延命治療から観る死生観

現代医療が進んだ今、私たちには終末を迎えた時、延命治療をするかしないかという選択肢があります。先日、知り合いの方から、「今、私の家族がお医者さんから『延命治療を受けなければ命が助かりません』と伝えられています。以前より本人の意志としては、延命治療を受けて植物人間のような状態にはなりたくない、という希望だったのですが、今は意識がない状態です。そこで、天上界の視点からすると、延命治療をどのように捉えたらよいのでしょうか?延命治療を受けないことは自殺と同じことになるのでしょうか?」という質問を受けました。

以下は、相談を受けたジイジからその方へのメッセージです。


 
まず、「植物人間になりそうな状態」と、「植物人間になってしまった状態」は違います。「植物人間になりそうな状態」というのは、まだ植物状態ではありませんので、当たり前のこととして、いのちが継続していると考えられます。しかし、「植物状態になってしまった」ということは、昔の治療ではいのちがない、という状態です。

ここで大切なことは、そのときのその人の状態を観て判断することです。私の場合は、その人に直接接してみたり、遠隔で感じてみて、「この人の魂はもう向こうに行っていますね」と判断したり、「今現在、魂はまだこの人の中にいますね」と判断することもあります。それはそれぞれのケースによって様々です。ですから、それを一概に言うことはできません。

今の世の中には、「延命治療はしない」という考え方はあることはあります。ただ、一番良いことは、生きている間に本人の意志を確認できるものを用意しておくことです。医者が家族に「延命治療は希望しません」と言われることはよくあるはずです。ただ、どのような病院かによって、病院の方針として点数を上げるために延命治療を頑なに行う病院もあります。そのあたりが難しいところです。

霊的なことを言えば、物理的にいのちはつながっているとしても、「この人の魂はすでに肉体を離れています」というケースはあるのです。

あなたの場合、ご家族が延命治療を希望しないということであるならば、お医者さんに「私たちの希望は、できるだけスムーズに旅立たせてあげたいのです。本人にも、以前よりそういった意志がありました。ですから、延命治療はしないようにお願いします」という意思表示はするべきだと思います。

このケースは、天上界から観なくても、地上の都合だけを考えても、本来人が植物人間でいる状態というのは不自然な状態と言えます。たとえば、本人の意志で自殺した場合、多くの魂は天上界には行けませんが、その人が延命治療を受けるかどうかについては、地上の都合で行われるものです。ですから、延命治療については、天上界の視点という話ではなく、地上の都合での話です。延命治療を受けないからといって、それが自殺になるわけでもなければ、殺人でもないということです。延命治療というものは、本来いのちがないものを人工の技術が進んだがために、永いこといのちが保てられるようになった、というだけのことです。

もし、延命治療を希望しないという本人の正式な遺言があるならば、病院ではそのような手続きで進めてくれるでしょう。そうすると、それは自殺ではなく、いのちがないから永らえない、という自然に則ったことなのです。それを永らえることのほうが不自然なことです。

それよりも、今のように旅立つ人をあなたのように送る家族が気にすることが一番の問題です。送る家族が執着を持つのであって、亡くなる人というのは自らの魂が旅立てば、執着はなくなり、死後のプロセスに入るのです。それを、送る家族が「どちらにしたらいいのだろう?」「良い選択肢を選びたい」などなど、亡くなる方の後ろ髪を引くようなことが、旅立つ人の迷いのもとになるのです。

一番大切なことは、亡くなる人がどのくらいの意識レベルにいるかということです。本人に自覚があれば、まわりの人に執着があっても、自分でスムーズに旅立っていきます。しかし、そこまでの意識が本人になければ、送る側が気持ちよく送ってあげることです。そこで「どうしよう?」「良い選択肢は何だろう?」と迷っていること自体が、送る魂を迷わせることになります。そこがポイントです。

 


このメッセージを受けて、相談者の方は「ありがとうございます。木の花ファミリー通信の死生観を、まずは家族にシェアしたいと思います」とおっしゃっていました。

それを受けて、ジイジには次回の木の花ファミリー通信の冒頭の文章が湧いてきました。


 
ジイジ:
次回の木の花ファミリー通信は死生観の第4部で、死生観シリーズの最終号になる。そのテーマは、生命の源である「性」ということになっている。

「死生観」というと、死というものが先にあって、人の生死について捉えている。生きていることを前提にすると、死が先に訪れるようだが、当たり前に私たちは生まれたということをスタートにして、死を迎えている。そうすると、死生観は、「生死観」という概念になる。そこで、「今、自分自身が生きている」という概念から離れ、人生を客観的に捉えたとき、「生死観」と言うことが自然になる。

人生をスタートする生というのは、自分の受け皿となった両親すなわち男女の性の交わりによって、宇宙の根本原理である対向発生による行為により、この世界に迎えられている。そういうことからすると、死生観の締めくくりとして、性の話が出てくる。だから、死生観の始まりに性があると捉えることが自然だ。そういった生(性)に対する認識の違いは、死生観の逆転現象となり、今の世の中の逆転を生んでいる。

さらに人生に対する視点を引いて客観的にその流れを観ると、生があって死があるのか。それとも死があるから生があるのか。卵が先か、鶏が先かという我々の物質世界の定めと同じように、始まりと終わりは連綿と続くサイクルであって区切りがない。そのように捉えれば、死生観でも生死観でも同じこととなる。だから、死生観と固定するものでもなくなる。

みちよちゃん:
面白いのは、英語だと「Life and Death」といって、生が先に来る。

ジイジ:
それは近代生命学の捉え方で言えば、生まれることの延長に死があることになるから、その順番になる。ところが、日本人は「死生観」といって死を先に置いているのは、何か日本人の伝統的な考え方の中に「死というものは終わりではない」という捉え方があるからだろう。私たちの生にまつわる物理的現象の一から十までのプロセスをたどるとしたら、九のあとは十ではなく・・・0ということになる。一二三四五六七八九で、次は次元が変わって0に行く。そうすると、生が一になる。一二三四五六七八九でひとつのサイクルが終わり、0の段階に入って、一二三四五六七八九・・・と捉えられるのではないか。つまり、九に行って死を迎えると、0になる。そうすると、それはリセットで、また始まるという考え方がそこに秘められているのではないだろうか。

ようこ:
日本人の中には輪廻転生の捉え方が自然と組み込まれていて、西洋だと、たとえば近代キリスト教にはその捉え方はない。一回の人生で終わりと考えられている。

みちよちゃん:
それに対して日本人の死生観は、死んだらそこがスタートで、そこから準備をして次の生につながっていく。

ジイジ:
だから、0というのが準備期間と捉えれば、0一二三四五六七八九となる。

ようこ:
0は何もないみたいだけど、そこには大切な何かがある。

ジイジ:
0があるからこそ、一がある。いきなり、一にはならない。一になるまでの準備期間が本来ある。

ようこ:
0と一二三四五六七八九は、潜象界と現象界のような存在?

ジイジ:
それは潜象界と現象界の話ではなく、現象世界にその仕組みがあるということ。それでも、カタカムナで捉えると、カタカムナはヒから始まる。ヒフミヨイ・・・

そうすると、それがひとつずつずれている可能性がある。ヒは秘かで、まだ動きが何もない状態だから、0とも言える。そうすると、ヒが0とも捉えられる。それで、フの段階で初めて動き出すから、フが一となる。だから、九で統合ということになる。そして、また0に戻る。

みちよちゃん:
それは、日本の数え年と同じような概念だね。

ジイジ:
そうだね。ヒは秘かで、ものの始まりだが、何もない状態。フで初めて動き出す。そうすると、フを二つと捉えるかどうかは微妙なところだ。そういう微妙な位置ということなのだろう。

みちよちゃん:
西洋的と言っていいのかはわからないけれど、細胞分裂的に考えると、ヒは秘かで、あるかどうかわからない状態だけれど、フで細胞分裂が二つになっていくと考えると・・・

ジイジ:
それは、おそらく楢崎皐月が西洋的な物理学者だったから、そのようにしたのだろう。明らかに、ヒはまだ何もない、秘かな状態だ。しかし、楢崎はヒフミヨイ・・・を一二三四五六七八九に当てはめたから、そうなったんだよ。

こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。

 


 

宇宙の真理の探究はどこまでも続きます。次回の木の花ファミリー通信は2018年冬至に発行されます。性の真実が紐解かれていく次回号をお楽しみに♪

 

 


手かざし(スピリチュアルヒーリング)

 
【他者にヒーリングを提供する場合】

手かざしは、人に内在する能力として、人々の健康や意識の向上に役立つものです。ですから、手かざしの正しい手法とそれを行なう時の姿勢を整えて、社会の健全に役立ててほしいものです。この手法は、私が今まで手かざしを行なう際に培ってきたことをもとに紹介します。

まず、手かざしをする時、そのエネルギーはどこから来て、どのような仕組みなのかを説明します。はじめに、目的の部位から適度な距離を置いて右手をかざし、同時に、眉間のチャクラを意識し、そこから斜め上45度に向かって、これからその行為を行う意志を天(大気)に発します。その際、目は半眼の状態を保ちます。それは、あくまでも、体は気の通り道として利用するものであり、この行為に思惑を乗せないことが目的にあるからです。
そうすると同時に、頭頂チャクラから大気のエネルギー(プラーナ)が頭部を通って体の中に入ってきます。その場合、体は気を圧縮するコンプレッサーの役割を果たします。その気のエネルギーは体の中で圧縮され、圧縮された気は右手の平から部位に向かって流れます。その時、想いを乗せて手の平に意識が行き過ぎると、流れに無理が生じます。この所作の目的は、大気の生命力を気として体内に取り入れ、それを圧縮し、強い流れとして、対象の不健全な細胞配列を健全に整えるものです。そのために、眉間チャクラから意志が発せられ、頭頂チャクラから大気のプラーナ(生命力)を取り入れ、体の中で圧縮し、強いエネルギーの流れを手の平から発する仕組みをよく理解し、イメージすることが大切です。
また、目的の部位を両手ではさみ(両手は部位から適度に離す)、右手の平から強いエネルギーの流れが発せられることをイメージしながら、左手でそのエネルギーを引き込みます。その場合、左手に入ってくる負のエネルギーは、左腕の付け根(肩)で止めるイメージをします。イメージとして、正のエネルギーは体の中に取り込んでもいいのですが、負のエネルギー(毒・矛盾)は必ず左腕の付け根(肩)にフィルターをイメージし、そこで止めます。病気や矛盾を持っている人に手かざしを行うと、左腕の付け根が重くなってきます。ですから、それがある程度溜まってくると、左手の平を上に向けて空中にその毒・矛盾を解き放ち、一度リセットしてから、次の所作に入ります。

左利きの人の場合は、引き込む左手のエネルギーが強いのですから、右手の押し出す力を強めることになります。左は陰の側ですから、内に引き込む役割を果たします。右は陽の側ですから、外に押し出す役割を果たします。そこで、「押す」と「引く」の間に強い流れができ、その間に手かざしをする目的の箇所を置くことによって、その気の流れが人間の細胞の配列を正常にしていくのです。そろばんで計算した後に、ご破算にするようなイメージです。

これは対向発生の原理であり、互いの役割の違いを有効に生かしていくことになるのです。ですから、右利きの人も左利きの人も、右手(押す力)と左手(引く力)のどちらが主になるかの違いだけで、右から左への流れが変わるわけではありません。

さらに、手かざしを右手だけで行なうことも出来ます。その場合、右手の押し出すエネルギーをもって、目的の箇所に気の流れを当てることにより、細胞配列を正常にしていくという行為になります。

また、目的の箇所に手を当てて行なう場合は、「手当て」ということになります。「手かざし」の場合は、手かざしをする箇所から手を離すことによって、気の流れを創り、その間の流れを持って、目的の箇所の細胞配列を正常にします。ですから、手かざしは基本的には離してやるものです。

このように、人間の肉体に秘められた能力は、誰にでもあるものです。その能力を開発することは、日常生活の健全かつ社会の健全に大いに役立つものです。日本では、こういった行為が、宗教的な場所でご利益的に広められてきました。ですから、一般的に人の精神性向上や健康のために十分に理解されてきたとは言えません。イギリスなどでは、それをスピリチュアルヒーリングとして、医療機関も取り入れています。本来、人の優れた能力として、日常的にこういった所作を利用することは、個人かつ社会の健全において望ましいことであると考えます。

 

【自己ヒーリング】

ヒーリングの方法として、もうひとつの方法を取り上げてみます。一般に、人は生きていると、体に負のエネルギーを蓄えることになります。そういった場合、蓄積されたストレスや疲労を解消する手段として、自己ヒーリングという方法があります。それは、睡眠前など時間の余裕のある時に行うと良いでしょう。人の体に発生した負のエネルギーは、それを流し出し、健全で安定した状態にすることが大切です。一日の終わりのけじめとして、そういった取り組みをすることは、新たな日を迎えるにあたり、気持ちの良い一日を過ごすために大切にしたいものです。

自己ヒーリングの方法として、まず、仰向けになります。眉間チャクラから真上に向かって自らの意志を天(大気)に発し、頭頂チャクラから大気のエネルギーを受け取ることを意識します。両手の平は上に向け、両足は肩幅程度に開きます。その際、全身で天から降りてくる気を浴びることを意識し、全身の力を抜き、リラックスします。
はじめに、右腕から右手の平までを意識し、その日に活躍してくれた右手に感謝し、負のエネルギーを解き放つイメージで、手の平を軽く握り、ゆっくり開きながら空中にその負のエネルギーを放ちます。この所作はリラックスした状態で、エネルギーが解き放たれるのを意識しながら、ゆっくりと行ないましょう。「右手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、行なって下さい。その時に、細胞一つひとつを意識して感謝すると、日頃から細胞はそのように心を向けられることがありませんので、細胞はとても喜びます。負のエネルギーを放つ時には、同時に息を吐きながら行なってください。その際、まずは息を吸って、吐きながら負のエネルギーを解き放ちましょう。負のエネルギーを解き放つ行為は何回か繰り返し行なっても構いません。気持ち良くなるまで行なってください。
同じように、左腕から左手の平までを意識し、左手にも感謝し、負のエネルギーを空中に解き放ちます。細胞すべてを意識しながら、「左手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージし(口に出してもよい)、息を吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
次に、右足の付け根から足先までを意識し、右足に感謝しながら、右足の裏から負のエネルギーを空中に放ちます。「右足さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしましょう(言葉に出してもよい)。息を吸い、吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
同じように、左足についても行ないます。
次に、全身に感謝し、「体さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、息を吸い、吐きながら両手両足から負のエネルギーを空中に放出します。
最後に、頭を意識し、頭の中の思考を停止するイメージでリセットします。頭は思考がまわりすぎていると、ちょうど眉毛の上あたりが一番こっているものです。ここの筋肉を緩めて思考をなしにして行ないましょう。人が思考をする時には、必ず眉毛の上あたりに輪がはまり、この位置で思考を横にまわすようになっています。よく思考をまわす人は、この輪が強く締められています。ですから、これを緩め、なしにしていくことをイメージしましょう。その際、同時に全身の力も抜きましょう。全身の力を抜く時は、軽く深呼吸をして、息を吐きながら力を抜きます。そして、「ありがとうございます」と感謝しながら、思考エネルギーを眉間チャクラから空中に放出しましょう。
各部所で負のエネルギーを空中に放出するたびに、そのエネルギーが活躍してくれたことに感謝する意味で、「ありがとうございます」という言葉を添えて、放出したいものです。そのようにして、自らの中の一日に溜め込んだ負のエネルギーをすべて流した後に、もう一度、「今日一日、ありがとうございました」という感謝の心を込めて、全身を感謝の響きで包みましょう。これで自己ヒーリングを完了します。
イメージとしては、脳の思考をすべて空にした段階で、シャバーサナ(死体のポーズ)を意識するのが良いでしょう。シャバーサナのポーズに入ったら、出来る限り思考はまわさないように、全身の力を抜き、床に体がへばりつくような重力を感じてください。呼吸は常に吐くことを意識しましょう。最終的には、自分の体の質量がなくなり、体が空中に浮いていることをイメージします。そして最後は、無重力の宇宙空間に浮いているイメージをしましょう。星がたくさんある世界をイメージし、自分もその星のひとつになってみましょう。

そういった体に対する感謝の姿勢が日常の中で定着してくると、それを毎日行なわなくても、自動的に一日の終了時に無重力を意識するだけで、負のエネルギーをリセット出来るような人となります(ミノナライ)。

 

手かざしを行なうための心構え

手かざしを行なう上で理解すべき最も重要なことは、欲の心を絡めて行なうのではなく、人の内在する可能性を開発するために行なうということです。そういった内なる気付きを得るための機会にしたいものです。とかく人間は、健康になろうなどと、私欲の延長にそういった行為を行なうことにより、それが本来の人としての優れた気付きを得るためのものとは、違うものになってしまうのです。

そのためには、「私は空っぽですから、私をあなたのエネルギーの通り道にしてください」と天を意識することです。「治してあげよう」とか、「良くしよう」という私欲の意識を持って行なうことは禁物です。その場合、そこに自我が入ることにより、発せられるエネルギーはきれいなものとは言えないことになってしまいます。ですから、その発せられるエネルギーには、何も想いが入っていない美しいものとして、エネルギーの通り道を創り、それを圧縮して発しているだけの意識として行なうことが肝要です。

このように、ヒーリングを行なう時の心構えとして、私たちは対象に対して何かをやってあげるのではない、ということです。「やらせていただきます」の姿勢が肝心です。それはなぜかというと、そのエネルギーを対象に発することにより、自らの全身の気の通りを良くする効果につながるからです。人にやらせてもらうことにより、やればやるほど、自分自身の気の通りは良くなってきます。ですから、常に、「やらせていただいて、ありがとうございます」の心構えで行なうことが肝要なのです。

そもそも私たち地球生命は、身近なところでは空気を吸い、食べ物を取り入れて生きています。このように、生命活動を維持するために必要なことを行ない、いのちをつないでいます。いのちがつながっていくということは、生命力があるからです。いくら生命活動をつなげようとして、いくら呼吸をしても、そしていくら食べ物を取り入れ栄養を摂ったとしても、生命力がなければそれで終わりになるのです。生命力がないということは、簡単に言えば、寿命が来たということです。寿命が来たかどうかは別にしても、それは心臓が停止したというような、生命を維持するための機能が働かなくなったということです。

そもそも、私たちは生命力の源がどこにあるのかということを認識する必要があります。それは、呼吸にあります。呼吸というのは、単に酸素を取り入れている行為ではありません。空気の中に酸素はありますが、「空気」は「空(から)の気」と書くように、空気というのは空っぽで駆け引きも何もないことを指します。つまり、空というのは、美しさや純粋さ、始まりを示し、そのような気が地球を包んでいるのです。

地球と大気の関係を語るのに、卵の中身が地球だとしたら、その外側の殻の厚みが大気となります。それはとてつもなく薄いのですが、実は空気の層には100kmの厚みがあるのです。地球上で最も高い山はエベレストであり、これは約9000m弱の高さです。それよりも上まで大気の層はあるのです。この大気の層があって、下へ行くほど気圧が高くなり、上へ行くほど気圧が低くなります。気圧が高いということは、生命力が高いということです。ですから、地表に生命は湧くようになっているのです。

私たちは常に空気を吸うことによって、大気の酸素を取り入れ、循環の中の生命活動をしています。同時に、私たちは空気から「気」を取り入れています。人によって健康であったり不健康であったり、生命力が強かったり弱かったりするものですが、それはその人の空気を取り入れる姿勢にあるのです。たとえば、呼吸をする時に、私たちは吐くことを意識するようにしています。吐くということは、自らの中にあるものを空(から)にすることにより、新しいものが自動的に入ってくるということです。

台風が来ると気圧が低くなり、1気圧(1013ヘクトパスカル)よりも低くなれば、海面を押さえている力が弱くなるため、海面が上昇します。先日の台風21号は、945ヘクトパスカルぐらいで大阪湾に上陸した時、潮位が3mを超えるほど上昇し、過去最も高い潮位を記録しました。それぐらい、日頃から空気の圧が海面を押さえているのです。

そうすると、私たちは今、気圧を感じながら、自分の体を保っているのです。実は、その気は吐き出せば吐き出すほど、入ってくるものなのです。それだけ、私たちには圧力がかかっています。それを、「気をたくさん引き入れてやろう」と思うのは、すでに我や欲が働いていることになります。呼吸は、吐けば自動的に入るようになっています。それが、この世界の仕組みです。それに欲をかけると、さらに自我に汚れることになるのです。ですから、「吸ってやろう」と思わないようにしましょう。日頃生活している時でも、「得をしてやろう」とか「良い思いをしたい」と考えている人たちの姿勢は、それはすでにこの世界に生かされている姿勢から外れているということなのです。

では、どのような姿勢で生きることが望ましいのでしょうか。それは、「生かされています」「ありがとうございます」「いただきます」という心になった時、この世界で生かされている姿勢にふさわしいものとなるのです。はるか彼方、13000年前のカタカムナ人たちは、現代のようなテクノロジーもなかったため、生きていくのに自然の仕組みの中でその仕組みのままに生きるしか術がありませんでした。その時に、自らの種を存続させ、生を全うするためには、いろいろな危険がありました。気候ももっと不安定だったでしょう。危険な動物に出遭ったり、1年を生きる時に現代のような施設栽培があるわけではないので、その都度自然からいのちをいただく必要があったのです。そうすると、彼らは常に自然と対話しながら生きていました。ハワイの先住民たちも、星と対話しながら生きていたのです。それは、特別なことではなく、日常当たり前に行なわれていた姿勢でした。星と対話し、危険についても自然から察知しながら生きていたのです。このように、自然の中で完全に生かされていたので、人間の姿をした宗教的な神様など想像しなくても、その人が生きているのと同じ意識レベルに見えない存在を感じ、生かしてくれていることを知っていたのです。そして、それが宗教心の始まりだったのでしょう。それは、生きることに対して真剣かつ純粋な生き方でした。

私は手かざしについて考えた時、今までの宗教のようなご利益的なものではいけないと思っています。そこを慎まなければ、この行為の効力は発揮しないでしょう。私たちがこの生命世界の中で健康に生きる仕組みをよく理解した上で、汚れのない美しい心のもとに行なうことが大切なのです。もしくは、自分は汚れていると思った人が、自らの心がよりきれいになっていくために行なうことです。

今まで、私はあえてこういった行為を、積極的に行なうことも伝えることもしなかったのは、それがご利益的な世界につながることを懸念し、控えてきました。しかし、これも人間に内在する神通力のひとつです。宗教のように欲が入ると害も出ますが、内に発生した滞りをきれいにしていくだけの浄化作業としての意識で行なうならば、人々の健康に大いに役立つものです。そして、人間を正しくきれいにし、細胞の配列を正しくするという目的のもとに行なっていきたいものです。そういった意味で、このような行為も正しい道理のもとに互いに行ない合うことにより、絆につながることにもなるのです。

「健全なる肉体のもとに健全なる精神がある」とは言いません。「健全なる精神のもとに健全なる肉体が宿る」と言います。この世界は「陽陰」ではなく、必ず「陰陽」です。そのことを理解した上で、手かざしを行なうべきです。ですから、そこでは真剣な姿勢が求められます。

体の歪んだ細胞の配列を治しても、心を正さなければ、物事の根本的な解決にはなりません。心が原因として生命力は本来あるべきです。心が伴わない生命力は、人生の狂いの元となります。つまり、生命力の内容は心が伴ってあるべきです。それは、本来の生命のあり方に基づき、心もあるべきなのです。

そういった意味で、手かざしを日常の中に取り入れることは大切なことですが、もし取り入れるのであれば、こういった心構えを徹底的に理解し、自覚した上で行なうことが肝要です。それが、「知意行一体」の精神です。そして、それを反復演練していくことによって、自然に身についていきます。そうした「ミノナライ」となった時、その人は美しい気をこの世界に発する者となれるのです。

 

 


今、自らのエリアを超えることが人類に求められている

ジイジ:
一般的に、人間は生きていると、エリアというものを意識している。つまり、自らの存在が許容範囲の中に入っていることを認められるために、その自らの存在が許容範囲の中にあるような関係を探している。そして、人は誰でもそれをその人流に一生懸命やっているものである。そこで、一生懸命やっているのに事が成らないと、「なぜ、こんなに努力しているのにそれがならないのか」と考えるようになる。しかし、そのエリアという枠の中で生きている限り、努力は自らの枠の中にあるから、その人間性が高まることはない。ところが、本人にしてみれば、一生懸命であり、努力しているつもりなのだ。自らの枠の範疇を超えないで新しい景色には出会えないのだから、当然のことなのだ。それが人間の精神状態の限界をつくっているエリアなのだ。

僕は今、眠りながらそういったことをとうとうと語っていた。そして、「エリア」という言葉が自分の口から出たときに、「これは新しい区分だ」と思って、今ふたりに語り始めた。その前は完全に眠りながら語っていた。

ようこ:
今、ジイジの語っている雰囲気がいつもと違う気がします。何か新しい感じを受けました。

ジイジ:
人はそうやって自らのエリアを確保しようとするのだが、それは僕が新しいのではなく、自分がエリアを超え、「いただきます」の精神でものを観るようになると、その自分の許容範囲以外のものが観えてきて、出来事を判断するようになってくる。それで、人は相手が新しいと思うのだが、実は、自分が新しいのだ。対象を常に調整するものと決めていると、自分の解釈の範疇で理解しようとするのだが、調整すべきは自分自身である。自分自身を調整すれば、そこで観える景色は必ず変わる。ところが、自分自身を調整せずに、対象を調整しようと画策していると、「観える景色をいつも同じでありたい」とする考えのもとに、エリアの中にいることになる。

ところで、今日は何日?

ゆうこ:
今日は7月10日です。エリアが変わったから、この場の雰囲気も今までと違う気がする。

ジイジ:
その前の確保しようとしているのも、自分の意識がそうさせているのだが、人はそれを自分がしているとは感じていない。それは、無意識にそうしているからね。

ようこ:
エリアというものがあって、その中に自分自身がいることを意識していなかったことがわかると、そこを超える選択肢ができる。自らのエリアが固定されていることにひとたび気付けば、そこを超えられる。

ジイジ:
まずはそこに気付かないといけないのだが、人にはそれが観えないものだ。無意識に自らの許容範囲の中で毎日を送ろうとする。それが、自我というものだ。そういう性質を卒業できている人間は、一つ一つの出来事に感情的に反応しなくなる。それは、起きたことを情報として受け取るだけのことだから、事が起きると、それを自らの内に入れ、取り込み、次へと進んでいく。たとえば、賢いと認識している人にその人にとって許容範囲に入らないことが起きると、理屈をこねて、「これはこういうふうで、こうだから、こうなったのだ」と納得しようとすることも、自らのエリアの中であがいている状態だ。だから、自我のエリアの中にいるという意味では、何も考えないでエリアの中にいるものも、考えてエリアの中にいるものも、結局同じことだ。

ようこ:
許容範囲を超えた出来事が起きて、それをいただくということは、自らのエリアを超えるためにあるのですよね。

ジイジ:
そう。エリアを超えるために、許容範囲を超えた出来事は与えられる。通常、人間が生きていると、それが常に起きるようになっている。たとえば、先日西日本に起きた記録的豪雨による水害もそうだ。それは、もっと大きな規模で与えられたこと。そこで、自分の許容範囲を超えたところでそれを受け取る心があれば、その人間の精神性は広がっていく。それは、日常の些細な出来事でも、親子関係でも、仕事のことでも、学校の勉強でもそうだ。

ようこ:
逆に言うと、このカラクリがわかっている人には、エリアを超えるための大きな現象は起きない。

ゆうこ:
自分の概念を超えたところに、いろいろなことがあるということですね。

ジイジ:
自らの概念を超えたものを与えられるのが、人間世界で生きるということだ。でも人は、気持ちとしては、許容範囲の中にいようとするものだ。ここで言っているエリアとは、簡単に言うと、自分の許せる許容範囲ということ。

ようこ:
エリアの広さと、世界観の広さは比例しますね。ジイジのように、世界観が宇宙観で、宇宙そのものが自分自身だったら、エリアという言葉自体が存在しないような領域だと思いました。

ジイジ:
宇宙がエリアだ。でも、現象界を生きていると、どうしても現象界に意識が行き過ぎて、そこに囚われる。

ようこ:
ジイジは現象界に囚われていないから、四拍手(下記参照)の所作も閃いたのだと思います。これは、ジイジがふと空間を観ていたときに、潜象界からのエネルギーが空間の至るところから入ってくるのを感じたところから始まっているのですよね。

ジイジ:
そう。ある日、ぼーっと空間を観ていたら、いろいろなところから「カ(宇宙最極小微粒子)」がふわーっと噴き出しているのが観えた。「あれ??」と思ってさらに観ていたら、エアコンの吹き出し口のように空間の切れ目が垂れては、そこから生命エネルギーが湧き出してくるのが感じられた。だから、「こちらから意図的に空間を切ってみてもいいのだ」と思いつき、あの四拍手の所作が生まれた。あれは、天然循環だからね。四拍手の所作をもって、人間がケガレチ(汚れ地)としたこの世界を清浄にしていく。ところが、人間がケガレチにする速度が速くなり、そのケガレが大量になってきたことから、今、世界にたくさんの矛盾が起きている。

ようこ:
自然災害でも、矛盾を0にする作用ですものね。

ジイジ:
自然災害も、破壊だからね。破壊が起きているということは、破壊が起きるだけの負のエネルギーが溜まったわけだ。負のエネルギーが一気に爆発して自然災害が起きるということは、「負のエネルギーを溜めている」というメッセージなのだから、今の姿勢を改めなさいということだ。だから、大きな病気にかかって大変な目にあうのと同じことが、人類の共通点として起きている。個人が自らの負のエネルギーを溜めて病気になるのと同じように、今、地球規模でそれが起きている。それは、人類のエリアを壊し、人類が次のステージに進んでいくために起きている。

「五風十雨」という言葉があるのだが、それは五日に一回風が吹き、十日に一回雨が降り、とても穏やかな日々が過ぎていくということ。五日に一度吹く風は優しい風だ。そして、十日に一回雨が降り、あとは良い天気に恵まれて、「ありがたい毎日が送れています」ということ。だから、五風十雨というのは、「おかげさま」という意味だ。

ようこ:
2018年が「再スタートの年」というのは、木の花ファミリー内だけの話ではなく、地球規模の再スタートというイメージが湧きました。先日の西日本での水害もそうですし、自分たちがこれまで生きてきたことの答えをもらって、実態を知らされる年ということを思いました。それで、次に進んでいくというイメージがあります。

ジイジ:
天誅(てんちゅう)が下った後に、それをどう受け取って、どのようにスタートさせるのか、ということが再スタートという意味で、天誅が下って実態を思い知るのが2018年になるのだろう。そして、2019年、2020年と共にこの3年が1セットになっており、東京オリンピックが開催される2020年はクニツクリの再スタートということになるのだろう。

ようこ:
ジイジの地球暦で、組織化の星である土星にスイッチが入っていないということも、エリアを壊す役割があるからですね。

ジイジ:
そう。土星は英語でサターンと言うだろう?つまり、土星は魔(サタン)なんだよ。悪魔とか、惑わすとか、翻弄するとか、サタンというのはあまり良い印象ではないね。しかし、神の使いでもあり、非常に重要なのだが、そこに取り込まれると、それが絶対になってしまって、自らの枠が壊せなくなってしまう。それを壊しゆるくして、自由自在になることが、本来の交わりの目的ということを今、イメージしていた。

ようこ:
アマウツシのアマは宇宙ということだから、宇宙をうつすということは、自由自在に生きるということ。

ジイジ:
そのために、本来交わりはあるべきだ。ところが、たとえば快楽に目的が行ってしまうと、見当違いのほうへと進んでいってしまう。

エリアを超えるということは、エリアを超えて感動するものもいれば、エリアを超えて腹が立つものもいる。そこで、感動とともにエリアを超えていけば、自らのエリアは無限に広がっていく。地球上でたくさんの矛盾や問題が噴き出している今、自らのエリアを超えることが、人類が次の時代を切り開いていくための突破口となる。

 


 

木の花ファミリーでは、食前や大人ミーティング開始時、畑や田んぼ作業の締めくくりなど、日常の節目に「四拍手」という所作を行っています。以下は、四拍手についての解説です。

 

四拍手の示すところ

カタカムナの第五首・第六首と同じように、「四拍手」も宇宙の創造・発展・消滅の法則を示しています。「四拍手」を行ずる者は宇宙の仕組みを知り、宇宙(天)と共に世界を創造していく者としての意識でこれを行うことになります。この世界を清浄(イヤシロチ化)に導くための所作として、厳粛な気持ちで行ってください。

潜象界は現象界(三次元世界)と同時に重複して存在しています。その潜象界に存在する現象化の元となるエネルギー(カ)は現象界の至るところに供給されています。現代の人間の活動によりそういった美しい世界は汚れ穢れ(ケガレチ化)ています。それを清浄(イヤシロチ化)な世界に戻すために、そのエネルギーを意識的・積極的にこの世界へと迎え入れるための所作として、空間を指で指して切ると①、その空間が垂れ②、その切り口から無垢な生命エネルギー(カ)が現象界に流れ出てきます。この所作を三回(至るところの意)行ってください。

【宇宙創造の仕組み「フトマニ図」の作成】

      天は丸く⑦ 地は方なり⑩

そうすると、美しい生命エネルギーの響きがその場に流れ出て広がっていきます。それは宇宙創造の仕組みであり、その宇宙創造の仕組みを積極的に行い現象世界の穢れを清浄にするものです。
宇宙には始まりも終わりも方位もなく、ただ巡り続けています。ですから、宇宙は丸いのです。
宇宙の枠(球)が出来ると、縦方向にトキ(縦のライン⑧)とトコロ(横のライン⑨)が発生します。そのことにより、現象化の仕組みが整い形の世界が始まり、星が生まれます。
方位は星の上に存在します。ですから、四方(東西南北)が地球上に現れます。

【宇宙の心を表現する所作】

現象化(形)が始まるためには、初めに宇宙(天)の意志(ア)が発生します。現象の始まりである「ア」という高次元の響きの発生(ア)⑪から、宇宙の根本法則であるアマノミナカヌシ⑫(トキ軸)が降りてきます。同時にカムミムスヒ(ヒタリ回り)⑬とタカミムスヒ(ミキリ回り)⑭を示す陰と陽の働き(トコロ軸)が発生します。この世界は宇宙(天)の心から創造されることを示しています。

【四拍手の所作⑮】

宇宙の創造原理が整いエネルギーが、下図のように八方向に整うと、現象化の段階に入ります。両手を合わせ、四回拍手することによって、右手と左手で合わせて二×四回拍手(四)する(二×四=)八方宇宙を意味します。その場合、左手は陰を示し、右手は陽を示します。ですから、左手は前(陰)に差し出し、右手は手前に引き(陽、第一関節分手前にずらす)、両手を合わせてください。
この表現は、陰(精神性)が陽(物質性)より優先され、この世界の本来の姿である「霊主体従」を表します。
指さす方向も意識も斜め上45度(天)へ向けて、四拍手で締めてください。

【終わりに】

天の心を忘れた現代の人々は、豊かさの追求の結果、自我に囚われ、本来人が生まれ生きる目的であるこの世界の清浄化(地上天国)を忘れ、今や地球は宇宙のオアシスから宇宙のごみ溜めと化しています。私たち人間はその尊い役割を取り戻し、もう一度、天の意思と共にこの地球に美しく光り輝く響きを取り戻すために、宇宙創造の精神を悟り、地上のイヤシロチ化のために心を整え所作を行うことにより、地上天国の実現に向け、その志しを表現しましょう。

 

 


「いさどん」から「ジイジ」へ 〜 2018年5月3日 67歳の誕生日を迎えて

42歳でいさどんと呼ばれるようになって25年。60歳で生前葬を行ってから7年の質的転換を経て ───── 2018年4月7日の朝、いさどんに新たな想いが湧いてきました。

「これから僕は『いさどん』をやめよう。今、その想いが湧いてきた。これから僕の名は『ジイジ』という名になるようだ。そのほうがふさわしい。『ジイジ』は濁っているけれど、それは人々の汚れに向き合うからだ。世間の皆様に真実を示すため、濁りのついている皆様に伝える者という意味だ。

『ジイジ』をカタカムナでひも解くと、『ジイジ』は『シイシ』となる。シは示しだから、『ジイジ』は示しの示しの位置になる。それは大本の示しという意味でもある。つまり、示しの位置が尊いということ。『ジイジ』は、『ババジ』や『ガンジー』といった高い意識の男性の尊称を示す。そして、イは当然『ヰ』の悟りを示す。それは、高次元の潜態への還元ということで、『ジイジ』は高次の悟りの示しの示し。つまり、人々に道を示す者に対して示す存在。濁点があるのは、現象界には濁りや歪みがあるがために、そこで道を説く者はその濁りや歪みに沿いながら伝える役割ということになる。濁りや歪みに付き合うということからすると、『ジイジ』はカタカムナ的にも高い意識のメッセンジャーと読み取れる。

さらに、ジというのは、心の父という意味がある。だから、『ジイジ』は万人に対して高い意識の父という意味になる。今、僕の精神レベルはその位置にいるのだから、良い尊称だ。とてもふさわしい名だと思う。」

いさどんに『ジイジ』という名が降りてから数日後、天からいさどんに言葉がありました。
「きっかけを創るのが役割なのだからな。」

つまり、一箇所プツッと穴を開け、そこに聖なる種を入れれば、そこが細胞分裂を起こし、新たないのちが生まれてくる。それが世の中に広がれば、世界は変わっていく。だから、その種となるきっかけとなれ、ということです。

今日5月3日は憲法記念日です。毎年、憲法記念日のときには憲法議論が報道されますが、先の観えない激動の時代を迎えた今、これからこの国をどうしていくのかを一人ひとりが真剣に考える時が来ています。

いさどんが32歳の頃、次のようなビジョンが降りてきました。

「いつか、国を司る役割を持つ人々がここを訪れて、僕に問いかけるのです。
『私たちはこの国を、本当に豊かで人々が幸せになるように、一生懸命治めようとしてきましたが、これはと思うことをいくらやっても、どうにも上手くいきません。本当に国を正しく豊かに治めるためにはどうしたらいいのか、そのヒントを得るために、ここに理想を生きる人々の暮らしがあると聞いて、訪ねてきました。どうしたら、良い国を創ることができるのでしょうか。』

それに対して、僕はこう答えるのです。
『それは、制度や仕組みを創ることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこにいる人々の心を見てください。このような心や考え方で人々が暮らせるような国創りをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。』」

そこで、国を司る人々に答えているのは ──── 『ジイジ』です。

『いさどん』から『ジイジ』へと変わることは、大きなターニングポイントです。いさどんの次元上昇に伴って降りてきた名は、『ジイジ』。今日2018年5月3日が、『ジイジ』として生きるスタートです。60歳で生前葬を行ってから7年の月日を経て、質的転換を迎えた今、今年2018年の再スタートの年にふさわしい名がいさどんに降りてきたのです。

皆さん、これから『ジイジ』をよろしくお願いします。

 

 


私は何のために生まれてきたのですか

人と人とのつながりとは、いったい何なのか ──── 。
そんなことをずっと考え続けてきたという、22歳のインド系アメリカ人、アナンヤ。大学で心理学を専攻していた彼女は、世界の様々な地域における人々の関係について研究を進める中で、どうしたら人々が互いに調和し、地球とも調和して生きていけるのかを知りたい、と木の花ファミリーにやって来ました。

ある日、「自分の中に様々な問いがある」というアナンヤと、いさどんが話をする場が持たれました。まず最初にいさどんが「あなたが何かひとつ質問をすると、僕はその10倍以上答えるかもしれません。長くなったらごめんなさいね」と言い、会話はアナンヤのこんな質問から始まりました。


アナンヤ:
ここに滞在しながら皆さんを観察していて、学んだことがあります。ここの皆さんは、今世界で起きていることに対して、何か物理的な行動を起こすというよりも、自分自身がその世界の一部であることを理解し、自分ではコントロールすることのできない、何か大いなる流れに沿おうとしているように感じられます。目には見えない何かに、耳を傾けようとしているように思えるのです。

いさどん:
そうです。

アナンヤ:
私が知りたいのは、それがこのコミュニティの核となる部分なのかということです。

いさどん:
私たち人間は、この世界に、一人ひとりがとても個性的に自らを表現しながら、存在しています。そしてその個性的な人間が、たくさんいます。そのたくさんの人間一人ひとりが、それぞれの目的に基づいて、自らの見える範囲内のことだけを考えていると、一人の人間の行動や、それがもたらす影響の範囲というのは、限定されたものになります。しかし、そのたくさんの人々が、ある共通点を持って行動すると、それはネットワークになるのです。
例えば、宇宙には天体がありますね。そのどれ一つとして、単独で存在しているものはいません。すべてが連動し、互いに連携し合いながら大いなるネットワークを築き、その中に一つひとつの星々の存在する位置があります。この世界で最も大きな存在は、大宇宙です。現代の人間の解釈では、まだ、この大宇宙のすべてを想像すらすることはできません。今、人類がその仕組みを想像できるのは、天の川銀河くらいの範囲でしょう。私たちは天の川銀河に生きていますが、その他の銀河については、成り立ちそのものが違いますから、今の私たちの思考では解釈することができない世界なのです。

もう少し、身近なところへ視点を移してみましょう。私たちは、太陽系生命体です。なぜ太陽系生命体かというと、太陽が私たちの存在の基軸になっているからです。
私たちは、太陽のエネルギーが元となった生態系の中で存在し、消滅していく仕組みになっています。私たちの肉体は、太陽の光が地上に届くことによって営まれる生態系の中で食べ物をいただき、呼吸をします。1日が過ぎることも、1年が過ぎることも、すべて太陽が基軸となって生きているということは、わかりますね?

アナンヤ:
はい。

いさどん:
私たちが存在することも、1日、1年、あるいはもっと長いサイクルを計算することも、すべて光が基軸になっています。宇宙的に捉えると、光が基軸となってこの世界が運営されているということは、何かその背景に、それを動かしている法則があるはずです。その存在を考えるようになると、私たちが自分というものを認識した時に、それは“自分が”生きているのか、それとも、何かの法則のもとに、自分の個性が必要でこの世界に生み出され、役割を果たすために生かされているのか、ということが観えてきます。
簡単に言うと、この世界には、目には見えない巨大な法則があり、私たちはその法則が創り出す流れに乗っているということです。

あなたが今、あなたであるように、今のあなたは過去のあなたとは違います。未来のあなたもまた、今のあなたとは変わります。それは、あなた自身の人生物語です。しかしもう一つ違う視点から観ると、宇宙の物語の中で、あなたが役割としてある一定期間、あなたの人生を表現したということでもあるのです。
人間は一人ひとり、そのことを知っています。それは、地球に生まれる前の霊的な存在の時に、そのビジョンを共に練っていたからです。そして地球に生まれ、肉体を持った時点で、そのことを封印したのです。しかしそれは、大いなる法則が紡いでいく物語の中に組み込まれています。
始めのうちは、そのことを忘れています。忘れている間は、思い出させるための出来事が起きてきます。中には、思い出さないまま人生を終わる人もいますね。そういった人の人生は、霊的には充実した人生ではありません。

木の花ファミリーの人々がやっていることは何なのかというと、物理的なことは手段にしかすぎません。今の社会に対して何かをアピールすることが目的でもなければ、物理的に豊かになることが目的でもないのです。では、一体何を目的として生きているのかというと、なぜ、私たちはこの時代に生まれてきたのか。そしてなぜ、ここに集い、この木の花ファミリーという生き方をしているのか。そのことを理解し、その上で、その目的を存分に表現して終わるということです。

そうすると、生きるということは、私が存在する目的を知るためにあります。では、どこに向かってそれを考えるのかというと、それは、宇宙の法則との約束のもとに自分が存在している、ということを知るためなのです。それがわかると、人生を完全燃焼できます。
あなたを観ていると、何かを探しているようです。私は何のために生まれてきたのだろう、私が生まれてきた本当の目的は何だろう、と探している状態です。それは、木の花の人たちが目指しているのと同じものです。それをしっかりと実感するためには、もう少し、自分は何のために生きているのかを詳しく知る必要があります。そうすると、あなたの表情の曇りは晴れるでしょう。しかしそれは、急いで取る必要はありません。あなたは今、そういう段階に来ているのですから、いずれはそうなるということです。そこで気を付けなければならないのは、それは放っておいたら来るものではないということです。自らがしっかりとした意志を持ち、それに目覚めるための歩みを進めることが必要です。

今から、あなたの質問以上のことを言います。
あなたも、僕も、誰もが、この巨大な宇宙の中に存在しています。そして、この指先のたった一つの細胞 ────(そう言っていさどんは、人差し指を立てました。)この細胞をカッターか何かで切り取り、捨てたとしましょう。そうすると、離れていきますね。でも今現在はここに付いています。地球にとって、私たちはそんな存在でしょう。宇宙にとっては、さらに微細なものです。しかし事実は、その微細な細胞たちが連動し、私というひとつの体をつくっているということです。そしてその細胞の一つひとつすべてが、独立した存在として個性を持ち、その一つひとつに魂があるのです。

もしもあなたがそういったことを知りたいと思ったら、隣りを見て「誰か教えて」と言わなくても、斜め45度上に意識を向け、そこにある存在を感じてみてください。そして、そこに向かって自分の思いを流せばいいのです。私は何のためにここにいるのか、と。その思いが本当に純粋なものであれば、回答は出てきますし、それをわかるための出会いが自然に訪れます。
もしかすると、あなたは少し前にそれをしていた可能性があります。だから今、僕に出会っているのかもしれません。

アナンヤ:
今語られていた「純粋」とは、どういう意味ですか?

いさどん:
あなたが自我に囚われていない状態ということです。それは難しいかもしれませんが、たとえば恋愛をするでしょう?そうすると、相手の事情には関係なく、相手に自分の思うような人であってほしいと願うものです。しかし、そこに二人の人間の関係があるとしたら、そこでは必ずキャッチボールの上に、二人の調和のネットワークを築く必要があります。それはひとつの例ですが、恋愛関係に限らず、この世界はすべて調和のネットワークで成り立っています。そこで、自分に都合の良い結果を求めるような心では、純粋とは言えないのです。自分の願う通りの結果を得ようとし、思惑を持ってアクションを起こすのではなく、自分が生きた結果、出会うものをいただいていくということです。
「いただく」とはもらうことですから、そこには感謝が生まれます。しかし自分のビジョンを持って思い通りの結果を得ようとすると、それは「いただく」のではなく「勝ち取る」ということです。それは自分の心を刺激してくれるかもしれませんが、長い目で見るととても効率の悪い生き方です。
例えば、あなたは木の花ファミリーに初めて来て、ここのことをまったく知らないとします。そして木の花ファミリーの中に入ると、何か普通の社会とは違うものを感じるでしょう。それは、ある人にとっては懐かしいものです。そしてそれが、もっとも自然な感じ方だと思います。

人は皆、生命です。そしてこの宇宙全体もまた、巨大な生命です。その巨大な生命を構成する小さな生命、さらにその小さな生命を構成するもっと小さな生命、さらにそれを構成するもっともっと小さな生命まで、すべてが相似形になっており、それらがすべて連鎖して、巨大な生命ネットワークを築いています。ところが人間になると、そのことを自我によって忘れるのです。
この巨大なネットワークは、愛でできています。それは、善なる、愛なる、調和のネットワークです。それを忘れた人々は、どこか心がざわざわしています。家族から遠く離れ、一人で暮らしていて寂しくなって、久しぶりに家族に会えば懐かしいと感じるでしょう?それと同じような感覚を、木の花ファミリーに来た人々が感じるのは、そういうことなのです。

20世紀までは、人々がそのことを忘れていくサイクルでした。個人が自我の欲望を叶え、豊かになろうとする時代でした。それは、霊性よりも物理性を追求した時代です。ただそういう時代だったということであり、悪いことではありませが、それが進みすぎると、霊性と物理性のバランスが取れなくなります。ですから、人々が物理的な豊かさを求め続けた結果、それが飽和して、今度は霊性の豊かさが求められ始めたのです。
霊性も、物理性も、どちらもそれを司る天の意志があり、我々はその意志のもとに存在しています。現代は、たくさんの人々が高度な教育を受けるようになり、優秀な人がたくさんいます。しかしこの20世紀型の優秀な人々が増えれば増えるほど、地球が歓迎しません。その20世紀型の優秀な人々が世の中をリードしてきた結果、今の地球の現状があるからです。
では、物理的に優秀ではない人たちが地球にやさしいかというと、そうではありませんね。そういった人々は、優秀な人々に巻き込まれていくのです。ですから今、霊的には、優秀さの見直しがされているのです。

生きるということは、個人の願望を叶えるのではなく、天と対話することにより、こちらの思いと天の意志が協働して、地上が運営されていくということです。人間以外の生命は、みんなそのように生きています。人間も、およそ7000年前までは、そのように生きていました。
原始時代に戻れということを言っているのではありません。今現在、私たち人間は、とても優れたテクノロジーを持っています。そのテクノロジーを、天と対話し、この世界に流れている宇宙法則のもとに使っていけば、人間は地球と共に、この世界に貢献する存在となるでしょう。
あなたもいずれ、死を迎えることになります。すべての生命は固有のサイクルを持っており、それが終わると死ぬのです。そしてそのサイクルの間に出会った物理性は、すべて、生きることに対する手段でしかありません。健康であることも病気であることも、いいことも悪いことも、すべて手段にしか過ぎないのです。

真実は、死んだ先の世界が、私たちの本住の地であるということです。そして、こちらでの学びが不十分であると、それを埋め合わせるために、またこちらの世界に生まれてくるという仕組みになっています。また、こちらの世界で役割がある場合も、生まれてくる原因のひとつになるのです。ですからあなたにはあなたの、生まれてくるための個人的理由があります。さらに、この世界があなたを今の形で受け入れた理由があります。そして今あなたは、それを知るための模索をしているのです。
そういうことを求めようとする人は、生きることの意味を知るための目覚めの段階に入ったということです。それは喜ばしいことですね。そうでない人々は、お金や物の豊かさに囚われ、中にはアルコールやドラッグで惑わされ、中毒になっている人もいます。地上の物理的な快楽に溺れるような生き方をするのです。あなたがそういったものではないものを求め出したことは、とても幸いなことです。

アナンヤ:
私は生きる目的を探しているということですが、それはあらかじめ決められていることではなく、後から少しずつ分かっていくものなのでしょうか?

いさどん:
それは後からわかるというよりも、あなたの人生の歩みの中で目覚めていくものです。あなたは今、何歳ですか?

アナンヤ:
22歳です。

いさどん:
22歳なら、そんなに急ぐことはないですね。何かに追われている段階ではありませんから。あなたの世代(蠍座世代)は、これまでの20世紀型の価値観で社会をつくるのではなく、次の時代を担っていく世代です。20世紀型価値観の社会から、次の時代に変わっていくための準備をする世代なのです。ですからあなたは、今までのような物理的豊かさを探求する生き方を望まないのです。
もうひとつ前の世代(天秤座世代)ですと、新しい時代を求めるものの、それが見つからずに迷う世代です。しかし、地球が自転と公転を続けていくということは、明らかに、太陽の周りを周回しながら、時代を切り替えているのです。我々が、1日、1ヶ月、1年とスケジュールを立てていくのと同じように、時代は確実に変化しています。ですから、あなたの世代の人々は、自分の中から湧き出してくる、自らが求める生き方を、正直に語りながら進んでいくことです。ただ心の中で思っているのでもいいのです。そしてそれを伝える場に出会った時に、自らの中にあるものを正直に表現しながら進むと、自ずとやるべきことに出会うようになります。
その時に、ひとつ条件があるのは、あなたの心が常にピュアであるということです。あなたがピュアな心で歩んでいく時に、例えば親であったり、友人関係であったり、その障害となる存在に出会うことがあるかもしれません。しかし、そういった価値観を共有できない人々と対立するのではなく、そういった人々にも常に誠実に自らの思いを伝え、接することです。では、誠実の一番の根本は何でしょうか。それは、正直であることです。そのように生きていけば、道は開かれます。その根本にある一番大切なことは、斜め45度上に向かって対話することですね。

アナンヤ:
なぜ斜め45度上なのですか?

いさどん:
私たち人間が天からのメッセージを受け取るのは、頭頂部(松果体)の部分です。そして自ら発信するのは、眉間からです。ですから、眉間から先、斜め45度上に向けて、あなたの意志を発信してください。それはどこに向かっているかというと、宇宙に向かって発信しているのです。そして、返ってきたものをキャッチするのは、頭頂部からです。

(ここでいさどんは、地球儀を手に取りました。)
地球があるでしょう。今私たちは、ここ(と言って、日本を指す)にいます。あなたは、ここ(アメリカ)に住んでいますね。そしてあなたのおじいさん、おばあさんは、ここ(インド)にいます。さて、日本にいる時、上はどちらになりますか。(アナンヤは日本の上空を指し示しました。)そうですね。ではアメリカではどちらが上になりますか?(アナンヤはアメリカの上空を指し示しました。)そう、こちらですね。それを、天と言います。
今、日本から見た天はこちら側にありますね。しかし地球の反対側の人たちにとっては、天は反対側になります。つまり、地球の外のすべてが天なのです。では、地はどこかというと、地球の内部です。天と地は対等のもののようですが、実は天はものすごく巨大なのです。日本語では、小さな一点も「テン」と言います。つまり「点」と「天」は同じなのです。無数の点が、天なのです。
地球は自転し、公転しています。自転の速度は秒速468mです。今は夜ですが、このままいくと明日の朝になります。そして公転の速度は秒速30kmです。そうすると、直径約12000kmの地球1個分を、およそ6分40秒で移動します。さて、先ほどこの話し合いの場が始まってから、私たちは地球何個分を移動したでしょうか。私たちがいるこの場所は、宇宙的には常に移動しています。「この場所」と思っているところは、次の瞬間にはもう「この場所」ではないのです。そのような認識になると、すべての固定概念は、壊れていきます。

今は、簡単な私たちの日常について解説しましたが、事実、私たちはものすごく大きなスケールで、宇宙を旅しています。そのスケールの意識で人々が生きていくのが、21世紀です。これは21世紀の扉が開いたというよりも、3000年に向けての千年紀の扉が開いたのです。1000年から2000年までの千年紀は、物理的探究の時代でした。ですから人類は、物理的にはとても進歩しました。しかしこれからの1000年間は、霊的探究の時代です。霊的探究とは何かと言えば、私たち人間が宇宙に存在することを自覚するということです。
そのための扉が開きました。しかし人類は、まだ幼稚です。新しい時代を迎えるにあたり、あなたたちの世代は、その準備をする人たちです。ですから古い価値観に抵抗するのです。それがどんなに正しいと言われても、抵抗する心が生まれるのです。しかし、それに逆らう必要はありませんよ。自分から湧いてくる思いを、正直に、誠実に伝えていれば、時代は必ずあなたの求めているものを表現するようになるのですから。
僕はおじいちゃんですが、なぜこんなにも情熱的にこんなことをやっているかというと、それを伝えるために生まれてきた人だからです。

アナンヤ:
先日ともちゃんと話した時に、いさどんのこれまでの歩みについて聞きました。30歳からこのような生き方を始め、最初の2年間は泣いて暮らしていたと。なぜ、泣いていたのですか?

いさどん:
自分の自我が強く、それを越えられなかったからです。それは辛いことでした。それでも、自分には、自我を越えるしか道がなかった。毎日が自己否定でした。しかし、その試練を越えたからこそ、その先の世界があったのです。
自我に取り込まれている人間は、自分が辛いと思うことを越えて初めて、そこから解放される道が開けます。しかしあなたは、僕の時代と違い、霊的にはもっと高い時代を生きる人です。ですから、僕のような体験はしなくても、道は開かれるのですよ。
あなたの名前をカタカムナでひも解くと、古い時代の価値観を質的転換し、高次元の意識に導く、強い意志を持っています。それで安定しています。今あなたは22歳ですね。30歳ごろから、本領を発揮するようになりますよ。
少し、霧が立ち込めていたのが晴れましたか?

アナンヤ:
私自身は霧だとは感じていませんが、周りからそう見えるということですね。

いさどん:
最初に話し始める前に、僕にはそれが観えましたが、今のあなたはもっと明快な表情をしています。僕に面談をする人は、一般的に自分個人の悩みを相談する人が多いのですが、あなたの場合はそういうわけではないですね。

アナンヤ:
ひとつわからないことがあって、少し混乱しているのですが、質問していいでしょうか。今、エゴを手放すということについて話してくれましたが、自分のエゴの内側に深く入ることなく、自分自身を観るということはできるのでしょうか。

いさどん:
それは今、僕が一般的な話をしたから、あなたには合わないのでしょう。僕が感じているあなたのエゴは、手放す必要がないものです。エゴというのは、そもそも個性です。その人がその人であるために、エゴを持っているのです。アイデンティティと言えばよいでしょうか。大切なのは、そのエゴの表現の仕方です。ネガティブに使えば問題ごとを起こしますし、ポジティブに使えば楽しいことになります。調和的に使えば社会に有益になりますし、自己主張に使えば対立を生みます。
ですから、「エゴを手放す」という表現は、実は間違いです。正確に言うと、自らの人格をよく理解し、それを上手に使いこなすということです。その実力をつける必要があります。例えば病気になることでも、経済的に行き詰ることでも、問題ごとには様々なものがありますね。それはこの世界で、エゴの使い方が間違った方向に向かっているのです。そのような時には、客観的視点に立ち、どこに問題があったかを観ます。それは車を整備するようなものです。不具合を見つけ、修理してやれば、健全に走るようになります。

そしてまた、今は問題が何もないからと言って、その先もずっとそれでいいかと言うと、そうとは限りません。人生は階段のようになっています。この状態で行ってOKの時もあれば、次の段階へ上がる時には、必ずそれを手放さなければ先へ進めない時がやってきます。今がいいからと言ってそのままで進めば、ある所から、それは問題になるのです。ぶつかるということは、次の段階へ上がるということです。そういったことを、常に自分自身に寄り添いながら、客観的に導いてあげられる、もう一人の自分がいるといいのですけれどね。
そして今お話ししたのは、人生を自分の力で生きていこうとする、一般の人へのアドバイスです。人生を自らの自我で生きている人たちですね。例えば僕の場合、生きることに望みはありません。ですから自分の役割がなければ、早く死にたいです。生きることは面倒ですよ。食べなければならないし、眠らなければならないし、トイレにも行かなくてはなりません。こんな窮屈な場所は嫌ですね。
しかしこういった境地に至ると、自分で何かをコントロールしなくても、この世界の奥にある流れを感知し、そこに沿って生きるようになります。その流れは、僕の意志とは関係なく、勝手に流れています。人間は人生を生きる時に「自分の人生だ」と言っていろいろなビジョンを持ちますが、それはこの大いなる流れからしたら、本当に小さなものです。その小さな自分のビジョンに囚われてしまうと、その自分のビジョンも元々は大いなる流れの中にあるということを、忘れてしまいます。ですから、僕にはビジョンがないのです。生きる上で、僕の個人的目的はないのです。あるのは、与えられたものの役割としてのビジョンだけです。
ですから、こういった境地になると、生きることを何も画策しなくていいのですよ。24時間経つと、1日が終わります。1年たつと、1歳年を取ります。そしていつか、この役割の終焉を迎えます。その時がいつかは、決まっているのですよ。待ち遠しいと思っています。

そういった境地に立った者は、役割を存分に果たすことができます。あなたは若いですから、早くからこれをやってください。そうすると、社会にとても貢献する人になりますよ。早くから仏陀として生きることができます。何であっても、ご機嫌であれば良いですね。
ただ、僕にはご機嫌でない時があります。それは、人々が自らの心の持ち方を間違えて、汚れている時です。縁のない人にそういった感情は抱きませんが、縁があり、そしてその汚れたものを美しくするビジョンに入っているにもかかわらず、怠けていてきれいにしない人には、それはよくないということは伝えます。最終的には本人の意志ですから、僕は「困ったな」と思ったり、それを残念だとは思いますが、所有はしません。それは、その人が自らの人生として、結果を受け取っていくということです。ですから、どんな場合も、どんな人に対しても、アドバイスはしますが、所有することはないのです。本来、道はすぐに改善できるのに、人はなかなかそれをやりませんね。それが地球の汚れの原因です。ですから僕は言わば、地球の霊的な汚れの掃除屋さんです。
今、世界中で、国や組織のリーダーになっている人々のほとんどが、霊的に汚れています。それがきれいなリーダーに切り替わるのが、2038年です。もうひとつ。2008年に、ヨーロッパ産業革命から始まった248年の冥王星の周期が終わりました。そして、東洋的精神性が世界をリードする時代に入りました。特に、インド・中国・日本といった国々の精神性が、これらの世界をリードしていくことになるでしょう。ですからあなたも、しっかりと役割を果たしてください。

アナンヤ:
今はまだ私の中心にエゴがあり、いろいろなことに興味があるので、それを無しにして何かを成し遂げるということはイメージできません。

いさどん:
それはしなくていいのですよ。何年か経ち、僕に会う必要ができた時にまたここに来て、「あなたの言った通りでした」と言うだけですから(笑)。未来を先取りする必要はありません。今はあなたが思う通りに生きればいいのです。

僕も、30歳からこんなヘンなおじさんになっちゃったんですよ。そして今年の5月3日で、67歳になります。そこで、実はつい数日前にビジョンが湧いてきたのですが、5月3日から、僕は次の段階に入ります。40歳までは、僕は古田さんでした。そして40歳からは、いさどんでした。今年の5月3日以降の新しいビジョンでは、僕は、いさどんの最終段階よりもずっと若々しいです。いさどんは今までとてもパワーが必要でしたが、これからはパワーに頼らないパワーを使うようになります。
すごく楽しみで、ワクワクしています。今、毎日がとてもエキサイティングです。

 

アナンヤ出発の朝。いってらっしゃい。また帰ってくるのを、待ってるよ。