僕は30歳の時に、お釈迦様に出会いました。
30歳の12月26日に、ふと気が付くと、頭の上に黒い男の人の姿がありました。それは、お釈迦様でした。以来9年間、僕はお釈迦様から心の学びを頂いてきました。
最初の2年間は、泣いて暮らしました。それは自分を否定していく道だったからです。自分の中に、ああしたい、こうしたい、という自我の欲求が湧いてくる。でもお釈迦様が説かれることの方が、自分の中から湧き出す思いよりもはるかに優れている。ならばその優れた方を選ぶしかない。
そうして自分の思いを否定していくうちに、まるで自分が消えて無くなってしまうかのような淋しさに苛まれ、そのように未熟な自分が情けなくて涙を流し、それでもその自らの思いを超える、より優れた方、より道理の通った方を選び、歩み続けました。
そして9年が過ぎたある日、お釈迦様は「私の役割は終わりました」と、僕のもとを去られました。その時僕は、自分はまだ未熟であなた無しでは歩むことができません、行かないでくださいと懇願しましたが、お釈迦様は「あなたは十分に育っています。歩んでみなさい。歩めるから」と言い、天へ昇っていかれました。そう言われたら、自らの思いを否定し、その命に従うのが僕の常の姿勢です。ならば私は歩みます、と心に決め、自分はもう霊的な存在と対話することはないのだろうと思っていると、その直後に、日の本の神様が現れ「これからは我がそなたを守護する」と言われたのです。
*ジイジの霊的な歩みについては、「木の花記~金神様の巻」でご紹介していますので、より詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。
その後、僕を守護する神様は七度替わられました。そして最後に現れたのが、「あってあるもの、なきてなきもの」です。
日の本の神様に出会ってからの1年間、僕は神界というものの多様性を学んできました。そしてある時、故郷の氏神様である滝神社の262段の階段を降り、実家に向かって歩き出したところで、上に何ものかがいることに気付きました。その日は快晴で、空は高く澄み渡っていました。僕はその何ものかに向かい、「どなた様ですか」と尋ねました。神々様には皆名前が付いていたので、僕は新しい神様に出会う度に名前を聞くことが癖になっていたのです。しかしその上にいる何ものかは、何も答えませんでした。そこで僕はもう一度「どなた様ですか?」と尋ねました。するとその存在からは、こう返事が返ってきたのです。
「名などない。」
僕は、困ったなと思いました。名のない存在をどのように認識したらいいのだろう?そう思っていると、その存在からは続けてこう返ってきました。
「我は、あってあるもの、なきてなきもの。」
そう言われても、僕にはさっぱり意味が分かりませんでした。その時僕は40歳か41歳。富士山麓へ移住する前のことです。
その後富士山麓で木の花ファミリーを創立し、人々の心の目覚めを促す活動を続けながら、その暮らしは常に「あってあるもの、なきてなきもの」と共にありました。そして19年が過ぎたある時、縁あってカタカムナに出会いました。そこで「ある世界」と「ない世界」という、この世界の構造を解き明かす概念に出会った時に、初めて「あってあるもの、なきてなきもの」が何であるかの裏付けを得たのです。
この世界は「カタチサキ」、つまり、物理的肉体を持って現象世界を生きる私たちは、まず物理性であるカタチから物事を認識します。それが「あってあるもの」です。そしてその奥に、その物理的現象世界を成り立たせる、根源的な世界が存在します。それが「なきてなきもの」の座する場です。
カタカムナに出会い、僕は初めて、あの時自分のもとに現れた存在は宇宙の実体そのものだったのだということを理解しました。それは、人間のように名を持ち、特定の意志表示をするものではなく、この世界の全て ——— 「ある世界」だけでなく、その奥にある「ない世界」までも含めた、この世界の実体を示されたのです。
出会った時にはさっぱり意味が分からなくても、分からないからと否定するのではなく、そのままを頂いて、歩んでいくと、その歩んでいった先に解答が出ます。そしてこの姿勢は、行き詰った現代の物理学を新しい世界へと導きます。
現代科学は、物理的な現象をもって証明できることだけを真実とする、現象一辺倒の世界です。しかし、現象だけでは解決できないのがこの世界です。私たちは一人ひとりにそれぞれのオーラがあり、響きがあります。そして心があります。そういったことをどう捉えるのか。科学の世界の人々も、アインシュタインがそうであったように気付いてはいるのですが、結局は物理的に立証できることだけを真実としなければ、怪しい世界がいくらでも広がって秩序が取れないのです。
だからこそ、もっと広い世界から、世界の実体を捉える必要があります。対向発生という仕組みから世界を捉えていけば、もっとこの世界の成り立ちが理解できるはずです。しかし、広い世界ではなく、自分の見えるところから探求していくと、自分が見えること、自分が理解できることのみを真実としてしまうのです。そうすると、限界が生まれます。自分の度量によって見える世界は違ってくるのに、見えないものを無しにしてしまったら、その先へ進むことはできないのです。
多くの人は、自らの心のキャパシティを超えるものを認めない傾向があります。そうすると、人間が進化しません。物理化学の世界は、その分野としては進化したかもしれませんが、人間の本当の進化を妨げています。そういったことを、物理化学の世界の人々は、理解しなければなりません。
自らの価値観を取り払うことによって、新たな価値観が入ってきます。排泄せずに、食べ続けることができますか?息を吐かずに、吸い続けることができますか?それと同じことです。
この当たり前の事実が通用しないのが現代の世の中です。それが人間の限界を作っています。人間がその自我の枠を越えた時に、本当の進化が始まるのです。