天教山から地教山へ向かって

昨年11月15日から11月27日にかけての2週間、いさどんは数名のメンバーと友人たちとともにインドを旅しました。

きっかけは、ヒマラヤに「ハルトラビレッジ」というコミュニティを築こうとしている古い友人のトニー、そしてこの春に木の花を訪れた、インド最大のコミュニティオーロヴィル」の中心的存在であるプラサドの二人から招待を受けたことでした。
インドへの旅に先立ち、高野山で開かれたカタカムナ勉強会への参加と玉置神社での木の花祭りの舞の奉納のために、いさどんは紀伊半島を訪れていました。インドは世界の中でも霊的に大きな役割を持つ地であり、いさどんの魂の故郷でもあります。その魂の故郷との対話を通して、ずっと以前から紡がれてきた物語が、紐解かれ始めました。

どうぞ、いさどんと一緒に、この宇宙物語の旅をお楽しみください。
(旅の様子は、こちらのスライドショーからもご覧いただけます。)

 

2015年元旦の朝の富士山
2015年元旦の朝の富士山

 
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天から降りてきた意志が日本の富士山(天教山)に降り注ぎ、それがマグマの中に潜って、ヒマラヤ(地教山)から噴き出す。それはイメージとして太陽の一螺旋回転・25800年の半分の12900年、そしてそのまた半分の6450年前、銀河の秋分から冬至までのこと。そして、ヒマラヤに噴き出した聖なる天のエネルギーがヒマラヤの聖者たちによってガンガーの流れとともに南へと広がり、南インド・ポンディチェリーの近郊にあるオーロヴィルの地よりさらに世界へと広がっていく。オーロヴィルの中心は、マトリマンディールというドームの横にある菩提樹であり、この樹のもとが一番波動量が高く、イヤシロチとなっている。
マザー曰く、「ここから世界にその心が発信されます。」

日本を世界地図にたとえると、高野山と玉置のある和歌山県や奈良県はインドになる。それで和歌山県の北にある玉置はヒマラヤにあたり、高野山はカイラス山のあるチベットになるのだろう。そして、和歌山県の南端にある花窟神社がオーロヴィルに相当する。
 
*マザー
パートナーのシュリ・オーロビンドの意志を受け継ぎ、すべての人々が調和的に生きる理想郷として国際タウンオーロヴィルを立ち上げ、精神的支柱となった女性。1973年死去。
 

《11月16日~20日・ヒマラヤの山々との対話》

いさどん:
インドの田園風景を眺めていると、あのまだまだだと思うオーロヴィルの人々に比べて、ここの一般の人たちのほとんどは、まだ目覚める意志がないことを感じる。どのようにこの人々が目覚めていくのかと思うと、遠い道のようにも感じる。しかし、次の時代は確実に気候の変化や環境の問題が迫ってきているのだから、いくら人々が目覚めなくても現状は後戻りできない状態になっている。それをどのように新しい時代につなげていくかと考えると、現象的目線には気が遠くなるようなことである。太陽の活動が人類の目覚めを促すようその活動を変化させるように、時代は地球の地殻変動によって人類にそういったことを気付かせるように促すだろう。人間の営みのツケとして、地殻変動や気候変動が既に始まっていることを思うと、できればそういった強制的なことを受けなくても人々が目覚めてくれることを願う。

インドに到着
インドに到着

久しぶりにインドの大地に立つことになった。まず始めにデリーに着いたのだが、デリーの空港は31年前に訪れた時と比べると、とても美しくなっていた。そしてクアラルンプール(注:マレーシアのクアラルンプールを経由してインドに到着しました)の景色と違って、空港内の施設にはインドの雰囲気が良く出ていた。大体インドという土地は、インドらしい香辛料のにおいがするものだが、今回訪れてみて、そういった香辛料のにおいはあまり感じられなかった。

デリーの空港からトニーの家に向かう道路で、夕方の交通渋滞による車の量と、3車線の道を4車線にして人々が巧みに走っていく姿を見て異文化を感じた。それにしても車で走る道中に、こうした後進国のドライバーの癖としてクラクションを鳴らす音がうるさい。この交通マナーの中で、この人たちには民族的な阿吽のルールがあるのだろうと感じる。そして、インドにもモータリゼーションが起きていて、日本車の中でも特にスズキの車が沢山走っている。それは、インド人に良く馴染んで走っていた。こういう形で近代日本もインドに貢献しているのかと思うと、何となく微笑ましい。

そんな夕方のラッシュで大変混雑している道路を走って、トニーの家には30分と聞いていたところ、1時間位で着いた。トニーの家はインドでは豊かな高級住宅街の中にあり、敷地の中に入るには、守衛のいるゲートをくぐらないと入れないのだ。

いさどんとハグするトニー
いさどんとハグするトニー

そして、久しぶりにトニーに再会したのだが、4年前のイメージからすると、少し老けたような印象を受けた。風格があり白髪のヒゲもたくわえたジェントルマンなトニーが、とても懐かしく大切な友を迎えるように力強いハグをしてきたのを受けて、この人にとって我々の存在は大きいのだと感じた。
早速、トニーのお父さんが建てたという築50年の黒い鉄柵の門構えの家に入ったのだが、お金持ちの家という感じがしてベッドルームもとても大きく、20畳くらいのスペースがあった。その日の夕食は、体調不良の僕のために特別に作ってくれた胃に優しいレンズ豆のおかゆをいただいた。トニーの家は使用人が5人いる。ナースでメイドの女性が一人、男性の使用人が2人、ハウスキーパーの女性が2人、そこに娘のディヴィヤとプリヤンカと3人で暮らしている。奥さんはフランス人でフランスに暮らしているという家族構成。インドではとても裕福な暮らしだ。トニーはアメリカ資本の保険会社をインドで経営していて、近々その保険会社が日本にも進出するということで、今後日本に行く機会が増えるという。そういった意味でも、ビジネスマンとして成功している人物だ。

そんなトニーたちと、その日の夜9時に家を出発し、10時半の電車でオールドデリーの駅から寝台列車で、トニーの所有するヒマラヤのハルトラビレッジへと向かった。オールドデリーの駅は大変ごった返していて、そこら中で寝ている人がいる。インドらしいパワフルな景色を堪能した。しかし、昔のデリーと違ってそこには物乞いをする人がいなかった。それだけ人々の暮らしが豊かになったということだろう。

ヒマラヤの桜
ヒマラヤの桜

そして、寝台列車はハルトラビレッジに一番近いカトゴダム駅に朝の4時半頃到着した。そこから車で3時間くらいかけてヒマラヤへの旅が始まった。ハルトラビレッジへの道中は、豊かな山々に囲まれたヒマラヤの広大な地域を車で走っていく。途中の風景は日本の長野の山々のようで、全く違和感のない景色だった。桜の花(チェリーブロッサム)が咲いていたり、松の木(パインツリー)が沢山あったりして、何となく懐かしさを感じながらの道中だった。

そして、4年前木の花に来たトニーがまだ建設途中のハルトラビレッジの建物の映像を見せながらプレゼンしてくれたのを懐かしく想い出しながら、トニーのハルトラビレッジへ到着した。建物は日本の建物のような精密なものではないが、インドのお金持ちの別荘という感じでとても立派なものだった。そこから見えるヒマラヤの素晴らしい景色に感銘を受けると同時に、自分が今世においてヒマラヤの地に来たことの意味を確認したいという心が湧いてきた。それで翌朝5時頃眼が覚めたので、ひとりで外に出て、ビレッジの敷地内でヒマラヤの山々がよく見える絶好の場所を見つけ、そこに椅子を持って行き、ヒマラヤの山々と対話した。

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久しぶりにヒマラヤの山々と対面して、以前その土地にいたことを再確認するとともに、魂の故郷との再会を懐かしく感じながら交流した。
また再び出会いが復活して、その出会いが流れ出したことと、遠くに見えるヒマラヤの山々に対して懐かしい気持ちを伝えると同時に、まわりの土地から聞こえる鳥の鳴き声や辺りにある木々や草花に対して心を向ける。しばらくの間、そこで交流する感覚を持っていた。そして、懐かしいこの地に訪ねてきたことと、そこにある生命たちと交流し互いの存在を確認し合った。しかし、それはこの土地に対してでもあり、地球全体の生命に対してでもあるような感覚であった。
ヒマラヤに訪れることで長い年月の間隔てていたものが解消する感覚と、解消したことによって新たな出会いが始まることを感じ、ヒマラヤの山々やハルトラビレッジの土地全体から感じるものは、とても爽やかなものであった。

ヒマラヤの山々を眺めながらのプレゼン
ヒマラヤの山々を眺めながらのプレゼン

その日は一日、ハルトラの村人たちやその土地の住人である聖者ババジとの交流があり、これからこの土地やハルトラビレッジの発展に我々がどのように関わっていくのかを考えさせられる出会いであった。ハルトラの村と大地、ヒマラヤの山々に対しては、今回の日本からの訪問者6名でカタカムナの奏上と、ようことみちよによる舞の奉納を敬意を持ってさせていただき、またの再訪を心に誓った。

そして夜にはまた夜行列車に乗って、翌朝にはデリーにあるトニーの家に戻ることになった。

トニーとの話し合い
トニーとの話し合い

その日の夕食後には、トニーと今後のハルトラビレッジの運営について話し合うことになったのだが、ヒマラヤの地へ行くことと今回南インドのオーロヴィルへ訪問することは、我々にオーロヴィルとヒマラヤをつなげる役割があったことを感じながら、何かの形で今後も双方と関わっていくのだという確認の場所にもなった。

次の日は、現代のデリーの観光を兼ねて、この旅で知り合ったトニーの友人であるロビンソン(大学教授)の案内でガンジー記念館に向かった。途中、日本の技術を導入して完成した地下鉄にも乗ることができた。ガンジー記念館では、ガンジーの聖なる魂の波動を感じ、新たな時代の幕開けにつなぐものとして、彼から魂のバトンを受け取ることになった。そして、多くの出会いのうちにインドの旅の前半が終わった。

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《11月22日夜の話・はじめてマトリマンディールに行って》

オーロヴィルに到着
オーロヴィルに到着

いさどん:
オーロヴィルの聖地・マトリマンディールに行く前に、オーロヴィルのビジターセンターでオーロヴィルに関するビデオを観た。そこで、シュリ・オーロビンドの伝えるオーロヴィルで生きる人々の大切にしている精神性原則は天とつながって生きること、目覚めるとはそういった生き方に徹することだと再認識した。また、オーロヴィルは経典や宗教を持たないが、信仰は心の上に根差していると語られていて、それがまた木の花と同じであることの確認になった。

しかし、残念ながらオーロヴィルに現在暮らす人々にはマザーやオーロビンドの精神が浸透していない。書物や映像で精神性を伝えていても、その境地に到達している人々は少ないと感じる。おそらくその境地で生きている人は今はいないのだろう。

今朝、雨が降ってきたときには清めの雨が降ったと感じたが、雨期の今、当たり前に普通の人が考えると、このまま雨が降り続けるとべたべたになってマトリマンディール見学が中止になってしまう、と考えるかもしれない。しかし、これは清めの雨だから、マトリマンディールに着くときにはきっと天気の状態が良くなるという予感がしていた。そして、ビジターセンターに着いた頃にはすでに晴れていた。天と共にあるとは、そんなものである。

オーロヴィルの精神性についてのビデオを見る
オーロヴィルの精神性についてのビデオを見る

今回のオーロヴィル訪問の目的の一つは、マザーの精神との接触であり、シュリ・オーロビンドの魂の確認にあった。マザーの意識に関して言えば、ビジターセンターでビデオを観た段階で少しマザーと通じたような感じがした。そして、僕は日本にいる時から、天理教の中山みきさんとマザーの魂がとても似ていると感じていた。だから、中山みきさんとは魂が兄弟の関係である自分は、マザーの魂とも近いのだと思った。そこではオーロビンドの聖なる魂は全く感じられなかった。それから、バスに乗ってビジターセンターからマトリマンディールに向かった。

バスの中でトイレに行こうかどうしようかと考えていた。そして天に向かって「トイレに行くかどうか、どうしたらいいでしょうね?」と問いかけた。そうしたら、「体のことはそちらでやってください。流れは私が創りますから」という言葉がマザーから返ってきた。「わかりました」と微笑ましく受け取った。

マトリマンディール
マトリマンディール

そして、マトリマンディールに到着し、ガイドの人から説明を受けて、40名ぐらいのグループごとにマトリマンディールに向かった。中に入る前に菩提樹の横を通った。僕はガイドの説明を受けているときから、菩提樹のところにマザーの魂が存在するのを確認していた。それで、菩提樹の横を通りすぎるとき、菩提樹の幹の根元の中心に彼女の魂を確認した。普通はこういう場合、樹の手前に立っていたりするのだが、彼女の魂は樹の中に存在していた。それで彼女を感じてみたら、「私はここの中にいるのよ。この樹を見てごらんなさい。私にそっくりでしょ?」と語りかけてきた。それで菩提樹をよく見てみると、幹がごつごつとしていて全体の感じが本当に彼女にそっくりだと感じた。

その後、菩提樹の前を通ってマトリマンディールのドームの中に入るのだが、ようこはその前から体がしびれていたらしく、中には入らず菩提樹のもとで休むことになった。ようこを菩提樹のもとにおいて、僕たちは中に入っていった。まず回廊を上がっていき、一番上の天井から太陽光が降りてきてそれを最初に受ける水晶玉がある部屋に着いた。そのとき僕は、まだ見ていない自分が瞑想するところを決めていた。しかし、僕はグループの一番後ろにいたから、そこが空いているとは限らなかった。しかし、そこは空いて用意されていた。だから、天気といい、場所といい、すべてが用意されていた。

そこで、集中して瞑想を始めたところ、天との対話が始まった。まず僕が、「私は今まで自信がありませんでした。しかし、この道の大事を知っていますから、ここまで歩んできました」と伝えると、天からは、「これからはその心を取って、役割を果たしていきなさい」という言葉があった。だから、「私は私を持ちません。天の意志のままに生きていくことを決意した者ですが、今までは自信がありませんでした。しかし、これからはそのようにします」と伝えた。そこでは正直を明かした。

ようこ:
いさどんは自信があるとかないとか、そういったことを感じていないように私には見えていたから、いさどんのその話は意外な気がした。

いさどん:
心が段階を踏んで行く過程ではいろいろと乱れはある。しかし、どちらにせよ行き着くところはわかっているのだから、途中がどうであっても、目的のところへ行く。それで、そこへ行ってから皆に出すから、途中のことは皆にはわからない。しかし、途中ではいろいろとぶれがあることを修正してきているから、自分の中にはそのような心の変遷がある。全体を通して観ると、その途中経過のぶれはいらないものだと思うのだが、あるものはあるからそれを天に正直として伝えた。(天が全てお見通しであることはわかっている。)

この道があるかないかと問われたら、この道がないことは生がないことと同じなのだから、その決意にはぶれがないに決まっている。しかし、地上を生きていると、どこかに心の緊張を持っているのだろう。それが天に心が向かうと、緊張がほぐれる。(天とは宇宙法則のことである。)

それで瞑想の時間が終わって、マトリマンディールから外に出た。そのときにマザーの魂が感じられたので、「あなたの魂は感じるのですが、シュリ・オーロビンドの魂はどこにおいでなのですか?」と尋ねたら、マザーからは「あの方の魂は上のほうで宇宙の運営をされており、宇宙にちりばめられているので、地上にはおいでになりません。私が役割として、ここにいます」ということだった。

マザーとオーロビンドの写真の前で
マザーとオーロビンドの写真の前で

いさどん:
マトリマンディールから出たときに、菩提樹のもとで休んでいるようこの状態を確認しようと思った。それは、とても大事なことだと思った。菩提樹の影になっていたのか、ようこの姿は見えなかったが、菩提樹のところにマザーの魂は確認できた。僕は、ようことマザーの存在を確認したくなった。最初はマザーだけ観えたのだが、その後ようこが菩提樹の近くにあるベンチの上で横になっている姿が見えて、ようこの中にマザーの魂が入ったのが確認できた。

ようこ:
正確に言うと、マトリマンディールに行く前のビジターセンターでビデオを見始めたときに、彼女は私の中に入ってきた。

いさどん:
あのときに、彼女はすでに来ていた。

ようこ:
あのときに、マザーは巨大な白い光としてドーンと頭上から私の中に入ってきた。その白い光を感じていたら、昨晩いさどんと一緒にいたときに感じたいさどんのエネルギーととても近いと思った。それから、バスに乗って、マトリマンディールに着いてからもずっとその白い光が私の中にあり続けて、そのうち体がしびれてきたので、とてもマトリマンディールの中までは行けないと思って、菩提樹のマザーのもとで休むことにした。

いさどん:
あそこに彼女とようこが一緒にいたんだよ。あの菩提樹の下でようこが休んでいる景色はとても美しかった。聖なることが起きたんだよ。
 

《11月23日朝の話・今日もマトリマンディールに行く前に》

いさどん:
僕からお釈迦様が離れて23年、ひとりで歩んできたが、今まで弱音を吐くことはなかった。それは、この道が大事であると自らに言い聞かせて歩んできたから。

しかし、昨日、マトリマンディールの一番上の部屋に入って、天と対話をしたとき、もう一度自らの使命を確認した。そこでは自らの役割を再確認すると同時に、久しぶりに自分の中にある揺れる心を現した。しかし、また自らの足で歩み出せば、揺れる心は奥にしまわれてなくなる。

それから、マトリマンディールを出て、菩提樹のところでマザーと対話をした。彼女は、「私が支えますから」と言った。それは、天とともに歩むということ。

そこで、揺れる心がどこから湧いてくるのかを探ってみた。その揺れる心は自分の心臓の下、へその上のあたりにあって、赤い炎となって燃えている。それをよく観てみると、わかってほしいという心があるから苛立ちになり、それが揺れる心になって、赤い炎として揺れていた。

さらに、そのわかってほしいという心が何であるのかを探ってみると、それは真実に目覚めてほしいという心。そこには一切、自らの為という心はない。ただ真実に目覚めてほしいというだけのこと。そこで、真実に目覚めてほしい対象は誰か。それは、人々に真実に目覚めてほしいという強く燃える炎である。振り返ってみたら、この道を歩み出して30年あまり、ずっとその心で生きてきた。人々に真実に目覚めてほしいという一途な心で歩んできた。

今、その赤い炎が黄金の炎に、そして黄金から白光に変わろうとしている。それは、自らの心の段階を昇っていく過程でもあるが、同時に時代が移り変わろうとする段階も示している。今までの時代は、真実を語っても、真実が真実として通らない時代だった。しかし、これからは魂のこもった真実を語れば、それが通っていく時代に切り替わっていく。そして、その流れがさらに強くなっていく。だから、真実に目覚めてほしいという心はいらなくなる。真実が通らない時代には、情熱という赤い炎がなければ歩んでこられなかったが、時が移って真実が開かれる時代に入り、真実を語れば情熱を持って熱く語らなくてもそれが広がる時代になった。

そこで気づいたことは、今まで情熱の熱い炎で役割を果たしてきたことが、自らをもその熱によって焦がしてきたということだ。それをマザーが、「私のところに来なさい。その焼かれた体を癒してあげますから」と伝えてくれた。そして、天の存在が示す真実を人々に降ろす役割をもう一度再確認した。これからもそれをやり続ける。そして、これからは心の中で赤い炎を燃やす必要はなくなった。燃やすのではなく、ただ湧いてくる光とともに流して行けばいい。

ああ、楽になった。今までずいぶん酷使してきたものだ。

その想いが強かったから、面倒くさいと思う心も沢山出てきた。このような大切な道を歩み、世の為に生きる者が、面倒くさいなどという心を持っていること自体が、道に対する矛盾を生んでいたのだろう。それが自らを焦がしてきたことに気付いたのだ。

難しい時代に、難しい役割を受けて、これまで歩んできたから、やはり情熱が必要だった。だから、心の中には赤い炎が燃えていた。これからはその炎を燃やさなくても、ただこんこんと湧き出る真理を示していけば伝わっていく。それは、いよいよ天が地上に采配を振るう時が来たということ。そして、地の者がそのことを理解し受け取って、実行していく。それが、天と地が共に創造する時代。

なぜ今まで30年も、言いようのない不快感を持って生きてきたのか。

ようこ:
その総仕上げとして、インドに来る前に逆流性食道炎と胃潰瘍、十二指腸潰瘍をいただいて、人生で初めてステロイドの点滴と服薬を経験した。

いさどん:
良いも悪いもすべてなしにして、新たな気持ちで行きなさい(全てをステロイド!)、ということ。(チーン♪)

ようこ:
そうしたら、情熱の炎が消えた。

いさどん:
ただ真実を語るのみ。「感情を抜きにして、物事を観なさい」と昨晩夢の中でずっと人々に語ってきた。その精神の状態はとても人の心を惹きつける魅力的なものであり、ひとたび人々の前に出て語れば、いつでも真実は湧いて出てくる。その真実は僕の内にある。そして、これからは情熱の赤い炎を持って語らなくてもよくなった。今までの焼けた体はマザーが癒してくれると言ってくれた。

ようこ:
菩提樹のエネルギーは本当に癒しの、生まれ清まりのエネルギー。元の響きに戻るエネルギー。

いさどん:
真実の側に立て。真実は自我の中にはない。それは天の側にある。真実の側に立てば、自らの内にも天が存在する。自我を離れて、天の側に立てば、真実を生きることになる。それは、生命として生きることである。

人々に語る場所に出会ったら、いつでも真実は湧き出てくる。今日はここオーロヴィルで木の花のプレゼンをする。記念すべき一日目だ。それをスタートとする。今から焦げた体を癒されに菩提樹のもとに行こう。

マトリマンディールの模型
マトリマンディールの模型

昨日、僕はコンクリートで作られたマトリマンディールを見て疑問が湧き、マザーに「ずいぶん人工的なものを創りましたね」と問いかけた。そうしたら、マザーからは「そうですね。時代はこのようなものが必要な時代でしたから」と返ってきた。そこで僕が、「どのような素晴らしいものも、心の中に創るべきですね」と伝えると、マザーは「そうなのですよ」と言った。デリーで行った黄金の寺院も、あのマトリマンディールも、宇宙の真実を表現しているとしたら、それは人の心の中にこそあるべきである。あのような形にするものだから、人々はその形に惹かれて、自らの心の中に真実を創ることを忘れてしまう。だから、これからはひとりひとりの心の中に黄金の世界・光の世界を見出していく。

マトリマンディールがなくても、どこででも真実に目覚めることはできる。マトリマンディールを否定するつもりはない。まだ途上の者には必要だが、眼が開いた者には不必要になる。
そして、あの素晴らしいマトリマンディールの設計は木の花曼荼羅を球体にしたもので、宇宙の構造を表している。誰でもそれを精神性で心の中に創ることができる。宇宙自体が精神性によって創られたもの。だから、そういった時代が来たことをマザーと確認し合った。

木の花曼荼羅
木の花曼荼羅

そして、我々には宇宙をコンパクトに表した地球という住まいがあって、そこに生きている。つまり、「フトマニ」の中に我々は生きている。
だから、「十(ヒト)」という個人の悟りから、コミュニティ・生命ネットワークの悟り、そして道教による「天は丸く地は四角」という「フトマニ」の悟り・宇宙創造の法則の悟りへと進んでいくことができる。「十(ヒト)」の悟りという個人の悟りから、全人類の悟りへと二段階も時代は進んでいく。自らの中にある真実の扉を開けさえすれば、真実はいくらでも内から湧いてくる。

生命ネットワーク「ヰ」の悟り
生命ネットワーク「ヰ」の悟り

「フトマニ」の悟り
「フトマニ」の悟り

 

《11月23日昼の話・マトリマンディールに行った後》

いさどん:
とりあえず今日は、今まで焼けてきた体を癒してもらおうと思って行ってきた。それで、これからどうしようかという想いが浮かんできたときに、マザーがにこっと笑って、「あなたの役割を手伝いますよ。天の計らいがないと、地上の人間の力だけでは、いくら霊的なレベルが上がっても、事はなっていきませんから」と言ってくれた。

今日も改めて感じたのは、マトリマンディールが聖地なのではなく、地球そのものが聖地であるということ。我々が生命として、人間として、この聖地である地球に生きることは、宇宙の多くの魂からしたらうらやましい限り。それを理解することが、「フトマニ」の悟り。

道教の教えで「天は丸く地は四角」という言葉がある。それはフトマニのこと。だから、孔子はカタカムナのからくりやフトマニの悟りのことを理解していた。そして、それを「道(タオ)」だと説いた。
 

《11月24日朝の話・昨日のプレゼンテーションを受けて》

プレゼンテーション
オーロヴィルで木の花の世界観を伝える

いさどん:
昨日のプレゼンテーションを振り返ってみると、あれで十分だったのかと思う疑問の気持ちもあったが、そこでマザーから「受ける対象の意識の段階がありますから、あれでパーフェクトですよ」と伝えられた。彼女はいつも笑っている。

僕が最初の神様に出会った当初は、僕が何か滞りに出会って上のほうを見ると、天は「何も滞りはないぞ。滞っていることは何もないぞ」といつもにこっと笑っていた。さらに僕が、「どうしたらいいのでしょうか?」と尋ねたり、「あなたは何の為にそこにおいでになるのですか?」と聞いても、いつも返ってくる答えは、「何も滞りはないぞ。滞っていることなどどこにもないぞ」ということだった。(地上で人間の出会う滞りと解釈する出来事も全て天の采配であることを指している。)

マザーもそれと同じ姿勢で僕を観ている。しかし、違うのは、神ははじめの頃、「何も滞りはないぞ。滞っていることなど何もないぞ」と表して、その返答は常に固定されたままであった。ところが、マザーは「パーフェクトでした。良かったですよ」と言いながら、「私は私でやることをやっていきますから」と言う。最初の頃の天との関係は見守られていたことに対し、マザーとは「私は私の役割を果たしますから、あなたはあなたの役割をしてください」という共同の関係になっている。

そこで僕が、「インドの旅ももうすぐ終わりますね。ところであなたは日本でもこうやって私のサポートをしてくれるのですか?」と尋ねると、マザーはにこっと笑って、「日本もここも地球ですよ。ひとつの世界ですよ。」という言葉が返ってきた。
 

《11月24日夜のミーティングにて・ポンディチェリー・オーロビンドのアシュラムに行って》

ポンディチェリーの海にて
ポンディチェリーの海にて

いさどん:
今日11月24日は、今回のインドの旅のきっかけになったオーロビンドのアシュラムが公開される日であり(年4回のうちの1回)、オーロヴィルの友人・プラサドが今年木の花を訪問したとき、この日に僕をオーロヴィルに招待したいと言ったのがきっかけだった。

今、トイレに入ったとき、マザーと会話した。それはマトリマンディールに行ったときより、今のほうがマザーとの距離が遠いから、「これからどのようなお付き合いになるのですか?」とマザーに尋ねて、「面倒くさいから、僕の体の中に入ってくれますか?そうしたら、健康管理もしてもらえますし」と伝えると、彼女は笑いながら「いいわよ。でも、私があなたの中に入ると私の客観性がなくなるから、本当は外にいたほうがいいのよ」と言うので、それはそれでもっともだと思った。だから、「それならどちらでもいいです」と伝えると、「じゃあ、好きなように出たり入ったりしますね」と言っていた。

こういった会話も、波動量が上がってはじめて成立すること。

それで今日行ったオーロビンドのアシュラムでの出来事を振り返ってみる。まず、ポンディチェリーのアシュラムで昼食を食べるためのチケットをもらいに行ったとき、そこにオーロビンドとマザーの展示場があった。そのあたりから、僕はマザーと一緒に展示場をずっとまわっていた。展示はすべて英語で書いてあるから僕に内容の理解は難しいのだが、写真を見てまわるたびに登場人物やマザー自身のことをすべて彼女が説明してくれた。僕は何だか嬉しくなって、まわりの皆にそれを伝えたくなった。その説明はとてもリアルでわかりやすいものだった。親しい友が語ってくれているようで、とてもよく理解することができた。楽しい時間だった。

その時点でオーロビンドの魂は全く感じられなかった。

次に、オーロビンドのアシュラムに向かう途中、路上で何人かのインド人がいろいろなおみやげをしつこく売りつけようとしてきた。その中のひとりはタトゥースタンプを売りつけようとしてきて、僕の手の甲にシルバーのタトゥースタンプを見本として押してきた。それは、木の花でインドナイトをするときやお誕生日会のときには重宝するから買っておこうと思ったので、アシュラムに行った後に買うよ、と彼に伝えた。それで、どうせ買うなら彼から買おうと思っていた。それはたとえ彼らでも、日本人はちゃんと約束を守るとか、礼儀正しいと思うかなと思ったからだった。それまでもいろいろな所でそのような意識をすることがあった。靴を脱ぐときなどにも日本人らしくしようという意識が働いた。だから、彼との約束も守ろうと思っていたのだが、結果アシュラムの出口を出たときには違うところに出たので、約束の彼とは会えないだろうと思い、そこに居合わせた違う人から買った。しかし、買った直後に最初の彼が僕を見つけて駆け寄ってきた。結局、仕方がないこととは言え、やはり日本人の精神性を示すべきだと思った。今でも心に残るエピソードになった。

ようこの腕から金粉が出る
ようこの腕から金粉が出る

ようこ:
その最初の人と出会い、アシュラムに入る前に、いさどんが私の両腕から金粉が出ていることを発見した。

いさどん:
アシュラムに近づくにつれてようこの体調が悪くなっていったのだが、彼が僕の手にシルバーの模様をつけたとき金色は全く使っていなかった。それで彼が僕の手にスタンプをつけ終わってから、何となくようこの右腕を見たら、きらきらと光っていた。金粉が出ているよと言ったら、彼は「それは僕の持ってきたスタンプの粉が飛んだんだよ」と言ったのだが、彼はシルバーしか使わなかった。彼のスタンプセットを見ても、そこに金色は見あたらなかった。それでようこが着ていたブラウスの右腕の部分をまくり上げてみたら、腕の上のほうにも金粉が出ていた。左腕はどうかと思って見てみたら、右腕よりは少なかったが肩のあたりまで金粉が出ていた。
これは、どう考えてもスタンプの粉が飛んだわけではないと思いながら、そういえば1年前の11月22日、浅間大社の湧玉池で雅秀さんがアワの歌を奏上したときに、いさなの頭から金粉が噴き出てきたことを思い出した。だから、きっと何かこれには意味があるのだろうと思って、アシュラムに入った。

アシュラムに入っても、相変わらずマザーとは明快に対話しながら、アシュラムの内部を案内してもらっていた。その内容は、まるで日常会話のように、しばらく会っていなかった親しいお姉さんと話しているかのようだった。

アシュラムには棺のようなものが置いてあり、それを横目で見ながら左のほうに入っていったときに、初めてオーロビンドの魂を感じた。
その魂は、僕の目線を誘導するように、その辺りにあるいろいろなものに目線を向けさせた。同時に僕の指も一つ一つその目線の先のものを指していく。植物があり、その葉っぱがあるとか、大理石の柱があるとか、壁のペンキの傷だとか、それを僕が指差すと、「そこに私はいる」、「そこにも私はいる」、「どこにでも私はいる」と言葉が降りてくる。それで、その存在はすべてに遍満している存在なのだと直感したら、「すべてに遍満しているということは無である」と降りてきた。つまり、すべてに遍満しているということは、その存在は特定の位置に立たないから、すべてが自らであり、自ら(自我の特定)はないことになる。
無という境地は深いものであり、仏教で伝えられている奥にある存在なのだ。そして、もしかしてこの魂は地球の魂なのではないかと直感した。

玉置山の頂上より
玉置山の頂上より

それでインドに来る前からのことを振り返ってみることにした。そういえばインドに来る直前に、高野山と熊野本宮・奥之院・玉置山にある玉置神社(世界の高天原)に行ってきたこと。そこでカタカムナ奏上と花祭りの鬼の舞を奉納してきたこと。その後、熊野の一番の高みから、熊野・吉野を下って、和歌山県の海辺にある日本最古の神社・花窟神社に行ってきたこと。(そこには太平洋が広がっている。)
これは、日本を世界地図でたとえればヒマラヤにあたる玉置山にまず我々は行った。そしてチベットは高野山にあたる。

花の窟神社前に広がる太平洋
花窟神社前に広がる太平洋

そこからガンガー(熊野川・吉野川)を下って、オーロヴィルに行き、さらにそこからポンディチェリーにあるオーロビンドのアシュラム、つまり花窟神社に行った。そして、インド洋(太平洋)を望んだ。これは日本での奉納の旅と同じことをインドでしていると気付いた。

そして、オーロビンドの魂は国常立命・艮の金神だと思った。日本では艮の金神は人の姿に化身しなかったが、元々天教山である富士山に魂が降りて地球のマグマの中に入り、それが地球のヘソ・ヒマラヤへ噴き出し、聖なる人々によってガンガー(地球の子宮)を下り、インド洋から世界に広まったということは、これは地球すべての元である艮の金神の軌跡なのだろう。

最初はそれがわからなかった。つまり、アシュラムのオーロビンドの棺のところで人々がひれ伏している姿を見たときに、マザーに「あの方の魂はそこにおいでになるのですか?」と問いかけた。それで、僕もそこに行ったら同じことをするのだろうかと思っていたら、マザーは「いいのですよ。感じるように行動しなさい。そうしたらわかるから」と言ったのである。

途中でそれを思いながら進んだ。アシュラム内にはオーロビンドが椅子に座っている写真があちこちに飾られているのだが、その椅子の実物が置いてあった。それを見たときに言葉が降りてきた。
「私を知っているであろう。今まであなたは私と一緒にいた。その私にあなたは会いに来た。」
それはまさしく艮の金神の言葉だ。それで僕が、「あなたは私の中においでになりますね?」と尋ねると、「私はあなたの内にも外にもどこにもいる」と言われた。それでなるほどと思い、あの棺のところまで行かなくてもいろいろなことが紐解けてきた。

その後、列が棺のところへ近付いたときに、これは皆と同じような姿勢を取るべきだと感じ、棺に手を掛けひれ伏した。そうしたら、この魂は国常立なのか、出口王仁三郎なのか、どちらなのだろうと思った。というのも、オーロビンドとマザーは、出口王仁三郎と出口なおの関係のようでもあるから。ところが、出口王仁三郎は艮の金神がかかったとは思えないが、艮の金神を世に出した人でもある。
どちらとも結論は出しがたいが、自分の中にひとつの結論のような流れが湧いた。それはこれからの流れを考えたときに、その魂に玉置から始まって日本で出会うことと、インドで出会うことは意味が違うと思った。

これは6000年の再スタートであり、25800年の半分は12900年、その半分は6450年、その四半分の再スタートのように観えた。だから、インドや中国の文明は6000年の歴史を持っているし、6000年という数字が僕の中で出てきた。その歴史の切り替え時である新たなスタートだから、日本ももちろんそうだが、これからはインドが発信源となるのだと思った。(日本、中国、朝鮮、インド、東アジア、東洋文明がこれから世界をリードする時代の始まり。中国天盤の巡り。)

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後は、マザーが伝えてくれたように、「私が手伝いますから。あなたは自分の感じたようにすればいいのよ」ということだから、大それたことだと思わずに、ただ流れのままにやるだけ。
人間はやるべきことをやり、天はそのやるべきことのために出会い(流れ)を用意する。だから、人間は出会いを考えなくていい。ただやるべきことだけをやっていけばいい。我々は特別なことはしなくていいのだ。(人事を尽くして天命を待つ。)

ようこ:
だから、私の両腕から金粉が噴き出た。天が特別なことをしてくれるから、私たち人間はただ当たり前のことをやっていけばいい。

いさどん:
ただ感じたままを生きていく。我々は生きることに自らの意志はない。
現代人は自らの意志、我から湧き出る欲望を満たすことで生きている。そういった愚かなことはもうやめないといけない。自我の意志は捨てて、直観で今、目の前にあることをやっていく。それが天につながっている人間の姿。

天とつながっていると、天はふさわしい出会いを用意する。逆に言うと、天とつながらないと、自我の意志で生きようとして天との矛盾が発生する。天はそれに対して矛盾の分だけ出来事を与える。
これは明快な道理で、次の時代を生きる人々はこのカラクリがわからないといけない。だから、世界観を広げ、波動量が上がっていかないとそれが理解できない。波動量を上げて、直観で感じ、天の意志で生きることが最もムダがなく簡単なこと。それは頭で損得を考えない、段取りをしない、法則のままに流れていくことである。
今の人間は賢いつもりで頭を回し、自我におぼれて物事の本質を外してばかりいることになる。多くの人々は外していることさえもわからないような者になっている。

それで、アシュラムを出て、昼食を食べるためのホールに向かうとき、マザーからの「もう仕組みはわかったようだから、私は行きますね」という言葉とともに彼女を感じなくなった。その後ホールに入っていくと、マザーの大きな写真が壁に飾ってあるのが見えた。すると、彼女はまた僕に語りかけてきた。それで、「さっきは行きますねと言ったのに、また戻ってきたのですか?」と聞くと、「私の写真があるところには私の魂はあるのよ」とマザーは言った。
それは、インドにはオーロビンドのアシュラムが沢山あって、その寺院ごとにオーロビンドの分霊がいるように、写真があるところにはマザーの魂がいるということである。小さな写真はパワーが弱いのだが、大きな写真は強いパワーを持っているという。それと、写真の中のマザーの表情によって、そこから発せられるエネルギーも内容も違う。それは興味深く面白いと思った。それで僕が写真から離れると、彼女の存在は感じなくなった。

そして、アシュラムの出口のところにあるみやげと本を売っている店に入ったとき、本はいらないが写真はいると思っていた。しかし、自らその写真を選ぶ気持ちは生まれなかった。そこでは自分の意志はなしにしていただくことだからと思って、出口から外に出た。
そこでは自らの意向がわからない者が選んだ写真が神の意志だと感じ、みちよちゃんとまゆちゃんに託して代わりに買いに行ってもらった。自分の意向がわかる者が選んだら、それは天の意ではなく、結局自らの意志になってしまう。僕がオーロビンドとマザーのふたりがセットで写っている写真がいいと内容をイメージしていたら、その写真を3枚ふたりは選んできて、しかも眼鏡ケースに入れる小さな写真まで買ってきてくれた。僕の眼鏡ケースにはひとみちゃんの写真がいつも魔よけ(笑)として入れてあるのだが、そこに入れるといいだろうとみちよちゃんが思って、僕があの表情が一番いいとイメージしていたものを選んできてくれた。それと、3枚ある大きな写真のひとつを僕の部屋に飾り、ひとつはひまわりのホールに飾るといいと思った。(結局、残りの一枚はようこの部屋に飾られることになった。)

その時点ではマザーの魂はもう近くに感じられず、遠く離れていたから、僕が「日本に行っても、私たちは同じ関係なのですか?」と聞いた。そうしたら、マザーは笑って、「日本もインドも地球よ。あなたが活躍するところにはどこにでも私はいるわ」と言った。

僕は中山みきさんから兄弟の魂と言われていたが、そういった守護霊的な交流はなかった。しかし、今回インドに来て、マザーの魂とは本当に親しく接することになった。そして、中山みきさんとマザーも兄弟関係のようなものだと感じる。それに対して、シュリ・オーロビンドの魂は僕にとってさらに馴染みのある魂だった。マトリマンディールでマザーに、「あの方の魂はどこにおいでになるのですか?」と尋ねたとき、「あの方はもう上に昇られて、宇宙と一体の存在ですよ」ということは聞いていたが、その実体は国常立命だった。日本で玉置神社に行った後、海辺の花窟神社から太平洋を望んだように、ここインドの地でもヒマラヤに行った後、オーロヴィルに行き、海辺のポンディチェリー・オーロビンドのアシュラムに行って、インド洋を望んできた。

じゅんぞう:
ビーチにガンジーの銅像があったのですが、ガンジーとオーロビンドはどのような関係だったのですか?(ポンディチェリーの海岸は、ガンジーが独立運動のときに塩の道の行進の後、塩を作った海岸でもある。)

いさどん:
どちらも、インドの独立運動の大きな勢力の一人だったとは思う。デリーでガンジー記念館に行ったとき、記念館に入る前の道路で彼の魂が温かく迎えてくれているのを感じた。その後もあたりに彼の魂を感じた。彼は僕にこう言った。
「新しい時代が始まりましたので、皆さんにつなげていただきたいと思います。よろしくお願いします。」

ガンジー記念館前にて
ガンジー記念館前にて

ようこ:
オーロビンドの誕生日が8月15日で、その日がインドの独立記念日でもあり、しかも日本の終戦記念日でもあるのだから、やはりインドと日本の関係は深い意味がある。

いさどん:
もうひとつ、艮の金神が出口なおにかかって、大本という組織ができて信仰の対象になった。今日オーロビンドのアシュラムに行って、それと同じことがインドでも起きていると感じた。
大本の教えでも意識は高いし、オーロビンドの宇宙観も元々は我々と同じなのだが、それが生活に反映されていない。大本の信者たちもご利益主義に陥ってしまっている。やはりそこは、ひとりひとりの意識が目覚めて、世の中の目覚めに役立つ者になる流れに切り替わることが大切。

ようこ:
それがコノハナ人のあり方。実践する人たちのこと。

いさどん:
昨日のオーロヴィルでのプレゼンテーションを受けて、さらに僕たちの話を聞きたいということで連絡を取ってきた人たちがいる。そうやって、早速、事は動き始めている。
 

《11月26日の朝の話・マザーからのバトンタッチ》

いさどん:
人は形を整えることばかり優先して、心を整えることを忘れてしまっている。そして、心を整えることを忘れるどころか、心が整っていないことすら気付いていない。心が整っていないと、どんなに優れた形を創っても、結局それは有効なものにならない。それどころか、この世界に害をもたらす。
だから、ただひたすら心を整えることを大切にすること。それは、他者を想う、自らの意志を保つこと。しかし、人は自らの欲望を叶えようと、欲望の満足ばかりを追い求める。そして、自らの心に向き合わず、外にばかり心を向ける。だから、教えを書物や経典から引き出そうとする。そして物質的な豊かさを求めることばかりに走っていく。

現状のままでは天から与えられた役割を人類に果たすことは難しいと思って、今朝は少しうつっぽくなっていた。それが面白いことに、体の左側を下にして寝ていたときにはそういう気持ちになった。これはいつもの朝うつだと思って、だから何はともあれ目の前にあることをやろうと思い、今度は右側を下にして寝たら、前向きな気持ちになった。難しいと思っていた心が消えて、ただ粛々とやるという心が湧き出してきた。

大事なことは、どこがポイントなのかをつかむこと。

「どれほど人々が優れた形を求めても、心が整わなければ、形は良いものとはならないのです。心がすべてを決めるのです。良し悪しは、心の状態で決まります。」

今朝、ネガティブだったときには、マザーに助けを請う心が出てきた。しかし、そういったときには全く反応がない。だから、見捨てられたような気持ちにもなる。それは自らにとって都合の悪いときだけ求める心。

そして、同じように何も感じられなくても、大事な基本を思い出したとき、つまり心が整うと、それにふさわしい形が現れて、その形は有効に作用する。そして、そこから身の丈に合ったものを求めるようになるし、それが足るを知る心につながる。そして、ありがたい心がそこに湧き出てくる。

昨日、ポンディチェリーの町へ行ったとき、一般インド社会の人々にはまだ物を求める心が強くて、それはとてもパワフルである。一方、オーロヴィルの村の中に来ると、外国の人々が多いせいか、物を求める心は強いものの、すでに物質的に満たされているように感じた。だから、ある意味生きていることにそれほど危機感を感じられない。
そこで、物の豊かさに見合った心を求めていけば、それもパワフルにつながるのだが、物が豊かになっても真理を求める心が伴わないと、自己主張が始まり不調和が広がる。だから、人は常に心を磨いていかないといけない。それで、心を豊かにして、それにふさわしい現象をいただくことだが、現在のオーロヴィルの中にマザーやシュリ・オーロビンドの精神が薄れていることを感じた。

心を整えて、心のバランスを保ち、自らを客観的に観察することから、自らの存在をよりバランスの良い社会の成り立ちにつなげる。そこが一番のポイントで、物が優先して豊かさの中に生きている人は、豊かなことすら忘れてしまう。だから、心に不平不満を持ってしまう。
物が貧しい者は、少しの物を与えられても、ありがたいと思う。しかし、心が貧しいと、さらにもっと欲しい心になってしまい、エネルギーはパワフルになるが、欲望のとりこになって豊かさを求める心が人や社会の弊害を生むことになる。
やはり、すべてのベースに心の豊かさがあることが大切である。まずは心を豊かにして、形の豊かさを結果としていただくことの基本を想う。

働くということも、心が貧しいと、自らの為に欲望を満たそうとして働く。それは、傍を楽にするのではなく、自らの欲望を叶えるだけのこと。
大切なのは、この世界が自らを生かしてくれていることをいただく。だから、世界の為に貢献すると、自らも傍も楽(傍楽)になる。

そのことが一番大事とわかる位置まで心の波動を上げれば、形は自ずとついてくる。そのことの優先順位が人間にはわからない。
しかし、どんなにわからない者がいても、「なぜあなたはそれを伝え続けるのですか?」と問われれば、「そこにわからない者がいるからです。そして、そこに不幸があるからです。だから、伝え続けるのです」と答えるだろう。そうやってこれからも歩んでいく。その心でいれば、天は共に歩み、形を用意してくれる。

ヒマラヤは美しかった。偉大だった。ヒマラヤからガンガーを下ってインド洋まで来ると、その道中には人間の欲望の心が沢山反映されていて、潜象界から始まって現象界の自然、そして人工へと表現され、歪んでねじれてこの世界を表している。ヒマラヤの純粋な人々もこれから欲望に目覚めていくのだろう。結局欲望に目覚めると、あの山を降りて人工の里へ降りていくのだろう。

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そこで、人々をどのように導こうかと考えるのだが、それは時代と天の意志なのである。だから、考える必要はない。大切なのは、常に天とともに生きる意志。道は天が握っているということだ。

日本の神話では、天孫降臨といって天が降りてきて地上を治める物語になっている。それは歴史的には支配したと見られているのだが、それは天の心を地上に降ろし(地球は宇宙法則によって成り立っている)、それを地上に生きる人間たちが受けて、地球上に実現するという仕組みをさしている(地上天国)。

地上を生きる者たちが自我に溺れ、天を忘れた今こそ、もう一度天の心を思い出し、天(宇宙法則)とともに地を生きていく。それが地上天国である。
しかし、肉体を持つ役割の者(人間)は、どうしても五感を与えられるとその五感の魅力にとりこまれてしまい、地の者は天の存在を忘れてしまう。それで、「地(チ)」が濁って「自(ジ)」、つまり自我ばかりで生きていくことになる。だから天は、天の心を思い出すように常に働きかける。そして、天地の心がひとつになったとき、地上天国が常にあり続ける。

あのマトリマンディールは上から太陽の光が水晶に降り注いでいる。そして、その光は一番下の水の中心にある水晶に降りている。それは「カ(火)」「ミ「水」」を表している。そして、十(カミ・カタカムナ的には「ヒト」と言う)が地上に降りると、土(ツチ)になる。それは天が地に降りて命となる仕組みを表している。

マザーは僕にこう言った。
「マトリマンディールは、人々の心の中に表現されるべき宇宙の真理の型です。」
だから、僕はこう伝えた。
「そうですね。これからは人自体が神殿ですから、人の心の中に宇宙の曼荼羅が表現される時代なのです。だから、あなたの想いを受け継いでいきます。共に歩んでいきましょう。」

全人類の心の中に宇宙の曼荼羅が表現される為に、我々はこれからも天とともに歩んでいく。
 
 


2015年「船出の年」を迎えて

新年明けましておめでとうございます!

木の花ファミリーでは、2015年を「船出の年」と銘打ちました。そして新年を迎えるにあたり、いさどんはメンバーたちへ、以下のように語りました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

昨年末、2014年の収穫感謝祭を行いましたが、そこで降神祝詞、昇神祝詞を奏上し、祭場に神様に降りていただき、祭事に立ちあっていただきました。私たち地上に生きる人間が日々生きられることは、天の意志(天体の法則)が地に働き、地に実りが降り、そして、私たちは生きていけるのです。
そのことに改めて感謝しながら、その神様との関係がどのような仕組みになっているのかを、新たな年を迎えるにあたって改めて振り返ってみたいと思います。それを私たちが迎える新年の指針にしたいと思います。

地球は一日に一自転します。そして一年で365回自転しながら、太陽を一周(公転)するのです。それを繰り返しながらこの星は宇宙を旅しています。そのような中で一年という節目を毎年迎えながら、私たちは生き、年を重ねて、寿命を迎えます。この宇宙的物理性が私たちにいのちをもたらし、そしてそれこそが神様の実体だとわかってきました。
私たちは一昨年の11月にカタカムナ(上古代、日本列島に存在した宇宙物理学)と出会ってから一年と少しが経ちましたが、宇宙的仕組みで生きる意識は常に今までもありました。それがカタカムナに出会って、宇宙の物理性が私たちの意識の中にさらに入ってきたのです。以前はこういった神事を行ったときには、本当に神様の存在と生きることの意味をつなげて感じていたかというと、なかなかそこまでの深い意識にはなりにくいものでした。本来は、特別なときに天の存在を想うだけではなく、常日頃の想いや生活の仕組みの中に感じていくべきことです。

毎日朝が来て夜が来ること、夜には眠ってまた朝を迎えること、そして食べ物をいただくこと、その沢山の緻密な繰り返しの中で四季に出会い収穫をいただくこと、そういった私たちが当たり前にしていることすべてが宇宙の物理法則の仕組みからもたらされているのであって、それこそが神様の働きなのです。そして、その仕組みが私たちにいのち・命(みこと)としての立場を与え、いのちを紡がせ、私たちは寿命を迎えるということなのです。
それは私たちの日常、とても身近にあることです。私たちの命の営み、すなわち私たちの存在そのものが神様が存在する証でもあるのです。私たちは毎日その仕組みの中に生き、いのちを紡いでいる神様の顕れなのです。

ですから、私たちすべてのものがいのち・命(みこと)としてつながって存在していると捉えたときに、カタカムナを通じてそういった物理的仕組みを改めて認識することができました。そして、それは私たちに高い意識をもたらします。私たちは日々の生活にそれだけの宇宙の妙(不思議な仕組み)をいただき、そこからいのちをいただいて生きているものとして、そのような高い意識のもとに生きていくためにはどのような心になったらいいのでしょうか。

それには、「謙虚」な心が大切です。この世界の仕組みがあって、その仕組みとともに私たちは生きている、もしくは生かされているという謙虚な心がまずは必要なのです。

それとは反対に、こうしたことに気付かなかったときにはどのような想いで人は生きているのだろうかと振り返ることも可能です。
そこでの人々は、自らの都合で予定を立てて、自らの想いを実現させるために生きてきたわけです。そういった意識には「生かされている」という感謝の心がありません。ましてや、そこには宇宙天体の働きや自然生態系のことなど意識にはありません。また、自らの想いを実現したいわけですから、他者に配慮する心も薄れます。それが今のような世の中の現状を創ってきたのです。

木の花の畑隊のこうちゃんからは、「今年の収穫はスーパー台風などの天候の影響を考え、心配したのですが、お蔭様で」という話がありました。「お蔭様」という言葉は太陽があることへの感謝のことなのです。その感謝の心が人を謙虚にし、他の存在があること、この世界があること、この世界が自らを生かしてくれていることに気付かせてくれるのです。
ですから、その心は他者のためにこの世界のために生きる心を湧き出させてくれるのです。それが働く(傍を楽にする)ということです。そしてこれこそが感謝(命の仕組み)の精神だと気付いたときに、人々はそういった精神で生きることを実感として生活の中に感じ、豊かに生きる段階になるのだと思います。

昨年・2014年の「うねりの年」(2013年は「出会いの年」)は、木の花ファミリーにとっての禊の年でした。禊というのは、洗礼を受けて自らの余分なものを捨て、本当に必要な姿となって生きていくことです。その禊を受けるときには、心に覚悟を持って、「いただきます。余分なものはそぎ落とし、必要な分だけいただいていきます」という決意をいただくのです。
そして、禊の年が終わると、次に何が来るかというと、その覚悟を持って今度は行動に移るのです。その行動が「船出」となるのです。船が出るということは、いよいよその姿勢(決意)を持って私たちが世にこのような形で生活していることの意味を示していく(行う)ことです。

そういったことを想うと、私たちはカタカムナという「知」に出会って「知意行一体」の大事を知りました。昨年一年は禊によってファミリーひとりひとりが自らの「意」を確認し、新たな年を迎え、いよいよその「行」が始まります。
その行は誰のためにあるのかというと、それを謙虚な心で行ずるのであるならば、世のため人のためにあるのです。私たちはこの世界の仕組み(カラクリ)に気付いたものとして、天の仕組みが地上に降りて、地上が円滑に営まれるための受け皿としての役割を果たしていくのです。
しばらくの間、天を意識しない地上の在り方が続きましたので、気付いた者としてその尊い意識をまだ気付かぬ人たちに示していくことが、これからの私たちの在り方です。そこでは自らにとらわれない強い決意が必要になってきます。その決意をするためには、いただいていることの尊さを知り、先に気付いた者の宿命として、無理解の中を歩むことにもなりますから、そのために謙虚に道をいただきながら、覚悟を持って粛々と生きることが大切なのです。

私たちは天の存在と共に、自らの意志を超え、共に生きるものとしてこの生活をしているわけですから、自らにとらわれているようなことでは与えられた役割を果たすことはできません。そのようなことでは、こういった生活をしていても、途中でその決意が鈍るようなことにもなります。
しかし、最終的に全ての魂はその役割を終え、また天にかえっていくのです。そのときに、十分に役割を果たし胸を張って旅立てるかどうかを考えると、これは自らのためでもあるのです。ですから、その決意を持って、こうした節目節目にその決意の確認をし、歩んでいきたいものだと思います。

そして、自ずとひとりひとりの中にその決意が湧いてきたとき、世の中のまだ気付かぬ人々もその新たな時代のうねりを直観で感じ、つながり、新たな時代を創造していくときが来るのです。すべての存在がこの法則の中に存在しているわけです。
そして今、時代は変わろうとしています。それは、ひとりひとりに気づきと直観が働き出すということです。その結果、人々の縁が紡がれたこのような生き方が必要となってきます。その時代が示す新たなモデルとして感じられる場所を、みんなと創っていきたいと思っています。

私たちは天然循環法と名付けた宇宙物理法則により、田畑の作物に美しい四十八音の響きを響かせながら育てていますが、私たちの精神の響きにふさわしく、その恵みは与えられるものなのです。ですから、ただ響きを奏上すればいいのではありません。そこに美しい四十八音の響きを響かせるにふさわしい者の行によって初めて、有効であるのです。
そうすると、私たちが日々の生活の中で調和の心を成し遂げた上で、ひとりひとり高い波動量の者となり、かつそれがネットワークして増幅していくことが大切です。その生活自体が作物や料理、子育てなど日常生活の全てに反映されていく ――――― それが本当の意味での天然循環法の生活なのです。

これはひとりひとりの意識波動が上がってこそ、成っていくことです。しかし、それは特別な人を目指すことではありません。それでは神通力のようなもので、「その人にしかできない」という特別な世界を創ってしまいます。
そうではなく、その仕組みを知り、その高い意識を持った者たちが調和しネットワークして、生活に反映させ、行じたときに(それを直会という)、地球に人類の新たな時代の雛形が示せるのです。

ですから、畑や田んぼの責任者が心配しなくてもいいのです。みんなでその意識で生活をし、その心をもって、美しい響きが生活すべてに響きわたったときに、当然のようにひとりひとりがそのような波動量を有し、有難い恵みのもとに生きていけるのです。それが当然のように展開されていく世界 ――――― それがこれからの世の中の見本となります。それが私たちの新たな年のテーマ・「船出」なのだと想います。

ぜひ、そのような場所をみんなで創っていきましょう。
みなさん、新年もよろしくお願いします。
 
 


人生は自分を知る旅である

今年3月に30歳になったNちゃんは、「30歳になる直前になんだか心がざわざわしてきて、いてもたってもいられなくなって・・・」ということで、いさどんに相談に来ました。3年前に2カ月間ここでケア滞在をし、うつ病を克服したNちゃんですが、今後安定した心で生き生きと毎日を過ごせるように、今回子供2人と一緒に木の花ファミリーに長期滞在をすることを決めました。

そして、長期滞在が始まってから約1ヶ月が経ち、Nちゃんの夫のKくんがファミリーを訪れ、いさどんと話す場がもたれました。今回はその面談の模様をご紹介します。
 
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 
いさどん:
今回Nちゃんがここに来ている目的について、二人の中で共通の認識はありますか?

Kくん:
どうですかね・・・正直、人に説明する時にどう説明していいのかわからないのです。彼女自身がこれからの人生を生きていくことを見据えた上で、自分をもっと成長させたいというところから、今ここで生活している、と捉えているのですが。

いさどん:
Nちゃんはそのつもりでやっているのですよね?

Nちゃん:
はい。

いさどん:
それについては着々と進んでいますよ。

Kくん:
はい。ただ、僕がこの1ヶ月を過ごしてみて、理屈ではそれを理解しています。彼女がここに来る前に手紙をもらい、そういった内容も書いてあったので、それが必要なのだということは頭では理解しているのですが、実際心の面ではついていっていないのです。仕事は変わっていませんが、家に帰ってきても彼女も子供たちもいませんし、今仕事が結構忙しいということもあって、やらなければいけないことは沢山あるので常にこなしているという感じなのですが、こなしても仕事がどんどん増えている状態です。
そういった状況もあって、自分の中で消化しきれないところもある上に、今回のことがあって、家に帰ってさみしいとか、子供の顔も見られないという気持ちがあります。彼女にとって本当に必要なことだと頭では理解していますが、心がついていっていないので、彼女にどうしてもあたってしまいそうで、彼女がこちらに来てからずっと連絡を取っていませんでした。彼女から電話がかかってきても、わざと出なかったときもありましたし、「なぜこんな想いをしないといけないんだ」と思ってしまったこともあります。

それで、昨日こちらに来て、彼女から「これから外勤をしたい」と言われたときに、「なぜ急にそんなことを言い出すのだろう」と思ったのですが・・・

いさどん:
その話の中身は聞きましたか?

Kくん:
はい、聞きました。聞いたのですが、彼女が「外勤をしたいので車を使いたい」と言ったのです。僕は正直なところ、これ以上今の自分の環境を変えたくない気持ちがあって、休みの日にちょっとゴルフに行くことが今は息抜きになっているのです。でも、彼女が車を使うとなると、ゴルフに行けなくなるので嫌だと伝えたのですが、彼女から「ゴルフを手放せないから車を手放したくないの?」と言われて。彼女としてはそれを言っただけなのですが・・・

いさどん:
ゴルフというのは、車のゴルフじゃなくて、打つゴルフのことだよね(笑)?

Kくん:
そうです(笑)。

いさどん:
車の話が出て、ゴルフが出てきたら、車なのか、ゴルフなのかと思ってね(みんな:笑)。

Kくん:
後から冷静になって考えてみたら、彼女はそれを言っただけで、そこに何もないのかもしれないのですが・・・ここに来る前にお金の話になったときに、これはいくらであれはいくらで、と家計の話になって、彼女が「これだけ大変なんだから、あなたのおこづかいを減らせばいいね」と言ったことがありました。僕からすると、「あなたの都合でここにいるのに、なぜ僕のおこづかいを減らすことになるの?」という感覚があり、今回の車のことに対しても同じような気持ちがあります。

いさどん:
そのあたりがお互いの中でしっかりと落としあえていないということですね。

Kくん:
はい。理屈では、そういう意味では理解・・・もしかしたらこれは理解していると言えないかもしれないですが、表面的には、理論上で文を読んでいるような感じの理解の仕方はしているのですが、心で落とし込めていないので、純粋にそこを応援していこうと思えていないのです。

いさどん:
それはスタート地点ではどうでしたか?

Kくん:
スタートから複雑でした。

いさどん:
複雑というのは、二つの心があったということですか?

Kくん:
そうです。心から純粋に応援しようと思えていないというか・・・

いさどん:
僕はこの話を聞いて良いことだと感じています。それはなぜかというと、今までの状態でNちゃんが何年もいたとしたら、結局あなた方の家族は崩壊するかもしれないからです。

Kくん:
そうですね。

いさどん:
それを長いスタンスで見て、崩壊しないようにする為に長期的な対策を打たないといけないということで、その長期的な対策の中のある一点に今取りかかっているということです。これはある意味、難しい家庭の病気の治療のようなものです。それを健全にしていくための最初の取り組みが今回のことなのです。
それについて、僕は彼女を見ていて順調に進んでいると思っています。それで、順調に進んでいるNちゃんの取り組みと、あなたも同じ家庭を構成している一員としてそれを認識し、家庭を健全にしていく為に同じような気持ちで取り組まないと意味がありません。Nちゃん一人が改善されても、あなたとの関係が悪くなったら、何にもならないわけですから。僕は彼女から、今あなたが孤独な状態だと聞いていたので、「Kくんはもっと頻繁にこちらに来て、心の調整をここでしていくといいね」という提案をしたのです。
今回のことで一番健全になっているのは、子供たちですよ。

Kくん:
そうですね。

いさどん:
あなたが向こうにいて、仕事から帰ってきたときや休みのときに接していたときの子供たちの状態と、ここへ来て1ヶ月経った子供たちを見て、何か違いはありますか?

Kくん:
そうですね、今のほうが健全だと思います。

いさどん:
以前の家庭環境で子供を育てていたときや、ここに来たばかりのときでもそうでしたが、Nちゃんと子供たちはべったりとくっついて切り離せない状態でしたが、今は子供たちがとても自立していて、健全に育っています。
そういった環境をつくって子供たちに与え、子供を健全に育てていくのは親の務めなのです。しかし、実際にはNちゃんが直接育てていたかもしれませんが、あなたは父親としてその環境が提供できていなかったわけです。そういったことも含めて、現状はとても良い成果が現れています。

Nちゃん自身が仕事を始めるというのは、彼女自身が楽をしようということではなく、あなたに経済的に負担をかけていることが良くないので、負担を少しでも減らす為に外勤したいという提案を彼女から受けたのです。そのことに対して僕は何も言っていませんし、まだここに来てから1ヶ月しか経っていませんしね。

Nちゃん:
そこなんですけど、私もよくよく考えてみたら、そこには逃げもあったところがあって・・・

いさどん:
どこからどのように逃げるのですか?

Nちゃん:
キッチンスタッフの中にいることが・・・キッチンの仕事はすごく好きなのですが、ただメンバーに馴染めなくて・・・

いさどん:
それはメンバーに馴染めないのではなく、あなたが馴染まないのではないですか。

Nちゃん:
そうです、私が馴染まなくて・・・

いさどん:
言葉は正しく使わないとダメですよ。

Nちゃん:
自分が馴染もうとしなくて・・・

いさどん:
つまり、自分が馴染もうとしなくて、自分の癖が出て、そこに居づらくなったことに対して、そこから逃げの心で外に働きたいということですね。それで、外で働きたい理由がKくんに負担をかけない為ということにしたということですか?

Nちゃん:
はじめはそう思っていたんです。でも、よくよく考えてみると、私は毎日キッチンにいて、「早く働きに出たいから、早く探そう」と思い始めて・・・

いさどん:
そうしたら、目的はキッチンから逃げ出すことになりますね。

Nちゃん:
そうです。そこで、「なぜ早く働きに出たいと思うのだろう?」と考えたときに、キッチンから出たいという気持ちが出てきたので、昨日振り返っていました。

いさどん:
ところで、キッチンのどこから逃げたいのですか?

Nちゃん:
キッチンの・・・

いさどん:
キッチンスタッフのやじーのことですか?

Nちゃん:
やじーは大好きです(笑)!

いさどん:
でも、ついこの間まで、あなたはやじーのことが嫌だったんですよね。

Nちゃん:
嫌だったんですけど、いさどんに面談してもらって、私の心がおかしかったことがわかりました。

いさどん:
それで、やじーは良くなったということなら、他に何が嫌なのですか?

Nちゃん:
・・・・・・何が嫌なのか・・・

いさどん:
よくわからないのですか?

Nちゃん:
はい、気持ちだけ・・・

いさどん:
それは、自分の心の動きをしっかりと観ていないということです。
たとえば、気分が悪いとか不愉快だと感じたときに、その不愉快を発生させているのは何か、自分は何に反応しているのだろうと対象を観たとします。そうすると、その対象はどのような姿勢なのだろうか、そのことに対して自分はどのような感情を持っているのだろうか、と捉えたときに、自分を正さないといけない場合もあれば、相手を正さないといけない場合もあるのです。それを冷静に見つめて、相手に伝えるべきことは伝え、自分のことは自分で収めていく。それができないときには誰かのサポートを受けて、その判断を正しいところへ落として、不愉快の原因を解消していくことが大切なのです。

そこまで皆やらないかもしれませんが、Kくんがゴルフができなくなるというのも、ゴルフをやりたいのは何かストレスがあるから、ゴルフに行きたくなるのです。心の持ち方が健全であれば、エネルギーは綺麗に使えるし、無駄がないので、能力は沢山発揮できるようになります。

そのときに、Nちゃんは今何の目的でここで生活しているのかが明快でないといけないのです。それを今は練習しているわけですから、やじー以外のキッチンの何が問題なのかと一人一人他のメンバーを挙げていくと、のんちゃんが問題なのか、それともはるちゃんが問題なのか、というわけにはいかないわけです。Nちゃんは今、そういった自らの心の癖に取り組む為にここにいるのですよね。それから、そういったことをやれていないあなたが、子供たちと今までの生活で接していてあのような関係をつくっていたのですから、それは大変なことになっていたのですよ。それも含めてあなたをサポートできないKくんがいて、ああいった家庭ができていたわけですから、Nちゃんの心はなおさら改善されないということです。それを今、家族ごとまとめて修理中なのです。

そういった意味では、今KくんはNちゃんの話を聞いていてわかると思いますが、Nちゃんにはまだ未熟なところはあるとしても、こうやって自分のことを冷静に捉えられるようになってきています。これは過去にはなかったことです。それだけ進歩していたら、あなたはそれを喜ばしく思って、それでこそあなたたちが将来もう一度本来の生活をするときに、そういったベースのもとに子育てにしろ、家庭を築いていくべきだと考えるとしたら、良い方向に進んでいると思うのですが、それではダメですか(笑)?

Kくん:
ダメではないです(笑)。僕は長期的に見ていないというか・・・

いさどん:
そこが、今度はあなた自身の問題でもあるのです。

Kくん:
そうです。それは自分自身の問題です。

いさどん:
そのあなた自身の問題が、結局彼女と気持ちがわかりあえない、彼女の気持ちを理解できないことになって、「なぜ僕が普通に働いて、ちゃんと稼いできて、そして子供もいて家族があって、Nちゃんは一日を主婦として過ごすだけなのに、それができないのだろうか?」という気持ちがあなたの中にあると思います。では、何が問題なのかというと、そこの心の組み立て方が間違っていたら、どのような体制ができていたとしても、うまくいかないのです。だから、そのベースになる心の状態を今、組み立て直しているのですが、このようなことは精神科に行ってもなかなか治らないですよ。

Kくん:
そうですね。たぶん、彼女が以前ケア滞在でお世話になったときのような状況で生きていれば、自分はそんなことを想わないと思います。

いさどん:
彼女がもうちょっと重い状態でいたら、ということですね。

Kくん:
きっとそうだと思います。

いさどん:
ただ、以前の状態でももちろんそうかもしれませんが、彼女自身の状態が以前より良くなっているとしても、今度は子供との関係や他の問題が現れてくるので、全体の状況としては以前より軽いということではないと僕は観ています。それから、話がNちゃんのトラウマだけの問題ではないことにすでになっているものですから、問題としてはほっておけない状態だと思っていました。
しかし、Nちゃんのスタンスが変われば、今のように冷静に自分を見つめようとすることもできるのです。それが、家にいたら、自分を観て振り返ることはなかなかできません。ここのように軸がしっかりとしているところで生活していれば、彼女は自らの問題は自らの問題として捉えることができるようになるわけです。しかし、今彼女が家に帰ったとしても、Kくんがその軸になることは難しいのですから、逆にお互いにそういったものの捉え方を学びながら、力を合わせて話し合っていく場をつくっていくことが大切なのです。

一番簡単なのは、僕がそこに行って、お爺ちゃんとして暮らし出して、「これはこうだぞ、あれはああだぞ」と伝えれば問題ないのですが、そういうわけにはいかないでしょう(みんな:笑)?僕には僕の面白い生活がここにあるのですから(笑)。僕があなたたちのお爺さんとして、逆養子縁組・・・養子ではなく、養爺縁組をするとか、そういったことはどうですか(みんな:爆笑)。

Nちゃん:
大歓迎です(笑)!!

いさどん:
大歓迎はいいけれど(笑)。親が子供を養子縁組することはあっても、父親を養子縁組するようなことがあったら、面白い!「これは法律にありませんので、検討しますのでお待ちください。国のほうへも相談してみます」と言われたりして(笑)・・・やってみましょうか?

Nちゃん:
面白い!

いさどん:
そうやってご意見番がいたらいいんです。Kくんももう少し自分を磨かないといけませんよ。そのときに、あなたがさみしく感じるのもわかりますが、そうであるならば、Nちゃんが今ここに子供を連れて自らの心に取り組んでいて、子供たちもここで心磨きをしているわけですから、「僕も皆においていかれないように、ここへ来て自分も皆に歩調を合わせて学んでいこう」という心になるほうが、長い目で観たら大事だと思うのですが、どうですか?ストレスがたまるからとゴルフへ行っている場合ではない、と僕は思いますが。

Kくん:
そうですね。

いさどん:
だから、もっと頻繁にここに来たらいいですね、という提案をしたのです。ここに来さえすれば、僕がこのような話をして、あなたは「ああそうだ」と思い出すのですが、一人でいたらこのような話を思いつくこともないでしょう。

Kくん:
それは、自分でもそう思います。たぶん、このまま行ったらあまりにも皆と差ができすぎて、一緒に暮らせないだろう、と思っています。自分の程度の低さもすごく認識していて、ゴルフやおこづかいの話をするのも程度が低いと自分でも思うんです。

いさどん:
Nちゃんがそこまでなるかどうかは、彼女の意識の問題ですし、あなたももちろんそうですが、僕が考えているのは、これからの時代の人々はやはり地球規模でものを考えないといけないということです。あなたの家庭が今日一日何をするのか、それが日本中の家庭になって、世界中の家庭になって、それが未来の地球の環境をつくります。これから非常に厳しい時代が訪れますからね。そうすると、一軒一軒のひとりひとりがそれを考えないといけない時代がもう来ているのです。あなたたちはまだ若いので、30年後、40年後も生きていますよね。そのときに、どんなに大変な状況になっているかは、今データとして出ています。その為に、どのような精神で生きるべきなのかです。
僕はあと20年弱で旅立っていく契約になっているのですが、誰の魂も死ぬわけではありません。肉体があろうがなかろうが、地球に関わりながら生きていくのです。僕たちはその地球の未来のことを憂いて今このような生活をしているわけです。あなたたちは30年後、40年後、まだ地球上にいる可能性が高い。そのとき、あなたたちがお年寄りになっているとしても、あなたの子供たちはその厳しい環境の真っ只中にいて、あなたたちはどう家族を守っていくのかと考えると、そのときには家族単位の問題ではすまないことになっているのです。
今、そういった時代が来ているのですが、世の中の人たちはそういったことをあまりにも考えていません。そういった意味では、もっと広い視点で物事を考えたときに、「これが充実した人生なのだ」というこれからの時代にふさわしい生き方があると思うのです。僕はそれを押し付けるわけではありませんが、そういったことを出会った人に伝えながら、そういったことを考えて生きる人は立派な人だと捉えています。今、世の中の景気がどうのこうのと言っていますが、それは結局自らのエゴであったり、企業のエゴであったり、社会のエゴ、そして国家のエゴの結果なのです。それが地球環境を壊し、自分たちにも、それから自分たちの子孫にもたいへんな思いをさせるのですから、これからの人々はそういった広いスタンスでものを考えるべきだと思うのです。
・・・ついつい演説をしてしまった(みんな:笑)。

Kくんも、「そんなことを僕はなかなか考えられないし、難しい」と思ったとしても、仮にそうであるならば、そのような話を聞いて、それから自らの状態を観て、どちらが大切なのかと問われれば、それは一目瞭然だと思います。そうしたら、自分の考えがその程度ならば、もっと優れた考えに馴染んでいこうとするのが、より良い人生を生きる為の賢明な選択だと僕は思います。

Kくん:
わかります。

いさどん:
そこで、「わかるのだけど・・・」と言っているようなことでは女々しいだけのことで、そのうち子供から「お父さん、何をぐちゃぐちゃ言っているの?」と言われてしまいますよ。あの子たちは始めは抵抗しますが、すぐに大切なことを受け取ります。それより、親のNちゃんのほうが、キッチンがどうのこうのと言っていますが(Nちゃん:苦笑)、子供たちはスカッとしてここでの暮らしをエンジョイしていて、もう別人のように生活しています。かえって親のほうが面倒くさいものです。

僕は人の人生を僕の考えに巻き込もうとは思っていません。しかし、伝えないといけないことはある、と思っています。それは、全ての人間に、自らが何者で、そして自分がどう生きるかによってこの世界にどのような役割を果たしているのか、もしくは今の人間の在り方で進んでいったらこの世界にどのような影響を与えていくのかに気づいてもらいたいのです。それは、私があなたに何かをしてほしい、ということではないのです。それはひとりひとりがよく考えていくことなのです。

このように聞いていけば、大切な話だと思いませんか?僕は、Kくんが会社や取引先などでは出会えないような人です。僕は自分のことを歴史的な人物だと思っています。しかし、今の人々はそのことがわからないので、色々と言いますが、先を進みすぎているから人々には理解できないだけのことなのです。

この世界には人々がもっとイキイキとできる生き方があります。さらに、イキイキとした良い生き方が、良い死に方につながって、優れた魂として昇華し、次に役割として地球上に降りて、世の中に優れたものをもたらす道もあります。私たちの存在は生死を超えたものなのです。それが本当の生きる価値なのです。
そういった高い精神のもとに子育てをしたら、人にはその種があるのですから、そういったことを受けて優れた人として育っていきます。子供にもそれぞれに我がありますから抵抗するときはありますが、親が本当に大事を生きていたら、その大事の種が芽生えてくるのです。特に、ここで育った子供たちではなく、外で普通に育ってコンビニなどの食べ物に慣れている子供たちは、あの危険なものがおいしいものになってしまっています。しかし、子供だからこそ、そのことに対してどこかで違和感を感じていて、正しい食べ物と出会ったときにはすぐに正しいものに馴染めるようになっていくのです。逆に、そういったものばかり食べていると、育てにくく扱いにくい子供ができるようになっていきます。

どちらにしても、物事をそのように広く捉えないと、どんなに大切なことをやっていたとしても苦痛になることにもなるのです。Nちゃんは今、大切なことをしているのに、それをきちんとやっていないから、キッチンの作業が苦しくなるのですよ(みんな:笑)。
きちんとやっていないから、キッチンが苦しくなるのです!

Nちゃん:
もう2回目(笑)!

いさどん:
それで、キッチンできっちりやっていないから、外へ出ていって、チキンでも食べたいという心になるのです(笑)。

Nちゃん:
ハッハッハ!上手い(笑)!でも、本当に自分の心を流していました。

いさどん:
僕は毎回伝えていますが、あなたは強いくせに、結局自らをそうやって傷つけてダメにする要素があるのですから、そこは常に気を付けて振り返らないといけません。自分を傷つけて、さらに他人まで傷つけるのですから。

(Kくんに向かって)あなたはこんなふうに上手くNちゃんに伝えられないでしょう?

Kくん:
はい(苦笑)。

Nちゃん:
じゃあ、養爺にしないと(笑)!

いさどん:
養爺縁組という制度があるかどうか、市役所に行って聞いてごらん(笑)。戸籍係に行って、「養爺を迎えたいのですが」と言ったら、「判断ができませんので、裁判所に行ってください」と言われて、裁判所も「事例がありませんので、ちょっと国のほうに聞いてみます。最高裁まで行ってください」と言われるかもしれませんよ(笑)。

Nちゃん:
最高裁(笑)!

いさどん:
そこで、Kくんのもやもやを解消するには、どうしたらいいと思いますか?

Kくん:
どうしたらいいのでしょうね・・・どうしてもこの1ヶ月、ここに足が向かなくて・・・日帰りであればいつでも来られるのですが。

いさどん:
それで、どうしたらいいと思いますか?この間、Kくんが孤独を感じているという話を聞いたので、それはいけないから、一回Kくんを呼んで話をしようとNちゃんに言っていて、今回あなたがこちらに来たので、今話をしているのです。Nちゃんを修理する為の作業にとりかかっている延長として、あなたのことも考えているわけですが、心がほころびているからこちらに持ってきてほころびを直すということではないのです。あなたの自立した心の安定が大切なわけですから、まずは今あなたが心の中にあることを全て出したので、ではこれからどうしたらいいのかを話し合っているのです。

Kくん:
心の中にあるものは全て出しました。

いさどん:
出した結果、次へ向けてどうしたらいいと思いますか?

Kくん:
やるべきことは、もっと頻繁にこちらに通って、そういったことに触れていくことなのかなと思っています・・・

いさどん:
その後、「けど」と言いますか(笑)?

Kくん:
・・・

いさどん:
人間は、「けど」「でも」と言うから、僕は人間が嫌いなのです。人間以外のものは「けど」「でも」と言いません。

Kくん:
感情に振り回されていると思います。

いさどん:
あなたの人生なのですから、いかに曇りなく充実して生きるかという意味では、あなたはあなたで今考える必要があると思うのです。

Kくん:
そうですね。

いさどん:
本当は、僕が考えている方向に人が目覚めていけば、人間は地球に良い貢献ができるのです。それは僕の一番の大事業ですが、そこまでの意識を持たない人に僕は無理強いしませんし、まずは今の自分の人生を良くするところから順番に取り組んでいけばいいのです。そういった意味では、さきほどあなたが「僕はここに頻繁に通うべきですね」と言った後に、何が出てくるのですか?その後に「けど」「でも」が出てくるのか、それとも「そうします」ということなのか、どちらなのですか?

Kくん:
どうでしょうね・・・今はそう思っていますが、感情にコントロールされている気がします(苦笑)。

いさどん:
だから、自分の感情を自分でコントロールできる人と、自らの感情にコントロールされている人がいるのです。やはり、自らをコントロールする人でないと、賢明な人生は生きられません。未来の自分がどんな人であるのか、イメージできますか?

Kくん:
・・・あまりイメージできませんね。

いさどん:
それは、今を生きているということでもありますが、ただ時に流されているだけではダメですね。それは「人生を生きている」ということにはなりません。そして、「生かされている」わけでもないのです。ただ流されているということです。
そういう人も世の中にはいますが、僕は人生の価値を考えると、やはり人は「生きる」べきであり、生きるときにエゴで生きるのではなく、「時代とともに生きる」「時代の役割を果たしながら、大きな充実を得ながら生きていく」ことが大切だと思います。自らの中から湧き出てきた欲求を満たしながら生きていくと、欲求はどんどん膨らんでいきます。その膨らんだ欲求を満たすことが豊かさであり自由だと思って進んでいくと、今のような地球と人間の関係ができるわけです。今のような人間同士の関係ができるわけです。そして、今のような国家と国家の関係ができ、今のような人間と自然界の関係ができるのです。人間がそんなことをやり続けていったら、地球にとって癌ということになるのです。

・・・また、講演してしまった(笑)。

Nちゃん:
パチッパチッパチッ(大拍手)!

いさどん:
これは大切なことです。しかし、この後に「けど」「でも」と言う人がいるから、僕は人間が嫌いなのです。だから、朝起きたときに「また今日も生きないといけない。また分からず屋たちに伝えないといけない」と思うのです。僕のこの悩みがわかりますか?「仕方がない」と思いながら、人間たちに付き合って生きていますが。僕はこういった役割のもとに生まれてきたわけですからね。
そこでNちゃんには、「もっと意識の高い自分でありたい」心がどこかにありますよね?

Nちゃん:
あります。

いさどん:
「いさ爺のような生き方がしたい」と思っていますよね?そのわりにあなたは、自分の足を鎖につないで歩いているようなものです。本来、人間は食べていければいいのです。生きられればいいのです。しかし、貧しくてもいけません。貧しいと、蓄積しようとするのです。だから、心が貧しくてはいけないのです。
生きること、つまり食う・寝る・生きる、そういった生活に不安がない状態になったときに、人は「自分が何者であるのか」を知る旅に専念できるのです。それが優れた人間をつくる始まりになります。ですから、お金に追われていたり、ましてや自らの欲の心にコントロールされているようなことでは、優れた人生は生きられません。今の人間たちの姿勢は、まず地球が喜びませんし、なによりも自らの価値が高まりません。

Kくん、どうしたらあなたはご機嫌に生きていけますか?良く考えてみてください。

Kくん:
はい。

いさどん:
僕から出てきた話であっても、人間として生きることの大切さを考えたときには、あなたがそのことを大事だと思えば、それはあなたの考えになります。しかし、それをどうでもいいと思えば、ゴルフのほうが大事だということになるのです。Nちゃんもそうです。
あなたが本当に自らをバランスの良い人にして、生きていることが本当に社会の為になって誇れるあなたになったときに、子供たちがあなたを見て「そういうふうに生きたい」と思い、あなたの人生は豊かなものになるのです。そのためには自己コントロールが必要です。そこで物事に囚われて、「けど」「でも」と言っていては豊かになりません。しかし、それはそう思ったときに思えることであって、「やっぱり、でも・・・」と言っているようなら、僕は僕の考えを押し付けるつもりはありませんが、あなたの中には確実にそういった真理を求める心があるのです。

(ちょっと英語を話しているような口調で)ミナサン、ドウシマスカ?いずれ僕も外国に行くことになると思うので、今英語の勉強をしているのです。(英語風に)ソレデ、ドウシマスカ、ミナサン(みんな:笑)?コレカラハ言行一致デ、イキテイキマショウネ(みんな:苦笑)?大分英語が上手くなったでしょう?発音はバッチリですね(笑)!

Nちゃん:
私はここでしっかり自分を上げていきたいので、流さないで出しながら、そして皆に見てもらいながら、やっていきたいです。

いさどん:
今、あなたはすごく成果が出ていますよ。1ヶ月で子供たちも大変扱いやすくなりましたし、後はNちゃんとKくんをお互いに扱いやすくするだけですよ!

Nちゃん:
ハッハッハ!

Kくん:
そうですね(笑)。

いさどん:
残っているのは、親のほうなのです。

Kくん:
自分の問題だと思っています。彼女はここにいれば大丈夫だと思いますから。実際、「どうでもいいや」と思う自分もいて、ぐちゃぐちゃなんですよ。

いさどん:
それは自分というものを確立できていないということです。確立できていないのであれば、それをどうでもいいとほっておいたら腐りますよ。しかし、それをどう整理して、優れたものに使えるようにするのかといったら、そこは逃げないで取り組んでいくことです。自分でできなければ、「自分が何を目指しているのか」というもっと先の目標を見て、そこにどう進めばいいのかわからなければ、誰かに仕立ててもらっても、出来上がったときには自らの人格になるのです。それが、自らに囚われがあると、「僕流にやりたい」となって、かえってできないことにもなります。自分に道がない人のほうが、優れたものをパッと自分のほうに引き寄せられるのですから、そのほうがいいのです。だから、方法は何でもいいのです。「何が最終目標であり、何を得るか」をしっかりと見据えていけば、それでいいのです。終わりよければ全て良し、ですよ。

少し話が飛躍するかもしれませんが、Kくんは半導体製造の仕事が忙しいと言っていましたね。それは今の時代には重要な仕事かもしれませんが、それがどんどん浸透していくと、人間の能力を奪っていくことにもなるのです。そういった人工のものが世の中に浸透して便利になればなるほど、本来人間が持っていたコミュニケーション力を奪っていきます。しかし、だからといってそれを否定するのではなく、その優れた能力を人々がコントロールして使い切れる人になったときに、人間の高い能力やテクノロジーは人類や地球の健全化、そして個人の質を高めるためのものになるのです。ですから、テクノロジーに使われるのではなく、それを正しく使いこなせる人間にならないといけません。

そして、それと同じように、自らの心についても同じことが言えるのです。自らの心をしっかりと認識し、その特徴をつかんで、必要なときに必要なように使い分けられる人になったら、それはその人の個性として人生に活かすことができます。しかし、それをせずに、ただ湧き出てくる感情や欲のままに生きていたら、それは癖となって出てくることになって、害ばかり起きるのです。だから、自分を知ることが必要なのです。それで、自らを知って、魂磨きをすることで自己コントロールすることが、これから人間にとって最も大切なことになるのです。

・・・また、演説してしまった(笑)。

Nちゃん:
パチッパチッパチッ(拍手)!

いさどん:
先日、宝くじの話(詳しくは、いさどんブログ『覚悟しております』をお読みください)をしたでしょう?こういった気付きに目覚めることは、宝くじに当たるよりも貴重なことですよ。今世界にこのようなことを考えて、地球のことを想って生活している人々が一体どれだけいるのでしょうか。あなたは今そういった場に出会えました。ましてや、あなたのように自分がそういった生き方をしようとする人は本当に貴重な存在ですよ。出会えたこともそうですが、自分がそこに共鳴し、これからそういった生き方をすることは、本当にありがたいことなのです。それが「価値」というものだと思うのですが、いかがですか?

Nちゃん:
すごいところに出会ったと思っています。一度離れたのに、またここに来ることになったのも御縁をいただいたからだと思っています。

いさどん:
それだけあなたがこの道に縁が深いということです。血縁というのは、法律上切っても切れないものですし、DNA上の情報としても、切っても切れないものです。しかし、さらに広い意味で捉えると、私たちは人類という起源が同じものとして、切っても切れないものなのです。もっと広く言えば、私たちは生命として、大地から切っても切れないものなのです。これは水とも、太陽とも、風とも、空気とも、宇宙とも、切っても切れないものです。みんな同じものなのですから。
だいたい、人間が宇宙で言ったら点にもならないような小さな地球の中でこのように繁栄しているのに、自らそのことが全くわからないこと自体がおかしな話なのです。僕が話していることは当たり前の話ですが、それがわからない人間たちに伝えようと思って今回地球に降りてきたのです。

Nちゃん:
私もここに出会っていなかったら、全く知らないまま人生が終わっていたと思います。

いさどん:
しかし、それは事実なのです。Kくんは、昨日ここに来ましたね。それはこの場所にここがあるからです。しかし、あなたは昨日ここに来たつもりですが、昨日から24時間経った今、昨日のここと今日のこの場所は違うのですよ。すでに170万2080㎞も離れているのです。地球は秒速30㎞で移動しながら太陽と共にいるのですから。それが宇宙の事実です。今、目の前にいるこの場所で手をパチッと合わせると、音が出ましたが、この空間は今は地球上ですが、1時間12分すると宇宙空間に移動してしまうのです。そうやって宇宙は常に移動しているのです。
僕たちがこうやって話しているうちに、太陽がどんどん上に上がっていきますよね。そして、そのうち西へ降りていきます。あれは実際には降りていっているのではなく、地球がマッハ1.3でまわっているのです。こういったことも全て事実なのです。そして、私たちは二度と同じところへ行くことはありません。自分自身ですら、二度と同じ自分には出会えないのです。つまり、二度と同じ時間はなく、二度と同じ自分はいないということです。

そうしたら、自らも常に変わっていかないといけないのです。生命は変わり続けることに意味があるのですから。そして、進化するということは、古い自分をどんどん捨てて、新しい自分になるということです。古い自分に捉えれていることは執着していることであり、執着していたら新しい自分にはなれませんし、そこには進化も成長もありません。成長しないところに、希望は生まれないのです。成長しないから、古いものに執着するのです。そして、執着するから、成長しないのです。それを繰り返しているのです。生きるということは、進化・成長することによって、宇宙の構造を表現しているのです。そうやって、私たちも生きることで宇宙を創っているのです。

・・・また、いさどんワールドを話してしまった(笑)。

Nちゃん:
その話をこの間、面談でしてもらったので、やっぱり今もすでに未来というか・・・

いさどん:
瞬間に未来に行っているのです。ということは、未来は何なのかといったら、どんどん近づいてくるものでもあるし、過去はどんどん離れて行って、あるのは今の連続だけです。しかし、この今は止めることができないのですから、特定できないものです。そういった世界の中にいて、人生という旅を自由自在に楽しんでいくことが本当の姿なのです。

Nちゃん:
私は過去にかなり執着していました(笑)。

いさどん:
良い執着ならいいのですが、恨み・つらみの執着だと人生を楽しめませんね。

Nちゃん:
だから、今はすごく楽になりました。今でも執着が出ることはありますが、それは過去だと捉えられるようになったので、それだけでもすごく楽です!

いさどん:
そこをコントロールできるようになったということですね。あなたたちの家庭でこれまで生産されてきたものは、ここで生産されるものとはあまりにも違うものでした。そして、あなたたちの家が我が家かといったら、実は地球が私たちの共通の我が家なのです。ですから、ここを我が家だと思えば、いつでもあなたたちの家になるのです。さらに、僕は地球が家だとは思っていないのです。僕にとっては宇宙が我が家ですからね(笑)。今はこの小さな器に入ってわからず屋の人間に伝えるのが少し面倒くさくなってきましたが、僕の想念の中にはもっと広い世界はありますし、誰でももっと広い心になれるのです。

Kくん、少しは気持ちのガス抜きにはなりましたか?

Kくん:
そうですね(笑)、もう少しここに通うようにします。自分の心が安定してやれるのが一番ですからね。今はやっぱり自分が安定していなくて、振り回されているので辛いです。

いさどん:
これは何をやっているのか、どんな目標があってやっているのかという客観的なスタンスを持ったら、目の前のことに囚われる必要はないです。それがないと、目の前のことに振り回されて、不必要なことにエネルギーを使うようになります。

Kくん:
仕事でも、今は結構冷静に考えられなくて、仕事場で出すことはないのですが、自分の中で葛藤があります。

いさどん:
それは、そういったことばかりやっていると、そのうち自分が壊れたりしますよ。

Kくん:
壊れますね。

いさどん:
そうすると、場合によっては誰かのせいにしたくなるものですが、それは自分が未熟だからそうなるのです。
「人生は自分を知る旅である。」ですから、そうやって負荷をかけてもらって自らの実態を知りながら、自分で自分の修理をしていくのです。

Kくん:
ここ1ヶ月生活していて、この生活が過ぎると自分が壊れると思いました。

いさどん:
そう、でもありがたいことに、1ヶ月でこうやって自らを振り返って見つめ直し、スタートラインに立てたと思ったらよかったと思いませんか?

Kくん:
そう思います。今までは自分の中にそういった葛藤がなかったのです。わりと安定してやれてこられたと自分では思っていたのですが。

いさどん:
それは良いことですが、もし人生が成長する為にあるとしたら、あなたの場合は低空で安定していたことになります。低空で安定すると、人生の目的は必ず変化・変容・変態することになりますので、その低空安定には負荷がかかるようになっているのです。それは神様の意志であり、この宇宙の法則です。ですから、時が来たということですね。
本当は、この世界の法則に委ねて、自らを法則とともに生かすとしたら、人は本当の充実を得ることができます。そうすると、無駄なエネルギーを使わなくなって、地球も良くなります。ところが、人間がそのことをよくわかっていないので、どんどん地球環境に負荷をかけ、それが人間だけではなく全ての生命に、そして地球自身に影響を与えているのです。それは天に向かって唾を吐いた状態です。それが今の人間の成せる技です。
しかし、それをKくんが1ヶ月かけて少しストレスがたまり負荷がかかりましたが、学び、その意識を超えた新しい高い意識のあなたがいるとしたら、それは全てにとって良かったことなのです。ですから、今、地球がこのような状態でいることも、それを学んで次につなげれば、人類の本来の役割として地球に貢献していけるのですが、人間は学ばなければ単なる地球にとって癌細胞です。あなたの言う、病気になるのと同じことなのです。

これからKくんは、無理のないところでここに通ってきて、Nちゃんの取り組んでいる姿を見たり、子供たちの変わっていく姿を見たり、ここの人たちの生活を見て、自らをそこに沿わせていけば、また安定できると思いますよ。そして、今自分がやるべきことにつなげていくといいでしょう。

(Nちゃんに向かって)きっちんとキッチンで仕事してください。

Nちゃん:
はい(笑)。

いさどん:
一つの選択肢として、Nちゃんは外勤してもいいのですよ。それが逃げではなく、前向きに次のステージに行くということならば、それでもいいのです。しかし、とりあえずキッチンで変な空気を醸し出すようなもやもやしたものがあるのならば、とりあえずそれは解消してから次のステージへ行くほうがいいですね。気持ちが良いからキッチンで作業していてもいい、ということであれば、そこで続ければいいでしょう。そもそもお金というものは、健全なる精神のところに健全なるお金が湧いてくるものなのです。不健全な精神のもとにはその人間が勝ち取らないと、得られないようになっているのです。そして、不健全な精神のもとに無駄なお金を使って、お金はどんどんザルのように減っていくのです。それは貧乏神の仕組みですからね。ところが、健全に生きていくと自然に生きられるように与えられるのです。それが自然ということです。

Nちゃん:
キッチンできっちんとやってから、次へ行きます(笑)。

いさどん:
そうしてください。
Kくんは家にいるような感じでここで過ごして、また明日からのあなたのスタンスに立ってやってみてください。今というものに囚われない生き方がいいですね。流れのままに生きていったら、人にとってそれが本当の自由ですから。

Nちゃん:
最後にひとつ、質問があります。

いさどん:
どうぞ。

Nちゃん:
キッチンで作業をしていて思ったことは、私はかなりその場の雰囲気を壊していることを感じていて、それで「自分は悪魔だ」と思ってしまうのです。

いさどん:
そうやって、また自分を責めているのですね。悪魔というのは、魔法使いみたいなものですから、天使に変身できるんですよ。自らに囚われて、あくまでも悪魔でいたいなら(みんな:苦笑)、それはそれでいいですが、いつでも天使に変身できます。それは裏返しの心ですから、どちらの側を採用するのかというだけです。人間の中にジギルとハイドがあるように、どちらを採用するかだけなのです。
それをコントロールできなくて、場所をわきまえずに悪魔が出てくる状態でいると、統合失調症のようなことになります。自分の中にある精神がコントロールされず、統合されていない状態です。たとえば、不愉快な心が出てきたら、「それはこういう状態ですよ」と自らに言い聞かせてあげられることが、自己コントロールができて、人格が統合されている状態です。Nちゃんの場合、今の状態が進んでいくと、自らの中で心の分裂が起きて統合失調症になります。自らを攻撃する心が自分から切り離されて、語りかけてくるようになってくるのです。

自分が悪魔だと思えば、逆を行けばいいのです。それは両刃の剣で、僕はあなたが敏感で鋭いからこそ、大事なところで使いものにしたいと思っています。僕はNちゃんという包丁をどうやって使っていこうかと考えていますが、あなたにはその自覚がなく、自分で自分を下手に使おうとするのです。ですから、そういうものは「いさどん、使ってください」と(笑)、使い切る人に使ってもらえばいいのです。そして、僕を養爺にすればいいのです(みんな:笑)。

Kくんでは使い切れないでしょう(笑)?

Kくん:
逆に切られます(笑)。

いさどん:
それこそ使おうと思ったら、返り討ちにあってしまうでしょう(みんな:笑)。僕にはそれができますから、良い所に出会いましたね。

Nちゃん:
お願いします!

いさどん:
でも、いずれは自分で自己コントロールできる人にならないといけませんよ。そういった意味では、未来は楽しみです。

「人生は自分を知る旅である。」
そして、学び、成長する為にあるのです。
 
 


目覚めるとは?

いさどんブログ「この世界に、マインドコントロールを受けてない人っているの?」の中に出てくるいさどんと天の会話を、いさどんが次のように解説しました。
 

「こういった世界に誰がしたのですか?・・・あなたですね。」
「わかるか?」と返事が返ってきた。
「わかるか?」「やっとわかった?」という心が降りてきた時に、それは軽いノリで伝えられているけど、「それが目覚めるということなのですね。私はあなたの真意を理解しました。」ということになる。

 

これは、「この複雑な構造を理解させるために、人間の世界に複雑な矛盾を沢山配置したのかがわかるか?」と天が伝えているのです。それはあまりにも複雑なので意地悪をされているみたいですが、よく考えてみると、それは人間が招いたことなのです。つまり、人間にとって自業自得だということです。天は、「あなたの持っているカルマがあなたにその現象を与えたのですから、自らの行動がどんなことをもたらすのかをこの仕組みによってあなたに伝えているのです。それがわかりますか?そのことを理解したら、あなたは自らや他者に優しい世界を生きるでしょう。そして、そういったことを人々に伝えるようになるでしょう。」と伝えているのです。

そういったことがわかるようになると、「それが目覚めるということなのですね。私はあなたの真意をやっと理解しました」ということになるのです。

そこで、「今まで不満を言ってごめんね」と僕がフレンドリーに天に向かって言うと、天からは「いいのですよ。そこから観ているのだからそれは仕方のないことです。しかし、始まりはこういうことだったのです」と返ってくるのです。

世界に問題事が沢山あって大変だと思うと、人は意地悪をされているように思うものです。僕は、人が意地悪をしているとは思いませんでしたが、「この仕組みを創っている天が意地悪をしているのだろうか」と一瞬考えてしまいました。しかし、そこをよく観ていくと、それは自業自得だったことがわかるのです。そして、その仕組みがわかればわかるほど、自らの行いが自らに返ってきていることがわかるのです。

そうやって、「自らの愚かしさがわかること」を「目覚める」と言います。だから、自らを手放す方へ進めばいいのです。

元々、天の意志を外れて我々の存在はありえないのです。ということは、我々は天のマリオネットであり、自ら働くことは我々に与えられていないのに、それが与えられているかのように想ってしまっているのです。

逆に捉えると、神様はそれをゲームのように我々に仕掛けているのです。
「気が付くかな?どうかな?私とあなたは同じものなのに、別々と捉えているのだろうが、そのことにいつ気が付くのだろうか?」

それで、人間があまりにも気付かないと、天もいらだってきます(笑)。それに対して、僕が「あなたは心が狭いですね。逆にゲームを仕掛けたのですよ」と伝えると、「やられてしまいましたな(笑)」と返ってくるのです。

だから、常に自らを自覚しながら、天と共に歩むことが続いているのです。
 
 


この世界に、マインドコントロールを受けてない人っているの?

農と性について語った「天然の意識で生きる」、それを受けて語った「コノハナ人としての新たな時代の生き方」を大人ミーティングでシェアした翌日の、いさどんとともこの会話です。
木の花ファミリーはマインドコントロールされている、という人がいますが、はてさて、それではマインドコントロールとは、いったい何なのか?!
 
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 
いさどん:
毎日こうやって同じような話を、みんなが似たような価値観の中で語り続けていくと、これはマインドコントロールということになるのかね?

ともこ:
そうだね、マインドコントロールと言ってもいいよね(笑)。

いさどん:
これだけ価値観を共有しようとする場所にいたらね。

db6f65c6ともこ:
マインドコントロールって何だろうね?

いさどん:
たとえば、毎日安倍総理の話が出てきて、「経済を活性させましょう!」と言われ続けたら、それもある意味マインドコントロールだよ。

ともこ:
でも、かかるマインドコントロールとかからないマインドコントロールがあるよ。私は毎日安倍総理の話を聞いても、たぶんそのマインドコントロールにはかからない。

いさどん:
それは興味がそこに行かないからだね。だから、マインドコントロールは何かと考えていくと、確かに今ここがやっていることは完璧なマインドコントロールをしようとしていることにもなる。しかし、そこに強制しようとかマインドコントロールしようという意図は働いていない。

ともこ:
働いていないね。

いさどん:
結果として、これは強烈なマインドコントロールになるとは思うけど、たとえばここで語られていることに興味がない人がいるとする。それで、ここで毎日その話を聞いていると、「やっぱりそうだよ!」と考えるようになるのだろうか?

ともこ:
そうなるかな・・・?

いさどん:
たとえば障害者支援センターの紹介でここに来たAちゃんや長期滞在者のBちゃんのような人は、ここの生き方に共鳴しているわけではないよね。では、あの人たちの中にそういった感情が強くなっていくのだろうか?

ともこ:
感情というのはわからないけど、生活様式というか、人のために動くというふうにはなっていってるよね。

いさどん:
たとえば、木の花に対するバッシングの中には「土日の休みもなく働かされる」と書いてあったけど、誰が働かせているのか?ここにはそういった人はいないでしょ。例えば、食べることを休むことはないのだし、生きることも休むことはない。それは生活するということで、毎日あり続けることだよ。そしてここでは、働くことも生活をしているだけなのだから、毎日あり続けて当然のことじゃない?

ともこ:
うん。別に休みがほしいって感覚はないね。疲れたらその時には休むんだし。

いさどん:
でも、生活することが働くこと、という考え方が定着していない今の社会では、生活の中で休むことと働くことが別になっている。それはひどいマインドコントロールだよ。人間以外どころか、人間自身も生活すること自体を絶対休まないのにね。
我々は、生活することと働くことを区別していない。しかし、一般社会では生活することと働くことを別にしている。働くことは仕事だと考えているけれど、本来働くことは生活することなんだよ。

そこで、視点を広く持って、人間と地球の関係について話すと、「そのような生活に関係のないことを言ってマインドコントロールする!」というようなニュアンスの反応があるを感じるのだけど、今の地球の現状を考えたら、国を挙げてそういったことを考えないといけない時が来ているんだよ。それを実践して生活していることに対して、マインドコントロールだと言われるんだよ。

ともこ:
「宇宙なんておかしなことを言ってマインドコントロールして!」ということだよね(笑)。

いさどん:
宇宙の話は、事実だからね。昔、人間が空を観て考えていた想像とは違って、今はNASAのデータに基づいて考えているわけだから、事実なわけだよ。

ともこ:
事実だよ。だいたい、マインドコントロールを受けていない人は世の中にいないよね?

いさどん:
マインドコントロールがない世界はない、ということだよ。そうすると、さっきともちゃんが「私は安倍総理の話を聞いてもそこに興味が湧かない」と言ったけれど、そこに興味が湧く者が集まって、その意識をお互いに刺激し合いながら維持している世界はマインドコントロールの世界だよ。

今の人間は変だよ!人間社会のやってきたことに限界が来ているのだから、そこで新しい扉を開けないといけない時に、いつまでたっても開けようとしない。それは、何か強烈なマインドコントロールがあって取れない状態だよ。
逆に、そのマインドコントロールを解こうとすることを、我々はやっている。今の医療にしろ、経済システムにしろ、教育にしろ、福祉にしろ、どれを取っても本当に矛盾だらけでしょ。

ともこ:
性もそうだよね。

いさどん:
そう。それを「あそこはマインドコントロールしているのだ!」と言われてもね。
僕はどう考えても、実体としては、マインドコントロールをしていると思うんだよ。しかし、そのマインドコントロールは、ものの捉え方を変えて、新たな視点を持っていこう、そして単なるマインドコントロールという心の状態だけではなく、それを生活まで反映させよう、という“超マインドコントロール”をしていて、それは別のマインドコントロールを解こうとする目的の元にやっているわけだよ。

ともこ:
それは視点を広くするマインドコントロールだよね。今、自分のことだけを考えて生きている人たちが、もっと自分の思考範囲を広くするマインドコントロールだと思う。

いさな(0歳)
いさな(0歳)

いさどん:
(いさなに向かって)素晴らしい子!
なんて傑作な子なの!

いさな:
わあ!

ともこ:
いさなは傑作で生まれてきて、毎日こういう話を聞いて育つんだね。

いさどん:
そう、毎日与えられる環境がその人の人柄を引き出してくる。色々な人柄がその人の中には内在されていて、魂の約束としてどういった人格として生きていくのかを人間は設定してきている。だから、人格の可能性は全てあって、その設定にふさわしい環境を与えられるところに降りてきているんだよ。
だから、この人は毎日、この宇宙的な話や視点を広げる客観性とか、今まで人類が持っていなかった領域のことばかりを聞いて育っているんだよ。

ともこ:
それが日常会話だものね。

いさどん:
いきなり朝からそれでスタートするのだから(笑)。それで、まわりには血縁を超えた人々の暮らしがある。

ともこ:
そう考えると、マインドコントロールって何だろうね?いさなは自らその環境を選んで生まれてきているでしょ?

p1130331いさどん:
例えば、マインドコントロールについて書かれた本を見ると、マインドコントロールは悪いものだと書かれているものが多いと思わない?しかし、マインドコントロールは日常の中に当たり前にあって、「この世界は全てマインドコントロールですよ」という意図で書かれているものはない気がするんだよ。
マインドコントロールというと悪いことであり、オウム真理教の「オウム」と聞いただけで悪いことにしてしまっている。しかし、「オウム」とは本来、宇宙根源の響きのことだよ。

いさな:
イェイイェイ!

いさどん:
なぜ、今日このような話をしたのかというと、ここ何日かのことを想い返してみて、僕はみんなをマインドコントロールしてきたと思うんだよ。あるテーマに向かって、毎日色々な投げかけをしながら深堀をしているでしょ。
昨日読まれた文章を聞いている時に、なぜあのような長い文章になるのかと思っていた。一通り体系づけて話していくと、ああなってしまうんだよ。あれをみんなに聞いてもらって、みんなからもフィードバックをもらいながら、一段落ずつ深めていく必要があると思う。最初は感覚的に受け取ればいい。しかし、感覚的に受け取って「そうだ」と信じる心が出来た後に、一段落ずつ分析していくと、全体像に対してひとつひとつの部品に魂が入っていって、それが機能するようになる。
それをやらないとその投げかけが生きないと思ったときに、それはすごいマインドコントロールだと思った。しかし、それは絶対にやるべきことだと思った。今の社会のマインドコントロールが進んでいったら、今の世の中を観て「変だ」と感じないようになってしまう。ここでやっているのは、社会にマインドコントロールされている者をそれから解き放って、次の時代に必要なマインドコントロールをしているんだよ。

昔、マインドコントロールの最たるものは統一教会だと騒がれていて、そのマインドコントロールを解くのにキリスト教の牧師さんがそれを引き受けてやっていたんだよ。それで、その牧師さんが何を伝えたのかといったら、「普通の生活に戻りなさい。当たり前の生活をしなさい」と伝えていた。その牧師さんは自分たちの正統とするキリスト教の神様を信じ込ませたいわけだよ。それっておかしいでしょ?

ともこ:
ここのことをマインドコントロールだと言う人は、マインドコントロールは自分で考えることをなくさせてしまう、というイメージを持っていて、それでここをマインドコントロールだと批判するんだよね。

いさどん:
ここでは「自分で考えなさい」と伝えているんだけどね。

ともこ:
そうなんだよ!楽して答えをもらおうと思っても、絶対に教えてもらえないよ(笑)。でも同時に、昨日の天然農法の話にもあったように、「自分」というものの考えがあると天とつながれないわけでしょ。

いさどん:
そうだよね、「自分で考えなさい」と伝えながら、「自分を捨てなさい」と伝えている。それを外から見て、「人に考えなくさせるからこれはマインドコントロールだ」と言う人もいるんだけど、自我が勝ってしまったら天然の意志が感じられなくなってしまうのだから、自我を打ち払って天に耳を傾けなさいという話なんだよ。
マインドコントロールについて考えていくと、何がなんだかわからなくなるね(笑)。

ともこ:
わけがわからなくなるね!

いさどん:
人間はおかしな生き物だよ。だいたい、マインドコントロールという言葉を気楽に使っていること自体、おかしいね。

ともこ:
おかしいよ。ここがマインドコントロールをしているとして、その行為の元になっている心がどういうものかということは全く考えられてないし、その結果がどうなっているのかも全く観られていない。

いさどん:
部分的に区切って、「あそこは特別な考えを押し付けている」と捉えているけど、その物語を全て紐解いて観ているのかといったら、観ていないんだよ。

ともこ:
ここをマインドコントロールだと批判する人たちは、これをやり続けた先にどういう世界ができるのかを予測しているのかな?たとえば、いさどんの言いなりの世界ができるとか。

いさどん:
それは素晴らしい世界だよ!

ともこ:
そうなんだけど、それをネガティブに予測しているのかな?

いさどん:
だから、僕の言いなりの奴隷のような世界ができると思っているんだよ。

ともこ:
やっぱり、観察が足りないね。実際には、そうではないからね。

いさどん:
そう。あまりにも一方的に、それもネガティブで感情的な捉え方で結論を安易に出している状態だからね。

ともこ:
結局、マインドコントロールってよくわからないね。

いさどん:
わからないのに、安易に確信を持ってその言葉を使っている。

ともこ:
確信を持っているね。

いさどん:
それは、とてもあいまいな状態で確信を持っている。ものを観察したり特定するときに、前もって結論を決めてしまってからものを見ているので、そのような状態になるんだよ。

ともこ:
自分の結論に合わせてものを見ているんだよね。

いさどん:
だから、それはものを観ていないことになる。

ともこ:
それは自分の中にあるものを観ているんだね。ものを観るときに不安や恐怖から来る決めつけがベースになっているよね。

いさどん:
そう。マインドコントロールを分析していったら、そこらじゅうがマインドコントロールだらけであって、そうすると、それをマインドコントロールと呼んでいいのかという話だよ。情報をもらって認識していくこと自体が、マインドコントロールだからね。

ともこ:
カタカムナのうたいの奏上も、マインドコントロールに観えるんだろうね。

いさどん:
あれは、マインドコントロールを解いていくためにあるんだよ。結局、現象界に現れたものは全てギャップからできているから、マインドコントロールされていると言える。そこに自らという特定ができて、対象を計っていくわけだ。
その位置が変われば価値観も変わるのに、そのこと自体も現象界のギャップだから、自らを特定して何かを観たらその特定のマインドコントロールにかかる。そういった特定が沢山あって、そのネットワークがこの世界の多様性だということすら、全てマインドコントロールなわけだよ。ギャップによって現象界ができているのだから、現象界は全てマインドコントロールだということだよ。

それを全てなしにして、ギャップが起きる前の状態に戻していくことをやっているのがカタカムナ奏上なのだから、それは究極のマインドコントロールを解く作業をしているんだよ。しかし、その世界に安易に出会ったら、「これはマインドコントロールだ!」とアレルギー的に反応する人もいるだろう。それは実際にその本質を観ていない状態だよ。

ともこ:
よっぽど自分で考えていたいんだろうね。自分の考えをなしにすることが、人間にはできない。

いさどん:
それを恐怖に感じる人間が、自分がなくなることを恐れて何かの情報を得ることを「植えつけられる」とネガティブに捉えたときに、「マインドコントロールされているんじゃないか?」という発想に膨らんでいく。情報をどんどん取り入れて自らを拡大していくことによって自分自身の特定をなくしていくことは、マインドコントロールから自らを外していく作業なのに、それをマインドコントロールされていると感じるんだよ。だから、全く正反対の受け取り方になってしまう。

ともこ:
やっぱり観察がないね。そうやって自分で考えようとして創ってきたのが今の社会でしょ。問題だらけの結果が現実に現れてきているのに、まだ自分の考えでやれると思っているんだよね。

いさどん:
宇宙を人間にとって都合の良いように運営できると考えているんだよ。我々は宇宙から生み出されたものだから、宇宙に従ってこそ、本来の姿になる。なんだか、馬鹿馬鹿しくなってきたね。人間と付き合っていて時々嫌になるのはそこなんだよ。当たり前に考えて当たり前のことを言っているだけの話なのに、そんな当たり前の事が特別になってしまっている世界だね。

ともこ:
そうだね。宇宙の話も当たり前なのに。

いさどん:
僕からしたら、宇宙の話でも何でも、道理に沿った当たり前の話だよ。それなのに、変わった人ということになる。

ともこ:
宇宙の話をしていると非現実的な変わった人で、電子マネーとか株とか経済のバーチャルな話をしていることの方がリアルな現実なんだよ。

いさどん:
そう。電子マネーどころか、お金に追われて毎日生活している人がいる。この間も福祉施設のコンサルタントという人が来ていたけど、なにしろ頭の中はお金のことだけで、福祉業界でいかにお金を稼ぐかということばかり考えている。彼を観て、「あなたは頭が狂っている」と僕は思うけれど、世の中にはそういったことが常識の人が沢山いるんだよ。

ともこ:
すごいマインドコントロールだね。

いさどん:
そう。ひどい話で、僕は話を聞いていて嫌になった。お年寄りが老いていく福祉の世界すら、そういった金儲けのネタとしか考えていない。それなのに、それが正常ということになっているんだよ。

ともこ:
そこに本人は疑問を持たないんだね。見事なマインドコントロールなのにね。

いさどん:
たとえば、人が鬱病になったり引きこもったりすることも全て、思いこみの中から生まれてくる。だから、それを解き放ってやれば病気はすぐ治る。ただその思い込みが強いから病気の状態にいるだけだよ。
それを解明して、病気の状態から解放するメカニズムはここに既にできている。だから、それに乗るか乗らないかであって、それに乗るということは病気から解放されるマインドコントロールだということだ。

ともこ:
そう。病気もマインドコントロールだね。自分にマインドコントロールをかけている。

いさどん:
そうだよ。それと、お酒がないと生きて行けない状態もマインドコントロールだよ。生活習慣病もそうだけど、当たり前に毎日その常識から離れられないのがマインドコントロールということになる。だから、そこから解き放ってやれば健全になる。それはどこに解き放つのかと言うと、宇宙の法則、自然界の循環の法則に解き放つと、人間の体は自然の生態系の法則と同じになって循環して健全になっていく。
しかし、自然自体が歪んでいるということが最近になってわかってきた。自然はこの世界の美しい調和の歪みによるネットワークで成り立っているんだよ。

人は、自分が現在持っているものを否定されるのが嫌なんだよ。それは、自分に執着しているから。
僕は一つだけ気になることがある。それは、一昨日、農と性の話があって、昨日それをもう一度深めた時に、農の話についてこうちゃんがコメントをした。その時に、もともとの有機農業や自然農法の癖が出ていて、肥料をやって採ろうとする考えが残っているわけだよ。岡田茂吉(自然農法の創始者)は肥料を入れることは毒であると言っている。特に、畜糞とか人間の糞のような堆肥は毒であると言っている。しかし、そんなことを言っても現実には作物ができないから、自然農法をしてきた人たちは、肥料を使い続けて科学しながら解明してきたのだけれど、画期的な答えはまだ出せていない。

そこから、我々は今、これがなぜ限界に来ているのかを気付き出して、天然農法へと段階的に移行している。ということは、やはり毒を使ってからそれを正常にする、ということをしていてはいけないんだよ。毒は始めから使わないで正常化する作業をしないと、手間がかかるからね。
昨日のミーティングでこうちゃんは、かぼちゃの出来が悪いという話を出した。堆肥を入れて窒素を補給したのに、結果として窒素欠乏の症状が出ている。だから僕は、それは自然農法がやってきたことそのものだと伝えたんだよ。それは、人間が分析して答えを出してやろうという考えだよ。
しかし、せっかくだから土の地力を生かしてやるとしたら、その辺の草を刈ってきて上からマルチをして、土を裸の状態から保護して、後は土が循環していく力をいただくところに気を降ろすと、これが岡田茂吉の提唱した自然農法になる。それにプラス、カタカムナ奏上で天然農法になる。

ただ、こうちゃんには以前の自然農法や有機農法の亡霊が憑りついていると思うからその話をしたのだけど、それを聞いても彼の心は晴れていかなかった。「そうだね!」とならないんだよ。それはなぜかと思って観ていたら、自分がやったことを否定されたと受け取っているんだよ。
そこでは化学農法で育ててきた作物と量や質を競争しないで、何か別のものがあるぞということを追及していけばいい。それで、「採らなければいけない」とか、物質的に質のいいものを採ろうとする想いに追われていることから、自らを解放しようよ、という話をしたんだよ。
それは、こうちゃんの気持ちを楽にしようとしたのだけど、結局楽にはなっていかなかった。だから、よほどそれを説明しようかと思ったのだけど、とりあえず伝えたのだから、そこでは「そうだね!」と直感が降りてくることが大切だったんだよ。そこで直感が降りてくるのではなく、説明してもらってやっとわかったという話になってしまうと、本末転倒になるからやめたんだよ。

結局、有機農業や自然農法のマインドコントロールを解く話をしたのに、解放されなかった。自分がやったことに対して、間違っていたと言われたと受け取っている感じがした。「僕はあなたの側なんだよ。あなたに楽になってほしい。そして、本物の本物の本物をこれから追及していく場所をみんなでつくっていこう」という話をしたのだけど、通じていなかったなあ。

ともこ:
一昨日の性の話の時でも、いさどんは今のようなことを言っていたのだけど、聞いている側は、「自分にできるだろうか」という想いに囚われながら聞いてしまっていたね。

いさどん:
結局、一昨日の話を昨日して、昨日の話をまた今日しなければいけない。本当は、その話が出た時に、直感人間だったら「そうだね!」「よくわからないけど、そっちがいいね!」となっていく。しかし、一昨日の話を昨日して、昨日の話を今日してというふうに手間がかかる。でも、それをしていかないと事が成っていかない。それを丁寧に丁寧にやっていったら、これはすごいマインドコントロールだと思ったんだよ。これからも徹底的にマインドコントロールしていくぞ(笑)。

ともこ:
そのマインドコントロールだったら、みんなも望んでいるわけだよね。

いさどん:
ここを離れた人たちでも、そのマインドコントロールを求めてここに来て、そして納得していたはずなのに、ある時、それを嫌だという自我の感情が出てきて、それで全く逆の視点を持ち、今のような立場に立っている。だから、これはいつ逆転するかわからない話でもあるんだよ。

ともこ:
この前ホームページの自然療法プログラムのページを見ていて、あれは元メンバーが書いたものだけど、やっぱり彼はもともと目的が違っていたのかも、と思ったの。あれを読むと、「個人」の改善がベースになっているな、と思う。摩擦の起こる心をいかに個人がコントロールしていくか、みたいなところに主眼が置かれて書かれていて、彼の目的はそういう段階だったんだな、と思った。

いさどん:
だから、彼は自分が救済されることが一番だったんだ。しかし、そうやって凝り固まっている人間を柔らかくして、広い視点のところに持っていくことは大事なんだよ。
ところが、自我は彼にとって強烈な執着であったから、それは強く抵抗するものとなって、こちらが柔らかくしようとしても「強要されたくない」という感情がどこかに働いていたのだろうね。しかし彼は、自らの本来求める道に戻って、自らの力でどのように自分自身を導いていくのかといったら、それができない人でもあるんだよ。だから、それを与えられる場を失って苦しいだろうとは思う。マインドコントロールされることの心地良さと豊かさをどこかで求めながら、そうなっていくことを否定する自分が同居しているのだからね。

ともこ:
それは苦しいね。

いさどん:
だから、今は楽じゃない生活をしていると思うよ。それは彼らの今の生活を実際に観なくてもわかるよ。仏の世間解だからね。しかし、分析すればするほど奇妙な世界だね。人は自らがとっているスタンスで生きていることを妙ではないと思っているけど、わかればわかるほど妙な世界に生きているんだよ。

「こういった世界に誰がしたのですか?・・・あなたですね。」
「わかるか?」という返事が天から返ってきた。
「わかるか?」「やっとわかった?」という心が降りてきた時に、それは軽いノリで伝えているけど、「それが目覚めるということなのですね。私はあなたの真意を理解しました。」ということになるんだよ。

ともこ:
昨日の朝、お風呂掃除をしていたらまりちゃんがお風呂場まで来て、「わかったよ!」と言ってきたの。その前日のまりちゃんへのインタビューで、「なぜまりちゃんの心は変わってきたの?」と訊いたら、まりちゃんは「この道の価値がわかってきたからだと思う」と答えていたのだけど、昨日はお風呂場まで来て、「価値がわかればわかるほど自分の小ささやしょうもなさが観えてきたんだよ。そうしたら当然選ぶのはこっちの道でしょ。」と言っていた。

いさどん:
そう。自らを手放す方に行けばいいんだよ。

ともこ:
でも、人はわかればわかるほど、むしろ自分の我が大きくなっていって、自分がわかった側になるんだと思う。

いさどん:
それは知識的な学習の場合だね。しかし、実際に知恵が湧いてくる状態でも、わかればわかるほどその者の器は大きくなっていく。ところが、知識的にわかる人はどんどん知識に捉われ、器は硬くなり、世界は小さくなっていくんだよ。その人が真実だと特定した世界にね。だから、大きくなるという意味ではどちらも大きくなると言える。すごく妙な世界だよ。
今の世界で優秀だと言われている人たちは自分でも賢いと思っているから、そうでない理屈がくると腹が立ち、否定したくなる。エコビレッジを考えている人たちや大学の先生、テレビに出てくるコメンテーターでもそうだけど、自分たちがそういった人間の枠を作って世界を計っていることを知らないんだよ。

何だか訳のわからない話になってきたね。ともちゃんも完全にマインドコントロールされたね(笑)。

ともこ:
された(笑)。でも、これは自分で望んだマインドコントロールだから。

いさどん:
このマインドコントロールはアメノミナカヌシの力だよ。

ともこ:
だから、このマインドコントロールには確信がついてくるんだよ。

いさどん:
それは、この延長に行けばいいのだという確信だね。

ともこ:
そう。

いさどん:
だから僕は、「人間は命を紡ぐ人生という魂の旅をしています。その延長に行き着く目的がこの道の先にあるのです」と伝えたんだよ。それは間違いないことだ。

ともこ:
そこに私はとても自信をもっているのだけど、世間でマインドコントロールされている人たちも、それはそれで確信があるのかな?

いさどん:
それはないだろうね。世間のマインドコントロールというのは、とりあえず、何か特定の概念から解き放って一般社会に出し、それで終りだからね。それ以上の責任を持つ者がいないんだよ。例えば牧師さんだったら教会にいて、「神様に学びなさい」と言うぐらいで、通常のマインドコントロールを解く世界は、たとえばオウム真理教に行っている者にそういった概念を捨てさせて、「普通に会社に行って仕事をしなさい、それで生きていきなさい」と言うだけで、後はほったらかしだよ。

ともこ:
そこに新たな確信と希望は持てないよね。

いさどん:
だから、次の保証はない。たとえばオウム真理教に入った人は、もともと社会に潜む家庭の問題や個人的な問題から何かの疑問を感じて、オウムに入信したんだよ。だけど、彼らをオウム真理教から救済するという人たちは、そこのところまでは責任を持たない。どうしたら私はオウムに魅力を感じたようなエネルギッシュな人になれるのでしょうか、と彼らがオウムに代わる価値観を求めたら、その人が持っている新たなマインドコントロールを代わりに提供することになる。しかしそれをしたら逆マインドコントロールになってしまうから、それをしないで、「毎日会社に行って働きなさい、いい人と出会って結婚して家庭を持ちなさい。そして、平凡な人生を生きなさい」と、それだけで終わりなんだよ。

ともこ:
それでは、もともと疑問を感じていた周りとの問題も解決されているわけではないから、結局何も解決されないことになるね。

いさどん:
そう、何も解決されない。
マインドコントロールという言葉は、ただ攻撃をするネタとして使われている。それを使う人たちは、社会の側に立って、自分とは価値観の違うものを攻撃する。だから、このマインドコントロールという言葉を使っている人たちは、本当に深く物事を捉えていない人たちなんだよ。
そこで、自らを振り返り、他者と自らを平等に客観的に観る視点を持ちたいものだね。