大町道中記④ 〜 どこまでも無限に続く道

この日は一日の流れがとてもよく、養蜂の作業も早く終わって夜に時間ができたので、第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所の様子を描いた映画『サウルの息子』を観ました。映画が終わった後、いさどんが語り始めました。


 
宇宙のエラー

いさどん:
強制収容所では、ユダヤ人たちをもののように殺していく。その時に人としての心が動かないだろうかとも思うけれど、ああいう世界を人間はつくれる。落ちるとそこまで行く。自然界ではあんなことは絶対にない。人間にはものすごい幅があるんだよ。魔も愛も一緒くたに持っていて、条件によってどちらも出てくる。

宇宙創造の仕組みがあって、そこに命が生まれて、命が循環していって、そこに自らの存在にこだわるものが現れた。そして自我という囚われが確立されたのだけれど、その延長線上に、ここまでいかなくてもいいだろうと思うようなことが起きる。何を持ってここまでの人生設計図をつくる必要があるのか、と最近思うんだよ。地上で起きていることはすべて天の意志であるとしたら、それを善意に解釈しなければならない。その善意が観えないようなことでは、人間の存在は単なる宇宙のエラーのようなものだ。大いなるエラーだよ。

人間の幅は広い。誕生の時点で、それぞれの人生設計図がある。その時点から、一人ひとりが極めて個性的だ。なぜかと言うと、誕生するに至る理由がその設計図に既に仕組まれており、誕生するということは、その設計図ができる前の段階の結果だから。だから親を選ぶことも、民族を選ぶことも、国を選ぶことも、時代を選ぶことも、そこに至るまでのいわくがあり、それが設計図に表現されている。家を建てる時でも、設計図を作るには、まずどういうものを作りたいかという意向があるでしょう?我々も人生設計図と共に生まれてくるけれど、生まれる前からすでに、設計図に至るまでのプロセスがあるんだよ。
その設計図に則って生きていきながら、最終的には、その設計図に表現されている人生の地図の終着点に至る時が来る。それが死ぬということだ。

一日一日は短いようで、長いようでもある。平均寿命を80年とすると、地球の自転におよそ29200回付き合うと寿命が来る。寿命とは、地球の自転に何回付き合ったかだけなんだよ。だから毎日はカウントだ。地球の自転にどれだけか付き合うと終わりが来るけれど、その時に何を思うか。「自分はこのような死を迎えたい」と考えたところで、実際にその時になってみなければどうなるかはわからない。到着地点を想定して「こうなりたい」という願望を持つようになったら、それでは既に、道から外れている。大事なのは、そこに至るまでのプロセスだよ。
地球に生命として、その中でも人間として、そして個人として生まれてくることは希少なことだと言うが、それは事実だよ。世界観が広がって、この世界の広大さに目を向ければ向けるほど、オリジナルな自分であるということは非常に貴重な存在だ。しかし貴重な存在だからといって、生きている間の自分に囚われていたら、次の旅ができない。
いい旅立ちはするべきだけれど、それは完全燃焼の・・・・「完全燃焼」と言うとまた目標があるみたいだね。そういう言い方はいけない。そうではなく・・・・・「いい印象」か。「いい」というのは、心地よいということだよ。それでいいんじゃない、とか、次に行くか!というぐらいの、軽やかな旅立ち。立派に生きて誇り高い人生だった、なんて言ったらもうそこに執着している。

こうちゃん:
一日一日を一生懸命生きるということと、執着するということはまた別だよね。

いさどん:
そうだよ。何と言ったらいいのだろうね・・・死に向かって、毎日確実にカウントをしていくということかな。
一日一日を漠然と生きていると、たぶんどこかでカウントが忘れられて、自分はこれだけ生きたんだ、という充実感を感じられない。だから未練が残って、まだ死にたくない、となるのだろうね。

こうちゃん:
毎日毎日僕たちは生まれ変わっているとしたら、サッパリと死を迎えて次のステージに行けばいいだけだね。

いさどん:
でも前の日の自分を引きずるんだよ。だけどよく考えてみれば、最終的には必ず誰もがリセットする。今が永遠に続くかのように思っているかもしれないけど、必ずリセットする時が来るんだよ。

今年の作付けをどうするとかロータスランドの売り上げがいくらだったとか、それって一般社会に通用する話でしょう?そういうことではなく、そんなものを一切抜きにして、今から死に行く時の自分の心構えというか、心の持ちようの雑談をしても面白いね。
日常を生きるとは、日常に囚われるということでもある。今日の段取りとか、昨日の続きをこなさなければいけない、ということがあるとしたら、そういうものを全部抜きにして、魂だけの会話というのをしたら面白いなぁと思うんだよ。物理的制限のない会話ができたらおもしろいだろうなぁ。

ともこ:
おもしろいね。

いさどん:
どういうふうにおもしろい?

ともこ:
今、日常に話していることと全然違うんじゃない?

いさどん:
ところが、あまりにも日常に囚われていると、そういう状態になったところを想像できない。思考がそこにシフトするというか、そういう思考回路に慣れないとなかなか何も出てこない。でも僕が約束しなくても、必ずみんな死ぬからね。これってすごいことだと思わない?
エラーのように生まれてくる人がいる。エラーと言うと語弊があるかもしれないけど、障がいや性同一性障がいなどは一種のエラーと言える。ヒマラヤの聖者ババジは、今800歳を超えているそうだけど、見た目はずっと27、8歳だそうだよ。だから、ババジの弟子たちはみんなおじいさんになるけど、ババジだけはずっと若い。それはいいとしても、生まれることにエラーがあるのなら、死ぬことにエラーがあってもいいと思わない?あの人は宇宙のエラーで死なないんだって、とかね(笑)。
それを安易な発想で捉えると、単に「あの人は死なないんだってね」ということだけど、実際に宇宙のエラーで死ぬことのない人は「あの人、死ねないんだってね」ということになる。死ねないとは不幸だよ。エラーいこっちゃ(チーン♪)リセットできないんだから。そして出会う人出会う人が、みんな死んでいく。それは大いなるエラーか、それとも究極の罰か。それは、命に執着したがための罰だよ。たぶんね。

こうちゃん:
でもそれだって何にも執着しなければ問題ない。

ともこ:
私も、800年も生きていると聞くと「わー大変そう」と思うけど、その「大変そう」というのも今の自分の視点なんだと思う。

いさどん:
実際のババジと僕は会ったことはないけれど、800年以上も存在し続けたら、我々の80年サイクルの思考回路とは違っているから、別にいいんだろうね。違うからこそ、それが成り立つとも言える。

 
思考回路をぶっ飛ばせ

いさどん:
人口の推移から世界をひも解いてみると、産業革命から人口が急激に上昇して一気にピークを迎え、その後また、一気に落ちる。それが特別なことだということはわかるよね。
生命には、物理的にサイクルがある。人間なら80年、鯉なら普通は20~30年というように、それぞれに固有のサイクルがある。地球の人口のピークは2100年頃だと予測されていて、その後300年くらいをかけて、人口は再び急降下していく。2100年から300年後というと、2400年だね。
僕は時々、3000年のことについて語る。3000年にみんなで会おう!とかね。だけど3000年に会おうと言っても、今の地球の人口が76億で、3000年の頃にはもしかすると1億ぐらいに減っているかもしれない。そうすると、我々が輪廻転生を繰り返すと言っても、今の76億のうち75億は肉体を持っていないことになる。だって受け皿がないんだから。そうすると、3000年に同窓会をするとしたら、霊的同窓会になるのかなぁ。
どちらにしても、この2000年から始まる思考回路というのは、自分一人の人生のサイクルだけではなく、それを超えて、人類の歩みとか、地球の歴史とか、そういうサイクルでものごとを捉えないと、時代についていけなくなる。

もう一つ、これから物理的に生きることには、大変厳しい時代が来る。今の子どもたちが30歳になって生きている姿を想像すると、微笑ましくもあるけれど、ある意味気の毒だなぁとも思うんだよ。僕はその頃の世界を想像すると、そこで生きたくはないなぁと思う。だけどそれを気の毒というのも、「これが快適」という基準があるからだよ。どんな場所でも、それはそういうものだと受け取っていけば、存在できるのかもしれない。快適の基準を持っていると、その基準から外れた場所では苦痛を感じて、それこそ自殺することにもなるだろうね。

やっぱりね、もっと思考回路がぶっ飛ばなきゃいけない。ぶっ飛ばなきゃいけないんだって。

この間こうちゃんと、「生きていければいい」という話をした。生きていられさえすればいい。その最低限のことに喜びを持ったら、生きることに不安はなくなるよ。何か損をしたとしても、損をしたって生きていられるんだから別にいいじゃない。そして最終的には生きていることすらも天へお返しするんだから、別にいいじゃない。終わったじゃ~ん、てね♪

みんな:
ははははは!

いさどん:
死ぬということは大それたことじゃない。必ず来るんだから。僕は来年67歳。3年後には物理的には70歳になる。僕が70歳?と思うよ。だってこれまでの70歳の印象と、今実際この肉体の中に入っているものとが、合わないから。それでも鏡を見ればやっぱり70歳なのかなーと思うけれど、どうしたって中身と年齢が合わないんだよ。

ともこ:
おもしろいね。中身はどんどん進化していくのに、外見は老化していく。

いさどん:
そしてリセットする時が来るんだよ。僕は変態だから、とびっきりユニークに逝きたいな~と思うんだよ。ここでこそユニークに逝って、みんなの鼻を明かして旅立ちたいなぁと (^皿^)
やっぱり、独特に旅立ちたいね。死ぬ時は必ず病にかかる。老衰だって、最終的には心不全か何かになって逝くんだから。その死に病にかかった時には、嬉しいよね。そのプロセスを存分に楽しんで、「さぁ行くベ!」と旅立つ。高速道路で対向車がセンターラインを飛び越えてきてガーンとぶつかったとしても、「ここだったか~、こういうシナリオだったか~」と旅立つ。その時にはやっぱり、「おい、自分らしく、うろたえるなよ」ということは思うね。そんなところでうろたえたら、何のために今まで生きてきたかわからんじゃん。ここでこそ本領を発揮するところだよ。残された連中がいくら「死なないでー」と言っても、「そんなアホなこと言うんじゃないの」ってね。

こうちゃん:
そうね。いかに肉体に囚われずに毎日を過ごせるか。

いさどん:
肉体に囚われていると言うけれど、実際は同じ肉体じゃないんだよ。物理的にも霊的にも一緒じゃない。それは積み重ねていくものだから、実際には別物になっている。肉体は常にリニューアルして、様変わりしているんだよ。
そういうことを共有できる世界観を持っていたら、そこはとてもどっしりとした場所になるだろうね。微動だにしない。地震が来ても「おお、地震が来たな~。やっぱり避難はするべきだよな~」と。物理的には素早く避難しているけれど、思考は冷静なんだよ。

こうちゃん:
そうすると、楽しめるね。

いさどん:
自分の思惑が外れた時にどう対処するか。そして世の中が翻弄されているのを、「さてどうしようかな」と眺めている。

こうちゃん:
別に命がなくなってもいいんだけど、けっこう世界は生きることを保証してくれている。こんな天候でも作物はできるしね。気楽にいけるよ。

いさどん:
気楽にいけない人は、「今月は何円稼がなきゃいけない」と考えている。米や麦は一発勝負だから、それが想定通りにとれないと、金額の計算が合わなくて深刻になる。だけど生きていくことだけがベースになっていたら、別に米がとれなくたってサトイモがあるじゃん、てことだよ。
実際にそんなひどい状態にあるわけでもないのに、現代人はこれまでの右肩上がりの経済成長に囚われているものだから、経済成長が0%になると「大変だ」と大騒ぎする。0%なら別に例年通りなんだから、何も問題はないんだよ。±0の宇宙の基本に戻るだけさ。ところが、今は右肩上がりが行き過ぎているから、本来のところへ戻るには右肩下がりにならなくちゃいけない。それなのに上がり続けるという幻想に囚われているから、成長率0%ですら問題になる。別にマイナスでも、生きていけるんだよ。

こうちゃん:
そういう余裕を持って探求していかないと ────

いさどん:
観えない。余計なことを考えていたらものは観えないというのは、そういうことだよ。

こうちゃん:
「悟りたい」と思って必死になって余裕をなくしていたら、悟れないね(笑)。

いさどん:
そうだよなぁ。悟るというのは願望で思うことではなく、結果だから。行きついたところがそうだった、というだけだよ。

こうちゃん:
そうだね。「麦をとるぞー!」と力が入っている時には観えなかったものが、そこに自分を入れずに引いてみるとパッと気付けたりする。

いさどん:
冷静になって目の前のものと対峙するから、観える。計算で頭がグルグル回っていたら、観えるものも観えない。グルグルと損得勘定をするのは損をしないためだろうけど、結果として大損していたりするんだよ。

 
みんなで交響曲を奏でている

いさどん:
「ニンゲン」という二元の思考でいると、例えば北朝鮮の正義とアメリカの正義と日本の正義があるように、人の数だけ正義がある。しかし、「ヒト」という根本の法則に目覚めたものは、それぞれは個性的だけど、それぞれが根本の法則に沿っているから、そこには秩序が生まれる。
物理的現象世界に生きる者たちは、肉体的な制約の中で思考がとても狭くなっている。日常がタイムカードや電車の時刻表の上にある。もしくは金に縛られている。そんな人間たちが斬新な発想なんてできるわけがないんだよ。
我々はここまで歩んできて、世間と同じ要素を持ちながら、極めて斬新な発想を持って極めて斬新な場を創る下地はある。下地はあるけれど、まだまだその自覚が足りない。一人ひとりは育ってきてはいるけれど、まだまだ追い風になっていない、追い風になるにはどうしたらいいかもわからない人たちもいる。
追い風といっても、全体が進むのにそれぞれのノルマがあって、あなたはこれだけの推進力になってください、なんてことを課しているわけじゃない。全体が動いている中で、どれだけでもいいから、進行方向に向かってその人らしい風を吹かせていればいい。それって、全然エネルギーはいらないんだよ。例えばみんなで笛を吹いていたら、途中で休んでいる人がいてもいい。でも気持ちは吹いてるでしょ?みんなで合唱している時に、一人休んでいてもわからないけれど、気持ちはちゃんと一緒に歌ってる。そういうことだよ。
そういう意識が観られたら、その場は「みんなで交響曲を奏でている」というハーモニーが感じられる。その時に、いったいあなたはどこを向いてるの?と言いたくなるような、そこに参加している意識がないことが問題なんだよ。

ともこ:
難しいね。「こうしなきゃ」と思うことが行き詰まりになっていくんだけど、そうかと言って、自覚を持たずに「何でもいいんだ」とボーッとしてるのも問題なわけでしょ。

いさどん:
例えば、交響楽団がいるとするよね。ピアノ協奏曲ならピアノが主で、バイオリン協奏曲ならバイオリンが主でしょ。あるいはシンバルなら、盛り上がった時に「ジャーン!!」とやるだけで、後はないんだよ。出番はそこだけ。だけどその人は、演奏に参加している。別に力んでいるわけではなく、ただ流れに沿って、出番が来たら「ジャーン!!」とやる。すごい存在感だ。それだけでいいんだよ。

こうちゃん:
だから別に集中してなくてもいいんだよ。安倍さんでもトランプさんでも、みんな思考を回してエネルギーを使っているわけでしょ。自分のために。その同じエネルギーを別の方向に使ったら、もっと楽にエネルギーが循環するはず。自分の国とか自分のためだけを思っていると、自分でエネルギーを湧かせてこないと足りなくなる。

いさどん:
安倍さんの例をとると、やはり自分が総理大臣として支持率を得なければいけない。評価されたい。評価されるには、日本の国益を獲得しなければいけない。そういったものにがんじがらめになっているから、このくらいの成果を残さないとダメ!というのが先に課せられているんだよ。自分で自分にそれを課している。
だけど歴史というのは、先へ行ってみて初めて答えが出るもの。そうしたら、やるべきことはやって、あとは結果をいただくだけ、というスタンスでいればいいんだよ。そうすると、意外と相手からすり寄ってきたりするものだよ。

こうちゃん:
打つべきところを打つということは、やっぱり広い視野を持っているからこそできることだよね。そうするとエネルギーの無駄遣いはしないし循環していくということだとすると、やっぱりボーッとしてたんじゃダメだね。

いさどん:
ダメなんだよ。出番じゃなくても、流れは観てなきゃいけない。

こうちゃん:
かといって「こうしなければならない!」って力んでやっているのは、ある意味安倍さんと同じ。やっぱり広い視点を持って分析ができて ────

いさどん:
いや、分析なんてしていたらまたきゅうきゅうになっちゃうからね。模様眺めをしながら「ここは私の出番だな」と出るべきところで出たらいいんだよ。何もしてないようでいて、こいつはやるべき時にはやるな、という雰囲気が出ていたらそれでOKなんだよ。

こうちゃん:
そうそう。だから別に全部わからなくても、いつでも対応できる状態で待機していて、「ジャーン!!」てやればいいわけだ。

くわっち:
勘違いして構えてたね。ボーッとするか、なんとかしなきゃ、と固くなってるか。そんなんじゃみんなでコンサートする時に、いいハーモニーはできないもんね。

いさどん:
その一番いいキャラが、Aちゃんだよ。

みんな:
ああ~~。

いさどん:
誰もAちゃんにそんな難しいこと期待してないじゃん。だけどすごくいいキャラしてるでしょ。そういう落としどころがあるんだよ。

こうちゃん:
力まないところで発揮できるんだろうね。

くわっち:
心の水爆なのかなぁ。

ともこ:
心の水爆って何ですか??(✪ω✪)

いさどん:
言わない。僕は心の水爆を発見した。それは心の水爆とネーミングしたけれど、別に水爆じゃなくてもいいんだよ。でも水爆というネーミングはちょうど時代に乗ってるね。

やはり、ここまで歩んでくると ──── と言ってもみんなには観えないだろうけど、僕はこの心境でここまで歩んでくると、終末を意識する。僕の場合、終末を意識すると、その先を考える。そこまで心が飛ぶと、もうどうでもいい感じ。別に今のことを無視するわけではないし、しっかり生きるけれど、それはある意味、終末が観えて先を意識している者がそこへ向かう、惰性のようなものなんだよ。
僕は時々ケアの人たちにも喝を入れる。どうしてそんなにものが観えないのか、まず頭が悪い、ということもはっきりと伝える。なぜそういうことが言えるのかというと、自分に対して何も求めていないから。相手からどう思われようとかまわない。

ともこ:
「求めていない」ということは、余分な思考をしないということだね。

こうちゃん:
昔、いさどんを見て「あの人は武道の達人ですか?」と言った極真空手のチャンピオンがいた。彼は力で押してチャンピオンになったけど、年を重ねていくとだんだん若いものに敵わなくなってきて、どうしたらいいかといさどんに聞いたら、いさどんは「無の境地」を説いていたね。

いさどん:
力まないで自然体でいると、相手の攻撃がどこに来るのかが自然に観える。

こうちゃん:
それは武道でなくても同じだよね。

いさどん:
その究極が、何か問題があった時に全て、天に丸投げするんだよ。もう私は知りませんよ、全部あなたの責任ですよ、とね。

こうちゃん:
いろんな引き出しがあって、それを自由に選択して使えるような状態になるといいよね。

いさどん:
そうそう。将棋みたいなもので、いろんな駒があって、それを一番ふさわしい時にパチンと打てるだけの余裕がないといけない。

ともこ:
ある段階までは力みも必要でしょうか?

いさどん:
意欲がないとダメだよ。

ともこ:
意欲と欲は違うのね?

いさどん:
意欲というのは、向かおうとする意志であって、意欲があるということは、結果を決めつけてはいないんだよ。

ともこ:
なるほど!欲は、こうなりたい、ああなりたい、と、結果を自分で決めてるんだね。意欲はもっとフリーな状態だ。

いさどん:
「ヨク」というのは、「ヨ=よこしま」に「ク=自由」だから、あっちもこっちも欲しい、という感じだね。「イヨク」は、あっちもこっちもという欲の「イ=位置」が決まっていて、「これだ!」と定まっている状態。

ちなっぴー:
いさどんは意欲のかたまりだよね。

いさどん:
極めるというのは神業だからね。田んぼをやる時に、稲穂が倒れるか倒れないかのギリギリのラインを目指すような、常にその気持ちを忘れないということだよ。
生きるということにはバランスがある。例えば日本刀を打つ名人とか、野球の神様と言われる人とかがいるでしょう。それは神業とも言えるけれど、「〇〇バカ」とも言えるんだよ。生きるということは、本当はそんな風に何か一つのことだけをやっているのではダメなんだよ。いろんなことに意欲を湧かせていく。きっと、カタカムナ人はそうだったんだろうね。それは一人では限界があるから、群れて暮らした。
それは地球暦と同じだよ。一人ひとりの地球暦を見ると、偏りがあってひどいな~と思う。極端なことを言えばみんな問題がある。

こうちゃん:
だけど、僕ら全員の地球暦を合わせたら、ものすごいんじゃない?

いさどん:
それこそ完璧だよ。だから群れなさいというんだよ。

こうちゃん:
カルマも個性として、陰性も陽性も全部合わせたら中性になる。

いさどん:
そのことについては、ここに来るまでの車中で解明して話してきたよ。

こうちゃん:
だからもっと気楽に、自分らしく自分の分を貢献すれば、全体としては完璧だよ。

いさどん:
だからそれがシンバルの「ジャーン!!」なんだよ。1回きりでいいんだから(笑)。その代わり、そこを託されているのにそのタイミングを逃したら、みんなコケるよ。
志を同じくしている者が、人生という交響曲を共に奏でる。その指揮者は、時代。あるいは、天。いつもその指揮者の方を向いて流れを観ていたら、「ここだ!」というタイミングで「ジャーン!!」とやることができる。だから天を観ていなさいということだよ。

 
個人の最高の幸せ — 地球益

ともこ:
地球暦って、紙面で見ると平面だけど、実際は立体でしょう?だから平面上では全部の惑星がつながって見えても、立体で捉えるとけっこう間はスカスカだよね。

いさどん:
そうだよ。平面で捉えて角度が何度と言っているけど、三次元で捉えたらものすごく離れていたりするんだよ。

ともこ:
てことは、結局みんな偏ってるんじゃないの?

いさどん:
それは違うよ。例えば夜空に星座があって、それが地球上からだと三角形に見えるとするでしょう。ところが、それを横から見ると3つの星はまったくバラバラでいびつだったりする。そうすると意味がないかのように思えるかもしれないけれど、実はそこに意味があるんだよ。つまり、そのくらいいびつでありながら、地球に向かって三角形を描き、それを我々に見せてくれているんだよ。地球からだけそう見えるということは、地球に向かってメッセージを送っているということでしょう?それを意味がないと否定したら、そこで終わりだよ。
こんなにもいびつな状態でありながら、地球に向かってメッセージを送っているということは、そこに意志があるということ。天には意志があるということがわかったら、すべてを受け取れる。物理的な矛盾を並べてケチをつけているようでは、意志は感じられないよ。だからいくら宇宙の流れについて語っても、物理学者がそれを信じられないのは、頭の中が物理だけで、そこにメッセージや意志があるという発想がないんだよ。

こうちゃん:
利口になればなるほど、それを感じることには疎くなっていく。

いさどん:
有史以来の二元的賢さだね。「負けたくない」とか「得したい」とか。そしてすべての国が、結局は自国の国益ばかりを求めている。どうして地球の平和というものを考えないんだろう。それが最大の国益でしょう?なぜ同じ地球にいて、「地球益」というのを考えないんだろうね。

こうちゃん:
結局はそれが個人の最高の幸せなのにね。

いさどん:
そう。その安心の中に生きられる。それなのにみんな国益を背負っているから難しくなる。今テレビは北朝鮮の話題で持ちきりだ。この間まではISだった。そこで語られていることは、時間の無駄遣いだよ。何の解決にもならないんだから。

ともこ:
テレビでは、今北朝鮮が起こしていることに対して制裁だ何だと対症療法ばかりが語られていて、ではなぜ今の北朝鮮があるのかという根本的な振り返りがない。それを思った時に、木の花でメンバーやケア滞在者(心身の病の回復を目的に滞在している人々)が、自分の心をひも解いて、今の自分の状態がどこからどういう経緯をたどって今に至るのかを解明するのは、世界の現状を解明するのとまったく同じなんだと思った。それが解明されて「だからこうなっているんだ!」と気付いた時に、その問題は昇華される。だから、すごく大事な取り組みをしていると思ったよ。だって今の世の中にはその視点がないから。

いさどん:
今出会っていることのルーツを、常に意識して、理解していなければいけない。ただその現象の表面だけを見て反応するのではなく、それが何で起きてるのかを解明していく視点を常に持ち、できる限りの努力をして、なぜ今の状態に至ったのかを知った上でものごとを判断しなければいけないんだよ。そうすると、その現象に対する対処はまったく違ったものになる。

こうちゃん:
ニュースでその出来事に至るまでの経緯を振り返っても、本当に短いスパンでしか見ていないよね。何月何日にどうしたとか。本当はもっとずっと前からそこに続く流れがある。

いさどん:
すべてはアラビアのロレンスから始まっている。すべては十字軍から始まっている。すべては紙の発明から始まっている。すべてはカタカムナから始まっている。

ともこ:
すべては地球誕生から始まっている(笑)。

くわっち:
すべては宇宙誕生から始まっている(笑)。

いさどん:
人間には、極めてユニークな特徴として、自我が形成されるようになっている。だから、一人ひとりの目線がオリジナルなんだよ。一人ひとりオリジナルのフィルターを持っていて、それで世界を見ている。その自分のフィルターを通して見た世界が、他のフィルターを通して見た世界と共有されなければ、調和はとれない。
自我が強くなると、自分のフィルターを通したものしか信じず、それがすべて正しいと思っている。だから自分の思った通りではない反応が返ってくると、被害妄想的な人間なら攻撃されているんじゃないかと受け取ったりする。傲慢な人間なら、「何でわからないんだ」と思うだろう。

人間が70億人いれば70億通りの個性があり、その個性の羅列の中で、波が起こるようになっている。例えばガングロのお姉ちゃんたちが一生懸命自己主張していて、それが支持されたら嬉しいわけでしょう。白人至上主義者が「あなたが正しい」と支持されたら喜ぶでしょう。そこには視点の違いがあるだけだよ。その視点の違いを主張して、相手を打ち倒して、平和になろうとしているのが今の世の中だ。その延長に平和を表現しようとしている。
アメリカはそれをやってきて、今のような状態になっている。それをカモフラージュするために、多民族国家を掲げて人権尊重を制度に組み入れてきたけれど、そもそもアメリカという国家自体が、他者を支配して自らのフィルターをかけた正しさを主張して成立しており、ぞれをずっとやり続けて勝ち続けてきたんだよ。そして今、その自分たちのフィルターの実体を知る段階に来ている。それはつまり、最終的な仕上げとも言えるね。アメリカという国は、大らかで何でも受け入れる国でありながら、実はその奥にアメリカ的フィルターがあって、それで世界を支配しようとしてきた。それをも超えなければいけない時が来たんだよ。
だから、白人至上主義が間違っているということでもなく、リベラルな人たちも、アメリカ国民としてアメリカらしい誇りを保とうと言っているのだから、同じ穴のむじななんだよ。そうやって双方が陰陽のバランスを取りあっているということだ。

ともこ:
視点を変えるというより、共有するんだね。

いさどん:
そう。それは違いによって強いものが弱いものを支配するような、強弱の視点ではないよ。
人間は自我によって、欲望を満たす時に快感を感じる。その快感ゆえに、それがいいことだと思い、自我に取り込まれていく。そして依存症になる。お金依存になったり、便利さ依存になったりするわけだけど、お金や便利さがあふれると、人間は傲慢になり、そして退化するんだよ。本来自然と生きていくための能力が、便利になることで使う必要がなくなって、退化していく。ところがそこに欲望を満たす快感を感じるものだから、依存症が広がっていく。そのことが観えていない。みんな冷静さを失っている状態なんだよ。
そしてさらにフィルターが複雑になったり色が濃くなったりして、自分の考えと同一のものを求めるようになる。これがつるむというやつさ。自分と同じ色のものを求めていく。そしてつるむと、今度は違うものと対立するんだよ。マスコミでも政治家でも、どこを観ても、自分の主張が正しいものだと受け取られたい、という衝動が観える。そうではなく、そういったものを全部払しょくして、大らかにそれを語れる視点が必要だ。

そこで、どうしたらいいのか。その構造を理解し、それは互いのフィルターを共有するための共通点を探す、ハードルのようなものだと捉えたらいいだろうか。
北米やヨーロッパの先住民族の中には、海鳥をアザラシの皮の中に入れて発酵させて食べる文化がある。そんなもの食べられないよー!という人もいるけれど、それは自然が与えてくれたんだよ。その智恵も、食べ物も、そして味覚も。そこにはプロセスがあり、誰にも否定できるものではないのに、自分のプロセスから外れているからといって否定したり、極端になると「それは変だ」と言って改めようとする。そういう考えでいるから、いつまでも対立する。

ともこ:
やっぱり、この視点は世界平和の鍵だ!

 
フリーな心でいよう

いさどん:
2012年12月21日の銀河の冬至をもって、我々は闇のピークを越えた。その時点で、本当はすべてが変わらなければいけないんだよ。それは見る方向が変わるということ。だけどあまりにもこれまでの方向に慣れ過ぎていて、それが永遠のように思っているんだよ。生まれた時からそうだから、その漬け物になっているようなものだ。だから視野を大きく広げて、自分の枠すら超えて物事を観なければいけない。
地球は現象化の星だから、何でも現象化して見せてくれる。だから人間は、地上に天国も、地獄もつくる。地獄は死んでから落ちるところじゃないよ。今現在地獄を生きている人がたくさんいる。しかし実はそれすらも調和の中に在るんだよ。相対する存在を創り、それが互いにバランスを取っている。それを両方観るには、引いて観なければいけない。引いて観るということは、熱くならないということさ。

こうちゃん:
今のスーパーコンピューターは、基本的に0と1で計算していて、ものすごく広いスペースに並んでいる。だけど今、中性子のコンピューターというのが創られて、それはほんの一坪くらいのスペースで済むんだって。コンピューター自体はもっとずっと小さいんだけど、なぜ一坪必要なのかと言ったら、そのコンピューターを動かすには絶対0℃の環境が必要だから、それを冷やすためのスペースなんだって。だけど今までのコンピューターに比べたらものすごい省エネだよね。
それで、中性子コンピューターには、0と1が同時に存在しているって言うんだよ。そして今までのスーパーコンピューターよりも格段に計算が早い。それはなぜかと言うと、今までの0、1、0、1、のコンピューターだと、全部計算をしないといけないんだって。ところが0と1が一緒になっていると、それが一瞬で終わる。理屈はわからないけど、ずっと少ないエネルギーで済むし、スピードも速くて、場所も取らない。「二辺を離れて中道を説く」と言うけれど、宇宙には電子と陽子と中性子があって、すべてが同時にあるのが当たり前の世界じゃない?つまり良いも悪いも一緒になっているところを中道と言い、その両方を同時に理解しているということだよね。それって調和だよ。だから地球上でこんなに醜い世界が展開されていても、それで調和がとれている。

いさどん:
宇宙は戦争しないでしょ?でも地球に現象化すると、戦争ができる。それは「差」ができるということだよ。あるがままの状態では戦争は起きないけれど、現象化してそこに「差」が生まれると、それを元に戻そうとする動きが生まれる。両極端の存在が互いに引っ張り合って、中道に戻ろうとする。

こうちゃん:
「差」ができるということは、現象が生まれるということだもんね。

いさどん:
そう。そして「差」を取ると戦争がなくなる。

こうちゃん:
現象というのはもともと、「差」を見せるためにつくられている。

いさどん:
そうだよ。そしてそこにはサイクルがある。人間だったら、オギャーと生まれてから人生を表現していくにつれて、どんどん「差」ができる。それがだんだん消耗していって、死ぬとリセットされる。すべてのものにはサイクルがあり、それが全部消滅するのが「差取り=悟り」だよ。

こうちゃん:
だからずーっと遠くからそのサイクルを観ていれば、消滅した状態をも観れる。

いさどん:
ずーっと引いて観たら、あるサイクルはさらに大きなサイクルの中に在ることが観えてくる。そしてその大きなサイクルも、さらに大きなサイクルの中に在るというように、すべてが相似形になっている。さらに引いていくと、それらのサイクルの集合体自体が一本の太い線になっていて、さらに引いて観るとそれすらも細い線になる。

こうちゃん:
そのくらいの心で堆肥まきもやれるといいよね(笑)。

いさどん:
堆肥をまくときには「たいひんだー」と思うでしょ?(みんな:笑)だけど間違いないのは、今回まくのはここからここまでという限定がある。だから、1ヶ月間ずーっと堆肥まきするわけじゃないのよ。それから、すべての圃場にまくわけでもないのよ。人の畑にもまかないのよ。だから冷静に考えると、「これだけの量をこれだけまけば終わり」ということなのよ。そうしたら、「たいひんだ、たいひんだ」と思う前に、ただやっていけば終わるんだよ。

何かを限定するのではなく、常にフリーな心でいよう。限定すると苦しくなる。フリーな状態だからこそ、流れが読めたり、気付きが生まれるんだから。

 
「ニンゲン」から「ヒト」へ

いさどん:
銀河は、円になっている。人間が世界観を広げ、スケールの大きな意識で語るとね、その円の中心が「ざわざわざわー」っとするんだよ。つまり、こちらの悟りに、銀河が反応するんだよ。人間が悟るということは、宇宙に対してそのくらい刺激を与える。人間とは、それだけの存在なんだよ。

そのくらいのスケールで生きたいものだと思う。事実、人間は銀河の物理的作用に対して影響力がある。本当に、銀河がふわふわ~っと、波打つんだよ。「銀河が波打つ」と言うと、人間のスケールからしたらものすごく巨大なことでしょう?

太陽も、そういう反応をしてるんだよ。太陽には意志がある。そこと共鳴して生きているかどうか。
この間、太陽フレアの影響で地球の磁場が乱れたことが話題になっていたけど、こちらから発しているものを受けて、向こうも反応を変えてきているんだよ。つまり、対話できるんだよ。あちらの意向を聴いて生きていれば、こちらの意向もちゃんと伝えられるようになる。そうでなければ、地球人が太陽を信仰するわけがない。何を根拠に太陽を信仰しているのかと言うと、キャッチボールができているからさ。その領域に達した者が確信を持って、そのことを伝えてきたんだよ。人間はそこまでの領域に行くことができる。それを、「そんなのは絵空事だ」と言ってしまえばその通りになるだけだ。

物理的な太陽を見て語りかけるのは、幼稚な段階。あの物理的な太陽の奥に、霊的な太陽がいるんだよ。同じように、あなたの顔の奥にも、霊的なあなたがいる。その霊的なあなたに語りかけなければいけない。太陽も、霊的な太陽に語りかけなければいけないんだよ。人間は富士山に登ってご来光を見たり、物理的な太陽を拝んでは「神々しい」と感動しているけれど、その奥に霊的な太陽がいるんだ。
ロータスランドにかかっている絵に描かれている光は、太陽じゃない。霊的な光なんだよ。そういうものがあるんだよ。

ロータスランドにかけられている”桃源郷”を表現した絵

いさどん:
人間は、そこまでのスケールの存在になれる。
仏道というのは、下から積み上げていって上へと上がっていく道のこと。上には際限がないから、どこまでも無限に上がっていける。ところが神というのは、みんな神様に語りかける時には上を向くように、上から下へと降りてくる存在なんだよ。神様にもいろいろな位置があって、それぞれの位置から人間のもとへ降りてくる。「あなたはどこから来ましたか?」と尋ねると、意外と全体からすると下の方の神様だったりするんだよ。そういった神々は人間を誘惑し、惑わせ、それがいろいろな宗教の元にもなった。
だけど、仏道というのはそうじゃない。仏道とは「道」であり、下から上へと上がっていくものだから、その道には限りがない。人間がその気になったら、宇宙の根源までも行ってしまう。

ともこ:
上から降りてくるものはそこがスタート地点だから、最初から位置が決まってるんだね。

いさどん:
決まってるんだよ。ところが下から上への道は無限だ。だから仏教では、神を語らない。それを「人の道」としている。人が進歩していって「命(ミコト)」となり、「カミ」となり、「カム」となる、一番の奥まで至る道なんだよ。
ある位置から神が降りてきて人間に出会うと、人間は「ありがたい」と言って拝むでしょう。だけどそれでは、その神の位置を超えることはできず、人間の成長に限界ができるんだよ。そこで神が、自分を超えていくような人間に出会うと、今度は逆に神が人間に「自分を導いてほしい」と言うようになる。だから法華経を行ずるものは神が守護すると言うんだよ。神がそれを喜ぶんだから。人は、神をも超えていける存在なんだよ。そのことがわかると、神も「私も人間界へ降りていって、もっと上を極めよう」と思うんだよ。その段階の神には、まだ自我があるからね。
だから、仏道とは恐ろしいものだよ。恐ろしいとは、怖いという意味ではなく、果てしなく広い、無限なる世界につながっているということさ。

人間は太陽とも、銀河とも対話できる。そこでやっかいなのは、人間は物理的に語りかけて通じるものだから、奥が観えないんだよ。今こうして僕とあなたたちが話しているように、物理的に会話をして、通じているかのように思っている。だけど本当は、霊的な会話でなければいけないんだよ。魂と魂の会話でなければいけないのに、物理的なやり取りをして表面的に通じてしまうものだから、浅い付き合いしかできない。
銀河がふわふわ~っと波打つのも、物理的に波打っているというより、人間の発しているものに銀河の魂が反応しているんだよ。

ともこ:
私の奥にも、霊的なともこがいるんだね?それが何なのかわかんないけど ───

いさどん:
何なのかって、それがともこだよ。

ともこ:
そうすると、日ごろのともこはすごく小さなところにいますね?

いさどん:
それは物理的なところに囚われているからさ。今までのともこに執着していれば、霊的ともこもそこに引っ張られる。執着が足かせになって、魂が不自由な状態になっている。それを解放してやると、ともこは無限なものになるんだよ。人としての可能性は無限にあるんだから。
霊的ともこの次元が低ければ、それは物理的ともこの限界になる。物理的ともこのレベルが低ければ、霊的ともこの足を引っ張る。両方が縛りあってるとも言えるんだよ。だからそれを解放してやらなければいけない。

ともこ:
自分を磨けるのは、物理的ともこだけだね。

いさどん:
「磨く」というのは、物理的ともこの執着を取り去ることだよ。

ともこ:
だけどその物理的ともこがいるから、霊的ともこは自分を認識できる。

いさどん:
そうだよ。だから地球に霊的ともこが降りてきて、肉体をもらって、現象化することによって、悟りへの道を歩むんだよ。

僕が言っていることは、わからない話でしょう?いくらどう話しても、僕も人間だから、みんなも人間から聞いていると思うんだよ。だけどこれは、人間がしゃべっているけれど、ベースにあるのは宇宙人なんだよ。人間の姿をしているけれど宇宙人であるということは、ベースが「ニンゲン」ではなく、「ヒト」であるということだ。

人間の思念というのは、ものすごい速度 ──── つまりアマハヤミ(光の速度の10の64乗倍)で、 瞬間にして宇宙を駆け巡る。だけどそれは、その意識レベルの意識を持っているから初めて成ることであって、それがないものには一切通用しない、考えられないことなんだよ。
そういう思考を持って生きていると、それこそ「何でこんな世界ができるの?」という世界ができる。訪れる人が「あれ?ここはどこだろう?」と不思議に思うような、自分の中の何かを呼び覚まされる場所 ───── それが桃源郷、「ロータスランド」だ。

 

 


大町道中記③ 〜 生きていければいい

翌朝、テレビをつけると、朝のニュースで障がい者の就労支援活動が紹介されていました。しばらく番組を観た後、いさどんが語り始めました。


 
やさしさと正直さ

いさどん:
障がい者を取り上げて「やさしい社会」をテーマにしているけれど、そこに関わる人々の人間性はここでは浮き彫りになっていない。この支援活動をしている人の中には、「障がい者は不当な扱いを受けている」という怒りがある。でもそれは怒ることではなく、ただそういう事実があるということを伝えていけばいいんだよ。
一つの解決策として、自我がなくなると、そういう怒りというのはなくなっていくよね。自我があるうちは、「自分の言うことが伝わらない」とか「自分は損をしている」とか「私のいうことが正しいんだから聞くべきだ」というように、怒りが出てくる。だけどそれは、たまたま自分がそこに縁があったから今の立場にいるだけのことで、みんなで立ち位置を共有すれば、そういったでこぼこはなくなっていく。

僕は今の番組を観ながら、うちにもAちゃんがいるなあ、と思った。Aちゃんは障がいを持っている。それで、家の周りに草が生えてきたので草取りお願いね、と言えば「あいよ!」と言って取ってくれるし、だからと言って毎日「あれやってね」「これやってね」と頼まれているわけでもない。AちゃんはちゃんとAちゃんのキャラで、全体の足りない部分の隙間を埋めてくれている。圧力がかかるわけでもなく、かと言って何もしないで保護されているわけでもない。そういうことだな、と思いながら番組を観ていた。
人にはそれぞれ、足りない部分と足りすぎる部分があるとしたら、足りない部分を補ってあげるやさしさと、足りすぎる部分を「それはやりすぎだよ」と伝えてあげる正直さをみんなが持ったら、障がい者を支援することはいらなくなる。それが全体性ということだよ。今の支援活動は、障がい者を特別扱いしているから、結局共に生きていることにならないんだよ。何より、障がい者支援がビジネスのネタになっている。

もう一つ、番組の中で、生まれた時から脳に障害を持つ子どもを育てているお母さんが紹介されていた。障がいを持つ人一人に対して、一人以上がつきっきりの状態になっている。それは、自然界では無いことが起きている。もしも自然界で、誰かが誰かにつきっきりでなくてはならないなんてことになったら、生きていけないよ。そう考えると、今の人間社会では、障がい者はとても手厚い保護をされているとも言えるんだよ。つまり、そんなことまでできている世の中というのは、熟してきているということだ。
それでもまだ、障がい者に対して足りない足りないと言っている。十分だよ。やりすぎだとは言わないが、十分ありがたく思って感謝して暮らしていけるはずだよ。自然界では淘汰されるのだから。こういうことを言うと、業界からクレームが来るかもしれないけどね。
タイのプミポン国王は、「足るを知る経済」といって、求めるだけの延長に豊かさを表現するのではなく、助け合い、共に暮らすことにより、ありがたくいただく心の上に成り立つ経済を国の豊かさの指針としていたんだよ。

ともこ:
障がい者に対して現状で十分だというと、さっきの番組みたいな怒りが生まれるかもしれないね。

いさどん:
そう。相模原事件の時には過剰なくらいの反応が起きて、「障がい者の生きていく権利を奪うのか!」って、そんなこと誰も言ってないでしょう。ただ一人の統合失調症の人間がそう思っただけだよ。
でも、もう一つの観方からすると、彼の言うような見解も確かにあるんだよ。今ケアできているUくんは、植松容疑者の主張していることは事実だと思うと言うんだよ。そのことについて、彼は2ちゃんねるで語り合っている。そこには両方の怒りがあって、方や障がい者に対してひどい仕打ちだとする怒りと、方や実際にそういう人が生きていていいのかという意見がネット上で飛び交っている。
本音をすべて出し合って、そして落ち着くべきところに落としていく正直さが、この世界にはまだない。こういうことはタブーで、言ってはいけないことになっている。

ともこ:
それってさっき話していた「全体性」とは反対の状態だね。

いさどん:
世の中全体がね。全体性というのは、すべてがあからさまになって、個人個人の個性や能力が全体のものになっていくこと。そうすると、「差」が消えるんだよ。例えばあるグループの能力が一般の80%だとしたら、その80%をグループ全体の個性として生きていけばいいのだし、そのグループがさらに大きな全体の一部となれば、その足りない部分も全体によって埋められていく。僕の言っていることは、難しいことかな?

ともこ:
こうやって話を聞いていてなるほどと思うのと、実際に自分がそれを生きるのとはまた別だもんね。

みほさん:
どこまでわかっているのかも怪しいね。

いさどん:
だから大事なのは、自分はわかっていないんだということを原点に置いておくこと。そうすると、わかろうとする、受け取ろうとする下地ができる。ところが、自分流にわかってわかった気になっていると、常にわかった人のつもりでいるから、新しいものを取り入れる気にならないんだよ。そうすると発見がないから、そのまま変わらない自分でい続けることになる。
進化するということは、今の視点からでは未来はわからないということ。だから常に謙虚でなければいけない。どんなにわかったとしても、未来に対してはわからないということだ。

 
無駄が世界をダイナミックにする

いさどん:
自分を改める気のある人は、本当は深刻にならなきゃいけない。「自分は本当にものが観えていない、これではいけない」と心から思った時に、物事に対して「これでいいのか」「これでいいのか」といろんな角度から考えるようになる。そうすると幅ができて、その中心が観えてくるんだよ。本当にこれでいいのかと真剣になった時に、初めて自分のずれを修正できる。それをできるのは、自分だけだ。
人から言われて直すのもいいけれど、それでは言う側も豊かじゃないし、言われる側はなおのこと豊かじゃない。やっぱり本人が、自分のことなのだから「これはいかん」と思って真剣にならなきゃ。日常の細かいことをノーチェックにしてるから、ツケが溜まって大きな現象をもらうことになる。それで「また同じことをやってる」と言うけれど、本当は毎日瞬間瞬間それをやっていて、チェックできてないだけなんだよ。これは誰にでも言えることだ。
(うんうんと頷いているみほさんに向かって)今、人の話として聞いてるでしょ。自分事になってない。それで「今日はいい話聞いた」と言って終わっていくんだよ。真剣さがあったら、違う明日がある。

僕はこの話をしながら、いったい自分は何を言いたいんだろうと思う。何のためにこの細かいチェックが必要なのか。
人間の未熟さが今の世の中をつくっている。そうしたら、一つひとつの部品の精度を上げる必要がある。人間一人ひとりは、世の中を構成する部品だから。それをやっていく時代が来たんだよ。
どんなに科学技術が発達してテクノロジーに支えられていても、それを必要とする人間が不完全である限り、その不完全を補足するための作業が必要だ。病気になる人間がいたら、病気を治すための作業があって、それがビジネスチャンスになって、経済は膨らんでいる。これはバブル状態だよ。本来不要なもののために、経済が大きくなっているのだから。
ストレスを溜める人間がいる限り、ストレスを埋めるための行動が必要になり、それが商売になっていく。それは不要なものによって成り立っている経済でしょう?無駄な思考をして不満をたくさん生んで、それを解消するためにたくさんのエネルギーを使っている。不要なもので支えられているんだよ。

そこで、不要なものはなぜあるのか。
不要なものがあるから、この世界に不必要なことが起きて、その無駄なことが世界にダイナミズムを生んでいく。それがこの世界のエネルギー源となっている。もしも不要なものを全てなくしたら、そこに生き生きさはなくなるよ。生きることに幅がなくなるから。それは、悟った人ばかりの世界だよ。

みほさん:
おもしろくないね(笑)。

いさどん:
いや、おもしろいかどうかは別なんだよ。それがその時代なんだから。今は人口も産業もピークのある意味異常な世界だけど、後から振り返ったら、活気があったよなぁ、でも無駄なものがいっぱいあったなぁ、と思うだろうね。
僕が35年前にインドに行った時、当時は1日1食も食べられない人がたくさんいて、バングラディシュから100万人の難民がカルカッタに押し寄せていた。夕方になると、人々が牛の糞を燃やして火を焚いて食事の支度を始めるので、そこら中から煙が上がる。町の中は埃だらけ。そんな時代だった。
そんな中を旅していて、僕が一番印象に残ったものは、目。インドをバスで旅していて、夜になると街灯がないから真っ暗になる。時々バスが止まって休憩になると、真っ暗な中に屋台があって、そこに裸電球がぶら下がっている。そうすると、暗闇の中でそこだけがパーッと明るく見えるんだよ。そこでバスを降りてお茶をしていると、僕が日本人だから、周りにどんどん人が集まってくる。そして裸電球に照らされた目がピカーッと、好奇心いっぱいでこちらを見ているんだよ。屋台で出されたチャイを飲んでいる間も、周りには目、目、目、目、目。それはものすごい生命力に満ちていた。好奇心と、おなかがすいている不足感で、野生のエネルギーにあふれてるんだよ。

今は、野生では生きていけないようなものであっても、やさしい社会だと言って、障がい者は保護しなければいけないと言う。すでに保護されているのに、それでももっと保護しろと訴える。障がい者年金と特別雇用で買いたいものが買えるようになって、ものにあふれている。あの生命力に満ちたインドの目と、どちらがいいのかはわからないね。方や豊かで方や貧しくて、だけど生命力はあの時代のインドの人々の方がはるかにあった。そしてその一方通行な豊かさを追求したところで、社会は良くなってはいかないんだよ。

ともこ:
さっきいさどんが、そこら中無駄だらけだという話をした時に、私の思考の中は「そうか、無駄なんだ」とすぐに二元的な発想になるんだけど ────

いさどん:
僕は無駄があることをダメだと言っているわけではないよ。事実として語っているだけ。その無駄は、「無駄」という段階では不要なものだ。ところが、無駄があるということは、遊びがあって、幅があって、ダイナミックだとも言えるんだよ。そして、その不要なものをどう生かしていくか、それをどう考えたら無駄でなくなっていくのか、無駄が全部なくなったらどうなるか、と先へつないでいく。必要なものだけしかなかったら、いったいどういう世界ができるだろうか。きっと仙人のようなものばかりの世界になるよ。

僕はそれを思うと、もう思考が次へ行く。そういえば、かつて僕が金星にいた時はそうだったなぁ、と。金星ではどこを見ても調和と愛の世界で、誰もがお釈迦様やイエスのような存在だった。そんな世界、楽しい?だって、お釈迦様がお釈迦様の悟りを伝える場がないんだよ。イエスがイエスの愛を語るところがないんだよ。みんな当たり前だから。そこで生きてるんだよ。
そこで僕は、何のために生きてるんだろう、と思ったんだよ。調和と愛だけの世界で、生きている意味は何かと考えたら、「まあ、そういうところですな」というだけ(笑)。少しは語り合って、わからずやもいて「わからんのかー」とか何とか言いながらやっていった方がおもしろいじゃん。だけどみんな悟っちゃってるから、気付きも何もそこにはない。気付く必要がない。

くわっち:
昨日言っていた、神の世界だね。

いさどん:
つまらん世界だよ。

 
神様のジレンマ

カタカムナの八鏡文字

いさどん:
カタカムナの八鏡文字は、円を八等分して表される。それは地球が太陽の周りを1周するのと相似形になっていて、日本ならその1周の間に四季を迎える。人間は生まれてくると「四苦八苦」すると言うね。「八方ふさがり」という言葉もある。方位は東西南北で4つだけど、それをさらに割ると四苦八苦になり、それは行くところがたくさんあって迷っている状態。それが全部収まると、八方が飽和安定する(ヒフミヨイムナヤコトのヤには飽和安定の意味がある)。だけどその飽和安定状態でずっとやっていくと、一体全体何のためにこの世界はあるのだろうかと意味がわからなくなる。そこには何の波紋もないんだから。
湖の水がシーンと波風ひとつ立てずに凪いでいたら、実物と湖面に映っているものとの区別がつかずに、どちらが本当かわからない。ところがそこにポーンと石を投げると、波紋が起きて、「上が本物だ」とわかる。だから波紋が起きるのはいいことだよ。そして、波紋が起きるということはそこが真実なのではなく、上に真実があるということだ。

神様は自分一人で、退屈だったんだよ。だから飽和安定の「八つ」の次に「九つ」を創り、あえて余りものを創ることによって、「十=統合」という完成の世界を創ったんだよ。何の波紋もない完璧の世界というのは、それ自体が不完全なんだよ。それ自体を認識できないんだから。そこに不完全を入れることによって、この世界の存在や仕組みを理解することができて、統合する。かつて僕が神さまに聞いた通りの話が、カタカムナで立証されているんだよ。

時々僕はカタカムナを語りながら、これを人間に与えて何になるんだろう、と考えるんだよ。つまりそれは「悟り」ということでしょう?まず始めに、「ワ」ができる。これは「アマ」と言うんだよ。つまり、高次(ア)の間(マ)であり、これが宇宙ができるための器であり、アマとは即ち宇宙のことなんだよ。
それだけの状態だったら、何も起きない飽和安定の状態だ。「ヒフミヨイマワリテメクルムナヤコト」という一から十までを経てもまだ何もできてはいない。「アウノスヘシレ」という「ア」から始まって自動的に現象ができていく段階で、初めて現象化が起きるんだけど、現象化が起きることによって何が生まれるのかというと、矛盾が発生するんだよ。飽和安定(ヤ)から転がり出て(コ)きて、そのエネルギーが溜まっていくと現象化になる。カタカムナは、悟りのプロセスを完璧に表現している。
それで、これを人間に語ってどうするのかというと、人間を悟らせるんだという。ではどうして悟らせる必要があるのかというと、悟ってないからだよ。今の人間は悟っていないから、悟らせるということが必要になる。だからお釈迦様やキリストが必要になるんだよ。
ところが、金星へ行ってごらん。全員が悟っているから、「悟らせる」ということが不要になるんだよ。悟りを求めることがないから、実態が悟りそのものの世界を求めることもない。つまり今あるものが不要になるんだよ。そこにあるのに不要なんだから、辛いだろうね。あ、違った。辛いということもないんだよ。私はいるよなぁ。それがどうした、という世界。これが神様のジレンマだったんだよ。

ともこ:
永遠の世界で、ジレンマが発生する?

いさどん:
完成された世界では、その状態自体が不完全につながるということなんだよ。そこで、その完全に不完全を散りばめると、そこから矛盾が発生し出し、元の完全に戻ろうとする道が生まれてくる。それで完全を目指していって完全になると、今度はまたシーンとして何もないから「なんじゃこりゃ~!!」ということになって(笑)、また不完全を創って矛盾を発生させて「なんじゃこりゃ~!!!」ということをくり返してあっち行ったりこっち行ったりしながら無限にそれが続いていくと、それはこういうことになる(と言って、手で「∞」の形を描く)。これって「8」でしょ。

みんな:
ほんとだ~!!

いさどん:
ひどいわからずやがいるでしょう?そのわからずやをわからせて、その結果どうなるかというと、みんながわかってしまったら、とてもつまらない世界になる。
この間ヒロッチがみんなに配ったアンケートに、「あなたはどのような心境で死を迎えたいか」という質問があって、僕はこう書いた。「やっと来たか。」やっとこの世界から離れられる、よかったなー、と。
それでもあちらの世界に行くとそこは飽和安定してるから、その世界を旅立つ時には同じように「やっと来たか」と思うのだろうね(笑)。だから、いつも、「やっと来たか」の姿勢だね。それは常に前向きに進むということ。その繰り返しだ。これが宇宙の実相であり、神様の実体だよ。
だから神様って、とても滑稽なんだよ。僕は神様に、「あなたも気の毒な方だねぇ」と言うんだよ。だってこれではマスターベーションだもの。すべてが自らの内にあり、その中であっちに行ったりこっちに来たりしながら存在している。これを永遠に繰り返すんだよ。法華経ではこれを「三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)」と言って、宇宙が始まって崩壊することを三千回繰り返しているということだけど、三千回というのは2999+1ではなく、無限という意味だよ。「八百万(やおよろず)の神々」の八百万も、「百姓」の百も、すべて無限を表している。同じことを永遠に繰り返しているのだけど、それがわかったところで「だからどうした」という話だね。

くわっち:
でも同じことをくり返しながら変化していってるということだよね。

いさどん:
そりゃあそうだよ。同じことをくり返しながららせんを描いて進んでいるのだから、同じ場所には行かない。AからA’に、さらにA”にと進んでいくんだよ。そうすると、語れば語るほどもうどうでもよくなってくる。現状をひどい状態だと嘆いたとしても、別に核爆弾が爆発したって、その先には必ず次の道がある。かつて広島と長崎に原爆が落とされた第二次世界大戦では、日本人が600万人も死んだ。世界では、6000万人が死んだ。この悲惨な世界から立ち直ることはないだろうと言われたが、それがあったからその後の復興につながり、今につながっている。だから安定するとまたそれが壊れて、先へと進んでいくだけなんだよ。
地球では過去6億年の間に6回も生命が大量絶滅している。そしてその絶滅の後にも、DNAは次なる生命に受け継がれる。そしてDNAは進化していく。だから人類が大量絶滅しても、またどれだけか先に進むとそれを受け継いで進化した次の生命が現れてくるんだよ。AからA’へ、さらにA”へと確実に受け継がれていく。
そうすると、別に大量絶滅をしてもいいわけだよ。それを短く区切って見ると「北朝鮮が水爆を作った!?あんなものを爆発させたらえらいことが起きるよ」という発想になるけれど、大きく捉えたら、その出来事はすべてを消滅させ、DNAに託された情報が次の生命に受け継がれて、進化していく。広いスタンスに立てば、その段階が来ただけということだよ。

ともこ:
その進化はある意味無自覚な状態でしょ。だけど人間は ────

いさどん:
なぜ無自覚なのか。「自覚」という字を見てごらん。「自」という文字が入っている。つまり自分がいるから、自分がどうなるかというハラハラドキドキの中で自覚がある。ところが宇宙の時代の変遷という視点から観ると、自覚なんて必要なくなる。たくさんの自我がまとまって、それが流れとなっていくのだから。そこに自分があると自覚ができて、「私はどうなるんだろう」「今まで積み上げてきたものはどうなるんだろう」「今水爆が爆発したら(家のすぐ脇にある)あの花豆はどうなるんだろう」と不安になるんだよ。せめてあの豆を収穫してから死にたいわ、とかね(笑)。そういうセコい話が出てくるんだよ。
すべてを手放すことだよ。手放すと、飽和安定に戻る。つまり、平和になる。執着すると、自分のものだ何だと言って格差が生まれ、ダイナミックになり、問題ごとがあふれ出す。その極め付けが今の時代だ。

ともこ:
矛盾はそこから学ぶために起きる。だから人間がそこから学べばいいんだけど、学ばずに嫌だ嫌だと言ってるんだよね。

いさどん:
嫌だ嫌だと言うのも矛盾なんだよ。嫌だと言う必要のないことに言ってるんだから。なぜ嫌だと思うのかというと、ある特定のところに意識が限定されているからさ。だから「ここは嫌だ」と言ってるんだよ。ところがそこからずーっと引いて全体を俯瞰してごらん。それは広い全体の中のほんの一部に過ぎないから。
この世界は、「カタチサキ」の世界だよ。まず現象化として、今の世界の状態がある。そしてその奥に、現象界を支える潜象界の存在があり、それによってこの世界の実体が支えられ、動いている。時代の流れの中で今、カタカムナ理論がそれを立証し、この世界の全容が観える時がやってきた。13000年前のカタカムナの時代には、そんな理論なんてなかったんだよ。紙が発達して学習できるようになったから理論が生まれたのであって、カタカムナ人の時代はその理論をただ自らの能力として生きていただけだから、「こっちに行けば食べ物があるぞ」「危険が迫ってくるぞ」と直感で感じ取っていた。そこではコミュニケーションは、極めて単純で、言わばそれこそが「阿吽」の世界だったんだよ。

 
生きていければいい

いさどん:
おもしろいねぇ、こうして観ていくとすべてがどうでもいいということになる。そう言うとみんな頷くけれど、本当はわかっていない。
我々はどうするべきか。この間こうちゃんが富士宮に帰ってきた時に、僕のところへ相談に来た。大町ビレッジを運営していくのにどうしたらいいか、と。「どうしたらいいか」というと、一つひとつの不具合を調整していくことになる。だけど、一つひとつの不具合をモグラ叩きのように調整していっても、一つ叩けばまた別のところでポコッと不具合が発生する。そこで、逆の方法もあるんだよ。何かと言ったら、ポコッと出たものをそのままにしておく。それはそういうものだ、としておくんだよ。それが個性であると。
きたじゅんがはっきりしないのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。くわっちがグダグダ言うのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。みほさんが見当違いなのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。こうちゃんが欲求不満で悶々とするのも、そのままにしておけばいいじゃない。そうすると何が起きるかというと、その結果定着する場所に至る。そこで何を恐れる必要がある?

考えてごらん。この道は、飽和安定する理想郷を創ることを目指している。理想郷とは何かというと、今の社会とは違う世界だ。今は理想郷から極めて外れた世界になっている。それは人々の欲がピークになっている状態で、ああなりたいこうなりたいという欲が渦巻いているとしたら、こうちゃんが大町をもっと安定した場所にしたいと思うのも同じことでしょう?そういう願望をすべて捨てると、アホはアホのように、迷いは迷いのように、欲求不満は欲求不満のように、それらがすべて表現された状態で、「それが個性だよ」と観ることができる。そういう人なんだ、と観れるようになった時に、落ち着くべきところへ落ち着くから。

その後にどうやってそれを納得するか。僕はこうちゃんに言ったんだよ。我々の道は、大金をつかむためのものでもなければ、社会的成功者になるためのものでもない。この道を行くということは、「生きていければいい」ということなんだよ。生きていって、つないでいって、そしてその中で出会う情報を受けて学んでいけばいい。冷静に考えてごらんよ。我々は借金があるわけでもない。雨が降っても食うものに困るわけでもない。雨が降らないからといって食うものに困るわけでもない。子どもを育てられないわけでもない。どこかに不足があるだろうか。ないでしょう。そうすると、何を怯える必要がある?世間には不安を駆り立てるような要因があふれていて、みんな不安だらけの中で右往左往している。だけど我々は、一切不安のない場を創ってるじゃない。だからこうちゃん、これでいいのよ、ってね。

目的は、生きていくのにまったく不安のない世界を築くことだとしたら、我々はもうすでに生きていけている。この中でこそ、心が悟っていく場ができるんだよ。どこかの山の中に入って特別な修行なんてしなくても、今現在環境は整っている。毎日ミーティングをやって、これじゃあいけない、これじゃあいけない、とやっているけれど、そんな何も生産しない時間を毎日持って、日々の暮らしは十分に食えてるでしょう?どこかの会社が毎日そんなことをやっていたら、倒産するよ。ところがうちはそれでも継続できている。だからこうちゃん、できているんだよ、と話したんだよ。

だけどヒロッチは、それでは納得しないかもしれないね。だって実際にわからずやばかりじゃないか、と。いいのよ、わからずやはほっとけばいいのよ。欲求不満もほっとけばいいのよ。トンチンカンもほっとけばいいのよ。囚われてるのもほっとけばいいのよ。そういう状態にしておいても、生きていけるんだから、すごい仕組みを構築したもんだよ。

これって、ヘン?

くわっち:
いやぁ、でもそれだけだったらもったいないなぁ。

いさどん:
それはあなたに何か目的があって、それを達成したいという欲求があるからだよ。だけどその目的を達成するには、「今現在すべてを与えられていて、問題は何もない」という位置に行った時に、その目的は達成されるんだよ。

くわっち:
・・・ちょっとよくわからなかった。

いさどん:
そりゃあわからんよ。現状の問題ある状態があって、問題があるのに、よくよく違う視点から観たら何も問題はないということだから。明らかに問題があって「これではダメだ」という状態が、明らかに問題がないわけだ。もっと引いて観たらね。ということは、問題ない世界に行くためには、それに気付くだけだよ。「問題ない」ということにね。

 
世界を理解することで、世界と一体になっていく

いさどん:
すごくいい話だった!というところに落とせるかな~と期待していたら、ちんぷんかんぷんで終わることになったね。最終的にはどうでもいいんだよ。
「これじゃあいけない」というのは、(テーブルの上にある硬い茹で落花生を指して)この落花生はこれじゃあいけない。これで茹で上がったことにしちゃいけない。これでは足りないねということにしないとダメだね、これは。

みほさん:
はい。

いさどん:
あ、その「はい」は違ってるよ。僕は落花生の茹で方に特定した話をしたわけじゃないのに、あなたは落花生のことだと思って聞いている。何が言いたいかと言うと、ものには活かしどころというものがあり、これは活かしどころに行っていないよ、ということ。活かしていくという話をしてるんだよ。

ともこ:
だから、「これじゃあいけない、なんとかしよう」の延長線上に突破口はないんだね。

いさどん:
ない。それはない。

くわっち:
「活かす」という視点だということ?

いさどん:
違うよ。「気付く」という視点だよ。

宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円(球体・アマ)が発生し、そこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤ」と現象化への道が進み、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する。その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると現象化が起きる。それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」という世界を創造するために、飽和安定からこぼれ落ちる九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では、まだこの世界は「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。
だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元でもある。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。だからさっきの話でも、「そうか、こういうふうになっているんだ」と理解したところで、それが悟りだ。生きるということは、その連続だよ。「なるほどこういうことか」「なるほどこういうことか」を繰り返していくことで、世界と一体になっていく。

くわっち:
じゃあ普段のことでも、気付くことで ―――

いさどん:
進んでいくんだよ。だけど自分の言っていることがどういうことなのかにも気付いていないでしょう?それは宇宙から外れているということだよ。でも気付かないのも、そういう人だということで、僕はこうちゃんに「いいじゃん、放っておきな」と言ったんだよ。そうして気付かない状態を積み重ねていくと、10が限界であるとしたら、1で気付くのか2で気付くのか、はたまた気付かないまま10まで行って、そこで気付くための現象に出会って気付くのか。それを、10にならなければわからない者に1の段階で気付けと言ってもわからないのだから、放っておきなと言ったんだよ。
それはなぜかというと、こうちゃんがきたじゅんをどういうふうにサポートしたらいいのか、みほさんの見当違いをどう伝えたら直るんだろうかと自分の悩みにしてるんだよ。だから、違うよ、それはきたじゅんの人生であり、きたじゅんの悩みなんだから、その悩みはあなたが持っちゃいけないんだよと伝えた。みほさんの見当違いはみほさんの見当違いなんだから、みほさんに任せておけばいいんだよ。じゃあそれを見ながらどうしていったらいいのかとこうちゃんが聞くので、僕はこう言った。「いいじゃない。生きていけてるんだから」。
生きている限り、その変遷を見ることができる。変遷を見るということは、客観的視点でそれを観ていくということであり、それが悟りだ。

 
現代物理学を超える世紀の学会

いさどん:
もともと宇宙は、ものすごく昔の宇宙も、遠い未来の宇宙も、同じ世界なんだよ。地球がAからA’へ、A”へと進んでいくでしょう。そうすると変化しているように見えるけれど、実はそのすべてを包み込む器は同じなんだよ。湖にポーンと石を投げ入れたら波紋が起きて、それまで何の動きもなかった湖面に動きが生まれることでそこに「ある」ということが認識されるだけのことだよ。

みほさん:
器は変化しないんだ。

いさどん:
しないよ。この世界そのものだから。でもその中にいる者が、そんなことを考える必要はないよ。
僕は昔、神様にそういう質問をした。この世界はあなたがすべてであるのでしょう?と聞くと、神様は「そうだ」と答えた。ではあなたがこの世界のすべてであるならば、あなたがすべてではない、別のものがすべての世界が隣りにあるのでしょうか?と聞いたんだよ。すると神様は、「お前はそこまで考えたのか、仕方がない、私の実体がわかったものはそこまで思考するのだ、それが人間というものだ」と言い、質問に対しては「あるぞ」と言った。
当たり前だよね。宇宙は必ず対で成り立っている。「ある」というものが存在しているのであれば、それを成立させるもう一方の存在がないと成立しないのだから。バランスなんだよ。だから「ある」というものを特定したら、それを成立させる「ない」か何かが必ずあるんだよ。
そこで僕は、馬鹿な質問をした。「そのもう一つの世界とは、どんな世界ですか」と。それは質問をしたというよりも、瞬間的にそう思ったんだよ。そうしたら即座に答えが返ってきた。「そんなことを考えてどうする」と。つまり、ここの中にすべてがあって、ここの中に存在していて思考も何もすべてここの中にあるおまえが、もう一方の世界を理解できるわけがないだろう、それは無駄なことだからやめなさい、と言われた。そう言われて僕は、ああなるほどと納得した。

くわっち:
まったく違うから?

いさどん:
まったく違う世界を想像できる?

くわっち:
できない。

いさどん:
ではその思考は無駄だろう。それで神様に「やめなさい」と言われ、僕は「ハイ、わかりました」と納得した。だけど、今のこの世界に対して、対になる世界があるのは確かだ。物理学は今、それで行き詰まっているんだよ。
この世界は陰陽の対向発生によって成り立っている。例えば男と女のように、必ず対になる存在があって、互いにバランスを取って成り立たせ合っている。カタカムナの世界観まで行くと、その仕組みを解明することができるんだよ。
ところが、現代物理学はこの宇宙の中で、現象という「ある」目線からだけでその仕組みを解明しようとしているわけだ。それが究極になっていくと、この世界全体を捉えるところまで行くことになるだろう。そこでこの世界をAとしたら、それを存在させるBなのかもしくはA’なのかA⁺なのかわからないけれど、必ず対になる存在があるはずなんだよ。A⁺が存在すれば、必ずA⁻がある。あるものを理解するには、必ずそこから離れて、それに対抗する側から観る必要がある。マイナスから観るからプラスがわかり、プラスから観るからマイナスがわかるんだよ。
ということは、我々がこの世界を理解するためには、例えば今A⁺の世界にいるとしたら、A⁻に行ってみたらいいんだよ。ところが、そこへ行くための思考回路は、人間という物質性の思考を超えたものでなければならないんだよ。今我々が光を基軸とした世界にいるとしたら、その光すら超越しなければならない。今の世界を理解するのに思考を使っているとしたら、思考すら超越しなければならない。光の世界での最速のものは光だよね。でもあちらの世界に行くには、光を超えたものでなければならないんだよ。我々の存在は光が基軸だから、光を超えると消滅する。つまりどう考えても、向こうへは行けないんだよ。そうすると、この物理学の探求では、限界に突き当たってしまう。

現代の物理学はそこまで来ている。だからもう、どうしようもないんだよ。現象の世界だけをすべてとして、その中だけでこの世界を解釈しようとしている。しかしこの世界を理解するには、現在の物理的思考回路では解釈できないところへ行かなければならないのだけれど、物理学者や科学者はそれを超えた世界を認めないんだよ。
そこで、カタカムナに至って初めて、物理を超えた、物理が発生していない「ない」という世界の存在を知ることによって今の行き詰まりを突破できるのだから、カタカムナ理論をもって、次の世界が観えてくる。宇宙の本当の悟りに至るんだよ。エラいものに出会ったもんだなぁ。ここは世紀の学会だよ。大したことないメンバーだけどね(笑)。

本当は今日は蜂の点検をするんだから8時からやらなきゃいけないのに(みんな:笑)、もう9時になっちゃったよ。今日はありがたいことに雨が降っていて、ここの人たちもやることがないから「手伝うよ」と言ってくれて、でもたいして役に立たないから(みんな:笑)どうやって使おうかな~と考えていたらこんな時間を持つことになった。それでこのままずーっとしゃべっていたら、結局何もやらないで終わったりしてね。それでもいいんだよ。別に蜂は怒らないし。それでも生きていけるんだから、これでいいのよ。

でも、やろうね(^m^)

 
21世紀への大いなる実験

いさどん:
要は、すべてどうでもいいじゃんという世界が結論なんだけど、それでも今ふと気が付くと、生命が生きているという物質性の変化変容の躍動の中にあって、デレーッとしてたらいかんだろう。短く区切って現実を見たらね。そうやって今を生きて、瞬間瞬間をつないでいくんだよ。結論は求めない。ただ、行ってみた先にある結果をいただくだけ。
そういう飽和安定を持って今を生きている人たちがいたら、そこには危機感がない。不安もない。そうすると、どんな世界ができるか。その状態に至った人たちが「創る」ということはないんだよ。それは「いただく」だけの世界だよ。いただくだけのところに至った人たちが生み出す空気というのは、とても不可思議な世界だ。それは宇宙を生きるということ。それをロータスランドで表現しようと言っているんだけど、まだ至っていない。我々もまだ知らない。僕も行ってみないとわからないんだよ。だけどそれはきっと、めちゃくちゃおもしろい世界だろうね。それこそ、「あれ?ここはどこだろう?」という世界だ。

これは21世紀への大いなる実験だよ。人間がそこへ行けるのかどうなのか。でもいずれは行くよ。あと12900年もすれば光のピークへ行くんだから。かつてカタカムナ人たちが、宇宙のままに生きていたように。勉強しなきゃ、とか、成果を上げなきゃ、なんてことはなーんにもない。だって地球は、そこに存在するものすべてがネットワークの中で存在するように創られているんだから。
金星に行ったって、物理的には生きられないよ。金星は物理的には常に熱風が吹いていて、とても生命が生きられる場所じゃない。月は風も吹かず地殻変動もないから、アポロ11号のアームストロング船長の足跡がいまだに残っているだろう。あれから50年近く経つのに、まだ足跡が残っているんだよ。
地球なら、そんなことはない。常に変化変容し続けて、「この間草を刈ったばかりなのに、もう草だらけじゃん!」というくらい、いたるところに生命があふれている。これを当たり前だと思っちゃいけないよ。これは特別に創った世界なんだよ。だからおもしろいんだ!と、思えたらいいんだけどね。
実際、物理的にもそれが立証されているんだけど、それが当たり前であることに慣れ過ぎちゃって、新鮮味が感じられないんだよ。

太陽系の闇のピークと連動して、地球上に人口のピークが来ている。過去にこれほど爆発的に人間が増えたことはない。有史以降は記録があるから明らかだ。有史以前は記録がないが、どちらにしてもその頃の歴史はそう大したものではない。今は非常に複雑化していて、歴史に刻まれなければならないようなことがあちこちで起きている。北朝鮮は一生懸命水爆を作ってるしね。ピ――――ッと長い間一直線の横ばい状態で進んできた歴史が、産業革命以降に急上昇して一気にピークになった。そんなことが過去にあったかといえば、ないんだよ。

では、もっと視野を広げてみよう。これはもしかすると、過去に生命の大量絶滅がくり返し起きたのと同じように、生命の大変革の兆候かもしれない。そういう意味で言ったら、過去に同じようなピークというのはあったんだよ。今から6500万年前に恐竜は絶滅したけれど、あの時も一種の生命のピークだったんだよ。そこに隕石が落ちてきて、それまでの生物がリセットされた。それと同じことが、もしかすると今、起きているぞ。楽しみだろう?大量絶滅♪ (・∀・)

時々、朝にパッと目が覚めて、あ、NHKの7時のニュースを観よう、と思う時がある。この間もそんなふうに目が覚めてテレビを付けたら、孤立死の特集をやっていた。それを観てから、日本、ヨーロッパ、そして世界の人口推移について調べた。そして今は歴史上特別な状態であることが観えてきたわけだけど、そこで僕は「これはいかん」と思ったんだよ。今、うちには心のケアで滞在している人が4名いるけれど、彼らを自立させたら孤立死の道を歩ませることになってしまう。それで彼らを呼んで、時代を読み解くプレゼンテーションを行った。
NHKの特集からここまでのことが読み解ける。こういうことに気付くとおもしろいぞ~。それは番組からヒントを得たことだけど、その前にパッと目が覚めて「ニュースを観よう」と思うことも流れの中に在るんだよ。

ともこ:
ねぇ、「心の水爆」は、気付きの種だね?

いさどん:
フッフッフ。ちょっと表現が違うな。

ともこ:
じゃあそれを表現すると?

いさどん:
そうやって聞き出そうとするんだろ?話さないよ。(みんな:笑)すごくカンタンなことだよ。

 

 

────── いよいよ最終章「大町道中記④」へつづく!

 


ロータスランドから始まる「意識革命」

2年前に「1ヶ月間の真学校」を受講した台湾人の文ちゃんは、現在木の花の在り方を台湾で広めており、今後もここのことを発信していきたいということで先週木の花に滞在し、いさどんや数名のメンバーと今後の関わりについて打ち合わせする時間を持ちました。その翌朝、いさどんはようこに次のように語りました。

いさどん:
彼女は今後、台湾から木の花に学びに来るツアーを企画することを考えているのだが、どのような人たちがここに興味を持っているかというと、たとえばここのような共同体で暮らすこと。それから若い人たちで社会になかなか馴染めず働く場所がないとか、新たな生き方を模索している人や、環境のことを考えている人などいろいろな人たちがいる。そういった中で霊的なことや心のことを大切にしている人たちもいる、と彼女は言っていた。

ここでは、「人間の魂を磨かなければ、どんなにお金があっても良い人生は生きられない」と捉えているが、台湾でもそういったことに興味を持っている人たちがいて、ここへ学びに来たい人たちのツアーを彼女はこれから企画していく。

そういったことを台湾で広めている人のひとりに、「無食」、つまり「食べない」人がいる、と彼女は言っていた。その人は空気を食べて生きているのだと言う。そういった人は日本にもいて、たとえば「食べないでも生きられる」とか、空気中の生命力である「プラーナを食べて生きる」達人もいれば、僕の場合だと「太陽を飲む」こともある。

実は ──── 人間が病気になるのも、人間関係がおかしくなるのも、その人の性質がつくっている。だから、運が悪くて病気になったわけでもなければ、運が悪くて人間関係が悪いわけでもなく、その人の持っている性質がすべて創り出しているのだ。

たとえば毎日晩酌のことばかり考える人もいれば、毎日お金のことばかり考えている人もいて、そういったことが複雑に絡み合い人間は生きている。小さな頃からそういった心の癖を身につけてきているから、それが当たり前になっている。だから世の中を観たときに、その人の目線でしか世の中は観えないし、同時にその心を世の中に向けて発しているのだ。そうすると、類は友を呼び、その心にふさわしい者が引き寄せられてくる。極端なことを言えば、その心の者同士が出会って結婚し、子どもが生まれると、子どももそのような環境の中で育っていくので、そのような家庭が連鎖していく。世の中はすべてこのように成り立っていくのだ。

そこで僕は考えた。病気を治すことも、人間関係を改善することもすべて、まずは自らの意識がどのレベルに向いているかを理解することが大切だ。そして現状の意識レベルから抜け出し、意識を高いほうへ向けていく極意をマスターしたら、人はどのような人生を生きることもできる。逆に言えば、「得しよう」と思って生きているのが普通の人間の世の常だが、その考え方が間違っていれば、一生懸命やればやるほどその人の人生は落ちていく。それはある意味、地獄を生きることにもなる。

そこで、自らの意識レベルを理解し、意識を高いところへ向けていけば、病気も治れば、人間関係も改善されていく。人間関係が改善され、病気をしなければ、お金はたいしていらなくなる。

昨日文ちゃんが「これからツアーで台湾の人をたくさんここへ連れてくるので勉強させてください!」と言っていたが、日本人でも分からず屋だけれど、台湾人も中国人も分からず屋の中でどうやって伝えていけばいいのかといえば、その極意を体系化してそれを伝えることだ、と今朝気が付いた。それが、これから僕がやっていくこと。それは、達人を生きるということだ。

その領域に達すると、お医者さんはいらなくなる。病気はすべて自分で治せる。ただし、自らの考え方が間違っていることがわからない人間には無理だ。まずは自らの考え方が間違っていることに気が付かないといけない。たとえば自然療法でいえば、「道理をもって考えなさい」と伝えられても、道理を考えられない人間はいつまでたっても治らない。だから、意識を違うところに向ける方法を考えると、当然体もすべて変わってくる。そういう手法がある。

ただ、そこで僕が考えたのは、それをやると今まではご利益になってしまい、一般の人々からするとそれは特別なものだから崇める対象になっていた。だからこそ、我々はそれを究めることを実践し、それを示す。そしてこれからの時代、それを究めていくことを誰もが目指していく。そうすると、普通の人間の意識状態とは自ずと違ってくる。そうしたら、違う現象が起きてくるのは当然のことだ。

いくら我々の生き方がこれから来るであろう世の中に対して重要だといっても、現代の価値観に溺れている人間には理解できないものでもある。ここではカタカムナ宇宙物理学に即し、この現象世界には「見える世界」と「見えない世界」があると捉えているが、実際に見えない世界は存在する。たとえば魂はどこに見えるのか?空気中にあるプラーナは実際にどこにあるのか?しかしそこを意識しない者にとっては、ものを食って生きるしか生きる方法はない。たとえば食べ物であっても、そこには生命力の違いがあるのだが、それを単なるものとして、もしくは腹を膨らませる目的としてしか見ていなければ、それはあくまでもその一部分だけを取り入れ、あとは排泄するだけになる。我々は自然の循環の流れの中にあるのだが、その排泄物はすべて人工的に処理されていくだけのことで、それでは結局この世界に汚物を発生させているだけになる。

だから、意識を向けるところを変える。そうすると、病気でも人間の性質でも何でも変えられる。そういう世界がある、ということに今朝改めて気が付いた。人間たちに道理で説いているだけでは、いつまでたっても人は自分を変えようとしない。もしくは、これから起きるであろう危機を乗り越えられるような者にはなれない。

ロータスランドの食事
ロータスランドの食事

ようこ:
身近なところでいうと、昨日ロータスランドに来たお客さんで、「わたしは今までマクドナルドに行っていたけれど、これからはここに通うわ」と言った人がいたの。そのときわたしは心から嬉しくなった。なぜなら、木の花のこともまったく知らず、今までお肉やお魚を普通に食べていた人が事故のようにロータスランドに入って、「これからここに通おう!」というのは、その人にとっての意識革命だと思ったから。食が切り口であっても、今までマクドナルドに通っていた人がここに通うことによって健康になるし、それに伴って心も穏やかになっていって、その人の人生が変わっていくイメージが湧いたの。

いさどん:
だから、意識がどこに向いているかを知り、切り替えることが大切なんだよ。つまり、病気の人は病気の意識を切り替えないと、根本的に病気体質は治りはしない。

ようこ:
そうなの。まずは「食」という切り口から物理的に健康になっていき、同時にロータスランドにいるスタッフの心にも触れていくことによって、「こういう世界があるのだ!」とそこを訪れる人々の意識が変化していく。

いさどん:
考えてごらんよ。僕はロータスランドを具体的に打ち合わせ始めたときに、反省したんだよ。「こんな馬鹿なことをやってはいけない。なぜ始めたのだろう?」と。しかし今、丸一ヶ月経ってみて、この一ヶ月の間にそれが持続可能の見通しが立ってきたんだよ!

ようこ:
そうなの!

いさどん:
これは、結果としてもらったことだが、「最初からこのようなことはわけなくできる!」と思えばできたことなんだよ。そういうことなんだよ!

僕はロータスランドの「鯉のオーナー制度」という面白いことを考えただろう(笑)?それで今日はロータスランドの池に放つ鯉の購入ツアーにオーナーをお連れするんだよ。そして今朝、このお出かけは旅だと思った。それは、新たな境地への旅だ。これだよ!!

ようこ:
いさどんのさっきの話も、鯉のオーナー制度もすべて同じことなんだよね。意識をどこに向けるかによって人は変わる。

いさどん:
そして世界は変わる。人はもっと自分が思うように自由に生きられる。「異次元空間・ロータスランド」の意義はそこにある。そして5月5日の「グランドオープン」とは、そのような境地をもって迎えるということだよ!

ようこ:
そういうことだね!次回のニューズレターは食がテーマだと聞いたけれど、今日それに関連する大切な話をしたね。

いさどん:
意識がどこへ向いているかによって、食が変わるんだよ。そして意識が違う場に来ると、人が変わる。でも、まだ皆は、ロータスランドを自分たちでやっていると思っているんだよ。

ようこ:
その段階を抜けることができれば、異次元空間が現れる。今は異次元空間の兆しは観える。

いさどん:
わかったぞ!意識革命で世の中は変わる!しかし、金正恩でも、トランプさんでも、安倍さんでも、世界中のリーダーは皆、損得勘定ばかり考えている。それでは世の中はうまくいかない。これから台湾人から中国人からアメリカ人から、世界中の人々にこの意識を広めていく。それを会得した人々が創る場所、それが「ロータスランド」だ。

そこを訪れた人たちが「なぜこのお店の雰囲気はこんなにいいのだろうか?」と思ったときに、なぜならそれはそこにいる人たちがお金のために働いていないからだ。それで食うことに困らない。そういう世界を創っていく。そして、ロータスランドの池に放たれていく鯉たちも、その場創りに参加していくということだ♪

ロータスランドの池を泳ぐ鯉たち

昨日の文ちゃんとの話で、人間にはこの次の段階があることを改めて認識した。人間はもはや次の段階へ行かなければいけない。お金があって、ものを食って、何不自由なく生きていて、それが幸せだという段階はもはや終わりを迎えたのだ。今、人類は新たなステージへと突入しようとしている。その証として、ロータスランドが現れた。

 


「鯉のオーナー制度」のご案内

多くの方々に親しまれ、お店創りにご参加いただきたいという想いから、ロータスランドでは鯉のオーナー制度を設けています。 これは皆さまのお気持ちによってご参加いただき、鯉たちがすくすくと育っていくことを皆でこい(鯉)願っていく制度です♪ 鯉を通してご縁を結び、鑑賞会などの企画や特典もご用意しています。ご興味のある方は、お気軽にスタッフまでお尋ね下さい。 皆さまに末永く愛されるお店創りを目指してまいりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

カフェ&ショップ「ロータスランド」 TEL:0544-67-0123

 


毎日が「マツリ」

3月21日、異次元空間カフェ「ロータスランド」がオープンします。

ロータスランド完成イメージ
ロータスランド完成イメージ

建築やメニュー・商品開発などが同時進行で進む中、テラスの上の壁に「富士山麓の四季」をテーマにした壁画を描くプロジェクトもスタートしました。
そして昨日の早朝、ふと目を覚ましたいさどんがこんな話を語り始めました。

いさどん:
ロータスランドのオープンに向けて、今、みんなで一丸となってひとつのことをやっている。一丸となってひとつのことを越えていくというのは、たくさんの心がそこに共鳴しあって、人に希望を与えることだ。
その中で、誰か一人でも自我にまみれていては、そのような場はできない。自我を忘れて、みんなが渦になる。カタカムナで言えば、「マワリテメクル」ということ。それは地球の動きだ。地球は自転し、公転し、歳差運動をし、微振動をしながら進んでいる。これは、古くから日本人の中にある、「マツリ」の精神だ。

今、我々は生活の中でマツリを表現している。そこでただ物理的なことを目指していると、何か特定の目的があって、それを達成するためにみんなでひとつになろうという世界になる。そこでも、自我があっては調和的な世界を創ることはできない。
今日、1ヶ月間の真学校の講座で使うカタカムナのプレゼンテーションをチェックしながら、改めてカタカムナの精神について振り返っていた。カタカムナの精神とは、マツリの精神だ。マツリの精神とは、命の仕組みの精神であり、宇宙の天体の成り立ちを言う。
そのことについて思考を巡らせていたら、北朝鮮の金正男氏が暗殺されたことが思い浮かんだ。そしてトランプ政権のフリン補佐官が更迭されたことが思い浮かんだ。世界中で争いやいがみ合いが起きている。人間のご都合主義の世界が、今の世の中に蔓延している。

ここで表現しようとしているのは、それとは別の世界だ。これをカタカムナ精神と言っていいものかどうかはわからないが、ここの生活にはカタカムナが浸透している。つまり、カタカムナを学ぶのではなく、カタカムナを語り、カタカムナを生きているということだ。魂のこもった生き方とは、そのようなことを言うのだろう。それをやっていかなければならない。いくら知識を学んで語ったところで、それが生活の中で現象化しなければ、生きることに反映されないのだから。
これからそれをやっていこうということではなく、我々は今、現実にそれをやっている。そしてその現象化したものを、1ヶ月間の真学校で伝えていく。それはとても難しいことだ。カタカムナの講座は6時間あるが、たったの6時間でどこまで伝えられるだろうか。ほとんどは理解できないだろう。なぜなら、まず価値観が違うからだ。価値観は違うが、縁があって出会った人々にそれを伝えることは、大変ではあるが希望のあることでもある。

例えばカタカムナ理論というように特定の用語を作って固定してしまうと、数ある理論の中のひとつのように思えるが、これは宇宙に遍満している法則そのものだ。
宇宙は、動いている。我々は毎日を認識し、時が過ぎていくが、これは巨大なエネルギーがうねっている「マワリテメクル」の世界だ。その中の一環としてこの仕組みがあるということを理解すると、すべてのところにその法則が遍満していることが観えてくる。それを意識しながら生きていくことが大切だ。
この理論が体得できるようになると、自我は消え、この世界を構成するものとして、大いなる生命としての役割を果たしながら、宇宙の実体のままに生きていくことになる。現代の人々は大いなるものから離れ、自我にまみれていがみ合っているが、そういったことがすべて帳消しになってしまう世界が、いがみ合いの奥にいつでもちゃんと控えているのだ。
それを語っていくことは、物理的な現状の地球を見ていると不可能なように思えるかもしれないが、ここではその存在を知って、語り出した。いずれ必ず、人間たちがそれを理解する時が来る。既に扉は開き、その動きは始まっているのだと思うと、やはりテンションは上がる。それこそ病魔に侵されて死にかかった者が生きることの本当の意味を知って「死んでなんかいられない」となるように、僕も、夜中だけど寝てなんかいられないよというテンションになった。まあ、語ったらまた寝るけどね(笑)。しかし何か、この今のときめきを語っておかなければいけない、と思った。

今日、来月上演する木の花劇団の劇の読み合わせをやった。この劇は、ガンになって死の瀬戸際まで行ったきょうこちゃんの体験を元にして、彼女自身が脚本を書いている。そこに出てくる自分のセリフを読み上げながら、あれはセリフではなく、日常会話の中から出てきた言葉だから、本番でもアドリブを交えて、そのまま生でやれたらいいと思った。最後にみんなが泣くシーンがあるが、あの涙はいいね。その場で本物の涙を流しながら、やりたいね。

(ここでひとみちゃんが、ロータスランドの壁画の下絵を持って部屋に入ってきました。)

いさどん:
何をしていたの?

ひとみ:
壁画の下絵を描いてた。

いさどん:
テラスの上の壁画を描くのに、足場に手すりをつけないのはどうしてだか、わかる?

テラスの上の壁に壁画を描くひとみちゃん
テラスの上の壁に壁画を描くひとみちゃん

ひとみ:
落ちるように?(笑)

いさどん:
あなたは、足場が壁に近すぎて、全体を見ながら描くことができないと言う。それはわかる。だから池の方に向かってデッキの端まで足場を作り、壁から離れて見られるようにするが、それは面倒なことであり、できればなくていけたらいい仕事だ。
人は自分の頭の中に構想を持っていて、それを物理的に現す時に、大きな絵なら離れて全体を見ようとする。その遠くから全体を見る目を、例えば他の誰かが補うとか、足場の下に降りて離れて見るということもできる。あなたが「近いから見にくい」と言うと、みんなはすぐにそれを解決してあげようとする。それは悪いことではないが、それよりも、そういったことを含めて、あなたの神がかり的な能力を発揮してやってもらいたい。

ひとみ:
大丈夫だよ。降りたり上がったりしながら描いてるから。

いさどん:
降りたり上がったりしながら、あなたのシャーマン的精神を呼び覚ましてもらいたい。あなたには、きっとできる。

(ここで、ひとみちゃんが持って帰ってきた絵を広げて見ました。いさどんの助言を受けて、絵には新たに太陽と月が描き加えられていました。)

ああ、いいね!月をもう少し上に上げて、月と太陽が斜め45度の角度に並ぶようにしよう。太陽はもう少し富士山の右肩に隠れて、半分だけ顔を出して、これからもう半分が出るよ、という感じになるといい。鶴と亀はどこに描くの?亀が空を飛んでいてもいいね。ルールは破ればいい。写実画を求めているわけではないのだから。(しばらくアドバイスをした後、しみじみと絵を眺めながら)いいね。テーマは、やはり花だよ。花がなければいけない。
あなたが一人でこれを描いているという気がしない。これは協同作業だ。一緒にやろう。時間のことは気にせずにやっていけばいい。そうすれば、必要なことは必要なように、事が成っていくから。これは仏像をつくるのと同じで、そこにあるものが描かれていくのだから、自分でやってやろうだなんて思わないことだよ。「これはこうだな」「これは少し違うな」と、あるものを探りあてていく、手探りのような作業だ。完成形があるわけではなく、そこに関わっていくと自然と成っていく。
あなたがあそこで絵を描いている姿は、絵になるよ。そこを通りがかる人は「何をしているんだろう?」と思い、進捗状況を気にするようになるだろう。こんなふうに、お金持ちがお金を払って誰かに絵を描いてもらうのではなく、生活の中ににじみ出る余裕から、そこに表現されていく。それは、生活そのものがマツリだからこそできることだ。

「祭」という字は「サイ」とも読む。「何々祭」というと、それは日常の生活から離れた儀式の場で使う用語になる。そこには天と地があり、地が天を崇めて祭典をするという「サ」=差のある状態だ。「サイ」は「マツリ」とは違い、まだマツリに至らない段階の儀式に用いられる。
それが「マツリ」になると、「マ」は宇宙空間であり、生命が躍動する特定の場、宇宙の法則が表現される場所のことであり、「ツ」は集い、「リ」は離れるということ。自我から離れた者たちが集い、宇宙の法則のままに生命が躍動する。それがマツリだ。そのような無我の境地で、美しく、日々を舞い踊るように生きたいものだ。

 

 


 

春、ファミリ

新しいお店がオープンします

 

異次元空間カフェ ロータスランド
2017年3月21日(火) OPEN

地球と共に季節巡りを感じがら
時がもたらす旬に出会うお店です。

日届いたとれたてお野菜、
会話中でふっと湧くインスピレーション、
そこから生まれるそ場だけスペシャルお料理。

天然ちみつ、一点限り手作り服、
陶芸や機織り、とびっきりスイーツ。

誰かが歌を歌っていたり、宇宙話が飛び出したり、
いったいここどこだろう?と
不思議だけどどこか懐かしい
そこにいるだけでわくわくする異次元空間カフェ
「ロータスランド」始まります。

 

cafe&shop
lotus-land-rogo

ロータスランドと色とりどりが咲き乱れる桃源郷ことです

〒419-0302 静岡県富士宮市猫沢239-9
ファミリ「おひさまハウスひまわり」より徒歩1分!

午前8時から午後7時まで営業
(カフェラストオーダー午後6時)
毎週曜日定休

お問い合わせファミリーへどうぞ!
電話:0544-66-0250

3月21日(火)から5月2日(火)までプレオープン期間とります。ぜひお越しいただき、5月3日グランドオープンに向けて皆さまご意見やご感想をどうぞお聞かせください。スタッフ一同、心よりお待ちしております!

 


こんなふうに、年を取ればいいんだよ

 ー 2017年立春正月祭でのいさどんの挨拶 ー

立春正月、明けましておめでとうございます。

私たちは毎年この時期に節分を迎え、その翌日に立春を迎えます。立冬から始まり、冬至を経て寒さを増してきた冬の季節が終わり、ここから春が始まります。冬の間にじっとエネルギーを蓄えていた植物たちも、いよいよ芽吹きの準備を始めます。
1月28日に、富士浅間木の花祭りが開催されました。冬の間に蓄えてきたエネルギーを爆発させるのが、この祭りの意味です。内に秘めたるものは、外に見えているものよりも大きなことがあるでしょう。そのような準備の期間を終え、立春を迎えて、いよいよ内なるものを現象として現す時がやってきました。

立春は農の始まりです。農に生きる者とは、農業をやっている人だけではありません。すべての生命は、自然から命を頂いています。人間は田畑を耕しながら、清浄な空気と水、心地よい風、そして太陽の光を恵みとして頂いて生きています。それは自然の成り立ちであり、命の仕組みです。立春正月祭が進行していく中でそのようなことを感じていたら、ふと、昔の人はどうだったのだろうという思いが浮かびました。

もうじき、梅の花が咲きますね。春が来れば、動物たちは冬眠から目覚め、子どもを産み、育てながら、夏へと向かっていきます。生きることが季節と共にあるのです。
今年の立春は去年の立春と同じようにやってきましたが、実は一つサイクルが先へ進んでいます。つまり、去年とは違う新たな春を迎えたのです。それは命が成長している、進化していくということです。子ども達は、学年が一つ上がりますね。大人も一つ歳をとります。そして成長していく。ですから、去年と今年は違うのです。昨日と今日も違います。新たな成長を迎え、命は常に、地球と共に進化しているのです。
そういったことを意識しながら、昔の人は生きていたのでしょう。地球に四季の巡りがあるのは、地球が他の星々と対話をしながら、宇宙の中を動いているからです。つまり星と星との関係が、季節となって現れているのです。昔は天文学のような難しい解釈はなかったかもしれませんが、人々は自然と対話しながら日々を生きていました。

農に生きる者は、まず土と対話します。土は私たちに健全な作物を命としてもたらしてくれるものです。そして、天の気と対話します。天の気とは天候のことです。恵みの雨が降るだろうか。日照りになるだろうか。そのように人々は天の気を読み、作物を植え、育ててきたのです。そして、風と対話します。作物を逞しくして健全な恵みがもたらされるよう、良い風が吹いてくれるように願いました。そして空気。人間が汚すことなく、良い場を提供できるように。
そうやって、人々は常に自然と対話しながら、お天道様の意向を伺い、そこから命を頂いて、新たな年を迎えてきたのです。天文学のように複雑なことがわからなくとも、本当に自然と共に、地球と共に、宇宙の仕組みのままに、昔の人は生きていました。

さて、今はどうでしょうか。スーパーに行けば、あらゆる食べ物が一年中手に入ります。農業は季節に関係なく、工場の中で化石燃料を使ってまで作物を育てるようになり、自然から命を頂いているという意識が人々の中から消えていきました。そして人々の関心は、お金にばかり向いているのです。星と星が対話していること、地球の季節が巡ること、土と対話すること、天の気を読むこと、良い風が吹いてくれますようにと自然に語りかけること、太陽の恵みを頂いて感謝して生きること ──── そういったことを、人々は忘れてしまったのです。

それを忘れるとどうなるかというと、人間が傲慢になります。自分の力で何でもやれると思うようになるのです。そういった人間の心が今、地球上でピークに達しています。そこにトランプ大統領が登場し、世界をかき廻し始めました。好き放題に振る舞うトランプ大統領に世の中は右往左往し、人々は不安になっています。しかしこれは、時代が変わるということを示しているのです。
地球は一瞬たりとも留まることなく宇宙を進み続け、同じ場所に戻ることは二度とありません。常に変化変容し続けるのがこの世界の実相です。今の一瞬が過ぎれば、次の瞬間にはもう新たな自分がいます。今日の自分は、明日には違う人になるのです。去年の春から四季が巡って一年が過ぎ、新たな春を迎えるように、去年の自分と今年の自分が違うように、この宇宙の中に生きるということは常に変化し続けているのですから、何かを固定して「これが絶対だ」と思わないことです。そのように囚われのない心で、今年一年を頂いていくのです。
自然と対話することなく自らの思考ばかりを回していると、わがままな人になります。人は、わがままな人に出会うと「困ったものだ」と思うのですが、自分自身のわがままは許すのです。そして自らの思い通りになることを願うのです。しかしこの世界の真実は、そうではありません。
昔の人がそうであったように、自然の仕組みに沿い、そこから命を頂いて、時代の変化に付き合いながら歳を重ね、人生を終わっていく。生きるとは、大いなるものに寄り添い、それに従うことなのです。それが本来の人間の生きる姿です。そのことを人々が忘れていた時代が続きましたが、ようやく人々が気付く時代がやってきました。

ここに、たくさんの人がひしめき合っています。今の時代に、人々の関係がこれほど近く、心が通いあっている生活を見ることは、なかなかできません。この、世にも稀な生き方をしていることを私たちは誇りに思い、喜びとできる時代がやってきました。人々が自分のことだけを考えて生きるのではなく、みんなで助け合い、力を合わせて事を成していくのがこの生き方の神髄です。
そういった暮らしは、地球にとってやさしいです。自然に沿っています。すべての生き物に、命にやさしい暮らしです。命にやさしいということは、人間にもやさしいということです。そして健全な未来につながっていくのです。
これまでは、人間中心で自然を壊してきた時代がしばらく続きました。そのピークを迎え、新たな時代へと切り替わろうとしている今、これまでの生き方をまだ続けようとしている人々は混乱の中にいますが、いよいよこの暮らしが本当に必要とされる時が来たことを感じます。私たちは、そういった意義ある春を迎えたのです。

今年一年の変化は大きなものになるかもしれませんが、それだけ波が大きく、躍動するということですから、楽しんで迎えたらいいと思います。大きな波が来ると、大変だと不安になる人もいるものですが、そうではなく、それと向き合い、それを楽しみ、そして時代と共に思いっきり変化するのです。

今年は、ファミリーにはやることがたくさんあります。きっと忙しくなることでしょう。「忙しい」という字は、「心を亡くす」と書きます。ですから、忙しい時にこそ、心を忘れないことです。損得勘定は置いておいて、天の気と共に、時代と共に、いよいよこの生き方が大切となる時を迎えたのだということを胸に今年一年を過ごすと、来年のこの時間には「本当にそうだった」と思うことになるだろうと、確信しています。
この先がどうなるのかは、行ってみなければわかりません。そこでどうしようかと自分の中だけで思考を回すのではなく、この世界はたくさんの精妙なる仕組みによって動かされているのですから、そういったことを意識しながら日々を頂いていくことです。農に生きる者なら、土と対話する。作物と対話する。それは自然の気を読むことです。風を感じることです。お天道様に感謝して、どう生きたらいいのかを頂くのです。
そうすると、この世界によって自らが生かされていることを感じるようになるでしょう。私たちは常に大いなるものと共にある ──── そのことがわかると、一年が充実します。現代の多くの人は、そのことを忘れてしまいました。その生き方を実践するのが、ここの暮らしです。

これからいよいよ、誇りを持ってこの生き方を世の中に伝えていく時がきたのだと思うと、心がウキウキします。その証が、ロータスランドです。開店まで、あと1ヶ月半となりました。世の中はこれからますます大変なことが起きるでしょう。その中で、なぜそういったことが起きるのかを感じながら、みんなで忙しく働き(=傍楽)ながら楽しく生きて、こういうふうに一年を過ごすといいよ、こういうふうに年を取ればいいんだよ、という見本となっていきましょう。

とても楽しみな年を迎えたと思っています。
みなさん、今年もよろしくお願いします!

 


 

春、ファミリ

新しいお店がオープンします

 

異次元空間カフェ ロータスランド
2017年3月21日(火) OPEN

地球と共に季節巡りを感じがら
時がもたらす旬に出会うお店です。

日届いたとれたてお野菜、
会話中でふっと湧くインスピレーション、
そこから生まれるそ場だけスペシャルお料理。

天然ちみつ、一点限り手作り服、
陶芸や機織り、とびっきりスイーツ。

誰かが歌を歌っていたり、宇宙話が飛び出したり、
いったいここどこだろう?と
不思議だけどどこか懐かしい
そこにいるだけでわくわくする異次元空間カフェ
「ロータスランド」始まります。

 

cafe&shop
lotus-land-rogo

ロータスランドと色とりどりが咲き乱れる桃源郷ことです

〒419-0302 静岡県富士宮市猫沢239-9
ファミリ「おひさまハウスひまわり」より徒歩1分!

午前8時から午後7時まで営業
(カフェラストオーダー午後6時)
毎週曜日定休

お問い合わせファミリーへどうぞ!
電話:0544-66-0250

3月21日(火)から5月2日(火)までプレオープン期間とります。ぜひお越しいただき、5月3日グランドオープンに向けて皆さまご意見やご感想をどうぞお聞かせください。スタッフ一同、心よりお待ちしております!