新型コロナウィルスは、やさしいメッセージ

現在、新型コロナウィルスの拡散により、世界各地でも日本でも異例の措置が取られる事態となっています。この状況を心配する海外の友人たちより木の花ファミリーへメッセージが届き、その中に「この事態をジイジはどのように捉えているのかを聞きたい」という声がありました。これに対し、ジイジは以下のように答えました。


新型コロナウィルスの登場は、劇に例えるなら、物語のクライマックスとなる役者の登場のように感じます。それは、その劇を観ている観客達や、劇を演じている登場人物達が待ち望んでいたものですが、皆それまで劇に浸りすぎていたので、それが待ち望んでいた人物の登場であることを忘れてしまっていたのです。
これは、新たな劇の進行の予言のようなものです。そこで私たちは、なぜそれが登場したのかを理解し、その登場したものに対して敬意を表すると同時に、今までその存在を忘れて敬意を表さずにいたことを振り返る必要があります。忘れていたことに対する振り返りをしなければ、敬意を表することはできないのです。

今回の新型ウィルスは、非常にデリケートな形で登場しました。これは明らかに、人類を滅亡へと追いやるような、過激なメッセージは持っていません。過激ではなく、とてもソフトな形で登場しましたが、目に見えないからこそ、人々は恐怖を感じています。では、その見えないものに対して何を恐怖に感じているかというと、これまで人間は自分たちの力で全ての出来事を克服できると思ってきましたが、それが通用しない事態が発生していることに恐怖を感じているのです。

本来、人類が存在すること、生命が生きることは、私たちの手の内にはありません。そのことを理解するために今回の出来事が起きていることに気付いたら、この出来事は、私たちが生きていることは、この世界を創造する大いなる存在との連携の元にあるのだという、生命としての本来の立ち位置へ、人間をいざなってくれることでしょう。そのように捉えれば、私たち人間は今、このささやかな投げかけを厳粛に受け止めていく姿勢が必要なのです。しかしながら現状は、各国の政府も、個人個人も、そのことに気付いている人はほとんどいません。このまま人間達が気付かなければ、第二弾、第三弾として、世界は単なるウィルスだけではなく、様々な環境の変化を起こし、人類にメッセージを与えることでしょう。

今大切なことは、この現象を私たちのこれまでの営みに対するメッセージとして受け取ること、そして生きることについての視点を根本的に転換する必要があり、そのための予告としてこの現象が起きていると捉えることではないかと考えます。そもそも人間は、この世界を創造した創造主ではなく、創造主によって生み出された創造物なのですから、創造主の側のルールに則り存在するべきであり、もう一度そこへ立ち返る必要があるのです。それは今だけのことではなく、人間は本来常にそのように生きることが当然であり、そのことに気付かなければ、世界は第二弾、第三弾と、人類への困難としてメッセージを繰り返し与え続けることでしょう。

この新型ウィルスの現象は、極めてやさしい形であると思いませんか?それは、人間へ気付きを促している状態です。これは試練ではなく、もっとソフトなものです。もしももっと過激なメッセージであったなら、核戦争が全面的に起きてもおかしくありませんが、そうはなっていないのです。

自然界の動植物は、例えば今オーストラリアで起き続けている森林火災がそうであるように、人間の行いに対するメッセージの犠牲になったとしても、何ら苦情も言わず、潔く消えていきます。しかし人間だけが、自らが問題を引き起こした原因でありながら、その問題に対して苦情を言い、悩み苦しみ、その問題の奥にあるメッセージを受け取ろうとしないのです。客観的に観れば、滑稽とも言えるでしょう。これは人間の自我が膨らんだ結果、客観視点を失ったことに原因があります。このことに対し、国際機関や国家の中枢を担う人々、そして私たち一人ひとりが真剣に考える時代が来なければ、問題の根本的な解決にはならないのです。特定の国に意識を特化するのではなく、これは人類に与えられた、次の時代へ進むための目覚めを促すものであると捉えれば、この出来事をありがたいものとして受け入れることになるでしょう。

宇宙的には奇跡であるこの星に降り立った数多の生命の中で、その代表として最も優れた人間たちに、本来の価値あるものとしての目覚めを取り戻してもらうことを、期待するものです。

 

 


私たちは現代という異物の中で生きている

私たちが快適な生活ができるのは、電気とガスとテクノロジーの力のおかげだ。たとえば、内モンゴル人の青年は今、自分のふるさとでコンポストトイレを普及させようとしているが、内モンゴルでも近代化の波は押し寄せ、人々の生活は変化してきている。し尿の処理は、日本の都市であれば終末処理場で処理し、インフラ整備は出来上がっている。それは、バクテリアの力と言いながら、やはり近代テクノロジーの力だ。私たちの生活においても、それは今、浄化槽を設置することで可能になっているが、これは日本のような水や電力エネルギーが豊富にあるところでできることだ。それで、コンポストトイレが画期的とは言え、コンポストトイレは使いすぎると単なるウンコ溜めになってしまう。冬のモンゴルのとても寒いときに、あの仕組みでは機能しない。寒いとバクテリアが働かないので、単なるウンコ溜めになる。それを機能させるためには、適度なテクノロジーが要る。そうすると、結果としてコンポストトイレを内モンゴルで使うためには、電力とそれを機能させるテクノロジーが必要になってくる。やはり、現代の問題は人口が増えすぎてしまったことと、自然界の生き物のようにその枠を超えず、人間が自らの生命の枠の中で存在することができない限り、現代文明はいずれ消滅するしか仕方がないのだろうか。いかに自然を壊さず、人間の営みを安定させるかというと、やはり人工に偏ったテクノロジーが必要になってくるが、その結果、さらに人工の世界は広がっていくことになる。

しかし、かたやこれからの時代、このようにインフラ整備を行い、人間たちが豊かに暮らすことを維持しようとしても、その暮らしが自然に矛盾を与え、その矛盾が人間に襲いかかってくることが同時に起きてくる。そうしたら、未来の人々にどのような生き方をすべきなのかを伝えることが大切だ。欲をかかず、ほどほどの生き方をしなさい、と伝えるしか仕方がない。人工であふれる都市機能を維持しようとすること自体が、自然界においては異常なことなのだから。だからどこかで、人間の存在と自然のキャパを見極めなければならない。

これだけのエネルギーに依存する消費社会を創ってしまって、これからどうすればいいのか?これは、100年ぐらいの単位のことであれば、地球もなんとかキャパの中に取り入れられるが、200年、300年、1000年となると、もはや限界だ。しかし同時に、これはたった1000年のことだ。これは地球規模で考えれば、スケールとしては小さなことでもある。だから、人工のような発展的に自然を否定するような場所を創ることではなく、ただ粛々と自然とともにありなさい、ということになる。

だから、この問題を解決するのに画期的なことは提案できない。実際に、昨日、一昨日と僕たちは車を使って長い距離を移動し、高速道路を利用し、サービスエリアでそのサービスを受けながら、つまり社会のインフラの恩恵を受けながら行動している。かたや、「自然に倣いなさい」と言いながら、しかしその実態はテクノロジーに支えられている。ほんの一時、人工が暴走することに気づいたとしても、その捉え方を人々の中に継続するように共有しなければいけない。

現状の人間の姿勢を観ると、持続可能なことを実現するためには、打つ手がないと思う。朝が来て、夜が来て、これを繰り返していく。このときに、朝が来るということは人間の営みが紡がれていく。我々は人間の営みが紡がれていくときに、社会にすでにあるインフラを利用している。そのインフラをこれからも維持するためには、とてつもないエネルギーと人工の力が要る。日本では少子高齢化が進んでいくと、これを維持することがたいへんな時代が来る。これが10年、20年の単位の話であれば問題は小さいのだが、1000年という単位からしたら、インフラを維持することも整備することも切り替えていかなければいけない。人間がそのような長いスパンでものを考えて生きてこなかったから、この行き詰まりができたのだが、もっと前に人間の営みと自然の営みが整合することを考えなければいけなかった。ただ欲を膨らませるだけ膨らませ、今、我々が享受している快適な暮らしは、近代科学とテクノロジーに支えられている。近代科学とテクノロジーを使うときに、独りよがりで欲望を膨らませ、人々が不調和の社会を創るようになれば、その行為自体が破壊の矛先にもなる。しかし、このテクノロジーとエネルギー消費を地球や宇宙を意識し、「地球とともに」という想いで人々が調和して使用すれば、無駄がなくなる。無駄がなくなれば、地球はまだ自らのキャパによってそれを許してくれる。どこかでその整合性を取らなければいけない。

私たちも、近代的なテクノロジーに支えられてこの生活をしている。だから、一方的にそれを否定する側に立つべきではない。一方的ではなく、近代テクノロジーが暴走することを懸念し、それからテクノロジーが広がるときにそれを広めようとする者の背景にある精神がどこにあるのか。それを吟味することが大切である。その精神が自我にまみれ、一方的なものであるならば矛盾の発生源となる。しかし、今の人間たちは、自我を膨らませることが最優先になってしまっているがために、聞く耳を持たない。

たとえば、民主主義と言われる日本やアメリカ・ヨーロッパ、韓国のような国では、個人の主張が自由にできることが豊かさだと考えられている。こういった人々の欲望を刺激する社会体制では、資本主義社会の問題点である、人々の欲望を膨らませ、それを自由の証として進めていけば、人間の営みは地球のキャパをオーバーしてしまう。このように地球の現状の問題点を解決するために、人間の営みのどこまでをOKにし、どこからをNOにするかをこれからみんなで積極的に考える必要がある。そうでなければ、私たちは自分たちがすでにあるインフラと近代テクノロジーによって支えられているにもかかわらず、自然の側に立ちテクノロジーの側を否定し、矛盾を語る者になってしまう。

今、この段階に来て、あと10年、20年は許されても、100年、200年になるとこの人類の姿勢は許されないだろう。今の人間たちの振る舞いは、もう待ったなしの瀬戸際に来ている。この状態に対して、答えは出せない。だからみんなで語り合う必要がある。

「聖なるあなたを抹殺し、私は私の希望を叶えることを繰り返していけば、それこそ私は愚かな生き物になってしまいます。だから、あなたもいて、私もいて、その中で私たちの文明を表現する生き方を持続可能にするために、あなたにも賢明に考えていただく必要があり、私も賢明に考えていきます。その連携のもと、その輪の中に地球も入れて、語り合うべきなのです。」

もし、自然生態系や地球の側から捉えたら、民主化運動も異物となる。そういった人間の自己主張をすべて超える必要がある。先日訪れた20代の中国人女性は、「木の花の活動は宇宙や地球を意識しているので素晴らしいのだけど」とフィードバックしていたが、なぜ「だけど」と言うのかというと、現状の人間社会にはそれをわかる人がいないからだ。僕はわかる人がいようがいまいが、大切なことだから語るという境地にいて、役割を果たしていくのだが、それはいずれ人類がわからなければいけないという前提に立って語っている。いつかそうなるから、語っている。それを人間たちがわからないのであれば、やっている意味がない。

そういった現状に対する答えとは言えないかもしれないが――、大町で昨日の午前中、僕はしばしの間まどろみの中にいた。そうしたら、そこに生身の体を持った仏像が現れた。体全体が黄色で袈裟・衣をつけている姿をしていたが、その袈裟・衣は仏像の姿だから体と一体になっていて、衣服のようにまとっているわけではない。黄色といっても乾いた土に近いベージュのような地味な黄色だった。頭から大きくこぶ(肉髷=にっけい)が出ていて、顔は仏像の顔をしている。しかしその仏像は生きている。その姿は非常にシンプルだが深い。複雑だが単純。そして、明快で美しい。何とも言葉にできない。無駄がなく、きりっとしているのに力が入っていない。それでいて、ゆるぎがない。その仏像の中には規律があるけれど縛られていない。自由なのだが、秩序がある。

中身はお釈迦様だったのだが、そのシンプルさと意味深さを身につけないといけない。それは、霊的な存在でもなければ、人間でもない、生きている仏像だった。仏像に魂が入っているとはああいうことなのだ。しかし、通常、仏像は動かないが、あの仏像は動いて語りかけてきた。僕がこれから人々に伝えるときに、あの響きを出すように心がける。響きといっても、非常に静寂で、しかし動きはあるし、言葉も語るが、無駄はない。しかし、あのような完成されたものにひとり、ふたりがなっても、それでは見本とはならない。最終目的としては、みんながそうなるべきである。そうすると、また宗教のような話になっては元も子もない。現状の解決策が見つからなければ、人間は滅亡するしかない道を歩んでいるとも言える。

結局、宇宙的に観れば、地球の行く末は天が握っているのだろう。そういった意味では、人間の努力には限界を感じる。現状も、天が何かの意思を持って表現しているのだろう。

我々は現代という異物の中で生きている。都会の人たちはあの社会構造の中で仕事をした上で、収入を得て暮らしている。そこに破壊が起きると、それを維持するためだけに能力を使い、この回復力はすさまじい。その能力が高いがために、目覚めが遅れる。だからといって、私たち自身もその恩恵を受け、現状を語っている。

・・・どこかに、その整合性のポイントはある。それをみんなで考え、見つけ出す必要がある。その会議に出なくても、日常生活でそれに参加している。そういった全体性を観る力がなければ、これを進めていく資格はない。今、この生き方を進めていくにあたり、人間が依存しすぎ、コントロールされる側になってしまったテクノロジーをどのようにコントロールする側に立つのか。人間が自主的に節度を身に着け、自己コントロールを意識していくしか仕方がないのだろう。現実は、社会が人間の欲望の延長に動き、人間が社会にコントロールされているのだから。

 

 

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時代が縮小のサイクルに入った今 〜 2018年11月28日(天赦日)

※天赦日(てんしゃにち):百神が天に昇る日で、天が地上の万物を生養し、天がすべての罪を許す最上の吉日。年に5~6回ある。


ジイジ:
今気付いたことだが、我々が想像しているより、世の中は急激に変わりつつある。急激に変わりつつある今、それが戻ることはない。もしかしたら、これは加速度を増していく可能性もある。今、世界中で毎年破壊が起きている。それは自然災害による破壊であったり、人間が作り出す病による破壊、社会のコミュニティの破壊、それから孤独や争いによってもたらされる事件による破壊などだ。政府は、そういったネガティブな出来事に対して対処することに追われている。だから、少子高齢化に伴う対策や、人間の質の低下に対する対策、さらに働かないで生きていく人間が膨大に増えていくことに対して、今までの状態を維持するという形で相変わらずの対策をしている。世の中がすべてにおいて、縮小していく傾向にあるにもかかわらず、拡大もしくは維持していこうとする対策ばかりをしている。ところが実際には、そのような対策は現実的にはまったく対策にはならない。

この渦の原因のひとつは、時代のサイクルである。もうひとつは、サイクルに伴う人間の生命力の減退だ。こうなってくると、これをどうするべきなのか。我々は時代のサイクルには逆らえない。そこで、我々は常に時代のサイクルと共に生きる者であるとしたならば、その縮小のサイクルを感じ取り、それに沿っていくことが大切だ。地球規模で縮小のサイクルに入っているのだから、そのような時代が来たことに目覚めていくことが肝要で、それを気付いた者として発信していくことが我々の使命である。その場合、無駄なエネルギーは使わないことが肝要である。

今までは、この歩みの先にどのような目的があるのかがおぼろげであったが、明らかに世の中の歯車が狂ってきているのを観ると、この生き方には意味があることを確信する。そうすると、この生き方の方針の上で社会を意識して生きると同時に、新たな取り組みとしてどのように自己完結していけばいいのか。つまり、社会の仕組みの中に巻き込まれて生きてきた部分を、これからは巻き込まれるのではなく自立を意識して生きていくこと、それから自立しながら社会にメッセージを発信していくことの両方を同時に表現しながら歩んでいく必要がある。

もはや時代のメッセージがここまで顕著に現れてきたら、個人的な野望や願望は一切捨てて、この貴重な縁のもとに群れとしてのパフォーマンスを仕上げることが、今の切り替わり時に、我々に対する答えだろう。そして、これからますます来るであろう社会の混乱に対する答えでもある。これは、群れで生きることのパフォーマンスだ。もはや個人の欲望を叶えてそれを希望とし生きていくことは、この世界に矛盾をもたらすばかりであることは明白である。

この歩みに対して、少し時代を先取りしすぎて歩んでいたと認識していた時もあったが、すでに時代が我々の歩みに追いつき、いよいよこの生き方が必要な時が来ている。

だから、2019年のテーマは、「軌道修正」と出た。それは、人類の歩みの方向転換である。そこで何を軌道修正するのか。それは、人間たちの歩んできた一時見た夢が幻であることに気付き、その夢から覚めて、この実相世界の真実に目覚めること。それは、視点を拡大し、世界観が広がらなければ観えないものである。何びとも、この世界に生きるということは、実相世界の時代の波に翻弄されるが、人間以外のものは翻弄されずにその波のままに存在しているだけである。人間たちも、いよいよそのサイクルに戻る時が来ている。今、時代と共に軌道修正の波が来ているにもかかわらず、今までの幻影を追いかけて歩んでいては、時代の波に乗り遅れる。だから、来年のテーマは「軌道修正」と出た。

そして、これからいよいよ群れの時代が始まる。今まで社会は個のパフォーマンスを表現する時代だったが、いよいよ群れの時代の幕開けだ。群れで生きていかなければ、これから生きられない時代が来る。今までの社会は、個人がテーマだったから無駄が多かった。それが群れになって繋がると、無駄はなくなる。これからは無駄をなくさないとこの時代の変わり目に、今までの無駄のツケは乗り越えられない。そういった時代のうねりを敏感に感じる人であることが求められる。つまり、時代のパフォーマンスを感じ取れるセンサーを人間一人ひとりが持たなければ、この変わり目において見当違いな方向にまた進んでしまうことになる。それを正しく見極めなければ、生きることの矛盾や自らの人間性の狭さ・小ささ・低さの実態が明らかになるだろう。だから、広い世界観がいよいよ必要な時代になってくる。

今、本来の自然の成り立ちが狂ってきているから、自然に頼るものにとっては困難な時代が来ている。それに対し、ますます生命カンや人間力(生命力)を磨く必要に迫られている。かたや人間はテクノロジーの象徴であるAIに頼るようになった。AIに頼ることは技術革新としては画期的なことであり、250年前において蒸気機関が発明されたくらい社会にとって画期的なことである。ただ、AIに頼る社会が進めば進むほど、人間の能力は確実に鈍る。そういったものに頼っていくと、人間の脳は早く老いて認知症の人間が増えていく。それは、不要な人間をさらに増やすことにつながる。そして、一部の人間だけが異常に鋭くなるだけの世の中が来る。だから、人間はもう一度自然に還らなければならない。それは、人間が地上に降りた目的の原点に戻ることでもある。だから、思考回路の原点を自然や宇宙に戻す時が来ている。それが、21世紀の人類の目覚めである。そうでなければ、不必要なまでに進歩したテクノロジーがさらに暴走するだろう。そうなると、人間のために生み出されたテクノロジーに使われる側になり、何のために人間が地上に生きるのかを見失ってしまうだろう。20世紀までは人間が金に使われる時代だった。このまま今の延長に進んでいくと、人間はテクノロジーに使われる存在になってしまうだろう。これからは年老いてロボットに世話になる時代がイメージできるところまで来ているのだから。人としてさらに高度な目覚めに至らなければ、このまま人間の能力を使い切らないうちに、人間は自滅することになるだろう。携帯電話やコンピューターのような身近にあるテクノロジーが当たり前になった今、それがないと不便で生活が成り立たないくらい、知らない間に人間たちは自らが発展させたテクノロジーに支配されている。人間の本質はその分だけ衰える。今年は、そのことに気付く年だった。

今、加速度をつけて、今までの矛盾が現象化し出している。その結果、毎年いろいろな面で破壊が起きている。今まで人間たちは、エネルギーを無駄遣いすることが発展だと思ってきたのだが、それは究極的に破壊に向かう行為だった。だから当然のように今、それを方向転換し、収束させる時が来ている。そのためのメッセージとしての破壊が今、起き出した。

いつか、我々の生活も縮小することを優先する時が来るだろう。ただ、世の中の流れと少し違うのは、これから世の中は一方的に縮小に向かっていく。しかし、その縮小の必要性を理解している者たちのネットワークは広がっていく必要がある。そして、時代の必然である縮小を理解できない者たちには、さらなる破壊がもたらされるだろう。だから、その縮小のサイクルの到来を理解して生きる者たちの存在が、これからさらに求められるだろう。その拡大のサイクルは、時代の要請に応える縮小のためのものである。

そこで、これからの時代、人々は群れる必要がある。群れるということは個人が個の願望を捨てシンプルになること。20世紀の後半において、核家族化や個人主義がもてはやされてきたが、それが行き着くところ、集団となり、自己主張をし、その矛盾が統合をもたらし、そして群れ化していく。その時に群れることの意味を勘違いすると、単なる群集になってしまう。群集ではなく、群れでなければいけない。こういった時代だからこそ、冷静になり、ポジティブな群れで生きることが求められる。

今、台風や水害、地震等で地方が破壊されている。今年は九州、大阪や広島、北海道など各地で災害が起きたが、そのうち大都市に災害がやってくるだろう。そうなると、日本は再生できないような状態に陥る可能性がある。そうすると、人々の生きる方向は群れることでしか選択肢はなくなる。これは今の社会の延長に新しい生き方を見つけようとするような生ぬるいものではなく、その選択肢はなくなり、群れで生きるしかない時代が来るだろう。そのときに精神性が伴っていなければ、それは限りなく混乱の方向へ向かい、そこで人々は群集化し、さらに混乱へと向かっていく。人々の精神性が伴えば、群れ化して、人々のライフスタイルが再編される。ライフスタイルの転換が今、人類に必要になってきたのである。確かに我々はそのさきがけなのだ。

来年のテーマである「軌道修正」というものは、まずは人々が目覚めなければ軌道修正はできない。目覚めた者たちにはこの星で生きることの意味が理解され、軌道修正ができる。地球の時間軸にたとえれば、ほんの少しの間の工業化の波が人間たちをテクノロジーの依存症にさせてしまった。もう人間の小手先のテクニックで生きていく時代は終焉を迎える。そして、人々が天と共に生きる時代が始まる。それが、新たに始まる時代の求める軌道修正だ。だから、来年2019年のテーマは「軌道修正」ということなのだろう。

 

 


天の川銀河と対話して~北朝鮮について語るPARTⅡ

先日、いさどんが長野県の大町ビレッジに泊まった日の夜のこと。日中の養蜂作業で疲れてしまったいさどんはいつもより2時間も早く眠りについた結果、「年をとると睡眠時間が短くていいから、早くに寝ると早くに目が覚めるんだよ」といういさどんの予想通り、夜中に目が覚めてしまいました。その時点で十分に睡眠をとれていたいさどんは、次のように考えを巡らせました。

「昨日は頭も痛くて、さらに疲れていて、眠くて仕方がないから、大町の皆とも大して話しもせず、早くに寝てはいけないと思いながらも、とうとう寝てしまった。そうしたら、予想通り夜中に目が覚めた。これが流れだとしたら、天の意志だ。今、僕は何かすることがあるのではないだろうか?」

そこでいさどんは布団から起きあがり、北朝鮮や最近の世界情勢について想いを巡らせていました。そのとき、いさどんはこう思ったのです。

「これはいけない!部屋の中で天井を通して対話するべきではない。今は、外に出て天を観るべきだ。生の星や月を見て対話するべきだ。」

そして外へ出たいさどんが上を見上げたら、そこには月がありました。ところが、月を見て何かを語る気にはなれなかったいさどんは、月とは反対の方角を見ました。そうしたら、そこには天の川銀河の星々が瞬いているのが見えました。

「そうか・・・銀河か。」

天の川銀河はわたしたちが所属する銀河です。最近、いさどんは銀河に向かって語りかけていましたから、そこで自らのまわりにある流れについて銀河に語りかけたのです。

「今、わたしのまわりにある流れは滞っているように観えますが、それもすべてそちらの意志だとしたならば、これは滞っているように観えるどころか、それも流れだと受け取るべきですね。」

そのときのいさどんの目的は、銀河と対話することでした。しばらくして、納得を得たいさどんは部屋に戻り、また眠りにつきました。

そして朝になり、目覚めたいさどんにはあるイメージが浮かびました。なんと、渡り鳥をタモで捕まえる映像が突如として現れたのです!それは何年も前のことなので、いさどんの記憶も定かではないのですが、NHKの番組でヨーロッパの人たちが渡り鳥を捕まえることを特集していたのでした。そこで、いさどんは次のように回想しました。

「冬の前に渡り鳥がやってくる。地元の人たちは岩場の陰に隠れて、渡り鳥が飛んでくるのを見ると、渡り鳥が岩場に降りる瞬間に大きなタモで捕まえる。『昔はたくさん捕れたんだよ。今はいっぺんに数羽捕れることもあれば、まったくダメな日もある。でも、冬になる前に渡り鳥を捕まえて漬物にするんだよ』と地元の人は語っていた。彼らは渡り鳥を羽毛ごと、漬物にする。その渡り鳥は鳩よりも少し大きいぐらいだった。それをどれだけか発酵させてから彼らは食べていた。僕の記憶によると、発酵した時点でその羽毛はヌルヌルになっているから簡単に取れる。だから毛を取って、生でそのまま彼らは食べていたような記憶がある。

その番組を見ていたとき、僕はとても気持ちが悪くなった印象がある。マサイの人たちは牛の首に矢を放ち、牛の血を飲むことがあるけれど、僕にはとてもできない。だいたい、血液というものは消化が悪いから、あんなにたくさん飲むと吐いてしまう印象がある。しかし、それよりも、あの渡り鳥の漬物のほうがさらに強烈だった。ところが、一家の長であるお父さんが渡り鳥を捕まえて冬の食料にし、『おいしいね』という団欒がそこにはある。そうすると、そこではまったく文化が違う。しかし、それは生きていく手段であり、自然との対話であり、生きるためにそれが与えられている。その環境に対してどのように生きていくべきかという智慧が与えられた結果である。そしてその延長に味覚があるから、僕にはうっとすることでも、『おいしいね』『今年のものは出来が良いね』という団欒があるのだ。そして、そういったオリジナルな文化を人々が認め合ったときに、世界に平和がある。」

そして、いさどんは朝の準備をしている大町メンバーのみほさんに次のように語り出しました。

 


たとえば、キツネは目が良いよね。目が良いから、耳と目を上にピッと上げて獲物を狙う。犬は鼻が良いから、耳も垂れていて目も下を向いていて、鼻で獲物を追いかけていく。そうすると、犬はキツネのやり方を見て、「あんな変な追いかけ方をして馬鹿だ!」と思うことだろう。しかし、キツネが犬のやり方を見ると、「あんなに下ばかり見て馬鹿だなあ!だいたい、犬は世界が狭いんだよ」と思うことになる。そこで、鷹がキツネと犬を見たら、「おまえたちは馬鹿だなあ!どっちみち、地上を這っていたら獲物が捕れるか。俺のように上から急降下して獲物は捕るべきだ!」という話になる。そこでさらに、別の生き物がそれを見ていたら、「そんな急降下して外れたら、自分がえらい目に遭うぞ!」と言い出すことだろう。

つまり、そこで僕が考えたことは ――― 結局、人は自分の考えを肯定されると、それを喜び、正しいとする。しかし、自分の考えを否定されると腹が立ち、その究極の姿が戦争だ。ところが、一人ひとり、それぞれの考え方や生き方があり、プロセスをつないできたとしたならば、誰もが尊重されるべきだ。そうすると、自分が認められる前に相手を認めるだけの度量があって、その上で自分が相手に認められれば、平和は自ずと訪れる。しかし、どれだけ自分が正しいと主張しても、互いが「あなたを認めない」と不愉快な心を持っていたら、これでは平和は訪れない。

そこで、わかったことがある。北朝鮮もキム・ジョンウンも、今の状態に至るにはプロセスがあってここまで来ている。過去にカダフィでもサダム・フセインでも大量破壊兵器を持っていなかったから、ある意味敗者となってきたわけだ。そして、日本は核兵器を持っていないから、アメリカの言いなりになっている。「だから、核兵器を持って対等にならないといけない」というのが親の代からのキム・ジョンウンの持論なのだ。そこには民族的なものもあり、恨(ハン)の文化という背景もある。その上に朝鮮戦争があり、身内で骨肉を争うひどい戦いをした。それがまだ終わっていない。だから、とことんケリをつけて終わればよかったのだ。そこに、アメリカが非常に身勝手な拳を振り上げている。

今、北朝鮮は核兵器を持つことによってアメリカと対等になろうとしているが、そもそも地球上の今の核兵器バランスというものはどのような形で始まったのかといえば、核不拡散条約により、核兵器を持つのは良心的で優れた国とされているアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国。この5ヶ国は核兵器を持ってもいいが、これらの国は平和のために持っている。しかし、他の国はならずもの国家で、核兵器を保有したら何をしだすかわからない。平和の脅威だ。だから、5ヶ国以外の国には持たせないという話なのだ。しかし、そもそもこのような核兵器はなしにするべきだったのに、自分たちだけが善良な国で、あとはならずものだから持たせないという話にしてしまった。

核兵器というものは、隣りが持っていると不安だからといって、アメリカが保有したらソ連も持ち、ソ連が持ったからイギリスやフランスも持ち、それで中国が保有したら対抗してインドも持った。それでインドが持ったら、今度はパキスタンが持ったんだよ。そうすると、中東諸国に囲まれているイスラエルは事実上核兵器を持つことになった。

つまりこの状態は、自分の主張が通ったものが善良で正しいという考え方だ。そうすると、北朝鮮のように核兵器だけを持っているのではなく、今は経済と軍事力の時代だから、経済も核兵器も両方持っているのは、アメリカだ。だから現状の世界は、アメリカが自らの尺度で「これはならずものだ」「これは善良だ」「仕方がないからこれは認めよう」と判断しているという姿になっている。

そのような世界に平和が訪れるわけがない。そうすると、北朝鮮の主張もわからないわけでもないという話にもなるだろう。

要は、自分が観た尺度から納得できるのが正しいことで、その尺度から納得できないものが間違っているという考えが、間違っているのだ。北朝鮮からすると、アメリカは横暴な大悪党なわけだ。今までどれほどの人を殺していろいろなものを収奪し、今なおその上に君臨し、世界の富を奪っているのだから。ということからすると、誰もが対等であるべきだ。

その眼から観たら、正しいとか正義はない。ところが、多くの人々は自分の眼から観て受け入れられることの上に平和をつくろうとする。だから、アメリカの傘下にいる日本はアメリカにはごまをすり、北朝鮮には厳しく非難する。ところが、もし第二次世界大戦のときに日本が敗戦ではなく停戦を勝ち取っていたならば、今、日本は北朝鮮と同じ立場にいることにもなるだろう。

人間は、自分の見える目線から判断し、認められるものを正しいとする。それが認められない、もしくは理解できなければ、間違っているとする。その徒党を組んだ極めつけが国家だ。

しかし、伝統的な暮らしも、動植物の個性も、地域による文化の違いもすべて多様性を認め合って初めて、平和がある。ところがグローバル化によって、人間の豊かさの価値観が単一化してしまった。そこで、お金があって欲しい物が手に入るアメリカ型豊かさだけが豊かさになっていると、それを阻害するものは悪で、そのようなものたちが築き上げてきた多数決の世界観が正義になっている。それが現代の問題を生んでいるのだ。そのような価値観はこれまで爆発的に広がってきたが、それは地球の多様性という生命世界からしたら、非常に貧しく単一的な世界だ。そのツケが今、世界中に現象化してきているのである。

そして、その単一化された価値観を阻害するような今までの動きも、実は宇宙からのメッセージであり、その矛盾を人類に示しているとも言える。「ひずみがあるとこうなるよ」と。逆に、ひずみを消すと悟りに向かっていくのだから、悟りに至ることはある意味味気ない世界とも言える。そういったことを宇宙が教えてくれている。

その宇宙の意志が観えるものになること――。それを今の時代に生きる人々に伝えたい。

わたしたちは銀河の法則と共に今、ここにいる。そうすると、今、目の前にあることだけを見ていてはいけない。

 


 

そして、2017年の秋分を迎え、いさどんは次のように語りました。

「木の花ファミリーでは2017年を『爆発の年』と呼んでいる。爆発というのは、究極の破壊だ。そうすると、破壊というのは、陰に入る入り口とも言える。今日、秋分の日を迎えるにあたり、これまでの拡大のサイクルからそぎ落としのサイクルに入る。だから、一人ひとりが不要なことはもうなしにして、必要なことだけを行っていく時が来たということだ。」

 

 


宇宙視点で北朝鮮について語る

北朝鮮が核実験を実施した日の翌日の朝。以下は、いさどんとようこの会話です。


いさどん:
今、北朝鮮はきな臭いだろう?

ようこ:
うん。

いさどん:
彼らのような人間の思考は、宇宙の実体からは、かけ離れた思考をしている。勢力争いをしてね。

ようこ:
そうだね。

いさどん:
でも、これも宇宙の実体の幅の中にあるのだろうね。スターウォーズという映画があったように、宇宙空間にも戦いがあるのだと思う。それで、戦いには悪い側と良い側があるだろう?それは、どちらが悪いかわからないよね。ただ、ひとつの側に立って物語が創られているだけだから。

ようこ:
結局、どちらも戦う側にいるだけだものね。

いさどん:
そう。それで自分の側にいる者との絆のことを愛などと呼んでいるだけなんだよ。結局、トランプ大統領の思考もアメリカ的発想だからね。

ようこ:
北朝鮮でも、中国でも、アメリカでも、そして日本でも大して変わらない。

いさどん:
対立軸にあるという意味では一緒だよ。今までは、これは有史以来のことだけれど、そのような対立を好まないで譲る人たちは、結局退いていった。そうすると、木の花ファミリーのような調和的な生き方が地球上に台頭してくるには、まだ100年以上かかるということかな。

ようこ:
そうだねえ・・・

いさどん:
それを、ここの子どもたちに語ってわかるだろうか。僕は、常に重要なことを語っていると思うよ。昨日の夜、今ケア滞在しているRくんにも本当に大切なことを伝えた。自分を守ろうとすることが、自分を貶めているということが人にはわからない。これはカラクリなんだよ!これは、今の北朝鮮も同じだよ。国益を守ろうとして、霊的な価値を落としているのだからね。それに、アメリカは議会がもっと機能している国かと思ったら、大統領によって完全に暴走してしまう国になる可能性もある。

ようこ:
結局、大統領令という制度があるから、独断で何でも決断できるしね。そうすると、民主主義なんてどこかに行ってしまって、独裁政治になる。

いさどん:
民主主義といっても、その時に政治の中枢にいる人たちの権力の実体がそのまま出てくるんだよ。

ようこ:
そうそう。そう考えると、アメリカも北朝鮮と大して変わらないね。

いさどん:
変わらないよ。

ようこ:
日本だって、道理が通ったリーダーシップが発揮できているわけでもなく、賢明な見解を世界に対して発信できているわけでもない。

いさどん:
対応が制裁一辺倒でね。話し合いをしても意味がないかもしれないけれど、制裁一辺倒を押しつけるのも策がない。結局、何が問題なのかというと、当事者たちの柔軟性のなさが問題なんだよ。

ようこ:
そうだね・・・。ねえ、いさどん。もし、いさどんが今、日本の首相だったら今の北朝鮮に対してどのような手を打つ?

いさどん:
北朝鮮については、まず、事が進み過ぎたんだよ。

ようこ:
そうだね。そもそも、もっと前に手を打つ必要があった。

いさどん:
そう。もっと前に、何か違う方向性を見出さないといけなかったのだけど、今は意地の張り合いで、引きたくても引けなくなってしまったんだよ。北朝鮮は腕白でわがままな国の代表のようなものだろう?それに対して、これまで覇権を握ってきた国家たちはそれを許せない。そこで僕が予想するに、どうもとんでもない兵器を彼らは開発していて、逆に言うとその兵器をつくるな、という側も実はそうした兵器を平気で持っているんだよ(チーン♪)。

だから、ずっと前に、あの戦争を終わらせておかなければならなかった。この状況は朝鮮戦争から来ているからね。それで、共産主義と資本主義の冷戦時代が崩壊した時に、北朝鮮も一緒に崩壊しなければならなかった。でも、朝鮮戦争の恨みが結局残っていて、それがそのままで手付かずになっているんだよ。

昨日もテレビのコメンテーターが「難しい問題ですね」と言っていたけれど、意地の張り合いで、難しいと言えば難しいよね。しかし、意地を張るのをやめたら、別に難しくもない話だよ。

結局、直接日本に何かが起きないと、上空にミサイルが通ったぐらいでは人は目覚めないからね。それと、それは北朝鮮が悪いという話になるだけだから。

ようこ:
そうそう。

いさどん:
本当は、そういう時代に自分たちが生きていることを全人類は知る必要があるんだよ。今の北朝鮮の精神レベルは、人類の実体なのだから。仮に、アフリカでも独裁的な指導者が現れてあのような財力や技術を持っていたら、それはどこででもありえることだよ。結局、精神レベルの問題だからね。

ようこ:
そうだね。だから、北朝鮮が悪者で、自分たちが正義の側ということはない。結局、Rくんの話と同じで、どんなに自分を守っていても良いことがないように、国家が意地を張っていても最終的には良いことは何もないんだけどね。

いさどん:
トランプ大統領は70歳を過ぎているのにもかかわらず、あんなに子どもじみていて、ある意味正直な人ではあるよね。彼がアメリカ大統領になるということは、これまでアメリカという国が歩んできたことの結末なんだよ。アメリカ人は自分たちが選んだ大統領を、「自分たちが選んだ」という意味でもう一度振り返らないといけない。ところが、自分たちが歩んできた道の結果であるということは忘れて、「トランプが問題だ!」と訴えている。

北朝鮮のキム・ジョンウンも、なぜ自分がこのような過激な腕白坊主のようなことをやっているのか、ということを振り返らないといけないのだけれど、何しろ感情的で腕白な状態になっている。負けず嫌いで、下手したらあれでは国を潰すよ。国の何千万という人々の未来がかかっているのに、彼はなぜそういったことを考えられない人なのか、ということを本当は考えないといけない。

彼らのような人たちが今、国のリーダーになっている。安倍首相でも、何でも制裁強化と言っているけれど、北朝鮮が暴走したら、一番困るのは日本だよ。韓国もそうだけどね。だから、韓国は少し慎重になっていて、話し合いで解決しようとするでしょう?でも、アメリカや日本に乗せられて、制裁と言っている。

やはり、現代の人々は皆、世界観が狭いんだよ。でも、そもそも人々には「自分の世界観が狭い」という概念がないからね。

ようこ:
そう考えてみると、今、世界観が広い人が世界中にどれだけいるのだろうか。

いさどん:
ここでまたひとつ、カラクリがあってね。たとえば、人は自分の世界観が狭いことに気付くと、「広い世界観を持ちたい!」と思うものだろう?でも、そう思う心が欲でね。その場合、いくらそう思っても、世界観は広くならないんだよ。最近、僕がよくケアを受けている人たちに伝えることは、「いくら一生懸命やっても、方向性が間違っていると、結局問題が繰り返される日々が続くだけなんだよ」ということ。

これからは、正常な方向性を見出し、その方向に歩んでいくことが最も大切な時代なんだ。

そして、僕はこれから、神通力・超能力を開発させていくステージに入る。それは、人間の可能性の探究の新たな歩みになる。

その神通力とは――、僕がその場に行くと、そこの場の波動が高まって、人々の考え方が変わるきっかけになる。「あの人はなぜあんなふうなのだろう?」と人は思うようになる。

たとえば、昨日車屋に行っただろう?そうすると、車屋は車を買ってくれたお客にただいろいろと説明しただけなのに、「なぜかわからないけれど、あのお客に惹かれる」と頭の中に何か忘れられないものを残していく。そういったことがもっと日常の中で頻繁に現れるということだよ。

ようこ:
簡単に言うと、人類の目覚めを自らの存在をもって促すということなんだろうね。以前いさどんは、「おやじの館」というビジョンを持っていたでしょう?いさどんがその館の一番奥の部屋に座っていると、何か悩み事を持っている人が訪れ、いさどんの顔を見て、それでいさどんがにやっと笑っただけで、その人は「ありがとうございました!」と言って納得して帰っていくというビジョン。今の話は、そのビジョンとも重なるね。

いさどん:
超能力というのは、たとえば具合が悪い人が来て僕が接していたら、正常な方向へ誘導されて良くなっていくということ。これが、超能力。奇跡は起きるんだよ。今までのような、物理的一辺倒に科学を駆使して病気を分析し、症状を改善していくのではなく、病気というものはその人に精神的な病気体質があるから、病気になるんだよ。だから、そこにアクセスしていく。そして、固まっていた根本原因がほぐされて柔らなくなったら、症状が変わっていく。これが、神通力や超能力だ。そして、その能力は特別なものではなく、誰にも可能なことなんだよ。

僕はよく、「心が貧しい者は良い人生は生きられない」と言うだろう?それは当たり前のことだけどね。いよいよ、それを重要なこととして立証していくということだ。

 

 

Source of image:THE WALL STREET JOURNAL


 

以下、宇宙視点を学ぶ講座をご案内します。

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2018年1ヶ月間の真学校
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1ヶ月間の真学校は、壮大な時代の流れを読み解きながら、それまで知らずにいた本当の自分自身に目覚め、生きることの突破口を開く場です。
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2018年2月25日(日)〜3月24日(土) 28日間

会 場
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☆その他、2017年受講生からは「こんな人に勧めたい」という様々な声が上がっています。受講生アンケートをご覧ください。→ 受講生アンケート

メイン講師・いさどん
メイン講師・いさどん

内 容
講座は「世界観」「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多岐にわたりますが、全講座に共通する最も重要な学びは、物理的な現象の奥に流れる深い精神性です。受講生の心の性質や世代の特徴、そして人生における役割などを紐解くことにより、それまでに考えたこともない新たな視点に出会って世界観を大きく広げ、生き辛い社会で生き抜く力を身に付けていきます。

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