究極の世界が そこにある

いさどん:
株価が上がったと言って喜んでいる人たちがいる。それが経済の大きさだと言って、ゲームに翻弄されている。
何か、バツンとやってやりたい気持ちにならない?

何かが狂っている。
世の中は、どこかが狂っている。だけど、それに「そうだね」と呼応する人は少ない。
先日、ある柔道選手のアスリート魂をテレビ番組で放映していた。実力不足で負けて落ち込んでいる彼女の記事に、462件の「いいね!」と30件以上のコメントが付いていた。それはとてもわかりやすい世界。一生懸命やっている人が、実力不足で負けて落ち込んでいるというわかりやすい物語に対して、それだけの反応がある。
だけど、人類にはもっと大事なことがあるよなあ、と僕は思う。そんなことで一喜一憂している場合じゃないと。

人間たちは今、水素自動車の時代を迎えようとしている。水素は宇宙の中で最も多い元素と言われていて、いろいろなものから取り出せる。100年以上前にSF作家のジュール・ヴェルヌが言っていた世界が実現されようとしている。
ただ、その水素を取り出すのにもエネルギーがいる。そこで化石燃料を使う。それではだめだからと風力発電を使うのだけど、その風力発電を作るためのエネルギーにまた化石燃料を使う。

僕が子どものころ、美濃には豊かな自然があった。日本中にあった。だけど、50年前の自然は、もう返らない。何かが狂ってきているのに、みんな気付いていないんだよ。

この世界に、悪意がある。

それは、例えば利益を上げるとか、人よりも豊かになろうとか、そういった悪意がある。今よりも良くなろうとする心が、人間のエゴの上にある。
それが人間に染みついている限り、どんなにテクノロジーが進化しても矛盾は発生し続ける。それを取ってしまえばいいのだけれど、今の段階の人間は、そのままであり続けることが人間らしいのだと思っている。
そこを越えていけば、人間はどんなに進化してもお互いを傷つけることはないし、人間の存在が他の生態系や地球環境にとって有害なものにはなることはない。

――― 何で悪意が湧いてくるの?

それもプロセスなんだろうかね。

――― 人は神様からできているでしょう。悪意はどこから湧いてくるの?

同じところから湧いてくる。だから人間は、人間を超えて人を観ないといけない。

――― いさどんは、悪意ってあった?

それは、当たり前に自分の希望はあったよ。あったけれど、お釈迦様に出会ってから、それを調整するようになった。明らかに自分の中から湧いてくる感情に対して、それにストッパーをかける心が生まれて、今まで生きてきた。

――― お釈迦様と出会って最初の2年間は、泣きながら歩んでいた。

その時が一番ピークだった。その後は、衝動が出てくると、それをそうでない方へと向けるようになった。

僕はこれまで生きてきた中で、人に対しても、自分に対しても、「他者のために生きる」ということを基準にしてきた。だから、他者のために生きない者に対しては当然それを伝えるし、それができずにいる者には厳しい。逆に、そういったことの申し子のような人にはやさしいけれど、申し子のような人というのはなかなかいなかったね・・・。

他者のためだと思い込んで、自分のエゴを満たそうとしている人もいる。世の中のためにといって産業を起こして、自分の利益を追求している。それはものごとを緻密に観ておらず、客観性がない状態。では客観的な視点を持つにはどうしたらいいのかというと、自分自身を磨くということだよ。
だけど、こういった話も、その波動が響いている現場ではその気になるけれど、一たび自分の家へ戻るとまた元に返ってしまう。人間のエゴの響きが、地球に蔓延しているから。

今、僕の心の中にあることを言葉に表現するのは難しすぎる。
だけど、何かが足りない。

今、ここに3人いる。ここに壁がある。どういう壁かと言うと、個人という壁がある。
その個人という壁を全て取っ払った世界がいい、と思うのだけど、それは僕が、欲が深すぎるのだろうね。

生きるということは、性別だとか、人格だとか、個性だとか、そういうものの違いがあるものなのに、極端なことを言うと、あなたたちの個性を全部無視して、全て自分のもののように扱える世界。逆に言うと、そのことに対して矛盾や負荷がまったくかからない世界。そういう世界がある。究極のわがままだけどね。

昔から、僕はわがままというか、ぜいたくを言う。とびっきりの世界を求めようとする。その壁を壊そうとする。それをもって、他者と自分の境界を超えることをずっと伝え続けてきた。

――― いさどんの心には、壁がない?

壁を越えようとする時に、そこを越えたら、いつでも取っ払う心の準備はある。しかし、そういう望みを持っていたとしても、相手に壁がある限り、その相手の壁が自分の壁になる。それが相手との境界線になる。その相手の壁がなくなれば、その境界線がなくなれば、こちらには、ない。その時に、お互いの壁がなくなったということになる。

――― 壁があると苦しいね。

だけど、壁があることによってみんな自分を守っているんだよ。通じていない者同士は、壁によって守られていると考えている。
だから、守る必要のない自分をつくらなければいけない。守る必要がなくなることが大事なんだ。

壁の質は、人によって違う。たとえば、まりこと僕の壁。ようこと僕の壁。それは、一人ひとり違う。本当は、それを取っ払った世界を創りたい。

僕に壁があるかないかは、厳密には言えない。なぜかと言うと、そういう世界をまだ味わっていないから。けれども、常にそれを望んできたからこそ、今こういう生き方をしている。人に接することも、全てがその証としてある。
だけどみんなは、条件付きの壁を持っているんだよ。

――― 私、自分で条件があるなと思う。そうなることを、100%望んでいない。

人間には、悪意と恐れがある。そういうものが全てなくなると秩序が乱れてしまうから、自分を守らなければいけないと思うようになる。別の価値観に出会った時に、自分を守る心が働く。だから壁が取れない。

だけどね、自然界を見てごらん。大根があるとするでしょう。大根が大根であるということは、大根である限り絶対に自分であるわけだよ。それが他のものと交配してしまうと、自分ではなくなるわけだ。
ところが、自然界の中では、交配は可能なところとしか起こらない。そしてまた、変化していくことが許されるものとしか、交配しない。交配をするということは、そこに進化の種があるということ。必要な進化がその先にあるから、交配する。その道筋から外れたものとは交配しないし、そういった衝動も起きないようになっている。

だから、自分を守ろうとする恐怖や恐れを手放せば、実は、究極の秩序がそこにあるんだよ。ところが、その究極の秩序が現れる前に、自我が自ら壁を創る。だから、観えるものが観えない。次の世界がそこにあるのに、観えない。

そこまで行きたい心が僕にはある。僕はこれまで、他の人ができないことをやってきた。だからそれでいいのだろうと思いながら、どこかにいつも壁を感じていて、そこを越えられない、そこを越えたい、という貪欲さがある。
その貪欲さというのは、エゴ的な貪欲さではなく、壁を突破するための貪欲さ。その世界がどうなるのか、という好奇心。それを常に持っている。

だから、ことが進んでいって壁が取れてきて、例えば勉強会でもやって「ああ伝わったな」と思っても、そう思うと同時にその伝わった位置が観えて、まだまだ先があるのが観える。そうすると、まだこんなところか、という心が湧いてくる。前の状態からその状態になってきた喜びが消えて、次の「まだだな」という心が湧いて、壁が観えてくる。

それは、僕個人の衝動とは違うもの。水素エネルギーの時代が来る。これは無尽蔵で無公害と言われているけれど、そういうものがいくらできようと、人間の中にあるエゴ的な心を超越しない限り、結局それはまた矛盾を生むことになる。人間はそこでまた人との壁を見て、矛盾の発生源にする。人間の中にある壁を越えない限り、それは本当の理想にはならないんだよ。

壁がない状態というのは、人と接する時に、人に対して自分に接するようにするということ。そこに一切の区別がない状態。
それを可能にするのが、自分という存在の世界観を広げること。だから僕は、世界観や宇宙観の話をする。そして、いろんな角度から共通性を探求している。
だけどいくらそれをやったところで、人間の根本が自我が基本になっていたら、それはサビの上にペンキを塗るようなものだよ。いくら塗っても、サビが浮いてきてはがれていく。

自然界のものというのは、個性があって、絶対なるルールの中にあり、それを超えないようにできている。それを超えることは、神の意志の領域になり、新たな種が生まれたり、種の再編成が生まれる。しかし、そこでは個性を尊重するようにできているから、自我も守られているんだよ。そこには、意図が働いている。

逆に、人間は個が強くなりすぎて、それを超えていくということができない。自我を優先するがために、この世界を共有することができない。
それがまた矛盾の大きな発生源にもなり、人間が進化するきっかけになるわけだけど、大量の矛盾を発生させて、この世界に負荷をかける原因にもなっている。そのバランスをどうとっていくのか。

今、究極の選択を迫られる時が、来ている。
こんな話は、これまで哲学者や宗教家が頭の中で回しているだけで、世の中の人々の日常生活からは隔離された世界だった。
しかし今、人間のあり方そのものが問われる時代が来ている。そんなふうに切り離して置いていけない時代が来ている。

今、こうやってこの部屋で話をしていると、窓から隣りの建物が見える。その中にいる人たちは、そんなことは何も考えていない。窓の外に見える世間の99.999999999999%の、いくつ9がつくかわからないパーセントの人たちは、まだそのことを考えていない。
僕はそれを、限りなく少ないとみるのか、逆に、ほんの少しでも兆しが始まったぞと観るのかということだと思う。どんなことでも、始まりはほんの少しの兆しから始まったんだよ。いずれその兆しが、世界にいきわたる時が来ることを想って、この想いを巡らせている。

そしてその先を想像していくと、全てのものに壁がなくなることは、この世界がひとつに還るということ。つまり、始まりの、神様お一人の状態に還るということ。それは、この世界が終わるということ。それは究極の喜びであり、究極の破壊であるわけだよ。

これを哲学のように、発想の次元で終わらせてはいけない。みんなは、発想の次元でしか受け取れていない。
僕の中には、どこかに、強烈な欲深がいて、そのイメージを探求するあくなき自分がいる。だから、伝わっても伝わっても、もっともっとという気持ちになる。
僕は、そういう自分が好きだけどね。呼吸しながら、負荷がかかって、納得して、喜びになって、またそれが負荷を生んで、納得して、そして喜びに変わる、という呼吸するような状態が好きなんだよ。それが生きることだから。

――― この話をもっと深めたい。

あのね、これは、これ以上深められないんだよ。
僕の中では、今自分のイメージしている納得の限界のところまできている。そこで、他者、例えばあなたがこの話をもっと深めたいということは、あなたの受け取った次元の質問に対して答えるということを深めるのであって、究極の世界にいくには、結局、自我を超えなければいけない。そうすれば、全ては解決するんだよ。

この話は、壁を超えたい、壁をとりたいという衝動から始まっているでしょう。それを超えるためには、自我を超えること。自我を無しにすれば、こういった衝動は起きなくなる。つまり、自我があるから壁があるのであって、自我を無しにすればそれで終わるんだよ。

――― そうだね。私は今、ものすごく衝動がある。

それは自我があるという証拠だよ。その、ものすごく難しくて、不可能と思えることが、実は自我の壁を取れば終わることなんだよ。そして、そこには秩序があるのだから、何も心配することはない。今の自分の姿も秩序なんだよ。

例えば、人間と植物は壁を超えられないようにできている。人間と空気は壁を超えられないようにできている。人間と鉱物は壁を超えられないようにできている。
ところが、もう一つの捉え方からすると、それは全て同じものでしょう。地球という同じもの。だから超えられる。というよりも、すでに超えている世界で存在している。

だから、なぜこういったことが起こるのだろうかというと、自我がある状態があるからなんだよ。
どう言ったらいいのだろうね・・・目覚めれば、それに気付けば、答えは既に出ているし、完成されている。自我の頭で回しているだけでは、いつまで経っても、その答えは出ない。

はあ・・・・落とせないな。行こう。バイバイ。

 

(そう言って、いさどんは作業へと出発しました。)

 

 


2 thoughts on “究極の世界が そこにある”

  1. 手強い敵は自身の心中にあり。
    自己防衛の鉄壁は、第三者には手出しできないですね。
    自分の壁を取る段階に至るまでは、小乗仏教のような内観が必要に思います。

    でも瞑想では自己満足の堂々巡りで、時間と労力の無駄です。

    風穴をあける役割、強情な心でも耳を傾ける気持ちになれる、尊敬信頼できる存在が身近に居る方は幸いです。

    木の花は、我欲とは別の方向に視野が広がった第三者の目が沢山あって、有り難い場所のように思います。

    1. 人類は長い間、理想郷、ユートピア、桃源郷といった様々な言葉で、世界中の様々な地域で、最終到達地点に達した者たちが創る天地一体の地上の楽園を求めてきましたが、それは未だに実現されてはいません。しかしながら、現実に人間の活動が物理的に佳境を迎えた今、その矛盾に対向するものとして、やっとそのユートピアを実現する可能性が人類に見えるのではないかと思っておりますが、さてその結論はどうなるのか、行ってみなければわかりませんね。
      肉体を持って地上に降り立ち、このことの大切さを人々へ伝えていく時に、役割とは言え、未熟さを感じて虚しさを感じることもありますが、こうして世界に対する理解のある人が増えてくることが、私にとっては、この役割をやりこなそうとする推進力にもなります。ちょっと心が微笑ましくなりますね。(by ジイジ)

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