とんとんとんと越えていく

いさどん:
僕はこの道をずっと探求して歩んできたけど、探求するということには終わりがない。それは永遠のものだから。

その道を歩む時、いろいろと考えているようだけど、その歩みは風まかせ。何かに出会っても、新たな流れが来ればそこに執着しないでパッと手放せる。
その時に、未練がないわけじゃないけれど、それは未練というよりも、「ああ、時が来たな」と流れを感じて、「それなら仕方ないでしょう」と覚悟を決める。それは自分に言い聞かせるというよりも、時が来たのだから手放せばいい、という感覚。

流れというものがある。
川があるでしょう。川は流れていく。流れているということは、その時々で出会う周りの景色が変わっていく。ここの景色が美しいとか、ここに留まっていたいとかいう場所にも出会いながら、流れていく。一つの場所に執着せず、流れのままにゆっくりとか、流れのままに早くとか、激しくとか、いろいろある。そうやって流れながら、その時その時の景色をいただいていく。

だけど一つ、囚われていることがある。それは「大海へ行く」ということ。
この道を歩んでいく大本には、大海へ行くという目的がある。川の流れに乗っているのはそこへ行くためであり、途中の景色はそこへ向かう中でのプロセスだから、その景色に囚われる必要はない。囚われていては、大海に到着しない。
大海へ出たら、もう景色は見えない。そしてそこに溜まる。溜まるということは、自分がなくなっていくということ。

川を流れていくのは、人生のようなもの。その景色の移り変わりは、人生と捉えられる。その景色を見ている自分がいる。
けれど大海へ出れば、自分はその大海の一部になる。それがやがて太陽の力によって、つまり宇宙の循環システムの原動力に乗って、また宇宙を生きる種として再生され、生命の源へ帰って、そこからまた川の流れに乗っていく。
それは、水が地球上で、液体から気体になって、源へ降り注ぎ、そこから流れて大海へ行く、という循環の繰り返しと同じ。人生と、生命の流れは同じ。

毎日の生活の中で、うだうだと同じことを繰り返す人たちがいる。それをやめればいいだけなのに。
今回ガンに出会ったきょうこちゃんは、この道との出会いが何だったのかということを振り返る機会をいただいた。これは物理的な旅ではなく、心の旅。その旅の結果が今の自分の未熟さに行きついたとしたら、それは落第ということではなく、いよいよその人にとって一番大きなハードルを越える時が来たということ。その時に、この道を歩んできたことの価値を知る。
価値を知るということは、学びが始まること。学ぶということは、何かたくさんの知識を積み上げていくようだけれど、実はそんなに難しいことじゃない。それは、決して高くない、簡単に越えられるハードルを、ひょいっと越えるだけなんだよ。
越えるというのは上に上がるということではなく、越えて先へ進むということ。簡単に越えられる高さのものをなぜ越えないのかというと、先へ行こうとしていないから。そこに留まろうとしている。先へ行く意志があれば、サッとまたげばいいだけのこと。すごく簡単なことだよ。
溺れている人がいる。その溺れている場所を、よく見てごらん。水深10㎝しかないんだよ。そこでわざわざ下に顔を向けて、溺れる必要はない。そういうことだよ。ハッと気が付いてよく見てみたら、なんだ、ばかばかしいことやってるな、というくらいのものなんだよ。

ともこ:
その大したものでもないことを、たいそうなものだと思いたい心が人の中にあるんじゃないかな。

いさどん:
自分に対する執着があるからね。そこに変な価値を付けたがる。そんなことは、未来の自分からしたらどうでもいいこと。そこを越えた未来の自分から見たら、「あんなところにいたのか」というくらいのものだよ。それなのに、その手前でもだえている。
その位置にいるから、その囚われの状態に興味が湧く。位置が変わればまったく違う価値観になるのだから、「何やってたんだろう」という程度のものになる。
いつでも、先へ進むべきなんだよ。とんとんとん、と。出来事は次々起きていく。それもそんなにたいそうなものじゃないのだから、とんとんとんと行けるんだよ。

だって、明日へ行くのに苦労する?やめてくれとお願いしても、明日は来るよ。
今がある。そして未来がある。今から未来を思って、きっとこうなる、ああなる、と不安に思おうが希望を持とうが、明日は必ずやって来る。そして答えが出る。そんなに先へ進むのが不安なら、未来へ行くのをやめてみろ。明日が来るのを止めてみろ。
それは死ぬことも同じだよ。人は必ず死ぬ。それを怖がるなんてバカだよ。すごく簡単な話だ。
だから「今」を増幅させるのではなく、明日へ行ってみたらいい。それが今を生きるということだ。

人間は経験をもとに、頭の中で勝手に思考を巡らせるけれど、それは自分の自我だよ。経験をもとにした自我。それを超えると、必要な時に必要なことが起こる状態になる。そこが普通の人にはわからない。そんなこと可能なの?と言うけれど、それは自分を手放した人には可能であり、自分がある人にはできないこと。自分がある人は、ここまでならやれる、と自分に限界を設ける。
しかし、この世界は自由自在。その限界を超えることは、いくらでも起こる。
そこに自我がストッパーをかけて、大変だと文句を言っている。自我が積み重なってカチカチになっている。だから時々この世界は、「お前の思う通りにはいかないのだぞ」と言って、思い通りにならないことを与えてくれる。それでも、いくらやってもまた自我に戻るものもいる。フリーにしておけばいいのにね。

ぢがうか?(チーン♪)
 
 
 


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