真実を発信していく

ここ最近養蜂作業が忙しく、生活のリズムが狂っていた。そして今日、養蜂の作業が一段落したので、狂ったリズムを整えるために休んでいたら、夢を見ているとも起きているとも言えないような状態の中で、ある意識が浮かんできた。それは「トキが来た」ということだ。

今、インターネット上に、真実を歪めて木の花ファミリーをバッシングしているサイトが横行している。ものすごいエネルギーを使ってここを貶め、封印しようとする力が働いていることに対して、そのエネルギーを逆に、真実を発信していくためのエネルギーに転化できると気付いた。
多くの人が興味を持っているからこそ、ああいったサイトを見る。そこで、彼らが見ているバッシングサイトの情報に対して、その情報の出所の元にある心がどのようなものであり、そこに表現されている現場の実態は実際にはどうだったのかということを提示してあげれば、彼らはバッシングサイトを見ていたのと同じエネルギーで、真実は何なのかということを感じ取ることになる。それは、バッシングサイトが描いて訴えようとしているイメージと実際は違うということや、それを見る自分自身の視点の偏りに気付くチャンスになる。
バッシングが始まって3年目となり、ある程度それが社会に浸透した今だからこそ、トキが来て、そこに表現されたエネルギーは一気に逆転する。うたた寝から目を覚ました僕は、養蜂の一段落と、バッシングが逆転へ転じるトキが同じタイミングで来たことを感じた。

そのタイミングを感じた時に、台所に8個のキジの卵が置いてあるのを見た。それは日中に草刈りをしていた畑隊が見つけて持ち帰って来たもので、ステンレスのボールに入れて流し台の上に置いてあった。巣の周りの草を刈るだけでも、人間の匂いが付いて親鳥は寄り付かなくなる。そこで畑隊が持ち帰って来たのだが、僕はそれを見た瞬間に、そこから生気が湧き出ているのを感じた。あんなにも生きようとするエネルギーがあふれ出しているものを、ステンレスのボールに入れて置いておくということがあるだろうか。
懐中電灯で卵を透かして見ると、幸いなことにまだ分裂を始めていなかった。今から温めてやればまだ間に合う。これは食べるものではなく、命として孵してやらなければいけないものだ。そういうことを感じられることが大切なのだ。

かつて僕はまりちゃんとコンビを組み、合鴨の卵を孵してきた。温度は37.8℃、湿度は50~70%で、1日に5~6回転卵をする。孵化させるのにどれほどきめ細やかな配慮が必要か。それは真剣に向き合わなければできない。
しかしそれは、神経をすり減らすようなこととは違う。コンピューターがやるのではなく人間がやるのだから、命が育っていくのを感じながら、楽しんで、気楽にできるものだ。自然界の親鳥も、トイレに行ったりごはんを食べたりしながら、それでもきちんと命と対話しているから卵を孵化させる。そういうファジーな能力が、人間にはある。感じ取る能力があるのだ。
まりちゃんと卵を孵してきたように、かつて僕はやすえどんとコンビを組んで糀を仕込み、ひろみちゃんとコンビを組んで木の花菌を作り、かずこちゃんと組んで雛鳥を育てた。そうやって人間の持つ能力を研ぎ澄ませてきた歴史が、木の花にはある。それはとても神聖なことであり、そういう場を汚してはならない。

今、僕ときょうこちゃんは、新たなプロジェクトに取り組んでいる。それは、新しいきょうこちゃんをつくること。僕は彼女にこう伝えた。「それはきょうこを壊すこと。自分を壊すことだぞ」と。自分を壊さなければ、奥に眠っているものは出てこない。
これまでのきょうこちゃんは自分のことばかり考えて生きてきて、その姿勢の結果ガンになった。彼女は命がかかっている。それは自分がつくってきたことであり、それをつくった自分自身を壊さなければ、命は取り戻せない。とても真剣なことだが、人間はその段階へ行く時が来たのだと僕は感じている。
このプロジェクトが始まって、最初は僕がきょうこちゃんにヒーリングをしていた。きょうこちゃんは毎日まじめにやって来るが、僕はだんだんきょうこちゃんにヒーリングをする気が起きなくなった。そうすると、逆にきょうこちゃんに、僕に対して何かしたいという気持ちが湧いてきた。きょうこちゃんが僕に癒しを提供することで、きょうこちゃんが癒されている。
僕は最初自分がやってあげるつもりでいたのにだんだんやる気が起きなくなって、この意識の変化は何だろうと思っていたが、そこで答えが出た。そうだ、人のためになるという心をきょうこちゃんに目覚めさせるということだ、と。自分のことばかり考えてガンを作った者が、人のために生きたら、ガンは消える。(「癌」は、品物を山のように抱えてなる欲深な病気と書く。)
何日か続けているうちに、お腹にあったしこりがやわらかくなって、確認できなくなってきた。病院での検査結果がどう出るかはわからないが、今、きょうこちゃんのお腹の中から、悪いものを発している波動を感じられなくなってきた。

僕がきょうこちゃんにやっていることは、単なる病気治しではない。人間の能力を引き出す実践をやっている。それはキジを孵すことと同じだ。
我々がやっていることは、一人ひとりの人格を探求することも、個人の道を見極めることであると同時に、21世紀の人類の歩みにとって重要なことだと言える。それは、一人ひとりの意識が現状の地球の混乱の原因になっていることに気付き、その責任をとるという意味で、個人は自らが地球世界にもたらしている矛盾を一人分解消するべきだ。それを、国や地域のリーダーたちの責任にしている場合ではない。なぜなら、そういった立場の人々を選んでいるのも、自分自身なのだから。そのように、一人ひとりがこの世界に対する自覚を持つことが、次なる新たな時代へのステップとなる。
これからは、我々人間の奥にあってまだ我々自身も気付いていない、人間がこの世界に生み出された目的に目覚めることにより、これまで眠っていた能力が開花していく。それは今、田畑で行われている栽培法の変化(詳しくは木の花ファミリー通信「農業革命」をご覧ください)や、新たなプロジェクトが次々と立ち上がっていることともつながっている。同時に、世の中の人々がここの真実をわからずにいる不幸を解き明かすトキが来ている。この存在を理解できないことは21世紀の損失である。これは本当に21世紀の人類が進むべき方向性であり、時代が生み出した宝だ。

我々が生きていることに対して、自らが理解をしていることはごく僅かであり、生きているということに対し我々は無力である。真実は、存在するとは与えられていることであり、生かされていることである。現代人は、自らの思考の延長線上に生きようとしているがために、この世界から与えられていることを受け取る能力(現代人は脳の10%しか使っておらず、残りの90%は休眠状態にある)を退化させている。その現実を理解し、その状態に自らを貶めている自身の中にある性質と向き合うことにより、眠っている能力を使いだすことができる。
ところが、文明を発展させていく過程で人間の自我が優先するようになり、人々は自らの自我が生み出す欲求に翻弄され、その欲求を満たすことのみに奔走してきた。本来人間の能力とははかりしれないものであるが、自我の欲求を満たすことに囚われているがゆえに、自我により認識されている能力の奥にある、潜在的な力を使うということを怠っている状態だ。それは、今自分が起動させている以上のものはないと思っているからだとも言える。だから自らの枠の中でしかものを考えようとしない。
その場合、自らの枠を壊す作業をしなければいけないが、囚われている人間はその勇気が持てるかどうかだ。囚われという枠を壊せば、その奥にあるものが出てくる。それは思考回路だけでなく、その奥に秘められた潜在能力が出てくる。木の花の中にも、一生懸命やっていてもなかなか流れを読み切ることができない者たちがいる。そこで彼らは僕に「どうしたらいいでしょう」と聞いてくるのだが、そんなことを人に聞いてどうするのか。思い切り悩んで、自らの内にあるクセにまみれた思考回路を壊すところまでいかなければ、その奥にある潜在能力を引き出すことはできない。

一生懸命仕事をすれば、物理的には役に立つ。しかし役には立っても価値は付かない。価値がついて初めて、人は本当に役に立つことができる。それは、今までにないものになるということだ。
これまでは、一生懸命だけでもよかった。しかし、一生懸命に見当違いのエネルギーを使っているようでは、この世界に害がまき散らされることになる。それを、今の時代の現状が表している。そこでこれからは、眠っているものを掘り起こすということをやっていく。我々は起きていてこの世界を認識していると思っているが、その世界で目覚めるということは、実はこの世界が眠っているということだ。その眠っているものを起こすには、自らを壊す必要がある。

これから、人間がこの世界に存在する本当の意味を開花させる時が来る。ここは、それが世の中に先駆けてできる所だ。しかし毎日既製品のような仕事をこなしているだけでは、新しい能力は出てこない。物理的に仕事をこなせているから自分はできていると思っていると、自分を足りない者だと自覚して真剣に向き合い、その奥にあるものを引き出そうとする姿勢にはならない。
日頃はボケていても、ポイントのところはピッと感じられる人間になることが大事だ。ボケているから、キジの卵をステンレスのボールへ入れ、平気で台所に置いておいたりする。それではまるで食材だ。しかし卵からは「食材じゃないぞ!」という生気があふれていた。原始的な人々や食べることを優先する人間はためらうことなく食べるかもしれないが、意識レベルが高くなった人間は、やっていいことと悪いことを、そのものごとに出会った時に瞬時に感じ取れるものだ。この卵は食べて命を終わらせるものではなく、循環を止めるものでもない。自然から奪ったものだから、命として孵るかどうかはわからないが、少なくともその挑戦をしてあげることは、卵にとっても本望だろうと思う。食べられるために野に生みつけられていたわけではないのだ。
そういったことが、直観で感受できる者になる。それは本来当たり前のことで、人間が自然と共にあった時代にはあり続けたものだ。現代人はそれを忘れている。

そして今、我々に求められているのは、その次の段階だ。発信するのは、木の花というのはいったい何もので、何を目指しているのか。
今の世の中の多くの人たちは、それが理解できない。自らの枠の中では解釈できないものを、自らの枠の中でイメージし、創り上げ、それをバッシングサイトで表現している。しかしそれはここの実態ではなく、その人自身の中にある世界だ。

何か現象に出会うということは、自分自身を知ることであり、自分との出会いだということが、人間はわかっていない。出会うとは、自分という現実に出会うこと。自分がない人は自由自在に変化していく。しかしいつまでも古い自分がとれないと、痛い目をして学ぶことになる。ひどいのは、痛い目をしてもわからずに同じことを繰り返す。それが今、人類に問われている。

今、僕の中にはとても重要なことが湧き出してきている。

近ごろ、皆神山が僕の中に浮かんでくる。今年3月、皆神山で特別な生き方を受託していることを再確認したが、その後しばらく日常生活をやっていた。しかし、その生き方をここに表現する役割がある。
これは、人類に目覚めを与える話だ。ネット上の批判のような汚れをかぶっても、この歩みは時代の意志を表した歩みであるがゆえに、止まることはない。今の時代は、自らを振り返らない者たちがその実態をわからないがために、それに立ち向かえば火の粉をかぶることもあるだろう。
しかし今、トキが来ていることは確かだ。この一連のバッシングはなぜ起きたのか。それが天の采配であるならば、それは一体全体何であったのかを全て解き明かし、世に示す時が来ている。それはバッシングをする人々に向けたものではなく、世の中全体に向けるものだ。
これからの時代に、我々は何をしようとしているのか。その価値は未来に行ってみて観えることであり、約束されてから行くようなことでは、自我の納得の上にいるに過ぎない。人間たちはもう、そういうことをやめなければいけないということを表現するために、我々はこの生き方をしているのだから、これは前人未到の世界だ。人間はいよいよその領域に入ったのだということを、この場全体で表していく。

もう、物理的五感を優先する人間を超えなければならない。時代はそれを求めている。これまで以上の段階へ進もうとしたときに、自分を壊せない人間はダメだ。自分の枠を超えられない人間はダメだ。自らの能力を超えたところを開発して、そこを観ていくのだから。それは見せかけをきれいに整えるのではなく、囚われの枠を壊して湧いてきたものを表現するということだ。
そういったことの価値を考えない者にとっては、ここは厳しい場にも見えるだろう。しかしある景色が観えた者にとっては、インチキな場所ではいけない。表面だけを繕っているような場は、嘘だろう。この時代のこの世の中に、なぜここがあるのか、ということを、世の人々に伝えていく。

現代の人々に伝えたいのは、なぜこれがわからないのか、ということ。なぜその視点に立てないのか。これは珍しい話ではなく、当たり前に道理を追っていけばわかる話なのに、それがわからないのはあまりにも思考が狭い範囲に特定されてしまっているからだ。しかし21世紀の宇宙時代を迎える人類は、それではダメなのだ。時代はすでに、この思考回路を元にして創られる時代に入っているのだから。

「現代の人々に対して」と言うと焦点がボケてしまうから、あえてこう言おう。今、あなたに問うている。そこに目覚めることが、次の時代を生きる資格なのだ。
世界のリーダーたちがいくらサミットを開催しても、それは結局は個人の損得勘定の思考回路が国家レベルになっただけで、エネルギーが大きいか小さいかの違いがあるだけで同じパターンをやっている。今の経済にしても環境問題にしてもテロ対策にしても対処療法的なことしか考えられていないのは、思考がとても狭い範囲に限定された損得勘定の上にしか回っていないからだ。しかし、人間は本来、そのような存在ではない。

これは伊勢志摩サミットを超える話だ。あのサミットで、20世紀までの人類が地球にもたらした矛盾を解決する画期的な対策を、何か打ち出しただろうか。
話し合われたのは、経済をさらに発展させるにはどうしたらいいかということだが、今の人類の経済に対する姿勢のままで経済を発展させたら、地球環境をさらに悪化させることになるのは周知の事実だ。にも拘らず、世界のリーダーたちは方や環境問題を語り、方やそれと矛盾する経済発展を追い求めている。そのように欲望を叶え続けることが、この世界の矛盾を連鎖させ、さらに大きくしている。

もう一つおかしなことは、資本主義国家だけが集まり、立場の違う国家を排除して自分たちの利害の元に一方的に世界を導こうとし、それを正義として掲げていること。それが今の世界の現実だ。テロの問題にしても、体制的に相いれない国を否定することで世界を安定させようとしているが、それは自らの利害関係の上に立っている以外の何ものでもない。
このサミットがなぜ行われたのかというと、そのように結束する仲間集めをアピールするために行われただけで、今の矛盾への解決策や、新たな時代の方向性を見出せていない、極めて20世紀型のものだ。そして、なぜ世界のリーダーたちがそろってそのような姿勢をとるのかと言えば、彼らを輩出している国家を形成する国民がそういった価値観を求めているからだ。そこから支持を受けている彼らは、本能的にそういった姿勢をとらざるを得ない。つまり、今の世界の矛盾はリーダーの責任ではなく、国民一人ひとりの責任なのだ。リーダーは、それにふさわしい人だから選ばれただけだ。

サミットでリーダーたちは演説を行ったが、それは表面的で言葉にも力がなかった。背景に自国の世論の圧力があるために、彼ら自身の明快な意志を表すことができないのだ。人々の欲望を駆り立てる時には、欲まみれの人々によって熱狂的な支持を受けるが、どんなきれいごとを語ろうとも、その姿勢に矛盾があっては、結局は筋の通ったものにはならない。背景にたくさんの利害関係が絡み合って、強いリーダーシップを発揮できなくなっているのが、今の世界の現状だ。
オバマ氏もあと8ヶ月で任期が切れるのだから、大統領としての立場を離れて一個人としての本心をあの場で語ったならば、もっと人の心を打つ演説になったかもしれない。しかしアメリカの大統領はスポンサーが多すぎて本音が出せなくなっており、それがアメリカ大統領の限界となっている。そこを突破する可能性があるのが、トランプ氏だ。
トップが民衆の顔色を伺う風見鶏のようになって強いリーダーシップが取れなくなった、ある意味終焉を迎えている国の末期症状として、トランプ氏のような人物が台頭してきた。国民は現状の矛盾に対する言いようのないフラストレーションを抱えており、それが彼らをトランプ氏支持に走らせている。
ではそのフラストレーションとは何か。これまでアメリカという国は、自分たちは世界を平和に導く善の国であるという自負の元にリーダーシップをとってきたが、その幻想が今、崩れようとしている。アメリカ人の中には自らが常に世界のトップに君臨していたいという感情があり、その実態は極めて身勝手で幼稚である部分も秘めている。しかし、対外的には「世界の警察官」という立場をとってきた。そのように、ある意味偽善者をやってきたことにより、国内に矛盾が発生し、豊かな国アメリカの影の部分に立つ人々に言いようのないフラストレーションが溜まり、それが限界に来ている。

これからの世界の国々のリーダーたちは、トップダウンのリーダーシップを取るのではなく、本音で語り合い、我々人間とはいったい何であるのかということを、これまで積み上げてきたものをすべて崩して話し合う必要がある。いじけている北朝鮮のような国も仲間に入れて話し合う。そういった意味では、トランプ氏は金正恩氏と話し合う用意があるというのだから、画期的かもしれない。
オバマ大統領にせよ安倍首相にせよ、今回集ったリーダーたちは今の体制や今までの価値観を守ろうとしている人たちだ。しかし、時代や社会的、環境的背景は、今や、これまでの人類の地球上でのふるまいを否定することを示すメッセージを発し続けている。だから、幻のように欲望の上に積み上げてきたものは、壊れなければならない。そういった矛盾をはらんだものを守ろうとすればするほど、サミットも単なるパフォーマンスの場となり、希望が生まれないどころか、利害の上に集う者たちがいれば、それに対抗する立場の者たちとの対立を深めることになってしまう。

オバマ大統領は、今回のサミット参加直前に、かつての敵対国であったベトナムを訪問し、友好の証として武器輸出の商談を成立させた。自らの強い望みとして核兵器のない世界をうたい、核兵器の拡散を防ぐと言いながら、その一方で通常の兵器を拡散し充実させており、その上に平和な世界を実現するという矛盾を語っている。
そして、核兵器のない世界を実現すると言いながら、すでに核を持っている国に対しては保有を認め、持っていない国には核を装備することを禁止する。事実、核兵器をなくすことに反対しているのは、核保有国だ。そのように矛盾している国々が国連の常任理事国であり、拒否権を持っている。こんなにも道理の通っていない世界秩序があり続けることを、おかしいと思わないのですか。みなさん。
そしてまたオバマ大統領は、かつて自国が核兵器を落とした地へ行って戦争の愚かしさや核をなくすことを訴えながら、その直前に米軍の岩国基地で行った自国軍への演説では「あなたたちは国家を支える重要な人たちだ」と激励し、やる気を起こさせている。軍人にやる気を起こさせるとはどういうことか。これが核兵器廃絶を願い平和を訴える者の、矛盾でなくて何だろうか。

しかし同時に、その訪問を受ける側の国の人々も、かつての敵国のリーダーが来たことだけで喜ばしいという、温厚なのかお人よしなのかわからない姿勢でいる。怒れとは言わないが、少なくともその言葉の奥にある実態を感じ取るだけの直観力を持ちたいものだ。
世界各国の代表が高級な車に乗り現れるのを見て、この国の人々は偉い人たちが来たと思い迎えたかもしれないが、アメリカ大統領の車はロケット砲でも通用しないような戦車のような車であり、戦艦が空を飛ぶような飛行機やヘリコプターを使い、常に厳重な警備の元に行動しなければならず、そういった立場に立った者の不幸というものがある。そしてその立場は、自らが招いている。そのような背景を知っていたならば、彼らをただ微笑ましく迎えるばかりではないとも言える。
そして今回のサミットには、600億円の費用がかかったと言う。それで世界の経済を発展させると言うのだが、ロシアも中国も参加していないのに、西側諸国だけが集まっていったい世界経済の何を語るのだろうか。この2日間のために28億5千万円をかけて建設されたメディアセンターは、サミット終了後には取り壊されると言う。そういったお金の使い方をしながら、一方では災害復興や原発の廃炉のための資金が必要だと言い、毎年大量の国債を発行して借金を増やし、消費税を増税すると言ったかと思えば、選挙の前にはそれも先送りする。やっていることが滅茶苦茶なのだ。

今、日本ではSEALDsのような動きがあるが、香港の傘兵の他、台湾やフィリピンなどアジアの各国で、若者たちが今の政治に疑問を投げかけ、新たな動きを起こそうとしている。しかしそれは、次の時代の呼び水にはなるかもしれないが、現行の体制に対する反発として条件反射のように出てきたものであり、それ自体が新たな時代のあり方として出てきたものではない。つまり、20世紀型なのだ。
香港の若者たちは中国の体制に反発し、ガンジーの非暴力を掲げているが、実はそれもまた暴力だ。なぜなら、そこには対立軸があるから。彼らは優秀で、いずれ政治家になるのかもしれない。しかし世の中を変えるということからすると、彼らは今の体制があるからこそ、そこへの反発をエネルギーとして出てきたのであり、彼らの中から独自に新たなものが湧き出しているわけではないのだ。

もう新たな時代が地球上に来なければいけないのに、そのための指針を示せる場所が、世界中のどこにもない。19世紀、20世紀に発生したイデオロギーは、社会主義でも共産主義でも資本主義でも、人々の実際の生活につながっていた。ところが最近台頭してきたイデオロギーは、生活に密着していない。何か強大なものに対する反発として発生しており、単なる闘争になっている。
それをもう一度、生活に落とすというところへいかなければいけない。それを生み出すのは、智恵だ。イデオロギーも本来智恵であるはずだが、20世紀型のイデオロギーは智恵ではなく、怒りのエネルギーが元になっている。それが智恵となって湧き出した時に、若者たちは実際にその生き方を始めるだろう。そこがまだできていないから、今の若者たちの動きはまだ次の時代の受け皿にはならず、ただ大人たちがやっていることへの反発となっている。
香港の若者たちは中国の体制に反発し、それを壊そうとしている。それは体制側が今の状態に執着しているからこそ、それを壊そうとするエネルギーが働くのだが、そうしている若者たち自身も同じ立ち位置にいることに気付き、自らを壊さなければいけない。なぜならそれは、執着と執着の対立だから。これはかつての西側対東側、共産主義対資本主義といった構図も同じで、双方が共に壊した時にこそ、新しい世界を創ることになるのだ。

これはおもしろい分析だが、こんなことを語る年寄りの存在に若者たちは気が付かないから、なかなか伝える機会もない。この視点は彼らの情熱に水をかけるようなものだから、熱く燃焼することに邁進している彼らが、水をかけられるようなものに興味を示さないのも仕方がない。しかしあのままいくと、そのうちに火傷することになるだろう。

我々がやることは、ウケ狙いではない。ニセモノだらけになってしまった今の時代に、真実を、生命エネルギーを乗せて表現していく。
我々がいかに、土に触れ、自然と向き合いながら生きるということをやってきたか。そのエッセンスがここにはたくさんある。それと対話する能力をこれから開花させ、広めていく。机上の空論で理想郷を語っても、現実に成るわけがない。成るとは、地球はそもそもそういうところだということに気付くということだ。

久しぶりに、天の扉が開いた。
最近は上を見ると天井が見えていたが、久しぶりに天井を突き抜けて、その奥が観える。

これは個人的な偏った見解ではなく、必ず近い未来に人類が体験することを予言として語っているものである。それを感知できるような人類でなければ、これから訪れるであろう更なる困難を乗り越えることはできない。

 

 

 


お釈迦様の時代の悟りから、新たな時代の悟りへ

ある日の大人会議で、「いさどんの七夜物語」シリーズ第六話がシェアされました。

 
こうちゃん:
この七夜物語の第六話には僕のことがたくさん出てくるんだけど、自分を振り返ってみると、あのころから比べて意識的にとても変化したと思う。これはとてもいいなというか、誇れるというか、今日読み合わせた七夜物語の第六話の中でいさどんが話した境地までは、まだ至っていないと思うけれど、この先が楽しみだと思います。
これを読んで、みんなは「自分が主役であること」や「一人一人が全体性を持つことが大切」と言っていたが、それと同時に僕が思うのは、こういった意識を七夜物語のところからずっと育ててもらったのだと思っています。
この意識を日常でいつも持っていたら、常に自分が主役であるという意識を持つことや全体性を意識して心がけることに加えて、世界観を広げる意欲があれば、その延長に着実に歩んでいることを感じられるし、今度アンテナショップもできることになったので、そこにこの心をもっていけば、外の人たちに異次元空間は提供出来ると思っている。

いさどん:
人間に生まれてきた「性(さが)」、これを人間性といいますが、その人間性は生きているとどのレベルかということが問われます。人として生まれてくるものの特徴は、思考回路が複雑で、願望を持つようになり、さらに願望を膨らませることもします。そこに、長年生きてきた結果しみついた心の癖(カルマ)に翻弄されて生きれば、さらに複雑な生を生きることになります。
そういった生を通しての経験は、垢を取り去り、意識が高まって高次元の美しい人生を生きるようになるのが本来の在り方ですが、人間の性(さが)というのは低い次元の状態でいると、しみついたカルマが垢として、高次元の美しい人生に到達することの障害物にもなるものです。そして、そこで得た経験やものが執着となり、さらに人生の足かせになっていくものなのです。

現代社会において、高い地位や優れた能力を発揮し、評価されているような立場の人々が、その立場に相応しい立派なことを語っていても、その人の奥にある精神性が、自我そのものであるということが今の世の中にはたくさんあるのです。優れた能力を発揮したからといって、その奥にある性質により、その人自身の霊的な価値は図れないのです。結果それでお金儲けに走ったり、その立場に執着するようであれば、世の中に混乱をもたらす原因にもなるのです。

それは、今の時代の成功者として評価されているリーダーたちや、政治家、経済人、宗教家、教育者などなど、そういった人たちが多いのです。そのような人々は、自らの内側に向き合い、自分の魂を潔く禊ぐくらいの精神を持っていかなければ、自らは善い行いをしていると思っていても、世の中には混乱をもたらす原因となり、霊的には罪人にもなるのです。

そういった現代のからくりが、今ひも解かれる時を迎え、社会ではその裏側が各方面で暴露されてきています。パナマ文書はその一つの事例です。そのような現象は、今地球のマグマが活動期に入り、世界中の火山が活発に活動し始めたように、それはある意味、精神世界の火山が噴火し始めたようなものです。このような世の中の闇の部分は、これから益々暴かれていくことになるでしょう。

そういった時代を表現する人間の性(さが)に対して、その昔お釈迦さまは仏法を通してどのように道を示したのでしょうか。すべては、自分という認識が成立することによって世界を解釈し始めることから始まります。人のすべての解釈は、自我の成立から始まり、その自我の位置を基準としてそれを尺度とし、この世界を図り始めます。ですから、始まりの始まりは自分というものの成立から始まっているのです。

一体全体、人間とは何者なのでしょうか。そして自分とは何者なのでしょうか。ほっておけば悩むし、ちょっと迂闊にしていれば腹も立つし、妄想も膨らませれば、願望も膨らみ、それに囚われればことが成らないといって萎縮もするし、ことが成れば自信過剰にもなる、感情の荒波に翻弄される複雑な存在です。それが、それぞれの個体で個性的な特徴を有し、無数に存在しているとしたならば、このような不可思議な生き物がほかにいるでしょうか。

そんな人間の中の自分というのは何なのか。自分が存在するばかりに、この世界を解釈するのです。その解釈は、人間の数ほど尺度があり、人間の数ほど物事の捉え方が違うのです。それを客観的に観察すると観えてくるものがあります。その目線は、自分というものの自我の窓を通してしか外が見えない。どんなことをしても、自分以外の窓から見ることはできないのです。そして、この自分というものをどのように捉えるのかというと、お釈迦さまの示された道はネガティブモードの道だったのです。

その道の始まりは、生老病死に始まり、人生の全ては四苦八苦なのですから。だから、この世界に生まれ存在することの全てが苦痛であると、説かれたのです。そして、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から離れるためには、どうしたらよいのかと考えたのです。そこにはたくさんの理屈があるのですが、結局は自我という尺度を持っているから苦しみに出会うのだと結論づけています。そして、諸行無常、色即是空と説いたのです。

しかし、そのような苦痛からの解放を求める境地のものに、手法としてこのように思えばいいんだと伝えたところで、その思いが湧き出す自分がいる限り、思いは湧いてくるのだからどうしょうもないのです。そこでどのように瞑想をしたところで、その結果は迷走に繋がることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものだからです。このような体験をいくら積んでも、その思考形態で生きていること自体、四苦八苦を産み出す仕組みの中にいるのですから。
そこで、どうしたらいいと思いますか?

A子:
死ぬ。

いさどん:
死ぬ?違うよ。死ぬんじゃないよ。反対だよ。

B男:
生まれなければいい。

いさどん:
そう。お釈迦さまは、生まれなければいいと示したのです。生まれなければこの苦しみを体験することもなく、結果この苦しみから解放される。お釈迦さまはネガテイブですね。(みんな笑い)

生まれてきたが、人生で出会うのは四苦八苦で苦痛の道だから、ここから逃れるためには、生まれなければいいということになります。生まれてくるということは、肉体という特定を得、自我というカルマが発生し、それにふさわしい自我の人生を生きることにより、それが次のきっかけとなり、また生まれてくる。何回も何回も生まれ変わって輪廻を繰り返すのだから、そのけじめのない輪廻に嫌気がさし、生まれないためにはどうしたらいいのか、又はなぜ生まれてくるのかを考えたのです。そうして行きついたのが、「自らに囚われ、執着する心に自我が成立することにより生まれてくる」ということ。それが人間の性(さが)なのです。

ところが面白いことに、13000年前の叡智であるカタカムナでひも解いていくと、ヒトという境地に至った存在は、完成された悟りの境地のものを指します。そこでは、「ヒトであるということ=この世界の始まりから終わりまでを悟り、統合している者=悟っている状態」と示しています。それは本来、仏教で言う、生まれてくることのないもの、もしくは生まれてきたとしても、人の性(さが)に苦しむようなものではなく、自我を超越した存在(菩薩)と示しているのです。

ところがカタカムナの後の時代、今から2500年ほど前、お釈迦様が道を示すために役割をもらって降りてきたころには、「人間は生きることにより四苦八苦するものである」というように人間性は固定されてしまい、世界は特定の王に支配され民衆には希望のない混沌とした時代だったのです。「生まれてくることがいけないんだ」と、生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから、少しでも功徳を積んで生まれ変わり良い人生が生きられるように願うようになっていったのです。
さらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望をかなえる道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

中国の天盤の巡りで示されているのは、地球上に宗教観がもたらされたのは、今から約3000年前のことなのです。そういった歴史の流れから捉えれば、そんなに古い話ではないのです。そして3000年の時を経て、天盤の巡りで示されているのは、時代は今宗教の時代を終え、新たな時代を迎えようとしているのです。その新たな時代を生きる人々は、生きることに、願望をかなえたり救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、願望(自我)に翻弄されることなく、救済される必要のない高い意識の存在(菩薩)となるのです。
そうするとこれからの時代は、宗教の時代に示されたような、「人として生まれ、人の性(さが)に翻弄され生きなければならない」というネガティブな感情からの解放ではなく、自我を理解し自我に翻弄されることなくコントロールし、その個性を有効に生かし、高い意識のもとに自らにも他者にも有益な人生を生きる人であることが望まれるのです。

3000年の宗教の時代を経て、人々が新たな時代を生きる人間性になったとき、「性」という字を「サガ」と読むか「セイ」と読むかの違いが示されてきます。そこではセイという読み方は「聖なるもの」のセイに通じることになります。そしてセイという示しは交わりの性に通じ、全ての生命の始まりのセイであり、宇宙の根源の働きに繋がるものです。そういった秘められていた仕組みが今、解き明かされ、その時代が今訪れたということになるのです。ですから、宗教の時代のお釈迦様は人々に悟りを説いたのですが、今新たな次の段階の悟りを人類は迎えようとしているのです。そのことに気づき、私たちは社会の先端を生きているのですから、そういった自覚の元に、自らと向き合って生きていきたいものです。

今日「七夜物語」の第六夜を聞いて、晃ちゃんの話がたくさん出てきましたね。晃ちゃんの精神性の成長のプロセスの一段階を見ました。晃ちゃんは、第六夜に出てくる自らの段階をみて、「自分はあそこにいたんだ」と振り返りました。そして、あそこからここへ来たんだと気づいたときに、いさどんがその後にその次の段階の話をしてくれました。そこでまだ、次の段階には至っていないけれど、以前のもっと下にいた時から今の段階にいることの意味がよく分かり、そこを目指すんだという希望が生まれた、と言っていました。

人間というものは、一人一人個性的な人間性という性を持っているのです。お釈迦様の時代は、生まれてくると四苦八苦を繰り返し生きることの結果、わかればわかるほど生きることはつらいと解釈しました。そこで、「じゃあ早く死のう」という発想になるのではなく、四苦八苦の原因を消滅させずに死んだところで、またそれが原因となって生まれてくることになり、また四苦八苦を生きることになる。ということなのだから、生きることを吟味して生まれることのないようにしましょう、という道を示したのです。この道理はそういった生に対する認識の時代にはその通りですが、それがその時代にふさわしい道理と捉えるならば、今の時代には今の時代にふさわしい道理が求められるのは当然のことです。

2012年の12月21日25800年ぶりの「銀河の冬至」を迎え、時代は闇のピークを越え、今私たちは、人間性の愚かしさのピークも観たわけです。この時代には、戦争で示されるような物理的地獄もあれば、人々の心が創り出す闇の世界もあるのです。

最近の注目すべき話題として、日本で行われる伊勢志摩サミットを機会にアメリカのオバマ大統領が70年前に原爆を投下された広島へ初めて訪れることになっているのですが、オバマ大統領は、大統領就任後に核廃絶を訴えてノーベル平和賞を受賞しました。しかし、自国の核にすら何らの対策もうたないままに、世界は核の緊張の上のパワーバランスにより、北朝鮮の核開発が進むことを誘発するような現状のままにあります。その結果、辻褄を合わせるように今回の広島訪問が実現したようにもとれます。そういった出来事も含め、人類の心の闇も極みのところへ達し、世界のリーダーや、聖職者と称される人々が現代社会の行きついた矛盾の根源であることが観えてきました。それを時代が示していると受け取れます。

そういった表面的に取り繕った見せかけの平和を唱えるのではなく、このような現状を踏まえて、ターニングポイントを超えた次の時代の聖なるものとは、どういった精神に基づく探求であるべきなのかが、これから人類が目指すべき方向性です。人間に生まれてくると、人間性という人間であることの「定め」がついてきます。人間に生まれてきたら、ほかの動物とは違って、自らを認識する、考える、願望を持つ、膨らませる、叶える、喜ぶ、ということをします。そういった願望がかなわない時には、悲観することもします。その時に我々の喜びというものは何なのかというと、今までは全部損得勘定です。この損得勘定というものは、次元によって質が全く違うのです。物理的な損得に基づく損得勘定もあれば、自らの霊的な価値が積めるか積めないかという損得勘定もあるのです。

そこが観ているところの違いで、こうちゃんはさっきの第六夜の話を聞いて、去年の9月ごろの自分に立ち返って、こういった喜びや豊かさがあるんだ、という心境になりました。そういった心境に至ったときに、人はモノやお金に縛られることから解放されます。そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長して豊かになっていくことを通して、お釈迦様が道を示された頃の時代のようなネガティブな悟りではなく、「ヒトとしての本来の悟り」に至るのです。

それは地上を生きるものにも、天に存在するものにも共通して有効なものです。お釈迦様の時代は、「人として降りてくると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか大変増えて、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望の感情におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は混乱の極みに達しているのが現状です。

本来ならば、そのようなろくでもない人間は、地上の理想を目指す目的からすると不必要なものとして淘汰されるべきものです。ですから、人々が天意に沿って生きていたならば、人が生きることにより自らを磨き高め、本当に必要な魂だけで地上は安定した世界になっていくはずなのです。そして、そういった世界では本当のヒトが世界を創っていくことになります。地上で生きるにしても、「ヒトでなし」ではなくて、ヒトにふさわしい人が生きる時代がこれからの時代と考えた時、これからの人たちの損得勘定は自らを高次に導き、自らが納得し誇れる生き方をするべきです。そして天とともにクニツクリをし、地上を豊かにし、みんなが楽しみ喜べる、嬉し楽しの世を開くために生きるものであるべきです。その喜びが、自らの願いであり意志として生きるものになったときに、これこそが、新たな時代の人々(菩薩)の姿なのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めて仏陀となった時代だったのです。それが優れた聖なる人の見本になりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」とお釈迦様の言葉にあるように、一人一人の精神が天意に目覚め、全ての人々が仏陀としての自覚をもって生きていく時代です。

そういった時代の幕開けを感じとったとき、そのような景色を観、そのような喜びにこうちゃんは出会ったのでしょう。こうちゃんおめでとう、ということなのです。おめで統合だね。(チ~ン♪、笑い)

丁度今、木の花の精神性を表現した発信基地としてアンテナショップの計画がありますが、このアンテナショップでは「あれ~ここはどこだろう。これは何だろう?」という不思議な雰囲気を体感できる場所を目指しましょう。そして訪れた人々が「ありがとう」と言って帰っていくときに、何か懐かしい想いを感じ、また帰宅なるところにしたいものです。そこは、本当の自分に出会え、自分の家よりも居心地がよい場所にしたいものです。そしてその場所が、物理的な場所だけではなく、心の居場所であったならば、たくさんの人がみんな帰宅なるでしょう。それは、私たちは元々そこ(心の故郷)から生まれてきて、今まで忘れていただけなのですから。そういった場所をこれから創って世の中に提供していきましょう。

こうちゃん:
3000年前からの流れ、お釈迦様の教えも金神様が言うように、今の時代になっては、人々の意識の内では逆さまになっていたということだね。

いさどん:
そうだね。「まさしくこの世は逆さまじゃ」ということ。今の人間たちは、たくさんのものや価値を所有しているでしょ。そして、本当が観えない世の中になっている。これから、それが全部ひっくり返って新しい価値観の新たな世が始まるぞということで、本当に「嬉し嬉し、楽し楽し」とみんなで共に生きていきましょう。

 

 


生きることのプロフェッショナル

日々学んでいることを、日常の生活に反映していくことが大切だよ。
今、自分に起きている出来事の発信源は、その人自身の精神性にある。例えば体の痛みでも、その原因は自らの心の姿勢にあるのに、ただあそこが痛いここが痛いという物理的な話だけをしていては、日々起こる現象から学んでいることと、日常のあり方が別のものになってしまう。その姿勢が、新たなトラブルを生む元になる。
物理的な症状も、心の姿勢も、日常の出来事につなげて考えられるようにしていかなければいけない。疲れているとしたら、疲れるのにも理由がある。一人ひとりがきちんと自己チェックをして、自らを健康にすることが大切だよ。人が健康でいるということは、その人自身のためでもあり、社会全体のためでもあるのだから。

現代は、休むことが豊かさだと思われている。お金があって休日が十分にあってレジャーを楽しめることが豊かさなのだと、多くの人が思っている。しかし本来、生きることと豊かさとは直結していなければいけない。
休むことを豊かさだとするならば、極端なことを言えば生活に余裕があれば休んでいいということになり、お金がたくさんあって楽に生活できることが生きることの目標になってしまう。しかしそれは、天や自然と直結していない生き方だよ。もう一度、生きるということを天に返す。それは、生きることが自然であるということ。
本来、生きることに休日はない。宇宙の星々も、地球上の生命も、休むなどということはしていない。休むとは、人間の歪んだ発想から生まれた豊かさの延長線上にあることであり、歪みの象徴のようなものだ。

毎日を生きて、ものごとがスムーズに進み、自分自身にもこの世界にも負荷をかけないというところに、矛盾のない豊かさがある。
ここの暮らしは、農繁期になればみんな忙しくなる。忙しく働くということは健康であるということであり、健康であるということは、無駄や無理や矛盾のない生き方をして自分の中に滞りが起きないということ。滞りが起きるとしたら、そこに考え方や生き方の矛盾があるということだ。
その矛盾に、毎日の生活の中で些細なことからちゃんと気付ける人にならなければいけない。そうすると、ものごとがスムーズに進み、流れがよくなって、いろいろな意味で健康になる。それを表面的に知識だけを学習して生活に反映していないと、結果として現象化されていないのに頭の中だけでこういった思考を回してOKにしてしまい、矛盾はそのままになっていく。それを、一人ひとりがしっかりとチェックできることが大切だよ。

ここのように自然と共にある暮らしの中では、農繁期や農閑期というものがある。その中で無理が発生した時にこそ、より意識して、矛盾のない生活をしていく。忙しくて余裕がない時にこそ、無駄のない緻密なものの観方をしていけば、するするっと通り抜けていくことができる。そしてものごとの流れがスムーズになると、そこには大きな充実感が生まれる。
そこを緻密に観ていないと、少しの無駄が発生した時に無理が生じて、そのつじつまを合わせるためにさらに無理を重ねて、疲労になっていく。そういったところから心や体に矛盾が生まれ、心なら不満や疲労感となり、体なら病気になったりどこかの具合が悪くなる。その矛盾を解消するのは、緻密に自分自身を観る心だ。

そういったことができるようになった時に、人は本当の意味で健康に生きられる。それは達人の領域だよ。しかし僕たちはもう、達人でなければいけない。それは何か特別なことができて他の人より抜きん出ているということではなく、生きるということがとてもスムーズで、無駄なく効率の良い、さわやかな心で生きられるということだよ。
みんなは生きるということのプロフェッショナルにならなければいけない、と僕は思う。忙しい時だからこそ、常にそういったことを考えて、無駄のない心で生きる。無駄がないからこそものごとがスムーズに進み、そこに余裕が生まれ、さわやかな生き方ができる。それができると、生きることそのものに豊かさを感じられる。

だから、忙しいことを忙しいだけで終わらせてはいけない。これから人々は、その領域へ行くべきだ。
ここではたくさんの人が助け合い、連携して、普通ではできないことをやっている。その中で一人が心や体の滞りを持っていると、それが矛盾となり、働いてみんなに貢献することができない。それは、歪みが発生して病気が蔓延している今の社会と同じ状態と言える。
やはり生涯をぴんぴんころりで健康に、本当に世のため人のため、「傍」を「楽」にする(=はたらく)ために生きていく。そういう世界をつくることが大事だよ。そこでは病気は学びのために起こるのであり、本当に少ないものになっていくだろうね。

今の世の中では、お金があって働かずに楽をすることが豊かさだと思われているけれど、それがこの世界の矛盾をつくっている。つまり、社会的に成功した人たちが矛盾をつくっているんだよ。
自分の存在が他に貢献しないことは、自然にはあり得ない。ところが人間は、自然にはあり得ない矛盾を発生させることを豊かさだと思っている。その背景には、自分だけがいい思いをしたいという自我の心がある。そこと本当に人々が向き合った時に、傍を楽にするために働く、矛盾のない平等な世の中ができるだろう。

最も肝心なことは、近年の物質至上主義の価値観の中で、自らの行いが自分自身の霊的価値や地球生態系を汚染してきたことに人々が気付き、生命の本来の目的や、人として生まれてきた意味に目覚めること。自分が健康であるということは、世の中に対して責任があるということであり、本来健康とは、自分個人の都合のためにあるわけではないんだよ。今の世の中ではまったく逆さまの捉え方をしているけれど、これこそが21世紀の人々が目指すべき世界だ。

今はまだ多くの人々がこのことを理解できないけれど、このわからない生き方をしていることを誇りに思う。

 

 


誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる時代

4月29日にBSフジにて放映された「アキレアの橋 体操・白井健三」という番組と、5月2日にNHK総合にて放映された「プロフェッショナル 仕事の流儀 松岡修造×スーパー高校生スペシャル」を観たいさどんは、みんなでこの番組を観ることを勧めました。その数日後、二夜に渡ってみんなでそれぞれの番組を観た後、三日目の夜の大人会議では「革命は一人ひとりの目覚めから起きる!」のブログがシェアされました。その後、いさどんは次のように語りました。

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この映像を観ていくと、アキレアの橋からは白井健三くん、それからプロフェッショナルからはピアニストやゴルファー、プログラマー、そしてボクサーが取り上げられていました。僕は、みんなに彼らを目指してほしいという想いで、この番組を勧めたのでありません。まず、彼らのような人たちが現れる時代になったことをみんなに知ってほしかったのです。ただ、彼らも普通の人間なのですよ。そこで僕は、「彼らとみんなとの違いは何なのだろう?」と思いながらこの映像を観ていました。

それは、彼らはストッパーを外したということです。

今回の映像では出てきませんでしたが、高校生の頃からその活躍が人目を引いていた羽生結弦くんがいますね。彼は昨年11月に開催されたNHK杯でショートプログラムとフリープログラムをあわせた総合得点で史上初の300点越えをし、その2週間後にスペインのバルセロナで行われたグランプリファイナルでは、さらに記録を更新し330.43点をマークしたのです!ここ一年ぐらいは280点を越えたら金メダルの時代だったのですよ。ところが、羽生結弦くんがNHK杯のショートプログラムで史上初の100点を越えたのです。当時、これは信じられないことが起きた!神業だ!と言われていたのですが、今年の4月に開催された三大陸対抗団体戦で18歳の宇野昌磨くんが公認大会で初となる4回転フリップに成功し、ショートプログラムで自己記録となる105.74点をマークしたのです。

このように、今の最高記録はどんどん更新されていくものなのです。誰かが今までになかったことを成し遂げると、それまでの目標が改められ、新たに記録を塗り替えた人がみんなの目標となるのです。そしてその度に、みんなのストッパーが外れていくのです。これからも、そういったことの連続です。

ところが、多くの人間には「自分にはできない!」とか「わたしなんか!」というおかしな心があり、そのようなストッパーを持っているのです。ある意味、それがその人らしい生き方とも言えるのですが、その自分らしさの中に自分を閉じ込めてはいませんか?

僕は、みんなが白井健三くんになれとか、羽生結弦くんになれ、と言っているのではありません。あなたらしい人生の目標に限界はない、と伝えたいのです。限界は、今の自分がつくっているだけなのです。どこかで人は、「自分はこんな程度だ」と考え、それ以上やろうとしない心があるのです。

もし、もっと自分を花開かせ、可能性を観てみたいと思うのであれば、そのストッパーを外すことです。そのためには、自分を客観的に観えないといけません。人はとかく、今までの経験を元にして、ある時点から「わたしはこういう人だ」と自分を決定し始めます。しかし、経験を積むことはストッパーを外すためにあるのです。それなのに、人間は自我があるがために経験を所有し、それを常識にして、その枠の中にい続けようとするのです。未来は今までの経験を超えていくためにあるのですから、今までの経験を活かすことはいいのですが、それを固定してそこから結論を先に決めてはいけないのです。

それが、自我の乗り越え方です。

今回の映像を通して、新しい世代の人たちが、たとえば音楽はこういうものだというストッパーを外し、先生を超えている発想をすでに持っていることを僕は感じました。そのようにして、彼らは自らの可能性を開花させているのです。21世紀に入った今、若い世代の人たちが人間の可能性をさらに広げようとしているのです。

ただ、そこでひとつ、懸念することがあります。それは、「革命は一人ひとりの目覚めから起きる!」にもありましたが、人間の可能性を広げることは、人類に貢献するためにあるのです。もしくは、生命として地球に貢献するためにあるのです。ところが、映像で取り上げられていた人たちの段階では、まだ世界が狭いので、自分の能力の開花だけを目標にしています。確かに新たな時代は訪れているのですが、まだまだ個人の願望の上にそれが表現されているのです。ひとり、プログラマーの彼は「人類の進歩に貢献することをしたいと思っていて、ただお金儲けをして億万長者になるよりも、人類を前に進めたほうがかっこいいと思ったのです」と言っていました。僕は彼の未来を楽しみにしています。彼が語っていることが、近年における人類が到達すべき目標です。

先日、40代の女性の相談を受けたのですが、僕が彼女に伝えたのは、「あなたは能力が高いのですが、その能力は宇宙や地球生態系の構造、そして時代の流れと一致していないのです。だから、その高い能力があなたの人生の中で問題事の種となってしまうのです」と伝えました。そういったことを怠っていると、この世界の仕組みではその人が発生させた矛盾の分だけ、人生に滞りが起きるようになっています。そういったことが明快に示され、それを感じ取る人々が今の社会に現れてきています。ですから今、人類はそのように生きていく時代に入ったのです。

ここには、これからコミュニティをつくりたいという人たちが訪れますが、僕は彼らにこう伝えます。「この世界は無限の生命の循環によって成り立っているのですから、コミュニティはつくるものではなく、時代とともに成っていくことなのです。時代が表現されていくときに、人間一人ひとりはその時代を表現するためにふさわしい役割を与えられ、生まれてきているだけなのです。ですから、それは自分がやりたいと思ってやることではないのですよ。逆に、強くそういったことを望んでいるような人は、そのこと自体が自我が強い表れですので、コミュニティに不向きな人と言えます。」

しかし、そういった人ほど、自らの実態が観えない人が多いですね。このように今、人間の意識が真に変わるときが来ていることは確かです。

今の人間社会は、矛盾が山積しているように見えます。しかし真実は、この世界に間違いなどひとつもありません。正義も悪もありません。もしそこに問題事があるとしたら、それは「無知」であるということです。無知であることが問題の根本的原因です。そして、それはどのような無知なのかといえば、この世界の成り立ちに対して無知であり、自分自身の存在に対して無知であるということです。

それに対して、知恵を持っている者とはどのような者なのでしょうか。それは、無知は無知でも、「無限なる知恵」を持っている者のことです。無限に経験を積み重ね、知恵を得て、成長していく者であり続けるということです。そういった精神に到達したときに、人間から個人の願望を実現させたいという意識が消え、宇宙生命として生きることになるのです。

そのために人間が取るべき姿勢は、時代から受けている使命を果たし、この世界から受けている自分たちのポジションを担うことです。それが、わたしたちが存在する意味なのです。自分は全体のために存在しているのですし、全体は自分を存在させてくれているのです。それが一致したとき、わたしたち一人ひとりの健康が実現し、真の平和が地球上に訪れるのです。

人類はいつそういったことに気付くのだろうと僕は思うのですが、今度オバマ大統領が広島を訪問しますね。広島へ行くのであれば、長崎にもぜひ足を運んでいただきたいと僕は思います。これは世界中が今、注目しているトピックです。彼が急に広島へ来ることになったのも、時代がドッと動き出した感じがしています。これは日本の都合やアメリカの都合で、オバマ大統領が広島を訪問するのではありません。これは明らかに、時代が次の段階を迎える前兆だということです。

それで今日の映像の話です。彼らはこれまでの常識や、「これが今の世界の最高だからこれ以上はない」といった発想を無視し、そういったスイッチを切った人たちなのです。これも、新しい時代の人たちが始めたことです。

そこで、わたしたち木の花ファミリーは今の時代にどのような役割をいただき、そしてどのようにスイッチを切っているのでしょうか。それは、「自我」のスイッチを切っているのです。自我のスイッチを切るからこそ、このような暮らしが可能になるのです。ここではすでに、みんなでお財布ひとつで暮らしていますね。自分のものをみんなと共有していますね。そして他人の子どもを自分の子どものようにかわいがり叱ったりしますね。そういったことを世の中にいるどれだけの人ができるのでしょうか。そのような区別のない世界は、すでにここで実現されているのです。

しかし、自我は粗いものから細かいものまでたくさんあるのです。そうしたら、彼らが毎日自分の能力の限界まで挑戦しているように、わたしたちは毎日ひたすら自我と向き合い、自我をきれいに取り去る心のスペシャリストとして、「えっ!!人間にそこまでできるの??」という境地にまで到達したいものです。

そういったことをイメージして、僕はこの映像をみんなで観ることを勧めました。彼らはピアノやコンピューター、アスリートなどの分野で新たなストッパーを外しながら活躍していますが、わたしたちは心のストッパーを外すスペシャリストなのですから、そういった意味で、わたしたちは白井健三くんや羽生結弦くんと同じなのです。わたしたちは心を探求するスペシャリストであり、人類の未来の見本として生きているのです。

時代は、確実にストッパーを外しながら紡がれています。ですから、「自我」というストッパーを外すことが、わたしたちが生きている真の姿であり、目的なのです。そして今、時代は誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる段階に入ったのです。

自我のストッパーを外すことを優先できる人は、時代と共に生き、時代に貢献できる人です。

 

 


革命は一人ひとりの目覚めから起きる!

5月3日、533(いさみ)ナイトに先立って、木の花ファミリーでは毎年恒例の田楽田植え祭りが行われました。その時のいさどんの挨拶をご紹介します!

乾杯の前に挨拶をするいさどん ー 田楽田植え祭りより
乾杯の前に挨拶をするいさどん ー 田楽田植え祭りより

今年も毎年恒例の田楽祭がやってきました。先程、降神祝詞が奏上され、日常生活からは程遠いような神事が執り行われましたが、実はこれも日常生活なのです。わたしたちは人間ですから、いのちですよね。そうすると、地球の循環、そして他の星との宇宙の循環の中にわたしたちは常に存在しています。それが、わたしたちの日常なのです。

近年、人間は能力が高いがために、この地球を人間だけのもののように考えている傾向があります。そういったおごりの心が今、いろいろな意味で人間社会に行き詰まりをもたらしているのです。

ツケをそのままにして先に進むと、矛盾はあり続けます。そして、人の心が二極化する世の中がこれから訪れようとしています。つまり、今までの時代に興味を示さない若い世代が矛盾を無視し新たな時代を創っていくのに対し、今までのツケがこれからクローズアップされていきます。若い世代からすると、それは自分たちが残したものではないから責任を負いたくないと思っていますし、だからといって現実を見ても夢がないので、新たな価値観のほうに逃げようとしてそちらの方へ意識を向けてしまっています。そして、ツケを残してきたことに責任ある世代もそのツケを残しただけで、ツケの大きさを意識しない者もいれば、自分たちの犯してきたことに対して償いをしようとしない者もいます。また、どうにかするつもりはあっても、そのツケはどうにもならない段階まで来ているのです。

マスコミもそれについて報道はしますが、どのようにその矛盾を解消するのかという方法は見出せず、世論にそういった空気が起きないので手をこまねいて見ている状態です。矛盾を見てそれを償おうという気が起きないために、これからしばらくの間、二極化したおかしな時代が訪れることでしょう。本来ならば、そのまま素直に次の時代に移行すればよいのですが、これは移行期に現れる現象とも言えるのです。

今までの時代は、人間の可能性の探究の時代でした。人々はエゴを花開かせ、そのことによって夢見てきた時代でした。そして今、エゴを花開かせたツケの実態を知った者たちは、どうすることもできず呆然と立ち尽くし、そのツケを先送りにしている状態なのです。このツケは、もはや一部の者たちがどうにかしようとしてもどうすることもできない段階まで来ています。今の時代の主力の人々も、その異常さに唖然として対策も打てず、どうすることもできないのです。

昔の美しい自然をもう取り戻すことができないように、人間社会もツケが大きくなり過ぎてしまって、このまま放っておいて健全になっていくことはもはやありえません。矛盾が自然の中に蔓延してしまったら、それは解消できないのです。本来、自然のものであるならば潜象界へ還っていくのですが、人工のものはサイクルが長いので、浄化されるのにかなりの年月を要するのです。

人間の欲望が膨らみ過ぎてしまった今の世の中に対して、唯一の解決策は一体何でしょうか。それは、個人が全体意識に目覚め、一人ひとりが自らの分だけその責任を取ることです。そうすると、その意識のウェーブが起きて、解決に向かうことでしょう。

最近、財政健全化計画の話題が取り上げられなくなったのも、それは状況がどんどんひどくなっていくばかりで、それを言っても仕方がない状況になっているからです。社会全体がそのような状況になっているのです。

だから今、その唯一の解決策として、革命しかないのです。この革命は、一人ひとりの目覚めから起きます。これはその意識のウェーブの革命です。個人を観てみると、行き詰まりに出会い痛みを伴って目覚める者もいれば、「これはこのまま行くとダメだ!」とまだ行き詰っていないのに積極的に改善する者もいるとしたら、これからの時代はまだまだ前者の方が多いのです。それは愚かしいことでもあるのですが、今の状態がリセットされるために、わたしたちは行き詰まりや問題事に出会うようになっているのです。

そうしたリセットがどこまでも成らないとなったら、これは地球的矛盾にもなるので、天変地異や異常気象の力によって成るということなのでしょう。いずれにしても、地球にとっての自己矛盾でもあるのですから、これは時代と共にリセットしなければならない時が来ているのです。そういった意味で、霊的に地球を導いている存在たちの力だけでは、もはやどうしようもならない段階まで来ているということなのでしょう。

宇宙的に観れば、そういった現象はすべてダイナミックな波乗りのようにも捉えられます。それを小さく区切って捉えれば大変なことになってしまうのですが、そこを超越してしまえば、地球に起きたいろいろなウェーブの中のひとつにしか過ぎないのです。

わたしたちは自分たちだけを見れば小さな存在ですが、こういった小さな集いが大きくなって、世の中に問題をもたらすこともあれば、逆により良い社会を創るきっかけにもなります。人間が自然からいのちをいただき、他のいのちと循環し調和していることを表さない限り、天変地異や異常気象はこれからも起こり続けることでしょう。そして、自然からの警告だけではなく、人間社会の中だけでも矛盾が発生しているような今の世の中で、こうやって毎年自然に感謝し、自然からいのちをいただいていくことを天に誓い、自然とともにあるという謙虚な心を大切に生きていきたいものです。そういった意味で、今日をいのちをいただく儀式のはじまりとして、この一年を過ごしていきたいと思います。

ぜひ、これを機会に木の花ファミリーの健全な成り立ちと豊作だけを願うのではなく、豊かで平和な世界が訪れることを共に願っていきましょう。

 

〈田楽田植え祭りより〉
宮ノ下1

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