大町道中記③ 〜 生きていければいい

翌朝、テレビをつけると、朝のニュースで障がい者の就労支援活動が紹介されていました。しばらく番組を観た後、いさどんが語り始めました。


 
やさしさと正直さ

いさどん:
障がい者を取り上げて「やさしい社会」をテーマにしているけれど、そこに関わる人々の人間性はここでは浮き彫りになっていない。この支援活動をしている人の中には、「障がい者は不当な扱いを受けている」という怒りがある。でもそれは怒ることではなく、ただそういう事実があるということを伝えていけばいいんだよ。
一つの解決策として、自我がなくなると、そういう怒りというのはなくなっていくよね。自我があるうちは、「自分の言うことが伝わらない」とか「自分は損をしている」とか「私のいうことが正しいんだから聞くべきだ」というように、怒りが出てくる。だけどそれは、たまたま自分がそこに縁があったから今の立場にいるだけのことで、みんなで立ち位置を共有すれば、そういったでこぼこはなくなっていく。

僕は今の番組を観ながら、うちにもAちゃんがいるなあ、と思った。Aちゃんは障がいを持っている。それで、家の周りに草が生えてきたので草取りお願いね、と言えば「あいよ!」と言って取ってくれるし、だからと言って毎日「あれやってね」「これやってね」と頼まれているわけでもない。AちゃんはちゃんとAちゃんのキャラで、全体の足りない部分の隙間を埋めてくれている。圧力がかかるわけでもなく、かと言って何もしないで保護されているわけでもない。そういうことだな、と思いながら番組を観ていた。
人にはそれぞれ、足りない部分と足りすぎる部分があるとしたら、足りない部分を補ってあげるやさしさと、足りすぎる部分を「それはやりすぎだよ」と伝えてあげる正直さをみんなが持ったら、障がい者を支援することはいらなくなる。それが全体性ということだよ。今の支援活動は、障がい者を特別扱いしているから、結局共に生きていることにならないんだよ。何より、障がい者支援がビジネスのネタになっている。

もう一つ、番組の中で、生まれた時から脳に障害を持つ子どもを育てているお母さんが紹介されていた。障がいを持つ人一人に対して、一人以上がつきっきりの状態になっている。それは、自然界では無いことが起きている。もしも自然界で、誰かが誰かにつきっきりでなくてはならないなんてことになったら、生きていけないよ。そう考えると、今の人間社会では、障がい者はとても手厚い保護をされているとも言えるんだよ。つまり、そんなことまでできている世の中というのは、熟してきているということだ。
それでもまだ、障がい者に対して足りない足りないと言っている。十分だよ。やりすぎだとは言わないが、十分ありがたく思って感謝して暮らしていけるはずだよ。自然界では淘汰されるのだから。こういうことを言うと、業界からクレームが来るかもしれないけどね。
タイのプミポン国王は、「足るを知る経済」といって、求めるだけの延長に豊かさを表現するのではなく、助け合い、共に暮らすことにより、ありがたくいただく心の上に成り立つ経済を国の豊かさの指針としていたんだよ。

ともこ:
障がい者に対して現状で十分だというと、さっきの番組みたいな怒りが生まれるかもしれないね。

いさどん:
そう。相模原事件の時には過剰なくらいの反応が起きて、「障がい者の生きていく権利を奪うのか!」って、そんなこと誰も言ってないでしょう。ただ一人の統合失調症の人間がそう思っただけだよ。
でも、もう一つの観方からすると、彼の言うような見解も確かにあるんだよ。今ケアできているUくんは、植松容疑者の主張していることは事実だと思うと言うんだよ。そのことについて、彼は2ちゃんねるで語り合っている。そこには両方の怒りがあって、方や障がい者に対してひどい仕打ちだとする怒りと、方や実際にそういう人が生きていていいのかという意見がネット上で飛び交っている。
本音をすべて出し合って、そして落ち着くべきところに落としていく正直さが、この世界にはまだない。こういうことはタブーで、言ってはいけないことになっている。

ともこ:
それってさっき話していた「全体性」とは反対の状態だね。

いさどん:
世の中全体がね。全体性というのは、すべてがあからさまになって、個人個人の個性や能力が全体のものになっていくこと。そうすると、「差」が消えるんだよ。例えばあるグループの能力が一般の80%だとしたら、その80%をグループ全体の個性として生きていけばいいのだし、そのグループがさらに大きな全体の一部となれば、その足りない部分も全体によって埋められていく。僕の言っていることは、難しいことかな?

ともこ:
こうやって話を聞いていてなるほどと思うのと、実際に自分がそれを生きるのとはまた別だもんね。

みほさん:
どこまでわかっているのかも怪しいね。

いさどん:
だから大事なのは、自分はわかっていないんだということを原点に置いておくこと。そうすると、わかろうとする、受け取ろうとする下地ができる。ところが、自分流にわかってわかった気になっていると、常にわかった人のつもりでいるから、新しいものを取り入れる気にならないんだよ。そうすると発見がないから、そのまま変わらない自分でい続けることになる。
進化するということは、今の視点からでは未来はわからないということ。だから常に謙虚でなければいけない。どんなにわかったとしても、未来に対してはわからないということだ。

 
無駄が世界をダイナミックにする

いさどん:
自分を改める気のある人は、本当は深刻にならなきゃいけない。「自分は本当にものが観えていない、これではいけない」と心から思った時に、物事に対して「これでいいのか」「これでいいのか」といろんな角度から考えるようになる。そうすると幅ができて、その中心が観えてくるんだよ。本当にこれでいいのかと真剣になった時に、初めて自分のずれを修正できる。それをできるのは、自分だけだ。
人から言われて直すのもいいけれど、それでは言う側も豊かじゃないし、言われる側はなおのこと豊かじゃない。やっぱり本人が、自分のことなのだから「これはいかん」と思って真剣にならなきゃ。日常の細かいことをノーチェックにしてるから、ツケが溜まって大きな現象をもらうことになる。それで「また同じことをやってる」と言うけれど、本当は毎日瞬間瞬間それをやっていて、チェックできてないだけなんだよ。これは誰にでも言えることだ。
(うんうんと頷いているみほさんに向かって)今、人の話として聞いてるでしょ。自分事になってない。それで「今日はいい話聞いた」と言って終わっていくんだよ。真剣さがあったら、違う明日がある。

僕はこの話をしながら、いったい自分は何を言いたいんだろうと思う。何のためにこの細かいチェックが必要なのか。
人間の未熟さが今の世の中をつくっている。そうしたら、一つひとつの部品の精度を上げる必要がある。人間一人ひとりは、世の中を構成する部品だから。それをやっていく時代が来たんだよ。
どんなに科学技術が発達してテクノロジーに支えられていても、それを必要とする人間が不完全である限り、その不完全を補足するための作業が必要だ。病気になる人間がいたら、病気を治すための作業があって、それがビジネスチャンスになって、経済は膨らんでいる。これはバブル状態だよ。本来不要なもののために、経済が大きくなっているのだから。
ストレスを溜める人間がいる限り、ストレスを埋めるための行動が必要になり、それが商売になっていく。それは不要なものによって成り立っている経済でしょう?無駄な思考をして不満をたくさん生んで、それを解消するためにたくさんのエネルギーを使っている。不要なもので支えられているんだよ。

そこで、不要なものはなぜあるのか。
不要なものがあるから、この世界に不必要なことが起きて、その無駄なことが世界にダイナミズムを生んでいく。それがこの世界のエネルギー源となっている。もしも不要なものを全てなくしたら、そこに生き生きさはなくなるよ。生きることに幅がなくなるから。それは、悟った人ばかりの世界だよ。

みほさん:
おもしろくないね(笑)。

いさどん:
いや、おもしろいかどうかは別なんだよ。それがその時代なんだから。今は人口も産業もピークのある意味異常な世界だけど、後から振り返ったら、活気があったよなぁ、でも無駄なものがいっぱいあったなぁ、と思うだろうね。
僕が35年前にインドに行った時、当時は1日1食も食べられない人がたくさんいて、バングラディシュから100万人の難民がカルカッタに押し寄せていた。夕方になると、人々が牛の糞を燃やして火を焚いて食事の支度を始めるので、そこら中から煙が上がる。町の中は埃だらけ。そんな時代だった。
そんな中を旅していて、僕が一番印象に残ったものは、目。インドをバスで旅していて、夜になると街灯がないから真っ暗になる。時々バスが止まって休憩になると、真っ暗な中に屋台があって、そこに裸電球がぶら下がっている。そうすると、暗闇の中でそこだけがパーッと明るく見えるんだよ。そこでバスを降りてお茶をしていると、僕が日本人だから、周りにどんどん人が集まってくる。そして裸電球に照らされた目がピカーッと、好奇心いっぱいでこちらを見ているんだよ。屋台で出されたチャイを飲んでいる間も、周りには目、目、目、目、目。それはものすごい生命力に満ちていた。好奇心と、おなかがすいている不足感で、野生のエネルギーにあふれてるんだよ。

今は、野生では生きていけないようなものであっても、やさしい社会だと言って、障がい者は保護しなければいけないと言う。すでに保護されているのに、それでももっと保護しろと訴える。障がい者年金と特別雇用で買いたいものが買えるようになって、ものにあふれている。あの生命力に満ちたインドの目と、どちらがいいのかはわからないね。方や豊かで方や貧しくて、だけど生命力はあの時代のインドの人々の方がはるかにあった。そしてその一方通行な豊かさを追求したところで、社会は良くなってはいかないんだよ。

ともこ:
さっきいさどんが、そこら中無駄だらけだという話をした時に、私の思考の中は「そうか、無駄なんだ」とすぐに二元的な発想になるんだけど ────

いさどん:
僕は無駄があることをダメだと言っているわけではないよ。事実として語っているだけ。その無駄は、「無駄」という段階では不要なものだ。ところが、無駄があるということは、遊びがあって、幅があって、ダイナミックだとも言えるんだよ。そして、その不要なものをどう生かしていくか、それをどう考えたら無駄でなくなっていくのか、無駄が全部なくなったらどうなるか、と先へつないでいく。必要なものだけしかなかったら、いったいどういう世界ができるだろうか。きっと仙人のようなものばかりの世界になるよ。

僕はそれを思うと、もう思考が次へ行く。そういえば、かつて僕が金星にいた時はそうだったなぁ、と。金星ではどこを見ても調和と愛の世界で、誰もがお釈迦様やイエスのような存在だった。そんな世界、楽しい?だって、お釈迦様がお釈迦様の悟りを伝える場がないんだよ。イエスがイエスの愛を語るところがないんだよ。みんな当たり前だから。そこで生きてるんだよ。
そこで僕は、何のために生きてるんだろう、と思ったんだよ。調和と愛だけの世界で、生きている意味は何かと考えたら、「まあ、そういうところですな」というだけ(笑)。少しは語り合って、わからずやもいて「わからんのかー」とか何とか言いながらやっていった方がおもしろいじゃん。だけどみんな悟っちゃってるから、気付きも何もそこにはない。気付く必要がない。

くわっち:
昨日言っていた、神の世界だね。

いさどん:
つまらん世界だよ。

 
神様のジレンマ

カタカムナの八鏡文字

いさどん:
カタカムナの八鏡文字は、円を八等分して表される。それは地球が太陽の周りを1周するのと相似形になっていて、日本ならその1周の間に四季を迎える。人間は生まれてくると「四苦八苦」すると言うね。「八方ふさがり」という言葉もある。方位は東西南北で4つだけど、それをさらに割ると四苦八苦になり、それは行くところがたくさんあって迷っている状態。それが全部収まると、八方が飽和安定する(ヒフミヨイムナヤコトのヤには飽和安定の意味がある)。だけどその飽和安定状態でずっとやっていくと、一体全体何のためにこの世界はあるのだろうかと意味がわからなくなる。そこには何の波紋もないんだから。
湖の水がシーンと波風ひとつ立てずに凪いでいたら、実物と湖面に映っているものとの区別がつかずに、どちらが本当かわからない。ところがそこにポーンと石を投げると、波紋が起きて、「上が本物だ」とわかる。だから波紋が起きるのはいいことだよ。そして、波紋が起きるということはそこが真実なのではなく、上に真実があるということだ。

神様は自分一人で、退屈だったんだよ。だから飽和安定の「八つ」の次に「九つ」を創り、あえて余りものを創ることによって、「十=統合」という完成の世界を創ったんだよ。何の波紋もない完璧の世界というのは、それ自体が不完全なんだよ。それ自体を認識できないんだから。そこに不完全を入れることによって、この世界の存在や仕組みを理解することができて、統合する。かつて僕が神さまに聞いた通りの話が、カタカムナで立証されているんだよ。

時々僕はカタカムナを語りながら、これを人間に与えて何になるんだろう、と考えるんだよ。つまりそれは「悟り」ということでしょう?まず始めに、「ワ」ができる。これは「アマ」と言うんだよ。つまり、高次(ア)の間(マ)であり、これが宇宙ができるための器であり、アマとは即ち宇宙のことなんだよ。
それだけの状態だったら、何も起きない飽和安定の状態だ。「ヒフミヨイマワリテメクルムナヤコト」という一から十までを経てもまだ何もできてはいない。「アウノスヘシレ」という「ア」から始まって自動的に現象ができていく段階で、初めて現象化が起きるんだけど、現象化が起きることによって何が生まれるのかというと、矛盾が発生するんだよ。飽和安定(ヤ)から転がり出て(コ)きて、そのエネルギーが溜まっていくと現象化になる。カタカムナは、悟りのプロセスを完璧に表現している。
それで、これを人間に語ってどうするのかというと、人間を悟らせるんだという。ではどうして悟らせる必要があるのかというと、悟ってないからだよ。今の人間は悟っていないから、悟らせるということが必要になる。だからお釈迦様やキリストが必要になるんだよ。
ところが、金星へ行ってごらん。全員が悟っているから、「悟らせる」ということが不要になるんだよ。悟りを求めることがないから、実態が悟りそのものの世界を求めることもない。つまり今あるものが不要になるんだよ。そこにあるのに不要なんだから、辛いだろうね。あ、違った。辛いということもないんだよ。私はいるよなぁ。それがどうした、という世界。これが神様のジレンマだったんだよ。

ともこ:
永遠の世界で、ジレンマが発生する?

いさどん:
完成された世界では、その状態自体が不完全につながるということなんだよ。そこで、その完全に不完全を散りばめると、そこから矛盾が発生し出し、元の完全に戻ろうとする道が生まれてくる。それで完全を目指していって完全になると、今度はまたシーンとして何もないから「なんじゃこりゃ~!!」ということになって(笑)、また不完全を創って矛盾を発生させて「なんじゃこりゃ~!!!」ということをくり返してあっち行ったりこっち行ったりしながら無限にそれが続いていくと、それはこういうことになる(と言って、手で「∞」の形を描く)。これって「8」でしょ。

みんな:
ほんとだ~!!

いさどん:
ひどいわからずやがいるでしょう?そのわからずやをわからせて、その結果どうなるかというと、みんながわかってしまったら、とてもつまらない世界になる。
この間ヒロッチがみんなに配ったアンケートに、「あなたはどのような心境で死を迎えたいか」という質問があって、僕はこう書いた。「やっと来たか。」やっとこの世界から離れられる、よかったなー、と。
それでもあちらの世界に行くとそこは飽和安定してるから、その世界を旅立つ時には同じように「やっと来たか」と思うのだろうね(笑)。だから、いつも、「やっと来たか」の姿勢だね。それは常に前向きに進むということ。その繰り返しだ。これが宇宙の実相であり、神様の実体だよ。
だから神様って、とても滑稽なんだよ。僕は神様に、「あなたも気の毒な方だねぇ」と言うんだよ。だってこれではマスターベーションだもの。すべてが自らの内にあり、その中であっちに行ったりこっちに来たりしながら存在している。これを永遠に繰り返すんだよ。法華経ではこれを「三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)」と言って、宇宙が始まって崩壊することを三千回繰り返しているということだけど、三千回というのは2999+1ではなく、無限という意味だよ。「八百万(やおよろず)の神々」の八百万も、「百姓」の百も、すべて無限を表している。同じことを永遠に繰り返しているのだけど、それがわかったところで「だからどうした」という話だね。

くわっち:
でも同じことをくり返しながら変化していってるということだよね。

いさどん:
そりゃあそうだよ。同じことをくり返しながららせんを描いて進んでいるのだから、同じ場所には行かない。AからA’に、さらにA”にと進んでいくんだよ。そうすると、語れば語るほどもうどうでもよくなってくる。現状をひどい状態だと嘆いたとしても、別に核爆弾が爆発したって、その先には必ず次の道がある。かつて広島と長崎に原爆が落とされた第二次世界大戦では、日本人が600万人も死んだ。世界では、6000万人が死んだ。この悲惨な世界から立ち直ることはないだろうと言われたが、それがあったからその後の復興につながり、今につながっている。だから安定するとまたそれが壊れて、先へと進んでいくだけなんだよ。
地球では過去6億年の間に6回も生命が大量絶滅している。そしてその絶滅の後にも、DNAは次なる生命に受け継がれる。そしてDNAは進化していく。だから人類が大量絶滅しても、またどれだけか先に進むとそれを受け継いで進化した次の生命が現れてくるんだよ。AからA’へ、さらにA”へと確実に受け継がれていく。
そうすると、別に大量絶滅をしてもいいわけだよ。それを短く区切って見ると「北朝鮮が水爆を作った!?あんなものを爆発させたらえらいことが起きるよ」という発想になるけれど、大きく捉えたら、その出来事はすべてを消滅させ、DNAに託された情報が次の生命に受け継がれて、進化していく。広いスタンスに立てば、その段階が来ただけということだよ。

ともこ:
その進化はある意味無自覚な状態でしょ。だけど人間は ────

いさどん:
なぜ無自覚なのか。「自覚」という字を見てごらん。「自」という文字が入っている。つまり自分がいるから、自分がどうなるかというハラハラドキドキの中で自覚がある。ところが宇宙の時代の変遷という視点から観ると、自覚なんて必要なくなる。たくさんの自我がまとまって、それが流れとなっていくのだから。そこに自分があると自覚ができて、「私はどうなるんだろう」「今まで積み上げてきたものはどうなるんだろう」「今水爆が爆発したら(家のすぐ脇にある)あの花豆はどうなるんだろう」と不安になるんだよ。せめてあの豆を収穫してから死にたいわ、とかね(笑)。そういうセコい話が出てくるんだよ。
すべてを手放すことだよ。手放すと、飽和安定に戻る。つまり、平和になる。執着すると、自分のものだ何だと言って格差が生まれ、ダイナミックになり、問題ごとがあふれ出す。その極め付けが今の時代だ。

ともこ:
矛盾はそこから学ぶために起きる。だから人間がそこから学べばいいんだけど、学ばずに嫌だ嫌だと言ってるんだよね。

いさどん:
嫌だ嫌だと言うのも矛盾なんだよ。嫌だと言う必要のないことに言ってるんだから。なぜ嫌だと思うのかというと、ある特定のところに意識が限定されているからさ。だから「ここは嫌だ」と言ってるんだよ。ところがそこからずーっと引いて全体を俯瞰してごらん。それは広い全体の中のほんの一部に過ぎないから。
この世界は、「カタチサキ」の世界だよ。まず現象化として、今の世界の状態がある。そしてその奥に、現象界を支える潜象界の存在があり、それによってこの世界の実体が支えられ、動いている。時代の流れの中で今、カタカムナ理論がそれを立証し、この世界の全容が観える時がやってきた。13000年前のカタカムナの時代には、そんな理論なんてなかったんだよ。紙が発達して学習できるようになったから理論が生まれたのであって、カタカムナ人の時代はその理論をただ自らの能力として生きていただけだから、「こっちに行けば食べ物があるぞ」「危険が迫ってくるぞ」と直感で感じ取っていた。そこではコミュニケーションは、極めて単純で、言わばそれこそが「阿吽」の世界だったんだよ。

 
生きていければいい

いさどん:
おもしろいねぇ、こうして観ていくとすべてがどうでもいいということになる。そう言うとみんな頷くけれど、本当はわかっていない。
我々はどうするべきか。この間こうちゃんが富士宮に帰ってきた時に、僕のところへ相談に来た。大町ビレッジを運営していくのにどうしたらいいか、と。「どうしたらいいか」というと、一つひとつの不具合を調整していくことになる。だけど、一つひとつの不具合をモグラ叩きのように調整していっても、一つ叩けばまた別のところでポコッと不具合が発生する。そこで、逆の方法もあるんだよ。何かと言ったら、ポコッと出たものをそのままにしておく。それはそういうものだ、としておくんだよ。それが個性であると。
きたじゅんがはっきりしないのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。くわっちがグダグダ言うのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。みほさんが見当違いなのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。こうちゃんが欲求不満で悶々とするのも、そのままにしておけばいいじゃない。そうすると何が起きるかというと、その結果定着する場所に至る。そこで何を恐れる必要がある?

考えてごらん。この道は、飽和安定する理想郷を創ることを目指している。理想郷とは何かというと、今の社会とは違う世界だ。今は理想郷から極めて外れた世界になっている。それは人々の欲がピークになっている状態で、ああなりたいこうなりたいという欲が渦巻いているとしたら、こうちゃんが大町をもっと安定した場所にしたいと思うのも同じことでしょう?そういう願望をすべて捨てると、アホはアホのように、迷いは迷いのように、欲求不満は欲求不満のように、それらがすべて表現された状態で、「それが個性だよ」と観ることができる。そういう人なんだ、と観れるようになった時に、落ち着くべきところへ落ち着くから。

その後にどうやってそれを納得するか。僕はこうちゃんに言ったんだよ。我々の道は、大金をつかむためのものでもなければ、社会的成功者になるためのものでもない。この道を行くということは、「生きていければいい」ということなんだよ。生きていって、つないでいって、そしてその中で出会う情報を受けて学んでいけばいい。冷静に考えてごらんよ。我々は借金があるわけでもない。雨が降っても食うものに困るわけでもない。雨が降らないからといって食うものに困るわけでもない。子どもを育てられないわけでもない。どこかに不足があるだろうか。ないでしょう。そうすると、何を怯える必要がある?世間には不安を駆り立てるような要因があふれていて、みんな不安だらけの中で右往左往している。だけど我々は、一切不安のない場を創ってるじゃない。だからこうちゃん、これでいいのよ、ってね。

目的は、生きていくのにまったく不安のない世界を築くことだとしたら、我々はもうすでに生きていけている。この中でこそ、心が悟っていく場ができるんだよ。どこかの山の中に入って特別な修行なんてしなくても、今現在環境は整っている。毎日ミーティングをやって、これじゃあいけない、これじゃあいけない、とやっているけれど、そんな何も生産しない時間を毎日持って、日々の暮らしは十分に食えてるでしょう?どこかの会社が毎日そんなことをやっていたら、倒産するよ。ところがうちはそれでも継続できている。だからこうちゃん、できているんだよ、と話したんだよ。

だけどヒロッチは、それでは納得しないかもしれないね。だって実際にわからずやばかりじゃないか、と。いいのよ、わからずやはほっとけばいいのよ。欲求不満もほっとけばいいのよ。トンチンカンもほっとけばいいのよ。囚われてるのもほっとけばいいのよ。そういう状態にしておいても、生きていけるんだから、すごい仕組みを構築したもんだよ。

これって、ヘン?

くわっち:
いやぁ、でもそれだけだったらもったいないなぁ。

いさどん:
それはあなたに何か目的があって、それを達成したいという欲求があるからだよ。だけどその目的を達成するには、「今現在すべてを与えられていて、問題は何もない」という位置に行った時に、その目的は達成されるんだよ。

くわっち:
・・・ちょっとよくわからなかった。

いさどん:
そりゃあわからんよ。現状の問題ある状態があって、問題があるのに、よくよく違う視点から観たら何も問題はないということだから。明らかに問題があって「これではダメだ」という状態が、明らかに問題がないわけだ。もっと引いて観たらね。ということは、問題ない世界に行くためには、それに気付くだけだよ。「問題ない」ということにね。

 
世界を理解することで、世界と一体になっていく

いさどん:
すごくいい話だった!というところに落とせるかな~と期待していたら、ちんぷんかんぷんで終わることになったね。最終的にはどうでもいいんだよ。
「これじゃあいけない」というのは、(テーブルの上にある硬い茹で落花生を指して)この落花生はこれじゃあいけない。これで茹で上がったことにしちゃいけない。これでは足りないねということにしないとダメだね、これは。

みほさん:
はい。

いさどん:
あ、その「はい」は違ってるよ。僕は落花生の茹で方に特定した話をしたわけじゃないのに、あなたは落花生のことだと思って聞いている。何が言いたいかと言うと、ものには活かしどころというものがあり、これは活かしどころに行っていないよ、ということ。活かしていくという話をしてるんだよ。

ともこ:
だから、「これじゃあいけない、なんとかしよう」の延長線上に突破口はないんだね。

いさどん:
ない。それはない。

くわっち:
「活かす」という視点だということ?

いさどん:
違うよ。「気付く」という視点だよ。

宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円(球体・アマ)が発生し、そこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤ」と現象化への道が進み、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する。その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると現象化が起きる。それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」という世界を創造するために、飽和安定からこぼれ落ちる九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では、まだこの世界は「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。
だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元でもある。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。だからさっきの話でも、「そうか、こういうふうになっているんだ」と理解したところで、それが悟りだ。生きるということは、その連続だよ。「なるほどこういうことか」「なるほどこういうことか」を繰り返していくことで、世界と一体になっていく。

くわっち:
じゃあ普段のことでも、気付くことで ―――

いさどん:
進んでいくんだよ。だけど自分の言っていることがどういうことなのかにも気付いていないでしょう?それは宇宙から外れているということだよ。でも気付かないのも、そういう人だということで、僕はこうちゃんに「いいじゃん、放っておきな」と言ったんだよ。そうして気付かない状態を積み重ねていくと、10が限界であるとしたら、1で気付くのか2で気付くのか、はたまた気付かないまま10まで行って、そこで気付くための現象に出会って気付くのか。それを、10にならなければわからない者に1の段階で気付けと言ってもわからないのだから、放っておきなと言ったんだよ。
それはなぜかというと、こうちゃんがきたじゅんをどういうふうにサポートしたらいいのか、みほさんの見当違いをどう伝えたら直るんだろうかと自分の悩みにしてるんだよ。だから、違うよ、それはきたじゅんの人生であり、きたじゅんの悩みなんだから、その悩みはあなたが持っちゃいけないんだよと伝えた。みほさんの見当違いはみほさんの見当違いなんだから、みほさんに任せておけばいいんだよ。じゃあそれを見ながらどうしていったらいいのかとこうちゃんが聞くので、僕はこう言った。「いいじゃない。生きていけてるんだから」。
生きている限り、その変遷を見ることができる。変遷を見るということは、客観的視点でそれを観ていくということであり、それが悟りだ。

 
現代物理学を超える世紀の学会

いさどん:
もともと宇宙は、ものすごく昔の宇宙も、遠い未来の宇宙も、同じ世界なんだよ。地球がAからA’へ、A”へと進んでいくでしょう。そうすると変化しているように見えるけれど、実はそのすべてを包み込む器は同じなんだよ。湖にポーンと石を投げ入れたら波紋が起きて、それまで何の動きもなかった湖面に動きが生まれることでそこに「ある」ということが認識されるだけのことだよ。

みほさん:
器は変化しないんだ。

いさどん:
しないよ。この世界そのものだから。でもその中にいる者が、そんなことを考える必要はないよ。
僕は昔、神様にそういう質問をした。この世界はあなたがすべてであるのでしょう?と聞くと、神様は「そうだ」と答えた。ではあなたがこの世界のすべてであるならば、あなたがすべてではない、別のものがすべての世界が隣りにあるのでしょうか?と聞いたんだよ。すると神様は、「お前はそこまで考えたのか、仕方がない、私の実体がわかったものはそこまで思考するのだ、それが人間というものだ」と言い、質問に対しては「あるぞ」と言った。
当たり前だよね。宇宙は必ず対で成り立っている。「ある」というものが存在しているのであれば、それを成立させるもう一方の存在がないと成立しないのだから。バランスなんだよ。だから「ある」というものを特定したら、それを成立させる「ない」か何かが必ずあるんだよ。
そこで僕は、馬鹿な質問をした。「そのもう一つの世界とは、どんな世界ですか」と。それは質問をしたというよりも、瞬間的にそう思ったんだよ。そうしたら即座に答えが返ってきた。「そんなことを考えてどうする」と。つまり、ここの中にすべてがあって、ここの中に存在していて思考も何もすべてここの中にあるおまえが、もう一方の世界を理解できるわけがないだろう、それは無駄なことだからやめなさい、と言われた。そう言われて僕は、ああなるほどと納得した。

くわっち:
まったく違うから?

いさどん:
まったく違う世界を想像できる?

くわっち:
できない。

いさどん:
ではその思考は無駄だろう。それで神様に「やめなさい」と言われ、僕は「ハイ、わかりました」と納得した。だけど、今のこの世界に対して、対になる世界があるのは確かだ。物理学は今、それで行き詰まっているんだよ。
この世界は陰陽の対向発生によって成り立っている。例えば男と女のように、必ず対になる存在があって、互いにバランスを取って成り立たせ合っている。カタカムナの世界観まで行くと、その仕組みを解明することができるんだよ。
ところが、現代物理学はこの宇宙の中で、現象という「ある」目線からだけでその仕組みを解明しようとしているわけだ。それが究極になっていくと、この世界全体を捉えるところまで行くことになるだろう。そこでこの世界をAとしたら、それを存在させるBなのかもしくはA’なのかA⁺なのかわからないけれど、必ず対になる存在があるはずなんだよ。A⁺が存在すれば、必ずA⁻がある。あるものを理解するには、必ずそこから離れて、それに対抗する側から観る必要がある。マイナスから観るからプラスがわかり、プラスから観るからマイナスがわかるんだよ。
ということは、我々がこの世界を理解するためには、例えば今A⁺の世界にいるとしたら、A⁻に行ってみたらいいんだよ。ところが、そこへ行くための思考回路は、人間という物質性の思考を超えたものでなければならないんだよ。今我々が光を基軸とした世界にいるとしたら、その光すら超越しなければならない。今の世界を理解するのに思考を使っているとしたら、思考すら超越しなければならない。光の世界での最速のものは光だよね。でもあちらの世界に行くには、光を超えたものでなければならないんだよ。我々の存在は光が基軸だから、光を超えると消滅する。つまりどう考えても、向こうへは行けないんだよ。そうすると、この物理学の探求では、限界に突き当たってしまう。

現代の物理学はそこまで来ている。だからもう、どうしようもないんだよ。現象の世界だけをすべてとして、その中だけでこの世界を解釈しようとしている。しかしこの世界を理解するには、現在の物理的思考回路では解釈できないところへ行かなければならないのだけれど、物理学者や科学者はそれを超えた世界を認めないんだよ。
そこで、カタカムナに至って初めて、物理を超えた、物理が発生していない「ない」という世界の存在を知ることによって今の行き詰まりを突破できるのだから、カタカムナ理論をもって、次の世界が観えてくる。宇宙の本当の悟りに至るんだよ。エラいものに出会ったもんだなぁ。ここは世紀の学会だよ。大したことないメンバーだけどね(笑)。

本当は今日は蜂の点検をするんだから8時からやらなきゃいけないのに(みんな:笑)、もう9時になっちゃったよ。今日はありがたいことに雨が降っていて、ここの人たちもやることがないから「手伝うよ」と言ってくれて、でもたいして役に立たないから(みんな:笑)どうやって使おうかな~と考えていたらこんな時間を持つことになった。それでこのままずーっとしゃべっていたら、結局何もやらないで終わったりしてね。それでもいいんだよ。別に蜂は怒らないし。それでも生きていけるんだから、これでいいのよ。

でも、やろうね(^m^)

 
21世紀への大いなる実験

いさどん:
要は、すべてどうでもいいじゃんという世界が結論なんだけど、それでも今ふと気が付くと、生命が生きているという物質性の変化変容の躍動の中にあって、デレーッとしてたらいかんだろう。短く区切って現実を見たらね。そうやって今を生きて、瞬間瞬間をつないでいくんだよ。結論は求めない。ただ、行ってみた先にある結果をいただくだけ。
そういう飽和安定を持って今を生きている人たちがいたら、そこには危機感がない。不安もない。そうすると、どんな世界ができるか。その状態に至った人たちが「創る」ということはないんだよ。それは「いただく」だけの世界だよ。いただくだけのところに至った人たちが生み出す空気というのは、とても不可思議な世界だ。それは宇宙を生きるということ。それをロータスランドで表現しようと言っているんだけど、まだ至っていない。我々もまだ知らない。僕も行ってみないとわからないんだよ。だけどそれはきっと、めちゃくちゃおもしろい世界だろうね。それこそ、「あれ?ここはどこだろう?」という世界だ。

これは21世紀への大いなる実験だよ。人間がそこへ行けるのかどうなのか。でもいずれは行くよ。あと12900年もすれば光のピークへ行くんだから。かつてカタカムナ人たちが、宇宙のままに生きていたように。勉強しなきゃ、とか、成果を上げなきゃ、なんてことはなーんにもない。だって地球は、そこに存在するものすべてがネットワークの中で存在するように創られているんだから。
金星に行ったって、物理的には生きられないよ。金星は物理的には常に熱風が吹いていて、とても生命が生きられる場所じゃない。月は風も吹かず地殻変動もないから、アポロ11号のアームストロング船長の足跡がいまだに残っているだろう。あれから50年近く経つのに、まだ足跡が残っているんだよ。
地球なら、そんなことはない。常に変化変容し続けて、「この間草を刈ったばかりなのに、もう草だらけじゃん!」というくらい、いたるところに生命があふれている。これを当たり前だと思っちゃいけないよ。これは特別に創った世界なんだよ。だからおもしろいんだ!と、思えたらいいんだけどね。
実際、物理的にもそれが立証されているんだけど、それが当たり前であることに慣れ過ぎちゃって、新鮮味が感じられないんだよ。

太陽系の闇のピークと連動して、地球上に人口のピークが来ている。過去にこれほど爆発的に人間が増えたことはない。有史以降は記録があるから明らかだ。有史以前は記録がないが、どちらにしてもその頃の歴史はそう大したものではない。今は非常に複雑化していて、歴史に刻まれなければならないようなことがあちこちで起きている。北朝鮮は一生懸命水爆を作ってるしね。ピ――――ッと長い間一直線の横ばい状態で進んできた歴史が、産業革命以降に急上昇して一気にピークになった。そんなことが過去にあったかといえば、ないんだよ。

では、もっと視野を広げてみよう。これはもしかすると、過去に生命の大量絶滅がくり返し起きたのと同じように、生命の大変革の兆候かもしれない。そういう意味で言ったら、過去に同じようなピークというのはあったんだよ。今から6500万年前に恐竜は絶滅したけれど、あの時も一種の生命のピークだったんだよ。そこに隕石が落ちてきて、それまでの生物がリセットされた。それと同じことが、もしかすると今、起きているぞ。楽しみだろう?大量絶滅♪ (・∀・)

時々、朝にパッと目が覚めて、あ、NHKの7時のニュースを観よう、と思う時がある。この間もそんなふうに目が覚めてテレビを付けたら、孤立死の特集をやっていた。それを観てから、日本、ヨーロッパ、そして世界の人口推移について調べた。そして今は歴史上特別な状態であることが観えてきたわけだけど、そこで僕は「これはいかん」と思ったんだよ。今、うちには心のケアで滞在している人が4名いるけれど、彼らを自立させたら孤立死の道を歩ませることになってしまう。それで彼らを呼んで、時代を読み解くプレゼンテーションを行った。
NHKの特集からここまでのことが読み解ける。こういうことに気付くとおもしろいぞ~。それは番組からヒントを得たことだけど、その前にパッと目が覚めて「ニュースを観よう」と思うことも流れの中に在るんだよ。

ともこ:
ねぇ、「心の水爆」は、気付きの種だね?

いさどん:
フッフッフ。ちょっと表現が違うな。

ともこ:
じゃあそれを表現すると?

いさどん:
そうやって聞き出そうとするんだろ?話さないよ。(みんな:笑)すごくカンタンなことだよ。

 

 

────── いよいよ最終章「大町道中記④」へつづく!

 


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