毎年12月になると、木の花ファミリーでは「収穫感謝祭」を行います。今日は、その祭典でのいさどんの挨拶と、それに続くなかのんの乾杯の挨拶をご紹介します。
いさどんの挨拶
~ 毎日毎日が収穫の連続です ~
今年も12月になりまして、恒例の収穫感謝祭の日が来ました。1年の最終章ですから、今年は何が収穫できたのかを振り返り、新たな気持ちになって新年を迎える節目の神事です。
収穫とは、何を持って収穫と言うのでしょう。まず、畑や田んぼのように、農に関わる収穫があります。それは、命をいただくことであり、私たち農をベースとして生き、それを生業とする者にとっては、最も基本となることです。そしてそれが健全であること。一般社会では、健全な生産物とは、物理的に健全な場所から生まれてくるということで、様々な技術がありますが、ここ木の花では、健全とは美しい姿であり、美しい姿とは美しい響きをもって表現することです。たとえ科学的に健全であると立証されたとしても、それを生産するものの心が不調和であれば、その響きが生産物に反映されるのです。自然界では分解が難しいような化学物質であればなおさら、美しい生命の調和の中に組み込まれないわけですから、それは自然界では異物となり、それをいただく私たちの体の不健全となって返ってきます。
ですから、私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。
美しい生産物は、霊的な美しい心によってもたらされます。ならば、収穫感謝とは、物理的に生産をして、それが良い収穫であったかどうかということの前に、それに携わる私たちの心が美しいものであったかどうかを振り返ることです。畑や田んぼ、その他の様々な活動を通じて、この1年間、自らの心が美しい響きを発するものであったかどうか。1年を通して何が自分自身に定着したかということも、収穫なのです。そこを考えなければ、本当の収穫としての意味がないのではないかと思うのです。
しかしながら今、2000年を越えて17年が過ぎた世界の情勢を観ると、そこまでものごとの本質を観抜いて生きているものは、なかなか見当たりません。見当たらないどころか、欲があふれ、奇妙な世界がそこかしこにできています。だからこそ私たちは、1年を通して美しいものを収穫することをテーマとしていますが、時代はまさしく混乱の真っただ中にあるわけです。
その中で、ここの暮らしは特別な暮らしに見えるでしょう。特別な暮らしとは、何をもって特別なのかと言うと、私たちがただ独りよがりで豊かさを追求し、自らが満足をするために生きているわけではないということです。私たちの暮らしは、この混乱した世の中に秩序をもたらします。そしてそこには、新たな美しい世界のための先駆けとなる目的が観えてきます。
世の中はますます混乱し、それをひも解くものがいなければ、混乱とはただそこに混乱があるとしか見えません。そのような状態では、世の中はただ右往左往するだけです。そこで道理を持って正しいことを語っても、混乱の中にも理屈はありますから、ただ問答をするだけのことになります。だからこそ、私たちは毎年毎年1年を通して、どれほどの収穫が自らに積み重ねられたのかを振り返るのです。
健康とは、美しい響きのものをいただくことによってもたらされます。心は、美しい響きを発し、その美しいハーモニーを受けることによってますます美しくなります。本来、世界はそういったところでなければなりません。私たちはそのことに気付いた者として、日々の中でそれができているでしょうか。それはこれからも課題です。いつでも、丁寧に丁寧に、自らを観ていられるかどうか。これは難しく厳しいことのようですが、それができた時には大きな喜びとなります。難しいからこそ、皆とそれを目指していきたいと思っています。皆さんの前で今日この話ができるということは、その段階に至ったということであり、今年の収穫は大きかったのではないかと思います。
もうひとつ、先ほどから収穫感謝祭の神事をしていただいている中で気付いたのは、秩序ということです。一般社会でもこういった儀式をしますが、ここでは子どもたちも参加しています。子どもは子どもなりに、一人ひとりの個性と秩序があるものです。こういった厳粛なる場で、子どもたちはその場の空気を感じ取り、受け止めています。ここの子どもたちは自由に育てていますが、秩序を感じ取る力がある、ということを感じました。私たちの歩みをこの子たちの未来に託すためのベースが、既にできていることを感じ、未来は希望あるものだと思いました。
そしてもうひとつ、気付いたことがあります。
今日は収穫感謝祭の神事を神道に則って行いました。先日タイを訪れ、タイに新たなコミュニティを創っていこうということで、その実践の地を見に行ってきました。タイは仏教国です。そこで、現在の宗教の世界は戒律に縛られた堅苦しいものになっていることを感じましたが、タイに仏教精神が根付いていることは確かです。その仏教精神と共に調和を築いていけると思いました。それは私たちがその仏教精神をここに表現しているということでもあります。そうでなければ、タイの村づくりを共に進めていくことは難しいでしょう。
そしてさらに、皆さん見てください。この神道の祭壇の脇には、クリスマスツリーが飾られています(みんな:笑)。日本人のクリスマスは、信仰心はどこかへ行ってしまって、プレゼントがもらえるとか、若い男女がどうやって過ごすかということばかりですね。教会での敬虔なミサなど、ほとんどの人にとっては関心事ではありません。しかし私たちの中には、キリスト教の精神である愛の心があります。そこにも共通するものがあり、共にあるのです。
過去3000年から始まった宗教精神が今、その本質を人々がわからない状態になっています。人を尊いものへと導くはずであった宗教が、混乱の元になっているという世界の事実があります。しかし、すべての宗教の精神の元はひとつです。なぜかと言うと、簡単です。地球がひとつだからです。その秩序も、ひとつだからです。そして宇宙もひとつだからです。そして私たちは、一本道のトキの時代人(じだいびと)だからです。
私たちが生きているこの世界に現れてくる様々な個性や秩序は、同じ法則の下にひとつであるということがわかれば、過去の聖人たちが残してくれた智恵もひとつだということが明らかになります。そのことを明快に理解し、表現しているのがこの場です。
私たちはこの混乱の時代において、何を学び、何を行い、そして何を収穫し、それをどうこれから生かしていくのか。その自らの姿勢はどのようなものであるべきか。今日のこの場に至り、そのようなことを改めて思います。そしてそのことをこうして皆さんに語れるということは、私たちがその段階に来たということで、これも大きな収穫であることを感じています。
ですから、収穫とは、畑だけではありません。生きることすべてにその取り組みがあり、そしてその取り組みをしっかりと自らに落としていくことにより、初めて収穫がもたらされるのです。そのためには、自らを美しく磨くことです。1年の区切りを持って、そのことを皆さんと確認する場を持ちました。毎日毎日が収穫の連続です。その美しい響きを持つ者たちは、美しい調和の場を創ります。そこに混乱や矛盾や無秩序が発生すれば、自ずとそれを浮き立たせ、改善させていくのです。
そういった場をもたらす私たちが、受け皿となり、これからの時代の見本となりたい。「なります」ではなく「なりたい」と言いました。それは、僕が一人で語っているだけではできないからです。皆さんの志をまとめて、ネットワークとし、初めてそれが実践されるからこそ、「ます」ではなく「たい」と言うのです。
私たちはこの場をもって、来年に向けて新たな気持ちで、物理的なことは更に研鑽をして高めていきますが、その背景にある心をさらに磨き、美しい響きを発し、この場を調和のとれた美しい場所にしていく。それを今の時代の見本としたい。
そのようなことを思いながら、とても凛として、どっしりと落ち着いた心で、今、ここに立っています。そういったことを日々皆さんと表現していきましょう。
改めて、収穫感謝祭を迎えて、おめでとうございます。そしてこれからも、よろしくお願いします。
なかのんの乾杯の挨拶
いさどんが語った通り、収穫を通して僕たちがしていくことは、この世界をきれいにしていくことだということが確認されました。そのために、美しい響きを発していく。それを日々心がけていく。
美しい響きって何かな、と思うと、やはり天の響きだと思うのです。天の響きが、それぞれが持つ良さを存分に活かし、天の響きを感受していくことで、美しい響きを収穫物を通して世の中に広げていくことができるのだと思います。
天の響きを感受するには、心が空っぽになっていくことが大切です。皆で「乾杯」し、「杯」を「乾」(あ)かすことによって、皆の心も空っぽにして、これからもずっと皆で一緒に、美しい響きを世の中に広げていきたいと思います。
───────── 乾杯!