いつか死を迎えるときに

人はいつか、必ず死ぬものです。そして、その時は今回生きたことに対する清算をする時でもあるのです。そのときにその結果をどう受け取るのか、ということを木の花ファミリーでは一番大切にしています。これは、私たちにとっては当然のことですが、全ての人が生きる上でもっとも大切なことと言えるでしょう。

過去の歴史を振り返ってみると、どのような宗教であっても、そのことを最も大切にしてきたはずなのです。そして、そのことに目覚め気付いたものたちは、そこを大事にしてきたはずです。だからこそ、本当を目指すものたちは日常から意識を離し、取り組んできたはずなのです。

ところが、それが宗教化されてきたがために、その肝心なところを失い、社会にごまをすって理解されようとするような、もしくは社会に認められるために媚びを売る損得勘定で成り立つようなあり方に変わってきています。そして、その探究の目的は、自らを高めていくのではなく、自らの願いが叶う現実化に重きを置くようになったのです。

そこで、私たちが生きていることに対してどのような力が働いているのか、どのような仕組みのもとに私たちが生きているのかというと、この世界との関係に私たちが生きている要素はないのです。しかし、そういった立体的かつ広い捉え方でものを観たときには、それがそうだとわかっても、日常働いてご飯を食べ生きている現実の中で、自らの願いを叶えることを優先していけば、それが当然のようになってしまうものです。そして、今の世の中を観ると、そういった意識レベルの人々が大部分を占めています。

しかし、人間が自然の中で生かされていた過去の時代においては、そうではありませんでした。木の花ファミリーの精神性のように、生きることのベースは自然と共にあったわけです。そこでは生きることの術(スベ)を天にお伺いを立て、天の気と共に生きていたのです。

現代では、人間のテクノロジーの進化のもとに、物理的豊かさがマインドコントロールのように人々の意識の中に植えつけられているので、内面ではそういった大事を感じながらも、現実にはそういったことを否定する生き方をしているのです。そこで、「真実は何なのか?」という求道心から、大事を大事として生きているのが木の花ファミリーの生き方です。それは、私たちに与えられた最も大切なこととして、誰にも譲ってはいけないことなのです。一般社会ではそのことがまだ十分に実践しきれていない時代に現れ、「それを実践しきるとこのような生活ができるのです」と示すことが私たちの存在する意味なのです。

そうすると、広く深く物事を捉えていけば、この生き方が個人の幸せを追い求めることを優先するのではなく、時代的に新たな人類の歩みにとって最も大事な生き方を示すということは明白なことです。物事を浅く捉える人々にとっては、自らの願望を叶えることが最も優先されることからすると、自己コントロールすることは苦痛を伴うことになってしまうのでやりきれないことになるのです。そこで、多くの人は、自らがやりきれないこと=悪いことにしたいのです。さらに、心に濁りや歪みがある人々は、真理を攻撃や批判の対象にすれば自らの正当性が通る、という安易な発想にもなってしまうのです。

そのようなことは、これまで世界中の様々なところで行われてきました。それは、自らの主観と合わないという理由で相手を間違っているとし、世界中で宗教戦争のような紛争が起きていることもそこが元凶になっていますし、国家やイデオロギーがそういったことの追い風にもなってきました。そしてその結果、勝ったもの勝ちの世界になってきたのです。しかし、本来この世界は、時代が刻まれることによって変化・変容がもたらされ、そして天体や宇宙法則のもとに自然に成っていくことなのです。人間はそれを自らの力で成し遂げてきたように錯覚しながら生きてきました。

人が生きて、終末を迎えたときに問われるのは、「濁り」なのです。人生の内容のことは何も問われません。そこでは心の濁りだけが浮き彫りになり、自らの生きた結果として問われることになるのです。

人は誰でも死ぬのです。そして、その本質を問われるところを通って、次のステージへ向かうのです。その次のステージが結局今と同じところなのか、下がるのか、それとも今よりレベルが上がるのかは、今世をどのように生きたかによって決まります、そしてそれは、学校で学んでその成果を試験で問われ、次にどのようなステージに行くのかのテストのようなものなのです。

今の人間たちは、物理的にはこれほど豊かになりましたが、結局物理的なものを優先して世界に反映すればするほど、人間はそこだけに囚われ、能力が高く豊かだと思うものなのです。そして、そこでは過去にはなかった矛盾を積み重ね、いずれそのツケを払うことになる現実が来るのです。そして、多くの人はそういった現実を目の当たりにしても、まだそのことに気付けない状態にあるのです。

人類はこれまでの歴史の中で、戦争をはじめとする多くの地獄を経験してきましたが、それよりもはるかに複雑で罪の大きな痛みを経験するところに立っているのです。私たち人類が今、そういった大切なステージにいることに気付いたら、これから私たちはどのような側に立つべきなのでしょうか。

自我の側に立つのか。天の側(宇宙の側)に立つのか。

私たちはどのような側にも立てるのです。

今、人類は自らの中に多くの矛盾を抱え、矛盾を発生させ世界に撒き散らしています。ですから、私たちは自らの欲望に翻弄されていることに気付き、矛盾を発生させない状態になることによって、次のステージへ行くことを目指すべきなのです。

木の花ファミリーの生き方は、個人の事情で反映されるものではいけないのです。それは人類のために、地球のために、時代のために生きる物語なのです。そこに個人の事情を反映させているようでは、とてもこの役割はやりきれません。そして、私たちがそれをやりきったときに、「これだけの世界が創れるのですね」と世の中に範を示すことになるのです。

ところが、この生き方を歩み、それがどれほど大事だと思っていても、まったく果たせない可能性もあります。その歩みの歯車がかみ合っていなければ、エネルギーはたくさん使っても、自我の囚われの繰り返しでまったく進んでいなかった、という答えをもらう場合もあるのです。

ですから、その志にふさわしい位置まで到達しようと思うことは、真剣でないといけないのです。登山にたとえると、ふもと付近ではハイキング気分で行けたしても、頂上付近では命をかけて進んでいくようなことなのです。

今の社会のあり方は面白いもので、かたや社会から高い評価があると思えば、人間がここまでの世界を創り上げたことに対して新たな次の時代からは真逆なことだと捉えられることでもあって、とてつもない矛盾の中に今、私たちはいるのです。しかし、そのとてつもない矛盾に気付いたときに、とてつもない変身の可能性を今、目の前に人間たちは秘めているのです。それは、人間がこの世界に大きく貢献する可能性と、この世界においてとてつもない罪を犯す可能性の両方を持っているということです。

何億年という単位では、人類どころか、生命が絶滅することさえありました。人類の存在は、たかだが数百万年のことなのです。

そのような時代の中で、人は尊い存在であるからこそ、このような矛盾を抱えることができるとも言えるのですが、宇宙は果てしなく物語を刻み続けるものであり、人々はその地球ステージを生きていることが理解できていないのです。その意識レベルの中に自分たちが存在していることに気付いていないのです。

矛盾とは、真実に目覚めるためのものでもあります。この世界の全ては相似形でできているのですから、探求すればするほどその解釈はどんどん深くなっていき、そしてその究極の矛盾の解釈は、相反する存在の理解につながるのです。そこでは、物事の一方から離れて解釈できるところまで行くことが大切なのです。それは、物理的世界を超越してしまうことであり、私たちは今ここにいながらにして、宇宙が理解できるところにいるのです。
 
 


その証はそなたの生まれた月日に現れている

今日、5月3日はいさどんの64歳の誕生日です。今日はその生まれた月日にちなんだお話をご紹介します。

*いさどんのこれまでの歩みやシャーマンとの出会いについては、一つ前の記事「木の花記 〜金神様の巻」をご覧ください。
 
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いさどん:
僕が39歳のときに、田舎の滝神社の氏神様に「私は元々このような道を歩むものとして生まれてきたのですか?」と聞いたことがある。それはシャーマンのすみ子さんとの出会いがあって、その後すぐにお釈迦様が僕のもとから去られたときのこと。滝神社の氏神様との対話の中で明かされたことなんだよ。

すみ子さんは僕に御中主大神という名をくれた。その名は神様によって降ろされた。だから、すみ子さんが言うには、「古田さん、神界名が降ろされたので差し上げますね」ということで与えてくれた。それで、僕のご先祖にとても興味を持っていたすみ子さんが、「古田さんのご先祖様にご挨拶に行きたい」と言うので、一緒に田舎に行くことになった。

田舎に着き、まずは仏壇にご挨拶をしてから、その後氏神様にご挨拶をしたいということで、滝神社へ向かった。そこで初めて、僕はシャーマンを通して滝神社の氏神様と対話することになった。それともうひとつ、滝神社には三柱の神がおいでになって、一柱は伊勢神宮の系統のおたちゅう様といい、霊的には僕の先祖に当たる神様。もう一柱は、滝神社には滝が御神体としてあるのだが、その滝の権現という、おじいさんのような雰囲気のひょうきんな神様がおられた。そしてもう一柱として、滝神社の祭神である氏神様がおられるわけだ。しかし、この滝神社の祭神は実は本神ではなく、留守居を預かっており、本神が降りてくる前に仮に降りている神様だった。

すみ子さんと久しぶりに滝神社を訪れたとき、氏神様が「そなたのことは幼少より見ておったぞ。やっとそのようなものになったのか」と喜ばれていた。僕としては、「そんな小さな頃から見守られておられたのだ。僕が本殿の上の銅版の屋根に登って体を温めたりしていたことも見ておられたのだ」と昔のことを思い出しながら、感激した。

そこから、氏神様と僕との関係がわかってきたのだが、その後、今度はひとりで滝神社に行くことがあった。そして、氏神様にこう尋ねた。「私は今、お釈迦様のご縁をいただいてこのような道を歩んでいるものですが、神様にお伺いしたいことがあります。私は元々このような道を歩むものとして生まれてきたのですか。それとも、私の存在を天が見初め、指名を受けてこのような道を歩むようになったのですか」と尋ねた。

そうしたら、「そなたは生まれる以前より、この道を歩むものとして生まれてきた。その証は、そなたの生まれた月日に現れている」と言葉が降りてきた。それが、昭和26年5月3日、日本国憲法施行の日。そして、5月3日午前3時生まれの三男坊で、5.3.3。5は十二支の5番目である辰のエネルギーであり、一年の中で最も生命力が豊かなとき。そして3は、生命が満つる。それで、3がふたつということで三々九度になり、5.3.3から「いさみ(偉佐美)」と名付けられた。ということで、「生まれる前より、約束のもとに地上に生まれてきた」ということを伝えられた。

だから、すべて物事は始めから、約束通りになるように仕組まれていた。そこで僕が気付いたことは、いつも新しい学びが僕の中から湧いてくるのだが、書物を読んでもそれは新しいことを知って記憶していくというよりも、「そうだった、そうだった」と心が納得して思い出していく状態ということ。お釈迦様も元々は法華経という宇宙の法を完全にマスターした魂として降りてきて、人間としての苦難の中からそれを思い出しながら説いていかれた。それは、低いほうから高いほうへ順番に仏道として道を説かれたように、僕にもどこかで、「この全ての行き先を自分はすでに究めている」という心がある。ただそれは、トキとトコロのはたらき(働き・傍楽)の役割によって順番に出てくるものであって、全てが一気に出てくるものではない。それは、新しい知識を得ることではなく、自らの中にあるすでにマスターしているものが智慧として湧き出てくるものであって、自らの中に全ての智慧として仕込まれている。

ようこ:
それは、誰しもがそうなんだよね?新たなものを得ているのではなく、思い出している状態ということは。

いさどん:
それは、自我という鎧を取れば、全てのものがそうなる。だから、お釈迦様は「ガンジスの川の砂の如く、衆生はおる。その全てに仏性あり」と言われた。その要素は、自我の鎧を脱ぎ捨てればあるのだが、自我の鎧にまみれてしまっている人間には、自我を通して出てくることになる。だから、自らの内から真理が湧いてくるのではなく、外から知識で学ぼうとするほうに意識が行ってしまう。

だから、そういったことを理解できた自分にとっては、ただ粛々と自らの中から湧き出てくる想いを正攻法で表現し、心をしっかりと天に向かって立て、心をまっすぐに道を歩んできた。その姿勢が自らの天命を成就させる道と心得ている。

この世界に生きているものとして、自らの自我に囚われて生きているものを不幸という。この世界に生きているものとして、この世界の運行や成り立ちの上に人生を与えられ、その仕組みのままに生きているものを尊いといって、それを喜びという。人間の世界にはたくさんの喜びがあるが、愛にもランキングがあるように、喜びにもランキングがある。そして尊さにもランキングがあって、その違いは、その人がどこを観て心を働かしているのか、にある。

それは、山登りにたとえてみるとよくわかる。下にいるものは上から見える景色は見えないが、上にいるものは下を通って今、上にいるので、下のことは全て理解できる。しかし、常に上はあり続けるので、その上はわからない。だから、上を目指すものは、常にいただく心で高みを目指していく。謙虚であればあるほど、高みが与えられる。それを、登り詰めたとひとたび錯覚したものは、登り詰めたとして全てをわかったつもりになる。そうすると、それから上は観えないことになる。ましてや、自らの行き先を見失って行き詰ったものは、そのことを喜ばないといけない。それは、自らの「自我」に行き詰ったのだから、「その道を行くな」と封印されて、「本当の道を行きなさい」と愛を向けられている。そこでは、「ありがとうございます」と自我を捨てて、いただいた縁ある心に寄り添っていけば、必ず道は開かれる。そこには、自分が学んでいくとか、会得することはない。謙虚であれば、それは自動ドアのように、開かれていく。

だから、「究める」ということは、「登り詰める」ことではない。道が極まっていくということは、星と星の関係や、時代の歩みでもある。そこには、個人の意志は薄い。しかし、そこに個人はいる。その時代を表すための個人がいる。それは、役割という形で存在している。一人ひとりが天より与えられた役割に気付き、自分らしくそれに徹したときに、自らが道を開くのではなく、時代が道を開いていく。そして、その時々時代を感じ、トキとトコロが整ったときに、ふさわしい出会いがあって、流れが来て、事が起きていく。そして、時代が開かれていく。そこには、己というものがとても大切な存在として現れてくると同時に、それは時代が開かれていくためだから、そこに己はない世界。そこに成り切ることが、尊い歩みにつながる。

誰の中にも宇宙の仕組みが流れている。ただ、意識がその存在を知り、そこに向かないと、それが観えない。そして、意識が高くなればなるほど、同じ景色でも宇宙の存在がいかに尊いのかが紐解かれていく。しかし、それは自らが紐解いていくものではなく、気持ちが整い、意識がそこに向かえば、観えてくるものなのです。

そういった真理に出会ったものとして、またこのような不可思議な人生をいただいたものとして、これからも人々に伝えながらこの道を歩んでいく。そして、気付いたものたちが沢山現れれば現れるほど、この世界は粛々と時代の扉をダイナミックに開いていく。
  
  


木の花記 〜金神様の巻〜

表紙(web用) - コピー

昔々、まだ地球も、宇宙さえも生まれる前の遠い昔、この世界にはただ“響き”があるだけでした。
そこは、すべてがぴたりとかみ合った、一切の歪みのない、永遠なる完全の世界。
神様ただお一人の世界だったのです。

神様は、退屈でした。
「完全の中にいては、完全を知ることはできない。
完全である私は、完全であるがゆえに私を知ることができない。」
光だけの存在であった神様には、光が何であるのかが見えなかったのです。

そこで神様は、その完全なるひとつの体を、分けられました。
光とは何かを知るために闇を、天とは何かを知るために地を創られました。
そして、その不完全なる世界を、自らと相反する遠いところへ置かれました。
その時、そこに時が生まれ、空間が生まれ、元のひとつへと還っていく時空が始まったのです。

オルゴールのねじがまわるように、
不完全から完全へと還る中で世界は様々な音を響かせ、音楽を奏でます。
これはその中の一つの、長い長い物語です。

 
神代の時代

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元のひとつから分かたれて、どれだけの時が経ったでしょうか。

宇宙の創造神である七代の神々が世に現れ、そこから個性豊かな八百万(やおよろず)の神々が次々と生まれた神代の時代。自由気ままに振る舞おうとする八百万の神々に、地の大神様は世を乱さぬようにと心の掟を厳しく説かれました。地の大神様は名を国之常立大神(くにのとこたちのおおかみ)といい、その厳しさ故に八百万の神々から疎まれておりました。

「こう厳しくされてはかなわん。何とかならないものか。」
相談した八百万の神々は、天の大神様のもとへと向かいました。
「どうかあの神様にご退陣頂けるようお願いくださいませ。」
八百万の神々の懇願を受け、天の大神様は国之常立大神にこう伝えました。
「すまないが、一度この世の表から退いてくだされ。しかし、いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る。その時再び現れ、この世界を立て直してくだされ。」

それを受けた国之常立大神は、艮(東北)の方角へと退かれ、それより後「艮の金神(うしとらのこんじん)」と呼ばれるようになりました。そしてこの方角は「鬼門」として恐れられ、封印されたのです。

それから、長い時が経ちました。八百万の神々が好き勝手に振る舞った結果、世の中は荒れ放題。自分さえ良ければ良いという「我よし」、力あるものが弱いものをねじ伏せる「力よし」の世となり、まさしく、かつて天の大神様が「いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る」と言われた時代が訪れたのです。

 
花祭の誕生

時は流れ、今からおよそ700年前のこと。
天龍川をさかのぼり、現在の愛知県の奥三河地方へ、熊野の修験者たちがやって来ました。道険しく人跡を絶つほどの深山幽谷の地を修行の場として求めた修験者たちにとって、奥三河は理想の地であったと云います。その地に住み着いた修験者たちは、やがて村人たちに、当時都で流行っていた歌や舞を通して、修験の教義を説くようになりました。その教義とは、「この世の災いは人の犯した罪穢れによって起こされるものであり、その穢れを払うことで、人は新たな自分へと生まれ変わることができる」というものでした。これが、現在の奥三河・東栄町にて受け継がれている国の重要無形民俗文化財「花祭」の始まりです。
花祭では、滝から汲み上げた神聖な水を祭場の中央にある釜戸で焚き、その周りを複数の舞手たちが代わる代わる夜通し舞います。やがて、釜戸から立ち昇る蒸気に宿った神々が舞手に降臨し、舞手は神の依り付いた神座となります。その舞手たちと観客も共に舞い踊ることで、人々は神々と交遊し、穢れを祓い清められ、新たな生命力を授かるのです。そして再生した新たな命を「花」と云うのでした。

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花祭は、1年で最も寒い時期に行われます。そして数多くの鬼が登場します。中でも榊鬼と呼ばれる鬼の総大将は、寒い冬の間に大地の奥深くに沈み込んだ生命力を呼び覚ますものとして、祭の中でももっとも大切にされている存在です。
現代の日本では、鬼は災いをもたらす存在として忌み嫌われ、節分には「鬼は外、福は内」と言って豆まきをします。しかし実は、鬼は一年に一度、人々の心の中にある闇を照らしにやって来るのです。道を踏み外そうとしている人々の心の闇に光を当て、それが何であるかをわからせ、心の大掃除をして元の道へと還ることを教えてくれているのですが、自分の心の闇から目を背ける人々にとってそれは疎ましく、鬼こそが災いの元であると思えるのでした。
そしてこの榊鬼こそ、かつて封印された艮の金神様のお姿なのでした。

 
5月3日生まれの三男坊

いさみ

さて、終戦から6年、戦争の傷跡を残しながらも日本中が復興に向けて活気にあふれていた1951年、岐阜県の美濃市に一人の男の子が誕生しました。5月3日生まれの三男坊である彼は「いさみ(5.3.3)」と名付けられました。後に木の花ファミリー創設者となる、いさどんこと古田偉佐美です。

市議を務める名士の家に育ったいさみ少年は、授業中は先生から当てられないように教科書で顔を隠しているほどの恥ずかしがり屋でしたが、一歩表に出ればやんちゃ坊主。豊かな美濃の自然に囲まれて、段々畑を友だちと駆け下りたり、川で魚を捕まえては氏神様の神社の屋根に上って昼寝をしたり。神殿の屋根の上はぽかぽかとして、川で冷えたいさみ少年の体をやさしく温めてくれるのでした。
高校生の時には「自分を変えよう」と苦手な生徒会活動に励み、恥ずかしがりを克服。一度決めたことはやり通す意志の強さがあり、また「人と同じことはしたくない」とあえて独自の行動を取るような、どこか一風変わった少年でした。そして、自分でも不思議なほど、親やご先祖様を大切にする子どもでもありました。

そんないさどんが20歳になる直前のこと。5年前に亡くなったおばあさんが頭の上に現れました。いさどんは、そのことを不思議には思いませんでした。「自分はご先祖様を大切にしてきたから、おばあさんが守護霊としてやって来たのかもしれない。」事実、仕事でも人間関係でも、自分の努力以上に良い結果が引き起こされていくのです。そして頭の上のおばあさんは一言も言葉を話さず、紺色の絣の着物を着て、いつもいさどんの頭の上に座っているのでした。
やがて結婚したいさどんは、奥さんのあいちゃんと一緒に愛知県の小牧市で建築内装業のお店を始めました。お店の経営は順調でした。もっと店舗を増やしてお金を稼ぎ、いい車に乗っていい暮らしをしよう。それが、いさどんとあいちゃんの夢でした。何よりも、子孫である自分の成功はご先祖様が一番喜んでくれるし、親孝行もできる。いさどんはそう考えていました。

今、いさどんはこう語ります。
「自分でも不思議なくらい、親を大切にする子どもだった。それは親個人に対する想いというよりも、先祖がいて、親がいて、自分がいるという感覚があったから。それって実は今僕がいつも語っている、銀河があって、太陽系があって、地球があって、自分がいるというのと同じことなんだよ。だけど昔はもっと世界観が狭くて、神も仏も信じてなかった。とりあえずご先祖様がいて自分がいることは事実だから、そこを大切にしていた。神や仏なんているわけないと思ってたよ。」

 
お釈迦様が現れる

いさどんが30歳の暮れのことです。
ふと気が付くと、いつも頭の上にいたおばあさんがいないのです。代わりに、50歳ほどの黒い男性の姿がありました。

━━━━━  一体誰だろう  ━━━━━

いさどんが話しかけても、その男性からは返事がありません。自分は先祖想いだから、おばあさんに代わって誰かご先祖様が現れたのかもしれない。いさどんはそう思いました。それが、1981年の12月26日のことでした。

翌年の1月11日、いさどんはひょんなご縁で、石川県の小松にある、とある仏師が開いた石切り場の洞窟を訪れました。そこには様々な仏像などが祀られていました。その出口にある2メートルを超える釈迦牟尼仏の仏像を見た時、いさどんの体に衝撃が走りました。

━━━━━  これがお釈迦様か  ━━━━━

それが、お釈迦様との初めての出会いでした。
それまで仏教について何も知らなかったいさどんは、家に帰ってさっそく本を読み始めました。それほど、いさどんの心にお釈迦様が強く残ったのです。
そしてまた、石川から帰って来てからは、おばあさんの代わりに現れた黒い男性の姿も見えなくなりました。「誰だか知りたかったのにな。」いさどんは少し、残念に思いました。

それからしばらくしたある日のこと。いさどんが部屋で一人で座っていると、後ろからすーっと、黄金の姿の仏様が近付いてきました。そして、いさどんの頭の上で止まったのです。一体どういうことだ。何だかわからないけれど、それが仏様だということはわかる。そしてその仏様は、まばゆいばかりに輝いている  ━━━━━

その姿を、一体どう表現したらよいのでしょう。
それは、ただただ尊い。そういう存在でした。黄金の光が眩しいほどに輝き、それはもうまばゆいばかりで、例えようがないのです。そこには一切の意味がなく、ただただ尊いとはこういったものであるということを示されていたのでした。
いさどんの目から、涙があふれました。これが尊いというものか。こんな世界があるのだ。ただありがたくてありがたくて、泣けて泣けて仕方がない。だけどどうして?どうして自分なんかのところに、こんな存在が現れたんだろう?そう思いながら、ずうっと涙が止まりませんでした。そしてそんな状態が、3日間続いたのです。
3日が経ち、その尊い存在は、いさどんの上から姿を消しました。
「やっぱり自分にはそれだけの価値がないから見捨てられたんだ。」
いさどんはそう思いました。

それからしばらくして、瞑想をしていた時のことです。なぜか眉間が痛み始めました。とにかく痛い。そしてその痛みは、どんどん増していくのです。
痛みが始まって3日目には夜も眠れず、いさどんはただベッドに横たわっていました。痛い痛い痛い痛い・・・あまりにも痛くて思わず叫びました。「痛いーーーー!!!」すると、ふっと痛みが消え、眉間から煙のようなものがふわぁっと立ち昇ったのです。
痛みは消えた。でも何かが変だ。
どうも、眉間に親指ほどのサイズの穴が開いているようなのです。そこで頭を横に振ってみると、「ズズッ」と風を切る音がします。やっぱり穴が空いている!!
そこでいさどんはあいちゃんに顔を見せて、「おい、眉間に穴が空いたよ」と言いました。ところがあいちゃんは「何言ってるの。穴なんか空いてないわよ」と相手にしません。「そんなことない。空いてるよ」と言って鏡を見ると、確かに穴は空いていない。だけど相変わらず、動くたびに「ズズッ」と風を切る音がするのです。やっぱり穴は空いている!

眉間には、天に意志を向けるチャクラがあります。そこに穴が空くということは、そのチャクラが開いたということです。
けれども、当時のいさどんはそんなことは全く知りませんでした。一体何が起きたんだろう。わけのわからないまま、いさどんは再びベッドに横になりました。眉間からは相変わらず、ふわぁっと煙のようなものが立ち昇っています。
すると突然、奇妙なことが起こりました。薄く広がった布を小さな穴の中へと一気に引っ張り込むように、あたり一帯の空間が猛烈な勢いで眉間の穴にダーーッと吸い込まれ始めたのです。うわーー!!いさどんは心の中で叫びました。それはもう大変な勢いで、何かが穴の中に流れ込んでくるのです。
しばらくすると、それは止まりました。そしてふと気が付くと、額の穴もふさがっていたのです。

いさどんは起き上がり、蓮華座を組みました。すると、視界の斜め45度下のあたりに、作務衣を来た小豆粒ほどの小さな人が、自分に向かって一生懸命礼拝している姿が目に入りました。誰だあれは。どこかで見たことがあるぞ。そう思ってよくよく見ると、なんとそれはいさどん自身なのでした。
あれ!自分じゃないか!ではこちらにいるのは一体誰なんだと思って見てみると、それは巨大な大仏でした。

その時、いさどんは理解しました。

━━━━━  そうか。あの黄金の仏様は自分を見捨てたのではなく、自分の中に入られたのだ。そして僕は我が強くて出来が悪いから、同居することならぬということで、追い出されたのだ  ━━━━━  

その追い出された自分が、こちらの尊い存在に向かって礼拝しているのでした。

 
人の心の形が観える

それからしばらくすると、いさどんはなぜか無性に、人の名前が気になり始めました。自分でもなぜだかわからないけれど、次から次へと、人の名前が勝手に思い浮かんでくるのです。そこでいろいろな人の名前を思い浮かべては、この人はこういう人だ、あの人はああいう人だ、と考えてみるのですが、どうにもまとまりがつかない。それでも名前は次から次へと浮かんできて、ついに、3日目の夜には眠ることもできなくなってしまいました。
それはまるで、名前の洪水でした。その中を一晩中もがき続け、ついには飲み込まれそうになり、明け方にいさどんは思わず「わーーーっ!!」と叫びました。その瞬間、名前の一文字目と二文字目の間にさーっと線が引かれ、それが何かの法則を表していることが観えたのです。
これが、後の「カルマ読み」の始まりでした。名前には、人それぞれに違う心の形(カルマ)が、見ごとに陰陽の法則性を持って表れていました。カルマ読みを発展させることで、いさどんは、表面的にはわからないその人の本質を読み解き、人間の心の仕組みをより深く理解するようになっていくのです。

当時、建築の内装業をしていたいさどんは、毎日仕事でいろいろな人の家に出かけていました。ところがそこでも、不思議なことが起こり始めました。初めて訪れる家でも、玄関に行くと、なぜかその家の人間模様が手に取るようにわかるのです。この家はこれこれこのように嫁姑の関係が悪く、夫婦仲がこじれて、それがこのように子どもに影響しているというように、その家の問題の背景が観えて、どうすればそれを解決できるかがわかるのでした。
やがていさどんは、仕事で訪れる家の人々の相談にのるようになりました。そして語り始めると、聞いたこともないような話が自分の口から次々と出てくるのです。それまでの自分の中には明らかになかったものが、湧き出してくる。それはいさどんではなく、内に入られたお釈迦様の言葉でした。そしていさどん自身はいつも自分の外にいて、その言葉を聞きながら学んでいるのでした。
人の相談にのっている時だけではありません。毎日毎日、いさどんはお釈迦様と直接問答をしました。それはもう人と話すよりもたくさん話し、毎日が学びの連続でした。

 
地球の真実を伝えていこう

ある時お釈迦様から「千日の行をいたせ」と言われたいさどんは、それから3年間、1日も欠かさず瞑想をしました。1年ほどすると、瞑想中に自分の体を抜け出し、瞑想している自分の姿を部屋の天井から眺めるという体験をするようになりました。

ある日、瞑想をしていると、いさどんはいつものように体の外へ抜け出しました。ところがその日は、まるでロケットが打ち上げられるように、ぐんぐん上へ上がっていくのです。ぐんぐんぐんぐん上がって、ついには宇宙空間へ飛び出してしまいました。

月を背にして、いさどんは地球を見ました。
なんて美しいのだろう・・・。
宇宙空間に浮かぶ、青い星。それは奇跡のような美しさでした。
ところがその美しい星に、ところどころケロイドのようなものが観えるのです。それは都市や破壊された森林など、人間の行いの跡でした。人間たちの行いが、まるで皮膚ガンのように、地球を蝕んでいるのです。

いさどんの心に、強い懺悔の想いが湧いてきました。
大きな視点で捉えれば、それはこの星が成長していく過程であるとも言えるかもしれない。しかし、まぎれもなく自分は今、それを目にしていて、そして地球をこのような状態にしている原因が自分自身の中にもある。もっと自分が優れていれば、もっと人々に伝えていける力があれば、こんなことは起きなくていいはずだ。
全ての人間の中に、こういったことを引き起こす種がある。いさどんは、そのことを自分の罪として懺悔しました。それは誰かに対して、何かに対しての懺悔ではなく、ただ目の前にある美しく尊いもの  ━━━━━  それは自分自身であり、奇跡ともいえるもの  ━━━━━  そういうものが侵されていることに対して、自然と湧き起こってきた想いでした。
地球が何ものであるかを知った者として、自分はこの地球の真実を伝えていこう。宇宙空間から地球を眺めながら、いさどんはそう心に決めました。やがていさどんは宇宙空間から解き放たれて、地球へ帰り、気が付くと瞑想している自分の体へと戻っていたのでした。

お釈迦様と出会って以来、いさどんは肉や魚を食べるのをやめました。大好きだった釣りもやめました。それまでは格好に気を使っていたのに、着飾ることもやめました。お金を稼いでいい暮らしをするはずだったのに約束が違うじゃない、とあいちゃんは嘆き、両親は「頭がおかしくなったのではないか」と心配しました。
けれども同時に、いさどんの周りに少しずつ人が集まり始めました。「何だか面白い人がいるよ。」そんな噂が口コミで広まり、いさどんの話を聞きたい、心のことを学びたい、という人たちが、仕事を終えたいさどんの店の2階に集まり、毎晩毎晩話を聞いて、時には15時間連続で話し続けるという日もありました。
その中の一人だったのりちゃんは言います。「まるで滝に打たれてるような感覚だった。話の内容がしっかり理解できてたわけじゃないけど、何かすごく尊いものに触れて、自分が浄化されていくような感じがしてた。用事があって行けない日があると何だか損した気持ちになってね。とにかくいさどんの話が聞きたくて、いてもたってもいられなくなるの。」

聞いてくれる者たちがいるから、言葉が湧いてくる。そしてその言葉を聞きながら、自分自身も学んでいる。
ある時ふと、いさどんはお釈迦様に質問をしました。「こうして人々が集まって来て、組織ができ、いつか私も新興宗教の教祖のようになるのでしょうか。」するとお釈迦様は、こう答えました。
「これからの時代、組織をつくるのではないぞ。人々が集え。集い語り合え。語り合う中から真実が生まれる。そこから次の世が開かれるのだ。」

 
私は苦しいのです

来る日も来る日も、お釈迦様とは問答の連続でした。それはいさどんにとって、自分を否定していく道でもありました。
いさどんの中には、より道理の通った方を選ぶという強い決意がありました。自分の中にああしたい、こうしたい、という自我の想いが湧いてくる。しかしどう考えてもお釈迦様の説かれることの方が優れている。ならばそちらを選ぶしかない。そうやって自分の想いを否定し続けるうちに、まるで自分が消えてなくなってしまうような淋しさに苛まれることもありました。
当時のいさどんを知る人たちは、いさどんはいつでも堂々として揺るぎない態度で、道理を説いてくれていたと言います。しかしその奥には、日々湧き起こる自分自身のエゴの心と戦い、時には自分で自分の頭を殴りながら歩み続けた、一人の人間の姿があったのです。
この道を行く覚悟は揺らがない。それでも、苦しい。この苦しみをわかってほしい。そう思って、いさどんはお釈迦様に言いました。「私は苦しいのです。」するとお釈迦様からは一言、こう返ってきました。「ならばこの道、行くのをやめるか?」

それを聞いて、いさどんは腹が立ちました。「この尊き道を知らずに行かぬ者は、世の中にたくさんおります。けれども一たびこの尊さに出会って、行かぬ者がおりましょうか。私は何があってもこの道を貫き通します。ただ、その尊さにそぐわない愚かな自分がいて、それを取っていくのが苦しいのです。それをわかってほしいだけです。」
しばらくの間、お釈迦様から言葉はありませんでした。そして、こう言われました。
「わからぬわけがない。
そなたは、そのことをわかっているに決まっているであろう。」

お釈迦様は、時には父親のように、時には母親のように、時には師として、いつもいさどんを見守り、導いてくれました。いさどんの心を最も理解していたのも、お釈迦様でした。ともすれば傲慢にもなり、ともすればへりくだり過ぎもするいさどんに、「傲慢になってはいけないぞ。しかし、へりくだるのもいけないぞ。自らにふさわしい心の位置でものごとを受け止めなさい」と伝え、それを受けたいさどんは、必要以上の解釈をせずに客観的にものごとを捉える訓練を重ねてきたのです。
こんな話があります。のりちゃんがいさどんに相談をしている時に、いさどんがポロッと、「あなたはいいね。相談できる相手がいて」ともらしました。みんなはいさどんに相談ができるけれど、道の先頭を歩むいさどんには、誰一人相談できる相手がいなかったのです。けれどもそう言ってすぐに、いさどんはふっと笑い、「ああ、違った。おられた」と言いました。肉の身を持っていさどんを導いてくれる人はいない。けれども心の中には、いつもお釈迦様がおられたのです。

お釈迦様から心を学び続け、やがて自分の損得や思惑を離れてものごとを観るようになったいさどんに、ある時お釈迦様はこう言いました。
「かつて私はそなたの父であり、母であり、師であった。しかし今、そなたは己を離れて己を観る。そういうものになった。だからそなたは、我が友である。」

そんなふうに、30歳の時から9年間、お釈迦様といさどんは歩んできたのでした。

お釈迦様

 
2人のシャーマン

いさどんが39歳の時のことです。いさどんが心の道を語るのを聞いていたお客さんが、「私、あなたのような人を他にも知っています」と言いました。普段はそんなことはないのに、なぜかその時、自分はその人に会う必要がある、という想いが湧き、いさどんはぜひその人に会わせてもらえないかとお願いをしました。そしてその人の家を訪ねることになりました。

その人の家に着いたのは、夜の8時頃でした。玄関のチャイムを鳴らし、「どうぞ」と声がしたのでいさどんが扉を開けると、「待っていました」という表情で、その人が立っていました。その出会いは、初めて会ったのに懐かしいようでもあり、やっと出会えましたねとお互いに感じているようでもありました。それが、シャーマンのすみ子さんとの出会いでした。
シャーマンとは、霊的な存在と直接交信をする人のことです。家に上がり、いさどんは自分がなぜここに来たのかを語り始めました。1時間ほど話した時に、電話がかかってきました。それはもう1人のシャーマン、いくよさんのお母さんからで、いくよさんに神様が入られて「すみ子を呼べ」と言っているのですぐに来てほしい、と言うのです。そこでいさどんも一緒に、いくよさんの家へと向かいました。
車を走らせながら、いさどんとすみ子さんは語り合いました。お互いに一般の人にはなかなか理解されない道を与えられて歩んできて、孤独でしたね、やっと出会えましたね  ━━━━━ 。
すみ子さんはいさどんより12歳年上、いくよさんは12歳年下でした。こうして2人のシャーマンとの付き合いが始まったのです。

それからいさどんは、すみ子さんの家をたびたび訪れるようになりました。ところがしばらく通ううちに、頭のすぐ上においでになるはずのお釈迦様が、どうもいつもと違うことに気付きました。今までよりも少し遠くなったように感じるのです。それで「おかしいな」といさどんは思っていました。

 
歩んでみなさい 歩めるから

ある日、すみ子さんの家に行くと、すみ子さんが「古田さん、今釈尊様(お釈迦様)がおいでになって、あなたにこう言っておられますよ」とお釈迦様の言葉を伝えてきました。いさどんは、えっ、と驚きました。お釈迦様はいつも直接僕に語りかけてくるのに、なぜすみ子さんを通して伝えるのだろうか。そう思ってすみ子さんに聞いてみると、「今そこに釈尊様がおられて、あなたに伝えるように言われました」と言うのです。
いさどんは思いました。この間からお釈迦様が遠くなったように感じる。まさか、お釈迦様は自分から離れようとされているのではないか  ━━━━━  。

そこでいさどんは、心の中でお釈迦様に語りかけました。「なぜすみ子さんを通して私に言葉をかけられるのですか。お釈迦様は私から去ろうとされているのですか。私はまだまだ赤子のようで、1人で歩む自信がありません。」
それは口には出さずに、心の中で語りかけただけでした。するとそれに対する返事が、すみ子さんから返ってきたのです。「古田さん、大丈夫ですよ。釈尊様はあなたから去ろうとされているのではなく、役割が終わったので天に昇り、これからはあなたを天から見守るとおっしゃっています。何かあったらいつでも降りて来て、あなたの手助けをすると言っていますよ。」
それを聞いた瞬間、いさどんはこう思いました。
「これまで自分が体験してきたことは本物だったんだ!」

それまで、お釈迦様との対話は常に、いさどんの心の中だけで行われていました。声が聞こえ始めた当初は、自分は精神がおかしくなって幻聴が聞こえているのではないかと疑ったこともありました。しかし、疑いからは何も生まれない。そこで疑う心を掻き消して先へ進んでは、それまで知らずにいたより広い世界に出会うという体験を繰り返し、その結果、信じる心を育ててきました。
ところが今、目の前で、自分が心の中で思ったことへの答えが他の人の口から返ってくるのです。これまでの体験は妄想ではなかった。お釈迦様は本当におられる。そう心から信じられた瞬間でした。そしてその時初めて、これまで9年間ずっと、自分が心のどこかでお釈迦様の存在を疑っていたことに気付いたのです。

やっと心から信じることができた。それなのに、今まさにお釈迦様は自分から去ろうとしておられる。それはいけません。やっと信じられたのに、それが別れの時とはあんまりです。私はまだまだ未熟で赤子のようです。あなた無しでどうやってこの道を歩んでいったらいいのですか。
いさどんは、必死に語りかけました。すると、今度はすみ子さんを通さずに、お釈迦様から直接いさどんに言葉が返ってきたのです。
「あなたは、すでに十分育っています。赤子と思っているのはあなただけです。
歩んでみなさい。歩めるから。」

それまで、お釈迦様はずっといさどんのことを「おまえ」あるいは「そなた」と呼んでいました。けれどもその時初めて、「あなた」と呼んだのでした。
いさどんの目から涙があふれました。そうしている間にも、お釈迦様はどんどんと上へ昇られ、離れていくのです。お願いです。行かないでください。あなたなしでは歩めません。いさどんは、上へ昇っていくお釈迦様へ必死に語りかけました。けれども、心のどこかでは、この時が来ることを知っていたようでもありました。すると今度は、すみ子さんから言葉がありました。
「古田さん、大丈夫ですよ。あなたには十分その力がありますよ。」

 
日の本の神との出会い

それから、どのくらいの間そこにいたでしょうか。いさどんは泣き崩れて、ボロボロでした。9年間ずっと一緒だったお釈迦様が去られたのですから。
それでも、いつまでも泣いているわけにはいかない。お釈迦様が歩めと言われるのであれば、歩むしかない。自分には無理だと思っていたけれど、十分育っていると言うのであれば信じて進むだけだ。
いさどんはそう思って車に乗り込み、すみ子さんの家を後にしました。その時には、自分はもう霊的な存在と対話することはないのだろうと思っていました。

ところが、車を走らせて3分ほどの信号に差し掛かった時、空に何かが観えました。顔のようにも見えるし、何かの魂だろうかと思って見ていると、こう声が降りてきました。
「我は、日の本の神である。」
えっ、といさどんは思いました。自分は神様を信じていないのに、そんな自分のところへ神様が来たのだろうか?
その声は続けてこう言いました。
「これからは、我がそなたを守護する。」
ああ、そうですか、といさどんは思いました。お釈迦様が去られた今、その声に従うより仕方ない。そこでいさどんは、日の本の神様に「どうぞよろしくお願い致します」と伝えました。お釈迦様との9年間を経て、いよいよ日の本の神々との歩みが始まったのです。

 
日の出前に 日の本の国の頂点へ

いさどんと神々との対話は、いさどんが直接メッセージを受け取ることもあれば、2人のシャーマンに降りる様々な神々の真意をいさどんが見極める役をすることもありました。
1991年、いさどんが40歳の夏のことです。天からいさどんに「富士の山に登れ」という声が降りてきました。なぜですかと尋ねると、神様からこう伝えられました。「日の出前に、日の本の国の頂点に立て。そして命を受けよ。」
いさどんには、なぜ富士山に登る必要があるのかまったくわかりませんでした。当時、富士山はUFOに遭遇できる場所だとマスコミで騒がれていたので、まさか自分もUFOに遭遇するのかな?などと思いながら、とにもかくにも神様がそう言われるのだから登ろうと、ご来光を見るツアーに申し込んだのでした。

富士山(黒)その頃は、神様からメッセージが降りてくる時に、彩雲(虹色の雲)が現れることがよくありました。富士登山の日、バスで5合目に向かう途中にも彩雲が現れました。それを見ながらいさどんは、「神様、一体私は何をしに行くのでしょうか」と思っていました。
週末のツアーだったので、富士山は人でごった返していました。深夜の頂上付近では、進もうと思ってもなかなか前に進めないほど、登山道が人でいっぱいなのです。おまけに初めての登山だったいさどんは、すっかりくたびれてしまいました。けれども、何としても日の出前に頂上に着かなければいけない。疲れて動けなくなっている人たちの間をぬうようにしながら、いさどんは死に物狂いで登りました。そして、何とか日の出前に頂上にたどり着いたのでした。

東の空が、だんだんと明るくなってきます。ふといさどんは、そこに一つ、星のようなものが光っていることに気付きました。そして、どうやら他の登山者たちはそれに気付いていないようなのです。
その時いさどんは、「自分をここに呼んだのはあれだ」と思いました。そこでその光に向かって言いました。「お約束通り、私は今、日の出前に日の本の国の頂点に立っております。命をお伝えください。」1991年8月12日の朝4時45分ごろのことです。天から言葉が降りてきました。
「その心、これからは日の本の国全体に説くがよい。」

「日の本の国」とは、日出ずる国・日本だけではなく、日のあたる国、つまり世界全体(地球)のことです。いさどんは咄嗟に「そんなことは無理だ」と思いました。自分のような者にそんな大役が果たせるわけがありません、と。
けれどもそこで、自問自答をしました。お釈迦様は「歩んでみなさい。歩めるから」と言われたのです。これまで9年間心を磨くことを学んできて、これからもその道を歩み続ける決意は揺らがない。そして富士山の頂上からの景色を見ると、確かにここは世界へ向けて発信するのにふさわしい場に思える。だから、あり得ることなのかもしれない。ならばこれからも、この心を生き続けるだけだ。

下山の時、登る時にはあんなにも辛かったのに、それを乗り越えたら「また来よう」という気持ちになっていることが不思議でした。まるで人生みたいだな、といさどんは思いました。

 
心を磨かない神々たち

2人のシャーマンを通して様々な神々と対話していく中で、いさどんは矛盾を感じることがありました。
まだ幼い子どもの神様を含めて1日に50柱もの神々がシャーマンに降りることもあり、それは大変面白い世界でした。ところがそのうちに人間の方が、「うちの神様が最高だ」などと神様を所有するようになり、そこに関わる神様もなぜそういう人間を正さないのかと、いさどんは疑問に思い始めたのです。
いさどん自身、自分の中にエゴの心を抱えていたので、「神様はきっと全てをお見通しのはずだ。こういった僕の心をどう捉えているのかな。もっとこちらの心を吟味して、正してくれればいいのに」と思っていたのですが、神道の世界には「心を磨く」ということがないのです。ことに伝統的な神道にその傾向が強く、儀式をしてお祓いをして終わり、というように、道理を説いて人々の精神性を高め導くということがない。
9年間お釈迦様に学び、常に心を磨いてきたいさどんは、もっと学びたいという一心で、神様にいろいろな質問をしました。それに対して神様も、始めは威厳を持って答えてくれるのですが、いさどんの意識が上がってだんだん質問が難しくなってくると、答えに詰まり、ガクッとうなだれて「その質問には私では答えられんのじゃ・・・」と消えていってしまうのです。そしてその神様に替わってさらに位の高い次の神様が「我がそなたを守護する」と現れるのです。こうしていさどんを守護する神様は、7度替わりました。神々の世界は非常に幅が広く、低い神様から高い神様まで、いろいろな神様がいるのです。そしてそれは、宇宙の姿そのものなのでした。

そんな中でいさどんは、シャーマンの1人であるすみ子さんの様子がどうもおかしいと感じるようになりました。すみ子さんは新興宗教を立ち上げていたのですが、すみ子さんの夫が信者を組織化し、お金を集めているようなのです。すみ子さんが神様からのメッセージを降ろす時も、どことなく自信のなさそうな雰囲気で、何だか変だなといさどんは感じていました。
ある時、もう1人のシャーマンであるいくよさんに降りた神様が、いさどんに「すみ子はこちらの神の意志に背いている。問いただして来てほしい」と言いました。これは大変な役目を与えられたものだと思いましたが、いさどんは意を決してすみ子さんの元へ向かいました。
その日、すみ子さんは信者と共にとある神社へ行くことになっており、すみ子さんの元にはたくさんの信者が集まっていました。その中でいさどんは「いくよさんに降りられる神様が、あなたのことを不信に思っておられます。どうなのですか」と問いかけました。すみ子さんはだんだんとしどろもどろになり、いさどんがその矛盾を順々に突いていくと、最後には泣き崩れてしまいました。そしてこう言いました。「私は主人が大切だったのです。」主人が私に求めてくるので、神様のお使いができなくなってもやれるふりをしていた、と言うのです。

いさどんはすみ子さんに伝えました。それはいけない。そのように神を語って人々をたぶらかすようなことではいけない。
周りでは信者たちが心配そうに見ています。いさどんは、このまますみ子さんを突き落とすだけで終わってはいけないと思い、神様は人を見捨てたりしないものです、これを機に心を改めて進んでください、信じることが一番大切です、と伝えました。そして信者たちに囲まれてすみ子さんが立ち去った後、その場に残ったすみ子さんの息子と娘にこう言いました。「人が信じる時に、魔がさすことがあります。あなたたちもこれを教訓にして生きていってください。」
それ以来、すみ子さんのもとを訪れることはありませんでした。

その後いくよさんとの付き合いは続きましたが、いくよさんに降りる神々も、そこに関係する人々も、やっぱり心を磨かないのです。おまけにあまりにもいさどんが神様に質問するので疎ましく思われているようでもあり、いさどんはだんだん神様と付き合うのが嫌になってきました。
神様が人間にごまをすったり、人間が神様を利用しているような付き合いはおかしい。こんなことなら自分は破門されても構わない。そう思っていくよさんのところに出かけると、いくよさんのお母さんが「古田さん、神様が古田さんのことをあまり快く思っていらっしゃらないようですよ」と言ってきました。いさどんは「これはいいタイミングだ」と思い、「では私を破門してください。私はこれまでいただいてきた道を、私なりに生きていきます」と言って、いくよさんの家を後にしました。
いさどんの心は晴れ晴れしていました。これで神々の縛りから離れて、お釈迦様からいただいた心磨きの道に専念できる。自分にはもう神様の守護は必要ない。そう思いました。お釈迦様との別れから、ちょうど1年が経っていました。

 
あってあるもの なきてなきもの

人があるべき生き方、この宇宙の真理を世の人々に伝えたい。そこでいさどんは、自分の生まれ故郷の先祖代々の土地に、人が真実の生き方を学ぶ心の道場を創ろうと思い立ち、度々美濃へ帰るようになりました。
ある日、いさどんは家の近くの滝神社の神殿で昼寝をしていました。この神社は、かつていさどんが子どものころにいつも屋根の上で昼寝をし、川で遊んで冷えた体を温めてくれた神社でした。その日はとてもよい天気で、神域の森に囲まれ、いさどんは気持ちよく眠っていました。
突然、「起きろ」と何かに起こされたような感じがして、いさどんは目を覚ましました。起き上がって周りを見ると、神殿の階段から手すりに至るまで、そこら中に無数の神々がいるのです。神々は鎧甲冑を身に付けた武者姿で、平安時代のような姿もあれば戦国時代のような姿もあり、「武蔵の神」やら「尾張の神」やら、それはもういろいろな神々がいるのでした。
「何だこれは!?」そう思ったいさどんに、声が聞こえました。「こういったものたちも神であるぞ。」つまり、神の世界はとても広く、宇宙の運行を司る神から貧乏神や疫病神までもがピラミッドのようになっていて、人間一人ひとりもその末端にいる。そういう広い世界が神の世界である、と伝えられたのです。
いさどんは、神界のこの広さを学ぶためにこの1年があったのだと思いました。神の世界には序列があり、いろいろな役割があり、この世界が出来ている。それがわかったら、もう神は必要ない。そう思い、「ありがとうございました」と言って神社の階段を降りました。青空には雲が広がっていました。

神社の神域を出た時に、ふと上の方が気になりました。空を見上げると、何者かがそこにいて、こちらを見ています。何だろう?
それまで、新しい神様に出会うといさどんはいつも「どなた様ですか?」と聞いていました。神々は名前を持っており、そう聞かれると自らの名を名乗るのです。それから「あなたはどのようなお役の方ですか?」と失礼のないように聞いていき、その真意を見極め、場合によっては「お引き取りください」とお願いすることもありました。
その時も、いさどんはその空にいる存在に向かって聞きました。「どなた様ですか?」ところが、返事がありません。いさどんは再び聞きました。「お名前は?」
するとその存在は、こう答えました。
「名などない。」
名前がない  ━━━━━ それでは一体どのようにあなたを認識したらいいのでしょう?そう思っていると、その存在はこう言われました。
「我は、あってあるもの、なきてなきもの。」
それは、あらゆる神々やこの世界の全ての大本となる、宇宙根源の存在だったのです。

 
「ある世界」と「ない世界」

この世界には、肉体や物質、出来事など目に見えるものから成る「見える世界」と、想いや心、言魂など目には見えないものから成る「見えない世界」があり、この二つの世界を合わせて「ある世界」と言います。古代日本の宇宙物理学であるカタカムナでは、この「ある世界」のことを「現象界」と呼びます。現象界は命の世界であり、いさどんがこれまでに出会ってきた神々は、この現象界の神々でした。
そしてその現象界の奥に、想いも命も、時間も空間すらもない、「ない世界」があります。この「ない世界」のことを「潜象界(せんしょうかい)」と言います。そこはただ、“響き”だけの世界。一切の歪みがなく全てがぴたりとかみ合った、永遠なる完全の世界です。「ある世界」に生きる私たちの思考で、この「ない世界」を捉えることはできません。そこは、あるとかないとかいう概念すらもない、特定することのできない世界なのです。
「あってあるもの、なきてなきもの」とは、この「ある世界」と「ない世界」全ての大本の存在であり、万物に遍満するこの宇宙の仕組みそのものなのです。

遥か昔、この「ない世界」から「ある世界」が生み出される時、始めに天の大神様となる天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)が虚空に現れました。そこから現象界の素量と潜象界の素量を産み出す神々が生まれ、現象界を創る最初の神様として現れたのが、地の大神様である国之常立大神でした。この二つの大神様は宇宙創造の源である「あってあるもの、なきてなきもの」の御心を表しており、いさどんがこれまでに出会って来た現象界の神々は、かつて国之常立大神を封印した八百万の神々であったのです。

 
我はそなたの中にあり

その頃、いさどんのもとに集い心を学ぶ人たちの中に、後の木の花ファミリー創立メンバーとなるのりちゃんの夫がいました。彼の率いる和太鼓のグループが、奥三河の東栄町に活動の拠点を移したことをきっかけに、いさどんも花祭に関わるようになりました。
いさどんが40歳の冬のことです。東栄町で偶然知り合ったグループの人々と話していると、その人たちが「私たちは毎月熊野へお参りをしています」と言いました。実はそれより少し前、たまたま知人が持ってきたチラシに「熊野は世界の高天原」と書かれているのを見て以来、いさどんの中にはなぜか、自分は熊野へ行かなければならないという想いが強くあったのです。そこでさっそくその人たちと一緒に、熊野三山奥の院である玉置神社を訪れることになりました。
ちょうどそのころ、花祭のとある地区で代々鬼の役を務めている家の出身で後の東栄町長となる男性が、私は伊勢神宮の事務長と縁があるのでぜひ一緒に伊勢神宮へ参拝に行きませんか、といさどんを誘って来たのですが、そのスケジュールがぴたりと合い、熊野の後に伊勢神宮を訪れることになりました。

熊野へ出かける少し前、いさどんのお店のシャッターに、ある宗教団体のパンフレットがはさまれていました。それを見ると、「人は心が美しくなると内なる声を聴くようになる。それが国之常立大神である」と書かれていました。
そして熊野へ向かう道中、同行した女性に「ところで玉置神社の祭神はどなたですか」と尋ねると、なんと「国之常立大神ですよ」という返事が返ってきたのでした。

面白い話があります。地の大神様、つまり地球神である国之常立大神を祀る玉置神社、太陽神である天照大御神を祀る伊勢神宮、そして天照大御神の妻神(天照大御神は神話などでは女神として描かれていますが実は男神なのです)である瀬尾律姫を祀る東栄町の槻(月)神社は、南西から東北、つまり艮の方角へ向かって見事に一直線に並んでいます。そこには、地球、太陽、月の霊ラインが形成されているのです。
さらにその延長線上の艮の方角に、富士山があります。花祭りには、もっとも重要な役割である榊鬼と、人間である翁とが問答をする場面があるのですが、その翁のセリフに、「やいやい。伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間、ところは当初の氏大神」と、この当時花祭りに縁のなかった富士浅間の名が出てくるのです。
そして、春分を起点に1年間を360度の円盤上に表す太陽系時空間地図「地球暦」では、いさどんの生まれた5月3日(立夏)はちょうど艮の方角にあたるのでした。もちろん、当時のいさどんにはそんなことは知る由もありませんでしたが。

熊野へ向かう道中、空には吉兆の証である彩雲が現れていました。玉置神社に参拝し、その夜は神社に泊まりました。次の日は一行と別れ、榊原温泉に宿泊しました。そして翌朝、伊勢神宮に向かうために、ちらちらと雪の舞う榊原温泉駅のプラットホームで電車を待っていると、突然ふわっと、甘いお香のような香りが漂ってきたのです。
「この香りは何だろう。」いさどんはいつものように、上に向かって聞こうとしました。するとなぜか下の方、自分の丹田のあたりから言葉が湧いてくるのです。いつも上から聞こえてくるのになぜ私の内からなのですかと尋ねると、こう返ってきました。
「我はそなたの中にあり。」
上を見上げると、上にも神様はおられます。それなのに下(内)から声が聞こえてくる。その時、いさどんは理解しました。これが国之常立大神の存在である、と。

私たちは土から生まれた食べ物をいただいて生きています。つまり、大地の子どもです。大地というのは地球のことですから、私たちは地球神の分身であり、一人ひとりの中に地球神がおいでになるのです。そして心を磨き自我を超えていくことで、誰もがその声を聴けるようになるのです。それが、いさどん40歳の12月16日のことでした。

 
いざ、富士の地へ!

かねてより40歳になったら仕事を辞めて世のため人のために生きると決めていたいさどんは、いよいよ仕事をやめ、故郷に帰って心の道場を築くことに本格的に取り組み始めました。両親と一緒に暮らし、ご先祖様の土地で心の道を人々に伝えながら、最高の親孝行がしたいと思っていました。
ところが、日が経つにつれて両親が悩み始めたのです。両親は、いい若い者が仕事もせずに毎日土いじりをして「お宅の息子さん、うつ病にでもなってリハビリしているのですか?」などと聞かれそうで世間様に何と説明すればよいのかわからない、と思っていたのです。
それを見ていさどんは、自分は親孝行をするつもりだったけれど、価値観が違うものに自分の考えを押し付けても不幸を生むだけだ、そして世のため人のために生きると言いながら、自分の親や先祖を優先し執着していたのだ、ということに気が付いたのでした。

いさどんは、両親のもとを離れる決意をしました。親思いのいさどんにとって、それは覚悟のいる選択でした。しかしその時すでに、心の中には富士の地で生きる決意がありました。
かねてより憧れの地であり、神様からの命を受けた富士山のふもとへ行こう。そしてそこに菩薩の里をつくろう。菩薩とは、世の中の健康や他者の喜びを自らの喜びとする存在を言います。人々が心からつながり、助け合い、自他の区別なく喜び合い生きていく場  ━━━━━  それが菩薩の里です。

故郷を離れる前に、いさどんは氏神である滝神社の神様の元へ挨拶に行きました。「私はこの地で天の道をいただくものだと思っておりましたが、どうやら違っていたようです。これからは富士の地で道を歩みます。」そういさどんが氏神様に伝えると、氏神様は、そなたにそのような道があることを理解している、旅の門出に言葉を贈ると言って、次の言葉を授けました。
「どんな大海を行くものも、その始まりは、故郷に降る雫一滴より始まることを忘れるな。」
それは、幼いころからずっと見守ってきてくれた氏神様から、今まさに大海原へと漕ぎ出そうとしているいさどんへの、はなむけの言葉でした。

小牧へ帰ったいさどんは、富士の地へ移住するための準備を始めました。その想いに共鳴したメンバーが20人、集まりました。誰一人、一緒に行こうと誘われた人はいませんでした。よくわからないけれどきっと大切な生き方が始まる。そう感じた人たちが、ある人は家を引き払い、ある人は親の猛反対を押し切って、自らの意志で集ったのでした。

こうして、1994年3月21日春分の日、富士のふもとの菩薩の里・木の花ファミリーの暮らしが始まったのです!

 
鬼は内 福も内

木の花ファミリー創立から21年間、それはそれは、たくさんのドラマがありました。大切な生き方だと直感して集まったメンバーたちも、一人ひとりはとても出来が悪く、自我に囚われ自分のことばかり考えて、菩薩からはほど遠いものでした。
そんなメンバー一人ひとりに対して、いさどんは根気強く接し、時に厳しく、時にやさしく、時にはみんなの頭をダジャレでほぐしたりもしながら心磨きの道を説き、それぞれが自分という枠を超える手助けをしてきました。自我に溺れてものが見えなくなっている相手には、自ら鬼となってその悪心を正し、目覚めの方へと導いてきたのです。
それはまさに、はるか昔八百万の神々に疎まれた国之常立大神の厳しさであり、そして闇の中でさまよえる者たちを光の方へと導く、本当のやさしさでした。

いつの頃からか、木の花ファミリーでは1年で最も寒い節分の時に東栄町の花祭の要素を取り入れた「節分祭」を行うようになりました。そして「鬼は内、福も内」と豆まきをしてきました。人々の心の中にある闇を照らし、光へ向かうことの大切さを教えてくれる鬼への感謝の気持ちを込めながら ━━━━━  。

今、木の花ファミリーのメンバーは80人になりました。不完全ながらも一人ひとりが自我の枠を超えて歩んできた結果、生まれも育ちもまったく違う人々が、互いを想い、生かし合い、心を分かちあって豊かに生きる暮らしが生まれました。その温かい絆の中で、どんな病院でも薬でも治らなかった心の病を持つ人たちが次々と回復していくという“奇跡”も起きるようになりました。
その間にも、社会ではうつ病や自殺が蔓延し、世界各地での経済破たんやテロの台頭、温暖化による災害の増加から3.11の震災に至るまで、様々な出来事が起きています。人々が自分の幸せを追い求め「もっと、もっと」と生きてきた結果、今の世の中が出来上がりました。世界中で起こる様々な出来事は、私たち人類に痛みをもたらします。けれども、その痛みを通して、地球は私たちに何かのメッセージを送ってはいないでしょうか。

 
富士浅間 木の花祭り

マヤ暦が終焉を迎えた2012年12月21日、宇宙的な一大イベントがありました。私たちの生きる太陽系が、25800年ぶりに「銀河の冬至」を迎えたのです。
冬至とは闇のピークであり、それまで闇を増してきた太陽系は、この冬至をを境に、光が増していくサイクルに入りました。光が増すということは、それまで闇の中にいて見えなかったものが光に照らされ、真実が観え始めるということです。

年が明け、2013年2月3日、木の花ファミリーにて「第一回富士浅間木の花祭り」が開催されました。
これはファミリーの親しい友人である愛知県在住の花祭研究家の方が、かねてより花祭の要素を取り入れて節分祭を行っていたファミリーへ、「富士の地で花祭を継承しませんか」と持ちかけてくれたことがきっかけでした。舞や笛・太鼓、会場の装飾に至るまでを本場東栄町の方々にご指導いただき、この祭の目的である「生まれ清まり」の真の意味を理解し実践する場として盛大に開催された第一回富士浅間木の花祭りは、舞い踊る人々と各地から集った神々のエネルギーが融合して会場全体が大きくうねり、まさに神人和合を体現する場となったのでした。
そしてこの祭をきっかけに、それまでファミリーメンバー一人ひとりが心の奥に抱えていた闇が次々と光にさらされ、自分でも知らなかった本当の自分の姿と向き合うこととなりました。それは、自らの闇と向き合うことを拒み不調和を巻き起こし続けたメンバー達が、木の花ファミリーを離れることにもつながっていったのでした。

翌年の2014年木の花祭りでは、祭当日の明け方にいさどんのもとへ、榊鬼の姿をした艮の金神が現れました。そして「この日をもって艮の金神の封印が解かれる」と言ったのです。
その夏、「富士山は宇宙の中心とつながる場」とのインスピレーションを受けたメキシコの太陽マヤ族最高司祭、尊母ナー・キン氏が木の花ファミリーを訪れ、富士山をアンテナに世界へ愛を発信しようと、7月26日、マヤ新年を祝う祭典をファミリーと共に行いました。地球の反対側に暮らすナー・キン氏は、不思議なことに、銀河の中心から光の柱が富士山に降り、地球全体へと愛のエネルギーが広がっていくビジョンを、木の花ファミリーが始まったのと同じ20年前に見ていました。20年の時を経て、同じ意志のもとに生きる人々が出会ったのです。
そして、富士山が天の意志を降ろす天教山なら、そこからマグマに潜った意志が地上へと吹き出す地教山が、ヒマラヤです。そのヒマラヤのハルトラビレッジと、インド最大のコミュニティ、オーロビルからの招待を受け、11月、いさどんとメンバー数名がインドを訪れることとなりました。

 
全てが自分で、自分はない

今から32年前、いさどんは初めて、お釈迦様の故郷であるインドを訪れました。お釈迦様の吸った空気を吸い、嗅いだ匂いを嗅ぎ、踏んだ土を踏みしめ、ここで人々に道を説いたのだということを感じたくて出かけた旅でした。旅の間、いさどんはずっと泣いていました。そして行く先々で、かつて自分はそこにいたことがあることを思い出していました。

それから30年以上の時を経て、いさどんは初めてヒマラヤの地を踏みました。そこは、富士山から地に潜った天の意志が地上に吹き出す、地教山。いさどんの魂の故郷でした。
そこから南へ下り、世界中の人々が国籍や宗教を超えて調和のもとに暮らすことを目的に47年前に設立され、現在は約1500人の人々が暮らすコミュニティ、オーロビルを訪れました。そこで、今は亡き創設者のマザー、そしてそのパートナーであったインドの思想家、シュリ・オーロビンドの魂と出会うことになったのです。

オーロビルに到着して間もなく、いさどんはマザーの魂を感じました。マザーの魂はいつもにこっとして、まるで親しいお姉さんのようにいさどんを迎えていました。しかし、シュリ・オーロビンドの魂とはなかなか出会うことができず、いさどんがマザーに彼はどこにいるのですかと尋ねると、「あの方の魂は上の方で宇宙の運営をされており、宇宙にちりばめられているので、地上にはおいでになりません。役割として、私がここにいます」とマザーは答えました。
それから数日が経ち、インテグラル・ヨーガの創始者でもあったオーロビンドのアシュラムに行った時のこと。いさどんは初めて、オーロビンドの魂を感じました。
その魂はいさどんの視線を誘導し、そこにある様々なものに目を向けさせました。植物の葉っぱ、大理石の柱、壁の傷。その視線と共に、いさどんの指も、その一つひとつを指さしていました。そしてひとつ指さすごとに、「そこに私はいる」「そこにも私はいる」「どこにでも私はいる」という言葉が降りてくるのです。それは全てに遍満している存在なのだ、といさどんが思うと、「全てに遍満しているということは、無である」という言葉が降りてきました。全てに遍満しているということは、全てが自分であり、自分(自我の特定)はないということ。その時にいさどんは、これは地球の魂ではないかと直感しました。シュリ・オーロビンドの魂は、地球神・国之常立大神、つまり艮の金神の魂なのです。
オーロビンドの魂は言いました。「私を知っているであろう。今まであなたは私と一緒にいた。その私にあなたは会いに来た。」そこでいさどんは尋ねました。「あなたは私の中においでになりますね?」オーロビンドは答えました。「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる。」

太陽系がらせんを描きながら銀河の周りを周る時、らせんを1回描くのに25800年かかります。そしてその25800年ごとに、銀河の冬至がやって来ます。
オーロビンドの魂について想いを巡らせていた時、いさどんの中に6000年という数字が浮かびました。天からの意志が富士山に降り注ぎ、地中のマグマの中を通ってヒマラヤから噴き出すサイクルは、その四半分の約6000年、銀河の秋分から冬至までのこと。今は6000年の再スタートとして、歴史の大きな切り替えの時にあり、これから日本や中国、インドなどの東洋が世界をリードする時代が来ているのです。
マザーはいさどんに「私があなたの役割を手伝いますから。あなたは感じたままにやればいいのよ」と言いました。人間はやるべきことをやり、流れは天が用意する。そこに自我の意志はなく、ただ天意に沿う強い意志があるのみ。なぜなら、真実は自我ではなく、天の側にあるからです。

 
赤い炎が黄金に そして白光に

お釈迦様が離れて24年、いさどんはずっとこの道の先頭を一人で歩んできて、弱音を吐いたことは一度もありませんでした。それは、この道が大事であると自らに言い聞かせて歩んできたからです。
自信はありませんでした。周りから理解されないこともたくさんありました。しかしこの道の大切さを知っているからこそ、自らを捨て、天の意志のままに与えられた役割を果たすことを選択してきました。それは覚悟と決断の連続であり、自分との戦いでした。

いさどんの中には、揺れる心がありました。それは心臓の下、へその上あたりにあって、赤い炎となって燃えていたのです。その炎をよく観てみると、「わかってほしい」という心があるから苛立ちとなり、それが揺れる心となって燃えているのでした。
ではその「わかってほしい」という心とは何か。それは「真実に目覚めてほしい」という心。そこには自分自身のための心は一切ありませんでした。ただ人々に真実に目覚めてほしい。その一心で歩んできたのです。

その赤い炎が、このインドでの滞在を通し、赤から黄金へ、そして白光へと変わり始めました。それはいさどん自身の心の段階を表すと同時に、時代が移り変わっていく段階をも表しています。
これまでは、真実を語っても真実として通らない時代でした。けれどもこれからは、魂のこもった真実を語ればそれが通っていく時代に切り替わるのです。そこではもう、「真実に目覚めてほしい」という心は必要ありません。真実が通らない時代には、情熱の赤い炎がなければ歩んで来られませんでしたが、これからは真実が開かれていく時代なのです。
いさどんは、これまで情熱の赤い炎で役割を果たしながら、自らをもその熱によって焦がしてきたことに気付きました。インドへの旅に先立ち、十二指腸潰瘍を患っていたいさどんへ、マザーは「私のところに来なさい。その焼かれた体を癒してあげますから」と伝えました。
もう熱い炎を燃やさなくていい。ただこんこんとわき出る真理を示せば伝わっていく。それはいよいよ、天が地上に采配を振るう時が来たということです。そして地の者がそのことを理解し、実行していく。天と地が共に世界を創造していく時代が始まったのです。

 
豊かな国をつくるには

21年前、富士のふもとに木の花ファミリーは誕生しました。それは、「こういう世界をつくりたい」という自分たちのビジョンがあったわけではなく、全て天意から始まったことでした。そしてその歩みは常に、「天の理」と「地の理」が循環していました。
「天の理」とは、天の大神様である天之御中主の道。天の法則がインスピレーションとして降りてくること。そして「地の理」とは、地の大神様である国之常立の道。人間が地上で経験を積みながら一つひとつ階段を上って天に向かっていく道であり、心を緻密に磨くことを説いたお釈迦様は、国之常立大神、すなわち艮の金神と同じ役割を担っていたのでした。
この天と地の二つの大神様の心が現しているのが、宇宙創造の大本となる神の御心「あってあるもの、なきてなきもの」です。そして私たちは皆、もともとそこにいて、今またもとのひとつへと還る旅をしているのです。ちょうどオルゴールのねじが、音楽を奏でながら、もとへ戻ってゆくように ━━━━━━ 。

いさどんは言います。
「いつかこの国を司る人たちがここへ来て、こう問いかけます。『私たちはこれまで、この国を豊かな国、本当に人々が幸せな国にしようと一生懸命努力してきましたが、いくらやってもどうにもうまくいかないのです。どうしたらこの国を正しく導くことができるのでしょうか。』
それに対して、僕はこう答えます。『それは、仕組みや制度をつくることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこに生きる人々の心を見てください。このような心で人々が暮らせるようになった時、そこは本当に豊かな国となるでしょう。』」

 
真実に目覚め、本当の喜びへ

2015年1月31日。
3度目の開催となる富士浅間木の花祭りに、金色の鬼の面に白い衣装をまとった艮の金神が登場しました。
これは、榊鬼の面に魂を吹き込もうと独自の面を制作していく中で、いさどんにふと「面を黄金にしてはどうか」というインスピレーションが湧いたことがきっかけでした。出来上がった面はもはや榊鬼ではなく、艮の金神でした。そこでこれまでの榊鬼に加えて、封印を解かれた艮の金神が登場する演目が新たに加わったのです。
「鬼が云う」と書いて「魂」となります。魂とは、この世界の仕組みのもとにある心。鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのです。かつてこの世の立て直しを託された艮の金神が登場することで、「生まれ清まり」を表すこの祭りに新たな魂が吹き込まれたのでした。

祭りの数日前、眠っているいさどんのもとに、明け方、サッカーボールほどの大きさの光の玉が降りてきました。天井からゆっくりと降りてくる光の玉を、いさどんが「何だろう」と思って見ていると、その玉から腕が2本、にゅーっと伸びて、左右に振りながら「うれしいな、たのしいな」と歌い始めたのです。
いさどんは、ああ、これは艮の金神についてくる八百万の神々の姿だ、と思いました。かつて心磨きを嫌い、金神を封印した八百万の神々たちが、真実に目覚め、本当の喜びを享受している。そしてそれは、祭の中でただひたすらに舞い踊り、自分という囚われから解き放たれてひとつになっていく人々の姿なのです。

花祭り

生まれ清まり舞い踊り
うれしうれし たのしたのしの 世が開く

 

艮の金神と翁の問答
〜 富士浅間木の花祭りより 〜

金神様(back)

翁 
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神
この方は、艮の金神と申す。

時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界。汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ逆巻く魔釣り(まつり)の世。


艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう。

金神
この方は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。

縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出ると申されるか。

金神
いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。

故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト
ヒからトへの尊き道を歩みきったるその先に 真のヒトの姿現れる。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。


引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神
皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真次々現れくるぞ。

あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
真の神が現れる。神人共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。

 

 

*この物語は、広大な宇宙の流れの中で、地球に起きている時代の流れを紐解き、人類がこれからどのような世界を創っていくのかを探求していくためのきっかけになればと思い、膨大ないさどんの人生体験のエッセンスを表現したものです。

 


とんとんとんと越えていく

いさどん:
僕はこの道をずっと探求して歩んできたけど、探求するということには終わりがない。それは永遠のものだから。

その道を歩む時、いろいろと考えているようだけど、その歩みは風まかせ。何かに出会っても、新たな流れが来ればそこに執着しないでパッと手放せる。
その時に、未練がないわけじゃないけれど、それは未練というよりも、「ああ、時が来たな」と流れを感じて、「それなら仕方ないでしょう」と覚悟を決める。それは自分に言い聞かせるというよりも、時が来たのだから手放せばいい、という感覚。

流れというものがある。
川があるでしょう。川は流れていく。流れているということは、その時々で出会う周りの景色が変わっていく。ここの景色が美しいとか、ここに留まっていたいとかいう場所にも出会いながら、流れていく。一つの場所に執着せず、流れのままにゆっくりとか、流れのままに早くとか、激しくとか、いろいろある。そうやって流れながら、その時その時の景色をいただいていく。

だけど一つ、囚われていることがある。それは「大海へ行く」ということ。
この道を歩んでいく大本には、大海へ行くという目的がある。川の流れに乗っているのはそこへ行くためであり、途中の景色はそこへ向かう中でのプロセスだから、その景色に囚われる必要はない。囚われていては、大海に到着しない。
大海へ出たら、もう景色は見えない。そしてそこに溜まる。溜まるということは、自分がなくなっていくということ。

川を流れていくのは、人生のようなもの。その景色の移り変わりは、人生と捉えられる。その景色を見ている自分がいる。
けれど大海へ出れば、自分はその大海の一部になる。それがやがて太陽の力によって、つまり宇宙の循環システムの原動力に乗って、また宇宙を生きる種として再生され、生命の源へ帰って、そこからまた川の流れに乗っていく。
それは、水が地球上で、液体から気体になって、源へ降り注ぎ、そこから流れて大海へ行く、という循環の繰り返しと同じ。人生と、生命の流れは同じ。

毎日の生活の中で、うだうだと同じことを繰り返す人たちがいる。それをやめればいいだけなのに。
今回ガンに出会ったきょうこちゃんは、この道との出会いが何だったのかということを振り返る機会をいただいた。これは物理的な旅ではなく、心の旅。その旅の結果が今の自分の未熟さに行きついたとしたら、それは落第ということではなく、いよいよその人にとって一番大きなハードルを越える時が来たということ。その時に、この道を歩んできたことの価値を知る。
価値を知るということは、学びが始まること。学ぶということは、何かたくさんの知識を積み上げていくようだけれど、実はそんなに難しいことじゃない。それは、決して高くない、簡単に越えられるハードルを、ひょいっと越えるだけなんだよ。
越えるというのは上に上がるということではなく、越えて先へ進むということ。簡単に越えられる高さのものをなぜ越えないのかというと、先へ行こうとしていないから。そこに留まろうとしている。先へ行く意志があれば、サッとまたげばいいだけのこと。すごく簡単なことだよ。
溺れている人がいる。その溺れている場所を、よく見てごらん。水深10㎝しかないんだよ。そこでわざわざ下に顔を向けて、溺れる必要はない。そういうことだよ。ハッと気が付いてよく見てみたら、なんだ、ばかばかしいことやってるな、というくらいのものなんだよ。

ともこ:
その大したものでもないことを、たいそうなものだと思いたい心が人の中にあるんじゃないかな。

いさどん:
自分に対する執着があるからね。そこに変な価値を付けたがる。そんなことは、未来の自分からしたらどうでもいいこと。そこを越えた未来の自分から見たら、「あんなところにいたのか」というくらいのものだよ。それなのに、その手前でもだえている。
その位置にいるから、その囚われの状態に興味が湧く。位置が変わればまったく違う価値観になるのだから、「何やってたんだろう」という程度のものになる。
いつでも、先へ進むべきなんだよ。とんとんとん、と。出来事は次々起きていく。それもそんなにたいそうなものじゃないのだから、とんとんとんと行けるんだよ。

だって、明日へ行くのに苦労する?やめてくれとお願いしても、明日は来るよ。
今がある。そして未来がある。今から未来を思って、きっとこうなる、ああなる、と不安に思おうが希望を持とうが、明日は必ずやって来る。そして答えが出る。そんなに先へ進むのが不安なら、未来へ行くのをやめてみろ。明日が来るのを止めてみろ。
それは死ぬことも同じだよ。人は必ず死ぬ。それを怖がるなんてバカだよ。すごく簡単な話だ。
だから「今」を増幅させるのではなく、明日へ行ってみたらいい。それが今を生きるということだ。

人間は経験をもとに、頭の中で勝手に思考を巡らせるけれど、それは自分の自我だよ。経験をもとにした自我。それを超えると、必要な時に必要なことが起こる状態になる。そこが普通の人にはわからない。そんなこと可能なの?と言うけれど、それは自分を手放した人には可能であり、自分がある人にはできないこと。自分がある人は、ここまでならやれる、と自分に限界を設ける。
しかし、この世界は自由自在。その限界を超えることは、いくらでも起こる。
そこに自我がストッパーをかけて、大変だと文句を言っている。自我が積み重なってカチカチになっている。だから時々この世界は、「お前の思う通りにはいかないのだぞ」と言って、思い通りにならないことを与えてくれる。それでも、いくらやってもまた自我に戻るものもいる。フリーにしておけばいいのにね。

ぢがうか?(チーン♪)
 
 
 


心はいつも斜め45度上、空の向こうに

 
いさどん:
人間にはなぜ生理があるのかを考えてみよう。

ともこ:
そういえば、魚とかに生理はないよね。

いさどん:
例えばメダカのような小さな魚は、1年に何回も卵を産むよね。早く1人前になって、寿命も短く、新陳代謝が早い。サケは川で生まれて海に行って、何年かすると大きくなってまた川に戻ってきて、卵を産んで受精させて死んでいく。もう1回海へ戻ってまた川に帰って来るなんて話はないよね。
山羊の場合、体の小さな日本の在来種には1年に2回出産するのもいる。体が大きいザーネン種は、1年に1回。ツバメは1年に2回、春子と夏子を育てる。
こんなふうに、いろいろな種がいる。一般的に、体の大きなものは生理の周期が長い。体の小さなものは周期が短い。生理の周期は子どもをもうけて出産するためにあるよね。だけど人間は、体が大きいのに1年に13回も生理がある。

ともこ:
犬はもっと少ないよね。

いさどん:
大型犬だと年に1回、小型犬は2回だね。犬の妊娠期間は60日くらい。それ以外の時に交尾はしない。いくら雄が交尾しようと思っても、雌がその気にならないから不可能なんだよ。
人間は、1年に13回の生理があって、しようと思えばいつでもできる。なぜだろうね。1年に13回出産するわけでもないのに。人間は280日間の妊娠期間があるのだから、生理も2年に1回でいいくらいだよ。

ともこ:
女の人は生理のたびにデトックスされるから長生きだとも言うよね。人間の場合、交尾するのはエネルギー交換の意味もあると思うけど、生理がたくさんあるのはおもしろいね。

いさどん:
もしかすると、昔は栄養事情も悪かったから、そんなに回数もなかったかもしれないよ。それで、例えば秋に体に脂肪が付くと余裕ができて生理になって、そこで受胎するとかね。そういう可能性もあるよね。それにしても、男から考えたら生理のある女の人は面倒だろうなと思うよ。

ともこ:
面倒だよ。何もわざわざ毎回更新しなくてもいいのに。

いさどん:
そこには、もっと深い意味があるのだろうと思うんだよ。我々のサイクルは、宇宙の星と星の関係から成っている。人間は、雌が月のサイクルで、雄が太陽のサイクルになってるでしょう。そこに何か意味があるんだろうと思うんだよ。雄の習性や行動パターンに、連動している可能性がある。

もしかすると、他の動物や昆虫も、星の軌道のようなものに関連しているのかもしれないね。人間の雌は月、雄は太陽というように、動物や昆虫も種によって関連する星がそれぞれ違う。
だけど昆虫の場合、種の中での個体差は少ないから、カブトムシの雄はこの星、雌はこの星というように、ある種がまとまって一つの星と連動している。でも人間の場合は、雄の傾向、雌の傾向というのはありながらも、さらに一人ひとり、それぞれに関連する星が違うんだよ。そういう可能性がある。ということを考えてみたんだけど、どう?

ともこ:
そうだね!

いさどん:
こういうことを、誰か申し子のような人がいて、ピッと感じて、それについて一生懸命考えることで「あっ」と気付いていく。その直感は、きっと星からメッセージが来ているんだと思うんだよ。
例えば、我々が客観視点とか、他者の目線で考えようとするでしょう。一生懸命その思考で考えて行くと、相手の気持ちがわかったり、心配りができるようになったりするでしょ。それと同じように、例えばカブトムシの視点は何だろう ――――― と集中して考えていると、どこかの星から来ているものをピッと受信するんだよ。だから、何かの専門家とか、神業のようなことをする人がいるのは、そういうことだよ。
人間の中にはいろいろな能力がある。例えば刀をつくる人はこの星からとか、フランス料理はこの星、日本料理はこの星、というのがあるかもしれないよ。そこに意識を集中すると、それが湧いてくる。それぞれに固有の周波数を持っていて、ある段階に来るとピッと反応して、そこに目覚めていく。
普通の人は、そこが自由自在になっていない。それがはっきりしたのを持っている人と、ぼんやりしている人がいて、それがその人の個性とか、特別な能力になっていく。
そのメカニズムをわかってそれを意識すると、それまで埋もれていたその人の能力が開花する。あるいは、そのメカニズムを理解して、自分が興味を持ったところに集中したら、自由自在にその能力が開花する可能性があるんだよ。その能力を生かすには、一心不乱にそれを想えばいい。

これは病気でもなんでも同じことだよ。
たとえば、引きこもりやうつ病になった人というのは、実際に過去にその病気を体験しているわけだから、その状態になりやすいんだよ。だけど、健康になってそのメカニズムを理解して、その状態になっていた時の自分を想像しながら、現在その状態になっている人のことを想って、その人たちが何を求めているのかを想い、受け皿になると、そういう人たちは共鳴して来る。そこで健康になるメカニズムを提供できれば、自由に戻っていくことができる。

ともこ:
なるほど!それって病気に限らないよね。

いさどん:
何でもだよ。そうだよ!そういうことだ。
だから、よく「考えろ」と言うでしょ。何でも「あれ?」と思ったことを考えて突き詰めていくと、解明できるよ。専門家の人たちも、天命という周波数を持っている。新たな分野を開拓する科学者たちも、そこのところに周波数があっているから、星が教えてくれるんだろうと思うんだよ。

ともこ:
エジソンが「天才とは99%の努力と1%のひらめきだ」って言ってたね。

いさどん:
努力をいくらしても、ひらめきがなければ、成らない。努力というのは、確かにその人にある程度の道は与えてくれるけれど、その人にしかないものというのは、そこには生まれてこないんだよ。
だから、頭を使えというのは、頭を回して使うことではなく、想いを巡らせて、受信しようとする意欲を向けること。そのメカニズムを知って、想いを巡らせながら、「受信するぞ!」という意向を向ける。そうすると降りてくる。

ともこ:
自分の頭でぐるぐる思考するのとは違うってことだね。

いさどん:
違う違う。ぐるぐる思考するのも、受信しようとする意欲としてぐるぐるするのはいいんだよ。だけど、単に情報を持って来てああだこうだと頭を回したり、企んだりすることじゃない。「何だろう」と、あるポイントに向かって集中して、何だ何だ何だと考えていく。
こうやって、僕が朝にふっと「この感情は何だろう」と思ったりするでしょう。僕の場合は、人間は変だな、とか、星のこととか、人類はどうあるべきかとか、本当に寝ても覚めてもそればっかり考えてる。人間は起きてるのに目覚めてない、と、そればっかり考えていると、目覚めるとは何か、というのが湧いてくるんだよ。

ともこ:
今のいさどんの状態がまさにそうだよね。話しながら、「そうか」と思うことが湧いてきてる。

いさどん:
そう。今まさにそれをやってるんだよ。だからあなたに話しているようでいて、実は僕の中では、自分の脳がそれを解析して話しているようだけど、その心は斜め45度上に向かっているんだよ。そこに周波数を合わせてる。
僕の喉が声を発する。その声は声帯が発していて、脳はそれを解析しているのだけど、気持ちは、斜め45度上を向いている。ずい分向こうの方を。この窓から見える青い空の向こうを見てるんだよ。そこに焦点が合って、そして脳が解析して、自動的に声帯が音を出して、伝えている。
音を出してあなたに伝えているようだけど、あなたに伝えると同時に自分にも語ってる。なぜなら、そこで想いを巡らせるということは、今まで自分が考えてもいなかったことを考えているわけだから、自分にもそれを伝えているんだよ。

こういう発想は、子どものころに夢をみているような感じでやったりするでしょ。それが大人になってもそのままの人もいるけど、大人というのはどちらかというと、子どものころに土台をつくって、目標が決まるとその延長線上の専門みたいになって、そればっかりやっていくようになる。だいたい自分はこういう人、というように、分野が決まっていく。
だけど僕は、年がら年中その子どもと同じことをやっているんだよ。子どもみたいな状態で、いつも新しいことを引き出そうとしている。だから、どんどん変わっていくね。
そのメカニズムがわかると、人間は、眠っているものを呼び覚まして、それを育てて、使うことができる。そうすると、人生がおもしろくなる!

ともこ:
これをみんながやり出したらすごいね!

いさどん:
そう。これは、日頃人間が使っていない85%の脳の分野だと思うんだよ。今の人間は、単調な脳の使い方しかしていない。例えば、体が何かに不足を感じて欲求が生まれたら、食べる。性欲を満たす。そういった条件反射ばかり。仕事をすることすら条件反射のようになっている。だから、人間がロボット化していくんだよ。
カタカムナの時代の人間は、そんなことをしていたら生きていけなかったから、意識をいろんなところに張り巡らせて、自分が生きることを補ったんだろうと思うんだよ。それは常に直感直感直感直感、全身直感という状態。だから、「ない世界」までの存在をひも解くことができたんだよ。

それは今の人間が何かを発見するのとは違って、始めからそういう環境の中でそういうものとして生きていたということ。
いつも直感を働かせた状態というのは、常に研ぎ澄まされていて、ある意味厳しい状態だよね。だから、人間は能力が高いばかりに、常に緊張をしていなくていいような工夫をしていったんだよ。だから、どんどん能力が落ちていった。

ということは、今それを蘇らせるにはどうするか。生きることは厳しくなくなったわけだよね。いろんな意味で、人間の能力が反映されて。そこで、生きることが厳しくなくなった代わりに使わなくなって余ったエネルギーを、そこを探求していくことに使えば、同じところへ行くんだよ。
さらに、昔は生きるがためだけにそれを使っていたけれど、今は生きるためではなく、宇宙を探求するために使える。それはカタカムナの時代に戻るのではなく、まさしく進化しているということだ。

人間は、星と連動して生きている。
人間が生きるということに対して、そのトキ、トコロ、意識レベルによってニーズが違う。そのものになり切って、それを感受する人間というのは、時代が進むに従って自動的に天命を受けて生まれてくるわけだけど、天命を受ける受けないは関係なく、そういうものになり切る人間が出てきたら、いろんなニーズに応えるものを読み解くことができるかもしれない。
逆に言うと、そういうことが今までなかったということは、人間がもっと自由自在に地球上で活躍できる時代が来た、ということで、これも時代の申し子なんだよ。そういった宇宙時空間のナビゲーターだね。

ともこ:
すごいね。

いさどん:
変なことを考える人だよね。それも、考えていると湧いてくるんだよ。
僕に与えられている能力は、僕がそういう思考回路をしていてそういう周波数を持っているから湧いてくるものだよ。だけど、そればっかりになってもつまらないでしょ。だから、僕に湧いてくるものは、それはそれで大事にして、あなたはそれを受けて次へつないでいくとか、他の人はそれを受けて現実化していくとか、そういうふうにみんなが自分の立ち位置に目覚めて役割を果たせば、ネットワークができて、もっと大きなことができるようになる。時代を創るとかね。

ともこ:
それでこそいさどんも生かされる。

いさどん:
最近は、個人がどう生きるかということが社会のテーマだったけど、例えば「木の花」という縁があるものの集まりとしての生命のあり方とか、あるいは「日本人」というこの時代のこの土地の人たちの発想が地球で果たす役割とか、あるいは「人類」とか、そういうふうに個人よりもスケールを大きくして、それを意識して生きる時代が今来ようとしている。それが21世紀、宇宙時代だよ。
だから、個人も自分の損得勘定にばかり興味を持つのではなくて、いろんなスケールの自分の立ち位置を意識して生きる時代が来るだろうね。そういう発想の発信源というか申し子が、僕のような存在だよ。

この発想は僕がここで勝手につくっているものではなく、どこかから降りて来ている。意識はこの眉間のチャクラから常に斜め45度上へ上がっていて、頭頂部のチャクラに降りて来ている。だからこれは明らかに宇宙との交信をして、それを解析して、口から発信しているという状態だよ。
口から発信して肉の音で伝えるだけではなく、意識して地球や人類にも発信しているんだよ。

ともこ:
今はいさどんが先駆けとしてそういう役割をしてくれているけど、一人ひとり、誰もが自分の役割に目覚めていくということだよね。

いさどん:
そう。その自覚が必要だね。だけどなかなか自覚しないね(笑)。

ともこ:
自覚しないと、なれないよね。

いさどん:
そうだね。まあ最初はしょうがないから、箇条書きにでもしてトイレに貼っておいたり、手に書いておくとかね。それは暗記するんじゃなくて、呼び覚ますということだよ。常に目につくところ、耳にするところにあれば、だんだん中から呼び覚まされてくるでしょ。それは昔と違って、現代テクノロジーを活かしてやればいい。
それは「自分は成功するぞ」ということじゃないよ。「自分は」と思った時点で、それはまたエゴの世界になってしまうから。そうではなくて、時代の扉が開かれる、その中の役割を自分も担おう、というような心でやったら、エゴは蔓延しないよね。人間というのは、ついついエゴを一緒に広げるものだから、テクノロジーが発達して技術革新となることですら、害になってしまう。その害が起きないように、エゴを乗せないで、役割を果たすということだよ。
大事な話だったね。朝のひらめきは天の意志だ。

ともこ:
こうやってひらめきがあるのも、いさどんが日々そうやって生きてるからだよね。

いさどん:
自我に固まっているのではなくて、オープンになっているからだよ。いつもパラボラアンテナみたいなのがここに張られていて、受信してるだけじゃなくて、こちらからもガンガン発信してるんだよ。「これはどういうこと?」とかね。

ともこ:
こっちからも発信してるんだ!

いさどん:
だって、やり取りしてるからね。
自然界を動かしている仕組みがあるでしょう。そのさらに奥にあるものは、我々の物理的三次元世界から言ったら「ない世界」でしょう。でもそうやってやり取りをしていると、そこから湧き出してくるんだよ。潜象界の中では何もないんだけど、それが現象界に現れてくると意味を成してくるわけだから、命が吹き込まれるということだよ。それが個性になっていくんだ。