大町道中記④ 〜 どこまでも無限に続く道

この日は一日の流れがとてもよく、養蜂の作業も早く終わって夜に時間ができたので、第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所の様子を描いた映画『サウルの息子』を観ました。映画が終わった後、いさどんが語り始めました。


 
宇宙のエラー

いさどん:
強制収容所では、ユダヤ人たちをもののように殺していく。その時に人としての心が動かないだろうかとも思うけれど、ああいう世界を人間はつくれる。落ちるとそこまで行く。自然界ではあんなことは絶対にない。人間にはものすごい幅があるんだよ。魔も愛も一緒くたに持っていて、条件によってどちらも出てくる。

宇宙創造の仕組みがあって、そこに命が生まれて、命が循環していって、そこに自らの存在にこだわるものが現れた。そして自我という囚われが確立されたのだけれど、その延長線上に、ここまでいかなくてもいいだろうと思うようなことが起きる。何を持ってここまでの人生設計図をつくる必要があるのか、と最近思うんだよ。地上で起きていることはすべて天の意志であるとしたら、それを善意に解釈しなければならない。その善意が観えないようなことでは、人間の存在は単なる宇宙のエラーのようなものだ。大いなるエラーだよ。

人間の幅は広い。誕生の時点で、それぞれの人生設計図がある。その時点から、一人ひとりが極めて個性的だ。なぜかと言うと、誕生するに至る理由がその設計図に既に仕組まれており、誕生するということは、その設計図ができる前の段階の結果だから。だから親を選ぶことも、民族を選ぶことも、国を選ぶことも、時代を選ぶことも、そこに至るまでのいわくがあり、それが設計図に表現されている。家を建てる時でも、設計図を作るには、まずどういうものを作りたいかという意向があるでしょう?我々も人生設計図と共に生まれてくるけれど、生まれる前からすでに、設計図に至るまでのプロセスがあるんだよ。
その設計図に則って生きていきながら、最終的には、その設計図に表現されている人生の地図の終着点に至る時が来る。それが死ぬということだ。

一日一日は短いようで、長いようでもある。平均寿命を80年とすると、地球の自転におよそ29200回付き合うと寿命が来る。寿命とは、地球の自転に何回付き合ったかだけなんだよ。だから毎日はカウントだ。地球の自転にどれだけか付き合うと終わりが来るけれど、その時に何を思うか。「自分はこのような死を迎えたい」と考えたところで、実際にその時になってみなければどうなるかはわからない。到着地点を想定して「こうなりたい」という願望を持つようになったら、それでは既に、道から外れている。大事なのは、そこに至るまでのプロセスだよ。
地球に生命として、その中でも人間として、そして個人として生まれてくることは希少なことだと言うが、それは事実だよ。世界観が広がって、この世界の広大さに目を向ければ向けるほど、オリジナルな自分であるということは非常に貴重な存在だ。しかし貴重な存在だからといって、生きている間の自分に囚われていたら、次の旅ができない。
いい旅立ちはするべきだけれど、それは完全燃焼の・・・・「完全燃焼」と言うとまた目標があるみたいだね。そういう言い方はいけない。そうではなく・・・・・「いい印象」か。「いい」というのは、心地よいということだよ。それでいいんじゃない、とか、次に行くか!というぐらいの、軽やかな旅立ち。立派に生きて誇り高い人生だった、なんて言ったらもうそこに執着している。

こうちゃん:
一日一日を一生懸命生きるということと、執着するということはまた別だよね。

いさどん:
そうだよ。何と言ったらいいのだろうね・・・死に向かって、毎日確実にカウントをしていくということかな。
一日一日を漠然と生きていると、たぶんどこかでカウントが忘れられて、自分はこれだけ生きたんだ、という充実感を感じられない。だから未練が残って、まだ死にたくない、となるのだろうね。

こうちゃん:
毎日毎日僕たちは生まれ変わっているとしたら、サッパリと死を迎えて次のステージに行けばいいだけだね。

いさどん:
でも前の日の自分を引きずるんだよ。だけどよく考えてみれば、最終的には必ず誰もがリセットする。今が永遠に続くかのように思っているかもしれないけど、必ずリセットする時が来るんだよ。

今年の作付けをどうするとかロータスランドの売り上げがいくらだったとか、それって一般社会に通用する話でしょう?そういうことではなく、そんなものを一切抜きにして、今から死に行く時の自分の心構えというか、心の持ちようの雑談をしても面白いね。
日常を生きるとは、日常に囚われるということでもある。今日の段取りとか、昨日の続きをこなさなければいけない、ということがあるとしたら、そういうものを全部抜きにして、魂だけの会話というのをしたら面白いなぁと思うんだよ。物理的制限のない会話ができたらおもしろいだろうなぁ。

ともこ:
おもしろいね。

いさどん:
どういうふうにおもしろい?

ともこ:
今、日常に話していることと全然違うんじゃない?

いさどん:
ところが、あまりにも日常に囚われていると、そういう状態になったところを想像できない。思考がそこにシフトするというか、そういう思考回路に慣れないとなかなか何も出てこない。でも僕が約束しなくても、必ずみんな死ぬからね。これってすごいことだと思わない?
エラーのように生まれてくる人がいる。エラーと言うと語弊があるかもしれないけど、障がいや性同一性障がいなどは一種のエラーと言える。ヒマラヤの聖者ババジは、今800歳を超えているそうだけど、見た目はずっと27、8歳だそうだよ。だから、ババジの弟子たちはみんなおじいさんになるけど、ババジだけはずっと若い。それはいいとしても、生まれることにエラーがあるのなら、死ぬことにエラーがあってもいいと思わない?あの人は宇宙のエラーで死なないんだって、とかね(笑)。
それを安易な発想で捉えると、単に「あの人は死なないんだってね」ということだけど、実際に宇宙のエラーで死ぬことのない人は「あの人、死ねないんだってね」ということになる。死ねないとは不幸だよ。エラーいこっちゃ(チーン♪)リセットできないんだから。そして出会う人出会う人が、みんな死んでいく。それは大いなるエラーか、それとも究極の罰か。それは、命に執着したがための罰だよ。たぶんね。

こうちゃん:
でもそれだって何にも執着しなければ問題ない。

ともこ:
私も、800年も生きていると聞くと「わー大変そう」と思うけど、その「大変そう」というのも今の自分の視点なんだと思う。

いさどん:
実際のババジと僕は会ったことはないけれど、800年以上も存在し続けたら、我々の80年サイクルの思考回路とは違っているから、別にいいんだろうね。違うからこそ、それが成り立つとも言える。

 
思考回路をぶっ飛ばせ

いさどん:
人口の推移から世界をひも解いてみると、産業革命から人口が急激に上昇して一気にピークを迎え、その後また、一気に落ちる。それが特別なことだということはわかるよね。
生命には、物理的にサイクルがある。人間なら80年、鯉なら普通は20~30年というように、それぞれに固有のサイクルがある。地球の人口のピークは2100年頃だと予測されていて、その後300年くらいをかけて、人口は再び急降下していく。2100年から300年後というと、2400年だね。
僕は時々、3000年のことについて語る。3000年にみんなで会おう!とかね。だけど3000年に会おうと言っても、今の地球の人口が76億で、3000年の頃にはもしかすると1億ぐらいに減っているかもしれない。そうすると、我々が輪廻転生を繰り返すと言っても、今の76億のうち75億は肉体を持っていないことになる。だって受け皿がないんだから。そうすると、3000年に同窓会をするとしたら、霊的同窓会になるのかなぁ。
どちらにしても、この2000年から始まる思考回路というのは、自分一人の人生のサイクルだけではなく、それを超えて、人類の歩みとか、地球の歴史とか、そういうサイクルでものごとを捉えないと、時代についていけなくなる。

もう一つ、これから物理的に生きることには、大変厳しい時代が来る。今の子どもたちが30歳になって生きている姿を想像すると、微笑ましくもあるけれど、ある意味気の毒だなぁとも思うんだよ。僕はその頃の世界を想像すると、そこで生きたくはないなぁと思う。だけどそれを気の毒というのも、「これが快適」という基準があるからだよ。どんな場所でも、それはそういうものだと受け取っていけば、存在できるのかもしれない。快適の基準を持っていると、その基準から外れた場所では苦痛を感じて、それこそ自殺することにもなるだろうね。

やっぱりね、もっと思考回路がぶっ飛ばなきゃいけない。ぶっ飛ばなきゃいけないんだって。

この間こうちゃんと、「生きていければいい」という話をした。生きていられさえすればいい。その最低限のことに喜びを持ったら、生きることに不安はなくなるよ。何か損をしたとしても、損をしたって生きていられるんだから別にいいじゃない。そして最終的には生きていることすらも天へお返しするんだから、別にいいじゃない。終わったじゃ~ん、てね♪

みんな:
ははははは!

いさどん:
死ぬということは大それたことじゃない。必ず来るんだから。僕は来年67歳。3年後には物理的には70歳になる。僕が70歳?と思うよ。だってこれまでの70歳の印象と、今実際この肉体の中に入っているものとが、合わないから。それでも鏡を見ればやっぱり70歳なのかなーと思うけれど、どうしたって中身と年齢が合わないんだよ。

ともこ:
おもしろいね。中身はどんどん進化していくのに、外見は老化していく。

いさどん:
そしてリセットする時が来るんだよ。僕は変態だから、とびっきりユニークに逝きたいな~と思うんだよ。ここでこそユニークに逝って、みんなの鼻を明かして旅立ちたいなぁと (^皿^)
やっぱり、独特に旅立ちたいね。死ぬ時は必ず病にかかる。老衰だって、最終的には心不全か何かになって逝くんだから。その死に病にかかった時には、嬉しいよね。そのプロセスを存分に楽しんで、「さぁ行くベ!」と旅立つ。高速道路で対向車がセンターラインを飛び越えてきてガーンとぶつかったとしても、「ここだったか~、こういうシナリオだったか~」と旅立つ。その時にはやっぱり、「おい、自分らしく、うろたえるなよ」ということは思うね。そんなところでうろたえたら、何のために今まで生きてきたかわからんじゃん。ここでこそ本領を発揮するところだよ。残された連中がいくら「死なないでー」と言っても、「そんなアホなこと言うんじゃないの」ってね。

こうちゃん:
そうね。いかに肉体に囚われずに毎日を過ごせるか。

いさどん:
肉体に囚われていると言うけれど、実際は同じ肉体じゃないんだよ。物理的にも霊的にも一緒じゃない。それは積み重ねていくものだから、実際には別物になっている。肉体は常にリニューアルして、様変わりしているんだよ。
そういうことを共有できる世界観を持っていたら、そこはとてもどっしりとした場所になるだろうね。微動だにしない。地震が来ても「おお、地震が来たな~。やっぱり避難はするべきだよな~」と。物理的には素早く避難しているけれど、思考は冷静なんだよ。

こうちゃん:
そうすると、楽しめるね。

いさどん:
自分の思惑が外れた時にどう対処するか。そして世の中が翻弄されているのを、「さてどうしようかな」と眺めている。

こうちゃん:
別に命がなくなってもいいんだけど、けっこう世界は生きることを保証してくれている。こんな天候でも作物はできるしね。気楽にいけるよ。

いさどん:
気楽にいけない人は、「今月は何円稼がなきゃいけない」と考えている。米や麦は一発勝負だから、それが想定通りにとれないと、金額の計算が合わなくて深刻になる。だけど生きていくことだけがベースになっていたら、別に米がとれなくたってサトイモがあるじゃん、てことだよ。
実際にそんなひどい状態にあるわけでもないのに、現代人はこれまでの右肩上がりの経済成長に囚われているものだから、経済成長が0%になると「大変だ」と大騒ぎする。0%なら別に例年通りなんだから、何も問題はないんだよ。±0の宇宙の基本に戻るだけさ。ところが、今は右肩上がりが行き過ぎているから、本来のところへ戻るには右肩下がりにならなくちゃいけない。それなのに上がり続けるという幻想に囚われているから、成長率0%ですら問題になる。別にマイナスでも、生きていけるんだよ。

こうちゃん:
そういう余裕を持って探求していかないと ────

いさどん:
観えない。余計なことを考えていたらものは観えないというのは、そういうことだよ。

こうちゃん:
「悟りたい」と思って必死になって余裕をなくしていたら、悟れないね(笑)。

いさどん:
そうだよなぁ。悟るというのは願望で思うことではなく、結果だから。行きついたところがそうだった、というだけだよ。

こうちゃん:
そうだね。「麦をとるぞー!」と力が入っている時には観えなかったものが、そこに自分を入れずに引いてみるとパッと気付けたりする。

いさどん:
冷静になって目の前のものと対峙するから、観える。計算で頭がグルグル回っていたら、観えるものも観えない。グルグルと損得勘定をするのは損をしないためだろうけど、結果として大損していたりするんだよ。

 
みんなで交響曲を奏でている

いさどん:
「ニンゲン」という二元の思考でいると、例えば北朝鮮の正義とアメリカの正義と日本の正義があるように、人の数だけ正義がある。しかし、「ヒト」という根本の法則に目覚めたものは、それぞれは個性的だけど、それぞれが根本の法則に沿っているから、そこには秩序が生まれる。
物理的現象世界に生きる者たちは、肉体的な制約の中で思考がとても狭くなっている。日常がタイムカードや電車の時刻表の上にある。もしくは金に縛られている。そんな人間たちが斬新な発想なんてできるわけがないんだよ。
我々はここまで歩んできて、世間と同じ要素を持ちながら、極めて斬新な発想を持って極めて斬新な場を創る下地はある。下地はあるけれど、まだまだその自覚が足りない。一人ひとりは育ってきてはいるけれど、まだまだ追い風になっていない、追い風になるにはどうしたらいいかもわからない人たちもいる。
追い風といっても、全体が進むのにそれぞれのノルマがあって、あなたはこれだけの推進力になってください、なんてことを課しているわけじゃない。全体が動いている中で、どれだけでもいいから、進行方向に向かってその人らしい風を吹かせていればいい。それって、全然エネルギーはいらないんだよ。例えばみんなで笛を吹いていたら、途中で休んでいる人がいてもいい。でも気持ちは吹いてるでしょ?みんなで合唱している時に、一人休んでいてもわからないけれど、気持ちはちゃんと一緒に歌ってる。そういうことだよ。
そういう意識が観られたら、その場は「みんなで交響曲を奏でている」というハーモニーが感じられる。その時に、いったいあなたはどこを向いてるの?と言いたくなるような、そこに参加している意識がないことが問題なんだよ。

ともこ:
難しいね。「こうしなきゃ」と思うことが行き詰まりになっていくんだけど、そうかと言って、自覚を持たずに「何でもいいんだ」とボーッとしてるのも問題なわけでしょ。

いさどん:
例えば、交響楽団がいるとするよね。ピアノ協奏曲ならピアノが主で、バイオリン協奏曲ならバイオリンが主でしょ。あるいはシンバルなら、盛り上がった時に「ジャーン!!」とやるだけで、後はないんだよ。出番はそこだけ。だけどその人は、演奏に参加している。別に力んでいるわけではなく、ただ流れに沿って、出番が来たら「ジャーン!!」とやる。すごい存在感だ。それだけでいいんだよ。

こうちゃん:
だから別に集中してなくてもいいんだよ。安倍さんでもトランプさんでも、みんな思考を回してエネルギーを使っているわけでしょ。自分のために。その同じエネルギーを別の方向に使ったら、もっと楽にエネルギーが循環するはず。自分の国とか自分のためだけを思っていると、自分でエネルギーを湧かせてこないと足りなくなる。

いさどん:
安倍さんの例をとると、やはり自分が総理大臣として支持率を得なければいけない。評価されたい。評価されるには、日本の国益を獲得しなければいけない。そういったものにがんじがらめになっているから、このくらいの成果を残さないとダメ!というのが先に課せられているんだよ。自分で自分にそれを課している。
だけど歴史というのは、先へ行ってみて初めて答えが出るもの。そうしたら、やるべきことはやって、あとは結果をいただくだけ、というスタンスでいればいいんだよ。そうすると、意外と相手からすり寄ってきたりするものだよ。

こうちゃん:
打つべきところを打つということは、やっぱり広い視野を持っているからこそできることだよね。そうするとエネルギーの無駄遣いはしないし循環していくということだとすると、やっぱりボーッとしてたんじゃダメだね。

いさどん:
ダメなんだよ。出番じゃなくても、流れは観てなきゃいけない。

こうちゃん:
かといって「こうしなければならない!」って力んでやっているのは、ある意味安倍さんと同じ。やっぱり広い視点を持って分析ができて ────

いさどん:
いや、分析なんてしていたらまたきゅうきゅうになっちゃうからね。模様眺めをしながら「ここは私の出番だな」と出るべきところで出たらいいんだよ。何もしてないようでいて、こいつはやるべき時にはやるな、という雰囲気が出ていたらそれでOKなんだよ。

こうちゃん:
そうそう。だから別に全部わからなくても、いつでも対応できる状態で待機していて、「ジャーン!!」てやればいいわけだ。

くわっち:
勘違いして構えてたね。ボーッとするか、なんとかしなきゃ、と固くなってるか。そんなんじゃみんなでコンサートする時に、いいハーモニーはできないもんね。

いさどん:
その一番いいキャラが、Aちゃんだよ。

みんな:
ああ~~。

いさどん:
誰もAちゃんにそんな難しいこと期待してないじゃん。だけどすごくいいキャラしてるでしょ。そういう落としどころがあるんだよ。

こうちゃん:
力まないところで発揮できるんだろうね。

くわっち:
心の水爆なのかなぁ。

ともこ:
心の水爆って何ですか??(✪ω✪)

いさどん:
言わない。僕は心の水爆を発見した。それは心の水爆とネーミングしたけれど、別に水爆じゃなくてもいいんだよ。でも水爆というネーミングはちょうど時代に乗ってるね。

やはり、ここまで歩んでくると ──── と言ってもみんなには観えないだろうけど、僕はこの心境でここまで歩んでくると、終末を意識する。僕の場合、終末を意識すると、その先を考える。そこまで心が飛ぶと、もうどうでもいい感じ。別に今のことを無視するわけではないし、しっかり生きるけれど、それはある意味、終末が観えて先を意識している者がそこへ向かう、惰性のようなものなんだよ。
僕は時々ケアの人たちにも喝を入れる。どうしてそんなにものが観えないのか、まず頭が悪い、ということもはっきりと伝える。なぜそういうことが言えるのかというと、自分に対して何も求めていないから。相手からどう思われようとかまわない。

ともこ:
「求めていない」ということは、余分な思考をしないということだね。

こうちゃん:
昔、いさどんを見て「あの人は武道の達人ですか?」と言った極真空手のチャンピオンがいた。彼は力で押してチャンピオンになったけど、年を重ねていくとだんだん若いものに敵わなくなってきて、どうしたらいいかといさどんに聞いたら、いさどんは「無の境地」を説いていたね。

いさどん:
力まないで自然体でいると、相手の攻撃がどこに来るのかが自然に観える。

こうちゃん:
それは武道でなくても同じだよね。

いさどん:
その究極が、何か問題があった時に全て、天に丸投げするんだよ。もう私は知りませんよ、全部あなたの責任ですよ、とね。

こうちゃん:
いろんな引き出しがあって、それを自由に選択して使えるような状態になるといいよね。

いさどん:
そうそう。将棋みたいなもので、いろんな駒があって、それを一番ふさわしい時にパチンと打てるだけの余裕がないといけない。

ともこ:
ある段階までは力みも必要でしょうか?

いさどん:
意欲がないとダメだよ。

ともこ:
意欲と欲は違うのね?

いさどん:
意欲というのは、向かおうとする意志であって、意欲があるということは、結果を決めつけてはいないんだよ。

ともこ:
なるほど!欲は、こうなりたい、ああなりたい、と、結果を自分で決めてるんだね。意欲はもっとフリーな状態だ。

いさどん:
「ヨク」というのは、「ヨ=よこしま」に「ク=自由」だから、あっちもこっちも欲しい、という感じだね。「イヨク」は、あっちもこっちもという欲の「イ=位置」が決まっていて、「これだ!」と定まっている状態。

ちなっぴー:
いさどんは意欲のかたまりだよね。

いさどん:
極めるというのは神業だからね。田んぼをやる時に、稲穂が倒れるか倒れないかのギリギリのラインを目指すような、常にその気持ちを忘れないということだよ。
生きるということにはバランスがある。例えば日本刀を打つ名人とか、野球の神様と言われる人とかがいるでしょう。それは神業とも言えるけれど、「〇〇バカ」とも言えるんだよ。生きるということは、本当はそんな風に何か一つのことだけをやっているのではダメなんだよ。いろんなことに意欲を湧かせていく。きっと、カタカムナ人はそうだったんだろうね。それは一人では限界があるから、群れて暮らした。
それは地球暦と同じだよ。一人ひとりの地球暦を見ると、偏りがあってひどいな~と思う。極端なことを言えばみんな問題がある。

こうちゃん:
だけど、僕ら全員の地球暦を合わせたら、ものすごいんじゃない?

いさどん:
それこそ完璧だよ。だから群れなさいというんだよ。

こうちゃん:
カルマも個性として、陰性も陽性も全部合わせたら中性になる。

いさどん:
そのことについては、ここに来るまでの車中で解明して話してきたよ。

こうちゃん:
だからもっと気楽に、自分らしく自分の分を貢献すれば、全体としては完璧だよ。

いさどん:
だからそれがシンバルの「ジャーン!!」なんだよ。1回きりでいいんだから(笑)。その代わり、そこを託されているのにそのタイミングを逃したら、みんなコケるよ。
志を同じくしている者が、人生という交響曲を共に奏でる。その指揮者は、時代。あるいは、天。いつもその指揮者の方を向いて流れを観ていたら、「ここだ!」というタイミングで「ジャーン!!」とやることができる。だから天を観ていなさいということだよ。

 
個人の最高の幸せ — 地球益

ともこ:
地球暦って、紙面で見ると平面だけど、実際は立体でしょう?だから平面上では全部の惑星がつながって見えても、立体で捉えるとけっこう間はスカスカだよね。

いさどん:
そうだよ。平面で捉えて角度が何度と言っているけど、三次元で捉えたらものすごく離れていたりするんだよ。

ともこ:
てことは、結局みんな偏ってるんじゃないの?

いさどん:
それは違うよ。例えば夜空に星座があって、それが地球上からだと三角形に見えるとするでしょう。ところが、それを横から見ると3つの星はまったくバラバラでいびつだったりする。そうすると意味がないかのように思えるかもしれないけれど、実はそこに意味があるんだよ。つまり、そのくらいいびつでありながら、地球に向かって三角形を描き、それを我々に見せてくれているんだよ。地球からだけそう見えるということは、地球に向かってメッセージを送っているということでしょう?それを意味がないと否定したら、そこで終わりだよ。
こんなにもいびつな状態でありながら、地球に向かってメッセージを送っているということは、そこに意志があるということ。天には意志があるということがわかったら、すべてを受け取れる。物理的な矛盾を並べてケチをつけているようでは、意志は感じられないよ。だからいくら宇宙の流れについて語っても、物理学者がそれを信じられないのは、頭の中が物理だけで、そこにメッセージや意志があるという発想がないんだよ。

こうちゃん:
利口になればなるほど、それを感じることには疎くなっていく。

いさどん:
有史以来の二元的賢さだね。「負けたくない」とか「得したい」とか。そしてすべての国が、結局は自国の国益ばかりを求めている。どうして地球の平和というものを考えないんだろう。それが最大の国益でしょう?なぜ同じ地球にいて、「地球益」というのを考えないんだろうね。

こうちゃん:
結局はそれが個人の最高の幸せなのにね。

いさどん:
そう。その安心の中に生きられる。それなのにみんな国益を背負っているから難しくなる。今テレビは北朝鮮の話題で持ちきりだ。この間まではISだった。そこで語られていることは、時間の無駄遣いだよ。何の解決にもならないんだから。

ともこ:
テレビでは、今北朝鮮が起こしていることに対して制裁だ何だと対症療法ばかりが語られていて、ではなぜ今の北朝鮮があるのかという根本的な振り返りがない。それを思った時に、木の花でメンバーやケア滞在者(心身の病の回復を目的に滞在している人々)が、自分の心をひも解いて、今の自分の状態がどこからどういう経緯をたどって今に至るのかを解明するのは、世界の現状を解明するのとまったく同じなんだと思った。それが解明されて「だからこうなっているんだ!」と気付いた時に、その問題は昇華される。だから、すごく大事な取り組みをしていると思ったよ。だって今の世の中にはその視点がないから。

いさどん:
今出会っていることのルーツを、常に意識して、理解していなければいけない。ただその現象の表面だけを見て反応するのではなく、それが何で起きてるのかを解明していく視点を常に持ち、できる限りの努力をして、なぜ今の状態に至ったのかを知った上でものごとを判断しなければいけないんだよ。そうすると、その現象に対する対処はまったく違ったものになる。

こうちゃん:
ニュースでその出来事に至るまでの経緯を振り返っても、本当に短いスパンでしか見ていないよね。何月何日にどうしたとか。本当はもっとずっと前からそこに続く流れがある。

いさどん:
すべてはアラビアのロレンスから始まっている。すべては十字軍から始まっている。すべては紙の発明から始まっている。すべてはカタカムナから始まっている。

ともこ:
すべては地球誕生から始まっている(笑)。

くわっち:
すべては宇宙誕生から始まっている(笑)。

いさどん:
人間には、極めてユニークな特徴として、自我が形成されるようになっている。だから、一人ひとりの目線がオリジナルなんだよ。一人ひとりオリジナルのフィルターを持っていて、それで世界を見ている。その自分のフィルターを通して見た世界が、他のフィルターを通して見た世界と共有されなければ、調和はとれない。
自我が強くなると、自分のフィルターを通したものしか信じず、それがすべて正しいと思っている。だから自分の思った通りではない反応が返ってくると、被害妄想的な人間なら攻撃されているんじゃないかと受け取ったりする。傲慢な人間なら、「何でわからないんだ」と思うだろう。

人間が70億人いれば70億通りの個性があり、その個性の羅列の中で、波が起こるようになっている。例えばガングロのお姉ちゃんたちが一生懸命自己主張していて、それが支持されたら嬉しいわけでしょう。白人至上主義者が「あなたが正しい」と支持されたら喜ぶでしょう。そこには視点の違いがあるだけだよ。その視点の違いを主張して、相手を打ち倒して、平和になろうとしているのが今の世の中だ。その延長に平和を表現しようとしている。
アメリカはそれをやってきて、今のような状態になっている。それをカモフラージュするために、多民族国家を掲げて人権尊重を制度に組み入れてきたけれど、そもそもアメリカという国家自体が、他者を支配して自らのフィルターをかけた正しさを主張して成立しており、ぞれをずっとやり続けて勝ち続けてきたんだよ。そして今、その自分たちのフィルターの実体を知る段階に来ている。それはつまり、最終的な仕上げとも言えるね。アメリカという国は、大らかで何でも受け入れる国でありながら、実はその奥にアメリカ的フィルターがあって、それで世界を支配しようとしてきた。それをも超えなければいけない時が来たんだよ。
だから、白人至上主義が間違っているということでもなく、リベラルな人たちも、アメリカ国民としてアメリカらしい誇りを保とうと言っているのだから、同じ穴のむじななんだよ。そうやって双方が陰陽のバランスを取りあっているということだ。

ともこ:
視点を変えるというより、共有するんだね。

いさどん:
そう。それは違いによって強いものが弱いものを支配するような、強弱の視点ではないよ。
人間は自我によって、欲望を満たす時に快感を感じる。その快感ゆえに、それがいいことだと思い、自我に取り込まれていく。そして依存症になる。お金依存になったり、便利さ依存になったりするわけだけど、お金や便利さがあふれると、人間は傲慢になり、そして退化するんだよ。本来自然と生きていくための能力が、便利になることで使う必要がなくなって、退化していく。ところがそこに欲望を満たす快感を感じるものだから、依存症が広がっていく。そのことが観えていない。みんな冷静さを失っている状態なんだよ。
そしてさらにフィルターが複雑になったり色が濃くなったりして、自分の考えと同一のものを求めるようになる。これがつるむというやつさ。自分と同じ色のものを求めていく。そしてつるむと、今度は違うものと対立するんだよ。マスコミでも政治家でも、どこを観ても、自分の主張が正しいものだと受け取られたい、という衝動が観える。そうではなく、そういったものを全部払しょくして、大らかにそれを語れる視点が必要だ。

そこで、どうしたらいいのか。その構造を理解し、それは互いのフィルターを共有するための共通点を探す、ハードルのようなものだと捉えたらいいだろうか。
北米やヨーロッパの先住民族の中には、海鳥をアザラシの皮の中に入れて発酵させて食べる文化がある。そんなもの食べられないよー!という人もいるけれど、それは自然が与えてくれたんだよ。その智恵も、食べ物も、そして味覚も。そこにはプロセスがあり、誰にも否定できるものではないのに、自分のプロセスから外れているからといって否定したり、極端になると「それは変だ」と言って改めようとする。そういう考えでいるから、いつまでも対立する。

ともこ:
やっぱり、この視点は世界平和の鍵だ!

 
フリーな心でいよう

いさどん:
2012年12月21日の銀河の冬至をもって、我々は闇のピークを越えた。その時点で、本当はすべてが変わらなければいけないんだよ。それは見る方向が変わるということ。だけどあまりにもこれまでの方向に慣れ過ぎていて、それが永遠のように思っているんだよ。生まれた時からそうだから、その漬け物になっているようなものだ。だから視野を大きく広げて、自分の枠すら超えて物事を観なければいけない。
地球は現象化の星だから、何でも現象化して見せてくれる。だから人間は、地上に天国も、地獄もつくる。地獄は死んでから落ちるところじゃないよ。今現在地獄を生きている人がたくさんいる。しかし実はそれすらも調和の中に在るんだよ。相対する存在を創り、それが互いにバランスを取っている。それを両方観るには、引いて観なければいけない。引いて観るということは、熱くならないということさ。

こうちゃん:
今のスーパーコンピューターは、基本的に0と1で計算していて、ものすごく広いスペースに並んでいる。だけど今、中性子のコンピューターというのが創られて、それはほんの一坪くらいのスペースで済むんだって。コンピューター自体はもっとずっと小さいんだけど、なぜ一坪必要なのかと言ったら、そのコンピューターを動かすには絶対0℃の環境が必要だから、それを冷やすためのスペースなんだって。だけど今までのコンピューターに比べたらものすごい省エネだよね。
それで、中性子コンピューターには、0と1が同時に存在しているって言うんだよ。そして今までのスーパーコンピューターよりも格段に計算が早い。それはなぜかと言うと、今までの0、1、0、1、のコンピューターだと、全部計算をしないといけないんだって。ところが0と1が一緒になっていると、それが一瞬で終わる。理屈はわからないけど、ずっと少ないエネルギーで済むし、スピードも速くて、場所も取らない。「二辺を離れて中道を説く」と言うけれど、宇宙には電子と陽子と中性子があって、すべてが同時にあるのが当たり前の世界じゃない?つまり良いも悪いも一緒になっているところを中道と言い、その両方を同時に理解しているということだよね。それって調和だよ。だから地球上でこんなに醜い世界が展開されていても、それで調和がとれている。

いさどん:
宇宙は戦争しないでしょ?でも地球に現象化すると、戦争ができる。それは「差」ができるということだよ。あるがままの状態では戦争は起きないけれど、現象化してそこに「差」が生まれると、それを元に戻そうとする動きが生まれる。両極端の存在が互いに引っ張り合って、中道に戻ろうとする。

こうちゃん:
「差」ができるということは、現象が生まれるということだもんね。

いさどん:
そう。そして「差」を取ると戦争がなくなる。

こうちゃん:
現象というのはもともと、「差」を見せるためにつくられている。

いさどん:
そうだよ。そしてそこにはサイクルがある。人間だったら、オギャーと生まれてから人生を表現していくにつれて、どんどん「差」ができる。それがだんだん消耗していって、死ぬとリセットされる。すべてのものにはサイクルがあり、それが全部消滅するのが「差取り=悟り」だよ。

こうちゃん:
だからずーっと遠くからそのサイクルを観ていれば、消滅した状態をも観れる。

いさどん:
ずーっと引いて観たら、あるサイクルはさらに大きなサイクルの中に在ることが観えてくる。そしてその大きなサイクルも、さらに大きなサイクルの中に在るというように、すべてが相似形になっている。さらに引いていくと、それらのサイクルの集合体自体が一本の太い線になっていて、さらに引いて観るとそれすらも細い線になる。

こうちゃん:
そのくらいの心で堆肥まきもやれるといいよね(笑)。

いさどん:
堆肥をまくときには「たいひんだー」と思うでしょ?(みんな:笑)だけど間違いないのは、今回まくのはここからここまでという限定がある。だから、1ヶ月間ずーっと堆肥まきするわけじゃないのよ。それから、すべての圃場にまくわけでもないのよ。人の畑にもまかないのよ。だから冷静に考えると、「これだけの量をこれだけまけば終わり」ということなのよ。そうしたら、「たいひんだ、たいひんだ」と思う前に、ただやっていけば終わるんだよ。

何かを限定するのではなく、常にフリーな心でいよう。限定すると苦しくなる。フリーな状態だからこそ、流れが読めたり、気付きが生まれるんだから。

 
「ニンゲン」から「ヒト」へ

いさどん:
銀河は、円になっている。人間が世界観を広げ、スケールの大きな意識で語るとね、その円の中心が「ざわざわざわー」っとするんだよ。つまり、こちらの悟りに、銀河が反応するんだよ。人間が悟るということは、宇宙に対してそのくらい刺激を与える。人間とは、それだけの存在なんだよ。

そのくらいのスケールで生きたいものだと思う。事実、人間は銀河の物理的作用に対して影響力がある。本当に、銀河がふわふわ~っと、波打つんだよ。「銀河が波打つ」と言うと、人間のスケールからしたらものすごく巨大なことでしょう?

太陽も、そういう反応をしてるんだよ。太陽には意志がある。そこと共鳴して生きているかどうか。
この間、太陽フレアの影響で地球の磁場が乱れたことが話題になっていたけど、こちらから発しているものを受けて、向こうも反応を変えてきているんだよ。つまり、対話できるんだよ。あちらの意向を聴いて生きていれば、こちらの意向もちゃんと伝えられるようになる。そうでなければ、地球人が太陽を信仰するわけがない。何を根拠に太陽を信仰しているのかと言うと、キャッチボールができているからさ。その領域に達した者が確信を持って、そのことを伝えてきたんだよ。人間はそこまでの領域に行くことができる。それを、「そんなのは絵空事だ」と言ってしまえばその通りになるだけだ。

物理的な太陽を見て語りかけるのは、幼稚な段階。あの物理的な太陽の奥に、霊的な太陽がいるんだよ。同じように、あなたの顔の奥にも、霊的なあなたがいる。その霊的なあなたに語りかけなければいけない。太陽も、霊的な太陽に語りかけなければいけないんだよ。人間は富士山に登ってご来光を見たり、物理的な太陽を拝んでは「神々しい」と感動しているけれど、その奥に霊的な太陽がいるんだ。
ロータスランドにかかっている絵に描かれている光は、太陽じゃない。霊的な光なんだよ。そういうものがあるんだよ。

ロータスランドにかけられている”桃源郷”を表現した絵

いさどん:
人間は、そこまでのスケールの存在になれる。
仏道というのは、下から積み上げていって上へと上がっていく道のこと。上には際限がないから、どこまでも無限に上がっていける。ところが神というのは、みんな神様に語りかける時には上を向くように、上から下へと降りてくる存在なんだよ。神様にもいろいろな位置があって、それぞれの位置から人間のもとへ降りてくる。「あなたはどこから来ましたか?」と尋ねると、意外と全体からすると下の方の神様だったりするんだよ。そういった神々は人間を誘惑し、惑わせ、それがいろいろな宗教の元にもなった。
だけど、仏道というのはそうじゃない。仏道とは「道」であり、下から上へと上がっていくものだから、その道には限りがない。人間がその気になったら、宇宙の根源までも行ってしまう。

ともこ:
上から降りてくるものはそこがスタート地点だから、最初から位置が決まってるんだね。

いさどん:
決まってるんだよ。ところが下から上への道は無限だ。だから仏教では、神を語らない。それを「人の道」としている。人が進歩していって「命(ミコト)」となり、「カミ」となり、「カム」となる、一番の奥まで至る道なんだよ。
ある位置から神が降りてきて人間に出会うと、人間は「ありがたい」と言って拝むでしょう。だけどそれでは、その神の位置を超えることはできず、人間の成長に限界ができるんだよ。そこで神が、自分を超えていくような人間に出会うと、今度は逆に神が人間に「自分を導いてほしい」と言うようになる。だから法華経を行ずるものは神が守護すると言うんだよ。神がそれを喜ぶんだから。人は、神をも超えていける存在なんだよ。そのことがわかると、神も「私も人間界へ降りていって、もっと上を極めよう」と思うんだよ。その段階の神には、まだ自我があるからね。
だから、仏道とは恐ろしいものだよ。恐ろしいとは、怖いという意味ではなく、果てしなく広い、無限なる世界につながっているということさ。

人間は太陽とも、銀河とも対話できる。そこでやっかいなのは、人間は物理的に語りかけて通じるものだから、奥が観えないんだよ。今こうして僕とあなたたちが話しているように、物理的に会話をして、通じているかのように思っている。だけど本当は、霊的な会話でなければいけないんだよ。魂と魂の会話でなければいけないのに、物理的なやり取りをして表面的に通じてしまうものだから、浅い付き合いしかできない。
銀河がふわふわ~っと波打つのも、物理的に波打っているというより、人間の発しているものに銀河の魂が反応しているんだよ。

ともこ:
私の奥にも、霊的なともこがいるんだね?それが何なのかわかんないけど ───

いさどん:
何なのかって、それがともこだよ。

ともこ:
そうすると、日ごろのともこはすごく小さなところにいますね?

いさどん:
それは物理的なところに囚われているからさ。今までのともこに執着していれば、霊的ともこもそこに引っ張られる。執着が足かせになって、魂が不自由な状態になっている。それを解放してやると、ともこは無限なものになるんだよ。人としての可能性は無限にあるんだから。
霊的ともこの次元が低ければ、それは物理的ともこの限界になる。物理的ともこのレベルが低ければ、霊的ともこの足を引っ張る。両方が縛りあってるとも言えるんだよ。だからそれを解放してやらなければいけない。

ともこ:
自分を磨けるのは、物理的ともこだけだね。

いさどん:
「磨く」というのは、物理的ともこの執着を取り去ることだよ。

ともこ:
だけどその物理的ともこがいるから、霊的ともこは自分を認識できる。

いさどん:
そうだよ。だから地球に霊的ともこが降りてきて、肉体をもらって、現象化することによって、悟りへの道を歩むんだよ。

僕が言っていることは、わからない話でしょう?いくらどう話しても、僕も人間だから、みんなも人間から聞いていると思うんだよ。だけどこれは、人間がしゃべっているけれど、ベースにあるのは宇宙人なんだよ。人間の姿をしているけれど宇宙人であるということは、ベースが「ニンゲン」ではなく、「ヒト」であるということだ。

人間の思念というのは、ものすごい速度 ──── つまりアマハヤミ(光の速度の10の64乗倍)で、 瞬間にして宇宙を駆け巡る。だけどそれは、その意識レベルの意識を持っているから初めて成ることであって、それがないものには一切通用しない、考えられないことなんだよ。
そういう思考を持って生きていると、それこそ「何でこんな世界ができるの?」という世界ができる。訪れる人が「あれ?ここはどこだろう?」と不思議に思うような、自分の中の何かを呼び覚まされる場所 ───── それが桃源郷、「ロータスランド」だ。

 

 


目覚めれば、世界はわたし

今年の7月16日から18日に開催された「第10回大人サミット」では、宇宙的そして歴史的に観ると、この世界がどのように観えるのかについて語られました。大人サミット2日目の午後、太陽とわたしたち生命の関係から、太陽系における地球の意味、そしていのちの本来の姿についていさどんが次のように語りました。

 

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太陽の活動と地球のマグマ活動の関係は、わたしたちにとってとても重要なことです。今、地球はマグマの活動期に入っています。これは地球の事情ではありません。太陽の黒点の活動が地球のマグマの活動と連動しています。そして地震と火山の噴火を誘発しているのです。

今、世界の先進国が宇宙の中でもっとも観測しているものは、「太陽」です。なぜなら、太陽は地球のマグマの活動に影響を与えているだけではなく、太陽の変化が地球の活動に直結しているからです。たとえば、景気が良いとか悪いとか言いますね。それで安倍首相や日銀の総裁は公定歩合を上げたり下げたりしながら、景気を誘導しています。しかし、景気とは「気」のことであり、わたしたち人間の「気」分も経済活動をはじめとする人間の営みもすべて、実は太陽が左右しているのです。太陽が左右していることを人間の人智で表面的に対処しても、事は人間の思うように成らなくて当然です。それは病気に対する対症療法と同じです。人間は一方で癌細胞をつくっておき、その一方で抗がん剤でその症状を抑えているのですから、それでは矛盾の中で生きていることになります。そのように捉えたときに、太陽が人間に指針を与えていることが観えてきます。太陽は地球の進むべき方向を示し、人々の心がそこから外れて滞りが生まれれば、太陽は自らの意志を人間に伝えるために天変地異を起こし、「その姿勢を改めなさい」とメッセージを送ってくれているのです。

わたしたちはその観えない法則の存在を知り、その意志を受けて生きていく時代に突入したのです。それを理解し表現することが天の気を読み、宇宙を生きることです。この世界には必ず流れがあるのです。

人生を生きるときに、どの人も自分のために生きています。自分のために生きることは、自分の働きによって生きるということです。しかし本来、この世界は共同で成り立っています。皆によってこの世界は成り立っています。ですから、「働く」ということは、この世界が正常につながっていくために、全体の中のポジションを担っていくということなのです。「働く」の本来の意味は、「傍(はた)を楽(らく)」にすることなのです。ですから、本来生きるということは、自分のために生きるのではなく、世のため人のために生きることなのです。そうしたら、生きるために必要なものはすべて、世の中が用意してくれるのです。それがこの世界が動いている仕組みです。そうやって生きる人には、お金が必要なときにはお金が現れてきます。人材が必要なときには人材が現れ、物が必要なときには物がやって来るのです。あとは、自分が全体の中でふさわしい役割を果たせばいいのです。このような話を聞くと、「そんなうまい話があるのだろうか?」と人は思うものですが、宇宙の構造は完璧に成り立っていますよね。ですから、このように人々が生きれば、宇宙の星々の成り立ちのように、地球上にも精妙でダイナミックな世界が現れてくるのです。そういった仕組みを永遠に紡いで動いている、この世界には流れがあるのです。

さて、皆さんはその流れを読むことができるでしょうか?

流れを読めずに生きている人たちがいます。それは自分のことばかり考えているからです。自分の都合ばかり考え、そういう人に限って、「なぜわたしはこんなに一生懸命やっているのに、物事がうまく行かないのだろう?」と思うのです。そのように一生懸命やっているエネルギーが空回りしているのであれば、うまく行くわけがありません。逆に流れに乗っていると、一生懸命やらなくても、目の前にあることだけをやっていれば、事はトントンとうまく進むのです。そのような場では、自然と自分がしたことに対して、「ありがとうございます」という感謝の気持ちが湧いてきます。それとは逆に、自分がしたことで生きている人は、「自分がやったことが実ったのだ」と傲慢なのです。これからは、そういった精神で生きていくと、たいへん生き辛くなっていきます。

わたしたちはどのような仕組みで生きているかというと、太陽があるからです。わたしたちの地球が自転し、公転し、太陽と共に宇宙を動いているから、時間が存在するのです。動くということは、ここからここまでという場所を創ります。ですから、わたしたち人間が働くということは、宇宙の法の中にいるのです。それが、生きることの実体です。このように、真実の実体を理解し、広い世界観を持つことが大切です。そして、それを生活に表現していくことが、わたしたちが生きる上でもっとも重要なことなのです。

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これは太陽の黒点運動と地震発生の関係を表しています。この赤いラインは地球上で地震が起きたときの死者数を示しています。興味深いことに、太陽の黒点数が下がるときに大地震が起きているのです。この流れで行くと、来年あたりには地震で多くの人が死ぬ可能性があります。

「太陽の黒点の数は11年周期で増減を繰り返している。黒点数が減少する時期は太陽活動が停滞し、太陽の磁場が弱くなるため、それまで太陽系に侵入できなかった銀河からの透過力の大きな宇宙線が地球に届くようになる。この宇宙線が地球内部を加熱すると、外核から放射される熱エネルギー量が多くなるため、地震や火山の活動が活発になるのではないかと推測されている。」

よく考えてみると、生命であるわたしたちは光そのものです。すべての生命は光の産物です。そして、それを発している元は太陽です。ですから、わたしたちの存在は思考から肉体まですべて、太陽が握っているのです。あの太陽がわたしたちのすべてであり、常に何かをわたしたちに伝えているのです。しかし、日中の太陽に語りかけてはいけませんよ。目がおかしくなりますからね(みんな、笑)。昇る朝日や沈む夕日に語りかけることが大切です。昇る朝日を食べると、一日の活力を与えてくれます。昇る朝日は食べるのです。日中の太陽は、わたしたち生命を育ててくれます。そして沈む夕日は浴びるのです。そうすると、一日活動した体を癒してくれます。そして、感謝して一日を終えることができます。朝日に対しては、「いただきます。」そして夕日に対しては、「ありがとうございます。ごちそうさまでした。」このように太陽と人間が意識でつながるようになったら、きっと太陽は「ようやく人間たちはわたしの存在の意味を理解するようになった」と思うことでしょう。 

太陽系的に言えば、太陽系全体の意志は、太陽の意志です。ですから、わたしたちは太陽の意志を受けて、地球にこのような時代を運営しているのです。さらに、地球は太陽系の第三惑星であり、生命を育むための絶妙な位置にいます。わたしたち生命は金星にも火星にも暮らすことはできません。

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ここで地球暦を見てみましょう。中心にあるのが太陽です。太陽の次の水色の惑星が位置するところが水星の軌道です。軌道がドーナツ状になっているのは、太陽から遠くなる地点と近くなる地点との差があるからです。つまり、水星の軌道はこれほどぶれています。水星は秒速48kmで太陽のまわりを88日間かけて一周します。金星はその外にあり、綺麗な円を描いています。音楽で言えば、金星の動きはメトロノームのようです。水星は直観力・情報伝達の星であり、金星は女性性を表す星です。そして、その次に来る地球は現象化の星です。ですから、地球上では想いがすべて現象化します。さらに、地球は変化をする星でもあります。緑色の惑星が位置するところが地球の軌道ですが、薄いドーナツ状になっています。2016年の太陽から一番近いところは1月3日に当たり、一番遠いところは7月5日に当たります。地球の軌道は精度が良いのですが、少しだけぶれています。

この「少しだけぶれている」ことがポイントです。そのため、地球上では大きな気候の変化はありませんが、微妙な変化が地球の生命活動の刺激となり、生命の星として存在しています。金星のように完璧な軌道を描いていれば、そこでは変化がなく、生命は生まれません。カタカムナで言う、ヒフミヨイムナヤコトのコが転がり出るように、ギャップが生まれないと生命は育まれないのです(詳細については、「大人サミットBOOK・2日目午前」をご覧ください)。地球は太陽からこの微妙な位置にあり、微妙に軌道がぶれるからこそ、この微妙なぶれが生命を育むのです。

地球の外側にある大きなドーナツは火星の軌道です。火星は高速でこの軌道を描いています。火星は男性性・行動力を表す星です。太陽系の1兆分の1の縮尺では、地球の軌道は直径30cmです。

さらに、わたしたちが地球上に生まれ出た瞬間に、太陽系のどの位置に惑星があるかによって、わたしたちの人生は決まるのです。水星から火星までの内惑星からはその人の精神性、そして木星から冥王星までの外惑星からは社会性が読み取れます。ということは、太陽がわたしたちに影響を与えているだけではなく、星と星の対話がわたしたちの人生そのものを決めているのです。

皆さん、「自分は自分」だと思っていませんか?実は、星がわたしたちの人生に大きな影響をもたらしているのです。太陽がわたしたちの生きる意味を示しているのです。そう考えると、わたしたちは人間なのでしょうか?それとも、宇宙人なのでしょうか?このように捉えれば、わたしたちは宇宙人に決まっていますね。宇宙を生きるとは、常に天の気にお伺いを立て、「わたしは次に何をしたらいいですか?」「明日はどのような行動をしたらいいですか?」と天に伺いながら生きることなのです。それが、「天命を生きる」ということです。

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ここで「命(いのち)」という字を見てみましょう。天命は天の命と書きます。つまり、天から意志が降りてきて、いのちになったのです。ですから、わたしたちは「みこと(命)」です。「命」の字の中にある「口」は祭壇を示します。そして、「口」以外の部分は、人が集うという意味もありますし、神官が帽子をかぶり天に伺いを立てる姿を表しています。つまり、祭壇があり、天に対してひざまずき、「どのように生きたらいいでしょうか?」と伺っているのです。それが「命」です。わたしたちはいのちですから、常に天に向かって「どのように生きたらいいのでしょうか?」と伺い、天と共に生きることが本来の姿なのです。

ところが、現代人は天の存在をてんで忘れてしまい(チーン♪)、自分の都合だけで生きています。上に心を向けることもありません。たいてい、「何か落ちていないかな?」「良いことはないかな?」と都合の良いことばかり考え、下ばかり見ているのです。それが下の目線です。横の目線になると、同じ土俵で対立するわけですから、「自分が獲得してやろう」「奪ってやろう」というよこしまな心になるのです。

天を意識していると、天の意志が降りてくるのです。ですから、「いただく心」になるのです。わたしたちは宇宙人なのですよ♪ここで伝えたいことは、少し目線が変わると、まったく違う世界に出会うということです。

目覚めれば、世界はわたしです。
目覚めなければ、世界は世界、わたしはわたしです。

 

僕は今までこういったことを天からいただいてきたのですが、困惑していました。
それは語れば語るほど、変な人だったからです。
しかし、2012年12月21日に真中(まなか)を過ぎ、その後の3年半が過ぎ、質的転換した今年2016年6月21日をもって、何を語っても大丈夫だと思うようになりました。
それは、天が味方しているからです。
新たな時代の扉は完全に開いたのです。
そしてこれからは、語れば語るほど、「やはりそうだったよね!」と共鳴する人がたくさん現れてくるのです。
それは、今の社会現象を観ればわかります。
今、世界中の国も民族も社会も個人も、混乱しています。
ですから皆さんが、古い囚われから自らを解き放ち、新たな気分で天の気を伺いながら素直に生きていったら、この世界の問題事は自動的に消えていきます。

 

 


いさどんの七夜物語 – 第四夜 「余裕」

木の花ファミリーには、心を学び、自らの生き方を立て直すために長期滞在をする人が数多くいます。第四夜は、その中の一人であるきたじゅんといさどんとの面談の話から始まりました。

 

927 「余裕」

いさどん:
今日は、きたじゅんと面談をしました。そこで余裕やゆとりという話が出ました。
きたじゅんは生真面目で、自分を改善しようとしてみんなの話を聞いたり、探求したり、本を読んだりしています。そういった余裕がない状態では、気付きは生まれないし、直観は降りてこないし、心に柱が立っていないと思考もよこしまに回ります。もっと余裕を持っていきたいね、という話から、ところで余裕ってどういうことだろう、とカタカムナの思念の読み解きが始まりました。余裕ってようゆうよね(チーン♪)。はい終わり。

みんな:
え~~~~!!!

ファシリ:
ではまっちゃん、読み解きをお願いします。

いさどん:
そこで「まっちゃんお願いします」って言うでしょう。そうすると、まっちゃんばかりが冴えていきます。そこで自分も考えると、自分も冴えていきますよ。人に頼っていては変化しません。
僕は30歳でお釈迦様と出会い、一人でやっていた頃は神経を研ぎ澄ましてメッセージを受け取っていました。人に伝えるのに間違ってはいけないから、真剣でした。ところが39歳でシャーマンに出会ったら、とても便利がいいのです。シャーマンに魂が降りて来て人間の言葉で話してくれるので、こちらは神経を研ぎ澄ませる必要がなくなるのです。なんて楽なんだろうと思いました。
けれども、そのうちにシャーマンの方がボケ始めました。そうすると、シャーマンは自分で言葉を発しながら、「そうですよね?古田さん」とこちらに確認して来るのです。突然そう聞かれても、こちらはもう楽をしてしまってただ言葉を待っているだけの状態なので、まぁそうですね、と曖昧な返事になってしまいます。そこで、これではいけないということを思い知ったのです。便利がいいとはこういうことか、楽というのはいいことばかりではないのだ、と。

まっちゃん:
「ヨユウ」を読みます。「ヨ」はよこしま、混沌、「ユ」はゆらゆら、揺らぎ、「ウ」は渦、生まれる。

いさどん:
ゆらゆらと湧き出しているものが、混沌とよこしまに流れ、生まれ続ける。そう聞くと、日常的な価値観からすると悪いことのように聞こえるでしょう。けれども、それはゆらゆらとリラックスした状態でもあります。
この世界が潜象界から自動的に生まれ出てくる状態を、自分の考えでよくないものと固定して捉え、起きていることをしっかりと観ないで結果はこうだと決めつけているようなところが、きたじゅんにはありませんか。そこが、まじめすぎて余裕のないところです。
余裕とは何かと言ったら、そういった決めつけを全て手放して、新たなものが自動的に湧き出てくる状態です。緊張していると、囚われの中で思考がまわっている状態になります。ですから、囚われを外し、ゆるゆるの状態で降りてくるものを待っていると、天から降りてきたものを直観で感じ、受け取ることができるのです。そこで自らの考えに囚われていると、降りてきたものを逃してしまいます。

今日僕はなぜか、フッと紅芋のことを思いました。紅芋は沖縄で栽培されているものです。これから温暖化が進み、台風などの災害も増えていくことを考えると、気候に合った作物を育てていく必要があります。今、台湾は大変ですね。925hPaの台風が発達しながら近付いています。これからそのくらいの台風が日本にも来るようになります。そうしたら、背の高い作物はみんな吹き飛ばされてしまうでしょう。なるべく低くて風の影響を受けにくく、栄養価の高いもの・・・落花生とさつま芋!その中でもアントシアニンが豊富な紅芋!ということが浮かび、今種芋を探しているところです。畑が楽になるように、風が来ても心配しなくていいようにという、畑隊への応援でもあります。

そんなふうにパッと湧いたことを、あちらの可能性、こちらの可能性というように横に回して考えを広げていくと、余裕の「ヨ」のよこしまがとても有効に働くのです。けれども、パッと降りてくるものなしに「いいことないかな」「お金になることはないかな」ということばかり考えていると、本当によこしま(邪)になります。大事なところへ到達せず、自分の心を汚して、世の中に害をもたらすのです。
こういう話をアメリカの上下両院合同会議でしたいですね。「ベニイモ、ベリーナイス!!!」と。(みんな:笑)

この世界の発生の仕組みを表すカタカムナ第5首
この世界の発生の仕組みを表すカタカムナ第5首

まっちゃん:
「ヨ」はヒフミヨイムナヤコトとものごとが現象化していく時に、「ミ」から現象界の最初の微粒子である「イ」へ進むのに必ず通る道だね。

みかこ:
縦巻から横巻へと移るプロセスだから、欠かせないものだよね。

いさどん:
そうやって面談の場で余裕の話をしていて「もっとゆとりを持たないとね」というところから、今度は「ユトリ」を読み解こうということになりました。

まっちゃん:
「ユ」は揺らぎ、「ト」は統合、「リ」は分離、独立。統合したものが揺らいで分離、独立するということかな。

いさどん:
それではただ辞書を読んだだけですね。

みかこ:
揺らぐというのはすごく大事なことで、地球がもしも公転していなかったら春夏秋冬はない。すごくつまらない世界になる。

いさどん:
まっちゃんも、もう少しゆとりを持って読まないといけません。と、ゆっとりますよ。(チーン♪)
ゆとりとは、統合した状態の揺らぎです。不安定な状態の揺らぎではなく、完成した、宇宙を創り続ける揺らぎです。

みかこ:
芯のある揺らぎということだね。

いさどん:
マワリテメクルとは自転と公転を表しており、さらに星々は歳差運動をしています。そうしてもっと大きなものの周りをらせんを描きながら周っています。単に同じ場所をぐるぐる回っているのではなくらせんを描きながら進んでいるので、とても複雑なのです。
それが統合するということは、単純に我々の考える統合のようにきっちりとはまるということではありません。ムナヤコトと進んでいく中の「ヤ」は飽和安定、「コ」はそこから余ったものが転がり出る状態です。そして「ト」の統合とは、不完全な状態を加味しています。ですから地球が1年経って太陽の周りを1周しても、もとの位置に戻るわけではないのです。少しずつずれていきます。そして、太陽の進行に合わせて回転をしていますから、らせん運動をしているのです。
宇宙の星々の運動は、二度と同じ場所へは行くことがありません。それで、常に新しい世界へ進み、変化・変容・変態をし続けているのです。

みかこ:
宇宙は揺らぎ続けているから。

いさどん:
統合とは、普通に考えるとカチッとはまってそのまま同じことを繰り返すような感じがしますが、宇宙では変化・変容・変態を繰り返し、揺らいでいる状態で完成なのです。それが、宇宙(生命)の実態です。

八鏡文字の「リ」
八鏡文字の「リ」

そして「ユトリ」の「リ」は、それが分離、独立しているということ。「リ」の八鏡文字は真円ですから、現象界に現れてきていることを表しています。つまり、ことは自ずと現象界に現れ成っていくのだから、それをああしなければこうしなければと考えなくとも、自動的に成っていくということでもあります。座り心地のいいソファーに座って、待っていればいいのです。

そこで僕はきたじゅんに言いました。もう伝えるべきことは伝えました。あなたも学ぶべきことは学んだのだから、これ以上思考を回して結果を求めようとしないで、余裕を持って待っていればいいのですよ、と。

「ヨ」のよこしまや「ユ」の揺らぎというのは、我々の世界ではよくないことのように思われるかもしれませんが、宇宙はそういった揺らぎから生まれ、この世界ができているのです。ですから、生まれてくるままに任せておけば、時が来て、流れが生まれ、ものごとが自動的に成っていくのです。ところが人間は何かを経験するとそれを固定して考えるようになり、次もまたそれが起こってほしい、と執着するようになるのです。
そうすると余裕もゆとりもなくなり、「ヨ」や「ユ」の思念が恐怖や焦りに変わっていきます。そして余裕がないから待っていられなくなり、時も流れも無視して、自分から的外れなことを起こして、結果をもらうことになります。そして、その結果に不満を持ち、他者や世の中が悪いんだということにしていくのですが、それはすべて自分に原因があることなのです。

「ヨ」も「ユ」も「ウ」も、人間の精神状態によっては悪い結果を生み出す思念でもありますが、本来は、この世界の創造の元となる思念なのです。その人の精神状態によって、その思念がもたらす結果はどのようにでもなるのです。余裕とは、あまりもののことです。衣食住が足りて初めて人と成ると言いますが、それだけではまだ余裕にはならないですね。その他にも心の余裕があってこそ、その精神から転がり出たものが、物事の余裕を創っていくのです。

みかこ:
その場で1人で回っていることを自転と言うよね。そして大きなものの周りを周り出すと公転になるでしょう。地球で言えば、それによって春夏秋冬という余裕が生まれるんだよ。春だけでもなく夏だけでもない。

いさどん:
その字はおもしろいですね。自分だけが回転することを自転。他のもの ― 太陽や仲間たちと絡むと、それが「公」になり、公転と言います。それは、「みんなで」という世界です。

みかこ:
ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコトは自転から公転が発生するプロセスで、そこにゆとりが生まれてくる。

いさどん:
自分だけの存在(自転)から、他のものと連携(公転)して存在するようになる。

みかこ:
自分はここだけで回るんだ、といって固定しているとゆとりがない(独りよがり)けれど、みんなで一つの大きなものを周るんだね、ということになると、「自分」から「みんな」へという幅ができて、そこにゆとりが生まれる。そしてさらに太陽も、もっと大きなもの(銀河)の周りを周っている。同じところに留まっていると進化がないけれど、太陽自身も変化していくんだよ。

いさどん:
つまりゆとりとは、変化を認める状態のことです。ゆとりがなければ、同じことを繰り返して何も変わらないということです。

ヒフミヨイムナヤコトの、飽和安定した「ヤ」から「コ」へ進むとき、八鏡文字の小丸が一つから二つに増えて、そこに余裕が生まれます。

      ヤ
      ヤ
      コ
      コ

 

 

 

 

そしてその余裕が転がり出て、統合し、この現象界へ現れ出るのです。つまり現象界は、余裕がある状態から転がり出たゆとりによって生み出されたものと言えるのです。現象が起きていくことは、焦って求めなくても、時が来て流れができれば、自ずと成っていくということです。

みかこ:
私たちはゆとりの中で生きている。

いさどん:
カタカムナに出会って、単音の思念を解き始めたでしょう。おもしろいのは、地球暦の惑星の構造を当てはめるとそれがより深く理解できるということです。

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みかちゃんによって描かれた、人体と地球暦、カタカムナの関連を解説する図

カタカムナ人は、今我々がやっているように文字や図を書いて勉強することはなかったでしょう。紙がないのですから。頭の中には浮かべていたのでしょうが、今我々が考えているような形では浮かべていなかったでしょう。気配で観ていたということですね。気配とは確定できないものです。
それが、紙ができ、認識が固定化されることによって、立体的なものがイメージできなくなり、物事を平面で捉えるようになりました。それがさらに進んで、今のような表面的に浅いところしか物事が見えない時代が来ました。そして、そのピークを迎え、今またターニングポイントが来て、人々は気配を感じ取り思考する段階に入ったのです。

心の柱がないところでは、人の想いの歪みや濁りは際限なく膨らんでいきます。そこで柱を立て、それを基準にして、歪みや濁りをチェックしていく必要があります。せっかくいい話を聞いても、自分の中の歪みや濁りがチェックできていなければ、その話がきっかけとなってさらに新たな歪みや濁りを発生させていくこととなるのです。カタカムナを学んでも、チェック機能を働かせなければ、それを有効に使えるわけではないのです。

こういったことを探求するには、集中力が要ります。きたじゅんのことで言うと、彼がこれから自分をどの方向へ導いていくのかという心の意志がないと、現実に成っていかないのです。本人に学ぶ気がなければ身に付かないのですから。
ものごとがヒフミヨイムナヤコトと進んで現象化していく時、「ミ」は「満つる」ですから集中している状態です。その次の「ヨ」の混沌は、それを熟成していると言えます。それがまた満つったり熟成したりを繰り返しながら、この世界に余裕が生まれていくのです。
面白い話が聞けるからといって、自分が主役であるということを忘れてただこの場に付き合っていると、だんだんボケてきます。(いつもウトウトしているりゅうしろうくんに向かって)りゅうしろうくんはただ眠気と戦っている状態です。眠くなるのは、このことを一番大事とせずに、心がどこか他のところを向いているからです。そして一番大事な時に、満つった状態を持って来れないのです。そこを振り返らないと、今大事だよ、という時にボーっとし続けることになります。心を閉ざして表に表さないと、どこかで思考の無駄をやっていても、それが人からは見えないのです。
ですから、それを解消するには、自分の中を正直に表に出す意志が必要です。けれどもりゅうしろうくんはそれをとかく怠っているので、観えないところでエネルギーをロスし続けています。そういったことを真剣に考えていかないと、物事にたくさんの無駄が発生していても、それがわからない状態でいることになります。

僕は一人ひとりに問いたいのです。あなたの存在が、あなた自身に何をもたらしているのか。あなたの存在が、社会に何をもたらしているのか。それを理解しないと、本物の生き方はできないのです。
ここではそういったことを世の中に発信していますが、それは自分自身に対して問うべきことなのです。僕は人に伝えれば伝えるほど、自分はどうだろうか、自分はどうだろうかと、誰に問うよりも厳しく問うています。そうでなければ、ニセモノになるからです。ニセモノになるのか本物になるのかは、ここが別れ道なのです。

今日は27日です。明日は満月です。2015年の秋分を越えて、最後の四半期に向かう時の満月です。明日は満月だな、と思っていたら、ある知り合いの弁護士さんから「明日は満月ですね」というメールが届いていました。秋分の前日には、また別の人から秋分の意味を知らせるメールが届きました。みんなそうやって与えられるのです。
自分のああしたいこうしたいという考えで、この世界はできていません。この世界に生命として存在する意味を忘れて、自分を優先すると、世の中に害をもたらします。それが今の人間の姿です。それを正すために、我々はこの生き方をしているのですから、それにふさわしい役割を果たすためには、半端な心でいてはいけないのです。

りゅうしろうくんに、そのことをわかれとは言いません。けれどもあなたの意志で、それをわかる気がないとしたら、この道を進むのはやめた方がいい。それでは、みんなの歩みの足かせとなるからです。
いつも何を考えているのか、自分の心の中を観てみるといいでしょう。全体のことを常に考えていたら、今のこの場は必要ないはずです。もしもそれがわからないとしても、わからないからこそ、全体のためにどうしようという心構えが必要なのです。
僕は、あなたのようにものごとをひねって捉える人をどうやって全体のために活かせるだろうかと、常に考えています。それは僕のためにやってほしいということではなく、これはとても大事な道ですからあなたも行きませんかと言っているだけです。それは自主的な意志の上にあるべきなのです。

こういった話も、本人に受け取る姿勢がなければ、なんだかわからない話を言われたと思うだけでしょう。そうやって相手を尊重していくことが、多様性のある捉え方ですが、本人が「自分に足りないことを伝えてくれている」というように受け取れれば、それはありがたいことになります。

りゅうしろう:
全体意識というのが言葉だけで、魂が入っていなかったというのがわかりました。

いさどん:
大事なのは、ではどうするのかということです。僕はいつもそこを観ています。昨日まっちゃんが大人ミーティングの後に「ゆうくんにこれからどうするべきかを伝えていないけれどそれでいいんですか」と聞きにきました。そんなことは伝えるわけがありません。なぜなら、一番大切なのは本人の意志だからです。僕が伝えてその通りにやったとしても、それは本人の意志ではないのです。そんな場所は創りたくないし、それはここの目的でもありません。
今あなたはどういった意志を持つのか。それは、あなた自身の意志が問われているのです。言葉だけでは、現象には顕れていきません。僕は今りゅうしろうくんに語りかけていますが、それはみんなにも言えることです。

まこっちゃん:
僕は、自分なりに一生懸命やっているつもりでした。

いさどん:
その「自分なり」というのは、自分というものを自分の頭の中だけで考えて、人の役に立っているかどうかは関係ない状態です。ここで言っているのは、あなたという人がみんなのために役に立って、あなた自身が輝いているかということです。

まこっちゃん:
それがよくわからなくて・・・自分では自分なりにみんなのことを考えているつもりなんだけど。

いさどん:
それは、「自分なり」の内容が違うのです。それはあなたの選択だから、それはそれでいいのですが、そのあなたなりが、全体に何をもたらしているかが問われるところですね。

こうちゃん:
ずっとまこっちゃんはその「自分なり」を続けてるんだよ。自分なりにやってる、やってる、と言い続けて、外から観える視点を受け取らない。

まこっちゃん:
それで自分なりに結果をもらっていくことだと思ってた。でもそれが全体にとって問題だと言われて・・・

いさどん:
問題はそれを改めていくためにあるのだから、改める方向にエネルギーを使えば問題は有効なものになるんだよ、という話をしているのに、どうして問題のままで止まってしまうのですか。問題と言われたら問題ではない自分になるだけなのに、問題という言葉にヒットして止まっているのです。

まっちゃん:
そこは超えるところだよ。

まこっちゃん:
だから問題にならないようにしようと思ってた。

ひとみ:
だけど実際に問題になってるんだよ。それを問題だよと伝えるのは、その奥に、有効に変わるようにというまこっちゃんを想う心があるから伝えるんだよ。

いさどん:
私はこういう意志を持ってこの道を歩みます、ということが明快になっていれば、今目の前に起きている問題ごともすべて自分の意志であるということがわかります。それが責任ある生き方です。そうやって生きる人々がそれぞれに個性を持ちながら集うのは、銀河がそうであるように、まさしく宇宙の構造です。しかし今の人間の実態はそうはなっていないから、ことが成らない考えの上に平和や豊かさを求めているのです。
これは自分の人生がどうのというような話ではなく、人類のテーマでもあるのでしょう。ですから、国連で演説するべき話なのです。

自分の意志で立ち、自分の意志で生きなさい。その意志を表明した者と新しい世界を創っていくのが、この場です。

七日七夜で質的転換をします。秋分の区切りを経て、2015年の最終コーナーに入りました。いったいどこへ行きつくのでしょう。
今目の前に起きている問題ごとから逃げれば苦しみから解放されるのかというと、そうではありません。その苦しみは自分自身が作っており、物語は常に続いていくのです。
どんなことからでも学んでいけば、自分を高めていくことができます。逃げれば、その問題の種は常に自分の中にあり続けます。それは当たり前の話ですが、自分に囚われていると、言葉は聞こえてもその当たり前のことが理解できないのです。けれども冷静になれば、これは当たり前の道理の話だということがわかるはずです。

こうして伝える場は、ある意味、厳しい場でもあります。なぜなら自分と向き合わなければいけないからです。みんな自分と向き合わないから、問題と出会うのです。それを自業自得と言います。本当ならば、一人ひとりが潔く自分と向き合えばこんな場は必要ないのです。それどころか讃え合って毎日を生きることができるでしょう。
けれども僕は、みんなにこういうことを超えていってもらいたいのです。だから今、この場があります。その先に、僕が何かを企んでいると思いますか?

みんな:
思わない!

いさどん:
企んでますよ!(笑)
何かと言ったら、天意を降ろして新しい時代の見本となる場所を創ることです。

我々は、何かを所有してはいけません。愛は持っても、情は持ってはいけない。情は人間の世界では大切なもののように思われていますが、それが様々な歪みを生んできたのです。
情がないと薄情なように思うかもしれませんが、そうではありません。情を薄くすればするほど、愛が蔓延し、真理がこの世界に広がっていくのです。

70年前に戦争が終わり、日本人は大和魂を失いました。それはある意味いいことでもありました。なぜなら、その大和魂は歪んでいたからです。だから戦争をしたのです。けれども、同時に本当の大和魂も失いました。
そしてもう一つ失ったものがあります。それは父性です。父性とは、カタカムナのトキとトコロで言うトキ軸であり、柱なのです。その物事の軸となるものを失ったのです。軸を失った思考はよこしまになり、西洋にかぶれ、男たちはだらしなくなりました。
男がだらしなければ女がしっかりしなければいけないのですが、女たちも愚かで、表面しか見ずにだらしのない男を褒めそやすので、柱のないまま表面的なことだけを取り繕って評価されようとするせこい男たちができあがりました。

本当の意味で、「地震、雷、火事、おやじ」というのは大切なのです。地震は天の意志。揺るぎない柱を持つことにより、自信につながります。雷はこの世界に豊作をもたらすものです。火事は火ですから、所有しているものをすべて帳消しにして、この世界の始まりであるヒフミヨイの「ヒ」に戻してくれるものです。それは、ダメであったら一からやり直すだけの覚悟の「ヒ」です。日本人は地震も雷も火事も恐れていますが、あっては嫌だと思うものが、実はとても奥が深く大事なものなのです。
そして、おやじはいるとうっとおしいかもしれませんが、それが柱を立てていたから秩序が保たれていたのです。それが本来の大和魂の姿です。

僕の性質上、時にはこうした厳しい言葉を発しますが、それがどれだけ愛情深くてやさしいことであるか、わかりますか。

さて、僕の役割は十分に果たしました。これ以上話すと道理を説いているようで説得することになってしまいますから、今日はこれで終わりましょう。
こういったことがここで語られているということは、宇宙にそれが発生したということであり、世の中にそれが伝わっていくということです。それは、まさしく新しい時代が始まったということなのです。

 

 

 


いさどんの七夜物語 – 第三夜 「探求」

9月26日朝、ファミリーメンバーのゆうくんが、いさどんに以下のメールを送りました。

「今朝起きてすぐに、このままの自分の姿勢では今世の役割を果たすことができないと思いました。僕がここにいる一番の目的は、地球を光の星にしていくという天からいただいた役割を全うして、後世につなげることです。いさどんがテコ入れをしてくれるということで、どこかホッとしている自分がいました。その与えてもらおう、やってもらおうとしている姿勢が、一番の問題だと思います。だから、今日のミーティングではまず自分自身が自己分析を行います。その上で、より深くて濃いものをいさどんが語ることで、全体がより活性化する方向へ行くと思います。」

そしてその夜、ゆうくんは予告通りカルマ読み、地球暦、カタカムナを使って大人ミーティングの冒頭に自己分析を行い、数人のメンバーがコメントした後、いさどんが語り始めました。

 

926 「探求」

いさどん:
今、うちにはカルマ読み、地球暦、カタカムナという3つのツールがあります。道を極めていく人にとっては、とても便利なものです。こんなに重宝なものを与えられたということは、やはりこれからの社会に対してここが果たすべき役割があるのだろうと想像します。
どのツールもとても奥が深く、極めることはなかなか難しいです。一つの法則(一人ひとり人間は独立した精神的法則、カルマを持っている)を読み解くものとしてそのツールがあったとしても、時代は進化し、価値観そのものが変化していきます。大事なことは、そのツールを使って何か固定された結論を出すということではなく、それを常に活かして生きていくということです。それは、変化、変容、変態を繰り返す宇宙の実態と共にある生命の姿です。

生きるということは、常に変化・変容・変態を繰り返すことですから、時と共に読み方や読んだ結果が、求める方向と違ってくるものなのです。今の時代に求められているのは、真実は何なのか、ということです。
昨日、木の花のニューズレターが完成しました。そこには、今、時代がターニングポイントを迎えていることが書かれています。

  木の花ファミリー通信 第83号
木の花ファミリー通信 第83号

ターニングポイントとは、切り替え時ということです。切り替え時とは、今まであったものがピークを迎え切り替わるということであり、今までの価値観が古くなってきたということです。そして、その古くなったものを持っていてもダメですよ、新しい価値観に切り替えなさい、というメッセージがその時代の様々な出来事からも感じ取れるようになるのです。

この宇宙は常に変化・変容・変態をしており、人間以外の生き物は、常にそれと共にあります。時代が変わろうとどうしようと、何の抵抗もなくそれに付き合っていきます。しかし人間は能力が高いですから、常に何かを願望として求め、行動します。その時に、その表現の結果を通して、自らがこの世界に存在する意味を悟ればいいのです。

自分から発した想いを行動に移して毎日を生きると、その行動にふさわしい答えが結果として返ってきます。この世界は、起きたことに相応しい結果が常に連なっている因果応報の世界であり、そこは無駄のない、完璧なフリーエネルギーの世界です。フリーエネルギーとは限りがなく、無駄がないようにできています。無限なる縦糸と横糸が織りなす織物のように、一つのことから全てのものにつながって、最終的には全ての世界が一つの生命体として存在しているのです。

一人の人の性質として、欲が深かったり、汚れや歪みがあると、自分の都合の良い世界を求めます。そして自らの行いの結果を受け取るよりも、都合の良いことを求める心がどんどん膨らみ、その矛盾に相応しい滞りが現れるようになります。ある意味、この世界は鏡ですから、自らの行いが世界の法則から外れていると、その矛盾を忠実に映し出し、私たちに示してくれるのです。

この世界は、宇宙の星と星との関係性や、陰陽のバランス(対抗発生)からくる流れ(法則)によって維持されています。そして、例えば原子のような小さなものから、私たちの肉体や、太陽系や銀河のような大きなものに至るまで、全てが同じ仕組みで成り立つ相似形の構造になっており、そこには、この世界を推し進めていく流れ(正の方向)と、滞らせる流れ(反の方向)があります。私たち生命は、本来正の方向に進むことによって維持され繁栄するものですが、人間の世界では、時に反の方向へ進むことがあります。それは、反へ進むことによって正の方向とは何であるのかを理解するためであり、それだけの特別な能力が人間には与えられているということです。

時代は、正反をサイクルのように繰り返しながら進んでいます。そして人間は、反の方向を表現するために、あえて破壊の行動を取ることもあるのです。正の方向へ向かっている時はそのまま進めばよいのですし、反の方向へ向かっている時は正を理解するためにあるということです。それを大きく観てみれば、結果的に、全ては宇宙の法則のままに、正の方向に進んでいるのです。

現代は、反の流れがしばらく続いていたがために、反を示す現象がピークを迎え、切り替え時に来ています。しかし、長年それに慣らされてきた人間の中には、自らを所有する心があり、時代が切り替わる時が来ても、反の方向に向かう姿勢を切り替えることができない状態にあります。
人は毎日を生きていますが、生きるということは、この世界の循環の中で生かされているということであり、その循環に意識が組み込まれることによって、自らの力によって生きているということは何一つあり得ないことに気付くのです。しかしそんな世界の中で、自らが生きているという意識になると、人は自らを所有するようになります。そうすると、反に向かう自らの姿勢に気付くことができず、反から学び、正の方向へ切り替えることができません。ですから、その姿勢を理解するためのこの世界からの示しとして、人間社会に混乱がもたらされていると受け取ることもできるのです。

そうやって世界が自らに忠実に返してくれたものを、「自分はこの世界に生かされている」「この世界と共にある」という発想があったら、この現象は世界からのどんなメッセージだろうか、と受け取ることができます。しかし、自分がこうしたいという自我の考えを優先していると、自らの矛盾によって与えられた結果をいただくという思考回路は停止してしまうのです。ですから、気付くべき時に気付かない。
いつも話している話ですからみなさんはよくわかっていると思いますが、わかっちゃいるけどやめられないのは自我が優先しているからです。問題が発生して行き詰まっていてもやめないのは、自分というものに囚われているからです。単純にやめればいいだけのことであっても、その不完全な自らを所有してしまうと、その状態が自分らしいと思い、それにすら愛着が湧いて手放せなくなるのです。それが情というものです。情は、自分に対してもそうですが、身近な人間関係やものなどにも湧いて、囚われるようになります。

人間以外の世界には、そのような囚われはありません。宇宙があり、地球の自然生態系があり、たくさんの生命がいてその中に人間社会がありますが、今のところ人間社会にしかそういったものはないのです。動物たちの生態の中には、例えば親が子どもを守るという本能的な行動がありますが、それは情に囚われているということとは違いますね。それは、種を保とうとする機能が働いていることの証です。
人間社会には、おもしろい現象があります。人間には欲の心があるので、自然界では寿命が尽きているものでも、人工的に命をつなげているものがたくさんあるでしょう。逆に、人間が、寿命がまだあるものを殺して命を粗末にしていることもたくさんあります。
病気も、本来この世界からのメッセージとしてあるとしたら、治してはいけないものもあるのです。それを単純に病気はない方がいいという考えから、近代医療を発達させ、病気の根本の意味を受け取ることをせずに治療だけをして、医療を飯の種にしてきたのです。
政治も経済もそうですね。本来の目的から逸脱しているのです。

今こうして話しながら、ふっと、そろそろ本題に入らなければと思いました。
昨日の時間があり、そこから継続して今日があります。地球は自転を一回転しましたが、同じ場所で一回転したわけではなく、らせんを描きながら未知なる先へ進んでいます。そうすると、昨日種を蒔いたことが今日どう発芽するだろうかと思っていました。
僕が最近のこの場から感じているものをデータにすると、あまり明るい感じではありません。とは言っても、同じ場所でぐるぐる回っているわけではなく、新しい今日があるわけですから、どこかに突破口があるのだろうと思いました。そして自分の生きるこの道を信じている限り、どんな障害物もこの道の意味を伝えてくれるものであり、ここへ行きつくために今までのいろいろがあったのだ、という考えのもとに新しい朝を迎えました。
そうしたら、ゆうくんからメールが届いていました。僕が投げかけたことに対して「おお、そういう気持ちになったか」とかすかな希望を持ちました。

僕は、いつも彼の姿勢を観ています。彼だけでなく、みんなの姿勢を観ています。そしていつも、みんなが自ら進んで自分の枠を突破していくことを望んでいます。僕が刺激を与えなくても、それを自分からやり出すのを待っています。
なぜ待っているのかというと、刺激を与えたからやるのではただの条件反射であり、その人の意志ではないからです。それでは本当にその人の実力にはならないのです。刺激を与えられてやるのでは、常にまた刺激を必要とする状態になります。それでは僕の望む方向にはならないし、我々がやろうとしていることの目的からも外れます。宇宙や自然の法則とも違います。だからやっぱり、時間がかかっても、じれったく思っても、こういう生き方をしている限りは必ずどこかに答えがあるのだろうと思って、粘り強く毎日を送っています。
そこからすると、ゆうくんを観ていて、こういうタイプの人に任せておくといつごろになったら自分から目指すのだろう、ずーっと待ち続けてそのまま終わってしまうのかもしれない、だけど下手に芽を出せと言うとプレッシャーを与えかねない、と思っていました。

木の花があるということは、本当に、大いなる善意であるのですよ。世の中は行き詰まっていますが、人々はまだ気付いていません。経済にしても環境にしても、このまま行ってはいけないということはいろんなデータが証明しているのに、世界のリーダーはそれをさらに進行させていく政策を積み重ねています。何か痛いものをもらわないと転換できない状態になっているのです。
我々は時代の切り替えの時に出会い、これから確実にこの生き方が必要になるということをわかった者として、社会の無理解があったとしてもこれをやり続けているのです。それには強い精神がいりました。それこそ、自分を変人だと思わなければやれませんでした。

しかし最近はそうではないですね。明らかに時代が移り変わり、社会的にも、この道への追い風が吹いてきました。まだ大部分は無理解ですが、明らかに追い風が吹き出していることを、我々は肌で感じ取っています。そしてそれがわかればわかるほど、この道を進むことに対してエネルギーが湧いてくる構造になっています。
困難を乗り越えるほど、やっぱりそうだ、と疑いや不安の気持ちが払しょくされて、希望が湧いてくるものですし、そうなればなるほど、世の中がまだ寒い冬であっても、その奥にある春の息吹を感じ取れる人にならなければという衝動が湧いてくるはずなのです。

確かにみんなの中にもその欲求はあり、それが一番なのでしょう。ですが、一番なら一番に優先するべきなのに、どうもみんなの中にそれを一番に優先する心が生まれてこない。それはなぜなのだろうと考えると、最初に話したように、「自分」というものの中の癖の部分に囚われ、情があるからです。自分の不自然なところ、道理から外れた反の方向を生む精神に対してまでも執着し、それをそのままにするのです。ですから、そういった状態で自らをきれいにしようとする道を歩み出すと、窮屈に感じるのです。

世間の多くの人はそうですね。ここに来て「休日は?」「給料は?」「自分の部屋は?」「自分の時間はないの?」ということばかり聞く人がいるでしょう。だけど、そのような人でもこういった生活には憧れるのです。本当に自分と人との壁を超えて共に暮らすって素晴らしいね、自給自足って素晴らしいね、と言うのです。なぜ自給自足が素晴らしいと言うのかと言うと、世間で自給自足でない生活はお金の関わる駆け引きばかりで、それに嫌気がさしているからです。それでこういった暮らしに憧れるのですが、いざ自分がやるとなると、自分への情の方が勝って、やれないのです。

ここでも同じですね。ずーっと大事なことを勉強してきて、さて、いざそれを表現する生活の中で自分と向き合う場面が来た時に、自分の我が優先して、些細なことで滞ったり、衝突したり、人の話が素直に聞けなかったり、ということが起きますね。それらはすべて自分のチェックポイントなのですよ。その必要性がわかっていたら、ひたすら自分にチェックを入れるはずです。でもそこから逃げたいのですよね。
今年はゆうくんがマコモの担当でしたが、マコモは十分に育たず、そこにゆうくんの心が表れていました。マコモだけでなく、僕がずーっと観て回ると、そこら中に滞りが観えるのです。けれども、そんなふうに監視人がいるような場所は豊かではないし、僕の望みでもないですから、実際には監視しているわけではありません。だけどたまたま縁があって行った場所で、滞りが観えるのです。その一つの事例としてマコモがあります。

その場を観ると、どのくらいの心のふりかけがかけてあるのかが観えてきます。ふりかけが少ないほど、そこは貧しい場所になります。我々は、そういった心配りが常にできるように、日常の中で学んでいるのです。
ちなっぴーが養蜂をやりながら、今こんなふうに花が咲いていて、こんなふうに蜂を育てていて、こんなふうにやったらこんなふうに蜜が採れたんですよ、とみんなにシェアするでしょう。蜜巣を分離機に入れて、下の蓋をパッと開けると蜜がとろーっと出てくる。豊かじゃないですか。何か「ありがとう」という感じがあるじゃないですか。

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ちなっぴーはなぜそんなことをするのでしょう。みんなでそんな写真を見たって蜂蜜を舐められるわけじゃないし、わざわざそんなシェアをしなくても蜂蜜がどれだけ採れたというデータだけもらって、それがいくらで売れて、我々の生活が安定すればそれでいいじゃないですか。現代的な生きるということをするのであれば、それで十分です。

けれども、そこには人の心の姿勢が織り込まれています。その生命がどのような履歴をたどって現状に至ったかというのは、すべて心が発する波動として残っているのです。だから、化学肥料や添加物を使うような人であれば、そのような心の履歴が波動となって、そこに残ります。
こういった人工に汚染された時代に、それを超えて、その悪影響を無しにできるだけの能力を我々は与えられています。それが、自らが高次元の波動を発する者になるということです。潜象界から発生する正しい響きを発することによって、現場をイヤシロチにし、歪んだ生命を正しく美しくして、それを食べ物として、生活の糧としていただくと、それは我々に健全さをもたらしてくれるのです。

本来、人間が汚さなければ、こんなことはする必要のないことです。医者がなぜいるのかというと、人間が歪んでいて病気をするからいるのです。しかし今現実に、人間は途上の状態にあり、大事なことを悟っていないために汚れや歪みが蔓延していますから、そのような人間修理屋さんが必要なのです。

一方、これだけの道をいただきながら、みんなの現状はどうかというと、まだまだそのメカニズムを学んでいる段階で会得していません。もしくは、会得する気がないのかもしれません。気がないとはどういう状態かというと、自分の我を優先しているということです。

ゆうくんは先ほどカタカムナで、自分の人格を分析していました。地球暦も、切り口が違うだけで同じことを表しています。そこにカルマ読みから観える2文字陰性男子の心の形が反映されて、今の人格が出来上がっています。3つのツールによって、ここまで人を読み解くことができるのです。
しかし、そういうふうに観たところで、それをどう活かすかという考え方がなければ、興味深く捉えるだけのことで終わります。地球暦でも、自分の都合や、相手が喜ぶように読む人もいます。そうすると「わぁすごい」「私も読んで」とミーハーの人たちを集めますが、その後に何が残るかというと、実際の生活の中には何も活かされないのです。

僕はそれをおかしいと思いました。何も活かさずただ表面的に喜んでいる人を作って、次の勉強会にも来てもらってそれを飯の種にできれば、提供している人の目的は達成されるかもしれません。しかしそれはある意味、人を迷わせていることになるのです。
僕はそれを変だと思うから、いろいろ考えて、読み方を進化させました。そしてそれが仕上がって来たなと思った段階で、カタカムナがやって来ました。

ゆうくんは今、自分を読み解きましたね。読んだ後に、ここまでが自分の限界ですと言いましたが、どういった力で読んだかというと、与えられた知識を使って解析するという、知識的な脳でそれをやったわけです。それは、近代文明が発達するのにとても役に立ちました。誰もが本を読めばその知識を得られて、機械でも何でも扱えるようになります。けれども、そうやって誰もが扱えるようになって便利になりましたが、そこでその便利さに慣れると、今度はそれがなくてはならなくなるのです。依存症ですね。そしてそういったものが広がっていく奥にあるのは、「お金になる」という心です。

しかし、インターネットでも何でも、それを有効に使う力があればいいのですよ。お金はその代表的なものです。お金を正しく使う力があれば、それは害にはならず、世の中を善くしていきます。けれどもお金に使われているようでは、お金を使ってこの世界を支配しようとしている者に支配されている状態で、そういう世界を自らが作って、混乱をまき散らしていることになります。

ですから、今ゆうくんはこうやって自分を読みましたが、それをどう日常の中に活かしていくかが大事なのです。ここではそれをやっているのです。
セミナーなどではそういうことはしません。お金を得るために聞こえのいいことだけを言います。宗教でもそうでしょう。信者が悟ってしまったらもう通わなくなってお布施をもらえなくなりますから、悟らせないようにしています。だから教祖や経典が必要なのです。必ず上の立場の人がいて、下にいる者は未熟だから一生すがっていきなさいという関係が出来上がります。
そういったことがとても大切にされてきたのが、これまでの時代でした。しかし、これからは、教祖の言葉からでも経典からでも自らの気付きからでも、真実をつかみ取り、一人ひとりが日常の中にそれを活かし、個性的に生き生きと生きる時代になるのです。

そうしたらゆうくんの自己分析も、どう生きるかということにつなげるのが大事です。例えばマコモの生育を通して自らの性質が観えたとしたら、作付計画から今年の結果までを振り返って、どのような心をそこに反映してきて、結果がどのように現れたかということを観るために、これがあったのです。
マコモの栽培に限らず、どんなところからでも自分の性質は観れるのですよ。ものを壊したり車をぶつけたりするでしょう。そういった出来事を受けて、そこから素直に自分を振り返って客観的に観る心があれば、カルマ読みや地球暦やカタカムナというツールがなくても、日常の中で自らを正確に知ることはできるのです。生きるということ自体が、本当の自分との出会いですから。
しかし、人は主観が強く、それをなかなか観ることができません。そこで、ありがたいことに、こういったツールが与えられたのです。

僕はずっと、あなたにとって一番大切なことは何かを明確にして生きましょう、そして毎日緻密に自らの心の姿勢に向き合い、その動きを一つひとつ観ていきましょう、と伝えてきました。しかしそう伝えても、みんなにはその大事さがなかなか響かないので、ここへ来てこうして一人ずつ分析していこうかと考えました。それでみんなが自覚を持って、気持ちの良い場になったらいいと思っていました。

昨日は「みんなで」ということを語りましたが、さて今日のテーマは何にしよう、ということを考えながら歩いてひまわりまで来ました。今日は、何だと思いますか?

まっちゃん:
3日目?

いさどん:
うん、今日はヒフミヨイの「ミ」ですね。ようこちゃんも「今日は3日目だね」と言っていました。
僕が思ったのは、今日のテーマは無いな、ということです。そうしたら、その無しだというところからテーマが出てきました。今日はゆうすけだな、と。
この人が何を言って、どう始めるかによって、それを受けて僕が解説をする。それはカタカムナの思念で解説をするのではありません。今朝彼からのメールを読んで、僕は少し希望が湧きました。それで今日も行こうと思ってここへ来た時に、彼が行動を起こしたのだから、それをネタにして話をすることが浮かんできました。
彼は日頃から地味に、まじめに、奥の方で何かをやっています。スカッとしている感じはしないけれど、まじめだから本人に託そうか、という感じで僕は観ています。けれども時々何かを壊したり、けっこう大きな現象をもって存在感を示す時があるのです。そんな意志表示は嬉しくないですね。そういった彼が、日ごろは地味で目立たずにいるので、そのバランスが取れたらいいのになぁと思っていました。

もっと意思表示をしたらいいのです。ミスをしでかして注目を集めるのではなく、自ら意思表示をすればいいのです。それが不完全ならば客観的なチェックが入るし、完全ならば評価されます。そうやって日頃から地道にチェックしていれば、大きくずれることはありません。
ところがゆうくんは日頃のチェックなしに時々打ち上げ花火のように現象を起こし、また地味に戻って、しばらくするとまた打ち上げ花火を上げるので、進歩がないのです。やはり、日ごろから積極的に自分を出すことが大切です。
誰かに出せと言われて刺激をもらって出すのではなく、刺激をもらわなくても、常に素の自分を出せることが大切ですよ。現象も何も起きていなくて誰からも見えないけれど、自分の心の中にこういった想いがあります、というようなことをシェアできたら、それは自分をチェックすることを最優先にしている人の姿勢です。

(ここでカタカムナ、地球暦、カルマ読みを使って、いさどんによるゆうくんの読み解きが行われ、ゆうくんの性質が客観的に明快になる。
*カタカムナ、地球暦、カルマ読みについて詳しく知りたい方は、2016年2月~3月に開催される木の花塾「1ヶ月間の真学校」へご参加ください。

いさどん:
「観る」というのは、その人の本質を観るということです。自分の姿が客観的に観えたら、どこをどうすればいいのかがわかるものです。その根本的な性質を掴みとっていない状態にしておくと、それがどのように人生や社会に影響しているのかが理解できません。「観る」ということは、自らの性質を理解し、その扱いをマスターし、自己コントロールすることです。
チェック機能が働くとは、自らに芯があり、ブレない精神があるということです。例えば、ネガティブな思考に振られたり、ポジティブでも行き過ぎると害が起きますから、そのどちらにもブレずに自らの状態を常に安定させ、冷静にチェックする揺るぎない心の芯が通っていることが必要なのです。

みかこ:
ゆうすけの「ユ」は揺らぎの思念を表しているけれど、揺らぐのは別に悪いことではなく、星だってすべて揺らいでいるんだよね。ただ、そこに芯が通っている。振幅があって、どこに位置するかということ。

いさどん:
揺らぐということは、この世界ができる時に絶対に不可欠なとても重要なものです。揺らぐからこそ、この世界の多様性ができているのですから。

みかこ:
それをカルマとして表現すると、芯がない状態になる。

まっちゃん:
ゆうすけの「ケ」の思念は、気配は感じるが目には見えないもの。曖昧な状態だということ。

いさどん:
そうですね。今は何だかよくわからない状態で反応しています。しかし逆に言うと、気配をパッと感じるということをしたら、曖昧どころか、形の奥にある目では見えないものが明快に観えるようになるということです。
気配を自分のクセのままに恐怖に感じていたら、暗闇の中では、猫がいるだけなのに、お化けがいると思い込むこともあるのです。ですから、自分がどういった性質をもって物事にあたっているかをチェックする安定した判断力を持つ必要があります。それが芯が通っているということ、柱が立っているということです。
情報を捉える時の出発点が善意に立っているのか、悪意に立っているのか、自分自身で自分の心の立ち位置をチェックするのです。

僕が日頃ゆうくんを観ていて感じていたことと、先ほどカタカムナで読み解いたことがぴったりと一致していました。感性が豊かであれば、カタカムナなどのツールがなくても人を正確に捉えることができます。これらのツールは明快に体系化されていて、理解しやすいものです。しかし気を付けなければいけないのは、学んだことに囚われて知識的に覚えるようになると、本当の判断力は身に付かないのです。
人は学ぶとついつい利口になり、わかった気になります。そうすると、もう新しいものは入ってきません。探求のためには、常に自らをからっぽにしておかないといけないのです。
カタカムナは立体ですが、それを図にして二次元で表した途端に人はもうその二次元思考に囚われています。そうではなく、立体的に捉えるのです。それは単に図形を立体的にイメージするということではなく、思考を立体的にし、私たちの三次元世界に反映させ、活かすことです。

ゆうくんは知識としては自己分析をしましたが、ではそれを自分自身にどう活かしていくのか。例えばマコモのことで言ったら、僕だったらもう来年の作付を考えます。今の対策はするし、どうしてそうなったのかも振り返りますが、すでに来年の対策を考えていきます。そしてある程度勉強するとその段階を卒業します。同じことをやり続けるのではなく、次の段階へ行くために。それをやらないと、同じようなことをやって、同じような答えを毎回もらうということを繰り返すことになるからです。

カタカムナの思念は正確にその人の性質を示しています。人はそれを聞いて「本当だ」と思いますが、それで終わってはいけません。
人には、この世界に生まれる段階でのカルマ形成や思念の成り立ちがあり、それがスタートラインとなって、人生の中で物理性を表現していきます。それをノーチェックで生きると、その性質のままに生きることになります。セミナーや宗教で学んでも、自らの性質を超えている人はほとんどいません。それは、目的が自らの性質を進化、成長させることではなく、その人の願望を叶えることにあるからです。

では、自らの自己分析をマスターしてどうするのかと言うと、自身を理解することによって、自らを有効利用するということです。ですから、カルマがなくなるわけでもなければ、個性がなくなるわけでもありません。自分は自分のままで、それを有効利用するのです。利用せずに感情を野放しにして生きれば、いろいろな意味で、大小様々な害をもたらすことになるのです。

ひとみ:
今のゆうくんの様子を見るとあまり反応がなくぽかんとしている感じで、何を思ってるのかわからない。

ゆうくん:
いや、その通りだなと思ってました。

いさどん:
今、あなたの心の中ではその通りだなと思っていたということですね。だけどひとみちゃんからはぽかんとして見えるというのは、あなたが発している空気を感じてそう言っているのですよ。つまりあなたの奥の方で揺らいでいるものを、明快に外に向けて出していないということです。それでも、あなたの姿勢からはこの道を極めていこうという意志は感じられるので尊重しますが、どことなく心もとない感じはあります。
今までのゆうくんは、時々大きな失敗をして注目を集めてきましたね。そうしたら、今の「ぽかんとしてる」というコメントは客観的にあなたの状態を伝えてもらったということなのだから、いや僕はその通りだと思ってましたと返すのではなくて、なるほど、外からはそう見えるんだと受け取って、初めて自分が変わっていくことにつなげられるのですよ。自分はそうは思わなかったけれど人からはそう見えた、ではそのギャップは何なのだろうと探求していって初めて自分を知ることになるのです。
今のあなたの姿勢は、やわらかくやり取りしているように見えるけれど、人からの視点を受け取らない姿勢です。

ゆうくん:
今はまだ捉えきれていませんが、心の奥で100%理解しきれてないんだなということがわかりました。

いさどん:
その今の言葉はどういう心の性質から出ているかというと、学習したらすべて覚えて100点を取りたい、そういう自分でありたいという心が働いています。そんなことがいきなりできるわけはないのだから、気付いたところからクセを取っていく道を歩めばいいのです。いさぎよければ、そのクセは瞬間に取れます。けれども往生際が悪いところがあって揺らいでいるのだから、それを知って、これからそういう自分が出てきたら揺らぎを少なくしようとか、揺らいでいることを理解して自分の幅にしようというように切り替えて、有効に使っていけばいいのです。
正解をやれる自分でありたいという願望の方が強いけれど、長年クセのままに生きてきていきなりそんなことができるわけがありません。そういう問題点があるんだ、と自分の心の性質をマスターした時に、それを受け取る姿勢ができたということです。自分はまだ未熟なのだということを知り、常にいただいて学んでいくことが大事なんだという姿勢になって初めて、一つずつ身に付けていく作業が始まり、それが現実化していくのです。

まり姉:
ゆうくんはやろうという気持ちはあるけれど、とりあえずそれを形で示しているようで、いったい何のためにそれをやっているのか。

いさどん:
それは評論家の言うことです。彼は自分の思ったことを表現したわけです。僕は今朝、彼のメールを見て救われましたよ。彼は新しい行動を取ったのです。自分が何を求めてその結果どうなるということが始めからわかっていたら、今のような立場にはそもそもいないでしょう。
今のまり姉のコメントは人のことを考えて言っているのではなく、自分のものの見方を発表しているだけです。それではここに何ももたらしませんよ。

昨日、「みんなで」という話をしましたね。その「みんな」の中には自分もいるわけでしょう。一人ひとり、自分が主役です。その自分が、今どういう心をしているかを観察してごらんなさい。「これはいい心をしているな、惚れ惚れするな」という心をしているでしょうか。そしてその心を、全体に対してどのように表現してみんなに貢献しているでしょうか。

自分が日頃からどういった感情を動かしているか。周りに対してどのくらいの「ほがらか度」を発しているか。「らくらく度」とか「楽しい度」「幸せ度」と言ってもいいですね。逆に、「つまらない度」とか、同じことを繰り返す「またまた度」はどうか。どんなものを自分がもたらしているのかを、一人ひとりがチェックするのです。
みんなは人には求めるのに、自分に対しては無責任で、自分の実態を把握することを避けています。そこを本当に緻密にチェックしていくと、そのうちにノーチェックで「ほがらか度」や「幸せ度」を周りにもたらすようになります。

それを思った時にやはり、あなたは何のためにこの生き方を選んだのですかと問いたいのです。就職試験とは違いますよ。試験は何もありませんが、ここは生涯を共に暮らし、共有し、調和し、あなたは私、私はあなたという世界を創る場です。そんな世にも稀な場所で、一人ひとりに問いたいのです。

時は動いています。時代は変わりました。それは目には見えないものです。けれども安倍さんの言っていることを聞いても、社会が行き詰っていることがわかります。中国の習近平国家主席とオバマ大統領が対談しましたが、いがみ合いながら手を結んでいました。あんなにおかしなことはないでしょう。

今日ゆうくんは、自分の都合で心のシェアをしました。では勉強したのは彼だけかと言ったら、僕にはそれを読み解いて伝える訓練の場を与えてくれました。そしてそれを聞いているみんなも、こういうふうにクセが出ているのをこういうふうに見過ごさずに分析するんだ、と学ぶことができました。「ユウスケ」と同じ単音の思念を持っている人はたくさんいますから、どれだけの人がそこから学べたことか。
そうしたら、彼は自分を立て直そうとしてシェアしたことによって、みんなに学びを与えているのです。いいことだらけですよ。

ことが成らないと、人は滅入って次に向かおうとするエネルギーがなかなか湧かないものです。それを突破する心の姿勢を持つにはどうしたらいいかというと、何のために人生を歩んでいるのかということを明快にすることです。

ものごとが滞るのは何のためかというと、探求の場を与えられているということです。今これが与えられたということは、これから先に同じことが与えられなくてもいいように、与えられた意味を理解するチャンスを与えられているということです。それを探求する情熱があれば、人はいつでも希望を持って未来に向かっていくことができます。そして変化・変容・変態するこの世界では、その姿勢(宇宙法則の進む方向・正の方向)を保っていけば、自ずと滞りを突破できるのです。

みんなは、なぜこの道を歩んでいるのですか?
これは、世のため人のためという話でもないのですよ。何かと言うと、生きる目的を完遂する、ということです。

これは一番大事なことです。生を受けたということは、死ぬまで生きなさいということでしょう。つまり生きることには目的があるのだから、それを完遂しなさい、最後までやり遂げなさい、ということです。
その途中にいろいろなことがあるのは、それを超えて行きなさいということ。つまり、探求しなさいということです。問題ごとに向きあって探究すれば、必ず超えられます。それが生きることであり、生きることへの答えをもらうということです。それがありさえすれば、いつどんなことに出会っても超えられるのです。

生きていると大事なことに出会います。ではその大事とはどこにあるのかというと、その人が向いている方向にあります。下を向いていれば下にあるものが大事になるし、上を向いていれば上にあるものが大事になります。毎日お酒を飲んで生きるのも、お金儲けだけを考えて生きるのも、その人が向いている方向によってそれが大事になるからです。
だから、どこを向いているのかが大切なのです。それを狭い視野で見ると、自分から湧き出すものを叶えることが幸せで、それを大事だと思ってそこだけを見てイノシシのように進んでいくことになります。視野が狭いので、世の中が変わっても気付かずにまだ同じ方向に進むのです。

しかし視野を広げたら、自分は今どこを向いているのか、世の中はどうなっているのか、時代はどこへ向かっているのかということを考えて、自分をコントロールすることができます。そうすると、あなたは、今という時代を生きる目的の、一番大事なことを選んでいくことができるのです。

 

 

 


いさどんの七夜物語 – 第一夜 「思い出す」

七日七夜でこの場に質的転換を起こします ーーー
そんな想いから始まったいさどんの七夜物語、第一夜です。
(詳しくは「序章・秋分前夜」をご覧ください。)

 

9月24日 「思い出す」

いさどん:
今日は9月の24日です。昨日は秋分でした。1年の4分の1を残して、いよいよ最終コーナーに入ろうとしています。春分を起点とする地球暦で言うと、1年の半分が過ぎたところです。
四半分、半年、1年という区切りがありますが、毎日が区切りです。毎日その日にあったことを振り返り、次の日に生かすと、我々が生きている意味を毎日自覚することができます。

では区切りという意識のない人はどうやって生きているかというと、また同じ日が来たと思っているだけで、毎日起きている新鮮な出来事を振り返らないのです。それはどういう状態かと言うと、上がりもせず下がりもせず、ピーーーーッと一直線に進んでいる状態です。
そこに出来事が起きたとします。それがその人にとっていいことだったとしましょう。それで一時的に上に上がっても、必ずそれを帳消しにする何かが起きます。なぜかと言うと、宇宙は±0だからです。
それは、日ごろの意識がピーーーッと一直線で、昨日も今日も明日も、1年前も1年後も変わらないまま生きていて、生きている目的について何も考えていない状態です。
しかし、生きているといろいろなことに出会います。そこで何故だろうと考えます。ピーーーッと一直線の意識の人は、辛いことがあるとへこみます。そしてそれを忘れるために、何か別のことを考えたりします。そううやって帳尻を合わせて、へこんだことを忘れていくのです。するとまたへこむことが起き、また帳尻合わせを考えます。そしてトータルで見ると、ピーーーッと一直線になって何も進歩していない状態です。
そういった毎日を人間は送りがちになるので、区切りというものがあるのです。

春分と秋分は、1年の中で昼(光)と夜(闇)の長さが同じになる日ですね。その日に、人はなぜかお墓参りをします。
「彼岸(ひがん)」という意味を知っていますか?彼岸とは彼の岸と書き、あちらの世界を指します。それに対して「此岸(しがん)」という言葉があります。此岸とは此の岸と書きます。つまり、ここが此岸です。
川を渡って向こう側に渡ると、彼岸になります。人生は修行ですから、此岸でいろいろなことを経験し学び、そして川を渡って、彼岸という理想郷にたどり着くことになります。仏教では、此岸に生きると四苦八苦に出会うから、そういったことに囚われないようにこの世界のことを悟りなさいと説いています。ピーーーッと進むとポコンと落とし穴に出会います。そして、落ちたところから上がるために帳尻合わせをします。そしてまた上に上がる。それを繰り返しながら進んでいくと、何かに似ていませんか。

みんな:
心電図。

いさどん:
そう、心臓の鼓動ですね。それが帳尻が完全に合ってピーーーッと一直線になると、現象界からあちらの世界へ行く、つまり死ぬということです。生きているということは、へこむこともあれば、上がることもあり、それがどういうことなのかを悟っていくということです。

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苦楽という言葉があるでしょう。楽の前に苦がありますね。この世界は、発生し拡大していくことを陽だとしたら、収縮して消滅していくことを陰と言います。多くの人は、陽しか見ていません。しかし、この世界の仕組みは陰が元になって陽が発生しているのです。苦楽でも、苦しいことがあって楽があるのです。楽があって苦しいと示しているのではありません。苦しいことがあるからこそ、楽がわかるのです。私はなんて不幸なんだろう、と思うのは、不幸しか見ていないからです。苦しいをとことん感じたら、あとは楽があるばかりです。

もっとも、それはゲームのように考える話ではありません。幸せに生きるためには苦しいを最高に経験したらいいんだ、ということかというと、そうではない。この世界に生きていると、苦しいことに出会います。お釈迦様はそれを「四苦八苦」と言いました。この世界に生きる人間の性分のことです。人間の中にそういったことに出会う種があるということです。
この世界には仕組みがあります。苦しい経験は、それを起こす仕組みがあるということです。その仕組みを学習できたら、その奥には楽が現れる仕組みがあるのです。そうしたら、苦しいということは楽への旅であるというこの世界の道理がわかった時に、苦しいことは楽しいことを湧き立たせる元となるのです。

中には、苦しい修行こそありがたいのだと、滝に打たれたりするでしょう。嫌だと思うこと、辛いと思うことに向かいなさい、と言うけれど、そういったことも極端な話ですし、誰もが行うべきことなのかわからないですね。それはそれでその人の道として尊重しますが、大切なのは、誰もが当たり前に生きる中で、当たり前にいろいろと起きることを通して、その人にそってその現象が何であるかを知ることです。

僕が6月の終わりから大人ミーティングに出なくなって、3ヶ月が経ちました。今日ここに来たのは、喪が明けたからではありません。このままではいけないと思ったからです。このまま放っておくと、「全人幸福」という看板を掲げながら実際の生活の中ではそういった意識を全く持っていないヤマギシ会と同じ道を歩むことになります。
今日はヤマギシ会からゲストも来ています。今そこで笑っていますが、僕はよくあのようなところで生活ができると思うのです。ここはまだ入り口ですが、そういった日々の中に浸かってしまったら、自らの本当の姿は見えなくなるものです。そこまでいくと重症です。だからまだわかるうちに、このままいくと同じ状態になるということに気付くべきです。これは、たまたま先輩がいてその先の姿を見せてくれているから、そういったことはわかりやすいですね。このような状態に、人間は陥りやすいのです。楽ばかりを求めて、欲しいものが得られればそれで満足して、苦を大事にしない。

ですから、楽ばかりを求めていくと、ちょっとしたことでも苦になるのですよ。そうかといって、わざわざ苦ばかりを求めることも必要ないですね。苦が何であるかを知り、その苦を示しているこの世界の仕組みを知ると、楽がどういった仕組みで発生してくるのかがわかり、楽に溺れなくなります。これを知ることが生きることの目的です。
生きるとは、自主的なことですよ。ピーーーッと一直線の心電図では、ただ日にちが経って年を重ねただけで、生きている目的を果たさず、その人の価値は何も変わらないのです。ただ感情のままに思考が湧いて、その思考のままに行動し、そのまま年月が経ったら寿命が来て死を迎えることになります。
それは、生きていくものの本来の姿ではありません。この世界(宇宙)は変化・変容・変態を繰り返しています。別の言い方をすれば、進化・発展・成長をしているということです。ですから、変化しないということはその法則から外れているのです。それを意識せず、同じことを繰り返していくと、希望を失い、生命力のない存在として死を迎えることになります。

なぜこのような話を始めたのかというと、ここの人たちにもそういった兆しが観えてきたからです。このまま放っておくと、本当にヤマギシ化します。
これは、今日ヤマギシ会からゲストが来ているから言っているのではありません。僕は(ヤマギシ会の創始者である)山岸巳代蔵さんから「あとはよろしく」と託されたのです。しかし、現状のヤマギシ会の人々は「全人幸福」という理想を掲げながら、本来の目的を果たすことを忘れています。ヤマギシの人たちが木の花に出会った当初は「自分たちの目指していたものはこれだった!」と思い出し、刺激を受けて、この精神をもう一度取り戻そうと思っていたこともありました。しかし、本来の目的を何よりも優先することを怠っていたものだから、本来の目的を思い出し、こうやっていかなければならないと思ったとたんにそれを負担に感じて、そこから目を背けるようになりました。当初はとても熱心だった人たちも、今ではそんなことがあったことも忘れ、日常の生活に漬かり、ピーーーッと一直線の状態で生きています。
このまま放っておくと、ここもそうなりかねません。しかし、ここはそうはなりません。なぜだかわかりますか。

みんな:
いさどんがいるから。

いさどん:
そうです。僕がいるからです。だからこの3ヶ月間、僕がいない実験をしたのです。いないと言っても一緒に暮らしていて何か特別なことがあれば口を出すわけですから、実験と言ってもソフトなものです。みんな、本当に僕がいなくなったらどうしますか?

さちよ:
困る。

いさどん:
困るという話ではないでしょう。こまるのはカタカムナの八鏡文字の小丸だけです。(チーン♪)
カタカムナは、宇宙物理です。ものごとの表面しか見ていない近代科学や物理学が解き得ない世界の捉え方です。この広大な宇宙の実体もそうですが、カタカムナは、この世界に存在している我々の命や、細胞や、原子、素粒子、その元となる極小微細単位である「カ」までを解き明かします。その「カ」はどこから来るのかと言うと、潜象界という現代人が認識していない世界からやって来ます。
この世界は陰陽から成り立っています。我々は形を先に認識するので、形が先にあるものだと思っています。しかし実は、我々が現象界にいるから形を先に認識しているだけのことなのです。

ある人にとって、その人が満足の状態でいる位置があるとします。しかし世の中の人々がそれよりもさらに満たされている位置にいれば、これでは足りないと思うようになるでしょう。しかしそれよりもっと低い位置にいてその世界しか知らず満足していれば、そこで十分だと思うものです。
先ほどの心電図で表すと、問題ごとが起きた時に下がるとしますね。すると少し上がっただけでも、ああ楽になった、と思うものです。それが何かによって与えられたものだとしたら「ありがたい」ということにもなります。
しかし、その先にはもっと楽があるのです。それなのにそこで満足してしまう。人には自らの性分と価値があり、そこから湧いてくる感情のままに思いを巡らせ、行動していると、ピーーーッと一直線の変化のない人生を送ることになります。人生には必ず上がり下がりの刺激があるのに、それを無視しているのです。

しかし、学ぶとか、成長するとか、進化・発展するという視点に立つと、自らの物理的かつ精神的願望を叶えるための変化ではなく、意識を高め、視野が広がることに生きる目的が移行していきます。ピーーーッと進んでいって下がった時には「そうか、こういうことがあると下がるのか」と学習し、それがどうすれば上がっていくのかがわかるようになる。その客観的な視点に立てば、出来事や欲望に翻弄されることなく、冷静に物事に取り組めるようになり、その人の精神的価値が上がっていくことになります。そのことを意識しないで日々を送るということは、その人の価値はどんどん下がっていくことになります。しかし、価値が下がることは捉え方によってはありがたいことになりますね。どんどん苦しくなっていくわけですから。そこには「気付きなさい」というメッセージが隠されているのです。

何かあった時に「大事にならなかったからまぁいいや」と出さずにいると、それはピーーーッと一直線の人生を歩むことになります。いいことも、みんなと共有し、進化発展していく。悪いことならなおさら出して、みんなの知恵をもらい、学び、発展していく。そして周りの人たちはそのことを通して「ああ、自分もそうだ」と学びの輪が広がっていく。
みんながそういった意識を共有すると、これが新しい時代のモデルだと、微笑ましい場をイメージすることができます。それを観ているのは、私たちだけではありません。この世界を私たちに託している天も観ているのです。そのために、天は私たちに上がるも下がるも与えているのです。
ピーーーッと進んで、下がって、上がる。元に戻り、またピーーーッと進んで、下がって、上がる。これが生きるということですね。心電図もそうでしょう。それがピーーーッと一直線になったらご臨終ということですね。それは、誕生・発展・進化から、収縮し、消滅するプロセスが一区切りついたということです。さらに、死を迎え、魂が肉体から離れると、生きていた時の人生は何だったのかということを振り返ることができ、次の大きなサイクルの中にあることが観えてきます。人生とは、大きくも小さくもその繰り返しです。

ピーーーッと一直線のまま1日が過ぎ、1年が過ぎ、そのまま80年経って死んだとしたら、何をしに地球に生まれて来たのでしょう。それでは、人間の持っている可能性を存分に使わず、脳の大部分は働かないままです。
感情が湧いてくるのは、心が欲に翻弄されているからです。愛情の情とは欲から生まれる執着のことです。自分の子どもに愛情を持つのは子どもに欲をかけるということで、親の情で汚れをつけることになるのです。
脳は、本来それをチェックする働きをするためにあるものです。私たちには日常的に、楽したい、得したい、これは嫌だ、あれがいいという感情が自然に出てきます。それをわかっているつもりになっていても、多くの人は無自覚に感情のまま生きているのです。なぜならカルマ(=垢)にまみれていることを自覚していないからです。
アカの思念をカタカムナの単音で読み解くと、「カ」は宇宙の極小微細単位です。

      ア
      ア
      カ
      カ

 

 

 

 

「カ」は「ヒ」と同じ始まりの位置に小丸がありながらトコロ軸(横軸)が突き抜けているので、現象界の奥にある潜象界を構成する最小単位です。「ア」は高次元の響き。ですから、アカとは、宇宙の極小微細単位が構成していたものから分離し、新たな可能性に向かうことです。垢が落ちるということは、その垢自体も新たなものを構成するし、元のものも、垢が落ちたことによってきれいになり、リニューアルする。その行為自体が高次の生命活動であり、生命の元になる現象(新陳代謝)を示しているのです。それが現象界を創り出しているのです。すごく大事なものでしょう。それは、私たちの心の垢の性質も同じことです。

私たちの太陽は、約27日をかけて自転します。そして25800年ごとに一つのらせんを描きながら、2億2600万年をかけて天の川銀河を一周しています。その太陽の周りを地球が周っています。周りながら、春分、夏至、秋分、冬至という時を刻んでいます。地球の動きは、単に同じ場所にいる太陽の周りを周っているのではなく、らせんを描く太陽の周りを周りながら進んでいるのです。
星という現象界の形に現れたもので捉えると、わかりやすいですね。それと同じ構造で、宇宙の創世がカタカムナの八鏡文字に表されているのです。私たちの体の設計図であるDNAも同じ構造をしています。この世界は相似形でできていますから、地球生態系も同じ仕組みで成り立っています。

5-6
カタカムナ第5首

カタカムナの八鏡文字の小丸は、ヒフミヨイムナヤコトと進むに従い移動していきます。それはこの世界が発生する物理性を表しています。「ヒ」は地球暦で言う春分の位置にあり、「イ」は秋分の位置にあります。私たちは、1年で見ると、今「イ」の位置にいます。

      イ
      イ
     匕
      匕
地球暦で見る春分点と秋分点
地球暦で見る春分点と秋分点

惑星の動きで見るとわかりやすいですね。それは現象界に現れていて、我々の目や想像力で確認できることだからです。しかし、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトのプロセスは、目には見えません。「ヒ」は潜象界、つまり我々現象界の人間にとっては「ない世界」の段階でのすべての始まりを表しています。「イ」が現象界の入り口。それがムナヤと進んで準備ができて「コ」で転がり出て「ト」で統合し、次に「ア」となったら現象が始まるので、ヒフミヨイムナヤコトはすべて現象が始まる前の潜象過渡の状態です。そしてそれは平面ではなく、球体の中で、春分、夏至、秋分、冬至と立体的に巡ってくるものです。
ちょっと難しいですね。現代の人間の頭では、それが理解できないのです。13000年前のカタカムナ人は、それを直観で理解していました。それがだんだんモノ・カネを求める自らの欲望に支配され、その結果情に翻弄されて、天と共に生きることを忘れてしまったのです。

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12900年前の光のピークから、闇のピークである2012年12月21日の銀河の冬至へ向かう中間点の6450年前と前後して、メソポタミア文明などの現代文明の始まりとなる文明が台頭してきました。その遺産として紙が発明され、文字が発達したのです。それから、みんなが紙に書くことで物事を伝えるようになり、脳が物事を二次元で捉えることに慣れてしまいました。
私たちの脳は本来、八鏡文字で示される宇宙の構造を立体的に捉えられる能力を持っています。しかし、近代において人類は、紙のような二次元で物事を捉える脳だけを発達させてきたのです。だから、損か得か、良いか悪いか、多いか少ないか、という二元論で物事を解釈するようになってしまいました。般若心経の色即是空、空即是色のような世界観が真理の主流になり、ただ境地を求める表面的な物事の捉え方になったのです。

今まで、私たちはそういった意識レベルにいたのです。僕もそうでした。そしてそれに翻弄され、表面的な結論を出してきました。もしも人生を勝ち負けで表現するとしたら、負けとは、自らに囚われた思考に翻弄されることです。それは、自分のクセのままに思考して、それが実現するようにと願い、行動している状態です。それは、我のままに生きているということです。

その精神状態では、宇宙の構造を理解することはできません。それは自分の頭で思考を回すのではなく、上から降りてくるものを受け取っていくことによって理解できるものだからです。ですから、自らに囚われた思考を回しているようでは、上から降りてくるもの受け取ることはできないのです。直観を研ぎ澄まし、この世界に遍満する法則(メッセージ)を感じ取ることで、瞬時に物事の道理を捉え、「そうか!」とか「なるほど!」とか「これだ!」と合点すると、それまで自分がやって来たことのずれが観えてきます。そういった思考が回り始めると、宇宙の法則と共に生きることになるのです。

先日、大町ビレッジへ行った時に、カトケンがネギの種を蒔いていました。レイキで畝に線を引いて、手で細かく蒔いている。家庭菜園ならそれでもいいけれど、うちは農業法人ですよ。権兵衛(播種機)を使えばもっと早くきれいに蒔くことができます。それは昔僕が畑をやっている時に始めたやり方です。玉ねぎの種でもきれいに蒔けます。
うちは除草剤を使わないので、玉ねぎの芽が出たら今度は除草が大変です。昔は手で草取りしていましたが、とても手間がかかるし腰も痛くなるので、何とかいい方法はないだろうかと考えて生まれたのが太陽熱消毒です。あれは、最初は失敗から生まれたんですよ。とびっきりいい苗をつくろうと思って、7月の暑い時期に畑にたくさんボカシを入れたんです。それからしばらくしてキャベツの苗を植えたら、全部しおれてしまった。なぜだろう、と思って畑に近付くと、ブワーッと熱気が来たんです。びっくりして土に触ったら、60℃以上ありました。ボカシの量が多くて、発酵したんですね。
これは大変なことをした、こんなところに苗を植えちゃいけない、と思い、しばらく置いておいて、9月になってから玉ねぎの種を蒔きました。その頃になるともう熱は収まっていましたから。その時に、あっと思いました。熱のおかげで、雑草の種がみんな枯れていたことがわかったのです。おかげで草取りはほとんどしなくて済みました。その上、土が完熟していたのでとびっきりいい苗ができました。だけどその苗で作った玉ねぎは、みんなトウ立ちになりましたね。そこでまた、玉ねぎは小さいころに肥料を吸い過ぎるとトウ立ちするということがわかりました。そんな試行錯誤の中で、太陽熱消毒の智恵が生まれたのです。
その後も、畝は東西に向かって立てるものだと思っていたら太陽熱消毒の場合は南北の方がまんべんなく光が当たっていいことがわかったり、まだ熱が落ち着かないうちに人参を蒔いて失敗したりということを繰り返しながら学んでいきました。
そういうことは、どこかで勉強したものではないのですよ。ものごとを単体で見ていると、つなげることはできません。何かをやる時にふっと湧き出したものが、こちらにも応用できるぞ、あちらにも応用できるぞ、とつながっていく。それは、ヒフミヨイ、マワリテメクル、ムナヤコトと潜象界から進んできて、次のアウノスヘシレの「ア」が発生したところから自動的にいろいろなことが起きて、教えてくれるのです。

その時に、その起きたできごとをよーく観ることです。それはメッセージですから、「いただきます」の精神でいただいていくと、物事はとんとん拍子につながって滞りなく進んでいくのです。
いいと思うことは、そのままやっていけばいいですね。失敗の場合は、失敗の可能性が10あるとしたら、その失敗によってまずは最初の1つが消えるということです。学習すれば、失敗の可能性を確実に1つ減らせます。2回失敗すれば、2つ消せますね。どんなにカンが悪くても、10回失敗すればあとは当たりがあるだけです。

ダメなことの奥には、必ず学びがあります。学ぶ意志のある人は、心電図の下がったところでも学びます。そして、それを次につなげていきます。それが、現象と対話をする人です。
そのコツは、直観で感じ取ることです。そうしたら、物事がつながり、スムーズに事が進みますから、毎日が楽しくなります。自らの考えに囚われ、同じところに引きこもっていたら、同じような毎日が過ぎるだけですね。引きこもっていたら、太陽が周っていることも意識できません。まこっちゃんなんて3年も引きこもっていたのですから、もったいない時間でしたね。それはその人のカルマです。そのカルマに相応しい学び方をしたということです。「マコト」をカタカムナの思念で読んでみましょう。

ちなつ:
まこっちゃんいないよ。

いさどん:
いいんです。それがその人の徳だということです。大事な場面にいないということが、今のその人の人柄を表しているのです。

みかこ:
だけど何でこんなに大事な日にいないの?

いさどん:
そうやって「それじゃダメでしょう」と言うのが、人の欲というものです。この人はこうやって大事なことを逃すんだということを理解したら、だからこそ逃がしてはいけない、ということを自らに対して思えばいい。それは頭を回して段取りを組むのではなく、今を「いただく」ということです。
ここは、自分と人を区別しない場です。人に対して「ここが問題だよ」と伝えることは、本当に愛のある場として、相手のことも自分のこととして伝えるということで、それはとても大事なことです。自分の能力には限界があります。しかしすべてをいただきますという心になったら、人の力も自分のものとして備わるということです。

八鏡文字も同じです。一人の人間の名前を読むと、小丸の位置に偏りがあります。一人では、この世界を受け取るには限界があるということです。そしてその性質によってもたらされる縁を「カルマ」と言います。しかし、様々な偏った者が集まり、群れる(調和する)と、全体ではバランスが取れていくのです。
この世界に命が発生する時、完全な潜象界に不完全が生まれ、ものとものの差ができるからこそ、現象界に転がり出てくるのです。その不完全な者たちが集まり調和し、内も外もない世界ができたら、そこは完成された美しい世界になります。

ここは完成された世界ですか?まだまだ、そうではないですね。それは、みんなの心が一つになっていないからです。そしてこの道を歩むことの本当の目的が、まだ十分にわかっていないからです。それで自らの心に囚われ、不完全なままの自分を大事にしているのです。
自分に足りないところを人からいただき、また、自らの能力をみんなに与え、ありがとうございますという心になったら、すぐに美しい場所ができますよ。

(ここで「マコト」、続いて「リュウシロウ」がカタカムナで読み解かれ、それぞれの特徴が明快になる。)

いさどん:
自らを所有していると、自分の性質を客観的に伝えられても、自らの思い描いていたイメージと違うことから、それを受け取ることができません。そしてカタカムナや地球暦の捉え方に疑問を持ちます。しかし真実は、宇宙の法則に従い、今のあなたがその性質で存在しているということを示しているだけなのです。
それを理解すれば、今あなたがいる位置が客観的に観え、そこからどのように歩んでいけばいいのかということがわかり、自らの意志によって未来を創造していくことも可能となるのです。

私たちは、日本という国に暮らしています。「クニ」とは自由が定着したところ、という意味です。それがわかると、クニに生きるということは、自由自在に生きるということになるのです。
そういったことを自らの人生に表していくためには、どんな時でも自らを緻密に観て、その性質がどのように周りに反映されているかを観ていくことが大切です。それは畑で作物を育てる時でも、ご飯を作る時でも、日常の中のどこででも必要な、大切な姿勢なのです。

のんちゃんが毎日酵素玄米をとぐ時に、カタカムナのウタヒをあげていますね。あの姿には欲がないのです。その心がいいですね。
でもね、欲はあってもいいんですよ。カタカムナの48音の思念には、実は大変なパワーがあります。その48音がこの宇宙を創っているのですから。正しい、美しい、濁りのない欲を持ったら、この世界を美しくすることができます。欲の奥にどのような意志を持っているかによって、世の中を良くもすれば悪くもできるのです。だから自分を磨かなければいけないのです。
だけど人は我欲にまみれたまま、良くなりたいと言います。それでは良くはなりません。当たり前のことです。
そのことが理解できたら、そこにはたちどころに気持ちの良い風が流れ、物事はスムーズに進み、誰かがそこを訪れた時に「なんて気持ちの良い場所だろう」と思うことでしょう。長年病気だった人も、そこに行くだけで治るでしょう。

そんなふうに美しくなるための根源は、どこにありますか?
そう。一人ひとり、自分の中にありますね。

一人ひとりが自らと向き合い、自らをきれいにして、いつも自らを観察して正しくコントロールできたら、どんな場所に行っても物事はすべてスムーズに進むでしょう。それどころか、地震も火山の噴火も起こる必要がなくなるでしょう。なぜなら、私たち一人ひとりの心に地球が連動しているからです。

これから、七日七夜をかけて、心の質的転換をします。
なぜ心を磨く必要があるのか。先日の3日間の「宇宙おじさんの人生講座」でも、冒頭にその話をしました。もしもその意味が理解できたら、もう講座は必要ないのです。けれどもなかなか理解ができないから、繰り返し繰り返しその心に触れる必要があるのです。一時変わったからといって喜んでいてはいけません。一生自分と向き合っていくのです。なぜなら、この世界(宇宙)は、永遠に変化・変容・変態を繰り返しているからです。

誰もが心の中に、宇宙の情報の源(宇宙図書館)を持っています。誰かの考えをもらおうとか、新しい知識を仕入れようという意識の人は、みんなメモを取ります。そうではなく、もともと自分の中にあるものにアクセスし、「ああそうだった」と、その情報を思い出すということです。誰の中にも、そのメモがあるのです。それが生命の姿であり、そして、人間の本当の姿なのです。