七日七夜でこの場に質的転換を起こします ーーー
そんな想いから始まったいさどんの七夜物語、第一夜です。
(詳しくは「序章・秋分前夜」をご覧ください。)
9月24日 「思い出す」
いさどん:
今日は9月の24日です。昨日は秋分でした。1年の4分の1を残して、いよいよ最終コーナーに入ろうとしています。春分を起点とする地球暦で言うと、1年の半分が過ぎたところです。
四半分、半年、1年という区切りがありますが、毎日が区切りです。毎日その日にあったことを振り返り、次の日に生かすと、我々が生きている意味を毎日自覚することができます。
では区切りという意識のない人はどうやって生きているかというと、また同じ日が来たと思っているだけで、毎日起きている新鮮な出来事を振り返らないのです。それはどういう状態かと言うと、上がりもせず下がりもせず、ピーーーーッと一直線に進んでいる状態です。
そこに出来事が起きたとします。それがその人にとっていいことだったとしましょう。それで一時的に上に上がっても、必ずそれを帳消しにする何かが起きます。なぜかと言うと、宇宙は±0だからです。
それは、日ごろの意識がピーーーッと一直線で、昨日も今日も明日も、1年前も1年後も変わらないまま生きていて、生きている目的について何も考えていない状態です。
しかし、生きているといろいろなことに出会います。そこで何故だろうと考えます。ピーーーッと一直線の意識の人は、辛いことがあるとへこみます。そしてそれを忘れるために、何か別のことを考えたりします。そううやって帳尻を合わせて、へこんだことを忘れていくのです。するとまたへこむことが起き、また帳尻合わせを考えます。そしてトータルで見ると、ピーーーッと一直線になって何も進歩していない状態です。
そういった毎日を人間は送りがちになるので、区切りというものがあるのです。
春分と秋分は、1年の中で昼(光)と夜(闇)の長さが同じになる日ですね。その日に、人はなぜかお墓参りをします。
「彼岸(ひがん)」という意味を知っていますか?彼岸とは彼の岸と書き、あちらの世界を指します。それに対して「此岸(しがん)」という言葉があります。此岸とは此の岸と書きます。つまり、ここが此岸です。
川を渡って向こう側に渡ると、彼岸になります。人生は修行ですから、此岸でいろいろなことを経験し学び、そして川を渡って、彼岸という理想郷にたどり着くことになります。仏教では、此岸に生きると四苦八苦に出会うから、そういったことに囚われないようにこの世界のことを悟りなさいと説いています。ピーーーッと進むとポコンと落とし穴に出会います。そして、落ちたところから上がるために帳尻合わせをします。そしてまた上に上がる。それを繰り返しながら進んでいくと、何かに似ていませんか。
みんな:
心電図。
いさどん:
そう、心臓の鼓動ですね。それが帳尻が完全に合ってピーーーッと一直線になると、現象界からあちらの世界へ行く、つまり死ぬということです。生きているということは、へこむこともあれば、上がることもあり、それがどういうことなのかを悟っていくということです。
苦楽という言葉があるでしょう。楽の前に苦がありますね。この世界は、発生し拡大していくことを陽だとしたら、収縮して消滅していくことを陰と言います。多くの人は、陽しか見ていません。しかし、この世界の仕組みは陰が元になって陽が発生しているのです。苦楽でも、苦しいことがあって楽があるのです。楽があって苦しいと示しているのではありません。苦しいことがあるからこそ、楽がわかるのです。私はなんて不幸なんだろう、と思うのは、不幸しか見ていないからです。苦しいをとことん感じたら、あとは楽があるばかりです。
もっとも、それはゲームのように考える話ではありません。幸せに生きるためには苦しいを最高に経験したらいいんだ、ということかというと、そうではない。この世界に生きていると、苦しいことに出会います。お釈迦様はそれを「四苦八苦」と言いました。この世界に生きる人間の性分のことです。人間の中にそういったことに出会う種があるということです。
この世界には仕組みがあります。苦しい経験は、それを起こす仕組みがあるということです。その仕組みを学習できたら、その奥には楽が現れる仕組みがあるのです。そうしたら、苦しいということは楽への旅であるというこの世界の道理がわかった時に、苦しいことは楽しいことを湧き立たせる元となるのです。
中には、苦しい修行こそありがたいのだと、滝に打たれたりするでしょう。嫌だと思うこと、辛いと思うことに向かいなさい、と言うけれど、そういったことも極端な話ですし、誰もが行うべきことなのかわからないですね。それはそれでその人の道として尊重しますが、大切なのは、誰もが当たり前に生きる中で、当たり前にいろいろと起きることを通して、その人にそってその現象が何であるかを知ることです。
僕が6月の終わりから大人ミーティングに出なくなって、3ヶ月が経ちました。今日ここに来たのは、喪が明けたからではありません。このままではいけないと思ったからです。このまま放っておくと、「全人幸福」という看板を掲げながら実際の生活の中ではそういった意識を全く持っていないヤマギシ会と同じ道を歩むことになります。
今日はヤマギシ会からゲストも来ています。今そこで笑っていますが、僕はよくあのようなところで生活ができると思うのです。ここはまだ入り口ですが、そういった日々の中に浸かってしまったら、自らの本当の姿は見えなくなるものです。そこまでいくと重症です。だからまだわかるうちに、このままいくと同じ状態になるということに気付くべきです。これは、たまたま先輩がいてその先の姿を見せてくれているから、そういったことはわかりやすいですね。このような状態に、人間は陥りやすいのです。楽ばかりを求めて、欲しいものが得られればそれで満足して、苦を大事にしない。
ですから、楽ばかりを求めていくと、ちょっとしたことでも苦になるのですよ。そうかといって、わざわざ苦ばかりを求めることも必要ないですね。苦が何であるかを知り、その苦を示しているこの世界の仕組みを知ると、楽がどういった仕組みで発生してくるのかがわかり、楽に溺れなくなります。これを知ることが生きることの目的です。
生きるとは、自主的なことですよ。ピーーーッと一直線の心電図では、ただ日にちが経って年を重ねただけで、生きている目的を果たさず、その人の価値は何も変わらないのです。ただ感情のままに思考が湧いて、その思考のままに行動し、そのまま年月が経ったら寿命が来て死を迎えることになります。
それは、生きていくものの本来の姿ではありません。この世界(宇宙)は変化・変容・変態を繰り返しています。別の言い方をすれば、進化・発展・成長をしているということです。ですから、変化しないということはその法則から外れているのです。それを意識せず、同じことを繰り返していくと、希望を失い、生命力のない存在として死を迎えることになります。
なぜこのような話を始めたのかというと、ここの人たちにもそういった兆しが観えてきたからです。このまま放っておくと、本当にヤマギシ化します。
これは、今日ヤマギシ会からゲストが来ているから言っているのではありません。僕は(ヤマギシ会の創始者である)山岸巳代蔵さんから「あとはよろしく」と託されたのです。しかし、現状のヤマギシ会の人々は「全人幸福」という理想を掲げながら、本来の目的を果たすことを忘れています。ヤマギシの人たちが木の花に出会った当初は「自分たちの目指していたものはこれだった!」と思い出し、刺激を受けて、この精神をもう一度取り戻そうと思っていたこともありました。しかし、本来の目的を何よりも優先することを怠っていたものだから、本来の目的を思い出し、こうやっていかなければならないと思ったとたんにそれを負担に感じて、そこから目を背けるようになりました。当初はとても熱心だった人たちも、今ではそんなことがあったことも忘れ、日常の生活に漬かり、ピーーーッと一直線の状態で生きています。
このまま放っておくと、ここもそうなりかねません。しかし、ここはそうはなりません。なぜだかわかりますか。
みんな:
いさどんがいるから。
いさどん:
そうです。僕がいるからです。だからこの3ヶ月間、僕がいない実験をしたのです。いないと言っても一緒に暮らしていて何か特別なことがあれば口を出すわけですから、実験と言ってもソフトなものです。みんな、本当に僕がいなくなったらどうしますか?
さちよ:
困る。
いさどん:
困るという話ではないでしょう。こまるのはカタカムナの八鏡文字の小丸だけです。(チーン♪)
カタカムナは、宇宙物理です。ものごとの表面しか見ていない近代科学や物理学が解き得ない世界の捉え方です。この広大な宇宙の実体もそうですが、カタカムナは、この世界に存在している我々の命や、細胞や、原子、素粒子、その元となる極小微細単位である「カ」までを解き明かします。その「カ」はどこから来るのかと言うと、潜象界という現代人が認識していない世界からやって来ます。
この世界は陰陽から成り立っています。我々は形を先に認識するので、形が先にあるものだと思っています。しかし実は、我々が現象界にいるから形を先に認識しているだけのことなのです。
ある人にとって、その人が満足の状態でいる位置があるとします。しかし世の中の人々がそれよりもさらに満たされている位置にいれば、これでは足りないと思うようになるでしょう。しかしそれよりもっと低い位置にいてその世界しか知らず満足していれば、そこで十分だと思うものです。
先ほどの心電図で表すと、問題ごとが起きた時に下がるとしますね。すると少し上がっただけでも、ああ楽になった、と思うものです。それが何かによって与えられたものだとしたら「ありがたい」ということにもなります。
しかし、その先にはもっと楽があるのです。それなのにそこで満足してしまう。人には自らの性分と価値があり、そこから湧いてくる感情のままに思いを巡らせ、行動していると、ピーーーッと一直線の変化のない人生を送ることになります。人生には必ず上がり下がりの刺激があるのに、それを無視しているのです。
しかし、学ぶとか、成長するとか、進化・発展するという視点に立つと、自らの物理的かつ精神的願望を叶えるための変化ではなく、意識を高め、視野が広がることに生きる目的が移行していきます。ピーーーッと進んでいって下がった時には「そうか、こういうことがあると下がるのか」と学習し、それがどうすれば上がっていくのかがわかるようになる。その客観的な視点に立てば、出来事や欲望に翻弄されることなく、冷静に物事に取り組めるようになり、その人の精神的価値が上がっていくことになります。そのことを意識しないで日々を送るということは、その人の価値はどんどん下がっていくことになります。しかし、価値が下がることは捉え方によってはありがたいことになりますね。どんどん苦しくなっていくわけですから。そこには「気付きなさい」というメッセージが隠されているのです。
何かあった時に「大事にならなかったからまぁいいや」と出さずにいると、それはピーーーッと一直線の人生を歩むことになります。いいことも、みんなと共有し、進化発展していく。悪いことならなおさら出して、みんなの知恵をもらい、学び、発展していく。そして周りの人たちはそのことを通して「ああ、自分もそうだ」と学びの輪が広がっていく。
みんながそういった意識を共有すると、これが新しい時代のモデルだと、微笑ましい場をイメージすることができます。それを観ているのは、私たちだけではありません。この世界を私たちに託している天も観ているのです。そのために、天は私たちに上がるも下がるも与えているのです。
ピーーーッと進んで、下がって、上がる。元に戻り、またピーーーッと進んで、下がって、上がる。これが生きるということですね。心電図もそうでしょう。それがピーーーッと一直線になったらご臨終ということですね。それは、誕生・発展・進化から、収縮し、消滅するプロセスが一区切りついたということです。さらに、死を迎え、魂が肉体から離れると、生きていた時の人生は何だったのかということを振り返ることができ、次の大きなサイクルの中にあることが観えてきます。人生とは、大きくも小さくもその繰り返しです。
ピーーーッと一直線のまま1日が過ぎ、1年が過ぎ、そのまま80年経って死んだとしたら、何をしに地球に生まれて来たのでしょう。それでは、人間の持っている可能性を存分に使わず、脳の大部分は働かないままです。
感情が湧いてくるのは、心が欲に翻弄されているからです。愛情の情とは欲から生まれる執着のことです。自分の子どもに愛情を持つのは子どもに欲をかけるということで、親の情で汚れをつけることになるのです。
脳は、本来それをチェックする働きをするためにあるものです。私たちには日常的に、楽したい、得したい、これは嫌だ、あれがいいという感情が自然に出てきます。それをわかっているつもりになっていても、多くの人は無自覚に感情のまま生きているのです。なぜならカルマ(=垢)にまみれていることを自覚していないからです。
アカの思念をカタカムナの単音で読み解くと、「カ」は宇宙の極小微細単位です。
「カ」は「ヒ」と同じ始まりの位置に小丸がありながらトコロ軸(横軸)が突き抜けているので、現象界の奥にある潜象界を構成する最小単位です。「ア」は高次元の響き。ですから、アカとは、宇宙の極小微細単位が構成していたものから分離し、新たな可能性に向かうことです。垢が落ちるということは、その垢自体も新たなものを構成するし、元のものも、垢が落ちたことによってきれいになり、リニューアルする。その行為自体が高次の生命活動であり、生命の元になる現象(新陳代謝)を示しているのです。それが現象界を創り出しているのです。すごく大事なものでしょう。それは、私たちの心の垢の性質も同じことです。
私たちの太陽は、約27日をかけて自転します。そして25800年ごとに一つのらせんを描きながら、2億2600万年をかけて天の川銀河を一周しています。その太陽の周りを地球が周っています。周りながら、春分、夏至、秋分、冬至という時を刻んでいます。地球の動きは、単に同じ場所にいる太陽の周りを周っているのではなく、らせんを描く太陽の周りを周りながら進んでいるのです。
星という現象界の形に現れたもので捉えると、わかりやすいですね。それと同じ構造で、宇宙の創世がカタカムナの八鏡文字に表されているのです。私たちの体の設計図であるDNAも同じ構造をしています。この世界は相似形でできていますから、地球生態系も同じ仕組みで成り立っています。
カタカムナの八鏡文字の小丸は、ヒフミヨイムナヤコトと進むに従い移動していきます。それはこの世界が発生する物理性を表しています。「ヒ」は地球暦で言う春分の位置にあり、「イ」は秋分の位置にあります。私たちは、1年で見ると、今「イ」の位置にいます。
惑星の動きで見るとわかりやすいですね。それは現象界に現れていて、我々の目や想像力で確認できることだからです。しかし、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトのプロセスは、目には見えません。「ヒ」は潜象界、つまり我々現象界の人間にとっては「ない世界」の段階でのすべての始まりを表しています。「イ」が現象界の入り口。それがムナヤと進んで準備ができて「コ」で転がり出て「ト」で統合し、次に「ア」となったら現象が始まるので、ヒフミヨイムナヤコトはすべて現象が始まる前の潜象過渡の状態です。そしてそれは平面ではなく、球体の中で、春分、夏至、秋分、冬至と立体的に巡ってくるものです。
ちょっと難しいですね。現代の人間の頭では、それが理解できないのです。13000年前のカタカムナ人は、それを直観で理解していました。それがだんだんモノ・カネを求める自らの欲望に支配され、その結果情に翻弄されて、天と共に生きることを忘れてしまったのです。
12900年前の光のピークから、闇のピークである2012年12月21日の銀河の冬至へ向かう中間点の6450年前と前後して、メソポタミア文明などの現代文明の始まりとなる文明が台頭してきました。その遺産として紙が発明され、文字が発達したのです。それから、みんなが紙に書くことで物事を伝えるようになり、脳が物事を二次元で捉えることに慣れてしまいました。
私たちの脳は本来、八鏡文字で示される宇宙の構造を立体的に捉えられる能力を持っています。しかし、近代において人類は、紙のような二次元で物事を捉える脳だけを発達させてきたのです。だから、損か得か、良いか悪いか、多いか少ないか、という二元論で物事を解釈するようになってしまいました。般若心経の色即是空、空即是色のような世界観が真理の主流になり、ただ境地を求める表面的な物事の捉え方になったのです。
今まで、私たちはそういった意識レベルにいたのです。僕もそうでした。そしてそれに翻弄され、表面的な結論を出してきました。もしも人生を勝ち負けで表現するとしたら、負けとは、自らに囚われた思考に翻弄されることです。それは、自分のクセのままに思考して、それが実現するようにと願い、行動している状態です。それは、我のままに生きているということです。
その精神状態では、宇宙の構造を理解することはできません。それは自分の頭で思考を回すのではなく、上から降りてくるものを受け取っていくことによって理解できるものだからです。ですから、自らに囚われた思考を回しているようでは、上から降りてくるもの受け取ることはできないのです。直観を研ぎ澄まし、この世界に遍満する法則(メッセージ)を感じ取ることで、瞬時に物事の道理を捉え、「そうか!」とか「なるほど!」とか「これだ!」と合点すると、それまで自分がやって来たことのずれが観えてきます。そういった思考が回り始めると、宇宙の法則と共に生きることになるのです。
先日、大町ビレッジへ行った時に、カトケンがネギの種を蒔いていました。レイキで畝に線を引いて、手で細かく蒔いている。家庭菜園ならそれでもいいけれど、うちは農業法人ですよ。権兵衛(播種機)を使えばもっと早くきれいに蒔くことができます。それは昔僕が畑をやっている時に始めたやり方です。玉ねぎの種でもきれいに蒔けます。
うちは除草剤を使わないので、玉ねぎの芽が出たら今度は除草が大変です。昔は手で草取りしていましたが、とても手間がかかるし腰も痛くなるので、何とかいい方法はないだろうかと考えて生まれたのが太陽熱消毒です。あれは、最初は失敗から生まれたんですよ。とびっきりいい苗をつくろうと思って、7月の暑い時期に畑にたくさんボカシを入れたんです。それからしばらくしてキャベツの苗を植えたら、全部しおれてしまった。なぜだろう、と思って畑に近付くと、ブワーッと熱気が来たんです。びっくりして土に触ったら、60℃以上ありました。ボカシの量が多くて、発酵したんですね。
これは大変なことをした、こんなところに苗を植えちゃいけない、と思い、しばらく置いておいて、9月になってから玉ねぎの種を蒔きました。その頃になるともう熱は収まっていましたから。その時に、あっと思いました。熱のおかげで、雑草の種がみんな枯れていたことがわかったのです。おかげで草取りはほとんどしなくて済みました。その上、土が完熟していたのでとびっきりいい苗ができました。だけどその苗で作った玉ねぎは、みんなトウ立ちになりましたね。そこでまた、玉ねぎは小さいころに肥料を吸い過ぎるとトウ立ちするということがわかりました。そんな試行錯誤の中で、太陽熱消毒の智恵が生まれたのです。
その後も、畝は東西に向かって立てるものだと思っていたら太陽熱消毒の場合は南北の方がまんべんなく光が当たっていいことがわかったり、まだ熱が落ち着かないうちに人参を蒔いて失敗したりということを繰り返しながら学んでいきました。
そういうことは、どこかで勉強したものではないのですよ。ものごとを単体で見ていると、つなげることはできません。何かをやる時にふっと湧き出したものが、こちらにも応用できるぞ、あちらにも応用できるぞ、とつながっていく。それは、ヒフミヨイ、マワリテメクル、ムナヤコトと潜象界から進んできて、次のアウノスヘシレの「ア」が発生したところから自動的にいろいろなことが起きて、教えてくれるのです。
その時に、その起きたできごとをよーく観ることです。それはメッセージですから、「いただきます」の精神でいただいていくと、物事はとんとん拍子につながって滞りなく進んでいくのです。
いいと思うことは、そのままやっていけばいいですね。失敗の場合は、失敗の可能性が10あるとしたら、その失敗によってまずは最初の1つが消えるということです。学習すれば、失敗の可能性を確実に1つ減らせます。2回失敗すれば、2つ消せますね。どんなにカンが悪くても、10回失敗すればあとは当たりがあるだけです。
ダメなことの奥には、必ず学びがあります。学ぶ意志のある人は、心電図の下がったところでも学びます。そして、それを次につなげていきます。それが、現象と対話をする人です。
そのコツは、直観で感じ取ることです。そうしたら、物事がつながり、スムーズに事が進みますから、毎日が楽しくなります。自らの考えに囚われ、同じところに引きこもっていたら、同じような毎日が過ぎるだけですね。引きこもっていたら、太陽が周っていることも意識できません。まこっちゃんなんて3年も引きこもっていたのですから、もったいない時間でしたね。それはその人のカルマです。そのカルマに相応しい学び方をしたということです。「マコト」をカタカムナの思念で読んでみましょう。
ちなつ:
まこっちゃんいないよ。
いさどん:
いいんです。それがその人の徳だということです。大事な場面にいないということが、今のその人の人柄を表しているのです。
みかこ:
だけど何でこんなに大事な日にいないの?
いさどん:
そうやって「それじゃダメでしょう」と言うのが、人の欲というものです。この人はこうやって大事なことを逃すんだということを理解したら、だからこそ逃がしてはいけない、ということを自らに対して思えばいい。それは頭を回して段取りを組むのではなく、今を「いただく」ということです。
ここは、自分と人を区別しない場です。人に対して「ここが問題だよ」と伝えることは、本当に愛のある場として、相手のことも自分のこととして伝えるということで、それはとても大事なことです。自分の能力には限界があります。しかしすべてをいただきますという心になったら、人の力も自分のものとして備わるということです。
八鏡文字も同じです。一人の人間の名前を読むと、小丸の位置に偏りがあります。一人では、この世界を受け取るには限界があるということです。そしてその性質によってもたらされる縁を「カルマ」と言います。しかし、様々な偏った者が集まり、群れる(調和する)と、全体ではバランスが取れていくのです。
この世界に命が発生する時、完全な潜象界に不完全が生まれ、ものとものの差ができるからこそ、現象界に転がり出てくるのです。その不完全な者たちが集まり調和し、内も外もない世界ができたら、そこは完成された美しい世界になります。
ここは完成された世界ですか?まだまだ、そうではないですね。それは、みんなの心が一つになっていないからです。そしてこの道を歩むことの本当の目的が、まだ十分にわかっていないからです。それで自らの心に囚われ、不完全なままの自分を大事にしているのです。
自分に足りないところを人からいただき、また、自らの能力をみんなに与え、ありがとうございますという心になったら、すぐに美しい場所ができますよ。
(ここで「マコト」、続いて「リュウシロウ」がカタカムナで読み解かれ、それぞれの特徴が明快になる。)
いさどん:
自らを所有していると、自分の性質を客観的に伝えられても、自らの思い描いていたイメージと違うことから、それを受け取ることができません。そしてカタカムナや地球暦の捉え方に疑問を持ちます。しかし真実は、宇宙の法則に従い、今のあなたがその性質で存在しているということを示しているだけなのです。
それを理解すれば、今あなたがいる位置が客観的に観え、そこからどのように歩んでいけばいいのかということがわかり、自らの意志によって未来を創造していくことも可能となるのです。
私たちは、日本という国に暮らしています。「クニ」とは自由が定着したところ、という意味です。それがわかると、クニに生きるということは、自由自在に生きるということになるのです。
そういったことを自らの人生に表していくためには、どんな時でも自らを緻密に観て、その性質がどのように周りに反映されているかを観ていくことが大切です。それは畑で作物を育てる時でも、ご飯を作る時でも、日常の中のどこででも必要な、大切な姿勢なのです。
のんちゃんが毎日酵素玄米をとぐ時に、カタカムナのウタヒをあげていますね。あの姿には欲がないのです。その心がいいですね。
でもね、欲はあってもいいんですよ。カタカムナの48音の思念には、実は大変なパワーがあります。その48音がこの宇宙を創っているのですから。正しい、美しい、濁りのない欲を持ったら、この世界を美しくすることができます。欲の奥にどのような意志を持っているかによって、世の中を良くもすれば悪くもできるのです。だから自分を磨かなければいけないのです。
だけど人は我欲にまみれたまま、良くなりたいと言います。それでは良くはなりません。当たり前のことです。
そのことが理解できたら、そこにはたちどころに気持ちの良い風が流れ、物事はスムーズに進み、誰かがそこを訪れた時に「なんて気持ちの良い場所だろう」と思うことでしょう。長年病気だった人も、そこに行くだけで治るでしょう。
そんなふうに美しくなるための根源は、どこにありますか?
そう。一人ひとり、自分の中にありますね。
一人ひとりが自らと向き合い、自らをきれいにして、いつも自らを観察して正しくコントロールできたら、どんな場所に行っても物事はすべてスムーズに進むでしょう。それどころか、地震も火山の噴火も起こる必要がなくなるでしょう。なぜなら、私たち一人ひとりの心に地球が連動しているからです。
これから、七日七夜をかけて、心の質的転換をします。
なぜ心を磨く必要があるのか。先日の3日間の「宇宙おじさんの人生講座」でも、冒頭にその話をしました。もしもその意味が理解できたら、もう講座は必要ないのです。けれどもなかなか理解ができないから、繰り返し繰り返しその心に触れる必要があるのです。一時変わったからといって喜んでいてはいけません。一生自分と向き合っていくのです。なぜなら、この世界(宇宙)は、永遠に変化・変容・変態を繰り返しているからです。
誰もが心の中に、宇宙の情報の源(宇宙図書館)を持っています。誰かの考えをもらおうとか、新しい知識を仕入れようという意識の人は、みんなメモを取ります。そうではなく、もともと自分の中にあるものにアクセスし、「ああそうだった」と、その情報を思い出すということです。誰の中にも、そのメモがあるのです。それが生命の姿であり、そして、人間の本当の姿なのです。
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