病も人のためになる

今日は、
長期滞在ゲストのラブちゃんが
いさどんにマッサージをしながら、
「何でもない人が語ることの大切さ」について聞いています。
二人の楽しそうな笑い声に、
興味を惹かれた通りすがりのようこも
話の輪に加わりました。

ようこ

10時のおやつ休憩でしげどんがお家に来てたからね、
しげどんに、今朝いさどんの背中が
すごく硬くて痛そうだったんだよ、
それが何故かわかる?って聞いたんだ。
しげどんの今の心の滞りが、
そうやって他のひとの体に痛みとして影響を与えている。
そういうことを、
しげどんは今まで考えたこともなかったでしょ、
という話をしてね。

(管理人注:しげどんには、昨日、
心の滞りから起きた大きなトラブルがありました)

こうやって、
みんながつながっているってことだよね。
しげどんが、自分の心を見ることに専念できるように、
いさどんが物理的な痛みを引き受けているんだよって。
こんなありがたいことはないよね、という話をしたんだ。

いさどん

そうだよね。
よく自分のことにとらわれて
神様を忘れている人もいるけれど、
僕は自分のことを考えるということがないんだよね。
頭の中に、そういう構造がないんだよ。

ようこ

いさどんの場合は、頭も体も心も全部がそうだよね。
全部が人のためにあるよね。

いさどん

自分が何かをしたい、というのはないけれど、
たまに、えいこばーちゃんの誘いに乗って食べ過ぎると、
「ああ、えいこばーちゃんに負けたな」
と思うことはあるけどね(笑)
自分ごとは、いつからか消えてしまったね。
あれがしたい、これがしたいとか、
ああ思われたい、こう思われたいというのは。

ようこ

しげどんに言ったのはね、
「たとえ、しげどんの心の滞りから
いさどんの体に痛みが現れたとしても、
いさどんはしげどんに絶対それを伝えることはないと思うんだ。
それがどんなに痛いとしても、直接しげどんに
『しげどん痛いよ、おまえのせいだよ』とは絶対に言わない。
それがいさどんではない他の人だったら、
どれだけその本人に文句を言うだろうね。
そういうことだよ、いさどんの愛って」
という話をしたんだ。

いさどん

今ね、ラブちゃんが、僕にマッサージしてくれているでしょ。
だから僕がね、
「僕の出来が悪いからこうなるんだよ」って話をしていたんだ。

ようこ

私はね、このラブちゃんを見てありがたいな、と。
朝、いさどんの背中がぱんぱんに硬くなっているのを知って、
マッサージの上手なあきちゃん(ファミリーメンバー)に、
実はいさどんのマッサージをお願いしていたんだ。

ラブちゃん

そうそう。あきちゃんが、
「いさどんの背中がね」って言ってて。

ようこ

そうか、あきちゃんからラブちゃんに要請があったのね。

よかった!実はあきちゃんに頼んだものの、
あきちゃんには自分の体調復帰に専念してもらいたいから、
余計なことを頼んでしまったかな、
と思っていたところだったんだ。

そう思っていたら、
ラブちゃんがいさどんのマッサージをしていたから、
なんだ、あきちゃんに頼まなくても
大丈夫だったと思ったけれど、
そういう裏話があったのね。

ラブちゃんは、マッサージ得意なの?

いさどん

得意も何も、そういう学校を出ているんだよ。

ラブちゃん

学校出ているってほどでもないですけどね。
本当は、オイルマッサージをやっているんですよ。

実は今、いさどんにマッサージをさせてもらいながら、
ありがたいなと感じていました。
普段皆がいると、
なかなかいさどんと話す機会がなくて、
「いついさどんと話せるのかな?」と思いながら
過ごしていたから…。

ようこ

そう考えると、しげどんにも感謝だね。

ラブちゃん

ほんと、ありがとうございます!

ようこ

マッサージもね、ある人には、
いさどんが一方的にマッサージをしてもらっている、
と見えるだろうなって。
でも、実際はそうではなくて、
ラブちゃんの方がいさどんと話す
良い機会をもらっているなと思うんだよね。

ラブちゃん

そう、超幸せです。

いさどん

この間ね、僕が腰を痛めて、
整骨院に行ったんだよね。
そこの先生といろいろ話をしている中で僕は、
「病気でも何でも心の現れだ」という話をした。
でも、そう言いながら、
「僕は腰を痛めてここに来ているんだよね、
何でかわかる?」って先生に聞いたんだ。
そうしたらその先生は、
「いや、私のためですかね」って言うんだよ。
僕は、それも言えるねって。
僕の腰が痛いおかげでここへ来て、
いろいろな話ができたわけだから、
それも言えますねって。

具合が悪くなるのも僕の役割だと思うのは、
僕の具合が悪いと、いろんな人が部屋にやってきて、
普段話ができない人とも話す機会があったりしてね。
僕のことを心配だ、心配だと思う半面、
よかった、よかったと喜んでいる人もいたりしてね(笑)。

ようこ

そうそう、ここぞとばかりに(笑)。

いさどん

だから、具合が悪いということも、
結構人の役に立っているんだよ。
「病も人のためになる」。

自分のカルマで病気になる人もいるけれど、
人の役に立つために病を持つ人もいる。
同じ「具合が悪い」でも、すごく違うよね。

ようこ

本当だね。
私だって、いさどんが毎朝一人で起きてきたら、
私が朝いさどんを起こしに行って、
話をするという機会もなくなるよね。
もともと、そういう所から始まった「いさどんブログ」だから。

こう考えていくと、
すべてがつながっているから、
誰かが誰かに一方的に与えるということや、
与えられるということもなく、
すべて50:50の関係なんだよね。

すべてがつながっているからこそ、
自分の中の心の滞りも、皆のこととして重く受け止め、
自分を含めた皆のためにしっかりと心を磨いていく。
そういったことを改めて感じました。

今日は、
長期滞在ゲストのラブちゃんが
いさどんにマッサージをしながら、
「何でもない人が語ることの大切さ」について聞いています。
二人の楽しそうな笑い声に、
興味を惹かれた通りすがりのようこも
話の輪に加わりました。

ようこ:

10時のおやつ休憩でしげどんがお家に来てたからね、
しげどんに、今朝いさどんの背中が
すごく硬くて痛そうだったんだよ、
それが何故かわかる?って聞いたんだ。
しげどんの今の心の滞りが、
そうやって他のひとの体に痛みとして影響を与えている。
そういうことを、
しげどんは今まで考えたこともなかったでしょ、
という話をしてね。

(管理人注:しげどんには、昨日、
心の滞りから起きたトラブルがありました)

こうやって、
みんながつながっているってことだよね。
しげどんが、自分の心を見ることに専念できるように、
いさどんが物理的な痛みを引き受けているんだよって。
こんなありがたいことはないよね、という話をしたんだ。

いさどん:

そうだよね。
よく自分のことにとらわれて
神様を忘れている人もいるけれど、
僕は自分のことを考えるということがないんだよね。
頭の中に、そういう構造がないんだよ。

ようこ:

いさどんの場合は、頭も体も心も全部がそうだよね。
全部が人のためにあるよね。

いさどん:

自分が何かをしたい、というのはないけれど、
たまに、えいこばーちゃんの誘いに乗って食べ過ぎると、
「ああ、えいこばーちゃんに負けたな」
と思うことはあるけどね(笑)
自分ごとは、いつからか消えてしまったね。
あれがしたい、これがしたいとか、
ああ思われたい、こう思われたいというのは。

ようこ:

しげどんに言ったのはね、
「たとえ、しげどんの心の滞りから、
いさどんの体に痛みが現れたとしても、
いさどんはしげどんに絶対それを伝えることはないと思うんだ。
それがどんなに痛いとしても、
直接しげどんに、
『しげどん痛いよ、おまえのせいだよ』って絶対言わない。
それがいさどんではない他の人だったら、
どれだけその本人に文句を言うだろう。
そういうことだよ、いさどんの愛って」
という話をしたんだ。

いさどん:

今ね、ラブちゃんが、僕にマッサージしてくれているでしょ。
だから僕がね、
「僕の出来が悪いからこうなるんだよ」って話をしていたんだ。

ようこ:

私はね、このラブちゃんを見てありがたいな、と。
朝、いさどんの背中がぱんぱんに硬くなっているのを知って、
マッサージの上手なあきちゃん(ファミリーメンバー)に、
実はいさどんのマッサージをお願いしていたんだ。

ラブちゃん:

そうそう。あきちゃんが、
「いさどんの背中がね」って言ってて。

ようこ:

そうか、あきちゃんからラブちゃんに要請があったのね。

よかった!実はあきちゃんに頼んだものの、
あきちゃんには今、
自分の体調復帰に専念してもらいたいから、
余計なことを頼んでしまったかな、
と思っていたところだったんだ。

そう思っていたら、
ラブちゃんがいさどんのマッサージをしていたから、
なんだ、あきちゃんに頼まなくても
大丈夫だったと思ったけれど、
そういう裏話があったのね。

ラブちゃんは、マッサージ得意なの?

いさどん:

得意も何も、学校出ているんだよ。

ラブちゃん:

学校出ているってほどでもないですけどね。
本当は、オイルマッサージをやっているんですよ。

実は今、いさどんにマッサージをさせてもらいながら、
ありがたいなと感じていました。
普段皆がいると、
なかなかいさどんと話す機会がなくて、
「いついさどんと話せるのかな?」と思いながら
過ごしていたから…。

ようこ:

そう考えると、しげどんにも感謝だね。

ラブちゃん:

ほんと、ありがとうございます!

ようこ:

マッサージもね、ある人には、
いさどんが一方的にマッサージをしてもらっている、
と見えるだろうなって。
でも、実際はそうではなくて、
ラブちゃんの方がいさどんと話す
良い機会をもらっているなと思うんだよね。

ラブちゃん:

そう、超幸せです。

いさどん:

この間ね、僕が腰を痛めて、
整骨院に行ったんだよね。
そこの先生といろいろ話をしている中で僕は、
「病気でも何でも心の現れだ」という話をした。
でも、そう言いながら、
「僕は腰を痛めてここに来ているんだよね、
何でかわかる?」って先生に聞いたんだ。
そうしたらその先生は、
「いや、私のためですかね」って言うんだよ。
僕は、それも言えるねって。
僕の腰が痛いおかげでここへ来て、
いろいろな話ができたわけだから、
それも言えますねって。

具合が悪くなるのも僕の役割だと思うのは、
僕の具合が悪いと、いろんな人が部屋にやってきて、
普段話ができない人とも話す機会があったりしてね。
僕のことを心配だ、心配だと思う半面、
よかった、よかったと喜んでいる人もいたりしてね(笑)。

ようこ:

そうそう、ここぞとばかりに(笑)。

いさどん:

だから、具合が悪いということも、
結構人の役に立っているんだよ。
「病も人のためになる」。

自分のカルマで病気になる人もいるけれど、
人の役に立つために病を持つ人もいる。
同じ「具合が悪い」でも、すごく違うよね。

ようこ:

本当だね。
私だって、いさどんが毎朝一人で起きてきたら、
私が朝いさどんを起こしに行って、
話をするという機会もなくなるよね。
もともと、そういう所から始まった「いさどんブログ」だから。

こう考えていくと、
すべてがつながっているから、
誰かが誰かに一方的に与えるということや、
与えられるということもなく、
すべて50:50の関係なんだよね。

また、すべてがつながっているからこそ、
自分の中の心の滞りも、皆のこととして重く受け止め、
自分を含めた皆のためにしっかりと心を磨いていく。
そういったことを改めて感じました。


八番目の聖者~道はひとつ、心はひとつ

いさどん:

僕が30歳でお釈迦様から
道をいただくようになって1年ぐらいした頃に、
「1000日の業をいたせ」という言葉をいただいた。
結果は3年間毎日瞑想をした。
毎日の瞑想は、そんなに長いものではない。
大体時間にしたら15分くらいの瞑想を、
必ず1日に1回はする、ということだった。

普通の生活をしていて、
仕事以外にもいろんなことがあると、
必ずということは結構大変だった。

当時、僕は建築現場で仕事をすることの多い
内装業をしていたので、
期日の限られている仕事だと、
場合によっては徹夜で現場にいることもあった。
そうすると、
その日のうちに瞑想をしなければいけないとなると、
ほこりだらけの現場で人がいっぱいいて、
場合によっては騒々しいところであっても、
場所を選ばずに瞑想することもあった。
自分は変わった人ということで理解されていたので、
それは別に問題なくやれた覚えがある。

毎日必ずというのは大変ではあったが、
3年間1日も欠かしたことがなかった。
15年半、皆で必ずミーティングをするのと同じように。
次の日に行くために絶対にしなければいけない、
関所みたいなものであるから、
それができたことを覚えている。

僕の場合、瞑想するというのは、
目を半開きにした状態で、周りの景色は見えている。
見えているけれど、それに影響されない。
音にも感覚的にも影響されない状態を指している。

それで、1年くらい経った頃に、
自分が自分の体から抜け出して、
自分を外から見るような現象が起きた。

僕の家には瞑想をしたり、
訪れる人たちに話をする部屋があって、
その部屋の西側に出窓が付いている。
その出窓に飾り物を置いたり、
もらった仏像を置いたり、
神社巡りをしていた頃には
そこに神棚を置いたりしていた。
その窓は、西の窓だから、
聖地インドを心にイメージして、
そこに向かって瞑想をしていた。
出窓の下の壁が自分の目線の位置にあり、
壁の模様が目線に入ってくる。

それをずっと眺めていると、
自分の座っている所の反対側の天井の角から
瞑想をしている自分の後ろ姿を見る、
ということがあった。
非常に心地よく瞑想に入ると、
1時間とか、長い時には2時間くらい
瞑想していることもあった。

ある時いつものように瞑想を行っていた。
すると、いきなり自分が体から抜け出して、
上に向かって上がっていく。
それも瞬間的に、
ロケットで打ち上げられたような感じで
上がっていくのを感じて、
そのまま宇宙空間まで出てしまった。
そこで月を背にして、地球を見るという体験をした。
そういうことがたびたび起きるようになった。

そういった瞑想中の体験のひとつとして、
八番目の聖者という物語がある。
僕が宇宙空間へ出て地球を見て帰ってくるという経験と、
八番目の聖者の物語は、
ちょうど同じくらいの時期じゃないかと思う。

その日も、自宅のお話し部屋で瞑想をしていた。
時間は8時頃だったと思う。
部屋の電気をほとんど消して、
ほとんどと言うのは、
僕の住んでいた家は1階が店舗になっていて、
2階が住居、隣はパチンコ屋さんになっていた。
隣と言うのは西隣。
だから、僕がいつも聖地インドに向いて瞑想すると、
出窓からは隣のパチンコ屋さんの
巨大な雷のネオン看板がそこに見える。
さらに、道路を挟んで北西にも
パチンコ屋さんがあるという環境だったので
電気を消しても
窓からパチンコ屋さんのネオンの光が入ってきて、
真っ暗になるようなことはない。
パチンコ屋さんの店内の音楽も聞こえるから、
決して静かな場所ではない。
そんな所で瞑想していた覚えがある。

距離にして看板まで50m、
向こうに見える看板の右あたりに、
小さな何か、ちょっと判断できないものが見えた。
何だろうと思って、ずっと眺めていたら、
徐々に徐々に近づいてきた。
それがだんだんだんだん大きくなってきて、
やがて出窓いっぱいの大きさになって自分の前に現れた。

私の前に現れたのは、七人の男性。
姿はほとんど同じ。でもひとりひとり違う。
違うのに姿はほとんど同じ。
どういう姿をしていたかというと、
腰に白い布を巻きつけて、
今の人でいうトランクスくらいの大きさの布を巻きつけて、
上半身は裸。
髪の毛は長く伸びて、髭も生えっぱなし。
僕の受けたイメージでは、
キリストが十字架に架けられた時の姿。
どの人も同じような姿をしている。
でも、同じ人が七人立っているのではなくて、
全員違う。
違うのに同じ姿をしている。
出窓いっぱいにその人たちが現れて、
そこに立っている。

言葉はない。
何だろう、誰だろうと思って観てみたら、
七人の真ん中にイエス・キリスト様が立っていた。
そして、一番右端にお釈迦様、ブッダが立っていた。
僕の中にすごく違和感があった。
自分の師であり、一番大切にしているお釈迦様が、
何で真ん中じゃないんだろう、と。
自分に近いものを尊いとしたがる心があったのか、
何でお釈迦様が
真ん中に立っていないのだろうと思った。

その二人だけはわかった。
あとは、誰がどの人かというのはわからない。
のちに振り返ってその人々が誰かといったら、
孟子様、孔子様、そしてソクラテス様、
それからイエス様、お釈迦様、ムハンマド様。
そして、もうひとりがアマテラスオオミカミ様。
僕は、アマテラスオオミカミという方は、
地上を生きた人ではないと思っていた。
以前、何かの神話の研究書を読んだ時に、
アマテラスオオミカミは実存の人間であったという記述があり、
そういう記述を見たこともあって違和感なく受け取れた。

その映像を瞑想状態で眺めていて、
この七人の聖者が自分の前に何のために現れたのか、
それは何を意味しているんだろうと思っていた。
言葉は一切ない。メッセージが全体から出ている。
そのメッセージは、すごく大きなメッセージだった。

「道はひとつ、心はひとつ」
この世界にはこういった聖者を通して、
沢山の道が降ろされている。
その道ひとつひとつは、
すべて同じところが源泉となって降ろされている。
そして、その源泉とは心から来ている。
つまり、沢山の道、それはひとつの心に通じている。
そして、そこから生まれている。
そういった波動がそこの全体から出ていた。

それをずっと眺めていた。
七人の聖者の真ん中にイエス様がいる。
そして、一番左側が空いている。
つまり、中心がイエス様ではなくて、
右へちょっとずれていたんだ。
左側がひとつぽこっと席が空いている。
僕が「一番左に空いている場所があるんですけれど、
そこは何で空いているんですか」と問うてみた。
「そこにそなたが立てばよい」という言葉が返ってきた。
それには、瞑想していた自分が強烈に反応して、
「とんでもありません。
日頃身近に感じている聖者や、
身近に知らない聖者、
でもどの方も尊いことはよくわかっています。
そんな尊い存在が並んでいるその場所に、
私のようなものが立てるわけがありません」
と言った。
でも心の中では、
そういったことがあるのかもしれない、
と思いながら涙した。

当時は、
そういった自分の中に起きる不思議な体験を疑って、
自分の中の精神異常からくる
幻覚というふうに見ている所もあった。
しかし、今こうして話せるように、
どのことも記憶の中に強く残っている。
しかし同時に、強く残っていながら、
それを否定する心もあって、
「とんでもない」という強く反応する心があった。
それは疑うというよりも、
そんな自分のようなものがというへりくだりの心だった。
常に自分にはそういう所があった。
そういう心を持つたびに、
「傲慢になってはいけないぞ。
けれど、へりくだるのもいけないぞ。
自分にふさわしい心の位置で受け止めろ」、
いつもそうやって言われてきた。

どうしても言葉を発する時に、
傲慢にならないようにそういった心配りはしてきても、
自分の中にそうやって出てしまうこともあれば、
自分のようなものが、
そのいただく言葉や役割によっては
へりくだりすぎてしまうこともよくあった。
それを戒めながらやってきた。
そういったことに出会うたびに思うのは、
これはわからないことだから置いていこう、
いつかその答えが出る時が来るだろう、
だからそれ以上解釈しないでおこう、
というのが自分の常になっていた。

それが今から27年前頃の話だとしたら、
今から16年ほど前、
だから10年以上経ってからだよね。
1993年12月28日。
もう暮れも迫ってきた時に、
いつものように心磨きの仲間たち、
今木の花にいる人の中では、
じゅんじまん、のりちゃん、はるちゃんたちが、
夜になると集まってきて話をする。
その日は、いつもの話をする部屋ではなくて、
僕の寝室で皆が一緒にテレビを観ていた。
僕は、その一番後ろにあるベットに横になりながら、
皆の姿を後ろから見ている。

そのうち、僕は皆を眺めながら、
ベッドの上で蓮華座を組んで、
瞑想する姿勢で、でも瞑想しているわけでもない。
ただ、皆がテレビを見ている姿を眺めていた。

僕はメッセージをいただく時に、
上の方から、言葉が降ってくるような時がある。
それから、自分の中から想いが湧き出してくる時もある。
日常の現象から、受け取れることもある。
昇る朝日、沈む夕日、
他にもいろいろ月や星からも受け取ることがある。
それは全部、耳に聞こえるものではない。

私たちの意思疎通手段のことを、
神様や霊的な存在は肉の声って言われる。
肉を通して、伝わる声。
また、電話のことを心なきもの。
電話で話していると、霊的な世界の人たちは、
こちらの心が見えても、
電話の相手の心がそこにないものだから、
「心なきものと話しておるのか」と言われる。

私たちは、普通、耳で声を聞く。
それは心の中で想いが発生して、
それを人間の機能の中で脳が解析して、
声帯を振動させて、肉の振動にし、
空気中を伝わって、鼓膜に伝わり、
神経の中を電気信号となって、脳に伝わる。
脳の中に解析機能があって、
それを情報として人間は反応する。

それに対して、天から降ってくる言葉は、
脳に直接ふわっと降りてくる。
肉体的機能を全部省いた状態で降りてくる。
受ける人にわかるような言語や表現で降りてくる。
それは、受ける人とは明らかに人格が違うから、
自分の想いとは区別できる。

もうひとつの方法は、
気づきから伝えられるもの。
その場合は、丹田のあたりから湧き出してくる。
それは、自分の中にある神性、
神様のメッセージとして自分の中から湧き出してくる。

私たちひとりひとりは、
この世界が始まった時からここまで、
一度も途切れることなくつながって存在している。
惑星としての情報、生命としての情報が
すべて内在されている。
内なる神性は、そこから湧き出してくる。

もうひとつの通信手段は、自分の気づき。
ふっと脳の右側、時には左側、真ん中ではなく、
右斜め45度とか左斜め45度の頭のあたりから、
気づきとして湧いてくる。
それは、自分の想いのように湧いてくる。
だから、それが自分の想いなのかメッセージなのか、
というのを判断できるようになるのに、
だいぶん時間がかかった。
自己満足の世界みたいに思って、
それを理解するのに
大変時間がかかったことを記憶している。

さらに、もうひとつ通信手段があって、
それは宅急便の小包として送り込まれてくる。
別名トトロの贈り物と僕が勝手に名付けた。
突然自分の脳の中に小さい小包がポンと送られる時がある。

その時も、皆がテレビを見ている景色を
軽い瞑想気分で眺めていたら、
上からポンと小包が落ちてきた。
それは今から考えると、
メイが夢の中でトトロから
どんぐりの贈り物をもらうような感じ。

そこで、僕が皆に向かって、
「ちょっと、ちょっと、皆。天から小包が届いたよ。
それを今から開けて、皆に話そうと思うから」
と声をかけた。
皆はテレビを消して、僕の方を見た。
僕は小包を開けて話し始めた。

「年が明けると、新しい旅の始まりであるぞ。
それはここにいるみなが生きるための、
新しい始まりである。
そして、世の中の新しい旅の始まりでもあるぞ」と。

毎年、年が明けるちょっと前や
年が明けてすぐに(1月2日にあるのが多い)、
今年の指針という映像とか言葉がいつも降りてくる。
その年は、12月28日に小包が届いて、
いつもの新たな年を迎えてというメッセージのようだった。

それは、私たちにとっても、世の中にとっても、
新しい時代が始まるというメッセージだった。
小包の包装紙を開けていくと、
先のような言葉が最初に出てきたから、
皆に伝え、さらに続く言葉があった。
その言葉は、
「尊きものを見つけ、そこに行き、
救われることよりも、自らが尊きものとなって、
他を救えるようなものになれ。
これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」
という言葉だった。

そして、僕はその言葉の解説を始めた。

「新しい年が始まる。
そして、私たちは新しい年に新しい生活を、
今まで別々に暮らしていたものが縁をいただいて、
血縁を超えて一緒に暮らす、約束の生活が始まる。
世の中を見ると、
優れているもの、優れている国家、
そういったものが世の中を支配している。
特に宗教の世界に象徴されるように、
今までは優れているものが現れて、
求めるものに道を説く。
場合によっては、
それが優れているものたちの飯の種になったりして、
結果、優れているはずのものたちが
優れていないものになってしまうような、
そういった世の中の状態である。

これから始まる、
私たちが歩もうとしている旅は、
区別のない世界。皆が尊い世界。
そういった世の中になるための始まりであるぞ。
人々は、自分に何か問題があっても学ぼうとせず、
学んで尊いものになろうとせず、
尊いものを見つけてそこに行き、
救って下さい、解決して下さいと
亡者として生きている。
こういった時代は、終わりになるのであるぞ。
これからは、ひとりひとりが主役の時代であるぞ。
ひとりびとりがブッダとして、
キリストとして生きていく時代であるぞ。
誰もが尊い平等な社会が来るんであるぞ」
と示されて、
「新しい年は、新たな時代の幕開けである」と言われた。

それは、私たちが富士山麓に出発する前の年の、
12月28日のことだった。

そして、それから15年半歩んできて、
最近、その七人の聖者が現れた話を誰かにしたんだよね。
「八番目の場所に席が空いている。
そこにそなたが立て」と言われた。
今立て、ということではなくて、
いずれそこに立てるようなものになれ、
というふうに言われた記憶もある。
「とんでもありません」って、
僕はそのままそれを封印して、
わからないことは必ず先に行けばわかるとして、
そのままにしてきた。

こういう話はとてもおこがましいというか、
僕はどちらかというとへりくだる所があって、
あまり人に語ってこなかった。
今年になってそれを語る機会があって、
その時に気づいたことがある。
ああ、あの話とあの話はつながっている。
つまり、八番目に立つ聖者が、
その七人の聖者のようにひとりひとりじゃないんだと。
それは、1993年12月28日に小包でいただいた言葉、
「尊きものを見つけて、
そこに行き、救われることよりも、
自らが尊きものとなって、
他を救えるものとなれ。
これからは、ひとりびとりが
イエスやブッダであるぞ」
その言葉につながっている。

お釈迦様が、
「ガンジスの川の砂のごとく衆生はおる。
そのすべてに仏性あり」と言われた。
「どんな人間の中にも、仏になる種が入っておるぞ」
というふうに言われた。
それはよくあるお釈迦様の言葉として、
世の中にもそれを知っている人は沢山いると思う。
しかし、僕にお釈迦様は、そのあとの言葉を言われた。
「ただし、その道を歩んだものにだけな」と。
「すべてのものの中に真実の種があり、
すべてのものに悟りへ行く道があるんだけれど、
その道を歩まないものにはないぞ」と言われた。

そして、
「これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」
ひとりびとりが自分の中にある、
宇宙の中心からくる神性、真理の種を開花させて、
自分の中から光を外にほとばしらせる。
そして、人に救われることばかりのもの、
亡者として生きるのではなく、
自分の中から光を出して他を救えるようなものになる。
自分で自分を救えるもの。
それが連鎖していけば、誰も救われる必要がない。
ひとりひとりが目覚めて、
キリストとしてブッダとして人々があったならば、
この世界は救うものも救われるものもなく、
それこそが理想の世界。地上天国になる。
僕は、この世界を救うものとして、
この世界に派遣されるような立派なものではない。
この世界を救うようなもの、
イエスやブッダや他の聖者のような立場に立てるのだろうか。
僕の中から、
そんなおこがましいと自分をへりくだる心が湧いてきて、
どうもしっくりいかない。
それをずっと考えてきた。

富士山の頂上で、
「その心、これからは、
日の本の国全体に説くがよい」と言われた時も、
「そんな、私にそんな大それたことができるわけがありません。
私にどうして、そんな能力がありましょうか」と、
そうやって言われるたびに、
ずっとその言葉を否定してきた。

でも、最近になって思うのは、
人間いさどんがひとりでそれをすることはできない。
けれど、このいただいた心を
自分の隣の人に伝えることはできる。
ちょうど、自然の仕組みが利他であるように、
自然は自らが存在することによって、
自分が関わる両隣のために生きている。
その仕組みが、いのちの仕組みとして、
この世界すべてをつなげている。
それが、いのちの仕組みであり、
神様がこの世界をそれで治めておられる。

そして、この尊い仕組み、
尊い心を自分が今もっている。
それを両隣の人に伝えることができる。
そして、この精神、想いは、人と人、
いのちといのちのつながり、
ネットワークにひとたび解き放たれれば、
それが連鎖して、この世界にすべて行き渡る。
そうなった時に、この世界が理想の世界になる。

「その心を日の本の国全体に説け」と言われたこと。
そして、「尊きものを見つけ、
そこに行き、救われることよりも」
という言葉からくる、
ひとりびとりがイエスやブッダ、
すべての衆生に仏性がある、ということ。
それは、この宇宙のもとにある一番のエッセンス。
その心にひとりひとりがなれる。

そうして、八番目の聖者というのは、
ひとりの人間ではなく、
すべての人々の中にある仏性、神としての心。
宇宙の根源から分かれてきて今がある。
それを思い出した時に、
すべての人の中に八番目の聖者たる資格がある。

それに皆が目覚める時代、それが今の時代。
自分も八番目の聖者だけれど、
すべての人が八番目の聖者である。
そういう時代が幕を開けようとしている。
そういう時代がこれからの時代なんだ、
ということがわかってきた。

その見本とする生活が今ここにある。
ベトナムの僧侶、ティク・ナット・ハンが言った言葉、
「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。
次のブッダはコミュニティの姿で現れるだろう。
それは他者を理解しようと努め、
互いを慈しむ優しさを持ち、
大事なことを常に意識しながら、
人々が暮らすコミュニティである。
これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、
最も大切なことではないだろうか」
という言葉にもつながる。

僕は、瞑想の時代にお釈迦様に問うた。
「こうやって私もいつか人々の心の問題に答えながら、
人々が集まり、組織ができ、
新興宗教の教祖のようになるのでしょうか。」
そうしたら、お釈迦さまが言葉を返されて、
「これからの時代、組織をつくるのではないぞ。
人々が集え。集い語り合え。
語り合う中から真理が生まれる時代である。
そういった中から世は開かれる」と言われた。
「そのひとりひとりはすべて今の仲間、
そして地球にいる仲間たち」、
そこに気づくことができた。

今日は七人の聖者の話。
そこから八番目の聖者として、
これからの時代を生きていく人間ひとりひとりにつながる。
その八番目の聖者に皆が目覚める。
尊いものというのは、すべての人であるという話でした。

ようこ:

いさどん、ちょっと待ってて。
今あいちゃんから借りて読んでいる日記の1ページ目に
こういう文があるの。

「もう一度考え直そう人と地球の付き合い方
Earth of Humanism
道はひとつ心はひとつ
世に悪なるものは全てなし
正さねばならぬのは悪心のみである」

いさどん:

この日付は、1994年3月1日。
3月21日に富士山麓に来たから、来る直前の言葉だね。

ようこ:

これは、ひとりひとりが尊いものとなれるという
同じメッセージだね。

いさどん:

私たちは一見、ひとりひとりで生きているように
思ってしまいがちだけど、
この世界はいのちのつながりの中にあって、
どんなものもその中に含まれている。
つながるということは、善意、愛、調和である。

ひとりだけで生きていると思えば、
利己的になってしまいがちだけど、
利己的に生きると、
悪意、孤独、不調和、対立が表われて、
善意、愛、調和に促される。
そういった見えない仕組みに導かれて、
私たちは生きていることに気づいていくことが、
この世界の奥にある精神に目覚め、
ひとりひとりが尊きものとして
生きていけるということになる。

(了)


悟りの道は己の健康から

いさどん:

世のため、人のために生きることが大切ということはよく言うけれど、では具体的に何をすればいいのだろうか。そこで答えるのは、ボランティア活動をしなさいとか、寄付金をどこかにしなさいとか、そういうことではない。

ツꀀまずできることは、自分を健康にすること。健康にするということは、体も心も健康であるということ。そのためには、健全な日々の生活リズムや食習慣など、沢山心がけなければならないことがある。木の花のような生活をしていても、生活リズムを乱すこともあるから、しっかりと整えていくことが大切で、そんなに簡単なことではない。季節の変わり目に体調を崩すこともあるから、心していないといけない。

ツꀀ心の健康というと、やっぱり自分をいつも振り返らないといけない。しっかりと自分を振り返って、自分の考えが自分の行いにどうつながるのか。自分の行いが自分のまわりに何をもたらすのか。家族、地域、社会、国家、この地球とどんどん波及していくわけだから。自分を健康にするということは、一人分、この世界を健康にするということ。

ツꀀこれを別の視点から捉えると、私たちが生きているということは、自分の在り様によってこの世界に自分一人分の影響を与えている。神様から、地球一人分、託されている。それは、何か大きなことをしなさいと言うわけではなくて、自分が一人分この世界を健康にする。健康ということはつながるということ。自分のいのちのリング一つを健康にしたら、この世界はきれいないのちの鎖となって、世界全体が健康になる。

ツꀀこの世界は無限の織物。縦糸、横糸、斜め、そしてそれが立体となって、高密度の織物になっている。すべてがつながっている織物。

ツꀀだから、自分が不調和を発したら、いろんなものに影響を与える。「自分一人を健康にするのは、意外と難しくない、簡単だ」と思っている人もいるかもしれないけれど、その人が考えている以上に至難の技である。一人一人がそのことが大事だということに気づいて、心がけていった時に、この世界が仕組み通り見事に仕上がる。そこには、「世のため、人のため」、で受けとれる表現以上に大きな重みがある。

ツꀀ世のため、人のためというのは、自分から外に対して何かをしてあげるような発想になるのだけれど、その「世のため、人のため」の中に、自分自身も含まれている。自分自身が自分のものではなくて、世の中のものであって、自分が存在していることが世のため人のためであるんだ、と理解できた時に、初めてそれがよくわかる。

だから、「世のため人のため」、それだけの言葉でも、その受け取り方によって、深くて重い受け取り方、軽くて表面的な受け取り方がある。

ツꀀ世の中の一人として、一人分世の中を健康にするポイントは、嘘、偽りなく生きること。それは、自分が日頃語っているように生きているかどうか。木の花では、「現象を持って真実とすべし」といって、どんなに立派なことを語っても、それが行動に表われなければ真実ではない。それを何度も繰り返していたら、嘘を語っていることになってしまう。立派な言葉でカモフラージュしていたら、詐欺師になる。決してそれは、警察に捕まるような詐欺師ではないけれど、あなたの価値としていつかは返ってくる。心の罪として、いつか出会う矛盾となって返ってくる。それくらい大事なもの。

ツꀀだから、世のため人のためだからこそ、他の人の景色が見えた時に伝えてあげることも必要。それを強い愛情のもとにしてあげることは、大切なことになる。同時に、人のために愛を持って伝えた分だけ、その人は自分というものをしっかりと振り返る必要がある。そういう心がないと、嘘つきだったり、詐欺師になってしまう。

ツꀀようこ:

これは、「世のため人のため」ということだけではなくて、「悟りたい」ということも同じことだよね。まずは、自分の健康からって。

ツꀀいさどん:

「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは衆生のためにあり。」まさしくこの言葉通りで、悟るということは、尊い境涯。人が人として生きる、最終到達地点。目標なんだよね。悟ってしまったら修行がいらなくなってしまうから、人として生きるという道はなくなってしまう。そうすると、仏という存在になった時には、この地上に肉体を持って生きていないことになる。

ツꀀこの世界が、一定の方向に向かって動いているとしたならば、その奥、元の所で動かしている側の立場、神の存在するところで役割をすることになる。

ツꀀそうしたら、仏になる前の段階として、生きている菩薩の境涯。菩薩は世のため人のために生きて、世の中、人々が幸せになることを己の喜びとして生きるもの。その菩薩の境涯に立って生きていく、ということをとりあえず人間は目指すわけだよね。

ツꀀそして、それが完全に仕上がった時に、仏という境涯になる。仏という境涯になると、そこには「自分の」という願いがなくなってしまって、自分の悟った境涯を衆生に伝えるという側に立つわけだよね。与える一方。わかりやすく言うと、善意で愛で調和をもたらす側のものになる。

ツꀀ私たちはこの世界の仕組み、自然の仕組み、利他の仕組みの中にいる。仕組みの中でつながって調和している。それが乱れると、乱れを伝えるための現象が起きて、修正されるようにできている。これを神様の意思、仏の意思というふうに見ると、まさしくこの世界は、私たちが学んで健康になっていく仕組みになっている。

ツꀀこの世界が、その仕組み通りの世界だとして、この世界は私たちに何かお礼をしてくれとか、料金を払ってくれとか、要求しないんだよね。料金を払ったかい?と問いかけたりもしない。仕組みをもって、ただただそれができていないよって現象を与えて教えてくれている。その人に応じてふさわしく与え続けていること。それが神様の意思だよね。

ツꀀそして、私たちが菩薩から仏になると、それを運営する側、神様の側に立つ。それが悟りの世界。悟りの境涯。だから、「悟りたいんだ」という気持ちはわかる。それを願うことは、大切な生き方だけれど。「悟りたい」と願うことが、悟りの境涯に立つことに通じるとは限らない。

ツꀀ悟りとは、「悟りたい」と思って歩む道ではない。

ツꀀ「悟りたい、悟りたい」と想えば想うほど、悟りの道から外れていく。そういった自分の中から湧き出てくる自我の側を離れて、対岸にある世界の側に立つことなんだよ。

ツꀀようこ:

そうだね。人のためになりたい、人のためになりたい、と言って、人のためにならないのと同じだよね。

ツꀀいさどん:

そう。だから、まずは自分を健康にしましょうということだよね。

そうか、今日のテーマは、「悟りの道は己の健康から。」

ツꀀようこ:

仕組みとしてはこんなにシンプルだけど、悟りたいと強く想っていると、一瞬頭でこのことを理解したつもりでも、またすぐに戻ってしまうんだよね。

ツꀀいさどん:

自分というものが強すぎると、自分の側からの目線ばかり見えてしまって、自分がこの世界の中にいて、この世界に影響を与えながら、この世界からいっぱい影響を受けて自分がある、そのコラボレーションでこの世界がなっていることを忘れてしまうんだよね。それが「我先の心」、自分の想いが勝ってしまうとそうなる。

ツꀀ自分対この世界、宇宙、コラボレーションによって自分を取り巻くいろいろなものと、自分の存在が出来事を引き起こしていて、起きてきたことによって自分を見ている。この世界は鏡だということ。そのことを忘れてしまって、こうなりたいと結果を先に求めていると、いただくということを忘れてしまって、いただくことによってこの世界の仕組みから自分自身を見せてもらって学び、成長することから外れてしまう。正しく学んで、自分を健康にすることができなくなってしまう。

ツꀀよく考えてみたら、簡単で単純な仕組みなんだけれど、動物や植物に自分の歩みに対して悩むという機能が与えられたら、きっと動物や植物も悩むんだろうね。そうすると、ああいうものがいかに尊いか、ということと同時に、悩むということが与えられていないということは、すごく楽な生き方を与えられているということ。反対に、人間は愚かだなと思う。その半面、想い悩む自由を与えられたんだと思うと、尊く素晴らしい道を与えられていることがわかる。

ツꀀ悩みながらも、悩むことの尊さ、喜びを感じられる。同時にそれがあるよね。生きていることの臨場感を感じられる。

ツꀀ今窓から西の空が見えて、例えば、あの雲が悩んでいるとか。そこにある柿の木か悩んでいるとかね。今日はすごく元気がなくて、しゅんとしてるとか。どうしたの?って柿の木に聞いたら、実は今年の収穫がとか、このままいったら来年まで生きていけるんだろうかとか答えるとしたらね。

ツꀀそれこそ、私たちはすごく落ち込むよね。人間、自分の身の回りだけでもこんなにいろいろ悩むのに、自然がいつもそういう想いもなく、いつもただいてくれるから。淡々と四季を迎えてくれるからこそ、人間は悩んでいける。自然の猫だとか猿だとか、虫もみんなが、それこそ木の花菌を仕込む時に、木の花菌が悩んでいたら、僕らは救われないよね。

ツꀀこの世界で人間以外悩むことを与えられていないということは、人間はこの世界にいかに救われているか。

ツꀀ今日は、いいことを知ったぞ!

ツꀀようこ:

面白い!自然までも悩んでいたら、騒々しくて仕方がないよね。

ツꀀいさどん:

というか、もう嫌になるよ。この世界が皆、人間のように悩むことを与えられていたらね。だけど悩むからこそ、いろんなことにも気づいて悩んでいける。これを辛いことだといったら、そうなってしまうけれど、そんなふうにも解釈できるとなると、すごい能力が人間に与えられていて、それこそが喜びだよね。

ツꀀ馬鹿馬鹿しいのか、喜びなのか、なんだかわけがわからなくなってきたけど。ということは、悩むことが馬鹿馬鹿しいといって、悩みから外れ、悩みがなくなってしまったら、いかにこの世界が味気ないかということになるよね。

ツꀀこの世界を悩みだけにしたら、それは辛いばかりだけれど、この世界が確実に悩まないことを目指している世界として私たちを包んでくれているから、私たちは本当に安心して悩むということを与えられていける。それは、本当にありがたいことであって、喜びになる。

なんだかよくわからない結論になってきたね。

ツꀀようこ:

いつもそうやって煙に巻く、ゲームですから。さあ、このカラクリをどこまで人間は理解できるでしょうか。

ツꀀいさどん:

なんだか、答えが出なくても、笑っちゃうじゃん。とりあえず、いのちは与えられた寿命だけあるんだし、できることは今回与えられた役割分だけあるんだし、想い悩むことはないよね。というところにいくんだけれど、想い悩むことがなくなったら、生きている実感がない。生きているということは、想い悩むことだから。そうすると、想い悩むことなく、悩んでいけと。

ツꀀようこ:

そうそう。とりあえず、絶対安心の中にいることは間違いないのだから。

ツꀀいさどん:

間違いなくね。そして、何もないところで生きていくのではなくて、悩んでいきなさいと。なんだか、わけのわからないような、わかったになった。

ツꀀこれはすごく難しい!

ツꀀようこ:

これは、文章にして、どこまで理解できるかな。

ツꀀいさどん:

ここまで語れたということは、相当の結論だよね。今日もいい話ができてやる気になってきたぞ。さあ、作業に行こうか。


今日のテーマは愛~愛は減らない

ここのところずっと想っていることがある。木の花で、今、自分の心をコントロールできなくて、どうしても自分事を優先してしまって、そこから抜け出せない人がいる。

それは、一般社会では当たり前のことだよね。だけど、木の花という社会では、自分事が優先してしまっている人ってどうしても浮いてしまう。皆がそれを問題あるよと言って、厳しく浮き立たせているのではなくて、自分事ばかり考えている人がここで毎日生活していると、不思議といろんなトラブルが起きたり、作業で失敗したりと、その人の中から不調和な部分が出てくる。

それが自然の仕組みの中だと、自然は調和の中にあるから、調和が崩れると淘汰されるというふうに力が働く。たとえば、自然の中ではバランスが崩れて調和から外れると、病気が出たり、怪我が出たりする。増えすぎると、天敵に襲われる。そういったことがあるように、それと同じような現象がここの社会の中でも起きてくる。

そうすると、その人は、自分を見る目がなくても気になるのか、それを自分で認識して、大人会議の報告で出したりするけれど、歯切れが悪い。自分を積極的に誘導できないばかりに、毎日同じような歯切れの悪さを出す。人によって陰性的で消極的な出し方と、陽性的に自分がアクセルをふかしすぎてしまって、行きすぎてしまうような人。それから、十分自分をコントロールできなくて、コントロールというのはアクセルをふかしすぎてコントロールできないのではなくて、前に進めなくてそこで苛立っている人がいてね。それをこういうものだよって言ってあげても、なかなかそれができない、涙があったり、落ち込んだりということがある。

それに対して、そこから抜け出るためのアドバイスであったり、言葉がけというのは、そのひとが救われるための、一番大切な愛がそこに向けられている。これこそ愛だな、と。その人のことを大切に想う愛。

けれど、受け取る人によっては、自分の中から滞りが出てきたのに、それができない自分がずっとあり続けて、その姿をしっかりと見てたら、ああ自分の問題なんだなと受け取れるだろうに、それを外の人からこうするといいよというふうに指摘されると、いつまでたっても直らない。

それはどこに原因があるのだろう。自分の問題点を人から言われている、という意識に知らない間に変わってしまったり、中には人が自分に厳しいことを言っている、自分が責められている、と思うことになる。でも、それは本来、自分から発したもの。それに対して、その人がそこから抜け出せるようにその人のことを想って、適切で客観的なアドバイスをしているにも関わらず、それが責められているように感じてしまう錯覚に陥る。

今の段階で、木の花で起きていることはそんなに重症ではない。皆、どの人も自分のこととして受け止めているけれど、一般社会ではそういうことはありえる。

僕はケアで人をお預かりする時に、常にその人のことはその人のこととして、前もって伝えておく。それはあなたのことですよ、と。自分のことなんだってことを常に理解している状態でないと、全く本末転倒になってしまい、おせっかいになってしまったり、伝えようとすることが伝わらなくなってしまう。

だから常に、自分から発したものが何であるのか、自分の中に原因を見ていかないといけない。外から来たものも、外に原因を見ると言うことだけではなくて、自分がそれに出会ったのだから、自分の中からまず見ていかないといけない。そういう場合は、外にも原因が当然あるのだから、客観的な目で外の原因を見る必要もあるのだけれど、大事なのは、まず先に自分の中に、自分から発したものを見る。そして、外から来たものも、それに出会ったという自分の中を見る。最後に外を見る。正しく物事を見るためには、その姿勢が必要だと思う。

今日は愛がテーマ。愛というものは、語っても語っても、語りつくせないものだけれどね。

僕は最近、陽子ちゃんとほとんど毎日対談をするんだよね。陽子ちゃんは、僕の中から湧き出してくる想いを見事に受け取って、忠実に表現してくれる。会話する言葉というのは、どうしてもわかりづらいから、そこで文章に仕立てていくということをするんだけれど、目的や会話の中の意図が僕らの中で共通していないとできない。事務的にやっていたのではできない。

それは、すごく強い絆と信頼があるからできる。さっき、陽子ちゃんが部屋に入ってきたときに、陽子ちゃんはなんでこれをやっているんだろう、と言葉にならない問いかけが発生したんだよね。それは、きっと楽しいからとか、希望があるからとか。そういったことを超えて愛しているから、ということなんだろうと思った。僕もなんでこれを毎日やっているのだろうと思ったら、僕も陽子ちゃんをこのことのパートナーとして最良の存在だと思っているから。

昨日ね、大人会議後、ひまわりから本宅に帰ってくる時に、たまたまみかちゃんと一緒だったんだよね。みかちゃんに、「みかちゃんね、僕らは愛し合っているよね。僕らはもう他に誰も割り込むことができないくらい愛し合っていて、そしてこんなに愛深く日々が生きられるということは幸せだよね」って言ったら、「そうだよね。私は昔、愛というものを自分が人を支配することだというふうに思っていた。だけど、こうやって愛をお互いに向けあって、そしてあふれるくらいの愛を表現することができるんだよね」ってこう言うんだよ。

同じことを陽子ちゃんに感じて、僕は今みかちゃんとか陽子ちゃんって名前を挙げたけれど、それはじゅんじマンやこうちゃん、なかのんにも、ここには沢山の男の人もいるけど、どの人にも感じるって、その時に言ったんだよね。

人の中に、相手を独占したいとか、そういうことで悩んでいる人がいる。そういった人は、愛には限りがあるもので、自分に向けられている愛がどこか他に向けられたら減る、と思っている。しかし、それは間違いで、愛は実は減らないものである。特定のものに対して、独占する心が生まれると、対立が起こり愛が消滅してしまう。愛は育てていくもので、無限に増えていくものなんだ。

もしも世の中のすべてが嫌だとなった時に、この世界と対立しているのかと言ったら、実は、そういったせまい心になった自分と対立している。一番始めの愛の対象である自分と対立していることになる。

ところが、愛というのは、すべてが喜び、すべてが感謝。すべてに愛を向けるということができるという広いもの。

一般社会の中で人と人が愛し合うっていうと、非常に相性のいい夫婦がいて、生涯を睦まじく生きた。大恋愛をして、恋愛の見本のような愛をもって生きた。それは、特定の人の間にある関係だよね。

僕は、その特定の人同士が持てる、ほとばしらんばかりの愛を誰にも持てるな、と最近思っていて、どの人を見ても、その人の奥に本当に深い愛を持っているなと思っている。それを皆に感じるようになった。本当に幸せだよねってそこでは伝えて。

その時その時に、100%相手に愛を向けたからといって、それですべて、愛の泉が枯れてしまうということにはならない。どの人に対しても同じ気持ちが湧いてきて、枯れることがない、これはすごい世界じゃないかと思っている。素晴らしい。そういう世界を僕は今生きている。これを聞いた人たちは、その世界を想像できるだろうか。イメージできるだろうか。

実際に僕は、毎日そういう心を持って生きている。そうするとね、それを拡大していくと、僕らがまだ出会わない人たち、そういう人たちのことも愛の心で見ることができるんだよね。そこでいろいろ想い、悩んで苦しんでいる人がいたとしても、その想い悩んで苦しんでいることも、温かく見守ることができる。

神様ってこういう心で、この世界の見えない場所から私たちのことを見ているんだろうなと思う。そして、私たちも誰にでもそういう心を向けられる。それだけでも、なんて素晴らしい所に生きているんだろうと思う。

愛は減らない。お互いがお互いの関係の中で、めいいっぱいこれ以上表現できないっていう愛を表現しながら、それがどの関係の中でも同時に表現することができる。愛は減らないんだよと。なのに、独占しようという心が起きた時に、いろんな所に向けられる愛が、なんだか自分の取り分が減ってしまうような、なくなってしまうんじゃないかって思う。その愛は自分だけ得しようというエゴの愛。自己愛。

どんな縁にも意味があって、それを健全なほうに育てていきたいよね。健全な方に育てれば、そこには当然いい人間関係が生まれてくる。それを無理やり維持しようとせず、いただいた縁を本当にすくすくとそのまま育てたいなと。にこにこ笑いながら。

目的、会話の中の意図

自殺する愛から究極の尊さまで

先週末、東京で村的暮らしをテーマにしたシェアハウスを運営されている「やかまし村」の皆さんが1泊2日のツアーを組んで、ファミリーを訪れてくださいました。いさどんがプレゼンテーションを行った後、質問タイムが設けられ、そこではいろんな話で大いに盛り上がりました。参加者の中には、「この時間が一番ためになり、楽しかったです!」とコメントされる方もいらっしゃいました。

その質問タイムの中で、いさどんが感極まって涙を流す場面もありました。涙した理由と、その奥にある想いとは・・・

まず、自分がどういう想いを持っているのかということが、確実に自分の未来に現象となって訪れる。これは、科学では説明のつかない話だけれど、物理学の最先端をいっている人たちの中には、それこそが最先端の物理学なんだと言う人がいる。「木の花で想うことは成る」と言っているんだよね。それは一般社会でもそうなんだよ。悪意を想えば悪意の世界ができるし、対立を想っている人には対立が起こる。

木の花で想うことは、すべて善意。だから、私たちがこういった考え方をもっと世の中に伝えるために、人々が訪れるための施設が欲しいと想ったら、それは社会のためであって、自分たちの欲を満たすためではない。そうすると、それに必要なお金や施設は、社会が与えてくれる。一方、自分の生活のために生きている人は、自分の稼ぎ、やり繰りでしか生きていけない。

私たちの今の年収は、ひとり70万ですよ。だけど、これほど豊かに生きていける。

自分が想うことによって、未来を創ることができる。そうしたら、何を想うかということを、真剣に考えないといけない。その想念が未来に実現するのだから。

でも、想うことのカギが間違っている人が結構いる。執着を強く持って、それを維持することが幸せだと思っている人。例えば、お酒が好きな人。お酒はある程度は、体にいいとも言う。でも、それが憂さを晴らすためのお酒になった時には、目的が違ってきてしまう。そうすると、憂さを晴らしたいから、それを忘れるまで飲むことになる。憂さというものの根本の原因を解決しないで、お酒で忘れるという手段にもっていくと、問題は何も解決されていないから、何度でも繰り返すことになる。そうすると、お酒をやめられなくて、いずれはアル中になる。

最初は幸せだったのに、その想いがバランスを失ってしまうことがある。そのときに、自分が楽になりたい、欲求を晴らしたい、と幸せを追求していくのも、実は愛。この世界は、全部愛が変化したもの。自殺するのも愛。自分を幸せにしたい、そういった自己愛。辛くて仕方がなくて、自分を解放してあげようと自殺するわけだから。

だけど、愛もそこまで歪んでしまうと、生まれてきた根本の目的を放棄するという、最も不幸なところにまでいってしまう。そこは、考えないといけない。自分の愛がどんな愛なのか、しっかりと考えないと。

これほどすばらしい世界にいながら、なぜそこまで自分を苦しめるのか。なぜそこまで辛い心を持つのか。

それを思うと、涙が出てくる。

なぜ、自分のいのちを絶つようなところまで自分を追いやるのか。他人に追い込まれていると思っているけれど、自分で追い込んでいる。

なぜ、そこまで見えないのか。これは、何とかしなければいけない。この世界の創造されている目的、真実の目的に気づかなければいけない。

これも、僕が肉体の中に入っていて、心がせまいから、そんなふうに思うんだけれど。神様は、「それもプロセス。もっと先があって、今があるんだから。今を悲しんではいけない」と言われる。

それは、上から見たら確かにそうかもしれない。僕もこの肉体を返して、それこそ惑星間を旅しているようだったら楽しいのかもしれないけど。でも、今ここに現実に肉体を持っていて、そういうことを目の当たりにしたら、全部ゲームだって笑ってばかりもいられない。

毎年8月になると、ものすごい馬鹿な時代を振り返らないといけない。あの第二次世界大戦で行われた、あの不幸は何だったのかと。人間があれほど真理から外れて、馬鹿になってしまうような。人が人を食べるような。何もそこに益がないのに。肉弾で殺戮の中に走っていき、それを他人に強要するような。それを泣きながらやるような、泣きながらならやめろって思うのに。人間ってのは、そこまで愚かなものになることがある。

自然を見てごらんよ。自然の中にはそんなものはいない。でも、人間は、そこまで愚かだからこそ、そのエネルギーの反作用を生かせば、究極の尊さまでいくこともできる。

これは、神様のゲームなんだから。テレビゲームを作っている人たちでは、こんなすごいゲームは作れない、すごいゲームなんだ。

話し終わって、「そんな神妙な顔をしなくていいんだよ、世の中が明るくなるように話をしているんだから」といさどん。

いさどんから湧き出してくるものが何であろうと、それはいつだって善なる愛なる調和なのです。

真剣に話を聞く「やかまし村」のみなさん
真剣に話を聞く「やかまし村」のみなさん