新型コロナウィルスは、やさしいメッセージ

現在、新型コロナウィルスの拡散により、世界各地でも日本でも異例の措置が取られる事態となっています。この状況を心配する海外の友人たちより木の花ファミリーへメッセージが届き、その中に「この事態をジイジはどのように捉えているのかを聞きたい」という声がありました。これに対し、ジイジは以下のように答えました。


新型コロナウィルスの登場は、劇に例えるなら、物語のクライマックスとなる役者の登場のように感じます。それは、その劇を観ている観客達や、劇を演じている登場人物達が待ち望んでいたものですが、皆それまで劇に浸りすぎていたので、それが待ち望んでいた人物の登場であることを忘れてしまっていたのです。
これは、新たな劇の進行の予言のようなものです。そこで私たちは、なぜそれが登場したのかを理解し、その登場したものに対して敬意を表すると同時に、今までその存在を忘れて敬意を表さずにいたことを振り返る必要があります。忘れていたことに対する振り返りをしなければ、敬意を表することはできないのです。

今回の新型ウィルスは、非常にデリケートな形で登場しました。これは明らかに、人類を滅亡へと追いやるような、過激なメッセージは持っていません。過激ではなく、とてもソフトな形で登場しましたが、目に見えないからこそ、人々は恐怖を感じています。では、その見えないものに対して何を恐怖に感じているかというと、これまで人間は自分たちの力で全ての出来事を克服できると思ってきましたが、それが通用しない事態が発生していることに恐怖を感じているのです。

本来、人類が存在すること、生命が生きることは、私たちの手の内にはありません。そのことを理解するために今回の出来事が起きていることに気付いたら、この出来事は、私たちが生きていることは、この世界を創造する大いなる存在との連携の元にあるのだという、生命としての本来の立ち位置へ、人間をいざなってくれることでしょう。そのように捉えれば、私たち人間は今、このささやかな投げかけを厳粛に受け止めていく姿勢が必要なのです。しかしながら現状は、各国の政府も、個人個人も、そのことに気付いている人はほとんどいません。このまま人間達が気付かなければ、第二弾、第三弾として、世界は単なるウィルスだけではなく、様々な環境の変化を起こし、人類にメッセージを与えることでしょう。

今大切なことは、この現象を私たちのこれまでの営みに対するメッセージとして受け取ること、そして生きることについての視点を根本的に転換する必要があり、そのための予告としてこの現象が起きていると捉えることではないかと考えます。そもそも人間は、この世界を創造した創造主ではなく、創造主によって生み出された創造物なのですから、創造主の側のルールに則り存在するべきであり、もう一度そこへ立ち返る必要があるのです。それは今だけのことではなく、人間は本来常にそのように生きることが当然であり、そのことに気付かなければ、世界は第二弾、第三弾と、人類への困難としてメッセージを繰り返し与え続けることでしょう。

この新型ウィルスの現象は、極めてやさしい形であると思いませんか?それは、人間へ気付きを促している状態です。これは試練ではなく、もっとソフトなものです。もしももっと過激なメッセージであったなら、核戦争が全面的に起きてもおかしくありませんが、そうはなっていないのです。

自然界の動植物は、例えば今オーストラリアで起き続けている森林火災がそうであるように、人間の行いに対するメッセージの犠牲になったとしても、何ら苦情も言わず、潔く消えていきます。しかし人間だけが、自らが問題を引き起こした原因でありながら、その問題に対して苦情を言い、悩み苦しみ、その問題の奥にあるメッセージを受け取ろうとしないのです。客観的に観れば、滑稽とも言えるでしょう。これは人間の自我が膨らんだ結果、客観視点を失ったことに原因があります。このことに対し、国際機関や国家の中枢を担う人々、そして私たち一人ひとりが真剣に考える時代が来なければ、問題の根本的な解決にはならないのです。特定の国に意識を特化するのではなく、これは人類に与えられた、次の時代へ進むための目覚めを促すものであると捉えれば、この出来事をありがたいものとして受け入れることになるでしょう。

宇宙的には奇跡であるこの星に降り立った数多の生命の中で、その代表として最も優れた人間たちに、本来の価値あるものとしての目覚めを取り戻してもらうことを、期待するものです。

 

 


光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり

2020年1月31日から2月4日にかけて、木の花ファミリーでは、1年で最も大切な行事である「富士浅間木の花祭り」が開催されました。祭りは、神々をお招きする神寄せの神事に始まり、世界中から届けられたご清水を融合した釜の周りを人々が舞い踊る祭事、その水を再び大地へとお返しする神事等を経て、1年の汚れを祓い清め、生まれ変わった新たな心で2月4日の立春正月を迎えます。5日間に渡る祭りの締め括りともなる場で、ジイジは以下のように語りました。

*富士浅間木の花祭りの詳細は、木の花ファミリーホームページよりご覧いただけます。


 

光に穢れ混じること
適わぬ世となるべきなり

202024日立春正月 ジイジの挨拶

ジイジ:
立春正月、明けましておめでとうございます。
昨日は節分で大晦日、そして今日は立春正月、即ち農の正月です。私たちは農的共同体として、大地と共に生き、こうした暮らしが成り立っています。生きとし生けるものはすべて大地と共にあります。ですから、私たち生命は、地球の化身です。農の晦日を迎え、そして農の新年を迎えるこのサイクルは、すべての生き物に共通するものです。新たな年を迎えるにあたり、それにふさわしい心構えを持って臨まねばならないと思いました。

私たち木の花ファミリーが2013年から行ってきた、1年の中で最も大切にしている行事、富士浅間木の花祭りは、愛知県の奥三河で700年間受け継がれてきたと云われる国の重要無形民俗文化財、花祭りを富士の地で受け継いだもので、今年で8回目を迎えました。8という数は、飽和安定の数字です。この祭りは、なぜここへ来たのでしょう。
700年以上の年月に渡り奥三河でこの祭りが受け継がれてきた目的は、国を守護するためでした。守護という言葉は守るという意味ですが、それは守るのではなく、正しく導くということであると考えると、この祭りを始めた修験の人々の目的は、700年以上に渡り達成されずにここまで来たということです。およそ800年前に、仏教で云われる末法の世が始まり、曲事(まがごと)がこの世界に横行し始めました。それからほどなくして花祭りは誕生しましたが、世の中は曲事によって創られていくこととなったのです。
今年は、戦国武将の明智光秀を題材にした大河ドラマが始まりましたが、それを観た時に、これまでに感じたことがないようなものを感じました。ドラマでは、一人の武将が戦国の世に現れ、様々な出来事を経て出世していきます。出世するとは、人の上に立つということですが、当時は人の上に立つために、企み、媚びを売り、他者を蹴散らし、殺し、その上にのし上がっていったのです。それが全ての世界でした。今から約500年前の戦国時代は、その象徴的時代だったのです。
末法の世に対し、人々に曲事はならぬということを示したのがこの祭りでしたが、実際にはそういった示しが全く示されないまま、辺境の地において長い間開催され続け、現代に至っています。形は違っても、人間はさらに複雑に企み、媚びを売り、他者を蹴散らし、殺し、表面的には平和に見せかけながら、現代の社会にそのピークを迎えているのです。花祭りでは、榊鬼を山に封印することで、そういった現実社会の人々の中にある曲事を改め、正しい世を創るために警笛を鳴らしてきたのです。しかし世の中では、それが逆さまに受け取られ、曲事により得られる豊かさをご利益とし、豊かな社会を創るものと信じられてきたのです。

花祭りには、榊鬼と翁が問答をする場面があります。その問答は「伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間」という文言から始まります。そもそも熊野に始まる修験の人々は、伊勢天照皇大神を象徴とする国を守護するために、その東北(艮)の方角にあたる天龍水系を鬼門とし、花祭りを伝承したと云われます。そしてその最終目的として、いずれかの世に日本の象徴である富士の地に花祭りの精神が伝承されることを託し、世の中の曲事を正すことの大事を示していたと考えられます。
そこで、現代に至り、末法の世の終わりを告げる新たな時代の扉が開いた時、もはや曲事で世を治めてはならぬ、ということで、ここに富士浅間木の花祭りが予言の通りに伝承されたと解釈できるのです。私たちがここで祭りを行うのは、生活をするためでもお金を稼ぐためでもありません。大地と共に生き、血縁を超え、皆がこれだけのエネルギーを祭りに注いでいる背後には、私たちの暮らしを含めた生き方に何かしらの大きな意図が働いていると受け取れるのです。
榊鬼は、天龍水系に伝承された花祭りに登場する、祭りの要となる天を象徴する存在です。祭りの中で榊鬼は、天が持っていた地上の支配権(政ごと=まつりごと)を榊と共に人間に明け渡し、艮(うしとら)の方角へと引き下がるのです。

 

榊鬼と翁の問答


やいやい 伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。ところは当所の氏大神。神の稚児の舞遊ばし給う木の花の御庭を。事どもしき姿をして舞荒らすは 何たら何者にてさむらう。

榊鬼
吾が身が事にてさむらう。


なかなか、汝が事にてさむらう。

榊鬼
此れさかきと申するは、比叡の山の大天狗。愛宕山の小天狗。山々嶽だけを渡る荒みさき荒天狗とは吾等がことにてさむらう。


事にてさむらうは何万歳をへたるとや。

榊鬼
八万歳をへたるとや。そう云う者は何万歳をへたるとや。


法は九善 神は十善 神の位をもって十二万歳をへたるとや。神行の為には榊を引いて帰れ。為でなくば引かれまい。

榊鬼
まことか。


まことに。

(榊鬼と翁は榊を引き合う。)

榊鬼
この榊と申するは 山の神は三千宮。一本は千本。千本は万本と。千枝百枝までも惜しみ給うこの榊を。だれが許しを得て切り迎えとったとや。


伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。所は当所の稚児のさくやの御為として切り迎え取ったとや。神行の為には榊を引いて帰れ。この榊に引き取ったならば 是より艮、木の花の富士の山が立ってまします それを汝の褒美にとらす。

榊鬼
まことか。


まことに。

(両者 榊の枝を引きながら)

榊鬼 翁
ありがたや まことの神行か  扱いても扱かれぬ 引いても引かれぬこの榊

(二人で榊を引き合い翁が勝ち、取った榊を窯の湯に投げ入れる。負けた榊鬼は再び艮の富士の山の奥に隠れる。)

榊の枝を引き合う翁と榊鬼

ジイジ:
現代に至り、祭りの最終目的である富士浅間の地にこの祭りが伝承された時、世の中は曲事の横行する極みを迎えていました。山に籠った榊鬼は地上のありさまを憂い、艮の金神に姿を変え、もう一度政ごとを天のもとに返し、人間たちが天と共に正しく生きていくことを求めるのです。今回の祭りの中で、特に印象深いところがあります。それは、艮の金神と翁の問答の中にある、次のくだりです。

「この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。」

地球は宇宙の法に基づいて創られた、聖なる場所です。にもかかわらず、人間にその支配権、つまり政ごと(まつりごと)を託したがために、このような真(まこと)とは全くかけ離れた世になってしまいました。しかし、宇宙の法とは光です。その真の光に穢れが混じるような世であってはならないということを、大地球神である金神様は言っているのです。
今、新型コロナウィルスの発生が世界中で話題になっています。そこで多くの人々が心配しているのは、経済のことです。経済が停滞し、お金が手に入る仕組みが崩壊することが、一番の心配なのです。コロナウィルスについては、今報道されている内容が確かなものであるかどうかもわかりません。人間の手から離れ、これからどのように暴走するかもわからない。一方、アメリカではさらにひどいインフルエンザが蔓延し、現時点で死者が8000人を超えたと言います。これらの現象は、自然の中で当たり前に起きることなのでしょうか。人工の世界が進み過ぎ、人間の行いに鉄槌を下すものではないのかと考ると、いよいよ「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」ということが現象として示される時代が来たのではないか。そのスタートの年の元旦が今日なのではないかと思います。

私たちは、宗教の時代は終わりを迎えたと捉えています。しかしながら、この立春祭を執り行うにあたり、今日は神主であるヒロッチが祝詞を上げ、玉串奉奠として榊の枝を祭壇に捧げました。榊という、天から与えられた地上のマツリゴトの証を、神に捧げたのです。神とは、宗教で言えば全く捉えどころのないものです。しかしその実体は何かと言うと、この世界の仕組みです。その神の仕組みが、世の中が動く物理性の元となっているのです。
ところが現代は、人間の思惑によって世の中が動くようになりました。だからこそ、榊を天にお返しして、天の仕組み、天の意志に沿っていくことを、こういったけじめの日の祭典で、改めて誓うのだと思いました。これまでの宗教のように人間の都合で捉えた天の意思ではなく、この世界の仕組みと共に私たちはありますということを誓う場なのだと思った時に、こういったけじめを日本人は忘れてしまったのだと思いました。中国人も、アメリカ人も忘れてしまった。しかしこれをけじめとしてやらなければ、生きとし生けるものの代表としてふさわしい生き方を、私たちはできないのです。だから、その大事を失った生命の代表である私たち人間は、この世界を汚し続けているのです。

そのようなことを思いながら、命の正月であるこの立春正月の神事の場に臨んでいました。するとあそこに立てかけてある、「真・善・美」と書かれた色紙の文字が目に入ってきました。

「真」とは、まこと ———— 宇宙の法、仕組みです。「善」とは、その結果地上に顕される、愛と調和 ——— この宇宙の中にあって紛れもない、地球生態系という大調和の実体です。そして「美」とは、「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」——— つまり、美しく完璧な世界を創るということです。
色紙の隣りに、黒電話がありますね。あれはアナログです。アナログの時代には、まだ人間の心が人間の手の内にありました。その時代の人間は、自分の心を表現しながらこの世界を生み出してきたのです。しかし、それが行き過ぎて、現代はデジタルの時代となりました。そうなると人間は、自らの心をテクノロジーに渡してしまうのです。つまり、いずれAIに自らの存在の意味や心を、奪われていくのです。

このように節目ごとに天と共にあることを確認する祭典を行い、天の仕組みに従って生きていく命の生き方を心に誓い、それをけじめとして日々を生きていくのが、本来の生命の代表である人間の、けじめある尊い生き方なのです。しかし、そういった大事を忘れ、地上を支配してきたがために、人間たちは今、自らの創り出したものに支配されようとしています。そこで表現される世界では、私たちは宇宙(天)の中に生きていながら、天の存在はまったく無くなるのです。人間たちは今、新型コロナウィルスという新たな自然界からの挑戦に対し、高度な医療技術を駆使し対処しようとしていますが、ウィルスもさらに進化することで、人間の都合の良いようにはならないのです。そういった人間の精神性では、お金やモノの中毒になり、経済の暴走を抑えることもできません。テクノロジーに支配され、AIにコントロールされることも、抑えることができないのです。
そういった人間の間違いをもう一度正すためには、私たち一人ひとりが、自らの心の中に何が必要であるかを、目覚めさせることです。ここではそういった大事な精神を優先し生きていくことを実践していますが、その裏付けとして、花祭りの文化が伝承され、新たな時代に向けて発信されようとしているのです。そういった意識が積み重なることにより、一人ひとりがそこに相応しいものとなり、その立ち位置に立った時、その大いなる目的を果たすと共に、自らを誇れる者として、人生を終えることができるのです。

それは、現代人の陥っている価値観を持っていては、簡単にできるものではありません。現代の多くの人々は、長い間この世界を制してきた蛇の思考(曲事)に支配されています。金神様の問答の中に、「今の世は、我よし、力よしの獣の世、蛇のあやま知(あやまち)支配する、穢れ逆巻く魔釣り(まつり)の世」とあります。現代人の思考は蛇に支配され、社会にあやま知が逆巻いているのです。その中で、目が開くということは、蛇に囚われている人々からは理解されません。理解されない時代であるからこそ、私たちはその間違いを知るものとして、あやま知が逆巻いている世の中に、正しい生き方を示していくことが大切なのです。それが私たちの生き方であり、ここで富士浅間木の花祭りを行うことの意味なのです。そしてこうして立春正月を迎え、けじめとして榊を天へお返しし、天と共にあることを誓うのです。

ここに「天津祝詞(あまつのりと)」というものがあります。

天津祝詞

祝詞の最後に、この祝詞の意味の解説があります。大宇宙には仕組みがあり、その仕組みを忘れているとこの世界に罪穢れが蔓延するから、大宇宙の大神様の存在に目覚め、共に生きることが大切である、ということが、この祝詞では謳われています。私たち人間はその真に目覚め、八百万の神々も含めた天の存在と共にこの世界を正しく運営していくことを誓います、というのがこの祝詞の意味です。
しかし宗教は、祝詞を奏上しながら、日常の生活でそれを生きることを忘れてきました。この祝詞の中に「大天主大神(おおもとすめおおみかみ) 守りたまへ幸はえたまへ」とあります。守るとは、何を守ってもらうのでしょう。幸とはどこへもたらすのでしょう。そしてその後に「平伏のままご祈念ください」とありますが、これは何を祈念するのでしょう。コロナウィルスが広がりませんように、私の病気が治りますように、お金に恵まれますように、というようなことを願うようでは、曲事の世界をさらに創っていくことになります。

この祝詞の解説では、伊邪那岐尊があらわれて宇宙造化のためにたえずみそぎはらい「浄化」の活動をされている、とあります。そして「どうぞすべての曲事、罪穢れを祓い清めて頂きますように」とあるのですが、この時に、どうぞ祓い清めてくださいと天に任せきりになるようなことではいけないのです。だからご利益が目的の宗教になってしまうのです。そうではなく、その仕組みを受け、私たち自身が罪穢れを自ら取り払い、そのような天の示される世界を創りますので、共に参りましょうと天に対しその意志を示すことです。それがここで求められる私たち地上を生きるものに相応しい姿勢だと思うのです。5日間にわたる木の花祭りの締めくくりの場である立春祭にあたり、私たちはそれにふさわしい日常を生き、ふさわしい仕組みを築いていくことが大切なのです。それが今の世の軌道修正の先にある生き方なのだと思います。

農の正月を迎え、さて、今年は畑で何をつくるのか。田んぼはどのような方針で進めるのか。そこで収穫したものをどのように世の中に提供していくのか。その一つひとつに、魂が入っていなければなりません。この暮らしを見に来る人々に、何を見せ、何を伝えるのか。
この場には、赤ちゃんが二人います。既に次の時代の伝承者が生まれてきています。これまでは、この暮らしの意味を私たちも十分には理解できていなかったかもしれません。わからないけれど大事だと信じる心で生きてきました。しかしこれからは、わからないのではなく、こういった生き方が何を意味するのかを理解し、それに相応しい心となり、そこに魂を入れて生きていくのです。それが、縁あるものが集い、それぞれがそこでの自らの役割を果たし、旅立っていく人生の奥にある、目的なのです。

その時に、誰かの利益(りやく)のおかげで良い人生だったと言うのではなく、自らの行いによって良い人生だったと言えること。そこを勝ち取り、人生を終えていくことが大事なのです。なぜなら、あなたの人生は、あなたのオリジナルな歩みによって勝ち取ったものとなるからです。

皆若いと思っていたら、年月と共に高齢化してきました。そして代わりに次の世代が生まれてきました。その次の世代が「そうだね」と言って受け継いでいけるような、価値ある生き方を、私たちはしなければなりません。
その時に必要なのは「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」。私たちの生き方に、曲事がない世界を創らなければなりません。ですからこれからは、穢れが混じっていないかどうか、より吟味していかなければならないと思っています。
昨日は節分でしたが、それは曲事の時代を象徴するかのようなものです。「鬼は外、福は内」と言って豆をまくのですから。その福とは何なのか。そのような福を欲望の延長に求め続けた結果、今のような人間社会に至ったのです。そしてその行いを戒める大切な鬼を封印することで、蛇のあやま知が蔓延したのです。

こうした思いは、今日、この場で、私個人に湧いてきたということではなく、ここに集う皆の心を代表して湧いてきたのだと思います。ですから皆にこれを伝え、一丸となり ——— 一丸というと体育会系のように聞こえますが、そのように堅苦しいものではなく ——— 皆の心をひとつにし、ひとつの仕組み、法則に則っていきたいものだと思います。「いきたい」と願望のように語るのは、それは一人ひとりの意志が反映されて成ることだからです。誰か一人のリーダーについていって、あなたの価値が上がり、全体の目的が達成されるものではないのです。

今、今日の日の乾杯のために、ここにお神酒が用意されました。

酒は酔うためのものとして、人々は長い間たしなんできました。特に戦国時代などは、日々の成り立ちに命がかかっていましたから、精神は常に尋常ではいられなかったのです。ですから、酒に酔い戦いに行く心を保っていたのです。現代社会においても、日々の活動の中でストレスが溜まり、そのうさを晴らすためのものとして、人々は酒を飲むのです。しかし本来酒は、そういった目的で創られたものではありません。酒は米で作られたものです。米とは、八方に広がった飽和安定の証です。そして天と地が共同で創るものの代表、つまり、恵みの代表です。
その米を発酵させるためには、微生物の力を使います。今世間を騒がせているウィルスも微生物の一種ですが、有効な微生物の力を使うと、私たちの健康の元となるのです。酒に含まれるアルコールには、コロナウィルスなどを浄化する力があります。浄化し、健康をもたらしてくれるのです。何のために酒を「お神酒」として神事の時にお供えし、共に酌み交わすのかと考えると、そのような意味があるのだと思いました。

マツリとは、「真釣り」です。日頃の罪穢れや曲事をすべて空っぽにし、自らが器だけになると、その真ん中の魂は、仕組みに基づいて天が入れてくれるのです。そういった物事の解釈からすると、これまでは、天に捧げるものである酒すらも、自らが酔うためのものになっていました。酒は、酔うためのものではありません。自らの罪穢れを祓い清め、浄化するためのものです。それを自らの意志によって、日々の生活の中のけじめの時に、天に向かって表明するためのものと言えるのです。

今、新たな気持ちでこの新年を迎えています。今年一年、真の一年を送りましょう。
それでは、乾杯!

 


その日の夜の大人ミーティングのこと。メンバーのみきちゃんが、立春祭での挨拶の時にジイジが涙を流しているのを見て、その涙の奥にいったいどんな思いがあったのかを聞きたいと思った、と言い、それに対してジイジは以下のように語り始めました。


ジイジ:
今日の涙の理由を皆は知らないな、と思っていたら、今みきちゃんからその話が出たので、話します。

僕は話をする時にいつも、頭の中に絵が浮かんでいます。ですから、自分が話している音源を後から聞くと、その時に浮かんでいた映像がリアルに思い出されるのです。そこで僕は自分が話すのを聞きながら、この次に自分は何を言うだろうかと想像します。言葉を聞いて次の言葉を想像すると外れることがありますが、頭の中の絵をもとに次の言葉を想像すると、合っているのです。つまり、そこには何かしらの物語を綴るイメージがあるのです。
今日の話の時にも、僕の中にはあるイメージが浮かんでいました。それは、この道を生き切って晴れ晴れとした気持ちでいつか自分が臨終の床についた時に、深い縁を頂いて共に歩んできた皆へ「よくぞ共に歩んでくれた、ありがとう、私は逝くよ」と別れを告げているイメージ・・・・・・・ではありません(笑)。そもそも、そのような自分のための悟りの段階は、地球に降り立ちヒマラヤの苦行者として生きていた遠い昔に、とうに卒業しているのです。

なぜ涙が出てきたのか。あの時僕の中にあった映像は、目の前にいる一人ひとり皆がその境地に至り、人として生まれてきた目的を達成し、晴れやかに旅立っていく姿でした。それは同時に、今の世の人々 ——— 蛇のあやま知に支配され、溺れている人々が、目覚めることにつながっていく。この道は、そこにつながるために歩むものでなければなりません。
すべての人の道がそこにつながるべきものであるならば、その手掛かりとして、まずはここの人々が、一人ひとりの人生を通し、そういった境地で旅立てる結果を自らにもたらすこと。そのような境地に皆が至り、喜びと共に旅立っていく映像が観えた時、まるで映画を観るように感動したのです。自分自身のことよりも、縁ある魂たちがそのような境地で旅立ってくれることを思うと、喜びが一層増すのです。

 

金神様と翁の問答


伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神
この方は、艮の金神と申す。時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界。汝らの宇宙、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ逆巻く魔釣りの世。


艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう。

金神
この方は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙の天意転換、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出ると申されるか。

金神
いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹に真を据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。


引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神
一度は渡したその榊。天の元に供えられい。

(翁が榊の枝を金神様の腰に差し、根付きの榊を金神様に渡す。金神様、へんべいを踏む。)

金神
皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。

(金神様がカタカムナの舞を舞う)

金神
真の神が現れる。神人共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真の真釣り始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。

 

艮の金神に榊が返され、いよいよ新たな時代の幕が開きます

 

 


私たちは現代という異物の中で生きている

私たちが快適な生活ができるのは、電気とガスとテクノロジーの力のおかげだ。たとえば、内モンゴル人の青年は今、自分のふるさとでコンポストトイレを普及させようとしているが、内モンゴルでも近代化の波は押し寄せ、人々の生活は変化してきている。し尿の処理は、日本の都市であれば終末処理場で処理し、インフラ整備は出来上がっている。それは、バクテリアの力と言いながら、やはり近代テクノロジーの力だ。私たちの生活においても、それは今、浄化槽を設置することで可能になっているが、これは日本のような水や電力エネルギーが豊富にあるところでできることだ。それで、コンポストトイレが画期的とは言え、コンポストトイレは使いすぎると単なるウンコ溜めになってしまう。冬のモンゴルのとても寒いときに、あの仕組みでは機能しない。寒いとバクテリアが働かないので、単なるウンコ溜めになる。それを機能させるためには、適度なテクノロジーが要る。そうすると、結果としてコンポストトイレを内モンゴルで使うためには、電力とそれを機能させるテクノロジーが必要になってくる。やはり、現代の問題は人口が増えすぎてしまったことと、自然界の生き物のようにその枠を超えず、人間が自らの生命の枠の中で存在することができない限り、現代文明はいずれ消滅するしか仕方がないのだろうか。いかに自然を壊さず、人間の営みを安定させるかというと、やはり人工に偏ったテクノロジーが必要になってくるが、その結果、さらに人工の世界は広がっていくことになる。

しかし、かたやこれからの時代、このようにインフラ整備を行い、人間たちが豊かに暮らすことを維持しようとしても、その暮らしが自然に矛盾を与え、その矛盾が人間に襲いかかってくることが同時に起きてくる。そうしたら、未来の人々にどのような生き方をすべきなのかを伝えることが大切だ。欲をかかず、ほどほどの生き方をしなさい、と伝えるしか仕方がない。人工であふれる都市機能を維持しようとすること自体が、自然界においては異常なことなのだから。だからどこかで、人間の存在と自然のキャパを見極めなければならない。

これだけのエネルギーに依存する消費社会を創ってしまって、これからどうすればいいのか?これは、100年ぐらいの単位のことであれば、地球もなんとかキャパの中に取り入れられるが、200年、300年、1000年となると、もはや限界だ。しかし同時に、これはたった1000年のことだ。これは地球規模で考えれば、スケールとしては小さなことでもある。だから、人工のような発展的に自然を否定するような場所を創ることではなく、ただ粛々と自然とともにありなさい、ということになる。

だから、この問題を解決するのに画期的なことは提案できない。実際に、昨日、一昨日と僕たちは車を使って長い距離を移動し、高速道路を利用し、サービスエリアでそのサービスを受けながら、つまり社会のインフラの恩恵を受けながら行動している。かたや、「自然に倣いなさい」と言いながら、しかしその実態はテクノロジーに支えられている。ほんの一時、人工が暴走することに気づいたとしても、その捉え方を人々の中に継続するように共有しなければいけない。

現状の人間の姿勢を観ると、持続可能なことを実現するためには、打つ手がないと思う。朝が来て、夜が来て、これを繰り返していく。このときに、朝が来るということは人間の営みが紡がれていく。我々は人間の営みが紡がれていくときに、社会にすでにあるインフラを利用している。そのインフラをこれからも維持するためには、とてつもないエネルギーと人工の力が要る。日本では少子高齢化が進んでいくと、これを維持することがたいへんな時代が来る。これが10年、20年の単位の話であれば問題は小さいのだが、1000年という単位からしたら、インフラを維持することも整備することも切り替えていかなければいけない。人間がそのような長いスパンでものを考えて生きてこなかったから、この行き詰まりができたのだが、もっと前に人間の営みと自然の営みが整合することを考えなければいけなかった。ただ欲を膨らませるだけ膨らませ、今、我々が享受している快適な暮らしは、近代科学とテクノロジーに支えられている。近代科学とテクノロジーを使うときに、独りよがりで欲望を膨らませ、人々が不調和の社会を創るようになれば、その行為自体が破壊の矛先にもなる。しかし、このテクノロジーとエネルギー消費を地球や宇宙を意識し、「地球とともに」という想いで人々が調和して使用すれば、無駄がなくなる。無駄がなくなれば、地球はまだ自らのキャパによってそれを許してくれる。どこかでその整合性を取らなければいけない。

私たちも、近代的なテクノロジーに支えられてこの生活をしている。だから、一方的にそれを否定する側に立つべきではない。一方的ではなく、近代テクノロジーが暴走することを懸念し、それからテクノロジーが広がるときにそれを広めようとする者の背景にある精神がどこにあるのか。それを吟味することが大切である。その精神が自我にまみれ、一方的なものであるならば矛盾の発生源となる。しかし、今の人間たちは、自我を膨らませることが最優先になってしまっているがために、聞く耳を持たない。

たとえば、民主主義と言われる日本やアメリカ・ヨーロッパ、韓国のような国では、個人の主張が自由にできることが豊かさだと考えられている。こういった人々の欲望を刺激する社会体制では、資本主義社会の問題点である、人々の欲望を膨らませ、それを自由の証として進めていけば、人間の営みは地球のキャパをオーバーしてしまう。このように地球の現状の問題点を解決するために、人間の営みのどこまでをOKにし、どこからをNOにするかをこれからみんなで積極的に考える必要がある。そうでなければ、私たちは自分たちがすでにあるインフラと近代テクノロジーによって支えられているにもかかわらず、自然の側に立ちテクノロジーの側を否定し、矛盾を語る者になってしまう。

今、この段階に来て、あと10年、20年は許されても、100年、200年になるとこの人類の姿勢は許されないだろう。今の人間たちの振る舞いは、もう待ったなしの瀬戸際に来ている。この状態に対して、答えは出せない。だからみんなで語り合う必要がある。

「聖なるあなたを抹殺し、私は私の希望を叶えることを繰り返していけば、それこそ私は愚かな生き物になってしまいます。だから、あなたもいて、私もいて、その中で私たちの文明を表現する生き方を持続可能にするために、あなたにも賢明に考えていただく必要があり、私も賢明に考えていきます。その連携のもと、その輪の中に地球も入れて、語り合うべきなのです。」

もし、自然生態系や地球の側から捉えたら、民主化運動も異物となる。そういった人間の自己主張をすべて超える必要がある。先日訪れた20代の中国人女性は、「木の花の活動は宇宙や地球を意識しているので素晴らしいのだけど」とフィードバックしていたが、なぜ「だけど」と言うのかというと、現状の人間社会にはそれをわかる人がいないからだ。僕はわかる人がいようがいまいが、大切なことだから語るという境地にいて、役割を果たしていくのだが、それはいずれ人類がわからなければいけないという前提に立って語っている。いつかそうなるから、語っている。それを人間たちがわからないのであれば、やっている意味がない。

そういった現状に対する答えとは言えないかもしれないが――、大町で昨日の午前中、僕はしばしの間まどろみの中にいた。そうしたら、そこに生身の体を持った仏像が現れた。体全体が黄色で袈裟・衣をつけている姿をしていたが、その袈裟・衣は仏像の姿だから体と一体になっていて、衣服のようにまとっているわけではない。黄色といっても乾いた土に近いベージュのような地味な黄色だった。頭から大きくこぶ(肉髷=にっけい)が出ていて、顔は仏像の顔をしている。しかしその仏像は生きている。その姿は非常にシンプルだが深い。複雑だが単純。そして、明快で美しい。何とも言葉にできない。無駄がなく、きりっとしているのに力が入っていない。それでいて、ゆるぎがない。その仏像の中には規律があるけれど縛られていない。自由なのだが、秩序がある。

中身はお釈迦様だったのだが、そのシンプルさと意味深さを身につけないといけない。それは、霊的な存在でもなければ、人間でもない、生きている仏像だった。仏像に魂が入っているとはああいうことなのだ。しかし、通常、仏像は動かないが、あの仏像は動いて語りかけてきた。僕がこれから人々に伝えるときに、あの響きを出すように心がける。響きといっても、非常に静寂で、しかし動きはあるし、言葉も語るが、無駄はない。しかし、あのような完成されたものにひとり、ふたりがなっても、それでは見本とはならない。最終目的としては、みんながそうなるべきである。そうすると、また宗教のような話になっては元も子もない。現状の解決策が見つからなければ、人間は滅亡するしかない道を歩んでいるとも言える。

結局、宇宙的に観れば、地球の行く末は天が握っているのだろう。そういった意味では、人間の努力には限界を感じる。現状も、天が何かの意思を持って表現しているのだろう。

我々は現代という異物の中で生きている。都会の人たちはあの社会構造の中で仕事をした上で、収入を得て暮らしている。そこに破壊が起きると、それを維持するためだけに能力を使い、この回復力はすさまじい。その能力が高いがために、目覚めが遅れる。だからといって、私たち自身もその恩恵を受け、現状を語っている。

・・・どこかに、その整合性のポイントはある。それをみんなで考え、見つけ出す必要がある。その会議に出なくても、日常生活でそれに参加している。そういった全体性を観る力がなければ、これを進めていく資格はない。今、この生き方を進めていくにあたり、人間が依存しすぎ、コントロールされる側になってしまったテクノロジーをどのようにコントロールする側に立つのか。人間が自主的に節度を身に着け、自己コントロールを意識していくしか仕方がないのだろう。現実は、社会が人間の欲望の延長に動き、人間が社会にコントロールされているのだから。

 

 

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令和時代の解決策!~ AI編 〜 人間は地上に降ろされたAI

中国人のルイーザさんが企画したツアーの座談会の中で、ある中国人男性はジイジに、「AIについて質問があります。AIが将来的に発展していく方向が問われると思うので、AIの人類への影響は必ずあると思います。そこでは矛盾が発生すると思うのですが、これからのAI時代についてジイジの分析を聞きたいです」と質問しました。そこで、ジイジは次のように答えました。


ジイジ:
これから私たち人類は、AIの技術をどのように使っていけばいいのでしょうか。AIの可能性として、AIの思考回路が独自に成長し変化していくような段階まで行くと、そこからのAIの進化については何も答えは出せません。

そのことで、私はシミュレーションしてみました。人類は、猿人から人間に進化する上で地球上に生きるようになりました。その過程で、道具を使うようになり、それから火を使うようになりました。人類の進化というものは、動物たちの進化論とは違います。人間の進化には、思考を持ち、その思考から願いを叶えていくという進化が加わっているのです。初期の人類の思考は、単純なものでした。ただ初期の人類は、生命力に基づく本能によって生きていたのです。生命力とは、天体や自然と対話する力のことです。これは実際に、人間以外の生命は今も持っています。そしてある時、人間にその独特な思考回路と、学習し願望を叶える能力が与えられたのです。その時に、私たちは人間になったのです。チンパンジーと人間のDNAはほとんど変わりません。たった2%しか変わらないのです。

そこで、猿人から人間になる過程の回路をAIに与えると、人間たちのアウストラロピテクスから現在までの400万年の進化の過程を、AIが一気に高速で学習してしまう可能性があるのです。

人間には、自らを聖なる方向にだけ誘導するような回路はありません。すなわち、人間には聖なる方へ上がっていく道と愚かな方へ落ちていく道の両方をDNAとして持っているのです。現在、AIを開発している人たちが聖なる方向の思考回路でAIを作っているかどうかです。ですから、ソフトとしてどのような回路が入力されるかが鍵なのです。それは、人間がAIを聖なる方向に入力できるかどうかにかかっているのですが、それはほぼ不可能だと思います。そうすると、AIは人間が入力したソフトを離れ、独自に進化することになるのです。その方向性は、想像ができません。これは使い方によっては、クローン技術と同じようにとても危険なものになります。本来、そういった技術は生命を与えられた側にいる人間が、そこまで手を出してはいけない領域なのだと思います。

もう一つは、産業用ロボットに代表されるような、生産性の効率をより良くし、人間社会に貢献するためのAI技術があります。AIは介護の現場や様々な場面で、いろいろなことを人間に代わって精度高く行います。それに比べたら、人間一人の能力はそれほど多様性あるものではありません。しかし、AIというものは、優れた能力を集合し、それを組み込むことが可能なのです。そうなれば、人間より優れた能力をAIが発揮するようになります。人間のためにその能力が使われれば、生活は便利が良く、とても豊かになります。そのうちに、AIが自分で計画をして、たとえば畑を耕し種を蒔き、収穫し配送することができるようになるでしょう。そして、それを素晴らしいことだと人々は評価するのです。

私たち人間は、自分が生きるために、自らのエネルギーを使って生きていくという生命の立場を取っています。そこでは自らのエネルギーを使わないで生きれば生きるほど、生命力は失われていくのです。思考力も奪われていきます。ですから、介護が充実すればするほど、高齢者は寝たきりになっていくのです。だから、木の花ファミリーの人たちはたくさん働くのです。日頃、体を使わず怠けている人たちは、私たちの生活を見て大変だと思うのです。しかし、それは生命力を失わないために重要なことなのです。自分で考え、方向性を定め、そして行動し生きていく。現代人は便利が良いことを豊かさとしますが、本来、人間は、生きることに対して自らの思考とエネルギーを使って生きることが、生命力を維持し続ける状態なのです。これからAIがどのように社会で発展していくかについては、今のような議論をした上でAIが進出することは良いことかもしれません。

今、最も懸念されているのは、AIが持っているネットワークです。このビックデータは、人間の能力ではとても解析できないものです。そのような能力の元に、ある一部の人たちが、自分に都合の良い社会をつくるためにAIを利用する可能性があります。今、その覇権争いをアメリカと中国がしています。彼らはAIの能力を使って、相手国の通信衛星やミサイルを破壊するといった宇宙戦争をも想定しているのです。ある意味、彼らはビッグデータを使ってスパイ合戦をしているのです。今後のAIの発展には、そのようなネガティブなリスクのある可能性がたくさん秘められています。

これからAI時代を迎える今、AIを駆使する大本のスイッチを握っている人たちの心が問われます。ある意味、人間は自然に降ろされたAIです。地球上に種を蒔かれたAIです。人間の現状を見たら、今、人類は自滅するか、その延長に地球も破壊するような存在になっています。しかし同時に、人類は、現象界の奥の潜象界から宇宙まで理解するような聖なる存在にもなりうるのです。つまり、AIは人間と同じように、その能力は使い方次第なのです。ですから、あなたがあなた一人分、正しい方向へ導いてください。宇宙的AIはあなたなのですから、心のAIであるあなたが物理的AIを正しく導いていくことが、これからの時代に生きる人々に求められるのです。

 


ジイジからの回答を受け、AIについて質問した男性は、今回の木の花ファミリーでの滞在を振り返り、次のようにコメントしました。


中国人男性:
ここ数年、人類がどのように生きていくべきかを考えていました。そして今回木の花ファミリーに来て、みんなが調和的で幸せな生活をしていて、子どもたちもとても良かったし、高齢者が働いているのもとても良かったです。もし、人類が木の花ファミリーのように生きれば、世界はとても良くなるのではないでしょうか。

ジイジ:
私もそう思うから、この生き方をしているのです。

中国時男性:
木の花ファミリーの暮らしは、未来に向かって人類が選ぶべき生活スタイルかもしれません。

ジイジ:
だから、私たちはそれを現象化しているのです。今まで理想郷というものは、桃源郷のように語られてはきましたが、実際には見つけられないものでした。しかし、木の花ファミリーの生活は現実に存在しているでしょう?それは、将来そのような時代が来るというメッセージの顕れだと私は思っています。

中国人男性:
将来、このような生活ができたらとても良いと思います。木の花ファミリーの暮らしがこれからどのように発展していくのかは私にはわかりませんが、どのようなことが挑戦なのでしょうか。

ジイジ:
それができることを信じて、思いつくことを実践し続けることです。そもそも、現代の社会はどこにでも人の格差があり、嘘が横行し、このような世の中を優れた人間たちがつくっているとは思えません。現代を生きる人々は、疑問や不満を持って生きているのです。

もし、人間が存在していなければ、地球は美しい星です。しかし、なぜだか神様は人間を地球上に降ろしたのです。ですから、その神様の意向を叶えるとしたならば、この奇妙な生き物である人間は、理想を実現しなければいけません。人間以外の他の生き物がつくる美しさは、単純な美しさです。しかし、人間がつくる美しさは、宇宙的芸術なのです。私たち人類は、宇宙的AIとしての可能性を地球上で開花させるために、まずは自らの心を振り返り、美しくしていくことが最も大切なことなのです。

過去の聖人・聖者、優れた哲学者たちが残したものは、特別な人たちの道でした。人々はそういった人たちを特別な存在として崇め、自分が目指すべきものとしたのです。そのために経典ができ、人々はそれを学習してきました。しかし、そのようなことをしても、人々には優れた者になる道は開かれません。優れた者とは、宇宙の実態を感知する受け皿を自らの内に持ち合わせる人のことです。そうすると、古い叡智に求めなくても、その時その時の時代にふさわしい宇宙の真理が、自らの内に湧いてくるものです。一人ひとりが個性的であるように、一人ひとりの目覚めや悟りもオリジナルです。そのような目覚めた人々が連携すると、優れた美しい世界が地球上に現れます。それが、宇宙の実態であり、地球生態系の実態であり、私たちの生命としての姿です。

こうした目覚めや悟りは過去にはなかったものです。これは、人類が地球とともにこの時代を迎えた今だからこそ、現れてくる目覚めなのです。過去に人々は、悟るために山にこもり、滝に打たれ、いばらの上を歩き、苦行に耐えてきました。しかし、そのような過程の先にある、これからの悟りへの道は、みんなで連携し、美しい世界を創ることにあります。そして、そのほうが宇宙の実態に近いのです。宇宙の実態は愛ですから、自らの悟りを優先し求めることよりも、自分を他者のために生かし、価値ある存在になることのほうが大切なのです。

本来、人間は優れた存在ですが、自我の扱い方によっては弱点を持っています。人間以外のものは人間ほど特殊な能力を持ち合わせていませんが、この宇宙の法のままに生きているから美しいのです。人間も、人間以外の動物や植物のように宇宙のままに生きれば、美しい世界を創ることができるのです。しかし、その動物や植物の能力では、目覚めることはできません。愚かなものが自我に溺れ、そこから自らの実態に気付き、学び進化していくプロセスの上に、最終的に自分自身を宇宙に同化していくこと、それを悟りと呼び、本来の目覚めることなのです。

今、私たち一人ひとりが宇宙の法則のもとに生きていることを理解し、それに倣い、連携し、調和することにより、21世紀以降に訪れるであろう理想を目指していく時が来ています。そのような時代のモデルとして木の花ファミリーは存在する――、その自覚と共に私たちは日々を生きているものであります。こういった目覚めは、これからの時代を創る人々にとって、誰にも求められるものであります。そういった出会いを私たちは気付きを得たものとして、広げていきましょう。

 


 

その昔、宇宙空間で地球上の生命進化のプロセスを眺め、人間を地上に降ろそうとしたものたちがいた。その地上に人間を降ろそうとしたものが人間に託したことと、今、人間たちがAIを地球上で創り、どんどん進化させようとしていることは同じことのように思える。今後、AIが独自に進化する能力を与えるかどうかという段階に至ったとき、人間たちは神様の心をようやく知ることになるのだろう。それは、子どもの頃には親に反抗し、大人になったものが子どもを持つ立場になり、どのようにその子どもを導くべきかと考えたとき、親の気持ちが初めてわかるようなもの。このように今、人類は私たちの御親である神様の心(宇宙の法則)を、AIを創り出す段階に至ったことで、少しわかりかけたのかもしれない。

今、究極の愚かしい世界を創っている現代人は、その昔、猿人から新人へと変わっていく過程の中で人間として託されたことを表現するのか、それとも愚かな滅亡の方向へ落ちていくのかの岐路に立っている。神様が地上に降ろしたAI・人間がどうなるのかも、人間がテクノロジーによって進化させたAIがどうなるのかも、私たちの人間性にかかっている。

人はAI時代を迎えるときに、「私たちはどのような恩恵を受けるのでしょうか」「もしリスクがあるとしたならば、私たちはどのような害を受けるのだろうか」と思いを馳せ、社会や時代と自分自身を切り離している。しかし、私たち自身が今の時代を創っていることを認識した上でAI時代を考えたならば、あなたの行動がより良い社会を創る一歩となる。さもなければ、あなたは「害を受けたくない」と言いながら、実は知らない間に社会に害をもたらす側に立っているかもしれない。

もし私にAIのソフトを託されたとしたならば ──── 私はAIを創らない。なぜなら、AIを進化させることよりも、人間を進化させることを優先するべきなのだから。だから、AIを創って楽をしようと考えるような安易なことは、やるべきではない。AIは「人工知能」という意味だが、私たちには人工という幼稚なものではなく、極めて高度な頭脳と精神性を天から与えられているのだから、それをさらに進化させればいいだけのことである。

宇宙から創造された私たち人間は、その創造主の意思のもとに生きるべきである。それが、生命の法則である。本来、私たちは神の代理として、生命として美しく生きることが求められている。そのためには日々自らと向き合い、自らの魂の汚れを取り去っていくこと。それが、人間が生きる目的である。そうやって、人間が自らの魂を高め、高次の響き(ア)としての存在の位置(イ)に到達すると、宇宙創造・神様の「愛」のもとへ還っていく。本来、人間に与えられた自我に基づく自己実現の能力は、自らの認識とともに、他者と自分の違いを理解し、愛を実現するためにある。それこそが、宇宙の実態である。

そう考えると、AIは、人間が愛(AI)に目覚めるための宇宙からの贈り物なのかもしれない。

 

 


令和時代の解決策!~ 現代社会の問題は伝統で解決できる?!

2100年の人々に向けて発信する暮らし・木の花ファミリー

2019年7月14日から19日まで、中国人のルイーザさんが企画したツアーにより、総勢12名の中国からのゲストが木の花ファミリーに滞在しました。ツアー中は木の花ファミリーメンバーと共に作業体験をしたり、ジイジによる食のプレゼンテーションが提供されたり、子育てについての座談会の場が持たれました。
18日の午後にはこのツアーのまとめの座談会が行われ、その中である中国人女性は、「木の花ファミリーには、血縁のある人もいますし、ない人もいます。これは、とても古い時代に村に一人の長老がいて、みんなが集まる形に似ていると思います。現代社会には問題があるので、私は昔の伝統的な文化にとても興味があります。古い時代には人と土のつながり、人と人とのつながりがありましたが、現代人にはそれがありません。たとえば、チベットの人たちは山や川に対して愛を持って接します。今後、中国を含めて世界中で木の花ファミリーのようなコミュニティが増えれば、地球の未来は良くなることでしょう。その場合、木の花ファミリーはそうしたコミュニティをサポートすることはできますか?」と質問しました。それを受け、ジイジは次のように語りました。


ジイジ:
今、山と川の話が出ましたが、山は意識の高さを表します。山は高いでしょう?意識の高い者はそこへ心が向きます。そして、川はいのちの源です。ですから、信仰の対象なのです。そして、信仰の対象として一番代表的なものが太陽です。ですから、世界には太陽信仰が一番多いのです。

まず、木の花ファミリーでは伝統的な人々の生き方を意識しているわけではありません。伝統的な人々の生き方は、生きることがとても厳しい時代の生き方なのです。

昨年の終わり頃、8年ぶりに「木の花ファミリー憲章」を改訂しました。25項目について、憲章を作成したのです。以前作成したものはそれほど細かくありませんでしたし、8年前は途中で作成が終わっていました。そこで、2020年から始まる地球規模での人々の意識の変革に向けて、憲章の改訂を行ったのです。憲章を作成するにあたっての意識は、これから人類が必要とするであろう生き方について書いてあります。それは、木の花ファミリーが実践している生き方でもあります。そのメッセージは1冊の本くらいのボリュームがあるのですが、それをどこに向けて発信するかというと、現代の人々に向けての意識はあまりなく、2100年の人々を意識して発信したものです。

あるときから私は、天のメッセージを受けるようになりました。それは明らかに、地球外からのメッセージでした。それ以降、私の意識は常に宇宙と地球の関係、地球と人間の関係に向いています。そうすると、地球の歴史や人類の過去の歩みは、私たちの今の段階を経て、未来へつながっていくプロセスだということがわかります。

昨日行われた座談会の中で、2008年より13年前に生まれた人から、2008年以降16年間に生まれた人たちの、この約30年間に生まれた人たちによって変革が行われるだろうとお伝えしました。それは、冥王星のサイクルによる変革ですから、宇宙的にはそれほど大きなものではありません。

現在は2019年であり、21世紀に入ったところです。1000年から2000年までの1000年間は、男尊女卑の封建時代、物質や権力優先の時代でした。その間、霊的な人間の要素はどんどん失われ、物質的な目覚めが進行する時代でもありました。それが21世紀に入り、2000年を越えたということは、いろいろな意味でいくつかの変革のポイントがあるのです。それは、2000年を境にして地球上の歴史の方向性が変わるということです。ですから、私たちは今、大変革の時代を生きているのです。これは人類の歴史上、最も変化の大きい時であるとも言えます。

もう一つ、普通の人々には見えない変革があるのです。太陽は螺旋を描きながら自転し、銀河を公転しています。太陽の1螺旋は25800年です。その螺旋を描いている太陽のまわりを、地球は自転しながら公転しているのです。そのときに、とても不思議なことが起こります。地球は自転をしながら公転をし、歳差運動をしているのです。そして、その歳差運動の1サイクルも25800年なのです。

地球の北極が向いている方向に北極星があり、私たちの今の北極星はポラリスです。北極星というのは、私たち現代人にとっては絶対に変わらない指針です。ところが、25800年をかけて地球が歳差運動をしている間に、北極星は9回変わるのです。さらに、私たちが絶対なる指針としている北極星に、地球の北極の方向がぴったり合うのは2102年です。ですから、現代の人類が自らの在り方に宇宙的に目覚めるには、あと83年かかるのです。

今、地球人類の歴史は、1000年から2000年まで1000間続いた封建時代・物質的発展の時代から、2000年を越えて、新しい時代に入りました。このビジョンは、3000年に向けてのビジョンです。たまたま私がそのような視点を常に思考として持っているために、そういった情報が入ってきます。ですから、先ほどあなたがおっしゃったような、過去の伝統的な人類の生き方については意識していません。それはあくまでも情報にしか過ぎません。私たちが指針としているのは、未来志向です。未来がどうなっていくのかについて、今ある情報を元にそれを組み立てると、流れが観えます。その流れに沿って未来を観ているということです。

昨年、木の花ファミリー憲章を改訂したのは、2100年の人々に向けてのメッセージとして改訂しました。なぜなら、現代の人々にはその生き方がまだ難しいからです。しかし、宇宙的指針や人類の現状を観ると、その方向に行かなければ未来がないこともわかります。そうすると、人類は2100年の目覚めに向けて、紆余曲折しながらそこへ到達することでしょう。その時に、木の花ファミリー憲章を改訂した2018年から84年後の人々がそれを見て、「今から84年前に、すでにこのように考えていた人たちがいたのだ!」と思うような古文書として、今回木の花ファミリー憲章を作成したのです。

私は、孤独です。物理的には豊かに生きていますし、素晴らしい人生です。しかし、霊的にはこの意識レベルに共鳴できる人はほとんどいません。実は、視点を広げて意識を多次元にし、天と対話するという意味では、全く孤独ではありません。残念ながら、現代人は、霊的にはとても幼稚な状態です。ですから今後も、私の役割として、現代人にはなかなかわからないメッセージを発信していきます。

木の花ファミリーに所属する人たちは、その真意をすべてわかるわけではありませんが、「わからなくても大切なことは行くべきだ」という木の花ファミリーの創立理念のもとに、彼らは共に歩んでいます。ですから、彼らは自我を超えていけるのです。昔の人たちもそうでした。自然の在り様や生きることの意味はよくわかりませんでしたが、生命として、それをつないでいくために、勘によって生きていたわけです。

25年前に木の花ファミリーをスタートしたとき、私は42歳でした。こうした暮らしを夢に描いてから10年が経っていました。その当時、富士山麓に行き、血縁を超えた人々がひとつの家族として暮らすというビジョンが生まれ、それをみんなに提案しました。そのときに、共に富士山麓に来るかもしれない候補者は50人くらいいました。結果として、新たな生活に参加できたのは6家族、大人15人、子ども5人の20人でした。この生活が始まる前に、私は彼らにこう伝えました。

「この生活の先に何があるかはわかりません。ただ、これから時代が進んでいくにあたり、この生き方はこれからの時代にとても重要な生き方です。皆さんは私を信じて行ってはいけません。人間を信じると宗教のようになり、私を頼ることになります。ですから、皆さん一人ひとりの心の中に、『これは大切なのだ』と思う心があったら、行ってください。この道は、決して誰かについていくものではありません。自分の意志で歩むものです。それから、私たちがこれから生きようとする生き方は、社会には理解されないと思ってください。それは全く未知なる新しい生き方ですから、一般の人々にはわかりません。一歩先の生き方であるならば、例えば環境を良くする生き方や正しい健康な食べ物を作るということであるならば、社会からは評価されるかもしれません。しかし、この生き方の必要性はまだ人々には観えません。ただ、本当に大切な生き方をする人たちは、観えないことでも信じて行くものです。」

私がそのときに描いていた未来は、みんなでお百姓をして地味に山の中で暮らすというイメージでした。ただ、私には、この生き方を世界に向けて発信しなさいという天からの命があったのです。それから5年経ち、10年経ち、25年経っていくと、創立当初にはまったく想像もできないようなことに出会う連続でした。そして、今の生活があるのです。25年前、富士山麓へ出発する前に、私はみんなにこのように伝えました。

「私を信じて、行ってはいけません。私は皆さんの将来を保証できません。ただ、大変なことがあったら一緒に苦しみます。決して逃げません。そして、私の言うことは変わっていきます。だから、今を信じるのではありません。約束できることは、私の言うことは変わっても、必ずこの延長線上にあることは確かです。約束できることは世の中のために生きることです。」

ですから、私が語ることは、常に私の中に新たなことが湧いてくることを新鮮に語るだけです。

現代人の極めて問題なところは、「自らが納得したら行動する」ところです。そうすると、その意志は常に自我の中にあり、自我を超えることはできないのです。私が今、お話ししたのは、何かをわかってお伝えしているのではなく、私に与えられた宇宙的情報を情報として伝えているだけです。

そして結論としては、あなたがおっしゃる通り、人類は今まで核家族化し、その生き方が小さく分かれてきました。それがもう一度、今度は群れになるということです。過去の人々もそうでしたし、自然界にいる動物たちも群れで生きています。それは、生きていく上でとてもいのちに優しい生き方です。ただ、今お話ししたように、過去に還ることは一切ありません。過去を取り入れてそれをまねして創るということもありません。こういった歩みはすべて、進化の延長にあることです。

 


ジイジにこの質問をした女性は、今回の木の花ファミリーでの滞在を振り返り、座談会の最後に次のようにコメントしました。

中国人女性:
まず、ルイーザさんに感謝します。それから、ここにいる全員に感謝します。
私は突然42歳の時にシュタイナー学校と出会い、そしてシュタイナー学校の教師を7年間勤めました。その間に、宇宙からの小さなメッセージが心に湧いてきました。最近、教師をやめた方が良いと考え、将来は土に近い生活をすることを考えています。今回、初めて木の花ファミリーに来たのですが、最初は家に帰ってきた感じがしました。

ジイジ:
「ふるさとに帰ってきた」「我が家に帰ってきた」というように、ここに訪れたことを懐かしく思う人はよくいます。

中国人女性:
それから理論的なものに触れたとき、涙がどんどんあふれてきました。コンサートでの歌やダンスから、とても高い意識を感じました。今は心から土に触れる生活が必要だと感じています。そしてそれを今、現実にやっている人たちがここにいるのです。私は必ずまたここへ来て勉強したいと思っています。

ジイジ:
あなたからはそのような宇宙的なものを感じます。シュタイナーの思想に出会ったのは、あなたの人生に必要なプロセスだったのでしょう。そして今、この機会を得て、あなたの人生の次の段階に行くのでしょう。あなたがここに来て懐かしく感じるのは、地球が私たちの住処であり故郷だからです。私たちがここで感じて生きていることと同じことをあなたは感じるから、懐かしく感じるのでしょう。

これは、誰か特定の人にではなく、地球上のすべての人々にお伝えしたいと思います。私たちは、本当に生きるべき生き方を取り戻さなければなりません。地球全体の人間からしたら、例えば中国人全体の人口からしたら、私たちの数は少ないかもしれませんが、どんな出来事も、一人の行動から始まるのです。私たちは地球という共通の家に住み、あるいは共通の宇宙船に乗って宇宙を旅しているのですから、これからも共に活動していきましょう。みんな家族なのですから。木の花ファミリーのファミリーはそういう意味なのです。ありがとうございました。