光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり

2020年1月31日から2月4日にかけて、木の花ファミリーでは、1年で最も大切な行事である「富士浅間木の花祭り」が開催されました。祭りは、神々をお招きする神寄せの神事に始まり、世界中から届けられたご清水を融合した釜の周りを人々が舞い踊る祭事、その水を再び大地へとお返しする神事等を経て、1年の汚れを祓い清め、生まれ変わった新たな心で2月4日の立春正月を迎えます。5日間に渡る祭りの締め括りともなる場で、ジイジは以下のように語りました。

*富士浅間木の花祭りの詳細は、木の花ファミリーホームページよりご覧いただけます。


 

光に穢れ混じること
適わぬ世となるべきなり

202024日立春正月 ジイジの挨拶

ジイジ:
立春正月、明けましておめでとうございます。
昨日は節分で大晦日、そして今日は立春正月、即ち農の正月です。私たちは農的共同体として、大地と共に生き、こうした暮らしが成り立っています。生きとし生けるものはすべて大地と共にあります。ですから、私たち生命は、地球の化身です。農の晦日を迎え、そして農の新年を迎えるこのサイクルは、すべての生き物に共通するものです。新たな年を迎えるにあたり、それにふさわしい心構えを持って臨まねばならないと思いました。

私たち木の花ファミリーが2013年から行ってきた、1年の中で最も大切にしている行事、富士浅間木の花祭りは、愛知県の奥三河で700年間受け継がれてきたと云われる国の重要無形民俗文化財、花祭りを富士の地で受け継いだもので、今年で8回目を迎えました。8という数は、飽和安定の数字です。この祭りは、なぜここへ来たのでしょう。
700年以上の年月に渡り奥三河でこの祭りが受け継がれてきた目的は、国を守護するためでした。守護という言葉は守るという意味ですが、それは守るのではなく、正しく導くということであると考えると、この祭りを始めた修験の人々の目的は、700年以上に渡り達成されずにここまで来たということです。およそ800年前に、仏教で云われる末法の世が始まり、曲事(まがごと)がこの世界に横行し始めました。それからほどなくして花祭りは誕生しましたが、世の中は曲事によって創られていくこととなったのです。
今年は、戦国武将の明智光秀を題材にした大河ドラマが始まりましたが、それを観た時に、これまでに感じたことがないようなものを感じました。ドラマでは、一人の武将が戦国の世に現れ、様々な出来事を経て出世していきます。出世するとは、人の上に立つということですが、当時は人の上に立つために、企み、媚びを売り、他者を蹴散らし、殺し、その上にのし上がっていったのです。それが全ての世界でした。今から約500年前の戦国時代は、その象徴的時代だったのです。
末法の世に対し、人々に曲事はならぬということを示したのがこの祭りでしたが、実際にはそういった示しが全く示されないまま、辺境の地において長い間開催され続け、現代に至っています。形は違っても、人間はさらに複雑に企み、媚びを売り、他者を蹴散らし、殺し、表面的には平和に見せかけながら、現代の社会にそのピークを迎えているのです。花祭りでは、榊鬼を山に封印することで、そういった現実社会の人々の中にある曲事を改め、正しい世を創るために警笛を鳴らしてきたのです。しかし世の中では、それが逆さまに受け取られ、曲事により得られる豊かさをご利益とし、豊かな社会を創るものと信じられてきたのです。

花祭りには、榊鬼と翁が問答をする場面があります。その問答は「伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間」という文言から始まります。そもそも熊野に始まる修験の人々は、伊勢天照皇大神を象徴とする国を守護するために、その東北(艮)の方角にあたる天龍水系を鬼門とし、花祭りを伝承したと云われます。そしてその最終目的として、いずれかの世に日本の象徴である富士の地に花祭りの精神が伝承されることを託し、世の中の曲事を正すことの大事を示していたと考えられます。
そこで、現代に至り、末法の世の終わりを告げる新たな時代の扉が開いた時、もはや曲事で世を治めてはならぬ、ということで、ここに富士浅間木の花祭りが予言の通りに伝承されたと解釈できるのです。私たちがここで祭りを行うのは、生活をするためでもお金を稼ぐためでもありません。大地と共に生き、血縁を超え、皆がこれだけのエネルギーを祭りに注いでいる背後には、私たちの暮らしを含めた生き方に何かしらの大きな意図が働いていると受け取れるのです。
榊鬼は、天龍水系に伝承された花祭りに登場する、祭りの要となる天を象徴する存在です。祭りの中で榊鬼は、天が持っていた地上の支配権(政ごと=まつりごと)を榊と共に人間に明け渡し、艮(うしとら)の方角へと引き下がるのです。

 

榊鬼と翁の問答


やいやい 伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。ところは当所の氏大神。神の稚児の舞遊ばし給う木の花の御庭を。事どもしき姿をして舞荒らすは 何たら何者にてさむらう。

榊鬼
吾が身が事にてさむらう。


なかなか、汝が事にてさむらう。

榊鬼
此れさかきと申するは、比叡の山の大天狗。愛宕山の小天狗。山々嶽だけを渡る荒みさき荒天狗とは吾等がことにてさむらう。


事にてさむらうは何万歳をへたるとや。

榊鬼
八万歳をへたるとや。そう云う者は何万歳をへたるとや。


法は九善 神は十善 神の位をもって十二万歳をへたるとや。神行の為には榊を引いて帰れ。為でなくば引かれまい。

榊鬼
まことか。


まことに。

(榊鬼と翁は榊を引き合う。)

榊鬼
この榊と申するは 山の神は三千宮。一本は千本。千本は万本と。千枝百枝までも惜しみ給うこの榊を。だれが許しを得て切り迎えとったとや。


伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。所は当所の稚児のさくやの御為として切り迎え取ったとや。神行の為には榊を引いて帰れ。この榊に引き取ったならば 是より艮、木の花の富士の山が立ってまします それを汝の褒美にとらす。

榊鬼
まことか。


まことに。

(両者 榊の枝を引きながら)

榊鬼 翁
ありがたや まことの神行か  扱いても扱かれぬ 引いても引かれぬこの榊

(二人で榊を引き合い翁が勝ち、取った榊を窯の湯に投げ入れる。負けた榊鬼は再び艮の富士の山の奥に隠れる。)

榊の枝を引き合う翁と榊鬼

ジイジ:
現代に至り、祭りの最終目的である富士浅間の地にこの祭りが伝承された時、世の中は曲事の横行する極みを迎えていました。山に籠った榊鬼は地上のありさまを憂い、艮の金神に姿を変え、もう一度政ごとを天のもとに返し、人間たちが天と共に正しく生きていくことを求めるのです。今回の祭りの中で、特に印象深いところがあります。それは、艮の金神と翁の問答の中にある、次のくだりです。

「この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。」

地球は宇宙の法に基づいて創られた、聖なる場所です。にもかかわらず、人間にその支配権、つまり政ごと(まつりごと)を託したがために、このような真(まこと)とは全くかけ離れた世になってしまいました。しかし、宇宙の法とは光です。その真の光に穢れが混じるような世であってはならないということを、大地球神である金神様は言っているのです。
今、新型コロナウィルスの発生が世界中で話題になっています。そこで多くの人々が心配しているのは、経済のことです。経済が停滞し、お金が手に入る仕組みが崩壊することが、一番の心配なのです。コロナウィルスについては、今報道されている内容が確かなものであるかどうかもわかりません。人間の手から離れ、これからどのように暴走するかもわからない。一方、アメリカではさらにひどいインフルエンザが蔓延し、現時点で死者が8000人を超えたと言います。これらの現象は、自然の中で当たり前に起きることなのでしょうか。人工の世界が進み過ぎ、人間の行いに鉄槌を下すものではないのかと考ると、いよいよ「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」ということが現象として示される時代が来たのではないか。そのスタートの年の元旦が今日なのではないかと思います。

私たちは、宗教の時代は終わりを迎えたと捉えています。しかしながら、この立春祭を執り行うにあたり、今日は神主であるヒロッチが祝詞を上げ、玉串奉奠として榊の枝を祭壇に捧げました。榊という、天から与えられた地上のマツリゴトの証を、神に捧げたのです。神とは、宗教で言えば全く捉えどころのないものです。しかしその実体は何かと言うと、この世界の仕組みです。その神の仕組みが、世の中が動く物理性の元となっているのです。
ところが現代は、人間の思惑によって世の中が動くようになりました。だからこそ、榊を天にお返しして、天の仕組み、天の意志に沿っていくことを、こういったけじめの日の祭典で、改めて誓うのだと思いました。これまでの宗教のように人間の都合で捉えた天の意思ではなく、この世界の仕組みと共に私たちはありますということを誓う場なのだと思った時に、こういったけじめを日本人は忘れてしまったのだと思いました。中国人も、アメリカ人も忘れてしまった。しかしこれをけじめとしてやらなければ、生きとし生けるものの代表としてふさわしい生き方を、私たちはできないのです。だから、その大事を失った生命の代表である私たち人間は、この世界を汚し続けているのです。

そのようなことを思いながら、命の正月であるこの立春正月の神事の場に臨んでいました。するとあそこに立てかけてある、「真・善・美」と書かれた色紙の文字が目に入ってきました。

「真」とは、まこと ———— 宇宙の法、仕組みです。「善」とは、その結果地上に顕される、愛と調和 ——— この宇宙の中にあって紛れもない、地球生態系という大調和の実体です。そして「美」とは、「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」——— つまり、美しく完璧な世界を創るということです。
色紙の隣りに、黒電話がありますね。あれはアナログです。アナログの時代には、まだ人間の心が人間の手の内にありました。その時代の人間は、自分の心を表現しながらこの世界を生み出してきたのです。しかし、それが行き過ぎて、現代はデジタルの時代となりました。そうなると人間は、自らの心をテクノロジーに渡してしまうのです。つまり、いずれAIに自らの存在の意味や心を、奪われていくのです。

このように節目ごとに天と共にあることを確認する祭典を行い、天の仕組みに従って生きていく命の生き方を心に誓い、それをけじめとして日々を生きていくのが、本来の生命の代表である人間の、けじめある尊い生き方なのです。しかし、そういった大事を忘れ、地上を支配してきたがために、人間たちは今、自らの創り出したものに支配されようとしています。そこで表現される世界では、私たちは宇宙(天)の中に生きていながら、天の存在はまったく無くなるのです。人間たちは今、新型コロナウィルスという新たな自然界からの挑戦に対し、高度な医療技術を駆使し対処しようとしていますが、ウィルスもさらに進化することで、人間の都合の良いようにはならないのです。そういった人間の精神性では、お金やモノの中毒になり、経済の暴走を抑えることもできません。テクノロジーに支配され、AIにコントロールされることも、抑えることができないのです。
そういった人間の間違いをもう一度正すためには、私たち一人ひとりが、自らの心の中に何が必要であるかを、目覚めさせることです。ここではそういった大事な精神を優先し生きていくことを実践していますが、その裏付けとして、花祭りの文化が伝承され、新たな時代に向けて発信されようとしているのです。そういった意識が積み重なることにより、一人ひとりがそこに相応しいものとなり、その立ち位置に立った時、その大いなる目的を果たすと共に、自らを誇れる者として、人生を終えることができるのです。

それは、現代人の陥っている価値観を持っていては、簡単にできるものではありません。現代の多くの人々は、長い間この世界を制してきた蛇の思考(曲事)に支配されています。金神様の問答の中に、「今の世は、我よし、力よしの獣の世、蛇のあやま知(あやまち)支配する、穢れ逆巻く魔釣り(まつり)の世」とあります。現代人の思考は蛇に支配され、社会にあやま知が逆巻いているのです。その中で、目が開くということは、蛇に囚われている人々からは理解されません。理解されない時代であるからこそ、私たちはその間違いを知るものとして、あやま知が逆巻いている世の中に、正しい生き方を示していくことが大切なのです。それが私たちの生き方であり、ここで富士浅間木の花祭りを行うことの意味なのです。そしてこうして立春正月を迎え、けじめとして榊を天へお返しし、天と共にあることを誓うのです。

ここに「天津祝詞(あまつのりと)」というものがあります。

天津祝詞

祝詞の最後に、この祝詞の意味の解説があります。大宇宙には仕組みがあり、その仕組みを忘れているとこの世界に罪穢れが蔓延するから、大宇宙の大神様の存在に目覚め、共に生きることが大切である、ということが、この祝詞では謳われています。私たち人間はその真に目覚め、八百万の神々も含めた天の存在と共にこの世界を正しく運営していくことを誓います、というのがこの祝詞の意味です。
しかし宗教は、祝詞を奏上しながら、日常の生活でそれを生きることを忘れてきました。この祝詞の中に「大天主大神(おおもとすめおおみかみ) 守りたまへ幸はえたまへ」とあります。守るとは、何を守ってもらうのでしょう。幸とはどこへもたらすのでしょう。そしてその後に「平伏のままご祈念ください」とありますが、これは何を祈念するのでしょう。コロナウィルスが広がりませんように、私の病気が治りますように、お金に恵まれますように、というようなことを願うようでは、曲事の世界をさらに創っていくことになります。

この祝詞の解説では、伊邪那岐尊があらわれて宇宙造化のためにたえずみそぎはらい「浄化」の活動をされている、とあります。そして「どうぞすべての曲事、罪穢れを祓い清めて頂きますように」とあるのですが、この時に、どうぞ祓い清めてくださいと天に任せきりになるようなことではいけないのです。だからご利益が目的の宗教になってしまうのです。そうではなく、その仕組みを受け、私たち自身が罪穢れを自ら取り払い、そのような天の示される世界を創りますので、共に参りましょうと天に対しその意志を示すことです。それがここで求められる私たち地上を生きるものに相応しい姿勢だと思うのです。5日間にわたる木の花祭りの締めくくりの場である立春祭にあたり、私たちはそれにふさわしい日常を生き、ふさわしい仕組みを築いていくことが大切なのです。それが今の世の軌道修正の先にある生き方なのだと思います。

農の正月を迎え、さて、今年は畑で何をつくるのか。田んぼはどのような方針で進めるのか。そこで収穫したものをどのように世の中に提供していくのか。その一つひとつに、魂が入っていなければなりません。この暮らしを見に来る人々に、何を見せ、何を伝えるのか。
この場には、赤ちゃんが二人います。既に次の時代の伝承者が生まれてきています。これまでは、この暮らしの意味を私たちも十分には理解できていなかったかもしれません。わからないけれど大事だと信じる心で生きてきました。しかしこれからは、わからないのではなく、こういった生き方が何を意味するのかを理解し、それに相応しい心となり、そこに魂を入れて生きていくのです。それが、縁あるものが集い、それぞれがそこでの自らの役割を果たし、旅立っていく人生の奥にある、目的なのです。

その時に、誰かの利益(りやく)のおかげで良い人生だったと言うのではなく、自らの行いによって良い人生だったと言えること。そこを勝ち取り、人生を終えていくことが大事なのです。なぜなら、あなたの人生は、あなたのオリジナルな歩みによって勝ち取ったものとなるからです。

皆若いと思っていたら、年月と共に高齢化してきました。そして代わりに次の世代が生まれてきました。その次の世代が「そうだね」と言って受け継いでいけるような、価値ある生き方を、私たちはしなければなりません。
その時に必要なのは「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」。私たちの生き方に、曲事がない世界を創らなければなりません。ですからこれからは、穢れが混じっていないかどうか、より吟味していかなければならないと思っています。
昨日は節分でしたが、それは曲事の時代を象徴するかのようなものです。「鬼は外、福は内」と言って豆をまくのですから。その福とは何なのか。そのような福を欲望の延長に求め続けた結果、今のような人間社会に至ったのです。そしてその行いを戒める大切な鬼を封印することで、蛇のあやま知が蔓延したのです。

こうした思いは、今日、この場で、私個人に湧いてきたということではなく、ここに集う皆の心を代表して湧いてきたのだと思います。ですから皆にこれを伝え、一丸となり ——— 一丸というと体育会系のように聞こえますが、そのように堅苦しいものではなく ——— 皆の心をひとつにし、ひとつの仕組み、法則に則っていきたいものだと思います。「いきたい」と願望のように語るのは、それは一人ひとりの意志が反映されて成ることだからです。誰か一人のリーダーについていって、あなたの価値が上がり、全体の目的が達成されるものではないのです。

今、今日の日の乾杯のために、ここにお神酒が用意されました。

酒は酔うためのものとして、人々は長い間たしなんできました。特に戦国時代などは、日々の成り立ちに命がかかっていましたから、精神は常に尋常ではいられなかったのです。ですから、酒に酔い戦いに行く心を保っていたのです。現代社会においても、日々の活動の中でストレスが溜まり、そのうさを晴らすためのものとして、人々は酒を飲むのです。しかし本来酒は、そういった目的で創られたものではありません。酒は米で作られたものです。米とは、八方に広がった飽和安定の証です。そして天と地が共同で創るものの代表、つまり、恵みの代表です。
その米を発酵させるためには、微生物の力を使います。今世間を騒がせているウィルスも微生物の一種ですが、有効な微生物の力を使うと、私たちの健康の元となるのです。酒に含まれるアルコールには、コロナウィルスなどを浄化する力があります。浄化し、健康をもたらしてくれるのです。何のために酒を「お神酒」として神事の時にお供えし、共に酌み交わすのかと考えると、そのような意味があるのだと思いました。

マツリとは、「真釣り」です。日頃の罪穢れや曲事をすべて空っぽにし、自らが器だけになると、その真ん中の魂は、仕組みに基づいて天が入れてくれるのです。そういった物事の解釈からすると、これまでは、天に捧げるものである酒すらも、自らが酔うためのものになっていました。酒は、酔うためのものではありません。自らの罪穢れを祓い清め、浄化するためのものです。それを自らの意志によって、日々の生活の中のけじめの時に、天に向かって表明するためのものと言えるのです。

今、新たな気持ちでこの新年を迎えています。今年一年、真の一年を送りましょう。
それでは、乾杯!

 


その日の夜の大人ミーティングのこと。メンバーのみきちゃんが、立春祭での挨拶の時にジイジが涙を流しているのを見て、その涙の奥にいったいどんな思いがあったのかを聞きたいと思った、と言い、それに対してジイジは以下のように語り始めました。


ジイジ:
今日の涙の理由を皆は知らないな、と思っていたら、今みきちゃんからその話が出たので、話します。

僕は話をする時にいつも、頭の中に絵が浮かんでいます。ですから、自分が話している音源を後から聞くと、その時に浮かんでいた映像がリアルに思い出されるのです。そこで僕は自分が話すのを聞きながら、この次に自分は何を言うだろうかと想像します。言葉を聞いて次の言葉を想像すると外れることがありますが、頭の中の絵をもとに次の言葉を想像すると、合っているのです。つまり、そこには何かしらの物語を綴るイメージがあるのです。
今日の話の時にも、僕の中にはあるイメージが浮かんでいました。それは、この道を生き切って晴れ晴れとした気持ちでいつか自分が臨終の床についた時に、深い縁を頂いて共に歩んできた皆へ「よくぞ共に歩んでくれた、ありがとう、私は逝くよ」と別れを告げているイメージ・・・・・・・ではありません(笑)。そもそも、そのような自分のための悟りの段階は、地球に降り立ちヒマラヤの苦行者として生きていた遠い昔に、とうに卒業しているのです。

なぜ涙が出てきたのか。あの時僕の中にあった映像は、目の前にいる一人ひとり皆がその境地に至り、人として生まれてきた目的を達成し、晴れやかに旅立っていく姿でした。それは同時に、今の世の人々 ——— 蛇のあやま知に支配され、溺れている人々が、目覚めることにつながっていく。この道は、そこにつながるために歩むものでなければなりません。
すべての人の道がそこにつながるべきものであるならば、その手掛かりとして、まずはここの人々が、一人ひとりの人生を通し、そういった境地で旅立てる結果を自らにもたらすこと。そのような境地に皆が至り、喜びと共に旅立っていく映像が観えた時、まるで映画を観るように感動したのです。自分自身のことよりも、縁ある魂たちがそのような境地で旅立ってくれることを思うと、喜びが一層増すのです。

 

金神様と翁の問答


伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神
この方は、艮の金神と申す。時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界。汝らの宇宙、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ逆巻く魔釣りの世。


艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう。

金神
この方は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙の天意転換、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出ると申されるか。

金神
いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹に真を据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。


引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神
一度は渡したその榊。天の元に供えられい。

(翁が榊の枝を金神様の腰に差し、根付きの榊を金神様に渡す。金神様、へんべいを踏む。)

金神
皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。

(金神様がカタカムナの舞を舞う)

金神
真の神が現れる。神人共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真の真釣り始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。

 

艮の金神に榊が返され、いよいよ新たな時代の幕が開きます

 

 


2 thoughts on “光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり”

  1. 記事に賛同できます。魂其々に役や精算しなければいけないカルマはあります。しかしこれまでのことを一人一人が改心し、我善しでなく他と助け合い、分かち合いが「誠」の真理と頭でなく魂で理解していかなければまた同じ轍を踏むでしょう。

    私個人的には「真」も大事な「まこと」ですが「誠」。つまり「言から成る」が抜けてしまいますと大事な核心を見落とす。そう感じております。

    有り難うございます。

    1. 十里寿賀厘さん
      コメントをありがとうございます。「言から成る」とは、まさにその通りですね。何事にも魂を込めて歩んでまいります。

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