木の花昔ばなし

ようこ:

今、本づくりの材料になるかなと思って、あいちゃんの日記を借りて読んでいてね。そうしたら、いさどんが16年も前から、「一人ひとりが木の花を背負っている。トップであり代表である。木の花を見ている人たちが沢山いる。木の花全体を背負っていることを忘れてはならない」と皆に語っていたのを知って。今と全く同じことを16年も前から言っていたんだなって。言っていたというか、神様のお言葉だけれど。

ツꀀ「うそつきはここにいられない」とか、全く同じことを言っていたんだなって。

ツꀀいさどん:

そういうことを聞くと新鮮だよね。そう、ずっと同じことを言っているんだよ。

ツꀀようこ:

他にはね、皆で住む家を買った日に、「自分の財産を全部、志同じものたち、皆に使ってほしい」といういさどんの夢が実現したと書いてあったり。それに対し、あいちゃんのコメントとして、「やっと夢が現実になり、自分のものがなくなって本当によかったね」って。

ツꀀこれを読んで思ったのは、いさどんは、ずっと変わらないんだなって。それで、皆が変わって。そして、新しい人たちが来て、その人たちもどんどん変わっていくんだろうなって思うと本当にありがたいよね。

ツꀀいさどん:

でもね、昔と今で違うのはね、まわりの人たちの理解度が違う。それに、世の中の環境も違うよね。だから、僕も落ち着いていられる。昔は、まわりの人たちが全然わかっていなかったから。

ツꀀようこ:

最近のりちゃんから聞いた、面白い話がね。いさどんが相手のことを想って時にはきつく接している時代に、いさどんがのりちゃんに、「神様は何て言っておられる?」と言って、そしたらのりちゃんが「すべて愛である」というお言葉をいただいて、いさどんに伝えたというのを聞いてね。のりちゃんとしては、いさどんが直接神様に聞けばいいのに、とか、もし神様からお言葉をいただけなかったらとドキドキしながら、でも神様を信じてただ聞けばいいんだ、と思った裏話も聞いて。その時のこと、いさどん覚えてる?

ツꀀいさどん:

よく覚えてないな。ただ、あんまりにも一途で真っ直ぐな心を、自分でも持て余しているという頃はあったね。

ツꀀようこ:

それは、やりすぎているんじゃないかってこと?

ツꀀいさどん:

そう。本当にあまりにも一途でやっていると、何か取り返しのつかないことになった時の恐怖。でも、信じていくっていうことの両方があった。

ツꀀようこ:

そういう時でも、あいちゃんの日記にあったけれど、まわりが育てられて、神様が作業中であるって。神様が作業中であるって面白いなと。

ツꀀいさどん:

富士山に来る前に、約束というのがあってね。それは、富士山へ行ったら、何が起きるかわからない。何があるか、起きることに対しての約束はできない。それは、未知の生活をするんだから。路頭に迷うかもしれないし、大変な苦労をするかもしれない。

ツꀀけれど、約束できることは、そこから自分が逃げない。皆と一緒に同じ苦労をしていく。だから絶対に逃げない。

ツꀀそれともうひとつ約束できることは、今の延長線上にいる。言うことは変わるかもしれない。成長していくからね。言うことは変わるだろうけど、でも、今の延長線上にいる。だから、同じことをやっていくということは約束できるって。

ツꀀようこ:

日記を読んでいると、まさしく全く同じことをいさどんは言っているよね。創立メンバーも今ではわかっていても、当時は「一体いさどんは何を言っているんだろう?」「尊き人になるっていっても、まず尊いってどういうことなのかわからなかったよ」ってのりちゃんが教えてくれたりね。当時は、ただ無我夢中で付いていくしかなかったって。

ツꀀいさどん:

よく一人前の人たちがね、自分の人生、自分というものを全部捨てて、賭けたものだよね。みんなその人なりの価値観はあったのに。

ツꀀようこ:

あともうひとつ、日記を読んでいて面白いと思ったのは、いさどんが指を切った日に、それをいさどんは、「体がへったけど、心がふえた。とてもいいことだ」と言っているんだよね。それに対してメンバーのコメントが載っていて、「ちなっぴは、今までいさどんに頼りすぎていたので、もっと自分がしっかりしなければ。」「のりちゃんは、病院から帰ると、いつもと全く同じ明るいいさどんに勇気づけられた。」「和子ちゃんは、私はいざという時にオロオロするばかりだけど、もっとしっかりしなくてはいけないと思った。」「あいちゃんは、いさどんの体に異変が起きた時は流れが変わる時。今まで以上に、このことによっていさどんの奥深さ、心の偉大さ、広さ、愛が表され、示される時。こんなに木の花が心を痛め、考え、泣いたことを無駄にはしない。今日、木の花の指がなくなった」と。

ツꀀ「体がへったけど、心はふえた」っていい言葉だね。

ツꀀいさどん:

そういう神様の名言がいっぱいあるんだよ。

ツꀀようこ:

そうそう、日記の中にも、いさどんから出た神様の言葉がいっぱいあるからね。今度出版する本の中にも、16年前の言葉も一緒に入れたら、全く同じで面白いなって。

ツꀀ言うことが変わる人はいるけれど、こうやって何十年も変わらず同じことを言い続けて、実践している人って本当になかなかいないよね。

ツꀀいさどん:

本当だ。きっとどこか到達地点に行っているんだよね。だから、変わらないんだろうね。

ツꀀようこ:

悪いことが変わらないで頑固、というのはよくある話だけれど、いいことが変わらないというのは、この世の中でもめったに出会えないよね。木の花昔ばなし、その心は、今も昔も変わらず大事を生きる、ということでした。


メールマガジン、はじめてみました

技術担当のいさおです。ご好評いただいている「おやじの館」を、ふとした思いつきでメールマガジンでお届けしてはどうか、と思いました。ブログと同じ内容をメールにてお届けします!

ということで、試験的に発行を開始しますので、希望の方はページ右上からお申し込みください。メールアドレスを記入して、[購読]ボタンを押すだけです。好評であれば、継続して発行していきたいと思います。どうぞよろしくお願いします!

追記:公開当初、登録が正常に動作していませんでした。ご迷惑をおかけしました。現在は正常に動作しております。


何でもない人が語ることの大切さ

いさどん:

なんだか、心がこうざわっとする。言葉でどう言っていいのかわからないけれど。

(隣にいるようこは、いさどんの手の上に自分の手を合わせ、いさどんの心を感じようと、自分の心を空っぽにして、いさどんの心に集中します。)

いさどん:

毎日いろいろとやることがあって、いろんな人もやってくるし。そうすると、自分のやることができなくて、でもそれで、何か滞りが起こるわけでもないけれど。仮にすべてスムーズにやれたとしても、次に何をしようかという気持ちが起こって、いつもどこか急かされているように感じる。

自分の心をどう表現していいかわからない時は、ひとつずつ端から自分の心を見ていくと。。。

仮に自分が寝たきりで、でも精神はしっかりしていて、言葉で伝えることはできるとする。そうすると、それはそれで皆の心の支えとなる。

次に、自分が植物人間になってしまって、言葉も発せないとする。でも、皆の心の中にいるから、皆は自分のことを心の支えとしてくれる。

自分が死んでここにいなくなったとしても、過去に自分が存在していた。そのことで、同じように皆の心の中にいるから、皆の心の支えになる。

そう考えると、物理的に何かしなくても、自分の存在する意味はあるんだね。

ようこ:

私は、今の話を聞いていたら、ありがたくて涙が出てきたんだけどね。というのも、この人生でいさどんに出会って、心の学びが始まって、いつも何かあると、「いさどんなら、どうするんだろう?」って思う。私にとっていさどんは、皆を本当に想うことの指針であり、基準であって、しかも私のように思っている人が他にも沢山いるのを知っている。自分がそう思える人と出会って、一緒に暮らせて、毎日話しもできるということは、宝くじに当たるよりも本当にありがたいことだなって。

だから、いさどんが物理的に何もしなくても、いさどんはいるだけで存在している意味があるからいいんだよ。

いさどん:

そうだよね、仮に自分が物理的に何もできなくなっても、ここにはそれを非難する人は誰もいないよね。

でもね、自分に大きな役割があるって神様に言われた時に、何で自分なんだろうって、その人間いさどんとしてのギャップに苦しんだ時代もあった。でも、自分の中にはいつも、自分のことを置いて、社会のことを想う、世の中のことを想う、大きな想いが湧き出してくるのも事実で。

その時にわかったのは、自分のような何でもない人が語ることが大切なんだって。何でもない人が語ることが何でもなくなる、そういう世の中になることが大切なんだって。

輪廻があるからね。自分は、アメリカの大統領にも、日本の総理大臣にも、国連の事務総長にもなれる。でも、その中で、今この何でもない人を選んで生まれてきている。必要であれば、アメリカの大統領として生まれることもできたのに。

大切なことは、魂の根っこ、志。どんなに能力が高くても、お金があっても、その志がなければそれらは活かされない。逆に志があれば、どんな人でも尊い人になれるということ。

だから、本づくりにしても、自分は皆が理解できる、わかりやすいことを提供するのではなく、敢えて難しくても長くても、大事なことを伝えたいと思っている。世の中には、読む人の心に共鳴するようなわかりやすい本が沢山あるけれど、今私たちが出そうとしている本は、聖書のように皆が勉強会を開いていくような、奥の深いもの。それは、人間の思考を超えた所に真理があるから、難しくても、その奥にあるものを感じとろうとするもの。

ようこ:

私も、ブログについて、いろんな人から難しいとか長いという感想をもらって、皆のためにと勘違いして、内容をまとめて短くわかりやすくしてしまったことが1回あったよね。でも、いさどんの大事は大事で伝えるという姿勢を見たら、本当にその人のことを想えば、難しくてもその方がその人にとっていいこともあるんだってわかった。それで、その人が自分の思考を超えた所へ行けるなら。

奥にあるものを感じ取ろうとしたら、難しいという文句もでてこないよね。

いさどん:

それを難しいというのは、日頃自分事に捉われて、世の中や皆のことを考えていないからそうなる。日頃の姿勢が問われるよね。誰でも、尊い人になれる素質はあるのだから。

ようこ;

そうだよね、皆が尊い人になったら、本当にいい世の中になるよね。そのために、まずは一人一人ができるところから始めていけばいいよね。


毎日がいのちの聖書物語

いさどん:

毎日同じ気持ちで、気分よく朝を迎えられたらいいんだろうけど。今日はね、気持ちが落ちている朝を迎えることもあるなって思っていた。でも、その原因は様々だよね。昨日のことを引きずって、気持ちが落ちていることもあるだろうし。今日の気持ちが落ちている原因は何かな?と思っていた。

ようこ:

何でだろうね。今、メンバーの中にも、大きな心の滞りがある人はいないよね。

いさどん:

いや、そういった身近なことではなくてね。今朝ちょっと早くに目が覚めたから、枕元にあった「聖書の描く地球の今と将来」という研究書を読んでいた。その中に、「聖書はなぜ真理の言葉と言えますか」というところがあってね。聖書の中での宇宙の成り立ち、人間が最初の二人から始まったとか、生物の起源は別々に創られたとか、そういうことが書いてあって、アインシュタインや天文学者の話、ガリレオ、ケプラ、ニュートンとか、そういった人たちの物理的な法則を引用して、聖書の中に書かれていることが真理であると表現されている。でも、その理論自体が無理に結びつけて書いてあるようにしか思えなくて。また、仏教を引用して、仏教は神を存在させない無神論者の考えだと書いてあったりね。そうすると、この書から受ける印象は、一つひとつが正しいか正しくないかということよりも、自分たちの側が正しくて、他の理論が間違っている、と書いてあるように受け取れる。

僕は、仏教もキリスト教もそれ以外の宗教も正しいと思う。それは、この世界が非常に多様性でできていて、見方によってどういうふうにも解釈できるから。でも、そういった表現をすると、これを読んでいる人や、不特定の人がこれに出会うとすると、もし自分が正しいと考える人が見るとしたら、きっとあれは間違いだって。その対立の対象にされるのかなって思うと、気持ちが暗くなってしまう。対立の対象になりたくてこれを思ったわけではないし、自分たちが正しいというわけでもない。

自分たちが正しいと思うのも真理だけど、違う側から見るとこちらこそ違うと思うことも真理である。そうやって、お互いを認めあうことによって、この世界ってできているんだよね。そして、お互いを認めあうことによって、つながるということができて、相手と自分が一緒の側にいるということになる。

僕は、自分で一つ一つ、あれはどうなんだろう、これはどうなんだろうって考えていって、こういう結論にいきついたんだけれど、聖書のような沢山の人たちを束ねている、沢山の人に影響のあるような書物が、なぜこういう姿勢をとるんだろうと。でも、それを言ってしまうと、聖書を批判してしまうことになってしまう。決して聖書やその側に立つ人たちを批判しているわけでも、間違いだって指摘するわけでもない。この多様性の世界の中で、どんなものも違うってことを認め合いながら、違いあるもの同士がつながって、さらに大きなものが出来上がり、その連鎖であり続けること。それがこの世界の仕組みだと思うんだ。

今見える景色というのは、そのもの、形あるものにも、形のないものにも、強く執着していなければ、正しいものの見方ができるんだよね。だけど、その正しいというのは、この世界は常に変化しているもので、結局、思考の中で、その時にある材料で見通しをたてるものであって決定ではない。だから、真理も、思考する延長線上にあり、そしてその思考する能力に合わせて、広い真理もあれば狭い真理もあり、近い真理もあれば遠い真理もある。そうやって変容していく中にある。

変化していくことを認めたときに、もうひとつ大きな真理がそこにあって、それは多様性というこの世界を表す。そして、無限の多様性であり、この世界がひとつだっていうところに行きつくことになる。

この聖書の解説書には、いろんなことがいろんな切り口で書かれている。そして、自分たちが正しくて他のものが間違っている。自分たちをこの宇宙や世界の本当を知っている側にして、他のものが間違っていると表現しているようにとれる。それが残念です。でも、それを違うと言うと、自分たちがまた対立の対象側になる。だから、それを言いたくない。だけど、どうしてそうやって、人は自分の側に立ってしまうんだろうと思うと、気持ちが暗くなる。

聖書やその他の宗教の経典には、他を批判する所は見られないが、それを解説する書物の中にそういった所を感じられることが多くある。これは、人間が、物事を道理で理解しないと納得できない、理屈の上に納得して理解しようとする所があるからで、これでは身近なことはそれで理解できるけれど、人の思考を超越したこの世界は理解できない。この世界を理解しようとすれば、まず、信じること。信じることから、信仰心が生まれて、理解できないことも見えてくる。そういった信心の心が起こると、身近なことももっと深くにあることが見えてきて、毎日の生活が深く充実したものになる。日々の中にある出来事の奥にあるメッセージを受け取り、信心の姿勢から気づきが生まれ、人は成長していけるようになる。

聖書というのは、この世界の中で一番ページ数の多い、内容の濃い書物で、これを私は過去に一部を読んだことがあるけれど、とても読み切れない。読んでみてもよくわからない。ただ、そこで聖書を読みながら、想像することはできるよね。そうすると、ここの記述は地球の歴史の中のこの部分を言っているなとか、ここは人間の思考の中のここを言っているなと想像することはできる。そこで、私の想像の中に当てはめていくと、聖書は真理が書いてあるなと。だけど、人によっては、全く逆の見解に至ることがあるんだよね。そうすると、聖書は真理だなという半面、危険だなと。

つまり、そうやって活字にしてしまって、最初はヘブライ語に降ろされ、それが世界中の言語に翻訳された。言葉ってすごく便利なんだけど、不自由なんだよね。本当の思いを十分に表現できない。それを文字という、この思いとは違う表現の仕方に表そうとすると、この思いをどうやって言語で表現するんだろう、と悩むことがある。この思いは、あなたが同じように、思いの旅の中でそこに辿り着いて、「ああ、あなたはこのことを過去に述べていたのですね。私はあれから思いの旅を歩んできて、ここまで来ました。そして今、あなたが以前に言葉で表現してくれたことが、やっと理解できました」ということがある。それは、言葉では、私たちの心の中にある思いの中身には十分到達できない。

そうすると、いつも言葉は不自由だなと思います。想いでその場を感じることはとても豊かだけれど、言葉でそれを表現しようとすると、すべてを表現したいという欲が出てしまって疲れる。言葉で想いを表現するより、例えば、言葉に近い音楽で表現すると、言葉の量も少ないし時間も短いのに深い意味が伝わるように、言葉ってとても便利がいいようで、不自由なものなんだ。だから、言葉や文字の表現を使って、その奥にあるものを感じとれるようにしていきたいと、いつも思っているんだよね。

ようこ:

そういった言葉の奥にあるイメージを、テレパシーで伝えられるといいんだけどね。

いさどん:

思いというもので、この世界はできていると言うけれどね。思いを、言葉で伝える手段を私たちは持っていて、それは大切なものだけれど、言葉の奥にある想い、言葉の出発点である魂。それを私たちはキャッチボールしているはずなのに、それが十分できていないと心の奥のものが伝わらない。聖書の中にある魂も、文字にしてしまうと、人間は聖書を読んでいるというよりも、文字を読みながら、奥にある魂を自分の色や形に染めてしまって解釈する場合がある。だから、いくつもの解釈が出てくるんだね。そういったことによって、いろいろな影響が表れてくると思うと、ひとつの真理で対立が生まれたり、僕の今朝のように気持ちが暗くなるなって。

それでね、僕が前から思っているのは、聖書ってどこにあるんだろうって。自然というものの中に法則があって、自然は何を表現しているんだろうと思ったら、神様の意思、絶対善なる絶対愛なる絶対調和。善なる愛なる調和を表現している。自然というものがひとつらなりのいのちとして、この世界を見えない法則でつないでいる。それが私たちが見える世界、そして観ることのできる世界。自分と対象のもの。自分と宇宙だよね。自分と一つ一つ、自分と出会ういろんな出来事を全部つなげてひとつだよ、と言っている。それが、善なる愛なる調和を原則にして、形成しているというふうに、僕は見ているんだ。

そうしたら、ツꀀ私たちは人生というものを地球上にいただいて、旅をしている。それは、毎日の生活という旅。想念の旅。自分という肉体が毎日自然のつながりの中でいのちをもらいながら、いのちの世界に自分を返していくいのちの旅。それから、自分という一番身近にある魂の旅。そういうものをもらいながら、この世界の自分の役割を果たしながら、魂の成長を続けていく旅をしている。

今の人間たちが、80年生きるとするでしょ。1日1日がオリジナルで同じ日がなくて、聖書の1ページだと思っている。そういう1ページをもらって生きているなと。今日の1ページが始まって、それが終わって、明日を迎える。毎日、1日という一生をもらいながら、生の1ページという聖書をもらいながら生きている。私たちの感情は、移り変わっていく。魂が成長していく。時には紆余曲折があって、気持ちが落ちていく人もいるけれど、そういったそれぞれの個性的な人生という生きる旅は、1日1ページのいのちの世界でもらっている聖書。これを本当にしっかりと見て、それに目を背けないで学んでいくこと。それが大事かなって。

文字を読んで理解することを進めていくと、どうしても奥にある魂を感じられない。どうしても、人間たちは、自分たちの中にある色や形を投影してしまって自分流に見てしまう。私たちがそうであるように、自然は自然の奥にある色や形、メッセージをもっている。私たちは、自分の色で自然を染めるのか、自然の色を私たちが感じるのかというと、自然のほうが確実に私たちを生かす側にいるからね。私たちは、どちらかと言うと、自分で自然を染めてみるというよりも、自然に染まって学んでいく。そちらのほうが大切だと思うんです。

そういった目をもって、1日1日を聖書の1ページとして、80年を今の時代の人の寿命とすると、29200ページの聖書をもらっているなと。ツꀀこの聖書のもとに生きていきなさいと、この地上に生をくれた神様が示されている。だから、毎朝自分を見て、1日を神聖な1日として迎え、1日の終わりに今日1日が自分にとって何だったのか振り返る。

自分の色や形で解釈しないために、沢山の人たちでお互いを見合って、色のついて偏っている自分に気づいていく。そうやって、自然の力やみんなの力をかりて自分を正していく。それこそが、みんなでひとつだねって。木の花で営まれている生活、まさしくそれなんだ、そう思うとこの生活の大切さがわかる。

でも、これが正しいよと言うと、そう思えていない人は否定されているように感じる。そこで、僕は暗くなるんだよね。決して他のものを否定するために、これを思っているのではなくて、実際にやってみて、ただ夢物語のようにつくったのではなく、続けてきてそこに行き着いただけだから。

それを伝えようとしたとき、これもまた文字にすると限界があるんだよね。人は、ついついその言葉の表面や自分の理解の範囲の中で理解してしまう。でもいつかね、僕が今こうやって窓から西の空をベランダ越しに眺めながら語っている、この心の旅のこの所まで、この文字や言葉で伝えた人たちが、僕が今観ている景色、今感じている心の旅の所まで来てくれたら、みんなそうだったんだって思ってくれるんだろうって思う。これが正しいと言うことを言っているわけではないんだよっていうふうに思っても、なんとなく物悲しい。この世界は動いていて、あせらなくてもね。僕の中に「早く」という心がどこかに残っているから、今日のような思いになるんだろう。こうやってその思いを分析していくと、そうではないんだよと。この世界を動かしているのは、そのことに気づいた自分が動かしているのではなく、この世界をつくってその気づきを与えてくれているものが動かしている。だから、ただいただいていきなさいということなんだよね。

ようこ:

やっぱり、いつもおきまりの「ゲームじゃ、ゲームじゃ」だから。

いさどん:

でも、このゲームは一喜一憂するということよりも、もうちょっととろーんとした、悠久のこの世界の中に浸っていきなさいという感じだよね。決してゲームのように競争しない。

ようこ:

人の数だけ聖書があって、同時にみんなでもうひとつの大きな聖書をつくっていると思うと、悠久の中でとろーんとしていられるよね。どこまでも続くから。

いさどん:

だから、1カ所で切って、そこで結論を出そうとすると、正しいとか間違っているとかそういうことが発生するんだよね。私たちが存在する前から、この世界はあった。そして、その中から私たちは生み出された。始まりから今まで一刻も途切れることなく続いて、今がある。そして自分がある。自分の意志や望みすらこの大きな流れの中にある。

追記

ようこ:

私は、毎日同じような気持ちで朝を迎えるけれど、私の場合、メンバーやここに滞在してくる人のことを主に想うだけで、いつも同じように幸せに生きている。でも、いさどんは、私よりももっともっと深くいろんなことを想っているからこそ、気持ちが暗くなることもあるんだよね。そう考えると、毎日同じ気持ちで朝を迎えることが一概にいいとも言えないよね。

いさどん:

人それぞれ、魂の色や形があるからね。多様性の世界だから、いろいろあっていいんだよ。


館主からのお知らせ

いさどんです。いつも「いさどんブログ」をお読みいただきまして、ありがとうございます。皆様から頂戴したコメントも、ひとつひとつありがたく読ませていただいております。

「おひさまハウスひまわり」と「木の花庵」の用務員の仕事、そして新たな本づくりに向けた準備など、いろいろ忙しくしておりまして、コメントへのご返信ができなかったり、遅くなってしまったりすることもございますが、容赦いただければと思います。今日は、この場を借りて皆さまに感謝の気持ちをお伝えしたいと思い、改めてご挨拶させていただきました。

読者の皆様とともに創り上げていく「いさどんブログ・おやじの館」を、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

いさどん