自分発、世の中を良くする人になって下さい ~ コロナワクチン接種の話から

木の花ファミリーでは、何か決めごとをする際に、常にみんなでその内容を共有し、全体の総意の下に物事を決定します。
現在、新型コロナウィルスのワクチン接種については、自身が媒体となって感染を拡大することを防ぐという社会的責任を果たす意味もあり、大人メンバーは全員がワクチンを接種することを決定し、順次接種を進めていますが、子ども達がどうするかについては保留となっていました。そんな中、同級生に感染者が発生した子どもから「ワクチンを接種したい」という声が上がり、ある日の子どもミーティング(毎晩夕食後に開かれる、子ども達がその日の出来事を大人を含めたみんなの前で発表する場)にて、改めて話をする時間が持たれました。
以下、その時のお話をご紹介します。


 

ジイジ:
今日は、みんなで大事なことを決定しなければなりません。そこでは、みんなの心が揃わないといけないですね。そこで今から、心が揃わないのはなぜか、という話をします。だから今日は、二つの話があります。

一つ目は、コロナワクチンのことです。ここでは、60歳以上の人はもうみんな2回接種しましたね。ジイジも2回打ちました。ワクチンを打ったからと言って、何か特別な症状があったわけではありません。60歳以下の人でも、ワクチンを打って何か症状が出た人はいますか?

まりねえ:
38℃の熱が出ました。

ジイジ:
それはまりねえちゃんの平熱だったりして。(みんな:笑)

みちよ:
私も平熱より2℃高い熱が出ました。

ジイジ:
それは、日頃のあなたの姿勢を見ていると、心が原因かもしれないね。とりあえず、そんなに大きな問題はなく接種が終わり、今は50代以下の人達が接種を進めています。

それで、今日の話は、20代より下の人達の接種をどうするかについてです。
ここでは、ジイジが話すことが決定ではありません。ジイジが話すことを強制する場ではないということです。ただ、大人については、基本的にみんな打つことにしました。それはなぜかと言うと、木の花ファミリーにはロータスランドというお店があり、たくさんの人が訪れます。そしてこの場所でも、こうしてたくさんの人たちが一緒に暮らしています。そこで感染者が一人出ると、クラスターとなって周りに広がっていく可能性があります。そして、こういう共同生活の場所で感染者を隔離することも、なかなか難しいのです。
ですから、そういった問題が起きないようにすること、そしてこのように大勢で暮らしている場所は特に気を付けなければならないという、社会的責任があることを考えました。みんなで共に生活する豊かな暮らしだからこそ、自分の家のためだけではなく、社会に対しても責任があるということを、大人達みんなで考えて、基本的には大人は全員ワクチンを打つことに決めました。ここまではわかるかな?

子ども達:
はーい!

ジイジ:
まずは大人が打ってみて、10代以下の人達については、どうするかを決めていませんでした。社会的責任という意味では大人よりちょっと軽いかな、でも大勢で暮らしているのだから打った方がいいのかな、と微妙なところです。
そこで、自分は打ってもいいと思っている人、打ちたくないと思っている人を確認したいと思います。正直に答えてください。打つか打たないかを決定するのか、それとも、それぞれのケースに合わせて対応するのかわかりませんが、まずはみんながどう思っているのかを確認したいと思います。打ってもいいと思う人!

(半数以上の子ども達が手を挙げる。)

ゆりか(中学生):
えー、注射痛いのに~。

子ども達:
そういう問題じゃないでしょ。

ジイジ:
じゃあ、やっぱりワクチンは打ちたくないなと思う人!

(数名が手を挙げる。)

ジイジ:
打ってもいいという人は、打ってもいいということだからとりあえず置いておいて、打ちたくないという人は、どういう理由があって打ちたくないのかな?

ゆうゆ(高校生):
「痛いから」っていうのは理由にならないからね。

ピッポ(小学2年年):
痛いからじゃなくて、ピッポはもともとコロナにはならないと思ってるから。

ジイジ:
なるほど、そういう理由ね。他には?はい、こうたろうくん。

こうたろう(小学1年生):
ワクチンを打つと動けなくなるから。

子ども達:
そんなことないから!

ジイジ:
それはどこで聞いたの?

こうたろう:
ようちゃん。

ジイジ:
じゃあ、ようちゃんは何を根拠にして、そういうことをこうたろうに伝えましたか?

ゆりか:
ワクチンを打ったら、痛くて腕が動かせなくなったってようちゃんが言ってたんだって。

ジイジ:
前に、ようちゃんは他の人にも、コロナワクチンを打つとみんな5年後に死ぬと言ってました。

子ども達:
えーっ!(笑)

ゆうとう(中学生):
それって、ただワクチンを打たせたくないだけじゃないの?

ジイジ:
もしもそうなら、5年後に日本はなくなるね。(みんな:笑)

ようちゃん(大人):
昨日ワクチンを打って、腕が上がらなくなったってこうたろうに言ったね。

ジイジ:
今も動かないの?

ようちゃん:
今日は大丈夫です。こうたろう、もう治ったからね。

ジイジ:
こうたろうは、この話を聞いてどう思いますか?

こうたろう:
腕が動かなくなったって。

ゆりか:
ずっと動かないわけじゃないんだよ。

ゆうとう:
動かないっていうか、腕が上がりにくいってことでしょ。

ジイジ:
こうたろうは、それを聞いたからワクチンを打ちたくないの?

こうたろう:
そう。

ジイジ:
今の話は、この後の話につながる話です。この話をよく覚えておいてください。
ようちゃんがこうたろうに伝えたことと、それを聞いてこうたろうが受け取ったことは、一緒だったのか、違っていたのか。そこにズレがあるかどうか。実際にようちゃんの中に、なるべくワクチンを打たせないような情報を流す意思があったのか。それとも、そんなつもりはなくて、ただちょっと腕が上がらくなっちゃったと言ったことが、こうたろうの中では「一生腕が動かない」という話になっていったのか。そこは重要なところです。
他にワクチンを打ちたくない人は、どんな理由がありますか?(子ども達がパッと答えないのを見て)あのね、「打ってもいい」という人は、打ってもいいわけだから、理由はどうであってもいいんだよ。だけど「打ちたくない」という人には、その理由を聞いて、それを尊重するべきかどうかをみんなで考える必要があるでしょう?

なり(中学生):
うちでは、ジイジが作ってくれたレンコンとか栄養のあるものを食べてるし、たぶん免疫力があると思うから、別にワクチンを打たなくてもいいと思った。

ジイジ:
うちのレンコンを食べるとコロナにかからないという理由は、どこから持ってきたの?

なり:
コロナにはかかるけど・・・(みんな:笑)

ジイジ:
あのね、大人たちが社会的責任としてワクチンを打とうと決めたのは、自分がかかるかかからないかではなく、かかった場合にそれを他の人にうつすことがあるから、その責任を考えようということで決めました。自分は免疫力があるから、かかっても大して重症化しないから大丈夫、ということだと、自分がかかって他の人にうつしてもいいという話になるんだよ。それについて、どう思う?

なり:
人にうつしたら、いろんな人が困るから、人にうつしていいということじゃない。自分一人だったらいいけど、他の人のことを考えたら、打った方がいいと思いました。

ジイジ:
ジイジは、打つ方向に誘導しているわけではなく、今の打たないことの理由について話してるんだよ。そういう理由の元にある心について、考えなきゃいけないねということです。
はい、他に打たないと言った人の理由は?

あまの(保育園児):
5年後に死んだらいやだから。

ジイジ:
そういう怪情報を流した人がいるんだよね。「それは違うでしょう」という話をしても、「えー、ようちゃんがそう言ってたよ」という噂がいろんな所へ広まっていくと、消しても消してもその情報が一人歩きしていくんだよ。これはすごく大事な話だよ。
はい、他の人はどうですか?

なお(中学生):
打ったら運動がしにくいということと、熱とかが出たらイヤだから。

ジイジ:
それは自分のためということ?さっき、なりに話したことについてはどう思う?

なお:
それだったら、打てばいいかな。

ジイジ:
だから、前の人の話をきちんと聞いておいて、後の人はそれを受けて「そういう理由があるのか、じゃあこうしよう」と繋げていかないと、いちいち同じ話を繰り返さなければならなくなるよ。前の話をしっかり聞いて、そこに自分を乗せていけば、話はとてもスムーズに進みます。これも後の話につながる話だよ。
他にはどうですか?はい、みのちゃん。

みの(高校生):
みのはどっちでもいいんだけど、できれば打ちたくなくて、理由はただ単に注射が苦手だから。あとは、病院に行くのがイヤなんだよね。

ジイジ:
なるほど。そういう個人的理由ね。
今はもうそういう段階ではなくなっていますが、ワクチン接種が始まった時に、まずはお年寄りから始めましょうということになったね。どうしてか知ってる?

子ども達:
重症化しやすいから!

ジイジ:
お年寄りが重症化しやすい理由として、基礎疾患と言って、高血圧や糖尿病など、もともと病気を持っている人が多いんだよ。そういった人は、コロナウィルスに感染すると重症化しやすい傾向があります。だからお年寄りから打つことになりましたが、まあ、少子高齢化ということから考えると、なるべくお年寄りには打たないで、高齢で病気の人から旅立っていただいた方が、国のためにはなるかもしれない。

バァズ(おばあちゃんメンバー)達:
たしかに!(笑)

ジイジ:
だけど日本はそういう国ではありません。命はなるべく長く生きた方がいい、その内容については問わない、という国ですから、高齢者から先にワクチンを打ってきました。
ところが、先日も、40歳でコロナに感染し重症化した男性の話がニュースで取り上げられていました。これまでは、30代や40代で感染しても重症化しないと言われていたのですが、最近はコロナウィルスも変異しています。変異ってわかるかな?人間がいろいろな勉強をして新しい取り組みをするのと同じように、ウィルスも、人間がワクチンを打ったりいろいろな対策をすると、そのワクチンが効かないようになったり、より感染しやすくなったりと変化していきます。人間は世界中でワクチンを打とうとしていますが、コロナウィルスもそれに対抗しようとしているのかはわかりませんが、ウィルスとはそういうものだということです。インフルエンザもどんどん変化して、前のワクチンが効かなくなっていくでしょう?
現代医療では多くの治療で抗生物質を使用しています。抗生物質は、体の中で悪さをするウィルスや菌を殺すものですが、これには問題もあって、悪い菌だけでなく、いい菌も殺してしまうのです。そして人間の体から、抵抗力を奪っていきます。それどころか、菌の方が抗生物質を学習し、抗生物質が効かない耐性菌がいろいろな所で広まっています。そして、近い将来に現代医療が機能しなくなる可能性があると言われています。ですから、世界は将来もっと不安定な状態になります。
その時に、さっきなりが言った話に繋がります。本当に薬が効かなくなった時に何ができるのかと言ったら、薬に頼るのではなく、自分が病気に対抗する力を持つことです。これを何と言いますか?

子ども達:
免疫力!

ジイジ:
レンコン力とか、葉っぱ力だね(笑)。自分の力で対抗して治っていく力を身に付けるということです。それは、ワクチンを打っても打たなくても、いつも心掛けておきたいことです。
幸いなことに、ここには免疫力を高めてくれる力を持った食べ物がたくさんあり、毎日食卓に出てきます。そして、それを買ってくれるお客さんのことも考えながら、大人は作物を作っています。それはとても大切なことです。
だけどもっと大切なのは、先ほどの話のように、何の根拠もない意味不明の噂が広まっていくことがあるでしょう?その時に、そういったよくわからない情報を聞いて、正しく判断できる力を身に付けることです。これを「心の免疫力」と言います。不確かな噂を聞いて「わあ、怖い」と自分の中でさらに膨らませていくと、意味なく自分や人を不安にさせていくことになります。これはとても重要なことです。それだけで人はパニックになっていくのです。実際に「注射が怖い」と言って、その気持ちだけで具合が悪くなってしまった人がいましたね。もっと冷静に、なぜこれが必要なのかということを考えることが大事なのです。意味不明なことを考え、さらに自分の中で膨らませていくと、さらに問題を引き起こす原因になります。

今、コロナワクチンは世界的に接種を進める傾向にあります。若い人達は免疫力があるから、お年寄りから進めようということになっていましたが、最近では若い人の中で感染が広がっています。NHKが取材した40歳の男性は、何も基礎疾患を持っていないのに感染して肺炎になり、2ヶ月間意識不明の状態だったそうです。その間、お医者さんはとても高度な機械を使って一生懸命治療を続けていました。その人は回復はしたものの、肺が潰れてしまい、今も苦しさが続いて、もう元のように運動をすることはできないそうです。お年寄りは後遺症が残っても、もうそんなに未来がありませんから(冗談です。笑)いいのですが、若い人はこれから未来があるのですから、後遺症が残ると大変です。これまで若い人達は、自分はかからないから大丈夫、と言っていましたが、そうではない状況になってきているということです。
これは、説得をしているのではありません。そういったことを考えた上で、今どうするべきかを考えるということです。ここの子ども達のワクチン接種をどうしようか、と聞かれても、ジイジが答えを出すことはできません。一人ひとりの考えを聞いて、そしてみんなで決定をしようと思いました。それがこの場所です。「自分はコロナにはかからないから打たない」という選択肢もあるでしょう。確かに、みんながかかるとは限りません。でも、かかってしまった時に、いろんなリスクがあるということです。

大人達は、みんな打とうということに決まりました。そこで、今度は大人の人達に聞きます。ここの子ども達はどうするのが良いかについて、大人達はどう考えますか。はい、ワクチンを打たなくてもいいと思う人。

(誰も手を挙げない。)

では、本人が打ちたくないという場合は、打たなくてもいいと思う人。

(21人が手を挙げる。)

打った方がいいと思う人。

(26人が手を挙げる。)

みかこ(大人):
どちらでもいいという人もいるね。

ジイジ:
これが大人の人達の考えです。「打った方がいい」という人が、少し多いですね。
では、「打たなくていい」という人はその理由を教えてください。

ピッピ(大人):
さっき子ども達に確認した時に、ほとんどの子が「打ってもいい」という考えだったから、打たない子が多少いてもあまり影響ないかなと思いました。

ジイジ:
だけどね、「打たない」という人は、それはそれで認めても、社会的責任ということから考えたら、感染して人にうつさないよう、注意してもらう必要はあるよ。

ピッピ:
もう一つは、ワクチンについてまだわからないところがあるから。でも、大人に関しては、わからないから打った方がいいと思いました。

ジイジ:
では、「打った方がいい」と思う人の中で、代表して意見を言える人はいますか?

あや(大人):
私達は、こうやってみんなで一緒に暮らしていて、子ども達も外でいろんな人に会うでしょう?だから、できるだけ危険なことは避けた方がいいと思いました。

みの:
具体的に、どこがどう危険なの?

ジイジ:
危険というのは、一人がここへウィルスを持ってくると、ここはたくさんの人が暮らしているから、一気に広がってクラスターになるということです。濃厚接触者ということになれば、自分は陰性でも隔離されなければなりません。つまり、全員隔離が必要になるということです。

みんな:
不可能だね~~。

ゆりか:
ワクチンを打ったら、コロナにはかからなくなるの?

ジイジ:
ワクチンを打って感染しなくなる確率は、95%と言われています。だから、ワクチンを打っても20人に1人は感染する可能性があるということです。それから、感染しても重症化しにくいと言われていますが、感染すれば人にうつす可能性はあります。つまり、ワクチンを打てば絶対に大丈夫ということではないので、ワクチン接種を勧めている日本政府も、ワクチンを打てば何をしてもいいということではなく、引き続き注意して日常生活を送ってほしいと呼びかけています。それは、打つ人も打たない人も、誰であっても、社会的責任というものがあるということです。それは、「自分は健康だからいい」という話ではありません。ここまで感染が拡大した今は、みんなに社会的責任が問われているのです。
その上で、今日の結論をどうするか。多数決でいくと、子ども達はみんな打った方がいいということになりますが、その結論はつまらないでしょう?

ゆうとう:
つまらない!

ジイジ:
だから、みんな打って5年後に死ぬのはどう?(みんな:笑)
ではもう一度、大人と子ども全員に聞きます。打つか打たないかは本人の意志で決めればいいと思う人。

(37人が手を挙げる。)

では、子ども達も全員打った方がいいと思う人。

(35人が手を挙げる。)

では、本人の希望で、打ちたくない人は打たなくていいことにします。

(子ども数名が拍手をする。)

そんなふうに、喜ぶことではありませんよ。ここで次の問題があります。それは、打っても打たなくても、社会的責任は常にあるということです。
「自分だけ良ければいい」という話ではありません。そして、いい加減な情報を流してもいけません。
打つ人は、「なぜ打つのか」ということを自分の中でしっかりと考えて、その責任を果たすために打ってください。打たない人は、自分の意志で打たないのですから、その分毎日の生活をしっかりと気を付けて送る必要があります。打つ人もそうですが、打たない人は打つ人よりももっと気を付けて、自分から人にうつさないようにする。そして、人からももらわない。それを、責任を持ってやってください。そのことを、いつも考えていられるかどうか。
もしも誰か一人でもかかったら、ここでは全員が濃厚接触者になります。自分は陰性であったとしても、14日間は隔離しなければなりません。ここでは、個人の意志を尊重します。その個人の意志を託された人は、自分が全体のことを託されたのだということを、しっかり考えて行動しなければいけないということです。いい加減な行動はできないのです。それはワクチンを打たないからということではなく、周りの人に対する責任を果たすということです。そういったことを考えて行動するようにしてください。
ここではロータスランドも運営しており、いろいろなお客さんと出会います。大人達はその責任を考えて、打つことを決定しました。自分が他の人にうつす可能性がない立場にいる人、他の人と関わらない人ならば、「私は打たない」ということでもいいでしょう。個性的な生き方は尊重されて良いのですから。しかし、その個性が人に迷惑をかけたり、不安を与えるとしたら、社会人としての責任を取らなければいけません。

そこでもう一つ、みんなに話したいことがあります。
ジイジは、人の心というものをずっと観てきました。この間は、4人の子ども達を呼んで話をしました。この4人はなぜ呼ばれたかというと、日頃の言葉遣いが悪かったり、友達に乱暴な振る舞いをしたりしたからです。その中の1人は、ジイジが話をした後も、また悪い言葉を使ったので、今度は叱りました。
本人は、「悪い言葉を使おう」と努力しているわけではありません。本人に聞くと、「自然に出てくる」と言うのです。つまり、自然に悪い言葉が出たり、人が嫌がることをするような人になっているということです。みんなはこれをどう思いますか?

子ども達:
よくないと思う。

ジイジ:
よくないと言っても、他にもそういう人がいるでしょう?だからジイジは本人を呼んで、今からそういう状態でどうするのか、という話をしました。そこでは、あなたの心の状態はこういうことだよ、という話をします。前はこういう状態で、今はこうなってるよ、ということを話します。そして、さらに先へ行くとこうなるよ、という話をします。
よく、小学生のうちはまだ親の方が力関係が強いので抑えられていても、大きくなると親の方が怖がってしまって、伝えられなくなるという話があります。極端になると、子どもが親を脅したり、逆に「こんな子を世の中に生かしておけない」と親が子どもを殺してしまうようなこともあったでしょう?親から離れて好き勝手に振舞い、暴走族になったりする人もいます。それは、本人達もそれで良いとは思っていないのです。でもなぜかわからないけれど、そういった場所に心が合うので、そうなっていくのです。
ここでも、最近小さい子ども達が悪い言葉を使うことがあると聞きます。どうしてそうなったかわかりますか?それは、上の子達が使うからです。使っている本人にどうしてそういう言葉を使うのかと聞くと、「何でだかわからないけど、そういう風に言ってしまう」ということでした。そして何回注意しても、また同じことをやるのです。これは、深刻な話です。そうしてその人の人格、心がつくられていくのです。
そこでジイジは、本人の親を呼んで話をしました。子どもというのは、お父さんの遺伝子と、お母さんの遺伝子を受け継いで生まれてきます。ジイジはこれまでたくさんの人の相談に乗ってきましたが、話を聞いていると、その問題のルーツが観えてきます。それは、その問題の本人だけではなく、家ごと解決する必要があるケースがたくさんあることです。その時に大切なのは、本人が問題に気付いたなら、まずは自分から解決することです。

自分が問題を解決すると、今度は自分が子どもに遺伝子を受け渡す時に、子どもに悪いものが行かなくなります。そして自分自身も、問題を解決したのだから、良い人として生きることができます。さらにもう一つ。その問題点が、自分の親や、そのまた先祖からずーっとつながって自分に来ているとしたら、自分がその問題からしっかり学んで、優れた人になることは、昔の人たちが個性的な人生を生きて自分につないでくれたお陰で自分は気付くことができたのだ、ということにもなり、その問題のお陰で学ぶことができました、ありがとう、と、昔の人達の問題も、良いことに変わるのです。つまり、昔も、今も良いこととなり、そして未来の子ども達にも、良いものを与えることができるということです。
ここはポイントです。もしも今、その問題ごとから学ばずに、そのまま先へ進むと、「あそこの家の子だからね、やっぱりそうだね」ということになります。そしてその人が将来パートナーを見つけて子どもをもうけると、「やっぱりあの家の子どもは、親のようになったね」ということになります。
今、悪い言葉を使ったり乱暴をしている子ども達は、今はまだ子どものしたことのように思っているかもしれませんが、そのまま大きくなると、校内暴力になったり、警察沙汰になったり、誰かをいじめて相手が自殺するなどということが、世の中にはたくさんあります。そうしたら、一生償わなければいけません。自分だけでなく、相手の一生も取り返しのつかないことになり、自分の家族も「あそこの家の子は」と周囲から言われるようになります。ここの子は「あそこの家の子は」ではなく、「木の花の子は」という話になり、ここの全員にそれがかかってくるのです。
これは、さっきのワクチンの話と同じです。自分が打ちたくないということは認めます。しかし、自分の立場というものを考えたら、それを認めてもらった分、打つ人も日常生活には気を付けなければいけませんが、打たない人はなおさら、打つ人よりもさらに真剣に考えなければいけません。そして、人にうつさない。そういうことをしっかりやっていかなければいけない。それが、その人が生きていく上での責任ということです。

これは、最低限の話です。気に入らないから悪い言葉を使った、というようなことでは、だんだん済まされない話になっていくのです。今はまだ済まされているから、この話で終わっていますが、そういった姿勢を今のうちに正していかないと、将来済まされなくなっていくということです。心の持ち方がいい加減だと、思わぬことに出くわすことがあります。そのようなことを引き起こす心を持たないようにすることが、責任ある人の生き方です。それは本来、人として当然のことです。
ジイジも子どもの頃に、嘘をついたり、「大人には内緒だよ」「誰々には言っちゃダメだよ」という秘密を持っていました。よくあるでしょう?それは、隠しておきたいことがあるということです。でもね、隠しておきたいことが多ければ多いほど、今のような問題につながっていくことになります。こんなに大勢で暮らしていても、みんなが自分の中にあるものを正直に出して、これについてどう思う?と、常に正直に話し合える場所を創ったら、この場所に良い風が吹いて、「あそこは気持ちのいい場所だね」という所になるでしょう。しかしどうしてなのか、人は隠そうとするのです。ジイジはね、きちんとした毎日を送って、責任ある行動を取っていたら、子ども達がゲームをやるのもいいと思うんだよ。ところが、隠れてゲームをやろうとする子がいるでしょう?
隠れてやると、簡単に中毒になります。それは、隠しておくことは病的な心だからです。心が病気を創るのです。今の世の中には、心の病気を持つ人がたくさんいます。精神疾患を持つ人は、日本全体で400万人と言われています。そしてその10倍が、予備軍といって、精神疾患になる可能性があるというのです。そうすると、日本人の3人に1人が心の問題を持っていることになります。大変な数ですね。

それで、さっきの話に戻ります。インターネットには、いい加減な話が溢れています。そしてそのいい加減な話が、「そうなんだ」「そうだよね」と確かではないのに広がっていきます。それが誰から出てきたのかわからないのに「そういうことらしいよ」という話が「そうだよ」ということになって、真実になっていくのです。ジイジは、どんな人の話でも必ず「それはどこから聞いたんだ?確かなことか?」と確認します。それは疑っているのではなく、確かな話ならいいけれど、確かでなければ、自分から世の中を混乱させる元をつくっていることになります。人の迷惑を広げているのです。
そう考えたら、いい加減なことは言えません。そしてワクチンを打たないとしたら、いい加減な生活をしてはいけません。ワクチンを打ったとしても、効果は100%ではないのですから、やはりいい加減な生活をしてはいけないのです。それは、社会のためにも、自分のためにもそうするということです。そういったけじめのある意識を持つことが大切です。
今、この場所で子ども達の後ろにいる大人達は、そんな風に親から言われなかったでしょう?だからいい加減な人になるのです。その悪いクセを、大人になってから取るのは大変です。
子ども達は、今それを取るチャンスをもらっています。小さいうちにそれをやると、早く取れます。大きくなると面倒です。自分の理由を言うようになるからです。今は、そんなことをしてはダメだよと伝えれば、「そうだね」とすぐにわかりますが、大きくなると、自分の理由をたくさん並べるようになります。

心が、この世界を創っています。いい加減な心を持っていると、いい加減な人間関係、いい加減な世の中ができます。だから、その元の心がいい加減ではいけないのです。
今の世の中では、そのいい加減さが分析できなくなっています。そして大人が、いい加減なことをたくさん言いふらします。そして子ども同士でも、すぐに隠し事をする。「言わないでね」と隠し事にしていることが、問題となって独り歩きをするようになるのです。
そこのところをとことん自分に言い聞かせてやらないと、染みついてからでは本当に取れなくなります。そして今のような、混乱した世の中ができてしまうので、子ども達とこういった話をするべきだと思いました。今なら、子ども達はそれを広げる側から、やめさせる側になれるだろうと思うからです。
コロナウィルス対策についても、いい加減なことではいけません。責任ある行動を取りましょう。みんな、1人で生きているのではないのだから。

毎日の子どもミーティングで、ただその日の出来事を報告するだけでなく、自分はいけないと思うことをやりました、ということが言えるようになったら、この人は自らを正す道を歩み出した、ということです。それは、良い人生を生きることになります。そして、周りの人にとっても良いことをもたらす人になります。
自分発、良い場所ができるように。自分発で悪いことを起こすのではなく、自分発、良いことが起きるように。それを心がけてください。そうしたら、相手発、悪いことに対しても、「それはいけないよ」と言ってあげられる人になります。自分発、良いことをし、相手発、悪いことに対しても「それは良くないよ」と言ってあげられるようになったら、自分発、世の中を良くする人になります。それが大事です。
今は、そういうことを誰もしません。これからは、それがとても必要になる時代が来ます。これは大人も子どもも関係なく、世の中を創っている人はみんなそのように生きるということです。
ワクチンについても、大切なことですからよく考えて判断し、そして判断したことで自分の責任をきちんと果たしてください。

 

 


ヒフミヨイムナヤコトの道

ある日の大人会議で、チナッピーが、養蜂で山梨に行く時に道を間違えそうになったことについてシェアしました。


チナッピー:
山梨の養蜂場へ行く時の運転を私がしたのですが、その時のことをシェアします。いつも、山梨に行く時は明るい時に行くのですが、今回、夜に向かったので、いつもより感覚が鈍っていました。宿泊先に行くには、荒田という信号を右へ曲がって入る、その前にコンビニがある、という事だけが印象に残っていて、行く途中に、まだその場所ではないのに、コンビニがあり、「もう荒田だ。すごく早く着いた。」と思い、間違ってその信号を右折しようとしました。その時に、後部座席のジイジから「どこへ行くんだ。まだだぞ。」と言われて、まっすぐ進んだという事がありました。
私は、道を間違えそうになったという事を、そんなに重要なこととして捉えていなかったのですが、今朝、ジイジがともちゃんとぴっぴにこの件について話しているのを聞いたとき、これはすごく重要な事なんだという事に初めて気が付きました。それがどれぐらい重要かという事を、ジイジが二人に事細かに解説していました。道を間違えることから、私がどのように人生を歩んできたのか、日々どのような暮らしをしているのかという事を紐解いてくれました。
ジイジと私の違いという事でいうと、ジイジだったら、山梨の目的地に行く前に、そこへ行くまでのポイントを、一個ずつ確実に風景を見て押さえながら行くので、間違えないのが当たり前で、そのように日々ポイントを押さえながらやっているという事。一方、私がなぜ間違えるのかというと、全体が見えていないこと、一個一個のポイントを押さえていないという事を、比較しながら説明してくれました。日々の中でポイントを押さえる事や、道が1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と順序だてて続くとすると、それを飛び飛びにやるのではなく、確実に一つずつポイントを押さえていく事が大事だという事を、今日学びました。

ジイジ:
このように事細かに出来事の素性をフィードバックしてもらってから、チナッピーは「そうだな」と受け取っていくから、身につかずに同じことを繰り返していく。そんな学習は一回でいい。どんなことでも同じ姿勢はいろんなところへ出るのだから、本当はある一つのことを経験し、それを自らの人柄に置き換えれば、その経験は似た様なケースで常に生かすことが出来る。ましてや、同じことだったら、一度そのパターンを理解したら、それ以外の出来事においては、学習は不要になる。しかし、同じようなことを繰り返すという事は、言われたから反省し受け取っているという条件反射の反応をしているからであり、それでは身につくことがない。
そうではなく、例えば、言われて気づいたとして、それをきっかけに、これからそのような場面に出会ったら、どう気付いてどう対処していくのか、というように考えれば、そのことは確実に実力となる。その出来事の問題を指摘されなくても、同じような場面に出会った時、自ら気づくことが出来、その対応が適切にできることで、そういった場面の話は卒業できていく。

僕は人の癖からくる問題点を観て、その人がその視点の位置にい続けることは、くり返し問題を引き起こす原因となり、それでは良い人生に出会うことができないことをずっと伝えてきた。その背景には、その人が自らの個性をよく理解し使い方をマスターすることで、行いが的を射たものとなり、活躍できる日々を生きることを願っている。そうすれば、そういった人たちと共に、今の世の中がイメージすることが出来ないところを、みんなで完結していくことにつながる。そういった投げかけの元にある精神は、大いなる善意。
しかし、そのハードルを皆がクリアしないとなると、僕は切り替えてこう考える。その進歩のない繰り返しはあなたの価値を落とすことであって、僕の人生の上にあることではない。だから、あなたがその大事を実行しなかったとしても、さらに、木の花が天の道を歩んでいるとはいえ、その道を木の花が行かなかったとしても、そのプロセスに天も僕も常に寄り添っている。そして、その大事をしっかりと押さえ、常に努力を惜しまないので、僕の歩みは外れることはない。そうすると、この場合、あなたが外れる対象になるだけなんだよ、ということ。それは残念ながら仕方がない。それは、一人ひとりが自らの価値を自らの意志でつけるための歩みなのだから。
もし、その大事をあなたが、つまりメンバー一人ひとりが達成することになれば、木の花の存在の目的が実現され、ここの価値も上がれば、世の中も是正される。そこでの個人の価値は自動的に上がる。しかし、そういった目覚めない位置にい続けることは、結果、高い誇りと尊厳をもって生きることは出来ない。今、ここの日々の生活に、病を貰ったり物を壊したりと、様々な反省をしなければならない、歓迎されない出来事が起き続けている。

生きる事は、宇宙の法に基づき現象に出会う事。我々がいかに視点を法に向け、それに寄り添い生きるかにより、病気を得ようが、対立しようが、その問題ごとの上に出来事が有益な学びとなり、自らの人間性を高めていく事につながる。しかし、天に寄り添うことで出来事が思い通りにいくかというと、そうではない。それでは、その場に相応しい出来事が起きる法則(因果応報)により人生を通して自らの姿勢を学ぶ機会を失ってしまうことになる。その結果、世の中も、人の人生も、進化しないことになる。自分の現状に対し、相応しい刺激をもらうから進化する。その適切に与えられる刺激により、常に出来事を天の法則にあてはめることで自らが進化していく。それが、良い流れを創っていく事につながる。そうでなければ、法則の意のままにあり続ける動物や植物と同じことになる。人間は人生を与えられ、その歩みの中で常に進化し、精神性の高い者になるための道を与えられ生きている。それは、大本から分かれた、分け御魂である証である。そもそも、人として生きる事の本義として、別れてきた一番の大本へ帰るための旅をしている自覚が欲しいものである。

僕がこういうことを語るとき、地球上にこのような意識の人々が発生した事を、銀河のセントラルサンに向かい発信する。「今、私はまぎれもなくこの境地であります。それは、あなたたちと常に呼応しながら連携を取ってきた結果だと自覚しています」と。
このようなことを語れば語るほど、上からはとても喜ばしいという響きが返ってくる。地球が喜ぶどころか、銀河が喜ぶ。人間の本質はそういった能力や可能性を秘めた生き物。そして、人間にはそういった大いなる使命が託されている。それを達成するからこそ、いよいよ21世紀の最終目的、宇宙時代を迎える。その結果、2102年には、今の北極星ポラリスと地球の地軸の焦点が合うところに行く。あと81年をもって、宇宙に創造された本当の目的を人類は見出し、地球上に表現できるかどうか、そのターニングポイントに向けて、今、我々の意識は宇宙への進化のプロセスにいることになる。しかし、その前に人類には、今までの目覚めない行いのつけである、2030年から始まる問題が立ちはだかり、人類に対してはそのターニングポイントに到達することが出来ない可能性も秘められている。人類は、自らに対し自らを改める姿勢をもって、今までの無自覚な地球上でのふるまいの結果を振り返り、改めるべき時を迎えている。

潤三:
ジイジの話はスケールが大きく、こういった話をジイジだけに話させていているようなことでは、皆が共に作り上げる場にはならないので、駄目だと思う。

ジイジ:
僕はね、自分でこういった話をしながら、いいな、このような人生を生きたかった、そんなことを語る人に出会いたかった、と思う。そして、ふと気づいて、あ、それは自分のことだった。なんてラッキーで、喜ばしいことか。良かった。僕はこのような人生のプロセスを歩む自分のことを大好きだと思う。その喜びは、とても魅力的なものであるが、さらに大いなる喜びがあることを知っている。

それは、神様はその昔(大いなる過去)、自分だけの存在だった時、潜象界にいて自らの存在を認識できなかった(対向発生する存在がいなかった)。そこで神様は、潜象界という「潜っている世界」から、対向発生としての現象界を創る為に、「カ」(宇宙最極小微粒子)を噴出させ、そこにヒフミヨイムナヤコトの仕組みを配置し、対向発生するべき魂たちを、自らを切り分けて遠くへ置いた。そのことにより、元の位置から離れた場所との間に空間ができ、そこから元へと帰る動きが始まることでトキが発生することとなった(時空の発生)。この時、対向発生するべき切り分けられた存在たちは、元々のこと(自らの出生の事情)を忘れてしまった。
そして、トキの道を歩む者たちは、同時に元へと帰る歩みを自動的に歩むこととなった(アウノスヘシレ)。
その者たちが歩む道は、回転しながら(マワリテ)螺旋を描き(メクル)、現象宇宙の基軸であるトキに沿い、その後、電気、磁気、力というトキを動かす直流のハタラキに対し、螺旋の動きによりコイルを巻く力(マワリテメクル)により自動的に現象を引き起こす動きが始まった。それが大いなる宇宙(現象界)の創造の始まりとなり、その行先は、いずれ元の魂(大いなる宇宙の大本)に帰る道となる。

それは、その構造を理解する者であるならば、大本にある故郷と対向発生する者としての役割を果たすと同時に、始まりの存在にある高次の響きの発生源(ア)の位置(イ)に帰ることの喜びを表現することでもある。つまり、宇宙に生きることの目的に目覚めるとは、その根源にあるアイに帰ることである。故に、この現象世界に起きる出来事の全ては、アイに始まり、全て(現象宇宙)に遍満する大本の神(カがミつって現象化を引き起こし、現象界に遍満する物理性)の意思に基づいて現れていると言える。
我々、現象界に存在する物質生命は大本にその起源を持ちながら、今現在、世の中で神を語る者に出会うことはたやすいが、その歩みの上にある存在としては、最も歩みの目的を忘れている状態にある。人々は、神を語っているが、その悟りは宇宙の実態からはかけ離れてしまっている。
その螺旋の無限なるハタラキは、トキを軸にして、ゼロに帰ろうとするハタラキである。我々の感覚で言えば、時間は未来に向かっていると思うかもしれないが、その未来に向かっている我々の旅は、実はゼロに向かって帰ろうとすることでもあり、その大本にかつての出発点が待っている。
人はしばらくの間、自我を膨らませ表現することに奔走し豊かさの追及をしてきたが、その行為は人の本質の愛から離れ、孤独になる道であった。長い間、本当の愛から離れることにより、人々は真心に染み渡る愛の場にいつしか出会うことを憧れ、そして、その愛の場の空気に触れたとき、言いようのない懐かしさと喜びを感じるものである。それは、かつての聖人聖者が求めてきた個のサトリ、さとりを超えたサトリ、フトマニのサトリ、コミュニティのサトリ、に到達する精神となる。

個のサトリ
コミュニティのサトリ
フトマニのサトリ

みかこ:
今の話を聞いて、「神一人でも多くの人民に帰って来て欲しいのぞ」と、火水伝文に書かれていたことを思い出した。前にジイジがまことの家で、神は人間の前にヒフミヨイムナヤコトと行く道を敷いてくれたという話をしてくれたことがある。

ジイジ:
それはお釈迦様の話。仏教には、他の宗教にはない道という教えがある。つまり、生きることは道を歩む旅だという。
30歳を過ぎ「私は一体何をすればいいのですか」とお釈迦様に聞いた時、「私は、その問いには答えん」と言われた。「その問いには答えん」という事は「聞いても無駄だという事ですか」と問うと、答えてくれたんだよ。どう答えてくれたかというと
「お前は今、道の上に立っておる。その道が一だとしよう。道は十をもって目的地とする。そうすると、お前は今一に立っていて、十はどういう答えなのかと問うている。
しかし、十を聞くと、人間というものはおかしなもので、飛び越えて十に行きたくなる。賢明な者でも、一、五、十と行きたくなる。
しかし、この道は道の上のレールに乗っておる。という事は、どうしたらいいかという事を聞かなくても、目の前に向かって進めばよい。そうすると二が見えてくるだろう。
二の目の前を進めば、三が見えてくるだろう。そうしたら、四になり、五になり、六になり、いずれは九となり十となる」と言われた。
「しかし、お前は地上を行くものである。そして、私は地上にお前の行く道(レール)を敷いた。
それは、私の位置から見るとまっすぐの道である。ところがお前は地上を行くものであるから、山にあたれば上り坂となり、つらいという。そして山を越えたら、今度は下り坂となり、怖いだのと言う。川を渡るときには落ちそうだという。しかし、私はまっすぐの道を引いた。
例えば、お前が山の麓まで行き、山に登らず迂回して道に戻ったとしても、それは私が敷いた一本の道にはならない。なぜかと言うと、これはまっすぐの道なのだから。そこにヒフミヨイムナヤコトの道がある。」
お釈迦様は、そう言われた。
「要は、余計なことを考えずに、目の前の道を進み、出会ったことをいただいていけという事か」と思った。それは、誠実に、誠実に出来事をいただいて行かなければならない。野心(自我)を持って歩むようでは道を見失うことになる。

みかこ:
この話はとても重要な話だと思った。人間はヒフミヨイムナヤコトの道の上にいながら、一、三、七、十とか、一、六、九、十というように、みんな癖があって都合のいいように飛ばしたり、迂回したりして行こうとする。

ジイジ:
人は目の前の出来事をいただいて歩むことより、目的を先に描き、行こうとする。そこでは、いただくという精神がないから、現実の伴わない理想を追い求めても、継続することは難しい。みんな評論家になって、その理想を所有することになる。

みかこ:
私もプレゼンを創ったりして、ヒフミヨイムナヤコトの道の上にいる事は頭では理解していたけれど、自分がヒフミヨイムナヤコトを確実に歩む事は、目の前に与えられた日常の全てを一つひとつクリアーしていく事の先にしかないんだと、改めて思った。そうすると、私はよく帰りたいと、目的のない思いを巡らすのだけれど、それは、どこかで目の前にあることをすっ飛ばして帰りたい気持ちが有るからだと思う。しかし、そうではないと、今、理解した。

ジイジ:
それは、ヒフミヨイムナヤコトの道順をきれいに歩んで、全てきれいにして、整えて行けという事。

みかこ:
そのような姿で、神様は帰って来てほしいんだね。

ともこ:
だから道順を間違えてはいけないんだね。

ジイジ:
神様のところへ帰るという事は光の中へ帰るのだから、一輪の汚れ、にごりがあってもいけない。

しゅうご:
さっき、潤三君がスケールの大きい話と言ったけど、日常の小さい中にもその道があり、その緻密な作業を怠っていることがある。

みかこ:
だから、面倒と思っても、今、目の前のこれを、きちんとクリアーしないといけない。

ジイジ:
カタカムナで定義づけられている「カ」は、この世界を現象化するための最極小微粒子、最小単位なんだよ。これは人間が物理的に観察できないもの。それが、どこでどのようにこの世界を創っているのかというと、そもそも「ない世界」すら「カ」で創られている。現象界という「ある世界」、その中の「見える世界」と「見えない世界」、つまり我々の物理性も霊性も「カ」で出来ている。現代人の一生が28000日だとして、人は一日に約3000回の選択をするといわれ、一生ではその28000倍の選択をする。さらに、物理性だけでなく、思いは走馬灯のように常に巡っているのだから、毎日頭に巡ることはどれだけあり、夢の中の思いも含め、そのすべてが「カ」で創られているわけだよ。それは、全てカミの遍満する領域。物質の「カ」は荒いが、霊性の「カ」はとても緻密。

あや:
響きも「カ」なのかな。

ジイジ:
そう。全ての原料が「カ」なのだから。という事は、「カ」は微細に違いを表現しながら、全てのところに満つり、現象化している。それは、思いとか、物――たとえば鉱物とか植物とか動物とか、そういった形でそれぞれに相応しく「カ」が満つっている。この「カ」が満つっている法則は、全て「カミ」という物理性によって創られているもの。この世界は、「カミ」という物理性が秩序としてハタライて動いている。因果応報の流れでも時すらも「カ」が満つることにより創造され動いている。つまり「カ」が満って現れている以外に存在するものはない。「カミ」は全てに遍満している。我々がこのように感情をもって、自らの人間性を表現することにすら「カミ」のハタラキは関わっている。

ともこ:
わかった。だからやっぱりヒフミヨイムナヤコトの順序を怠ってはいけない。どれも飛ばしてはいけない。

ジイジ:
我々は、この世界を創造するときに現象として働く神の法則ほど完璧に生きることはできない。しかし、常に己にとって必要な一番を最優先にし、日々の一つひとつを大切に生きなければいけない。だから、脱いだ履物をそろえなさい、と言うんだよ。

みかこ:
天は潜象界の側から現象界を創るときに、カミがヒフミヨイムナヤコトの順序に沿って世界を創ったわけでしょ。でも人間は創られた側から、帰る時にヒフミヨイムナヤコトの順序にのり、自らの意志でゼロに戻っていく事の出来る唯一の生き物なんだよね。

ジイジ:
だから、意志がそこに伴っていることで、大本のゼロと対向発生の対象に選ばれた。ライオンはライオンのままで、物理性の対向発生の対象にはなるが、霊的な対向発生の立ち位置には立てない。

みかこ:
それが、今わかった。カタカムナの三層構造の図があるでしょ。そこにはアマ界があり、そのエリアは、カムの側からこの世界に飛び出していて、人間の側からも現象界からの意識をアマ界に向けたとき、カムの世界の側に意識が飛び出すことになるのだけど、ジイジがあるとき「今の人間には、アマ界の存在も潜象界の存在も意識にないから、そちらに意識を向けることはない。だから、アマ界との対向発生が成立していない」と言った。人間が天の方に心を向けたとき、人間の意識の中にアマ界が成立し、天との共同作業が起こる。

ジイジ:
あのね、天に心を向けるというが、このオモイを竿の先にくっつけて天に届けるなんてことは出来ないんだよ。つまり、天の存在とはどのような存在なのかと言うと、テンだから点なんだよ。実際に天はどこにあるのかというと、僕は斜め45度先のセントラルサンを意識するけれど、それは宇宙の中の微細なたった一つの天の川銀河の中心にしか過ぎなくて、本来、天とは大宇宙全体のことを言うんだよ。ただ、我々はこの天の川銀河生命として地球に存在するのであり、もっとその天について身近に考えると、それがどこにあるのかというと、ここも、ここも、ここもそう、これって点て言うんだよ。この点が宇宙に無限に集合し、天を創っている。そうすると、その一点の微細な単位は「カ」の事と言ってもいい。つまり、天とは、全て「カ」でできているのであり、宇宙の至る所にその「カ」が満つり、遍満し、カミの物理性を表現している場ということになる。そうすると、あえて斜め45度に心を向けるということも、日頃からそういった特定の方向に意識を向けていることにもなる。そのからくりが解ければ、意識を向けるべきセントラルサンはどこに有るのかというと、いたるところ、どこにも、その存在があると言える。しかし、我々、地球上六方向に生きるものとして、とりあえず斜め45度上方に意識を送る、それで良いのです。そもそも宇宙に方向はないのだから。

みかこ:
回転しているしね。

ジイジ:
そもそも、我々の成り立ちは、マワリテメクル(自転公転)のもとに時間軸の上にのっているのだから、宇宙の中では向かう方向というのは、特定できない。そうすると、テンというのは何なのか。テは二面性。ンは前の音を強め起動させ発生させる。だから、テンというのは二面性が強く、起動し、動き出すということ。そこで、二面性の一方のテンとは、天と言い、無限なる宇宙のことを指す。もう一方のテンとは、点と言い、無限なる宇宙の最極小微粒子のことを指す。それはどちらも、極限の世界からの発生であり、出発点のことを指す。我々が認識する宇宙の二方向の極限の対向発生源のことを指す。点は天を創り、天は点を内包する。

そういった原理で、我々が解釈できる宇宙に対し、全ての発生源は、物理的に言えば、とりあえず、我々の生命原理の元である天の川銀河の中心であるセントラルサンのことを指しているが、本来はさらに大きな宇宙の元のことであり、それは特定できないが、天というのは二つあって、見えない天の巨大すぎて解釈できない面と、そのように捉える物理性でも霊性でもないある位置、心を向ける位置という天がある。
お釈迦様は、法華経の前に、色即是空を弟子の舎利弗に向かって説き、それを舎利弗が般若心経として体系化した。全ては空であると。特定するから多いとか少ないがあるのであって、それは位置を特定しなければ「ない」のだ、と語った。これは、今ここにあると思えばあるが、そこに気が行かなければ無いのと同じだ。
例えば、酒飲みが、町で酒屋の看板しか目につかず、ほかの景色が目に入らないとか、彼女にぞっこんになると、どんな欠点もよいことに見えてしまうとか。この事例はあまりにも我々の身近に基づいていて、あまりにも巨大すぎて見えない天の解釈とかけ離れているように思われるが、どちらもこの世界のことである。要はこの原理は、そこに意識が行かないものには、観えないものであり、ないのと同じこと。
これは、ある一点に集中して意識を向けると観えないものが観えてくる、そういった境地を説く視点のことであり、囚われている人間を救済する道であり、きわめて奇抜な理論だが、屁理屈でもある。身の回りに囚われて不自由になっている人間が囚われから解放される、究極に楽になる方法を説いたんだよ。

みかこ:
いくらお酒が好きで酒屋しか目に入らなくて、それ以外のものが見えなくても、酒屋以外のものもあるものはあるよね。

ジイジ:
あるものはあるという事を、よく目を開けてみる。そうすると、この世界が何かという事が初めて理解できる。現代人の物理性に汚染された偏った目線により、意識が届かないものを観ることを怠り、それをないものとして自らの理論を成立させ納得することは、偽物を真実として見ていることになる。

みかこ:
ごまかしだね。

ジイジ:
ごまかしなの。

みかこ:
そうすると、あるものは全てあるのであって、それが全てつながり合ってこの世界が成り立っているというところに行って、初めて、この世界の実態というものが観えて来る。

ジイジ:
我々が、現象界において、あるということを理解し、自分もいるという事を理解する、それが生きているという事。それに相応しく現象に出会っている。そして、現象に出会いながら、一体全体、自分は何者なのか、何故自分はここにいるのか、自分はどうしてこの状態なのか、という事を探っていくと、宇宙の成り立ちに行きつく。なぜなら、今ここに、銀河の仕組みがあり、太陽系があり、他の惑星と姉妹としてここで地球が活動している。そのすべての活動は、どう考えても、地球を絶妙な位置において、今のこの目の前ことを表現するためにあると、確信のように感じる。そうすると、自分という存在は、宇宙の、さらに奥の、潜象界の意向が働いて創られたととれる。その昔、神様はいつまでたっても孤独だった。その延長に、自らの存在に対し理解の確信を得ようとしたとき、そのための現象化を、長い間、どれぐらい長いかというと、僕が一生語り続けても足りないぐらい(笑)長い間続け、今やっとここまで来て、互いを理解する対象として出会い、それを表現(現象化)するところまで来た。(喜び)

みかこ:
ジイジは、ものの観えない人間にものが観えるように導いて、対向発生するものを育てているんだと、今思った。

ジイジ:
60才になる前に僕が言い出したのは、どうも地球が狭いということ。実は太陽系も狭い。これからは銀河を意識して生きていこうと思い、生前葬を行った。
今度70歳になって、全ての人間に目覚めるための道しるべを示す、つまり、悟りにいざなうことが、自分が生まれてきた目的だという事が分かった。だから人間に対して差別的に見る目は何もない。厄介なことに、人間というものは、あまりにも自分の癖性分に溺れすぎた神様の失敗作なのかもしれない。そのように、自らが観えない。歴史を振り返って客観的に見ても、あまりにも幼稚で愚かしい。それに、邪悪で巧妙なところが、擁護のしようがない。そのような愚かしいものであるならば、動植物の様に自我を持たない生き物ならよかった。しかし、それでは、この大いなる対向発生の対象としての価値は消えてしまう。
一体全体、どこまでいけば人間たちは、この大いなる舞台に出現した目的に相応しいものになるのか。

みかこ:
今、この話を聞いていて、人間って物が観えないじゃない。例えば、酔っぱらいの親父の話。自分も一緒だと思うんだけど、ジイジに出会わなければ、自分の実態をわからないままに、なんで自分の人生にこんなことが起こるんだろうと思いながら生きてきて、過去を置き去りにしながら終わっていくだけ。そんな人生を歩む人々は、自分の価値感でしか捉えられない狭い範囲で世界を観ているけれど、観えていないところにもいろんなものが存在し、そこに影響を与え、その結果、与えた影響が自分に返ってきている。例えば、酒飲みの親父の意識にはネオンしか見えないけれど、街にはいろんな存在がいる。

ジイジ:
その、酒屋しか目につかないというのは、ある意味、経典がもたらす境地だよ。他のものは「無」なんだから。意識にあるのは酒だけ。

みかこ:
それは偏った境地だよね。でも、その酔っ払いの親父には、奥さんがいたり、子どもがいたり、奥さんは泣いていたり、あるいは浮気していたりと、背景にはいろんなことがあって、それが世界に影響を及ぼしている。使っている紙はどこかの国の森林を伐採したもので、捨てたごみはどこかを漂流していて、そうやって自分がやった何かが、風が吹くと桶屋が儲かる式に、すべてがつながり連動して、こうやって今のような地球の2030年問題にまでなっていったことを、人類はわからなきゃいけない。

ともこ:
なんか今、いろんなことが分かったという気持ちがする。今朝ジイジが話をしてくれた時、いつも語られている話なんだけれど、それは、天にお伺いを立てると同時に、自分が気付いたことを天に返しているんだと聞いた。最近、自分はお伺いを立てる事はするようになった。自分の自我が手に余るものだから、どうしたらいいでしょうかとお伺いを立てるようにはなったけれど、もらう一方で、それが自分の中で何か気づきになった時、向こうに返すという事を全くやっていないと思った。今この話を聞いていて、自分の中でカタカタカタと色々つながっていく感じがあって、これを今この瞬間返していく事なんだなと思った。

ジイジ:
人間の動きと天は連動しているのだから、目覚めた人間が、その目覚めの方向に行けば行くほど、天、もしくは大いなる存在は、常に喜びをもって迎えてくれる。しかし、目覚めに移行した段階では喜びは発生するが、それをそのままにしておくと今度は停滞していくことになる。宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しながら進化していくプロセスで、そのプロセスを通じて発生する喜びが、神様の食べ物。だから、人間が学んで成長し喜びを発することが、神様の食べ物となる。そのように考えたら、今更宗教に走る必要はなく、物理性の世界を観察していくとその奥が見えてきて、その成り立ちがより理解できる。そのように生きたとき、自己コントロールができるようになり、生きる事が整っていくと、それが「生きることは直会」という、天の意向を現象化し、天の代理として地上に表すことになる。それは、生きることが、対向発生として天と共に世界を創造していく充実した人生を歩むこととなり、人が地上に生み出された本来の目的に目覚めることと言える。

僕は今、この話をしながら、そういった大いなる仕組みから外れた現象や存在は、この世界にはないと思うんだよ。それでも、違う観点から見ると、それぞれの立場からの視点で、なんだかんだと人間たちは物申すが、それも多様性のうちにあることとして、個性的であっても良いのだろう。しかし、この視点を原点として、多様性が展開されることが望まれる。

ともこ:
今改めて、最初のチナッピーの話に戻ると、だから道は間違えてはいけないんだと思った。

ジイジ:
あの交差点から右へ回ってどこへ行こうとしているのかを振り返ると、道は日本中つながっているのだから、そのまま先へ行くことも良し、間違いに気づいたらUターンして戻ってくるのも良し、というような話ではない。それこそが、道が間違っているという事。目が観えていなければ、そのまま進んでいくのが人生であり、人類でもある。
まっすぐの道というのは、天から見るとまっすぐな道だと、お釈迦様が言われた。方向は、どのみち神様へ帰っていく悟りの道として、まっすぐ引いてある。それは、一人ひとり同じではなく、上る苦しみ、下る苦しみ、渡る苦しみ、いろんな事に出会うが、上から見たらそれはまっすぐの道なのだ。いろんなものに出会うのが地上を生きるものの定めであり、それを、山の手前で「上り坂が厳しいから迂回しよう。」と迂回し、向こうへ行ったところで、道はまっすぐではなくなってしまう。そもそも迂回したのだから。だから、まっすぐ目の前に進め、と言われる。
確かに、上るときはエネルギーも時間もかかるかもしれない。降りるときも怖いと不安が出たり、その道に出会ったことについて不満が出るかもしれないが、それがまっすぐの道を行く者の定めであり、その姿勢が、外さぬ道を歩むことにつながる。
だから、悟った者にとっては、困難は問題ごととはならない。それは、レールの道を歩む上での枕木にしか過ぎない。悟れば悟るほど、己の自我を超え、さらにスケールの大きなことや、他者のことが課題となり、道を進めるための原動力となる。
かつては、山にこもり、瞑想し、世情の汚れから解放され、無の境地に至り、美しく昇天したものたちがいた。しかし、この世に貢献するためにある人の道、定めを断って道を究めたからといって、それを尊いとは言わない。この世に人として生を受けたものは、世に出ることにより、ヨコシマな世を味わい、その歪みを正してこそ、人としての歩みを全うしたと言える。それは、どんな賞賛よりも価値のあることである。
ヒフミヨイムナヤコトの大いなる定めを、正直に、素直に、前向きに、怠らず歩めば、人を必ず目的の地にいざなう。

 

 


誰もがオリジナルな物語を生きている

世の中が今のように複雑になり、先の見えない社会構造を呈していることを考えてみると、その社会を構成している人の資質は、特徴がなく、どの人も金に縛られ情報に溺れているように見られます。そういった現代人を眺めていく中で、最近特に確信を持ってきたことがあります。それは、人それぞれの特徴や個性というものは、必ずその人だけしか持ち合わせていない、オリジナルな物語だということです。

人の特徴は、何度も輪廻を繰り返してきたそれまでの魂の旅によって決定されます。現世の出発から現在に至るまでも、それぞれがオリジナルな旅をしてきており、同じ旅はないのです。それがその人の人生において、物事が行き詰っていくような流れを持っているのか、それとも、より解放され、何か新たなものを生み出していく(質的転換の「ナ」)ものとなるのかは、その人が自らの使い方に気づいたか気づかなかったかによります。
使い方に気づいていない人というのは、自らの個性や特徴が、認識から外れている状態で出ているということです。その状態の人は、個性や特徴が癖性分として表現されることになり、何か問題を起こしては「あ、またやった」「またやってしまった」「どうしてこれを繰り返すのだろう」「いやになってしまう」「もう生きているのもいやだ」というような発想にまで落ち込んでいくことになります。この状態では、心や人生そのものが重いのです。
しかし、笑いが治療になるとも言います。それは、気持ちが軽くなるからです。笑い飛ばして、問題ごとを吹き飛ばすというのでしょうか。そうすることで、自分がどういった癖性分を持ち合わせているかが客観的にわかってきます。すると「この自分の癖性分も、実は使い方次第で有効だね」と気付き始め、自分の使い勝手をマスターする道が始まるのです。そうして目覚めの扉が開き出すと、それが連鎖し、人生において出会う出来事が面白くなってくるのです。反対に、ネガティブになっていると「またこうなるんじゃないか」と悪い結果を想定し、そもそも「なる」「ならない」に関係なく、物事が壊れていくとか、行き詰っていくような方向に独断的に考えていくわけです。

そこで一番大事なことは、その人が何を語り、どんな行動をしているかよりも、その人が発している響きなのです。よい響きを発している人は、極端なことを言えば、その人がそこにいるだけで、その場の流れが整い、調和的な場になっていくものです。昔、木の花メンバーの資格という話をしたことがあるのですが、木の花のメンバーである資質は、まず初めに全体のために生きようとする人であることです。それは自らの願望を後に回してでも、全体のために生きようとすることで、それは同時に、その人自身の価値も上がることになります。そこで重く行き詰っていく人は、必ず自らのことを優先するような考えを持っているのです。そういった人は、重い響きを放っていることで、全体に対しネガティブな結果をもたらすことになります。自らがそういった人であることは、本当は悲しいことであり、全体が健康に保たれていくためには改めなければいけないことなのに、それに「気づけない」「改められない」のは、その人の持っている目線、目覚めの位置が、どこにあるかなのです。
現代人が持っている豊かさや自由などの価値観の根底にあるものは、そういった全体性を優先するのではなく、個人を優先し、全体性の調和を乱していくものです。今、世界中に広がる人間のそういった資質に気づけている人は、皆無と言っていいでしょう。身近な話ですが、毎日アルコールがないと生きていけない人は、その段階の価値に目覚めているということも言えるのです。そのため、いつもお酒のことが基準になって頭が回っている状態になってしまいます。そういうことは、お酒に限らずいくらでもあります。お金のことにしか興味がない人もいます。そのように人を虜にする興味はいろいろあるのです。

今、自らがどこの目線に価値を一番に置き、生きているのかを、現状の出来事と照らし合わせてみることです。その自らの生き方の結果が、今のこの状態を創っています。生きるとは、そういった自分物語を歩んでいることであり、自らに染み付いた癖性分を客観的に捉え、変換し、個性として表現していけば、人生を豊かに花開かせることも、先の見えない世の中の次の扉を開けることもできるのです。

 


温暖化対策は、脱いだ靴を揃えることから

先日木の花ファミリーでは、持続可能な未来を模索するNHKスペシャル「2030未来への分岐点」(3回シリーズ)を、子どもたちと一緒に観ました。
第1回目のテーマは地球温暖化。IPCCによると、2030年に地球の気温が産業革命前に比べて1.5度上昇することが予測されており、多くの科学者たちが、気温上昇に伴う巨大台風の増加や豪雨、干ばつ、海面上昇、生態系の崩壊や食糧難を最小限に食い止めるためには、今後10年間に人類がどれだけライフスタイルを転換できるかが勝負であると警告しています。
番組を観た後、ジイジは以下のように話し始めました。

NHKスペシャル「2030未来への分岐点(1) 暴走する温暖化 “脱炭素”への挑戦」


 

国はようやくお尻に火がついて、慌てて温暖化対策に取り組み始めようとしています。
しかし、それはまるでお尻に火がついて、急いで水の入ったバケツにお尻を入れて「ああ火が消えてよかった」と言って、また元へ戻る、ということと同じです。
どれだけか温暖化対策をして、そこから先はどうするのか?その一連の行動は、仕組みだけを変えているということです。しかし、大切なのは仕組みを変えることではなくて、『人間』を変えること。そこが難しい。
自分は現状のまま変わらない生活を維持して、かつ温暖化の問題も無いという世界を思い描いているとしたら、どこかで地球に負荷をかけすぎてきたことを認識しなければなりません。そしてそれは、地球に対する人間の姿勢が間違っていたのだから、いよいよやめなければいけない時が来た、ということではないでしょうか。

温暖化の一番の原因は、エネルギー問題です。それを生み出すのは、石油や石炭などの化石燃料で、原子力発電も様々な問題があります。これらの代替エネルギーとして風力や太陽光が良いというけれど、そもそも風力や太陽光も、まず設備を生産しないといけないから、そのためのエネルギーもかかるし、消費したら壊れもするから、万能ではありません。結局、世界に矛盾を生み出す人工の世界であることは同じです。
人間はどのように生きていけばよいのかを考えるならば、まずは人間の在り方を問わなければなりません。なぜなら、人間は生命として地球に生まれてきたのに、生命の在り方が何であるかを忘れ、人工の世界を拡大してきたからです。その姿勢は、人間以外の生き物とは全く違います。ここまで人工の世界を拡大する道を歩んできて、まだ同じやり方で問題を解決しようとしています。だからこそ今、人間の生命としての本質が問われているのです。過去に沢山の生命が絶滅してきましたが、人間も、異常で過剰な人工の世界をこのまま進めていけば、やがて絶滅することになるでしょう。そこで「誰が問題を作り出したのか」と言ったら、それはみんなでやってきたことなのです。
若者が街に出て「温暖化対策をしろ」と叫び始めました。その行動を無駄とは言いませんが、考え方の合わない者を批判することよりも、そもそも人間の歴史を振り返ってみれば、その批判している対象の延長線上に、現在を生きる自分たちが存在しているのですから、彼らの歴史は自分たちの歴史でもあることに気付くべきなのです。そこで過去を冷静に振り返り、なぜ地球上にこの様な異常をもたらす生命が発生したのかというところから、振り返ってみる必要があります。人間以外の生命には、その種の存在が原因となって、このような矛盾を地球上にもたらすものはいないのです。だから、現在の地球の状況は人類という種全体に原因があり、誰もその責任から逃れることはできないということを認める必要があります。
だって、今の地球の問題は、みんなでつくってきたことだから。だから、もっとよく考えなければいけません。それは、単に仕組みを変えて解決すれば良いという話ではないのです。
これから、温暖化が進むと、さらに暮らしにくくなります。そうすると、生きることの見通しが立たず、自らの命を絶つ様な人も増えるでしょう。でも、暗い気分になってはいけないね。それは人間の価値を見直す機会をもらっていると捉え、大事な振り返りをいただいているのだと思って、受け取っていきましょう。

今、世界中の国が取り組んでいる物理的な解決策の他に、今の生き方や考え方を生み出す人間の心の解決を探っていかなければ、根本的な解決につながることはないでしょう。だから、みんなで力を合わせて生きていくことは、大切なことです。それは、地球の元々の成り立ちに還ることです。そして、智恵を出し合うことです。そうやって力を合わせれば、頑張らなくても良いことにつながります。
だから、自分の考えを出しなさい。みんなで出し合い、その多様性を束ねていけば、必ず突破口は開かれます。出さないから、突破口が開かれないのです。

私たち一人一人は、温暖化対策として、何ができるのか?
それにはまず、自分の脱いだ履き物を揃えることです。履き物を揃えることは、温暖化対策だよ。どうしてだかわかるかな?
ジイジは幅が広いから、どんなことからでも地球を良くすることに結びつけます。自分が脱いだ履き物がどうなっているのに注目することは、その日一日を自分がどのように過ごしたのかを振り返ることと同じです。脱ぎっぱなしでは美しくないでしょう?脱いだ履き物を見ることで、自分がどんな姿勢で、どんな行動をしたのかを振り返り、その行動で良かったのかを考える。そしてその都度履き物を揃えることで、その自分を修正していくのです。履き物を脱ぎっぱなしにすることは、自分の行動を振り返らずに地球の環境を汚したり、人と考えが合わないからと言って対立することと同じです。それは無駄なエネルギーをたくさん使うことになります。

現代には、無駄なエネルギーを使うことがたくさんあります。例えばゲーム中毒になることや、アルコール中毒やスマホ中毒もそうです。現代には中毒がたくさんあります。そしてそういった中毒がビジネスチャンスとなって経済効果をもたらし、企業は大儲けをしてきました。そのような自然とは全く相容れない人工の世界が地球上に広がった分だけ、地球は今、問題ごとで溢れています。それを繋げて見てみれば、経済発展が温暖化を進めていることがわかります。そしてそうなったのは、一人一人が自分の行動をよく振り返って、規律を持って生きていないからです。
自分の姿勢を履き物に観て、振り返られる人は、客観的に自分のどこが悪いのかに気づくようになります。これは良い、これはダメ、ここまでは良いけどここからはやめよう、と、物の分別がつく様になります。だから、まず目の前の一歩として、履き物を揃えること。挨拶をすること。そうやって、一つ一つのケジメをつけていく。それが人の心を良くし、社会を良くして、問題ごとを解決するきっかけになっていくと思いませんか?
人間は、自分の内から際限なく湧き出る欲望を叶えることが豊かさだと思い、歪んだ豊かさを追求してきましたが、そろそろ自らの外の側、つまり、他の生命や、地球や、宇宙の側から物事を観て、そこに自らが何をもたらしているかを理解する者にならなければいけません。自分の内側からの一方的な目線で、良いことをやっているつもりでも、それが全体のバランスを壊していくようでは、尊い者とは言えないのです。
自分の存在が他の存在に歓迎されるような者であることを、我々人間は、これから目指していく時が来ています。他のものに迷惑をかけ、自らの価値を落としてまでも得る豊かさとは何なのか、よく考える必要があるでしょう。

 


人の心の夜明けです ~ 124年ぶりの立春正月の日に、マツリの精神と共に

木の花ファミリーでは毎年立春前に「富士浅間木の花祭り」を開催します。祭りを通し、一年間の穢れを祓い清め、生まれ清まった新たな心で農事暦の始まりである立春正月を祝います。この立春正月祭の場で、ジイジは以下のように語りました。


 

立春正月、明けましておめでとうございます。

今日は、富士浅間木の花祭りの締め括りとなる立春正月祭であり、農の新たな一年の始まりの日でもあります。例年、立春正月は2月4日ですが、今年は2月3日で、それは124年ぶりだそうです。人間は美しく生きると、124歳まで生きるという話を聞いたことがあります。現代の日本の平均寿命が約80歳ということは、まだ修行が足りないということでしょうね。
神の一息は、吸って60年、吐いて60年、合わせて120年と言います。この124年という期間とほぼ同じサイクルです。宇宙的には、太陽系の中で太陽の次に大きな質量を持つ木星が太陽を1周する周期が、12年です。その次に大きな土星の周期は30年で、木星と土星は、太陽と一直線に並ぶ「結び」の会合を60年ごとに持ちます。それが2回で120年です。120年と124年の4年の誤差は、宇宙の遊びと言えるでしょう。さらに、冥王星の周期は248年で、ちょうど124年の2倍です。これは、天体の「トキ」の話です。

今回の立春が124年ぶりというのは、一体どういうことなのでしょう。天体が時を刻むことは、地球が1年365日をかけて太陽を回ることに示されます。しかし、ぴったり365日ではありません。1日も24時間と言いますが、ぴったり24時間ではありません。そこには常に誤差があり、その誤差を調整するために、今回は124年ぶりの立春となったのです。つまり、そこには遊びがあるのです。
これにはどんな意味があるのだろうと考えた時に、その遊んでいたものをもう一度元の位置に戻し、襟を正していきなさい、という意味でもあるのだと思いました。
124年前というと、明治30年です。先ほど祭主が祝詞を奏上しましたが、その中の「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」とは、艮の金神のことです。神の一息が120年であるとしたら、大本の出口なおさんに神様がかかり「この世の中をたて直す」と宣言をされてからちょうど一息を経て、いよいよ始まるぞ、という時に来たのだろうと思います。そこで、富士浅間木の花祭りは今年で九回目を迎え、転がり出て(コ)、いよいよこれから十、次の「統合(ト)」へ向けての生活が始まります。

花祭りの起源は、700年前とも800年前とも云われます。ちょうどその頃、日本では封建時代が始まりました。戦乱の時代の始まりです。人の土地を奪い、支配することが成功者であると称えられたのです。そして江戸時代を経て、明治になり開国をすると富国強兵を打ち出し、また他者の土地へ侵略することを始め、その結果大きな戦争をすることになりました。世界中がそのような時代でした。その大戦が終わり、75年が経ちました。
年が明け、2021年の始まりにあたり世の中を見渡してみれば、新型コロナウィルスが蔓延し、人々は不自由な生活を送っています。そこにはたくさんのメッセージが隠れていることを思うと、やはり「襟を正していけ」ということだと思うのです。身の回りに起こる小さな物事をよく観て、自らのことだけではなく、世の中全体の在り方を振り返り、正して行け、という区切りのメッセージが、今年の立春正月には示されているのだろうと思いました。

「マツリ」の精神とは、ある特定の日を特別な一日として神様と接するのではありません。神とは、「カ」即ち宇宙最極小微粒子が、「ミ」即ち満つっている状態、つまり、すべての現象宇宙に顕れている物理性と、その背後にある仕組みのことを指して呼ぶのです。ご利益を求め「いいことが起きますように」と怠け心で願いをかけるものではなく、日々の生き方を正し、道理の通った生き方をすることにより、災難のない豊かで調和的な世界を創ることになるのですから、ご利益は私たち自身の生き方にかかっているということです。なぜなら、私たち自身も「カ」が満つって現象化した、宇宙の法則の顕れそのものだからです。
この祭りを一年に一度行うのは、そのことを襟を正して考え直し、祭りが終わってからも一年を通してその精神を生きなさい、ということです。そして一年が経ったら、その結果を祭りに顕し、そこから自らの姿勢を振り返り、また新たな心で次の新しい一年へ向かいなさい、ということです。ということは、マツリとは特定の一日を示すことではなく、一年中マツリなさい、と示されているのです。
そもそもマツリとは、政(マツリゴト)と言い、世の中を運営することです。そこでは、私人ではなく公人として一年を生き、自らが生きたことが世の中に良い形で反映されることを目的としているのです。それが本当の人の在り方です。
今の世の中は「自分さえ良ければいい」どころか、皆でこぞって地球の仕組みを乱し、環境破壊による温暖化のような問題を引き起こし、さらに人間の間では争いが絶えません。現代の日本には戦争がないと言われますが、莫大なお金が軍事費に費やされています。そして日本の産業は、世界の他の国々で行われている戦争の軍備に貢献しています。まだまだ争いの種を創り続けている人間の営みを考えると、124年の区切りをもって襟を正せと示されていることは、本当のことだと思うのです。一年365日をマツリの精神で生きるということは、それが普通になれば、何も特定の日に襟を正す必要はなくなるでしょう。そういった心が人々の中に芽生えれば、世の中は必ず豊かで平和な世界になります。

私たちは、この世界に生まれました。生まれる時は、天から降りてくると言います。作物は土から芽吹いてきますね。その土から芽吹いてくるものは、太陽の光が注ぎ、その循環の仕組みの中で育ち、私たちに土のエネルギーが与えられるようになっています。土のエネルギーとは、地球神である金神様のエネルギーですから、私たちは金神様のエネルギーをいただき、生きることを与えられているのです。そしてそれにふさわしい生き方をした時に、私たちは誇りをもって次へと旅立つことになり、天へ昇っていくのです。
天に昇ると、次にまた役割ができた時に降りてきます。ところが、この世の仕組みに囚われ、上を見ずに「何かいいものは落ちてないか」と下ばかりを見ている者は、魂になっても天に昇ることができません。そのような魂がたくさんいます。人間だけではなく、人間の営みの犠牲となった他の生き物の魂まで天に昇れなくなっているのです。そのような心の乱れ、魂の汚れが、この世の中の混乱を創っています。
だからこそ、そのことに気付き、世の中を美しくする。自分が生きた結果、世の中が美しくなる。お陰様で自分は世界を美しくすることに少しは役に立てた、と自らに合格をあげられるようになった時に、誇りをもって天に昇っていけるのです。体という質量をこの世界の自然循環の中にお返しし、囚われのない心であれば、魂は軽いですから自ずと天へ昇っていくのです。
しかし、昇れない魂もいます。それは、人間が自我を与えられ、心を美しくしてこの世界の循環に貢献する役割をいただいてきたのに、そういったことを忘れ、怠っているからです。今また、新たな124年の節目が来ました。そして、金神様は乱れた世の中を正すと言って出てこられました。僕もこれまで、一体いつになったら本当の世直しが始まるのだろう、もう命が続かない、と思っていましたが、いよいよそういう時が来たのです。

先日、富士浅間木の花祭りの祭事を行い、その締めくくりとなる神返しの神事を行った際、僕は祭主にある注文をしました。祭事の前には、神寄せの神事を行いました。しかし祭事を行うのに、神様に「降りてきてください」と言うのはおかしい。なぜなら、神様はそもそも、いつでも万物に遍満しておられるのです。それを、今日だけ降りてきてくださいと言うのはおかしいでしょう。この世界のすべてが神の物理性の顕れであるのに、降りてきてくださいと言うことは、日頃神様と共にある意識がないということです。さらに、祭事の後に「ありがとうございました。どうぞお帰りください」と神返しをするようでは、一日だけ一緒にいて、残りの364日は神様と共に生きていないということになります。
ですから僕は祭主に、神返しをすることはやめましょうと提案しました。これまでは、どこでも同じことをやっていました。それは、神というこの世界の物理性の中に遍満し、常に私たちと共にある存在から、人々の心が離れていたからです。この124年の区切りをもって、私たちはそのことを意識し、毎日を生きていきます。
そうすると、宗教はなくなるでしょう。都合の良い時だけご利益を願うことはなくなり、毎日の物理性の中で、そこに循環している尊い仕組みのもとに自らが生かされていることを感じ、その意識で、この世界を運営していく側になるのです。それは「大学に合格しますように」とか「宝くじに当たりますように」といった自分の都合で願いをかけることとは違います。
現代の人々は、神社で2回手を叩きます。本当は4回叩くものですが、それを半分だけやるということは、本当の半分、つまり、ご利益だけが欲しいということになります。なぜ本当は4回叩くのでしょうか。2本の手で4回叩くと、合わせて八つになります。それは八方が安定する、即ち本来すべきことをきちんと行い、道理に適った利益をいただいて、幸せに生きていくということです。四(し)を合わせるのですから、しあわせです。

こういったことが、僕の中に浮かんできます。その時に、これは夜明けだ、と思いました。何の夜明けかというと、天体の区切りの夜明けでもありますが、人の心の夜明けです。
夜明けには何をしますか?そう、目を覚ましますね。目を覚ますと言っても、この肉の目は毎日覚めています。そこで覚めるのは、心の目です。これからの時代は、人の心の目が覚めるのです。

その時が来たのだと思うと、たくさん話がしたくなります。しかし地上には地上の都合がありますから、そういうわけにはいきません。今日という節目をもって私たちは先へ進みますが、これからは心の目を覚まし、その目覚めた状態で毎日を送るようにしたいものだと思います。
今、気持ちはとても晴れやかです。その割には(涙をぬぐいながら)雨が降っていますけどね。この不可思議な人生をいただき、これは一体何なのだろうと思いながら生きてきましたが、いよいよ扉が開いたことを今年は特に感じます。扉が開き、目覚めた人たちは、その大事を生き切ることです。
今日は、去年植えた桑の木の剪定をしました。苗木をとるために、「とり木」と言って枝の一部を土の中に埋めて上から抑え、そこから根を出させるようにしていたのですが、今日掘り起こしてみたら、まったく根が出ていませんでした(笑)。そこで思ったのは、予定が外れたということではなく、自分の思いが必ず叶うとは限らないからこそ、叶わなかった時には次のことを考える。そうすると、頭を使い、智恵が湧く。桑の木に根が出ていなければ、枝を切って挿し木にすれば苗は取れるのですから、何も問題はないのです。(実はその次の日に別の種類の桑の木のとり木を掘り起こしてみたら、根がたくさん出ていて、これについては予定通りでした。笑)
何かが起きた時に、予定が狂ったと捉えるとがっかりして嫌になりますが、そうではなく、そこから違ったことを考えるきっかけと捉えると、どんなことでも新しい取り組みを始めるチャンスとして生かすことができます。生きるとはそういうことです。そうやって私たちは育てられているのです。

天体の動きと共に、世の中は確実に時代を刻んでいます。すべての現象はトキ軸を柱として巡っていきます。ただ欲のままに生き、ストレスを溜めてそれを解消するために暴飲暴食をし経済を大きくするなど、余計なことをたくさん行って体の中に矛盾を溜め込み、病気になるような生き方が、世の中には蔓延しています。今の世の中は豊かになったはずなのに矛盾だらけで、問題だけがどんどん膨らんでいくのです。
そういった無駄を行わず、本当に必要なことを相応しく行い、皆がシンプルな豊かさで生きれば、地球の資源を無駄遣いすることもなくなるでしょう。そうすると、いろいろなことが好循環になります。今は好循環ではないのです。それが好循環に転じた時、いよいよ宇宙の星々が何億年も何百億年も運営されてきたのと同じように、地球にも無限の世界が生まれることでしょう。
今日は、私たちがそのことに目覚める区切りの日です。124年ぶりのメッセージを受け取り、心はとても晴れやかです。しかし一人で晴れやかになっていても仕方ありません。皆で和やかにそういった日々を送り、世の中へ広げていきましょう。世の中がどんどん難しくなっていくようなことでは、本当に求められるマツリの精神で生きることとは違うのです。だからこそ気付いた者たちは、それをやり切る。その動きは小さいですが、その響きはこれから、世界中どころか宇宙中へと響き渡ることでしょう。

僕は今、宇宙の響きをいただいてこの話をしています。それは、天地一体の世界を築くということです。我々は太陽の光をいただいて命があるのですから、まず始めに天があります。その光を受けて地上に食べ物ができ、それをいただいて、その循環の中で地球に命が表現されるのです。その物理性を本当の豊かさとして顕す、その自覚をもっていきたいと思っています。
今から、お神酒で乾杯をします。ここのお神酒はアルコール度数がありません。それは、お酒で酔っ払っていくのではなく、飲む点滴と言われるほど滋養のあるお神酒をいただき、本当に健康で豊かに、そして正気で、時代を生きていこうということです。正気でなければ、本当は創れないのです。
「カ」が満つって(ミ)現象化することを神と言います。人間も、他のどんなものも、「カ」が満つって存在しています。我々がめでたいと思う心も、乾杯をしてお神酒を飲むことも、すべては「カ」が満つった現象がそれを味わっているということであり、味わうことで神様と直会(なおらい)をしているのです。

立春正月を迎え、これから新たな農の一年が始まります。124年ぶりの地球規模の新しい門出を祝い、魂からの目覚めとして日々を生きていくことを、皆さん、どうぞよろしくお願いします。おめでとうございます。乾杯!