お釈迦様の時代の悟りから21世紀の悟りへ

僕が中学3年生のときに思ったことがあります。僕の父親は生まれは本家の長男で、社会的にも地位があり、自分の思ったように生きている人でした。近所の人からは、「本家の兄様で筋の通ったことを言う人」ということで、一目置かれていました。しかし、彼には敵・味方がいました。僕はそういった父親が嫌だったのです。僕は皆に支持される人生を生きたいと思っていました。しかし、父親はそのような敵・味方がありながらも、多くの人に支持されないといけない政治家をしていたのです。その立場は嫌いな人からも支持をもらうために、そのような人たちにもへつらわないといけなかったのです。それで選挙に出ると、父親のことをとても支持してくれる人もいれば、大反対して彼を落選させるための候補者を立てるような人たちもいました。僕はそういったことがとても嫌でした。それで、本当に筋の通った生き方をしようと思ったのです。しかしながら、筋を通すということは、ある意味筋のわからない人たちの反対に出会うこともありますが、少なくとも自分が筋を通したことに対して揺るぎのない心を持ちながら歩んでいくことを心がけ、これまで生きてきました。

それで中学3年生のときに、「このまま僕が自分の心にメスを入れないで生きていけば、親子だから父親のようになるだろう。だからこそ、今から自分の心にメスを入れるのだ!」と決意したのです。そこから僕は高校進学を決め、高校ではそれまでの自分では考えられないような生徒会活動に参加したり、応援団をやってみたりと、自分の苦手だと思うことを積極的にやっていきました。なぜなら、それが自分を変えることだと思ったからです。

自分を変えるとは、内から湧き出た想いと向き合い、日頃から自分が苦手だと思うことにチャンレジしていくことです。つまり、自分にとって嫌なことに向き合っていくその心が自分を新たな世界へいざなっていくのです。

多くの人々は「これは嫌だ!」「あれは嫌だ!」と嫌なことを遠ざけて、心地良いと思うことを正しいとして生きる傾向にあります。それは時として、自身の実態と向き合わなければならない場面では、自分自身の実態から逃げるような姿勢を取ることにもなるのです。そのような人生を積み重ねていくと、「あなたは一体何のために生きているのですか?」ということを問われることになります。

人が生きているということは、「四苦八苦」と言われるように、いろいろな問題に出会うことになります。なぜ、わたしたちはその四苦八苦に出会うのでしょうか。それは自らが自業自得で招いたことなのですから、そこを学びクリアしていくためです。つまり、わたしたちの生きた結果、その答えとして四苦八苦に出会っているのですから、それは自らの生きる姿勢の結果出会ったことになります。わたしたちが人生を学びとして生き、人間性の成長につなげていくならば、そうした自分自身の性質に向き合い、その性質の問題点をクリアしていくことが、わたしたちが生きる目的ということになります。ですから、出会ったことを学びとし成長につなげていけば、人生は四苦八苦から解放されることになります。

今から2500年ほど前、お釈迦様は「人として生を受けることは四苦八苦に出会うことである」と説かれました。当時の人々にとって生きることは食べることでした。つまり、今日一日食べられるかどうかが生きられるかどうかを左右するような、必死な時代だったのです。ですから、生きることは苦に出会うこととして、生きる定めを生老病死につなげて説かれたのです。そのような時代には、お釈迦様は「この世界に生まれ存在することのすべてが苦痛である」と説かれ、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から逃れるためにはどうしたらよいのかと説かれたのです。当時、世の中は特定の権力者に支配され、民衆には希望のない混沌とした時代でした。ですから、「生まれてくることがいけないのだ」と生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから少しでも功徳を積んで生まれ変わり、次の生まれ変わりは良い人生が生きられるようにと人々は願うようになっていきました。それがさらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望を叶える道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

大乗仏教の代表的な経典である般若心経は、色即是空といって、すべてを「空(くう)」にして境地に逃れることを説いています。しかし、苦痛からの解放を求める者に手法として「このように思えばいいのだ」と伝えたところで、その想いが湧き出す自分がいる限り、苦痛から逃れることはできません。そこで座禅を組み瞑想をしたところで、その結果は迷走につながることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものです。そこで現実に囚われない境地に至ったとしても、肉体という現象を持っている限り、わたしたちが「無」になることはありません。そのようなバーチャルな境地に至ったところで、現実の問題事は何も解決されません。そういった空(無)を掴むような心境に至るのが、般若心経の限界なのです。さらに、実体のない仏や神をつくってそこにすがり、救われようとするのが南無阿弥陀仏です。それは、どのような生き方をした者も、ひとたび天に向かって呪文を唱え救いを求めれば極楽に至るという、インスタントに人々を救済する魔法の教えです。そういった組織宗教になってしまった教えは、「どうか、わたしを救ってください」という精神の人々を亡者に仕立ててしまったのです。

それに対し、仏教の究極の教えとされる法華経の教えでは、色即是空とは言え、実体はあることを説いています。現実に宇宙はあり、トキは動き、宇宙は永遠に紡がれていく――、そうした宇宙の実体を理解し、宇宙そのものである自分自身がどのようにそれを喜びとして表現し、この世界で役割を果たしていくのかが、法華経の本来の教えなのです。しかし、現代の人々はそこまでの解釈をしていません。法華経すら、ひとたび南無妙法蓮華経と唱えれば救われるという、結局南無阿弥陀仏と同じご利益宗教になってしまっているのです。

本来、生老病死の実体を知れば、そこから逃げる必要はまったくありません。その実体を理解し、「ヒト」としてどのように生きたらいいのかを悟れば、この地球上にいながらにして宇宙の法のもとに生きることができるのです。「ヒト」とはこの世界の始まりから終わりまでを悟り、統合した者のことです。それが、「無」の状態で「有」を生きるということです。ですから、何でも「無」としてはいけないのです。それは、「無」もしくは「空」の状態で「有」を生きる術を身につけることです。そこに至れば現象界という「有」の世界で、無欲という「無」と、「空」という何も特定していない「いただく」精神になることができるのです。それがこの世界の大本(潜象界)を理解し、現象が潜象界(ない世界)から現象界(ある世界)に現れることの意味を理解することであり、現象界に生まれ出た人間の本来の意味を理解することなのです。わたしたちは生きることで、地球に肉体を持つことの意味を発見できるのです。

宇宙は「成住壊空(じょうじゅうえくう)」と言って誕生・維持・破壊・空を繰り返しています。「成住壊空」の「空」の状態が涅槃(ニルヴァーナ)の境地です。しかし今、わたしたちの世界は「成住壊空」でいう「住」の段階にあります。ですから、「住」の道をどのように生きるのかを語るとき、「住」にいながらにして涅槃を目指すことは本来おかしいのです。それは今を生き、「成住壊空」の仕組みがわたしたちの日常に遍満していることを知ることから、始まるのです。

時代は21世紀に入り、2000年から3000年の新たな1000年サイクルに入った今、わたしたち人類は生きることの真の意味を悟る時代を迎えています。お釈迦様の時代は、「人として生まれ出でると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか急激に増え、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は人々の四苦八苦の渦に巻き込まれ、混乱の極みに達しているのが現状です。

中国の天盤の巡りによると、地球上に宗教がもたらされたのは今から約3000年前のことです。そして3000年の時を経て、今、宗教の時代は終焉を迎え、わたしたち一人ひとりが目覚めていく民衆の時代を迎えています。新たな時代を生きる人々は、願望を叶えることや救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、自我に翻弄されることなく、誰にも救済される必要のない、高い意識の存在となれる時代を迎えているのです。

そこで2000年からの新たな1000年紀は、欲望と共に拡大し得たものを必要なものと不必要なものに仕分け、そぎ落としていく時代です。人間は他の生物と違い、食べていければそれで満足していくものではありません。植物や動物なら、自らの生命を維持できる環境が整っていれば安定して存在しています。ところが、人間は生きていられても、それだけでは安定しないのです。人生に希望や喜びがあることによって、安定するのです。ですから、いくらお金を持っていても、そこに希望や喜びがない限り、さらにお金を求めるようとするのです。そこで、本当の生きる目的が観えていれば、お金やものに執着したり翻弄されなくなります。ものは少なくても不安になりませんし、人と共有することが魅力的になり、その境地に至れば真の希望や喜びが湧いてくるのです。21世紀から始まる人類の歩みは、そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長し霊的な豊かさを通して、「ヒト」としての本来の悟りに至る道なのです。

しかし、たとえば今現実にニコチン中毒やアルコール依存になっている人たちに、「そこから解放されると喜びですよ」と伝えても、現状の状態でそれを手放すのは彼らにとっては苦痛を感じること以外の何物でもありません。何かの中毒になっている人にはそれは無理な話です。ここで大切なことは、「なぜ今の自分はその中毒を引き起こすものを必要としているのか」を理解し、自然にそういったものがいらなくなる状態になることです。今の時代、多くの人々は様々な中毒症状を引き起こしていることに気付いていません。一生懸命幸せになりたいと願っても、自我に囚われていたら、自らを不幸にしていきます。そして、わたしたち一人ひとりの中にある矛盾が地球上にこれほどの矛盾をつくっているのです。

近代科学が進み、天文学の解釈も進み、キリストやお釈迦様の時代には解釈できなかったことが今、紐解けるようになりました。人類がその優れた能力を使い、ここまで宇宙を解き明かせるようになったからこそ、今、わたしたちは生きることの真の意味を悟れる時代が訪れたのです。宗教の時代のお釈迦様は苦から逃れることの悟りを説かれましたが、21世紀に入った今、わたしたちは新たな時代の悟りを迎えようとしているのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めてブッダとなった時代でした。それが、優れた聖なる人の見本となりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」というお釈迦様の言葉にあるように、わたしたち一人ひとりが宇宙の真理に目覚め、すべての人々がブッダとして目覚めその自覚をもって生きる時代です。さらに、「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり」とお釈迦様が説かれたように、他者の目覚めが自らの願いであり喜びとなったとき、それこそが新たな時代の人々の姿なのです。

僕の話は個人レベルの話が常に地球レベル、そして宇宙レベルになります。日常生活が地球レベルであり、宇宙レベルなのです。なぜなら、この現実は地球の自転と公転、太陽と惑星との関係、銀河との関係によって紡がれており、大宇宙の中に繰り広げられている物語だからです。そこまで自分自身を広げ、その精神をもって日常生活を生きることが人類には可能なのです。わたしたちはその境地に至れば、自らの自我に翻弄されることなく、この世界を自由自在に生きることができる存在です。それが、21世紀を表現する時代に込められた願いであり、わたしたち人類が果たすべき役割なのです。

 

Source of photo:www.tbs.co.jp/heritage/feature/2012/201201_06.html

 


今、目の前にあることが天の与えた道

35歳の男性ゲストがいさどんに、「自らを探究し、精神性を高めていくために一番必要なことは何ですか?かつていさどんが1000日の業を行ったように瞑想することですか?」と質問したとき、いさどんは次のように答えました。

――

僕は昔、お釈迦様にこう言われたことがあります。僕が30歳のときにお釈迦様に出会い、それから5年くらい経ったとき、僕はそのときまだ会社を経営していて、普通の生活をしていました。毎日仕事へ行くのですが、ある朝ふとこう思ったのです。

「この世界にはいろいろな人生がある。いろいろな人生の中で、自分は自らが生活するための生業をしている。なりわいとは「生きる業」と書き、業とはカルマのことでもあり、自らの欲得のために生きているということ。世間では尊いとされる者が宗教の教祖になったり、中には修行だといって滝に打たれる者もいれば、瞑想している者もいる。そのような道を歩む者に比べ、自分は単なる生業のために日々を送っている。意識はしていても、世間でいう優れている人の生き方はしていない。」

だから、お釈迦様にこう尋ねました。
「わたしはあなたからこのように道をいただきながら、昨日も今日も、こうして自分が食うがための生業で一日を過ごしております。しかし本来、あなたは出家という道を説かれ、難行苦行をし、人々に仏法という道を広げられました。それだったならば、わたしも町へ出て、人々に道を説くべきなのではないでしょうか。もしくは瞑想するとか、滝に打たれるとか、自らを磨くための修行をするべきなのではないでしょうか?」

そうしたら、お釈迦様はこう言われました。「わたしはそうであった。そなたがわたしに出会ってこの道を受け継ごうと思うのならば、この世界は時代と共につながっていく。わたしの時代があって次の時代があって、おまえの時代がある。わたしの時代とおまえの時代は切れているのではなく、すべてつながっている。時と共に時代が進んでいくことも、原因と結果という因果の法によってつながれている。そうしたら、わたしとおまえに違いはあるか?この道をわたしが生きて、これに出会ったおまえがわたしの延長に生きるとしたならば、おまえはわたしに出会ったからといって、なぜもう一度わたしがしたことをする必要があるのか?それなら、おまえはわたしの時代に生まれればよいではないか。しかし事実、おまえはおまえの時代に生まれている。もしそなたがこの道に目覚めて歩むのならば、わたしの歩んだ延長に受け継げばよい。二度と再び、わたしのしたことを繰り返す必要はない。」

さらに、お釈迦様はこう言われました。
「ならば、町へ出て、家の戸を叩き、そして語りかければいい。誰が耳を傾けるか?おいしい言葉や恐怖でも語れば人は聞くかもしれないが、それは本当に道を求めるものではない。道とは、生命の道であり、それは生きることの上に現されるもの。おまえは生きるという生業のために今日一歩を踏み出そうとしている。それも、志はわたしの心に出会ってその道の延長だと言っている。その延長に今日があるとしたら、おまえはそんな余分なことを考えず、今目の前にあることをやればいい。その先に道が必ず用意してある。」

それで、僕は毎日仕事に行くと、そういう話をしなければいけない家庭不和の家に出会ったり、いろいろな問題のある場所に出会って、そのカラクリを伝え、行くところ行くところでちゃんと場が用意されていたのです。僕は仕事をしていると思っていたら、仕事は単なるきっかけであって、「道とは生活であり、それは生命の成り立ちである」と気付いたから、自分で計算しないようになりました。

今、目の前にあることが天の与えた道です。なぜなら目の前にあることで今日自分が一日動くと、地球の一自転に付き合うことになるのです。一年生きたら、地球の一公転に付き合うことになるのです。それは二度と同じところへは行きません。常に新鮮なところへ行くのです。ですから、常に新鮮な心でそれを受け取らなければいけません。僕はお釈迦様からそう伝えられました。

だから、「自分はこうするべきなのではないだろうか?」と思わないことにしたのです。そうすると、確実に新鮮な毎日が来ます。

お釈迦様はさらにこう言われました。
「わたしの時代は、そのような苦行の道を歩む時代だったが、それは道が観えるための働きであった。ただ、わたしの時代の人々は、心がまだ美しかった。人々には、正しいことを正しいと言えば、正しい方へ行こうとする仏の心がまだ残っていた。しかし、そなたは今の世に生きるゆえ、人々に正しいことを伝えても、世の中には正しいがいっぱいあって、人々はどれが正しいかわからない時代になっている。わたしが苦業を通して苦を味わい切り開いた以上に、そなたが道を歩むことは苦と出会うことであり、それはわたしの時代よりもたいへんなのである。その時代に真実を伝えることは、並大抵の覚悟ではできない。そのような覚悟を持っていけ。もしおまえがわたしの道を受け継ぐと言うならば、その先を行けばいい。だから、わたしの道を真似ることは一切いらない。」
道というものは、常に受け継がれていくものであり、時代と共にあって、新たに生まれ変わっていくものなのです。そこに共通するのは、志のみ。その道を継承する者は、常に前人未到の道を歩むことになります。それがこの宇宙の実相を歩む者の姿勢なのです。

 


お釈迦様の時代の悟りから、新たな時代の悟りへ

ある日の大人会議で、「いさどんの七夜物語」シリーズ第六話がシェアされました。

 
こうちゃん:
この七夜物語の第六話には僕のことがたくさん出てくるんだけど、自分を振り返ってみると、あのころから比べて意識的にとても変化したと思う。これはとてもいいなというか、誇れるというか、今日読み合わせた七夜物語の第六話の中でいさどんが話した境地までは、まだ至っていないと思うけれど、この先が楽しみだと思います。
これを読んで、みんなは「自分が主役であること」や「一人一人が全体性を持つことが大切」と言っていたが、それと同時に僕が思うのは、こういった意識を七夜物語のところからずっと育ててもらったのだと思っています。
この意識を日常でいつも持っていたら、常に自分が主役であるという意識を持つことや全体性を意識して心がけることに加えて、世界観を広げる意欲があれば、その延長に着実に歩んでいることを感じられるし、今度アンテナショップもできることになったので、そこにこの心をもっていけば、外の人たちに異次元空間は提供出来ると思っている。

いさどん:
人間に生まれてきた「性(さが)」、これを人間性といいますが、その人間性は生きているとどのレベルかということが問われます。人として生まれてくるものの特徴は、思考回路が複雑で、願望を持つようになり、さらに願望を膨らませることもします。そこに、長年生きてきた結果しみついた心の癖(カルマ)に翻弄されて生きれば、さらに複雑な生を生きることになります。
そういった生を通しての経験は、垢を取り去り、意識が高まって高次元の美しい人生を生きるようになるのが本来の在り方ですが、人間の性(さが)というのは低い次元の状態でいると、しみついたカルマが垢として、高次元の美しい人生に到達することの障害物にもなるものです。そして、そこで得た経験やものが執着となり、さらに人生の足かせになっていくものなのです。

現代社会において、高い地位や優れた能力を発揮し、評価されているような立場の人々が、その立場に相応しい立派なことを語っていても、その人の奥にある精神性が、自我そのものであるということが今の世の中にはたくさんあるのです。優れた能力を発揮したからといって、その奥にある性質により、その人自身の霊的な価値は図れないのです。結果それでお金儲けに走ったり、その立場に執着するようであれば、世の中に混乱をもたらす原因にもなるのです。

それは、今の時代の成功者として評価されているリーダーたちや、政治家、経済人、宗教家、教育者などなど、そういった人たちが多いのです。そのような人々は、自らの内側に向き合い、自分の魂を潔く禊ぐくらいの精神を持っていかなければ、自らは善い行いをしていると思っていても、世の中には混乱をもたらす原因となり、霊的には罪人にもなるのです。

そういった現代のからくりが、今ひも解かれる時を迎え、社会ではその裏側が各方面で暴露されてきています。パナマ文書はその一つの事例です。そのような現象は、今地球のマグマが活動期に入り、世界中の火山が活発に活動し始めたように、それはある意味、精神世界の火山が噴火し始めたようなものです。このような世の中の闇の部分は、これから益々暴かれていくことになるでしょう。

そういった時代を表現する人間の性(さが)に対して、その昔お釈迦さまは仏法を通してどのように道を示したのでしょうか。すべては、自分という認識が成立することによって世界を解釈し始めることから始まります。人のすべての解釈は、自我の成立から始まり、その自我の位置を基準としてそれを尺度とし、この世界を図り始めます。ですから、始まりの始まりは自分というものの成立から始まっているのです。

一体全体、人間とは何者なのでしょうか。そして自分とは何者なのでしょうか。ほっておけば悩むし、ちょっと迂闊にしていれば腹も立つし、妄想も膨らませれば、願望も膨らみ、それに囚われればことが成らないといって萎縮もするし、ことが成れば自信過剰にもなる、感情の荒波に翻弄される複雑な存在です。それが、それぞれの個体で個性的な特徴を有し、無数に存在しているとしたならば、このような不可思議な生き物がほかにいるでしょうか。

そんな人間の中の自分というのは何なのか。自分が存在するばかりに、この世界を解釈するのです。その解釈は、人間の数ほど尺度があり、人間の数ほど物事の捉え方が違うのです。それを客観的に観察すると観えてくるものがあります。その目線は、自分というものの自我の窓を通してしか外が見えない。どんなことをしても、自分以外の窓から見ることはできないのです。そして、この自分というものをどのように捉えるのかというと、お釈迦さまの示された道はネガティブモードの道だったのです。

その道の始まりは、生老病死に始まり、人生の全ては四苦八苦なのですから。だから、この世界に生まれ存在することの全てが苦痛であると、説かれたのです。そして、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から離れるためには、どうしたらよいのかと考えたのです。そこにはたくさんの理屈があるのですが、結局は自我という尺度を持っているから苦しみに出会うのだと結論づけています。そして、諸行無常、色即是空と説いたのです。

しかし、そのような苦痛からの解放を求める境地のものに、手法としてこのように思えばいいんだと伝えたところで、その思いが湧き出す自分がいる限り、思いは湧いてくるのだからどうしょうもないのです。そこでどのように瞑想をしたところで、その結果は迷走に繋がることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものだからです。このような体験をいくら積んでも、その思考形態で生きていること自体、四苦八苦を産み出す仕組みの中にいるのですから。
そこで、どうしたらいいと思いますか?

A子:
死ぬ。

いさどん:
死ぬ?違うよ。死ぬんじゃないよ。反対だよ。

B男:
生まれなければいい。

いさどん:
そう。お釈迦さまは、生まれなければいいと示したのです。生まれなければこの苦しみを体験することもなく、結果この苦しみから解放される。お釈迦さまはネガテイブですね。(みんな笑い)

生まれてきたが、人生で出会うのは四苦八苦で苦痛の道だから、ここから逃れるためには、生まれなければいいということになります。生まれてくるということは、肉体という特定を得、自我というカルマが発生し、それにふさわしい自我の人生を生きることにより、それが次のきっかけとなり、また生まれてくる。何回も何回も生まれ変わって輪廻を繰り返すのだから、そのけじめのない輪廻に嫌気がさし、生まれないためにはどうしたらいいのか、又はなぜ生まれてくるのかを考えたのです。そうして行きついたのが、「自らに囚われ、執着する心に自我が成立することにより生まれてくる」ということ。それが人間の性(さが)なのです。

ところが面白いことに、13000年前の叡智であるカタカムナでひも解いていくと、ヒトという境地に至った存在は、完成された悟りの境地のものを指します。そこでは、「ヒトであるということ=この世界の始まりから終わりまでを悟り、統合している者=悟っている状態」と示しています。それは本来、仏教で言う、生まれてくることのないもの、もしくは生まれてきたとしても、人の性(さが)に苦しむようなものではなく、自我を超越した存在(菩薩)と示しているのです。

ところがカタカムナの後の時代、今から2500年ほど前、お釈迦様が道を示すために役割をもらって降りてきたころには、「人間は生きることにより四苦八苦するものである」というように人間性は固定されてしまい、世界は特定の王に支配され民衆には希望のない混沌とした時代だったのです。「生まれてくることがいけないんだ」と、生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから、少しでも功徳を積んで生まれ変わり良い人生が生きられるように願うようになっていったのです。
さらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望をかなえる道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

中国の天盤の巡りで示されているのは、地球上に宗教観がもたらされたのは、今から約3000年前のことなのです。そういった歴史の流れから捉えれば、そんなに古い話ではないのです。そして3000年の時を経て、天盤の巡りで示されているのは、時代は今宗教の時代を終え、新たな時代を迎えようとしているのです。その新たな時代を生きる人々は、生きることに、願望をかなえたり救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、願望(自我)に翻弄されることなく、救済される必要のない高い意識の存在(菩薩)となるのです。
そうするとこれからの時代は、宗教の時代に示されたような、「人として生まれ、人の性(さが)に翻弄され生きなければならない」というネガティブな感情からの解放ではなく、自我を理解し自我に翻弄されることなくコントロールし、その個性を有効に生かし、高い意識のもとに自らにも他者にも有益な人生を生きる人であることが望まれるのです。

3000年の宗教の時代を経て、人々が新たな時代を生きる人間性になったとき、「性」という字を「サガ」と読むか「セイ」と読むかの違いが示されてきます。そこではセイという読み方は「聖なるもの」のセイに通じることになります。そしてセイという示しは交わりの性に通じ、全ての生命の始まりのセイであり、宇宙の根源の働きに繋がるものです。そういった秘められていた仕組みが今、解き明かされ、その時代が今訪れたということになるのです。ですから、宗教の時代のお釈迦様は人々に悟りを説いたのですが、今新たな次の段階の悟りを人類は迎えようとしているのです。そのことに気づき、私たちは社会の先端を生きているのですから、そういった自覚の元に、自らと向き合って生きていきたいものです。

今日「七夜物語」の第六夜を聞いて、晃ちゃんの話がたくさん出てきましたね。晃ちゃんの精神性の成長のプロセスの一段階を見ました。晃ちゃんは、第六夜に出てくる自らの段階をみて、「自分はあそこにいたんだ」と振り返りました。そして、あそこからここへ来たんだと気づいたときに、いさどんがその後にその次の段階の話をしてくれました。そこでまだ、次の段階には至っていないけれど、以前のもっと下にいた時から今の段階にいることの意味がよく分かり、そこを目指すんだという希望が生まれた、と言っていました。

人間というものは、一人一人個性的な人間性という性を持っているのです。お釈迦様の時代は、生まれてくると四苦八苦を繰り返し生きることの結果、わかればわかるほど生きることはつらいと解釈しました。そこで、「じゃあ早く死のう」という発想になるのではなく、四苦八苦の原因を消滅させずに死んだところで、またそれが原因となって生まれてくることになり、また四苦八苦を生きることになる。ということなのだから、生きることを吟味して生まれることのないようにしましょう、という道を示したのです。この道理はそういった生に対する認識の時代にはその通りですが、それがその時代にふさわしい道理と捉えるならば、今の時代には今の時代にふさわしい道理が求められるのは当然のことです。

2012年の12月21日25800年ぶりの「銀河の冬至」を迎え、時代は闇のピークを越え、今私たちは、人間性の愚かしさのピークも観たわけです。この時代には、戦争で示されるような物理的地獄もあれば、人々の心が創り出す闇の世界もあるのです。

最近の注目すべき話題として、日本で行われる伊勢志摩サミットを機会にアメリカのオバマ大統領が70年前に原爆を投下された広島へ初めて訪れることになっているのですが、オバマ大統領は、大統領就任後に核廃絶を訴えてノーベル平和賞を受賞しました。しかし、自国の核にすら何らの対策もうたないままに、世界は核の緊張の上のパワーバランスにより、北朝鮮の核開発が進むことを誘発するような現状のままにあります。その結果、辻褄を合わせるように今回の広島訪問が実現したようにもとれます。そういった出来事も含め、人類の心の闇も極みのところへ達し、世界のリーダーや、聖職者と称される人々が現代社会の行きついた矛盾の根源であることが観えてきました。それを時代が示していると受け取れます。

そういった表面的に取り繕った見せかけの平和を唱えるのではなく、このような現状を踏まえて、ターニングポイントを超えた次の時代の聖なるものとは、どういった精神に基づく探求であるべきなのかが、これから人類が目指すべき方向性です。人間に生まれてくると、人間性という人間であることの「定め」がついてきます。人間に生まれてきたら、ほかの動物とは違って、自らを認識する、考える、願望を持つ、膨らませる、叶える、喜ぶ、ということをします。そういった願望がかなわない時には、悲観することもします。その時に我々の喜びというものは何なのかというと、今までは全部損得勘定です。この損得勘定というものは、次元によって質が全く違うのです。物理的な損得に基づく損得勘定もあれば、自らの霊的な価値が積めるか積めないかという損得勘定もあるのです。

そこが観ているところの違いで、こうちゃんはさっきの第六夜の話を聞いて、去年の9月ごろの自分に立ち返って、こういった喜びや豊かさがあるんだ、という心境になりました。そういった心境に至ったときに、人はモノやお金に縛られることから解放されます。そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長して豊かになっていくことを通して、お釈迦様が道を示された頃の時代のようなネガティブな悟りではなく、「ヒトとしての本来の悟り」に至るのです。

それは地上を生きるものにも、天に存在するものにも共通して有効なものです。お釈迦様の時代は、「人として降りてくると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか大変増えて、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望の感情におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は混乱の極みに達しているのが現状です。

本来ならば、そのようなろくでもない人間は、地上の理想を目指す目的からすると不必要なものとして淘汰されるべきものです。ですから、人々が天意に沿って生きていたならば、人が生きることにより自らを磨き高め、本当に必要な魂だけで地上は安定した世界になっていくはずなのです。そして、そういった世界では本当のヒトが世界を創っていくことになります。地上で生きるにしても、「ヒトでなし」ではなくて、ヒトにふさわしい人が生きる時代がこれからの時代と考えた時、これからの人たちの損得勘定は自らを高次に導き、自らが納得し誇れる生き方をするべきです。そして天とともにクニツクリをし、地上を豊かにし、みんなが楽しみ喜べる、嬉し楽しの世を開くために生きるものであるべきです。その喜びが、自らの願いであり意志として生きるものになったときに、これこそが、新たな時代の人々(菩薩)の姿なのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めて仏陀となった時代だったのです。それが優れた聖なる人の見本になりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」とお釈迦様の言葉にあるように、一人一人の精神が天意に目覚め、全ての人々が仏陀としての自覚をもって生きていく時代です。

そういった時代の幕開けを感じとったとき、そのような景色を観、そのような喜びにこうちゃんは出会ったのでしょう。こうちゃんおめでとう、ということなのです。おめで統合だね。(チ~ン♪、笑い)

丁度今、木の花の精神性を表現した発信基地としてアンテナショップの計画がありますが、このアンテナショップでは「あれ~ここはどこだろう。これは何だろう?」という不思議な雰囲気を体感できる場所を目指しましょう。そして訪れた人々が「ありがとう」と言って帰っていくときに、何か懐かしい想いを感じ、また帰宅なるところにしたいものです。そこは、本当の自分に出会え、自分の家よりも居心地がよい場所にしたいものです。そしてその場所が、物理的な場所だけではなく、心の居場所であったならば、たくさんの人がみんな帰宅なるでしょう。それは、私たちは元々そこ(心の故郷)から生まれてきて、今まで忘れていただけなのですから。そういった場所をこれから創って世の中に提供していきましょう。

こうちゃん:
3000年前からの流れ、お釈迦様の教えも金神様が言うように、今の時代になっては、人々の意識の内では逆さまになっていたということだね。

いさどん:
そうだね。「まさしくこの世は逆さまじゃ」ということ。今の人間たちは、たくさんのものや価値を所有しているでしょ。そして、本当が観えない世の中になっている。これから、それが全部ひっくり返って新しい価値観の新たな世が始まるぞということで、本当に「嬉し嬉し、楽し楽し」とみんなで共に生きていきましょう。

 

 


533(いさみ)ナイトより②「信じる心で生きていく」

僕は30歳のときにお釈迦様との出会いをいただくようになり、その後育っていくためのいろいろなプロセスを経て、32歳からたくさんの人々を対象によろず人生相談を受けるようになりました。何でも相談を受けるということは、僕がどのような話にも乗っていくからです。たとえば会社の経営が上手くいかないとか、人事をどうしたらいいかとか、進学・就職・恋愛問題はもちろん、家庭不和・子育て・病気の相談まで何でも相談に乗って来ました。あの当時不思議だったのは、僕は自分で答えている意識がないのです。口が勝手に動くのです!お筆先ではなく、僕の場合は「お口先」でしたね♪今でも時々そんなことがありますが、話していると新しい発想が湧いてくるのです。そうすると、自分がそこから学びながら話しているときがあります。当時はまったくそうでしたね。だから話したくて仕方がないのは、自分の口から出てくることを学びたかったのです。

そのときに、自分の口から出てくることを学ぶのですが、そこには未熟な自分もいて、囚われた自分がそれに抵抗するのです。ですから、降りてきた発想は優れていることばかりなのですが、それを自らに囚われて受け取れない自分に苦しんでいる時代があったのです。31歳から33歳の2年ぐらいはとても辛い時代でした。当時は苦しくて、ひとりになると毎日泣いていましたね。泣くどころかもっとひどいときは、自分の頭を自分のこぶしで殴ることもありました。でも、それは頭が痛いだけで、何の解決にもなりませんでしたけどね(笑)。

当時、特に夜、仕事の帰りにひとりで車に乗っていると、車の中でしょっちゅう泣いていました。時間が遅くなればなるほど、道路を走る車の台数も少ないので、まわりを気にすることなく、いろいろと想いを巡らせていました。そうやって自らの想いを巡らせ、それに対して天から答えをいただくと、そこに抵抗する自分が出てきて辛くなるのです。それで車を走らせながら、「わーーーっ!!」と大声をあげながら、顔は涙でくちゃくちゃになることもありました。そういったときに赤信号で止まると、たまたま隣に止まる車もいるのです!僕がすごい顔をしているので、隣に止まった車に乗っている人は僕の顔を見て、「えっ?!何あれ!!」と驚いていることもたびたびありましたね(笑)。

そのような日々を送っている中で、ある日の午後、僕は県道春日井・岩倉線の延長に岩倉から一宮に抜ける道を東から西へ向かって走っていました。一宮に入って間もなく、名古屋から岐阜に向かう国道22号線(通称名岐バイパス)の交差点に差し掛かり、赤信号で止まったのです。正面右向こう角には名岐ボールがありました。そこへ差し掛かる少し手前から、僕は天に向かってその当時自分が抱えていた天に対する不満を投げかけていたのです。

「わたしはこの道をいただき、その道が尊くありがたいことであることを自覚しています。ですが、わたしはその道をいただき、未熟者ゆえ、今苦しんでおります。もし、あなたがわたしにその道を選ぶことを尋ねてくれていたのであれば、わたしにも選択肢があったはずです。しかし、あなたはわたしに何の投げかけもないままに、わたしはこのような道を与えられたのです。それにはすべて同意の心を持っているのですが、一方で自らの囚われに執着する自分がいて、毎日苦しんでいるのです。わたしがこのように辛い想いをしていることはおわかりになるでしょう?もし、最初にわたしに断ってくれれば、わたしにも選択肢はあったはずです。それなのに人を無視して!!何ということをするのですか!!」と不満を言っていました。(そのときちょうど、名岐バイパスの赤信号で止まりました。)

するとお釈迦様から一言、こう返ってきました。「ならばこの道、やめるか!」

それを聞いて、僕は次のような感情が湧いてきました。「何を言っているのですか!!この世界にこの尊き道を知らずして行かぬ者はたくさんおります。けれどもひとたびこの尊き道を知って、行かぬ者がおりましょうか。あなたは何を言っているのですか!!わたしが不満を言うからと言って、やめるということはないでしょう!わたしは絶対にこの道をやめません。どんなに辛くても、やめません!でも、わかってもらいたいのです。わたしは今、辛いのです!!」

よく考えてみたら、「それなら不満を言うな!」ということなのですが(笑)。しかし今、僕がそれを逆に与える側からの目線で観たら、「だからおまえ、超えられないものを超えればいいのだろう?おまえはそれをやめたくないのだろう?」ということなのです。「やめたくなくて、それを超えたいのだろう?」と問われれば、「はい」ということになります。そうしたら、「超えられないと言って苦しいのは誰のせいなのだ?」ということになりますね。みなさんも自分のことのように思いませんか?僕にもそういう時代があったのです。31歳から33歳の2年間はそのような時代でした。

みなさんは幸せですよ♪なぜなら自分のぐだぐだを聞いてくれる生の者がいるのですから。(いさどんは自分を指差しながら)これは生ですよ♪しかし、僕に降りてくるものは得体が知れないのです!これは悪魔かもしれませんよ。そういった不確かなものに対して、僕はこの道を歩んできたのです。「信じる」ことがどれほど難しいか。それが降りてきたときに、僕の中には疑う心があったのです。疑う心があっても、この道は絶対やめてはいけない――と思いながらこれまで歩んできました。

それは僕たちが富士山に移住してきたときも同じです。この意味のわからない生活を始めて、これがどうなるのかなんて、まったくわかりませんでした。どこの農家でも息子に農業を継がせたくない時代に、若い女の人が農業をやっているだけで、「畑に20歳の女の子がいるから変だ!」と言う人がいたり、世の中が核家族になっていく風潮の中で、「集団で暮らしているから変だ!」と言われることもありました。当時の日本は何でも既製品の時代でしたから、変わったことをやると変だという時代だったのです。しかし、僕たちはいくら変だと言われても、まったくわけがわからなくても、大切なのだという心だけでここまで歩んできたのです。それが「信ずる」ということです。

答えがこうだったらやってもいい、という考えは信じていることにはなりません。ある意味、僕は不幸でしたね。何しろ、自分の歩んでいる道に確信があるわけではないのですから。僕が30歳のときに黄金のブッダが現れたとき、なぜそのようなものが僕のところに来るのか、意味がわからない。尊いとは思うものの、自分にそれだけの価値があると思わないし、ではなぜ僕のところに来るのか。僕の通知表はすべて3だったのですよ(笑)♪死にたいくらい、とりえがなかったのです。それなのに、そのような尊いものが僕のところへ来たのです。しかし、尊いことを図れる秤はありません。そこにある、それだけで尊いのですから、理由はないのです。

僕はひたすらわからない道を歩んできました。わからないけれど、いつも大切だという心で歩んできました。そして歩んでいった結果、その答えがいつも用意されているのです。だから、答えは歩んでいった先にあるのです。とかく人は先に答えをもらってから歩もうとしますが、それでは信仰の境地に到達できません。まず先に、信じてから進まないといけないのです。

これは生の話です。オリジナルな話です。どこかの本に書いてある話ではありません。イエス様でもお釈迦様でも、このような聖人と呼ばれる人たちは皆、物語になってしまっているのです。しかし、僕は知っています。この人たちは怒りもしたし、悩みもしたし、苦しみながら生きていたことを。生の人間をやりながら歩んでいったことを。

だからどこかで僕は、それが前人未到の道であるならば、先を行く者の辛さがわかるのです。逆に言えば、それだけやりがいがあるのですよ♪それを大切だと思えば、誰もやっていなくても、後から来る者たちのために自らの人生を賭けることができます。そこでは、自分のための道はないのです。あるとしたら、自分の人生が終わったときに、やりきったという満足感が自分のための道だと思います。

 

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by 木の花楽団

 

 


一瞬一瞬新たな自分に生まれ変わる〜4月8日お釈迦様の誕生日にて

4月8日、木の花ファミリーメンバーのゆう君とあきちゃん、そしてお釈迦様の誕生日を祝って、みんなでハッピーバースデーを歌いました。ゆう君とあきちゃんが誕生日を迎えてコメントをした後、いさどんは以下のように語り始めました。

いさどん:
今、みんながハッピーバースデーを歌ったので、4月8日が誕生日であるお釈迦様から言葉がありました。

お釈迦様の言葉は、僕の言葉という自負心をもって生きています。なぜ一年を区切りとして誕生日とするのでしょうか。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。

お釈迦様が伝えられたことは「目覚める」ということ。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。

それもそうなのですが、実際には少し違うのです。ここでの目覚めるということは「悟る」ということ。悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。

般若心教では・・・
「色即是空 ……(※ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」

今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つと
この世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン♪ 笑)。

そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。

今日お釈迦様の誕生日を祝い、あきちゃんとゆう君が誕生日にあたってコメントをしたので、今、僕はお釈迦様に代わってコメントしました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。

己と宇宙は区別することのできないもの。

これは大それたことでしょう。今日を誕生日とすることは、一年を区切ることであって、振り返ってみれば、わたしたちは皆、何年何月何日の何時何分何秒に生まれてきたのです。実は、毎日誕生日が来るのです。誕生日だけではなく誕生秒がきて、誕生分、誕生時、誕生月がくるのに、なぜ一年にたった一日だけを祝うのか、と言われました。

ゆう君:

いさどんの話を聞いていて今、思いついたことは、全員死神に迎えに来てもらうといいなということです。それは、「今までの自分が死んで、新たな自分が生まれる」という意味です。

いさどん:
それが誕生日の意味です。今までの区切りなのですから、どのような区切りでも、今までの自分が死んで、そして新たな自分が生まれるのです。極端に言えば、一秒一秒今までの自分が死んで、新たな自分に生まれ変わることができるのです。
ある意味、死ぬことは「絶対救済」「完全救済」です。死とは生きることの終着地点ですからね。生きる目的の全ては死(四)へ向かっているのですから、五、六、七、八、九、十はないのですよ(笑)♪