この日は一日の流れがとてもよく、養蜂の作業も早く終わって夜に時間ができたので、第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所の様子を描いた映画『サウルの息子』を観ました。映画が終わった後、いさどんが語り始めました。
宇宙のエラー
いさどん:
強制収容所では、ユダヤ人たちをもののように殺していく。その時に人としての心が動かないだろうかとも思うけれど、ああいう世界を人間はつくれる。落ちるとそこまで行く。自然界ではあんなことは絶対にない。人間にはものすごい幅があるんだよ。魔も愛も一緒くたに持っていて、条件によってどちらも出てくる。
宇宙創造の仕組みがあって、そこに命が生まれて、命が循環していって、そこに自らの存在にこだわるものが現れた。そして自我という囚われが確立されたのだけれど、その延長線上に、ここまでいかなくてもいいだろうと思うようなことが起きる。何を持ってここまでの人生設計図をつくる必要があるのか、と最近思うんだよ。地上で起きていることはすべて天の意志であるとしたら、それを善意に解釈しなければならない。その善意が観えないようなことでは、人間の存在は単なる宇宙のエラーのようなものだ。大いなるエラーだよ。
人間の幅は広い。誕生の時点で、それぞれの人生設計図がある。その時点から、一人ひとりが極めて個性的だ。なぜかと言うと、誕生するに至る理由がその設計図に既に仕組まれており、誕生するということは、その設計図ができる前の段階の結果だから。だから親を選ぶことも、民族を選ぶことも、国を選ぶことも、時代を選ぶことも、そこに至るまでのいわくがあり、それが設計図に表現されている。家を建てる時でも、設計図を作るには、まずどういうものを作りたいかという意向があるでしょう?我々も人生設計図と共に生まれてくるけれど、生まれる前からすでに、設計図に至るまでのプロセスがあるんだよ。
その設計図に則って生きていきながら、最終的には、その設計図に表現されている人生の地図の終着点に至る時が来る。それが死ぬということだ。
一日一日は短いようで、長いようでもある。平均寿命を80年とすると、地球の自転におよそ29200回付き合うと寿命が来る。寿命とは、地球の自転に何回付き合ったかだけなんだよ。だから毎日はカウントだ。地球の自転にどれだけか付き合うと終わりが来るけれど、その時に何を思うか。「自分はこのような死を迎えたい」と考えたところで、実際にその時になってみなければどうなるかはわからない。到着地点を想定して「こうなりたい」という願望を持つようになったら、それでは既に、道から外れている。大事なのは、そこに至るまでのプロセスだよ。
地球に生命として、その中でも人間として、そして個人として生まれてくることは希少なことだと言うが、それは事実だよ。世界観が広がって、この世界の広大さに目を向ければ向けるほど、オリジナルな自分であるということは非常に貴重な存在だ。しかし貴重な存在だからといって、生きている間の自分に囚われていたら、次の旅ができない。
いい旅立ちはするべきだけれど、それは完全燃焼の・・・・「完全燃焼」と言うとまた目標があるみたいだね。そういう言い方はいけない。そうではなく・・・・・「いい印象」か。「いい」というのは、心地よいということだよ。それでいいんじゃない、とか、次に行くか!というぐらいの、軽やかな旅立ち。立派に生きて誇り高い人生だった、なんて言ったらもうそこに執着している。
こうちゃん:
一日一日を一生懸命生きるということと、執着するということはまた別だよね。
いさどん:
そうだよ。何と言ったらいいのだろうね・・・死に向かって、毎日確実にカウントをしていくということかな。
一日一日を漠然と生きていると、たぶんどこかでカウントが忘れられて、自分はこれだけ生きたんだ、という充実感を感じられない。だから未練が残って、まだ死にたくない、となるのだろうね。
こうちゃん:
毎日毎日僕たちは生まれ変わっているとしたら、サッパリと死を迎えて次のステージに行けばいいだけだね。
いさどん:
でも前の日の自分を引きずるんだよ。だけどよく考えてみれば、最終的には必ず誰もがリセットする。今が永遠に続くかのように思っているかもしれないけど、必ずリセットする時が来るんだよ。
今年の作付けをどうするとかロータスランドの売り上げがいくらだったとか、それって一般社会に通用する話でしょう?そういうことではなく、そんなものを一切抜きにして、今から死に行く時の自分の心構えというか、心の持ちようの雑談をしても面白いね。
日常を生きるとは、日常に囚われるということでもある。今日の段取りとか、昨日の続きをこなさなければいけない、ということがあるとしたら、そういうものを全部抜きにして、魂だけの会話というのをしたら面白いなぁと思うんだよ。物理的制限のない会話ができたらおもしろいだろうなぁ。
ともこ:
おもしろいね。
いさどん:
どういうふうにおもしろい?
ともこ:
今、日常に話していることと全然違うんじゃない?
いさどん:
ところが、あまりにも日常に囚われていると、そういう状態になったところを想像できない。思考がそこにシフトするというか、そういう思考回路に慣れないとなかなか何も出てこない。でも僕が約束しなくても、必ずみんな死ぬからね。これってすごいことだと思わない?
エラーのように生まれてくる人がいる。エラーと言うと語弊があるかもしれないけど、障がいや性同一性障がいなどは一種のエラーと言える。ヒマラヤの聖者ババジは、今800歳を超えているそうだけど、見た目はずっと27、8歳だそうだよ。だから、ババジの弟子たちはみんなおじいさんになるけど、ババジだけはずっと若い。それはいいとしても、生まれることにエラーがあるのなら、死ぬことにエラーがあってもいいと思わない?あの人は宇宙のエラーで死なないんだって、とかね(笑)。
それを安易な発想で捉えると、単に「あの人は死なないんだってね」ということだけど、実際に宇宙のエラーで死ぬことのない人は「あの人、死ねないんだってね」ということになる。死ねないとは不幸だよ。エラーいこっちゃ(チーン♪)リセットできないんだから。そして出会う人出会う人が、みんな死んでいく。それは大いなるエラーか、それとも究極の罰か。それは、命に執着したがための罰だよ。たぶんね。
こうちゃん:
でもそれだって何にも執着しなければ問題ない。
ともこ:
私も、800年も生きていると聞くと「わー大変そう」と思うけど、その「大変そう」というのも今の自分の視点なんだと思う。
いさどん:
実際のババジと僕は会ったことはないけれど、800年以上も存在し続けたら、我々の80年サイクルの思考回路とは違っているから、別にいいんだろうね。違うからこそ、それが成り立つとも言える。
思考回路をぶっ飛ばせ
いさどん:
人口の推移から世界をひも解いてみると、産業革命から人口が急激に上昇して一気にピークを迎え、その後また、一気に落ちる。それが特別なことだということはわかるよね。
生命には、物理的にサイクルがある。人間なら80年、鯉なら普通は20~30年というように、それぞれに固有のサイクルがある。地球の人口のピークは2100年頃だと予測されていて、その後300年くらいをかけて、人口は再び急降下していく。2100年から300年後というと、2400年だね。
僕は時々、3000年のことについて語る。3000年にみんなで会おう!とかね。だけど3000年に会おうと言っても、今の地球の人口が76億で、3000年の頃にはもしかすると1億ぐらいに減っているかもしれない。そうすると、我々が輪廻転生を繰り返すと言っても、今の76億のうち75億は肉体を持っていないことになる。だって受け皿がないんだから。そうすると、3000年に同窓会をするとしたら、霊的同窓会になるのかなぁ。
どちらにしても、この2000年から始まる思考回路というのは、自分一人の人生のサイクルだけではなく、それを超えて、人類の歩みとか、地球の歴史とか、そういうサイクルでものごとを捉えないと、時代についていけなくなる。
もう一つ、これから物理的に生きることには、大変厳しい時代が来る。今の子どもたちが30歳になって生きている姿を想像すると、微笑ましくもあるけれど、ある意味気の毒だなぁとも思うんだよ。僕はその頃の世界を想像すると、そこで生きたくはないなぁと思う。だけどそれを気の毒というのも、「これが快適」という基準があるからだよ。どんな場所でも、それはそういうものだと受け取っていけば、存在できるのかもしれない。快適の基準を持っていると、その基準から外れた場所では苦痛を感じて、それこそ自殺することにもなるだろうね。
やっぱりね、もっと思考回路がぶっ飛ばなきゃいけない。ぶっ飛ばなきゃいけないんだって。
この間こうちゃんと、「生きていければいい」という話をした。生きていられさえすればいい。その最低限のことに喜びを持ったら、生きることに不安はなくなるよ。何か損をしたとしても、損をしたって生きていられるんだから別にいいじゃない。そして最終的には生きていることすらも天へお返しするんだから、別にいいじゃない。終わったじゃ~ん、てね♪
みんな:
ははははは!
いさどん:
死ぬということは大それたことじゃない。必ず来るんだから。僕は来年67歳。3年後には物理的には70歳になる。僕が70歳?と思うよ。だってこれまでの70歳の印象と、今実際この肉体の中に入っているものとが、合わないから。それでも鏡を見ればやっぱり70歳なのかなーと思うけれど、どうしたって中身と年齢が合わないんだよ。
ともこ:
おもしろいね。中身はどんどん進化していくのに、外見は老化していく。
いさどん:
そしてリセットする時が来るんだよ。僕は変態だから、とびっきりユニークに逝きたいな~と思うんだよ。ここでこそユニークに逝って、みんなの鼻を明かして旅立ちたいなぁと (^皿^)
やっぱり、独特に旅立ちたいね。死ぬ時は必ず病にかかる。老衰だって、最終的には心不全か何かになって逝くんだから。その死に病にかかった時には、嬉しいよね。そのプロセスを存分に楽しんで、「さぁ行くベ!」と旅立つ。高速道路で対向車がセンターラインを飛び越えてきてガーンとぶつかったとしても、「ここだったか~、こういうシナリオだったか~」と旅立つ。その時にはやっぱり、「おい、自分らしく、うろたえるなよ」ということは思うね。そんなところでうろたえたら、何のために今まで生きてきたかわからんじゃん。ここでこそ本領を発揮するところだよ。残された連中がいくら「死なないでー」と言っても、「そんなアホなこと言うんじゃないの」ってね。
こうちゃん:
そうね。いかに肉体に囚われずに毎日を過ごせるか。
いさどん:
肉体に囚われていると言うけれど、実際は同じ肉体じゃないんだよ。物理的にも霊的にも一緒じゃない。それは積み重ねていくものだから、実際には別物になっている。肉体は常にリニューアルして、様変わりしているんだよ。
そういうことを共有できる世界観を持っていたら、そこはとてもどっしりとした場所になるだろうね。微動だにしない。地震が来ても「おお、地震が来たな~。やっぱり避難はするべきだよな~」と。物理的には素早く避難しているけれど、思考は冷静なんだよ。
こうちゃん:
そうすると、楽しめるね。
いさどん:
自分の思惑が外れた時にどう対処するか。そして世の中が翻弄されているのを、「さてどうしようかな」と眺めている。
こうちゃん:
別に命がなくなってもいいんだけど、けっこう世界は生きることを保証してくれている。こんな天候でも作物はできるしね。気楽にいけるよ。
いさどん:
気楽にいけない人は、「今月は何円稼がなきゃいけない」と考えている。米や麦は一発勝負だから、それが想定通りにとれないと、金額の計算が合わなくて深刻になる。だけど生きていくことだけがベースになっていたら、別に米がとれなくたってサトイモがあるじゃん、てことだよ。
実際にそんなひどい状態にあるわけでもないのに、現代人はこれまでの右肩上がりの経済成長に囚われているものだから、経済成長が0%になると「大変だ」と大騒ぎする。0%なら別に例年通りなんだから、何も問題はないんだよ。±0の宇宙の基本に戻るだけさ。ところが、今は右肩上がりが行き過ぎているから、本来のところへ戻るには右肩下がりにならなくちゃいけない。それなのに上がり続けるという幻想に囚われているから、成長率0%ですら問題になる。別にマイナスでも、生きていけるんだよ。
こうちゃん:
そういう余裕を持って探求していかないと ────
いさどん:
観えない。余計なことを考えていたらものは観えないというのは、そういうことだよ。
こうちゃん:
「悟りたい」と思って必死になって余裕をなくしていたら、悟れないね(笑)。
いさどん:
そうだよなぁ。悟るというのは願望で思うことではなく、結果だから。行きついたところがそうだった、というだけだよ。
こうちゃん:
そうだね。「麦をとるぞー!」と力が入っている時には観えなかったものが、そこに自分を入れずに引いてみるとパッと気付けたりする。
いさどん:
冷静になって目の前のものと対峙するから、観える。計算で頭がグルグル回っていたら、観えるものも観えない。グルグルと損得勘定をするのは損をしないためだろうけど、結果として大損していたりするんだよ。
みんなで交響曲を奏でている
いさどん:
「ニンゲン」という二元の思考でいると、例えば北朝鮮の正義とアメリカの正義と日本の正義があるように、人の数だけ正義がある。しかし、「ヒト」という根本の法則に目覚めたものは、それぞれは個性的だけど、それぞれが根本の法則に沿っているから、そこには秩序が生まれる。
物理的現象世界に生きる者たちは、肉体的な制約の中で思考がとても狭くなっている。日常がタイムカードや電車の時刻表の上にある。もしくは金に縛られている。そんな人間たちが斬新な発想なんてできるわけがないんだよ。
我々はここまで歩んできて、世間と同じ要素を持ちながら、極めて斬新な発想を持って極めて斬新な場を創る下地はある。下地はあるけれど、まだまだその自覚が足りない。一人ひとりは育ってきてはいるけれど、まだまだ追い風になっていない、追い風になるにはどうしたらいいかもわからない人たちもいる。
追い風といっても、全体が進むのにそれぞれのノルマがあって、あなたはこれだけの推進力になってください、なんてことを課しているわけじゃない。全体が動いている中で、どれだけでもいいから、進行方向に向かってその人らしい風を吹かせていればいい。それって、全然エネルギーはいらないんだよ。例えばみんなで笛を吹いていたら、途中で休んでいる人がいてもいい。でも気持ちは吹いてるでしょ?みんなで合唱している時に、一人休んでいてもわからないけれど、気持ちはちゃんと一緒に歌ってる。そういうことだよ。
そういう意識が観られたら、その場は「みんなで交響曲を奏でている」というハーモニーが感じられる。その時に、いったいあなたはどこを向いてるの?と言いたくなるような、そこに参加している意識がないことが問題なんだよ。
ともこ:
難しいね。「こうしなきゃ」と思うことが行き詰まりになっていくんだけど、そうかと言って、自覚を持たずに「何でもいいんだ」とボーッとしてるのも問題なわけでしょ。
いさどん:
例えば、交響楽団がいるとするよね。ピアノ協奏曲ならピアノが主で、バイオリン協奏曲ならバイオリンが主でしょ。あるいはシンバルなら、盛り上がった時に「ジャーン!!」とやるだけで、後はないんだよ。出番はそこだけ。だけどその人は、演奏に参加している。別に力んでいるわけではなく、ただ流れに沿って、出番が来たら「ジャーン!!」とやる。すごい存在感だ。それだけでいいんだよ。
こうちゃん:
だから別に集中してなくてもいいんだよ。安倍さんでもトランプさんでも、みんな思考を回してエネルギーを使っているわけでしょ。自分のために。その同じエネルギーを別の方向に使ったら、もっと楽にエネルギーが循環するはず。自分の国とか自分のためだけを思っていると、自分でエネルギーを湧かせてこないと足りなくなる。
いさどん:
安倍さんの例をとると、やはり自分が総理大臣として支持率を得なければいけない。評価されたい。評価されるには、日本の国益を獲得しなければいけない。そういったものにがんじがらめになっているから、このくらいの成果を残さないとダメ!というのが先に課せられているんだよ。自分で自分にそれを課している。
だけど歴史というのは、先へ行ってみて初めて答えが出るもの。そうしたら、やるべきことはやって、あとは結果をいただくだけ、というスタンスでいればいいんだよ。そうすると、意外と相手からすり寄ってきたりするものだよ。
こうちゃん:
打つべきところを打つということは、やっぱり広い視野を持っているからこそできることだよね。そうするとエネルギーの無駄遣いはしないし循環していくということだとすると、やっぱりボーッとしてたんじゃダメだね。
いさどん:
ダメなんだよ。出番じゃなくても、流れは観てなきゃいけない。
こうちゃん:
かといって「こうしなければならない!」って力んでやっているのは、ある意味安倍さんと同じ。やっぱり広い視点を持って分析ができて ────
いさどん:
いや、分析なんてしていたらまたきゅうきゅうになっちゃうからね。模様眺めをしながら「ここは私の出番だな」と出るべきところで出たらいいんだよ。何もしてないようでいて、こいつはやるべき時にはやるな、という雰囲気が出ていたらそれでOKなんだよ。
こうちゃん:
そうそう。だから別に全部わからなくても、いつでも対応できる状態で待機していて、「ジャーン!!」てやればいいわけだ。
くわっち:
勘違いして構えてたね。ボーッとするか、なんとかしなきゃ、と固くなってるか。そんなんじゃみんなでコンサートする時に、いいハーモニーはできないもんね。
いさどん:
その一番いいキャラが、Aちゃんだよ。
みんな:
ああ~~。
いさどん:
誰もAちゃんにそんな難しいこと期待してないじゃん。だけどすごくいいキャラしてるでしょ。そういう落としどころがあるんだよ。
こうちゃん:
力まないところで発揮できるんだろうね。
くわっち:
心の水爆なのかなぁ。
ともこ:
心の水爆って何ですか??(✪ω✪)
いさどん:
言わない。僕は心の水爆を発見した。それは心の水爆とネーミングしたけれど、別に水爆じゃなくてもいいんだよ。でも水爆というネーミングはちょうど時代に乗ってるね。
やはり、ここまで歩んでくると ──── と言ってもみんなには観えないだろうけど、僕はこの心境でここまで歩んでくると、終末を意識する。僕の場合、終末を意識すると、その先を考える。そこまで心が飛ぶと、もうどうでもいい感じ。別に今のことを無視するわけではないし、しっかり生きるけれど、それはある意味、終末が観えて先を意識している者がそこへ向かう、惰性のようなものなんだよ。
僕は時々ケアの人たちにも喝を入れる。どうしてそんなにものが観えないのか、まず頭が悪い、ということもはっきりと伝える。なぜそういうことが言えるのかというと、自分に対して何も求めていないから。相手からどう思われようとかまわない。
ともこ:
「求めていない」ということは、余分な思考をしないということだね。
こうちゃん:
昔、いさどんを見て「あの人は武道の達人ですか?」と言った極真空手のチャンピオンがいた。彼は力で押してチャンピオンになったけど、年を重ねていくとだんだん若いものに敵わなくなってきて、どうしたらいいかといさどんに聞いたら、いさどんは「無の境地」を説いていたね。
いさどん:
力まないで自然体でいると、相手の攻撃がどこに来るのかが自然に観える。
こうちゃん:
それは武道でなくても同じだよね。
いさどん:
その究極が、何か問題があった時に全て、天に丸投げするんだよ。もう私は知りませんよ、全部あなたの責任ですよ、とね。
こうちゃん:
いろんな引き出しがあって、それを自由に選択して使えるような状態になるといいよね。
いさどん:
そうそう。将棋みたいなもので、いろんな駒があって、それを一番ふさわしい時にパチンと打てるだけの余裕がないといけない。
ともこ:
ある段階までは力みも必要でしょうか?
いさどん:
意欲がないとダメだよ。
ともこ:
意欲と欲は違うのね?
いさどん:
意欲というのは、向かおうとする意志であって、意欲があるということは、結果を決めつけてはいないんだよ。
ともこ:
なるほど!欲は、こうなりたい、ああなりたい、と、結果を自分で決めてるんだね。意欲はもっとフリーな状態だ。
いさどん:
「ヨク」というのは、「ヨ=よこしま」に「ク=自由」だから、あっちもこっちも欲しい、という感じだね。「イヨク」は、あっちもこっちもという欲の「イ=位置」が決まっていて、「これだ!」と定まっている状態。
ちなっぴー:
いさどんは意欲のかたまりだよね。
いさどん:
極めるというのは神業だからね。田んぼをやる時に、稲穂が倒れるか倒れないかのギリギリのラインを目指すような、常にその気持ちを忘れないということだよ。
生きるということにはバランスがある。例えば日本刀を打つ名人とか、野球の神様と言われる人とかがいるでしょう。それは神業とも言えるけれど、「〇〇バカ」とも言えるんだよ。生きるということは、本当はそんな風に何か一つのことだけをやっているのではダメなんだよ。いろんなことに意欲を湧かせていく。きっと、カタカムナ人はそうだったんだろうね。それは一人では限界があるから、群れて暮らした。
それは地球暦と同じだよ。一人ひとりの地球暦を見ると、偏りがあってひどいな~と思う。極端なことを言えばみんな問題がある。
こうちゃん:
だけど、僕ら全員の地球暦を合わせたら、ものすごいんじゃない?
いさどん:
それこそ完璧だよ。だから群れなさいというんだよ。
こうちゃん:
カルマも個性として、陰性も陽性も全部合わせたら中性になる。
いさどん:
そのことについては、ここに来るまでの車中で解明して話してきたよ。
こうちゃん:
だからもっと気楽に、自分らしく自分の分を貢献すれば、全体としては完璧だよ。
いさどん:
だからそれがシンバルの「ジャーン!!」なんだよ。1回きりでいいんだから(笑)。その代わり、そこを託されているのにそのタイミングを逃したら、みんなコケるよ。
志を同じくしている者が、人生という交響曲を共に奏でる。その指揮者は、時代。あるいは、天。いつもその指揮者の方を向いて流れを観ていたら、「ここだ!」というタイミングで「ジャーン!!」とやることができる。だから天を観ていなさいということだよ。
個人の最高の幸せ — 地球益
ともこ:
地球暦って、紙面で見ると平面だけど、実際は立体でしょう?だから平面上では全部の惑星がつながって見えても、立体で捉えるとけっこう間はスカスカだよね。
いさどん:
そうだよ。平面で捉えて角度が何度と言っているけど、三次元で捉えたらものすごく離れていたりするんだよ。
ともこ:
てことは、結局みんな偏ってるんじゃないの?
いさどん:
それは違うよ。例えば夜空に星座があって、それが地球上からだと三角形に見えるとするでしょう。ところが、それを横から見ると3つの星はまったくバラバラでいびつだったりする。そうすると意味がないかのように思えるかもしれないけれど、実はそこに意味があるんだよ。つまり、そのくらいいびつでありながら、地球に向かって三角形を描き、それを我々に見せてくれているんだよ。地球からだけそう見えるということは、地球に向かってメッセージを送っているということでしょう?それを意味がないと否定したら、そこで終わりだよ。
こんなにもいびつな状態でありながら、地球に向かってメッセージを送っているということは、そこに意志があるということ。天には意志があるということがわかったら、すべてを受け取れる。物理的な矛盾を並べてケチをつけているようでは、意志は感じられないよ。だからいくら宇宙の流れについて語っても、物理学者がそれを信じられないのは、頭の中が物理だけで、そこにメッセージや意志があるという発想がないんだよ。
こうちゃん:
利口になればなるほど、それを感じることには疎くなっていく。
いさどん:
有史以来の二元的賢さだね。「負けたくない」とか「得したい」とか。そしてすべての国が、結局は自国の国益ばかりを求めている。どうして地球の平和というものを考えないんだろう。それが最大の国益でしょう?なぜ同じ地球にいて、「地球益」というのを考えないんだろうね。
こうちゃん:
結局はそれが個人の最高の幸せなのにね。
いさどん:
そう。その安心の中に生きられる。それなのにみんな国益を背負っているから難しくなる。今テレビは北朝鮮の話題で持ちきりだ。この間まではISだった。そこで語られていることは、時間の無駄遣いだよ。何の解決にもならないんだから。
ともこ:
テレビでは、今北朝鮮が起こしていることに対して制裁だ何だと対症療法ばかりが語られていて、ではなぜ今の北朝鮮があるのかという根本的な振り返りがない。それを思った時に、木の花でメンバーやケア滞在者(心身の病の回復を目的に滞在している人々)が、自分の心をひも解いて、今の自分の状態がどこからどういう経緯をたどって今に至るのかを解明するのは、世界の現状を解明するのとまったく同じなんだと思った。それが解明されて「だからこうなっているんだ!」と気付いた時に、その問題は昇華される。だから、すごく大事な取り組みをしていると思ったよ。だって今の世の中にはその視点がないから。
いさどん:
今出会っていることのルーツを、常に意識して、理解していなければいけない。ただその現象の表面だけを見て反応するのではなく、それが何で起きてるのかを解明していく視点を常に持ち、できる限りの努力をして、なぜ今の状態に至ったのかを知った上でものごとを判断しなければいけないんだよ。そうすると、その現象に対する対処はまったく違ったものになる。
こうちゃん:
ニュースでその出来事に至るまでの経緯を振り返っても、本当に短いスパンでしか見ていないよね。何月何日にどうしたとか。本当はもっとずっと前からそこに続く流れがある。
いさどん:
すべてはアラビアのロレンスから始まっている。すべては十字軍から始まっている。すべては紙の発明から始まっている。すべてはカタカムナから始まっている。
ともこ:
すべては地球誕生から始まっている(笑)。
くわっち:
すべては宇宙誕生から始まっている(笑)。
いさどん:
人間には、極めてユニークな特徴として、自我が形成されるようになっている。だから、一人ひとりの目線がオリジナルなんだよ。一人ひとりオリジナルのフィルターを持っていて、それで世界を見ている。その自分のフィルターを通して見た世界が、他のフィルターを通して見た世界と共有されなければ、調和はとれない。
自我が強くなると、自分のフィルターを通したものしか信じず、それがすべて正しいと思っている。だから自分の思った通りではない反応が返ってくると、被害妄想的な人間なら攻撃されているんじゃないかと受け取ったりする。傲慢な人間なら、「何でわからないんだ」と思うだろう。
人間が70億人いれば70億通りの個性があり、その個性の羅列の中で、波が起こるようになっている。例えばガングロのお姉ちゃんたちが一生懸命自己主張していて、それが支持されたら嬉しいわけでしょう。白人至上主義者が「あなたが正しい」と支持されたら喜ぶでしょう。そこには視点の違いがあるだけだよ。その視点の違いを主張して、相手を打ち倒して、平和になろうとしているのが今の世の中だ。その延長に平和を表現しようとしている。
アメリカはそれをやってきて、今のような状態になっている。それをカモフラージュするために、多民族国家を掲げて人権尊重を制度に組み入れてきたけれど、そもそもアメリカという国家自体が、他者を支配して自らのフィルターをかけた正しさを主張して成立しており、ぞれをずっとやり続けて勝ち続けてきたんだよ。そして今、その自分たちのフィルターの実体を知る段階に来ている。それはつまり、最終的な仕上げとも言えるね。アメリカという国は、大らかで何でも受け入れる国でありながら、実はその奥にアメリカ的フィルターがあって、それで世界を支配しようとしてきた。それをも超えなければいけない時が来たんだよ。
だから、白人至上主義が間違っているということでもなく、リベラルな人たちも、アメリカ国民としてアメリカらしい誇りを保とうと言っているのだから、同じ穴のむじななんだよ。そうやって双方が陰陽のバランスを取りあっているということだ。
ともこ:
視点を変えるというより、共有するんだね。
いさどん:
そう。それは違いによって強いものが弱いものを支配するような、強弱の視点ではないよ。
人間は自我によって、欲望を満たす時に快感を感じる。その快感ゆえに、それがいいことだと思い、自我に取り込まれていく。そして依存症になる。お金依存になったり、便利さ依存になったりするわけだけど、お金や便利さがあふれると、人間は傲慢になり、そして退化するんだよ。本来自然と生きていくための能力が、便利になることで使う必要がなくなって、退化していく。ところがそこに欲望を満たす快感を感じるものだから、依存症が広がっていく。そのことが観えていない。みんな冷静さを失っている状態なんだよ。
そしてさらにフィルターが複雑になったり色が濃くなったりして、自分の考えと同一のものを求めるようになる。これがつるむというやつさ。自分と同じ色のものを求めていく。そしてつるむと、今度は違うものと対立するんだよ。マスコミでも政治家でも、どこを観ても、自分の主張が正しいものだと受け取られたい、という衝動が観える。そうではなく、そういったものを全部払しょくして、大らかにそれを語れる視点が必要だ。
そこで、どうしたらいいのか。その構造を理解し、それは互いのフィルターを共有するための共通点を探す、ハードルのようなものだと捉えたらいいだろうか。
北米やヨーロッパの先住民族の中には、海鳥をアザラシの皮の中に入れて発酵させて食べる文化がある。そんなもの食べられないよー!という人もいるけれど、それは自然が与えてくれたんだよ。その智恵も、食べ物も、そして味覚も。そこにはプロセスがあり、誰にも否定できるものではないのに、自分のプロセスから外れているからといって否定したり、極端になると「それは変だ」と言って改めようとする。そういう考えでいるから、いつまでも対立する。
ともこ:
やっぱり、この視点は世界平和の鍵だ!
フリーな心でいよう
いさどん:
2012年12月21日の銀河の冬至をもって、我々は闇のピークを越えた。その時点で、本当はすべてが変わらなければいけないんだよ。それは見る方向が変わるということ。だけどあまりにもこれまでの方向に慣れ過ぎていて、それが永遠のように思っているんだよ。生まれた時からそうだから、その漬け物になっているようなものだ。だから視野を大きく広げて、自分の枠すら超えて物事を観なければいけない。
地球は現象化の星だから、何でも現象化して見せてくれる。だから人間は、地上に天国も、地獄もつくる。地獄は死んでから落ちるところじゃないよ。今現在地獄を生きている人がたくさんいる。しかし実はそれすらも調和の中に在るんだよ。相対する存在を創り、それが互いにバランスを取っている。それを両方観るには、引いて観なければいけない。引いて観るということは、熱くならないということさ。
こうちゃん:
今のスーパーコンピューターは、基本的に0と1で計算していて、ものすごく広いスペースに並んでいる。だけど今、中性子のコンピューターというのが創られて、それはほんの一坪くらいのスペースで済むんだって。コンピューター自体はもっとずっと小さいんだけど、なぜ一坪必要なのかと言ったら、そのコンピューターを動かすには絶対0℃の環境が必要だから、それを冷やすためのスペースなんだって。だけど今までのコンピューターに比べたらものすごい省エネだよね。
それで、中性子コンピューターには、0と1が同時に存在しているって言うんだよ。そして今までのスーパーコンピューターよりも格段に計算が早い。それはなぜかと言うと、今までの0、1、0、1、のコンピューターだと、全部計算をしないといけないんだって。ところが0と1が一緒になっていると、それが一瞬で終わる。理屈はわからないけど、ずっと少ないエネルギーで済むし、スピードも速くて、場所も取らない。「二辺を離れて中道を説く」と言うけれど、宇宙には電子と陽子と中性子があって、すべてが同時にあるのが当たり前の世界じゃない?つまり良いも悪いも一緒になっているところを中道と言い、その両方を同時に理解しているということだよね。それって調和だよ。だから地球上でこんなに醜い世界が展開されていても、それで調和がとれている。
いさどん:
宇宙は戦争しないでしょ?でも地球に現象化すると、戦争ができる。それは「差」ができるということだよ。あるがままの状態では戦争は起きないけれど、現象化してそこに「差」が生まれると、それを元に戻そうとする動きが生まれる。両極端の存在が互いに引っ張り合って、中道に戻ろうとする。
こうちゃん:
「差」ができるということは、現象が生まれるということだもんね。
いさどん:
そう。そして「差」を取ると戦争がなくなる。
こうちゃん:
現象というのはもともと、「差」を見せるためにつくられている。
いさどん:
そうだよ。そしてそこにはサイクルがある。人間だったら、オギャーと生まれてから人生を表現していくにつれて、どんどん「差」ができる。それがだんだん消耗していって、死ぬとリセットされる。すべてのものにはサイクルがあり、それが全部消滅するのが「差取り=悟り」だよ。
こうちゃん:
だからずーっと遠くからそのサイクルを観ていれば、消滅した状態をも観れる。
いさどん:
ずーっと引いて観たら、あるサイクルはさらに大きなサイクルの中に在ることが観えてくる。そしてその大きなサイクルも、さらに大きなサイクルの中に在るというように、すべてが相似形になっている。さらに引いていくと、それらのサイクルの集合体自体が一本の太い線になっていて、さらに引いて観るとそれすらも細い線になる。
こうちゃん:
そのくらいの心で堆肥まきもやれるといいよね(笑)。
いさどん:
堆肥をまくときには「たいひんだー」と思うでしょ?(みんな:笑)だけど間違いないのは、今回まくのはここからここまでという限定がある。だから、1ヶ月間ずーっと堆肥まきするわけじゃないのよ。それから、すべての圃場にまくわけでもないのよ。人の畑にもまかないのよ。だから冷静に考えると、「これだけの量をこれだけまけば終わり」ということなのよ。そうしたら、「たいひんだ、たいひんだ」と思う前に、ただやっていけば終わるんだよ。
何かを限定するのではなく、常にフリーな心でいよう。限定すると苦しくなる。フリーな状態だからこそ、流れが読めたり、気付きが生まれるんだから。
「ニンゲン」から「ヒト」へ
いさどん:
銀河は、円になっている。人間が世界観を広げ、スケールの大きな意識で語るとね、その円の中心が「ざわざわざわー」っとするんだよ。つまり、こちらの悟りに、銀河が反応するんだよ。人間が悟るということは、宇宙に対してそのくらい刺激を与える。人間とは、それだけの存在なんだよ。
そのくらいのスケールで生きたいものだと思う。事実、人間は銀河の物理的作用に対して影響力がある。本当に、銀河がふわふわ~っと、波打つんだよ。「銀河が波打つ」と言うと、人間のスケールからしたらものすごく巨大なことでしょう?
太陽も、そういう反応をしてるんだよ。太陽には意志がある。そこと共鳴して生きているかどうか。
この間、太陽フレアの影響で地球の磁場が乱れたことが話題になっていたけど、こちらから発しているものを受けて、向こうも反応を変えてきているんだよ。つまり、対話できるんだよ。あちらの意向を聴いて生きていれば、こちらの意向もちゃんと伝えられるようになる。そうでなければ、地球人が太陽を信仰するわけがない。何を根拠に太陽を信仰しているのかと言うと、キャッチボールができているからさ。その領域に達した者が確信を持って、そのことを伝えてきたんだよ。人間はそこまでの領域に行くことができる。それを、「そんなのは絵空事だ」と言ってしまえばその通りになるだけだ。
物理的な太陽を見て語りかけるのは、幼稚な段階。あの物理的な太陽の奥に、霊的な太陽がいるんだよ。同じように、あなたの顔の奥にも、霊的なあなたがいる。その霊的なあなたに語りかけなければいけない。太陽も、霊的な太陽に語りかけなければいけないんだよ。人間は富士山に登ってご来光を見たり、物理的な太陽を拝んでは「神々しい」と感動しているけれど、その奥に霊的な太陽がいるんだ。
ロータスランドにかかっている絵に描かれている光は、太陽じゃない。霊的な光なんだよ。そういうものがあるんだよ。
いさどん:
人間は、そこまでのスケールの存在になれる。
仏道というのは、下から積み上げていって上へと上がっていく道のこと。上には際限がないから、どこまでも無限に上がっていける。ところが神というのは、みんな神様に語りかける時には上を向くように、上から下へと降りてくる存在なんだよ。神様にもいろいろな位置があって、それぞれの位置から人間のもとへ降りてくる。「あなたはどこから来ましたか?」と尋ねると、意外と全体からすると下の方の神様だったりするんだよ。そういった神々は人間を誘惑し、惑わせ、それがいろいろな宗教の元にもなった。
だけど、仏道というのはそうじゃない。仏道とは「道」であり、下から上へと上がっていくものだから、その道には限りがない。人間がその気になったら、宇宙の根源までも行ってしまう。
ともこ:
上から降りてくるものはそこがスタート地点だから、最初から位置が決まってるんだね。
いさどん:
決まってるんだよ。ところが下から上への道は無限だ。だから仏教では、神を語らない。それを「人の道」としている。人が進歩していって「命(ミコト)」となり、「カミ」となり、「カム」となる、一番の奥まで至る道なんだよ。
ある位置から神が降りてきて人間に出会うと、人間は「ありがたい」と言って拝むでしょう。だけどそれでは、その神の位置を超えることはできず、人間の成長に限界ができるんだよ。そこで神が、自分を超えていくような人間に出会うと、今度は逆に神が人間に「自分を導いてほしい」と言うようになる。だから法華経を行ずるものは神が守護すると言うんだよ。神がそれを喜ぶんだから。人は、神をも超えていける存在なんだよ。そのことがわかると、神も「私も人間界へ降りていって、もっと上を極めよう」と思うんだよ。その段階の神には、まだ自我があるからね。
だから、仏道とは恐ろしいものだよ。恐ろしいとは、怖いという意味ではなく、果てしなく広い、無限なる世界につながっているということさ。
人間は太陽とも、銀河とも対話できる。そこでやっかいなのは、人間は物理的に語りかけて通じるものだから、奥が観えないんだよ。今こうして僕とあなたたちが話しているように、物理的に会話をして、通じているかのように思っている。だけど本当は、霊的な会話でなければいけないんだよ。魂と魂の会話でなければいけないのに、物理的なやり取りをして表面的に通じてしまうものだから、浅い付き合いしかできない。
銀河がふわふわ~っと波打つのも、物理的に波打っているというより、人間の発しているものに銀河の魂が反応しているんだよ。
ともこ:
私の奥にも、霊的なともこがいるんだね?それが何なのかわかんないけど ───
いさどん:
何なのかって、それがともこだよ。
ともこ:
そうすると、日ごろのともこはすごく小さなところにいますね?
いさどん:
それは物理的なところに囚われているからさ。今までのともこに執着していれば、霊的ともこもそこに引っ張られる。執着が足かせになって、魂が不自由な状態になっている。それを解放してやると、ともこは無限なものになるんだよ。人としての可能性は無限にあるんだから。
霊的ともこの次元が低ければ、それは物理的ともこの限界になる。物理的ともこのレベルが低ければ、霊的ともこの足を引っ張る。両方が縛りあってるとも言えるんだよ。だからそれを解放してやらなければいけない。
ともこ:
自分を磨けるのは、物理的ともこだけだね。
いさどん:
「磨く」というのは、物理的ともこの執着を取り去ることだよ。
ともこ:
だけどその物理的ともこがいるから、霊的ともこは自分を認識できる。
いさどん:
そうだよ。だから地球に霊的ともこが降りてきて、肉体をもらって、現象化することによって、悟りへの道を歩むんだよ。
僕が言っていることは、わからない話でしょう?いくらどう話しても、僕も人間だから、みんなも人間から聞いていると思うんだよ。だけどこれは、人間がしゃべっているけれど、ベースにあるのは宇宙人なんだよ。人間の姿をしているけれど宇宙人であるということは、ベースが「ニンゲン」ではなく、「ヒト」であるということだ。
人間の思念というのは、ものすごい速度 ──── つまりアマハヤミ(光の速度の10の64乗倍)で、 瞬間にして宇宙を駆け巡る。だけどそれは、その意識レベルの意識を持っているから初めて成ることであって、それがないものには一切通用しない、考えられないことなんだよ。
そういう思考を持って生きていると、それこそ「何でこんな世界ができるの?」という世界ができる。訪れる人が「あれ?ここはどこだろう?」と不思議に思うような、自分の中の何かを呼び覚まされる場所 ───── それが桃源郷、「ロータスランド」だ。