「1ヶ月間の真学校ブログ」をご覧ください

2月25日から3月24日まで、木の花ファミリーでは「1ヶ月間の真学校」が開催されていました。

「1ヶ月間の真学校」は、1ヶ月間木の花ファミリーに滞在し、様々な切り口から21世紀の世界観を学ぶプログラムです。今年は例年以上に海外からの参加が多く、個性豊かな受講生たちの変化と共に、日々講座の内容が深まり、とにかくディープな1ヶ月間となりました。いさどんブログはしばらくお休みを頂いておりますが、真学校の中でいさどんから湧き出てきた宇宙の叡知を、以下の「1ヶ月間の真学校ブログ」に掲載しています。どうぞご覧ください!

 

2018年1ヶ月間の真学校 ブログ 

「これ以上、皆さんを前に進めさせません」~2018年1ヶ月間の真学校 開講の挨拶

世界に新しい価値観をもたらすには まず自分を解放してあげなさい

たくさんの人に明るい人生を与えてください~私たちが「人格」を学ぶ意味

地球が回っていることを、感じていますか?

ジオセントリックからヘリオセントリックへ~「己読み」を学ぶ意味

当たり前の仕組み・お財布ひとつの経済

知識として学習しても 人間性は変わらない

私たちはひとつの命です~天然循環法・食

正しいヒメゴト・命を生み出す宇宙の根本原理〜性と宇宙

波動が高いということは、壊れるということ

21世紀の死生観・序章〜魂のランキング

21世紀の死生観・1〜死は新たな旅の始まり

21世紀の死生観・2〜真学校でもっとも伝えたいこと

21世紀の死生観・番外編〜死んだらまっしぐらに光の方へ向かいなさい

たったひとつのことを伝えるために~2018年1ヶ月間の真学校 閉講の挨拶

 

一つひとつが、とても深いメッセージです。21世紀を生きるすべての人へ、お贈りします。

 

 

 

 


深夜3時半 〜 生活の中でカタカムナを生きる

ある日の深夜3時半、いさどんとみかちゃんの間でこんな会話がありました。


いさどん:
神秘学という学問があるが、学とつくと知識の詰込み型のものになってしまう。学問という研究・探求したものの共通点は、知識的な欲求は満たすが、それが人間性の向上につながらないものになってしまう。

みかこ:
学問の弊害。それが今の学校教育の弊害だね。テストでいい点数を取ることが目的になっちゃう。今でも、本当にたまにだけど、テストが書けないという夢を見ることがある。

いさどん:
そうか。僕も前はそんな夢を見ていたかな。昔、なかなかやれないことがプレッシャーになってそれが重くなってのしかかってくるようなイメージの夢を見たことがある。それがどんな夢だったか忘れてしまったけど。

一回、楢崎皐月が平十字から受け継いだものがどのような実態だったのかということを、知る必要があると思う。つまり、80首とか120首と言われるウタヒが八鏡文字の形で引き継がれたのか、ウタヒの素性がどこにあったものなのか。

みかこ:
どこから?一応巻物から毎晩書き写したものだと言われているよね。

いさどん:
ということは、八鏡文字が渦巻き状に書かれてあって、その読み方もあったということか?

みかこ:
読み方?

いさどん:
発音の仕方だよ。

みかこ:
写しただけじゃなくて発音も聞いたのかな。

いさどん:
発音が書いてあったんじゃないのかな。

みかこ:
その辺は謎だね。

いさどん:
そうでなければ「ア」とか「イ」とかあてはめられないじゃないか。
楢崎と宇野多美恵の二人の分析が14首までしかできていなかったと言っていなかったか?

みかこ:
それは知らない。

いさどん:
はじめに相似象学会の一冊目の本を出した時点では、14首しか解析できていなくて、後から関川次郎か誰かが解読したと聞いた。それも明快にはできていない。

みかこ:
私が持っている秘伝カタカムナは80首の意味が説いてある。あれは関川次郎著だよ。

いさどん:
だからといって、それを正解とは言えない。不十分だよ。我々がその解析をするかどうかは別として。というより、それをすることで何が得られるかということだよ。多くのものは知識的なものを得られるだけで大して必要なものじゃないんじゃないかとも思える。

それにしても噂によると世の中にはカタカムナの探求をしている人は大勢いるというんだけれど、調べると全然出てこない。

みかこ:
大したことは出てこないね。

いさどん:
大したことはやっていないということだ。

みかこ:
カタカムナはどちらにしても知識で学ぶものではないから。

いさどん:
でも知識で学んでいる者がいる。知識で学んでいるというか、生活と全く縁のないような、生活に反映させないで語るだけ語る人がいる。
それでは自己矛盾を作るだけだ。

みかこ:
人格講座の最初の方で「命名についての秘密」のページの中に「生活」について書いてあるところがあって、あの部分がすごく大切なんだと最近特に思う。あの部分とカタカムナがくっついて、生活の中でミノナライになっていくというところにいかないと。


命名とは
「命」の「名」と書くように、名前の中に「命の秘密(神秘)」が隠されている。
命とは生命のことであり、それは命をつないで日々を生きることである。命をつないでいくことは、生き生きと活性し続けること=「生活」につながる。
「生活」とは、想いをめぐらせながら、その想いに基づいた「現象」に出逢うことである。
その「現象」は、自らの想いの結果ふさわしく出逢う =「因果応報、類は友を呼ぶ、引き寄せの法則」等
「命」とは、みこと=神=宇宙法則=生態系ネットワークの基盤となるもの
=生態系ネットワークが示す神の意思(法則、性質)


いさどん:
ミノナライという意味も身につくまで反復演練が必要ということだが、どれほど日々の中の出来事に対して細かく緻密に自らの性質を観ていくかということ。

みかこ:
そうだね。心磨きそのものだよね。

いさどん:
それで木の花では、心磨きをやってきたんだよ。だけど、そのことがしっかりと身についていないと、心磨きということがなんだか窮屈になってしまうんだよ。Kちゃんのお父さんは、自分の思いを巡らすことによって、それが自己主張となり泥沼にはまっていく。それでいいと思ってしまう。まるっきり正反対なのに。それがからくりだということが分からない状態。

みかこ:
客観性がないからだね。

いさどん:
その主観・客観・客観背後の捉え方にしろ、知意行一体にしろ、日常の中に表現してこそ意味がある。そんなものを知識としていくら学んだところで、人間性の向上にはつながらない。逆に本当にそれを大事としてミノナライとか、アマウツシにつなげていくという意思が働いているものは、そこで知識的な学習に偏っていくことで疑問を感じるようになるはずだ。それを感じないということは何かを感じることが抜けているということ。

みかこ:
感受性が鈍っているんだよ。

いさどん:
実際に木の花のメンバーたちが積極的にそれを表現しないことに対して、それは違うだろうと伝えてきたが、しかしそういった姿勢の人でも日常の生活は支障なく通り過ぎていくわけだよ。日常の生活ができていても、その背景にある姿勢には問題があるということがわからないんだよ。
だから、なぜ宇宙の成り立ちがカタカムナに示されているかといったら、我々が生きている実態そのものが宇宙の中にあって、その法則に基づいた生き方ということが、生きるということに常に反映されている。それがこの世界の実態で、それを意識することを人々は忘れてしまった。なぜかと言うと、人々は自我にまみれているから。つまり、自我にまみれていることを気づかない人々はその汚れを取り払わないからなんだよ。単純な話なんだけどね。

みかこ:
仕組みは単純だよね。でも、なぜそうなったのか。

いさどん:
なったのかじゃなくて、なっているのかだよ。現在進行形だから。

みかこ:
そうだね。なっているのかが分からないのは、自らが汚れていることに気づいていないからだね。

いさどん:
そうだよ。価値観や世界観が狭く、価値観が見当違いの方向に行っているということなんだよ。それを体系的に説いているところはないんだよ。説いてさらに実践しているというところは。

みかこ:
ここだよね。

いさどん:
そこで、時代を俯瞰している天の存在がいることはわかる。それで宇宙には客観背後の意思が働いているわけだろ。そうすると客観背後の観点から見れば、その奥の深さを人間に理解させようという働きが感じられる。それは、こういった体系的な法則が存在する証なんだ、ということがわかる。
だから、天はそこまでをわからせようとして人間にこの旅をさせているのか、つまり、予定通りということなのか、もしくはもう一つの捉え方としては、予想外に人々がその導きを理解することに行き詰って突破できないから、今のこの現状をもって次に導こうとしていることなのか。
似たような話になったけど、それは滞りも客観背後の上にあるという風に見るのか。そうではなくて滞りはもともとある宇宙の垢みたいなもので、最近言っている人間社会の上に雲が立ち込めて人々が健全な世界の成り立ちを見いだせないでいることにつながるのか。その垢は天の意思の予測とはずれたところで結果発生したものだとして、だからそれを払拭しようとしている意思の現れなのか。

みかこ:
その垢というのはこの世界が発生するときには自動的に発生するような気がする。

いさどん:
そうかな。もう一つ言えるのは、自動的に発生したんじゃなくて、現象界が現象化されるまでにはすごく長い期間がかかったわけだよ。その生みのものすごい長い苦しみの期間、生みを待望するエネルギーの爆発みたいなものが、この世界の始まりともいえるから、スムーズに発生したとは言えない。

みかこ:
それは予測できるね。何度も何度も繰り返した。
「ム」のところから現象界の扉でしょ。「ム」は地球暦の惑星で言うと木星に当たるんだよね。火星と木星の間に小惑星帯という残骸があるじゃない。あんな感じかなと思う。現象化としてネットワークが発生する前に、それに参加できない垢が連なってネットワーク出来ないような星の残骸、あれがカルマだと、いさどんが言っていたでしょ。

いさどん:
その存在をもっと明らかにするべきだよ。


【参考資料】小惑星帯

惑星になりきれなかった天体たち
小惑星は主に火星と木星のあいだの軌道を公転する無数の小天体です。その数は2009年1月現在、軌道の分かっているものだけでも40万個ほどを超え、現在も次々と発見が続いています。小惑星は、太陽系が誕生した頃、原始惑星にまで成長できなかった微惑星や、いったん原始惑星にまで成長したものの、その後の衝突で砕けたかけらであると考えられています。中には、そのかけらが再び集まって形成された小惑星もあるようです。とくに大きなものを除いてほとんどがいびつな形をしています。

太陽系の化石
小惑星には、そのほとんどが金属でできているもの、金属と岩石が混ざり合ったもの、炭素質が多いものなど、さまざまな種類があります。いずれも太陽系が誕生した頃の残骸で、初期の太陽系の様子をとどめていると考えられています。また、小惑星の中には同じような軌道を回る一群があり「族(ファミリー)」に分類されています。これらは、昔は1つの原始惑星だったものが、何らかの原因で砕けてしまったものだと考えられています。大きく成長した原始惑星の場合、原始惑星全体が溶け、内部で重たい物質と軽い物質が分離する「分化」が起きたとみられ、同じ族に属する小惑星でも、その成分がまったく異なる場合があります。このように、小惑星を詳しく観測することによって、太陽系が誕生するときの「歴史」を明らかにすることができるのです。


みかこ:
いつもクニツクリ奏上の時「ム」のところで頭が飛んじゃうんだと言っていたじゃない。あれに関連するような気がして。「イ」だったら一つの粒で一つの点として決まるだけ。そこからカタカムナでは「マワリテメクル」があって地球暦なら小惑星のところになる。
そこから、「ム」っていうのは急に現象界に巨大な体積が発生するわけでしょ。「カ」からすると、無いにも等しいぐらい大きな空間。

いさどん:
ちょっと待って。「ム」は蒸している状態だけど、無でもあるわけだから、ムしてある準備が整ったけれどもまだ何もできていない状態、という両方を持っているんだよ。

みかこ:
そうだね。「ヤ」まで行くと物理的な飽和安定だけれど、「ム」はまだ何もできてはいない。ただ巨大な空間が発生した。それは大きすぎてないに等しい。大きすぎても小さすぎても、それは捉えることができないほどの大きさと小ささだから、あることが感じられない。あるいは位置を持った粒(イ)が無限にあるという状態でもある。

いさどん:
今日、大鹿窪遺跡でのクニツクリ奏上の時に方向性が見えなくなって繰り返していた。方向性がないわけだから自分の意思が消える。これをもって「ム」の状態、その時には「ム」の段階だとは気づかなかったけれど、これはある意味トランス状態になることだなと思ったんだよ。

みかこ:
自我が飛んだということでしょ。

いさどん:
そうそう。つまりちゃんと約束通りやっていこうとすることが飛んだ時に、僕はいつも般若心経のことを思うんだよ。般若心経を唱えるときに、今はそれが身について反復演練が進みミノナライになっているから、音が次々勝手に湧き出てくる状態なんだよ。

みかこ:
もう忘れるという次元じゃないということだよね。

いさどん:
そうだよ。五首六首の奏上の時にもミノナライの状態になっていると考えていたんだけれど、それすら飛んでしまうことがあるということなんだよ。それがどこで起こったかというと、後で振り返ると「ム」のところだったということなんだよ。それで「ム」とは何なのかと考えた。その結果、その現場でもこれがトランス状態だということに気づいた。

みかこ:
「ム」と「オ」は小丸の位置が一緒なんだよね。だから「ム」という「無限」で「無い」とも思えるような宇宙のマクロとミクロに広がる思念が「オ」とエネルギー的には一緒でしょ。でも「ム」というのは現象化の前段にあるエネルギーだから、これから潜象会に収める「ヲ」につながる「オ」とは意味が違うね。

いさどん:
最近クニツクリ奏上の時の初めの音を発声するときに必ず意識しているのは、伸ばしたオの音の最後に「ム」と意識しているんだよ。

みかこ:
「オ」と「ム」だ。

いさどん:
オームだから。拡大して収縮し終わるという宇宙の原理の表現なんだよ。
今日Mさんが、自分を無くさなきゃいけないと言っていた。それは僕が、自分を無くさなきゃ次にいけないと伝えたんだよ。無くすということは次のステージに立つということだからな。

みかこ:
無我という位置に立つことだね。

いさどん:
そうか!ない状態にするということだ。しかし無我という我がない状態にするということは、どういう状態になるかというと器そのものになるということだ。

みかこ:
空っぽになるということでしょ。空っぽの器になるということ。

いさどん:
空(カラ)になるということ。

みかこ:
「ラ」はエネルギーの存在の場。

いさどん:
「カ」がカムのエネルギーで、「ラ」はエネルギーの存在の場ということは…宇宙の大本に帰るということだ。

みかこ:
「カ」が存在するのは、宇宙の内外問わずだよ。

いさどん:
だから、大本の場所、宇宙の根源の場所に帰るということが「カラ」ということになる。そうしたら我々自我を持ったものというのは、大本の場所から極めて離れてきたから自我を持っていることになる。それは大本から発生したものが、対局のこちら側に来て自我の側に立っているということ。つまり、その行く先は、又空(カラ)に帰るということだ。自我というのはカが濁って示されている状態。自我という、極めて垢にまみれて対局のところにいるものが、また空(カラ)に帰っていく示し。空(カラ)から出てきて自我になり自我から空に帰っていくという。それも宇宙を創っていく対抗発生の仕組みの一つだよ。

みかこ:
そうだね。「オ」と「ヲ」じゃない。果てしなく遠くまでミクロにもマクロにも行った状態が「オ」で、そしてでも行くと結局潜象界の入り口にまた戻る。際まで行く思念が「オ」なんだよね。そして潜象界に還る働きが「ヲ」。

いさどん:
よし。なんだか我々の生活の意識範疇内のことからすると、極めて広いようだけど、それが一番の大本にある身近な生活というものの意識範疇内にあると、日常は極めて整然となる。それが日常の意識に芯が通る(宇宙を生きる)ということなんだよ。

みかこ:
改めて人格講座の生活とはというあの部分がすごく大事なんだと思う。今まで生活という意味をもっと薄っぺらく思っていたけれど。

いさどん:
そうだよ。聖なるカの粒。生活。

みかこ:
「セ」はエネルギーが勢いよく流れている。

いさどん:
だから、聖なるなんだよ、聖なるカの粒の集いということだよ。ということは、ちょっとまた大本に立ち返るんだけど、48音というのはそもそも宇宙創造の物理性を示すもの。それを体系化して図式化したものが八鏡文字で、単音符、図象符、そしてそれは宇宙の創造の物理性=言葉だということ。
宇宙の創造の物理性=音であり、そしてそれがさらに体系化したものが言葉だから。

みかこ:
それでね、息(イキ)ということが思いうかんだ。音を出すということは息が発生するからだと空海が言っていた。息って風が発生するんだよね。そうすると響きが起こる。

いさどん:
例えば水が流れるというのも息と一緒だよ。空気が対流することが息だから。だから流れるとか先へ進むというのが生きることであり、それがマワリテメクルということなんだよ。

みかこ:
うん。「動き」が始まるんだね。

いさどん:
だから天体が動いているのも、それは息をしているということでもある。それは生きることであり、生命、生きる命(みこと)。宇宙が命ということだよ。

みかこ:
それで、昨日いさどんがクニツクリ奏上をしているときに、自分が笛のような単なる筒で、笛って穴があるでしょ、あれはチャクラの穴なんだと思った。自分自身が笛で単なる空気やエネルギーを流す筒で、どこのチャクラを開閉させるかで音色が変わってきたりする。なんかそんなことを思いながら、あそこでただ立って流せばいいんだなって思っていた。

いさどん:
僕は今5首6首の奏上が、もっと変化していくなと思っている。今は現状でやっているんだけれど。

みかこ:
この前は軽やかにしたいと言っていたね。

いさどん:
でも今のところまだ軽やかにはならない。その先が、どこへ行くかはわからないけれど。

(しばし沈黙)

艮の時間に目が覚めてしまった。

みかこ:
金神様はカタカムナそのものだよ。火水伝文ってところどころカタカナで文字が書いてあってね、その意味は深いんだということを強調しているんだよね。それでこの意味は9通りにも読めるみたいなことも言っている。9通りということは、全てのものに「ヒフミヨイムナヤコ」という9段階があるということを言っているのかな。

いさどん:
全ては一から十まであって、9段階まで行くと自ずと「ト」に至る。

みかこ:
「ト」はもう次の「ヒ」でしょ。

いさどん:
そう。
あのな、宇宙は数であるというだろう。それで、インドでゼロが発生したからこの世界の法則の理解が進歩したんだよ。ゼロがないとこの天文学的な世界が理解できないんだよ。九になって十になることによって、次の段階に行くのだけれど、九の次がないと次の位に行かないんだよ。

みかこ:
そう、ゼロがつくことで次の位に進んでいるものね。おもしろい。

いさどん:
だって、九の次に何に行く?

みかこ:
ゼロがなかったら?何に行くかな。トになるもの。

いさどん:
九の次がないと次の段階に行かないんだよ。だから九まで行くと数がないんだから、たくさんということになる。
でもすごいのは、人間の手の指の数はトなんだよな。

みかこ:
そう。五と五で十本。凄いね。よくできてるね。不思議だな。そう思うとすごいね、人間の体。

いさどん:
いかん、目が冴えてしまった。

みかこ:
さらに冴えちゃったの。私も冴えてるけど。艮って、「渦の示しが統合したエネルギーの存在の場」だ。
あ、「フ」の位置から入って、「ム」から出てきたよね。

いさどん:
ん?

みかこ:
ヒフミヨイムナヤコトの八鏡文字の小丸の位置と照らし合わせると、いさどんが生前葬で動いてきた、艮の方向が「フ」なんだよね。「フ」から入ってきて「ム」に行ったんだよね。

いさどん:
それは、なかを潜って出てくるということだ。

みかこ:
うん。そう。潜ってくる。中心の五は井戸の「イ」で出入り口だから。中心の五というのは九御座(くみくら)の解釈だけど。

いさどん:
そうすると、もしかして宇宙は現象化を生み出す順番としてはヒフミヨイムナヤコトだけど、その現象化の奥では「直接対話」ということもやっている。

みかこ:
そう。それが、「カタカムナはヒフミヨイと無限に繰り返していくと、ヒから始まってフミヨイを飛ばしてムナになる」って芳賀兄が言っていたことじゃないかな。

いさどん:
それと、人体の臓器が必要なところに向かって直接会話するとか、宇宙の天体が必要なところに直接会話することとか。我々がものの道理を踏んでいく以外に、直感という形で道理を外して理解することだったり。実はものの順序を外して理解することの方が解釈としては鋭いことになる。真理をついているんだよ。

みかこ:
十の扉があって、一個一個全部開けるんじゃなくて、この扉でしょと感じるのが直感。別に十個開ける必要はない。

いさどん:
そう。ものが見えるようになれば、いきなり「はい、これ」って選べるようになる。だけど一般の人間たちのように道理で健全を求めるものはヒフミヨイムナヤコトの順序でいかなければ滞る。しかし、本当はそこを超えなきゃいけない。そこを超えて初めて到達するところ。そこに神通力が必要なんだよ。

みかこ:
そうだよね。そう思う。

いさどん:
つまり、全てを道理で語りながら、分からないものには、直接ポイントで伝え、結果が出た後に順序立てて解釈すると「ヒフミヨイムナヤコト」になっていることがわかるんだよ。つまり理屈は後からついてくるということなんだよ。

みかこ:
木の花の生き方もそうだね。

いさどん:
そう。理屈は後からついてくる。結果はいただくもの。

みかこ:
なんだかわからないけど心磨きから始めたら、それは後で知ったらカタカムナの道理に沿っている生き方だった。

いさどん:
最初から道理を大事にするんじゃなくて直感で行って、後から「なんだこういうことか」というように、道理がついてくる。これが「いただきます」という精神。

みかこ:
いさどんがいつも、今日はこれをすると言ったら「今日は星と星がこういう日だったね」って、後からわかるという、あれと一緒だよね。

いさどん:
そうだよ。そういう生き物だということなんだよ、人間は。でも明らかに学問とか、物理科学の世界では、ヒフミヨイムナヤコトを通してやっていくんだよ。それは真理だけど、そういった道理を通っていく考え方だけだと「自分はわかっている」という傲慢になって、「いただく精神」がなくなるから、宇宙とか自分の理解の範疇外のことと連動できない。だから己を捨てて、道理を超えた時に、自分を超えたものと連動できる。その時に人間は進化するし、自我を超えられる。いただきますの精神になる。それを今日、Mさんに何度も繰り返し伝えた。
これが、なかなか分からないんだよな。我(ガ)まみれの状態の人には、場合によっては強制したということになる。

みかこ:
自分が自分じゃなくなるような意識になるんだろうね。

いさどん:
それで、いかに自我を超えることが重要かということがわかる。

みかこ:
今日ね、大鹿窪遺跡での奏上の参加者全員の小丸の位置を、いさどんが奏上しているときに思い浮かべていたら、「ム」の位置の小丸がないって思ったんだけど、改めてそのあと書いてみたら、フとムのところに小丸がなかったの。「フ」もだと思って。これっていさどんが生前葬で通ってきた道筋だと思った。艮の方角なの。そこに小丸がなかったんだよね。何か不思議だなと思って。

いさどん:
それはどういう意味だ。それを解説すると「器を作れ。器を作ったら魂はこちらで入れる。」ということじゃないのか。それが丸描いてチョン。中に芯を通していくという意味で、器が出来そこにある芯はアメのメだろ。つまり、芯は宇宙の柱を立てるぞという意味。それが艮の方角から入ってくるということだろう。

みかこ:
そうそう。それはさっき話した、自分が空っぽの筒になるというのも同じことだね。
筒になるということは枠があるということ。そこに風が通るということは、その風や水が芯になるものだよね。それがただ流れるように、そういう枠を作る。
それは自我の枠とは違う?

いさどん:
そこに、宇宙の法を入れなきゃいけないんだけれど、自我を入れてしまうから、法が入らない。作るのは器だけでいいんだぞと天は言っている。

みかこ:
中身に変な思いをたくさん入れているから、法が入らないんだ。そういうことだ。

いさどん:
もっとも、自我による思考を巡らせていると、そもそも器も実は作らないんだよ。ぐるぐる思考を巡らせているということは、器もできない。器ができないから、メがそこに出ないんだよ。まず器を整えろ。そのために汚れている器を磨け。

みかこ:
金神様もそう言っていた。「器を作れば最後のチョンはこの方が入れる。」

いさどん:
そうだよ。そのチョンはメだよ。それは高次のメを入れるんだから。アメなんだから。何もそんなことは今まで魂の中に刻まれており、わかっておることではございましたが、改めてその道理を振り返るとその法則が見えてきましたゆえ、その道理・法則をいただくということは、世に広めろという天の意思だと受け取りました。これをもって、その道理を世に広めていく役割をいただきます。

(ここで、四拍手)

いさどん:
このクニツクリ奏上の四拍手が深いんだよ。宇宙の成り立ちを描いているんだから、深い。昔、ただ答えがなくとも、そこに語りかけよ。そことは斜め45度の方角に向かって、斜め45度とは丸の中では艮の方角だよ。つまり斜め45度に向かって語り掛けよと、それに対してどんなに無言であったとしても、必ず斜め45度のその先ではその意思を受け取っておる。だからそれを積み重ねよ。そしてそれを積み重ねた結果、必ず現象となってその答えが現れるであろうと。

今そのころの思いを言葉にしてみたんだけれど、それをやり続けてきてこの歩みがあったんだよ。それをやり続けることによって、まだ見えぬ現象、そして問いかけに対する答えを後からいつももらって、その答えをもらうことによって、信じる心が育ち、そしてここまで歩んできた。
つまり、先に得てから信じるんじゃないんだよ。得る前に信じて歩まなければいけないんだよ。それじゃないと歩めない。
次にみんなで見る映画『沈黙ーサイレンス』は、そのことの真実を宣教師たちの苦悩の中で、問いかけている。神がどこに住んでおるか、ということなんだよ。

みかこ:
深いね。いさどんが、天に語りかけるときには斜め45度を見上げるんだよ、と今まで言っていたのは、あの45度なんだなって、私も最近思っていた。

いさどん:
それを立体的にいうと、(いさどん斜め45度上方を向いて)この45度なんだよ。今日も大鹿窪遺跡でクニツクリ奏上をしながら、富士山の上を見ると、なんとなく45度の方角なんだよ。ところで、難しいかもしれないけど、太陽が45度の角度で地上にさすときっていつなんだろうね。夏になると高くなる。

みかこ:
冬は低いしね。

いさどん:
それが45度になる時ってあるのかな。何か意味がありそうな気がする。
なかなか面白いものが出てきたぞ、今の話。面白いとは愉快ということではなく、その先に何があるんだろうという期待が生まれるということだ。

みかこ:
どの話も今まで言ってきたことなんだけど、これはちょっと方向が違う気がする。

いさどん:
違う形の解釈が出てきた。そうやって見方を常に変えていかないと物事は進歩しないんだよ。正解に出会ってそれをいつまでも正解としてしまってはいけないんだよ。

みかこ:
そうだね。いつも思うのは、この一点のことを理解するのに、365度でもない、世界は球なんだから。球ということは無限の視点でそれをみるということ。立体なんだから。マリの周りを小丸が回るように、銀河や太陽だってあらゆる方角に球状に回っている。

いさどん:
宇宙を生きることを悟ったものは、常に変化変容を繰り返し、進化しているこの世界の実態を理解し、常に会得し常に手放し、宇宙が進む法則とともにあり続けること。

おしまい。

 


日出ずる国=地球(クニ)ツクリ

《プロローグ・その心、これからは日の本の国全体に説くがよい》

1991年、いさどんが40歳の夏のこと。天からいさどんに「富士の山に登れ」という声が降りてきました。「なぜですか」と尋ねると、「日の出前に、日の本の国の頂点に立て。そして命を受けよ」と伝えられました。いさどんには、なぜ富士山に登る必要があるのかまったくわかりませんでした。とにかく神様がそう言われるのだから登ろうと、富士山へ向かいました。

週末の富士山は人でごった返し、初めての富士登山だったいさどんは、すっかりくたびれてしまいました。けれども、何としても日の出前に頂上に着かなければいけない。いさどんは死に物狂いで登り、何とか日の出前に頂上に到着しました。

東の空が、だんだんと明るくなってきます。ふといさどんは、そこに一つ、星のようなものが光っていることに気付きました。「自分をここに呼んだのはあれだ」と思い、その光に向かって言いました。「お約束通り、私は今、日の出前に日の本の国の頂点に立っております。命をお伝えください。」1991年8月12日の朝4時45分頃のことです。天から言葉が降りてきました。「その心、これからは日の本の国全体に説くがよい。」

「日の本の国」とは、日出ずる国・日本のことだけではなく、日のあたる国、つまり地球全体のことです。いさどんは咄嗟に「無理だ」と思いました。自分のような者にそんな大役が果たせるわけがない。けれどもそこで、自問自答をしました。お釈迦様は「歩んでみなさい。歩めるから」と言われたのです。これまで9年間心を磨くことを学んできて、これからもその道を歩み続ける決意は揺らがない。ならばこれからも、この心を生き続けるだけではないか。

下山の時、登る時にはあんなにも辛かったのに、それを乗り越えたら「また来よう」という気持ちになっていることが不思議でした。「まるで人生みたいだ」といさどんは思いました。


 

──── それから24年の時を経て、2015年12月、タイの僧侶であるプラ・サンコム氏からの招待を受けて、いさどんと数名のメンバーは同氏が運営するマブ・ユアン自然学校に新たに建立された寺院の仏像の開眼式に参列し、セレモニーの冒頭にいさどんは「クニツクリ奏上」を行いました。

さらにそれから2年の時を経て、2017年12月2日、その寺院の落成式に参列するため、いさどんと数名のメンバーがタイへと向かいました。また、プラ・サンコム氏には「自分の故郷に今後木の花ビレッジを展開していきたい」というビジョンがあり、彼の故郷を視察することも今回の旅の目的の一つでした。

タイへと出発する数日前、富士山麓にある日本最古の大鹿窪遺跡にて、いさどんはクニツクリ祝詞を奏上。ようことみちよはカタカムナ第63首、「みろくの世」の舞を奉納してから、タイへと向かったのでした。

13000年前の大鹿窪遺跡にて

 

12月2日 第1日目・ヒ
(一つ・日・火・陽・秘かに始まる)

― 成田空港へと向かう車中にて

《タイ・タイヨウ・核融合》

ようこ:
今日タイへと向かうということで、今朝から「タイ」の「タ」の思念について考えていた。「タ」の思念は分離独立でしょ?「リ」も分離でしょ?でも、自転・公転を意味する「マワリテメクル」の「リ」の分離と、「カタチサキ」の「タ」の分離独立は違う意味なのだろうと考えていた。というのも、「タ」は「タイ」の「タ」でもあるし、「タナココロ」の「タ」でもある。以前いさどんが、「タイは癒しの国だから、マッサージなども学べるといいね」と言っていたね。その時に、「タイのタはタナココロのタでもある」と思っていた。

そして今、昇る朝日を観ていたら、「タイヨウ」も「タ」だ!と思ったの。

いさどん:
「タ」の分離独立というのは、それ自体が自立してある状態。つまり、ものの本質が強いもの。それに対して「リ」は本体からの分離という意味で、何かから付属のものが離れた状態。だから、「タ」のほうが独立心が強く、「リ」は本体からの分離だから、「リ」のほうが弱い。

ようこ:
「タイ」をカタカムナの思念でひも解くと・・・

いさどん:
独立した(タ)位置(イ)だから、タイは独特の世界観を持っているということ。

ようこ:
タイという国は本当に独特だよね。昨年プミポン国王が亡くなられた時に国民全体が悲しむ雰囲気をテレビで観ていて、そう感じていた。今年2017年を木の花では「爆発の年」と呼んでいるでしょう?「爆発」は、ある意味「核融合」とも言えるから、太陽の核融合にもつながるし、いさどんは「心の水爆」の話もしていたね。

タイ・タイヨウ・核融合・・・

いさどん:
太陽は、独立した(タ)位置(イ)の横の渦(ヨ)の渦(ウ)だから、太陽というのは完全に独立したものの渦が極端に強いということ。だから、核融合だ。それに、太陽は英語でSUN(サン)だから、「サン」の思念をひも解くと、まず「サ」は差があって狭い位置を意味し、それに「ン」がつくということは、「サ」が強いということ。つまり、極端に差があるもの。狭い位置というのは、それしかないところに強く表現されるということ。それが「サン」だ。

ようこ:
この前、「チキュウ(地球)」の思念をひも解いた時に「アース(EARTH)」でも観ていったように、日本語と英語の両方でひも解くと多角的に物事の本質を掴めるね。爆発の年の締めくくりに、このタイ行きがあるというのも、今はわからないけれど、何かありそうな予感がする。

いさどん:
タイでの新しい村づくりがどうなっていくのか。それが意外と火がついたように進んでいくのかなとも思う。

ようこ:
これまでインドでも木の花ビレッジを建ち上げようという話はあったけれど、今回は現実化する気がする。そのことが今回の旅でひも解かれていくのでしょう。

いさどん:
僕は前から、なぜタイという国に縁ができたのか、と思っていた。今回のこの旅がこのことを確認する旅になるのだろう。

 

──── 成田空港に到着し、約7時間のフライトを経て、タイ王国・バンコクに到着。そこから車にてチョンブリー州まで移動し、エコ寺院のあるマブ・ユアン自然学校に到着。エコ寺院に到着したいさどんはまず、2年前にクニツクリ祝詞を奏上した仏像に挨拶に行った。

 

《仏像からのメッセージ》

エコ寺院の仏像

いさどん:
利益(りやく)を願うものではないと思うが、2年前に招かれた仏像の開眼式では、確かに性入れをする役割を果たした。しかし、それに対する、自分が何か特別なことをしたという意識はなかった。

そして今日、何もない気持ちで、とりあえず仏像の前に座った。ここまで来たのだから、と。そうしたら意志表示があり、「共に創り上げていきましょう」と言われた。そこで「もちろんです」と答えた。それは、実は枠が大きな話でね。

タイまで来てどのような役割があるのか、それはまったく未知なる歩みだが、先のことは考えない。何の役割があり、どのような目的が未来にあるのかを考えない、今までと同じように、わからない状態でいこうと思う。与えられるものは何でも引き受けていこうと思い、意欲としては真っ白な状態でいる。飛行機に乗って7時間、車に乗って3時間も揺られながらここまで来て、何ができるのか、と思う。そのエネルギーがどこに役立つのかと思いながら来た。そうしたら、「共に創り上げていきましょう」と言われた。

そこでは、こちらから何かをお願いするということはない。「もちろんです」ということ。「もちろんです」というのは、時代が切り替わっていく時に役に立つものであるということだ。

 

12月3日 第2日目・フ
(二つ・膨らむ・拡大縮小という矛盾する二つの性質が広がる)

《毎朝、新たな太陽をいただきながら》

いさどん:
このタイの出会いは理屈とはまったく違う話だろう?だから、いただいた縁をただこなしていくだけ。そして結果がついてくる。だから、僕の心はまったく無色で無欲だ。

例えば、僕が祝詞をあげる。そうすると、それはここの僧侶の読経や子どもたちの演目とはまったく意味の違うもの。どうもプラ・サンコムは、「世界中の人たちと共に」というイメージを持っている。だから、タイからだけではなく、ブータンやアメリカから僧侶が来ていたり、ラオスやブータンの伝統衣装をまとった子どもたちがいたり、インド・ロシアやドイツからもゲストが来ている。

プラ・サンコム氏の初の試み・第1回インターナショナルパレード

ようこ:
今日の午前中に行われたパレードは、プラ・サンコム曰く、「第1回目の試みのインターナショナルパレード」ということで、「このパレードに参加する皆さんはパイオニアなのです」と言っていたね。

いさどん:
そうしたら、ようこやみちよが奉納する舞や僕の祝詞も十分に個性的な参加の役割を果たしている。そして、我々は物理的なパレードではなく、霊的なパレードの参加者だ。

寺院の落成式・夜の式典にて ー タイ舞踊の披露
「みろくの世」の舞を奉納

いさどん:
・・・そうか。プラ・サンコムには目的があって、それを成し遂げようとする道がある。彼にはそれが見えていて、それを成し遂げようとする意志があり、行動している。我々にも目的があり、それが観えている。ただ、その観えているものが何かはわからない。我々の目的は天の意志に従って美しい世界を創ること。それは、結果いただくもの。違いはあっても、今、目的に向かってやるべきことをやる立場は同じということだ。

プラ・サンコムがなぜ僕のことを「マスター」と呼ぶのか。それは、プラ・サンコムにはたくさんの縛りがあり、それを壊していくことができないからだ。それに対して、縛られていない新しいパイオニア的存在が必要なんだよ。それを突破口にして、彼の目的を果たしたい。そこに、彼の曇りや悪意はない。そこに天が目をつけて、この道をつなげ、地上に光の道の突破口を開こうとしている。つまり、プラ・サンコムの活動は、天の意志がやっているものだ。だから天は、「いつも共にあります」と言うのだ。

ようこ:
今、気付いたけれど、プラ・サンコムのプラは尊称でしょう。サンコムという彼の名前の中には「サン(太陽)」が入っているね!まさに、太陽の導きだ。

いさどん:
そこでひとつ、気付いたことがある。夜、一日が終わって眠る時、その睡眠の先には明日がある。眠る時に、眠る内容を考えない。そして、精神状態にふさわしい夢を見て、時間に縛られずに自然に睡眠が終わる。そうすると、そこに次の日、つまり新たな日が現れて、それは霊的な日の出だ。その時に現れる思考は、新たな日を生きる太陽の意志。日の出の意志。朝の閃きは、天の意志。そうやって毎日を生きればいい。どんなに忙しい日々を過ごそうとも、今日一日が終わったら、新たな一日に向けて真っ白で無垢な状態にして向かい、朝、新たな太陽をいただく。極めて新鮮に一日をスタートさせる。瞬間瞬間をこの心で無垢に生きていくことだ。そこには思惑も何もない。美しく生きるとはそういうこと。それは、天の意志を生きることであり、宇宙を生きるということだ。これが、21世紀の人類の歩み方だ。お釈迦様の時代には、まだそこまで人々は到達していなかった。今、2000年を越えたからこそ、人類の目覚めの時を迎えている。

夜空に輝く満月

 

12月4日 第3日目・ミ
(満ちる・目に見えないが心で感じるもの)

《プミポン前国王からのメッセージ》

クニツクリ奏上を行ういさどん

いさどん:
今日の午前中、仏像に向かってクニツクリ奏上をしていた時、昨年亡くなられたプミポン国王の魂が来ていた。「志を受け継いでくれて、ありがとう」と。

ようこ:
そうだよね。霊的には、私たちはプミポン国王との縁でタイに来ているようなものだものね。物理的にはプラ・サンコムとの縁だけれどね。

いさどん:
タイという国を大きく二つにわけると、タイはまさしく今、モータリゼーションの真っ只中。日本の30年~40年前の状態で、人々は豊かさの欲求を満たそうと、車を買うことが物理的な豊かさのステータスになっている。プラ・サンコム曰く、タイには50ぐらいの財閥があり、タイの政治・経済を握っているとのこと。そういった人たちが儲かるような仕組みになってしまっている。だからある意味、これから経済的には発展しようとする国なのだが、腐敗は進んでいるということだ。

それに対して、プミポン国王が提唱していた「足るを知る経済」に共鳴する人たちも少数ながらいる。「足るを知る経済」とは、物理的豊かさを追求すると人々の心が乱れ、国土が荒れ、地球環境が悪くなるということで、必要な分量をわきまえ、心の豊かさを追求することの大事をプミポン国王は提唱した。そういった意味では、まさしく木の花が提唱しているのと同じことだ。彼はとても意識が高い人だったが、残念ながら彼の精神の高さとそれを受けた国民の意識は一致しなかった。

心の豊かな国を創っていこうとする動きは、世界的には先駆けた動きだ。タイのように経済発展が後から出発した国であっても、そういった意味ではこれから世界の最先端になれるという考え方を持っている人たちもいる。ただ、それは全体数から言えば、僕が感じる限り、少数派だ。プラ・サンコムはその代表的な人なのだが、彼の立場はあくまでも僧侶なのだ。

本来、仏教は自由・平等というお釈迦様の教えのもとにあったはずなのに、男女の格差ができ、戒律でがんじがらめになってしまっている。たとえば、男性のお坊さんと女性の尼さんのランクの違いは絶対的なもの。さらに、小乗仏教でもある個人の悟りを探究するというところから、悟りのレベルがどこまで到達しているのかによって、僧侶の間にもランクがある。そして、僧侶と一般市民の間にも絶対的な差がある。そういった封建的な縦社会がそのまま現在も残っている。

僧侶たちの説法を聞くと、内容についてはまったくその通りだが、もう世界観が古くなっている。彼らは戒律を元にして教えを説いているから、戒律を超えた思考が生まれてこない。それが宗教の限界だ。逆に、そういったことではこれから宗教が時代の進化を妨げるものにもなっていく。そして一般庶民が真実を知り出すと、お坊さんに頼らなくなる。そうすると、お坊さんも自分たちの土台をすべて取り払い、一から積み重ねなければならない時が来るだろう。その時に本当に僧侶の精神を持っていたならば、潔く今までの台座を捨て、ゼロから積み上げる志があれば、やはり僧侶は今までの志の分だけ早く目覚めることとなるだろう。しかしその地位に執着すると、時代に乗り遅れ、逆に落ちていくことにもなる。僧侶たちにも、これからその覚悟が必要だ。

本来、得度する人々が減り、一般民衆が目覚める時が来ている。21世紀は民衆の目覚めの時代だからね。

 

12月5日 第4日目・ヨ
(よこしま・混沌・世・横回転の現象化の渦)

《真の自由=クニ》

いさどん:
本来、仏教の教えは平等であること。僕が言う仏教の教えとは、皆が「差」を「取り」、共に助け合って暮らすこと。それが「悟り」だ。

昨日思っていたのは、僧侶は仏教の本当の意味をもう一度問い直すべきだということ。仏教とは何ぞや、と。お釈迦様は、経典に書いてある通りのことを言っただろうか。どこに根拠があるのか、と。

そして、大切なのは、人がヒトとして時代を生きながら、その真実を見出せる力を持つこと。なぜ仏像があるのかと言うと、それは仏像にすがるためにあるのではなく、我々がブッダの精神に立ち返るためにあるのだ。

ブッダの精神とは、高い意識のこと。高い意識とは、本来、自由でなければならない。それは、戒律からも解き放たれた自由だ。そうすると、時代が変われば人の心も変わる。戒律が壊れることにより、自分たちが維持してきた組織や生き方が変わることを恐れてはいけない。時代が変わるということは価値観が変わるということであり、それが宇宙を生きるということ。だから、目の前に起きることに常に寄り添う姿勢が大切だ。

僕は昨日、クニツクリ奏上をした。実はあの時、集中して奏上していたわけではない。僧侶たちは、まったく違うものが来たという感じで、彼らなりに新鮮にそれを受け止めていたから、僧侶たちが座っていた左側の方は気にならなかったが、右側の方にいた子どもたちのことは気にかけていた。子どもたちが、これをどう受け止めるのか。この場に居続けられるのか、それとも飽きてしまうのか。飽きてしまう前に、収めてやることが大事だと思った。そうすれば、中身はわからなくとも、彼らの精神レベルのキャパを超えることはないから、「ああ、こういうものもあるのだ」と受け取れる。そんなことを思っていた。

やはり、次世代の子どもたちには良い形で渡さなければいけない。新たな時代を生きる子どもたちの精神を一切無視して、古い戒律を一生懸命語り続ければ、やがてそれは子どもたちにとって苦しいものになっていく。この学校で勉強した子どもたちはとても良い子たちだが、これから先、どこまで仏教徒であり続けるのだろうか。仮に仏教徒であり続けなくても、今までの時代をどこまで維持し続けられるのかと言えば、タイの社会の現状からすれば、やはり車も欲しいだろう。そこで、そういったものを戒律から否定するのではなく、本当に自分自身に問うて、物やお金に使われるのではなく、どう使いこなしていくのかが大切なのだ。

今現実に、仏教の中でも差別化が起きていて、そこに平和が見出せない状態でいる。だからここでは難しいと思った。そこで、何ができるのか。

昨日、確かにプミポン国王の魂を感じた。お釈迦様の心も感じた。そこで僕は、「この僧侶たちの精神の延長に、この動きが時代を乗り越えていけるのでしょうか」と問いかけたら、「だからあなたをここに呼んだのです」と言われた。そこで、「私に何をしろと言うのですか。私は先を読まない者ですからここにおりますが、一体私に何ができるというのでしょうか」と問いかけた。そうしたら、一番初めに仏像と対話した時に、「共に創り上げていきましょう」と言われたことを思い出し、こう伝えた。「その精神ならば、私はやれます。しかし今、何かをするということは、私の頭の中には何もありません。最初はとても違和感を感じていましたが、今は、何か役に立つのかもしれないと思い、落ち着いていられるようになりました。」

仏教精神をもっと広く拡大し、平等な場を創った ──── もしくは目指しているのが、木の花ファミリーのあり方だ。カタカムナまで行くと極端な拡大だが、そこまで、人間たちの精神が宇宙時代にならなければいけない時が来ている。それは古いけれど新しい。だからそれは、古くはならない。ブッダの教えも、たった2600年のことなのだから、それにしがみついてはいけない。そういった賞味期限を感じながら、地球はどんどん宇宙を先へと進んでいく。そして、次の時代が確実に押し寄せてくる。

プラ・サンコムのマスターが語っていたように、誰もが死ぬ。それは当然のことであり、だからこそ、縛られていてはいけないのだ。

プラ・サンコムは、いさどんという得体のしれない存在を「マスター」と言う。しかしそれは、仏教という枠の中では捉えきれない存在だ。そういう可能性を彼は残していきたいと思っているのだろう。しかし戒律の中で、彼はそれを表明しきれない。僕が彼に伝えたいことは、ここでの活動はとても意味のあることだが、ある程度これをやりきったら、やはり木の花村をタイに創るべきだ。そして彼はそこのリーダーとして、もっと自由に生きるべきだ。

現代の人々は、自分の考えを持ち過ぎてしまった。だから、自分を否定されることを怖がっている。そして、結局何かに囚われている。

宇宙を生きる ──── 宇宙と共にあるということは、自己否定の道だ。しかし、世の中がここまで来ると、誰もが自分自身を否定できない。しかし、本来我々は自由でなければいけない。そのことが、皆わからない。僕が奏上する祝詞を、なぜ「クニツクリ奏上」というのかと言えば、「自由(ク)が定着した(ニ)世界を創る」ということだ。

ようこ:
それはまさに、真の自由のこと。

いさどん:
人が自我による願望を叶えることをやめ、宇宙の響きと一体となった時に、必要な物事はすべて自動的に成っていく。それが、宇宙の星々の関係のような、フリーエネルギーの状態であり、自ずと成っていくということ。それは極めてエネルギーがかからず、スムーズで精妙に行われていくので、我々人間の思考では到底理解できないような状態でもある。そのような状態になった時、自らの囚われから解放される自由と、物事が自ずと成っていき、それが極めて道理にのっとっているからその心地良さに乗った自由の、ふたつの自由がそこでは感じられるようになる。

ようこ:
それが、「クニ」ということだね。

いさどん:
そう。それは我々が日常を生きている中に感じることができるもの。だから、心を磨いて自我を優先させない姿勢が大切だ。そこまで宇宙の流れが現象化してくると、自ずと事は成っていくから、それが極めて心地の良い状態。それは、宇宙遊泳で人間が自分の体重の圧力、それから大気の圧力を感じなくなるのと同じくらい、解放された状態なんだよ。それは、人間が悟りを開き、魂だけになった時の状態でもある。その状態で日常が生きられる。これは、仏教でいう「悟り」の世界。その道に気が付くということが、たとえばキリスト教で言う「福音を聞く」ということだ。

その悟りの境地に至るということは、地球に平和をもたらすためにある。平和というのは、心が解放されて、誰もが自由になっている状態のこと。プミポン国王は、亡くなってからそのことに気付いたはずだ。彼は疑問を持ちながら、その本当がわからないまま亡くなったのだと僕は感じる。そして、彼が亡くなってから気付いたのは、「ブッダの精神は戒律の中にはない」ということなんだよ。

ようこ:
だから、プミポン国王は亡くなられた直後にいさどんの元に現れた。それは、バトンタッチということ。

いさどん:
彼の理想は、この古い仏教にはない。しかし、亡くなってからそのことに気付いた。誰も、一つの生き方をモデルにして、それを正解として歩むべきではない。聖なるものとは、見本ではない。それはそのもののオリジナルの生き方の見本だ。皆が自分らしく生き、その自分らしさがこの宇宙の法の秩序に則っている世界そのものが調和であり、それが平和だ。自らに与えられたオリジナルのピースを存分に発揮し、一番ふさわしいところにはまる。そこを見つけることだ。それは他者が喜び、社会を健全にし、そして自らが存分にその生き方を喜び、希望を持って表現する道だ。

ようこ:
昨年プミポン国王が亡くなられた時にまとめたものがあるので、読んでもいい?昨年の10月15日に書いています。

 


《プミポン国王からのバトンタッチ》

一昨日の夜7時のニュースで、タイのプミポン国王の容態が不安定だということを知り、「彼はもうそんなに長くないかもしれない」と思った。

そして7時半頃、座椅子に座っているいさどんの後ろに、プミポン国王の立っている姿が現れた。その時の国王の姿は先程のニュースで映っていた現在の白髪の年老いた姿ではなく、いさどんと一緒に昨年タイを訪問した際、寺院に飾られていた若かりし頃の国王の姿だった。

2015年12月に仏像の開眼式に招かれた

いさどんの後ろに国王が立っている姿を目の当たりにした私は、「彼はいさどんにバトンタッチしてから彼の行く先に向かうのだ」と思った。

それで昨日、午後3時頃、みちよんからの「タイの国王が崩御されたことを受けて、プラ・サンコムにメッセージを送ろうと思います」というメールを見て、国王が崩御されていたことをそこで初めて知った。それでインターネットで調べてみたところ、実は彼は日本時間で一昨日の午後5時52分に崩御されていたことを知り、「彼は肉体を離れてから、いさどんの元に来ていたのだ」とわかった。

そこで気付いたこと。昨年いさどんはプラ・サンコムに招待されて仏像の開眼式で祈りを捧げた、と今日まで私は認識していたのだが、実はいさどんは霊的にはプミポン国王に呼ばれ、彼の最後の誕生日(2015年12月5日)をタイの地でお祝いしてきたのだということ。もちろん、プミポン国王というよりも、そこには天の意志、時代の流れがある。

プミポン国王は、親日家としても知られ、1963年国賓として日本を公式訪問し、2006年の即位60周年祝賀行事には天皇皇后両陛下が出席されていたそうだ。

昨年、いさどんと一緒にタイを訪問した時には、特にプミポン国王との霊的なつながりを私は感じず、一昨年のインドの旅に比べタイという地にそれほど霊的なつながりを感じてこなかったのだが、今日になってその物語がするするとひも解けてきた。

昭和天皇様が崩御された後にいさどんの元に現われ、「日本の国をよろしくお願いします」と挨拶されたこと。談話室で休んでいたいさどんに山岸巳代蔵が現われ、いさどんに握手していったこと。一昨年の11月インドのガンジー記念館で、いさどんがガンジーの聖なる魂の波動を感じ、新たな時代の幕開けにつなぐものとして、彼から魂のバトンを受けたこと。今年の花祭りの際、出口王仁三郎さんから「私が実現したくてもできなかったことを実現してください」と託されたこと。そして今回、タイのプミポン国王からバトンタッチされたこと。

木の花ファミリーに託されているものは、私の人智では到底計り知れない ──── 。だから、天の物語を共に紡いでいくだけ。想像以上の物語がすでに用意されているのだから。


 

いさどん:
あなたはやはりここにいるべきだ。なぜなら、そういった記憶を忘れずに今日のこの場につなげるのだから。

ますます、先は見えなくなった。見えなくなったからこそ、進める。これが見えていたら、先へは行けない。なぜかと言うと、見えていたら、この古い戒律の中に我々も入ることになってしまう。それは今さらできない。見えないからこそ、行ける。この先に何があるのかを楽しみにして。見えていては行けない。

すべてのものは様変わりしていくのだから、わかった時点でそのわかったことを捨てなければいけない。いつでも自由自在に方向転換できることが宇宙の実相だとしたら、いつでも自由自在に時代の要請に合わせ、自らの価値観をひっくり返すことができるはず。それが本当の意味の高い精神を有するものであり、本来の仏教精神だ。それが「クニツクリ」であり、自由になっていくこと。そこに尽きる。

我々には、時代の波を泳いでいくことしかできない。波に呑まれてはいけない。逆らいもしない。波を乗り越えて泳いでいくことだ。我々の存在は、今までの世界に在る価値観で特定できないことは確かだ。何ものであるかはわからないが、それは未来が教えてくれる。

ようこ:
だからタイの人たちにとって、私たちが奉納したことは単に異国の空気というだけではない。これは日本の伝統でもないからね。だから、「一体何ものなのだろう?」と感じるのだろう。例えばクニツクリ奏上にしても、どうも日本の伝統ではないようだけど異国の新しい感じが漂っている。いさどんの奏上している雰囲気から、何か重要なことをやっていることは確かだ、と感じている人もいた。それは、「あれ?ここはどこだろう?」という世界。その心を私たちが生きれば、人々が目覚めるきっかけとなる。

いさどん:
我々は前人未到の道を生きている。それはパイオニアということではない。これは宇宙の実相だ。それは、常に自由であるということ。何ものにも囚われない。変化・変容・変態をくり返しながら常に進化する。そして時代を生きる。それが、宇宙を生きるということだ。

そうすると、過去のたくさんの聖者たちがここに託してくる意味が理解できる。彼らの生き方は決してそこで終わっているわけではなく、時代と共に未だに生き続け、進化し続けているのだから。そこにつなげないと、皆がつながらない。これは、地球上に平和をもたらすだけではなく、霊的にも平和をもたらす道だ。

僕は昨日のプレゼンテーションの最後に、「仏教の教えによって自我を取り除くことが、21世紀の新たな時代を導くことに気付きました。ですから、世界を平和にするためには仏教の精神が必要なのです」と語った。しかしそう言いながら、「NO」とも言っている。なぜなら仏教も進化し続けるものであり、戒律で縛るものではないからだ。仏教とは宇宙の法なのだから、そこを間違えてはならない。

僕は少なくとも、自由に生きられる立場を持っている。難しいとはいえ、誇れる生き方だ。

プミポン国王の志が何であったのか。お釈迦様の志が何であったのか。それをもう一度問い直さないといけない。後の人たちが自分たちの組織を維持するためにつくった戒律に、いつまでも縛られていてはいけない。

ある意味、プミポン国王は戒律の頂点にいた。頂点にいたからこそ、ある意味自由であり、不自由であった。その両方を感じていた。意識の高い人であったことは確かだが、意識が高ければ高いほど、自らの立場というものに矛盾を感じる。彼は王として生まれてきて、お釈迦様の精神と同じものを持っていたということだ。僕はいいね、自由な場所にいるよ。

ようこ:
だからこそ、この役割を果たせる。

いさどん:
心の王ではあるが、形の王ではない。難しいけれど自由な立場を与えられている。ありがたいね。

ようこ:
ありがたいね。

いさどん:
これは難しい。つまり、心はこの地上を生きるのではなく、天を、宇宙を生きなければいけない。我々は今も宇宙空間を旅している。世界観を広げることが、唯一、次に扉を開く道だ。だから、今やっていることは間違いない。「間違いない」というのは、囚われた「間違いない」ではなく、自由を見つけたという意味での「間違いない」だ。悟りというのはそういうことだ。ある特定の位置にポジションを見つけるのではなく、自由自在に囚われないというところに見つけなければいけない。

よし!今、「ありがとう、タイよ」というフレーズが出てきたが、そうではない。「この世界と共に」ということだから、そこにタイも入っているというだけのこと。

今日は良い時間をありがとう。

ようこ:
ありがとうございました。クニツクリ奏上をしてこの時間を締めませんか。

(クニツクリ奏上)

 

12月6日 第5日目・イ
(位置・現象界に最初に現れる粒子)

ー 朝、寺院を出発する前、仏像の前でクニツクリ奏上を皆で行った。

《昇る朝日のような道しるべ》

いさどん:
今、天に語りかけることは ──── 私の思うところを生きます。それは、天の示されている美しい心を持ち、地上に美しい世界を表現すること。私の意志はそのことに何ら偽りはありません。しかしながら、地上のものたちが未だ今までの価値観に囚われ、天の示される意味を理解しておりませんゆえ、正しさを履き違えております。そこで、私は天の意志に目覚め、新たな時代と共に先駆けとしてそれを実践していくことを自覚したものとして進みます。

なぜならば、地上のものの知恵を使って先を思い、それを想定していくことは、天との対話により存在するこの世界の真実から離れるからです。我々が目指すべきもっとも重要なことは、天の意志に沿って生きること。その先について、我々は考えません。それがどのような道であっても、その苦難を受ける覚悟はありますが、歴史がそうであったように、その道を開く天の意志と共になければ、その道はただ苦難だけに終わります。

まっすぐな道の先に、昇る朝日のような道しるべを示していただく ────。わかりました。

(しばし沈黙)

今、この歩む道の先に昇る朝日のような光が射してくるのが観えた。

お釈迦様は、自らに訪れる自分の中の魔を払拭した。お釈迦様は人々を導き新たな時代を示すために、自らの心の中に訪れる魔と対峙したわけだ。・・・そうか。わかったぞ!

僧侶たちはお釈迦様に訪れた魔を想像し、それを戒律として定めたのだ。しかし、魔と対峙するということは、戒律を守ればいいということではない。それは、真っ直ぐな光への道を見極める心をつくること。だから、出来事を指しているのではない。出来事はすべて幻だ。しかし、その出来事に対するこちらの心が魔を生み、汚れをつくり、美しいものを汚していく。だから、美しい心で真っ直ぐ歩めば、この世界にあるものはすべて美しくなる。それが、天が我々に求めていることであり、そこに汚れた心を一切介在させるな、ということ。つまり、解釈を介在させるな。解釈を介在させず、自然生態系の姿のように、一切そこに駆け引きの心をはさまず、美しい行いをすれば、美しい世界になっていく。

・・・言葉で表すのは難しい。でも、わかったぞ!

魔は、人の心の中に差すのであって、人々はそれを恐れて戒律をつくった。そして、戒律を守ってさえいれば道から外れないということにしたから、人々は美しい心を見分ける力を失ってしまった。己の心が美しく、真っ直ぐに、その光に向かっているならば、そのまま行けばよい。

目的は美しい心になることであり、戒律を守ることが目的ではない。戒律は手段だ。ただ美しくなればいい。

ようこ:
結局、世の中でも仏教でも、「形」が問われているけれど、私たちは「心」を問うているわけだから。

いさどん:
心を美しくすれば、自ずと形は美しくなる。

私がそのようになればいい。もうすでに時は来ておるゆえ、私がそのように歩めば、そこに道のあるものはすべてそこに追随していく。

・・・目をつぶると、この道に出会った頃のことを思い出す。己の姿が大仏のように大きくなって、目の前にいる小さな小豆粒のような存在が、その時の自分自身であるということに気付いた時のことを。

今は目をつぶると、己が黄金に輝く巨大な魂であって、その目からこの世界を眺めている。それは、おごりでもなく、真実の目を持ってみると、そのような景色が観える。

ようこ:
だから、いさどんに現れた黄金のブッダは、人の到達すべき魂としての境地を示していた。仏像はいつも人間界を眺めているでしょう?だから、仏像を偶像として崇めるのではなく、魂のあるべき姿として観ればいい。

いさどん:
我々は仏像を崇拝しているわけではないが、けじめだからね。クニツクリ奏上を行おう。

(クニツクリ奏上後)これは良い旅だ。

ようこ:
このエコ寺院をデザインし、天井画も描いたナショナル・アーティストのプリーチャさんによると、この月は7つあって、7日間・1週間を示している。しかし、それを聞いたいさどんは、「でも、あそこに見えない新月があるから、月は8つだよ」と言っていた。

上部に新月がある

その時に私は、「第8番目の聖者」の話を思い出した。これからは一人ひとりの衆生が目覚める時代でしょう。誰もが第8番目の聖者である、ということを思った時に、この8番目の月の下のところにマハジャナカ王(ブッダの過去生)が7日7夜泳ぎきって自分のやるべきことはやりきった時に、天使が現れ、天のサポートがあって助かったという物語が描かれている、と思った。

いさどん:
決意を持って命を懸けて乗り切ったということだ。

ようこ:
あそこに描かれているのが現代のバンコクのような混沌とした乱れた人間世界だけれど、ちょうどこの新月のところに描かれているのは人間のあるべき理想世界なんだよ。

いさどん:
これは桃源郷を現している。

乱れた人間世界
人のあるべき理想の姿

ようこ:
プリーチャさんがそのことを意識して描いたのかはわからないけれど、天意としては、これからの人々の目覚めを示していると感じたんだ。

いさどん:
この世界は八方世界だから、そうすると七方に対して、見えない八方世界に人間には見えない真理がある。この天井画でも、我々が行うクニツクリ奏上でも、宇宙の成り立ちを現していて、我々はその成り立ちの中に皆、組み込まれている。

だから、人々はそろそろ上を向いて生きていかないといけない。

昇る朝日に向かって歩くいさどん

 

― その後、ニーム製品を輸入しているワサント社のあるサラブリ州に車で向かう。お昼にワサント社に到着し、午後は施設見学。

 

12月7日 第6日目・ム
(六つ・上下左右前後の六方向・無)

― サラブリ州から、プラ・サンコム氏の故郷であるスリン州に電車で向かう。夕方、スリン州に到着。大きく真っ赤な夕日に出会う。

《六角堂ではなく、八角堂を》

ようこ:
私は今まで太陽が八角形というか、正八面体と思ったことはなかった。太陽は球だと思っていたのだけれど、今、太陽を見ていたら八方に観えてね。すべては同じだと思った。

いさどん:
太陽にも、北もあれば南もある。春分から夏至・秋分・冬至もある。だから、この世界は八方世界なんだよ。

ようこ:
それを、ナショナル・アーティストがプラ・サンコムの寺院の天井画に表現していたのもすごいね。彼は「宇宙は八方だ」と言っていた。

中央の花のようなシンボルが、宇宙が八方であることを示している

いさどん:
その昔、僕が田舎の先祖の土地に八角堂を創ろうとしていた(笑)。

ようこ:
本当だね!なぜその時に八角堂だと思ったの?

いさどん:
普通、建築では六角堂というのはあるのだが、僕はなぜだか「八角堂でなくてはいけない」と思ったんだよ。

ようこ:
すでにこの世界の仕組みを感受していたんだね。

いさどん:
そして、そのまわりの土地は円にして、円の中に八角堂を建てるというイメージだった。まあ、途中で終わってしまったけどね。

「宇宙は丸く、地は方なり。」方というのは、四方ということ。

ようこ:
四方というのは、八方のことだからね。四の対向発生は八になるものね。

いさどん:
だから、四苦八苦というんだよ。

ようこ:
いさどんは、ここスリンでもクニツクリ奏上をする感じがする。先のことは行ってみないとわからないけどね。

 

12月8日 第7日目・ナ
(七つ・成る・質的転換・分身)

― 午前中はプラ・サンコム氏一族が運営する土地を見学。午後は市内を見学し、夕方、プラ・サンコム氏の故郷の寺院に招かれた。プラ・サンコム氏はいさどんにクニツクリ奏上を行うことをリクエストし、その前にいさどんは寺院に集った村人たちに対して挨拶をした。

寺院に集う村人から歓迎の読経をいただく

《この世界を清浄にするために》

いさどん:
皆さん、はじめまして(大拍手)。私たちは日本の富士山麓に暮らしています。その土地は13000年前に人々が暮らしていた、日本最古の遺跡の上にあります。ちょうど13000年前、東アジアにカタカムナ宇宙物理学を元にした高度な精神文明が栄えていました。私たちはその土地に暮らしながら、今の時代が物やお金にあふれ、人々が幸せでないことを憂い、共に助け合う暮らしをカタカムナ文明に倣いながら、心を美しくすることを最も大切にして生きています。今回、タイには友人のプラ・サンコムに招かれ、皆さんとお会いするために来ました。

これからの時代、世界中の人々が助け合って暮らし、その心の豊かさの上に幸せがあることが大切です。その大事を皆さんと共に広げたいと思っています。私は今回で3回目のタイへの訪問です。タイの国へ来ると、仏教国であることがわかります。本来の仏教の自由で平等な精神は、私たちが目指す社会創りの元となるものであり、私たちが求める精神そのものです。特に、この土地にはとても親しみを感じます(大拍手)。

ただ今から、宇宙の誕生・発展・消滅を表したカタカムナのマントラを奏上します。それはこの世界を清浄にします。皆さん、お聞きください。

クニツクリ奏上前に仏像に献花

 

12月9日 第8日目・ヤ
(八つ・飽和安定・極限)

《「やっと出会えたね」-ヤイターさんとの運命の出会い》

いさどん:
昨日、プラ・サンコムにここの土地を初めて案内してもらっただろう?実は不思議なことに、プラ・サンコムの姪のお父さんが持っている土地に行った記憶が僕にはある。そして、そこへ行った時にその隣で土地を持っているヤイターさんという女性がいただろう?彼女は70歳くらいに見えたのだが、実際は54歳だと言っていた。実は、僕は彼女に会った記憶があるんだよ。

彼女はプラ・サンコムやプミポン国王の話に賛同し、プラ・サンコムのビレッジと同じように、彼女の土地のまわりに池をつくった。池には魚がいて、ホテイアオイがたくさん繁殖していた。それに、たくさんバナナの木が植えられていた。プラ・サンコムもそれを手伝ってね。そうしたら、彼女の夫はそのことに強く反対し、それでも彼女がやり続けたら、彼女に暴力をふるい、しまいには彼女の歯が折れてしまった。彼女は今も一人でそれをやり続けている。

過去に、僕はその話を聞いた覚えがある。彼女の土地をずっと歩いていくと、途中の池にホテイアオイがたくさん茂っているのも見た記憶があるし、さらに奥に行くと豚が飼ってある場所も見た覚えがある。

池に繁殖しているホテイアオイ
豚小屋

しかし、プラ・サンコムは、今回彼女の土地へ行った時に初めてその話を僕にしたのだと言う。ところが、僕にはその景色の記憶がすべてある。それに、彼女の歯の話も僕は知っていた。だから、プラ・サンコムがその話をし出した時、「あれ?聞いたことがある話だ・・・」と思い、懐かしく感じていた。だから、余計に彼女も懐かしく感じたのだと思う。昨日、僕が彼女に「あなたのしていることはとても大切なことですね」と伝えたら、彼女は泣き出した。そんなこともあって、ヤイターさんとはとても仲良くなった。

ヤイターさんといさどんの運命の出会い

ちなみに僕の知っている豚小屋は、もう少し整備されていた。だから、もしかしたらそれは、未来のことかもしれない。

ようこ:
それを聞いたプラ・サンコムは、「それはいさどんの第六感ですね。あなたの魂がヤイターさんの元に行っていたのです」と言っていたね。

いさどん:
まさにデジャブだよ。スリンは初めて来た場所だからね。

 

― 夜行列車にてバンコクへと向かう。

 

12月10日 第9日目・コ
(極限を超える・転がり出る)

― 朝になり、バンコクに到着するまでの車中にて、いさどんとプラ・サンコム氏はスリンでの村づくりプロジェクトについて語り合った。

《日出ずる村・アルンルンビレッジ!》

いさどん:
スリンでのプロジェクトを進めるためには、まず、ビレッジの名前を考える必要がありますね。そこからスタートです。

プラ・サンコム:
タイ語で、このプロジェクトの名前は「母なる大地への感謝」です。それは、私にとっての理想のビレッジの名前でもあります。

いさどん:
そのプロジェクトの名前を村の名前にしたらいけないのですか?

プラ・サンコム:
それはあまり良くないですね・・・。何か別のものを考える必要がありますね。というのも、村の名前はもっとインパクトがあるほうがいいと思うのです。たとえば「木の花ファミリー」のように。

いさどん:
ハッハッハ。

プラ・サンコム:
たとえば、タイには「パンパン」というビレッジがあり、それは何千もの種という意味です。

いさどん:
それでは、あなたの姪に「ギン」ちゃんがいますが、「ギンギン」はどうですか(笑)?

ようこ:
日本語では、「ギンギン」と聞くと、エネルギーが強く、輝いているイメージが浮かびます。

プラ・サンコムの姪 ギンちゃん

プラ・サンコム:
それでは、「Rising Sun (昇る朝日)」はどうですか?「Rising Sun Village (日出ずる村)」というのはどうでしょう?・・・・見てください!鳥肌が立っています!!

Rising Sun Village!!

富士山に昇る朝日はぴったりでしょう??

富士山と昇る朝日といさどん

いさどん:
その昔、僕は「その心、日の本の国全体に説くがよい」と天から啓示を受けました。「日の本の国」とは地球のことです。

プラ・サンコム:
世界中には木の花ファミリーやオーロヴィルのような新たな価値観を目指すコミュニティがありますが、私のコミュニティは「Rising Sun Village」です♪

ようこ:
英語で、日本という国は「The Land of the Rising Sun (日出ずる国)」とも言われています。

プラ・サンコム:
お釈迦様の時代、お釈迦様は、「叡智とは昇る朝日のようなものだ。黄金の光のようなものだ。黄金の光を受け取ることは叡智を受け取るということだ」と言われました。

木の花ファミリーは、Rising Sun ファミリーです♪ Rising Sun(昇る朝日)とは黄金の光のことです。それは、叡智が湧き出るということであり、どのように涅槃という境地に到達するのか、悟りに至るのかという叡智なのです。

いさどん:
黄金の光だったら、黄金の鯉を持ってこないとね(笑)♪ ハッハッハ。

プラ・サンコム:
もちろんです!昇る朝日に黄金の鯉!大きな魚を育てないといけませんね(笑)。

ようこ:
Rising Sun Villageは、インパクトがあっていいですね!ちなみに、タイ語で「Rising Sun」は何と言うのですか?

プラ・サンコム:
「アルンルン」です!

いさどん:
アルンルン!いいね!!

プラ・サンコム:
皆さんの国である日本の民は、太陽から来ていると考えられていますね。ですから、日本人は「太陽の子ども」なのです。それで、木の花ファミリーは宇宙の愛を表現しているのです。なぜなら皆さんは、太陽から来たということは宇宙から来たということだと信じているからです。

私は高校生の時に日本の歴史についての本を読み、日本人は太陽の子どもだと知りました。

いさどん:
それは、天照大御神のことでしょう。

プラ・サンコム:
詳しくはわかりませんが、日本の歴史についての本を読んだ時、日本人は自らの民族に誇りを持っていると書いてありました。

いさどん:
それは、日本の成立時代のことですね。しかしその後、第二次世界大戦の時代には、日本は間違いを犯しました。軍がそれを利用したのです。戦後、その精神を日本人は失い、今は西洋的価値観に汚染されてしまっています。それは、日本人が優秀であるがゆえにできたことなのですが、今はそのことによって国が滅びようとしているのです。これから、日本人の本来の精神を取り戻す時が来ています。そして、日本人の中に新たな価値観が生まれてくる時、それは世界のモデルとなるのです。木の花ファミリーは、その一つの雛形なのです。

プラ・サンコム:
世界の人々は、日本を世界の技術大国だと見ています。しかし、木の花ファミリーはその対極を行っているので、とても斬新な存在なのです。なぜ、技術大国である日本という国に、精神性を求める木の花ファミリーのような存在があるのか?日本にあるからこそ、世界の人々は、「このような国にこのような場所があるのだ!」と木の花ファミリーの存在に驚くのです。もし、木の花ファミリーのようなコミュニティがタイやラオス、ベトナムにあったとしても、それはインパクトがありません。なぜなら、私たちはすでに自然豊かな国だからです。

いさどん:
木の花ファミリーが日本にその存在を認められるのは、難しいところです。難しいところですが、木の花の芽は絶対につぶれません。

プラ・サンコム:
はい。ですから、私たちは協力していく必要があります。共に学び、平和を維持し、愛や慈悲を表現し、母なる大地に感謝していくことが大切なのです。そして、次世代にバトンタッチしていく必要があるのです。

いさどん:
その智慧を渡さなければ、我々の世代は遺産として苦難を次の世代に残すことになってしまいます。

プラ・サンコム:
その通りです。ですから、これから木の花ファミリーとアルンルン・ビレッジが共にあるべきなのです。そして、タイの子どもたちに、木の花ファミリーの考え方や生き方を学んでいってもらいたいと思っています。

 

《2018年のテーマは「再スタート」》

いさどん:
これからアルンルン・ビレッジの形を整えていく時に、精神性を発信するという意味では、タイには仏教精神がある。仏教精神を新たにリニューアルし、「太陽のもとに」という意味での、日本とタイを合同させたような精神性に仕上げていけばいい。それを背景にして、精神性を日本から発信し、自然と融合した具体的な生活のモデルをタイに置く。そうすると、相互が足らないものを補い合ってひとつのビレッジのネットワークを創ることになる。地域の特徴を生かしたビレッジがありながら、その精神性は共通しているということ。それが最終的に、地球コミュニティになっていけばいい。

いずれにしても、次の時代は、人々が共同して生きていかなければ乗り越えていけない。その意味を若い世代に伝えていく。それは教育というよりも、次の世代の人たちはそういった精神性をすでに持っているから、それを呼び覚ましていくということ。実際に、今までのような分離の時代に抵抗感を持っている若者が現れ始めている。分離のもとに豊かさを探究していた者が、融合し共有することによって豊かさを求めていかなければ、次の時代を生き抜けない時が来ているのだから。

・・・今、来年のテーマが出てきたぞ!今年は「爆発の年」だっただろう?爆発で壊れたから、来年は「再スタート」だ。実は、「旅立ち」という言葉も出てきたのだが、これは単なる旅立ちではない。我々はすでに船出という旅立ちをしているのだから、改めて出発ということだ。ここまで歩んできたからね。

ようこ:
そうだね。日本に原爆が落ちて、戦後、日本が再スタートしたように――

いさどん:
そういった意味では、これは再々スタートだよ!

ようこ:
日本で言ったら、再々スタートだね。今日は12月9日だけれど、76年前の12月8日は日本が真珠湾を攻撃し、原子爆弾が落とされる直接のきっかけとなった日。

でも、心という意味では再スタートということなのかもね。だから、今年のキーワードは「心の水爆」なんだよ!心の水爆があって、核融合があって、来年、精神性が再スタートする!

以前からいさどんが言っていたけれど、2018年、2019年、2020年の3年がセットになっているイメージがある。2015年、2016年、2017年の3年もセットだったのだけどね。来年からの3年間は2020年に向けての準備期間に入る。

それこそ、2020年頃には、このタイとのプロジェクトも形になっていることでしょう。

いさどん:
アルンルン・ビレッジが立派な森になっているよ。あそこは自然豊かな木の花のパーマカルチャー版になるのだろう。

 

― バンコク駅に到着。

 

《プミポン国王の黄金カラー=いさどんに現れた黄金のブッダ》

ようこ:
さっき、電車の中で来年のテーマが出たでしょう?そのことを思っていたら、プミポン国王の魂を感じ、昨年彼が亡くなられた直後にいさどんの元に現れ、バトンタッチされたことを思い出した。それは霊的なバトンタッチであり、今回実際にプラ・サンコムの故郷を視察したことにより、「物理的にも日本とタイをつなぎましたから、私の役割はここまでです。あとは皆さんに託します」ということだった。

プミポン国王のシンボルカラーは黄色でしょう?いわゆる黄金なのだけれど、それが先程プラ・サンコムが話していた「黄金の光は湧き出る叡智を意味し、それは悟りに至るための叡智です」という話につながった。その黄金とはきらびやかな物理的なゴールドのことではなく、神聖なる天の叡智を黄金で示していて、いさどんに黄金のブッダが現れた時の黄金の意味とまったく同じなんだよ。

だからこれから、見えないものを見える形として現象化するために、タイと日本が共同することによって、ここから世界へ発信していくということが感じられた。タイでの滞在9日目にして、この物語の意味がひも解かれ、転がり出たと思っていた。

いさどん:
プミポン国王の意志とは違い、大多数の国民はその意志をどちらかというと無視して生きてきた。だから、国王は心が晴れて亡くなったわけではない。だから、次に託さなければいけなかった。当然、彼が生きていた時代背景もあるから、それは成しえない時の役割だった。一般民衆ももちろんそうだが、僧侶たちや国王のもとで国を運営してきた政治家たちも、その意志を進めようとしなかった。だから、プミポン国王は人生を通してその志をやりきれなかったのだ。

ようこ:
それは時代と地域性の、トキ・トコロの両方の面でそうだった。

3年前にインドに行った時もスピリチュアルな旅だった。あの時は、いさどんの魂の故郷の地であるヒマラヤにいさどんが挨拶に行くという、過去と現在をつなぐ旅だった。しかし、今回のタイへの旅は、現在と未来をつなぐ旅。いさどんがタイに縁があるといっても、過去生でいさどんがタイに住んでいたのかというと、それは感じられない。

いさどん:
僕にはタイの仏教を新しくしていく役割がある。

ようこ:
今回のタイの訪問は、いさどんの人生にとっては3回目ということだったね。タイと縁が深いということは、これからつないでいく役割があるから。

いさどん:
1回目は35年前にインドを訪れる前バンコクを経由し、バンコクの市内観光をした。2回目は2年前に訪れたマブ・ユアン自然学校、そして今回の3回目はアルンルンビレッジ!

ようこ:
今、世界中で人々の心は乱れているけれど、その建て直しがまずは、日出ずる国・ヤマトから始まり、それがタイヘと広がっていく。タイヨウの国・タイだからね。その話を成田空港へと向かうバスの中で話したね。

いさどん:
そうだね。

ようこ:
そこにつながった!爆発の年というのは核融合の年でもあるのだから、太陽の核融合の年に、タイに、太陽ビレッジ構想が始まった♪

 

― その後、クイーンズギャラリーに到着。ナショナル・アーティストのプリーチャさんに案内してもらいながら彼の展示品を鑑賞した。

 

《内なる美を現すゴールド》

プリーチャさん:
私は、プミポン国王をゴールドで描いていますが、このゴールドは物理的なゴールドを指しているのではありません。このゴールドは、内なる美を表しているのです。

― しかも、彼の作品の中には、「内からの爆発」というタイトルの作品がふたつあった。そのひとつ、「内からの爆発」は、2016年10月13日プミポン国王が88歳で亡くなられた日から翌日にかけて、プリーチャさんが仕上げた作品。もうひとつの「内からの爆発NO.2」は、プミポン国王が18歳の時に即位され、初めてスピーチを行った時の作品だ。

「内からの爆発」
「内からの爆発NO.2」

― アートギャラリーの入り口近くには、プリーチャさんと一般の人たちが共同で仕上げていく作品が飾られていた。プリーチャさんによると、左側は若かりし頃のプミポン国王、中央は死後のプミポン国王、そして右側は晩年のプミポン国王を描いたそうだ。左側と右側のプミポン国王のローブには、一般の人たちからのメッセージが書かれており、中央のプミポン国王のまわりにはメッセージを書いた人たちの名前が記されていた。

いさどんは、若かりし頃のプミポン国王のローブには、「タイ国の民衆と共にあります」というメッセージを記し、晩年のプミポン国王のローブには、「次の時代に託します。木の花ファミリーへ」というメッセージを残し、アートギャラリーを後にした。

― 夜のフライトでタイを出発し、日本に向かう

 

12月11日 第十日目・ト
(統合・融合・高次のエネルギー)

― 朝、成田空港に到着。木の花へと向かう車中にて。

《世界人類のためのプロジェクトとして》

いさどん:
ナショナル・アーティストによると、「プミポン国王は、民族・宗教を超えて、タイ国民のためだけではなく、世界の人々のために活動されました。これまでの10人のタイ国王の中で最も重要な国王であり、民衆はプミポン国王を単に国王として敬意を払っていたのではなく、タイ国の父として慕っていました」ということだった。

ようこ:
プミポン国王が亡くなられた時、国連の事務総長が「プミポン国王は国際的にも尊敬されていました」とコメントしていた。

いさどん:
それを聞いて思ったことがある。

富士浅間木の花祭り・世界中の清水が一つの釜で焚かれる

毎年1月の終わりに木の花ファミリーで開催される「富士浅間木の花祭り」では、世界中の清水が集められ、一つの釜で融合し、聖なる火で焚かれることで、新たな「クニツクリ」が始まる。つまり、「クニツクリ」とは、逆さまの時代を生きる人々が真実に目覚め、宇宙に創造された生命の星・地球で、神人合い和す平和な世界を創ること。そして、祭りの後にその清水はまた一つの海へと還っていく。

今回、我々はタイでの寺院の落成式に招待されたのだが、あの寺院は今回をもって正式に国の認める寺院として登録された。それは、プミポン国王の提唱する国創りに賛同した寺院ということだ。だから、あの仏像の体の中には世界各地の土が入れられている。それは、平和の象徴ということだ。しかも、プミポン国王の誕生日である12月5日は、世界土壌デーとなっている。

金色のカップに入れられた世界中の土が、仏像の中に入れられていく

そういった寺院の落成式に招かれる我々は、この富士山の地において世界中の水を集めた、火と水の祭りを開催している。だから、本当に縁が深いということを感じざるを得ない。

今の時代、タイに限らず、ここの生き方が求められていることは確かだ。そして、これはタイ国のためだけではなく、世界人類のためにあるプロジェクトだ。それを我々は現象化し、モデルとして、世界中の人々に示す必要がある。それがプミポン国王が望んでおられたことであるし、お釈迦様の意志でもある。

さらに、プミポン国王はそれを民衆の生活に表現したかっただろうと思う。

ようこ:
そうだね。中国の天盤の巡りによると、1927年に白陽期が始まっている。白陽期とは、民衆の目覚めの時代。実は、その年にプミポン国王が誕生しているのだから、まさにプミポン国王は民衆の目覚めのために貢献された方だった。

しかも、戦後、1946年という年は、プミポン国王が18歳で即位された年でもあるし、昭和天皇が国家の象徴となった年でもある。昭和天皇は天皇の神格性を否定し、新日本建設への希望を述べられたということだから、まさに民衆の時代の幕開けを意味している。

いさどん:
そして、人々がそれを実践していくことが、我々が次の時代へとつなげていくための役割であり、若い世代につないでいくことが我々に今、求められている。

 

― これは、新たな時代を生きる全人類へのバトンタッチ。
まずは、今ここに出会っている、あなたへのバトンタッチです。

 

21世紀のクニツクリは、
地球の細胞である私たち一人ひとりの目覚めにかかっている

 

 


大町道中記④ 〜 どこまでも無限に続く道

この日は一日の流れがとてもよく、養蜂の作業も早く終わって夜に時間ができたので、第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所の様子を描いた映画『サウルの息子』を観ました。映画が終わった後、いさどんが語り始めました。


 
宇宙のエラー

いさどん:
強制収容所では、ユダヤ人たちをもののように殺していく。その時に人としての心が動かないだろうかとも思うけれど、ああいう世界を人間はつくれる。落ちるとそこまで行く。自然界ではあんなことは絶対にない。人間にはものすごい幅があるんだよ。魔も愛も一緒くたに持っていて、条件によってどちらも出てくる。

宇宙創造の仕組みがあって、そこに命が生まれて、命が循環していって、そこに自らの存在にこだわるものが現れた。そして自我という囚われが確立されたのだけれど、その延長線上に、ここまでいかなくてもいいだろうと思うようなことが起きる。何を持ってここまでの人生設計図をつくる必要があるのか、と最近思うんだよ。地上で起きていることはすべて天の意志であるとしたら、それを善意に解釈しなければならない。その善意が観えないようなことでは、人間の存在は単なる宇宙のエラーのようなものだ。大いなるエラーだよ。

人間の幅は広い。誕生の時点で、それぞれの人生設計図がある。その時点から、一人ひとりが極めて個性的だ。なぜかと言うと、誕生するに至る理由がその設計図に既に仕組まれており、誕生するということは、その設計図ができる前の段階の結果だから。だから親を選ぶことも、民族を選ぶことも、国を選ぶことも、時代を選ぶことも、そこに至るまでのいわくがあり、それが設計図に表現されている。家を建てる時でも、設計図を作るには、まずどういうものを作りたいかという意向があるでしょう?我々も人生設計図と共に生まれてくるけれど、生まれる前からすでに、設計図に至るまでのプロセスがあるんだよ。
その設計図に則って生きていきながら、最終的には、その設計図に表現されている人生の地図の終着点に至る時が来る。それが死ぬということだ。

一日一日は短いようで、長いようでもある。平均寿命を80年とすると、地球の自転におよそ29200回付き合うと寿命が来る。寿命とは、地球の自転に何回付き合ったかだけなんだよ。だから毎日はカウントだ。地球の自転にどれだけか付き合うと終わりが来るけれど、その時に何を思うか。「自分はこのような死を迎えたい」と考えたところで、実際にその時になってみなければどうなるかはわからない。到着地点を想定して「こうなりたい」という願望を持つようになったら、それでは既に、道から外れている。大事なのは、そこに至るまでのプロセスだよ。
地球に生命として、その中でも人間として、そして個人として生まれてくることは希少なことだと言うが、それは事実だよ。世界観が広がって、この世界の広大さに目を向ければ向けるほど、オリジナルな自分であるということは非常に貴重な存在だ。しかし貴重な存在だからといって、生きている間の自分に囚われていたら、次の旅ができない。
いい旅立ちはするべきだけれど、それは完全燃焼の・・・・「完全燃焼」と言うとまた目標があるみたいだね。そういう言い方はいけない。そうではなく・・・・・「いい印象」か。「いい」というのは、心地よいということだよ。それでいいんじゃない、とか、次に行くか!というぐらいの、軽やかな旅立ち。立派に生きて誇り高い人生だった、なんて言ったらもうそこに執着している。

こうちゃん:
一日一日を一生懸命生きるということと、執着するということはまた別だよね。

いさどん:
そうだよ。何と言ったらいいのだろうね・・・死に向かって、毎日確実にカウントをしていくということかな。
一日一日を漠然と生きていると、たぶんどこかでカウントが忘れられて、自分はこれだけ生きたんだ、という充実感を感じられない。だから未練が残って、まだ死にたくない、となるのだろうね。

こうちゃん:
毎日毎日僕たちは生まれ変わっているとしたら、サッパリと死を迎えて次のステージに行けばいいだけだね。

いさどん:
でも前の日の自分を引きずるんだよ。だけどよく考えてみれば、最終的には必ず誰もがリセットする。今が永遠に続くかのように思っているかもしれないけど、必ずリセットする時が来るんだよ。

今年の作付けをどうするとかロータスランドの売り上げがいくらだったとか、それって一般社会に通用する話でしょう?そういうことではなく、そんなものを一切抜きにして、今から死に行く時の自分の心構えというか、心の持ちようの雑談をしても面白いね。
日常を生きるとは、日常に囚われるということでもある。今日の段取りとか、昨日の続きをこなさなければいけない、ということがあるとしたら、そういうものを全部抜きにして、魂だけの会話というのをしたら面白いなぁと思うんだよ。物理的制限のない会話ができたらおもしろいだろうなぁ。

ともこ:
おもしろいね。

いさどん:
どういうふうにおもしろい?

ともこ:
今、日常に話していることと全然違うんじゃない?

いさどん:
ところが、あまりにも日常に囚われていると、そういう状態になったところを想像できない。思考がそこにシフトするというか、そういう思考回路に慣れないとなかなか何も出てこない。でも僕が約束しなくても、必ずみんな死ぬからね。これってすごいことだと思わない?
エラーのように生まれてくる人がいる。エラーと言うと語弊があるかもしれないけど、障がいや性同一性障がいなどは一種のエラーと言える。ヒマラヤの聖者ババジは、今800歳を超えているそうだけど、見た目はずっと27、8歳だそうだよ。だから、ババジの弟子たちはみんなおじいさんになるけど、ババジだけはずっと若い。それはいいとしても、生まれることにエラーがあるのなら、死ぬことにエラーがあってもいいと思わない?あの人は宇宙のエラーで死なないんだって、とかね(笑)。
それを安易な発想で捉えると、単に「あの人は死なないんだってね」ということだけど、実際に宇宙のエラーで死ぬことのない人は「あの人、死ねないんだってね」ということになる。死ねないとは不幸だよ。エラーいこっちゃ(チーン♪)リセットできないんだから。そして出会う人出会う人が、みんな死んでいく。それは大いなるエラーか、それとも究極の罰か。それは、命に執着したがための罰だよ。たぶんね。

こうちゃん:
でもそれだって何にも執着しなければ問題ない。

ともこ:
私も、800年も生きていると聞くと「わー大変そう」と思うけど、その「大変そう」というのも今の自分の視点なんだと思う。

いさどん:
実際のババジと僕は会ったことはないけれど、800年以上も存在し続けたら、我々の80年サイクルの思考回路とは違っているから、別にいいんだろうね。違うからこそ、それが成り立つとも言える。

 
思考回路をぶっ飛ばせ

いさどん:
人口の推移から世界をひも解いてみると、産業革命から人口が急激に上昇して一気にピークを迎え、その後また、一気に落ちる。それが特別なことだということはわかるよね。
生命には、物理的にサイクルがある。人間なら80年、鯉なら普通は20~30年というように、それぞれに固有のサイクルがある。地球の人口のピークは2100年頃だと予測されていて、その後300年くらいをかけて、人口は再び急降下していく。2100年から300年後というと、2400年だね。
僕は時々、3000年のことについて語る。3000年にみんなで会おう!とかね。だけど3000年に会おうと言っても、今の地球の人口が76億で、3000年の頃にはもしかすると1億ぐらいに減っているかもしれない。そうすると、我々が輪廻転生を繰り返すと言っても、今の76億のうち75億は肉体を持っていないことになる。だって受け皿がないんだから。そうすると、3000年に同窓会をするとしたら、霊的同窓会になるのかなぁ。
どちらにしても、この2000年から始まる思考回路というのは、自分一人の人生のサイクルだけではなく、それを超えて、人類の歩みとか、地球の歴史とか、そういうサイクルでものごとを捉えないと、時代についていけなくなる。

もう一つ、これから物理的に生きることには、大変厳しい時代が来る。今の子どもたちが30歳になって生きている姿を想像すると、微笑ましくもあるけれど、ある意味気の毒だなぁとも思うんだよ。僕はその頃の世界を想像すると、そこで生きたくはないなぁと思う。だけどそれを気の毒というのも、「これが快適」という基準があるからだよ。どんな場所でも、それはそういうものだと受け取っていけば、存在できるのかもしれない。快適の基準を持っていると、その基準から外れた場所では苦痛を感じて、それこそ自殺することにもなるだろうね。

やっぱりね、もっと思考回路がぶっ飛ばなきゃいけない。ぶっ飛ばなきゃいけないんだって。

この間こうちゃんと、「生きていければいい」という話をした。生きていられさえすればいい。その最低限のことに喜びを持ったら、生きることに不安はなくなるよ。何か損をしたとしても、損をしたって生きていられるんだから別にいいじゃない。そして最終的には生きていることすらも天へお返しするんだから、別にいいじゃない。終わったじゃ~ん、てね♪

みんな:
ははははは!

いさどん:
死ぬということは大それたことじゃない。必ず来るんだから。僕は来年67歳。3年後には物理的には70歳になる。僕が70歳?と思うよ。だってこれまでの70歳の印象と、今実際この肉体の中に入っているものとが、合わないから。それでも鏡を見ればやっぱり70歳なのかなーと思うけれど、どうしたって中身と年齢が合わないんだよ。

ともこ:
おもしろいね。中身はどんどん進化していくのに、外見は老化していく。

いさどん:
そしてリセットする時が来るんだよ。僕は変態だから、とびっきりユニークに逝きたいな~と思うんだよ。ここでこそユニークに逝って、みんなの鼻を明かして旅立ちたいなぁと (^皿^)
やっぱり、独特に旅立ちたいね。死ぬ時は必ず病にかかる。老衰だって、最終的には心不全か何かになって逝くんだから。その死に病にかかった時には、嬉しいよね。そのプロセスを存分に楽しんで、「さぁ行くベ!」と旅立つ。高速道路で対向車がセンターラインを飛び越えてきてガーンとぶつかったとしても、「ここだったか~、こういうシナリオだったか~」と旅立つ。その時にはやっぱり、「おい、自分らしく、うろたえるなよ」ということは思うね。そんなところでうろたえたら、何のために今まで生きてきたかわからんじゃん。ここでこそ本領を発揮するところだよ。残された連中がいくら「死なないでー」と言っても、「そんなアホなこと言うんじゃないの」ってね。

こうちゃん:
そうね。いかに肉体に囚われずに毎日を過ごせるか。

いさどん:
肉体に囚われていると言うけれど、実際は同じ肉体じゃないんだよ。物理的にも霊的にも一緒じゃない。それは積み重ねていくものだから、実際には別物になっている。肉体は常にリニューアルして、様変わりしているんだよ。
そういうことを共有できる世界観を持っていたら、そこはとてもどっしりとした場所になるだろうね。微動だにしない。地震が来ても「おお、地震が来たな~。やっぱり避難はするべきだよな~」と。物理的には素早く避難しているけれど、思考は冷静なんだよ。

こうちゃん:
そうすると、楽しめるね。

いさどん:
自分の思惑が外れた時にどう対処するか。そして世の中が翻弄されているのを、「さてどうしようかな」と眺めている。

こうちゃん:
別に命がなくなってもいいんだけど、けっこう世界は生きることを保証してくれている。こんな天候でも作物はできるしね。気楽にいけるよ。

いさどん:
気楽にいけない人は、「今月は何円稼がなきゃいけない」と考えている。米や麦は一発勝負だから、それが想定通りにとれないと、金額の計算が合わなくて深刻になる。だけど生きていくことだけがベースになっていたら、別に米がとれなくたってサトイモがあるじゃん、てことだよ。
実際にそんなひどい状態にあるわけでもないのに、現代人はこれまでの右肩上がりの経済成長に囚われているものだから、経済成長が0%になると「大変だ」と大騒ぎする。0%なら別に例年通りなんだから、何も問題はないんだよ。±0の宇宙の基本に戻るだけさ。ところが、今は右肩上がりが行き過ぎているから、本来のところへ戻るには右肩下がりにならなくちゃいけない。それなのに上がり続けるという幻想に囚われているから、成長率0%ですら問題になる。別にマイナスでも、生きていけるんだよ。

こうちゃん:
そういう余裕を持って探求していかないと ────

いさどん:
観えない。余計なことを考えていたらものは観えないというのは、そういうことだよ。

こうちゃん:
「悟りたい」と思って必死になって余裕をなくしていたら、悟れないね(笑)。

いさどん:
そうだよなぁ。悟るというのは願望で思うことではなく、結果だから。行きついたところがそうだった、というだけだよ。

こうちゃん:
そうだね。「麦をとるぞー!」と力が入っている時には観えなかったものが、そこに自分を入れずに引いてみるとパッと気付けたりする。

いさどん:
冷静になって目の前のものと対峙するから、観える。計算で頭がグルグル回っていたら、観えるものも観えない。グルグルと損得勘定をするのは損をしないためだろうけど、結果として大損していたりするんだよ。

 
みんなで交響曲を奏でている

いさどん:
「ニンゲン」という二元の思考でいると、例えば北朝鮮の正義とアメリカの正義と日本の正義があるように、人の数だけ正義がある。しかし、「ヒト」という根本の法則に目覚めたものは、それぞれは個性的だけど、それぞれが根本の法則に沿っているから、そこには秩序が生まれる。
物理的現象世界に生きる者たちは、肉体的な制約の中で思考がとても狭くなっている。日常がタイムカードや電車の時刻表の上にある。もしくは金に縛られている。そんな人間たちが斬新な発想なんてできるわけがないんだよ。
我々はここまで歩んできて、世間と同じ要素を持ちながら、極めて斬新な発想を持って極めて斬新な場を創る下地はある。下地はあるけれど、まだまだその自覚が足りない。一人ひとりは育ってきてはいるけれど、まだまだ追い風になっていない、追い風になるにはどうしたらいいかもわからない人たちもいる。
追い風といっても、全体が進むのにそれぞれのノルマがあって、あなたはこれだけの推進力になってください、なんてことを課しているわけじゃない。全体が動いている中で、どれだけでもいいから、進行方向に向かってその人らしい風を吹かせていればいい。それって、全然エネルギーはいらないんだよ。例えばみんなで笛を吹いていたら、途中で休んでいる人がいてもいい。でも気持ちは吹いてるでしょ?みんなで合唱している時に、一人休んでいてもわからないけれど、気持ちはちゃんと一緒に歌ってる。そういうことだよ。
そういう意識が観られたら、その場は「みんなで交響曲を奏でている」というハーモニーが感じられる。その時に、いったいあなたはどこを向いてるの?と言いたくなるような、そこに参加している意識がないことが問題なんだよ。

ともこ:
難しいね。「こうしなきゃ」と思うことが行き詰まりになっていくんだけど、そうかと言って、自覚を持たずに「何でもいいんだ」とボーッとしてるのも問題なわけでしょ。

いさどん:
例えば、交響楽団がいるとするよね。ピアノ協奏曲ならピアノが主で、バイオリン協奏曲ならバイオリンが主でしょ。あるいはシンバルなら、盛り上がった時に「ジャーン!!」とやるだけで、後はないんだよ。出番はそこだけ。だけどその人は、演奏に参加している。別に力んでいるわけではなく、ただ流れに沿って、出番が来たら「ジャーン!!」とやる。すごい存在感だ。それだけでいいんだよ。

こうちゃん:
だから別に集中してなくてもいいんだよ。安倍さんでもトランプさんでも、みんな思考を回してエネルギーを使っているわけでしょ。自分のために。その同じエネルギーを別の方向に使ったら、もっと楽にエネルギーが循環するはず。自分の国とか自分のためだけを思っていると、自分でエネルギーを湧かせてこないと足りなくなる。

いさどん:
安倍さんの例をとると、やはり自分が総理大臣として支持率を得なければいけない。評価されたい。評価されるには、日本の国益を獲得しなければいけない。そういったものにがんじがらめになっているから、このくらいの成果を残さないとダメ!というのが先に課せられているんだよ。自分で自分にそれを課している。
だけど歴史というのは、先へ行ってみて初めて答えが出るもの。そうしたら、やるべきことはやって、あとは結果をいただくだけ、というスタンスでいればいいんだよ。そうすると、意外と相手からすり寄ってきたりするものだよ。

こうちゃん:
打つべきところを打つということは、やっぱり広い視野を持っているからこそできることだよね。そうするとエネルギーの無駄遣いはしないし循環していくということだとすると、やっぱりボーッとしてたんじゃダメだね。

いさどん:
ダメなんだよ。出番じゃなくても、流れは観てなきゃいけない。

こうちゃん:
かといって「こうしなければならない!」って力んでやっているのは、ある意味安倍さんと同じ。やっぱり広い視点を持って分析ができて ────

いさどん:
いや、分析なんてしていたらまたきゅうきゅうになっちゃうからね。模様眺めをしながら「ここは私の出番だな」と出るべきところで出たらいいんだよ。何もしてないようでいて、こいつはやるべき時にはやるな、という雰囲気が出ていたらそれでOKなんだよ。

こうちゃん:
そうそう。だから別に全部わからなくても、いつでも対応できる状態で待機していて、「ジャーン!!」てやればいいわけだ。

くわっち:
勘違いして構えてたね。ボーッとするか、なんとかしなきゃ、と固くなってるか。そんなんじゃみんなでコンサートする時に、いいハーモニーはできないもんね。

いさどん:
その一番いいキャラが、Aちゃんだよ。

みんな:
ああ~~。

いさどん:
誰もAちゃんにそんな難しいこと期待してないじゃん。だけどすごくいいキャラしてるでしょ。そういう落としどころがあるんだよ。

こうちゃん:
力まないところで発揮できるんだろうね。

くわっち:
心の水爆なのかなぁ。

ともこ:
心の水爆って何ですか??(✪ω✪)

いさどん:
言わない。僕は心の水爆を発見した。それは心の水爆とネーミングしたけれど、別に水爆じゃなくてもいいんだよ。でも水爆というネーミングはちょうど時代に乗ってるね。

やはり、ここまで歩んでくると ──── と言ってもみんなには観えないだろうけど、僕はこの心境でここまで歩んでくると、終末を意識する。僕の場合、終末を意識すると、その先を考える。そこまで心が飛ぶと、もうどうでもいい感じ。別に今のことを無視するわけではないし、しっかり生きるけれど、それはある意味、終末が観えて先を意識している者がそこへ向かう、惰性のようなものなんだよ。
僕は時々ケアの人たちにも喝を入れる。どうしてそんなにものが観えないのか、まず頭が悪い、ということもはっきりと伝える。なぜそういうことが言えるのかというと、自分に対して何も求めていないから。相手からどう思われようとかまわない。

ともこ:
「求めていない」ということは、余分な思考をしないということだね。

こうちゃん:
昔、いさどんを見て「あの人は武道の達人ですか?」と言った極真空手のチャンピオンがいた。彼は力で押してチャンピオンになったけど、年を重ねていくとだんだん若いものに敵わなくなってきて、どうしたらいいかといさどんに聞いたら、いさどんは「無の境地」を説いていたね。

いさどん:
力まないで自然体でいると、相手の攻撃がどこに来るのかが自然に観える。

こうちゃん:
それは武道でなくても同じだよね。

いさどん:
その究極が、何か問題があった時に全て、天に丸投げするんだよ。もう私は知りませんよ、全部あなたの責任ですよ、とね。

こうちゃん:
いろんな引き出しがあって、それを自由に選択して使えるような状態になるといいよね。

いさどん:
そうそう。将棋みたいなもので、いろんな駒があって、それを一番ふさわしい時にパチンと打てるだけの余裕がないといけない。

ともこ:
ある段階までは力みも必要でしょうか?

いさどん:
意欲がないとダメだよ。

ともこ:
意欲と欲は違うのね?

いさどん:
意欲というのは、向かおうとする意志であって、意欲があるということは、結果を決めつけてはいないんだよ。

ともこ:
なるほど!欲は、こうなりたい、ああなりたい、と、結果を自分で決めてるんだね。意欲はもっとフリーな状態だ。

いさどん:
「ヨク」というのは、「ヨ=よこしま」に「ク=自由」だから、あっちもこっちも欲しい、という感じだね。「イヨク」は、あっちもこっちもという欲の「イ=位置」が決まっていて、「これだ!」と定まっている状態。

ちなっぴー:
いさどんは意欲のかたまりだよね。

いさどん:
極めるというのは神業だからね。田んぼをやる時に、稲穂が倒れるか倒れないかのギリギリのラインを目指すような、常にその気持ちを忘れないということだよ。
生きるということにはバランスがある。例えば日本刀を打つ名人とか、野球の神様と言われる人とかがいるでしょう。それは神業とも言えるけれど、「〇〇バカ」とも言えるんだよ。生きるということは、本当はそんな風に何か一つのことだけをやっているのではダメなんだよ。いろんなことに意欲を湧かせていく。きっと、カタカムナ人はそうだったんだろうね。それは一人では限界があるから、群れて暮らした。
それは地球暦と同じだよ。一人ひとりの地球暦を見ると、偏りがあってひどいな~と思う。極端なことを言えばみんな問題がある。

こうちゃん:
だけど、僕ら全員の地球暦を合わせたら、ものすごいんじゃない?

いさどん:
それこそ完璧だよ。だから群れなさいというんだよ。

こうちゃん:
カルマも個性として、陰性も陽性も全部合わせたら中性になる。

いさどん:
そのことについては、ここに来るまでの車中で解明して話してきたよ。

こうちゃん:
だからもっと気楽に、自分らしく自分の分を貢献すれば、全体としては完璧だよ。

いさどん:
だからそれがシンバルの「ジャーン!!」なんだよ。1回きりでいいんだから(笑)。その代わり、そこを託されているのにそのタイミングを逃したら、みんなコケるよ。
志を同じくしている者が、人生という交響曲を共に奏でる。その指揮者は、時代。あるいは、天。いつもその指揮者の方を向いて流れを観ていたら、「ここだ!」というタイミングで「ジャーン!!」とやることができる。だから天を観ていなさいということだよ。

 
個人の最高の幸せ — 地球益

ともこ:
地球暦って、紙面で見ると平面だけど、実際は立体でしょう?だから平面上では全部の惑星がつながって見えても、立体で捉えるとけっこう間はスカスカだよね。

いさどん:
そうだよ。平面で捉えて角度が何度と言っているけど、三次元で捉えたらものすごく離れていたりするんだよ。

ともこ:
てことは、結局みんな偏ってるんじゃないの?

いさどん:
それは違うよ。例えば夜空に星座があって、それが地球上からだと三角形に見えるとするでしょう。ところが、それを横から見ると3つの星はまったくバラバラでいびつだったりする。そうすると意味がないかのように思えるかもしれないけれど、実はそこに意味があるんだよ。つまり、そのくらいいびつでありながら、地球に向かって三角形を描き、それを我々に見せてくれているんだよ。地球からだけそう見えるということは、地球に向かってメッセージを送っているということでしょう?それを意味がないと否定したら、そこで終わりだよ。
こんなにもいびつな状態でありながら、地球に向かってメッセージを送っているということは、そこに意志があるということ。天には意志があるということがわかったら、すべてを受け取れる。物理的な矛盾を並べてケチをつけているようでは、意志は感じられないよ。だからいくら宇宙の流れについて語っても、物理学者がそれを信じられないのは、頭の中が物理だけで、そこにメッセージや意志があるという発想がないんだよ。

こうちゃん:
利口になればなるほど、それを感じることには疎くなっていく。

いさどん:
有史以来の二元的賢さだね。「負けたくない」とか「得したい」とか。そしてすべての国が、結局は自国の国益ばかりを求めている。どうして地球の平和というものを考えないんだろう。それが最大の国益でしょう?なぜ同じ地球にいて、「地球益」というのを考えないんだろうね。

こうちゃん:
結局はそれが個人の最高の幸せなのにね。

いさどん:
そう。その安心の中に生きられる。それなのにみんな国益を背負っているから難しくなる。今テレビは北朝鮮の話題で持ちきりだ。この間まではISだった。そこで語られていることは、時間の無駄遣いだよ。何の解決にもならないんだから。

ともこ:
テレビでは、今北朝鮮が起こしていることに対して制裁だ何だと対症療法ばかりが語られていて、ではなぜ今の北朝鮮があるのかという根本的な振り返りがない。それを思った時に、木の花でメンバーやケア滞在者(心身の病の回復を目的に滞在している人々)が、自分の心をひも解いて、今の自分の状態がどこからどういう経緯をたどって今に至るのかを解明するのは、世界の現状を解明するのとまったく同じなんだと思った。それが解明されて「だからこうなっているんだ!」と気付いた時に、その問題は昇華される。だから、すごく大事な取り組みをしていると思ったよ。だって今の世の中にはその視点がないから。

いさどん:
今出会っていることのルーツを、常に意識して、理解していなければいけない。ただその現象の表面だけを見て反応するのではなく、それが何で起きてるのかを解明していく視点を常に持ち、できる限りの努力をして、なぜ今の状態に至ったのかを知った上でものごとを判断しなければいけないんだよ。そうすると、その現象に対する対処はまったく違ったものになる。

こうちゃん:
ニュースでその出来事に至るまでの経緯を振り返っても、本当に短いスパンでしか見ていないよね。何月何日にどうしたとか。本当はもっとずっと前からそこに続く流れがある。

いさどん:
すべてはアラビアのロレンスから始まっている。すべては十字軍から始まっている。すべては紙の発明から始まっている。すべてはカタカムナから始まっている。

ともこ:
すべては地球誕生から始まっている(笑)。

くわっち:
すべては宇宙誕生から始まっている(笑)。

いさどん:
人間には、極めてユニークな特徴として、自我が形成されるようになっている。だから、一人ひとりの目線がオリジナルなんだよ。一人ひとりオリジナルのフィルターを持っていて、それで世界を見ている。その自分のフィルターを通して見た世界が、他のフィルターを通して見た世界と共有されなければ、調和はとれない。
自我が強くなると、自分のフィルターを通したものしか信じず、それがすべて正しいと思っている。だから自分の思った通りではない反応が返ってくると、被害妄想的な人間なら攻撃されているんじゃないかと受け取ったりする。傲慢な人間なら、「何でわからないんだ」と思うだろう。

人間が70億人いれば70億通りの個性があり、その個性の羅列の中で、波が起こるようになっている。例えばガングロのお姉ちゃんたちが一生懸命自己主張していて、それが支持されたら嬉しいわけでしょう。白人至上主義者が「あなたが正しい」と支持されたら喜ぶでしょう。そこには視点の違いがあるだけだよ。その視点の違いを主張して、相手を打ち倒して、平和になろうとしているのが今の世の中だ。その延長に平和を表現しようとしている。
アメリカはそれをやってきて、今のような状態になっている。それをカモフラージュするために、多民族国家を掲げて人権尊重を制度に組み入れてきたけれど、そもそもアメリカという国家自体が、他者を支配して自らのフィルターをかけた正しさを主張して成立しており、ぞれをずっとやり続けて勝ち続けてきたんだよ。そして今、その自分たちのフィルターの実体を知る段階に来ている。それはつまり、最終的な仕上げとも言えるね。アメリカという国は、大らかで何でも受け入れる国でありながら、実はその奥にアメリカ的フィルターがあって、それで世界を支配しようとしてきた。それをも超えなければいけない時が来たんだよ。
だから、白人至上主義が間違っているということでもなく、リベラルな人たちも、アメリカ国民としてアメリカらしい誇りを保とうと言っているのだから、同じ穴のむじななんだよ。そうやって双方が陰陽のバランスを取りあっているということだ。

ともこ:
視点を変えるというより、共有するんだね。

いさどん:
そう。それは違いによって強いものが弱いものを支配するような、強弱の視点ではないよ。
人間は自我によって、欲望を満たす時に快感を感じる。その快感ゆえに、それがいいことだと思い、自我に取り込まれていく。そして依存症になる。お金依存になったり、便利さ依存になったりするわけだけど、お金や便利さがあふれると、人間は傲慢になり、そして退化するんだよ。本来自然と生きていくための能力が、便利になることで使う必要がなくなって、退化していく。ところがそこに欲望を満たす快感を感じるものだから、依存症が広がっていく。そのことが観えていない。みんな冷静さを失っている状態なんだよ。
そしてさらにフィルターが複雑になったり色が濃くなったりして、自分の考えと同一のものを求めるようになる。これがつるむというやつさ。自分と同じ色のものを求めていく。そしてつるむと、今度は違うものと対立するんだよ。マスコミでも政治家でも、どこを観ても、自分の主張が正しいものだと受け取られたい、という衝動が観える。そうではなく、そういったものを全部払しょくして、大らかにそれを語れる視点が必要だ。

そこで、どうしたらいいのか。その構造を理解し、それは互いのフィルターを共有するための共通点を探す、ハードルのようなものだと捉えたらいいだろうか。
北米やヨーロッパの先住民族の中には、海鳥をアザラシの皮の中に入れて発酵させて食べる文化がある。そんなもの食べられないよー!という人もいるけれど、それは自然が与えてくれたんだよ。その智恵も、食べ物も、そして味覚も。そこにはプロセスがあり、誰にも否定できるものではないのに、自分のプロセスから外れているからといって否定したり、極端になると「それは変だ」と言って改めようとする。そういう考えでいるから、いつまでも対立する。

ともこ:
やっぱり、この視点は世界平和の鍵だ!

 
フリーな心でいよう

いさどん:
2012年12月21日の銀河の冬至をもって、我々は闇のピークを越えた。その時点で、本当はすべてが変わらなければいけないんだよ。それは見る方向が変わるということ。だけどあまりにもこれまでの方向に慣れ過ぎていて、それが永遠のように思っているんだよ。生まれた時からそうだから、その漬け物になっているようなものだ。だから視野を大きく広げて、自分の枠すら超えて物事を観なければいけない。
地球は現象化の星だから、何でも現象化して見せてくれる。だから人間は、地上に天国も、地獄もつくる。地獄は死んでから落ちるところじゃないよ。今現在地獄を生きている人がたくさんいる。しかし実はそれすらも調和の中に在るんだよ。相対する存在を創り、それが互いにバランスを取っている。それを両方観るには、引いて観なければいけない。引いて観るということは、熱くならないということさ。

こうちゃん:
今のスーパーコンピューターは、基本的に0と1で計算していて、ものすごく広いスペースに並んでいる。だけど今、中性子のコンピューターというのが創られて、それはほんの一坪くらいのスペースで済むんだって。コンピューター自体はもっとずっと小さいんだけど、なぜ一坪必要なのかと言ったら、そのコンピューターを動かすには絶対0℃の環境が必要だから、それを冷やすためのスペースなんだって。だけど今までのコンピューターに比べたらものすごい省エネだよね。
それで、中性子コンピューターには、0と1が同時に存在しているって言うんだよ。そして今までのスーパーコンピューターよりも格段に計算が早い。それはなぜかと言うと、今までの0、1、0、1、のコンピューターだと、全部計算をしないといけないんだって。ところが0と1が一緒になっていると、それが一瞬で終わる。理屈はわからないけど、ずっと少ないエネルギーで済むし、スピードも速くて、場所も取らない。「二辺を離れて中道を説く」と言うけれど、宇宙には電子と陽子と中性子があって、すべてが同時にあるのが当たり前の世界じゃない?つまり良いも悪いも一緒になっているところを中道と言い、その両方を同時に理解しているということだよね。それって調和だよ。だから地球上でこんなに醜い世界が展開されていても、それで調和がとれている。

いさどん:
宇宙は戦争しないでしょ?でも地球に現象化すると、戦争ができる。それは「差」ができるということだよ。あるがままの状態では戦争は起きないけれど、現象化してそこに「差」が生まれると、それを元に戻そうとする動きが生まれる。両極端の存在が互いに引っ張り合って、中道に戻ろうとする。

こうちゃん:
「差」ができるということは、現象が生まれるということだもんね。

いさどん:
そう。そして「差」を取ると戦争がなくなる。

こうちゃん:
現象というのはもともと、「差」を見せるためにつくられている。

いさどん:
そうだよ。そしてそこにはサイクルがある。人間だったら、オギャーと生まれてから人生を表現していくにつれて、どんどん「差」ができる。それがだんだん消耗していって、死ぬとリセットされる。すべてのものにはサイクルがあり、それが全部消滅するのが「差取り=悟り」だよ。

こうちゃん:
だからずーっと遠くからそのサイクルを観ていれば、消滅した状態をも観れる。

いさどん:
ずーっと引いて観たら、あるサイクルはさらに大きなサイクルの中に在ることが観えてくる。そしてその大きなサイクルも、さらに大きなサイクルの中に在るというように、すべてが相似形になっている。さらに引いていくと、それらのサイクルの集合体自体が一本の太い線になっていて、さらに引いて観るとそれすらも細い線になる。

こうちゃん:
そのくらいの心で堆肥まきもやれるといいよね(笑)。

いさどん:
堆肥をまくときには「たいひんだー」と思うでしょ?(みんな:笑)だけど間違いないのは、今回まくのはここからここまでという限定がある。だから、1ヶ月間ずーっと堆肥まきするわけじゃないのよ。それから、すべての圃場にまくわけでもないのよ。人の畑にもまかないのよ。だから冷静に考えると、「これだけの量をこれだけまけば終わり」ということなのよ。そうしたら、「たいひんだ、たいひんだ」と思う前に、ただやっていけば終わるんだよ。

何かを限定するのではなく、常にフリーな心でいよう。限定すると苦しくなる。フリーな状態だからこそ、流れが読めたり、気付きが生まれるんだから。

 
「ニンゲン」から「ヒト」へ

いさどん:
銀河は、円になっている。人間が世界観を広げ、スケールの大きな意識で語るとね、その円の中心が「ざわざわざわー」っとするんだよ。つまり、こちらの悟りに、銀河が反応するんだよ。人間が悟るということは、宇宙に対してそのくらい刺激を与える。人間とは、それだけの存在なんだよ。

そのくらいのスケールで生きたいものだと思う。事実、人間は銀河の物理的作用に対して影響力がある。本当に、銀河がふわふわ~っと、波打つんだよ。「銀河が波打つ」と言うと、人間のスケールからしたらものすごく巨大なことでしょう?

太陽も、そういう反応をしてるんだよ。太陽には意志がある。そこと共鳴して生きているかどうか。
この間、太陽フレアの影響で地球の磁場が乱れたことが話題になっていたけど、こちらから発しているものを受けて、向こうも反応を変えてきているんだよ。つまり、対話できるんだよ。あちらの意向を聴いて生きていれば、こちらの意向もちゃんと伝えられるようになる。そうでなければ、地球人が太陽を信仰するわけがない。何を根拠に太陽を信仰しているのかと言うと、キャッチボールができているからさ。その領域に達した者が確信を持って、そのことを伝えてきたんだよ。人間はそこまでの領域に行くことができる。それを、「そんなのは絵空事だ」と言ってしまえばその通りになるだけだ。

物理的な太陽を見て語りかけるのは、幼稚な段階。あの物理的な太陽の奥に、霊的な太陽がいるんだよ。同じように、あなたの顔の奥にも、霊的なあなたがいる。その霊的なあなたに語りかけなければいけない。太陽も、霊的な太陽に語りかけなければいけないんだよ。人間は富士山に登ってご来光を見たり、物理的な太陽を拝んでは「神々しい」と感動しているけれど、その奥に霊的な太陽がいるんだ。
ロータスランドにかかっている絵に描かれている光は、太陽じゃない。霊的な光なんだよ。そういうものがあるんだよ。

ロータスランドにかけられている”桃源郷”を表現した絵

いさどん:
人間は、そこまでのスケールの存在になれる。
仏道というのは、下から積み上げていって上へと上がっていく道のこと。上には際限がないから、どこまでも無限に上がっていける。ところが神というのは、みんな神様に語りかける時には上を向くように、上から下へと降りてくる存在なんだよ。神様にもいろいろな位置があって、それぞれの位置から人間のもとへ降りてくる。「あなたはどこから来ましたか?」と尋ねると、意外と全体からすると下の方の神様だったりするんだよ。そういった神々は人間を誘惑し、惑わせ、それがいろいろな宗教の元にもなった。
だけど、仏道というのはそうじゃない。仏道とは「道」であり、下から上へと上がっていくものだから、その道には限りがない。人間がその気になったら、宇宙の根源までも行ってしまう。

ともこ:
上から降りてくるものはそこがスタート地点だから、最初から位置が決まってるんだね。

いさどん:
決まってるんだよ。ところが下から上への道は無限だ。だから仏教では、神を語らない。それを「人の道」としている。人が進歩していって「命(ミコト)」となり、「カミ」となり、「カム」となる、一番の奥まで至る道なんだよ。
ある位置から神が降りてきて人間に出会うと、人間は「ありがたい」と言って拝むでしょう。だけどそれでは、その神の位置を超えることはできず、人間の成長に限界ができるんだよ。そこで神が、自分を超えていくような人間に出会うと、今度は逆に神が人間に「自分を導いてほしい」と言うようになる。だから法華経を行ずるものは神が守護すると言うんだよ。神がそれを喜ぶんだから。人は、神をも超えていける存在なんだよ。そのことがわかると、神も「私も人間界へ降りていって、もっと上を極めよう」と思うんだよ。その段階の神には、まだ自我があるからね。
だから、仏道とは恐ろしいものだよ。恐ろしいとは、怖いという意味ではなく、果てしなく広い、無限なる世界につながっているということさ。

人間は太陽とも、銀河とも対話できる。そこでやっかいなのは、人間は物理的に語りかけて通じるものだから、奥が観えないんだよ。今こうして僕とあなたたちが話しているように、物理的に会話をして、通じているかのように思っている。だけど本当は、霊的な会話でなければいけないんだよ。魂と魂の会話でなければいけないのに、物理的なやり取りをして表面的に通じてしまうものだから、浅い付き合いしかできない。
銀河がふわふわ~っと波打つのも、物理的に波打っているというより、人間の発しているものに銀河の魂が反応しているんだよ。

ともこ:
私の奥にも、霊的なともこがいるんだね?それが何なのかわかんないけど ───

いさどん:
何なのかって、それがともこだよ。

ともこ:
そうすると、日ごろのともこはすごく小さなところにいますね?

いさどん:
それは物理的なところに囚われているからさ。今までのともこに執着していれば、霊的ともこもそこに引っ張られる。執着が足かせになって、魂が不自由な状態になっている。それを解放してやると、ともこは無限なものになるんだよ。人としての可能性は無限にあるんだから。
霊的ともこの次元が低ければ、それは物理的ともこの限界になる。物理的ともこのレベルが低ければ、霊的ともこの足を引っ張る。両方が縛りあってるとも言えるんだよ。だからそれを解放してやらなければいけない。

ともこ:
自分を磨けるのは、物理的ともこだけだね。

いさどん:
「磨く」というのは、物理的ともこの執着を取り去ることだよ。

ともこ:
だけどその物理的ともこがいるから、霊的ともこは自分を認識できる。

いさどん:
そうだよ。だから地球に霊的ともこが降りてきて、肉体をもらって、現象化することによって、悟りへの道を歩むんだよ。

僕が言っていることは、わからない話でしょう?いくらどう話しても、僕も人間だから、みんなも人間から聞いていると思うんだよ。だけどこれは、人間がしゃべっているけれど、ベースにあるのは宇宙人なんだよ。人間の姿をしているけれど宇宙人であるということは、ベースが「ニンゲン」ではなく、「ヒト」であるということだ。

人間の思念というのは、ものすごい速度 ──── つまりアマハヤミ(光の速度の10の64乗倍)で、 瞬間にして宇宙を駆け巡る。だけどそれは、その意識レベルの意識を持っているから初めて成ることであって、それがないものには一切通用しない、考えられないことなんだよ。
そういう思考を持って生きていると、それこそ「何でこんな世界ができるの?」という世界ができる。訪れる人が「あれ?ここはどこだろう?」と不思議に思うような、自分の中の何かを呼び覚まされる場所 ───── それが桃源郷、「ロータスランド」だ。

 

 


大町道中記③ 〜 生きていければいい

翌朝、テレビをつけると、朝のニュースで障がい者の就労支援活動が紹介されていました。しばらく番組を観た後、いさどんが語り始めました。


 
やさしさと正直さ

いさどん:
障がい者を取り上げて「やさしい社会」をテーマにしているけれど、そこに関わる人々の人間性はここでは浮き彫りになっていない。この支援活動をしている人の中には、「障がい者は不当な扱いを受けている」という怒りがある。でもそれは怒ることではなく、ただそういう事実があるということを伝えていけばいいんだよ。
一つの解決策として、自我がなくなると、そういう怒りというのはなくなっていくよね。自我があるうちは、「自分の言うことが伝わらない」とか「自分は損をしている」とか「私のいうことが正しいんだから聞くべきだ」というように、怒りが出てくる。だけどそれは、たまたま自分がそこに縁があったから今の立場にいるだけのことで、みんなで立ち位置を共有すれば、そういったでこぼこはなくなっていく。

僕は今の番組を観ながら、うちにもAちゃんがいるなあ、と思った。Aちゃんは障がいを持っている。それで、家の周りに草が生えてきたので草取りお願いね、と言えば「あいよ!」と言って取ってくれるし、だからと言って毎日「あれやってね」「これやってね」と頼まれているわけでもない。AちゃんはちゃんとAちゃんのキャラで、全体の足りない部分の隙間を埋めてくれている。圧力がかかるわけでもなく、かと言って何もしないで保護されているわけでもない。そういうことだな、と思いながら番組を観ていた。
人にはそれぞれ、足りない部分と足りすぎる部分があるとしたら、足りない部分を補ってあげるやさしさと、足りすぎる部分を「それはやりすぎだよ」と伝えてあげる正直さをみんなが持ったら、障がい者を支援することはいらなくなる。それが全体性ということだよ。今の支援活動は、障がい者を特別扱いしているから、結局共に生きていることにならないんだよ。何より、障がい者支援がビジネスのネタになっている。

もう一つ、番組の中で、生まれた時から脳に障害を持つ子どもを育てているお母さんが紹介されていた。障がいを持つ人一人に対して、一人以上がつきっきりの状態になっている。それは、自然界では無いことが起きている。もしも自然界で、誰かが誰かにつきっきりでなくてはならないなんてことになったら、生きていけないよ。そう考えると、今の人間社会では、障がい者はとても手厚い保護をされているとも言えるんだよ。つまり、そんなことまでできている世の中というのは、熟してきているということだ。
それでもまだ、障がい者に対して足りない足りないと言っている。十分だよ。やりすぎだとは言わないが、十分ありがたく思って感謝して暮らしていけるはずだよ。自然界では淘汰されるのだから。こういうことを言うと、業界からクレームが来るかもしれないけどね。
タイのプミポン国王は、「足るを知る経済」といって、求めるだけの延長に豊かさを表現するのではなく、助け合い、共に暮らすことにより、ありがたくいただく心の上に成り立つ経済を国の豊かさの指針としていたんだよ。

ともこ:
障がい者に対して現状で十分だというと、さっきの番組みたいな怒りが生まれるかもしれないね。

いさどん:
そう。相模原事件の時には過剰なくらいの反応が起きて、「障がい者の生きていく権利を奪うのか!」って、そんなこと誰も言ってないでしょう。ただ一人の統合失調症の人間がそう思っただけだよ。
でも、もう一つの観方からすると、彼の言うような見解も確かにあるんだよ。今ケアできているUくんは、植松容疑者の主張していることは事実だと思うと言うんだよ。そのことについて、彼は2ちゃんねるで語り合っている。そこには両方の怒りがあって、方や障がい者に対してひどい仕打ちだとする怒りと、方や実際にそういう人が生きていていいのかという意見がネット上で飛び交っている。
本音をすべて出し合って、そして落ち着くべきところに落としていく正直さが、この世界にはまだない。こういうことはタブーで、言ってはいけないことになっている。

ともこ:
それってさっき話していた「全体性」とは反対の状態だね。

いさどん:
世の中全体がね。全体性というのは、すべてがあからさまになって、個人個人の個性や能力が全体のものになっていくこと。そうすると、「差」が消えるんだよ。例えばあるグループの能力が一般の80%だとしたら、その80%をグループ全体の個性として生きていけばいいのだし、そのグループがさらに大きな全体の一部となれば、その足りない部分も全体によって埋められていく。僕の言っていることは、難しいことかな?

ともこ:
こうやって話を聞いていてなるほどと思うのと、実際に自分がそれを生きるのとはまた別だもんね。

みほさん:
どこまでわかっているのかも怪しいね。

いさどん:
だから大事なのは、自分はわかっていないんだということを原点に置いておくこと。そうすると、わかろうとする、受け取ろうとする下地ができる。ところが、自分流にわかってわかった気になっていると、常にわかった人のつもりでいるから、新しいものを取り入れる気にならないんだよ。そうすると発見がないから、そのまま変わらない自分でい続けることになる。
進化するということは、今の視点からでは未来はわからないということ。だから常に謙虚でなければいけない。どんなにわかったとしても、未来に対してはわからないということだ。

 
無駄が世界をダイナミックにする

いさどん:
自分を改める気のある人は、本当は深刻にならなきゃいけない。「自分は本当にものが観えていない、これではいけない」と心から思った時に、物事に対して「これでいいのか」「これでいいのか」といろんな角度から考えるようになる。そうすると幅ができて、その中心が観えてくるんだよ。本当にこれでいいのかと真剣になった時に、初めて自分のずれを修正できる。それをできるのは、自分だけだ。
人から言われて直すのもいいけれど、それでは言う側も豊かじゃないし、言われる側はなおのこと豊かじゃない。やっぱり本人が、自分のことなのだから「これはいかん」と思って真剣にならなきゃ。日常の細かいことをノーチェックにしてるから、ツケが溜まって大きな現象をもらうことになる。それで「また同じことをやってる」と言うけれど、本当は毎日瞬間瞬間それをやっていて、チェックできてないだけなんだよ。これは誰にでも言えることだ。
(うんうんと頷いているみほさんに向かって)今、人の話として聞いてるでしょ。自分事になってない。それで「今日はいい話聞いた」と言って終わっていくんだよ。真剣さがあったら、違う明日がある。

僕はこの話をしながら、いったい自分は何を言いたいんだろうと思う。何のためにこの細かいチェックが必要なのか。
人間の未熟さが今の世の中をつくっている。そうしたら、一つひとつの部品の精度を上げる必要がある。人間一人ひとりは、世の中を構成する部品だから。それをやっていく時代が来たんだよ。
どんなに科学技術が発達してテクノロジーに支えられていても、それを必要とする人間が不完全である限り、その不完全を補足するための作業が必要だ。病気になる人間がいたら、病気を治すための作業があって、それがビジネスチャンスになって、経済は膨らんでいる。これはバブル状態だよ。本来不要なもののために、経済が大きくなっているのだから。
ストレスを溜める人間がいる限り、ストレスを埋めるための行動が必要になり、それが商売になっていく。それは不要なものによって成り立っている経済でしょう?無駄な思考をして不満をたくさん生んで、それを解消するためにたくさんのエネルギーを使っている。不要なもので支えられているんだよ。

そこで、不要なものはなぜあるのか。
不要なものがあるから、この世界に不必要なことが起きて、その無駄なことが世界にダイナミズムを生んでいく。それがこの世界のエネルギー源となっている。もしも不要なものを全てなくしたら、そこに生き生きさはなくなるよ。生きることに幅がなくなるから。それは、悟った人ばかりの世界だよ。

みほさん:
おもしろくないね(笑)。

いさどん:
いや、おもしろいかどうかは別なんだよ。それがその時代なんだから。今は人口も産業もピークのある意味異常な世界だけど、後から振り返ったら、活気があったよなぁ、でも無駄なものがいっぱいあったなぁ、と思うだろうね。
僕が35年前にインドに行った時、当時は1日1食も食べられない人がたくさんいて、バングラディシュから100万人の難民がカルカッタに押し寄せていた。夕方になると、人々が牛の糞を燃やして火を焚いて食事の支度を始めるので、そこら中から煙が上がる。町の中は埃だらけ。そんな時代だった。
そんな中を旅していて、僕が一番印象に残ったものは、目。インドをバスで旅していて、夜になると街灯がないから真っ暗になる。時々バスが止まって休憩になると、真っ暗な中に屋台があって、そこに裸電球がぶら下がっている。そうすると、暗闇の中でそこだけがパーッと明るく見えるんだよ。そこでバスを降りてお茶をしていると、僕が日本人だから、周りにどんどん人が集まってくる。そして裸電球に照らされた目がピカーッと、好奇心いっぱいでこちらを見ているんだよ。屋台で出されたチャイを飲んでいる間も、周りには目、目、目、目、目。それはものすごい生命力に満ちていた。好奇心と、おなかがすいている不足感で、野生のエネルギーにあふれてるんだよ。

今は、野生では生きていけないようなものであっても、やさしい社会だと言って、障がい者は保護しなければいけないと言う。すでに保護されているのに、それでももっと保護しろと訴える。障がい者年金と特別雇用で買いたいものが買えるようになって、ものにあふれている。あの生命力に満ちたインドの目と、どちらがいいのかはわからないね。方や豊かで方や貧しくて、だけど生命力はあの時代のインドの人々の方がはるかにあった。そしてその一方通行な豊かさを追求したところで、社会は良くなってはいかないんだよ。

ともこ:
さっきいさどんが、そこら中無駄だらけだという話をした時に、私の思考の中は「そうか、無駄なんだ」とすぐに二元的な発想になるんだけど ────

いさどん:
僕は無駄があることをダメだと言っているわけではないよ。事実として語っているだけ。その無駄は、「無駄」という段階では不要なものだ。ところが、無駄があるということは、遊びがあって、幅があって、ダイナミックだとも言えるんだよ。そして、その不要なものをどう生かしていくか、それをどう考えたら無駄でなくなっていくのか、無駄が全部なくなったらどうなるか、と先へつないでいく。必要なものだけしかなかったら、いったいどういう世界ができるだろうか。きっと仙人のようなものばかりの世界になるよ。

僕はそれを思うと、もう思考が次へ行く。そういえば、かつて僕が金星にいた時はそうだったなぁ、と。金星ではどこを見ても調和と愛の世界で、誰もがお釈迦様やイエスのような存在だった。そんな世界、楽しい?だって、お釈迦様がお釈迦様の悟りを伝える場がないんだよ。イエスがイエスの愛を語るところがないんだよ。みんな当たり前だから。そこで生きてるんだよ。
そこで僕は、何のために生きてるんだろう、と思ったんだよ。調和と愛だけの世界で、生きている意味は何かと考えたら、「まあ、そういうところですな」というだけ(笑)。少しは語り合って、わからずやもいて「わからんのかー」とか何とか言いながらやっていった方がおもしろいじゃん。だけどみんな悟っちゃってるから、気付きも何もそこにはない。気付く必要がない。

くわっち:
昨日言っていた、神の世界だね。

いさどん:
つまらん世界だよ。

 
神様のジレンマ

カタカムナの八鏡文字

いさどん:
カタカムナの八鏡文字は、円を八等分して表される。それは地球が太陽の周りを1周するのと相似形になっていて、日本ならその1周の間に四季を迎える。人間は生まれてくると「四苦八苦」すると言うね。「八方ふさがり」という言葉もある。方位は東西南北で4つだけど、それをさらに割ると四苦八苦になり、それは行くところがたくさんあって迷っている状態。それが全部収まると、八方が飽和安定する(ヒフミヨイムナヤコトのヤには飽和安定の意味がある)。だけどその飽和安定状態でずっとやっていくと、一体全体何のためにこの世界はあるのだろうかと意味がわからなくなる。そこには何の波紋もないんだから。
湖の水がシーンと波風ひとつ立てずに凪いでいたら、実物と湖面に映っているものとの区別がつかずに、どちらが本当かわからない。ところがそこにポーンと石を投げると、波紋が起きて、「上が本物だ」とわかる。だから波紋が起きるのはいいことだよ。そして、波紋が起きるということはそこが真実なのではなく、上に真実があるということだ。

神様は自分一人で、退屈だったんだよ。だから飽和安定の「八つ」の次に「九つ」を創り、あえて余りものを創ることによって、「十=統合」という完成の世界を創ったんだよ。何の波紋もない完璧の世界というのは、それ自体が不完全なんだよ。それ自体を認識できないんだから。そこに不完全を入れることによって、この世界の存在や仕組みを理解することができて、統合する。かつて僕が神さまに聞いた通りの話が、カタカムナで立証されているんだよ。

時々僕はカタカムナを語りながら、これを人間に与えて何になるんだろう、と考えるんだよ。つまりそれは「悟り」ということでしょう?まず始めに、「ワ」ができる。これは「アマ」と言うんだよ。つまり、高次(ア)の間(マ)であり、これが宇宙ができるための器であり、アマとは即ち宇宙のことなんだよ。
それだけの状態だったら、何も起きない飽和安定の状態だ。「ヒフミヨイマワリテメクルムナヤコト」という一から十までを経てもまだ何もできてはいない。「アウノスヘシレ」という「ア」から始まって自動的に現象ができていく段階で、初めて現象化が起きるんだけど、現象化が起きることによって何が生まれるのかというと、矛盾が発生するんだよ。飽和安定(ヤ)から転がり出て(コ)きて、そのエネルギーが溜まっていくと現象化になる。カタカムナは、悟りのプロセスを完璧に表現している。
それで、これを人間に語ってどうするのかというと、人間を悟らせるんだという。ではどうして悟らせる必要があるのかというと、悟ってないからだよ。今の人間は悟っていないから、悟らせるということが必要になる。だからお釈迦様やキリストが必要になるんだよ。
ところが、金星へ行ってごらん。全員が悟っているから、「悟らせる」ということが不要になるんだよ。悟りを求めることがないから、実態が悟りそのものの世界を求めることもない。つまり今あるものが不要になるんだよ。そこにあるのに不要なんだから、辛いだろうね。あ、違った。辛いということもないんだよ。私はいるよなぁ。それがどうした、という世界。これが神様のジレンマだったんだよ。

ともこ:
永遠の世界で、ジレンマが発生する?

いさどん:
完成された世界では、その状態自体が不完全につながるということなんだよ。そこで、その完全に不完全を散りばめると、そこから矛盾が発生し出し、元の完全に戻ろうとする道が生まれてくる。それで完全を目指していって完全になると、今度はまたシーンとして何もないから「なんじゃこりゃ~!!」ということになって(笑)、また不完全を創って矛盾を発生させて「なんじゃこりゃ~!!!」ということをくり返してあっち行ったりこっち行ったりしながら無限にそれが続いていくと、それはこういうことになる(と言って、手で「∞」の形を描く)。これって「8」でしょ。

みんな:
ほんとだ~!!

いさどん:
ひどいわからずやがいるでしょう?そのわからずやをわからせて、その結果どうなるかというと、みんながわかってしまったら、とてもつまらない世界になる。
この間ヒロッチがみんなに配ったアンケートに、「あなたはどのような心境で死を迎えたいか」という質問があって、僕はこう書いた。「やっと来たか。」やっとこの世界から離れられる、よかったなー、と。
それでもあちらの世界に行くとそこは飽和安定してるから、その世界を旅立つ時には同じように「やっと来たか」と思うのだろうね(笑)。だから、いつも、「やっと来たか」の姿勢だね。それは常に前向きに進むということ。その繰り返しだ。これが宇宙の実相であり、神様の実体だよ。
だから神様って、とても滑稽なんだよ。僕は神様に、「あなたも気の毒な方だねぇ」と言うんだよ。だってこれではマスターベーションだもの。すべてが自らの内にあり、その中であっちに行ったりこっちに来たりしながら存在している。これを永遠に繰り返すんだよ。法華経ではこれを「三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)」と言って、宇宙が始まって崩壊することを三千回繰り返しているということだけど、三千回というのは2999+1ではなく、無限という意味だよ。「八百万(やおよろず)の神々」の八百万も、「百姓」の百も、すべて無限を表している。同じことを永遠に繰り返しているのだけど、それがわかったところで「だからどうした」という話だね。

くわっち:
でも同じことをくり返しながら変化していってるということだよね。

いさどん:
そりゃあそうだよ。同じことをくり返しながららせんを描いて進んでいるのだから、同じ場所には行かない。AからA’に、さらにA”にと進んでいくんだよ。そうすると、語れば語るほどもうどうでもよくなってくる。現状をひどい状態だと嘆いたとしても、別に核爆弾が爆発したって、その先には必ず次の道がある。かつて広島と長崎に原爆が落とされた第二次世界大戦では、日本人が600万人も死んだ。世界では、6000万人が死んだ。この悲惨な世界から立ち直ることはないだろうと言われたが、それがあったからその後の復興につながり、今につながっている。だから安定するとまたそれが壊れて、先へと進んでいくだけなんだよ。
地球では過去6億年の間に6回も生命が大量絶滅している。そしてその絶滅の後にも、DNAは次なる生命に受け継がれる。そしてDNAは進化していく。だから人類が大量絶滅しても、またどれだけか先に進むとそれを受け継いで進化した次の生命が現れてくるんだよ。AからA’へ、さらにA”へと確実に受け継がれていく。
そうすると、別に大量絶滅をしてもいいわけだよ。それを短く区切って見ると「北朝鮮が水爆を作った!?あんなものを爆発させたらえらいことが起きるよ」という発想になるけれど、大きく捉えたら、その出来事はすべてを消滅させ、DNAに託された情報が次の生命に受け継がれて、進化していく。広いスタンスに立てば、その段階が来ただけということだよ。

ともこ:
その進化はある意味無自覚な状態でしょ。だけど人間は ────

いさどん:
なぜ無自覚なのか。「自覚」という字を見てごらん。「自」という文字が入っている。つまり自分がいるから、自分がどうなるかというハラハラドキドキの中で自覚がある。ところが宇宙の時代の変遷という視点から観ると、自覚なんて必要なくなる。たくさんの自我がまとまって、それが流れとなっていくのだから。そこに自分があると自覚ができて、「私はどうなるんだろう」「今まで積み上げてきたものはどうなるんだろう」「今水爆が爆発したら(家のすぐ脇にある)あの花豆はどうなるんだろう」と不安になるんだよ。せめてあの豆を収穫してから死にたいわ、とかね(笑)。そういうセコい話が出てくるんだよ。
すべてを手放すことだよ。手放すと、飽和安定に戻る。つまり、平和になる。執着すると、自分のものだ何だと言って格差が生まれ、ダイナミックになり、問題ごとがあふれ出す。その極め付けが今の時代だ。

ともこ:
矛盾はそこから学ぶために起きる。だから人間がそこから学べばいいんだけど、学ばずに嫌だ嫌だと言ってるんだよね。

いさどん:
嫌だ嫌だと言うのも矛盾なんだよ。嫌だと言う必要のないことに言ってるんだから。なぜ嫌だと思うのかというと、ある特定のところに意識が限定されているからさ。だから「ここは嫌だ」と言ってるんだよ。ところがそこからずーっと引いて全体を俯瞰してごらん。それは広い全体の中のほんの一部に過ぎないから。
この世界は、「カタチサキ」の世界だよ。まず現象化として、今の世界の状態がある。そしてその奥に、現象界を支える潜象界の存在があり、それによってこの世界の実体が支えられ、動いている。時代の流れの中で今、カタカムナ理論がそれを立証し、この世界の全容が観える時がやってきた。13000年前のカタカムナの時代には、そんな理論なんてなかったんだよ。紙が発達して学習できるようになったから理論が生まれたのであって、カタカムナ人の時代はその理論をただ自らの能力として生きていただけだから、「こっちに行けば食べ物があるぞ」「危険が迫ってくるぞ」と直感で感じ取っていた。そこではコミュニケーションは、極めて単純で、言わばそれこそが「阿吽」の世界だったんだよ。

 
生きていければいい

いさどん:
おもしろいねぇ、こうして観ていくとすべてがどうでもいいということになる。そう言うとみんな頷くけれど、本当はわかっていない。
我々はどうするべきか。この間こうちゃんが富士宮に帰ってきた時に、僕のところへ相談に来た。大町ビレッジを運営していくのにどうしたらいいか、と。「どうしたらいいか」というと、一つひとつの不具合を調整していくことになる。だけど、一つひとつの不具合をモグラ叩きのように調整していっても、一つ叩けばまた別のところでポコッと不具合が発生する。そこで、逆の方法もあるんだよ。何かと言ったら、ポコッと出たものをそのままにしておく。それはそういうものだ、としておくんだよ。それが個性であると。
きたじゅんがはっきりしないのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。くわっちがグダグダ言うのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。みほさんが見当違いなのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。こうちゃんが欲求不満で悶々とするのも、そのままにしておけばいいじゃない。そうすると何が起きるかというと、その結果定着する場所に至る。そこで何を恐れる必要がある?

考えてごらん。この道は、飽和安定する理想郷を創ることを目指している。理想郷とは何かというと、今の社会とは違う世界だ。今は理想郷から極めて外れた世界になっている。それは人々の欲がピークになっている状態で、ああなりたいこうなりたいという欲が渦巻いているとしたら、こうちゃんが大町をもっと安定した場所にしたいと思うのも同じことでしょう?そういう願望をすべて捨てると、アホはアホのように、迷いは迷いのように、欲求不満は欲求不満のように、それらがすべて表現された状態で、「それが個性だよ」と観ることができる。そういう人なんだ、と観れるようになった時に、落ち着くべきところへ落ち着くから。

その後にどうやってそれを納得するか。僕はこうちゃんに言ったんだよ。我々の道は、大金をつかむためのものでもなければ、社会的成功者になるためのものでもない。この道を行くということは、「生きていければいい」ということなんだよ。生きていって、つないでいって、そしてその中で出会う情報を受けて学んでいけばいい。冷静に考えてごらんよ。我々は借金があるわけでもない。雨が降っても食うものに困るわけでもない。雨が降らないからといって食うものに困るわけでもない。子どもを育てられないわけでもない。どこかに不足があるだろうか。ないでしょう。そうすると、何を怯える必要がある?世間には不安を駆り立てるような要因があふれていて、みんな不安だらけの中で右往左往している。だけど我々は、一切不安のない場を創ってるじゃない。だからこうちゃん、これでいいのよ、ってね。

目的は、生きていくのにまったく不安のない世界を築くことだとしたら、我々はもうすでに生きていけている。この中でこそ、心が悟っていく場ができるんだよ。どこかの山の中に入って特別な修行なんてしなくても、今現在環境は整っている。毎日ミーティングをやって、これじゃあいけない、これじゃあいけない、とやっているけれど、そんな何も生産しない時間を毎日持って、日々の暮らしは十分に食えてるでしょう?どこかの会社が毎日そんなことをやっていたら、倒産するよ。ところがうちはそれでも継続できている。だからこうちゃん、できているんだよ、と話したんだよ。

だけどヒロッチは、それでは納得しないかもしれないね。だって実際にわからずやばかりじゃないか、と。いいのよ、わからずやはほっとけばいいのよ。欲求不満もほっとけばいいのよ。トンチンカンもほっとけばいいのよ。囚われてるのもほっとけばいいのよ。そういう状態にしておいても、生きていけるんだから、すごい仕組みを構築したもんだよ。

これって、ヘン?

くわっち:
いやぁ、でもそれだけだったらもったいないなぁ。

いさどん:
それはあなたに何か目的があって、それを達成したいという欲求があるからだよ。だけどその目的を達成するには、「今現在すべてを与えられていて、問題は何もない」という位置に行った時に、その目的は達成されるんだよ。

くわっち:
・・・ちょっとよくわからなかった。

いさどん:
そりゃあわからんよ。現状の問題ある状態があって、問題があるのに、よくよく違う視点から観たら何も問題はないということだから。明らかに問題があって「これではダメだ」という状態が、明らかに問題がないわけだ。もっと引いて観たらね。ということは、問題ない世界に行くためには、それに気付くだけだよ。「問題ない」ということにね。

 
世界を理解することで、世界と一体になっていく

いさどん:
すごくいい話だった!というところに落とせるかな~と期待していたら、ちんぷんかんぷんで終わることになったね。最終的にはどうでもいいんだよ。
「これじゃあいけない」というのは、(テーブルの上にある硬い茹で落花生を指して)この落花生はこれじゃあいけない。これで茹で上がったことにしちゃいけない。これでは足りないねということにしないとダメだね、これは。

みほさん:
はい。

いさどん:
あ、その「はい」は違ってるよ。僕は落花生の茹で方に特定した話をしたわけじゃないのに、あなたは落花生のことだと思って聞いている。何が言いたいかと言うと、ものには活かしどころというものがあり、これは活かしどころに行っていないよ、ということ。活かしていくという話をしてるんだよ。

ともこ:
だから、「これじゃあいけない、なんとかしよう」の延長線上に突破口はないんだね。

いさどん:
ない。それはない。

くわっち:
「活かす」という視点だということ?

いさどん:
違うよ。「気付く」という視点だよ。

宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円(球体・アマ)が発生し、そこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤ」と現象化への道が進み、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する。その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると現象化が起きる。それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」という世界を創造するために、飽和安定からこぼれ落ちる九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では、まだこの世界は「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。
だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元でもある。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。だからさっきの話でも、「そうか、こういうふうになっているんだ」と理解したところで、それが悟りだ。生きるということは、その連続だよ。「なるほどこういうことか」「なるほどこういうことか」を繰り返していくことで、世界と一体になっていく。

くわっち:
じゃあ普段のことでも、気付くことで ―――

いさどん:
進んでいくんだよ。だけど自分の言っていることがどういうことなのかにも気付いていないでしょう?それは宇宙から外れているということだよ。でも気付かないのも、そういう人だということで、僕はこうちゃんに「いいじゃん、放っておきな」と言ったんだよ。そうして気付かない状態を積み重ねていくと、10が限界であるとしたら、1で気付くのか2で気付くのか、はたまた気付かないまま10まで行って、そこで気付くための現象に出会って気付くのか。それを、10にならなければわからない者に1の段階で気付けと言ってもわからないのだから、放っておきなと言ったんだよ。
それはなぜかというと、こうちゃんがきたじゅんをどういうふうにサポートしたらいいのか、みほさんの見当違いをどう伝えたら直るんだろうかと自分の悩みにしてるんだよ。だから、違うよ、それはきたじゅんの人生であり、きたじゅんの悩みなんだから、その悩みはあなたが持っちゃいけないんだよと伝えた。みほさんの見当違いはみほさんの見当違いなんだから、みほさんに任せておけばいいんだよ。じゃあそれを見ながらどうしていったらいいのかとこうちゃんが聞くので、僕はこう言った。「いいじゃない。生きていけてるんだから」。
生きている限り、その変遷を見ることができる。変遷を見るということは、客観的視点でそれを観ていくということであり、それが悟りだ。

 
現代物理学を超える世紀の学会

いさどん:
もともと宇宙は、ものすごく昔の宇宙も、遠い未来の宇宙も、同じ世界なんだよ。地球がAからA’へ、A”へと進んでいくでしょう。そうすると変化しているように見えるけれど、実はそのすべてを包み込む器は同じなんだよ。湖にポーンと石を投げ入れたら波紋が起きて、それまで何の動きもなかった湖面に動きが生まれることでそこに「ある」ということが認識されるだけのことだよ。

みほさん:
器は変化しないんだ。

いさどん:
しないよ。この世界そのものだから。でもその中にいる者が、そんなことを考える必要はないよ。
僕は昔、神様にそういう質問をした。この世界はあなたがすべてであるのでしょう?と聞くと、神様は「そうだ」と答えた。ではあなたがこの世界のすべてであるならば、あなたがすべてではない、別のものがすべての世界が隣りにあるのでしょうか?と聞いたんだよ。すると神様は、「お前はそこまで考えたのか、仕方がない、私の実体がわかったものはそこまで思考するのだ、それが人間というものだ」と言い、質問に対しては「あるぞ」と言った。
当たり前だよね。宇宙は必ず対で成り立っている。「ある」というものが存在しているのであれば、それを成立させるもう一方の存在がないと成立しないのだから。バランスなんだよ。だから「ある」というものを特定したら、それを成立させる「ない」か何かが必ずあるんだよ。
そこで僕は、馬鹿な質問をした。「そのもう一つの世界とは、どんな世界ですか」と。それは質問をしたというよりも、瞬間的にそう思ったんだよ。そうしたら即座に答えが返ってきた。「そんなことを考えてどうする」と。つまり、ここの中にすべてがあって、ここの中に存在していて思考も何もすべてここの中にあるおまえが、もう一方の世界を理解できるわけがないだろう、それは無駄なことだからやめなさい、と言われた。そう言われて僕は、ああなるほどと納得した。

くわっち:
まったく違うから?

いさどん:
まったく違う世界を想像できる?

くわっち:
できない。

いさどん:
ではその思考は無駄だろう。それで神様に「やめなさい」と言われ、僕は「ハイ、わかりました」と納得した。だけど、今のこの世界に対して、対になる世界があるのは確かだ。物理学は今、それで行き詰まっているんだよ。
この世界は陰陽の対向発生によって成り立っている。例えば男と女のように、必ず対になる存在があって、互いにバランスを取って成り立たせ合っている。カタカムナの世界観まで行くと、その仕組みを解明することができるんだよ。
ところが、現代物理学はこの宇宙の中で、現象という「ある」目線からだけでその仕組みを解明しようとしているわけだ。それが究極になっていくと、この世界全体を捉えるところまで行くことになるだろう。そこでこの世界をAとしたら、それを存在させるBなのかもしくはA’なのかA⁺なのかわからないけれど、必ず対になる存在があるはずなんだよ。A⁺が存在すれば、必ずA⁻がある。あるものを理解するには、必ずそこから離れて、それに対抗する側から観る必要がある。マイナスから観るからプラスがわかり、プラスから観るからマイナスがわかるんだよ。
ということは、我々がこの世界を理解するためには、例えば今A⁺の世界にいるとしたら、A⁻に行ってみたらいいんだよ。ところが、そこへ行くための思考回路は、人間という物質性の思考を超えたものでなければならないんだよ。今我々が光を基軸とした世界にいるとしたら、その光すら超越しなければならない。今の世界を理解するのに思考を使っているとしたら、思考すら超越しなければならない。光の世界での最速のものは光だよね。でもあちらの世界に行くには、光を超えたものでなければならないんだよ。我々の存在は光が基軸だから、光を超えると消滅する。つまりどう考えても、向こうへは行けないんだよ。そうすると、この物理学の探求では、限界に突き当たってしまう。

現代の物理学はそこまで来ている。だからもう、どうしようもないんだよ。現象の世界だけをすべてとして、その中だけでこの世界を解釈しようとしている。しかしこの世界を理解するには、現在の物理的思考回路では解釈できないところへ行かなければならないのだけれど、物理学者や科学者はそれを超えた世界を認めないんだよ。
そこで、カタカムナに至って初めて、物理を超えた、物理が発生していない「ない」という世界の存在を知ることによって今の行き詰まりを突破できるのだから、カタカムナ理論をもって、次の世界が観えてくる。宇宙の本当の悟りに至るんだよ。エラいものに出会ったもんだなぁ。ここは世紀の学会だよ。大したことないメンバーだけどね(笑)。

本当は今日は蜂の点検をするんだから8時からやらなきゃいけないのに(みんな:笑)、もう9時になっちゃったよ。今日はありがたいことに雨が降っていて、ここの人たちもやることがないから「手伝うよ」と言ってくれて、でもたいして役に立たないから(みんな:笑)どうやって使おうかな~と考えていたらこんな時間を持つことになった。それでこのままずーっとしゃべっていたら、結局何もやらないで終わったりしてね。それでもいいんだよ。別に蜂は怒らないし。それでも生きていけるんだから、これでいいのよ。

でも、やろうね(^m^)

 
21世紀への大いなる実験

いさどん:
要は、すべてどうでもいいじゃんという世界が結論なんだけど、それでも今ふと気が付くと、生命が生きているという物質性の変化変容の躍動の中にあって、デレーッとしてたらいかんだろう。短く区切って現実を見たらね。そうやって今を生きて、瞬間瞬間をつないでいくんだよ。結論は求めない。ただ、行ってみた先にある結果をいただくだけ。
そういう飽和安定を持って今を生きている人たちがいたら、そこには危機感がない。不安もない。そうすると、どんな世界ができるか。その状態に至った人たちが「創る」ということはないんだよ。それは「いただく」だけの世界だよ。いただくだけのところに至った人たちが生み出す空気というのは、とても不可思議な世界だ。それは宇宙を生きるということ。それをロータスランドで表現しようと言っているんだけど、まだ至っていない。我々もまだ知らない。僕も行ってみないとわからないんだよ。だけどそれはきっと、めちゃくちゃおもしろい世界だろうね。それこそ、「あれ?ここはどこだろう?」という世界だ。

これは21世紀への大いなる実験だよ。人間がそこへ行けるのかどうなのか。でもいずれは行くよ。あと12900年もすれば光のピークへ行くんだから。かつてカタカムナ人たちが、宇宙のままに生きていたように。勉強しなきゃ、とか、成果を上げなきゃ、なんてことはなーんにもない。だって地球は、そこに存在するものすべてがネットワークの中で存在するように創られているんだから。
金星に行ったって、物理的には生きられないよ。金星は物理的には常に熱風が吹いていて、とても生命が生きられる場所じゃない。月は風も吹かず地殻変動もないから、アポロ11号のアームストロング船長の足跡がいまだに残っているだろう。あれから50年近く経つのに、まだ足跡が残っているんだよ。
地球なら、そんなことはない。常に変化変容し続けて、「この間草を刈ったばかりなのに、もう草だらけじゃん!」というくらい、いたるところに生命があふれている。これを当たり前だと思っちゃいけないよ。これは特別に創った世界なんだよ。だからおもしろいんだ!と、思えたらいいんだけどね。
実際、物理的にもそれが立証されているんだけど、それが当たり前であることに慣れ過ぎちゃって、新鮮味が感じられないんだよ。

太陽系の闇のピークと連動して、地球上に人口のピークが来ている。過去にこれほど爆発的に人間が増えたことはない。有史以降は記録があるから明らかだ。有史以前は記録がないが、どちらにしてもその頃の歴史はそう大したものではない。今は非常に複雑化していて、歴史に刻まれなければならないようなことがあちこちで起きている。北朝鮮は一生懸命水爆を作ってるしね。ピ――――ッと長い間一直線の横ばい状態で進んできた歴史が、産業革命以降に急上昇して一気にピークになった。そんなことが過去にあったかといえば、ないんだよ。

では、もっと視野を広げてみよう。これはもしかすると、過去に生命の大量絶滅がくり返し起きたのと同じように、生命の大変革の兆候かもしれない。そういう意味で言ったら、過去に同じようなピークというのはあったんだよ。今から6500万年前に恐竜は絶滅したけれど、あの時も一種の生命のピークだったんだよ。そこに隕石が落ちてきて、それまでの生物がリセットされた。それと同じことが、もしかすると今、起きているぞ。楽しみだろう?大量絶滅♪ (・∀・)

時々、朝にパッと目が覚めて、あ、NHKの7時のニュースを観よう、と思う時がある。この間もそんなふうに目が覚めてテレビを付けたら、孤立死の特集をやっていた。それを観てから、日本、ヨーロッパ、そして世界の人口推移について調べた。そして今は歴史上特別な状態であることが観えてきたわけだけど、そこで僕は「これはいかん」と思ったんだよ。今、うちには心のケアで滞在している人が4名いるけれど、彼らを自立させたら孤立死の道を歩ませることになってしまう。それで彼らを呼んで、時代を読み解くプレゼンテーションを行った。
NHKの特集からここまでのことが読み解ける。こういうことに気付くとおもしろいぞ~。それは番組からヒントを得たことだけど、その前にパッと目が覚めて「ニュースを観よう」と思うことも流れの中に在るんだよ。

ともこ:
ねぇ、「心の水爆」は、気付きの種だね?

いさどん:
フッフッフ。ちょっと表現が違うな。

ともこ:
じゃあそれを表現すると?

いさどん:
そうやって聞き出そうとするんだろ?話さないよ。(みんな:笑)すごくカンタンなことだよ。

 

 

────── いよいよ最終章「大町道中記④」へつづく!