いさどんの七夜物語 – 序章 「秋分前夜」

木の花ファミリーは、現代社会の行き詰まりに突破口を開く次世代の生き方を探求する場として、創立以来、時代と共に変化しながら、メンバー一人ひとりが心を磨くことをもっとも大切にして歩んできました。その結果、皆が心から安心して暮らせる豊かな場を築いてきましたが、いつしかその豊かさに甘んじ、一人ひとりが真剣に自分と向き合い変化し続ける意識が薄らいでいく、ということが起こりました。このことを感じたいさどんは、今年6月、1年でもっとも光の多い夏至のころから、毎晩の大人ミーティングに参加しなくなりました。
そして3ヶ月後、光と闇がちょうど半々となる秋分の前夜に、いさどんは久しぶりに大人ミーティングに姿を現しました。

1年で闇のピークとなる冬至を越え、今年も残すところあと3日。2015年「船出の年」最後のいさどんブログは、大人ミーティングに出ない間もずっと皆の成長を見守り続けていたいさどんが、秋分前夜を皮切りにあふれるように語り続けた七日七夜の物語をお届けします。無限にあふれ出す宇宙の叡智を浴びながら、この世界の真理を探求する7日間の旅へようこそ!
(写真は、秋分の日の朝日です。)

 

9月22日 秋分前夜

いさどん:
皆さん、遠くに座っていても、下を向いて何か作業をしていてもいいですが、意識はこちらへ向けていてください。

今朝、すごく大事な話をしました。どんな話だったのかというと、今は全くそれが出てきません。ただ、大事な話であったことは間違いありません。
では今日僕が何でこの場に来たのかというと、語り出せば出てくるからです。語り出せば出てくるということは、僕の中に確固たるものとしてそれがあるということです。しかし今何だったのかと考えても出てこないということは、考えて出てくるものではないということです。それは、時が来れば湧き出してくるものです。

僕は40歳でそれまでの仕事をやめました。今は64歳ですから、あれから24年経ったということです。
僕の人生は、とてもおかしな人生です。僕は30歳でこの道をいただきましたが、始めの頃は上からのメッセージを疑っていました。それこそ悪魔か何かが僕を騙そうとしているのではないかとも思いました。しかしそのメッセージはその都度、道理が通っているのです。だから疑いながらも、道理の通る方を選んできました。

始めの頃は、その道理は僕の意志とは別のところにありました。ですから、どちらかというと、それは僕にとっては自らを否定する方にありました。それでもそちらの方が道理が通っているから、常にそちらを選んできました。
だけど、みんなは違いますね。そちらの方が道理が通っているとわかっていても、自分の意志の方を選ぶ。そうすると、結果的にバカを見ます。
自らの意志とは違うけれども道理の通る方を選んできたのが僕の人生です。その結果、今こういった暮らしが出来上がりました。

一昨年、ある女性と22年ぶりに再会することがありました。
彼女は、僕ととても深い縁があった人です。しかし僕がここに来てから22年間はまったく縁がありませんでした。ところが一昨年再会しました。縁が深いと、22年も経ってからでも復活するのです。

彼女は僕と再会する前に、こんな夢を見たそうです。宇宙人がやって来て、彼女をさらっていこうとしました。彼女は、自分は地球から離れるんだ、それもいいか、と思い、仰向けになったまま、体がどんどん宙に浮いていくのに任せていましたが、最後に街が見たいと思って、体をひっくり返して下を見ました。その時、地球から離れる前にもう1度いさみくんに会いたい、と思ったそうです。そうしたら体がくくっと下に降りて、元に戻った。彼女は結婚して子どももいるけれど、その時、夫や子どものことはまったく頭に浮かばなかったそうです。そしてその後、偶然インターネットで僕を見つけて、再会することになりました。
普通、20年も経ったら互いの気持ちは変わっているものでしょう。ところが彼女は22年ぶりに再会してここに来ても全く違和感がありませんでした。そして彼女の心は、ここにどんどん定着しています。家に帰れば普段の生活があるわけですから、ギャップを感じて苦しくなるものですが、彼女は苦しい感じがまったくしないのです。それは、「道」があるのだということに気付いたからです。

それを聞いた時に、僕という人は一体どういう存在なのだろうと考えました。すると、カタカムナの単音の思念が浮かんできたのです。
「イサミ」をカタカムナで表すとこうなります。

      イェ
      イェ
      サ
      サ
      ミ
      ミ

 

 

 

 

「偉佐美」のイは、「ヰ(イェ)」の方です。まっちゃん、これを単音の思念で読み解いてください。

まっちゃん:
3文字の場合は、普通、真ん中の文字から読みます。まず「サ」にはいろいろな思念があるけれど、「心の隙間」「狭い隙間」「動きの始まり」という思念があります。

いさどん:

なぜ始まりかと言うと、「サ(差)」ができることによって現象化するから。もしもまったく差がなかったら、それは「サトリ」の状態だから、始まらないのです。
「ミ」は「満つる」。満つっているけれど、これはまだ現象界に現れる前の、潜象過渡の状態です。

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みかこ:
「ミ」は「観る」。心で感じるもの、ということでもある。

いさどん:

「観る」とは、奥にあるものを観るということ。この目では見えないのです。

みかこ:
「ミ」には「みつご」という意味もあって、電気、磁気、力が満ちていること。でもそれは目には見えないでしょう。

いさどん:
電気、磁気、力というのは、この現象世界の物理的原理。何かの現象が起きるのは、その3つの働きがあるから起きている。だけど、現象は目に見えても、その奥にある3つの働きは目に見えない。だから、浅く見ている人にはわからないのです。

まっちゃん:
「ヰ」は、「サ」と「キ」の重合した状態。重合とは、七重、八重、九重を超えて十重に至ると、八鏡文字で表されている大円が溶けて一体化する、つまり悟りの状態になるということ。

みかこ:
八つの小円も、この次元まで来ると小円も溶融し、境界面に密集していた高密度の小円の密度差が取れる。それが悟り。

いさどん:
カタカムナで言う精神位置の、一番高い、仕上がったところだということ。

みかこ:
この形は鳥居の形を表し、悟りを意味する思念を持つ符号であるとも言っている。

いさどん:
そうすると、この「イサミ」という名前は、まだ隙間にあって、そろそろ動きだそうとしている状態で仕上がったもの、奥にいて満つっているものを表している。現象界にはまだ現れていない。
どこにいるかというと、ここに現象界と潜象界の間の壁があって、現象界に現れる少し手前のところで、準備ができている状態。その位置にいて、現象界の人からは見えない。見えないところで、完成された心を持ってそこにいるということです。

かつて、僕はこういう道をいただいて、いったいどんな役割があるのでしょうかとお釈迦様に聞いたことがあります。なぜかと言うと、いろんな人に心の道を語ってきましたが、いつも手応えがあるようなないような状態だったからです。
表面的にその人が楽になるという意味では、手応えがありました。だけど僕は、楽になってもらうためにやっているわけではないのです。あなたが、楽になる前に苦しかったことの意味を理解しなさい。苦しいとは尊いことであり、苦しさがあったからこそ、楽になった時にこの世界の有り難さに気付くことができた。そのことをわかるために伝えているのに、みんなは楽になることだけを求めて、それで終わりにするのです。
だから多くの人は、自分が苦しみから解放されると「ありがとうございました」と言ってそれ以上学びに来ませんでした。それで僕は、孤独になっていました。

大事なことは、どこからでも理解できます。四方八方どこでも自分の鏡ですから、どんなにありがたいことからも愚かしいことからも学べるのです。全てはそのためにあるのに、人は自分に都合のいいことだけを受け取って、苦しみが取れたらそれで良しにして、その苦しみの本当の意味を理解しないで終わっていきます。それではいけないでしょう。中には、「ありがとうございました」と言ってお礼を置いていこうとする人もいました。だけど僕は、そんなことが目的で語っているわけじゃない。だから、お礼は受け取りませんでした。

そんなふうに矛盾を感じていた時に、お釈迦様に聞きました。「私はどういう者なのでしょうか」と。その質問の奥にどんな心があったかというと、「私は理解されたい」という想いがありました。それは、僕を理解してほしいということではなく、僕が語っていることを理解されたい、ということです。それは、本当に人が楽になる道だからです。
だけど人々は、浅く受け取って「ありがとうございました」と言って帰って行きました。だから、ものごとの奥をずっと観続けて、生きるとは何であるかを知っていくということを忘れるのです。清涼飲料水を飲んだように一時的にはスカッとして爽やかになっても、その後が続かないから、また清涼飲料水が必要になるのです。
僕はそれが不可思議で仕方ありませんでした。それで「私がやっていることはいったい何なのですか」とお釈迦様に聞きました。僕が理解されたいとか、評価されたいとかいうことではなく、かけたエネルギーが無駄にならずに相手の中で生きるように。そしてその人が自分の愚かしさに気付いて大切な生き方をするようになるように。簡単に言えば、幸せになるように。もっと言えば、本当の価値が上がるように。そういう想いがありました。でもなかなかそうはなりませんでした。

本当ならば、同じことをグダグダと続けなくても「やめた!」と言ってサッと切り替えれば、別の人生があるのです。それなのに同じことを繰り返すのが、その人の癖、性分、つまりカルマです。
そのカルマからの解放を表すのが、「ヰ」の文字。僕は今、肉体を持ってこうやって生きているのだから、それを人々に伝えることで本当に成っていくのだろうと思っても、いっこうに動きが進まない。
それでお釈迦様に質問をしたら、こう返事が返ってきました。
「おまえが生きているうちは、おまえが伝えたいことは世の中に理解されない。」
それは、おまえのやっていることは効果がないという意味ではありません。おまえはそれだけの覚悟を持って、それをやる気があるか?ということを問われたのです。

一昨年、不二阿祖山太神宮へ参拝した時に、天から「難しいことを与えておるゆえ心していけ」というメッセージがありました。わかっております、とその時は思いましたが、その後にいろいろと起きたことを考えると、改めて、本当に難しいことを与えられたと思います。僕が伝えようとしていることと、相手に伝わることがまったく真逆になることもあるのですから。面倒くさいったらありゃしないし、いい加減わかりなさいよという気にもなります。
それでも、何度も同じことを繰り返す人に対しても、もう知らないとは言わずに付き合ってきました。わかってほしいのにわからない者たちだな、と思いながら。

その時に僕はどこにいるのかというと、潜象界と現象界の間に壁があって、その壁の手前にいる。潜象界から現象界に語りかけても、それは現象界の人間にとっては「ない世界」からのメッセージだからわからないのです。
「イサミ」という名はすべて潜象過渡であり、「サ」は現象界に入っていく始まりを表しています。「ヰ」は、現象界ですべてのことが起きた後の最終到達地点。僕は潜象界の側にいて、満つっている状態です。ムラムラムラというのか、モコモコモコというのか。だけど、人間の体を持っているから、それを語ります。「サ」から「ヰ」まで、つまり始まりから仕上げまでを語ります。だけどみんなは、僕がいくら高い視点のことを語っても、自分の足元しか見ていない。いくら僕がこっちだよと言っても、足元の低いところにしか興味がないのです。

それで僕は、お釈迦様にさらに質問をしました。私の道はどのような道なのでしょうか、と。そうしたらお釈迦様は、こう言われました。

「おまえは今、一にいる。あるいは二にいる。しかし、道は十への道である。そのおまえが、私の道はどこにあるのでしょうかと十を聞いている。
私は、その問いには答えない。なぜなら、肉の体を持って生きる人間は、答えをすぐに求めたがるから。形をすぐに求めたがるから。もしも私が十を答えたら、おまえは一にいれば三に行きたがり、三にいれば五に行きたがり、七に行きたがり、十を求めるだろう。もしくは、いきなり十に行きたがる者もいるだろう。
しかし、一は必ず二に通じ、二は必ず三に通じ、三は必ず四に通じる。そして九まで行けば、自ずと十になる。
今、おまえは私に問うている。それは、私に通ずる道にいて、私の道はどこにあるのでしょうかと問うているとのである。ならばおまえのすることは、今一にいるとしたら、二に進みなさい。二に行ったら、三に進みなさい。三に行ったら、四に進みなさい。次の場所は必ず観える。しかし一にいては、三は見えない。
一つずつ進んで九まで行けば、自ずと十は観える。それが道だ。」

そしてお釈迦様は、「おまえは八十にして滅する」と言われました。なるほどと思いました。僕は四十で仕事を辞めると決意していましたが、それは折り返し地点だったのです。
そしてこう言われました。
「おまえが生きている間は、おまえの言うことは世の中に理解されない。つまり、世の中に道は開かれない。しかし、おまえが滅したら、世の中にそれが広がり始める。」

僕が八十歳ということは、2031年です。2031年に、世の中がそういう時代の扉を開けるということです。
2012年の12月21日に銀河の冬至があり、宇宙の扉は開きましたね。そこから2031年までは、19年間のギャップがあります。その間は理解されないということは、世の中が本当には動き出さないということです。お釈迦様は、それを覚悟して行けということを言われたのです。
僕は、世の中の扉が開く前の土台をつくる人間です。そういう役割なのです。そう思っていたら、ちゃんと扉を開ける役割の魂が生まれてきましたね。銀河の冬至を越えて、世の中に質的転換を起こして成す役割の魂たちが生まれて来ています。

6月の終わりから、ずっと僕は大人ミーティングに出ていませんでした。このわからない話をみんなにどうやって伝えたらいいだろうと考えていました。わからないはずです。理解されないという役割で生まれてきているのだから。
本当は、安倍総理でもパン国連事務総長でもアメリカ議会でも、この話を聞かなければいけないのです。今度アメリカで、日本とアメリカと韓国が話し合いをしますね。今年、日中韓で話し合いをする前に、アメリカの意向を聞かなければいけないということで集っています。名目上は北朝鮮対策ですが、本当の目的は中国対策です。そんなことをやっている限り、いつまでもこの状態は続くでしょう。だからこそ、彼らは僕の話を聞かなければいけないのです。それは、僕の話ではなく、僕を通して湧き出てくる天の意志を聴くということです。

だけど、まだそういう時は来ていません。でも少なくとも、ここの人たちは僕の話を聞かなければいけない。この不可思議な生き方は、「なるほど!そういうことか!」というとびっきりの合点がないと生きていけないでしょう。では世の中はなぜ合点がなくても生きていけるのかというと、欲と我にまみれているからです。汚れているからです。
だけどここではこんなにも汚れを取ることを大切にしているのだから、それを取らずにいて、何を目標にして生きるのですか。目標を見失ったまま、どうして前へ進めるのですか。

僕の役割は潜象過渡ですから、まだ世の中からは観えません。しかし宇宙は既にそうなっています。宇宙はそうなっているけれど、現象化されるにはまだ時間がかかりますから、その間に新しい時代を迎え入れる心の準備をみんなができるように、僕はこれをやっています。ものの奥を観ようという意志を持った人にだけ、初めて通じるのです。
潜象過渡から伝えられることは、汚れが取れないと観えません。だけど僕は肉体を持って、現実に現象界に現れています。だからみんなは、僕を利用しようと思ったらいくらでも利用できるのです。だけど、利用する意志を示さなければ、利用できないですよ。観ようとする心、引き出そうとする心、学ぶ心がなければ、利用できません。それではもったいないでしょう。
利用しようという意志があれば、僕はどこまでも出ていきますよ。それは、みんなが僕に対してどうするということではなく、あなたはなぜ今ここにいるのか、自分は何者なのか、どうしてこの道を選んでいるのか、ということを明快にするということです。

昔僕がお釈迦様に、私の人生は何なのですか、どこへ行くのですかということを聞いた時に、答えをいただきました。どこへ行くのかという答えはなかったけれど、そこへ行く姿勢を教えられました。それが答えです。そして歩んでいけば、ちゃんと形は観えてくるのです。

明日は秋分。いよいよ今年も第四コーナーです。来年の指針も出ました。着々と天は用意されています。
700年の伝統を持つ奥三河の花祭が、ここに「富士浅間木の花祭り」として継承されました。花祭は国の重要無形民俗文化財ですが、今やここには世界各国から祭りのための聖水が集まって来ています。いったいどこまで進化していくのでしょう。
カタカムナ勉強会は、今年からカタカムナ研究会になりました。そうしたら、それに参加したモンゴルの青年が、ここを人類の歩むべき新たな道を探る研究所にしましょうと言いました。
僕はかつてお釈迦様から、名前から人のカルマを読み解く「カルマ読み」をいただきました。さらに3.11と共に、惑星配置からその人を読み解く「地球暦」がやって来ました。それでより深く人を読み解けるようになり、自然療法プログラムが進化しました。そして一昨年カタカムナと出会い、カタカムナの思念から読み解けるものがカルマ読みや地球暦とぴったり一致するのです。地球暦の太陽から冥王星までの九つの惑星は、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトで十で悟りに至る道とぴったり符合します。そんなことを、いったい誰が考えたのでしょうか。

ヒフミヨイムナヤコト

地球暦は、ここで進化、発展しています。カタカムナも、いよいよこれまでの熟成期間を経て、これまで潜象界にあったものが現象化していくのです。これから独自のカタカムナ理論ができあがっていきます。まっちゃんをどうやって活かしたらいいだろうと考えていましたが、活かしどころが見つかりました。少し前まではずっとグダグダしていて、もう好きにしろと言いましたが、これからは好きにしろではなく、ちゃんと役に立ってもらいます。

まっちゃん:
そうします!

いさどん:

地球暦に出会ってから、僕とみかちゃんで力を合わせて読み解きを進化させてきました。これからは、まっちゃんと力を合わせてカタカムナを深めていきます。そうやって、ことが成っていく時に一人ひとりに役割があるのですよ。今、新プロジェクトの計画がありますが、全てそこにふさわしい人がはまっていくのです。現世的には仕事としてですが、霊的には、自分の魂のはまりどころにパズルのピースのようにはまるということです。
そうやってみんなが活かされて、それが社会にメッセージとして発信されていく。これから、今の社会にはまることのできない人材がたくさん集まってくるでしょう。そういうことを、我々は真剣に考えなければいけません。それは、損得勘定で考えることではないのです。宇宙はフリーエネルギーであり、潜象界から無尽蔵にエネルギーが供給されています。道理に沿ったものには、必要なエネルギーが与えられます。その心になったら、何でも可能になるのです。

僕は今日、大事なことをみんなに伝えました。みんなはそれを聞いて、この現象界でどうしたらいいと思いますか。

ヒロッチ:
ありきたりなことだけど、ここの役割を世の中に対して果たしていく高い自覚を持つことが一番だと思います。

なかのん:
ものごとの奥を観ていく。

いさどん:
その結果何を求めるのですか。

なかのん:
宇宙の意志を感じる。それでどうなっていくかはわからないけれど。

あや:
世界を清浄の地に導くということをする。

いさどん:
そういう目的のために我々はこの道を歩んでいるわけですから、それはこの先にある結果のことでしょう。それがいつ来るのか、どういう形になるのかはわかりません。けれども、揺るがない目標です。この道を知ってこの道を歩み出した者は、本来そこから外れるということはないはずなのです。

えいこばあ:
意識していく。

みちよ:
天意を感じて生きていく。

いさどん:
その目的は?

みちよ:
天の意志を現象化して、調和的な社会を創ること。

いさどん:
あなたが創るの?

みちよ:
天のプロジェクトのもとにみんながやっていく。

いさどん:
そのプロジェクトを感じるためには、何が必要なの?

あや:
我を捨てる。

まっちゃん:
我を超えるじゃない?

あわ:
自らの役割を果たす。

あつこ:
人のために生きる。

やじー:
道具になり切って使っていただく。

いさどん:
みんな正解ですね。外れている人はいない。それをまとめて言うと、大切な道を生きているという自覚を持つということです。それができたら、今みんなが言ったことは自動的に成っていきます。簡単でしょう。大事を生きている。だから大切に生きなければいけない。忘れちゃいけないんだ、ということです。

それだけ大事だということは、いい道を生きてありがたいな、得したな、ということではないのですよ。僕がみんなに伝えたいのは、責任があるということです。ここがやり切らなければ誰が扉を開けるのか。

そういったことを想って生きれば、具体的なことは自動的に成っていきます。大事だということがわかったなら、すべてのことの一番にこれを置いて考えることです。そうしたら、良い世界ができるでしょう。

 

 

いさどんの七夜物語 – 第一夜「思い出す」へ続く

 

 


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