死んだあとにも次がある

「この前の地震のとき、どうだった?」といさどんに聞かれたので、

「まだ生きてた」と、にやっと答えると、いさどんもにやっとして、

「あの地震のとき、あのままゆりかごのように揺れてるのもいいなと思ったんだ。生きているときも次があるし、死んだあとも次がある」と言います。

そこで私が、

「死んだあとも次があるって本当にわかっていたら、地震があっても何があっても、同じようにハハハって笑っていられるよね」と続けると、

「そうだね。でも、中途半端に生きていると、辛かったり苦しかったりする」と言います。

「でも、本人は、中途半端に生きていると思ってなくて、精一杯生きているって思っているのがミソだよね。どうしたら、そういう人はそのことに気づけるのかな?」といさどんに投げかけてみると、長い沈黙のあとにいさどんは次のように語りました。

「そうだな。夫婦関係も、お互いを想いあい、支えあうっていうのも、美しいようだけれど、心の成長を妨げることもある。お互いが近いものだけに、かばい合ってしまうこともある。本来、パートナーシップってのは、心の安息をただ求めるのではなく、心の成長のための相手として与えられているもの。近しいものだからこそ、本当にお互いを想いあい、歯に衣着せぬ物言いで、本当の姿を伝えることができる。そして、それは誰とでもそういう関係を築くことができる。そういうパートナーシップならあってもいいよね。」

ツꀀ

いつ何が起こるのかわからないのが人生。同じように精一杯生きるのであれば、そのエネルギーを自分だけの幸せ、苦しみに向けるのではなく、死んだあとにも次があると信じられる委ねる心、生かされていることへのありがたさに向けられると、いつだって笑って生きていけるのかもしれませんね。


万象が織り成すいのちの相(すがた)

みなさん、いつもコメントありがとうございます。

今日は、8月8日にUPした「未完成交響曲」についてのゆきえちゃん、まゆまゆ、まりりんのコメントを読んだいさどんからのコメントです。

ツꀀ

「ひとつの投げかけが波紋のように広がる。その波紋が、またさらに波紋を広げる。まるで織物のように。

この世界は織物だって言うけれど、無限な出会いと無限な現象によってできている。普通の織物は、縦糸と横糸と、もうちょっと複雑な場合はななめの糸から成る平面の織物。でも、この世界はもっと立体的な織物で、縦と横とななめと、こちら側とあちら側とで糸が織り重なり合い、すごく緻密にできている。それほど緻密なわけがあって、この世界はつくられているということ。

どんな完成であっても、未完成であっても、新しい意味と、それがもともと起きてきたもとの意味と、わけの波紋がある。わけの波紋ってのは、原因と結果の因果の波紋でできてるなって思う。なにひとつむだはない。そして、その因果の波紋は、何をつくり出すかっていうと、場の波紋というその空気をつくり出す。

だから、そのひとつの言葉の投げかけが、その言葉の発想の一番もとにあるものが、善意と愛と調和であるならば、その波紋からくる因果によって平和な世界がもたらされる。それが悪意であったり、対立であったり、孤独なものであるならば、その場は対立の場をもたらすことになってしまう。

だから、自分たちが、もしそういうことの法則を知ったならば、自分たちが何をこの世界に、自分にもたらしているのか、自由にコントロールすることができる。それが対立であっても、そこからまた波紋が広がって、最終的には善と愛と調和のほうに導こうとする力が働くことになる。

それが神様の意志で、我々はいつもそれを信じて、生きていくことが大切。」

ツꀀ

「我にかえったいさどんのコメントとしてつけ加えてね」という前置きの後に、いさどんは、

「今朝のぼくは、自分の中にあるそういう部分が反応したんだね。そのときそのとき、自分の意識していることに応じて、反応するところがあるんだね。もっと軽く反応するときもあれば、もっと深く反応するときもあるんだね」と続けます。

「因果の法則と、場の法則が同時になりながら、それが波紋になって、すべての世界をつなげている。その中に我々がいる。ひとたび、ぱっと愛の種が広がれば、それがぱっと広がる。我々のどの部分に共鳴するかによって、自由自在にこの世界を生きることができる。」

ツꀀ

「誰でも、自由にこの世界を創造することができる、という希望」を朝のいさどんから与えられた私は、この話をただ3人へのコメントではなく、ぜひ一つのブログとしてみなさんにも紹介したいと思い、今日のブログができました。

いさどんから湧き出る、神様の知恵の泉。「何かテーマを与えられると、次から次へと言葉が出てくるんだよ」といさどん。ですので、みなさんからの質問、投げかけ、何でもお待ちしておりますね!


おやじのつぶやき

「過激なことはしたくないよな。でも、物事には見極めが必要だし。」朝一番のいさどんの言葉です。

「今までもいろんなことがあったけれど、本当なら、一人一人の自覚でやっていければ一番いいんだけどな。」

「年をとっても、年輪を重ねるように、穏やかに生きていくこともできる。年をとって、ひとのお世話になることも、体のことはしょうがないにしても、心のくせは自分で積極的にとっていくようでないとね。一番重要なのは、心の世界なのだから。」

「鉄則を忘れちゃいかん。いつも学び続けるものであるということを。」

最近、用務員さんとして、物理的にも精力的に働いているいさどんですが、いつだってメンバーひとりひとりの心を想い、大人会議で一番発言するのはいさどんです。いさどんの今年の目標は、「いさどんが目立たなくなること」。今年も3分の2が過ぎようとしていますが、心の面では、なかなか達成されていないのが現状です。

「それは、自分がおるからだ」といさどん。でも、いつだって、いさどんの目標達成のカギを握っているのは、メンバーひとりひとりの自覚にかかっているのです。

ひとりひとりの自覚。若かろうが、年を重ねていようが、この場を任され、つくっていっているという自覚。

そんなことを改めて感じた、朝のいさどんのつぶやきでした。


~「おやじの館」の主のリクエストにより~

今回は、「おやじの館」の主のリクエストにより、木の花に長期滞在中のなみちゃんにブログを書いてもらいました。

彼女が、夜の大人会議でシェアした、こんにゃく畑のエピソード。話し終えた瞬間、ファミリーメンバーからあたたかい大拍手がなみちゃんに送られました。木の花に滞在してわずか10日間あまりですが、彼女の心はどんどんやわらかく解きほぐされ、表情は明るく、発言も前向きになってきています。

では、そんななみちゃんの心のシェアをどうぞお読み下さい。

ツꀀ

「こんにゃく畑で

木の花の生活体験で、こんにゃく畑の草刈りをしました。こんにゃくは、まるでやしの木の様な姿で、草丈1mくらいあります。草が生い茂り、蚊がいっぱい。うっそうとしたジャングルの様な畑で、畑の中はうす暗く、草が多くて先が見えず、通路がわからず、小さいこんにゃくを切ってしまったり、それはまるで、その時の私の心そのもの。

迷いながら、苦しみながら、草を刈り進むと、そこには明るい光の出口。ふりかえると、そこには、すっきりと1本の通路ができている。

これは私が通ってきた道。

草取りは、神様が私に人生をおしえるためにあたえてくれたヒント。

そして、迷った通路は、はじめから神様から与えられていた道。

こんにゃくの畑で、人生を知ることができました。

ありがとうございます。」


哲学を語りながら、流しそうめんの樋をつくる with なかのん

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ファミリーのなかのんです。

写真は、お祭りに備えて、流しそうめん用の樋(とい)を作成しているいさどんです。8mあります。この後、竹を使ってお箸と器も作ってくれます。いさどんは本当に何でも出来る人であらためて凄いなと思いました。

僕は補佐をしていたのですが、樋を作成しながらいさどんがしてくれた話がまた素敵でした。

もしすべての人が悟っていたら、この世はどうなるだろう?問題ごとは起こらない。静かな世界?それは理想の世界ではないよね。面白みがない。エゴを通じて学ぶこと。問題を通じて学ぶことに面白みがある。そう考えるとこの世界はゲーム。勝ちのないゲーム。起こることはすべて自分が望んでいること。自分の心のあり方が引き起こしている。その仕組みに気付かずエゴに捉われ不満を感じる人たちがいる。そういう人たちは抱える必要のない不満を抱えている。余計な不満。そういう人たちは負けている。その仕組みに気付き、エゴを手放す道を選ぶこと。そうして人はようやく引き分けに持っていける。

僕はそうだよな~と思いながら、質問しました。

すべては自分が望んでいること。それは分かっているのだけれど、自分の中に自動的に生じてしまう感情はどうすれば良いのかな?それが望ましくない感情の場合・・・

それは感情が起きる時に「起きているな~」と眺める。それを繰り返すうちに起きる前に感情の動きに気付くようになる。そしてその感情を止められるようになる。そういうふうに超えていけるよ。

なるほど。と思いました。いさどんの話は続きます。

怒りが生じた時、眺めていると怒っていない自分も同時にいるようになる。すると、自分は怒っていないのに、この場は怒るべきだよな~というように状況に応じて怒れるようになる。相手のために。怒っていないのに怒る。それはいかんだろうという憤り。

ここで僕は自分のことを話しました。

相手のために憤りを感じて伝える。でも伝わらない時、無駄なエネルギーを使うよね。そして伝えても無駄だからと憤りを感じないようにする。するといつの間にか自分が無力感に陥ってしまうことがある。

それを聴いていさどんが掛けてくれた言葉が心に響きました。

それは自分が正しいという思いに捉われているからだよ。まだ時期ではないのだなと流しておけばよいのだから。でも捉われているということは楽しみでもある。

そうかと僕は思いました。

僕はまだまだ自分の価値観に捉われている。でもその捉われがそちらの方向への動きを生み出す。動きの中に可能性がある。学びがある。僕はこれからまだまだ学んでいくのだなとあらためて思いました。