温暖化対策は、脱いだ靴を揃えることから

先日木の花ファミリーでは、持続可能な未来を模索するNHKスペシャル「2030未来への分岐点」(3回シリーズ)を、子どもたちと一緒に観ました。
第1回目のテーマは地球温暖化。IPCCによると、2030年に地球の気温が産業革命前に比べて1.5度上昇することが予測されており、多くの科学者たちが、気温上昇に伴う巨大台風の増加や豪雨、干ばつ、海面上昇、生態系の崩壊や食糧難を最小限に食い止めるためには、今後10年間に人類がどれだけライフスタイルを転換できるかが勝負であると警告しています。
番組を観た後、ジイジは以下のように話し始めました。

NHKスペシャル「2030未来への分岐点(1) 暴走する温暖化 “脱炭素”への挑戦」


 

国はようやくお尻に火がついて、慌てて温暖化対策に取り組み始めようとしています。
しかし、それはまるでお尻に火がついて、急いで水の入ったバケツにお尻を入れて「ああ火が消えてよかった」と言って、また元へ戻る、ということと同じです。
どれだけか温暖化対策をして、そこから先はどうするのか?その一連の行動は、仕組みだけを変えているということです。しかし、大切なのは仕組みを変えることではなくて、『人間』を変えること。そこが難しい。
自分は現状のまま変わらない生活を維持して、かつ温暖化の問題も無いという世界を思い描いているとしたら、どこかで地球に負荷をかけすぎてきたことを認識しなければなりません。そしてそれは、地球に対する人間の姿勢が間違っていたのだから、いよいよやめなければいけない時が来た、ということではないでしょうか。

温暖化の一番の原因は、エネルギー問題です。それを生み出すのは、石油や石炭などの化石燃料で、原子力発電も様々な問題があります。これらの代替エネルギーとして風力や太陽光が良いというけれど、そもそも風力や太陽光も、まず設備を生産しないといけないから、そのためのエネルギーもかかるし、消費したら壊れもするから、万能ではありません。結局、世界に矛盾を生み出す人工の世界であることは同じです。
人間はどのように生きていけばよいのかを考えるならば、まずは人間の在り方を問わなければなりません。なぜなら、人間は生命として地球に生まれてきたのに、生命の在り方が何であるかを忘れ、人工の世界を拡大してきたからです。その姿勢は、人間以外の生き物とは全く違います。ここまで人工の世界を拡大する道を歩んできて、まだ同じやり方で問題を解決しようとしています。だからこそ今、人間の生命としての本質が問われているのです。過去に沢山の生命が絶滅してきましたが、人間も、異常で過剰な人工の世界をこのまま進めていけば、やがて絶滅することになるでしょう。そこで「誰が問題を作り出したのか」と言ったら、それはみんなでやってきたことなのです。
若者が街に出て「温暖化対策をしろ」と叫び始めました。その行動を無駄とは言いませんが、考え方の合わない者を批判することよりも、そもそも人間の歴史を振り返ってみれば、その批判している対象の延長線上に、現在を生きる自分たちが存在しているのですから、彼らの歴史は自分たちの歴史でもあることに気付くべきなのです。そこで過去を冷静に振り返り、なぜ地球上にこの様な異常をもたらす生命が発生したのかというところから、振り返ってみる必要があります。人間以外の生命には、その種の存在が原因となって、このような矛盾を地球上にもたらすものはいないのです。だから、現在の地球の状況は人類という種全体に原因があり、誰もその責任から逃れることはできないということを認める必要があります。
だって、今の地球の問題は、みんなでつくってきたことだから。だから、もっとよく考えなければいけません。それは、単に仕組みを変えて解決すれば良いという話ではないのです。
これから、温暖化が進むと、さらに暮らしにくくなります。そうすると、生きることの見通しが立たず、自らの命を絶つ様な人も増えるでしょう。でも、暗い気分になってはいけないね。それは人間の価値を見直す機会をもらっていると捉え、大事な振り返りをいただいているのだと思って、受け取っていきましょう。

今、世界中の国が取り組んでいる物理的な解決策の他に、今の生き方や考え方を生み出す人間の心の解決を探っていかなければ、根本的な解決につながることはないでしょう。だから、みんなで力を合わせて生きていくことは、大切なことです。それは、地球の元々の成り立ちに還ることです。そして、智恵を出し合うことです。そうやって力を合わせれば、頑張らなくても良いことにつながります。
だから、自分の考えを出しなさい。みんなで出し合い、その多様性を束ねていけば、必ず突破口は開かれます。出さないから、突破口が開かれないのです。

私たち一人一人は、温暖化対策として、何ができるのか?
それにはまず、自分の脱いだ履き物を揃えることです。履き物を揃えることは、温暖化対策だよ。どうしてだかわかるかな?
ジイジは幅が広いから、どんなことからでも地球を良くすることに結びつけます。自分が脱いだ履き物がどうなっているのに注目することは、その日一日を自分がどのように過ごしたのかを振り返ることと同じです。脱ぎっぱなしでは美しくないでしょう?脱いだ履き物を見ることで、自分がどんな姿勢で、どんな行動をしたのかを振り返り、その行動で良かったのかを考える。そしてその都度履き物を揃えることで、その自分を修正していくのです。履き物を脱ぎっぱなしにすることは、自分の行動を振り返らずに地球の環境を汚したり、人と考えが合わないからと言って対立することと同じです。それは無駄なエネルギーをたくさん使うことになります。

現代には、無駄なエネルギーを使うことがたくさんあります。例えばゲーム中毒になることや、アルコール中毒やスマホ中毒もそうです。現代には中毒がたくさんあります。そしてそういった中毒がビジネスチャンスとなって経済効果をもたらし、企業は大儲けをしてきました。そのような自然とは全く相容れない人工の世界が地球上に広がった分だけ、地球は今、問題ごとで溢れています。それを繋げて見てみれば、経済発展が温暖化を進めていることがわかります。そしてそうなったのは、一人一人が自分の行動をよく振り返って、規律を持って生きていないからです。
自分の姿勢を履き物に観て、振り返られる人は、客観的に自分のどこが悪いのかに気づくようになります。これは良い、これはダメ、ここまでは良いけどここからはやめよう、と、物の分別がつく様になります。だから、まず目の前の一歩として、履き物を揃えること。挨拶をすること。そうやって、一つ一つのケジメをつけていく。それが人の心を良くし、社会を良くして、問題ごとを解決するきっかけになっていくと思いませんか?
人間は、自分の内から際限なく湧き出る欲望を叶えることが豊かさだと思い、歪んだ豊かさを追求してきましたが、そろそろ自らの外の側、つまり、他の生命や、地球や、宇宙の側から物事を観て、そこに自らが何をもたらしているかを理解する者にならなければいけません。自分の内側からの一方的な目線で、良いことをやっているつもりでも、それが全体のバランスを壊していくようでは、尊い者とは言えないのです。
自分の存在が他の存在に歓迎されるような者であることを、我々人間は、これから目指していく時が来ています。他のものに迷惑をかけ、自らの価値を落としてまでも得る豊かさとは何なのか、よく考える必要があるでしょう。

 


人の心の夜明けです ~ 124年ぶりの立春正月の日に、マツリの精神と共に

木の花ファミリーでは毎年立春前に「富士浅間木の花祭り」を開催します。祭りを通し、一年間の穢れを祓い清め、生まれ清まった新たな心で農事暦の始まりである立春正月を祝います。この立春正月祭の場で、ジイジは以下のように語りました。


 

立春正月、明けましておめでとうございます。

今日は、富士浅間木の花祭りの締め括りとなる立春正月祭であり、農の新たな一年の始まりの日でもあります。例年、立春正月は2月4日ですが、今年は2月3日で、それは124年ぶりだそうです。人間は美しく生きると、124歳まで生きるという話を聞いたことがあります。現代の日本の平均寿命が約80歳ということは、まだ修行が足りないということでしょうね。
神の一息は、吸って60年、吐いて60年、合わせて120年と言います。この124年という期間とほぼ同じサイクルです。宇宙的には、太陽系の中で太陽の次に大きな質量を持つ木星が太陽を1周する周期が、12年です。その次に大きな土星の周期は30年で、木星と土星は、太陽と一直線に並ぶ「結び」の会合を60年ごとに持ちます。それが2回で120年です。120年と124年の4年の誤差は、宇宙の遊びと言えるでしょう。さらに、冥王星の周期は248年で、ちょうど124年の2倍です。これは、天体の「トキ」の話です。

今回の立春が124年ぶりというのは、一体どういうことなのでしょう。天体が時を刻むことは、地球が1年365日をかけて太陽を回ることに示されます。しかし、ぴったり365日ではありません。1日も24時間と言いますが、ぴったり24時間ではありません。そこには常に誤差があり、その誤差を調整するために、今回は124年ぶりの立春となったのです。つまり、そこには遊びがあるのです。
これにはどんな意味があるのだろうと考えた時に、その遊んでいたものをもう一度元の位置に戻し、襟を正していきなさい、という意味でもあるのだと思いました。
124年前というと、明治30年です。先ほど祭主が祝詞を奏上しましたが、その中の「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」とは、艮の金神のことです。神の一息が120年であるとしたら、大本の出口なおさんに神様がかかり「この世の中をたて直す」と宣言をされてからちょうど一息を経て、いよいよ始まるぞ、という時に来たのだろうと思います。そこで、富士浅間木の花祭りは今年で九回目を迎え、転がり出て(コ)、いよいよこれから十、次の「統合(ト)」へ向けての生活が始まります。

花祭りの起源は、700年前とも800年前とも云われます。ちょうどその頃、日本では封建時代が始まりました。戦乱の時代の始まりです。人の土地を奪い、支配することが成功者であると称えられたのです。そして江戸時代を経て、明治になり開国をすると富国強兵を打ち出し、また他者の土地へ侵略することを始め、その結果大きな戦争をすることになりました。世界中がそのような時代でした。その大戦が終わり、75年が経ちました。
年が明け、2021年の始まりにあたり世の中を見渡してみれば、新型コロナウィルスが蔓延し、人々は不自由な生活を送っています。そこにはたくさんのメッセージが隠れていることを思うと、やはり「襟を正していけ」ということだと思うのです。身の回りに起こる小さな物事をよく観て、自らのことだけではなく、世の中全体の在り方を振り返り、正して行け、という区切りのメッセージが、今年の立春正月には示されているのだろうと思いました。

「マツリ」の精神とは、ある特定の日を特別な一日として神様と接するのではありません。神とは、「カ」即ち宇宙最極小微粒子が、「ミ」即ち満つっている状態、つまり、すべての現象宇宙に顕れている物理性と、その背後にある仕組みのことを指して呼ぶのです。ご利益を求め「いいことが起きますように」と怠け心で願いをかけるものではなく、日々の生き方を正し、道理の通った生き方をすることにより、災難のない豊かで調和的な世界を創ることになるのですから、ご利益は私たち自身の生き方にかかっているということです。なぜなら、私たち自身も「カ」が満つって現象化した、宇宙の法則の顕れそのものだからです。
この祭りを一年に一度行うのは、そのことを襟を正して考え直し、祭りが終わってからも一年を通してその精神を生きなさい、ということです。そして一年が経ったら、その結果を祭りに顕し、そこから自らの姿勢を振り返り、また新たな心で次の新しい一年へ向かいなさい、ということです。ということは、マツリとは特定の一日を示すことではなく、一年中マツリなさい、と示されているのです。
そもそもマツリとは、政(マツリゴト)と言い、世の中を運営することです。そこでは、私人ではなく公人として一年を生き、自らが生きたことが世の中に良い形で反映されることを目的としているのです。それが本当の人の在り方です。
今の世の中は「自分さえ良ければいい」どころか、皆でこぞって地球の仕組みを乱し、環境破壊による温暖化のような問題を引き起こし、さらに人間の間では争いが絶えません。現代の日本には戦争がないと言われますが、莫大なお金が軍事費に費やされています。そして日本の産業は、世界の他の国々で行われている戦争の軍備に貢献しています。まだまだ争いの種を創り続けている人間の営みを考えると、124年の区切りをもって襟を正せと示されていることは、本当のことだと思うのです。一年365日をマツリの精神で生きるということは、それが普通になれば、何も特定の日に襟を正す必要はなくなるでしょう。そういった心が人々の中に芽生えれば、世の中は必ず豊かで平和な世界になります。

私たちは、この世界に生まれました。生まれる時は、天から降りてくると言います。作物は土から芽吹いてきますね。その土から芽吹いてくるものは、太陽の光が注ぎ、その循環の仕組みの中で育ち、私たちに土のエネルギーが与えられるようになっています。土のエネルギーとは、地球神である金神様のエネルギーですから、私たちは金神様のエネルギーをいただき、生きることを与えられているのです。そしてそれにふさわしい生き方をした時に、私たちは誇りをもって次へと旅立つことになり、天へ昇っていくのです。
天に昇ると、次にまた役割ができた時に降りてきます。ところが、この世の仕組みに囚われ、上を見ずに「何かいいものは落ちてないか」と下ばかりを見ている者は、魂になっても天に昇ることができません。そのような魂がたくさんいます。人間だけではなく、人間の営みの犠牲となった他の生き物の魂まで天に昇れなくなっているのです。そのような心の乱れ、魂の汚れが、この世の中の混乱を創っています。
だからこそ、そのことに気付き、世の中を美しくする。自分が生きた結果、世の中が美しくなる。お陰様で自分は世界を美しくすることに少しは役に立てた、と自らに合格をあげられるようになった時に、誇りをもって天に昇っていけるのです。体という質量をこの世界の自然循環の中にお返しし、囚われのない心であれば、魂は軽いですから自ずと天へ昇っていくのです。
しかし、昇れない魂もいます。それは、人間が自我を与えられ、心を美しくしてこの世界の循環に貢献する役割をいただいてきたのに、そういったことを忘れ、怠っているからです。今また、新たな124年の節目が来ました。そして、金神様は乱れた世の中を正すと言って出てこられました。僕もこれまで、一体いつになったら本当の世直しが始まるのだろう、もう命が続かない、と思っていましたが、いよいよそういう時が来たのです。

先日、富士浅間木の花祭りの祭事を行い、その締めくくりとなる神返しの神事を行った際、僕は祭主にある注文をしました。祭事の前には、神寄せの神事を行いました。しかし祭事を行うのに、神様に「降りてきてください」と言うのはおかしい。なぜなら、神様はそもそも、いつでも万物に遍満しておられるのです。それを、今日だけ降りてきてくださいと言うのはおかしいでしょう。この世界のすべてが神の物理性の顕れであるのに、降りてきてくださいと言うことは、日頃神様と共にある意識がないということです。さらに、祭事の後に「ありがとうございました。どうぞお帰りください」と神返しをするようでは、一日だけ一緒にいて、残りの364日は神様と共に生きていないということになります。
ですから僕は祭主に、神返しをすることはやめましょうと提案しました。これまでは、どこでも同じことをやっていました。それは、神というこの世界の物理性の中に遍満し、常に私たちと共にある存在から、人々の心が離れていたからです。この124年の区切りをもって、私たちはそのことを意識し、毎日を生きていきます。
そうすると、宗教はなくなるでしょう。都合の良い時だけご利益を願うことはなくなり、毎日の物理性の中で、そこに循環している尊い仕組みのもとに自らが生かされていることを感じ、その意識で、この世界を運営していく側になるのです。それは「大学に合格しますように」とか「宝くじに当たりますように」といった自分の都合で願いをかけることとは違います。
現代の人々は、神社で2回手を叩きます。本当は4回叩くものですが、それを半分だけやるということは、本当の半分、つまり、ご利益だけが欲しいということになります。なぜ本当は4回叩くのでしょうか。2本の手で4回叩くと、合わせて八つになります。それは八方が安定する、即ち本来すべきことをきちんと行い、道理に適った利益をいただいて、幸せに生きていくということです。四(し)を合わせるのですから、しあわせです。

こういったことが、僕の中に浮かんできます。その時に、これは夜明けだ、と思いました。何の夜明けかというと、天体の区切りの夜明けでもありますが、人の心の夜明けです。
夜明けには何をしますか?そう、目を覚ましますね。目を覚ますと言っても、この肉の目は毎日覚めています。そこで覚めるのは、心の目です。これからの時代は、人の心の目が覚めるのです。

その時が来たのだと思うと、たくさん話がしたくなります。しかし地上には地上の都合がありますから、そういうわけにはいきません。今日という節目をもって私たちは先へ進みますが、これからは心の目を覚まし、その目覚めた状態で毎日を送るようにしたいものだと思います。
今、気持ちはとても晴れやかです。その割には(涙をぬぐいながら)雨が降っていますけどね。この不可思議な人生をいただき、これは一体何なのだろうと思いながら生きてきましたが、いよいよ扉が開いたことを今年は特に感じます。扉が開き、目覚めた人たちは、その大事を生き切ることです。
今日は、去年植えた桑の木の剪定をしました。苗木をとるために、「とり木」と言って枝の一部を土の中に埋めて上から抑え、そこから根を出させるようにしていたのですが、今日掘り起こしてみたら、まったく根が出ていませんでした(笑)。そこで思ったのは、予定が外れたということではなく、自分の思いが必ず叶うとは限らないからこそ、叶わなかった時には次のことを考える。そうすると、頭を使い、智恵が湧く。桑の木に根が出ていなければ、枝を切って挿し木にすれば苗は取れるのですから、何も問題はないのです。(実はその次の日に別の種類の桑の木のとり木を掘り起こしてみたら、根がたくさん出ていて、これについては予定通りでした。笑)
何かが起きた時に、予定が狂ったと捉えるとがっかりして嫌になりますが、そうではなく、そこから違ったことを考えるきっかけと捉えると、どんなことでも新しい取り組みを始めるチャンスとして生かすことができます。生きるとはそういうことです。そうやって私たちは育てられているのです。

天体の動きと共に、世の中は確実に時代を刻んでいます。すべての現象はトキ軸を柱として巡っていきます。ただ欲のままに生き、ストレスを溜めてそれを解消するために暴飲暴食をし経済を大きくするなど、余計なことをたくさん行って体の中に矛盾を溜め込み、病気になるような生き方が、世の中には蔓延しています。今の世の中は豊かになったはずなのに矛盾だらけで、問題だけがどんどん膨らんでいくのです。
そういった無駄を行わず、本当に必要なことを相応しく行い、皆がシンプルな豊かさで生きれば、地球の資源を無駄遣いすることもなくなるでしょう。そうすると、いろいろなことが好循環になります。今は好循環ではないのです。それが好循環に転じた時、いよいよ宇宙の星々が何億年も何百億年も運営されてきたのと同じように、地球にも無限の世界が生まれることでしょう。
今日は、私たちがそのことに目覚める区切りの日です。124年ぶりのメッセージを受け取り、心はとても晴れやかです。しかし一人で晴れやかになっていても仕方ありません。皆で和やかにそういった日々を送り、世の中へ広げていきましょう。世の中がどんどん難しくなっていくようなことでは、本当に求められるマツリの精神で生きることとは違うのです。だからこそ気付いた者たちは、それをやり切る。その動きは小さいですが、その響きはこれから、世界中どころか宇宙中へと響き渡ることでしょう。

僕は今、宇宙の響きをいただいてこの話をしています。それは、天地一体の世界を築くということです。我々は太陽の光をいただいて命があるのですから、まず始めに天があります。その光を受けて地上に食べ物ができ、それをいただいて、その循環の中で地球に命が表現されるのです。その物理性を本当の豊かさとして顕す、その自覚をもっていきたいと思っています。
今から、お神酒で乾杯をします。ここのお神酒はアルコール度数がありません。それは、お酒で酔っ払っていくのではなく、飲む点滴と言われるほど滋養のあるお神酒をいただき、本当に健康で豊かに、そして正気で、時代を生きていこうということです。正気でなければ、本当は創れないのです。
「カ」が満つって(ミ)現象化することを神と言います。人間も、他のどんなものも、「カ」が満つって存在しています。我々がめでたいと思う心も、乾杯をしてお神酒を飲むことも、すべては「カ」が満つった現象がそれを味わっているということであり、味わうことで神様と直会(なおらい)をしているのです。

立春正月を迎え、これから新たな農の一年が始まります。124年ぶりの地球規模の新しい門出を祝い、魂からの目覚めとして日々を生きていくことを、皆さん、どうぞよろしくお願いします。おめでとうございます。乾杯!

 

 


ただただ、他者を思い生きること 〜 2021年1月1日

私は、夢を見ました。

それはどこか工場のようなところで、ほこりっぽく、あまり衛生的とは言えない閑散とした場所でした。そこにビニールのようなものに包まれた、卵よりも二回りほど大きな水のかたまりが、ほこりにまみれて、いくつか転がっていました。それはどこからか現れて、少しずつ増えていきます。そして増えるごとに、その場が幸せになっていくのです。
その感覚を、言葉でどう説明したら良いのかわかりません。そこは美しく整っている場でもなく、近代的な設備もないのに、まだ未完成のその工場を稼働させ、実験を繰り返していると、不思議と幸せな気分が満ちていくのです。何かを創ろうとしているけれど、何を創ろうとしているのかわかりません。何かのエネルギー源がそこにあるのかというと、そういうわけでもない。ただ幸せな気分が生産され、広がっていく。生産の仕組みはよくわかりませんが、そこにある原理は、「ただただ、他者を思って生きなさい」ということでした。
もしもこんな世界があるのなら、これを最終到達地点としていいのではないか ——— そう思えるほど、その場は不思議な満足を与えてくれました。大きな卵のような水の玉が、その空気を生んでいるようでした。そこには美味しい食べ物が並んでいるのでもなければ、快適な空間があるわけでもない。何もたいしたものを生産していないのに、こんな気分ならもう何もいらない、これでいい ——— そう思いました。

先日、木の花ファミリーではクリスマス会がありました。会の最後に、大人も子供も一緒になって、木の花楽団の新しい歌を合唱しました。その歌はまだ不完全で、私は初めて聴いた時から「この歌には何かが足りない」と感じていました。ところがいざ合唱が始まると、小さな子供からお年寄りまでがひとつになって、みんながその場を良い場所にしようと歌っていました。みんなはこの日に向けて練習をしていましたが、それで何か得をしようとか、見返りを求めていた人はいなかったでしょう。ただ誰もが、人を喜ばせようとして歌っていました。
その時私は、次の世界を見たような気がしました。そうすると、何かを得ようとする心が消えていくのです。もっと少ないエネルギーで、満足して生きていける。そういう世界を味わったのです。
夢の中の工場はまだまだ未完成で、さらにレベルを上げるために探求をしていました。ちっとも美しい場所ではないのに、そこには「なぜだろう。どうしてこんな気分になるのだろう」と不思議になるほど、幸せな気分が満ちているのです。まるでこれまでに体験したことのない麻薬でも使っているかのようでした。そのベースにあるのは、ただただ、他者を思って生きること。それがその場の原料となり、自らの幸せの元となり、新しい時代を創っていく原動力となるだろう、と感じたのでした。

今、新型コロナウィルスの感染拡大や地球温暖化など、世界が大きな行き詰まりに直面する中、それでもなお、人々は現在の暮らしの延長線上に未来を描き、それを維持することでしか先が考えられない状態になっています。しかし、過去を振り返ってみれば、現代の私たちの暮らしは、人類が歴史上経験してきた多様な歩みの中のたった一つである、ほんの一瞬のものに過ぎません。現代の人々は、そのたった一つの生き方に縛られ、社会の先行きに不安を感じながら、今なお同じ生き方のままで突き進もうとしています。しかし、それは進めば進むほど、さらに無理のある世界を突き進めていくことになるのです。
その進んできた道を振り返り、冷静になり、本当にこれしかないのかを考える時が今、来ています。視野を広げ、客観的に捉えてみれば、これまでの延長線上を突き進むのとは違う、新たな方向が観えてくるはずです。

世界はもともと、調和で創られています。調和が表現されれば、そこには自ずと持続可能な世界が現れてくるのです。人間以外の生命は、すべてが調和し連鎖していく大生命生態系の循環の中にあります。近年、私たち人間がより豊かでより幸せな暮らしを追求してきた結果、現在の世界が持続可能でなくなっているとあなたが思うならば、私たちはもう一度、豊かさとは何か、幸せとは何かを捉え直す時に来ています。
現代の人々は、何かしら心に不安を抱えて生きています。不安であるが故に、人と同じになることで安心を得ようとし、一律に同じものを求めてきました。個性の違いを無視し、一律な尺度で人と比較することで優劣を生み、人より豊かになろうとして争うようになったのです。そして自らが得することばかりを考え、その優越感を持ち続けなければ不安を感じるようになりました。その一方で、他者のことを顧みず、自らの好きなことだけで日々を送る人々も増えています。そのどちらも、根底にあるのは「自分さえ良ければいい」という心です。その結果、地球の本来の姿である大循環生命生態系とは程遠い世界を創ってしまったのです。
しかし自然界の生き物を見れば、一見自らのためだけに行動しているようでありながら、その行動には節度があります。ここまで得たらそれ以上は求めない、即ち「足るを知る」ことを本能的に知っており、生態系のバランスを崩すことなく、自らの必要を満たしているのです。かつて人間も、他の生命たちと同じように、自らの命をつなぐために必要な分だけを生態系の循環の中でいただき、その仕組みから逸脱することなく生きていました。ところが産業革命以降、科学技術の発展によって自らの願望を叶える快感の虜となっていった人間たちは、際限なく欲望を膨らませ、他の生命を犠牲にしてまでも、自らの豊かさを追求するようになりました。

現代を生きる私たちは、とても豊かな暮らしを享受しています。日々働いてお金を稼ぎ、そのお金で物を消費し、食べ物を食べ、余暇を楽しみ、何も悪いことはしていない、当たり前のように思っている私たちの毎日の暮らしが、他の生命の犠牲の上に成り立っていることを認識している人々が、世界にどれだけいるでしょう。

人間は、多種多様な地球生命の長い進化の物語の末に、地上に誕生しました。その命は、自然から与えられるものによってつながれてきました。今もその仕組みに変わりはありません。ところがその仕組みの中にあって、人間はいつしか自分のことだけを考えるようになり、人間のためだけの社会が地球上に異様に展開するようになりました。
その行き過ぎた人間の行いに対し、地球は今、警告として様々な現象を起こしています。他の生き物たちは、人間の行いの犠牲となっていくことはあっても、それを危機だと騒ぎ立てることはありません。ただ人間が気付くように、自らが絶滅するといった現象を通して、メッセージを送っています。それは、声なきメッセージです。そのように、強いメッセージを発することのできないもののことを思う心が、これからの時代を生きる人々には必要です。自己主張のできる人間のことばかりを優先することは、もう終わりにしなければなりません。それが、他者のために生きるということです。

今、新型コロナウィルスには外出規制や治療薬の開発、温暖化にはリサイクルやクリーンエネルギーの推進というように、世界中で起きている様々な現象を、人々は物理的な対処によってのみ解決しようとしています。しかしその物理的現象はすべて、人の心が元となり、発生しています。「自分さえ良ければいい」という根本に不調和を生む人間の心を変えることなく、テクノロジーの力で問題ごとの表面的な解決を図っても、その根本的な解決を先送りすればするほど、さらなる問題が現れてくるのです。
人間は楽になることが豊かさであると思い、その高い能力を使い、便利なものをたくさん創りました。しかし、便利なもので身の回りを固めれば固めるほど、自らの生きる力(生命力)を失っていくのです。そして能力を失ったことで、さらなる問題が自らに起き、それを解決しなければならなくなるのです。だからこそ、際限なく求め続けるのではなく、「足るを知る」。そこに気付く必要があります。
それには、既に十分であることに気付くことです。私は既に、十分与えられている。自分で獲得したと思っていたものも、実はすべてこの世界の大いなる循環の中で与えられたものであり、私がこうして存在していること自体が、生きることを与えられている。存在することを与えられている。ありがたい。そのような謙虚な心になった時、初めて、これまで追い求めてきたものとは違う豊かさに出会うこととなるのです。それは、心の豊かさから生まれてくるのです。

人間がこれまで築いてきたものを否定し、返上しようということではありません。この世界が循環によって成り立っているならば、循環とはすべてを肯定することです。これまでにあったことはすべて、それが必要な時代だったから存在したのであり、それが行き過ぎた結果様々な矛盾が現れてきたということは、私たちは自らの姿勢を振り返る段階に来たということであり、それは次のステージへ進むために大切なことです。否定ではなく、肯定し、そこから学ぶ。そうすることによって、私たち人間は進化することができるのです。
有史以来の6500年の歴史の中で、地上には様々な文明が生まれては消えていきました。その消滅の原因は、行き過ぎた文明の発達によってバランスを欠いた環境破壊であったと言われます。産業革命以降の急速な科学技術の発展により栄えた現代文明は、過去に類を見ない速度で環境を破壊しながら、その高度なテクノロジーにより文明を維持し続けています。しかし、矛盾の根本にメスを入れることなく、矛盾を生み出す元である現代文明を人工の力のみで保ち続けることは、さらなる重大な結果をもたらすことになります。だからこそ、その根本の原因に気付くことで、偏った豊かさを突き詰めてきた鋭い矛先を収め、破壊の手を止めなければなりません。
右肩上がりの経済から一歩引き、本当に必要なものは何であるのか、余分なものは何なのか、その仕分けをする時が来ています。今まで通りの生活を維持することから、求める心を少しだけ引いて80%にしてみれば、足りないものはみんなで共有するチャンスを得ることができるのです。それが難しければ、まずは90%から始めてみる。やってみて大丈夫なら、今度はさらにその90%にしてみる。そうやって少しずつ慣らしていくうちに、みんなで助け合い、無駄がなくなり、生きることの新たな方向性に出会えるのです。

それは難しいことのように思えるかもしれません。しかしこれまで他の生命の犠牲の上に成り立ってきた私たちの欲望は、100%でも飽き足らず、さらに120%も200%も求めてきたのです。その矛を今収めなければ、鋭い矛先がいずれ、自らに向かうことになるでしょう。
新型コロナウィルスは、その行き過ぎた人間の行いに歯止めをかけました。今はコロナウィルスによって無理やり強いられているように思えることを、私たちが自らの意志でできるようになったなら、コロナウィルスが現れることはなくなるかもしれません。その力を借りる必要がなくなるからです。それが次の時代に求められる私たちの生き方です。
人間は失ってから気付くものです。だからこそ今、これまで当たり前であったものが失われようとしていることで、世界は私たちにメッセージを送っています。しかしそのような痛みをもらわなくとも、私たち人間には、これまでの行き過ぎた行いを振り返り、そこから学び、傷付いた世界を再生させ、新たな方向性を見出す能力と可能性が秘められています。その道の始まりとなる心が、他者を思うことです。

世界は、共有のもとに成り立っています。私たちはすべての生命と、太陽や水や大地や空気や風を共有しながら、大いなる命の循環の中で生かされています。その中で、他者を思い、他者のために生きることは、私たち生命にとって当たり前の姿なのです。
私たち人間の本質は、愛や絆によって、みんなで力を合わせて生きることが幸せな世界を生む元になると、どこかで知っています。ところが自我が膨らみ、自分のことだけを考えるようになった人々は、他者のために生きることがまるで自らの自由を阻害されるかのように感じるマインドコントロールにかかっています。しかし、他者のために生きることは、本来とても心地良いことなのです。
これまでの価値観では、人に何かをしてあげることは、「自分がしてあげた」とある意味優越感を持つようなものでした。或いは、人にしてあげることで自らのものが奪われるように思う人もいます。しかし人に何かをしてあげるということは、こちらが人に対して何かをさせてもらえる、ということです。そこには、人のために生きたという価値が生まれます。そうすると、「してあげる」ではなく「やらせていただく」という心になります。ただ他者のために生きる、という、生命の定めを表現した時に、その人は自ずと、自らの価値を上げていきます。そして自らの行うことが、世の中を良くしていきます。そういった仕組みがこの世界には流れており、自らが生きることで、その仕組みが現象化するのです。
それは何も難しいことではありません。高度なテクノロジーやコロナウィルスのワクチンを開発することの方が、ずっと難しく、お金やエネルギーもかかることでしょう。それは誰しもの心の内に秘められた、世界の掟です。自分のことばかりを考えて生きて、そのことがわからなければ、その大いなる仕組みを感じ取り、寄り添おうとすることにこそ、自我を発揮しなさい。「私の目的は、この世界の仕組みが健全に表現されることであり、それを喜びとするのが私の自我です。」そして、この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる —————

私は、夢を見ました。それは、いとも簡単にその世界へ行ける夢でした。
そこでは、何かを求める気持ちは消え去り、ただ心が満たされていました。今の現実の中では、それは本当に夢のようで、程遠い世界に思えるかもしれません。しかし、心がその意識に目覚めれば、可能なのです。
この世界には、様々な可能性が秘められています。一人ひとりの人間が、どのような精神状態で生きるかによって、それにふさわしい世界が目の前に現実化してきます。そのたくさんの可能性の中でもっとも大切なのは、世界が幸せという生産物で満たされることです。それは目には見えないものですが、心身ともに健康な世界を創ってくれます。その原料は、他者を思う心。他者の幸せを願い、他者のために生きていけば、実現できるのです。
そこには、幸せになるための音楽が流れ、幸せになるための食べ物があり、幸せになるための会話が交わされ、幸せになるための日々の暮らしがあるでしょう。そして欲しがる心は満たされて、多くを必要としなくとも、少しのエネルギーでたくさんの幸せが生まれるでしょう。それはどこにあるのかというと、人の心の中にあります。そのスイッチを、あなたが入れればいいのです。

そのような世界があることを、私は観たのです。

 

 


希望の風を世界へ吹かせましょう

昨日、2020年12月13日の13時より、木の花ファミリーでは、メキシコの太陽マヤ族が主催する世界的イベント「人類昇天の世界宣言」のオープニングとして、「希望の風セレモニー」を行いました。
このイベントは、すべての人類の精神を解放し、誰もが豊かさと尊厳をもって幸福に生きられる世界を築こうというイベントの趣旨に共鳴した世界各地の人々が、それぞれの地で人類の精神の解放を祈る儀式等をリレーのように行っていくもので、「日出ずる国・日本」の木の花ファミリーはその第一番目として、オープニングセレモニーを担いました。奇しくも、2020年12月22日より、宇宙的には「風の時代」が始まると言われ、セレモニーの名は「希望の風セレモニー」となりました。(セレモニーの詳細はページ下部をご覧ください。)

以下は、セレモニー冒頭のジイジのお話です


 

希望の風を世界へ吹かせましょう

「希望の風セレモニー」オープニングより

2020年12月13日、日本時間13時をもちまして、地球人類の目覚めのための「希望の風セレモニー」が始まりました。

私たち人類はその叡智により、これまでにたくさんの文明を築き、大きな影響力をこの地球上に示してきました。このような高度な文明を築いた星を、私たち人類は今、宇宙観測によって他に確認することはできません。これから先の未来においても、このような文明を築いている星に人類が出会うことはないかもしれません。私たち人類が繁栄しているこの類まれなる星は、宇宙の中でも特別な状態になっています。それは、今周りを見渡してもわかるように、生命の星であるということです。

地球上にこのようにたくさんの生命が無限に展開することは、宇宙の奇跡です。そしてこの生命の特徴は、互いに調和し、協同し、地球というひとつの生命をみんなで表現することです。宇宙が善なる愛なる調和で表現されているように、地球の生命生態系も、大調和でなければ成り立たない表現なのです。この美しい生命の大循環が地球上に広がり、これから未来を歩んでいこうとしています。

しかしながら近年、私たち人類の営みによってこの大循環が壊され、汚染され、私たちが創る社会に暗い影を落としているのも事実です。今世界中に蔓延する新型コロナウィルスも、温暖化による自然災害の多発も、私たち人類がその叡智を使い、豊かな暮らしをしようとした結果起きていることです。なぜ豊かで幸せに暮らそうとした結果、このようなことが起きているのでしょうか。それは、私たち人類が他の生命のことを忘れ、大調和の精神を忘れているからです。

この現象は、近年に限ったことではありません。地球上に人類の叡智による文明が発生してから、6500年になると言います。私たち人類の側から見れば、それは発展であり、希望でもあったのです。しかしながら、その文明が現在に至った結果もたらす現象は、地球全体の生命に暗い影を落としていると言えます。

私たちは今、何をしなければいけないのか。新たな希望を見出すために、何をするべきか。

私たち生命の本質は、自分である前に、全体のために存在しているということです。国家は、その国を構成する人々の調和の上に成り立ちます。そして人類は、他の生命が健康で健やかであるよう、大循環の世界を表現するために存在しています。その心の根底にあるのは、他者を思うことです。そしてつながるということです。その精神が調和を生み、平和な世界を築きます。

その心の大本はどこにあるのかというと、大宇宙にあります。現在のように資源を奪い合い、争い、格差を生み出すような時代から、宇宙の星々が織りなす美しく無限なる調和の世界、そして地球生命が織りなす美しい生命世界のように、私たちは今、その精神に目覚めるべきなのです。

それは、簡単なことです。自らを大きく捉え、他者を自分自身だと思うのです。私たちは地球であること。そして宇宙にいること。そのことを自らの中に目覚めさせれば、今の社会の矛盾を解決するのは、いとも簡単なことです。

今はまだ、多くの人々はそのことに気付いていません。しかしまた、そこに気付き始めた人々が今、地球上にたくさん現れてきています。私たちは日本の富士山の地より、その始まりの宣言をします。そして希望の風を吹かせます。この風のウェーブは、地球を回り、この星全体を調和の響きで包みます。それは、努力をしなくてもいいのです。一人ひとりが人間の本当の姿、地球の真実の姿、それを思うだけで、その思いが人から人へつながり、響き渡り、地球を包むことでしょう。

これまでそれができずにいたのが、なぜこれからはできるようになるのでしょうか。それは、この2020年の12の月をもって、新しい風、宇宙の風が吹き始めるからです。その始まりのセレモニーに、こうして皆と共にその意識を持ち、この場に立てることをとても喜びに思います。この小さな響きは、いずれ地球全体を包むでしょう。そしてこの奇跡の星地球を、本当に美しい世界にしてくれることでしょう。その役割を担えるのは、地球生命の中で最も高い能力を持ち、最も尊い、私たち人類の目覚めなのです。

本日、12月13日13時をもって、その始まりのセレモニーを日本の富士山の地よりお届けします。人類の目覚めのための希望の風を、世界へ吹かせましょう。そして、地球全体に広げましょう。ありがとうございました。

 


 

セレモニーでは、木の花楽団の新曲「希望の風」が歌われました。

 

希望の風

暗い宇宙の 水平線に
かすかな光が 広がり始めている
どんな時代が 始まるのだろう
重い扉が今 ゆっくりと開いてゆく

希望を失った人々よ
絶望の淵から光へ向かおう
不安と恐れの向こうへ
忘れた羽を取り戻して
今羽ばたいてゆこう

未来があなたを 呼んでいる
失った希望が ここにあると
本当は誰でも そのことを知っている
今ここから 歩き始めよう

暗い宇宙に 広がる叡智
何故人々は 知ることが出来ないの
どんな暗闇が 心を覆っても
扉を開けば 光は流れて来る

希望を見出した人々よ
真実の道を歩み始めよう
不安とおそれを乗り越えて
今羽ばたき始めれば
星々のエールが聞こえる

未来があなたを 呼んでいる
この道をまっすぐに 行けばいいと
天と地をつなぐために生まれた者たちよ
手を取り合って 共に行こう

愛を知るために 憎しみがある
光を知るために 暗闇がある
闇に秘められた たくさんの想いを
手放すと決めるのは あなたの意志(こころ)

今やっと 新しい風が吹いてきた
みんなの心を つなぐために
希望の風がみんなを つないでゆけば
世界に奇跡が 起こるだろう

全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある

 

*セレモニーの一部始終の動画を、フェイスブックのライブストリームにてご覧いただけます。

動画を見る

 


カルマよ、ありがとう。私は次のステージへ行きます。

これは、自我が生み出すカルマに翻弄され自らを見失っている人々へ、そのカルマを階段とし、新たなステージへ進むためのヒントとなるお話です。

まず、自我とは何かについてお話ししましょう。

遥か昔、神様(宇宙根源法則の成立)は完全なる自らの体を分けられ、その後、多種多様な生命をこの世界に生み出しました。そして、一つでは不完全な数多の生命が、互いにつながり、ひとつらなりの命となって生命の大循環を引き起こすことで、神様はそこに完全なる自らの姿を映しました。それは全てが神の意思のままに循環し、決して外れることのない、完璧な秩序の下にある美しい世界です。しかしその完璧な世界では、一つひとつの生命はただその一部としての機能を果たすだけで、全体を捉えて認識する能力のあるものがいませんでした。

世界は、認識するものがいて初めて意味がある。
認識するものがいなければ、そこにある意味もない。

認識をするためには、そこから独立した意識を持ち、全体を俯瞰できる能力が必要です。そこで神様は、人間を地上に降ろしました。そして、この世界から自らを切り離して捉える自己認識能力、即ち、自我を与えたのです。
しかし人間はその能力ゆえに、物理的にはこの世界の構成物のひとつであるにもかかわらず、意識だけがそこから分離し、世界を自らの思い通りにできるかのような錯覚を持ち始めました。物理的には世界の成り立ちの中にあり、世界とつながっている状態でありながら、意識だけが世界と連携しないのです。そして世界の実体とは関係なく、思考だけを膨らませるようになりました。物事を進める時に、まだ起きてもいないことを想像して心配している人がいるように、現実を見ることを怠り、実体とはかけ離れたところまで自らの思考を膨らませてしまうのです。しかし本来、エコノミーとエコロジー、即ち経済と自然が常に連携しているべきものであるように、思考と現実も、常に連結してあるべきものなのです。
冷静に物事を観れば、省エネになります。出来事に対して過剰に驚いたり、自らの体験を重ねて感情的になったりすると、余分なエネルギーを使うことになり、その過剰な表現の分だけ余分な行動や現象を起こします。それが現代の経済を膨らませ、自然のキャパを超えた人間の活動が際限なく広がっていることを、直視しなければなりません。それは世界の実体に沿っているのではなく、実体から離れた思考を膨らませ、その自らのつくり出したものに反応しているに過ぎないのです。それは人間の枠の中のことだけであり、今や自然界の生態系のキャパを超えたものとなっています。人間の行いが多くの矛盾を生み出し、未来に暗い影を落としている今、これからの人々は、もっと正しく自らの行いを直視していく必要があるのです。

思考を膨らませるのは、世界の実体から離れ、全体を俯瞰して観ることができる能力にもつながります。それは本来、この世界を解明するための能力として与えられたものです。さらに、私たち人間は、思考の奥に思念というものを持ち合わせています。では、思考と思念の違いとは何でしょうか。

思考は、自我から生まれるものです。それは、思い、考えるものであり、自我が巡ることにより膨らみ、形成されていくものです。
これに対し、思念とは、私たちが生命である人として成立する上での原点にある真我から湧き出すものです。それは、大本のひとつから分かれ単独で肉体を与えられた私たち人間が、その大本のことを忘れないための、私たちの中に内在するチャンネルのことです。それは自我によって思い巡らせるものではなく、宇宙を運営する大本の源泉へ思いを発することで、自らの内から湧き出してくるものであり、それによって私たちはその源泉へアクセスすることが可能となるのです。
そこへつながると、宇宙の根本秩序が常にもたらされ、それが柱となり、自我に翻弄されることはなくなります。人間はこの現象世界に居ながらにして、その大本にアクセスする思念を常に持ち合わせて生きるものなのです。しかし現代を生きる人々は、そういった人間の最も重要な立ち位置を維持するための能力の使い道を誤り、生まれてきた目的を見失っています。そして日々の中で大本へと意識を向けることを忘れているから、自我が暴走するのです。

では、思考の役割は何かと言うと、それは人間が思念に立ち返るためのガイドです。思考を巡らせ、探って探って探っていくことで、ある時ふっと思念が湧き出します。その時に人は、「ああ、そういうことは考えるのではなく、ただ意識を向けて発すれば返ってくるのだ」ということに気付くのです。それが、生きることを「いただく」ということです。そして最終的には私たちは大いなるものと一体であるというところに辿り着くために、思考は私たち人間が自らを導くためのガイドとなるのです。
人間以外の生命は、思考する能力を持ちません。本能という、大本の秩序と直結するものだけで生きているので、人間のように余計な旅をしないのです。つまり、それだけ自我が少ないということですから、大本の仕組みから自由に独立した状態で、全体を俯瞰して捉えることもできないということになります。それは大本の側にいるものであり、その場合、そこから分離して、大本と対向発生するという形が取れないのです。
神様はこの世界に自らの姿を表現し、その自らと対向するものの視点を通し、自らを認識できるようにしました。自らの側にいるものばかりでは、その自らの姿を認識することはできない。ですから神様は、自我を持つものとして、人間を地上に降ろしたのです。
大本と直結している人間以外の生命は、例えば微生物のように無数に存在するものでも、個々がバラバラに働くのではなく、秩序をもってまるで全体がひとつの生き物であるかのように仕事をします。微生物から宇宙の星々に至るまで、個々に分かれた無数の存在の一つひとつに宇宙の大本の柱が立ち、全体が同じ秩序の下にネットワークを築いているのです。人間には、大本とつながることで、そのネットワークの中で自らに与えられたポジションをしっかりと担い、役割を果たすための気付きが常に与えられています。ところが近代になると、人間たちはそのことを忘れ、日々の中でまったく大本に意識を向けなくなり、自我が暴走し始めました。そして自我から湧き出す思いに囚われ、余分なことを起こすようになったのです。

自我というものは、現実の損得に関係なく、その状態に自らを保っておきたいという奇妙な願望の元に、自身を凝り固まった状態で固定しようとします。今の状態でい続けようとする自分が、もっと自由であるはずの自分の動きを止めてしまうのです。そこから次の段階へ進むためには、自我から自らを開放することが必要ですが、その次の段階へ進もうとすると、自我は意志を持ち、自らが次の段階へ行くことを阻止するのです。
そこには、真我とは別の、囚われのかたまりが存在しています。それは、自身のカルマが成長し、人格を持ったようなものであり、本来は個性であるものが、癖・性分として凝り固まり、コントロールを失った状態です。人間が自我を持ち、自我の暴走による自己コントロールを失った状態では、それが長年のうちにこびりついてかたまりのようになるのです。そしてそのカルマが人間から学習して自我を持ち、囚われのかたまりとなって人格を形成するのです。それは、生きている状態ならば生霊になります。そして仮に人間が昇天してもカルマだけが独り歩きし、存在を保ったまま、うようよと辺りを漂うようになるのです。それはまるでウィルスのように、生きている人間たちを汚染していきます。そういった存在が実際にいることを、私たちは知らなければなりません。

自らの人格がカルマを持つことにより、それがこびりついて、カルマそのものとしての人格を形成する。それが、自らの本来の美しい状態である真我と対等の存在となり、どちらを選ぶか、あなたに選択肢を迫るようなものとなります。その時に、あなたは主導権をどちらに託すのか。
カルマの人格に飲み込まれないためには、この世界の成り立ちを良く知り、大本に意識を向けることで自らの中心に一本の柱を立て、しっかりとした立ち位置を持つことです。現代社会に生きる人々の多くが、本来の人としての立ち位置を忘れ、その人々が創る社会や地球規模の矛盾が溢れている現実を観ればわかるように、この世界を創造した神様の意思を忘れれば、柱のない邪に流れることとなり、カルマが創り出した人格に取り込まれ、こういった現象に出会うことになるのです。
私は人に語りかける時に、カルマの人格ではなく、真我に向かって語りかけます。なぜならカルマの人格に語りかけたとしても、それは聞く耳を持たないからです。ですから、本来の聖なる人間としての真我へ向かい、目覚めるように語りかけます。そして内なる真我が目覚め、自らにこびりついたカルマと対峙した時、その人は自らの力でそれを切り離す作業を進めていくのです。

しかしその切り離された、人格化したカルマにも、癒しを与える必要があります。なぜならば、それもあなたを代表する人格であったからです。

ガンが現れるのは、そこにガンが現れるべき理由があるからです。それをただ「これは要らないものだ」と切り捨て、正常な体に戻れば良しとするのが、現代の医療です。しかしガンが現れるには、私たちの側に何かしらの原因があり、ガンはそれを伝えるためのメッセンジャーとしての役割を果たしたのですから、切り取られたガンにも「ガンさん、ありがとう。ご苦労様」と言って、ガン供養をする必要があります。
それと同じように、カルマに対しても、カルマ供養をする必要があります。カルマにはカルマの発生した理由があり、カルマはカルマのように、自らへの自我的執着を形成したのです。それを解体して収めてあげるためには、「役割ありがとう、ご苦労様」と言って、その存在の意味を認めてあげることです。そうすると、カルマはスルスルと解けていきます。
人間は、人生の中でカルマと対向発生することで現象化を起こし、役割を果たしています。カルマと対向発生するということは、そこに何かしらの目的があるということです。その目的を現象化し、役割を果たした時に、優れた人格は切り離したカルマへ「ありがとう」と伝え、自らが美しいものとなり次のステージを迎えるのです。カルマも、必要なものとして存在していたのです。

視野を広げてみれば、この世界の政治にしても経済にしても、これまであったものはすべて、時代の要請により発生し、人間の歩みと共に、その仕組みが表現されてきたのです。そして時代の要請により、人間が次のステージへと進む段階を迎えた今、私たちはこれまでの仕組みに「ありがとう」と言って、それを供養する。そうして初めて、次の仕組みへと意識が向かうのです。その心に目覚めた人々が、これからの新しい時代を進めていってくれることでしょう。

こういった次のステージへ向かうための話を聞く時に、カルマは自身が崩壊しないよう、その話を自らが受け入れられる情報だけにしてしまいます。すべてを受け入れては自身が崩壊してしまうから、まず自らを守ろうとするのです。つまり、次のステージへと行かないようにするのです。それが自我です。
だからこそこういった仕組みを学び、自我ではなく真我を育て、真我が自我にメスを入れられるようにするのです。そして手放したカルマに向かい、「カルマよ、ありがとう」と慰め、これまでの自分に「ご苦労さま。私は次のステージへ行くからね」と言って、新たなステージへと上がるのです。
そうすると、カルマは捨てられたのではなく、その人間が上へ登っていくための階段になります。その人間が成長し、進化していく物語の中に組み込まれるのですから、捨てられたものではなくなるのです。こうしてカルマも納得し、新たなステージへの踏み台となるのです。

そのようにして人生を歩み、振り返ってみると、「ああ、いろんなことがあって、いろんなカルマを通してここまで来たんだな」と、みんなを認められるようになります。それは、カルマの階段です。今のカルマに役割を果たしてもらい、それが、次のステージへ上がるための一歩となるのです。

カルマよ、ありがとう。