危機を感じられない人間たちへ ~直感を働かせるには?~

いさどん:
今の社会の人々は、起きた出来事に追われている。起きた出来事を処理しようとして、それに追われ続けているんだよ。

たとえば、今ニュースになっている集団的自衛権。圧倒的多数の与党は、このチャンスに集団的自衛権を行使できるようにしようとしているのだけれど、自民党と公明党では立場が違う。自民党は、軍事力を維持し他国との軍事バランスをとることが、国を守って平和を維持することになると考えている。公明党は、支持母体が創価学会だから、戦争を容認するような立場に立つことには宗教上、反対の立場を取っている。それでは信者からの支持が得られないからね。そこには、立場のせめぎ合いがあるんだよ。
集団的自衛権が必要だという言う人たちは、外に脅威の勢力があると考えている。北朝鮮とか、中国とか、ウクライナのことがあって中国と近付いているロシアとかね。それで対抗勢力のアメリカにごまをする。そうやって起きていることへの対処ばかりして、もぐら叩きのようなことをやっている。

しかし、なぜ人間は争わなければいけないのか。どうすれば争う必要がなくなるのか。それにはどういう視点を持つことが必要なのか、ということを考える方が先決だと思うんだよ。

国家を個人に例えると、アメリカでも中国でも、どこの国もすごく性格が悪いでしょ。自らの国益ばかりを考えている。そうやって考えていくと、明快に問題点が見えてくるのに、それに対処ができない、だから僕は、手応えがないことを感じて、むなしくなる。

そのような人間たちが創っている今の地球は、明らかに気候もおかしくなってきているのに、人々はあまり危機を感じていない。しかし、じわじわとその危機は迫ってきている。それは「いつ来るのかな」というものではなく、すでに来ているのに、こういう状態なんだよ。

ともこ:
やっぱり、鈍いんだね。

いさどん:
鈍い・・・それは鈍いとも言えるけど、何だろうね、やはり、ものが観えていない。何かに汚染されているような、観るべきものが観えていない状態。目が、意識が、何かに囚われている状態だよ。
よくあるでしょう。お酒が欲しくて仕方のない人は、頭の中にお酒しかなくて、生活そのものがお酒になっている。お酒に関することしか考えないし、お酒に関するものしか見えない。他のものが目に入っても、そこに意識が行かないんだよ。
お金にしろ欲望にしろ、それと同じことが言える。自分に近いものに執着して、意識がフリーになっていないんだよ。意識がフリーになったら、全体を冷静に観ることができて、おかしな部分に気付くようになる。

これだけ危機的な状況についての情報がたくさんあるのに、人々は危機感を持っていない。それは、直感が働いていないんだよね。
直感というのは、思考を超えたもの。危機を感じると、直感が働くようになるでしょう。場合によっては火事場の馬鹿力が出ることもある。しかし、それが働かないのは、何かに汚染されて麻痺している状態だから、危機が感じられないでいる。それは何か麻薬のような価値観に、汚染されているんだよ。

そこで、どうするか。
これほど麻痺してしまっている状態を危機と感じない人たちがいるのは、どうしてそうなってしまったのか。

木の花の暮らしの中では、協同することが実現していて、調和が実現しているでしょう。個人の欲求や血縁など、いろいろなものを超越することもできている。
それは今の社会が抱えている危機を乗り越える、もしくは危機を生み出さないための要素で、それがここに実現しているんだよ。だからそれを大切にしなければいけないのに、社会はボケている状態でその価値がわからないから、場合によっては社会と違うということでバッシングして来るんだよ。
すごくボケているでしょう。週刊誌は「こういう生き方があるんだよ」とそれを大切にしなければいけない。ましてやエコな暮らしを大切にしようという業界の人たちは、自分たちがやれないことをここがやっているのだから、これを見本として世の中に広めていかなければいけないのに、逆のことをやっているんだよ。
これってすごく鈍いと思わない?何か人間の中に、人工的なことをやり過ぎてしまって、麻痺してしまっているものがあるんだよ。だから、情報網は高度に発達したのに、そのたくさんの情報の中から何が大切かを読み取れない状態になっている。

ともこ:
なぜだろうね?

いさどん:
それは一言で言うと、欲に汚染されてしまっているということだよ。違う言い方をすれば、自らの中の価値に執着してその欲に汚染され、冷静かつ客観的な目線が麻痺しているということだろう。
自由というのは、自らの思考の位置を、自分に取り込まれずに客観的な視点から見て、どこにも取り込まれない状態ですべてを情報として観ることなんだよ。
自由という概念は、生きる上で得るものでしょう。生きているから表現できる。例えば、死ぬことは絶対で、そこに自由はないよね。生まれることも、気が付いたら生まれているのだから、そこにも自由はない。でも、その生まれてから死ぬまでの間に自由があるんだよ。

その自由を、どう解釈して、どのように使い切るか。自由は、不自由と不自由の間にあるものでしょう。生まれることと死ぬことの間にある自由を、どのように自由として表現するか。
自由でない状態、つまり不自由というのは、囚われている状態でしょう。では、何に囚われているのかというと、視点に囚われている。価値観に囚われている。一番囚われるのは、自分という存在(立場)だよ。
生きている時に何が不自由かといったら、この世界はこれほど多様なのに、自分という肉体に封印されているわけでしょう。そうしたらまず、思考をする時に自分という肉体から出た視点を持つことはできるんだよ。
その、自分の枠から外れたところに視点を持って、自分と他者を平等に観るってことさ。平等に観ることは、一つひとつの出来事を情報として観て、それぞれの立ち位置から来る価値も情報として捉えるということ。そうやって眺めてみると、自分という殻の中から見て囚われていた時の目線から離れることができるでしょう。そうすれば、全ての出来事、価値観を平等に現象(物理性)として捉えることが出来る。次への選択をする時に、自由がある。実は、自由にできるのはそこだけなんだよ。つまり、自らに囚われない自由な視点を持つことが、本当の自由なんだよ。

それ以外は、政府の話も、企業の話も、個人の話も、全てそれぞれの自らの立場を守ろうとして、それで不自由をやっている。それでは冷静な判断ができないし、立場ごとの違いを見て対立するから、対立が起きる。その危機は何のために起きるかと言うと、つながっていくことの大切さを示すために起きているのだよ。
例えば、環境だったら人間の行いと自然のあり方とか、戦争だったら国家と国家の立場ごとの価値観の違いが自由に観られていないから、国益の主張の元にそれが起きている。

今回のバッシングにしても、まず「エコビレッジの概念はこうだ」というものがある。木の花は、自由に世界を展開してきて、ある意味、執着や囚われという不自由から解放して自由な人間をつくるために、それを手助けしながらやってきた。あれがしたい、これがしたい、というのは囚われで、自由ではないのだから、それをやめなさい、ということを伝えてきた。そうしたら、「木の花は自由にさせてくれない」と反対のことを言うんだよ。
自らの立場から見える価値に執着して、自由をはき違えている。そしてその自由を奪われることを恐怖に思って、怒ったり攻撃したりする。

ともこ:
その心が全然自由じゃないね。

いさどん:
この間週刊誌の記者と話していて、この人たちの仕事は不幸だなあと思ったんだよ。社会の攻撃の対象を見つけて、それを掘り起こして、賢いから法律上攻撃されないように巧妙に、人の興味をそそり、汚らしく仕立てて表現しようとするんだよね。より良い社会を築くとか、人の心が調和していくようにということを目指してやっていないんだよ。本当は、出来事の奥にある本質を読み解いて、それをより良い社会に生かしていけば、その人の精神から雲が取れ、晴れてくる。
それをずっと職業としてやっていくと、人間が汚れて自己矛盾が発生する。だけど彼らは、仕事だから仕方がない、という顔をしているんだよね。だから、これは本当じゃない、という思いは、どこか彼らの中にもあるんだよ。だけどそれをやり続けている。
そして、彼らに情報を提供している人たちは、それが正義だと思って情報を提供しているんだよね。しかし、それは表面的な出来事の捉え方で、本質を観る目は麻痺している状態だよ。

そういったことを考えた時に、こんなに情報があって、賢明な選択がいくらでもできるのに、むなしくなるのは、人々の中に賢明な選択をする自由が育っていないんだよ。

ともこ:
私ね、もともとすごく不安定で何かあるとすぐ泣いていたのに、何で今こんなに穏やかで確信を持って生きていられるんだろうかって考えたら、いさどんを通して、その自由自在さに触れたからだと思うの。

いさどん:
あなたも、自分に囚われていたからね。それも、自分の考え方に囚われていたんじゃなくて、トラウマのように、考える前に染みついてしまっている色に汚染されていたから、自分はそういうつもりじゃなくても、何かを思考しようとする前に涙が出てくる。それが染みついている状態だったね。

ともこ:
その染みついていたものを、何の色もない無色透明の世界に触れることで、いったんバラバラにしてもらったんだと思うんだよ。
本物の愛は、無色透明の世界なんだよね。何かを「やさしい」というのは「やさしくない」何かがそこにあるから。やさしいとかやさしくないとかいう判断も人間による色付けで、全てがニュートラルな愛そのものの世界ではそんな判断すらいらなくなる。そういう透明な世界に触れたことで、自分自身の色が浮き出て、知らない間にバラバラにしてもらった。

いさどん:
あなたは、自由な心に触れたんだよ。自由な存在というものが持つ爽やかさを感じた。その風に触れた、ということだよ。

ともこ:
ここを離れて行った人たちは、バラしていく途中で出て行ったんだね。

いさどん:
バラす作業をしている時は、本人もバラされて納得していた。だけどしばらくすると、また自分流に組み立ててしまう。バラしても、その奥に、元へ戻ろうとする力が働いていたんだと思うんだよ。結局その力が勝ってしまった。

ともこ:
それって、ここを出て行った人たちだけじゃないよね。外から来るゲストでも、ここに触れている間はバラされることに心地良さを感じていても、離れればまた元に戻ってしまう。

いさどん:
ヤマギシの人も、ここに来てバラされるのだけど、元に戻るとまたヤマギシ流に組み立て直される。
だから、1度完全に切れなきゃいけないね。ゴムみたいに伸ばして、つかんだつもりになっても、力を緩めるとゴムはぴゅっと戻って離れてしまう。そうじゃなくて、その価値観を一度切ってしまわないといけない。それを「壊す」と言うんだよ。それができていなかった。
そのときに、自分を壊す勇気が、あるかどうかだけどね。

ようこ:
地球を壊す前に、まずは自分を壊す勇気があるかどうかだね。

いさどん:
自我の根っこのところに、ゴムのヒモがくっついているんだよ。
では、どこにそのヒモをくっつけたらいいのかと言ったら、自我ではなく、視点をこの世界全体や天など、できるだけ広い方に持っていけばいい。自我という自らの価値観に縛られている世界観から、家族、会社、国家、人類、地球生態系、太陽系、銀河、宇宙全体へ。世界の中にも現象界と潜象界があり、一番奥に神々がいる。それがこの世界の実態だよ。だから、自我をつなぎとめる鎖というか、ヒモの先をどこへつなげるのか。
自我が発生するところに持っていったら、自我だけで生きてしまう。自我を、家族のために、国家のためにというようにだんだん広げていくと、その自我は、そのもとになるところから来る風によって、どんどん広がっていく。この構造、わかる?

ようこ:
わかる。それが天につながったら、もう直感人間だよね。

いさどん:
そうだよ。だから、それが狭ければ狭いほど、立場や欲に捉われてしまうんだよ。そして、それが広く大きくなればなるほど、それは自我が大きくなったというだけのことだからね。恐れることはないんだよ。
自由と言ったって、肉体を持って生きていることは、結局宇宙の中の存在でいるしか仕方がないんだよ。それも不自由なことだけどね。

だから最終的には、肉体はこの地球生態系の中に、微細にして還元する。これが死だよね。そして魂は、超微細になって、アマハヤミ(思念の速度、光の速度の10の64乗倍)の力に乗って、宇宙全体に完全にちりばめられる。それが、もとの状態に戻るということ。
そして、それがまた縁によって集まって、満つって、それが限界まで来ると、成って、この世界、つまり現象界に戻ってくる。

今の地球世界には、もうすでに危機が迫っているのに、それが感じられない世の中や、自らの愚かしさや矛盾に気付けない者たちへのメッセージは、その前の段階の話だよね。

ようこ:
私は今日の話を聞くまで、直感人間になるには、直感が内から湧いて来たり外から降りてくるように、日々の心磨きが大切だと思っていて、それはそうだと思うんだよね。でも、今のいさどんの話を聞いていたら、自分を天というところまで一体化すれば、天の思考がそのまま自分の思考になって、それ自体が直感だと思ったの。それはある意味、一瞬にしてできることだ!と思った。

いさどん:
そうだよ。悟りは隣にあるのだから。だから、直感人間になることは、実は一瞬にしてできるんだよ。
 
  


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