誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる時代

4月29日にBSフジにて放映された「アキレアの橋 体操・白井健三」という番組と、5月2日にNHK総合にて放映された「プロフェッショナル 仕事の流儀 松岡修造×スーパー高校生スペシャル」を観たいさどんは、みんなでこの番組を観ることを勧めました。その数日後、二夜に渡ってみんなでそれぞれの番組を観た後、三日目の夜の大人会議では「革命は一人ひとりの目覚めから起きる!」のブログがシェアされました。その後、いさどんは次のように語りました。

――

この映像を観ていくと、アキレアの橋からは白井健三くん、それからプロフェッショナルからはピアニストやゴルファー、プログラマー、そしてボクサーが取り上げられていました。僕は、みんなに彼らを目指してほしいという想いで、この番組を勧めたのでありません。まず、彼らのような人たちが現れる時代になったことをみんなに知ってほしかったのです。ただ、彼らも普通の人間なのですよ。そこで僕は、「彼らとみんなとの違いは何なのだろう?」と思いながらこの映像を観ていました。

それは、彼らはストッパーを外したということです。

今回の映像では出てきませんでしたが、高校生の頃からその活躍が人目を引いていた羽生結弦くんがいますね。彼は昨年11月に開催されたNHK杯でショートプログラムとフリープログラムをあわせた総合得点で史上初の300点越えをし、その2週間後にスペインのバルセロナで行われたグランプリファイナルでは、さらに記録を更新し330.43点をマークしたのです!ここ一年ぐらいは280点を越えたら金メダルの時代だったのですよ。ところが、羽生結弦くんがNHK杯のショートプログラムで史上初の100点を越えたのです。当時、これは信じられないことが起きた!神業だ!と言われていたのですが、今年の4月に開催された三大陸対抗団体戦で18歳の宇野昌磨くんが公認大会で初となる4回転フリップに成功し、ショートプログラムで自己記録となる105.74点をマークしたのです。

このように、今の最高記録はどんどん更新されていくものなのです。誰かが今までになかったことを成し遂げると、それまでの目標が改められ、新たに記録を塗り替えた人がみんなの目標となるのです。そしてその度に、みんなのストッパーが外れていくのです。これからも、そういったことの連続です。

ところが、多くの人間には「自分にはできない!」とか「わたしなんか!」というおかしな心があり、そのようなストッパーを持っているのです。ある意味、それがその人らしい生き方とも言えるのですが、その自分らしさの中に自分を閉じ込めてはいませんか?

僕は、みんなが白井健三くんになれとか、羽生結弦くんになれ、と言っているのではありません。あなたらしい人生の目標に限界はない、と伝えたいのです。限界は、今の自分がつくっているだけなのです。どこかで人は、「自分はこんな程度だ」と考え、それ以上やろうとしない心があるのです。

もし、もっと自分を花開かせ、可能性を観てみたいと思うのであれば、そのストッパーを外すことです。そのためには、自分を客観的に観えないといけません。人はとかく、今までの経験を元にして、ある時点から「わたしはこういう人だ」と自分を決定し始めます。しかし、経験を積むことはストッパーを外すためにあるのです。それなのに、人間は自我があるがために経験を所有し、それを常識にして、その枠の中にい続けようとするのです。未来は今までの経験を超えていくためにあるのですから、今までの経験を活かすことはいいのですが、それを固定してそこから結論を先に決めてはいけないのです。

それが、自我の乗り越え方です。

今回の映像を通して、新しい世代の人たちが、たとえば音楽はこういうものだというストッパーを外し、先生を超えている発想をすでに持っていることを僕は感じました。そのようにして、彼らは自らの可能性を開花させているのです。21世紀に入った今、若い世代の人たちが人間の可能性をさらに広げようとしているのです。

ただ、そこでひとつ、懸念することがあります。それは、「革命は一人ひとりの目覚めから起きる!」にもありましたが、人間の可能性を広げることは、人類に貢献するためにあるのです。もしくは、生命として地球に貢献するためにあるのです。ところが、映像で取り上げられていた人たちの段階では、まだ世界が狭いので、自分の能力の開花だけを目標にしています。確かに新たな時代は訪れているのですが、まだまだ個人の願望の上にそれが表現されているのです。ひとり、プログラマーの彼は「人類の進歩に貢献することをしたいと思っていて、ただお金儲けをして億万長者になるよりも、人類を前に進めたほうがかっこいいと思ったのです」と言っていました。僕は彼の未来を楽しみにしています。彼が語っていることが、近年における人類が到達すべき目標です。

先日、40代の女性の相談を受けたのですが、僕が彼女に伝えたのは、「あなたは能力が高いのですが、その能力は宇宙や地球生態系の構造、そして時代の流れと一致していないのです。だから、その高い能力があなたの人生の中で問題事の種となってしまうのです」と伝えました。そういったことを怠っていると、この世界の仕組みではその人が発生させた矛盾の分だけ、人生に滞りが起きるようになっています。そういったことが明快に示され、それを感じ取る人々が今の社会に現れてきています。ですから今、人類はそのように生きていく時代に入ったのです。

ここには、これからコミュニティをつくりたいという人たちが訪れますが、僕は彼らにこう伝えます。「この世界は無限の生命の循環によって成り立っているのですから、コミュニティはつくるものではなく、時代とともに成っていくことなのです。時代が表現されていくときに、人間一人ひとりはその時代を表現するためにふさわしい役割を与えられ、生まれてきているだけなのです。ですから、それは自分がやりたいと思ってやることではないのですよ。逆に、強くそういったことを望んでいるような人は、そのこと自体が自我が強い表れですので、コミュニティに不向きな人と言えます。」

しかし、そういった人ほど、自らの実態が観えない人が多いですね。このように今、人間の意識が真に変わるときが来ていることは確かです。

今の人間社会は、矛盾が山積しているように見えます。しかし真実は、この世界に間違いなどひとつもありません。正義も悪もありません。もしそこに問題事があるとしたら、それは「無知」であるということです。無知であることが問題の根本的原因です。そして、それはどのような無知なのかといえば、この世界の成り立ちに対して無知であり、自分自身の存在に対して無知であるということです。

それに対して、知恵を持っている者とはどのような者なのでしょうか。それは、無知は無知でも、「無限なる知恵」を持っている者のことです。無限に経験を積み重ね、知恵を得て、成長していく者であり続けるということです。そういった精神に到達したときに、人間から個人の願望を実現させたいという意識が消え、宇宙生命として生きることになるのです。

そのために人間が取るべき姿勢は、時代から受けている使命を果たし、この世界から受けている自分たちのポジションを担うことです。それが、わたしたちが存在する意味なのです。自分は全体のために存在しているのですし、全体は自分を存在させてくれているのです。それが一致したとき、わたしたち一人ひとりの健康が実現し、真の平和が地球上に訪れるのです。

人類はいつそういったことに気付くのだろうと僕は思うのですが、今度オバマ大統領が広島を訪問しますね。広島へ行くのであれば、長崎にもぜひ足を運んでいただきたいと僕は思います。これは世界中が今、注目しているトピックです。彼が急に広島へ来ることになったのも、時代がドッと動き出した感じがしています。これは日本の都合やアメリカの都合で、オバマ大統領が広島を訪問するのではありません。これは明らかに、時代が次の段階を迎える前兆だということです。

それで今日の映像の話です。彼らはこれまでの常識や、「これが今の世界の最高だからこれ以上はない」といった発想を無視し、そういったスイッチを切った人たちなのです。これも、新しい時代の人たちが始めたことです。

そこで、わたしたち木の花ファミリーは今の時代にどのような役割をいただき、そしてどのようにスイッチを切っているのでしょうか。それは、「自我」のスイッチを切っているのです。自我のスイッチを切るからこそ、このような暮らしが可能になるのです。ここではすでに、みんなでお財布ひとつで暮らしていますね。自分のものをみんなと共有していますね。そして他人の子どもを自分の子どものようにかわいがり叱ったりしますね。そういったことを世の中にいるどれだけの人ができるのでしょうか。そのような区別のない世界は、すでにここで実現されているのです。

しかし、自我は粗いものから細かいものまでたくさんあるのです。そうしたら、彼らが毎日自分の能力の限界まで挑戦しているように、わたしたちは毎日ひたすら自我と向き合い、自我をきれいに取り去る心のスペシャリストとして、「えっ!!人間にそこまでできるの??」という境地にまで到達したいものです。

そういったことをイメージして、僕はこの映像をみんなで観ることを勧めました。彼らはピアノやコンピューター、アスリートなどの分野で新たなストッパーを外しながら活躍していますが、わたしたちは心のストッパーを外すスペシャリストなのですから、そういった意味で、わたしたちは白井健三くんや羽生結弦くんと同じなのです。わたしたちは心を探求するスペシャリストであり、人類の未来の見本として生きているのです。

時代は、確実にストッパーを外しながら紡がれています。ですから、「自我」というストッパーを外すことが、わたしたちが生きている真の姿であり、目的なのです。そして今、時代は誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる段階に入ったのです。

自我のストッパーを外すことを優先できる人は、時代と共に生き、時代に貢献できる人です。

 

 


革命は一人ひとりの目覚めから起きる!

5月3日、533(いさみ)ナイトに先立って、木の花ファミリーでは毎年恒例の田楽田植え祭りが行われました。その時のいさどんの挨拶をご紹介します!

乾杯の前に挨拶をするいさどん ー 田楽田植え祭りより
乾杯の前に挨拶をするいさどん ー 田楽田植え祭りより

今年も毎年恒例の田楽祭がやってきました。先程、降神祝詞が奏上され、日常生活からは程遠いような神事が執り行われましたが、実はこれも日常生活なのです。わたしたちは人間ですから、いのちですよね。そうすると、地球の循環、そして他の星との宇宙の循環の中にわたしたちは常に存在しています。それが、わたしたちの日常なのです。

近年、人間は能力が高いがために、この地球を人間だけのもののように考えている傾向があります。そういったおごりの心が今、いろいろな意味で人間社会に行き詰まりをもたらしているのです。

ツケをそのままにして先に進むと、矛盾はあり続けます。そして、人の心が二極化する世の中がこれから訪れようとしています。つまり、今までの時代に興味を示さない若い世代が矛盾を無視し新たな時代を創っていくのに対し、今までのツケがこれからクローズアップされていきます。若い世代からすると、それは自分たちが残したものではないから責任を負いたくないと思っていますし、だからといって現実を見ても夢がないので、新たな価値観のほうに逃げようとしてそちらの方へ意識を向けてしまっています。そして、ツケを残してきたことに責任ある世代もそのツケを残しただけで、ツケの大きさを意識しない者もいれば、自分たちの犯してきたことに対して償いをしようとしない者もいます。また、どうにかするつもりはあっても、そのツケはどうにもならない段階まで来ているのです。

マスコミもそれについて報道はしますが、どのようにその矛盾を解消するのかという方法は見出せず、世論にそういった空気が起きないので手をこまねいて見ている状態です。矛盾を見てそれを償おうという気が起きないために、これからしばらくの間、二極化したおかしな時代が訪れることでしょう。本来ならば、そのまま素直に次の時代に移行すればよいのですが、これは移行期に現れる現象とも言えるのです。

今までの時代は、人間の可能性の探究の時代でした。人々はエゴを花開かせ、そのことによって夢見てきた時代でした。そして今、エゴを花開かせたツケの実態を知った者たちは、どうすることもできず呆然と立ち尽くし、そのツケを先送りにしている状態なのです。このツケは、もはや一部の者たちがどうにかしようとしてもどうすることもできない段階まで来ています。今の時代の主力の人々も、その異常さに唖然として対策も打てず、どうすることもできないのです。

昔の美しい自然をもう取り戻すことができないように、人間社会もツケが大きくなり過ぎてしまって、このまま放っておいて健全になっていくことはもはやありえません。矛盾が自然の中に蔓延してしまったら、それは解消できないのです。本来、自然のものであるならば潜象界へ還っていくのですが、人工のものはサイクルが長いので、浄化されるのにかなりの年月を要するのです。

人間の欲望が膨らみ過ぎてしまった今の世の中に対して、唯一の解決策は一体何でしょうか。それは、個人が全体意識に目覚め、一人ひとりが自らの分だけその責任を取ることです。そうすると、その意識のウェーブが起きて、解決に向かうことでしょう。

最近、財政健全化計画の話題が取り上げられなくなったのも、それは状況がどんどんひどくなっていくばかりで、それを言っても仕方がない状況になっているからです。社会全体がそのような状況になっているのです。

だから今、その唯一の解決策として、革命しかないのです。この革命は、一人ひとりの目覚めから起きます。これはその意識のウェーブの革命です。個人を観てみると、行き詰まりに出会い痛みを伴って目覚める者もいれば、「これはこのまま行くとダメだ!」とまだ行き詰っていないのに積極的に改善する者もいるとしたら、これからの時代はまだまだ前者の方が多いのです。それは愚かしいことでもあるのですが、今の状態がリセットされるために、わたしたちは行き詰まりや問題事に出会うようになっているのです。

そうしたリセットがどこまでも成らないとなったら、これは地球的矛盾にもなるので、天変地異や異常気象の力によって成るということなのでしょう。いずれにしても、地球にとっての自己矛盾でもあるのですから、これは時代と共にリセットしなければならない時が来ているのです。そういった意味で、霊的に地球を導いている存在たちの力だけでは、もはやどうしようもならない段階まで来ているということなのでしょう。

宇宙的に観れば、そういった現象はすべてダイナミックな波乗りのようにも捉えられます。それを小さく区切って捉えれば大変なことになってしまうのですが、そこを超越してしまえば、地球に起きたいろいろなウェーブの中のひとつにしか過ぎないのです。

わたしたちは自分たちだけを見れば小さな存在ですが、こういった小さな集いが大きくなって、世の中に問題をもたらすこともあれば、逆により良い社会を創るきっかけにもなります。人間が自然からいのちをいただき、他のいのちと循環し調和していることを表さない限り、天変地異や異常気象はこれからも起こり続けることでしょう。そして、自然からの警告だけではなく、人間社会の中だけでも矛盾が発生しているような今の世の中で、こうやって毎年自然に感謝し、自然からいのちをいただいていくことを天に誓い、自然とともにあるという謙虚な心を大切に生きていきたいものです。そういった意味で、今日をいのちをいただく儀式のはじまりとして、この一年を過ごしていきたいと思います。

ぜひ、これを機会に木の花ファミリーの健全な成り立ちと豊作だけを願うのではなく、豊かで平和な世界が訪れることを共に願っていきましょう。

 

〈田楽田植え祭りより〉
宮ノ下1

IMG_0137

IMG_0156

IMG_0218

IMG_2513

IMG_0228

IMG_0255

IMG_0332

IMG_0335

13151493_1077084285681173_506671292870132596_n

13139024_1077084655681136_8521748947839002592_n

IMG_0691

IMG_0534

IMG_0923

IMG_0901

IMG_0574

IMG_0703

IMG_2670

IMG_0732

IMG_0742

IMG_0652

IMG_0850

 


災害はメッセージ

4月14日以降熊本県を中心に連続して地震が発生したように、今、日本のみならず世界のあちこちで地震や火山噴火などの自然災害が頻発しています。2月14日から3月12日にかけて開催された「1ヶ月間の真学校」では、「災害に向かって生きる」というプログラムが提供されました。そのプログラムの冒頭でいさどんは次のように語りました。

いさどん

「災害」というのは、人間から見た解釈です。地震も津波も地球の生命活動であり、それは新陳代謝でもあるのです。わたしたちの体も同様に、毎日多くの細胞が死に、そして新たな細胞が生まれてきています。地球の中でも新陳代謝の激しいところと比較的安定しているところがあります。また、長い地球の歴史からすると、大きな変化が起きた時と長く安定していた時があります。それは、地球が生命であるということです。そしてその生命は宇宙そのものであり、宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しているのです。ですから、わたしたち人間が築き上げたものが壊れたといって区切って見る解釈は、きわめて人智的な捉え方なのです。それは、長い目で見たらものは必ず壊れるからです。生命自体は誕生、維持し、それが壊れ、空(くう)となって、また始まるという循環の中にあり続けるのです。

今日は3月6日です。あと5日で東日本大震災が発生してから5年が経ちます。東日本大震災で約2万人の人々が亡くなり、たくさんの物が壊れましたが、あの震災を振り返ってみると、あの地にはこれまでに何度も地震がありましたし、津波もあの地域を襲っていました。しかし、長い間に人々は古くからの言い伝えを忘れてしまい、人工的な防波堤を信頼し、危険な場所に住んでいたのです。昔、そうしたことを伝えていた道祖神など(波分け観音など)がありましたが、人間の欲が勝ってしまったがために人々はそうした伝統的な言い伝えを無視し、便利さのために危険な場所に住んでいたことが、5年前の震災があったときに明らかになりました。

しかし、そういったことを天然循環法で捉えると、直観で感じ取り、そのようなトコロに住まない、もしくはたとえ津波が間近に迫っている時でも、直観でそのような兆しを感受することができれば逃れられたはずなのです。危機的な状況の中で直観が働き、命が守られることは、生命感が優れている証です。しかし機械的な情報ばかりに頼ってしまい、人間の生命感が失われていると、災害に遭うことになるのです。例えば、ゴキブリやネズミは家が火事になる前に引っ越していくそうですが、人間はお酒を飲んで寝ていたりして亡くなることがあるのです。本来、わたしたち人間もそのような生命感を持っているはずなのですが、今の人々はそれを失っています。

災害を語る前に、何よりも認識しておかなければいけないことは、わたしたちは生命であり、生まれたら必ず死ぬということです。そうであるならば、むやみやたらに死ぬことを恐れる精神状態を考える必要があるのです。つまり、死は生きることの集大成なのですから、その生きる中身がどうであるかによって、死はいつ訪れても恐れるものではなくなるのです。なぜならば、死は必ず訪れるものであり、生きることの結果必ずついてまわるものだからです。ですから、もし死にたくなければ、生まれてこなければいいのです。ところが、不思議なことに人は生まれてくると、生きていることに対して一喜一憂するのです。大切なことは、わたしたちが生まれてきた意味や生きる意味、そして死んでいく意味をホリスティックに理解した上で、生命世界を生きていくことなのではないでしょうか。そのように捉えると、災害が少し違って見えてくると思います。

災難というと、何か嫌なことが訪れ、出来れば避けたいと思うものですが、地球の歴史を遡ってみれば、生命は何度も大量絶滅を繰り返してきました。少し不謹慎な話かもしれませんが、僕は津波のことを思い浮かべたときに、たらいの中に浮かべた板の上の蟻を想像したのです。たらいに浮かべた板の上に蟻を何匹か乗せて、水面に何かを落とすと、波が起きて板の上に水がかかります。蟻からしたら、その波は5メートルくらいの波でしょうか。この写真の津波も、5、6メートルくらいでしょうか。

出典: geocities.yahoo.co.jp
出典: geocities.yahoo.co.jp

そうすると、たらいの中に何か物を落として、波が起こり、蟻の何倍かの高さの波が蟻の上を通っていったとき、それを地球の大きさに例えればほんの僅かな現象なのです。例えば、地球上には最も高いエベレストという山があります。それは9千メートル弱です。それから海の一番深いところが1万メートルくらいありますが、地球の直径は約1万2千キロメートル、また大気は約100キロメートルあります。地球にとって100キロメートルは卵に例えると、卵の殻の部分に匹敵します。そうすると、この地球は山の皺や海のへこみを含めても、とてもきれいな球だということです。そこに5メートル、10メートル、30メートルの津波が来ることは、ほとんど何も起きていないに等しいのです。ですから、わたしたちにとっては大変なことが起きたように思えたとしても、地球規模で言えば、それは何も起きていないに等しいのです。それに比べ、わたしたちがご飯を食べる前に手を洗うとき、それは手についている菌からすると、災害が起きているような大変なことになります。もしも、しっかり手を洗う人がいれば、手についている菌にとっては大災害に出遭い、大量絶滅したことにもなるのです。

今回の真学校では世界観を広げることがテーマでした。そして世界観のスケールが大きくなればなるほど、被害を受けたと感じる被害者意識がほとんどなくなっていきます。地震は地球の生命活動であり新陳代謝なのですから、宇宙から見たら地球はとても安定した星なのです。ですから、自然災害が起きて報道されるたびに、僕にはそのようなイメージが浮かんできて、「それほど大したことは起きていないのになぁ。これは定期的に起きている地球の新陳代謝であり、生きていることによって生まれたひずみが、地球をほんの少し変えているだけなのになぁ」と思うのです。そして、ほんのちょっとの水の波がこのような現象を引き起こすのですから、手を水で洗ったくらいではなかなか菌が取れないのと同じように、人間の営みも5年もすればまた元の状態に復活していくのです。

出典:http://workers-magazine.com/
出典:http://workers-magazine.com/

このように捉えると、ものの見方が変わっていきます。ものの本質を捉える時に、世界観が狭く囚われの心で見れば、それはとても悲惨なことであり、大切な人を無くしてしまった悲しく追悼すべきことになります。この震災で2万人くらいの人が亡くなりました。しかし、災害などがない時にも人はどんどん亡くなっていきます。僕は、人々が亡くなったことがどうでも良いと言っているのではなく、こうしていろいろな形で新陳代謝が繰り返されていることを理解する必要があると伝えているのです。ましてや災害対策を考えれば、生きているわたしたちにとって死は常に隣り合わせにあり、どのような形にしろ、わたしたちにはいずれ死が訪れます。宇宙において死ぬことは、正の方向であり流れです。ですから死を恐れるのではなく、どう生きるのかが大切であり、その死を満足のもとに受け入れていくことが重要なのです。さらに、死ぬことは宇宙の流れからすると、また生まれてくるということでもあるのですから、爽やかに生きて、気持ちよく旅立っていけば、また爽やかに生まれてくることになります。これはお金でも同じことです。気持ちよく使う人には、また気持ち良いお金が入ってきます。このように全てのものには、人の心の響きが乗ります。人生にも心の響きが乗りますから、生きることの心構えとして、いかに宇宙法則に乗せて気持ち良く流していくかが大切なのです。そのように解釈すると少し気分が変わりませんか?

「今日は防災訓練だ!」となると、火事になったときにどうしようといった話になって、とかく人は構えてしまいます。リラックスしていれば、全身の細胞がパラボラアンテナのようにセンサーになり、それが色々な変化を感受するので、上手に天の気を読むことができるようになるのです。しかし、「助かりたい!」という想いが強くなると、色々なものにぶつかってしまい、かえって動きが悪くなります。ですから、防災に対する捉え方も、人の心に起因するものだと僕は思います。こういった話をすると防災の話は不要になってしまいますが、資料が用意してありますので、今から一緒に見ていきましょう。

 
スライド4

この後、「災害はメッセージ」のプログラムのプレゼンに沿って、いさどんとみちよが話をしました。その後、ワークショップ形式で、参加者一人一人が自分たちが暮らす環境を振り返る時間が持たれました。

防災WS (3)

 
そして、最後のまとめとして、いさどんは以下のように語りました。

 
今日は、防災について学ぶと同時に、防災とは何かということをみんなで話し合いました。そこで至った結論は、わたしたちが生きると、色々な問題事に出会うということです。これは、真学校を通して一貫して皆さんにお話ししてきたことです。問題事に出会うことは、わたしたちが自我で生きていることに対して、この世界の法によって生かされていることをわたしたちに認識させるためのものです。わたしたち自身は、肉体と心により形成されています。それは自身の内から外に向かって観た視点です。同時にわたしたちは、外から内に向かってこの命が形成されるネットワークの中にいるのです。その双方の成り立ちを意識したバランスの取れた視点を持てば、宇宙が完璧に素晴らしい世界をわたしたちに提供してくれていることに気付くのです。

地上を生きるものとして世界観が狭ければ、物事を広い視点で捉え、そこにある流れや生きることの意味を理解することは難しいでしょう。しかし、わたしたちが地上を生きる役割は、もっと大きな宇宙の仕組みである調和や愛を地上に表現することです。そのことがわかれば、それらを地上に表現できるのです。それが天と地の和合であり、地上に天の法則を表現する役割を果たすことになります。それが本来、わたしたちが地球に生きることの意味です。それが宇宙の実相ですから、それを地球という特別に創られた奇跡の星で表現することが、わたしたち人間に与えられている大きな使命なのです。わたしたちは過去から未来に向かって時代を紡ぎ、その役割として地上に現れ、この宇宙物語を表現しているのです。

web of lights
出典: https://judithkusel.wordpress.com

災害やそれに対する防災を考えるとき、わたしたちの世界観が狭ければ、そこに起きることに対する対策をすぐにしたがるものです。そうした対策は大いにする必要があるのですが、それが目先だけに囚われた解釈になると、それは辛いことに対する対策で終わってしまいます。しかし、災害に出遭うことや災害に備えてその意味を考え、語り合うことは人々の霊性を高め、世界観を広め、最終的にはこの地上に理想の世界をもたらすきっかけとなるのです。ですから人々の意識が宇宙法則から外れるほど、天はわたしたちにそういった出来事を通して考えるチャンスを与えてくれるのです。そのような災害の捉え方をすれば、ただ辛いことに出会っただけではなく、災害もありがたいこととして受け止められるのです。生命として生きることはそのような高い意識を創る世界に存在することであり、そして自然の中に生きることは、ある意味自我を超える修行をしているようなものですから、厳しく感じられるようにできているのです。

そもそも、この世界は矛盾から生まれたのですから、その矛盾の現れである自然の中に生きることは、常に矛盾を埋め合わせて行くことになります。そのカラクリを知り、その中で翻弄されるのではなく、見事にそれをすり抜けて生きる術を見つけたならば、わたしたちはもっと大きな存在になれるのです。それは、宇宙を理解し、命を超越して宇宙を旅するコノハナ人になるということです。

真学校も終盤を迎え、この学びに出会うことの意味が皆さんに定着してきたと思います。当初は、皆さん一人一人の人生の課題に向き合うということでしたね。そろそろ、自らの存在がこの世界を担っているという高い意識に目覚めることが、真学校に出会った意味だと気づいていただければと思います。そして、人は必ず死にます。その時に悔いのない旅立ちをするために、皆さん一人ひとりが高い意識の元にこの世界の成り立ちを担っていることを意識しながら生きていくことを願っています。

 

 


社会という池に、あなたは何を流しますか

「1ヶ月間の真学校」修了を4日後に控えた3月8日の夜、受講生たちも参加しての大人ミーティングで、いさどんは以下のように語りました。

この日、受講生たちと共に長野県の皆神山を訪れた帰り道に富士山の前で記念撮影
この日、長野県の皆神山を訪れた帰り道に富士山の前にて、受講生たちと一緒に

いさどん:
僕の心にある絵が浮かんできました。

そこに池があります。
その池が汚れているかいないかは、その周りで生活している人の姿勢の現れなのです。自分の生活の仕方を振り返らない人々は、池が汚れていることの原因に気が付きません。

池の水は自分たちの命であり健康や幸せの元です。しかし自らの姿勢を見ないものにとっては、その池が汚れているのは、「世の中のせい、他者のせい」なのです。しかし池をきれいに保つためには、誰の心にも共通する姿勢がないとなりません。

「私たちは、その命の池をきれいにして、みんなで美しく保ち、そして健康に生きていきましょう。」

この池というのは、私たちの創っているこの社会のことです。
その社会に向けて自分がどんな響きや心を流しているのか。
その結果、今の社会というものをつくっているのです。
誰もが自分は健康でありたいと思い、池の水を飲むときに、健康な水をいただきたいものです。

しかし、その社会の池を作っているのは、あなたなのです。
そこで「あなたはきれいな水をいただいて健康に生きていくということをしたくありませんか」と言ったら、誰もが「そうしたい」というのです。そのためには、あなたが流す心の水をきれいにしないと、社会の水・池はきれいにならないのです。簡単なことですね。

それをするにはどうしたらいいのでしょうか。それは、心の目を開けて自らを観ることです。
自らが美しくなっていけば、同時に自らを取り囲む社会もきれいになってゆくのです。
そんな明快で当たり前の道を、今の時代を生きる人々は忘れているのです。
そんな当たり前のことですが、それをただひたすら真面目にまじめにやっていけばそれが世の中を美しくすることになり、それがこれからの見本となるのです。簡単なことでしょう。

それなのに、きれいになることを「損をする」ことのように思い、素直に受け取らず、ゆがんだ心で社会の池を汚して生きている人たちがいるのです。

あなたはあなた自身をどうしたいのか、生活の糧としてある大切な社会の池をどうしたいのか、そこに暮らす一人一人が自らに問うべきだと思うのです。

そんな映像が今浮かんできたのですが、これはとても明快な話なのです。しかし、世の中にはこのことを明快に理解して生きる人が、まだまだ少ないのです。せめて私たちは、この場をそういった明快な人たちの生活の場としての見本にしたいものです。

真学校に参加された皆さんも、自らがこのプログラムに参加する前にはどのような心だったのか、そして今どんな心をしているのか。
これから真学校が終わって次のステージに旅立っていくときに、どのような心で旅立ちたいのか、自らの価値としてあなたはどんな自分でありたいのか、正直に自らの心に向き合い、そして、真学校の終了を迎えてもらいたいと思います。

 

 


男が生き生き生きるには

一風変わった視点の持ち主で、時に“ひねくれもの”と言われることもあるファミリーメンバーのりょうちん。そんなりょうちんといさどんの、ある日の会話です。

 
りょうちん:
僕は元々理屈っぽい方ですけど、最近はもっと理屈を通していこうと思っています。理屈というのは道理だから、屁理屈でさえなければ、道理を通すというのは物事を論理的に見ることであり、自分の中に柱を持って生きるということにもなりますよね。それは、男性が生き生きと生きることができるようになるために大事なことなんじゃないかと思うんです。

いさどん:
理屈っぽいと言うなら、僕なんて極めて理屈っぽいよ。ただ、理屈を語る時の奥にある心がどういうものかということが大事なんだよ。
理屈を突き詰めていくことは道理を通していくことだから、大切なことだよね。だけどそれが周りから見て、あの人の言うことは理屈っぽいね、くどいね、と言われるようになったら、それは自分の言いたいことを主張して押し通そうとしている状態だということ。そこに無理が入れば屁理屈にもなる。だから、理屈にもランキングがあるんだよ。道理を通していく時に、それが独りよがりなのか、万人に通用するものなのかというところで、道理なのか理屈なのかということがわかるんだよ。

りょうちんの言葉を聞いて思ったのは、今、ここの男性たちに元気がないとして、では世の中の男性たちは元気があるのか、元気があるとしたらどういったことに対して元気があるのか、ということを考える必要があるね。木の花の男性は、世の中というものに対して何か疑問を持っているからこの生活をしているわけだよ。そうしたら、仮に今の世の中の男性たちに元気があるとしても、それをここへ取り入れたらいいのか、それともそれを否定するからこそ別の元気を見つけるべきなのか。そこを仕分けしていくことが重要だね。
りょうちんが、理屈を通していくことで男性が活性化するのではないかと考えるとしたら、そういった思考も紐解いていく必要があるよ。冷静な心で紐解き、詳しく原因を探って、その結果対策を考えるとしたら、あなたは思慮深いねという話になる。それは全然理屈っぽくないよね。それを聞く周りの人たちも、それなら一緒に考えてみようかと巻き込まれていくわけだよ。そういった思考を働かせるといいね。

りょうちん:
一般社会での男が生き生きするというのは、例えば人よりも上に立ちたいとか、そういう自分の欲を叶えることで生き生きしてるんじゃないかと思うんですよね。

いさどん:
今、世の中の男の人たちは生き生きしてるの?

りょうちん:
そんなにしてないですね。

いさどん:
本来の男性の立ち位置というのは、周りから頼りにされて柱となって、女性から「頼もしいわ」と寄りかかられるような存在でしょう。女性に限らず、あなたにはここを任せるからよろしくねと言われて「任せときな!」と言えるのが男だよ。
そうすると、今の社会で男たちがやっていることはどうだろうね。社長でもエリート社員でも平社員でもいいけれど、例えば社長になったら経済システムに使われ、金を持てば金に使われて、はたして自らの中に何か柱となるものがあるのだろうか。

りょうちん:
結局、自分で考えていないと思うんですよ。今の社会を観て何が大事なんだろうと考えて、それで自分に柱を立てて道を歩んでいるかというと、そうじゃないと思うんです。

いさどん:
子どもの頃からでも大きくなってからでもいいけれど、何か経験したとするでしょう。その経験が未来の希望あることにつながればいいけれど、今の人たちはどちらかと言うとそれがトラウマになっていて、それを埋め合わせるために条件反射のような行動を取っているんだよ。例えば人と比べて貧乏だったらお金がほしいとか、親が何かに縛られているのを見て育ったら自分は自由人でいたいというように、何かにつけて条件反射的に反応しているから、とても思考が浅い。だからマスコミの報道する内容も、すごく浅いでしょう。その方が今の人たちにはうけるんだよ。

りょうちん:
その奥を観ていないということですよね。

いさどん:
そう。今の人間は思考が浅いんだよ。じゃあ昔は深かったのかと言ったら、深さの質が違うかもしれないけれど、例えば戦時中なんて、国民は一応国を背負って命をかけていたわけでしょう。そのもっと昔は、武士だったら戦場に出向いたり、農民も年貢を収めたりして、まつりごとに参加しながら、生きることが命がけだった。だけど今は生きることに命がけということがなくなったんだよ。そしてとても思考回路が浅くなった。その浅い思考のまま、お金や物、立場など、いろいろなことに縛られているんだよ。

りょうちん:
そう。今の教育だったり、社会の一般常識ってすごく浅いなって思うんです。浅い思考って、育った環境に影響されていると思うんですけど。

いさどん:
最近の大学生の卒業論文でも、とても浅くて子どもっぽいね。

りょうちん:
ものごとの奥を観て分析していくことが欠けてるんですよね。例えば僕たちは今こういう生活をしてますけど、この生活の何が大事なのかを語れるところまでの人となるというのは、やっぱり時間のかかる作業でもあると思うんです。

いさどん:
木の花に来ている男性の性質として、こういった柱のない社会に嫌気が差しているところもあるね。

りょうちん:
それはそうですね。

いさどん:
ただ、では自らが柱を保てているかというと、やっぱりまだ十分に道理を探求しきれていない。自分自身が独立して道理を通しきれていない段階で、道理が通っている木の花という場へ来てしまったものだから、自分がやらなくてもいいんだとサボっているところがあるんだよ。
自分で柱を立てるということは、それだけ緊張もするし、真剣に生きる姿勢が必要になってくる。今の時代は、そういった自分の価値を積み上げていくということの大切さがないがしろにされているんだよ。その結果、表面的な浅いことに気持ちが向くようになって、サボる(自分磨きをしない)ということが楽なことになってしまった。だけど本当は自らの価値を上げて安定することの方が、はるかにやりがいがあり、充実した毎日を送ることにつながるんだよ。そういった生き方は矛盾がない。だから今のように、人々の生き方が矛盾だらけの社会を創ることにはならないね。

りょうちん:
そうですね。ここにいると答えが何となく提供されているから、わかった気になっているけど。

いさどん:
何となく提供されてわかった気になっているというよりも、待っていれば道理が通っていくものだから、ヘタに話して自分のメンツを潰すよりも、待っていた方がいいやという姿勢なんだよ。

りょうちん:
でもそうやって人から与えられるんじゃなくて、自ら湧き出してくるものに柱が立っていくことは、自分自身の活力源になりますよね。

いさどん:
そう。それが男のプライドというもので、それがあることは男としてとても重要なことなんだよ。やはり柱を立てるべき時には、プライドがないと立たないんだよ。

りょうちん:
それが男の生き生きにつながると思うんですよ。

いさどん:
それは自立心とも言えるね。それがあって初めて女性から支持されるんだよ。ところが今は、何よ男のくせに立たないのね、という感じで、力仕事とか物理的なところではあてにされるかもしれないけれど、本当の意味での柱としては頼りにされていないんだよ。それを自分のこととして、一人ひとりが取り組むべきだね。
だからプライドは必要なんだよ。ただし、変なプライドはいらないよ。何もしてもいないのにメンツだけは大事にして、自分の中にあるものを出さずに守っているようなことでは、ただメンツが潰れるのを怖がっている状態だよ。

りょうちん:
それで元気が出なくていじけていっちゃう。だから、勇気ある地道な積み重ねが本当に必要だと思うんです。

いさどん:
地道にどう積み重ねるかというと、やっぱり自分と向き合うことだよ。

りょうちん:
そうですね。

いさどん:
誰もが自分の人生を歩んでいるんだよ。人生とずーっと向き合っていくと、自分に何が積み重なっているかということと向き合うわけでしょう。そこに自らを肯定できるような蓄積がなければ、やはり自ら柱を立てる者としては充実感がないし、希望も生まれない。
女性でも、腹が広くて手のひらの上で男を回してるようなゴツい女もいるけどね。それだって、男を立てるために回してるんだよ。

りょうちん:
は〜。

いさどん:
例えば石臼の前にどしんとあぐらをかいて、石臼をゴロゴロと回してるようなものだね。石臼を回すには中心を立てる必要があるでしょう。
もっともそこまで腹が広くない普通の女性は、柱を立てている男に寄り添い、ひとつのペアを作るわけだよ。そして一人ひとり個性的だから、それぞれに個性的なペアがそこにあっていいわけだよ。ところが自立して立っている者がいないと、寄り添う者も寄り添えないでしょう。逆に女性から「かわいそうに」と思われるようなことにもなっちゃうよ。

りょうちん:
そうね(笑)。

いさどん:
そういった「かわいそうに」と思われるような形が、今の世間にはあるんだよ。なぜかと言うと、女も本当の依代となる柱を知らないから。相手の表面だけを見ていて、自分が寂しかったらどんな対象でもいいんだよ。そこでお互いに傷口をなめ合う関係が生まれる。

りょうちん:
自分を満たしてくれる対象を探しているわけですよね。

いさどん:
そう。今の世の中には柱もなければ依り代もないから、本当の意味で男と女がそれぞれの役割を果たして共に新しいものを創るというよりも、ただ自分たちのニーズを満たしてくれるものを探しているという状態だね。

りょうちん:
結局本当のところで満たされていないから、不満があるんですよ。

いさどん:
そう。そこで男が柱を立てると、それは個性となってちゃんと依り代になるから、そこでペアができたり、ペアじゃなくても支持されるということが起きるんだよ。だけど今の男たちは、そういうことを放棄しているところがあるね。僕から言わせると、そこでプライドを持ってほしいわけだよ。

りょうちん:
うん。高いプライドってことですよね。

いさどん:
そう。高いプライド。そういった意味で、りょうちんが理屈をこねていこうと思うということは大事だよ。その過程ではいろいろなことが起きて、全体から「それってどうなの」と問われることもあるでしょう。それは応援でもあるわけだよね。自分の言っていることが道理が通っていなかったり問題だったりしたら、本人のためにも、全体のためにも、それは訂正しなければいけないんだから。
訂正するということは、そこを越えてその先へ進めということなんだけど、男には変なところがあって、訂正されると「ダメだったんだ」と落ち込んで、訂正すればいいものをしないで、ただしょげているんだよ。

りょうちん:
それまでに積み上げたものが壊れるような気がしちゃうんですよ。

いさどん:
だけど積み上げたものが歪んでいたら、壊してもう一度やり直さないといけないでしょう。

りょうちん:
そう。やり直す勇気を持たないとあかんですよね。

いさどん:
そうだよ。今の男性たちが社会でも柱を立てられないのは、ハングリーじゃないからだよ。

りょうちん:
だけど今地球上で人類が直面している現状からすると、ハングリーなはずですよね。

いさどん:
意識がそちらへ向いたら、そうだね。地球の現状への危機感でハングリーになることはとても重要なことなんだけど、今の人たちにはそういった広い世界観がないんだよ。自分が食えるか食えないかという程度の位置に意識がある。生きることがお金を稼ぐことであり、生活することになっているんだよ。
木の花にいると、全体性の中で、例えば農業の進化とか精神性を高めるとか、もっと言えば世界にそういった新しい目覚めを発信するということの担い手であるわけでしょう。

りょうちん:
そうすると、大雑把なつなげ方ですけど、より大きな視野で生きるということで、変なプライドを折ることもできるようになるのかな。

いさどん:
より大きな視野で生きるということが、今の社会に欠乏しているね。そこで、じゃあ自分は社会を担っていこうという意識になれば、人間意識としては高いものになるね。

りょうちん:
変なプライドを高いプライドに転化してやっていけるってことですよね。

いさどん:
そうだよ。高いプライドがあれば人間がセコくならない。高いプライドで道理を通していけば崩れることもない。だけど低いプライドは、屁理屈をこねて無理やり支持されようとしたり、自分が正しいと思う方向へ話を持っていこうとするんだよ。そんなものは、ものごとが観えない人からしたら素敵と思われるかもしれないけれど、観えるものからしたらバカじゃないのという話になって相手にされないわけだよ。

りょうちん:
だから、低い視点で積み上げたものはいったん壊れると「また積みあげなきゃ」という発想になるんだけど、高い視点で観ていると、とりあえず崩しても大丈夫って感覚でいられるんですよね。

いさどん:
そうそう。例えば北極星のように、不動の目標地点が観えているんだからまたそこへ向かえばいいということになる。視点が低いと目標が観えていないから、壊れるとゼロになるような感じがするんだけど、それがチャンスなんだよ。中途半端に残っているとまたそれを目指しちゃうけど、もともと目標が観えていない者はゼロから始めればいいんだよ。じゃあどこを目指したらいいんだとなった時に「あそこだよ」と言われて、なんだそうか、と進んでいけばいい。それがチャンスということだよ。
だけど、そこを前向きに捉えないで、壊れたことをトラウマにしてしまう人がいる。そして、変な希望を持つよりも希望がない方がいいと言って、自分と向き合わないようにしているんだよ。

りょうちん:
最初から何もしない方がいいってね。ということは、まずはやっぱり日常の中で少しずつ柱を積み上げていくということと、もう一方で、広い世界観のもとに「あそこを目指すんだ」という目標地点を持つということですよね。

いさどん:
その前に、絶対に必要なことがあるんだよ。それは、どこに興味を持って日常を生きるかということ。例えば、朝起きて新聞を開いてどこの欄を見るか。ニュースならどこを観るか。例えば自分自身のことだったら、今日一日の作業のことだけを考えているのか、同時に、それを積み重ねていくと人生がどのようになっていくかというところまで考えているのか。日常の自分の意識がどこを向いているのかということが大事なんだよ。

りょうちん:
それって世界観が広がれば自然と方向付けられていくんじゃないのかな。

いさどん:
世界観は後からついて来るんだよ。日常の自分がどこに興味を持っているかによって、その先にそれ相応の世界観に意識が向くのであって、いくら世界観を広げようとしても自分の興味が足元にあったら、広い世界観との整合性が取れないでしょう。

りょうちん:
そうか。ひとつ思うのは、興味って開発していけるものでもあると思うんですよね。

いさどん:
そこで、自分はどういった人でありたいか、どういった人生を歩みたいかという意欲を持つことだよ。それはプライドと言ってもいい。そこから出発して、興味が湧いて、その延長線上に世界観が広がるわけだから。順序としてはそういうことだよ。
例えば彼女を見つけて結婚して住宅ローンで家を買ってこのくらいがほどほどでいいという生き方があるでしょう。そういうことを親たちがやっているのを見てきて、それでは嫌だという人たちがここにやって来たんだよ。

りょうちん:
もう飽き飽きしてるんですよね。

いさどん:
そう。でも、今の社会や親はまだそれをやれと言うんだよ。だから世の中の男たちがどこかしょぼくれている。ストレス解消のために何か趣味を持ったり、隠れたところで悪いことをやったりといろいろ発散方法はあるけれど、結局人生を通しての柱がないんだよ。ものごとを通してその奥を観るということが柱になるんだけど、その目線がない。
少なくとも死ぬ時に達成感を持って死にたいんだという目標があったら、じゃあ今日一日をどう生きようか、今年一年をどう生きようかと、今から過去を振り返って、そして未来を見通して、自らの行動を観るようになるよ。そこでどれだけの広さでものごとを捉えるかによって、世界観が変わってくる。もしくは、周りの環境によって広い世界観の情報が入ってくれば、そういったことを考えるようになるんだよ。

今、そういうふうに分析をしたでしょう。方向を具体的に出したわけではなく、道理を通して分析しただけだけれど、その分析することすら、興味を持つかどうかということから始まるんだよ。分析していくこと自体が道理を通していくことになるんだけど、それすら興味がなければやらないでしょう。
今の話ももともと正解があったわけじゃなくて、りょうちんの質問があって、社会に当てはめて分析していったらこういう話になったんだよ。それは、興味を持たないと絶対に出てこない。興味を持てば出てくるものさ。

りょうちん:
うん。そうそう。

いさどん:
りょうちんはとことん理屈をこねてみようと思うと言ったけど、あなたの言う理屈をこねるというのは、自分と向き合うということでしょう。自分はちょっとへそが曲がっているかもしれないけど、まだ十分そこをこね回していないから納得するまでこね回してみよう、ということだとしたら、それは自分の中に何かもやもやするものがあるんだよ。それならこね回せばいいんだけど、一人でやっているとりょうちん流のねじれも入ってくるわけだ。だからこそ、こういう客観的な視点が得られる環境にいるわけだから −−−−−

りょうちん:
自分の中にあるものを出していくってことですよね。

いさどん:
そうだよ。時には「僕はこれだけこねました」と出して、みんなはどう思いますか、と投げかける。そうすると、ねじれていればみんながそれを直してくれたり、逆にもっとこねてもいいんだぞ、ということになったりしてね。

りょうちん:
それはやっていこうと思ってます。

いさどん:
そうすると、それがみんなの学びにもなる。ところが、独りよがりで理屈をこねて「これが僕の結論です」と発表するだけだと、みんなのためにはならないでしょう。だからこそみんなの前に出して、それに対するフィードバックを受け取っていくことが大事なんだよ。

りょうちん:
それをもらうためにも出すという意識でいきます。

いさどん:
そうだよ。出すと言っても、世界観が狭いと、自分の思っていることを聞いてもらいたいとか、認めてもらいたいということになる。だけどどのような組織であっても、全体と自分の整合性が取れていることが大前提なんだよ。それはこの世界も同じだよ。そこでは、全体に合わないことは成り立たないわけだ。ところが自分が認められたいということばかり考えている人は、あなたの主張は全体に合わないよと言われると、自分が否定されたと思うんだよ。だけどそれは違うでしょう。あなたの主張は合わないよと伝えるのは、本当の意味であなたを生かすために伝えているんだよ。自分に囚われていると、その視点を受け取る意識が持てない。その姿勢を持つには、腹が広くないといけないね。
自分流に柱を立てても、人の役には立たない。それは自分一人の段階ではOKでも、もう一つ世界が広がると通用しないということだよ。そこで肝っ玉が据わっていれば、目の前に展開される出来事に通用する柱に立て直すことができるんだよ。

りょうちん:
そういうことですよね。僕は、理屈をこねていこうと思ってますけど、やっぱり自分にくせがあるから、それを出していくことだなと思ってます。

いさどん:
そうだね。自分にくせがあると思ったら、それを出していく。すると自分一人のそのくせが、独りよがりのところから、例えば3人でチームを組んだら3人に必要なくせになって、それが10人に必要なくせになって、100人に必要なくせになれば、常にそれは全体の柱になるわけでしょ。腹を据えてキャパを広げて、それで全体のためになろうとしたら、そのうちに自分のくせが人類のくせになるよ。そうでしょう。

りょうちん:
それでいいんですね!

いさどん:
それでいいんだよ。人類というのはみんなくせがあって、欲もあって、プライドもある。ただそれがどれだけのスケールかということと、その質が問われるんだよ。

りょうちん:
自分のくせが、全体にとって役立てるものなのか。全体と整合性が取れているかどうかですね。

いさどん:
最終的には宇宙と整合性が取れたら、それが最終到着地点だね。

りょうちん:
そういうことですね。

いさどん:
我々が人生で出会うこの世界の物理的かつ霊的実態は、ものすごく広いんだよ。その中のどこに位置するのかは、日常自分がどこを見ているかによって変わってくる。無限を観ていたら限りなく広がって、宇宙と整合性を取るという話になるわけだ。お釈迦様のところまでいくわけだよ。ところが狭いと、自分の家庭の中だけというマイホームパパになるんだよ。

りょうちん:
だけどそのままで行けるかといったら、結局、社会とやり取りする中で壁に当たるわけですよね。

いさどん:
壁に当たるということは、自分のキャパを広げていくチャンスなんだよ。ところがそこで自分に囚われていると、これ以上行くと自分が否定されると思って自分の中にこもるわけだ。もっと広いところへ行くべきなのに、外に出たら叩かれると怖がって、現状の自分を保とうとするんだよ。

りょうちん:
僕の話になりますけど、僕は自分で自分のねじれを自覚してる部分もあるんです。

いさどん:
りょうちんはねじれがあると言うけれど、それはくせとして悪いところだと捉えることもできれば、そのねじれが変わった視点となって多様性をもたらすという、ポジティブな捉え方もできるわけだよ。そうすると、あなたが自分を観て「ねじれがある」表現した時に、そこにどれくらいのポジティブ度合いとネガティブ度合いが加味されているのか。そこを吟味して観ると、今までのあなたの人生が観えてくるんだよ。例えばネガティブのウェイトが6割とか、ポジティブのウェイトが6割とかいうように、今までの人生の結果で度合いが変わってくるんだよ。
同じように、他者から見て「りょうちんはねじれてるからな〜」とネガティブに捉える度合いと、「りょうちんらしくて個性的だね」とポジティブに捉える度合いがどうなのかは、それまでのあなたと他者との関わりの結果なんだよ。
そういったことも踏まえた上で「僕はねじれているからね」と自分を分析すると、より次につながる話ができるよ。

りょうちん:
今ちょっとわからなかったです。人の評価を考慮するということですか?

いさどん:
他の人から見て、自分のネガティブ度合いとポジティブ度合いはどうなっているのかということと、自分で自分の中を観て、ネガティブ度合いとポジティブ度合いがどうなっているのかということを、まず客観的に捉えるということだよ。
例えば僕がねじれているとするでしょう。そこでこれからどう進もうかという対策を考えるわけだよ。その時に、そのベースになる心がどこから出発しているか。自分の内から観る視点と外から観られている視点の両方を捉えていくと、現状の自分の位置がわかってスタートしやすいよね。だってどこへ向かうにしても、スタート地点がわからなかったら始められないでしょう。

りょうちん:
僕は自分がねじれているからといって、けっこうブレーキをかけたりするんですけど、人から見れば「それやってみたらいいじゃん」て言われたりするんですよね。それがすごく多くて、そういうことにブレーキかけて無駄なエネルギー使ってるなって思うんですよ。

いさどん:
そう。余計なことをしてるんだよ。それってエネルギーがもったいないよ。

りょうちん:
そう。そういうことを聞きたかったんです。

いさどん:
もう答えが出ちゃったじゃん。そういうことなのよ。
そこで、自分がいかに無駄なことをやっているかということに気が付かないといけないんだけど、長年やっていると、それが自分のくせであってもこの世界の道理だと思い込んでいるわけだよ。それを自分のくせだと気付かなきゃいけないね。
僕は理屈人間だから、何かをする時にこれってもとは何だったのかということをいつも考えてるよ。だから回答が出てくる。だけどそれが、自分に囚われた分析じゃダメだよ。そこには必ず他者と自分とがあって、その中で整合性を取りながらやることだから、例えば自分に欲の心があれば偏っていって道理から外れていく。だから、常に客観的な視点を持って分析を進めながら、最終的には自分にとって受け入れられるところへ落としていく。そういう心の器用さが必要だね。

りょうちん:
そうですね。そこで全体というか、男性全般はどう取り組んでいったらいいでしょう?

いさどん:
男性を元気にするということか。それは、例えばものごとが成り立つには「ヒフミヨイムナヤコト」とあるように、順序があるんだよ。そうしたら、いきなり男性全般をどうするかという話にいくのではなくて、自分からとりあえず始めることだよ。すると、それによって周りが「あれ、りょうちん変わったね」となっていくでしょう。

りょうちん:
そうですね。僕の傾向ですね。推進力が弱いからみんなでやろうとしてる。

いさどん:
まずは周りが「りょうちんどうしたの」って思うくらい、あなた自身が輝いてみせることだよ。あなたの特徴は変化球を投げられることだから、ストレートしか投げちゃいけないと思っていた人は、りょうちんの変化球を見た時に「それもありなんだ」と思うでしょ。今男性たちに元気がないのは、自分を出すと一緒にくせも出て叩かれるから、臆病になっているんだよ。そこで「そういうやり方もありなんだ、それでいいんだ」と思えたら、みんなとても楽になるよね。その代表としてやるのに、あなたはいい人材だね。

りょうちん:
そうするとやっぱり怖がってちゃダメですね。自由にやっていかないと。

いさどん:
怖がるということは、その怖さの実態がどこにあるかということを考えないとね。

りょうちん:
そうですね。自分を崩すことを怖がってるだけですよね(笑)。

いさどん:
そう。それはつまり、相手から何かが来て怖いんじゃなくて、自分の囚われが壊れるのが怖いんだから、実は壊さなきゃいけないんだよ。その壊さなきゃダメなものを大事に握りしめているんだよ。

りょうちん:
そういうことですね。

いさどん:
何かを必死に手の中に握って、自分を守り続けている。必死だからすごく力が入って手に汗握っているんだけど、ふっと我に返って「あれ、何で手に力が入ってるんだろう」と開いて見たら、その手に持っていたはずのものがみんな砂になってこぼれて、そこには何も残らなかった、というようなことだよ。何もないのに力だけ使って、もったいないでしょう。だから冷静にならなきゃいけないんだよ。

りょうちん:
なるほど。そこにも冷静な分析が必要なんですね。

いさどん:
冷静な分析は常に必要だよ。何かが起きた時に、その時は新鮮だからびっくりしてもいいけれど、冷静に分析すればこれは起きるべくして起きたということが観えてくる。そうすると、それに対して対策をする必要があるのか、それともしばらく放っておけばいいのかという見通しも立てることができる。どんな時でも落ち着いて、冷静に対処できる心が男の器だよ。そういった大きなスタンスに立って分析をしないと、無駄をやることにもなる。

りょうちん:
冷静に落ち着いて対処できるのは男の特徴ですか?

いさどん:
冷静に落ち着いて対処できる状態に到達した人はそうなるということであって、それが男だけの特徴だということではないね。その人の心の段階がどの位置にいるかということだよ。
男と女の性質の違いで言うと、女性は具体的に創り上げていく役割だから、そんなに大きな視点は持てないんだよ。

りょうちん:
ああ、そうですね。現実的ですよね。

いさどん:
男は現実だろうが夢だろうが、ずっと向こうの方まで見通す柱を立てる。男のロマンというのはそういうものなんだよ。な?

りょうちん:
うん。

いさどん:
女性からしたら「何言ってるのよ」と言われたりしてね(笑)。

りょうちん:
「そんなことより生活成り立たせなさいよ」って(笑)。

いさどん:
それでも、希望があればいいんだよ。女性が食わせてくれるから。

りょうちん:
ああ、なるほど。女性が支えてくれるってことですね。

いさどん:
そう。その夢にちゃんと道理が通っていれば、女性がスポンサーになってくれるんだよ。それが支持されるということだよ。もっと現実的な柱を立てる男がいてもいいけどね。それはそれで、「この人堅実でいいわ」と女性に支持されるよ。そういったことを器用に使い分けられる男性はモテるよ。
だから、いろいろあるのだから、それぞれ個性的でいいんだよ。バカばっかり言っていても、あの人の人生ってあっけらかんとして心が楽になるわ、ということもあるんだよ。そこで多方面に整合性がとれていたら、それは仏の世間解(ほとけのせけんげ:仏とは、仏の境地に立った者。男でも女でもない意識の状態の者が、様々な経験をしたかのように世間を理解していることを、仏の世間解と言う。)だね。もしかするとアシアトウアンなのかもしれない。

りょうちん:
わかりました!

いさどん:
そういうふうに、自分と向き合って、現状の自分を突破しようとする意欲があることによって初めて、今のような話が湧いてくる。これはあなたに話したことだけど、他の人にとってもとても重要な話だよ。世の中にも伝えたい話だ。そういった意識になると、自分の存在が人の役に立っていくんだよ。

りょうちん:
はい。ありがとうございます。

いさどん:
何を聞かれても、とりあえずここ(と言って自分の頭を指す)からは、今のところ無尽蔵に智恵が湧き出てくることになっているからね。

りょうちん:
やっぱり僕には自分で考えたいっていう欲求もあるものだから、何でも聞くわけではないんですけど。

いさどん:
それでも、ポイントのところは必要だよ。自分の得意分野とそうでない分野があって、それはその人それぞれの個性でしょ。その個性を生かせばいいんだけど、個性に囚われてはいけないね。足りないところは他からもらって足してあげればいいんだよ。それには柔軟さと腹の大きさがないと、できないね。

りょうちん:
自分で取り組み始めたところなので、それに対してこの方向で大丈夫かなと確認したい思いもあります。

いさどん:
そういった状態にあなたがなったということはとても喜ばしいことだから、こちらも意欲的に話せるね。そういうふうに自分が開いていく状態の意識の時と、閉じていく状態の意識の時があるんだよ。閉じていくというのは、守りに入ること。だから閉じていく時に開いていくための話をしても、入っていかないね。いつでも開いていく意識で人生を生きていけたらいいけれど、人生にはいじけていく流れの時があるからね。

りょうちん:
僕、だいたいそうでした(笑)。

いさどん:
おもしろいことに、そういう時にはいじけることを自分の特徴として、それに執着するんだよ。だから、開くための話をもらえばもらうほどいじけていく。そういう人は放っておかないといけないね。

りょうちん:
行くところまで行かないと。

いさどん:
そう。行くところまで行くと逆転するから。それを変につつくと抵抗が生まれるから、いじけることを長引かせることになる。放っておけば、その人のいじけキャパというのがあるから、そこまで到達した時に自分ではっと気付いて、逆転の発想が生まれてくるんだよ。

りょうちん:
そういう場合は全然声をかけなくていいんですか?

いさどん:
いや、こちらの存在は伝えておかないといけないね。だから種だけ蒔いておくんだよ。今言ってもわからないから、必要になった時に来いよ、くらいの感じでね。

りょうちん:
プライドは刺激しないんですね。

いさどん:
そうだね。それでも多少はプライドも崩してあげないといけないよ。なぜかと言うと、プライドを崩しておかないと、そのプライドがいつまでもこだわりになってしまうから。本当に自分のためを考えたらそれでいいのかよく考えてごらん、ということは伝えておくといいね。
今のままでいいんだよ、なんて言ったら、修正しなければいけないこともしなくていいことになってしまうでしょ。そうすると、その人のくせはそのままの状態でいくから、一見元気になったように見えたとしても、いずれ必ず問題ごとにぶち当たる。だからやっぱり、ものごとをバランスよく観て、人には修正しなければいけない時もあるよ、ということは常に伝えながら、相手の意志も尊重していくことだね。

今の世の中は、自分を振り返らない人間が生き生きするための手法はすごく人気があるんだよ。低いプライドを保ったまま生き生きするニーズがあふれていて、みんなお金も暇もあるから、表面的に心地よくさせてくれるところに人がたくさん集まってくる。人が集まってくるからいいことをしてるんだと勘違いしている人が多いけれど、そういった勘違いから人の心をくすぐって、お金儲けをしようとする罠が世の中にあふれているんだよ。そしてその結果、今の混乱した世の中がさらに広がっていくことになる。
自分の精神状態を冷静に分析して、きれいにしていくことの価値を知らない者たちは、囚われの部分を残したまま心地よいことだけを求めていくから、そういった罠に引っかかるね。そして一時的に心地よい気分になったとしても、自分の精神が根本的に改善されたわけではないから、何回も罠にかかることになるんだよ。それはある意味マインドコントロールだから、その罠に引っかからないようにいつも伝えているんだけどね。

りょうちん:
だから木の花は、現実の生活に反映された情報を、社会に対して提供しているんですよね。

いさどん:
そうだよ。情報は提供するけど、押し付けはしない。なぜかというと、お金儲けが目的じゃないからね。その気になったらおいで、というスタンスだよ。

世の中は今、本当に大切なものは何なのかを見失って、そのピーク迎えている。そこでいよいよ、人々の本物探しの心がうずうずとうずき出す時が来たんだよ。それは、今までのような表面的な心地よさを求める浮かれた時代とは違って、人々の心が安定し、不動の柱のもとに日々を生き、一人ひとりに世の中を組み立て直していくくらいの心構えが必要とされる、切り替えの時が来たということだよ。
その時代の意志に一人ひとりが気付いて、男も女も、みんなが充実した日々を送れるよう、心がけていくことが大切だね。