イスラム教徒は何を伝えようとしている?~ダッカ人質テロ事件から時代を読む

バングラデシュで、日本人7人を含む28人が死亡するテロが起きた。マスコミでは多くの報道がなされていたが、この出来事の背景を観ようとする視点がどこにもない。ただ「テロは悪い」ということばかりがニュースから流れてくる。

バングラデシュの高学歴で裕福な若者たちが、なぜテロを起こすに至ったのか。
バングラデシュは新興国として今、著しく産業が発展していく過程にあり、これから中国に代わる発展途上国の代表的な国として、希望に燃えているはずだ。そこでこのようなテロが起きているということは、今のモノカネ重視の価値観に矛盾を感じ、キリスト教国に代表されるような現代社会の価値観に異議を唱えるイスラム教徒の存在があるとも捉えられる。
実行犯は、わざわざシリアやイラクへ行ってISに参加したのではなく、バングラデシュ国内の組織からの支援で犯行に及んだと言う。若者たちが自国にいながらインターネットで刺激を受けてテロリストになっていく事例は、アメリカやフランスでも起きている。それはなぜかと言うと、彼らはISに共鳴しているというよりも、自国の体制に不満があるのだ。

バングラデシュは今、目覚ましい経済発展を遂げているが、その中には必ず近代化していく社会にひずみがあり、貧富の格差も生まれている。若い世代の中には、そういったことを許さない純粋さがある。「黙って働いて金を稼ぎ、豊かに生きればいいのだ」という発想に対し、命をかけて金ではないのだということを訴えているとしたら、この金ばかりの世の中がおかしいのだという反感を持っている人間が今の世の中にはいるということだ。
ところが日本人は、なぜ日本がこんなに貢献しているのにテロリストの犠牲になって死ななければいけないのかという視点一辺倒になっている。ではその貢献とは何かというと、JICAの支援の下に企業に携わる人々がプロジェクトを組み、ダッカの交通網を整備して、経済を発展させることが目的だった。その背景にあるのは、個人は個人の、企業は企業の、国家は国家の利益を求める心だ。中には途上国を支援したいという純粋な想いもあるが、そうやって途上国を支援した結果どうなるのかと言ったら、今のアメリカやヨーロッパや日本のような国がもう一つ増えるということだ。
新しい世代の人たちは、もうそれでは駄目なのだということを理屈ではなく感じている。そういう人間があのような行動を起こしているということを、考えていかなければいけない。それは時代を感じるということだ。

彼らも、ISも、これまでの世界の矛盾を表現している。もしくはこれまでの時代の終焉を示していると捉えられる。そのように、時代の流れを感じ取りながら、ものごとをバランス良く平等に観ていくことが必要だ。
昔は、今よりもまだ双方を見るということをしていたはずだが、今は極端にテロだけが悪になっている。確かにテロを引き起こしている人々は問題だ。しかし逆に言えば、この社会という器の中でテロが起きているのだから、自分たちが構成している社会がそれを創り出しているのであり、誰もが自分のせいであるとして振り返らなければならない。そういった世界観が、現代社会に欠けている。テロを起こす側を一方的に悪として、自分たちを正義の側に置いている多くの人間たちの体質が問題なのであり、それが現代社会の様々な歪みを生み出しているのだが、そのことに気付いている人はほとんどいない。
だからこそ、バランスよく内外を観て、特に自らの内を先に観るということをしなければならない。すべてを一度リセットし、内外をなくして、人間とは何ぞやということを探求する必要がある。そこにこそ、次の時代への希望がある。

イスラム教徒の正義や真剣さは、どこから来るのだろうか。

現代のイスラム教徒は、キリスト教徒などに比べ、どちらかというと虐げられる立場にある。しかし、最初から差別があったわけではない。差別を受けているということは、結果としてそうなっているということであり、そこに至るようなそもそもの彼らの在り方があったからそうなっている。彼らが命までかけてやろうとしている、他と相いれない部分があるということだ。

何かを正しいとして固定してしまうと、それと相いれないものとの間で対立が起きる。もしも地球上に一つの価値観しかなく、すべての人が人間はこうあるべきだという共通認識の元に生きていたら、そこにはそれしか価値観がないのだから、正しいも正しくないもなくなる。ところが、現実には価値観はいくつもある。
しかし一方でまた、人間は実に単細胞であるとも言える。グローバル化だと言って、お金でほとんどのことが解決されるような一辺倒の価値観に世界中が染まってしまった。例えばライオンはアフリカだけに生息しているが、その中でも土地によってたてがみが多いものもいれば、少ないものもいる。雄が協力して狩りをするものもいれば、しないものもいる。その土地ごとの自然に合わせてそうなっている。それは天と共に生きているということだ。それに対して人間は、世界中がモノやカネを優先する価値観で単一化され、自然の中で大らかに暮らしていた遊牧民や先住民族たちもお金を欲しがるようになった。
その中で、イスラムの人々が命をかけてまで訴えようとしていることの原動力は何なのか。イスラム教にはジハードという概念がある。そもそも、生きるということの意味が違うのではないか。

彼らは信仰を一番にして生きている。物理的なものを最優先にするのではなく、生きる上での信条や意味を大切にしようとする。だから死をも覚悟している。彼らはそういったことに共鳴する魂たちであり、それが基準でスタートした者たちにとっては、それが当たり前なのだろう。
例えば、グチグチと被害妄想ばかり言っている人がいるとしよう。一般的な健康を基準にして見たら、そんなに愚痴ばかり言うのは間違っているよ、ということになる。しかし、グチグチ星や被害妄想星に住んでいる人にとってはそれが基準であり、それをベースにして生きているのだから、その通りに生きるのがその人らしいということになり、当たり前のことである。それを別の価値基準から見て「あなたは間違っている」とは言えないものだ。

今の社会に対して、イスラム教徒たちが、彼ら流の価値観で何かを訴えている。一口にイスラム教と言ってもいろいろあり、さほど過激ではない人々は、過激とされる人々と同じような思想は持ってはいても、それでは世界全体とうまくやっていけないからほどほどのところで妥協をしているところがある。妥協しない人たちは過激思想と言われ、彼らは自らの信条に則ってとことん社会をイスラム化しようとした。そこで、彼らの思想と相いれない、自分たちの価値観こそが絶対だと考えている者たちがいて、互いに相手が間違っているとして対立が生まれた。
そこには、どちらが社会的にメジャーなのかという違いがあるだけだ。イスラム教が世界の主流になったら、今のモノやカネや酒などに溺れている人々は、間違っていることになる。基準がどこにあるかによって、排除される側と排除する側が変わるだけだ。
例えば、キム・ジョンウンを世界の基準にし、外からの情報がなくなれば、それが当たり前の世界になる。違う秩序があるからあれが異質なものとされるだけで、それしかなくなればそれが秩序になる。

そういったことをすべて超えて、もう一度価値基準を組み換えられないだろうかと考えた時に、何を基準として取り入れるかと言ったら、自然の成り立ちだが、今の自然はずい分人間に汚染されておかしくなってしまったので、やはり宇宙の法則に沿うということだ。星と星との関係やその成り立ちを、もう一度地上に降ろす。
その昔、この世界には地球という意識はなかった。我が星という意識はなく、宇宙そのものだった。ところが、人類の歴史の中で「所有」という意識が発達してくると、「自分の星だ」という見方をするようになり、天動説のような世界観が生まれた。そのうちに、人間は世界を自らの都合のいいように捉えるようになり、自然も何も、すべて人間の都合のいいようになることが便利で豊かであるとされるようになっていった。それをもう一度本来のところへ立ち還らせなければ、今の人類は生きることの意味すら見失ったままになる。

今の日本では、介護殺人が社会現象化している。見えないところでは昔からあったのかもしれないが、今ほどではなかっただろう。少し前まではうつ病や自殺者やニート、引きこもりがいて当たり前の社会だったが、今度は介護殺人が社会現象化するという異常な状態になっている。
日常生活の中で、他者と円滑なコミュニケーションが取れて自己責任で生きている状態を正常とするならば、他者とのコミュニケーションが円滑ではない、もしくは円滑でないことを認識できていない状態というのがある。それは精神的に異常をきたしている場合もあれば、肉体的に異常をきたして他者に委ねなければいけない場合もあり、そういった状態の人を補助するのが介護だ。
本来、そのような状態では自然界では生きていけない。しかし人間は情が強く、補助をするようになった。ところが最初は愛情を持ってやっていても、コミュニケーションを取る意味がだんだん感じられなくなってくると、ただ義務的にやっているだけになり、そのうちに強制的にやらなければならない状態になって、苦痛になっていく。そして思考が極端に狭くなり、苦痛を排除しようとして突発的な行動に出たのが介護殺人だ。
社会には、対処療法的ではあるが、介護施設などの社会福祉が昔よりは遥かに充実している。そういった何も生産しない産業が発展し、それが経済効果となって社会がまわっている。しかし、社会の義務や豊かさの表れとしての福祉制度も、結局はそういったものを必要とする人々の面倒を見切れていないのが現状だ。

現代は、生きるということの意味がとても表面的になっており、生きることがすべてお金のためになっている。その結果、生きることの本質である生命の基軸が狂っているのだが、まだ誰もそれに気付いていない。人々はもっぱらお金があれば余裕ができて心が楽になるという幻想に囚われているが、今の世の中はどうしても豊かな人と貧しい人の差ができるようになっており、その矛盾のしわ寄せが必ず人間の性質のひずみとなって、社会に還元される。人間が心を病むと体の弱い部分に症状が現れるように、社会が病んでいることの症状が、弱いところに現れてくる。それは社会全体が病にかかっているということだ。
死とは、人生の終末のもっとも肝心なところだ。そこに介護殺人のような混乱が起きているということは、生きることそのものに混乱が起きている。

そこで、木の花で生きる年よりたちのことを考える。生きることに対する充実感という意味では、木の花で生きる年寄りたちは毎日やることがあって、それぞれにふさわしい役割を与えられその人らしく生き生きと過ごしており、年寄りという意識がない。そして個人的な欲に執着していない。先日ここを訪れたゲストが、「なぜここの人たちはこんなに穏やかな空気で生きているのか」と聞いてきた。彼は会社の経営者であり、毎日社員と仕事で顔を合わせているが、そこに見るチームワークや人々の人間関係には、そういった木の花のような空気は異質なものに感じられたようだ。そこで僕は「それはそうですよ。給料のために働いていませんから。だから、あなたの会社の社員にも、給料を払わなければいいんですよ」と答えた。
木の花の年寄りも、将来具合が悪くなったら若い人たちのサポートを受けるかもしれない。しかし、役割を与えられて生き甲斐を持って生きている人が、介護が必要な状態になるだろうかと考えると、それは先へ行って確認することだが、少なくともボケるような兆候は木の花のシルバーたちには一切見られない。そういった姿勢で毎日が過ごせる人々の人生に、介護の必要が極めて少ないことが当たり前に感じられる。そう考えた時に、僕は改めてこの生活の重要性を確信した。この生活にこそ、その隅々にまで新たな時代を迎えるための解決策がちりばめられていると再確認した。

現代の人々が平和だと認識し、守ろうとしているものは、歪んでいる。今の世の中を見て、それでは平和とは言えないだろう。ではいつ平和だったのかと考えると、人類の歴史上、平和な時などあっただろうか。
もしもあったとしたら、今の文明が始まる以前の、もっと原始的で自然のままに生きていた頃にはあったかもしれない。かもしれないと言うのは、価値基準があまりにも違い過ぎて想像できないのと、資料が十分ではないので、あくまでも仮定の話だということだ。そしてそれから時が進み、時代は対立と混乱の方向へと向かった。それはまさしく闇の時代へまっしぐらだったのだ。

イスラム教徒がいかに熱心に信仰をしていても、ある特定の境地を絶対としてしまうと、結局は対立の原因になる。何かを特定すれば、それとは別の何かを特定したものと相いれることができず、対立するのだ。
そこで、木の花ファミリーはイスラム教徒と同じように過激思想を持っているかというと、そうではない。ここでやっていることは、そういった特定のものから離れて、囚われの位置から自らを解放する宇宙視点を持ちましょうということだ。それはその境地に到達した者にとっては奇抜でも何でもなく、当たり前のことになる。それは、遥か昔はみんなそうだったということであり、気付けば今現在この瞬間がそうなのだから。

そこにいつ人類は気付くのだろうか。時代はすでに、社会の行き詰まりをもって次の時代へといざなっている。今の世の中、政治も経済も宗教も医療も教育も、矛盾のないところはない。
戦時中、マスコミはプロパガンダに利用されていた。今は、例えば日本のマスコミ関係者は、何ら罪の意識を感じることなく、自分たちは自由に報道をしていると思っているかもしれない。ところが実は極めて偏った、世界観の狭い報道をしている。そういったマスコミの報道姿勢の背景に、お金がすべての価値観がある。視聴率という数字の元に、お金に翻弄されている人々が支持する情報だけを報道することを繰り返すマスコミによって、世界が動いている。それはある意味、悪魔的現代社会の主役だ。マスコミに登場する人々は知識人であり、優れた人々であるという印象の上に、そういった社会的マインドコントロールが密かに進められているのが現状である。

今の過激思想として捉えられているイスラム教徒たちの訴えている世界は、お金ではない世界だ。彼らは命をかけている。しかし、お金ではない価値観であることすら、結局は対立の原因となっている。お金が基準となって混乱している世の中を間違っていると言って、お金よりももっと大事なものがあるということを命をかけてまでも訴えながら、さらに世の中を混乱させている。
それはある意味天のメッセージではあるが、ではあのやり方でこの世界に秩序をもたらし、新たな時代が来るだろうかと考えると、仮にそうなったとして、それが正しいと世界の価値観が統一されれば、それはそれでそのような世界が現れてくるのだろう。しかし現実には、これほど地球全体がモノカネ優先の価値観に汚染され、そういったマインドコントロールにはまっている人々が膨大に存在する現代の社会を、すべてイスラムの価値観に染めようとすれば、そこには大変な破壊や混乱、痛みが発生することになる。だから、そうはならないだろう。

やはり、そういった特定の価値基準を超えた、新しい秩序が必要だ。それが自然の姿であり、宇宙視点だ。我々は宇宙人であるという認識を持ち、外側の視点から、自らの立ち位置を捉え直す必要がある。それは、自らの外にある大きな価値基準と、日常の自分の中にある個人の意識とが一致しているということだ。
これは僕の考えではなく、時代が人類をそのようにいざなっている。いつの時代にも、時代の転換期には新たな価値観のメッセンジャーが現れる。それは古い価値観を破壊するためのメッセンジャーであったり、新たな秩序を示すためのメッセンジャーであったり様々だが、今はまさにその転換期に来ていることの証として、そういった役割を果たすためのメッセージを持った人々が現れてきている。

木の花ファミリーは22年前に、この生き方の目的が何であるのかわからないまま、スタートした。世の中のコミュニティの多くは、こういう場所を創りたいという自らの理想が先にあり、その願望を叶えるために立ち上がった。しかし、我々には願望も何もなかった。ただその現場を生き、未熟なら失敗をして、その時々に出会うことに対処しながら変化してきた。それは確実に体験を活かし、確信に変換する歩みだった。
自らの願望を叶えようとして進めば、それが叶った分だけさらに自らの願望に囚われていくことになる。そして自分のやっていることが正しいと思うようになり、他者と共に世界を築いていくことができず、結果的にそういった人々は、調和的な世界を創ることができない。
他者と共に築いていくということを実際にやったことのない人間は、自らの姿勢が具体的にどんな現実をもたらすかということを体験していないため、頭の中だけでそれを考え、それこそ単なる創作のようなバーチャルな世界で理想を追い求め、実体の伴わないことを語っていくことになる。しかし、現代社会のように言っていることとやっていることのギャップが多くても成り立つ社会構造の中では、バーチャルなことを語っていても評価される。そうして評価されることによって自らが正しいと思い込んでいることが多いのだが、そういった人々こそ、多くの人と共に生きる現場に実際に立ち、他者との関わりの中で自らの性質がどんなことを引き起こし、結果、どのようなことと対面するのかを体験し、自身の人間性の実態を思い知る必要がある。そうでなければ、何も現実にはやらないまま、表面的な支持を得て自らが正しいと思い続けることになり、そのような人々の姿勢こそが、今の行き詰った社会を創ってきたのだ。

生きるということを、人間の側からのご都合主義で実現していくと、それは人工の世界のオンパレードになる。生きるとは、宇宙の法のもとに生かされているという現実を理解することが、本来の順序だ。
実は人間には、宇宙の構造や、宇宙そのものとしての自分自身の在り方がすべて、自らの内に情報として眠っている。我々がエゴという囚われを手放し、大いなる宇宙の法のもとに自らの意識を解き放った時、これまでの物理的発展を支えてきた二次元的発想の時代から、いよいよ三次元的時代への進化が始まる。
それは、これまでのような善悪や損得、我良しの発想で捉えていては、とても解釈できない世界だ。我々はすでに三次元的脳を持っているが、発想が二次元的であり、二元的損得勘定に囚われているため、脳の三次元的解析能力を活かすことができていない。もしくは、そこの部分が退化している。そこで、その二元的損得勘定を離れ、自我を超えた発想ができるようになると、極めて奇抜な発想が生まれてくるようになり、地球上にいながらにして宇宙の実体が瞬時に理解できるようになる。
その進化を前にして、人類のこれまでの二元的発想が、すべての面において行き詰まりを見せていることは、現代社会に起きている様々なことを冷静に分析すれば明快なのである。従って、人類の内面の精神構造にメスを入れ、その発想の転換をすることが、現代の行き詰まりの突破口を開くことになるのだ。

どの切り口からも全てひっくり返らなければいけない時が来ている。現代社会につながる文明的価値観がすべてひっくり返る時が来ている。そのためには、まず一番に、自分自身を例外としてはいけない。誰もが、自分自身を例外としないで取り組んでいく必要がある。
これは明らかに時代の転換点だ。今までの価値観が終末を迎えている。実は宇宙的には完全にそれを超えて、次の時代に入っているのだが、地上はまだ闇のピークを越えたばかりで、徐々にそれが明らかになって来ている。
イスラムの問題からも、イギリスのEU離脱からも、アメリカ大統領選からも、世界中で暴き出されている政治的社会的不正からも、そして介護殺人からも、現代社会の人類の営みのすべてから、時代が我々を新たなステージへといざなおうとしていることが観える。

 

Source of photo: jp.sputniknews.com/

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7月16(土)〜18日(月/祝)
第10回大人サミット
「地球会議 in 木の花ファミリー」開催!

時代が大きな転換期を迎えている今、年齢、職業、国籍、宗教、ありとあらゆる枠を超えて、地球の未来を真剣に想う真の「大人」たちが集い、語らい、新たな時代の幕開けを発信する「第10回大人サミット」が木の花ファミリーにて開催されます。より良い未来を築こうとする意欲さえあれば、どなたでも参加OK!ブログで語られていることを現実の世界で実践し、人類史上に新たな1ページを刻むかけがえのない3日間を、ぜひ共に過ごしてみませんか。

第9回大人サミットより
第9回大人サミットより

*詳しくはこちら!
 → 第10回大人サミット開催のご案内

日帰り参加や部分参加も受け付けています。
ご関心をお持ちの方は、どうぞお気軽にご連絡ください!

 


真実を発信していく

ここ最近養蜂作業が忙しく、生活のリズムが狂っていた。そして今日、養蜂の作業が一段落したので、狂ったリズムを整えるために休んでいたら、夢を見ているとも起きているとも言えないような状態の中で、ある意識が浮かんできた。それは「トキが来た」ということだ。

今、インターネット上に、真実を歪めて木の花ファミリーをバッシングしているサイトが横行している。ものすごいエネルギーを使ってここを貶め、封印しようとする力が働いていることに対して、そのエネルギーを逆に、真実を発信していくためのエネルギーに転化できると気付いた。
多くの人が興味を持っているからこそ、ああいったサイトを見る。そこで、彼らが見ているバッシングサイトの情報に対して、その情報の出所の元にある心がどのようなものであり、そこに表現されている現場の実態は実際にはどうだったのかということを提示してあげれば、彼らはバッシングサイトを見ていたのと同じエネルギーで、真実は何なのかということを感じ取ることになる。それは、バッシングサイトが描いて訴えようとしているイメージと実際は違うということや、それを見る自分自身の視点の偏りに気付くチャンスになる。
バッシングが始まって3年目となり、ある程度それが社会に浸透した今だからこそ、トキが来て、そこに表現されたエネルギーは一気に逆転する。うたた寝から目を覚ました僕は、養蜂の一段落と、バッシングが逆転へ転じるトキが同じタイミングで来たことを感じた。

そのタイミングを感じた時に、台所に8個のキジの卵が置いてあるのを見た。それは日中に草刈りをしていた畑隊が見つけて持ち帰って来たもので、ステンレスのボールに入れて流し台の上に置いてあった。巣の周りの草を刈るだけでも、人間の匂いが付いて親鳥は寄り付かなくなる。そこで畑隊が持ち帰って来たのだが、僕はそれを見た瞬間に、そこから生気が湧き出ているのを感じた。あんなにも生きようとするエネルギーがあふれ出しているものを、ステンレスのボールに入れて置いておくということがあるだろうか。
懐中電灯で卵を透かして見ると、幸いなことにまだ分裂を始めていなかった。今から温めてやればまだ間に合う。これは食べるものではなく、命として孵してやらなければいけないものだ。そういうことを感じられることが大切なのだ。

かつて僕はまりちゃんとコンビを組み、合鴨の卵を孵してきた。温度は37.8℃、湿度は50~70%で、1日に5~6回転卵をする。孵化させるのにどれほどきめ細やかな配慮が必要か。それは真剣に向き合わなければできない。
しかしそれは、神経をすり減らすようなこととは違う。コンピューターがやるのではなく人間がやるのだから、命が育っていくのを感じながら、楽しんで、気楽にできるものだ。自然界の親鳥も、トイレに行ったりごはんを食べたりしながら、それでもきちんと命と対話しているから卵を孵化させる。そういうファジーな能力が、人間にはある。感じ取る能力があるのだ。
まりちゃんと卵を孵してきたように、かつて僕はやすえどんとコンビを組んで糀を仕込み、ひろみちゃんとコンビを組んで木の花菌を作り、かずこちゃんと組んで雛鳥を育てた。そうやって人間の持つ能力を研ぎ澄ませてきた歴史が、木の花にはある。それはとても神聖なことであり、そういう場を汚してはならない。

今、僕ときょうこちゃんは、新たなプロジェクトに取り組んでいる。それは、新しいきょうこちゃんをつくること。僕は彼女にこう伝えた。「それはきょうこを壊すこと。自分を壊すことだぞ」と。自分を壊さなければ、奥に眠っているものは出てこない。
これまでのきょうこちゃんは自分のことばかり考えて生きてきて、その姿勢の結果ガンになった。彼女は命がかかっている。それは自分がつくってきたことであり、それをつくった自分自身を壊さなければ、命は取り戻せない。とても真剣なことだが、人間はその段階へ行く時が来たのだと僕は感じている。
このプロジェクトが始まって、最初は僕がきょうこちゃんにヒーリングをしていた。きょうこちゃんは毎日まじめにやって来るが、僕はだんだんきょうこちゃんにヒーリングをする気が起きなくなった。そうすると、逆にきょうこちゃんに、僕に対して何かしたいという気持ちが湧いてきた。きょうこちゃんが僕に癒しを提供することで、きょうこちゃんが癒されている。
僕は最初自分がやってあげるつもりでいたのにだんだんやる気が起きなくなって、この意識の変化は何だろうと思っていたが、そこで答えが出た。そうだ、人のためになるという心をきょうこちゃんに目覚めさせるということだ、と。自分のことばかり考えてガンを作った者が、人のために生きたら、ガンは消える。(「癌」は、品物を山のように抱えてなる欲深な病気と書く。)
何日か続けているうちに、お腹にあったしこりがやわらかくなって、確認できなくなってきた。病院での検査結果がどう出るかはわからないが、今、きょうこちゃんのお腹の中から、悪いものを発している波動を感じられなくなってきた。

僕がきょうこちゃんにやっていることは、単なる病気治しではない。人間の能力を引き出す実践をやっている。それはキジを孵すことと同じだ。
我々がやっていることは、一人ひとりの人格を探求することも、個人の道を見極めることであると同時に、21世紀の人類の歩みにとって重要なことだと言える。それは、一人ひとりの意識が現状の地球の混乱の原因になっていることに気付き、その責任をとるという意味で、個人は自らが地球世界にもたらしている矛盾を一人分解消するべきだ。それを、国や地域のリーダーたちの責任にしている場合ではない。なぜなら、そういった立場の人々を選んでいるのも、自分自身なのだから。そのように、一人ひとりがこの世界に対する自覚を持つことが、次なる新たな時代へのステップとなる。
これからは、我々人間の奥にあってまだ我々自身も気付いていない、人間がこの世界に生み出された目的に目覚めることにより、これまで眠っていた能力が開花していく。それは今、田畑で行われている栽培法の変化(詳しくは木の花ファミリー通信「農業革命」をご覧ください)や、新たなプロジェクトが次々と立ち上がっていることともつながっている。同時に、世の中の人々がここの真実をわからずにいる不幸を解き明かすトキが来ている。この存在を理解できないことは21世紀の損失である。これは本当に21世紀の人類が進むべき方向性であり、時代が生み出した宝だ。

我々が生きていることに対して、自らが理解をしていることはごく僅かであり、生きているということに対し我々は無力である。真実は、存在するとは与えられていることであり、生かされていることである。現代人は、自らの思考の延長線上に生きようとしているがために、この世界から与えられていることを受け取る能力(現代人は脳の10%しか使っておらず、残りの90%は休眠状態にある)を退化させている。その現実を理解し、その状態に自らを貶めている自身の中にある性質と向き合うことにより、眠っている能力を使いだすことができる。
ところが、文明を発展させていく過程で人間の自我が優先するようになり、人々は自らの自我が生み出す欲求に翻弄され、その欲求を満たすことのみに奔走してきた。本来人間の能力とははかりしれないものであるが、自我の欲求を満たすことに囚われているがゆえに、自我により認識されている能力の奥にある、潜在的な力を使うということを怠っている状態だ。それは、今自分が起動させている以上のものはないと思っているからだとも言える。だから自らの枠の中でしかものを考えようとしない。
その場合、自らの枠を壊す作業をしなければいけないが、囚われている人間はその勇気が持てるかどうかだ。囚われという枠を壊せば、その奥にあるものが出てくる。それは思考回路だけでなく、その奥に秘められた潜在能力が出てくる。木の花の中にも、一生懸命やっていてもなかなか流れを読み切ることができない者たちがいる。そこで彼らは僕に「どうしたらいいでしょう」と聞いてくるのだが、そんなことを人に聞いてどうするのか。思い切り悩んで、自らの内にあるクセにまみれた思考回路を壊すところまでいかなければ、その奥にある潜在能力を引き出すことはできない。

一生懸命仕事をすれば、物理的には役に立つ。しかし役には立っても価値は付かない。価値がついて初めて、人は本当に役に立つことができる。それは、今までにないものになるということだ。
これまでは、一生懸命だけでもよかった。しかし、一生懸命に見当違いのエネルギーを使っているようでは、この世界に害がまき散らされることになる。それを、今の時代の現状が表している。そこでこれからは、眠っているものを掘り起こすということをやっていく。我々は起きていてこの世界を認識していると思っているが、その世界で目覚めるということは、実はこの世界が眠っているということだ。その眠っているものを起こすには、自らを壊す必要がある。

これから、人間がこの世界に存在する本当の意味を開花させる時が来る。ここは、それが世の中に先駆けてできる所だ。しかし毎日既製品のような仕事をこなしているだけでは、新しい能力は出てこない。物理的に仕事をこなせているから自分はできていると思っていると、自分を足りない者だと自覚して真剣に向き合い、その奥にあるものを引き出そうとする姿勢にはならない。
日頃はボケていても、ポイントのところはピッと感じられる人間になることが大事だ。ボケているから、キジの卵をステンレスのボールへ入れ、平気で台所に置いておいたりする。それではまるで食材だ。しかし卵からは「食材じゃないぞ!」という生気があふれていた。原始的な人々や食べることを優先する人間はためらうことなく食べるかもしれないが、意識レベルが高くなった人間は、やっていいことと悪いことを、そのものごとに出会った時に瞬時に感じ取れるものだ。この卵は食べて命を終わらせるものではなく、循環を止めるものでもない。自然から奪ったものだから、命として孵るかどうかはわからないが、少なくともその挑戦をしてあげることは、卵にとっても本望だろうと思う。食べられるために野に生みつけられていたわけではないのだ。
そういったことが、直観で感受できる者になる。それは本来当たり前のことで、人間が自然と共にあった時代にはあり続けたものだ。現代人はそれを忘れている。

そして今、我々に求められているのは、その次の段階だ。発信するのは、木の花というのはいったい何もので、何を目指しているのか。
今の世の中の多くの人たちは、それが理解できない。自らの枠の中では解釈できないものを、自らの枠の中でイメージし、創り上げ、それをバッシングサイトで表現している。しかしそれはここの実態ではなく、その人自身の中にある世界だ。

何か現象に出会うということは、自分自身を知ることであり、自分との出会いだということが、人間はわかっていない。出会うとは、自分という現実に出会うこと。自分がない人は自由自在に変化していく。しかしいつまでも古い自分がとれないと、痛い目をして学ぶことになる。ひどいのは、痛い目をしてもわからずに同じことを繰り返す。それが今、人類に問われている。

今、僕の中にはとても重要なことが湧き出してきている。

近ごろ、皆神山が僕の中に浮かんでくる。今年3月、皆神山で特別な生き方を受託していることを再確認したが、その後しばらく日常生活をやっていた。しかし、その生き方をここに表現する役割がある。
これは、人類に目覚めを与える話だ。ネット上の批判のような汚れをかぶっても、この歩みは時代の意志を表した歩みであるがゆえに、止まることはない。今の時代は、自らを振り返らない者たちがその実態をわからないがために、それに立ち向かえば火の粉をかぶることもあるだろう。
しかし今、トキが来ていることは確かだ。この一連のバッシングはなぜ起きたのか。それが天の采配であるならば、それは一体全体何であったのかを全て解き明かし、世に示す時が来ている。それはバッシングをする人々に向けたものではなく、世の中全体に向けるものだ。
これからの時代に、我々は何をしようとしているのか。その価値は未来に行ってみて観えることであり、約束されてから行くようなことでは、自我の納得の上にいるに過ぎない。人間たちはもう、そういうことをやめなければいけないということを表現するために、我々はこの生き方をしているのだから、これは前人未到の世界だ。人間はいよいよその領域に入ったのだということを、この場全体で表していく。

もう、物理的五感を優先する人間を超えなければならない。時代はそれを求めている。これまで以上の段階へ進もうとしたときに、自分を壊せない人間はダメだ。自分の枠を超えられない人間はダメだ。自らの能力を超えたところを開発して、そこを観ていくのだから。それは見せかけをきれいに整えるのではなく、囚われの枠を壊して湧いてきたものを表現するということだ。
そういったことの価値を考えない者にとっては、ここは厳しい場にも見えるだろう。しかしある景色が観えた者にとっては、インチキな場所ではいけない。表面だけを繕っているような場は、嘘だろう。この時代のこの世の中に、なぜここがあるのか、ということを、世の人々に伝えていく。

現代の人々に伝えたいのは、なぜこれがわからないのか、ということ。なぜその視点に立てないのか。これは珍しい話ではなく、当たり前に道理を追っていけばわかる話なのに、それがわからないのはあまりにも思考が狭い範囲に特定されてしまっているからだ。しかし21世紀の宇宙時代を迎える人類は、それではダメなのだ。時代はすでに、この思考回路を元にして創られる時代に入っているのだから。

「現代の人々に対して」と言うと焦点がボケてしまうから、あえてこう言おう。今、あなたに問うている。そこに目覚めることが、次の時代を生きる資格なのだ。
世界のリーダーたちがいくらサミットを開催しても、それは結局は個人の損得勘定の思考回路が国家レベルになっただけで、エネルギーが大きいか小さいかの違いがあるだけで同じパターンをやっている。今の経済にしても環境問題にしてもテロ対策にしても対処療法的なことしか考えられていないのは、思考がとても狭い範囲に限定された損得勘定の上にしか回っていないからだ。しかし、人間は本来、そのような存在ではない。

これは伊勢志摩サミットを超える話だ。あのサミットで、20世紀までの人類が地球にもたらした矛盾を解決する画期的な対策を、何か打ち出しただろうか。
話し合われたのは、経済をさらに発展させるにはどうしたらいいかということだが、今の人類の経済に対する姿勢のままで経済を発展させたら、地球環境をさらに悪化させることになるのは周知の事実だ。にも拘らず、世界のリーダーたちは方や環境問題を語り、方やそれと矛盾する経済発展を追い求めている。そのように欲望を叶え続けることが、この世界の矛盾を連鎖させ、さらに大きくしている。

もう一つおかしなことは、資本主義国家だけが集まり、立場の違う国家を排除して自分たちの利害の元に一方的に世界を導こうとし、それを正義として掲げていること。それが今の世界の現実だ。テロの問題にしても、体制的に相いれない国を否定することで世界を安定させようとしているが、それは自らの利害関係の上に立っている以外の何ものでもない。
このサミットがなぜ行われたのかというと、そのように結束する仲間集めをアピールするために行われただけで、今の矛盾への解決策や、新たな時代の方向性を見出せていない、極めて20世紀型のものだ。そして、なぜ世界のリーダーたちがそろってそのような姿勢をとるのかと言えば、彼らを輩出している国家を形成する国民がそういった価値観を求めているからだ。そこから支持を受けている彼らは、本能的にそういった姿勢をとらざるを得ない。つまり、今の世界の矛盾はリーダーの責任ではなく、国民一人ひとりの責任なのだ。リーダーは、それにふさわしい人だから選ばれただけだ。

サミットでリーダーたちは演説を行ったが、それは表面的で言葉にも力がなかった。背景に自国の世論の圧力があるために、彼ら自身の明快な意志を表すことができないのだ。人々の欲望を駆り立てる時には、欲まみれの人々によって熱狂的な支持を受けるが、どんなきれいごとを語ろうとも、その姿勢に矛盾があっては、結局は筋の通ったものにはならない。背景にたくさんの利害関係が絡み合って、強いリーダーシップを発揮できなくなっているのが、今の世界の現状だ。
オバマ氏もあと8ヶ月で任期が切れるのだから、大統領としての立場を離れて一個人としての本心をあの場で語ったならば、もっと人の心を打つ演説になったかもしれない。しかしアメリカの大統領はスポンサーが多すぎて本音が出せなくなっており、それがアメリカ大統領の限界となっている。そこを突破する可能性があるのが、トランプ氏だ。
トップが民衆の顔色を伺う風見鶏のようになって強いリーダーシップが取れなくなった、ある意味終焉を迎えている国の末期症状として、トランプ氏のような人物が台頭してきた。国民は現状の矛盾に対する言いようのないフラストレーションを抱えており、それが彼らをトランプ氏支持に走らせている。
ではそのフラストレーションとは何か。これまでアメリカという国は、自分たちは世界を平和に導く善の国であるという自負の元にリーダーシップをとってきたが、その幻想が今、崩れようとしている。アメリカ人の中には自らが常に世界のトップに君臨していたいという感情があり、その実態は極めて身勝手で幼稚である部分も秘めている。しかし、対外的には「世界の警察官」という立場をとってきた。そのように、ある意味偽善者をやってきたことにより、国内に矛盾が発生し、豊かな国アメリカの影の部分に立つ人々に言いようのないフラストレーションが溜まり、それが限界に来ている。

これからの世界の国々のリーダーたちは、トップダウンのリーダーシップを取るのではなく、本音で語り合い、我々人間とはいったい何であるのかということを、これまで積み上げてきたものをすべて崩して話し合う必要がある。いじけている北朝鮮のような国も仲間に入れて話し合う。そういった意味では、トランプ氏は金正恩氏と話し合う用意があるというのだから、画期的かもしれない。
オバマ大統領にせよ安倍首相にせよ、今回集ったリーダーたちは今の体制や今までの価値観を守ろうとしている人たちだ。しかし、時代や社会的、環境的背景は、今や、これまでの人類の地球上でのふるまいを否定することを示すメッセージを発し続けている。だから、幻のように欲望の上に積み上げてきたものは、壊れなければならない。そういった矛盾をはらんだものを守ろうとすればするほど、サミットも単なるパフォーマンスの場となり、希望が生まれないどころか、利害の上に集う者たちがいれば、それに対抗する立場の者たちとの対立を深めることになってしまう。

オバマ大統領は、今回のサミット参加直前に、かつての敵対国であったベトナムを訪問し、友好の証として武器輸出の商談を成立させた。自らの強い望みとして核兵器のない世界をうたい、核兵器の拡散を防ぐと言いながら、その一方で通常の兵器を拡散し充実させており、その上に平和な世界を実現するという矛盾を語っている。
そして、核兵器のない世界を実現すると言いながら、すでに核を持っている国に対しては保有を認め、持っていない国には核を装備することを禁止する。事実、核兵器をなくすことに反対しているのは、核保有国だ。そのように矛盾している国々が国連の常任理事国であり、拒否権を持っている。こんなにも道理の通っていない世界秩序があり続けることを、おかしいと思わないのですか。みなさん。
そしてまたオバマ大統領は、かつて自国が核兵器を落とした地へ行って戦争の愚かしさや核をなくすことを訴えながら、その直前に米軍の岩国基地で行った自国軍への演説では「あなたたちは国家を支える重要な人たちだ」と激励し、やる気を起こさせている。軍人にやる気を起こさせるとはどういうことか。これが核兵器廃絶を願い平和を訴える者の、矛盾でなくて何だろうか。

しかし同時に、その訪問を受ける側の国の人々も、かつての敵国のリーダーが来たことだけで喜ばしいという、温厚なのかお人よしなのかわからない姿勢でいる。怒れとは言わないが、少なくともその言葉の奥にある実態を感じ取るだけの直観力を持ちたいものだ。
世界各国の代表が高級な車に乗り現れるのを見て、この国の人々は偉い人たちが来たと思い迎えたかもしれないが、アメリカ大統領の車はロケット砲でも通用しないような戦車のような車であり、戦艦が空を飛ぶような飛行機やヘリコプターを使い、常に厳重な警備の元に行動しなければならず、そういった立場に立った者の不幸というものがある。そしてその立場は、自らが招いている。そのような背景を知っていたならば、彼らをただ微笑ましく迎えるばかりではないとも言える。
そして今回のサミットには、600億円の費用がかかったと言う。それで世界の経済を発展させると言うのだが、ロシアも中国も参加していないのに、西側諸国だけが集まっていったい世界経済の何を語るのだろうか。この2日間のために28億5千万円をかけて建設されたメディアセンターは、サミット終了後には取り壊されると言う。そういったお金の使い方をしながら、一方では災害復興や原発の廃炉のための資金が必要だと言い、毎年大量の国債を発行して借金を増やし、消費税を増税すると言ったかと思えば、選挙の前にはそれも先送りする。やっていることが滅茶苦茶なのだ。

今、日本ではSEALDsのような動きがあるが、香港の傘兵の他、台湾やフィリピンなどアジアの各国で、若者たちが今の政治に疑問を投げかけ、新たな動きを起こそうとしている。しかしそれは、次の時代の呼び水にはなるかもしれないが、現行の体制に対する反発として条件反射のように出てきたものであり、それ自体が新たな時代のあり方として出てきたものではない。つまり、20世紀型なのだ。
香港の若者たちは中国の体制に反発し、ガンジーの非暴力を掲げているが、実はそれもまた暴力だ。なぜなら、そこには対立軸があるから。彼らは優秀で、いずれ政治家になるのかもしれない。しかし世の中を変えるということからすると、彼らは今の体制があるからこそ、そこへの反発をエネルギーとして出てきたのであり、彼らの中から独自に新たなものが湧き出しているわけではないのだ。

もう新たな時代が地球上に来なければいけないのに、そのための指針を示せる場所が、世界中のどこにもない。19世紀、20世紀に発生したイデオロギーは、社会主義でも共産主義でも資本主義でも、人々の実際の生活につながっていた。ところが最近台頭してきたイデオロギーは、生活に密着していない。何か強大なものに対する反発として発生しており、単なる闘争になっている。
それをもう一度、生活に落とすというところへいかなければいけない。それを生み出すのは、智恵だ。イデオロギーも本来智恵であるはずだが、20世紀型のイデオロギーは智恵ではなく、怒りのエネルギーが元になっている。それが智恵となって湧き出した時に、若者たちは実際にその生き方を始めるだろう。そこがまだできていないから、今の若者たちの動きはまだ次の時代の受け皿にはならず、ただ大人たちがやっていることへの反発となっている。
香港の若者たちは中国の体制に反発し、それを壊そうとしている。それは体制側が今の状態に執着しているからこそ、それを壊そうとするエネルギーが働くのだが、そうしている若者たち自身も同じ立ち位置にいることに気付き、自らを壊さなければいけない。なぜならそれは、執着と執着の対立だから。これはかつての西側対東側、共産主義対資本主義といった構図も同じで、双方が共に壊した時にこそ、新しい世界を創ることになるのだ。

これはおもしろい分析だが、こんなことを語る年寄りの存在に若者たちは気が付かないから、なかなか伝える機会もない。この視点は彼らの情熱に水をかけるようなものだから、熱く燃焼することに邁進している彼らが、水をかけられるようなものに興味を示さないのも仕方がない。しかしあのままいくと、そのうちに火傷することになるだろう。

我々がやることは、ウケ狙いではない。ニセモノだらけになってしまった今の時代に、真実を、生命エネルギーを乗せて表現していく。
我々がいかに、土に触れ、自然と向き合いながら生きるということをやってきたか。そのエッセンスがここにはたくさんある。それと対話する能力をこれから開花させ、広めていく。机上の空論で理想郷を語っても、現実に成るわけがない。成るとは、地球はそもそもそういうところだということに気付くということだ。

久しぶりに、天の扉が開いた。
最近は上を見ると天井が見えていたが、久しぶりに天井を突き抜けて、その奥が観える。

これは個人的な偏った見解ではなく、必ず近い未来に人類が体験することを予言として語っているものである。それを感知できるような人類でなければ、これから訪れるであろう更なる困難を乗り越えることはできない。

 

 

 


生きることのプロフェッショナル

日々学んでいることを、日常の生活に反映していくことが大切だよ。
今、自分に起きている出来事の発信源は、その人自身の精神性にある。例えば体の痛みでも、その原因は自らの心の姿勢にあるのに、ただあそこが痛いここが痛いという物理的な話だけをしていては、日々起こる現象から学んでいることと、日常のあり方が別のものになってしまう。その姿勢が、新たなトラブルを生む元になる。
物理的な症状も、心の姿勢も、日常の出来事につなげて考えられるようにしていかなければいけない。疲れているとしたら、疲れるのにも理由がある。一人ひとりがきちんと自己チェックをして、自らを健康にすることが大切だよ。人が健康でいるということは、その人自身のためでもあり、社会全体のためでもあるのだから。

現代は、休むことが豊かさだと思われている。お金があって休日が十分にあってレジャーを楽しめることが豊かさなのだと、多くの人が思っている。しかし本来、生きることと豊かさとは直結していなければいけない。
休むことを豊かさだとするならば、極端なことを言えば生活に余裕があれば休んでいいということになり、お金がたくさんあって楽に生活できることが生きることの目標になってしまう。しかしそれは、天や自然と直結していない生き方だよ。もう一度、生きるということを天に返す。それは、生きることが自然であるということ。
本来、生きることに休日はない。宇宙の星々も、地球上の生命も、休むなどということはしていない。休むとは、人間の歪んだ発想から生まれた豊かさの延長線上にあることであり、歪みの象徴のようなものだ。

毎日を生きて、ものごとがスムーズに進み、自分自身にもこの世界にも負荷をかけないというところに、矛盾のない豊かさがある。
ここの暮らしは、農繁期になればみんな忙しくなる。忙しく働くということは健康であるということであり、健康であるということは、無駄や無理や矛盾のない生き方をして自分の中に滞りが起きないということ。滞りが起きるとしたら、そこに考え方や生き方の矛盾があるということだ。
その矛盾に、毎日の生活の中で些細なことからちゃんと気付ける人にならなければいけない。そうすると、ものごとがスムーズに進み、流れがよくなって、いろいろな意味で健康になる。それを表面的に知識だけを学習して生活に反映していないと、結果として現象化されていないのに頭の中だけでこういった思考を回してOKにしてしまい、矛盾はそのままになっていく。それを、一人ひとりがしっかりとチェックできることが大切だよ。

ここのように自然と共にある暮らしの中では、農繁期や農閑期というものがある。その中で無理が発生した時にこそ、より意識して、矛盾のない生活をしていく。忙しくて余裕がない時にこそ、無駄のない緻密なものの観方をしていけば、するするっと通り抜けていくことができる。そしてものごとの流れがスムーズになると、そこには大きな充実感が生まれる。
そこを緻密に観ていないと、少しの無駄が発生した時に無理が生じて、そのつじつまを合わせるためにさらに無理を重ねて、疲労になっていく。そういったところから心や体に矛盾が生まれ、心なら不満や疲労感となり、体なら病気になったりどこかの具合が悪くなる。その矛盾を解消するのは、緻密に自分自身を観る心だ。

そういったことができるようになった時に、人は本当の意味で健康に生きられる。それは達人の領域だよ。しかし僕たちはもう、達人でなければいけない。それは何か特別なことができて他の人より抜きん出ているということではなく、生きるということがとてもスムーズで、無駄なく効率の良い、さわやかな心で生きられるということだよ。
みんなは生きるということのプロフェッショナルにならなければいけない、と僕は思う。忙しい時だからこそ、常にそういったことを考えて、無駄のない心で生きる。無駄がないからこそものごとがスムーズに進み、そこに余裕が生まれ、さわやかな生き方ができる。それができると、生きることそのものに豊かさを感じられる。

だから、忙しいことを忙しいだけで終わらせてはいけない。これから人々は、その領域へ行くべきだ。
ここではたくさんの人が助け合い、連携して、普通ではできないことをやっている。その中で一人が心や体の滞りを持っていると、それが矛盾となり、働いてみんなに貢献することができない。それは、歪みが発生して病気が蔓延している今の社会と同じ状態と言える。
やはり生涯をぴんぴんころりで健康に、本当に世のため人のため、「傍」を「楽」にする(=はたらく)ために生きていく。そういう世界をつくることが大事だよ。そこでは病気は学びのために起こるのであり、本当に少ないものになっていくだろうね。

今の世の中では、お金があって働かずに楽をすることが豊かさだと思われているけれど、それがこの世界の矛盾をつくっている。つまり、社会的に成功した人たちが矛盾をつくっているんだよ。
自分の存在が他に貢献しないことは、自然にはあり得ない。ところが人間は、自然にはあり得ない矛盾を発生させることを豊かさだと思っている。その背景には、自分だけがいい思いをしたいという自我の心がある。そこと本当に人々が向き合った時に、傍を楽にするために働く、矛盾のない平等な世の中ができるだろう。

最も肝心なことは、近年の物質至上主義の価値観の中で、自らの行いが自分自身の霊的価値や地球生態系を汚染してきたことに人々が気付き、生命の本来の目的や、人として生まれてきた意味に目覚めること。自分が健康であるということは、世の中に対して責任があるということであり、本来健康とは、自分個人の都合のためにあるわけではないんだよ。今の世の中ではまったく逆さまの捉え方をしているけれど、これこそが21世紀の人々が目指すべき世界だ。

今はまだ多くの人々がこのことを理解できないけれど、このわからない生き方をしていることを誇りに思う。

 

 


あなたのリセットはあなたに託されています

「1ヶ月間の真学校」終了の日の朝、いさどんは12名の受講生たちの新たな旅立ちに向けて、以下のように語りました。

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1ヶ月間の真学校 受講生たち

 
いさどん:
みなさんにとって、この真学校は今日でリセットです。
僕はこの1ヶ月間、みなさんにいろいろな情報を提供してきました。情報を提供することでみなさんの人生がこれから切り替わっていくためのお手伝いをしてきたつもりです。

昨日の修了パーティが終わってから、実は僕もこの1ヶ月間の真学校をリセットしたのです。今朝起きて、そのことに気が付きました。

今朝起きたら僕は「死にたい」と思ったのですが、みなさんは人が死にたいと思うことに対してどんな印象を持ちますか。今までに死にたいと思ったことがある人はいますか?
(過半数が手を挙げる)

それじゃ、自分は死なないと思っている人はいますか?
(2、3人が「魂は死なない」と言って手を挙げる)

僕が「死ぬ」と言っているのはリセットするということです。
みなさん一人ひとり、それぞれの人生があってここまで歩んできたのです。世界観の違いによって、人生とは、生まれてから死ぬまでと言う人もいますし、輪廻を信じている人は、魂の旅という捉え方をするでしょう。世界観が物理的なところに限定していれば、生命輪廻として捉え、世界観が宇宙的に広がっていれば、宇宙が始まってから現在までの、さらに世界観が無限になっていれば、この世界はぐるぐる回っており宇宙には始まりも終わりもないのでここは過程にしか過ぎない、という捉え方となります。そこでは死というものは存在しません。この世界で生きることに対する認識は、自分というものの意識がどのくらいの器でどのくらいの高さにあるかによって全く違うのです。しかし、どの位置の意識を持つかはみなさんの自由なのです。そして今まで生きてきた成り立ちの結果です。例えば食べられるか食べられないかについて興味を持っている人はそれだけが世界なので、今目の前にある困難によって生きることの希望も失うことになるのです。

このようにものの捉え方は世界観によっていろいろ違いますが、みなさんは、想像できる自らの起源から認識している現在地の範囲内で、自らの経験に基づいて思考しているのです。そこで自らの考えに囚われていれば、その思考で特定し理解できることが受け入れられること、または正しいこととするという尺度をそれぞれが持っているのです。ですから、みなさん一人ひとりが物差しであると言えるのです。

「2001年宇宙の旅」という映画に出てきた「モノリス」は、人としての叡智の基準であり、わたしたちの人生における旅の歩みを歴史として紡いでできあがった思考は、人間の個人の叡智です。あの映画では、猿に宇宙の叡智を与えることを起源として、人間の歩みの過程が描かれています。

「神」という漢字は二つの文字に分けられます。「示」すと「申」すという字で組み立てられています。これから解釈すると、何かに申して示したということになります。この申すという字は「さる」という字でもあることから、さるにしめしたと解釈できます。お前にわたしの志を与える、そしてわたしの代理として地上を生きなさい、というように示したのです。それが「神」という文字の成り立ちです。

この捉え方からすると、宇宙にいた魂、言い換えると宇宙の物理性の元にある宇宙創造の起源の意志が、宇宙創造の仕組みの法に従って地球を創り、そこに生命の種を降ろし、その生命の進化の流れの物語の話になります。そこで、わたしたち地球に生きる三次元生命は、宇宙の構造そのものをコンパクトにして表現したものです。これは人間が小宇宙だということです。そして小宇宙としてこの世界に人間が創造されたということは、人間が自らを模して人工頭脳を作ったようなものです。わたしたちはお母さんのお腹の中での精子と卵子(陰と陽)の出会いから「みこと」として独立した命の歩みを始めたのです。その歩みは2進法ですから陰と陽で2分割していくのです。最初の原子細胞から始まり、そこから2分割を繰り返すことで複雑になり、いろいろな機能ができていくのですが、この時に最初にできる臓器が心臓なのです。それは太陽系で言ったら太陽の役割であり、わたしたち人間に例えるとその中心は心ですからそれが太陽になり、だから体の中でも心臓が最初にできるのです。しかし、その段階ではまだわたしたちは原始的な生命にしか過ぎません。

それがお母さんのお腹の中で育つ過程の中で、最初はえらのある魚の形態から両生類になり、うろこのある爬虫類になり、そこから鳥類と哺乳類に分かれていきます。ですから妊娠7ヶ月の未熟児で生まれると猿のように毛深いそうです。それが10ヶ月で生まれるならもっと毛深くてもよさそうなものなのに、ちゃんと毛が取れて人になって生まれてきます。

この間、みかちゃんとカタカムナの5首6首のウタヒの意味をひも解いていたのですが、その時に、宇宙創造の仕組みは妊娠の過程と同じだと気づきました。「ヒ」の精子と卵子の出会いは秘かに始まり、「ト」のトつきトうか(10月10日)で整いヒトになって生まれてくるのです。わたしたちはお母さんの体内で、お父さんという種を起源にして創造されます。お父さんの種というのは縦軸が降りるということで、天から柱が降りる(御霊が天から降りる)、もしくは、地から天に向け柱を立てる(天の御霊を迎える)ということです。ですから、お父さんはお母さんの子宮に柱を立てて、種を送り、魂を迎えるのです。そしてお母さんは地球を表す子宮で、地球のように生命を創っていくのです。それは地球46億年の歴史の中の33億年の間の生命の成り立ちの話です。それをわたしたち人間はお母さんの体内で280日を経てコンパクトにたどり、生まれてここまで来ているのです。

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さらに地球生命の歴史をひも解いていくと、わたしたちは最初タンパク質からアミノ酸になりました。それは宇宙的に言えば、とてつもない奇跡のような変化によってもたらされたものです。しかし、その時点ではまだ生命ではありません。そのアミノ酸が何かの拍子に最初の細胞になったのです。それが原始生命になり複雑な生命に進化し、微生物やプランクトンに変化していきました。海(あま)は女の人を表し、海は生命の起源であり、女の人の子宮と同じ役割です。そこに最初の生命が生まれて、それが魚になり、両生類として陸に上がり、爬虫類になり、そこから鳥類にまたは哺乳類になるというように進化し分かれていきました。その哺乳類から猿が生まれたのです。

このようにわたしたち人類は、その進化の過程で猿から人に分かれてきたのです。その猿から人に分かれるということについて、考古学上、生命の進化をたどっていくと、猿までは進化論で説明ができるのです。生物学上では猿と人間はほぼ同じものです。しかし進化論では、猿から人になるまでの間がなかなか埋まらないのです。信仰上の観点から、アメリカ人の6割くらいは進化論を否定するのです。ところが日本人のほとんどは猿の進化したものが人間だと思っています。物理的には猿の進化の先に人間がいるのですから、猿と人間の間を埋め合わせる存在がいてもいいと思うのです。

DNAとしては、99%は猿と人間は同じという説もあります。アメーバと人間もほとんど生命的仕組みは同じなのです。つまり生命であるものと生命でないものには極端な差があって、三次元生命が地球上に発生したということは、宇宙の三次元生命でないものの連鎖の中ではものすごい奇跡なのです。このようにわたしたち地球生命はある意味みんな仲間です。

「2001年宇宙の旅」で出てきた「モノリス」は物理的な柱で表現されていました。僕はそれを、わたしたちの中には見えない柱があると捉えました。それが「アメノミナカヌシ」です。その大元は宇宙の叡智である「アマノミナカヌシ」です。地球生命は進化論で捉えると猿まで進化してきたのですが、それも宇宙の意志が導いたのです。天にいた魂たちは地上(地球)を上から見ていました。地上ができてくると生命の種を降ろし育てていきました。ヒフミヨイムナヤ(一二三四五六七八)まで生命を育てて、コ(九)でこの世に生命を出し、そしてその生命の進化を上から見守っていたのです。その生命が猿まで進化してきました。天にいた魂は自分たちの受け皿を育てていたのです。そこで猿を見て、それを自らの地上での受け皿とし、地上を歩くことを始めたのです。それまでの進化論でたどりついた猿に人としての宇宙の叡智が入ることとなり、彼らはモノリスに触れると、感電したようにそこにあった動物の骨を持って、意志表示をするようになったのです。そこから、道具を使って自分たちの勢力を広めていく道を歩み出したのです。ここがすべての自我の始まりです。僕はあの映画をそのように解釈しました。

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そのようにして生命の歴史が始まって以来、わたしたちにはこのような見えない柱が立っているのです。だから自らが記憶する自らの歴史というのは、この脳が現在使っている解析量で意識しているだけではないのです。生命のDNAの記憶には、はるかに古いものが内在しているのです。しかし、現在の人類は、自らが使っている脳細胞の範囲内での自己認識しかしていません。現代人が今使っているのは脳の機能のほんの一部分の10パーセントくらいのものであると言われています。あとの90パーセントは眠っているのです。眠っているのですから、目覚めさせることができるのです。それには目覚めさせるための思考回路を使うことが必要となります。

そろそろ現代人が使っていない脳を使っていかないと、人類は時代の進化に乗り遅れてしまいます。自らを守ろうとし自らの考えに固執している人は、もう時代遅れなのです。そういった状態である人も、ある意味自らの幸せを求めているのですが、その姿勢で幸せを求めることは、自らを囚われの中に閉じ込めていくことになるのです。そうすると自我は膨らむばかりで、囚われの鎧を着続けていることになります。ご機嫌な環境を求めて主張する人は、囚われの鎧を着て、自らを守っているつもりなのですが、その鎧はどんどん重くなるばかりです。そして人生の可能性をつぶしていくのです。可能性は、自らの囚われを取り去ることによって開かれていくのです。

そこでトオマスのように、途中の段階を抜きにして到達地点を語ると、他者はそれを理解することができません。そういった人は孤独となるのです。しかし本来、生命には孤独という状態はありません。なぜならば、常に互いの連携の中で循環し巡り続けていくのが生命の実態だからです。この世界はどんなものをも必要として存在させているのです。宇宙の始まりから宇宙の完成、生命の始まりから生命の完成までで、これらは循環し巡り続けているのです。その中で孤独に陥ることは、この世界の生命の実相から外れ、矛盾を発生させているという気付きを与えてくれることになります。そのような複雑な織物のようにこの世界はできているのです。

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そういった枠組みで自らを捉えると、特定するものなどありません。だから、わたしたちは自らの囚われから自我を解放してやると、それまで固執してきた自我は幻となるのです。リセットすれば全て幻です。囚われているのはリセットしていない現実なのです。トオマスの言っていることは正解なのですが、そこだけを語っていると、囚われの中にいる者には理解できないのです。ですから、囚われている者の心境を理解し寄り添いながら統合にいざなっていくことが、道を示すことなのです。そうでないと、その完成された境地は自らに孤独をもたらすことになります。

みなさんはそれぞれ囚われの位置にいます。囚われを取るのは簡単です。例えば誰かを見て「あの人いいなぁ」と思えば、自分をリセットしてその人になればいいのです。

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先程も話したように、僕は今朝、目が覚めた時に死にたいと思ったのです。僕には中空を観て、「ああ、そうだな」と思う確信があるのです。そこには何も意味のない「そうだな」という境地が観えるのです。僕がこういった心の探求の道に出会ったばかりの頃、僕の頭上に黄金のブッダが現れた時、僕は半日泣きました。なぜ泣いたかと言えば、その尊さに打たれたのです。しかし、その尊さを語ることはできません。その尊さに意味付けをすることはできません。それはただ尊いのです。尊いのはただ尊いだけ。そこに理屈はないのです。この世界の実相(宇宙)は生命です。生命は光です。光は生命の始まり(ヒ)であり、尊いのです。そのように僕には「そうだな」という心があって、言葉には表せない確信に至っているのです。僕はこの確信に出会う喜びをみなさんに伝えたいのです。それで僕のもとに仲間が集って、この暮らしを始めたのですが、実は僕の意志というより天の意志がそれを導いたのです。今、僕の役割は「そうだな」という確信を伝えることです。その確信に人々をいざなうのが僕の役割なのです。確信というのは揺るぎのないものです。そして同時に、その確信はみなさん一人ひとりの中にある意志でもあるのです。

そうすると、人間が肉体に降り、地上を生きる迷えるものであるとしたならば、その先に人間が到達する目的地は、その確信に出会うことです。だから、人はどこで生きても、目覚めればその目的地に到達することができるのです。

どうも僕にはそれを伝える役割があるようで、(受講生の一人ひとりを指しながら)ウダウダしている人がいるし、良いところにいても確信に至るには深い読みが足らない人もいるし、歪んでわざわざ遠回りをする人や、棚の上のことだけを考えて下から梯子をかけていない人、何か大事なものを見ているのにそこに行くために自らの持っている執着をそぎ落とす必要がある人、道を行くよりも自分の今の評価の方が大切になっている人などもいるのです。理想があるのに遠回りばかりしている人、どこかに理想を感じているのに自分の思考を整理整頓していない人、鋭い感性があるのに本質に行くことをしていないから世の中に流されている人、迷いが人生を表現することになっている人、本質を観る力があるのにわからないと言ってさぼっている人、鋭い分析力があるのに頑固で不器用なためにその分析力を自分に落とせないでいる人など個性的でいろいろです。それを伝えるのは本当に面倒くさいです。ある意味1か月間付き合うのは苦痛です。しかし、そういった人間が地球上には70億人もいるのですから大変です。

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そう語りながら、今、気が付きました。これは僕が全て責任を負わなくてもいいことなのです。それは時代の切り替わりが人々の意識に現れるときが来ているのですから。だから僕はそのように表現しながら、今、楽になっています。これから時代が切り替わっていく上で、一人ひとりの中に想いが湧いてきます。そしてそれは時代の意志であり、天の意志です。そこで、僕は自分ひとりでそれを背負うと感じると、面倒くさく苦痛で死にたいと思うのです。このような尊い役割と道を伝える側にいても、人間個人に囚われると面倒くさくて辛いことにもなります。しかし、それを天との共同作業と捉えるならば、喜びを持って進んでいけます。天は僕にこう言うのです。「難しいことを与えておるゆえ、心していけ。」と。

人間はある意味生命の最高到達地点にいます。しかし、今の人類のいる地点は、皮肉なことに自我の垢にまみれた最高地点にいるのです。地球上の生命の歴史で今は、最も垢にまみれたところにいると言えるでしょう。それは人間の価値観で正義の側のものも悪の側のものも同じところにいるのです。そういった状態をすべてリセットしひっくり返して新たな価値観にいざなっていく。それを僕が伝えるとなったら、無限に続く険しい道に観えます。

そこで今日思ったのは、一人ひとりにこの道を返すということです。あなたのリセットはあなたに託されています。そして一人ひとりが目覚める。これから目覚めるということは、今は眠っているということです。ですから、今のあなたの苦痛は、あなたがあなたを囚われの中に閉じ込めているから発生しているのです。それをあなたがリセットすれば、今までの苦痛は全て幻となり、あなたは新たな人生へスイッチを入れることになります。幸せはみんな一人ひとり、自らの手の中に持っています。そのスイッチを入れないで不満を言っていてはいけません。

それで今朝、僕もリセットしたのです。それを苦痛に思わない。その結果、早速みなさんに伝えているのです。時代はもうそういった時代に入っているのです。これから世の中の価値観はガラッと変わります。ですからその現れとして今、行き詰まりがたくさん浮き上がってきているのです。これは天の采配です。一人ひとりが個の花を咲かせる時代が来ます。今までの自分をリセットすれば、それまでの人生は全て幻となります。そんな簡単なスイッチが隠されていることが、この世界のカラクリです。この世界、人生はカラクリです。逆に言えばカラクリですから、それをひも解けばどのようにもあなたは変身できるのです。

今、僕には確信があるのです。中空を観て、「ああ、そうだな」という確信があるのです。それは頭の中で思考を巡らせてわかることではありません。尊さを言葉で表せないのと同じです。そういったことを人々が理解し、地上を生きていく時代の扉は今、開いているのです。

こうしたことが地上で語られるのは、もしかしたらここが初めてかもしれません。「えっ!自分が?」と信じられないかもしれませんが、始まりは秘かにあるものです。それがあなたであるという確率は常にあるのです。それを信じた者は、その一番の始まりに自らが立てるのです。信じなければ、そこに立てることはありません。

この話は、今朝僕がリセットして「死にたい」と思い、今までの解釈を手放したら天から降りてきました。囚われている分だけその扉を開けると、天は与えてくれます。そして僕は口を開いて語ります。僕の中から出ると、門が開き、開いているから入ってきます。これが天とともに生きるということであり、その意識に到達した者は宇宙を生きるということです。

みなさんはこれから、今までのあなたの自我が反映され表現されてきた現場に戻ります。そこへ帰って、今までの自分に戻るのか、「ああ、そうだ」と新たな方向へ向かって行くのかは、みなさん一人ひとりの自由です。

わたしたちは常に天とともに、すべての生命と一つとしてともにあり、孤独なものはいないのです。ですから、そのことに気付いて豊かに調和した世界を生きていくのか、それとも自我に囚われ生きていくのかは、あなたの自由なのです。しかし、ここで学んできたように、宇宙は、あなたの歩みが反の方向へ進むと、常に苦痛を与えるようになっているのです。宇宙に生きることも時代を表現することも、そこに示されているのは一つの方向である宇宙の法(正の方向)です。そこでは人間に自由を与えながら、法の中に存在することを求めているのです。自由意志の証として自我を与えながら、人間が自我に囚われ法から外れると、法の中に引き戻す作用が働くのです。それが天の意志であり、導きです。そして人間に対する愛なのです。それを受け取ることは、わたしたちが人として存在する価値を理解することにつながります。ですから、もしあなたがまだ自我を大切にしたいのなら、自我の方へ行って下さい。それはみなさんの自由です。

僕はこの1ヶ月間を通して昨日の修了パーティを終え、今朝リセットしました。いさどんですが、ニューいさどんです。みなさんは、どうしますか?
では、また会いましょう。

 

 


男が生き生き生きるには

一風変わった視点の持ち主で、時に“ひねくれもの”と言われることもあるファミリーメンバーのりょうちん。そんなりょうちんといさどんの、ある日の会話です。

 
りょうちん:
僕は元々理屈っぽい方ですけど、最近はもっと理屈を通していこうと思っています。理屈というのは道理だから、屁理屈でさえなければ、道理を通すというのは物事を論理的に見ることであり、自分の中に柱を持って生きるということにもなりますよね。それは、男性が生き生きと生きることができるようになるために大事なことなんじゃないかと思うんです。

いさどん:
理屈っぽいと言うなら、僕なんて極めて理屈っぽいよ。ただ、理屈を語る時の奥にある心がどういうものかということが大事なんだよ。
理屈を突き詰めていくことは道理を通していくことだから、大切なことだよね。だけどそれが周りから見て、あの人の言うことは理屈っぽいね、くどいね、と言われるようになったら、それは自分の言いたいことを主張して押し通そうとしている状態だということ。そこに無理が入れば屁理屈にもなる。だから、理屈にもランキングがあるんだよ。道理を通していく時に、それが独りよがりなのか、万人に通用するものなのかというところで、道理なのか理屈なのかということがわかるんだよ。

りょうちんの言葉を聞いて思ったのは、今、ここの男性たちに元気がないとして、では世の中の男性たちは元気があるのか、元気があるとしたらどういったことに対して元気があるのか、ということを考える必要があるね。木の花の男性は、世の中というものに対して何か疑問を持っているからこの生活をしているわけだよ。そうしたら、仮に今の世の中の男性たちに元気があるとしても、それをここへ取り入れたらいいのか、それともそれを否定するからこそ別の元気を見つけるべきなのか。そこを仕分けしていくことが重要だね。
りょうちんが、理屈を通していくことで男性が活性化するのではないかと考えるとしたら、そういった思考も紐解いていく必要があるよ。冷静な心で紐解き、詳しく原因を探って、その結果対策を考えるとしたら、あなたは思慮深いねという話になる。それは全然理屈っぽくないよね。それを聞く周りの人たちも、それなら一緒に考えてみようかと巻き込まれていくわけだよ。そういった思考を働かせるといいね。

りょうちん:
一般社会での男が生き生きするというのは、例えば人よりも上に立ちたいとか、そういう自分の欲を叶えることで生き生きしてるんじゃないかと思うんですよね。

いさどん:
今、世の中の男の人たちは生き生きしてるの?

りょうちん:
そんなにしてないですね。

いさどん:
本来の男性の立ち位置というのは、周りから頼りにされて柱となって、女性から「頼もしいわ」と寄りかかられるような存在でしょう。女性に限らず、あなたにはここを任せるからよろしくねと言われて「任せときな!」と言えるのが男だよ。
そうすると、今の社会で男たちがやっていることはどうだろうね。社長でもエリート社員でも平社員でもいいけれど、例えば社長になったら経済システムに使われ、金を持てば金に使われて、はたして自らの中に何か柱となるものがあるのだろうか。

りょうちん:
結局、自分で考えていないと思うんですよ。今の社会を観て何が大事なんだろうと考えて、それで自分に柱を立てて道を歩んでいるかというと、そうじゃないと思うんです。

いさどん:
子どもの頃からでも大きくなってからでもいいけれど、何か経験したとするでしょう。その経験が未来の希望あることにつながればいいけれど、今の人たちはどちらかと言うとそれがトラウマになっていて、それを埋め合わせるために条件反射のような行動を取っているんだよ。例えば人と比べて貧乏だったらお金がほしいとか、親が何かに縛られているのを見て育ったら自分は自由人でいたいというように、何かにつけて条件反射的に反応しているから、とても思考が浅い。だからマスコミの報道する内容も、すごく浅いでしょう。その方が今の人たちにはうけるんだよ。

りょうちん:
その奥を観ていないということですよね。

いさどん:
そう。今の人間は思考が浅いんだよ。じゃあ昔は深かったのかと言ったら、深さの質が違うかもしれないけれど、例えば戦時中なんて、国民は一応国を背負って命をかけていたわけでしょう。そのもっと昔は、武士だったら戦場に出向いたり、農民も年貢を収めたりして、まつりごとに参加しながら、生きることが命がけだった。だけど今は生きることに命がけということがなくなったんだよ。そしてとても思考回路が浅くなった。その浅い思考のまま、お金や物、立場など、いろいろなことに縛られているんだよ。

りょうちん:
そう。今の教育だったり、社会の一般常識ってすごく浅いなって思うんです。浅い思考って、育った環境に影響されていると思うんですけど。

いさどん:
最近の大学生の卒業論文でも、とても浅くて子どもっぽいね。

りょうちん:
ものごとの奥を観て分析していくことが欠けてるんですよね。例えば僕たちは今こういう生活をしてますけど、この生活の何が大事なのかを語れるところまでの人となるというのは、やっぱり時間のかかる作業でもあると思うんです。

いさどん:
木の花に来ている男性の性質として、こういった柱のない社会に嫌気が差しているところもあるね。

りょうちん:
それはそうですね。

いさどん:
ただ、では自らが柱を保てているかというと、やっぱりまだ十分に道理を探求しきれていない。自分自身が独立して道理を通しきれていない段階で、道理が通っている木の花という場へ来てしまったものだから、自分がやらなくてもいいんだとサボっているところがあるんだよ。
自分で柱を立てるということは、それだけ緊張もするし、真剣に生きる姿勢が必要になってくる。今の時代は、そういった自分の価値を積み上げていくということの大切さがないがしろにされているんだよ。その結果、表面的な浅いことに気持ちが向くようになって、サボる(自分磨きをしない)ということが楽なことになってしまった。だけど本当は自らの価値を上げて安定することの方が、はるかにやりがいがあり、充実した毎日を送ることにつながるんだよ。そういった生き方は矛盾がない。だから今のように、人々の生き方が矛盾だらけの社会を創ることにはならないね。

りょうちん:
そうですね。ここにいると答えが何となく提供されているから、わかった気になっているけど。

いさどん:
何となく提供されてわかった気になっているというよりも、待っていれば道理が通っていくものだから、ヘタに話して自分のメンツを潰すよりも、待っていた方がいいやという姿勢なんだよ。

りょうちん:
でもそうやって人から与えられるんじゃなくて、自ら湧き出してくるものに柱が立っていくことは、自分自身の活力源になりますよね。

いさどん:
そう。それが男のプライドというもので、それがあることは男としてとても重要なことなんだよ。やはり柱を立てるべき時には、プライドがないと立たないんだよ。

りょうちん:
それが男の生き生きにつながると思うんですよ。

いさどん:
それは自立心とも言えるね。それがあって初めて女性から支持されるんだよ。ところが今は、何よ男のくせに立たないのね、という感じで、力仕事とか物理的なところではあてにされるかもしれないけれど、本当の意味での柱としては頼りにされていないんだよ。それを自分のこととして、一人ひとりが取り組むべきだね。
だからプライドは必要なんだよ。ただし、変なプライドはいらないよ。何もしてもいないのにメンツだけは大事にして、自分の中にあるものを出さずに守っているようなことでは、ただメンツが潰れるのを怖がっている状態だよ。

りょうちん:
それで元気が出なくていじけていっちゃう。だから、勇気ある地道な積み重ねが本当に必要だと思うんです。

いさどん:
地道にどう積み重ねるかというと、やっぱり自分と向き合うことだよ。

りょうちん:
そうですね。

いさどん:
誰もが自分の人生を歩んでいるんだよ。人生とずーっと向き合っていくと、自分に何が積み重なっているかということと向き合うわけでしょう。そこに自らを肯定できるような蓄積がなければ、やはり自ら柱を立てる者としては充実感がないし、希望も生まれない。
女性でも、腹が広くて手のひらの上で男を回してるようなゴツい女もいるけどね。それだって、男を立てるために回してるんだよ。

りょうちん:
は〜。

いさどん:
例えば石臼の前にどしんとあぐらをかいて、石臼をゴロゴロと回してるようなものだね。石臼を回すには中心を立てる必要があるでしょう。
もっともそこまで腹が広くない普通の女性は、柱を立てている男に寄り添い、ひとつのペアを作るわけだよ。そして一人ひとり個性的だから、それぞれに個性的なペアがそこにあっていいわけだよ。ところが自立して立っている者がいないと、寄り添う者も寄り添えないでしょう。逆に女性から「かわいそうに」と思われるようなことにもなっちゃうよ。

りょうちん:
そうね(笑)。

いさどん:
そういった「かわいそうに」と思われるような形が、今の世間にはあるんだよ。なぜかと言うと、女も本当の依代となる柱を知らないから。相手の表面だけを見ていて、自分が寂しかったらどんな対象でもいいんだよ。そこでお互いに傷口をなめ合う関係が生まれる。

りょうちん:
自分を満たしてくれる対象を探しているわけですよね。

いさどん:
そう。今の世の中には柱もなければ依り代もないから、本当の意味で男と女がそれぞれの役割を果たして共に新しいものを創るというよりも、ただ自分たちのニーズを満たしてくれるものを探しているという状態だね。

りょうちん:
結局本当のところで満たされていないから、不満があるんですよ。

いさどん:
そう。そこで男が柱を立てると、それは個性となってちゃんと依り代になるから、そこでペアができたり、ペアじゃなくても支持されるということが起きるんだよ。だけど今の男たちは、そういうことを放棄しているところがあるね。僕から言わせると、そこでプライドを持ってほしいわけだよ。

りょうちん:
うん。高いプライドってことですよね。

いさどん:
そう。高いプライド。そういった意味で、りょうちんが理屈をこねていこうと思うということは大事だよ。その過程ではいろいろなことが起きて、全体から「それってどうなの」と問われることもあるでしょう。それは応援でもあるわけだよね。自分の言っていることが道理が通っていなかったり問題だったりしたら、本人のためにも、全体のためにも、それは訂正しなければいけないんだから。
訂正するということは、そこを越えてその先へ進めということなんだけど、男には変なところがあって、訂正されると「ダメだったんだ」と落ち込んで、訂正すればいいものをしないで、ただしょげているんだよ。

りょうちん:
それまでに積み上げたものが壊れるような気がしちゃうんですよ。

いさどん:
だけど積み上げたものが歪んでいたら、壊してもう一度やり直さないといけないでしょう。

りょうちん:
そう。やり直す勇気を持たないとあかんですよね。

いさどん:
そうだよ。今の男性たちが社会でも柱を立てられないのは、ハングリーじゃないからだよ。

りょうちん:
だけど今地球上で人類が直面している現状からすると、ハングリーなはずですよね。

いさどん:
意識がそちらへ向いたら、そうだね。地球の現状への危機感でハングリーになることはとても重要なことなんだけど、今の人たちにはそういった広い世界観がないんだよ。自分が食えるか食えないかという程度の位置に意識がある。生きることがお金を稼ぐことであり、生活することになっているんだよ。
木の花にいると、全体性の中で、例えば農業の進化とか精神性を高めるとか、もっと言えば世界にそういった新しい目覚めを発信するということの担い手であるわけでしょう。

りょうちん:
そうすると、大雑把なつなげ方ですけど、より大きな視野で生きるということで、変なプライドを折ることもできるようになるのかな。

いさどん:
より大きな視野で生きるということが、今の社会に欠乏しているね。そこで、じゃあ自分は社会を担っていこうという意識になれば、人間意識としては高いものになるね。

りょうちん:
変なプライドを高いプライドに転化してやっていけるってことですよね。

いさどん:
そうだよ。高いプライドがあれば人間がセコくならない。高いプライドで道理を通していけば崩れることもない。だけど低いプライドは、屁理屈をこねて無理やり支持されようとしたり、自分が正しいと思う方向へ話を持っていこうとするんだよ。そんなものは、ものごとが観えない人からしたら素敵と思われるかもしれないけれど、観えるものからしたらバカじゃないのという話になって相手にされないわけだよ。

りょうちん:
だから、低い視点で積み上げたものはいったん壊れると「また積みあげなきゃ」という発想になるんだけど、高い視点で観ていると、とりあえず崩しても大丈夫って感覚でいられるんですよね。

いさどん:
そうそう。例えば北極星のように、不動の目標地点が観えているんだからまたそこへ向かえばいいということになる。視点が低いと目標が観えていないから、壊れるとゼロになるような感じがするんだけど、それがチャンスなんだよ。中途半端に残っているとまたそれを目指しちゃうけど、もともと目標が観えていない者はゼロから始めればいいんだよ。じゃあどこを目指したらいいんだとなった時に「あそこだよ」と言われて、なんだそうか、と進んでいけばいい。それがチャンスということだよ。
だけど、そこを前向きに捉えないで、壊れたことをトラウマにしてしまう人がいる。そして、変な希望を持つよりも希望がない方がいいと言って、自分と向き合わないようにしているんだよ。

りょうちん:
最初から何もしない方がいいってね。ということは、まずはやっぱり日常の中で少しずつ柱を積み上げていくということと、もう一方で、広い世界観のもとに「あそこを目指すんだ」という目標地点を持つということですよね。

いさどん:
その前に、絶対に必要なことがあるんだよ。それは、どこに興味を持って日常を生きるかということ。例えば、朝起きて新聞を開いてどこの欄を見るか。ニュースならどこを観るか。例えば自分自身のことだったら、今日一日の作業のことだけを考えているのか、同時に、それを積み重ねていくと人生がどのようになっていくかというところまで考えているのか。日常の自分の意識がどこを向いているのかということが大事なんだよ。

りょうちん:
それって世界観が広がれば自然と方向付けられていくんじゃないのかな。

いさどん:
世界観は後からついて来るんだよ。日常の自分がどこに興味を持っているかによって、その先にそれ相応の世界観に意識が向くのであって、いくら世界観を広げようとしても自分の興味が足元にあったら、広い世界観との整合性が取れないでしょう。

りょうちん:
そうか。ひとつ思うのは、興味って開発していけるものでもあると思うんですよね。

いさどん:
そこで、自分はどういった人でありたいか、どういった人生を歩みたいかという意欲を持つことだよ。それはプライドと言ってもいい。そこから出発して、興味が湧いて、その延長線上に世界観が広がるわけだから。順序としてはそういうことだよ。
例えば彼女を見つけて結婚して住宅ローンで家を買ってこのくらいがほどほどでいいという生き方があるでしょう。そういうことを親たちがやっているのを見てきて、それでは嫌だという人たちがここにやって来たんだよ。

りょうちん:
もう飽き飽きしてるんですよね。

いさどん:
そう。でも、今の社会や親はまだそれをやれと言うんだよ。だから世の中の男たちがどこかしょぼくれている。ストレス解消のために何か趣味を持ったり、隠れたところで悪いことをやったりといろいろ発散方法はあるけれど、結局人生を通しての柱がないんだよ。ものごとを通してその奥を観るということが柱になるんだけど、その目線がない。
少なくとも死ぬ時に達成感を持って死にたいんだという目標があったら、じゃあ今日一日をどう生きようか、今年一年をどう生きようかと、今から過去を振り返って、そして未来を見通して、自らの行動を観るようになるよ。そこでどれだけの広さでものごとを捉えるかによって、世界観が変わってくる。もしくは、周りの環境によって広い世界観の情報が入ってくれば、そういったことを考えるようになるんだよ。

今、そういうふうに分析をしたでしょう。方向を具体的に出したわけではなく、道理を通して分析しただけだけれど、その分析することすら、興味を持つかどうかということから始まるんだよ。分析していくこと自体が道理を通していくことになるんだけど、それすら興味がなければやらないでしょう。
今の話ももともと正解があったわけじゃなくて、りょうちんの質問があって、社会に当てはめて分析していったらこういう話になったんだよ。それは、興味を持たないと絶対に出てこない。興味を持てば出てくるものさ。

りょうちん:
うん。そうそう。

いさどん:
りょうちんはとことん理屈をこねてみようと思うと言ったけど、あなたの言う理屈をこねるというのは、自分と向き合うということでしょう。自分はちょっとへそが曲がっているかもしれないけど、まだ十分そこをこね回していないから納得するまでこね回してみよう、ということだとしたら、それは自分の中に何かもやもやするものがあるんだよ。それならこね回せばいいんだけど、一人でやっているとりょうちん流のねじれも入ってくるわけだ。だからこそ、こういう客観的な視点が得られる環境にいるわけだから −−−−−

りょうちん:
自分の中にあるものを出していくってことですよね。

いさどん:
そうだよ。時には「僕はこれだけこねました」と出して、みんなはどう思いますか、と投げかける。そうすると、ねじれていればみんながそれを直してくれたり、逆にもっとこねてもいいんだぞ、ということになったりしてね。

りょうちん:
それはやっていこうと思ってます。

いさどん:
そうすると、それがみんなの学びにもなる。ところが、独りよがりで理屈をこねて「これが僕の結論です」と発表するだけだと、みんなのためにはならないでしょう。だからこそみんなの前に出して、それに対するフィードバックを受け取っていくことが大事なんだよ。

りょうちん:
それをもらうためにも出すという意識でいきます。

いさどん:
そうだよ。出すと言っても、世界観が狭いと、自分の思っていることを聞いてもらいたいとか、認めてもらいたいということになる。だけどどのような組織であっても、全体と自分の整合性が取れていることが大前提なんだよ。それはこの世界も同じだよ。そこでは、全体に合わないことは成り立たないわけだ。ところが自分が認められたいということばかり考えている人は、あなたの主張は全体に合わないよと言われると、自分が否定されたと思うんだよ。だけどそれは違うでしょう。あなたの主張は合わないよと伝えるのは、本当の意味であなたを生かすために伝えているんだよ。自分に囚われていると、その視点を受け取る意識が持てない。その姿勢を持つには、腹が広くないといけないね。
自分流に柱を立てても、人の役には立たない。それは自分一人の段階ではOKでも、もう一つ世界が広がると通用しないということだよ。そこで肝っ玉が据わっていれば、目の前に展開される出来事に通用する柱に立て直すことができるんだよ。

りょうちん:
そういうことですよね。僕は、理屈をこねていこうと思ってますけど、やっぱり自分にくせがあるから、それを出していくことだなと思ってます。

いさどん:
そうだね。自分にくせがあると思ったら、それを出していく。すると自分一人のそのくせが、独りよがりのところから、例えば3人でチームを組んだら3人に必要なくせになって、それが10人に必要なくせになって、100人に必要なくせになれば、常にそれは全体の柱になるわけでしょ。腹を据えてキャパを広げて、それで全体のためになろうとしたら、そのうちに自分のくせが人類のくせになるよ。そうでしょう。

りょうちん:
それでいいんですね!

いさどん:
それでいいんだよ。人類というのはみんなくせがあって、欲もあって、プライドもある。ただそれがどれだけのスケールかということと、その質が問われるんだよ。

りょうちん:
自分のくせが、全体にとって役立てるものなのか。全体と整合性が取れているかどうかですね。

いさどん:
最終的には宇宙と整合性が取れたら、それが最終到着地点だね。

りょうちん:
そういうことですね。

いさどん:
我々が人生で出会うこの世界の物理的かつ霊的実態は、ものすごく広いんだよ。その中のどこに位置するのかは、日常自分がどこを見ているかによって変わってくる。無限を観ていたら限りなく広がって、宇宙と整合性を取るという話になるわけだ。お釈迦様のところまでいくわけだよ。ところが狭いと、自分の家庭の中だけというマイホームパパになるんだよ。

りょうちん:
だけどそのままで行けるかといったら、結局、社会とやり取りする中で壁に当たるわけですよね。

いさどん:
壁に当たるということは、自分のキャパを広げていくチャンスなんだよ。ところがそこで自分に囚われていると、これ以上行くと自分が否定されると思って自分の中にこもるわけだ。もっと広いところへ行くべきなのに、外に出たら叩かれると怖がって、現状の自分を保とうとするんだよ。

りょうちん:
僕の話になりますけど、僕は自分で自分のねじれを自覚してる部分もあるんです。

いさどん:
りょうちんはねじれがあると言うけれど、それはくせとして悪いところだと捉えることもできれば、そのねじれが変わった視点となって多様性をもたらすという、ポジティブな捉え方もできるわけだよ。そうすると、あなたが自分を観て「ねじれがある」表現した時に、そこにどれくらいのポジティブ度合いとネガティブ度合いが加味されているのか。そこを吟味して観ると、今までのあなたの人生が観えてくるんだよ。例えばネガティブのウェイトが6割とか、ポジティブのウェイトが6割とかいうように、今までの人生の結果で度合いが変わってくるんだよ。
同じように、他者から見て「りょうちんはねじれてるからな〜」とネガティブに捉える度合いと、「りょうちんらしくて個性的だね」とポジティブに捉える度合いがどうなのかは、それまでのあなたと他者との関わりの結果なんだよ。
そういったことも踏まえた上で「僕はねじれているからね」と自分を分析すると、より次につながる話ができるよ。

りょうちん:
今ちょっとわからなかったです。人の評価を考慮するということですか?

いさどん:
他の人から見て、自分のネガティブ度合いとポジティブ度合いはどうなっているのかということと、自分で自分の中を観て、ネガティブ度合いとポジティブ度合いがどうなっているのかということを、まず客観的に捉えるということだよ。
例えば僕がねじれているとするでしょう。そこでこれからどう進もうかという対策を考えるわけだよ。その時に、そのベースになる心がどこから出発しているか。自分の内から観る視点と外から観られている視点の両方を捉えていくと、現状の自分の位置がわかってスタートしやすいよね。だってどこへ向かうにしても、スタート地点がわからなかったら始められないでしょう。

りょうちん:
僕は自分がねじれているからといって、けっこうブレーキをかけたりするんですけど、人から見れば「それやってみたらいいじゃん」て言われたりするんですよね。それがすごく多くて、そういうことにブレーキかけて無駄なエネルギー使ってるなって思うんですよ。

いさどん:
そう。余計なことをしてるんだよ。それってエネルギーがもったいないよ。

りょうちん:
そう。そういうことを聞きたかったんです。

いさどん:
もう答えが出ちゃったじゃん。そういうことなのよ。
そこで、自分がいかに無駄なことをやっているかということに気が付かないといけないんだけど、長年やっていると、それが自分のくせであってもこの世界の道理だと思い込んでいるわけだよ。それを自分のくせだと気付かなきゃいけないね。
僕は理屈人間だから、何かをする時にこれってもとは何だったのかということをいつも考えてるよ。だから回答が出てくる。だけどそれが、自分に囚われた分析じゃダメだよ。そこには必ず他者と自分とがあって、その中で整合性を取りながらやることだから、例えば自分に欲の心があれば偏っていって道理から外れていく。だから、常に客観的な視点を持って分析を進めながら、最終的には自分にとって受け入れられるところへ落としていく。そういう心の器用さが必要だね。

りょうちん:
そうですね。そこで全体というか、男性全般はどう取り組んでいったらいいでしょう?

いさどん:
男性を元気にするということか。それは、例えばものごとが成り立つには「ヒフミヨイムナヤコト」とあるように、順序があるんだよ。そうしたら、いきなり男性全般をどうするかという話にいくのではなくて、自分からとりあえず始めることだよ。すると、それによって周りが「あれ、りょうちん変わったね」となっていくでしょう。

りょうちん:
そうですね。僕の傾向ですね。推進力が弱いからみんなでやろうとしてる。

いさどん:
まずは周りが「りょうちんどうしたの」って思うくらい、あなた自身が輝いてみせることだよ。あなたの特徴は変化球を投げられることだから、ストレートしか投げちゃいけないと思っていた人は、りょうちんの変化球を見た時に「それもありなんだ」と思うでしょ。今男性たちに元気がないのは、自分を出すと一緒にくせも出て叩かれるから、臆病になっているんだよ。そこで「そういうやり方もありなんだ、それでいいんだ」と思えたら、みんなとても楽になるよね。その代表としてやるのに、あなたはいい人材だね。

りょうちん:
そうするとやっぱり怖がってちゃダメですね。自由にやっていかないと。

いさどん:
怖がるということは、その怖さの実態がどこにあるかということを考えないとね。

りょうちん:
そうですね。自分を崩すことを怖がってるだけですよね(笑)。

いさどん:
そう。それはつまり、相手から何かが来て怖いんじゃなくて、自分の囚われが壊れるのが怖いんだから、実は壊さなきゃいけないんだよ。その壊さなきゃダメなものを大事に握りしめているんだよ。

りょうちん:
そういうことですね。

いさどん:
何かを必死に手の中に握って、自分を守り続けている。必死だからすごく力が入って手に汗握っているんだけど、ふっと我に返って「あれ、何で手に力が入ってるんだろう」と開いて見たら、その手に持っていたはずのものがみんな砂になってこぼれて、そこには何も残らなかった、というようなことだよ。何もないのに力だけ使って、もったいないでしょう。だから冷静にならなきゃいけないんだよ。

りょうちん:
なるほど。そこにも冷静な分析が必要なんですね。

いさどん:
冷静な分析は常に必要だよ。何かが起きた時に、その時は新鮮だからびっくりしてもいいけれど、冷静に分析すればこれは起きるべくして起きたということが観えてくる。そうすると、それに対して対策をする必要があるのか、それともしばらく放っておけばいいのかという見通しも立てることができる。どんな時でも落ち着いて、冷静に対処できる心が男の器だよ。そういった大きなスタンスに立って分析をしないと、無駄をやることにもなる。

りょうちん:
冷静に落ち着いて対処できるのは男の特徴ですか?

いさどん:
冷静に落ち着いて対処できる状態に到達した人はそうなるということであって、それが男だけの特徴だということではないね。その人の心の段階がどの位置にいるかということだよ。
男と女の性質の違いで言うと、女性は具体的に創り上げていく役割だから、そんなに大きな視点は持てないんだよ。

りょうちん:
ああ、そうですね。現実的ですよね。

いさどん:
男は現実だろうが夢だろうが、ずっと向こうの方まで見通す柱を立てる。男のロマンというのはそういうものなんだよ。な?

りょうちん:
うん。

いさどん:
女性からしたら「何言ってるのよ」と言われたりしてね(笑)。

りょうちん:
「そんなことより生活成り立たせなさいよ」って(笑)。

いさどん:
それでも、希望があればいいんだよ。女性が食わせてくれるから。

りょうちん:
ああ、なるほど。女性が支えてくれるってことですね。

いさどん:
そう。その夢にちゃんと道理が通っていれば、女性がスポンサーになってくれるんだよ。それが支持されるということだよ。もっと現実的な柱を立てる男がいてもいいけどね。それはそれで、「この人堅実でいいわ」と女性に支持されるよ。そういったことを器用に使い分けられる男性はモテるよ。
だから、いろいろあるのだから、それぞれ個性的でいいんだよ。バカばっかり言っていても、あの人の人生ってあっけらかんとして心が楽になるわ、ということもあるんだよ。そこで多方面に整合性がとれていたら、それは仏の世間解(ほとけのせけんげ:仏とは、仏の境地に立った者。男でも女でもない意識の状態の者が、様々な経験をしたかのように世間を理解していることを、仏の世間解と言う。)だね。もしかするとアシアトウアンなのかもしれない。

りょうちん:
わかりました!

いさどん:
そういうふうに、自分と向き合って、現状の自分を突破しようとする意欲があることによって初めて、今のような話が湧いてくる。これはあなたに話したことだけど、他の人にとってもとても重要な話だよ。世の中にも伝えたい話だ。そういった意識になると、自分の存在が人の役に立っていくんだよ。

りょうちん:
はい。ありがとうございます。

いさどん:
何を聞かれても、とりあえずここ(と言って自分の頭を指す)からは、今のところ無尽蔵に智恵が湧き出てくることになっているからね。

りょうちん:
やっぱり僕には自分で考えたいっていう欲求もあるものだから、何でも聞くわけではないんですけど。

いさどん:
それでも、ポイントのところは必要だよ。自分の得意分野とそうでない分野があって、それはその人それぞれの個性でしょ。その個性を生かせばいいんだけど、個性に囚われてはいけないね。足りないところは他からもらって足してあげればいいんだよ。それには柔軟さと腹の大きさがないと、できないね。

りょうちん:
自分で取り組み始めたところなので、それに対してこの方向で大丈夫かなと確認したい思いもあります。

いさどん:
そういった状態にあなたがなったということはとても喜ばしいことだから、こちらも意欲的に話せるね。そういうふうに自分が開いていく状態の意識の時と、閉じていく状態の意識の時があるんだよ。閉じていくというのは、守りに入ること。だから閉じていく時に開いていくための話をしても、入っていかないね。いつでも開いていく意識で人生を生きていけたらいいけれど、人生にはいじけていく流れの時があるからね。

りょうちん:
僕、だいたいそうでした(笑)。

いさどん:
おもしろいことに、そういう時にはいじけることを自分の特徴として、それに執着するんだよ。だから、開くための話をもらえばもらうほどいじけていく。そういう人は放っておかないといけないね。

りょうちん:
行くところまで行かないと。

いさどん:
そう。行くところまで行くと逆転するから。それを変につつくと抵抗が生まれるから、いじけることを長引かせることになる。放っておけば、その人のいじけキャパというのがあるから、そこまで到達した時に自分ではっと気付いて、逆転の発想が生まれてくるんだよ。

りょうちん:
そういう場合は全然声をかけなくていいんですか?

いさどん:
いや、こちらの存在は伝えておかないといけないね。だから種だけ蒔いておくんだよ。今言ってもわからないから、必要になった時に来いよ、くらいの感じでね。

りょうちん:
プライドは刺激しないんですね。

いさどん:
そうだね。それでも多少はプライドも崩してあげないといけないよ。なぜかと言うと、プライドを崩しておかないと、そのプライドがいつまでもこだわりになってしまうから。本当に自分のためを考えたらそれでいいのかよく考えてごらん、ということは伝えておくといいね。
今のままでいいんだよ、なんて言ったら、修正しなければいけないこともしなくていいことになってしまうでしょ。そうすると、その人のくせはそのままの状態でいくから、一見元気になったように見えたとしても、いずれ必ず問題ごとにぶち当たる。だからやっぱり、ものごとをバランスよく観て、人には修正しなければいけない時もあるよ、ということは常に伝えながら、相手の意志も尊重していくことだね。

今の世の中は、自分を振り返らない人間が生き生きするための手法はすごく人気があるんだよ。低いプライドを保ったまま生き生きするニーズがあふれていて、みんなお金も暇もあるから、表面的に心地よくさせてくれるところに人がたくさん集まってくる。人が集まってくるからいいことをしてるんだと勘違いしている人が多いけれど、そういった勘違いから人の心をくすぐって、お金儲けをしようとする罠が世の中にあふれているんだよ。そしてその結果、今の混乱した世の中がさらに広がっていくことになる。
自分の精神状態を冷静に分析して、きれいにしていくことの価値を知らない者たちは、囚われの部分を残したまま心地よいことだけを求めていくから、そういった罠に引っかかるね。そして一時的に心地よい気分になったとしても、自分の精神が根本的に改善されたわけではないから、何回も罠にかかることになるんだよ。それはある意味マインドコントロールだから、その罠に引っかからないようにいつも伝えているんだけどね。

りょうちん:
だから木の花は、現実の生活に反映された情報を、社会に対して提供しているんですよね。

いさどん:
そうだよ。情報は提供するけど、押し付けはしない。なぜかというと、お金儲けが目的じゃないからね。その気になったらおいで、というスタンスだよ。

世の中は今、本当に大切なものは何なのかを見失って、そのピーク迎えている。そこでいよいよ、人々の本物探しの心がうずうずとうずき出す時が来たんだよ。それは、今までのような表面的な心地よさを求める浮かれた時代とは違って、人々の心が安定し、不動の柱のもとに日々を生き、一人ひとりに世の中を組み立て直していくくらいの心構えが必要とされる、切り替えの時が来たということだよ。
その時代の意志に一人ひとりが気付いて、男も女も、みんなが充実した日々を送れるよう、心がけていくことが大切だね。