気温の寒暖差や気圧の変動が激しい今

ジイジ:
最近のような気温の寒暖差や気圧の変動が激しい時には、気合を入れて生きていくだけでは、人間の欲の心がそこに働き、体の故障の原因にもなる。こういう時だからこそ、落ち着いた精神状態となって、流れやものの道理を見極めることが大切だ。だから何かをする時には、常に一呼吸を置いてから行うという余裕が必要なんだよ。

ようこ:
ちょうど今、18日に新潟県で震度6を観測した地震のことや、大阪で警察官が刺されて拳銃を奪われた事件のことを思っていてね。今は、太陽の活動が弱まっている時期で、銀河からの宇宙線がたくさん地球に入ってきているから災害が多発したり、それが人の心にも影響を与えて犯罪も増えるということを思っていた。だからそれが、今ジイジが話したことにつながって、ただ気合を入れていくということではなく、そのような宇宙的な流れも観て落ち着いて冷静に生きていくことが大切なんだよね。ただ闇雲に一生懸命ではダメだよね。

ジイジ:
銀河の宇宙線が入ってくるということは、悪いことばかりではないのかもしれないね。

ようこ:
そうだよね!

ジイジ:
つまり、「太陽真理」ではなく、「宇宙真理」は一段上のものであるわけだから。そうすると、太陽真理であるならば、我々の心と連動したこと、たとえば心の優しさや絆を表している。もしそれが宇宙真理であるとしたならば、それをポジティブに捉えると、「なぜこの世界が創られているのか?」という、生命の本質である大本の目的に到達する、より深い真理を産み出してくれる。

こういった切り替わりの時に、闇雲に自我に任せた意識にシフトし過ぎると、それを調整する現象が現れてくるものなのだ。だから、社会的には問題事としてブレーキがかかるようなことが起こり、物事が順調に進まなくなる。それから体であれば、よく考えずに使い過ぎると故障するような現象が起きてくる。これはある意味、健全に生きるための安全装置のようなものだね。

もし、人が太陽の意思を感じているのなら、人々は愛と絆で調和し、物事がうまく進むものだ。しかし、太陽は逆に人々にブレーキをかけて、「よく考えなさい」というメッセージを与えているという解釈もできる。何が本質として求められているのかを冷静に考える時には、これからやろうとすることに対して抵抗が起き、それを気付かせてくれるということだ。

今年は、蓮の葉の丈が短いんだよ。気温が特別低いという感じもしないが、高かったり低かったり、とても面白い現象だ。それで蓮の葉の丈が例年より短く、生育が遅い。3年前に蓮を栽培し始めてから、初めてのことだと感じている。

ようこ:
そうすると、畑隊や田んぼ隊の人たちは、もっと作物の変化を感じているのかな?

蓮池で草取りをするジイジ

ジイジ:
それは、自然のものに限定してそうなっているのではないかと思うんだよ。たとえば、蓮池の蓮やそこに生えている自然の草とかね。でも、人が関わって育てているものには、そこまでの違いはない気がしている。
だからこれは、「今年もこうだ」という周期的なことではなく、「毎年毎年違うのだ」という感覚で観ている。その年その年どころか、その瞬間瞬間を常に新鮮に観ていくことが大切なんだよ。

ようこ:
新鮮に観ることができる眼と心を持たないといけないね。

ジイジ:
それは心の余裕と広い世界観がないとダメなんだよ。

ようこ:
そうだね、囚われていてはダメだね。

ジイジ:
物事を冷静に正しく観る時に、やはり多様性ある仲間たちと連動していくことが大切だ。それが、コミュニティで生きることの大切なのだろうと思う。そもそも、宇宙を生きるということは、宇宙コミュニティの中にいるのだから。いろいろな立ち位置からのメッセージの集合体として、我々は存在しているのだから。

 

※それからジイジは、「行ってきま~す!」と言って、作業に出かけていきました。

 

 


時代が縮小のサイクルに入った今 〜 2018年11月28日(天赦日)

※天赦日(てんしゃにち):百神が天に昇る日で、天が地上の万物を生養し、天がすべての罪を許す最上の吉日。年に5~6回ある。


ジイジ:
今気付いたことだが、我々が想像しているより、世の中は急激に変わりつつある。急激に変わりつつある今、それが戻ることはない。もしかしたら、これは加速度を増していく可能性もある。今、世界中で毎年破壊が起きている。それは自然災害による破壊であったり、人間が作り出す病による破壊、社会のコミュニティの破壊、それから孤独や争いによってもたらされる事件による破壊などだ。政府は、そういったネガティブな出来事に対して対処することに追われている。だから、少子高齢化に伴う対策や、人間の質の低下に対する対策、さらに働かないで生きていく人間が膨大に増えていくことに対して、今までの状態を維持するという形で相変わらずの対策をしている。世の中がすべてにおいて、縮小していく傾向にあるにもかかわらず、拡大もしくは維持していこうとする対策ばかりをしている。ところが実際には、そのような対策は現実的にはまったく対策にはならない。

この渦の原因のひとつは、時代のサイクルである。もうひとつは、サイクルに伴う人間の生命力の減退だ。こうなってくると、これをどうするべきなのか。我々は時代のサイクルには逆らえない。そこで、我々は常に時代のサイクルと共に生きる者であるとしたならば、その縮小のサイクルを感じ取り、それに沿っていくことが大切だ。地球規模で縮小のサイクルに入っているのだから、そのような時代が来たことに目覚めていくことが肝要で、それを気付いた者として発信していくことが我々の使命である。その場合、無駄なエネルギーは使わないことが肝要である。

今までは、この歩みの先にどのような目的があるのかがおぼろげであったが、明らかに世の中の歯車が狂ってきているのを観ると、この生き方には意味があることを確信する。そうすると、この生き方の方針の上で社会を意識して生きると同時に、新たな取り組みとしてどのように自己完結していけばいいのか。つまり、社会の仕組みの中に巻き込まれて生きてきた部分を、これからは巻き込まれるのではなく自立を意識して生きていくこと、それから自立しながら社会にメッセージを発信していくことの両方を同時に表現しながら歩んでいく必要がある。

もはや時代のメッセージがここまで顕著に現れてきたら、個人的な野望や願望は一切捨てて、この貴重な縁のもとに群れとしてのパフォーマンスを仕上げることが、今の切り替わり時に、我々に対する答えだろう。そして、これからますます来るであろう社会の混乱に対する答えでもある。これは、群れで生きることのパフォーマンスだ。もはや個人の欲望を叶えてそれを希望とし生きていくことは、この世界に矛盾をもたらすばかりであることは明白である。

この歩みに対して、少し時代を先取りしすぎて歩んでいたと認識していた時もあったが、すでに時代が我々の歩みに追いつき、いよいよこの生き方が必要な時が来ている。

だから、2019年のテーマは、「軌道修正」と出た。それは、人類の歩みの方向転換である。そこで何を軌道修正するのか。それは、人間たちの歩んできた一時見た夢が幻であることに気付き、その夢から覚めて、この実相世界の真実に目覚めること。それは、視点を拡大し、世界観が広がらなければ観えないものである。何びとも、この世界に生きるということは、実相世界の時代の波に翻弄されるが、人間以外のものは翻弄されずにその波のままに存在しているだけである。人間たちも、いよいよそのサイクルに戻る時が来ている。今、時代と共に軌道修正の波が来ているにもかかわらず、今までの幻影を追いかけて歩んでいては、時代の波に乗り遅れる。だから、来年のテーマは「軌道修正」と出た。

そして、これからいよいよ群れの時代が始まる。今まで社会は個のパフォーマンスを表現する時代だったが、いよいよ群れの時代の幕開けだ。群れで生きていかなければ、これから生きられない時代が来る。今までの社会は、個人がテーマだったから無駄が多かった。それが群れになって繋がると、無駄はなくなる。これからは無駄をなくさないとこの時代の変わり目に、今までの無駄のツケは乗り越えられない。そういった時代のうねりを敏感に感じる人であることが求められる。つまり、時代のパフォーマンスを感じ取れるセンサーを人間一人ひとりが持たなければ、この変わり目において見当違いな方向にまた進んでしまうことになる。それを正しく見極めなければ、生きることの矛盾や自らの人間性の狭さ・小ささ・低さの実態が明らかになるだろう。だから、広い世界観がいよいよ必要な時代になってくる。

今、本来の自然の成り立ちが狂ってきているから、自然に頼るものにとっては困難な時代が来ている。それに対し、ますます生命カンや人間力(生命力)を磨く必要に迫られている。かたや人間はテクノロジーの象徴であるAIに頼るようになった。AIに頼ることは技術革新としては画期的なことであり、250年前において蒸気機関が発明されたくらい社会にとって画期的なことである。ただ、AIに頼る社会が進めば進むほど、人間の能力は確実に鈍る。そういったものに頼っていくと、人間の脳は早く老いて認知症の人間が増えていく。それは、不要な人間をさらに増やすことにつながる。そして、一部の人間だけが異常に鋭くなるだけの世の中が来る。だから、人間はもう一度自然に還らなければならない。それは、人間が地上に降りた目的の原点に戻ることでもある。だから、思考回路の原点を自然や宇宙に戻す時が来ている。それが、21世紀の人類の目覚めである。そうでなければ、不必要なまでに進歩したテクノロジーがさらに暴走するだろう。そうなると、人間のために生み出されたテクノロジーに使われる側になり、何のために人間が地上に生きるのかを見失ってしまうだろう。20世紀までは人間が金に使われる時代だった。このまま今の延長に進んでいくと、人間はテクノロジーに使われる存在になってしまうだろう。これからは年老いてロボットに世話になる時代がイメージできるところまで来ているのだから。人としてさらに高度な目覚めに至らなければ、このまま人間の能力を使い切らないうちに、人間は自滅することになるだろう。携帯電話やコンピューターのような身近にあるテクノロジーが当たり前になった今、それがないと不便で生活が成り立たないくらい、知らない間に人間たちは自らが発展させたテクノロジーに支配されている。人間の本質はその分だけ衰える。今年は、そのことに気付く年だった。

今、加速度をつけて、今までの矛盾が現象化し出している。その結果、毎年いろいろな面で破壊が起きている。今まで人間たちは、エネルギーを無駄遣いすることが発展だと思ってきたのだが、それは究極的に破壊に向かう行為だった。だから当然のように今、それを方向転換し、収束させる時が来ている。そのためのメッセージとしての破壊が今、起き出した。

いつか、我々の生活も縮小することを優先する時が来るだろう。ただ、世の中の流れと少し違うのは、これから世の中は一方的に縮小に向かっていく。しかし、その縮小の必要性を理解している者たちのネットワークは広がっていく必要がある。そして、時代の必然である縮小を理解できない者たちには、さらなる破壊がもたらされるだろう。だから、その縮小のサイクルの到来を理解して生きる者たちの存在が、これからさらに求められるだろう。その拡大のサイクルは、時代の要請に応える縮小のためのものである。

そこで、これからの時代、人々は群れる必要がある。群れるということは個人が個の願望を捨てシンプルになること。20世紀の後半において、核家族化や個人主義がもてはやされてきたが、それが行き着くところ、集団となり、自己主張をし、その矛盾が統合をもたらし、そして群れ化していく。その時に群れることの意味を勘違いすると、単なる群集になってしまう。群集ではなく、群れでなければいけない。こういった時代だからこそ、冷静になり、ポジティブな群れで生きることが求められる。

今、台風や水害、地震等で地方が破壊されている。今年は九州、大阪や広島、北海道など各地で災害が起きたが、そのうち大都市に災害がやってくるだろう。そうなると、日本は再生できないような状態に陥る可能性がある。そうすると、人々の生きる方向は群れることでしか選択肢はなくなる。これは今の社会の延長に新しい生き方を見つけようとするような生ぬるいものではなく、その選択肢はなくなり、群れで生きるしかない時代が来るだろう。そのときに精神性が伴っていなければ、それは限りなく混乱の方向へ向かい、そこで人々は群集化し、さらに混乱へと向かっていく。人々の精神性が伴えば、群れ化して、人々のライフスタイルが再編される。ライフスタイルの転換が今、人類に必要になってきたのである。確かに我々はそのさきがけなのだ。

来年のテーマである「軌道修正」というものは、まずは人々が目覚めなければ軌道修正はできない。目覚めた者たちにはこの星で生きることの意味が理解され、軌道修正ができる。地球の時間軸にたとえれば、ほんの少しの間の工業化の波が人間たちをテクノロジーの依存症にさせてしまった。もう人間の小手先のテクニックで生きていく時代は終焉を迎える。そして、人々が天と共に生きる時代が始まる。それが、新たに始まる時代の求める軌道修正だ。だから、来年2019年のテーマは「軌道修正」ということなのだろう。

 

 


「私たちはこの世界すべてです」〜 アフリカ代表・ウスマンとジイジとの対談

西アフリカのガンビアという国から来たウスマン。彼はガンビアの沿岸沿いにある11の村をエコビレッジ化していく取り組みに関わる中で木の花ファミリーのことを知り、持続可能なコミュニティの運営や農を学びたいということで、初のアフリカからのインターン生として来訪しました。

ある晩、木の花のメンバーに向けて、彼の国の暮らしの様子や関わっているプロジェクトについて、話をする場が持たれました。日本の多くのメディアで紹介されるアフリカのイメージとは異なり、彼の暮らすガンビアには、様々なものをみんなで分かち合い、夜、女性が一人で歩いていても安全な、平和で穏やかな暮らしがありました。そんなガンビアにも、西洋化の波が押し寄せてきていることを感じているウスマンと、ジイジが話をする時間が持たれました。


ウスマン:
木の花ファミリーでの滞在がもう少しで終了しますので、ジイジからアドバイスをいただきたいです。

ジイジ:
それはどのようなことについてですか?

ウスマン:
僕はコミュニティに暮らしているのですが、最近西洋的な考えが人々に浸透してきています。そこで、僕たちの伝統的な文化を取り戻し、人々をつなげていきたいのです。

ジイジ:
先日、あなたのプレゼンテーションを聞いていて、一番懸念したところはそこでした。ただ、西洋的価値観をすべて否定するものではありません。優れているところは大いに取り入れるべきだと思います。西洋的価値観は人々の欲望をくすぐるため、競争や自らの利益が優先され、人が調和する心をなくしてしまう危険性があるのです。もし、ガンビアで伝統的な価値観が今でも残っているのだとしたら、そういったものは人と人をつなげる前に、人と自然をつなげているもののはずなのです。

ウスマン:
はい。僕たちには伝統的な価値観があります。しかし現在、若い世代の多くはそれを知りません。なぜなら、西洋的ライフスタイルが彼らにとって優先されているからです。昔は、年配者たちが人々にこう伝えてきました。「森へ行きなさい。この種類の木の葉は薬効成分があります。この種の果物を食べると、健康に良いのです。」昔の人々はとても健康的でした。しかし、僕たちの世代は健康的ではありません。

ジイジ:
私たちが日頃多くの皆さんに伝えているデータからすると、地球上の文明には発展と衰退のサイクルがあり、西洋的な文明が主導を握る時代はもはや終焉を迎えました。ですから、今までのように人々が西洋的価値観を盲目的に追いかけるようなことはないと思います。ただ、世界中で今、一番経済的発展が遅れているところがアフリカなのですから、ある程度アフリカにも西洋的発展は今後も必要だと思います。ただ、それは短い期間です。その後に訪れる考え方は、統合的な考え方です。

私たちがここで人々に伝えているメッセージは ──── 「時代は人間たちが創っているのではなく、天体の動きによって地球上の時代が変わっていく」ということです。その視点から観ると、過去の時代についても、今の時代がなぜこのような状態になっているのかも、よく理解できます。

ここではアメリカやヨーロッパの人たちにそういったことを伝えてきました。なぜなら、以前はアメリカやヨーロッパから木の花ファミリーを訪れる人たちが多かったからです。彼らの中にはコミュニティの調査を目的に訪れる人たちが多く、それも重要なことでしたが、最近は東アジアの国からたくさんの人たちが訪れるようになりました。この人たちは新しい時代をどのように生き抜くかを模索し、暮らしのモデルを探しにここを訪れています。

そして、私の中にいつからか「アフリカ」という意識があり、いずれアフリカの人たちが訪れるようになるだろうと思っていました。そうしたら、ウスマンが訪れてくれました。あなたがプレゼンテーションをしてくれたように、アフリカの人々がコミュニティやエコビレッジのような暮らしを必要としていることを聞きました。そして、たまたまガンビアという国は平和で穏やかな国だということでしたが、私たちの持つアフリカのイメージはそういった暮らしをしようにも、治安が不安定で難しい現状にあります。そのような中で、アフリカにこそ、木の花ファミリーのような人々が助け合う暮らしは必要だと思うのです。

アフリカに特徴的なこととして、今、アフリカに4000万人以上の難民がいるということも、それ自体アフリカの問題ではなく、世界の問題だということです。私たちは日本で暮らしていますが、アフリカの問題を地球上の共通した問題として考えていかなければいけないと思ったときに、今までのようにただ物資の支援をするという方法では根本的解決にはなりません。やはり、精神性の支援があって初めて、成立することだと感じました。その精神性を伝える対象の国として、アフリカでもっとも敷居が低いのがガンビアという国なのだろうと今回感じました。

ですから、まさしくあなたはアフリカ代表ですね!あなたは「時の人」です。私たちは時を生きています。今の旬を生きているという意味では、この出会いは本当に大切な出会いです。

これから地球に訪れる新しい価値観は、まったく斬新なものです。それは太古の昔にも存在していたような、天体と対話し、自然と共に生きるというライフスタイルでもあり、さらに近代テクノロジーが自然を破壊しないような形で有効に活かされるということでもあります。ですから、ここまで築いてきた近代的な文明をすべて否定する必要はありません。そこで、何を選び、何を否定するべきかを判断する必要はあります。そこで選ぶのは、人々が選ぶのです。ですから、選ぶ人々の価値観がどこにあるのかがとても重要です。それが他者と競争し、自分だけが得しようと欲望に翻弄された選び方では、自分自身にも社会にも自然にも良くない選び方だということです。

ウスマン:
すべての存在について考える必要があるということですね。

ジイジ:
そうです。すべてのバランスを考える必要があるのです。今までの近代の人々の生き方は、自らの欲望を叶えることを豊かさだと思って追求してきました。それは悪いことではありません。優れた文明を築きましたし、テクノロジーも発達しましたが、他者を思わず、自らを優先することで、様々な生命と共に生きることを忘れてしまいました。そして、優れた伝統の価値や叡智を失ってしまったところに問題があるのです。

日本でも中国でもアメリカでもそうですが、金銭的・物質的には人々は豊かに観えるのですが、人々の心はとても孤独です。ですから、先進国と言われる国々はその段階に行き着いた結果、今の現象の背景に、人々の本当の幸せが何であるのかを教えてくれています。

木の花ファミリーでは、そういった先進国の問題点をどのように次の時代につなげ解消し、新しい時代のイデオロギーを構築していくのかを考えてきました。それについては、いくつかの読み物がありますので、参考にしてください。とりあえず、あなたの質問に対してお答えしました。

これからの時代、人々が集い群れで生きることが必然なのです。私たちが自然生態系において生命のネットワークの中で生かされていることから観ても、人間は本来そのように生きるべきです。それは、何か優れた生き方を教科書のようなものから学ぶことではありません。次の時代の生き方は古くて新しいものです。それを、集った人たちは皆で語り合い、その都度自分たちのオリジナルを創っていくことが大切です。ですから、自分たちで良いと思うことを取り入れたり、エコビレッジ運動の優れたところを取り入れたり、木の花ファミリーのような精神性を重んじる団体の良いところを取り入れたり、いろいろなところから学び、取り入れることは良いことだと思います。

しかし、一番大切なことは、皆さんがその土地に伝統的に根付いていくためには、その土地に一番必要な知恵というものがあるのです。アフリカの人たちは伝統的に星と対話し、自然と共に生きてきた生活を世界の中でも近代まで続けてきました。現在、伝統的な考えをまだ持っている長老は少なくなったかもしれませんが、その少なくなった彼らの考えも取り入れながら、たとえばあなたのような積極的な若い人たちが自分と対話し、自然と対話し、星と対話することを実践すればいいのです。そうすると、あなたの中に眠っている、大地にずっと根付いてきたDNAの芽が目覚めるのです。西洋的な考えはそういったものを眠らせてしまいます。ですから、あなたはそれを意識し、反応がなくても信じて続けていくことを心がけるべきです。そういった同じ志を持つ仲間たちがいれば、「伝統を取り戻そう」ということで皆に呼びかけ、皆でやるべきです。

実際、木の花ファミリーの知恵はどこからか借りたものではありません。私たちは今まで、天や自然と対話しながら歩んできました。そこで一番大切な気付きは、私たちが20世紀まで地球上で築いてきた西洋型の文明は終焉を迎えたということです。その文明のもたらした多くの発見は私たちに物理的進化をもたらしましたが、それは同時に人々の間に楔を打つものでもあったのです。

幸いなことに、アフリカという地にありながら、あなたの国は平和な国でした。しかし、アフリカの多くの国の現状は、そういった西洋的な価値観によって破壊されてしまいました。しかし、そのような伝統的な知恵は、その土地に根付く精霊のような魂の存在によってもたらされます。幸いなことに、あなたの国にはそういった魂の存在がまだ残っているように感じられます。そこに意識を向けていけば、そういった魂はいつでも知恵を与えてくれるでしょう。

私はあなたに、何かを肯定して何かを否定するという話をしているのではなく、善意の心で、「地球と共に」「自然と共に」「天体の意思のもとに」という心で仲間たちと生きていたら、これからの時代にふさわしい生き方ができると伝えているのです。信念を持って行動したら、必ず知恵は湧いてきます。

私は今、67歳です。30歳のときにそういった意識に目覚めました。ですから、30歳の頃まで考えていた私の人生の野望は、それによってすべて壊れました(笑)。私は若くして会社を立ち上げ、事業にも成功していました。ですから、私の家族や仕事の関係者は、私が地球のことを考えて生きること、未来の地球のことについて人々に語ることに失望しました。

ウスマン:
今までとまったく違うことを語り始めたのですね。

ジイジ:
そうなのです。ですが今、私の心はとても穏やかで、お金など物質的なことに追われていません。そして、思うことはすべて叶います。私は今、本当の意味での豊かさを掴んでいると思います。あとはこういった豊かさを世界中の人々が知り、地球が私たち人間の存在を喜んでくれるような世界になることを目指しています。明らかに、宇宙的には新しい時代のターニングポイントはすでに迎えたわけですから、私はそのような宇宙的メッセージの証として、このような考えのもとに生きています。あなたもそういう人でしょう?(ウスマン、笑)。それを自覚して生きていけば、必ず物事は成就します。

私は42歳のときに富士山麓で暮らし始めました。あれから25年が経ちました。ここへ来たときには、未来について何も想像できませんでした。しかし今は、とても充実した生き方をしていると自負しています。ですから、あなたも信じて行動するだけです。アフリカにも、そういった精神で生きる人々が増えるために、私たちは出会ったのです。あなたもそう思いませんか?

ウスマン:
はい!これは天の導きです。時が来たので、私はここに来たのです。

ジイジ:
時は確実に時代を創っていきますからね。私たちは時間をどうすることもできません。ということは、時代が変わっていくことも、私たちは受け取るだけなのです。それに抵抗せず、どんどん変わっていけばいいのです。

ウスマン:
メッセージはただ真っ直ぐに降りてくるだけですね。そして、ジイジのメッセージがアフリカに広がり、これからもっとアフリカから訪問者が来ますよ!

ジイジ:
アフリカだけではなく、世界中の大地からそういった知恵が湧き出し、天からメッセージを受ける人たちがこれからどんどん増えることも感じています。今までの文明の元も、いろいろなところで知恵が湧き出してきました。それはそれぞれの文明にふさわしくオリジナルでしたが、同時に独占するものであったり競争するものでもありました。それは優れたことではありましたが、違う意味での貧しさを産み出しました。なによりも、平等であるべき人々に格差を生みました。

私たちの体の血液が血管を通ってすべての細胞に平等に必要な分量だけ行き渡るように、地球上には水という血液の役割をするものがあり、それがすべてに平等にふさわしく行き渡り、それによって生命は生かされています。人間社会の血液はお金です。これは、特別なところに偏ってたまっていてはいけないのです。すべてのところに必要な分量に応じて行き渡るべきものなのです。それは、私たちの体の血液や地球の水と同じ性質のものなのです。そういった考えが備わっている人たちが生まれてきて初めて、そうしたお金の使われ方が可能になります。木の花ファミリーの経済システムは、世界に比べれば規模としては小さいものですが、そのモデルです。

今、世界中にそういったことを大切だと思う人々が湧き出しています。いろいろなところで新しい時代に使われるべき知恵が湧き出しています。それは、先程の競争に基づいた知恵とは異なり、ネットワークを創り調和を生みます。新しい時代の土台になる知恵は、この世界に本当の意味の豊かさ、すなわち自然の豊かさや天体の豊かさをもたらします。天体の豊かさというと、人類はまだよくわかっていません。しかし、太陽も地球も他の惑星も他の天体も、何百億年という年数をエネルギー源なしに関係性を保ちながら、調和し、宇宙を創っているのです。その仕組みになぞらえてできたのが、地球生態系です。本来、地球の自然生態系は太陽のエネルギーを与えられ、無限なる循環の仕組みによって成り立っています。その中で生きるすべての生命は、豊かに生きられるような仕組みになっているのです。

そのバランスを壊したのが近代文明です。その近代文明の限界や矛盾が今、世界中に起きています。それを維持していこうと思うと、そこには困難や不安が起きます。しかし、「次の時代が到来したのだ」ということで勇気を持って次のステージへと進めば、新しい時代の豊かさが待っています。それはある意味、地球に私たちがいながらにして、宇宙意識で生きるということです。

太古の人々は天体と対話しながら生きていました。今の時代の流れは、ある意味そこに戻るのですが、これは新しいことなのです。それは、近代的文明の発展を超え、その叡智をもって宇宙を生きるということです。今、私の中にはそのイメージが鮮明に浮かんでいます。

今、私たちは2018年を迎えています。2018年というのは、22世紀の2100年に向けての18年ではないのです。それは、1000年から2000年までの1000年紀が終わり、2000年から3000年までの1000年紀が始まったと観ているのです。そしてこの1000年紀は、人類が自我に基づく叡智を開拓する時代から、自らに内在する宇宙的可能性から来る次の時代に必要なフロンティアを探求する1000年だと観ています。ですから、私たちの内に眠る無限の能力がこれから現れてくるでしょう。そういった知恵は自然を破壊しません。自然と調和します。あなたたちは私たちの後を受け継ぐ人なのですから、それをつないでいってもらいたいと思います。

ところで、あなたは何歳ですか?

ウスマン:
32歳です。

ジイジ:
僕の半分の年齢です。僕の息子よりも若いですね。そういう意味では、私はあなたにとても期待しています。でも、責任を取り過ぎないように気楽にやってください。

ウスマン:
とても良いお話をありがとうございます。ジイジからのアドバイスを受け取って生きていきますね。

ジイジ:
その心をもってアフリカへのおみやげにしてください。それは、私からのアフリカへの贈り物です。

ウスマン:
わかりました。ジイジは人にインスピレーションを与える人なので、ジイジのアドバイスはとても良いです。僕もジイジによって刺激を受けましたので、それにより僕も前に進み続けることができます。ジイジの知恵や生き方、人生物語は、僕にとっても他の人々にとっても良い刺激となります。

ジイジ:
人間にだけではなく、自然や天体に語りかければ、必ず自分に知恵が湧いてくるようになります。なぜならば、私たちは光そのものだからです。雨そのものだからです。空気そのものだからです。大地そのものだからです。風そのものだからです。

私たちはこの世界すべてです。

本来、私たちがいのちだとしたならば、この宇宙全体と自分が同じ存在であるはずなのです。その意識に立ったとき、人間の可能性は無限に広がります。そして、宇宙から人間に託されていることが偉大なものであることがわかります。その目覚めが、今回の人類の3000年までの目覚めのポイントです。そういった意味で、20世紀までの人類は自然から心が離れていました。離れたからこそ、また元に戻ろう、生きることの本当の意味を生きようとする流れが今、生まれてきています。

ウスマン:
素晴らしいお話でした。アフリカの人々は物質的には貧しいかもしれませんが、心は豊かです。なぜなら、彼らはとても幸せだからです。

ジイジ:
あなたのプレゼンを聞いたときもそうでしたが、あなたの話を聞いて、あなたの存在を知って、私も幸せな気分です。アフリカの人々にとって、ちょうどよいお金の量と幸せのバランスが取れるともっと良いですね。近代文明の良いところがそこに還元されるといいのです。

木の花ファミリーではタイの前国王のプロジェクトに参加し、タイで村づくりを行っています。

ウスマン:
それは良いことですね。

ジイジ:
僕はタイで鯉を飼うことが夢なのです(笑)。

ウスマン:
とても美しいです!

ジイジ:
アフリカでも鯉を飼いましょう♪

ウスマン:
はい(笑)。アフリカにはあのような美しい魚はいませんが、鯉はとてもカラフルで美しいです。

ジイジ:
今、日本の錦鯉は世界中の人が注目していてブームになっています。少し問題なのは、世界中のバイヤーが日本に買い付けに来て、そういう意味でバブルになりかかっているということです。でも、あの鯉は美しいし、人の心をとても和ませてくれます。

ウスマン:
はい。先日ロータスランドに行ったとき、黄金の鯉に触りました(笑)。

ジイジ:
アフリカに黄金の鯉を持っていきましょう♪鯉はとても調和的な生き物で、新しい鯉を池に入れると、池にいた鯉たちが案内し、一緒に周遊するのです。平和とコミュニティの象徴のような生き物です。

それでは、また会いましょう。

ウスマン:
(日本語で)またね!

 

ロータスランドの鯉に餌をあげるウスマン ー「国に帰ったら、焦らずに、みんなにこのことを伝えていくね」

 

 


延命治療から観る死生観

現代医療が進んだ今、私たちには終末を迎えた時、延命治療をするかしないかという選択肢があります。先日、知り合いの方から、「今、私の家族がお医者さんから『延命治療を受けなければ命が助かりません』と伝えられています。以前より本人の意志としては、延命治療を受けて植物人間のような状態にはなりたくない、という希望だったのですが、今は意識がない状態です。そこで、天上界の視点からすると、延命治療をどのように捉えたらよいのでしょうか?延命治療を受けないことは自殺と同じことになるのでしょうか?」という質問を受けました。

以下は、相談を受けたジイジからその方へのメッセージです。


 
まず、「植物人間になりそうな状態」と、「植物人間になってしまった状態」は違います。「植物人間になりそうな状態」というのは、まだ植物状態ではありませんので、当たり前のこととして、いのちが継続していると考えられます。しかし、「植物状態になってしまった」ということは、昔の治療ではいのちがない、という状態です。

ここで大切なことは、そのときのその人の状態を観て判断することです。私の場合は、その人に直接接してみたり、遠隔で感じてみて、「この人の魂はもう向こうに行っていますね」と判断したり、「今現在、魂はまだこの人の中にいますね」と判断することもあります。それはそれぞれのケースによって様々です。ですから、それを一概に言うことはできません。

今の世の中には、「延命治療はしない」という考え方はあることはあります。ただ、一番良いことは、生きている間に本人の意志を確認できるものを用意しておくことです。医者が家族に「延命治療は希望しません」と言われることはよくあるはずです。ただ、どのような病院かによって、病院の方針として点数を上げるために延命治療を頑なに行う病院もあります。そのあたりが難しいところです。

霊的なことを言えば、物理的にいのちはつながっているとしても、「この人の魂はすでに肉体を離れています」というケースはあるのです。

あなたの場合、ご家族が延命治療を希望しないということであるならば、お医者さんに「私たちの希望は、できるだけスムーズに旅立たせてあげたいのです。本人にも、以前よりそういった意志がありました。ですから、延命治療はしないようにお願いします」という意思表示はするべきだと思います。

このケースは、天上界から観なくても、地上の都合だけを考えても、本来人が植物人間でいる状態というのは不自然な状態と言えます。たとえば、本人の意志で自殺した場合、多くの魂は天上界には行けませんが、その人が延命治療を受けるかどうかについては、地上の都合で行われるものです。ですから、延命治療については、天上界の視点という話ではなく、地上の都合での話です。延命治療を受けないからといって、それが自殺になるわけでもなければ、殺人でもないということです。延命治療というものは、本来いのちがないものを人工の技術が進んだがために、永いこといのちが保てられるようになった、というだけのことです。

もし、延命治療を希望しないという本人の正式な遺言があるならば、病院ではそのような手続きで進めてくれるでしょう。そうすると、それは自殺ではなく、いのちがないから永らえない、という自然に則ったことなのです。それを永らえることのほうが不自然なことです。

それよりも、今のように旅立つ人をあなたのように送る家族が気にすることが一番の問題です。送る家族が執着を持つのであって、亡くなる人というのは自らの魂が旅立てば、執着はなくなり、死後のプロセスに入るのです。それを、送る家族が「どちらにしたらいいのだろう?」「良い選択肢を選びたい」などなど、亡くなる方の後ろ髪を引くようなことが、旅立つ人の迷いのもとになるのです。

一番大切なことは、亡くなる人がどのくらいの意識レベルにいるかということです。本人に自覚があれば、まわりの人に執着があっても、自分でスムーズに旅立っていきます。しかし、そこまでの意識が本人になければ、送る側が気持ちよく送ってあげることです。そこで「どうしよう?」「良い選択肢は何だろう?」と迷っていること自体が、送る魂を迷わせることになります。そこがポイントです。

 


このメッセージを受けて、相談者の方は「ありがとうございます。木の花ファミリー通信の死生観を、まずは家族にシェアしたいと思います」とおっしゃっていました。

それを受けて、ジイジには次回の木の花ファミリー通信の冒頭の文章が湧いてきました。


 
ジイジ:
次回の木の花ファミリー通信は死生観の第4部で、死生観シリーズの最終号になる。そのテーマは、生命の源である「性」ということになっている。

「死生観」というと、死というものが先にあって、人の生死について捉えている。生きていることを前提にすると、死が先に訪れるようだが、当たり前に私たちは生まれたということをスタートにして、死を迎えている。そうすると、死生観は、「生死観」という概念になる。そこで、「今、自分自身が生きている」という概念から離れ、人生を客観的に捉えたとき、「生死観」と言うことが自然になる。

人生をスタートする生というのは、自分の受け皿となった両親すなわち男女の性の交わりによって、宇宙の根本原理である対向発生による行為により、この世界に迎えられている。そういうことからすると、死生観の締めくくりとして、性の話が出てくる。だから、死生観の始まりに性があると捉えることが自然だ。そういった生(性)に対する認識の違いは、死生観の逆転現象となり、今の世の中の逆転を生んでいる。

さらに人生に対する視点を引いて客観的にその流れを観ると、生があって死があるのか。それとも死があるから生があるのか。卵が先か、鶏が先かという我々の物質世界の定めと同じように、始まりと終わりは連綿と続くサイクルであって区切りがない。そのように捉えれば、死生観でも生死観でも同じこととなる。だから、死生観と固定するものでもなくなる。

みちよちゃん:
面白いのは、英語だと「Life and Death」といって、生が先に来る。

ジイジ:
それは近代生命学の捉え方で言えば、生まれることの延長に死があることになるから、その順番になる。ところが、日本人は「死生観」といって死を先に置いているのは、何か日本人の伝統的な考え方の中に「死というものは終わりではない」という捉え方があるからだろう。私たちの生にまつわる物理的現象の一から十までのプロセスをたどるとしたら、九のあとは十ではなく・・・0ということになる。一二三四五六七八九で、次は次元が変わって0に行く。そうすると、生が一になる。一二三四五六七八九でひとつのサイクルが終わり、0の段階に入って、一二三四五六七八九・・・と捉えられるのではないか。つまり、九に行って死を迎えると、0になる。そうすると、それはリセットで、また始まるという考え方がそこに秘められているのではないだろうか。

ようこ:
日本人の中には輪廻転生の捉え方が自然と組み込まれていて、西洋だと、たとえば近代キリスト教にはその捉え方はない。一回の人生で終わりと考えられている。

みちよちゃん:
それに対して日本人の死生観は、死んだらそこがスタートで、そこから準備をして次の生につながっていく。

ジイジ:
だから、0というのが準備期間と捉えれば、0一二三四五六七八九となる。

ようこ:
0は何もないみたいだけど、そこには大切な何かがある。

ジイジ:
0があるからこそ、一がある。いきなり、一にはならない。一になるまでの準備期間が本来ある。

ようこ:
0と一二三四五六七八九は、潜象界と現象界のような存在?

ジイジ:
それは潜象界と現象界の話ではなく、現象世界にその仕組みがあるということ。それでも、カタカムナで捉えると、カタカムナはヒから始まる。ヒフミヨイ・・・

そうすると、それがひとつずつずれている可能性がある。ヒは秘かで、まだ動きが何もない状態だから、0とも言える。そうすると、ヒが0とも捉えられる。それで、フの段階で初めて動き出すから、フが一となる。だから、九で統合ということになる。そして、また0に戻る。

みちよちゃん:
それは、日本の数え年と同じような概念だね。

ジイジ:
そうだね。ヒは秘かで、ものの始まりだが、何もない状態。フで初めて動き出す。そうすると、フを二つと捉えるかどうかは微妙なところだ。そういう微妙な位置ということなのだろう。

みちよちゃん:
西洋的と言っていいのかはわからないけれど、細胞分裂的に考えると、ヒは秘かで、あるかどうかわからない状態だけれど、フで細胞分裂が二つになっていくと考えると・・・

ジイジ:
それは、おそらく楢崎皐月が西洋的な物理学者だったから、そのようにしたのだろう。明らかに、ヒはまだ何もない、秘かな状態だ。しかし、楢崎はヒフミヨイ・・・を一二三四五六七八九に当てはめたから、そうなったんだよ。

こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。

 


 

宇宙の真理の探究はどこまでも続きます。次回の木の花ファミリー通信は2018年冬至に発行されます。性の真実が紐解かれていく次回号をお楽しみに♪

 

 


手かざし(スピリチュアルヒーリング)

 
【他者にヒーリングを提供する場合】

手かざしは、人に内在する能力として、人々の健康や意識の向上に役立つものです。ですから、手かざしの正しい手法とそれを行なう時の姿勢を整えて、社会の健全に役立ててほしいものです。この手法は、私が今まで手かざしを行なう際に培ってきたことをもとに紹介します。

まず、手かざしをする時、そのエネルギーはどこから来て、どのような仕組みなのかを説明します。はじめに、目的の部位から適度な距離を置いて右手をかざし、同時に、眉間のチャクラを意識し、そこから斜め上45度に向かって、これからその行為を行う意志を天(大気)に発します。その際、目は半眼の状態を保ちます。それは、あくまでも、体は気の通り道として利用するものであり、この行為に思惑を乗せないことが目的にあるからです。
そうすると同時に、頭頂チャクラから大気のエネルギー(プラーナ)が頭部を通って体の中に入ってきます。その場合、体は気を圧縮するコンプレッサーの役割を果たします。その気のエネルギーは体の中で圧縮され、圧縮された気は右手の平から部位に向かって流れます。その時、想いを乗せて手の平に意識が行き過ぎると、流れに無理が生じます。この所作の目的は、大気の生命力を気として体内に取り入れ、それを圧縮し、強い流れとして、対象の不健全な細胞配列を健全に整えるものです。そのために、眉間チャクラから意志が発せられ、頭頂チャクラから大気のプラーナ(生命力)を取り入れ、体の中で圧縮し、強いエネルギーの流れを手の平から発する仕組みをよく理解し、イメージすることが大切です。
また、目的の部位を両手ではさみ(両手は部位から適度に離す)、右手の平から強いエネルギーの流れが発せられることをイメージしながら、左手でそのエネルギーを引き込みます。その場合、左手に入ってくる負のエネルギーは、左腕の付け根(肩)で止めるイメージをします。イメージとして、正のエネルギーは体の中に取り込んでもいいのですが、負のエネルギー(毒・矛盾)は必ず左腕の付け根(肩)にフィルターをイメージし、そこで止めます。病気や矛盾を持っている人に手かざしを行うと、左腕の付け根が重くなってきます。ですから、それがある程度溜まってくると、左手の平を上に向けて空中にその毒・矛盾を解き放ち、一度リセットしてから、次の所作に入ります。

左利きの人の場合は、引き込む左手のエネルギーが強いのですから、右手の押し出す力を強めることになります。左は陰の側ですから、内に引き込む役割を果たします。右は陽の側ですから、外に押し出す役割を果たします。そこで、「押す」と「引く」の間に強い流れができ、その間に手かざしをする目的の箇所を置くことによって、その気の流れが人間の細胞の配列を正常にしていくのです。そろばんで計算した後に、ご破算にするようなイメージです。

これは対向発生の原理であり、互いの役割の違いを有効に生かしていくことになるのです。ですから、右利きの人も左利きの人も、右手(押す力)と左手(引く力)のどちらが主になるかの違いだけで、右から左への流れが変わるわけではありません。

さらに、手かざしを右手だけで行なうことも出来ます。その場合、右手の押し出すエネルギーをもって、目的の箇所に気の流れを当てることにより、細胞配列を正常にしていくという行為になります。

また、目的の箇所に手を当てて行なう場合は、「手当て」ということになります。「手かざし」の場合は、手かざしをする箇所から手を離すことによって、気の流れを創り、その間の流れを持って、目的の箇所の細胞配列を正常にします。ですから、手かざしは基本的には離してやるものです。

このように、人間の肉体に秘められた能力は、誰にでもあるものです。その能力を開発することは、日常生活の健全かつ社会の健全に大いに役立つものです。日本では、こういった行為が、宗教的な場所でご利益的に広められてきました。ですから、一般的に人の精神性向上や健康のために十分に理解されてきたとは言えません。イギリスなどでは、それをスピリチュアルヒーリングとして、医療機関も取り入れています。本来、人の優れた能力として、日常的にこういった所作を利用することは、個人かつ社会の健全において望ましいことであると考えます。

 

【自己ヒーリング】

ヒーリングの方法として、もうひとつの方法を取り上げてみます。一般に、人は生きていると、体に負のエネルギーを蓄えることになります。そういった場合、蓄積されたストレスや疲労を解消する手段として、自己ヒーリングという方法があります。それは、睡眠前など時間の余裕のある時に行うと良いでしょう。人の体に発生した負のエネルギーは、それを流し出し、健全で安定した状態にすることが大切です。一日の終わりのけじめとして、そういった取り組みをすることは、新たな日を迎えるにあたり、気持ちの良い一日を過ごすために大切にしたいものです。

自己ヒーリングの方法として、まず、仰向けになります。眉間チャクラから真上に向かって自らの意志を天(大気)に発し、頭頂チャクラから大気のエネルギーを受け取ることを意識します。両手の平は上に向け、両足は肩幅程度に開きます。その際、全身で天から降りてくる気を浴びることを意識し、全身の力を抜き、リラックスします。
はじめに、右腕から右手の平までを意識し、その日に活躍してくれた右手に感謝し、負のエネルギーを解き放つイメージで、手の平を軽く握り、ゆっくり開きながら空中にその負のエネルギーを放ちます。この所作はリラックスした状態で、エネルギーが解き放たれるのを意識しながら、ゆっくりと行ないましょう。「右手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、行なって下さい。その時に、細胞一つひとつを意識して感謝すると、日頃から細胞はそのように心を向けられることがありませんので、細胞はとても喜びます。負のエネルギーを放つ時には、同時に息を吐きながら行なってください。その際、まずは息を吸って、吐きながら負のエネルギーを解き放ちましょう。負のエネルギーを解き放つ行為は何回か繰り返し行なっても構いません。気持ち良くなるまで行なってください。
同じように、左腕から左手の平までを意識し、左手にも感謝し、負のエネルギーを空中に解き放ちます。細胞すべてを意識しながら、「左手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージし(口に出してもよい)、息を吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
次に、右足の付け根から足先までを意識し、右足に感謝しながら、右足の裏から負のエネルギーを空中に放ちます。「右足さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしましょう(言葉に出してもよい)。息を吸い、吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
同じように、左足についても行ないます。
次に、全身に感謝し、「体さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、息を吸い、吐きながら両手両足から負のエネルギーを空中に放出します。
最後に、頭を意識し、頭の中の思考を停止するイメージでリセットします。頭は思考がまわりすぎていると、ちょうど眉毛の上あたりが一番こっているものです。ここの筋肉を緩めて思考をなしにして行ないましょう。人が思考をする時には、必ず眉毛の上あたりに輪がはまり、この位置で思考を横にまわすようになっています。よく思考をまわす人は、この輪が強く締められています。ですから、これを緩め、なしにしていくことをイメージしましょう。その際、同時に全身の力も抜きましょう。全身の力を抜く時は、軽く深呼吸をして、息を吐きながら力を抜きます。そして、「ありがとうございます」と感謝しながら、思考エネルギーを眉間チャクラから空中に放出しましょう。
各部所で負のエネルギーを空中に放出するたびに、そのエネルギーが活躍してくれたことに感謝する意味で、「ありがとうございます」という言葉を添えて、放出したいものです。そのようにして、自らの中の一日に溜め込んだ負のエネルギーをすべて流した後に、もう一度、「今日一日、ありがとうございました」という感謝の心を込めて、全身を感謝の響きで包みましょう。これで自己ヒーリングを完了します。
イメージとしては、脳の思考をすべて空にした段階で、シャバーサナ(死体のポーズ)を意識するのが良いでしょう。シャバーサナのポーズに入ったら、出来る限り思考はまわさないように、全身の力を抜き、床に体がへばりつくような重力を感じてください。呼吸は常に吐くことを意識しましょう。最終的には、自分の体の質量がなくなり、体が空中に浮いていることをイメージします。そして最後は、無重力の宇宙空間に浮いているイメージをしましょう。星がたくさんある世界をイメージし、自分もその星のひとつになってみましょう。

そういった体に対する感謝の姿勢が日常の中で定着してくると、それを毎日行なわなくても、自動的に一日の終了時に無重力を意識するだけで、負のエネルギーをリセット出来るような人となります(ミノナライ)。

 

手かざしを行なうための心構え

手かざしを行なう上で理解すべき最も重要なことは、欲の心を絡めて行なうのではなく、人の内在する可能性を開発するために行なうということです。そういった内なる気付きを得るための機会にしたいものです。とかく人間は、健康になろうなどと、私欲の延長にそういった行為を行なうことにより、それが本来の人としての優れた気付きを得るためのものとは、違うものになってしまうのです。

そのためには、「私は空っぽですから、私をあなたのエネルギーの通り道にしてください」と天を意識することです。「治してあげよう」とか、「良くしよう」という私欲の意識を持って行なうことは禁物です。その場合、そこに自我が入ることにより、発せられるエネルギーはきれいなものとは言えないことになってしまいます。ですから、その発せられるエネルギーには、何も想いが入っていない美しいものとして、エネルギーの通り道を創り、それを圧縮して発しているだけの意識として行なうことが肝要です。

このように、ヒーリングを行なう時の心構えとして、私たちは対象に対して何かをやってあげるのではない、ということです。「やらせていただきます」の姿勢が肝心です。それはなぜかというと、そのエネルギーを対象に発することにより、自らの全身の気の通りを良くする効果につながるからです。人にやらせてもらうことにより、やればやるほど、自分自身の気の通りは良くなってきます。ですから、常に、「やらせていただいて、ありがとうございます」の心構えで行なうことが肝要なのです。

そもそも私たち地球生命は、身近なところでは空気を吸い、食べ物を取り入れて生きています。このように、生命活動を維持するために必要なことを行ない、いのちをつないでいます。いのちがつながっていくということは、生命力があるからです。いくら生命活動をつなげようとして、いくら呼吸をしても、そしていくら食べ物を取り入れ栄養を摂ったとしても、生命力がなければそれで終わりになるのです。生命力がないということは、簡単に言えば、寿命が来たということです。寿命が来たかどうかは別にしても、それは心臓が停止したというような、生命を維持するための機能が働かなくなったということです。

そもそも、私たちは生命力の源がどこにあるのかということを認識する必要があります。それは、呼吸にあります。呼吸というのは、単に酸素を取り入れている行為ではありません。空気の中に酸素はありますが、「空気」は「空(から)の気」と書くように、空気というのは空っぽで駆け引きも何もないことを指します。つまり、空というのは、美しさや純粋さ、始まりを示し、そのような気が地球を包んでいるのです。

地球と大気の関係を語るのに、卵の中身が地球だとしたら、その外側の殻の厚みが大気となります。それはとてつもなく薄いのですが、実は空気の層には100kmの厚みがあるのです。地球上で最も高い山はエベレストであり、これは約9000m弱の高さです。それよりも上まで大気の層はあるのです。この大気の層があって、下へ行くほど気圧が高くなり、上へ行くほど気圧が低くなります。気圧が高いということは、生命力が高いということです。ですから、地表に生命は湧くようになっているのです。

私たちは常に空気を吸うことによって、大気の酸素を取り入れ、循環の中の生命活動をしています。同時に、私たちは空気から「気」を取り入れています。人によって健康であったり不健康であったり、生命力が強かったり弱かったりするものですが、それはその人の空気を取り入れる姿勢にあるのです。たとえば、呼吸をする時に、私たちは吐くことを意識するようにしています。吐くということは、自らの中にあるものを空(から)にすることにより、新しいものが自動的に入ってくるということです。

台風が来ると気圧が低くなり、1気圧(1013ヘクトパスカル)よりも低くなれば、海面を押さえている力が弱くなるため、海面が上昇します。先日の台風21号は、945ヘクトパスカルぐらいで大阪湾に上陸した時、潮位が3mを超えるほど上昇し、過去最も高い潮位を記録しました。それぐらい、日頃から空気の圧が海面を押さえているのです。

そうすると、私たちは今、気圧を感じながら、自分の体を保っているのです。実は、その気は吐き出せば吐き出すほど、入ってくるものなのです。それだけ、私たちには圧力がかかっています。それを、「気をたくさん引き入れてやろう」と思うのは、すでに我や欲が働いていることになります。呼吸は、吐けば自動的に入るようになっています。それが、この世界の仕組みです。それに欲をかけると、さらに自我に汚れることになるのです。ですから、「吸ってやろう」と思わないようにしましょう。日頃生活している時でも、「得をしてやろう」とか「良い思いをしたい」と考えている人たちの姿勢は、それはすでにこの世界に生かされている姿勢から外れているということなのです。

では、どのような姿勢で生きることが望ましいのでしょうか。それは、「生かされています」「ありがとうございます」「いただきます」という心になった時、この世界で生かされている姿勢にふさわしいものとなるのです。はるか彼方、13000年前のカタカムナ人たちは、現代のようなテクノロジーもなかったため、生きていくのに自然の仕組みの中でその仕組みのままに生きるしか術がありませんでした。その時に、自らの種を存続させ、生を全うするためには、いろいろな危険がありました。気候ももっと不安定だったでしょう。危険な動物に出遭ったり、1年を生きる時に現代のような施設栽培があるわけではないので、その都度自然からいのちをいただく必要があったのです。そうすると、彼らは常に自然と対話しながら生きていました。ハワイの先住民たちも、星と対話しながら生きていたのです。それは、特別なことではなく、日常当たり前に行なわれていた姿勢でした。星と対話し、危険についても自然から察知しながら生きていたのです。このように、自然の中で完全に生かされていたので、人間の姿をした宗教的な神様など想像しなくても、その人が生きているのと同じ意識レベルに見えない存在を感じ、生かしてくれていることを知っていたのです。そして、それが宗教心の始まりだったのでしょう。それは、生きることに対して真剣かつ純粋な生き方でした。

私は手かざしについて考えた時、今までの宗教のようなご利益的なものではいけないと思っています。そこを慎まなければ、この行為の効力は発揮しないでしょう。私たちがこの生命世界の中で健康に生きる仕組みをよく理解した上で、汚れのない美しい心のもとに行なうことが大切なのです。もしくは、自分は汚れていると思った人が、自らの心がよりきれいになっていくために行なうことです。

今まで、私はあえてこういった行為を、積極的に行なうことも伝えることもしなかったのは、それがご利益的な世界につながることを懸念し、控えてきました。しかし、これも人間に内在する神通力のひとつです。宗教のように欲が入ると害も出ますが、内に発生した滞りをきれいにしていくだけの浄化作業としての意識で行なうならば、人々の健康に大いに役立つものです。そして、人間を正しくきれいにし、細胞の配列を正しくするという目的のもとに行なっていきたいものです。そういった意味で、このような行為も正しい道理のもとに互いに行ない合うことにより、絆につながることにもなるのです。

「健全なる肉体のもとに健全なる精神がある」とは言いません。「健全なる精神のもとに健全なる肉体が宿る」と言います。この世界は「陽陰」ではなく、必ず「陰陽」です。そのことを理解した上で、手かざしを行なうべきです。ですから、そこでは真剣な姿勢が求められます。

体の歪んだ細胞の配列を治しても、心を正さなければ、物事の根本的な解決にはなりません。心が原因として生命力は本来あるべきです。心が伴わない生命力は、人生の狂いの元となります。つまり、生命力の内容は心が伴ってあるべきです。それは、本来の生命のあり方に基づき、心もあるべきなのです。

そういった意味で、手かざしを日常の中に取り入れることは大切なことですが、もし取り入れるのであれば、こういった心構えを徹底的に理解し、自覚した上で行なうことが肝要です。それが、「知意行一体」の精神です。そして、それを反復演練していくことによって、自然に身についていきます。そうした「ミノナライ」となった時、その人は美しい気をこの世界に発する者となれるのです。