、そこでバッシングされる側にも理由があるのだが、そのときにその理由にはいろいろあって、世の中が未熟であればあるほど、その世界では聖なるものに対して違和感を感じるんだよ。そして、その愚かしさがゆえにバッシングするのは、たとえばキリストでもそうだし、お釈迦様でもそういったことがあったのだろう。日蓮さんでもそうだけど、みんな聖なるものであるがゆえに、そして天の法で生きるがゆえに、地上ではそれが法難(バッシング)になってしまうわけだ。しかし、それは禊(みそぎ)であったり、心を創るための追い風でもある。
ようこ:
そうやって鍛えられている。
いさどん:
それは未熟から尊いものに育っていく過程の中で、負荷をもらって鍛えていく必要があるんだよ。たとえば筋肉がたくさんついて、仕事ができるようになるためには、筋肉痛が起きるわけだ。そういった段階での追い風的苦痛がある。そこはそれを客観的に理解して、自らの追い風にしていけばいい。それが理解できていれば、全て超えられる。
ようこ:
そうやって分析できていれば、問題事も学びとして生かされる。
いさどん:
そうなんだよ。出来事を学ぶと、こちらの愚かがなくなって、そこですべて益に変わる。そうすると、対象の愚かだけが残るから、もう向こうの問題だけになる。それは「愚かをやってくれてありがとう」という世界だよ。
ようこ:
だから、何も恐れず、進んでいけばいいだけ。
いさどん:
そこで「恐れずに」とひとくくりにしてしまうと、それは中身を知らないでただ信ずることにもなる。その心は大事だけれど、やはり中身がわかって信じていくという双方がないといけない。法と信じる心の両方があり、信じる心があるから法がわかるのであるし、法がわかるからこそ信じる心が育っていくのだから、その両方が常に開かれているということだ。
ようこ:
そうだね、道理と信仰心が両刃の剣ということだね。
いさどん:
そうなんだよ。
ようこ:
木の花の流れを簡単に振り返ると、創立メンバーは信じる心だけで木の花の土台を創ってきたけれど、そこに理屈をこねる人たちがメンバーに加わってきた。だけど、ここが新たなステージに移行する段階ではそういった人たちがそぎ落とされ、今は道理と信仰心の両方のバランスが求められている。
いさどん:
だから、常に冷静で客観的にものを観る眼があって、それを分析した上で道理の通った真実のところへ行かないといけない。
ようこ:
だから、ひとりひとりがよく考えるということだね。
いさどん:
そう、考えないといけない。自分の道なのだから。
ようこ:
何も考えずにただ信じる、ということもあるけどね。
いさどん:
いきなり何も考えずに信じることをやり切れてしまえば、それはそれでいいのだが、そこへ行くために道理が必要な場合があるんだよ。だから、最終到達地点は、真理がここにあるのだから、それになりきることが目的なんだよ。しかし、そこへいざなってくれるために道理が必要になる。
何も考えずに信じられる人がいたら、それはそれでいい。ただ、そういったものは地上に降りてくる必要がないんだよ。地上は因果応報の道理の上に事が成っているわけだから、やはりその道理の上に信じる心をつくっていく。しかし、信じる心が先に強い人は道理を超えて理解していく。いずれにしろ、最終的にはその両方をマスターしている状態になるということだ。
「種がある人が集まってくる」と言うでしょ?それは信じる心がすでに備わっているということ。
ようこ:
それが共鳴するのだものね。
いさどん:
そして、後から道理が観えてくる。その精神の人々の生活では、余分なエネルギーがかからないし面倒くさくない。
ようこ:
私も、信じて後から道理がついてくるタイプだな。
いさどん:
そうだね。だから、わからないことでもさっとやれる。やはり信じる心の種があることが大切だよ。それがないと、時間がかかる。道理の心が優先してしまうと、結局時間ばかりかかって、かけた時間が無駄になってしまうこともある。
ようこ:
そうだね、「阿吽」は信じる心だし。
いさどん:
「阿吽」は、完全にそれがマスターできている人たちの世界だよ。だから、心が通じている状態で、自らと他者の区別がなく、瞬間にお互いの心が読める状態だよ。これは相当高い境地だね。
ようこ:
菩薩の生活の中でも高い段階だね。
いさどん:
そう、菩薩が仕上がった人たちの世界だよ。「阿吽」の世界では知識的に豊富だとか、そういったことは関係ない。
ようこ:
ひとえに心が美しいとか、清らかだということ。
いさどん:
だから、これからは「美しい」とか「通じる」とか、もちろん「流れ」もそうだけど、そういうことが大切な世界だよ。そうすると、人々の関係に裏表がなくなり、美しい世界になる。
ようこ:
スムーズに事が進むし、気持ちが良い。
いさどん:
とても気持ちが良く、心地良い世界が展開される。
ようこ:
そういった安心感の中で、今まで心の病があった人たちも健全になっていく場ができる。
いさどん:
そう。そういった場を創れば創るほど、病んでいる人たちを癒す力が出来ていくわけだ。場で癒せるんだよ。
ようこ:
これまでも木の花はそういった場ではあったけれど、これからさらにそれがパワーアップしていく。
いさどん:
今までは世間とは違う場を提供するとともに、心が病んでいった背景を分析していって相手の悟りを促すということで、自然療法をやってきた。しかし、これからは場が優れているから癒されていく湯治場的要素が強くなる。それはそこにいる者たちがその世界を創って、目的を達成するだけではなく、社会を癒していく場になるということでもある。
ようこ:
そうすると、役割としていさどんがその人に伝えることはあるだろうけど、そういった機会が少なくてもいい場になりそうだね。全体でそういった場が完成されたら。
いさどん:
そうなんだよ。ここ全体がケアを引き受けている自覚がますます重要になってくる。今までもそうだったが、その精度が高まるということだ。
ようこ:
言葉で伝えるよりも、空気で癒していく。
いさどん:
それは、「人間たちが創る世界としてここまで可能ですよ」と社会に示すことが最終目的だから、ケアを提供しているというよりも、理想世界の可能性を提示しているということである。もし、ここがユートピアであり、「菩薩の里」と呼ばれるものであるならば、そこまでの可能性が表現できるということ。だから、ひとりひとり自覚して、その場創りをしないといけない。
これは「人々が創る精神の交響曲」だから、芸術の境地に到達することが大切だよ。美術館を訪れて素晴らしい作品に触れると心が癒されるように、そういった場を創っていく。「菩薩の里」と銘打った限りは、そこを目指して実現していくということだよ。
ようこ:
日々、みんながそれを心にとめて生きていく。
いさどん:
それは簡単なことだよ。「己を忘れて、他者のために生きる。社会や人々の健全を一番の喜びとする。」そこに尽きる。木の花(桜・梅・桃)を形成する個がまず花開き、それが全体でひとつの大輪となって花開き、美しい状態を表現する。それが人のいのちの美しさ(桜)や、健康・健全である美しさ(梅)であり、理想郷の美しさ(桃)を表している。
だから、「木の花」という名前にはとても重要な意味がある。それこそが「菩薩の里」なんだよ。