男が生き生き生きるには

一風変わった視点の持ち主で、時に“ひねくれもの”と言われることもあるファミリーメンバーのりょうちん。そんなりょうちんといさどんの、ある日の会話です。

 
りょうちん:
僕は元々理屈っぽい方ですけど、最近はもっと理屈を通していこうと思っています。理屈というのは道理だから、屁理屈でさえなければ、道理を通すというのは物事を論理的に見ることであり、自分の中に柱を持って生きるということにもなりますよね。それは、男性が生き生きと生きることができるようになるために大事なことなんじゃないかと思うんです。

いさどん:
理屈っぽいと言うなら、僕なんて極めて理屈っぽいよ。ただ、理屈を語る時の奥にある心がどういうものかということが大事なんだよ。
理屈を突き詰めていくことは道理を通していくことだから、大切なことだよね。だけどそれが周りから見て、あの人の言うことは理屈っぽいね、くどいね、と言われるようになったら、それは自分の言いたいことを主張して押し通そうとしている状態だということ。そこに無理が入れば屁理屈にもなる。だから、理屈にもランキングがあるんだよ。道理を通していく時に、それが独りよがりなのか、万人に通用するものなのかというところで、道理なのか理屈なのかということがわかるんだよ。

りょうちんの言葉を聞いて思ったのは、今、ここの男性たちに元気がないとして、では世の中の男性たちは元気があるのか、元気があるとしたらどういったことに対して元気があるのか、ということを考える必要があるね。木の花の男性は、世の中というものに対して何か疑問を持っているからこの生活をしているわけだよ。そうしたら、仮に今の世の中の男性たちに元気があるとしても、それをここへ取り入れたらいいのか、それともそれを否定するからこそ別の元気を見つけるべきなのか。そこを仕分けしていくことが重要だね。
りょうちんが、理屈を通していくことで男性が活性化するのではないかと考えるとしたら、そういった思考も紐解いていく必要があるよ。冷静な心で紐解き、詳しく原因を探って、その結果対策を考えるとしたら、あなたは思慮深いねという話になる。それは全然理屈っぽくないよね。それを聞く周りの人たちも、それなら一緒に考えてみようかと巻き込まれていくわけだよ。そういった思考を働かせるといいね。

りょうちん:
一般社会での男が生き生きするというのは、例えば人よりも上に立ちたいとか、そういう自分の欲を叶えることで生き生きしてるんじゃないかと思うんですよね。

いさどん:
今、世の中の男の人たちは生き生きしてるの?

りょうちん:
そんなにしてないですね。

いさどん:
本来の男性の立ち位置というのは、周りから頼りにされて柱となって、女性から「頼もしいわ」と寄りかかられるような存在でしょう。女性に限らず、あなたにはここを任せるからよろしくねと言われて「任せときな!」と言えるのが男だよ。
そうすると、今の社会で男たちがやっていることはどうだろうね。社長でもエリート社員でも平社員でもいいけれど、例えば社長になったら経済システムに使われ、金を持てば金に使われて、はたして自らの中に何か柱となるものがあるのだろうか。

りょうちん:
結局、自分で考えていないと思うんですよ。今の社会を観て何が大事なんだろうと考えて、それで自分に柱を立てて道を歩んでいるかというと、そうじゃないと思うんです。

いさどん:
子どもの頃からでも大きくなってからでもいいけれど、何か経験したとするでしょう。その経験が未来の希望あることにつながればいいけれど、今の人たちはどちらかと言うとそれがトラウマになっていて、それを埋め合わせるために条件反射のような行動を取っているんだよ。例えば人と比べて貧乏だったらお金がほしいとか、親が何かに縛られているのを見て育ったら自分は自由人でいたいというように、何かにつけて条件反射的に反応しているから、とても思考が浅い。だからマスコミの報道する内容も、すごく浅いでしょう。その方が今の人たちにはうけるんだよ。

りょうちん:
その奥を観ていないということですよね。

いさどん:
そう。今の人間は思考が浅いんだよ。じゃあ昔は深かったのかと言ったら、深さの質が違うかもしれないけれど、例えば戦時中なんて、国民は一応国を背負って命をかけていたわけでしょう。そのもっと昔は、武士だったら戦場に出向いたり、農民も年貢を収めたりして、まつりごとに参加しながら、生きることが命がけだった。だけど今は生きることに命がけということがなくなったんだよ。そしてとても思考回路が浅くなった。その浅い思考のまま、お金や物、立場など、いろいろなことに縛られているんだよ。

りょうちん:
そう。今の教育だったり、社会の一般常識ってすごく浅いなって思うんです。浅い思考って、育った環境に影響されていると思うんですけど。

いさどん:
最近の大学生の卒業論文でも、とても浅くて子どもっぽいね。

りょうちん:
ものごとの奥を観て分析していくことが欠けてるんですよね。例えば僕たちは今こういう生活をしてますけど、この生活の何が大事なのかを語れるところまでの人となるというのは、やっぱり時間のかかる作業でもあると思うんです。

いさどん:
木の花に来ている男性の性質として、こういった柱のない社会に嫌気が差しているところもあるね。

りょうちん:
それはそうですね。

いさどん:
ただ、では自らが柱を保てているかというと、やっぱりまだ十分に道理を探求しきれていない。自分自身が独立して道理を通しきれていない段階で、道理が通っている木の花という場へ来てしまったものだから、自分がやらなくてもいいんだとサボっているところがあるんだよ。
自分で柱を立てるということは、それだけ緊張もするし、真剣に生きる姿勢が必要になってくる。今の時代は、そういった自分の価値を積み上げていくということの大切さがないがしろにされているんだよ。その結果、表面的な浅いことに気持ちが向くようになって、サボる(自分磨きをしない)ということが楽なことになってしまった。だけど本当は自らの価値を上げて安定することの方が、はるかにやりがいがあり、充実した毎日を送ることにつながるんだよ。そういった生き方は矛盾がない。だから今のように、人々の生き方が矛盾だらけの社会を創ることにはならないね。

りょうちん:
そうですね。ここにいると答えが何となく提供されているから、わかった気になっているけど。

いさどん:
何となく提供されてわかった気になっているというよりも、待っていれば道理が通っていくものだから、ヘタに話して自分のメンツを潰すよりも、待っていた方がいいやという姿勢なんだよ。

りょうちん:
でもそうやって人から与えられるんじゃなくて、自ら湧き出してくるものに柱が立っていくことは、自分自身の活力源になりますよね。

いさどん:
そう。それが男のプライドというもので、それがあることは男としてとても重要なことなんだよ。やはり柱を立てるべき時には、プライドがないと立たないんだよ。

りょうちん:
それが男の生き生きにつながると思うんですよ。

いさどん:
それは自立心とも言えるね。それがあって初めて女性から支持されるんだよ。ところが今は、何よ男のくせに立たないのね、という感じで、力仕事とか物理的なところではあてにされるかもしれないけれど、本当の意味での柱としては頼りにされていないんだよ。それを自分のこととして、一人ひとりが取り組むべきだね。
だからプライドは必要なんだよ。ただし、変なプライドはいらないよ。何もしてもいないのにメンツだけは大事にして、自分の中にあるものを出さずに守っているようなことでは、ただメンツが潰れるのを怖がっている状態だよ。

りょうちん:
それで元気が出なくていじけていっちゃう。だから、勇気ある地道な積み重ねが本当に必要だと思うんです。

いさどん:
地道にどう積み重ねるかというと、やっぱり自分と向き合うことだよ。

りょうちん:
そうですね。

いさどん:
誰もが自分の人生を歩んでいるんだよ。人生とずーっと向き合っていくと、自分に何が積み重なっているかということと向き合うわけでしょう。そこに自らを肯定できるような蓄積がなければ、やはり自ら柱を立てる者としては充実感がないし、希望も生まれない。
女性でも、腹が広くて手のひらの上で男を回してるようなゴツい女もいるけどね。それだって、男を立てるために回してるんだよ。

りょうちん:
は〜。

いさどん:
例えば石臼の前にどしんとあぐらをかいて、石臼をゴロゴロと回してるようなものだね。石臼を回すには中心を立てる必要があるでしょう。
もっともそこまで腹が広くない普通の女性は、柱を立てている男に寄り添い、ひとつのペアを作るわけだよ。そして一人ひとり個性的だから、それぞれに個性的なペアがそこにあっていいわけだよ。ところが自立して立っている者がいないと、寄り添う者も寄り添えないでしょう。逆に女性から「かわいそうに」と思われるようなことにもなっちゃうよ。

りょうちん:
そうね(笑)。

いさどん:
そういった「かわいそうに」と思われるような形が、今の世間にはあるんだよ。なぜかと言うと、女も本当の依代となる柱を知らないから。相手の表面だけを見ていて、自分が寂しかったらどんな対象でもいいんだよ。そこでお互いに傷口をなめ合う関係が生まれる。

りょうちん:
自分を満たしてくれる対象を探しているわけですよね。

いさどん:
そう。今の世の中には柱もなければ依り代もないから、本当の意味で男と女がそれぞれの役割を果たして共に新しいものを創るというよりも、ただ自分たちのニーズを満たしてくれるものを探しているという状態だね。

りょうちん:
結局本当のところで満たされていないから、不満があるんですよ。

いさどん:
そう。そこで男が柱を立てると、それは個性となってちゃんと依り代になるから、そこでペアができたり、ペアじゃなくても支持されるということが起きるんだよ。だけど今の男たちは、そういうことを放棄しているところがあるね。僕から言わせると、そこでプライドを持ってほしいわけだよ。

りょうちん:
うん。高いプライドってことですよね。

いさどん:
そう。高いプライド。そういった意味で、りょうちんが理屈をこねていこうと思うということは大事だよ。その過程ではいろいろなことが起きて、全体から「それってどうなの」と問われることもあるでしょう。それは応援でもあるわけだよね。自分の言っていることが道理が通っていなかったり問題だったりしたら、本人のためにも、全体のためにも、それは訂正しなければいけないんだから。
訂正するということは、そこを越えてその先へ進めということなんだけど、男には変なところがあって、訂正されると「ダメだったんだ」と落ち込んで、訂正すればいいものをしないで、ただしょげているんだよ。

りょうちん:
それまでに積み上げたものが壊れるような気がしちゃうんですよ。

いさどん:
だけど積み上げたものが歪んでいたら、壊してもう一度やり直さないといけないでしょう。

りょうちん:
そう。やり直す勇気を持たないとあかんですよね。

いさどん:
そうだよ。今の男性たちが社会でも柱を立てられないのは、ハングリーじゃないからだよ。

りょうちん:
だけど今地球上で人類が直面している現状からすると、ハングリーなはずですよね。

いさどん:
意識がそちらへ向いたら、そうだね。地球の現状への危機感でハングリーになることはとても重要なことなんだけど、今の人たちにはそういった広い世界観がないんだよ。自分が食えるか食えないかという程度の位置に意識がある。生きることがお金を稼ぐことであり、生活することになっているんだよ。
木の花にいると、全体性の中で、例えば農業の進化とか精神性を高めるとか、もっと言えば世界にそういった新しい目覚めを発信するということの担い手であるわけでしょう。

りょうちん:
そうすると、大雑把なつなげ方ですけど、より大きな視野で生きるということで、変なプライドを折ることもできるようになるのかな。

いさどん:
より大きな視野で生きるということが、今の社会に欠乏しているね。そこで、じゃあ自分は社会を担っていこうという意識になれば、人間意識としては高いものになるね。

りょうちん:
変なプライドを高いプライドに転化してやっていけるってことですよね。

いさどん:
そうだよ。高いプライドがあれば人間がセコくならない。高いプライドで道理を通していけば崩れることもない。だけど低いプライドは、屁理屈をこねて無理やり支持されようとしたり、自分が正しいと思う方向へ話を持っていこうとするんだよ。そんなものは、ものごとが観えない人からしたら素敵と思われるかもしれないけれど、観えるものからしたらバカじゃないのという話になって相手にされないわけだよ。

りょうちん:
だから、低い視点で積み上げたものはいったん壊れると「また積みあげなきゃ」という発想になるんだけど、高い視点で観ていると、とりあえず崩しても大丈夫って感覚でいられるんですよね。

いさどん:
そうそう。例えば北極星のように、不動の目標地点が観えているんだからまたそこへ向かえばいいということになる。視点が低いと目標が観えていないから、壊れるとゼロになるような感じがするんだけど、それがチャンスなんだよ。中途半端に残っているとまたそれを目指しちゃうけど、もともと目標が観えていない者はゼロから始めればいいんだよ。じゃあどこを目指したらいいんだとなった時に「あそこだよ」と言われて、なんだそうか、と進んでいけばいい。それがチャンスということだよ。
だけど、そこを前向きに捉えないで、壊れたことをトラウマにしてしまう人がいる。そして、変な希望を持つよりも希望がない方がいいと言って、自分と向き合わないようにしているんだよ。

りょうちん:
最初から何もしない方がいいってね。ということは、まずはやっぱり日常の中で少しずつ柱を積み上げていくということと、もう一方で、広い世界観のもとに「あそこを目指すんだ」という目標地点を持つということですよね。

いさどん:
その前に、絶対に必要なことがあるんだよ。それは、どこに興味を持って日常を生きるかということ。例えば、朝起きて新聞を開いてどこの欄を見るか。ニュースならどこを観るか。例えば自分自身のことだったら、今日一日の作業のことだけを考えているのか、同時に、それを積み重ねていくと人生がどのようになっていくかというところまで考えているのか。日常の自分の意識がどこを向いているのかということが大事なんだよ。

りょうちん:
それって世界観が広がれば自然と方向付けられていくんじゃないのかな。

いさどん:
世界観は後からついて来るんだよ。日常の自分がどこに興味を持っているかによって、その先にそれ相応の世界観に意識が向くのであって、いくら世界観を広げようとしても自分の興味が足元にあったら、広い世界観との整合性が取れないでしょう。

りょうちん:
そうか。ひとつ思うのは、興味って開発していけるものでもあると思うんですよね。

いさどん:
そこで、自分はどういった人でありたいか、どういった人生を歩みたいかという意欲を持つことだよ。それはプライドと言ってもいい。そこから出発して、興味が湧いて、その延長線上に世界観が広がるわけだから。順序としてはそういうことだよ。
例えば彼女を見つけて結婚して住宅ローンで家を買ってこのくらいがほどほどでいいという生き方があるでしょう。そういうことを親たちがやっているのを見てきて、それでは嫌だという人たちがここにやって来たんだよ。

りょうちん:
もう飽き飽きしてるんですよね。

いさどん:
そう。でも、今の社会や親はまだそれをやれと言うんだよ。だから世の中の男たちがどこかしょぼくれている。ストレス解消のために何か趣味を持ったり、隠れたところで悪いことをやったりといろいろ発散方法はあるけれど、結局人生を通しての柱がないんだよ。ものごとを通してその奥を観るということが柱になるんだけど、その目線がない。
少なくとも死ぬ時に達成感を持って死にたいんだという目標があったら、じゃあ今日一日をどう生きようか、今年一年をどう生きようかと、今から過去を振り返って、そして未来を見通して、自らの行動を観るようになるよ。そこでどれだけの広さでものごとを捉えるかによって、世界観が変わってくる。もしくは、周りの環境によって広い世界観の情報が入ってくれば、そういったことを考えるようになるんだよ。

今、そういうふうに分析をしたでしょう。方向を具体的に出したわけではなく、道理を通して分析しただけだけれど、その分析することすら、興味を持つかどうかということから始まるんだよ。分析していくこと自体が道理を通していくことになるんだけど、それすら興味がなければやらないでしょう。
今の話ももともと正解があったわけじゃなくて、りょうちんの質問があって、社会に当てはめて分析していったらこういう話になったんだよ。それは、興味を持たないと絶対に出てこない。興味を持てば出てくるものさ。

りょうちん:
うん。そうそう。

いさどん:
りょうちんはとことん理屈をこねてみようと思うと言ったけど、あなたの言う理屈をこねるというのは、自分と向き合うということでしょう。自分はちょっとへそが曲がっているかもしれないけど、まだ十分そこをこね回していないから納得するまでこね回してみよう、ということだとしたら、それは自分の中に何かもやもやするものがあるんだよ。それならこね回せばいいんだけど、一人でやっているとりょうちん流のねじれも入ってくるわけだ。だからこそ、こういう客観的な視点が得られる環境にいるわけだから −−−−−

りょうちん:
自分の中にあるものを出していくってことですよね。

いさどん:
そうだよ。時には「僕はこれだけこねました」と出して、みんなはどう思いますか、と投げかける。そうすると、ねじれていればみんながそれを直してくれたり、逆にもっとこねてもいいんだぞ、ということになったりしてね。

りょうちん:
それはやっていこうと思ってます。

いさどん:
そうすると、それがみんなの学びにもなる。ところが、独りよがりで理屈をこねて「これが僕の結論です」と発表するだけだと、みんなのためにはならないでしょう。だからこそみんなの前に出して、それに対するフィードバックを受け取っていくことが大事なんだよ。

りょうちん:
それをもらうためにも出すという意識でいきます。

いさどん:
そうだよ。出すと言っても、世界観が狭いと、自分の思っていることを聞いてもらいたいとか、認めてもらいたいということになる。だけどどのような組織であっても、全体と自分の整合性が取れていることが大前提なんだよ。それはこの世界も同じだよ。そこでは、全体に合わないことは成り立たないわけだ。ところが自分が認められたいということばかり考えている人は、あなたの主張は全体に合わないよと言われると、自分が否定されたと思うんだよ。だけどそれは違うでしょう。あなたの主張は合わないよと伝えるのは、本当の意味であなたを生かすために伝えているんだよ。自分に囚われていると、その視点を受け取る意識が持てない。その姿勢を持つには、腹が広くないといけないね。
自分流に柱を立てても、人の役には立たない。それは自分一人の段階ではOKでも、もう一つ世界が広がると通用しないということだよ。そこで肝っ玉が据わっていれば、目の前に展開される出来事に通用する柱に立て直すことができるんだよ。

りょうちん:
そういうことですよね。僕は、理屈をこねていこうと思ってますけど、やっぱり自分にくせがあるから、それを出していくことだなと思ってます。

いさどん:
そうだね。自分にくせがあると思ったら、それを出していく。すると自分一人のそのくせが、独りよがりのところから、例えば3人でチームを組んだら3人に必要なくせになって、それが10人に必要なくせになって、100人に必要なくせになれば、常にそれは全体の柱になるわけでしょ。腹を据えてキャパを広げて、それで全体のためになろうとしたら、そのうちに自分のくせが人類のくせになるよ。そうでしょう。

りょうちん:
それでいいんですね!

いさどん:
それでいいんだよ。人類というのはみんなくせがあって、欲もあって、プライドもある。ただそれがどれだけのスケールかということと、その質が問われるんだよ。

りょうちん:
自分のくせが、全体にとって役立てるものなのか。全体と整合性が取れているかどうかですね。

いさどん:
最終的には宇宙と整合性が取れたら、それが最終到着地点だね。

りょうちん:
そういうことですね。

いさどん:
我々が人生で出会うこの世界の物理的かつ霊的実態は、ものすごく広いんだよ。その中のどこに位置するのかは、日常自分がどこを見ているかによって変わってくる。無限を観ていたら限りなく広がって、宇宙と整合性を取るという話になるわけだ。お釈迦様のところまでいくわけだよ。ところが狭いと、自分の家庭の中だけというマイホームパパになるんだよ。

りょうちん:
だけどそのままで行けるかといったら、結局、社会とやり取りする中で壁に当たるわけですよね。

いさどん:
壁に当たるということは、自分のキャパを広げていくチャンスなんだよ。ところがそこで自分に囚われていると、これ以上行くと自分が否定されると思って自分の中にこもるわけだ。もっと広いところへ行くべきなのに、外に出たら叩かれると怖がって、現状の自分を保とうとするんだよ。

りょうちん:
僕の話になりますけど、僕は自分で自分のねじれを自覚してる部分もあるんです。

いさどん:
りょうちんはねじれがあると言うけれど、それはくせとして悪いところだと捉えることもできれば、そのねじれが変わった視点となって多様性をもたらすという、ポジティブな捉え方もできるわけだよ。そうすると、あなたが自分を観て「ねじれがある」表現した時に、そこにどれくらいのポジティブ度合いとネガティブ度合いが加味されているのか。そこを吟味して観ると、今までのあなたの人生が観えてくるんだよ。例えばネガティブのウェイトが6割とか、ポジティブのウェイトが6割とかいうように、今までの人生の結果で度合いが変わってくるんだよ。
同じように、他者から見て「りょうちんはねじれてるからな〜」とネガティブに捉える度合いと、「りょうちんらしくて個性的だね」とポジティブに捉える度合いがどうなのかは、それまでのあなたと他者との関わりの結果なんだよ。
そういったことも踏まえた上で「僕はねじれているからね」と自分を分析すると、より次につながる話ができるよ。

りょうちん:
今ちょっとわからなかったです。人の評価を考慮するということですか?

いさどん:
他の人から見て、自分のネガティブ度合いとポジティブ度合いはどうなっているのかということと、自分で自分の中を観て、ネガティブ度合いとポジティブ度合いがどうなっているのかということを、まず客観的に捉えるということだよ。
例えば僕がねじれているとするでしょう。そこでこれからどう進もうかという対策を考えるわけだよ。その時に、そのベースになる心がどこから出発しているか。自分の内から観る視点と外から観られている視点の両方を捉えていくと、現状の自分の位置がわかってスタートしやすいよね。だってどこへ向かうにしても、スタート地点がわからなかったら始められないでしょう。

りょうちん:
僕は自分がねじれているからといって、けっこうブレーキをかけたりするんですけど、人から見れば「それやってみたらいいじゃん」て言われたりするんですよね。それがすごく多くて、そういうことにブレーキかけて無駄なエネルギー使ってるなって思うんですよ。

いさどん:
そう。余計なことをしてるんだよ。それってエネルギーがもったいないよ。

りょうちん:
そう。そういうことを聞きたかったんです。

いさどん:
もう答えが出ちゃったじゃん。そういうことなのよ。
そこで、自分がいかに無駄なことをやっているかということに気が付かないといけないんだけど、長年やっていると、それが自分のくせであってもこの世界の道理だと思い込んでいるわけだよ。それを自分のくせだと気付かなきゃいけないね。
僕は理屈人間だから、何かをする時にこれってもとは何だったのかということをいつも考えてるよ。だから回答が出てくる。だけどそれが、自分に囚われた分析じゃダメだよ。そこには必ず他者と自分とがあって、その中で整合性を取りながらやることだから、例えば自分に欲の心があれば偏っていって道理から外れていく。だから、常に客観的な視点を持って分析を進めながら、最終的には自分にとって受け入れられるところへ落としていく。そういう心の器用さが必要だね。

りょうちん:
そうですね。そこで全体というか、男性全般はどう取り組んでいったらいいでしょう?

いさどん:
男性を元気にするということか。それは、例えばものごとが成り立つには「ヒフミヨイムナヤコト」とあるように、順序があるんだよ。そうしたら、いきなり男性全般をどうするかという話にいくのではなくて、自分からとりあえず始めることだよ。すると、それによって周りが「あれ、りょうちん変わったね」となっていくでしょう。

りょうちん:
そうですね。僕の傾向ですね。推進力が弱いからみんなでやろうとしてる。

いさどん:
まずは周りが「りょうちんどうしたの」って思うくらい、あなた自身が輝いてみせることだよ。あなたの特徴は変化球を投げられることだから、ストレートしか投げちゃいけないと思っていた人は、りょうちんの変化球を見た時に「それもありなんだ」と思うでしょ。今男性たちに元気がないのは、自分を出すと一緒にくせも出て叩かれるから、臆病になっているんだよ。そこで「そういうやり方もありなんだ、それでいいんだ」と思えたら、みんなとても楽になるよね。その代表としてやるのに、あなたはいい人材だね。

りょうちん:
そうするとやっぱり怖がってちゃダメですね。自由にやっていかないと。

いさどん:
怖がるということは、その怖さの実態がどこにあるかということを考えないとね。

りょうちん:
そうですね。自分を崩すことを怖がってるだけですよね(笑)。

いさどん:
そう。それはつまり、相手から何かが来て怖いんじゃなくて、自分の囚われが壊れるのが怖いんだから、実は壊さなきゃいけないんだよ。その壊さなきゃダメなものを大事に握りしめているんだよ。

りょうちん:
そういうことですね。

いさどん:
何かを必死に手の中に握って、自分を守り続けている。必死だからすごく力が入って手に汗握っているんだけど、ふっと我に返って「あれ、何で手に力が入ってるんだろう」と開いて見たら、その手に持っていたはずのものがみんな砂になってこぼれて、そこには何も残らなかった、というようなことだよ。何もないのに力だけ使って、もったいないでしょう。だから冷静にならなきゃいけないんだよ。

りょうちん:
なるほど。そこにも冷静な分析が必要なんですね。

いさどん:
冷静な分析は常に必要だよ。何かが起きた時に、その時は新鮮だからびっくりしてもいいけれど、冷静に分析すればこれは起きるべくして起きたということが観えてくる。そうすると、それに対して対策をする必要があるのか、それともしばらく放っておけばいいのかという見通しも立てることができる。どんな時でも落ち着いて、冷静に対処できる心が男の器だよ。そういった大きなスタンスに立って分析をしないと、無駄をやることにもなる。

りょうちん:
冷静に落ち着いて対処できるのは男の特徴ですか?

いさどん:
冷静に落ち着いて対処できる状態に到達した人はそうなるということであって、それが男だけの特徴だということではないね。その人の心の段階がどの位置にいるかということだよ。
男と女の性質の違いで言うと、女性は具体的に創り上げていく役割だから、そんなに大きな視点は持てないんだよ。

りょうちん:
ああ、そうですね。現実的ですよね。

いさどん:
男は現実だろうが夢だろうが、ずっと向こうの方まで見通す柱を立てる。男のロマンというのはそういうものなんだよ。な?

りょうちん:
うん。

いさどん:
女性からしたら「何言ってるのよ」と言われたりしてね(笑)。

りょうちん:
「そんなことより生活成り立たせなさいよ」って(笑)。

いさどん:
それでも、希望があればいいんだよ。女性が食わせてくれるから。

りょうちん:
ああ、なるほど。女性が支えてくれるってことですね。

いさどん:
そう。その夢にちゃんと道理が通っていれば、女性がスポンサーになってくれるんだよ。それが支持されるということだよ。もっと現実的な柱を立てる男がいてもいいけどね。それはそれで、「この人堅実でいいわ」と女性に支持されるよ。そういったことを器用に使い分けられる男性はモテるよ。
だから、いろいろあるのだから、それぞれ個性的でいいんだよ。バカばっかり言っていても、あの人の人生ってあっけらかんとして心が楽になるわ、ということもあるんだよ。そこで多方面に整合性がとれていたら、それは仏の世間解(ほとけのせけんげ:仏とは、仏の境地に立った者。男でも女でもない意識の状態の者が、様々な経験をしたかのように世間を理解していることを、仏の世間解と言う。)だね。もしかするとアシアトウアンなのかもしれない。

りょうちん:
わかりました!

いさどん:
そういうふうに、自分と向き合って、現状の自分を突破しようとする意欲があることによって初めて、今のような話が湧いてくる。これはあなたに話したことだけど、他の人にとってもとても重要な話だよ。世の中にも伝えたい話だ。そういった意識になると、自分の存在が人の役に立っていくんだよ。

りょうちん:
はい。ありがとうございます。

いさどん:
何を聞かれても、とりあえずここ(と言って自分の頭を指す)からは、今のところ無尽蔵に智恵が湧き出てくることになっているからね。

りょうちん:
やっぱり僕には自分で考えたいっていう欲求もあるものだから、何でも聞くわけではないんですけど。

いさどん:
それでも、ポイントのところは必要だよ。自分の得意分野とそうでない分野があって、それはその人それぞれの個性でしょ。その個性を生かせばいいんだけど、個性に囚われてはいけないね。足りないところは他からもらって足してあげればいいんだよ。それには柔軟さと腹の大きさがないと、できないね。

りょうちん:
自分で取り組み始めたところなので、それに対してこの方向で大丈夫かなと確認したい思いもあります。

いさどん:
そういった状態にあなたがなったということはとても喜ばしいことだから、こちらも意欲的に話せるね。そういうふうに自分が開いていく状態の意識の時と、閉じていく状態の意識の時があるんだよ。閉じていくというのは、守りに入ること。だから閉じていく時に開いていくための話をしても、入っていかないね。いつでも開いていく意識で人生を生きていけたらいいけれど、人生にはいじけていく流れの時があるからね。

りょうちん:
僕、だいたいそうでした(笑)。

いさどん:
おもしろいことに、そういう時にはいじけることを自分の特徴として、それに執着するんだよ。だから、開くための話をもらえばもらうほどいじけていく。そういう人は放っておかないといけないね。

りょうちん:
行くところまで行かないと。

いさどん:
そう。行くところまで行くと逆転するから。それを変につつくと抵抗が生まれるから、いじけることを長引かせることになる。放っておけば、その人のいじけキャパというのがあるから、そこまで到達した時に自分ではっと気付いて、逆転の発想が生まれてくるんだよ。

りょうちん:
そういう場合は全然声をかけなくていいんですか?

いさどん:
いや、こちらの存在は伝えておかないといけないね。だから種だけ蒔いておくんだよ。今言ってもわからないから、必要になった時に来いよ、くらいの感じでね。

りょうちん:
プライドは刺激しないんですね。

いさどん:
そうだね。それでも多少はプライドも崩してあげないといけないよ。なぜかと言うと、プライドを崩しておかないと、そのプライドがいつまでもこだわりになってしまうから。本当に自分のためを考えたらそれでいいのかよく考えてごらん、ということは伝えておくといいね。
今のままでいいんだよ、なんて言ったら、修正しなければいけないこともしなくていいことになってしまうでしょ。そうすると、その人のくせはそのままの状態でいくから、一見元気になったように見えたとしても、いずれ必ず問題ごとにぶち当たる。だからやっぱり、ものごとをバランスよく観て、人には修正しなければいけない時もあるよ、ということは常に伝えながら、相手の意志も尊重していくことだね。

今の世の中は、自分を振り返らない人間が生き生きするための手法はすごく人気があるんだよ。低いプライドを保ったまま生き生きするニーズがあふれていて、みんなお金も暇もあるから、表面的に心地よくさせてくれるところに人がたくさん集まってくる。人が集まってくるからいいことをしてるんだと勘違いしている人が多いけれど、そういった勘違いから人の心をくすぐって、お金儲けをしようとする罠が世の中にあふれているんだよ。そしてその結果、今の混乱した世の中がさらに広がっていくことになる。
自分の精神状態を冷静に分析して、きれいにしていくことの価値を知らない者たちは、囚われの部分を残したまま心地よいことだけを求めていくから、そういった罠に引っかかるね。そして一時的に心地よい気分になったとしても、自分の精神が根本的に改善されたわけではないから、何回も罠にかかることになるんだよ。それはある意味マインドコントロールだから、その罠に引っかからないようにいつも伝えているんだけどね。

りょうちん:
だから木の花は、現実の生活に反映された情報を、社会に対して提供しているんですよね。

いさどん:
そうだよ。情報は提供するけど、押し付けはしない。なぜかというと、お金儲けが目的じゃないからね。その気になったらおいで、というスタンスだよ。

世の中は今、本当に大切なものは何なのかを見失って、そのピーク迎えている。そこでいよいよ、人々の本物探しの心がうずうずとうずき出す時が来たんだよ。それは、今までのような表面的な心地よさを求める浮かれた時代とは違って、人々の心が安定し、不動の柱のもとに日々を生き、一人ひとりに世の中を組み立て直していくくらいの心構えが必要とされる、切り替えの時が来たということだよ。
その時代の意志に一人ひとりが気付いて、男も女も、みんなが充実した日々を送れるよう、心がけていくことが大切だね。

 

 


人類が宇宙視点に立つスタートの年が始まりました!

1月10日、木の花ファミリーでは毎年恒例のどんと焼きを行いました。その時のいさどんの挨拶をご紹介します!

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「人類が宇宙視点に立つスタートの年が始まりました!」
~2016年1月10日どんと焼きの日にあたって~

2016年が明けまして、今日は10日目です。正月を迎え、このどんと焼きの日を迎えることは、粛々と地球が宇宙を旅しながら、毎日自転を繰り返し、2017年に向かって歩んでいるのです。それは、時を刻んでいるだけではなく、実際に物理的にも宇宙を移動しているのです。そろそろ、地球にいる人類もその仕組みの中で生きていることに気付かないといけません。わたしたち人類がそういった宇宙的な視点のもとに生きていかなければ、これ以上人類が栄え、地球に生きている真の意味を表現することはできないのです。

2016年を迎えて早々に、北朝鮮の核実験のニュースやイラン大使館がサウジアラビアの攻撃を受けたというニュースが報道されました。文明周期説から歴史を紐解くと、東西の文明が切り替わる度に世界動乱や民族移動が起きてきました。そこで示されているように今、21世紀に入り、難民を生み出す社会情勢の中、民族の大移動が起きている地球上の実態があるのです。

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自然が長い間、秩序ある状態で地球とともに繁栄してきたことからすると、人類はまだまだ混乱の真っ只中にいるのです。しかし、いよいよ本当の意味で、人類がどのように地球上で互いに連携し、どうあるべきなのかということに目覚め、そして地球のために貢献していく時代が始まったのだとも思えるのです。

正月を迎えて、2016年がどのような年になるのか、国民も政府も注目していますが、相変わらず世の中はお金や物の豊かさを追求しているのが現状です。そこで、わたしたちは今までの社会の価値観やあり方を観ながら、本当に混乱のない世の中をどのように創っていったらいいのかをこれから世に示す必要があります。

新たな年を迎え、今まではそのための仕込みの期間でしたが、いよいよその仕込みから成果を世に示す時が来ていることを痛切に感じています。それは日本中はもちろん、これからは広く世界に向けて発信していく年でもあり、発信するにあたり、その裏付けとなる技術や知恵をここで仕込んでいく年でもあるのです。発信しながら仕込んでいくのですから、ある意味内と外を同時に観て、冬眠する(熟成させる)年でもあります。今年は内と外、陰陽両面の年であり、2013年から3年間続いた新たな時代への切り替えの準備の期間から、いよいよその成果を世に発信していく始まりの重要な年なのです。

ですから、今年はたくさんのプロジェクトが立ち上がっています。実際にそのプロジェクトは新たな世に切り替わるための大切なプロジェクトですから、皆それぞれ自らの役割をしっかりと果たしていきましょう。それを仕込めば、必ず世がそれを必要とする時が来ます。そして、その始まりが来年ということなのでしょう。

すでに、今年の発信の年から、来年のテーマが出ています。それは、「爆発」です!そして楽しみな時を迎えているとも思っています。そういった意味で、気持ちをしっかりと充実させながら、共に歩んでいきましょう。

そのために、正月明けにこのどんと焼きという神事を行い、一年を健康に過ごし、自らの魂をしっかりと磨いて、そして成長できるように、今日はその誓いを新たにする日でもあるのです。一人ひとりがしっかりと自らと向き合い、そういった誓いを立てていただきたいと思います。

2016年に入り、人類が宇宙視点に立つためのスタートの年が始まりました。そして、それにふさわしい役割をこの小さな集団から地球全体に示していくのです。この世界は魂の世界ですから、世界が動いているのもその魂が存在し、わたしたちはその延長に生きているのです。そして、その世界の仕組みの中で、わたしたちは魂を最優先にして連携していく時代に入ったのです。そういった意味で、天と地、そして世界中の霊的ネットワークがこれからますます広がっていくことを願い、2016年1月10日どんと焼きの日にあたって、皆で乾杯したいと思います。

それでは皆さん、乾杯!!
おめでとうございます!!!

 

点火後、天へと舞い上がるどんと焼き
点火後、天へと舞い上がるどんと焼き
皆で富士浅間木の花祭りの舞を踊りました
間もなく開催の「富士浅間木の花祭り」の楽の音が空いっぱいに響き渡りました

 

 


21世紀は一人ひとりの目覚めの世紀です

改めまして、皆さん新年明けましておめでとうございます!
2015年大晦日の夜から2016年元旦にかけて、ファミリーでは「おひさまハウスひまわり」のホールに毛布をしきつめ、みんなで語り合う時間を持ちました。今日は、間もなくカウントダウンが始まろうとする中いさどんが語り始めた、新たな年を迎えるにあたってのお話をお届けします!

 

「21世紀は一人ひとりの目覚めの世紀です」
(2015年から2016年にかけてのいさどんの挨拶)

世の中でボーナスと言うと、定期給とは別に支払われる特別な給料のことです。わたしは久しぶりにボーナスをいただきました。

今年の春、69歳の女性と知り合いました。彼女は7歳の頃からミツバチを飼いたいと思っていたそうです。彼女は旦那さんを亡くしてから6年が経つということで、今一人暮らしをしています。きっとさびしかったのでしょう。猫をお友達として飼ってはいるのですが、蜜蜂の世話がしたいと思い立ったのです。それで、わたしが富士地域の養蜂協会の支部長をしているものですから、わたしのところに問い合わせが来て蜂を譲ることになりました。そうした縁で彼女とは親しくなり、時々お茶がてら、ミツバチの飼育の指導も兼ねて、彼女のさびしさを紛らわすためのお付き合いが始まりました。

以前は旦那さんと一緒にラブホテルを経営していた彼女が、旦那さんが亡くなってからは一人では経営していけないので廃業し、ようやく今年になって廃業届けを出したことを知りました。それまでは、旦那さんとの思い出をなくしたくなかったので、無理して管理をしてきました。しかし、年齢的にも限界を感じ、わたしと出会った頃がちょうど良いタイミングだったのでしょう。「これからどう生きていったらいいのでしょうか?」と彼女はわたしに相談してきたので、思い切ってこの土地を手放してみたらどうですか、と提案しました。彼女は今まで、この土地を手放すのは旦那さんとの思い出が消えるようでさびしい、と思ってそのまま持ち続けていたのですが、結局お金にならないどころかお金が出て行くだけで、今、3箇所でパートをしながらその給料と年金で税金を支払い、自分の生活をまわしている状況でした。彼女に譲った蜂についても、たった一回採蜜できただけで、蜂の育ちも今年は天候が悪いせいかそれほど良くなかったのです。わたしが時々行って管理していなければ、今頃全滅していたことでしょう。

そのような中、来年も蜂を育てていきたいという延長に、維持することが負担になってきたあの土地を彼女は最終的には売却することを決めたのです。おそらく、わたしに出会っていなければ、彼女は相変わらずあの土地を売ることはできなかっただろうと思います。彼女があの土地を売ると決めたとき、わたしはある人のことを思いついたので、わたしの友人を通じてその人に土地を買ってもらえるよう話を進めることにしました。そして今年の7月頃に土地を売る話が出てから、ようやく年内にその土地の売買が成立したのです。

その途中ではいろいろあったものですから、わたしの友人は「これほど苦労したのだから、不動産屋と同じように仲介手数料をもらわないといけない。法律的には素人でも1回は仲介手数料を受けとってもいいという法律がある。今回、間に不動産屋が入っていないので、僕にはその権利があるはずだ。いさどん、彼女に仲介手数料は通常3%だと連絡しておいて」と言うので、「僕はお礼をもらうつもりはありませんが、あなたが仲介手数料をもらうことは構いませんよ」と伝えたのです。また、彼女も「何かお礼をしたいのですが、お礼はどのようにしたらいいのでしょうか?」とわたしに聞いてくるので、「本来の手数料からすると、もっと高くなりますが、区切りがいいので100万円を彼にお礼として支払ったらいいのではないですか。売るのが難しい土地を彼は一生懸命交渉してくれたのですから」と正直に伝えました。わたしの友人は、「もし100万円の手数料をもらえたら、半分の50万円をいさどんにバックするからね」と言っていたのですが、彼女はわたしの友人に全額渡すのではなく、わたしと彼に最初から50万円ずつ分けてお礼として持ってきたのです。こうして、わたしのところに50万円のボーナスがやってきました。

(ここで、2016年になりました♪
 いさどんの話を聞いていた皆から拍手が起こります。)

ところで、皆さん、今スクリーンに「HAPPY NEW YEAR 2016」と出ていますが、何か変わりましたか?何も変わっていませんね。変わっていないということは、実は変わり続けているということなのです。今、2015年から2016年になりました。それは、新たな世界に進んでいるだけのことであり、毎日がそうなのです。最近特に感じていることなのですが、お正月だからといって特別なことはありませんね。同じように時空の旅をしているだけなのです。そして、常に未知なる世界へと進んでいるだけなのです。

ただ、これを区切りとするならば、今までを振り返ってこれからどうするのか、と考えるきっかけにすることはできます。しかし、未知なるところへ進み続けているという意味では同じことです。2012年12月21日、銀河の冬至を迎え、宇宙的には新たな価値観の時代へ入りました。ですから、そういったことを感じる人にとっては、世の中の情勢を観ると変わってきたことがわかります。時代は、確実に今までの価値観とは違う価値観に移行していきます。そこに乗るかどうかがこれからは重要なこととなります。

そのときに、今までの価値観の流れに乗り続けていくということは、終わっていく流れに乗っていくことになります。それは、時代が250年、800年、1600年、3000年、6450年、12900年、25800年という様々なターニングポイントを迎え、そのピークに達したときに、下降していく流れに乗り続けるのか、それとも次へ昇っていく流れに乗るかどうかです。

自らの囚われを外した人は、新たな流れに乗っていくことができます。しかし、自らの枠の中に閉じこもっている人には、なかなかそれができません。今までは、枠の中に閉じこもり、競争や差別を発生させてきた時代でした。しかし、そういった時代が終わることは明らかであり、たとえば中国は十数年後にはGDPが世界のNO.1になるだろうと言われているのですが、実際には環境問題などいろいろな面でその前にブレーキがかかることでしょう。ですから、そうはならないのです。その推測は、現状を表面的に観てそのまま進んでいくとしたらという話であって、現実にはそうはならないように、これは中国が発展するかどうかという話ではなく、世界中の発展の質が変わるということなのです。

そこで、これからの時代はどのような生き方に乗っていけばいいのでしょうか。今、わたしの頭の中に「賢い選択」という言葉が浮かんできました。しかし、ここでは賢いと言ってはいけません。それはなぜかというと、そのことに気付いた人は当たり前に次なる流れに乗っていくのですし、それに気付かない人は当たり前にそれを外していくだけだからです。それを賢いとか賢くないというのは、結局自分がすることは良いことで、しないことは悪いことと区別することと同じだからです。しかし、そこにはそういった概念もないのです。気付いた者が当然のように新たな時代の流れに乗っていくだけのことなのです。

世の中には賢いと呼ばれる人たちがたくさんいますが、そういった人たちの多くが自らの囚われから外れることができません。そうすると、何のためにその優秀な頭脳を使い、何のために豊富な知識を得ているのでしょうか。
世の中の賢いと呼ばれる人たちは、自分の認識では良いことをしていると思っていることでも、実際は人間社会の争いの元や環境の悪化など様々な社会の矛盾を招く原因となっています。ですから、本当の意味での賢明な考えが浮かばず、それが本当により良い社会や自らの健全につながる生き方ができていないのが現状です。それは世の中に混乱をもたらすだけではなく、自らにも混乱をもたらすことになるのです。
学校のようにまだ学びを実践しない段階の場所では、たくさんの知識を得て、それを試験や研究という形で上手に表現できれば優秀な人と評価されます。ところが、実際に社会でそうした学びを生きる段階に入ると、職場で複雑な人間関係に対処する必要も出てくれば、家族を持てばその家族の中のコミュニケーションを円滑に進める必要も出てきます。生き方についても、無駄がなく効率が良いほうがいいのですが、自らの囚われの中で生きていると、不要な思考をまわし無駄な行動をした結果、自らに負荷をかけることにもなるのです。

しかし、これを間違いと言ってはいけません。たとえば、今までは引きこもりやニート、家庭崩壊は間違いだと捉えられてきたのですが、これは間違いではないのです。これは、そのような意識でそのように生きると、そのような現象が起きるだけのことであり、これは間違いということではないのです。それはあくまでも情報であり、この世界は忠実に自らの姿を示してくれているだけなのです。ですから、もし賢い人がいるとしたら、そのような仕組みを知り、自らが生きた結果から学び続ける人のことを指すのでしょう。

わたしたちが生きているといろいろな困難に出会うのも、自らの行いに対してふさわしく現象が起きるのですから、人生とはまさしくその連続そのものなのです。これは、物理性です。その生き方のもとは精神性であり、人間の性質がもたらしているのですが、精神性すらが人生という形でその人の物理性を表現しているのです。ですから、最終的にはすべて物理性なのです。

しかし、その仕組みが観えない人々は、目の前にあることを避けて通ろうとします。これは自分にとって都合の悪いことから逃げて通るということですが、それでは闇雲(やみくも)に生きていることになります。一般的に闇雲と言うと、先の見通しもなく結果や是非を考えずに物事を進めるという意味ですが、闇雲に生きれば、未来に何が来るのかがわからないのではなく、確実に混乱が来るのです。そういった仕組みを理解し、理に叶ったことをすれば、何が来るかはわからなくても、現象として理に叶ったことが起きるので、それは先が観えているということでもあります。これからの時代はそういった生き方が必要なのですが、今、世界中が闇雲なのです。今、世界が闇雲のピークを迎えているということは、わたしたち一人ひとりがその状態になっているということです。

21世紀は一人ひとりの目覚めの世紀です。つまり、新たな時代の扉が開いたことに気付いた者は道理に沿って進んでいきますし、それに気付かぬ者は道理から外れていくだけのことです。それは大人サミットに参加したこうたんの話と同じで、これまで彼は世の中を優秀に生きてきたのですが、それは時流と合っていたために優秀とされていたのであって、60歳を前にして彼は多くの疑問を持つようになったのです。そのときに、人は自らの心を変えることによってのみ、楽に生きられるようになるのですが、自らの心を変えずにそのまま進み続けていったら、苦しくなるのです。今、人々がそういったことに目覚める時代が来たのです。

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そのような真実が明快になり、わたしの心は今、たいへん晴れ晴れしています。今回、土地を売却できた69歳の女性は、長年、中途半端で明快ではない生き方をしてきました。ところが、わたしと出会って人生に希望が生まれました。わたしは彼女との出会いから、あの土地を手放すことによって、人生の荷物をひとつ降ろしてあげることは、「世直し」だと思ったのです。ですから、お礼については何も考えていなかったのですが、彼女は「よく考えてみたら、100万円をお礼するというのは納得がいきます。他になかなか買い手がないのに紹介してくれたのですから、当然だと思います。しかし、100万円すべてを古田さんの友人にお渡しするのは変だと思ったのです。どちらかというと、古田さんに多くお礼をするべきだとも思ったのですが、こちらで半分ずつ分けて持って来ました」と言うのです。まるで、彼女はわたしの友人の意向を最初からわかっていたようなのです。そのような経緯で、わたしのもとにボーナスがやってきました。

わたしは今、40数年前に仕事でお世話になっていた70代の女性に17万円を貸しています。彼女は、お正月を明けたらここにお世話になります、と言うのですが、借金だらけの人生になっているので、彼女とのことも今後どうなっていくのか、粘り強く観ているところです。この件についても、69歳の女性と同じように、一人の人の人生の行き詰まりを改善できたらと思い、そのきっかけとして、半年前に彼女から突然電話がかかってきてお金を貸してほしいと頼んできたときに、お金を貸してあげることにしたのです。今、その行く末を観ているのですが、このことも「世直し」として捉えています。

今回、あるところから思わぬお金が入ってきて、あるところで思わぬお金が返ってこないということは、相殺すれば33万円プラスなのですから、それはそれでいいだろうと思って観ています。そして、人生とはそういうものだと思うのです。つまり、お金が返ってこないから、そこで帳面合わせをするのではなく、トータルして人生の帳面を観ることから考えたら、徳がある人は人生を通して徳があるのです。ですから、徳を積むということは、人に対して、そして世の中に対してどのように考え、何を提供するかによってその結果が返ってくるのです。

今日、年末ジャンボ宝くじの抽選会がありましたが、1等賞が7億円で、前後賞あわせると10億円ということで、年々1等賞の賞金金額が上がってきています。それはなぜかというと、金額を高くすると、それにつられて買ってしまう人がいるからです。しかし、宝くじの売り上げの半分近くは政府が使い、経費を差し引くと、約45%が当選金として還元されるだけです。誰かに当選することは確かなのですが、その確率はどんどん低くなっていて、当選した人の人生は狂っていくものなのです。そして、当たらない人は、どんどんお金を持っていかれてしまうのです。ですから、当たった人の喜びはたくさんの不幸の上にある仕組みになっています。そうすると、一見、得したように思えても、実はそこで徳を捨てていることになります。宝くじを買うこと自体が徳を捨てることになるのです。そして世の中も、そういった矛盾に加担しているのです。時代は21世紀を迎え、わたしたちはそろそろそういったカラクリから抜け出す時が来ています。

物事というのは、道理が通っていれば、道理に沿って答えが出てきます。しかし今、世の中全体が道理から外れているのです。先程のこうたんの話にも出てきましたが、2秒間のマインドコントロールがわたしたち一人ひとりの中に浸透しており、多くの人々は自分のことばかり考えて生きているのです。自分のことばかり考えている人に、これからは、良い人生は来ません。事実、これは物理性なのです。

そこで、他者のことを考えるといっても、それはボランティア活動をするとか、寄付行為をすることではありません。大局を観て、この世の中の情勢を観て、それが健全になるように、そして結果、自らの徳積みになるように生きていくことが大切なのです。それは、表面上いくら寄付をしたところで、これからの時代、徳積みにはならないのです。そういった大局的視野をもとにした生き方がこれから大切なのだと思うと、やることは地味です。自らと向き合い、コツコツ生きていくと、それにふさわしく日々の中で答えが出てくるのです。毎日を逃げずに、しっかりと道理のもとに、流れと共に生きていくことが、物理的に難しい時代をこれから迎えても、より健全な未来を創っていくのです。

誰も、他者から正してもらう必要はありません。自らの問題はすべて、自分で解決できるようにプログラムされているのです。真に自らと向き合えば、一人ひとりが自分のことは自分で解決できるのです。それはなぜだと思いますか?

それは、出会うことすべてが自らの行いのもとに現れてきたことだからです。自分がやってきたことだから、自分がやめていくだけのことなのです。そこで改めるために何が必要なのかというと、今までとは違う考え方を持つ必要があるのです。ところが、これまでと同じ考え方の延長に解決しようとすると、それではいつまでたっても問題を先送りしているだけであり、同じことが起き続けます。そこから目を開けて、目の前に起きている現象をしっかりと観たら、自らを救うことができるのです。そうやって、一人ひとりが自らを救える時代が来たのです。

ボーナスの話は、お金の話でわかりやすいのでこれをボーナスと伝えたのですが、これはお金に限った話ではありません。いろいろな出会いもそうですが、人生を通じていつもわたしたちはボーナスをもらっているのです。それは、給料のように約束どおり毎月来るものではありません。ある日、今まで積み重ねてきたものが満期を迎えて現れるようなものなのです。

それを得るためには、毎日、自らの姿勢・心・行動をよく理解することが大切です。それは、損得勘定をベースに理解するのではなく、濁りや矛盾のない美しさをベースに理解するのです。その証は、先へ行ってみればわかります。その証は、今まで歩んだことを観てみればわかるのです。
とかく人は表面的に帳尻を合わせてうまいこといくのではないかと考えてみたり、宝くじが当たるような起死回生の出来事が起きるのではないか、と期待するものです。しかし、そのようなことは決してありません。この世界は物理性ですから、それは方程式のようなものなのです。それは因果応報の法則のもとに、忠実に現象化されます。
そういった意味では、奇跡は起きません。この世界に奇跡があるとしたら、当たり前の積み重ねの延長に今までとは違う出来事につながり、それを奇跡と言うのです。それは人と人の相乗効果でもたらされることであり、生命世界の仕組みです。本来、生命は集まれば集まるほどダイナミックかつエネルギッシュで、豊かな世界ができるのです。

今年は新たなプロジェクトがたくさん立ち上がりましたが、そのひとつに「納豆製造機」プロジェクトがあります。3日前、木の花創立以来良くしてもらっている鉄工所の社長さんに、納豆製造機のステンレスの箱を作ってもらうよう頼みに行きました。その時、「年末だから急いで作らなくても大丈夫ですからね」と伝えたのですが、彼は早速それを作ってくれたようで、今日持ってきてくれたのです。「これで図面どおりですよね」と言いながら、とても嬉しそうでした。
彼が作ってくれたステンレスの箱に発泡スチロールを断熱材として貼り、みきちゃんの実家から来たこたつのファンを電熱器にして、まこっちゃんが作ってくれるタイマーをセットすると、納豆製造機が出来上がるのです。通常、納豆製造機を買うと36万円するのですが、今のところ、お金は0円です。
彼がステンレスの箱を持ってきてくれたとき、「ところで社長、この代金はいくらですか?」と聞いたら、「いいよ、いいよ!」と言うのです。彼にはちなっぴが作った正月用のしめ縄のお飾りをあげたり、毎月お米を渡しているのですが、まるで物々交換をしているようです。それも、納豆製造機の話を彼にする前に、「この図面は複雑だから直接話をしたほうがいいので、彼のところに行かないと」と思っていたら、ちょうどお飾りを取りにきた彼と話をすることができたのですから、そのように流れに乗っていると物事はとんとん拍子に進むのです。

そういった延長で、わたしたちが何も企んでいないのに、今年は新たなプロジェクトがたくさんあります。わたしたちがいろいろな出会いをつないでいって、情報と共に繁栄していったら、これからさらにたくさんの出会いがあることでしょう。ですから、未来は希望にあふれています。それはきっと社会をより良くするために役に立っていくことでしょう。しかし、それはこちらの思惑で成ったものではありません。そこが大切なところです。すべて、ボーナスなのです。

これからの時代は、自らの思惑や損得で得たお金ではなく、人とのつながりの中で豊かにいただいたものによって生きていきたいものです。2015年から2016年にかけての年越しを、ここでは独特の世界観の中で迎えました。この独特の世界観は、国営放送の紅白歌合戦の中にも、ゆく年くる年の中にもありません。それは、宇宙の中にある地球のターニングポイント、太陽のまわりをたった一公転した切り替わりから示されるものです。

毎日、一瞬一瞬コツコツと自らに向き合えば、自分が生きた分だけ自分がどのような者なのかを教えてもらえるのです。ですから、2016年はそうやって多くのことを蓄積しながら、発信していく年です。

みなさん、もう来年のテーマが出てきました!(皆:え~~!!)今年2016年の「発信」から、来年2017年のテーマは「爆発」です!(皆、大拍手!!)今年は様々な情報を蓄積しながら発信していき、その発信がいよいよピークに達し、来年は爆発するのです!!そういうのはどうですか(笑)?(皆、大拍手!!)中東で空爆しミサイルが爆発するよりも、中国のガス爆発よりも、どこかの国が原爆を破裂させるよりも、ずっと良い爆発ですよ!

ということで、みなさん、
新年あけましておめでとうございます!!
今年はそのような方針でやっていきましょう。

元旦の朝、初日の出に向かって
元旦の朝、初日の出に向かって

 

 


いさどんの七夜物語 – 第七夜 「太陽の導き」

太陽が、真東から昇り真西に沈む、1年間で光と闇がちょうど半々となる秋分。その前夜に端を発し、「七日七夜で心の質的転換を起こします」と、ただひたすらにあふれ出る宇宙の叡智を浴び続けた七日間の、最終章です。
大人ミーティングにやってきたいさどんが、静かに語り始めました。

 

9月30日「太陽の導き」

いさどん:
今日は9月30日ですね。今年の四半分を残して、第4コーナーに入ります。

1週間前に秋分がありましたが、秋分というのは昼と夜の長さが同じになる日ですね。同じく昼と夜が同じ長さになる春分を1年の出発点とすると、秋分は1年のちょうど半分にあたります。

秋分の前日、僕は3ヶ月ぶりに大人ミーティングへ来ました。そしてこの七日七夜が始まりました。その意識は、10月1日に向かっています。そして、地球の動きや、そこから生まれる二十四節気などを意識して思考している自分がいます。
僕の中には、今日が大晦日という意識があります。新年を迎えるにあたって、この大晦日の日に大すす払いをするという意識がどこかにできていました。そして一昨日の夜中に父上からメッセージがありました。

僕は客観的なものごとの捉え方をする人で、世の中のいろいろなことに出会っても、共鳴するものはなかなかありませんでした。しかし最近、木の花の暮らしを通して出会う宇宙観や、時代を読み解いて我々はどう生きるべきなのかということを紐解くと、これこそ本当に待ちに待っていたものだ、と。そんな捉え方をしています。
それは、自分の口から湧き出たことであるからとか、自分の周りの生活にそれが反映されているから、ということではありません。僕には、内外関係なくものごとを評価する心ができています。

僕は30歳でこの道をいただき、自分自身を疑いながらも、出会う出来事の奥を観て、そこに何か真実があることを直観で感じながら歩いてきました。今ここまで歩んできて、こういった生き方に出会ったことを本当に誇らしいと思っています。

残念なことに、まだまだ人類はそういった視点を十分に持てていません。残念とは言うものの、それはプロセスでもあるのです。しかしながら、近年の人類はとても愚かしい道を歩んできました。これほど自然をコントロールし、影響を与えるようになる以前の人類は、自然のなすがままに栄え、滅びていました。ところが今は、人間のなせる業の結果、世の中に様々な問題が起きており、その愚かしさは極みを迎えていると感じています。

この世界は、自らの姿勢が自らの未来を決める仕組みになっています。自らの愚かしさの先に自らの未来を決めるのであれば、自らの尊さによって未来を決めることもできるのです。それは、人間が自我を超えるということをしなければできません。尊いとは、連携することから成されていくものです。その道の行きつく先は、この世界を理想郷に導くことです。それは宇宙も含めたこの世界の成り立ちであり、地球に表されている生態系の姿そのものです。
その中にいながらにして、人間は愚かしい道を歩むことをしてきました。その結果、今の状態があります。さて、これから我々はどこへ向かうのでしょうか。

今、この場に約60人の人がいます。世界の主だった国の代表がここに60人集まっているという設定で話ができたら、どんなにことは早いでしょう。けれども現実にはそうではなく、ここにいるのはこの生き方に共鳴した人たちであり、国連で話しているわけではありません。
それが何を示しているかというと、小さくてもいいから、人間が可能とする理想をそこに示しなさい、ということです。

理想というとずいぶん大それたことのように聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。理想というのは、たくさんのことを経験しながら、それを常に受け取り、変化・変容を繰り返していく姿のことです。それは、神の姿です。

昔シャーマニズムと出会い、僕はサニワとして、シャーマンを通して神々と対話していました。そしてシャーマンに降りてくる神々に、いろいろな質問をしました。だんだんと意識の高い質問をするようになると、その時に降臨していた神様は困惑して、そなたの問いには私では答えることはできぬのじゃ、と言うのです。

神様は、「そなたは神を完全と思うておるのか」と言われました。神様からそんな言葉を聞くとは思いませんでした。神様が完全ではなくて、いったいこの世で何が完全だというのでしょうか。「私は神様が完全なものだと思っております」と僕は言いました。すると、「神とて完全なるものはおらぬのじゃ」という返答が返ってきたのです。
それを聞いて、僕はとても困りましたね。僕の中には、何か絶対なるものに頼り、そこから道を導き出そうという心があったからです。僕は神様に「では私は、その完全でない神様に道を頂き、そこから真理を学び続けていくということですか」と聞きました。すると神様は、「そうである」と言われました。「それが神の姿である。神とは学び続けるものである」と。

この世界は変化・変容・変態を繰り返し、留まることがありません。地球暦では、太陽系の惑星はそれぞれに意味を持っており、地球は変化・変容・変態を示す星です。
宇宙の星々のサイクルはとても長く、変化・変容・変態を体験するにもとても長い時間がかかります。そこで私たちは、地球に降りて来て、肉の体をいただき、人として生きることで、命の意味を学習し、また元の世界(その元の世界とはどこでしょうか?笑)へ還っていくのです。

この世界の実態は、変化・変容・変態を繰り返すことであり、それが神の姿そのものです。カタカムナでカミを紐解くと、「カ」は宇宙の極小微細単位、「ミ」はそれが満つっているということを示しています。満つっているということは、この世界を創り続け、壊し続ける、物理性の実態そのものなのです。そのような世界の中で、何ものかに囚われ、留まることは、この世界の実態(神の実態)から外れたものになるということです。

一般社会で生きていると、自らの心の汚れが出ても、なかなかそれを自分が発しているとは思えないものです。なぜなら自我が強いからです。そして自分を観ずに、周りのせいにしていきます。そこを掘り下げる意識もないので、それが自らに原因があるとなかなか気付くことはできません。気付けなければ改めることもできないので、同じことが続くのです。
そこに気付くには、誰かのせいにしていては気付けません。気付きは、自我の囚われがなくなった状態で、ふっと降りてくるものです。

地球上に生命が降ろされて、後に人類が降ろされました。地球上で生命として生きるということ、さらに、人類として生きるということは、とても身近に自らの魂の実態を目の当たりにすることができるのです。
この世界の仕組みはすべて鏡ですから、自らの発したものが忠実に自らへ返ってきます。そして、そこから自分の姿を観ることができます。ヤタノカガミといって、八方が鏡なのです。
鏡は、汚れていると「カガミ」ですが、汚れを取ると「カカミ」になります。鏡(カガミ)から我(ガ)を取れば、神(カミ)になるということです。我々は物理的な鏡を通して、自らの姿を見ることができますが、人生を通して自らがこの世で見るもの、感じるもの、出会うものは、すべて鏡を見ているのと同じことなのです。我々は霊的な鏡に囲まれて生きているのですから。

そういったこの世界の仕組みをマスターして生きていけば、自らが発しているものが、自らをどのような意識レベルに定着させているのかが観えてきます。その意識がこの世界にどのような影響を及ぼし、自らをどのような世界で活かし、どのような世界を創っているのかがわかるのです。それがわかると、この世界に不平不満を言うことはなくなるでしょう。この世界は、私たち一人ひとりの意識によってできているのですから。
さらに、そういった仕組みがわかれば、人間は生命として何を成すべきかということが一目瞭然でわかるのです。この世界に安定や平和をもたらし、生命の世界の豊かさを表現することができるのです。

面白いのは、我々は今、完成された世界を求め、学んでいますね。完成された世界とは、ある意味、現象的には貧しい世界です。そこでは、完成されているが故に、何も起きないのですから。
この不完全な世界に生きることこそ、ダイナミックで豊かなのです。不完全だからこそ、幸せやありがたいということを感じられ、愛が求められる世界になるのです。それはある意味、ダイナミックで豊かな世界と言うこともできますね。

僕は昔、神様に「私は、人間の在り様をずっと観てきました。そしてその姿に辟易しました。人間こそ、愚かしさの頂点に立つものであると思います」と言ったことがあります。その時の僕は、人間のあまりの愚かしさを観て、人間性悪論のようなことを考えていたんですね。そして、さらに神様に言いました。

「あなたは神という立場に立ってこの世界を導くものだとしたら、なぜ人間に、血で血を洗うような歴史を歩ませて、いつまで経っても神から人間が見捨てられたと思うような世界をつくらせるのですか。子どもの出来の悪さは親の出来の悪さであると言います。弟子の出来の悪さは師匠の出来の悪さであるとしたならば、神の子どもである人間がいつまでも愚かな道を歩むのは、あなたの未熟さゆえであるとも言えますね。
あなたの隣りにこの世界と同じような宇宙があるとしたら、そこの神様があなたの創られた世界を見て、おまえは子育てが下手だな、おまえの子どもである人間はいつまで経ってもこのような愚かな世界をつくっているではないか、と、言われませんか。」

冗談のような話ですが、僕は神様にそう聞きました。そうしたら、「そうとも言えるな」という返事が返ってきました。そして神様は、こう続けられました。

「私がいた世界は完全であり、私しかいなかった。そこは光だけの世界であった。光の世界で光は見えぬ。そこは静寂の世界であり、一切の動きもない。そこでは、私は私の存在を認識できなかった。
そこで、私が私を知るために、私は私と反対のものを創った。光には闇を、天には地を、善には悪を。そしてその反対のものを私から遠いところに置き、それが私のもとへと還ってくる仕組みを創ったのだ。それがこの世界のもとである。」

そしてさらに、神様は言いました。

「今のこの場所は、私の意志の終着点ではないのである。おまえが考えているこの場所は、まだ先があるであろう。そして、それは永遠に繰り返す。
その中の一部分を区切って見れば、子育てが下手だというおまえの捉え方もその通りだろう。しかし、おまえが求める理想の人間の姿というのはどこにあるのか。それは、今の延長線上にある。それを光の世界と言うならば、その対極にある闇、つまり愚かしさから始まって、そしてプロセスを踏んで光の世界へ行き、また闇へ還るようにしたのだ。それが私の意志であり、私の実態なのである。」

これは、現代科学ではまったく裏付けのできない話です。しかしカタカムナに出会うと、まさしくその通りであることがわかります。そして今、トキが来たことを感じています。
70数億の人間の中で、こういった宇宙観を持ち、それを生きることの中で表そうとしている人々が、微細ではあるけれども現れました。ここの人たちは、その顕れですね。

地球上に生命が現れる時に、物質的な変化を繰り返す時間が長くありました。一番の奇跡は、アミノ酸からタンパク質ができて、そこから最初の細胞が生まれて、細胞分裂を始めたことです。それはとてつもない奇跡です。
そういった宇宙的奇跡が、地球上でたくさん繰り返され、長い時間(宇宙的には一瞬の出来事)をかけて、私たちは進化(現在の状態)してきました。

近年、人類は自我を表現し、それを実現することを喜びとして、自分が理解できることを正しいとしてきました。そんな中で社会制度も進み、今の私たちの社会の基盤である民主主義が生まれたのです。
民主主義というのは、人々の欲望を叶えていくことを請け負った者たちが、民衆を代表して政治を司る世界です。そこでは、人々の欲望を叶えることが政治の目的となり、人々は欲望を膨らませることを社会の豊かさとして求め、人々の願望は社会秩序を乱す元となっていきます。そのような世界では、人としてこの世界に果たすべき役割に目覚めることはできません。ですから、今の人類の価値観のもとにある民主主義の世界では、人類に本質的な進化はもたらされないのです。

宇宙にふさわしい形態はどういうものかというと、宇宙の法則が降りてきて、その法則に則って人々を導く者にすべての人々が託すことで成る世界です。それは、過去に宗教の教祖や王による統治などの形で試みられましたが、そこには、人間離れした神としての存在である優れた者とその他の者たちという構図ができあがりました。そこには自ずと格差が生まれる結果となり、その世界では不完全だったのです。

では次に何が考えられるかというと、宇宙に遍満しているたった一つの法則に共鳴し、その宇宙法則を感じて人間たちが地上を生きる世界です。優れた者が地上に降り立ち、他の者はそれに救いを求めるという構図は、支配構造を生みます。しかし、特別な誰かが降りるのではなく、地上にいる者たちが宇宙の秩序を知り、その法則を柱として生きたら、すべての人間は天を生きることになります。
一人ひとりにはそれぞれに相応しい役割(個性)があり、それぞれが自らの意志で宇宙秩序を生きるわけですから、それはある意味、究極の民主主義です。そこに生きる個性ある人々の柱となるものは、個人の欲望から生まれるものではなく、共通した宇宙法則なのです。そこでは、人々の行いはこの世界の秩序を保つための役割であり、人々が集えば集うほど世界は豊かになり、高い精神性のもとに尊い社会が営まれていくことになるのです。

この世界を導く意志は、ひとつです。それを受けて、地上を生きる者たちは、ひとつの法のもとに個性ある豊かな世界を創るのです。これが、柱が立ってこの世界の現象が生まれるという造化三神の姿です。
そういった考え方は、人間が「そうだ、この世界はそういうふうにできているのだ」と理解すれば、たちどころに成ることです。しかし残念ながら、こういった話をしていても、その位置に意識レベルが行っていない者にとっては、なんだかわけのわからない話をしているとか、あやしい世界だということになります。それが今の世の現状です。

この世界を自らが理解できる方へ探求していくと、その人間の精神のレベルのままに理解することが進み、未知なるものに出会い、新たな意識が自らに湧き出すことは起きません。とかく人は、現在の自らの認識を持ってこの世界を正邪で判断しようとするため、そのような過ちに陥るのです。
人が進化するとは、自らの現在の意識を超えて、次の段階へ進む階段を昇るようなものです。今の認識をフリーにして、囚われのない精神状態で、常に新たなものを受け入れることによって、初めて人は進化の道を歩むことになるのです。

ところが、進化することの意味が分からず囚われる者にとっては、進化することは自らの認識が変わることであり、囚われから外れることは恐れを生むことにもなるのです。従って、囚われの中にいる縛られた人間は、現状を保ち、進化しないことを自らを守ることとし、それを良しとするのです。多くのものを所有できる現代社会においては、宇宙法則から外れた亡者のようなものたちが、物や知識を所有し、物や知識のあふれる川に溺れているようなものなのです。そのような者たちがもてはやされ、時代を導く者として高い評価を得ているのが、今の時代の実態です。

今この時代に至って、この世界の実態や自らの実態を離れて客観的に観る視点を持ち、その背後にある時代が示す示し(客観背後)を受け取り新たな社会秩序を見出すことは、行き詰ったこの世界を救済するためにもっとも必要な意識であり、それは明白なことなのです。

ところで、僕は今日を大晦日だと考えていました。そうしたら、天と通じている人がいました。大和の国の風習では新年を迎える前の晩には蕎麦を食べることになっていますよね。

みんな:
あっ!!

その日の夕食に、やじーの手打ち蕎麦が出たのでした。
その日の夕食に、やじーの手打ち蕎麦が出たのでした。

いさどん:
これは、誰か予め打ち合わせをしていたのでしょうか。誰か、今日は大晦日だと考えてやじーに智恵を貸した人がいたのでしょうか。
僕は、今日は七日七夜の質的転換の最終日で、大晦日だなと思っていました。けれどもそんな話はみんなにしていませんでした。そうしたら、今日の午後に湧泉閣に帰ったら、玄関に粉だらけのスリッパが置いてあるのです。何だこれは、と思ったら、やじーが蕎麦を打つとのことでした。そういうことか、と。天を生きている者がいるな、と思ったのです。
そこで、その天を生きている者に話を聞きたくなったので、蕎麦を食べる前にひまわりに電話をして、「おじーはいるかい、あ、違った、やじーはいるかい」と聞きました(みんな:笑)。そうしたらなかのんが出て、全然反応しませんでした(みんな:笑)。
それでやじーが電話に出たので、どうして今日蕎麦を打ったのかと聞きました。そうしたら、やじーが言うには、晦日蕎麦と言って、月の終わりに次の新しい月を迎えるために蕎麦を食べる風習があるのだそうです。それなら毎月月末に蕎麦を打っていたかというと、そんなことはなく、今日に限って打ったわけです。そこで僕はやじーに、今日の蕎麦は大晦日の蕎麦だよ、と言いました。あなたは天と共に生きる人だね、と。

先ほど僕はみんなに、いろいろと難しい話をしました。けれども、みんなはそんな難しいことを考えなくてもいいのですよ。
ふっと、蕎麦を打ちたいな、という想いが湧いて、それが9月30日だった。そしてそこまでのいきさつを丁寧に探っていったら、実はその日は大晦日だった。何気なく、ふっと、蕎麦を打ちたいな、と湧いてきた想いが、丁寧に丁寧に探っていったこととちゃんと一致したのです。
丁寧に探るのは、この世界はどのような仕組みになっていて、世界観を広く持つにはどのような捉え方をするべきか、そして天意とは何であるか、天と共に生きるとはどういうことかを思考することです。その思考について来られる人はなかなかいません。しかし、ふっと蕎麦を打ちたいと思い、それが天のタイミングと一致したならば、それを偶然と言うのかと言ったら、それが天と共に生きるということなのです。

ですから、難しい話をする人はそういう役割としているかもしれませんが、人の個性はいろいろですから、誰もが同じようにする必要はないのです。何気なくふっと行動したことが、難しく丁寧に、広い世界から順を追って法則を探りたどり着いたポイントと、パッと一致するのです。
ポイントと言うのは、毎日どころか、瞬間瞬間がポイントの連続です。天を生きれば、そのポイントといつも一致していくのです。

広いところから狭いところまで本当に幅広く緻密に探ってたくさん思考をする時には、柱に添って思考します。柱がないと脇へそれていき、元に戻ることを忘れてしまいます。
我々は、振動しながら自転して公転し、歳差運動までしながら進んでいる(地球の歩み)のですから、柱がなければずれていってしまいますよね。基軸となる太陽があるから、我々(地球)はずれずに進んでいくことができるのですよ。そして太陽も、銀河の中心(セントラルサン)があるから、それができるのです。

柱が立っていれば、何も段取りをしなくても、すべてのことがぴたりと一致(阿吽の呼吸)していきます。そういった意識を持った人は、わからないけれど今目の前にこれがあるからやろう、と受け取るようになります。わからないからこそ、わくわくするのです。元々わかっていることを安心してやったら、結果もわかっている範囲内のものですから感動はたいして湧きません。しかしわからないからこそ、いったい何が起きるのだろうと心がわくわくするのです。

そのように宇宙法則に従って正の方向に思考する人は希望を持って未来を迎えますが、人によっては、わからないからと言ってわざわざ不安を未来にイメージし、反の方向へ思考を回す人もいます。そういった人には、その思考に相応しい未来を、宇宙法則が与えてくれることになります。そんなバカバカしいことに囚われて、必死に自分を守ろうとして毎日を生きている人がいますが、ちょっと自分を離れて客観的に観る視点があれば、そんなことはたちどころにやめられるものです。皆さん、やめましょうね。(みんな:笑)

今日は大晦日ですから、新年を迎えるにあたってのけじめの話をしよう、そういう場所であるべきだ、と僕は思っていました。だけどその前に、やじーにやられましたね。そう思いませんか?

(みんな拍手!)

ようこ:
本当にびっくりした。今日が大晦日だというのは私といさどんの間だけで話していたのに、誰の誕生日でもないのに蕎麦を打っている人がいて、あれっ、年越し蕎麦だ!って(笑)。

やじー:
今日は、いつも蕎麦打ちを手伝ってくれているみっちーの体調が悪くて、蕎麦を明日以降にずらすこともできたんだけど、なぜか今日だったんですよね。一人でもやるか、と。後でわけを教えてもらって「そういうことだったのか」と思ったけど、自分では意識してなかったです。

いさどん:
わからないけれど何かしら感じるものがあって進むと、その意味の深さや大きさ、そしてそうやって生きることの大切さが、後からわかってくるのです。これが天と共に生きるということです。
考えて考えて先に理由をわかって「これなら行くぞ」というのは人智です。それはどういうことかと言うと、自分の思っていることを叶えたい、ということです。自分の思っていることを叶えるということは、それが叶った後も、その前と変わらない自分がいるのです。

この七日七夜の最初の日に話した話を覚えていますか。

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今日も明日も明後日も、生まれた時から死ぬまでピーーーッと一直線。これはある意味、宇宙の法からは外れています。同じ状態をずーっと続けている状態は、変化・変容・変態を繰り返す宇宙からしたらおかしいのです。
ピーーーッと一直線に進んでいるということは、霊的には順調ではないということです。本来変化して行くものが、何かに囚われて同じ状態を保っているということですから。
宇宙の法を生きるということは、図に現せば山があり谷があり、だんだんと上がっていくということです。それは、人生を通して私たちがいろいろなことに出会い経験することと、同じことなのです。それが正常な状態だとすると、ピーーーッと横一直線に進んでいるのは、落ちているということなのです。魂は輪廻転生を繰り返しますから、何も変化なく一生を終えた人は霊的には落ちているということであり、その落ちた位置から次の生をスタートすることになります。

ちょっと、今から皆さんを、芸術の世界へご招待しようと思います。

(ここで突然、音楽が流れ始める。)

みんな:
なにこの曲??

いさどん:
みんな、細胞にこの曲が刻まれてないですか?

こうちゃん:
刻まれてる~。

みんな:
知らな~い!

いさどん:
知らない?これは『映像の世紀』のテーマ曲です。

『映像の世紀』
戦後50年を記念し、1995年から1996年にかけて「NHKスペシャル」にて放映された全11集のドキュメンタリー番組。日本国内はもとより世界各地から、二度の世界大戦やベトナム戦争などを含む20世紀の記録映像を収集し、現代の視点から20世紀の記録を克明に映し出して、多くの反響が寄せられた。

こうちゃん:
昔、本宅でみんなで観たよね。

いさどん:
第4集(ヒトラーの野望~人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した)、第5集(世界は地獄を見た~無差別爆撃、ホロコースト、そして原爆)あたりは、本当に地獄です。ここからさらに、第7集(勝者の世界分割~東西の冷戦はヤルタ会談から始まった)へとつながりますが、そのような世界では、戦争に勝っても負けても犯罪者です。そして東西の核の対立があり、ベトナム戦争へと続きます。いつまで経っても、人類の対立は止みません。

第二次世界大戦を経てアジアの国々が独立するわけですが、そこでもまた多くの殺戮が行われました。イギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリンによるヤルタ会談では、戦後の自国の領土をどうするかということが話し合われました。ドイツのヒトラーや日本の軍閥の浅はかさがそこには映し出され、勝者が善になっていますが、実は勝利者の中にも恐ろしい精神が隠れているのです。
それが、今の時代になってやっと観えてきました。2012年12月21日に銀河の冬至を迎え、戦後70年の今年は、これまでの終戦記念日とは違ったものが放送されていました。愚かしさというものが戦後の体制によって裁かれてきましたが、実態はそうではありませんでした。真実は、その時代に関わったすべての者たちの意識を示すためにあったのです。

『映像の世紀』は戦後50周年に制作されたもので、その時にはそれを観た人々は気付けませんでした。
戦争はすべてが悪であり、被害者になると、どちらが善でどちらが悪ということはない、とよく言います。しかし本当の意味で、自分の立場を離れてこういったものを客観的に捉える時代が始まったのです。時代は、そういった解釈ができる時代に突入したということです。

先日、中国で抗日戦勝利70周年記念の軍事パレードがありましたね。あの時に、習近平国家主席は日本の軍国主義についての話をしました。いくら日本が安保法を進めていると言っても、あの時代の軍国主義とはもう違うでしょう。けれども、彼らはまだその亡霊に憑りつかれて、何に怯えているのか、或いは何の利権を争っているのか、未だに戦後のままの意識で主張しているのです。
先日、習近平国家主席はアメリカでオバマ大統領と会談しました。アメリカは中国のサイバー攻撃と海洋進出に抗議し、中国はサイバー攻撃については共に原因を探求していきましょうという話で濁し、海洋進出については、元々我が国の領土であるところを我が国の権利として開発することに我々は何ら揺らぐものはない、と主張していました。確かに中国には長い歴史がありますから、何千年という昔にはそういうこともあったでしょう。しかしそんな話を始めたら、みんながそういった主張をするようになります。まだそんな解釈によって自分の主張を繰り返しているのです。そして問題が解決しない状態があるのです。
極端なことを言えば、地球すべてが自分のものだという意識に行きつくでしょう。なぜかと言うと、私たちの先祖はひとつだからです。

第二次世界大戦の時、連合国軍がアウシュビッツへ足を踏み入れると、静寂の中に異様な匂いがしたそうです。それが何の匂いであるかは想像がつきました。人間の匂いです。そこで彼らが見たものは、人間はここまでのことをするのだ、という世界でした。そしてそれを他人ごととは思えなかったと言います。私の中にもきっとこういったものがあるのだろう、と思ったそうです。
扉を閉めてある部屋があり、中へ入ると、そこには餓死者がたくさんいました。そこで彼らは、初めて人食いの痕跡を見たそうです。死んだ人間のお尻に人がかじりついていて、そのかじりついている人間も死んでいました。
それは、人間のやることです。

日本軍も、フィリピンのミンダナオ島でジャングルに逃げ込み、食料のない中を生きていかなければなりませんでした。
生き延びた人たちの証言によると、島の中を歩いていくと、あたりに倒れている兵士の死体のほっぺたが、みんなそぎ落とされてなくなっていたそうです。ナイフでそぎ落とすのは、ほっぺたが一番簡単らしいですね。
そして煙が上がっていて、人がいるんだと思い行ってみると、香ばしい香りが漂ってくる。近付いてみると、そこで肉を焼いていた兵士たちがこちらを見たそうです。その目が、人間の目をしていなかった、と。

そういった世界にまで、人間は行きついてしまうのです。それを他人ごとにしているから、今の時代が先へ進まないのです。

世界の指導者に、本当に平和を望んでいる人はいるでしょうか。
例えば、中国の国父と言われる孫文。彼の弟子が蒋介石であり、周恩来、毛沢東であり、戦後に国民党軍と八路軍とに分かれて戦い、殺し合った人たちです。
それから、ベトナムのホー・チ・ミン。ベトナムを独立に導き、今も国民から慕われています。その独立の過程では多くの戦いがあり、人々が死んでいきました。
そして、ガンジー。平和を訴え、非暴力・不服従をうたいました。その時の映像をよく観てみると、暴力をふるうイギリス兵に対して、非暴力を掲げて果敢に挑戦する、非暴力の暴力をふるっている人たちがいるのです。
それを非暴力と言うのでしょうか。その結果どうなったかと言うと、最後には非暴力が「勝った」と言うのです。暴力がないところに、勝ったも負けたもないはずです。そこでは、ただ銃を使わなかったとか相手を殴らなかったというだけで、精神はイギリス兵と同じなのです。

そのことをわからないと、人類はこの先へ行けません。いつも自分の側が正しく、相手の側が間違っていると考えている。いつも、結果的に勝利した側が正義で、負けた側が悪になる。
『映像の世紀』のホロコーストの話は、ユダヤ人が強制収容所に送られるところから始まっています。強制収容所ではたくさんの人が殺されました。しかしその前に、この民族がどういうことをしていたかということは、そこでは何も語られていません。お金や力で権力を操ってきて、それに危機を感じたヒトラーが制裁を加えたとしたら、因果応報が現象化したとも言えるのです。そして今なおその精神は衰えずにイスラエルという国につながり、アメリカの社会を操り、その保護のもとに核兵器を持って、パレスチナを蹂躙しています。そういった世界では、どこにも正義などないのです。

20世紀までの映像を観て、正義はどこにもありません。人間の本質があるだけです。

 
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木の花ファミリーは、最初は木の花農園という名前でした。農的共同体でしたから。それがなぜ木の花ファミリーになったかというと、外国人やたくさんの人々が訪れるようになり、農園という枠を超え始めたからです。そして木の花ファミリーとなり、それはアースファミリーであるという精神で歩んできました。
それは、今の社会のある一部の人たちが、この生き方は世の中の最先端だね、それを世の中に広めたいね、ということで始めたことです。けれども実際は、その先にこんな世界があるなどということは想像もしていませんでした。当初は物理的にも狭い世界で生きていました。たまたま僕の奇妙な話に共鳴したスピリチュアルな小集団がこの暮らしの始まりとなっただけで、わけもわからず突き進んできたのです。
今は80人になりましたが、相変わらず小集団であることに変わりはないですし、やはりわけもわからないまま突き進んでいます。けれども、わけがわからないということの質が変わってきました。

わけがわからないまま進めることは、結果を求めないということです。結果を先に決めるのではなく、今を大事に生きることで、結果はついてくる。その時にどういう結果が得られるかは、行ってみないとわからないのです。
誰でも、嫌なことには出会いたくないものです。そして納得のいく結果を求めたくなるものです。先に嫌なことは嫌だと言って、都合のいいことを考えて、納得のいく結果を想定してやって来たのが、これまでの人間の創り出した社会です。けれどもずーっとさかのぼれば、長い人類の歴史の中で、人間がこれほど横暴なことをするようになったのはつい最近のことなのですよ。それこそ250年前のヨーロッパ産業革命以降です。それは、地球誕生から46億年の歴史を1年に例えたとしたら、12月31日の最後のたった2秒間の出来事なのです。

そう考えると、この生き方がなぜ今このトキに大事なのかが、理解できます。
そしてもう一つ。それをみんなが理解できたとして、あなたが今ここにいて、このトキを迎え、僕がこの話をしていることに対して、みんなは「ああ、そういうことか」と納得ができますか。

(みんな頷く。)

おそらくみんなできるから、ここに集っているのでしょう。
では、その納得できるという心を持って、世の中を見渡してみてください。我々と同じように1995年にこの『映像の世紀』を観て、今年の戦後70周年の様々な映像を観て、同じように刺激を受けている人たちがいるはずです。我々はこれらの映像を通して、だから自分はこの生き方をしているのだ、と自らの歩みを納得することができます。しかし世の中の人が、この映像を観て、今の生き方とつなげて納得できるかというと、できないでしょう。
わからないのは、考えていないからです。だから観えないのです。

みんなは今ここにいて、この話を聞いています。今日は大晦日で、その裏付けとしてやじーが手打ち蕎麦を打ちました。これはこじつけでしょうか?
僕は、そういうものだと思うのです。それを偶然ではなく、これが天と共に生きるということであり、宇宙を生きるということであり、星の意志を受け取って生きている人たちの生き方であるとわかることなのです。

秋分の前日に、頼みもしないのにある人が秋分の意味を送って来てくれました。そして満月の前日には、また別の人が満月の意味を送ってくれました。誰かがそんなものを送ってほしいと頼みましたか?こういうことを考えているのでその裏付けとなる資料を送ってください、なんて頼みましたか?
そういうふうに、宇宙を意識して日常を生きている人は、当たり前のようにポイントがはまっていくのです。
毎日の瞬間瞬間の思考の一片一片が、すべて宇宙と共にあるのです。宇宙の星々の意識をもらって生きているのです。同時に、自分がここで何をどう表現するのかが、星を運行させているのです。

一昨日、父上からメッセージがありました。

「これからは力強く支援するぞ。流れが変わる。
 それに遅れをとらぬように、よろしく頼む。」

力強く支援すると言われると、あさましい人ならば自分が得をすると思って喜ぶかもしれません。けれども力強く支援するというのは、おまえたちが今まで歩んできたのは難しい道だった、手探りでやってきて御苦労であった、私もそれを認めている、もう一つ扉を開けるからその歩みが明快に観えてくるぞ、だから確信を持って行け、ということです。
そうすると、エネルギーが少なく楽をして行けると思うかもしれませんが、そうではないのです。
ことが明快に現れてくるということは、求められるぞ、ということです。それは楽になるということではなく、さらに心して行け、ということなのです。それに応えられるだけの者に成れということです。

新年を迎えるにあたり、改めてみんなに話があります。

ここ何年か、毎年その年のテーマとなる言葉が降りてきていました。
2015年は「船出」でした。乗組員たちが一つの船に乗っているという意識を持って、自分に与えられた部署に専念し、船が円滑に進んでいくように努める ――― と言っても、なかなかポンコツな船出ではありましたね。船の性能が悪いのか、乗組員の意識が低いのか。けれども確かに船出をしました。そしてあと4分の1が残っていますので、仕上げとして、やはり一人ひとりがこの船のどこを担っているのかを意識して、自分の分をしっかりやり、そして連携すれば、この船は2015年の目的を達成して新たな年へ向かうでしょう。

新たな年には、新たな目的が与えられます。すでに、それが何であるか僕は予感しています。
先ほど『映像の世紀』のテーマ曲を聴きましたね。何とも言えず淋しいというか、侘しいというか、暗い感じがするでしょう。その奥にあるものを感じられるところまで、僕たちは来たのです。
今年もたくさんの映像を観ましたが、なぜああいったものを観るのかと言ったら、NHKが狙っているところに我々の目的はありません。なぜかわからないけれど、NHKの担当者に「こういう番組をつくりたいな」という想いがふっと湧いて番組をつくるとしたら、そこには彼らが頭で考えて「日本人にこういうことを伝えたい」というものを超えたものがあるのです。それは、星がそうさせているのです。時代がそうさせているのです。

多くの人間には、まだそれがわかりません。けれどもここの人たちはそれを受け取るからこそ、何回も何回も、必要な時にこういったものを観るわけです。20世紀の人間たちがたくさん経験をしてきて、それを映像にまで残して振り返って、戦後70年経ってもまだ怨念が消えないほど辛い体験をしながら、それでもなお観えずにいるものを、我々は観ているのです。
たかだか80人の人たちが何を真剣に毎日夜中までやっているのかと言ったら、僕は、世界を代表しているのだと思うのです。安倍さんも周近平さんもオバマさんもプーチンさんもわかっていないことを解釈できているからこそ、名もない人たちが、こういった場所を真剣に保っているわけでしょう。

今、9月30日の午後10時35分です。もう少しで新しい年を迎えるというところに、我々はいます。
この新年は前倒し新年です。というのは、2016年に向けてしっかり心構えをつくり、相応しくなって新しい年をスタートしなさいということです。だから、四半分を与えるから、心の体制をつくってのぞめということです。

それで、2016年のテーマは何か。
テーマは、少し前にようこちゃんと話している時に降りてきました。どういういきさつでそれが降りてきたのかは覚えていませんが、何か新しい動きを感じる話をしていました。ようこちゃんは覚えていますか?

ようこ:
その時のいさどんの言葉をテープ起こししてあります。
(と言って、ホールのスクリーンに文章を映し出す。)

いさどん:
すごいね!僕が何も言っていないのにそこまで用意してる。

ようこ:
それでは、2016年のテーマ発表です!

 
■    ■  9月17日朝のいさどんの話  ■    ■

世の中はまだ十分に木の花ファミリーの実態を理解していない。しかし、我々はこの生き方は本当に大切だと理解してきたし、世の中がわからないといっても、勘の鋭いポイントの人たちにはわかってきた。そうすると、我々が投げかけることに対する受け皿が出来たんだよ。後は「発信」するだけだよ!

発信するということは、こちらが勝手に発信するということもあるが、実際のところ発信してもその受け皿がなければ、どうしようもないことなんだよ。それでは長続きしない。

ところが、発信したことの受け皿があれば、その手ごたえがあるから発信し続けることが出来る。だから、これからどんどん出していく。

それも、後ろに潜象界を置いて発信していくということだ。

しかも、その発信は、地球を意識して、地球にまわるというイメージなんだよ。

■     ■     ■     ■     ■

 

いさどん:
実は、これを発表するのは元旦だね、と話していました。そうしたらようこちゃんは「流れだね」と言っていました。そして今日、僕はここで話しながら流れを観ていたら、僕のこれから出会うであろう出来事の先を読んで、幅を持って、いつでもどこでもどんな対応もできますよという人がいて、ぴったりのタイミングでこれを出してくれました。
また、今日は大晦日だねと言っていたら、勝手に蕎麦を打っている人がいました。どちらも全く予期せぬ話で、そういう準備をしている人がいるのです。

人と人の関係というのは、自分を超えて、自分が自分を想う以上に、近くなれるのです。自分が一生懸命自分のためを想って自分を大事にするよりも、人との関係はもっと自分を大事にしてくれて、もっと自分のためになって、もっと近くなれるのです。これが、「あなたは私、私はあなた」という世界です。これが地球の姿です。これが宇宙の姿です。

そういう人間関係を、誰とも結びたい。それは木の花曼荼羅にも表されているでしょう。

72角形のすべての点を線でつなぐことで、自然と中心が現れる木の花曼荼羅
72角形のすべての点を線でつなぐことで、自然と中心が現れる木の花曼荼羅

 
いさどん:
これは難しいことですか?

みちよ:
難しくない。

いさどん:
いや、難しいですよ。確かに難しくないとも言えますが、これまでの実際の自分の歩みを、一人ひとり振り返ってみてごらんなさい。こんな自分がそんな世界へ行くのだと思ったら、難しいことでしょう。
しかしそれは、ここまで歩んできたのだから、その先の世界へも必ず行けるね、ということでもあるのです。

そこへ行くためには、自分よりもまず全体を大事にして、自我をコントロールできる人になること。たったそれだけです。

何の勉強もしてなければ言葉を話すこともない道ばたの木や草花、動物、空気・・・みんなそれをやっています。人間だけが、それをやれないのです。なぜならば自我が邪魔をしているからです。
21世紀に入り、様々な分野で最先端にいる人たちが、それができない。それは損得勘定で頭が回っているからです。しかし人間には、必ずそれができるのです。自然にならい、自我をコントロールしていけば、簡単にできます。それをやらなければもうこれ以上もたないと地球が言っています。地球というひとつの生命の中で争いが起きているなんて、おかしいでしょう。

真実は、どこからどう捉えてもひとつです。正義は解釈でいくらでも変えることができます。しかし、真理とは、どこからどう捉えてもそれしかない、というものです。
この生き方は、時代を超えて、民族を超えて、人類がこの世界で進むべき道なのです。

みんなは、外観からはとても聖者には見えませんね。(みんな:笑)
けれども、体の一つひとつの細胞が目覚めて全身が健康になっていくように、この何でもない人たちが目覚めていくことで、地球全体が健康に、美しくなっていくのです。
それが21世紀の悟りであり、「コミュニティの仏陀」として生きる、新しい意識の人々が創る社会の姿なのです。

地球は、天(宇宙)が人類に生命の理想を表現することを託した、唯一の場所なのです。私たちは、その尊い使命を負って生まれてきた者たちです。自らに囚われず、広い世界に目を向ければ、時代がそのことを私たちに示していることがわかります。その意志が受け取れたならば、私たち一人ひとりはこれからどう生きるべきかが明快にわかるはずです。
そこに、誰も指導者はいません。あなたが自らの人生を導く、あなた自身の尊い指導者なのです。

 
皆さん、新年明けましておめでとうございます!!

 

 

― 最後にみかちゃんが、「太陽の導き」という歌を歌いました ―

 
「太陽の導き」

心に輝く一番星 それは近づいてみれば 太陽だった
その太陽を心の真ん中に置いて いつも心を照らしていよう

泥のような道を歩んでいても
太陽がいつもあなたを導いてきた

歩いては転び そして起き上がり
歩いては立ち止まり そしてまた歩き始める

ここまで生きてこれたのも
こちらへおいでと手招きしている 太陽の導き

今 振り返って 自分の歩いた軌跡を
自分の心の姿を 太陽に照らして見てみよう

太陽は教えてくれる ただみんなのことを思うことを
太陽は教えてくれる いつも私の方を向いてるように

そうして生きてゆくならば この世界は生きたバイブル
いつでも振り返りひも解いて 太陽の道を歩んでゆこう

何てありがたいこの道を歩んでいるのか

あなたという小宇宙が もっと大きな大宇宙の中で
どんなふうに輝いているのか どんなふうに歌っているのか

この道は尊き道ゆえ この道は尊き道ゆえ この道は尊き道ゆえ

いつも心を太陽に向けて いつも心を太陽に向けて

歩いてゆこう

 

 

 

 

 


いさどんの七夜物語 – 第六夜 「父上より」

「七日七夜で心の質的転換を起こします」と始まった七夜物語も、いよいよ残すところあと二夜。第六夜は、子どもたちの通う柚野(ゆの)小学校の運動会の話題から始まりました。

 

929 「父上より」

いさどん:
この間、柚野小学校で運動会があったでしょう。あれはNHKの7時のニュースで放送されてたんですよ。

みんな:
え~~!!

ヒロッチ:
こんな田舎の小学校が?

いさどん:
ほんとほんと。10時からマラソンがあって、朝霧高原まで行って帰って来るんですよ。体育館では重量挙げをやってるよと言ったら、さこちゃんが「天ぷらか何か揚げてるんですか」と言ってきました。(さこちゃん、首を横に振る。)そして体育館裏では、「投げやり競争」をしていました。もういやだ~、運動会なんてやりたくない~~、とみんなで投げやりになって、審査員が判定します。一番投げやりな人が金メダルです。

ヒロッチ:
おもしろいことゆーの(柚野)う。(チーン♪)

いさどん:
2020年の東京オリンピックで新しい競技の導入が検討されていますが、投げやりを入れたらすごく面白いと思うんですけど。

ヒロッチ:
いさどん、出るでしょう。

いさどん:
僕は前向きだから出ませんよ(笑)。

ファシリ:
今日はこうちゃんの心のシェアがあるので、お願いします。

こうちゃん:
少し前から、畑隊の滞りが話題になってました。じゃが芋や、カボチャも出来が良くないし、レタスにあんなによとう虫が出たことも初めてです。作物をよく観ていなかったということと、きちんと対処していなかったことの現れだなと思います。
僕は、人から言われたことを受け取るのに時間がかかります。「こういち」という名前をカタカムナで読み解くと、同じ位置に継続して留まる人だと読み取れます。(ここでこうちゃんは、カタカムナや地球暦を使って自己分析をしました。)カタカムナで観ても、地球暦で観ても、自分がこうだと思った概念から抜けられずに変化しない人だということが表れていると思いました。でもそれじゃあ役に立たないから、超えていきます。
作物については、畑隊全体でやっていきます。人を育てるということもしてこなかったので、相手のやる気云々ではなく、自分が全体にとって何ができるかを考えて、人を育てていくということだと思います。思考錯誤しながらやり始めているところです。

いさどん:
我々一人ひとりは、肉体を与えられて、個人というベースを持っています。肉体をもらうと、そこに視点が固定され、自我が生まれます。その自我を表現するのが人間の人生ですから、それはそれでいいのですよ。
ただ、たくさんの個人が地球に降りて来る、その目的は何なのかというと、クニツクリですね。日本国であったり、人類であったり、地球というネットワークを築くことが本来の目的です。

クニツクリとは、何か使命があってそれにガチガチになってつくるものではありません。「クニ」をカタカムナで読むと、「自由(ク)に出来る、定着された範囲(ニ)」という意味になります。個人が、自分に与えられたポジションで自由自在に自分らしく生きた時に、クニツクリができるのです。
今の人間たちが自由自在に生きると、てんでバラバラの世界ができます。それではクニは保たれません。この世界が創られたもとの目的に則って個人が個性を持って降りてくるということは、個人は存分に自分の人格を表現しながら、それがイコール全体の役に立ち、全体を成り立たせることになるということです。

我々は、なぜここにこうして集っているのでしょう。今の社会は、そのことを人々が忘れてしまって、自分さえ良ければいいという「我先の心」で生きているから、艮の金神の言う「この世はすべて逆さまじゃ」という状態になっています。いいと思うことを一生懸命やるけれど、結果としてそこに問題が発生するのです。
それは、大本の仕組みからずれたことをやっているというメッセージでもあります。それを学びにすることもできますし、学びにしなくても、問題が起きたことによってそれ以上先へは進めなくなったわけですから、自動的にその無秩序は制御されます。
人間がこのままどんどん自我を膨らませていくと、人間は地球上で生きられないことになります。そこで、その予告として、この世界は様々な天変地異を起こし、メッセージを送っているのです。
今のこの世界に生きていて、多くの人の中では、宇宙と自分の生活がつながっていません。それは仕方のないことですね。そういう者だということですから。

中国に、孫文という人がいました。中国建国の祖と言われる人です。中国は巨大で歴史の長い国ですが、孫文の時代の人々は自分の生活に目が行き過ぎて、社会をどうするかという意識がないまま欧米列強の言いなりになり、半植民地化されていきました。その原因は何かと言ったら、彼は無知だと言うのです。無知な国民がいて、国は滅びていくと言うのです。
今の人間は、モノやカネに意識が行きすぎています。しかし、モノやカネをたくさん獲得したら幸せになるかというと、世の中がおかしければ誰も幸せにはならないのです。世の中がおかしくなると一部の人間だけが富を獲得するようになりますが、それは酷い社会をつくった張本人でもありますから、霊的にも愚かしく、人としての価値もないものになります。それは、本当の意味での価値を見失った、無知な状態だということです。そんな人々が暮らす国は、いずれ滅びていくことになるでしょう。

「自分」というところに意識が強く向いていると、自らの欲望に縛られ、それが満たされることで自己満足する世界に浸っています。そのような精神状態の人は、自分から湧いてきた感情を観るということをしません。自然療法プログラム卒業生のHちゃんの体験記に、妄想をしていると快楽物質が湧いてきて、その依存症になっていたということが書いてありましたね。いろんなことをやってみたけれど、自分のことしか考えていないのだから、良い世の中に貢献できるわけがないのです。それどころか、自分のためにやっていると思っていたことが、自らの滞りを生み、いずれ人生が破たんしていくのです。
先ほど話しました中国の人々もそうでした。自分の目先のことばかりを考えて、視点を広く外に向けることを怠っていたために、欧米の国々の思惑のままになっていくことが観えなかったのです。そして、知らない間に植民地のようになっていったのです。

私たちが、この世界に生まれてきて個性を持つと、今の社会のあり方のままでは、個性が増えれば増えるほど混乱して、てんでバラバラの状態がたくさんできるでしょう。ところが、大本の仕組みを理解してそれぞれが個性を存分に発揮すると、それはクニツクリになります。秩序のあるクニツクリです。つまり、人々が集い助け合って、国が豊かになっていくのです。そこの違いがわかっていない。
クニツクリに役立つのは尊い者です。尊くない者は、その証として、ひとりよがりで行動していって必ず行き詰まります。そして無駄を作るのです。

今こうちゃんが畑の話をしていましたが、作物を作るということは、我々が生きていくためにいただいていくことです。いただくということは、学ぶということでもあります。
食べるということは、私たちの生活にあまりにも身近なものです。けれども人生というのは食べるだけではありません。成長するのです。成長とは体が大きくなることだけではなく、魂や心の変化でもあります。先人たちが長い歴史を通して、心のランクというものを示して来てくれました。心の位置によって、地獄のようなところから天国まで、様々な魂の道が人間には用意されているのです。
それを忘れて食うだけに翻弄されていては、獣と同じです。ひとたび特定の檻の中に入れられたら後先考えずにすべてを食べ尽くして、いずれ自分も自滅するのが獣です。しかし、獣に与えられた能力には限界があり、広く自由なところであれば、秩序が保たれるようになっています。そのように、秩序を保つための限界をインプットされているのです。けれども人間は能力が高くなり、どんどん自然を変えて自分の願望を叶えようとしてきました。それを続けていくと、自分がその願望の虜となって盲目になり、自由をはき違えて秩序を乱し、結局は自由ではなくなるのです。

人間が畑や田んぼで作物を栽培することは、自然から命をいただいているということです。人間が自然を自由に作り変えて人工の世界にしてしまったら、きっと大きなしっぺ返しをもらうでしょう。人間の智恵を自然に反映させることは人間の定めでもありますが、本分を忘れて人間の都合だけでやり続ければ、必ずそのような結果につながるのです。我々はもともと宇宙の法のもとに、クニツクリのために降りてきたはずですから、自我をやり通して思い通りになったように見えたとしても、人生を通して必ず、自らの価値が問われます。

こうちゃんは、今年レタスによとう虫が大量に出たと言いましたが、去年だかいつだったかにも同じ話があったでしょう。秋に入っても気温が高く、雨が続いて、白菜によとう虫が出てボロボロになってしまったという話は前にも出ています。ということは、今年のことが起きる前から予告があったということです。同時に、これからの環境は農に携わる者にとって厳しいものになるという情報はたくさんもらっているのですから、ただいつも通りに作物を育てるのではなく、作物と対話して、赤子を育てるように緻密に作物を観ていく必要があります。
そういった緻密な配慮のもとに百姓をやるのは大変だと思うのか、いつの時代でも百姓は天の気と共に、その意向を受け、緊張感の中で感性を磨かれていく有り難い生き方と捉えるのか、ということです。

こうちゃんは、畑の後継者を育ててこなかったという話をしていましたね。人が集まれば、経験によってリーダーやサブリーダーが生まれることになりますが、僕は、指導者というのは対話する人だと思っています。
昔僕が畑に出ていたころの話です。他の人と一緒に作業をして、畝を立てるでしょう。その時に、畝が曲がっていることがあります。曲がっていることを知っていて行くのならまだいいのですが、曲がっていることに気付かない人がいます。そこで僕は「振り返ってみなさい」と声をかけます。曲がってるよ、とは言わずに、ただ、見てみなさい、とだけ言います。そして相手が気付くまで待ちます。相手がなかなか気付かないと、その分作業が止まりますが、それはあなたの姿勢が作業を止めているのですよ、ということです。
そして仕上がったものは、自分の心の表現です。畝が曲がっていたなら、それも自分の心だと思って観なさい、ということです。

そうすると、みんなは僕と一緒に作業をする時はとても緊張して、一生懸命自分の行った作業の結果を見るようになり、自分と対話することになります。中には、僕がいないと全く見ない人がいます。普段は全然見ないで、僕がいる時だけ緊張しているので、そういう人は僕と一緒に作業をすると疲れます。
そうではなく、僕と一緒にやった時に言われたことをマスターしたら、一人でやる時にもその経験が生かされ、無駄がなくなり、楽になるはずなのです。ところが僕といると緊張して、一人でいると気を抜いて楽になる人がいます。
だからこそ、今も僕は畑やその他の場所で気付いたことがあると「どうしてこうなっているのですか」と声をかけます。僕が行くと問題があり、僕が行かなければ問題はありません。ということは、僕が行くと問題が起きるということです。なぜなら、僕が行かなければ誰もその問題に気付かずにそのままにしてしまうからです。

そうやってみんなに伝えていくと、重箱の隅をつついて歩き回っているようで「自分は嫌な奴だな」とも言いたくなりますが、それは観えるものを観て、伝えているだけです。それは、観えるものを観ないで、物事と対話することをしないで、そのままにしている人たちがいるということです。
なぜそうなるのかと言うと、作業をすることが目的になっているからです。もちろん作業は目的ですが、そこで自分の心の姿勢を観ることによって、作業性もよくなります。それをマスターすると、忙しい時でもシャキッと仕事ができて、予定より早く終わります。それどころか、天の気に合っているから、晴れ間と晴れ間の間でピシッと作業を終われるのです。それは天気が思い通りになるということではなく、天の気を読み、天と共に生きるということです。

昨日の台風は、与那国島で最大瞬間風速81mが観測されました。それは本当に深刻な問題ですよ。これまでの最高記録は85mとのことですが、気候変動によって、これからはそれをさらに上回る台風がどんどん増えていくことでしょう。先日鬼怒川が氾濫して大水害となりましたが、それで驚いていてはいけません。国土交通省は荒川氾濫の可能性を警告し、それがどれだけの災害をもたらすのかをシミュレーションした映像まで制作しています。
これらはすべて人間の営みによるものです。しかし規模が大きいので、人々は自分には関係ないと思って姿勢を改めないのです。先ほどの野菜の話でも同じですが、自分の好き勝手ばかりやって本当のクニツクリをしないと、必ずしっぺ返しが来るのですよ。けれども、わからない人というのは自分の感情から湧き出ることだけを大事にして生きて、それがもたらすもっと大きな結果に意識がつながらないために、いつまで経っても本当が観えてこないのです。

ここにいる人たちは、そうではないでしょう。そうではない「はず」です。「はず」と言ったのは、忘れている人もいるからです。
僕は今こういった話をとうとうと語っていますが、昔は畑へ行っていい加減なことをして終わっていく人を許せませんでした。なぜならば、それはすべて自分の姿勢の現れなのだから、それをいい加減にして放っておいてはいけないのです。その姿勢を正すのが、生きるということなのですから。それは畑でも、ご飯を食べることでも、何であっても同じ、自らの姿勢を正すための生きる目的の元にあることだからです。

今は、様々な情報や人々との出会いを経て、全体をひとつの物語としてつなげて観て捉え、そこから観えてくる個人の生き様を捉えるということをしています。昔の僕のようにそれを一人でやっていても、社会の変革のためには、共鳴してついて来る人がいなければ、エネルギーが空回りして大変です。リーダーシップを取る人は必要ですが、同時にそれを受ける人がきちんと受けて、一緒に積み上げていく。みんなでそうしていったら、たくさんの目があって、いろいろな配慮ができて、ことがスムーズに進んでいくようになり、エネルギーの無駄はなくなっていきます。それは何かと言ったら、阿吽の世界です。
昔から、阿吽の場を創ろうとしてきました。物はたくさんいらないのです。「気付け」ということです。同じ目的を持っていたら、気付けと言われなくても気付きが生まれてくるのです。そこで気付かないのは、目が違うところを向いているということです。

今の世の人々は自分が存在する意味を見失って、人が集まれば集まるほど殺伐とし、豊かになればなるほどその豊かさが偏重して貧富の差が起きる世界をつくっています。そういう世界では、企む者が横行します。そういった社会では、人々は安心して暮らせなくなります。制度をたくさん作っても、その制度もざるのようなもので、お金やエネルギーばかりがかかります。そして、それが産業を大きくしているのです。
だからこそ、そうやってただ拡大していく世界から、不要なものをそぎ落として本当に必要なものだけを使ってシンプルに豊かに生きていく世界を、ここにつくりました。そういう時代が来ているのです。

こうちゃんが気の毒だと思うのは、畑隊の他のメンバーがみんなお手伝いさんだということです。いつまでたっても、リーダー以外はお手伝いさんがいるだけで、言われたことしかやりません。自分で工夫して発展させるということをしないのです。それはリーダーだけの責任ではなく、みんなの責任です。
この間はまこっちゃんがずっと滞っているという話が出ましたが、ではまこっちゃんの姿勢は誰がつくったのかといったら、みんながつくったのです。何か滞りがあればその都度出して、一つひとつのことを明快にしていけばまこっちゃんもそのままの姿勢でいることはないのに、そういう場を創らない空気がここ全体にあるから、まこっちゃんもそのままでいられるのです。言葉は強いかもしれませんが、そういった姿勢を生み出さない場がここにあれば、その都度物事が明快になって、まこっちゃんももんもんと毎日を過ごすようなことにはなりません。いつでも本音が出ているから、ある日突然「えっ、そんなことを考えていたの」と驚くようなことにはならないのです。

それと畑隊の話は、関係のないことのように聞こえるかもしれません。けれどもそういった裏表のない、風通しが良くみんなの気が通っている場ができると、物は長持ちするし、作物にも生命力が湧き出します。すべてそうですよ。波動ですから。「みんなで」というのは、みんな生きていていいんだよ、みんな生かすんだよ、という世界です。その波動は、生命にとって良いに決まっています。

少し脱線した話をします。
昨日、きょうこちゃんが病院に行ったことを報告しに来ました。検査の結果は、ガンが育っていたそうです。
きょうこちゃんは、私はこのまま手術をしないで様子を見たいと言いました。でも僕はこう思いました。確かにきょうこちゃんのガンは彼女の心がつくったものです。このまま手術をしないで様子を見たい、という強硬な心もきょうこちゃんらしいです(チーン♪)。だけど現代医学だって優れているのだから、なってしまったものはなってしまったものとしていただいて、医療の力で取り除いて、そこから改めて自分と向き合って歩んでいくのも道なのです。
しかし、僕がそう思ってもこれはきょうこちゃんの道ですから、説得することではありません。お医者さんは今が切り時だと言います。すべてはその人にふさわしく与えられたいただきものです。お医者さんの言葉もいただきもの。ガンもいただきもの。それがどうなっていくかをよく観ていくと、そこに流れが観えてきます。そしてその時に一番ふさわしい行動がサッと取れるのです。そこで損得勘定で思考をぐるぐる回しているとタイミングを逸します。

きょうこ:
今いさどんが言ってくれた通り、今日病院で検査をしたら、ガンが大きくなっているということでした。自分の心にふさわしくいただいていることだと思います。
お医者さんが言うには、現代医療的見解では、今が手術をするギリギリのタイミングだと言われました。今までは3ヶ月おきや2ヶ月おきに検査していましたが、次は1週間後に来てくださいとのことでした。よく考えて決断してくださいと。

いさどん:
そうしたら、ねじれたきょうこちゃんへのアドバイスをまたねじって受け取ったりょうちんが、現代医療とは違ったガンへの対処の仕方をネットで見つけて、今日僕のところへ持ってきました。まだきょうこちゃんには伝えていないけど見てください、と。
現代医療のガンの捉え方も、それとはまったく正反対のガンに対するとらえ方も、どちらもその通りですが、切って処分してしまえばいいという現代医療の捉え方はやはりおかしいのです。それはかえってガンが喜ぶ心です。
それに対してりょうちんが別の選択肢を持って来ました。僕は自分には過激なことをやりますが、人が過激なことをやるのはあまり好きではないので、きょうこちゃんについても、そのガンは自分の心のねじれが育てたのだから、手術をしないという決意も貫き通せないようであれば、現代医療に委ねるという選択もあるんだよ、と思っていました。しかしりょうちんが別の選択肢を持ってきた時、ああ、りょうちんのねじれがここで活かされたな、と思いました。ねじれも悪いことばかりではないのですよ。
それで今日、その資料をきょうこちゃんに渡しました。きょうこちゃんも、これはいいねと言い、同じくガンを持つさっちゃんにも見せると言うので、それなら大人ミーティングでみんなにシェアすればいいと言いました。これは心の学びですから。

畑でも田んぼでも、ここの生活全般がそうですが、誰もが全体のために、自分を有効に活かしていく、ということをしたら、それが共同体であり、共同作業なのです。
そう考えると、今までの畑隊というのは共同作業をしていないですね。リーダーが責任を持ってやっていて、あとはみんなお手伝いさんになっていますから。頭を使わず、ただついて行っているだけです。核がいくつかあったとしても、その核はてんでバラバラで連携していません。だから、キッチンと畑隊がつながっていない。収穫隊と畑隊がつながっていない。作付計画がつながっていない。そういうバラバラの現象が起きるのです。
こうちゃんは今、自分の立場としての振り返りをしましたが、同時にみんながそれに協力をしなければ、共同の場などできるわけがないのです。それがあってこそ、本当の意味での共同体です。軽いノリでみんなで暮らすといいねというものではなく、持続するには真剣さが必要なのです。

僕はこの暮らしの言いだしっぺとして、ずっと自分の役割をやって来ましたが、折に触れて言うのは、みんなの力がないとこの暮らしはできない、ということです。そういう意味で、僕はみんなと同じ立場です。ここのみんなが一人も僕に共鳴しなかったら、それは共同体とは言えないのです。共同体を目指すということは、その精神を分かち合って、自分という個性を活かしながら、この場に貢献していくことです。その精神の元にあれば、リーダーもお手伝いさんもありません。そして、人が集まれば集まるほど豊かになるのです。
今は、なぜか人が集まっても豊かになりません。逆に、人が集まることでぎくしゃくしてそこにクレームをつけて、自分に調和的な心がないことを棚に上げて正当化する人までいます。そういう人は、理屈ばかり語るのです。
人がどうであれ、自分は全体のために自分をどう活かすかということを最優先にすることです。それが、共同して生きる人たちの絶対欠かしてはいけないベースの姿勢です。

長い時間をかけて話しましたが、なぜ長い時間をかけたかというと、そのくらい広い意味で、我々は共同体の中にいるということです。それがこの世界を創っていて、その法が我々を生かしています。
それを近年の人間は忘れて、個人主義ということを言いだしました。本来の個人主義は、義務を果たす ― つまり社会に対する自分の役割を存分に全うした者が、主張するべきものを主張するということです。義務という柱と、権利という自分の欲望を主張することがきちんと統合している状態でないと、それは成り立ちません。しかし、柱がないままてんでバラバラに自分の都合ばかり考えているのが現代の社会です。それは個人主義ではなく、バラバラのエゴ主義です。
エゴからエコは生まれません。エロは生まれるかもしれませんが。(チーン♪ みんな:笑)
あのー、柚野小学校の体育館裏に競技場があってね、そこで投げやり競争というのをやっているそうですよ。もいやだ~~~とね。(みんな:笑)

こうちゃんの振り返りから、話が長くなりました。今日は6日目ですね。ここが質的転換をするためには、こうちゃんが一人で振り返って決意してもダメなのです。こうちゃんの見えるものと、その他の人の見えるものが共通しないと。そしてこうちゃんが伝えた時に、それを受け取る者が受け取らなければどうしようもないのです。
我々生命は、共同体に暮らしています。それは地球共同体であり、宇宙共同体です。それが先にあって、それをベースにした上で、自らの個性をどう活かすかという姿勢が大事なのです。

まり姉:
今日よしてるくんが、こうちゃんに対して思うことはあるけれども、こうちゃんは自分で振り返ることができる人だからあえて伝えないんだと言ってました。

いさどん:
それは、自分の性格をチェックしない人の言い訳でしょう。それは相手のためでも全体のためでもありません。自分がやらないことの正当化です。そういう人が何かを言っても、その場を創ることにはならないのです。もしもあなたが本当に全体のためを想い、言うべきことを伝えていたら「よしてるの言うことは聞かなきゃいけないな」という空気ができるはずですよ。けれども実際は自己主張をしているだけで、その場に貢献することなく終わっていくのです。それはそのままあなたの姿勢を表しています。そういったことを認められる人になるかどうかです。
それは、人に貢献することよりも、自らのことを優先している人の姿勢です。まとまりのない不調和な場がそこにできているでしょう。その場があなたの実態を物語っています。それはこうちゃんの未熟さの表れでもあるけれど、周りが一緒に創り上げようという意志がないということでもあるのですよ。そのような場であれば、当然、作物もそれにふさわしい状態になります。

我々は、天然循環法で作物を育てています。農協の指導であれば、作物を育てるのに波動は関係ありません。それで形はそれなりのものができても、中の波動は自然界の美しい姿からは狂っているので、食べればその狂った波動を取り込むことになります。我々はそういうことはしないということで天然循環法をやっているのです。そこで大切なのは、自分たちのベースが、生命として本当に生き生きして、調和していくものであるということです。それが変化・変容・変態を繰り返す宇宙の生命の姿です。
それをやるためには、みんなで力を合わせて共に場を創らなければいけません。そういう場ができたら、作物は必ず応えてくれます。周りに受け取る姿勢ができれば、伝える側もやりがいが生まれ、みんな真剣にやろうという気持ちが起きてきます。けれども、みんなで創っている場の波動の結果として今の作物の状態があるのに、その責任を全部こうちゃん一人が負うというのは辛いでしょう。

もうひとつ、万田酵素を使うとびっくりするほど大きな作物がとれると宣伝されていますが、天然循環法でそんなに大きな作物ができるとしたら、僕は違うと思うのですよ。何かと言ったら、生命とは「足るを知る」ということです。人間の我が絡んだ生命というのは、もっともっとという発想になります。大きければいいとか、たくさんあればいいとかいう発想は、ガンの元になります。
「満つれば欠ける」のが世の習いです。ほどほどの姿をしていて、素性が健全であるものは、健全な響きを発し、病気を作りません。今の世の中は、病気を作る食べ物を作っています。食べ物は、本来新しいエネルギー源として体にエネルギーを与え、それが細胞を作って我々の命をつないでいます。そこに歪んだ人工の波動が入ると、生命自体が歪んでいくのです。そして、体と心は両輪ですから、心が歪んでいくのです。

我々生命は、もともと共同するものです。ですから、この世界で、共同体は当たり前の話なのですよ。地球は一つの生命であり、生命の共同体なのですから。それが、太陽系共同体、銀河共同体、宇宙共同体と相似形になっています。それが、この世界の真実です。

*ここで、りょうちんが見つけたガンへの対処法がシェアされました。
「ガンは細胞の先祖返り」
「ガン三大療法(抗がん剤・放射線・手術)一辺倒なのは日本だけ」

いさどん:
みんなはみのるんのことを覚えていますか。アトピーが悪化して日常生活もままならなくなり、自然療法プログラムを受けにここに来て、元気になって帰って行きましたね。(詳しくはみのるんの自然療法プログラム体験記をご覧ください。)僕が最初に彼に伝えたのは、簡単に言うと、あなたはアトピーの波動を持っていますよ、ということです。その波動がアトピーの細胞を作っているのですから、波動が変わればアトピーは消えます。
その人の発する響きが、この現象世界の元となり、その人の人間性を形成して人生をつくっています。発信源は自分なのです。怒りや悩みや愚痴の波動を発しているのか、笑いや喜びや感謝の波動を発しているのか。笑いにも質があり、表面的に笑っているのか心の底から笑っているのかの質は問われます。

きょうこちゃんのガンを観ると、やはりそういうものを作る心の歪みがあったのだと思います。心のことを伝えられても条件反射的に反応するだけで、本当に自分の心と向き合わず、改めるということをしない体質が、長い間に蓄積されてガンという症状になって現れました。やはり心から改めることが大事なのです。
りょうちんが紹介してくれた代替療法も、ある意味対処療法です。健康に生きるとはどういうことなのでしょうか。ガン細胞は、何も悪くありません。発生するべき環境があるから発生しているだけなのですが、それを「ガンが悪いんだ」と思っていると、その発想自体がさらにがん細胞を作ります。そんな発想をしているなら教えてあげなければ、とガンはますます使命感を帯びてくるでしょう。

この世界にはそういったメカニズムがあります。素直に受け取るということは本当に大切で、その延長線上にいい人生があるのです。今社会には様々な病気が蔓延していますが、では病気が0になったらそれがいい社会かというと、問題があることによって人は学び、進化・成長し、人生が充実していくのです。
こういうものを読むと、ついついガン細胞を治療するという発想になりますが、ガンさんありがとう、という心もそこには必要だなと思います。

みかこ:
日本はガン治療において、他国に比べてもおかしな状態になっているのがわかる。モンサントについても、他の国では反対運動があるけれど、日本ではそういう意識もほとんどない。
『火水土伝文』に、「最後の時、彼らの企み彼らの申す通り九分九厘成功しておるのぞ。彼らの企みもっとも鮮やかに花開きたるは日本なるぞ。」とあります。「彼ら」というのは「あやま知」の力を使っている陰の存在のことです。「汝ら気付かぬか。日本の人民様、見てござれ。上から下まで見てござれ。彼らの言うた自ら思考することのできぬ人民様や欲望のままに生きる人民様ばかりの世になりておろうが。」そして、なぜそうなるかというと、日本は神の気の出ずる唯一の国だから、とあります。

いさどん:
僕はこの歩みをそこへつなげています。だからこそ日本でこれをやるのですが、そうすると日本国内よりも、最近では外の国から共鳴する人たちが現れてきていて、逆輸入のようなことになるのだろうかというイメージも湧いています。

昨日、夜中に「父上」からメッセージがありました。
昼間にミツバチを襲いに来るスズメバチを退治していて、すっかり疲れて眠りにつきました。あのモードで眠ったら普段なら朝まで目が覚めないのですが、どれだけ眠ったのか、夜中にパッと目が覚めました。それで、上に向かって「何でしょうか」と聞きました。そうしたら、何と表現したらいいのか、上の方に重くてかたい、大きな存在がありました。そして言葉が降りてきました。

 
「これからは力強く支援するぞ。流れが変わる。
 それに遅れをとらぬように、よろしく頼む。」

 
それはとても重く、力強いものでした。それにふさわしい意識を持っていかなければいけない、と思いました。しかし、実はすでに始まっていますね。そうでしょう。外から次々と共鳴する人々が現れています。
これからますますそういう時が来るということを感じます。みんなにも感じてほしいのです。先ほどこうちゃんのシェアがありましたが、一人だけで決意しても仕方ないのです。みんなでその場を創るのが大切なのですから、それぞれに智恵を絞り、直観で受け取り、無駄のない日々を送るということです。

一人ひとりが、日々いろいろな出来事に出会います。どれも自分にふさわしくいただいているのですから、いさぎよくあったことをいただいて受け止めることです。それが覚悟です。それがあれば、出来事に出会うたびに、人はきれいになっていきます。そして、人が集まれば集まるほどその場は豊かになり、美しい世界ができるのです。
人が集まれば集まるほどガタガタとして難しくなっていくのは何故なのかと言ったら、出来事をいただいていないからです。自分の中に迷いや苦しみが生まれた時こそ、自分自身に決意を問うことです。この道が大事だということを本当に思っていたら、一つひとつの出来事をとても大事に扱うようになります。そうすると、宇宙の法が我々にきちんと役割を与えてくれます。

明日は七日七夜の最終日です。僕は僕の役割を果たします。その延長線上に、ここ全体が質的転換をするということです。余分な詮索はいりません。信じていくことです。信じるとは、善意のもとにあることです。