セントラルサン、そして地球に生きる全ての人へ 〜 富士山麓からのメッセージ

私たちの生きる現代社会をひも解いてみると、人類の営みは今や地球規模に広がり、この世界を支配しているかの如くに見えます。しかしながら、その人類の存在は、この地球世界に健全なる秩序をもたらしているとは、とても言い難いものであります。人々は個々の自我から湧き出す欲望を満たすために、互いに争い、奪い合い、格差を生み出す未熟で貧しい世界を創り上げている現状があるのです。
本来、地球生態系とは、多種多様な生命が調和し、共生する、豊かな世界を表現するものです。そのような世界において、現代の人間たちが求める豊かさは自我の願望を叶える方向へと進み、すべての生命が調和し美しくあるはずの世界へ、無秩序をもたらすこととなりました。それでもなお人間は、自らの自我の求める方向へと歩みを進めることに何ら矛盾を感じることなく、今なお進み続けています。
地球の歴史を振り返ってみても、さらには宇宙の成り立ちを感受しても、そのような一方的な歩みのもとに秩序がもたらされることはなく、また、世界の現状を観れば、このまま継続して社会が成り立つことはあり得ないことが、そろそろわかり始めています。そこで、そういった現状の人類のあり方に憂いを持つ者として、未来に対する懸念からメッセージを送るものであります。

私たちは、今から25年前に、富士山のふもとに木の花ファミリーを創立し、その志を実践する歩みをスタートさせました。それは、現代を生きる多くの人々の意識では、不可能とも言える暮らしです。当時、これから何を目的とし、どのような行動をしていくのか、そこに参加した者たちですら、誰も理解していませんでした。私たちをその行動に駆り立てたのは、思考を巡らせることではなく、直観と信頼だったのです。
この歩みの発起人である私は、それまでの霊的な出会いと直観から来る「これを自らの人生の大目的としてやらねばならない」という何の裏付けも根拠もない思いから、この暮らしをみんなに提案しました。それに対し、その私に出会った創立メンバーたちは、ただ信頼のもとに、何ら保証のない道を歩み始めたのでした。その原動力となったのは、心を正し、美しい心で生きるという、一貫した姿勢です。美しい心を持って人類の未来、そして地球の未来に対応しなければ、人間はいずれ、地球上に存在する意味を問われることになるでしょう。しかし現代を生きる人々の多くは、そのことに気付けない意識の状態になっています。だからこそ現状の社会の行き詰まりがあり、社会の実態を観れば観るほど、それは明快に観えてくるのです。

そこで、私たち人間は、次の時代をどのように生きるべきなのでしょうか。
近代の人間社会を観ると、人々は法律や制度のような人間都合の仕組みを創り、その場を構成する人々の思惑のもとに築き上げた縛りの中で、秩序を保とうとしてきました。しかしその仕組みは、人間よがりであると言えます。即ち、もう一回りも二回りも大きく広い視点で観ると、この世界の実体は、太陽系、さらには銀河のような、巨大な宇宙の法のもとに地球が存在し、その地球の法のもとに生命生態系が存在しているのであり、私たち人間もその法に倣い、同じ法のもとにあるすべての存在と共生することによって初めて、人間社会の秩序が持続可能なものとなるのです。
残念ながら、これまで人間たちをリードしてきた、人間の欲と思惑によって選ばれたリーダーたちは、そういった世界の根本的な仕組みに気付けない精神状態となっています。だからこそ、彼らは今の時代のリーダーとして相応しいのでしょう。それは、地球の現状をこのような切り口から分析していけば明快に理解できることですが、そのような思考回路がない状態に、現代のリーダーたちは陥っていると言えます。そして今の社会の状態は、決して一部のリーダーたちの意識によって現象化しているのではなく、現代を生きるすべての人々の集合意識によって創られているのです。

そのような中、ささやかではありますが、25年前に、先行きがまったく見えずどこへ向かうのかもわからない人々が、ただこれからの時代にその生き方が大切になるということを感じ、血縁を超えた人々が共同する暮らしを始めました。この歩みに対するかすかな勘だけを頼りに、そしてその勘すらも持ち合わせていない者は、ただ互いの信頼だけを持って歩み出し、今日までやって来たのです。その暮らしの最も大切な柱となった理念が、心を美しくすることでした。人間であるが故に自我が優先し、その自我から生まれる汚れが出るたびに、メンバーたちはそれを問い、吟味し、磨き合ってきたのです。それは、現代社会を生きる多くの人々にとっては、当然ながら苦痛とも思えることでした。ですから、理想は高くとも自らの現実に向きあえない人々は、このような暮らしへ参加することに限界があり、脱落することになりました。そういった人々に限らず、現代を生きる多くの人々にとって、自我を超越し、自らの内に存在する真我を呼び覚ますことは、容易なことではありません。しかし、人間の存在の起源は神聖なる生命であり、生命としてそれが最も重要であることは、何人も自らの内にある本質として知っているのです。
人間は、他の生命にはない、多彩で個性的な自我を与えられています。自我は、世界に多様性をもたらすのです。人間が自我を与えられた真の目的は、その多様性をもって世界を豊かに表現することにあります。一人ひとりのオリジナルな個性は、そのための役割として与えられているのです。しかし、人間はその独自の進化の歴史の中で、自我がもたらす多様性によって豊かさを表現するのではなく、自我から湧き出す個々の願望を叶えようとする方向へ進み、それぞれが求める幸せを追求した結果、多様であるがゆえに世界に不調和をもたらすこととなりました。そういった人々の欲の延長に選ばれたリーダーたちがどんなに国を豊かにしようと思っても、人間のあり方を根本から見直さない限り、幸せを求める心のボタンの掛け違いが現状の社会の混乱を起こしていることに気付くことができず、生命としての正しい秩序を世界にもたらすことはできないのです。
木の花ファミリーの暮らしが今日まで続いてくることができたのは、一人ひとりが自らの心を美しくするという目的の柱があったからであり、その背景にあるのは、高い意識の精神性 ─── 即ち、愛と信頼です。この世界の大本は、愛による美しい調和から成り立っており、これからの時代においては、その成り立ちに沿ったクニツクリをするべきなのです。

そのために、高い意識の優れた道理を語れる者とならなくとも、ただ正直であり、素直であり、自らの損得を元に思考を巡らせるのではなく直観にゆだねて生きていけば、この世界の実体である美しい世界へと至らしめることができるのです。なぜならこの世界はもともと美しく、ただ人間が自らの欲によって、それを汚してきただけであるからです。今、いよいよ人間が自らの優れた能力を、大本より求められている目的に向けて発揮するために、野心を捨て、真に美しい世界を創る時が来ているのです。
真実は、私たちは自らの力によってこの世界を生きているのではなく、宇宙の大いなる仕組みの中で命を与えられ、生かされているのです。ですから本来、私たち人間は、自らを生かしている世界の側の意思に沿って生きる存在であり、自らの側から湧き出す願望を叶える立場にはいないのです。その精妙なるメッセージを受け取るためには、自らの思考回路のもとにある精神を美しく磨き上げなければなりません。そのような状態に至れば、天体が私たちに、どう生きるべきかを伝えてくれるのです。その天の命(めい)を受け取り、自らの生き方に反映していく。それが地上を生きる本来の人の姿勢であり、生きるとは、天命の表現なのです。
現代の人間社会にも、共同体の形を取る場は数多くありますが、個々の自我を満たすことがその場の目的になっている限り、自我は増幅し、いずれ矛盾を発生させます。その状態になると、場を継続させることは不可能となります。過去の宗教のように、ある特定の囲われたエリア内で継続していくことは可能であったかもしれませんが、それは特殊な世界であり、一般の人々は受け入れないものでした。だからこそ今、開かれた目覚めが求められています。視野を広げてみれば、地球も宇宙の中では特別なエリアであり、ひとつの共同体です。地球上に生命として生きる私たち人間はそのことを悟り、天の命を受け、それを物理性として地上に表現した時、地上に美しい世界がもたらされることでしょう。それが地上天国です。それが宇宙が私たち人間を地上に降ろし、託した目的なのです。

私は今、湧き出す想いを天に向かって「肉体人間の立場を取るものが、やっとその意思を気付きとして語れるようになりました」と発信しています。それは、宇宙から託されたものを人間の真の目的として成し遂げるという宣言であり、その宣言は、銀河運営センターであるセントラルサンに向かって発信しているのです。それが、もともと天から降りてきた人が地上に生きる上での本来の姿勢です。
人がそういった意識レベルに到達すると、霊的な気付きは物理性となって自動的に表現されます。そうすると、天地の間には多少の誤差が発生する時を迎えます。そのことが理解できない人々には、宇宙は混乱、無秩序、対立、破壊といった現象をもって伝えられることになるでしょう。これから確実に、私たち人間にも、そして他の生命にとっても、厳しい時代が地球上に訪れます。これまでの人類の数々の行いの結果、今や地球上には様々な矛盾の現象化として物理的及び霊的なゴミがあふれ、本来美しく豊かであるはずのこの星は、宇宙のごみ溜めと化しているのです。本来、宇宙にゴミは存在しません。なぜならば、すべてが留まることなく循環し、常にプラスとマイナスの対向発生により、繰り返し矛盾を解き放つのが宇宙の仕組みであるからです。もしもその矛盾の発生源が私たち人間であるならば、その矛盾の解放と共に、発生源である私たち人間も淘汰される対象となるのです。ゴミとは、本来の自然の循環から外れた状態だということであり、人間もその矛盾の発生源であるならば、自ずと不要なものとなるのです。木の花ファミリーでは、心を磨き、古の叡智であるカタカムナの物理性を生活の中で実践することにより、世界観(物理性及び霊性)を広げ、自らが媒体となって宇宙の法を現象世界へと引き出し、プラス過剰となった現在の地球の状態をリセットする作業を意識的に行っています。そのような現象世界の矛盾を解放する行為を物理的に行うことができる能力は、唯一人間だけに与えられたものです。その能力は、その意識レベルに到達した精神性を有する者に自ずと現れます。そしてその精神性の大本は、宇宙の霊性にあるのです。

これまでの人類は、霊的見地からの物理的探究が不十分であるがゆえに宇宙の実体を理解できず、物理性のみをベースとして宇宙をひも解いてきました。その結果、今、物理的探査が進み、科学を通してより正確に宇宙を観察できるようになりました。生命についてもまた、科学を通して探求し、その科学的視点に霊性を照らし合わせて観ることによって、人間の存在の意味が垣間見えるようになってきたのです。
しかし、どれほど科学が進歩したとしても、最終的には、この巨大な宇宙を我々物理的人間が科学によって解明することは不可能です。宇宙の実体は物理的宇宙の奥にある、霊性にあるのです。私たち人間の本質も霊性にあり、その霊性をもってこそ、宇宙を解明することが可能となるのです。そういった意識レベルで宇宙の総意を感受し、そこからこの世界の実体を自らに降ろすことにより、宇宙が何ものであるかが明快になってきます。そのような状態に人の意識が至れば、私たちは宇宙の意思と共に生きることができるようになるのです。つまり、私たち肉体人間は、物理的にはこれほど小さな存在であっても、宇宙そのものとして生きることが可能となるのです。そしてその意識レベルに到達した魂は、いずれ肉体という小さな物理的枠から解き放たれた時に、この世界に遍満するものとして宇宙と合一することになるのです。

地球に生きる私たちは、日々の中で様々な物理的現象に出会います。それは、その現象からきめ細やかな学習の機会を与えられ、生きているということです。そこで自らの思惑から外れたことに出会えば、その未熟さゆえに、人間は悲しみ、怒りもするものです。しかし、宇宙の法とは因果応報であり、輪廻転生であり、常に新陳代謝を繰り返す永遠なる循環の世界です。その中で特定の状態に執着する思考を持っていれば、循環の中に滞りを生み、宇宙の意思から外れていくのです。その囚われから、人間はどれだけ自らを解放することができるでしょうか。
何人も、世界の現状を自らと切り離して捉えるのではなく、自らのあり方が世界の現状を創っていることに責任を持ち、謙虚な姿勢で生きることの表現に取り組んでいかなければなりません。これまでの人々は、問題ごとに出会えば自らを差し置いてその問題ごとに怒りを向け、批判をする立場に立ってきました。けれども今私たちに必要なことは、怒りや批判ではなく、宇宙の中で私たち人間がどのような存在であるかに気付き、自らが謙虚に生きることなのです。
そのような意識レベルに到達した時、私たちは、この世界がすべて愛でできていることを、知ることとなるでしょう。私たち木の花ファミリーは小さな存在ではありますが、これは地球の未来に向けた、宇宙秩序に基づく生き方の実践です。宇宙の成り立ちがそうであるように、地球の生態系に表現されたその尊い宇宙の奇跡を、そこに生きる私たちは、ふさわしく表現していかなければならないのです。

 

目覚めよ。
その目覚めが、宇宙の奇跡である地球と共に、人類が尊き存在として歩むことにつながることを願って ──────

 

 

 


One thought on “セントラルサン、そして地球に生きる全ての人へ 〜 富士山麓からのメッセージ”

  1. Beautifully written; so happy to see this today. My love to all at Konohana. Maybe I will see you in November. Jenny

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