いさどんの七夜物語 – 第二夜 「みんなで」

第二夜は、大人ミーティングの冒頭にあきちゃんが、心が通じ合わない畑隊の現状をみんなにシェアしたことから始まりました。本当に心を一つにするためには、一人ひとりに明快な意志がないと現実にはならない、というあきちゃんの投げかけに対し、みんなで話し合っているところへ、いさどんがやって来て、語り始めました。

 

9月25日 「みんなで」

いさどん:
今、みんながここで何を話し合っていたのかを聞いていたわけではありませんが、まったく理解していないわけではありません。僕は昨日久しぶりにミーティングに出て、明日も来るからねと言ったから、今日も来ました。僕は嘘はつかないから。
ただ、昨日そう言った時には希望がありましたが、生きるということをするといろいろなことに出会います。今日もいろいろなことがありました。それをただぼんやりと生きているだけでは、昨日の話に出てきたピーーーッと一直線の状態です。何も変化がなく、刺激がなければ死んでいるのと同じです。
生きていく中で刺激をもらう。その刺激を受けてさらに上へ上がっていく。または、思わぬことに出会って落ち込む。落ち込んでも、その理由がわかればそれをひっくり返してバネにすることもできます。生きるとは変化・変容・変態を繰り返すことであり、それは希望を生み出す種のようなものです。生命は進化するものです。進化せずに環境に適応できないものは、淘汰されます。進めば進むほど、いろんな環境に適応したDNAが伝承されて、優れたものが残っていくようになっています。

人間は今の時点で、地球上の生命の最高傑作です。かつ、過去の30数億年の生命の歴史からしたら、不完全なものを修理しては残り、修理しては残ってきた結果の産物ですから、現在もその途上を歩むものです。今地球上にいる生命の中では人間は最高傑作ですが、同時に他の生命も同じように選りすぐられてきたものですから、最高のものですよね。みんな、変化・変容・変態を繰り返しながら進化してきたのです。
そうすると、進化するということは、図に表すとだんだん上がっていくということですよね。ところが、人間の中には昨日も今日も明日もピーーーッと一直線のままの人がいます。中には物事に執着して、何かの出来事に出会うとそこから落ちていく人もいます。霊的には、そういった魂というのは地獄というところへいきますが、地獄にもランキングがあり、地獄から地上に復活することもあれば、再生処理ということでマグマの中に処理されていくものもいます。

僕は、夏至から秋分までの約3ヶ月間ミーティングに出ませんでした。1年の4分の3を過ぎて、第4コーナーに差し掛かりました。今年の仕上げです。

今年はどういう年だったかというと、木の花も社会も激動の年でしたね。安倍さんは相変わらず経済最優先の政策をとっています。視点のベースがそこにあるので、良いことと言ったらそれしか考えられないのでしょう。もっといろんな視点から捉えたら、その経済効果をもたらすためにこれまで努力してきたことが人間の欲を膨らませ、それを叶えることが自由であり豊かさなのだと思ってやって来たことが地球温暖化を招き競争社会を生んできたことがわかるはずです。そして、コンピューターを操作するだけでお金儲けができるような人々が蔓延する、おかしな世の中を作り出したのです。お金を持っている人ほどお金が儲かるなんて、こんなおかしなことはないでしょう。
このシステムを作ったのがアメリカです。日本はそのアメリカのポチになって、何かあったら助けてもらおうと安保法が成立しました。これは自然界からいったら非常に矛盾した法律ですが、人間の考えの中でしかものが考えられない人にはわからないのです。わからない人にわかっている人が伝えても、わかっている人が間違っていることになります。それは、まだそういったことを理解するトキが来ていないからです。
けれど、時代の扉は開きました。我々はそのことを知っています。宇宙的にもトキが来ましたが、地球の現状を見ればトキが来ていることがわかります。

こういった話を聞くとみんなはうんうんと頷きますね。でも僕は、そのトキを自分自身にもたらしたらどうですかという話をしているのに、みんなはそれを人に頼り、いい話を聞いたなぁと言って自分に何も変化をもたらさずに終わっていくのです。
昨日、僕がここに来ていい場が出来上がりましたね。ただぼんやりと一直線で進んではいけませんよ、上がっても下がってもそれはエネルギーですから、学べばどちらでも進化、変化をするために使えるのですよ、だから毎日が新鮮なのですよ、という話をしましたね。そして、今日の学びを明日につなげていきましょう、と言いました。
その学びの延長に今日があったら、今日は昨日とは違うはずですし、昨日よりも今日の方が成長していれば、それだけ希望が生まれますから、今のこの場のような重たい空気にはなりません。
ところで、昨日の話を受けて、昨日の自分と今日の自分は違っていた、という人はどのくらいいますか?今日一日それを意識して過ごし、その結果昨日までとは違う一日を送ったな、という人。
(8人が手を上げる。)
ここに、確か54人のメンバーと長期滞在者やゲストを合わせて60人強の人がいますね。そのうちの8人ということは、ええと・・・六六、五十六?

みちよ:

八七、五十六。

いさどん:
え?七七、五十六?(みんな:笑)

みちよ:
八×七です!

いさどん:
こうやってね、ちょっとしょうもない時間を作って、みちよちゃんは「この人何言ってるんだろう」という顔をしていますが、こうやってわざとはずして、話について来られていない人にも付き合いながら、みんなの足並みがそろうのを待ってるんですよ。
まあ、八七、五十六だそうですから、ここの約7人に1人が昨日の話を意識して今日を過ごしたということになります。逆に言うと、7人中6人の人は意識していなかったということです。7人に1人ということは、全体の約14%ですね。僕は計算が早いでしょう。なぜだか知っていますか?

さちよ:
頭がいいから?

いさどん:
頭がいい?(笑)それはそうですが、頭がいいというのは、そういうことを積み重ねてきた結果そうなったということです。それは僕の性分なのです。何かと言うと、欲が深いのです。
僕は欲が深いから、すぐ計算をします。なぜ欲が深いかというと、どんなことでも無駄にしたくないからです。何でももったいないから、自分のかけたエネルギーはちゃんと回収します。回収どころか、プラスαで返ってくるようにします。逆に、マイナスは起こしたくないのです。一生懸命やったことだから、大事にしたいのです。

どんなことでもそうですよ。人間関係でも、仕事でも、畑で作物を作ることでも。
だけど、計算通りにはならないですね。計算通りにはならないからこそ、どうしたらそうなるんだろうということを考えるのです。それで、いつも計算をしています。だから計算力が身に付いたのです。これは学校で学んだのではなく、性質がもたらしたものです。頭がいいと言えばいいし、欲が深いと言えば欲が深いですが、もったいないから大事にしよう、生きていることを一つひとつ大事にしよう、という心がそこにあります。

昨日ここで学んだら、その延長線上に、リニューアルした今日があるはずです。そうしなければもったいないでしょう。何でも活かさなければいけない。だからおじいちゃんでもおばあちゃんでもどんな出会いでも活かしてきたのです。
この場を見てごらんなさい。ポンコツだらけでしょう。(みんな:笑)こんなガラクタを集めていったい何をしようというのでしょう。だけど、僕には夢があるのです。ある時に気が付いたのです。これが僕の人生だ、と。

それまでの人生は、いろんなことに出会って、次はこれ、次はこれ、と、年代と共に変化してきました。人生とはそういうものです。今でもそうですよ。今まではこうだったけど、これからはこう、と、いろいろなものに出会って変わっていくのです。
以前は、自分の性分からくる性質のままの生き様でした。出会いのままに、想いのままに、流されていたということです。今でも、何かに出会うと、この場合は相手を尊重してこうしよう、今回は相手を尊重しながらこちらの意志も尊重してこう伝えよう、というように、その都度流れを観ながら進んでいます。そこで昔と違うのは、方針が変わったということです。
その方針とは、世の中に幸せをもたらすこと。自分の存在が世の中に善きものとして反映していくようになること。

僕には、安倍首相ももう少しものごとを深く考えられたらいいのに、という想いもあります。けれども「晋三」という名前を読み解くと、怖がりで、もともとものごとを深くとらえるような人ではない彼の性質が観えてきますね。そこで、今の時代のトップとしては、晋三さんが相応しいのでしょう。しかしこれからの時代のトップは、晋三さんではダメですね。
人はみんなそれぞれに自分の心で夢を描いて、自分の心の思う幸せを願い、自分の心の思う豊かさを求めて生きています。みんなそうですよ。
安倍さんは政権誕生から1000日間の区切りを迎え、安保法も成立して、一大事を成し遂げたという感じで語っていました。僕は彼の言っていたことで、ひとつだけ共鳴したことがあるのです。それは、インターネットなどで安保法を「戦争法案」などと書いている人がいるけれど、それは間違っている、ということです。
もしもこれが戦争法案であったら、世界中の国が非難するでしょう。しかし明らかにこの法案ができることによって多くの国から賛同をもらい、支持されていると安倍さんは言います。そして、私はその立場に立ってやっています、その立場に立った平和を目指しているのです、と。
そうすると、彼自身は気づいていませんが、こうも言っているわけです。違う立場の人から見るとそれは戦争法案になるんですね、と。

彼は、戦争法案などと言われるのは言われなき誹謗中傷であり、ネットを使った暴力であるというようなことをバシッと言っていました。その通りです。安倍さんは戦争をしたくてこの法を作ったわけではありません。自民党の誰一人として、そんなことを考えている人はいないでしょう。しかし浅い人から見ると、軍備を備えたら戦争に行くという話になるのです。
僕はそれを聞きながら思いました。今、多くの人が安保法に反対していますが、選挙の時には国民はアベノミクスという目の前のアメにつられ、みんなこぞって自民党と公明党に投票し、記録的な議席数を与えたわけです。そして、それをベースにして安保法が成立したのです。

安倍さんは、多くの憲法学者がこれは違憲であると言っていますが私はそうは思わない、だからこのねじれを取らなければいけない、と言っています。そのために何をすると言ったか知っていますか?

なかのん:

憲法改正。

いさどん:

違憲を違憲じゃないようにするには、憲法を変えればいいわけです。国の正義なんて、憲法次第でどうにでもなります。そういうことなのです。
だけど、僕が言いたいのは不動のものです。今「戦争法案だ」と言って反対している人たちの根拠は「戦争に行きたくない」「平和な世の中で安心して豊かに暮らしたい」ということでしょう。安倍さんも戦争をしたくないからこそ、軍備を整えて外国と手を組むことによって、敵対する国が現れたとしても攻撃されることを防げるという専守防衛の観点を少し超えて、場合によっては、攻撃を受ける危険があれば自国を守るために先制攻撃も辞さない、ということを言い始めたわけです。それは戦争がしたいからではなく、したくないから言っているのです。

けれども、この世界は一つで、地球も一つで、自分も地球なのです。空気は自分です。水も自分です。土も自分です。みんながそれを共有して暮らしているのです。この世界は自分であり、万人が自分なのです。意識が広がれば、そういうことなのです。

意識が狭いから、自分と考えの違うものを非難します。地球談話を安倍さんにも送りましたが、見ていないのでしょうか。昨日もあわちゃんが、安倍さんに送る大人サミットへの招待状の原稿を持ってやって来ました。安倍さんのもとにはたくさん陳情が届くでしょうから、昔の僕ならこんなことをしても無駄だと思ったかもしれません。だけど、何もせずにいてはいけないですね。もしかすると何万通と届く中から・・・いやひょっとしたらみんなそう考えて誰も出さなくて意外と穴場だったりしてね(笑)。どうなるかはわからないのだから。何万通も届いていても、もしかすると、秘書が片付けようとした時にふっと目に留まって、安倍さんに渡さないとも限らないでしょう。だから、決めつけちゃいけないのです。
あわちゃんは、「安倍総理大臣」とは書かずに「安倍晋三様」と書いて、一市民として参加するように誘っていました。それがいいですね。

ネット上で「戦争法案だ」と批判している人たちには、つける薬がありません。自分たちの毎日の生活は、安倍政権が進めている政策の恩恵を受けているのに、そのことを忘れて批判しています。実際に、日本の安全保障はアメリカの恩恵を受けているでしょう。その事実を無視して、自分が戦争に行きたくないからと批判をしているのです。
僕は、戦争を肯定しているのではありません。そういった構造をわかることが大事だと言っているのです。そうやって批判をしあっている土俵から離れるということです。

今日もあきちゃんが、本当にエネルギッシュにみんなに「このままではダメでしょう」と伝えていました。わからない人からしたら「うるさいなぁ」とも思うでしょう。だけどそれがこの人の役割であり、こういう人が一生懸命言っていることを大事にして、それを言わせなくても済むような場を創らなければいけません。
あきちゃんからみんなの話を聞いていたら、僕はミーティングに行きたくなくなりました。だけど昨日、みんなに「明日も来ます」と約束しました。僕が行きたくないと思ったからと言って行くのをやめたら、それは自分の心に翻弄されている状態です。僕は自己コントロールをして、天の意志で生きている人です。ここに3ヶ月間来なかったのも天の意志。昨日来たのも天の意志。明日も来ますと言ったのも天の意志。そうしたら、そこに僕の感情は介入する必要はありません。だから今日も来ました。
ただし、昨日想っていたことの延長線上の話はできません。なぜなら、昨日僕が伝えた話をほとんどの人は反映させないで今日を生きたからです。情けないですがそれが現状です。それでも、やっぱりこんな大切な学びを毎日している人たちは大切な存在です。世の中はそんなことに気付きもしないで毎日を生きている人がほとんどですから。

それで、僕も振り返りました。僕の中にある揺るぎない意志は、何がしたいのだろうか。僕という個人のカルマが何を想ってこの生き方をやり続けているのだろうか、と探ってみました。
それは「みんなで」ということです。
みんなで喜ぶ。みんなで分かち合う。そしてそこに豊かさが表れて、それをみんなで味わう。幸せとは、分かち合うところにあるものなのですよ。表現しようと思えば、いろいろな表現がありますが、そういうことです。

そこには、争いはありません。平和なんて考えなくていい。自分のことも考えなくていいのです。「みんなで」というのは、人と自分の区別がないということです。
そういう所を創ってどうするのかと言ったら、その先はわかりません。ただ、時代がそれを求めていることを感じるのです。だから、まずそういう場所を創りたい。いつもは「たい」を「ます」にしよう「(「~したい」ではなく「~します」にする)と言いますが、今僕はあえて「たい」と言います。どうやっても「創ります」と言うことは不可能です。なぜなら、それは僕一人ではできないから。「みんなで」と言った時点で、それを成就するためには、人に託さなければいけないのです。
その時に、相手が必要です。自分が大事だからその願いを叶えようとします。それには相手が必要だということで、相手と自分が一緒になるのです。
それをベースにしてものごとにあたったら、いつも人の存在を意識するでしょう。そしてそこに輪ができたら、いつも全体のことを考えるでしょう。

その時に、一人ひとりに個性があります。人間というものは、長年生まれ変わりを繰り返す中で、いいことも身に付ければ汚れ(個性のひとつ)も身に付けていくものです。ただし、本当に目覚めるということが進んだ人には、汚れはないですね。けれどもまだこれからという人には、汚れがたくさんあります。それが今の世の中で、すべての人が悟っている世の中になったら、きっと味気ないでしょうね。
そうやっていろんな人がいて、生きている意味をわかって、みんなでその目的に向かっていくことが大切です。その時に、幸せが感じられるのでしょう。ある意味、この真実が観えない混沌とした時代を生きるということは、みんなでこぞって道を踏み外す時もあるということです。今の日本も、リーダーを始め国民がこぞって真実がわかっていません。

これはすごく生意気なことを言っているように聞こえるかもしれません。けれども僕はその人たちを蔑んで言っているわけではなく、今の時代が示している本当のことが観える視点の位置にいるだけなのです。だからみんなでそれをわかろうよと伝え続けているのです。
それでもわからない人たちにとっては、これも間違いであったり攻撃の対象になったりします。だからこそ、その立場に立つものは、信念を持っていかなければいけないのです。

みんなの中にあれが問題だのこれが問題だの心が伝わらないだのといろいろな感情が湧いてきているのを眺めていると、自身と向き合っていないことから、自分の心に翻弄されているのがわかります。そこで本気で自分と向き合い、本当にその通りだということがわかったら、自分自身を変えることに最初に取り組むはずです。だけどみんなは、形ばかりの結果を出して、どこかそれを避けていますね。
それでは、大事な道を歩んだつもりでも、次の時代へバトンタッチしようとした時に、誰も待っていませんよ。大事な道というのは、次の人が「土台を創ってくれてありがとう」と言ってバトンをつないでいくものです。

僕はみんなに説教をしているわけではありません。ものの道理の話をしています。自分の中に天に通ずる柱を立て、それを常に一番にして生きていく。そうするとその柱は、自分の心のクセを個性に変えてくれます。すると、自分が自分の心を表現した時に周りの人を困らせません。ひんしゅくを買うこともありません。問題ごとも起きません。自分が生きた結果、みんなが喜ぶ世界がそこに生まれていきます。
ところが、自分が生きた結果、周りからクレームが来る、問題ごとが起きる、ということがあります。周りからクレームが来るのは、人間界のみんなの意識が近いからです。あなたのことを自分のことだと思うから伝えますよ、ということです。どう生きても周りから何もクレームが来なくなったら、それは独居老人と同じで天涯孤独でしょう。

出来事に出会うということは、天の意志(この世界の法則)です。これは困った、こんなことは嫌だと思うかもしれませんが、それは天が「宇宙はフリーエネルギーで、少ないエネルギーが有効に働いてとても効率がいいのに、おまえのやっていることは無駄だらけだ」ということを教えてくれているのです。「忙しい」という字は、心を亡くすと書きます。忙しい忙しいと言って、人は天の心(存在)を忘れているのです。
逆に、天の心を忘れていなければ暇はありません。ちゃんと必要な分量だけ、自分がパズルのピースとして活かされるようにピタッとはまる役割を与えられるのです。そして充実した毎日を送れるはずなのです。

我々は、そういった人になるための修業を毎日しています。昨日そんな話をしましたが、今日は少し違った話をしようと考えていました。それは何かと言うと、自分は何を考えて生きているのか。その不動の柱について話したい。
それが、「みんなで」ということです。みんなで喜ぶ。みんなで喜ぶということは、人と分かち合うということです。調和も豊かさも幸せも、みんなそこから生まれてきます。
だけどね、「みんなでいがみ合う」というのはどうですか。

さちよ:
いやだね。

いさどん:
そうですか?今までそれをやってきたのではないですか。いやだと言いますが、「みんなでいがみ合う」というのは、とても変な世界ですね。いがみ合うというのは、人と自分を区別して対立することでしょう。それを「みんなで」ということ自体がおかしいですよね。
みんなで豊かになろうね、みんなで力を合わせて幸せになろうね、という表現は自然です。しかし、いがみ合うのはもともと「みんなで」という意識がないということですから、その表現自体が不自然なのです。
だけど今は、飾り言葉のように不自然な表現をしていることがたくさんありますね。言葉の意味を意識せずに生きている人がたくさんいますから。

自分から湧き出てきた心をよく観てください。それはどこから湧いてきたのか。湧いてきたことを観ると、自分の心にある歪みや汚れがよく観えてきます。それをチェックすることです。
自分をチェックしていないと、自分に問題があるとは思わず、相手のせいにします。自分は悪気がないのになぜ悪意が返ってくるんだろう、なぜうまくいかないんだろう、と言っている人がいます。そして世の中が悪いんだと言い出します。
しかし、明らかにそれを受けたのは自分なのですから、そういった現象を引き起こす自分自身を観るチャンスなのです。自分をしっかり観て、歪みも汚れもないことが確認できて初めて、相手の問題点を客観的に捉えることができます。それを相手に伝えて相手が受け取らなかったとしても、こちらにはそれは返ってきません。何かと言ったら、その人は今度は別のところにベクトルを向けるのです。そしてそこでまた災いが生まれます。この世界の混乱は、そういった仕組みから生まれています。だから、どんなことでも細かくチェックしなければいけません。

昨日の話の続きですが、それぞれがそれぞれの役割を担当し、田んぼは田んぼ、畑は畑、キッチンはキッチン、子育ては子育てというように、ここは社会を形成しているでしょう。

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それは一般社会も同じです。ただし、ここが違うのは「みんなで」を実践していくところだということです。

出来事に滞りが起きたら、みんなでそれを観て、解決します。一人の人が自分だけで生きていると、自分の心のクセのままにものごとを見てしまいます。けれどもそれをみんなで、人のことも自分のこととして観合い、お互いに観えることを伝えあって「ありがとう」と受け取る心が整えば、滞りはたちどころに消えていくのです。そのうちに滞りも起きなくなって、ものごとがスムーズに進むようになります。それが、「みんなで」の定義です。
「みんなで」というのはこの宇宙の実相であり、それが表現されたのが地球生態系であり、我々生命の構造なのです。

かずこ:

さっきいさどんが来る前に、畑隊の話をしてました。今はなかなか心が通じ合わなくて、畑の作物もうまくできなこともあったけど、やっぱりもっと、みんなで収穫を味わって、喜び合いたい。

いさどん:
種を蒔いたり、苗を入れたりする時にはいつでも希望があります。僕も百姓を始めたばかりの頃は欲がありました。けれど作物を育てるうちに、種には種の、苗には苗の都合があることがわかったのです。その種や苗の都合を聴いて、心配りをしていく。ダメな時はその原因を探って、ダメになる元を消していきます。次もダメならまたそのダメの元を消していく。そうすれば、どこかに当たりがあるのです。
その時に消すのは、「これでいいだろう」という自分の心です。つまり、我を取るということです。
今の農業は、ダメでも農薬をかけて、ダメでも肥料をやって、環境を無理やり曲げて収穫をしています。生命力を曲げて生業にしている、人の欲を満たすのが「農業」です。
けれども、百姓は違います。作物の生命力を感じ取り、それがご機嫌で育つように、お手伝いをするでもなく、サポートするでもなく、仕向けるわけでもない。何かと言ったら、調和するのです。寄り添うのです。そして向こうが実らせてくれたものを、こちらの命としていただいていくのです。

では心ができたら全てとんとん拍子に行くかというと、そうでもありません。人間の想いと自然の仕組みは深すぎますから、ダメな時もありがとうございますといただいていくのです。そしてその体験を次に活かす。そのためには、ダメだった自分ととことん向き合います。そうすると、生きることをもって学び、成長することを与えられます。そういったことをしていない人は、滞りを生み、無駄な時間を使います。
天は、我々が道理に合わないことをすると問題ごとを起こして気付きを促します。問題ごとが起きるのは、すべて天のはからい(法則)なのです。

今日は、8人の人が昨日と違った意識で過ごしたと言っていました。明日はもっと増えるでしょうか。8人ということは全体の約7分の1ですから・・・ちょうど1週間で全員が変わることになりますね!(みんな:拍手)
ここで僕はみんなに言いたい。7日で全員が切り替わるんだということがわかったら、1日で切り替えればいいのです!
カルマ読みも地球暦もカタカムナも、自分の実態を正確に伝えてくれています。実体がわかったら喜ぶべきことなのに、それがよくなかったからと言ってがっかりする人がいます。しかしそれがあなただということを受け止めるのです。それを逃げずに受け止めて、そこから一歩ずつ上がっていくべきなのに、がっかりして動かないのでは本末転倒です。
悟れば、切り替わります。「悟る」とは「差を取る」ことです。人との差を取れば、人のことが自分のことと思えます。別の意識になるのです。それは、時間をかけてやることではないのです。七日七夜と言いましたが、1日に7分の1ずつ切り替わるなんてことをしなくても、1日で全員が切り替われば7倍勉強できるのですよ。

あなたが発している波動は、どんなものをこの場所に、この世界にもたらしていますか?その結果、それはあなたの価値としてどんなふうに積み上げられていきますか?
一人ひとりが真剣にそういうテーマに向き合っていたら、人が増えれば増えるほど自ずと豊かになっていきます。
そこが出来ていないと、人が増えれば増えるほど、難しい世界になります。現代社会のように、人間が他人のことを考えずに自分のことばかり考えていたら、人が集まれば集まるほど難しい世界になるのです。

調和の心を作らなければ、コミュニティの暮らしは出来ません。それで多くのコミュニティが崩壊し、或いは、中途半端に存在し続けています。そして、やっぱり人間には難しいと曖昧に結論付けて、表面的な対策で終わっているのです。
けれども、この世界は元々、コミュニティとして創られています。しかし、アダムとイブが禁断の果実を食し、イザナギとイザナミが喧嘩した時から、人間にはコミュニティから外れる道も与えられてきました。そしてそのピークを迎えた今、人間がつながらないと生きていけない時代が来ています。木の花ファミリーの暮らしはその先がけとしてあるのです。

豊かさとは、宇宙の構造と同じです。一人ひとりの単独の動きが集まれば集まるほど、より複雑で緻密になり、それがひとつのハーモニーとなってとても豊かな世界が生まれます。それは一人では成し得ないものだからこそ、喜びが何倍にもなるのです。

人がたくさんいることで問題が起きるのではなく、人がたくさんいるからこそさらに豊かになる世界を表現したい。

みんなで喜ぶ。みんなで楽しむ。みんなで豊かさを味わう。そういう場所を創りたいのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。

なぜなら、こんなに素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから。

僕の願いは、たったそれだけです。

 

 

 


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