引き分けが一番楽しい~空気の色の見方

今日は、ファミリーメンバーのようこが、日頃思っている疑問をいさどんに質問します。

ようこ:

自分で悪い空気を出しているのに、それに気づかない人を見るたびに思うことがあります。自分が醸し出す空気に色がついていたらいいのに。例えば、怒りは赤色。自分なんかだめなんだと思う人は灰色というふうに。なんで、人は自分の出している空気に気づかないのでしょう?いさどん、教えて下さい!

いさどん

ちょうど自分も同じようなことを考えていたんだよ。

悪い空気というのがどんな感情かというと、例えば怒り、悪意、不調和、孤独。それに対して反対の空気は、愛、調和、善意。そういう相反する心があるとすると、ある感情を出している人を見て、物理的な色は見られないんだけれど、その感情に対して色をあてはめてみることはできるよね。

だから、ようこちゃんの言っている、怒りは赤、自分に自信がなくて落ち込んでいる人は灰色っていうのは正解だと思うし、おおむね誰でも感情に対して色をつけることができると思う。便利がいいから、例えば怒ってるときには顔が赤色になっていくとか、それこそ、だんだん気持ちが滅入っていったときには顔が灰色になってくれば、人はその人の心の中を見なくても、色で判断すればいいよね。

でも、残念ながら、人間は肉体をもっているので、自分の肉体的外観と心の中を、別々にすることができるような機能をもっている。だから、顔で笑って心で泣いてとか、顔で笑ってるけど心の中で怒ってるということができるのが人間の特長で、これは人間以外の生き物にはないもの。これは、ある意味、人間が優れているとも言えるし、人間がそれだけ複雑で巧みなもの。もっと言えば、悪だくみと言われるように、一歩、能力の使い方を変えれば、悪いことにも使うことができる。

ただ、何でこんな機能が人間についているのかということを考えると、我々は肉体をもらって、その肉体が魂の中に封印されている。これを、肉体と魂がセットになって生きている、という見方もできるけれど、もっと言えば、魂がわざわざ肉体に封印されてこの世界におろされている。そして、人間は、自分の感情や他人の感情を色や形で見せることなく、自分の感情を出し、又他人の感情を受けながら、その中で自分の心を悟り、そして自分の心の問題事に出会うことによって、それを痛みとして感じ改めていく、それが生きてる人の姿。そういうふうに言えるかなって思います。

それで、最初の質問に戻ると、人は、自分の出している空気に気づかないんじゃなくて、その人流に気づいている、その人流の気づきの歩みがあって、その人の歩みにふさわしく気づいている。人はそれぞれ自分の学びのスピードだとか学び方があって、だから1回でわかる人もいれば、100回聞かないとわからない人もいて、ひょっとすると、ある部分のことについてはある人にとって生涯わからないかもしれない。でもそれは、生まれ変わって次の人生のプランとしてやり直す、そういう人もいるわけだから、気づかない人ってのはいないと思う。

だから、「なんで気づかないのでしょう」ってのは、気づいている人から見た解釈であって、まわりに対して問題ある空気を出してる人は、確実にまわりからその空気を出している反応をもらって、さらにまわりからの反応に対して自分も反応している。だから、我々は人間関係をもらっているし、誰一人として同じ人間関係をもらっていない。そして、一人ひとりに対して違う感情を表現している。僕は色も感じるし、それからその人のまわりから出てくるオーラのようなもの、その人の過去に持ってるトラウマから発生するものなんかで、人の感情を感じることがある。

ようこ

そうすると、私が人を見て、あの人悪い空気を出してるな、なんで気づかないのかな、と思うのも私の枠っていうことだよね。

いさどん

それは枠ですね。悪い空気を出してるっていうことは、悪いというのがさっきの不調和、対立、怒りということだとしたら、その感情がその人の中にあるわけだから、もし仮に『調和が大切、怒ることはだめ』という場所があるとしたら、そういった感情があるにもかかわらず、その人に自分の感情を出さないでおこうという心がはたらく。

本来、人は自分の中にあるものを表現することによって、気づくことができる。また、自分が気づかなくても、まわりの人がそのことを受けて、その人に伝えてあげられる。そういった場所があることによって、その人はそういう心が自分にあることに気づくというチャンスをもらえる。気づいて改めるということにつなげられる。

また、非常に悪いこと、ずるいことを行い、自分の中の悪い感情を表現している人がいるとする。何を自分から発していることに気づかないでいる人に対して、その人が気づくために、自分の中に怒りの感情がなくても、敢えて怒りの感情をもって伝えてあげる。お釈迦様もイエスさまでも、そういったことがあったって僕は思っているし、悪意に対して怒りをもって伝えたという記述を読んだこともある。悪意に対して怒りをもって伝えることによって、相手がその怒りを受けて、自分が発しているものに気づく。

そういうことができるという意味では、いい感情、悪い感情と区別するのではなく、そういったいろいろな感情を表現することによって、自分の中に何があるのか気づくことができ、そのために感情があるんだって理解すれば、いろんな感情をどういう目的に使うのか?使う目的によって、有効にもなり悪いものにもなる。

例えば、ほんわかした心がいいのかというと、ある人がとても行き詰って孤独な状態でいるときには、ふんわかしたあったかい感情はとても有効だけれども、わがままで自分勝手なことばかり考え、その人がどうにもそこから抜けられないときに、『それでいいんだよ、それでいいんだよ』と言うことがいいわけではなく、厳しいことをその人の気づきのために、伝えてあげることも大事。

それから、世の中にある戦争や対立も、それが悪いのかというと、悪いことがそこに起きているのではなく、人の心の中にそれを引き起こす感情があるから現れてくるのであって、対立や問題事から、それを喜びとするにはどうしたらいいのか、という学びを得ることもできる。そうすると、いろんな感情をもって生きていること、またいろんな人たちから感情を受けることは、そこから学ぼうとするならば、なんでもいいことだということにつながるのかなって思います。

ようこ

なんだって、まわりを想ったり、人を想うことの練習の材料になりますね。

いさどん

そう。だから、すべての出来事を有効に、善意に使うこと。最終的には、愛を表現し、伝えていけば、この世界は調和でつながり、そういった心がいつも働いている世界だってことに気づくことだと思います。

ようこ

最近、子供会議でも大人会議でも、一人ひとりがその場を担っている自覚を持とうということが言われているけれど、そういったことがなかなか持続できない人もいる。やっぱり人から言われて、反省ぐせがついている人に対して、その人がその心を持続できるようなアドバイスはありますか?

いさどん

個々のアドバイスっていうのは、あんまりないんだよね。それは、一人ひとりが自分の中でオリジナルに湧いてきた気づきによって気づいていくというのが原則だから。

個々のアドバイスはないんだけれども、大切なのは、我々が単独で生きていないということ。集団で生活をしながら、人生を学びの旅にしている。とするならば、木の花のように敢えて意図的に集団で暮らしていなくても、この世界に人として生きてるってことは、みんな集団生活をしているということ。大きく言えば、地球という村に、いろんな役割の人が、人類という集団生活をしている。

個々にも役割があって、目的がある。全体にも役割があって、目的があるとしたならば、我々は、自分がどういう心をしているか、そしてそれがいいものか悪いものか。自分にとって全体にとって何をもたらしているか。悪いものは悪いもののように役割を果たしているんだけれど、悪いものは痛みを与える。それは、善意であり愛であり調和であるこの世界では、悪意は改めるような仕組みになっていて、善意、愛、調和に反することは、ちゃんと痛みを感じられるようになっている。そして、それを改めることが喜びとなるようにできている。そこのところに気づくということだと思うんだよね。

みんなで心を通じ合わせながら、お互いを鏡として伝えあい、気づいて改めることによって、善意、愛、調和を表現していくこと。それがこの世界の目的なのだと思います。だから、一人ひとりに調和的に幸せな毎日を送ろうという意思と、まわりの人たちも、そのことを求めている人には一生懸命いろいろな表現の仕方をもって手助けをしてあげる。それは、問題事すら調和の材料となるということで、いいことだと思う。

ようこ

そういうふうに皆で助け合って暮らしていけるならば、空気に色がないことはいいことだよね。何でも自己完結せずにできるっていう醍醐味を味わえるよね。

いさどん

そう。空気に色がついていたら、形を見てわかってしまったら、人間は心を感じとるということ、心を伝えることができなくなってしまう。

我々は肉体をもっているか?本質は見えない心によって生きてますから、敢えて物理的な色を見ることができなくなっている。でも、物理的な肉体を卒業して魂の世界になると、実はすべて丸見えの世界。だから、もともと物理的な世界が我々の本当に存在する場所なのか。魂の世界、つまり死をもって肉体、物理的なものを全部生態系の中に返して旅立ったとき、そちらのほうが我々にとって本当の存在の場所。

宇宙のオアシスのような地球を建設するために、地球に心を表現した物理的な世界の理想郷を築くために、それは善意であり愛であり調和を表現するために、我々は地球上におろされて、あちらとこちらで役割の場を行ったり来たりしている。そういった意味でこの世界に死はない。愛に対して、我々はわざわざ遠い孤独というところに置かれて、その愛の方に向っていくことによって、喜びを表現しながら、この世界の目的を悟って、役割を果たし、神様に還っていく。

そういう仕組みの中にいるのならば、ある意味で、問題事は問題事だけを見るとつらいことのように見えるけれど、違う見方をすればこれはゲームだと。ゲームだからそんなにむきにならなくていいのよ。悪いことだ!辛い!となる必要もなくて、今提示されていることをどういうふうに受け取るのか、自分を試されている。

僕は、いつも神様とのゲームをしているんだけれど、うっとすることがあると、そこでうっとして怒るとか悩みそうになってしまったときに、待て待て、この世界はすべて神様が起こされているとしたら、そのもとは善意であり愛であり調和であるのだから、自分がぐちを言ったり悩むを表しているとしたら、それは自分の思いが湧いてきているのであって、それはあんまり自分にとって愉快じゃない。じゃあ、それを善意であり愛であり調和のほうにどうやって自分が解釈したらいいいんだろうって思った時に、『神様、待って下さい。私の中から怒りを出そうとして、そういうふうにされているあなたの働きかけを、あなたの配慮、善意だと解釈します』と神様に投げかけると、神様は、『おお、また引き分けになったのう』と返ってくる。そうすると、僕も怒りの感情を笑いに変えることができる。

それに対して、怒ったり悩んで落ち込んでしまうと、『このゲームは私の勝ちだな』と神様の勝ちとなる。いつもこのゲームは神様に負けがない。自分が負けることはある。そして、負けないように、神様の善意を受け取ることで引き分けになる。神様の勝ちか引き分け。自分には引き分けか負け。それしかない。なぜかというと、この世界は、神様が神様の自分という世界の中で、自作自演している世界だから。神様に負けはないんだってことになる。それで僕は愉快と思って生きていくことができるということですね。

ようこ

いいね、引き分けっていうのが一番楽しいというのが。皆仲良く楽しそうでいいね。

いさどん

そう。勝ち負けじゃなくて、だから神様に負けているうちはだめで。いつも引き分けってのは、ゲームだから。ゲームはもう一回やり直すこともできるんだから、もう一回チャラにしてやり直そうよ。損も得もないのよ。そういうふうに人生を生きられたら、もっと楽に、もっと有効なものとして使えるよね。

ようこ

疑問もすっきり解決して、いさどん、ありがとうございました!

いさどん

人生はゲームである。だから、どんなことも楽しく愉快に生きていられるってことですね。


いさどんがあなたの悩みに答えます!

東京在住ファミリーメンバーのさのっちからいさどんに質問です。

「心のくせのままに生きていると言われますが、自分では精一杯心を磨いているつもりです。では、具体的に何をどうすればいいかアドバイスを下さい。」

今日は、そんなさのっちに代わってメンバーのようこが、いさどんにインタビューします。

いさどん

まず、この答えに対しては、『具体的に何をどうすればいいかアドバイスを下さい』というところに、その人の人間性が出てるんだよね。つまり、『アドバイスを下さい』ということは、自分が人に何かを求めているということで、本来、その人にしか気づけない、見つけられないという仕組みの中で、この世界に生まれてるってのが正解。だから、一人ひとりが自分の中で気づきを得ていくっていうこと。そのためには、『自分では精一杯心を磨いているつもりです』っていうところに答えがあって、いるつもりをしているだけで、その人は精一杯生きてない。本当に真剣に、精一杯生ききったならば、必ず気づきがあって、そして答えは出る。

もうひとつ。くせというのは、個性の変化したもので、自分の中にある個性が自分の意識、コントロールをはなれて、勝手に出てきてしまったのがくせである。『あ、出てきてしまった』と思うことや、ひとから『こういうところがあるね』って言われたこと。それからもっと言うと、そこから害が起きてしまって、こんなことをやってしまったということ。それが何度も繰り返し続くのがくせの状態。大切なのは、くせが出てきたときに、それが自分の中にあることを否定するのではなく、自分の中にそういった部分があるということをしっかり認める。そして、しっかり認めた上で、次に出てくるときにコントロールする。

“くせの出方6段活用”というのがあって、

①くせが出てしまった、そして問題が起きてしまった、でもそのことにいつまでも気づかない人。これが一番重症。
②くせが出てしまった、問題が起きてしまった。そこで気づく人。
③くせが出てしまった、問題が起きてしまった。自分がそのことに悩んでる。困ったと自分で思ってる。
④くせが出てしまった、その時点で問題が起きる前に気づいた。で、問題は起きなかった。
⑤自分のくせを思った。自分の中にくせが湧いてきたときに自分で気づいた。それで、そのくせが出る前に自分でとめた。
⑥自分の中にくせがある。そのくせを必要な時に必要な形で活かした。

最後の段階が一番高いレベルで、自分の中にあるくせを捨てることはないということ。それは大事な個性だから。そうすると、一番最後の方法が一番有効なくせの使い方で、その場合、くせが個性となって活かすことができる。そうやって、くせというものを個性に変えて自己コントロールする。

さのっちの場合、『くせのままに生きていると言われる』っていうことは、自分には問題があるということを人に言われているんだから、ひょっとすると②の段階。自分のくせに気づいてはいるんだけれど、人のアドバイスがないとわからない。

もうひとつは、自分を客観的に判断するということから言うと、自分との距離が近すぎて、自分を観察できてないという状態。くせっていうのはどれも概ね同じような形で出てくるケースが多いものだから、ひとつ自分のくせの出方の方程式を見つければ、あとはどれにも応用できる。それを自分の中で整理して、まずその方程式を確立する。それから、一つ一つのくせにあてはめる。そして自己観察をする。観察をしたあと、自己コントロールをする。

具体的なアドバイスというのはありません。それは、具体的なことは個々のケースだから、数がありすぎてできません。だから、今のような方法を通して、毎日の中で自己観察を心がけること。この場合、今まで自分ができてなかったこと、自分が見ることができなかった自分の部分であるから、これができるようになると、非常に面白い。楽しい。

そして、こういった形で自分を見ない人は、自分の問題部分というふうに、このくせを考えてしまって避けてしまう。人に言われると不愉快に感じてしまう。でも、自分でそれが見えてくると、楽しくなり、生きがいにもなる。その楽しみを見つけて積極的にやって下さい。はい、アドバイス終わりです。

ようこ

今いさどんが言った方程式を日常生活の中で実践すれば、さのっちのくせも個性として活かされるね。

いさどん:

さのっちのくせは、移り気でありながら新しいことに対する恐怖があるということ。これがくせとして出ると、気持ちに持続性がなく心にばらつきがあって、一つのことを完結していないのに、他のことに気持ちがいってしまう。恐怖ということに対しては、新たなものに対して、自分の中で勝手に恐怖のイメージをつくってしまい、実際の対象の実態を把握するのに、余分なエネルギーを使ってしまう。さのっちのくせが個性として活かされた場合は、移り気が好奇心旺盛に、恐怖が慎重さ、確実性、効率性として活かすことができる。あとは、慎重さがないわりに好奇心が強いから、積極的に行動してしまって、自分を客観的に見てないがために、あとでまわりから指摘を受けたり、まわりから高い評価を受けたいという心から、非難されたときに自分のイメージが落ちるので、それに対して怒りを感じたり、抵抗してしまうというくせがある。

ようこ

さのっちがよく、『自分をわかってもらえない』と言うのは、そういう心から出ているんだね。

いさどん

『自分をわかってもらえない』というのは、自分が思っているイメージ通りに相手が評価してくれないってことなんだけれど、実は相手の方が正しく自分を見ているのであって、自分はこう見てもらいたいっていうイメージで自分を見ているから。わかっていないのが自分であることに、相手の評価から気づくのが正解で、だけれども、この場合に、人を見る目がない人が言っていることもあるから、だからこそ、自分自身で客観的に自分をとらえることが大切。自分というものの判断がしっかりできている人は、相手から言われたことに対して受け取るべきことと、反対に、相手に対して伝えるということのコントロールができるようになる。自分が客観的な目を持っていないと、相手から受け取らなければいけないときに、怒りをもって相手にぶつけてしまったり、相手の問題であるのに自分が全てを受けてしまって相手のためにならない。

ようこ

今のことが実践できていれば、東京で離れて暮らしていても心を磨けるね。

いさどん

それはもちろんで、人間は肉体をいただいて、この人生という期間の中で生きてる。ということは、肉体をいただいて生きている場所は地球の上です。この場所で我々は自分自身を学ぶ、そういう機会を誰しもがもらっている。地球上が学ぶ場所であって、地球上すべてが聖地、修行の場であるから、場所はどこでもいい。だから1か所を聖地とするのは、これからはやめなければいけない。地球自身がこの宇宙の中で特別な存在で、他に見つけることができない特別な場所である。そして、人間という形で成立していること自体が、他の生命と比べたら、特別中の特別の姿をしているのだから、地球の上、人間であるというだけで、どこでも自分がそのことに気づけば修行になり、自分を高めることができ、そして他のものの役にたつことができる。

ようこ

そしてそれは一人でもできるっていうことでいいのかな?大勢の中でじゃないと難しいと思う人もいるかもしれないけれど。

いさどん

この世界に、一人でいる人間がいるのか、ということを考えると、人間は集団で生きている生き物だから、一人で生きている人はいない。とすれば、どんなに縁が薄いと思っている身近な存在でも、薄いという縁をもらって、その人が学ばなければいけない出来事は常にまわりにある。出会う人が多い人は当然同じであって、もっといえば、この世界で誰も出会う人がいない人がいるかもしれない。南海の孤島かなんかで。もしくは、積極的に山の奥地に行って、修行者のように一人で暮らしてたという人がいたとしても、そこでは実は、自分というものとつきあっている。自分の心の中には、真実の部分と、取りさるべき垢の部分がいて、これは一人とは言えないかもしれない。もっといえば、この世界という、自分であって自分でない、この世界というものとつきあう、わかりやすく言えば、神様と自分、宇宙と自分という必ず対比させる存在と自分がつきあってるわけだから、一人で存在する人間はいない。だから、どんな孤独な人も一人じゃないから。そして、自分をそこで見つけていくと、生きがいというのがうまれて、孤独で辛いという人はいないはずなんだ。

ようこ

ただ、こういった心磨きは、同じ志を持つ人と一緒にする方が楽というのはあるのかな?

いさどん

それは当然で、例えば恋人やパートナーを見つける。その以前に、親をもらう。兄弟をもらう。そうやって家族をもらう。それだけではなく、我々は仕事とか学校とかいろいろな形で、パートナーシップをもらう。それは自分対誰かということで、いろんなテーマに基づいてパートナーシップをもらって生きている。だから、無限な学びの場をもらっているのであって、それは学ぼうと思えば、無限な学びができるチャンスを我々は与えられている。そのことに気づかないと、自分は学ぶチャンスを、学ぶ相手をもらっていないと思ってしまう。それはたくさんあるのにそのことに気づいていないからであって、一度気づけば、この学びの水の中に浸かっているようなもの。こんなにどっぷり浸かっているのになぜ気づかないの?という状態で、本来は気づかない方がおかしい。だけれども、自分に対して興味がありすぎたり、我々は肉体をもらっているから、この物理的な刺激のほうに興味を持ちすぎると、そのことに気づかない。ちょっと客観的にいろんな出来事に疑問を持ったときに、それはものすごい緻密な中に我々は入れられていて、もう完全にこの世界のつけものになっている。この世界の、というよりも、神様の意志のつけものになっている状態なんだ。ということは、我々自身が神の働きの中にいるってことは、我々自身が神そのものであるということ。我々がいつでも神の側に立って物を考えることもできれば、いつでもその強烈な緻密な世界に浸かっていることから離れて、孤独になったり、自分自身しか見えないことにもなる。自分の持っている個性すら、コントロールできない状態で生きることもできるという。さて、人間はどれほどの気づきをしているのか、気づいていないのかってことを、自分に置き換えて考えてみたらいいと思う。

ようこ

やっぱり最後には、神様の話で締めますね。

いさどん

それは、すべての想念、すべての現象は、この世界の中にいるんだから、この世界の仕組みから外れて語ることはできない。だから、どんなことから語っても、どんな想いを馳せても、そこから外れて存在するものはない。見事に神は、人それぞれ本当にその人にふさわしく与えてくれている。これほどぴったり与えてくれている。それが人生だから。わからないときにはわかりやすいところへ、高度になったらどこからも学んでいけばいい。どれほど愛されて、どれほど配慮されて自分が存在しているかということ。そのことに気づいたら、毎日幸せで幸せで仕方がないということですね。


そしてみんなが語りだす

ただ今、いさどんは名古屋に出張中です。「おやじの館」も休館と思いきや、そうは問屋が卸さない!のが木の花ファミリー。

朝、まりちゃんが、「昨日のブログの続きが出てきたから、ようこちゃんに渡すね」とメモをくれました。その小さな一枚のメモにはこんなことが書かれていました。

「最近、『木の花の歩みは自分たちで作っている訳ではなく、すべて神様におまかせなので、究極の無責任でいられる』なんて、ジョーダンぽく言って皆で笑っていましたが、究極の無責任は究極の信仰心があってこそ出来ることだなあと思います。全てはそこから頂くのですから、天の御意思を正確に受け取れるクリアな自分をいつも目指したいと思います。

初期のメンバーは、バカの一つ覚えみたいに、『神様に心を向ける』が合言葉でした。信仰心が深まることにより、自分から離れていくもの(我や不安)、そして自分に入ってくるもの(感謝、愛、調和)を皆で体感し続けた15年でした。もちろん今もこれからもそう。みんないてくれてありがとう。」

これを読んだ初期メンバーののりちゃんは、

「まりちゃんの全ては私の全てであり、だから泣けた。でもそれは喜びの涙。全部一つ。他人も自分も天も地も、全てを一つだと感じるよね。さらに、自分の中で区別がなくなっていく。神人和合の境地をやり続けることが神様の喜びだからね。これがとまらない、やめられない!最高!」

さらにあいちゃんは、

「いつもいさどんは、『富士の裾野に人神の里ができる』と言っていた。みんなが心を磨き合ってる姿はとても美しい。一人ひとりが心を磨いている姿を見るのが好き。その中にいられる自分はとても幸せもの。これからは、この心、世の中に発信させ、みんなにも幸せになってほしい。心やんでる人、この心に会いたい人、待ってるからおいで。」

そしてちなっぴは、

「私は超ありがたい人生だなっと思って。もう素晴らしくて。なにしろありがたい!」


15年目の合格

今日は、「おやじの館」の主のリクエストによるブログのパート2です。今回は、木の花創立メンバーのひとり、まりちゃんの物語。題して、「15年目の合格」です。

私は毎朝、キャスターハウスで精米をしていますが、時々いさどんが粉挽きに来て、一緒になります。そんな時は必ずといっていいほど、心の話になり、今朝も例にもれずそんな時間になりました。

この前の創立メンバーヒアリングの話題はいさどんの家出話でしたが、その時期は丁度、私の「集中心のトレーニング期間」で、毎日いさどんとマンツーマンで心のやり取りをしていました。本当に出来が悪かった。まれに何も滞りのない1日が過ぎようとしていても、「今日は何か心配りをしたのか」のいさどんの一言から始まり、「正直、素直」が身についていない私は、正解を出そうと悪戦苦闘、最後は自分の正直が何なのか、分からなくなってしまう始末。丁度、昔のジャッキー・チェンの映画で、師匠は全部を語らず平然としている中で、師匠にへばりついて痛い目をしながら技を学んでいく、あんな感じです。

その日々の中で、いさどんに言われてきたのは、「空気のような存在にならなければいけない。そこに居るのかいないのか分からないが、なしでは生きていけないものだ」。つまり、自己主張するのでもなく、でしゃばりもせず、しかしそこにいて、この道には欠かせない者になれ、ということ。

いさどんは今のように全部を語らないので、私が自分で考えようとしない時には、「勘違いするな、寄り添っていくのが似合う魂と、一人で立つ魂がある」、つまり私は後者であるということ。

「グレードは違うが、俺と同じコンピューターをもっている」。つまり、的外れをなくし、いさどんと同じものの解釈ができるようになるはずだということ。

私はこの3点をいつも心に留めて、学び続けました。いつの間にか、毎日言われない日々がやってきて、私がどう変わったから集中トレーニングが終わったのか、その時はわかりませんでした。しかし、今のようにいさどんの秘書や助手として活躍するようこちゃんやいさおちゃん、ひろみちゃんはいなかったので、その後は、いさどんの助手として、書き物をするのも、ハウスを建てるのも、ケアを担当するのも全部私でした。過ぎてみると、必要だったなあ、ということが実感です。集中トレーニングが終わったからといって、心の鍛錬が終わったわけではありません。助手をする中でも、色々な出来事からも皆で学び続け、「続けること」を教えられました。

そんなことを、いさどんと振り返っていて、3ヶ月くらい前でしたか、ミーティング後にいさどんが「万里子の物の見方や信仰心は俺にそっくりだなあ」って言ったんです。「ははっ」って言いながらその場をはなれましたが、「15年かかったぁ」と心の中でつぶやきながら、涙が止まりませんでした。このまま続けていけばいいんだな、まっすぐ神様に向かって、お仕えすることだけを考えていけばいいんだなと、15年目の合格をひとつもらって、思いました。しばらく泣いて、「私、自分ごとで泣いてるじゃん」と思って、そのまま流してしまったことなのですが、思い出していさどんに話したら、いさどんも泣いて、久しぶりに2人で泣きました。


歩んでみなさい、歩めるから

「心の精度を上げるってことは、完成させるってことじゃないんだよ。」

今日は、いさどんがゆみちゃんに語っています。

「完成されていると、とまってしまって、精度を上げることが立証できない。心の精度を上げるには、未完成であり続けることであり、未完成であり続けるから、常にそれを完成にむかって目指すことができる。」

それを聞いてゆみちゃんは、

「えー、そんなこと考えたこともなかった」と驚いています。

でも、そこですかさずいさどんは、こう言います。

「そこでは、『なるほど』ってただ受け取ればいいんだよ。『そんなこと考えたこともなかった』っていうのは、頭で考えることをしていない状態。でも、『そうか、なるほど』っていうことは、考えたり、新しいものを取り入れるという姿勢なんだよ。

人はとかく、新しいものを取り入れるときに、古いものを捨てないといけないと思ってしまい、そこで古い自分に執着していると、それは血が出るほどの痛みを伴う。でも、本当は、人の中には、宇宙の始まりから今までのすべての情報が入っている。もっというと、現在から未来への情報もここに入っている。

人は、今ここにいると思うかもしれないけれど、実は生まれてくる前に、すべてのことをマスターし、それを封印して記憶を消して生まれてくる。

自分にとらわれずに、せまい心を開放してやれば、人は誰でもその無限なる神様の知恵の泉に、パイプをつなげ、蛇口をひらき、その知恵につながることができる。」

ツꀀ

「自分が話しているときに、自分でも聞いたことがない新しい知識が湧き出てくることがあるんだけれど、実はそれは新しいものではなくて、過去に自分がマスターしたものが出ている状態なんだよね。それをただ思い出しているということ。それは、自然の法則で、とてもスムーズなことで、心を開放しさえすれば誰にでもできることなんだ」といさどんは語ります。

ツꀀ

お釈迦様から9年間の学びをいただいたいさどんは、お釈迦様が自分から去ってしまうときにこう問いかけました。

「私はまだまだ赤子のようなものです。あなたなしでは歩んでいけません。」

でも、そこでお釈迦様は、いさどんにこう伝えたそうです。

「そなたは十分に育っておる。赤子だと思っておるのは、そなただけじゃ。

歩んでみなさい。歩めるから。」

最近いさどんは、ここを訪れるゲストに、ファミリーメンバーに、この言葉を伝える機会がよくあります。

また、明日から名古屋に出張し、“共に生活する新しい暮らし”というパネルディスカッションに招待されているいさどんは、現場で役割を果たすよりも、道中の行程のほうが自分の修行だと、今朝笑いながら教えてくれました。そんなときもいさどんは、お釈迦様の言葉を想います。

「歩んでみなさい。歩めるから。」

さあ、あなたも自分の中の枠を取り外し、心を自由に解放させ、無限な神様の知恵の泉につがなる自分に出会ってみませんか?