自分発、世の中を良くする人になって下さい ~ コロナワクチン接種の話から

木の花ファミリーでは、何か決めごとをする際に、常にみんなでその内容を共有し、全体の総意の下に物事を決定します。
現在、新型コロナウィルスのワクチン接種については、自身が媒体となって感染を拡大することを防ぐという社会的責任を果たす意味もあり、大人メンバーは全員がワクチンを接種することを決定し、順次接種を進めていますが、子ども達がどうするかについては保留となっていました。そんな中、同級生に感染者が発生した子どもから「ワクチンを接種したい」という声が上がり、ある日の子どもミーティング(毎晩夕食後に開かれる、子ども達がその日の出来事を大人を含めたみんなの前で発表する場)にて、改めて話をする時間が持たれました。
以下、その時のお話をご紹介します。


 

ジイジ:
今日は、みんなで大事なことを決定しなければなりません。そこでは、みんなの心が揃わないといけないですね。そこで今から、心が揃わないのはなぜか、という話をします。だから今日は、二つの話があります。

一つ目は、コロナワクチンのことです。ここでは、60歳以上の人はもうみんな2回接種しましたね。ジイジも2回打ちました。ワクチンを打ったからと言って、何か特別な症状があったわけではありません。60歳以下の人でも、ワクチンを打って何か症状が出た人はいますか?

まりねえ:
38℃の熱が出ました。

ジイジ:
それはまりねえちゃんの平熱だったりして。(みんな:笑)

みちよ:
私も平熱より2℃高い熱が出ました。

ジイジ:
それは、日頃のあなたの姿勢を見ていると、心が原因かもしれないね。とりあえず、そんなに大きな問題はなく接種が終わり、今は50代以下の人達が接種を進めています。

それで、今日の話は、20代より下の人達の接種をどうするかについてです。
ここでは、ジイジが話すことが決定ではありません。ジイジが話すことを強制する場ではないということです。ただ、大人については、基本的にみんな打つことにしました。それはなぜかと言うと、木の花ファミリーにはロータスランドというお店があり、たくさんの人が訪れます。そしてこの場所でも、こうしてたくさんの人たちが一緒に暮らしています。そこで感染者が一人出ると、クラスターとなって周りに広がっていく可能性があります。そして、こういう共同生活の場所で感染者を隔離することも、なかなか難しいのです。
ですから、そういった問題が起きないようにすること、そしてこのように大勢で暮らしている場所は特に気を付けなければならないという、社会的責任があることを考えました。みんなで共に生活する豊かな暮らしだからこそ、自分の家のためだけではなく、社会に対しても責任があるということを、大人達みんなで考えて、基本的には大人は全員ワクチンを打つことに決めました。ここまではわかるかな?

子ども達:
はーい!

ジイジ:
まずは大人が打ってみて、10代以下の人達については、どうするかを決めていませんでした。社会的責任という意味では大人よりちょっと軽いかな、でも大勢で暮らしているのだから打った方がいいのかな、と微妙なところです。
そこで、自分は打ってもいいと思っている人、打ちたくないと思っている人を確認したいと思います。正直に答えてください。打つか打たないかを決定するのか、それとも、それぞれのケースに合わせて対応するのかわかりませんが、まずはみんながどう思っているのかを確認したいと思います。打ってもいいと思う人!

(半数以上の子ども達が手を挙げる。)

ゆりか(中学生):
えー、注射痛いのに~。

子ども達:
そういう問題じゃないでしょ。

ジイジ:
じゃあ、やっぱりワクチンは打ちたくないなと思う人!

(数名が手を挙げる。)

ジイジ:
打ってもいいという人は、打ってもいいということだからとりあえず置いておいて、打ちたくないという人は、どういう理由があって打ちたくないのかな?

ゆうゆ(高校生):
「痛いから」っていうのは理由にならないからね。

ピッポ(小学2年年):
痛いからじゃなくて、ピッポはもともとコロナにはならないと思ってるから。

ジイジ:
なるほど、そういう理由ね。他には?はい、こうたろうくん。

こうたろう(小学1年生):
ワクチンを打つと動けなくなるから。

子ども達:
そんなことないから!

ジイジ:
それはどこで聞いたの?

こうたろう:
ようちゃん。

ジイジ:
じゃあ、ようちゃんは何を根拠にして、そういうことをこうたろうに伝えましたか?

ゆりか:
ワクチンを打ったら、痛くて腕が動かせなくなったってようちゃんが言ってたんだって。

ジイジ:
前に、ようちゃんは他の人にも、コロナワクチンを打つとみんな5年後に死ぬと言ってました。

子ども達:
えーっ!(笑)

ゆうとう(中学生):
それって、ただワクチンを打たせたくないだけじゃないの?

ジイジ:
もしもそうなら、5年後に日本はなくなるね。(みんな:笑)

ようちゃん(大人):
昨日ワクチンを打って、腕が上がらなくなったってこうたろうに言ったね。

ジイジ:
今も動かないの?

ようちゃん:
今日は大丈夫です。こうたろう、もう治ったからね。

ジイジ:
こうたろうは、この話を聞いてどう思いますか?

こうたろう:
腕が動かなくなったって。

ゆりか:
ずっと動かないわけじゃないんだよ。

ゆうとう:
動かないっていうか、腕が上がりにくいってことでしょ。

ジイジ:
こうたろうは、それを聞いたからワクチンを打ちたくないの?

こうたろう:
そう。

ジイジ:
今の話は、この後の話につながる話です。この話をよく覚えておいてください。
ようちゃんがこうたろうに伝えたことと、それを聞いてこうたろうが受け取ったことは、一緒だったのか、違っていたのか。そこにズレがあるかどうか。実際にようちゃんの中に、なるべくワクチンを打たせないような情報を流す意思があったのか。それとも、そんなつもりはなくて、ただちょっと腕が上がらくなっちゃったと言ったことが、こうたろうの中では「一生腕が動かない」という話になっていったのか。そこは重要なところです。
他にワクチンを打ちたくない人は、どんな理由がありますか?(子ども達がパッと答えないのを見て)あのね、「打ってもいい」という人は、打ってもいいわけだから、理由はどうであってもいいんだよ。だけど「打ちたくない」という人には、その理由を聞いて、それを尊重するべきかどうかをみんなで考える必要があるでしょう?

なり(中学生):
うちでは、ジイジが作ってくれたレンコンとか栄養のあるものを食べてるし、たぶん免疫力があると思うから、別にワクチンを打たなくてもいいと思った。

ジイジ:
うちのレンコンを食べるとコロナにかからないという理由は、どこから持ってきたの?

なり:
コロナにはかかるけど・・・(みんな:笑)

ジイジ:
あのね、大人たちが社会的責任としてワクチンを打とうと決めたのは、自分がかかるかかからないかではなく、かかった場合にそれを他の人にうつすことがあるから、その責任を考えようということで決めました。自分は免疫力があるから、かかっても大して重症化しないから大丈夫、ということだと、自分がかかって他の人にうつしてもいいという話になるんだよ。それについて、どう思う?

なり:
人にうつしたら、いろんな人が困るから、人にうつしていいということじゃない。自分一人だったらいいけど、他の人のことを考えたら、打った方がいいと思いました。

ジイジ:
ジイジは、打つ方向に誘導しているわけではなく、今の打たないことの理由について話してるんだよ。そういう理由の元にある心について、考えなきゃいけないねということです。
はい、他に打たないと言った人の理由は?

あまの(保育園児):
5年後に死んだらいやだから。

ジイジ:
そういう怪情報を流した人がいるんだよね。「それは違うでしょう」という話をしても、「えー、ようちゃんがそう言ってたよ」という噂がいろんな所へ広まっていくと、消しても消してもその情報が一人歩きしていくんだよ。これはすごく大事な話だよ。
はい、他の人はどうですか?

なお(中学生):
打ったら運動がしにくいということと、熱とかが出たらイヤだから。

ジイジ:
それは自分のためということ?さっき、なりに話したことについてはどう思う?

なお:
それだったら、打てばいいかな。

ジイジ:
だから、前の人の話をきちんと聞いておいて、後の人はそれを受けて「そういう理由があるのか、じゃあこうしよう」と繋げていかないと、いちいち同じ話を繰り返さなければならなくなるよ。前の話をしっかり聞いて、そこに自分を乗せていけば、話はとてもスムーズに進みます。これも後の話につながる話だよ。
他にはどうですか?はい、みのちゃん。

みの(高校生):
みのはどっちでもいいんだけど、できれば打ちたくなくて、理由はただ単に注射が苦手だから。あとは、病院に行くのがイヤなんだよね。

ジイジ:
なるほど。そういう個人的理由ね。
今はもうそういう段階ではなくなっていますが、ワクチン接種が始まった時に、まずはお年寄りから始めましょうということになったね。どうしてか知ってる?

子ども達:
重症化しやすいから!

ジイジ:
お年寄りが重症化しやすい理由として、基礎疾患と言って、高血圧や糖尿病など、もともと病気を持っている人が多いんだよ。そういった人は、コロナウィルスに感染すると重症化しやすい傾向があります。だからお年寄りから打つことになりましたが、まあ、少子高齢化ということから考えると、なるべくお年寄りには打たないで、高齢で病気の人から旅立っていただいた方が、国のためにはなるかもしれない。

バァズ(おばあちゃんメンバー)達:
たしかに!(笑)

ジイジ:
だけど日本はそういう国ではありません。命はなるべく長く生きた方がいい、その内容については問わない、という国ですから、高齢者から先にワクチンを打ってきました。
ところが、先日も、40歳でコロナに感染し重症化した男性の話がニュースで取り上げられていました。これまでは、30代や40代で感染しても重症化しないと言われていたのですが、最近はコロナウィルスも変異しています。変異ってわかるかな?人間がいろいろな勉強をして新しい取り組みをするのと同じように、ウィルスも、人間がワクチンを打ったりいろいろな対策をすると、そのワクチンが効かないようになったり、より感染しやすくなったりと変化していきます。人間は世界中でワクチンを打とうとしていますが、コロナウィルスもそれに対抗しようとしているのかはわかりませんが、ウィルスとはそういうものだということです。インフルエンザもどんどん変化して、前のワクチンが効かなくなっていくでしょう?
現代医療では多くの治療で抗生物質を使用しています。抗生物質は、体の中で悪さをするウィルスや菌を殺すものですが、これには問題もあって、悪い菌だけでなく、いい菌も殺してしまうのです。そして人間の体から、抵抗力を奪っていきます。それどころか、菌の方が抗生物質を学習し、抗生物質が効かない耐性菌がいろいろな所で広まっています。そして、近い将来に現代医療が機能しなくなる可能性があると言われています。ですから、世界は将来もっと不安定な状態になります。
その時に、さっきなりが言った話に繋がります。本当に薬が効かなくなった時に何ができるのかと言ったら、薬に頼るのではなく、自分が病気に対抗する力を持つことです。これを何と言いますか?

子ども達:
免疫力!

ジイジ:
レンコン力とか、葉っぱ力だね(笑)。自分の力で対抗して治っていく力を身に付けるということです。それは、ワクチンを打っても打たなくても、いつも心掛けておきたいことです。
幸いなことに、ここには免疫力を高めてくれる力を持った食べ物がたくさんあり、毎日食卓に出てきます。そして、それを買ってくれるお客さんのことも考えながら、大人は作物を作っています。それはとても大切なことです。
だけどもっと大切なのは、先ほどの話のように、何の根拠もない意味不明の噂が広まっていくことがあるでしょう?その時に、そういったよくわからない情報を聞いて、正しく判断できる力を身に付けることです。これを「心の免疫力」と言います。不確かな噂を聞いて「わあ、怖い」と自分の中でさらに膨らませていくと、意味なく自分や人を不安にさせていくことになります。これはとても重要なことです。それだけで人はパニックになっていくのです。実際に「注射が怖い」と言って、その気持ちだけで具合が悪くなってしまった人がいましたね。もっと冷静に、なぜこれが必要なのかということを考えることが大事なのです。意味不明なことを考え、さらに自分の中で膨らませていくと、さらに問題を引き起こす原因になります。

今、コロナワクチンは世界的に接種を進める傾向にあります。若い人達は免疫力があるから、お年寄りから進めようということになっていましたが、最近では若い人の中で感染が広がっています。NHKが取材した40歳の男性は、何も基礎疾患を持っていないのに感染して肺炎になり、2ヶ月間意識不明の状態だったそうです。その間、お医者さんはとても高度な機械を使って一生懸命治療を続けていました。その人は回復はしたものの、肺が潰れてしまい、今も苦しさが続いて、もう元のように運動をすることはできないそうです。お年寄りは後遺症が残っても、もうそんなに未来がありませんから(冗談です。笑)いいのですが、若い人はこれから未来があるのですから、後遺症が残ると大変です。これまで若い人達は、自分はかからないから大丈夫、と言っていましたが、そうではない状況になってきているということです。
これは、説得をしているのではありません。そういったことを考えた上で、今どうするべきかを考えるということです。ここの子ども達のワクチン接種をどうしようか、と聞かれても、ジイジが答えを出すことはできません。一人ひとりの考えを聞いて、そしてみんなで決定をしようと思いました。それがこの場所です。「自分はコロナにはかからないから打たない」という選択肢もあるでしょう。確かに、みんながかかるとは限りません。でも、かかってしまった時に、いろんなリスクがあるということです。

大人達は、みんな打とうということに決まりました。そこで、今度は大人の人達に聞きます。ここの子ども達はどうするのが良いかについて、大人達はどう考えますか。はい、ワクチンを打たなくてもいいと思う人。

(誰も手を挙げない。)

では、本人が打ちたくないという場合は、打たなくてもいいと思う人。

(21人が手を挙げる。)

打った方がいいと思う人。

(26人が手を挙げる。)

みかこ(大人):
どちらでもいいという人もいるね。

ジイジ:
これが大人の人達の考えです。「打った方がいい」という人が、少し多いですね。
では、「打たなくていい」という人はその理由を教えてください。

ピッピ(大人):
さっき子ども達に確認した時に、ほとんどの子が「打ってもいい」という考えだったから、打たない子が多少いてもあまり影響ないかなと思いました。

ジイジ:
だけどね、「打たない」という人は、それはそれで認めても、社会的責任ということから考えたら、感染して人にうつさないよう、注意してもらう必要はあるよ。

ピッピ:
もう一つは、ワクチンについてまだわからないところがあるから。でも、大人に関しては、わからないから打った方がいいと思いました。

ジイジ:
では、「打った方がいい」と思う人の中で、代表して意見を言える人はいますか?

あや(大人):
私達は、こうやってみんなで一緒に暮らしていて、子ども達も外でいろんな人に会うでしょう?だから、できるだけ危険なことは避けた方がいいと思いました。

みの:
具体的に、どこがどう危険なの?

ジイジ:
危険というのは、一人がここへウィルスを持ってくると、ここはたくさんの人が暮らしているから、一気に広がってクラスターになるということです。濃厚接触者ということになれば、自分は陰性でも隔離されなければなりません。つまり、全員隔離が必要になるということです。

みんな:
不可能だね~~。

ゆりか:
ワクチンを打ったら、コロナにはかからなくなるの?

ジイジ:
ワクチンを打って感染しなくなる確率は、95%と言われています。だから、ワクチンを打っても20人に1人は感染する可能性があるということです。それから、感染しても重症化しにくいと言われていますが、感染すれば人にうつす可能性はあります。つまり、ワクチンを打てば絶対に大丈夫ということではないので、ワクチン接種を勧めている日本政府も、ワクチンを打てば何をしてもいいということではなく、引き続き注意して日常生活を送ってほしいと呼びかけています。それは、打つ人も打たない人も、誰であっても、社会的責任というものがあるということです。それは、「自分は健康だからいい」という話ではありません。ここまで感染が拡大した今は、みんなに社会的責任が問われているのです。
その上で、今日の結論をどうするか。多数決でいくと、子ども達はみんな打った方がいいということになりますが、その結論はつまらないでしょう?

ゆうとう:
つまらない!

ジイジ:
だから、みんな打って5年後に死ぬのはどう?(みんな:笑)
ではもう一度、大人と子ども全員に聞きます。打つか打たないかは本人の意志で決めればいいと思う人。

(37人が手を挙げる。)

では、子ども達も全員打った方がいいと思う人。

(35人が手を挙げる。)

では、本人の希望で、打ちたくない人は打たなくていいことにします。

(子ども数名が拍手をする。)

そんなふうに、喜ぶことではありませんよ。ここで次の問題があります。それは、打っても打たなくても、社会的責任は常にあるということです。
「自分だけ良ければいい」という話ではありません。そして、いい加減な情報を流してもいけません。
打つ人は、「なぜ打つのか」ということを自分の中でしっかりと考えて、その責任を果たすために打ってください。打たない人は、自分の意志で打たないのですから、その分毎日の生活をしっかりと気を付けて送る必要があります。打つ人もそうですが、打たない人は打つ人よりももっと気を付けて、自分から人にうつさないようにする。そして、人からももらわない。それを、責任を持ってやってください。そのことを、いつも考えていられるかどうか。
もしも誰か一人でもかかったら、ここでは全員が濃厚接触者になります。自分は陰性であったとしても、14日間は隔離しなければなりません。ここでは、個人の意志を尊重します。その個人の意志を託された人は、自分が全体のことを託されたのだということを、しっかり考えて行動しなければいけないということです。いい加減な行動はできないのです。それはワクチンを打たないからということではなく、周りの人に対する責任を果たすということです。そういったことを考えて行動するようにしてください。
ここではロータスランドも運営しており、いろいろなお客さんと出会います。大人達はその責任を考えて、打つことを決定しました。自分が他の人にうつす可能性がない立場にいる人、他の人と関わらない人ならば、「私は打たない」ということでもいいでしょう。個性的な生き方は尊重されて良いのですから。しかし、その個性が人に迷惑をかけたり、不安を与えるとしたら、社会人としての責任を取らなければいけません。

そこでもう一つ、みんなに話したいことがあります。
ジイジは、人の心というものをずっと観てきました。この間は、4人の子ども達を呼んで話をしました。この4人はなぜ呼ばれたかというと、日頃の言葉遣いが悪かったり、友達に乱暴な振る舞いをしたりしたからです。その中の1人は、ジイジが話をした後も、また悪い言葉を使ったので、今度は叱りました。
本人は、「悪い言葉を使おう」と努力しているわけではありません。本人に聞くと、「自然に出てくる」と言うのです。つまり、自然に悪い言葉が出たり、人が嫌がることをするような人になっているということです。みんなはこれをどう思いますか?

子ども達:
よくないと思う。

ジイジ:
よくないと言っても、他にもそういう人がいるでしょう?だからジイジは本人を呼んで、今からそういう状態でどうするのか、という話をしました。そこでは、あなたの心の状態はこういうことだよ、という話をします。前はこういう状態で、今はこうなってるよ、ということを話します。そして、さらに先へ行くとこうなるよ、という話をします。
よく、小学生のうちはまだ親の方が力関係が強いので抑えられていても、大きくなると親の方が怖がってしまって、伝えられなくなるという話があります。極端になると、子どもが親を脅したり、逆に「こんな子を世の中に生かしておけない」と親が子どもを殺してしまうようなこともあったでしょう?親から離れて好き勝手に振舞い、暴走族になったりする人もいます。それは、本人達もそれで良いとは思っていないのです。でもなぜかわからないけれど、そういった場所に心が合うので、そうなっていくのです。
ここでも、最近小さい子ども達が悪い言葉を使うことがあると聞きます。どうしてそうなったかわかりますか?それは、上の子達が使うからです。使っている本人にどうしてそういう言葉を使うのかと聞くと、「何でだかわからないけど、そういう風に言ってしまう」ということでした。そして何回注意しても、また同じことをやるのです。これは、深刻な話です。そうしてその人の人格、心がつくられていくのです。
そこでジイジは、本人の親を呼んで話をしました。子どもというのは、お父さんの遺伝子と、お母さんの遺伝子を受け継いで生まれてきます。ジイジはこれまでたくさんの人の相談に乗ってきましたが、話を聞いていると、その問題のルーツが観えてきます。それは、その問題の本人だけではなく、家ごと解決する必要があるケースがたくさんあることです。その時に大切なのは、本人が問題に気付いたなら、まずは自分から解決することです。

自分が問題を解決すると、今度は自分が子どもに遺伝子を受け渡す時に、子どもに悪いものが行かなくなります。そして自分自身も、問題を解決したのだから、良い人として生きることができます。さらにもう一つ。その問題点が、自分の親や、そのまた先祖からずーっとつながって自分に来ているとしたら、自分がその問題からしっかり学んで、優れた人になることは、昔の人たちが個性的な人生を生きて自分につないでくれたお陰で自分は気付くことができたのだ、ということにもなり、その問題のお陰で学ぶことができました、ありがとう、と、昔の人達の問題も、良いことに変わるのです。つまり、昔も、今も良いこととなり、そして未来の子ども達にも、良いものを与えることができるということです。
ここはポイントです。もしも今、その問題ごとから学ばずに、そのまま先へ進むと、「あそこの家の子だからね、やっぱりそうだね」ということになります。そしてその人が将来パートナーを見つけて子どもをもうけると、「やっぱりあの家の子どもは、親のようになったね」ということになります。
今、悪い言葉を使ったり乱暴をしている子ども達は、今はまだ子どものしたことのように思っているかもしれませんが、そのまま大きくなると、校内暴力になったり、警察沙汰になったり、誰かをいじめて相手が自殺するなどということが、世の中にはたくさんあります。そうしたら、一生償わなければいけません。自分だけでなく、相手の一生も取り返しのつかないことになり、自分の家族も「あそこの家の子は」と周囲から言われるようになります。ここの子は「あそこの家の子は」ではなく、「木の花の子は」という話になり、ここの全員にそれがかかってくるのです。
これは、さっきのワクチンの話と同じです。自分が打ちたくないということは認めます。しかし、自分の立場というものを考えたら、それを認めてもらった分、打つ人も日常生活には気を付けなければいけませんが、打たない人はなおさら、打つ人よりもさらに真剣に考えなければいけません。そして、人にうつさない。そういうことをしっかりやっていかなければいけない。それが、その人が生きていく上での責任ということです。

これは、最低限の話です。気に入らないから悪い言葉を使った、というようなことでは、だんだん済まされない話になっていくのです。今はまだ済まされているから、この話で終わっていますが、そういった姿勢を今のうちに正していかないと、将来済まされなくなっていくということです。心の持ち方がいい加減だと、思わぬことに出くわすことがあります。そのようなことを引き起こす心を持たないようにすることが、責任ある人の生き方です。それは本来、人として当然のことです。
ジイジも子どもの頃に、嘘をついたり、「大人には内緒だよ」「誰々には言っちゃダメだよ」という秘密を持っていました。よくあるでしょう?それは、隠しておきたいことがあるということです。でもね、隠しておきたいことが多ければ多いほど、今のような問題につながっていくことになります。こんなに大勢で暮らしていても、みんなが自分の中にあるものを正直に出して、これについてどう思う?と、常に正直に話し合える場所を創ったら、この場所に良い風が吹いて、「あそこは気持ちのいい場所だね」という所になるでしょう。しかしどうしてなのか、人は隠そうとするのです。ジイジはね、きちんとした毎日を送って、責任ある行動を取っていたら、子ども達がゲームをやるのもいいと思うんだよ。ところが、隠れてゲームをやろうとする子がいるでしょう?
隠れてやると、簡単に中毒になります。それは、隠しておくことは病的な心だからです。心が病気を創るのです。今の世の中には、心の病気を持つ人がたくさんいます。精神疾患を持つ人は、日本全体で400万人と言われています。そしてその10倍が、予備軍といって、精神疾患になる可能性があるというのです。そうすると、日本人の3人に1人が心の問題を持っていることになります。大変な数ですね。

それで、さっきの話に戻ります。インターネットには、いい加減な話が溢れています。そしてそのいい加減な話が、「そうなんだ」「そうだよね」と確かではないのに広がっていきます。それが誰から出てきたのかわからないのに「そういうことらしいよ」という話が「そうだよ」ということになって、真実になっていくのです。ジイジは、どんな人の話でも必ず「それはどこから聞いたんだ?確かなことか?」と確認します。それは疑っているのではなく、確かな話ならいいけれど、確かでなければ、自分から世の中を混乱させる元をつくっていることになります。人の迷惑を広げているのです。
そう考えたら、いい加減なことは言えません。そしてワクチンを打たないとしたら、いい加減な生活をしてはいけません。ワクチンを打ったとしても、効果は100%ではないのですから、やはりいい加減な生活をしてはいけないのです。それは、社会のためにも、自分のためにもそうするということです。そういったけじめのある意識を持つことが大切です。
今、この場所で子ども達の後ろにいる大人達は、そんな風に親から言われなかったでしょう?だからいい加減な人になるのです。その悪いクセを、大人になってから取るのは大変です。
子ども達は、今それを取るチャンスをもらっています。小さいうちにそれをやると、早く取れます。大きくなると面倒です。自分の理由を言うようになるからです。今は、そんなことをしてはダメだよと伝えれば、「そうだね」とすぐにわかりますが、大きくなると、自分の理由をたくさん並べるようになります。

心が、この世界を創っています。いい加減な心を持っていると、いい加減な人間関係、いい加減な世の中ができます。だから、その元の心がいい加減ではいけないのです。
今の世の中では、そのいい加減さが分析できなくなっています。そして大人が、いい加減なことをたくさん言いふらします。そして子ども同士でも、すぐに隠し事をする。「言わないでね」と隠し事にしていることが、問題となって独り歩きをするようになるのです。
そこのところをとことん自分に言い聞かせてやらないと、染みついてからでは本当に取れなくなります。そして今のような、混乱した世の中ができてしまうので、子ども達とこういった話をするべきだと思いました。今なら、子ども達はそれを広げる側から、やめさせる側になれるだろうと思うからです。
コロナウィルス対策についても、いい加減なことではいけません。責任ある行動を取りましょう。みんな、1人で生きているのではないのだから。

毎日の子どもミーティングで、ただその日の出来事を報告するだけでなく、自分はいけないと思うことをやりました、ということが言えるようになったら、この人は自らを正す道を歩み出した、ということです。それは、良い人生を生きることになります。そして、周りの人にとっても良いことをもたらす人になります。
自分発、良い場所ができるように。自分発で悪いことを起こすのではなく、自分発、良いことが起きるように。それを心がけてください。そうしたら、相手発、悪いことに対しても、「それはいけないよ」と言ってあげられる人になります。自分発、良いことをし、相手発、悪いことに対しても「それは良くないよ」と言ってあげられるようになったら、自分発、世の中を良くする人になります。それが大事です。
今は、そういうことを誰もしません。これからは、それがとても必要になる時代が来ます。これは大人も子どもも関係なく、世の中を創っている人はみんなそのように生きるということです。
ワクチンについても、大切なことですからよく考えて判断し、そして判断したことで自分の責任をきちんと果たしてください。

 

 


人の心の夜明けです ~ 124年ぶりの立春正月の日に、マツリの精神と共に

木の花ファミリーでは毎年立春前に「富士浅間木の花祭り」を開催します。祭りを通し、一年間の穢れを祓い清め、生まれ清まった新たな心で農事暦の始まりである立春正月を祝います。この立春正月祭の場で、ジイジは以下のように語りました。


 

立春正月、明けましておめでとうございます。

今日は、富士浅間木の花祭りの締め括りとなる立春正月祭であり、農の新たな一年の始まりの日でもあります。例年、立春正月は2月4日ですが、今年は2月3日で、それは124年ぶりだそうです。人間は美しく生きると、124歳まで生きるという話を聞いたことがあります。現代の日本の平均寿命が約80歳ということは、まだ修行が足りないということでしょうね。
神の一息は、吸って60年、吐いて60年、合わせて120年と言います。この124年という期間とほぼ同じサイクルです。宇宙的には、太陽系の中で太陽の次に大きな質量を持つ木星が太陽を1周する周期が、12年です。その次に大きな土星の周期は30年で、木星と土星は、太陽と一直線に並ぶ「結び」の会合を60年ごとに持ちます。それが2回で120年です。120年と124年の4年の誤差は、宇宙の遊びと言えるでしょう。さらに、冥王星の周期は248年で、ちょうど124年の2倍です。これは、天体の「トキ」の話です。

今回の立春が124年ぶりというのは、一体どういうことなのでしょう。天体が時を刻むことは、地球が1年365日をかけて太陽を回ることに示されます。しかし、ぴったり365日ではありません。1日も24時間と言いますが、ぴったり24時間ではありません。そこには常に誤差があり、その誤差を調整するために、今回は124年ぶりの立春となったのです。つまり、そこには遊びがあるのです。
これにはどんな意味があるのだろうと考えた時に、その遊んでいたものをもう一度元の位置に戻し、襟を正していきなさい、という意味でもあるのだと思いました。
124年前というと、明治30年です。先ほど祭主が祝詞を奏上しましたが、その中の「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」とは、艮の金神のことです。神の一息が120年であるとしたら、大本の出口なおさんに神様がかかり「この世の中をたて直す」と宣言をされてからちょうど一息を経て、いよいよ始まるぞ、という時に来たのだろうと思います。そこで、富士浅間木の花祭りは今年で九回目を迎え、転がり出て(コ)、いよいよこれから十、次の「統合(ト)」へ向けての生活が始まります。

花祭りの起源は、700年前とも800年前とも云われます。ちょうどその頃、日本では封建時代が始まりました。戦乱の時代の始まりです。人の土地を奪い、支配することが成功者であると称えられたのです。そして江戸時代を経て、明治になり開国をすると富国強兵を打ち出し、また他者の土地へ侵略することを始め、その結果大きな戦争をすることになりました。世界中がそのような時代でした。その大戦が終わり、75年が経ちました。
年が明け、2021年の始まりにあたり世の中を見渡してみれば、新型コロナウィルスが蔓延し、人々は不自由な生活を送っています。そこにはたくさんのメッセージが隠れていることを思うと、やはり「襟を正していけ」ということだと思うのです。身の回りに起こる小さな物事をよく観て、自らのことだけではなく、世の中全体の在り方を振り返り、正して行け、という区切りのメッセージが、今年の立春正月には示されているのだろうと思いました。

「マツリ」の精神とは、ある特定の日を特別な一日として神様と接するのではありません。神とは、「カ」即ち宇宙最極小微粒子が、「ミ」即ち満つっている状態、つまり、すべての現象宇宙に顕れている物理性と、その背後にある仕組みのことを指して呼ぶのです。ご利益を求め「いいことが起きますように」と怠け心で願いをかけるものではなく、日々の生き方を正し、道理の通った生き方をすることにより、災難のない豊かで調和的な世界を創ることになるのですから、ご利益は私たち自身の生き方にかかっているということです。なぜなら、私たち自身も「カ」が満つって現象化した、宇宙の法則の顕れそのものだからです。
この祭りを一年に一度行うのは、そのことを襟を正して考え直し、祭りが終わってからも一年を通してその精神を生きなさい、ということです。そして一年が経ったら、その結果を祭りに顕し、そこから自らの姿勢を振り返り、また新たな心で次の新しい一年へ向かいなさい、ということです。ということは、マツリとは特定の一日を示すことではなく、一年中マツリなさい、と示されているのです。
そもそもマツリとは、政(マツリゴト)と言い、世の中を運営することです。そこでは、私人ではなく公人として一年を生き、自らが生きたことが世の中に良い形で反映されることを目的としているのです。それが本当の人の在り方です。
今の世の中は「自分さえ良ければいい」どころか、皆でこぞって地球の仕組みを乱し、環境破壊による温暖化のような問題を引き起こし、さらに人間の間では争いが絶えません。現代の日本には戦争がないと言われますが、莫大なお金が軍事費に費やされています。そして日本の産業は、世界の他の国々で行われている戦争の軍備に貢献しています。まだまだ争いの種を創り続けている人間の営みを考えると、124年の区切りをもって襟を正せと示されていることは、本当のことだと思うのです。一年365日をマツリの精神で生きるということは、それが普通になれば、何も特定の日に襟を正す必要はなくなるでしょう。そういった心が人々の中に芽生えれば、世の中は必ず豊かで平和な世界になります。

私たちは、この世界に生まれました。生まれる時は、天から降りてくると言います。作物は土から芽吹いてきますね。その土から芽吹いてくるものは、太陽の光が注ぎ、その循環の仕組みの中で育ち、私たちに土のエネルギーが与えられるようになっています。土のエネルギーとは、地球神である金神様のエネルギーですから、私たちは金神様のエネルギーをいただき、生きることを与えられているのです。そしてそれにふさわしい生き方をした時に、私たちは誇りをもって次へと旅立つことになり、天へ昇っていくのです。
天に昇ると、次にまた役割ができた時に降りてきます。ところが、この世の仕組みに囚われ、上を見ずに「何かいいものは落ちてないか」と下ばかりを見ている者は、魂になっても天に昇ることができません。そのような魂がたくさんいます。人間だけではなく、人間の営みの犠牲となった他の生き物の魂まで天に昇れなくなっているのです。そのような心の乱れ、魂の汚れが、この世の中の混乱を創っています。
だからこそ、そのことに気付き、世の中を美しくする。自分が生きた結果、世の中が美しくなる。お陰様で自分は世界を美しくすることに少しは役に立てた、と自らに合格をあげられるようになった時に、誇りをもって天に昇っていけるのです。体という質量をこの世界の自然循環の中にお返しし、囚われのない心であれば、魂は軽いですから自ずと天へ昇っていくのです。
しかし、昇れない魂もいます。それは、人間が自我を与えられ、心を美しくしてこの世界の循環に貢献する役割をいただいてきたのに、そういったことを忘れ、怠っているからです。今また、新たな124年の節目が来ました。そして、金神様は乱れた世の中を正すと言って出てこられました。僕もこれまで、一体いつになったら本当の世直しが始まるのだろう、もう命が続かない、と思っていましたが、いよいよそういう時が来たのです。

先日、富士浅間木の花祭りの祭事を行い、その締めくくりとなる神返しの神事を行った際、僕は祭主にある注文をしました。祭事の前には、神寄せの神事を行いました。しかし祭事を行うのに、神様に「降りてきてください」と言うのはおかしい。なぜなら、神様はそもそも、いつでも万物に遍満しておられるのです。それを、今日だけ降りてきてくださいと言うのはおかしいでしょう。この世界のすべてが神の物理性の顕れであるのに、降りてきてくださいと言うことは、日頃神様と共にある意識がないということです。さらに、祭事の後に「ありがとうございました。どうぞお帰りください」と神返しをするようでは、一日だけ一緒にいて、残りの364日は神様と共に生きていないということになります。
ですから僕は祭主に、神返しをすることはやめましょうと提案しました。これまでは、どこでも同じことをやっていました。それは、神というこの世界の物理性の中に遍満し、常に私たちと共にある存在から、人々の心が離れていたからです。この124年の区切りをもって、私たちはそのことを意識し、毎日を生きていきます。
そうすると、宗教はなくなるでしょう。都合の良い時だけご利益を願うことはなくなり、毎日の物理性の中で、そこに循環している尊い仕組みのもとに自らが生かされていることを感じ、その意識で、この世界を運営していく側になるのです。それは「大学に合格しますように」とか「宝くじに当たりますように」といった自分の都合で願いをかけることとは違います。
現代の人々は、神社で2回手を叩きます。本当は4回叩くものですが、それを半分だけやるということは、本当の半分、つまり、ご利益だけが欲しいということになります。なぜ本当は4回叩くのでしょうか。2本の手で4回叩くと、合わせて八つになります。それは八方が安定する、即ち本来すべきことをきちんと行い、道理に適った利益をいただいて、幸せに生きていくということです。四(し)を合わせるのですから、しあわせです。

こういったことが、僕の中に浮かんできます。その時に、これは夜明けだ、と思いました。何の夜明けかというと、天体の区切りの夜明けでもありますが、人の心の夜明けです。
夜明けには何をしますか?そう、目を覚ましますね。目を覚ますと言っても、この肉の目は毎日覚めています。そこで覚めるのは、心の目です。これからの時代は、人の心の目が覚めるのです。

その時が来たのだと思うと、たくさん話がしたくなります。しかし地上には地上の都合がありますから、そういうわけにはいきません。今日という節目をもって私たちは先へ進みますが、これからは心の目を覚まし、その目覚めた状態で毎日を送るようにしたいものだと思います。
今、気持ちはとても晴れやかです。その割には(涙をぬぐいながら)雨が降っていますけどね。この不可思議な人生をいただき、これは一体何なのだろうと思いながら生きてきましたが、いよいよ扉が開いたことを今年は特に感じます。扉が開き、目覚めた人たちは、その大事を生き切ることです。
今日は、去年植えた桑の木の剪定をしました。苗木をとるために、「とり木」と言って枝の一部を土の中に埋めて上から抑え、そこから根を出させるようにしていたのですが、今日掘り起こしてみたら、まったく根が出ていませんでした(笑)。そこで思ったのは、予定が外れたということではなく、自分の思いが必ず叶うとは限らないからこそ、叶わなかった時には次のことを考える。そうすると、頭を使い、智恵が湧く。桑の木に根が出ていなければ、枝を切って挿し木にすれば苗は取れるのですから、何も問題はないのです。(実はその次の日に別の種類の桑の木のとり木を掘り起こしてみたら、根がたくさん出ていて、これについては予定通りでした。笑)
何かが起きた時に、予定が狂ったと捉えるとがっかりして嫌になりますが、そうではなく、そこから違ったことを考えるきっかけと捉えると、どんなことでも新しい取り組みを始めるチャンスとして生かすことができます。生きるとはそういうことです。そうやって私たちは育てられているのです。

天体の動きと共に、世の中は確実に時代を刻んでいます。すべての現象はトキ軸を柱として巡っていきます。ただ欲のままに生き、ストレスを溜めてそれを解消するために暴飲暴食をし経済を大きくするなど、余計なことをたくさん行って体の中に矛盾を溜め込み、病気になるような生き方が、世の中には蔓延しています。今の世の中は豊かになったはずなのに矛盾だらけで、問題だけがどんどん膨らんでいくのです。
そういった無駄を行わず、本当に必要なことを相応しく行い、皆がシンプルな豊かさで生きれば、地球の資源を無駄遣いすることもなくなるでしょう。そうすると、いろいろなことが好循環になります。今は好循環ではないのです。それが好循環に転じた時、いよいよ宇宙の星々が何億年も何百億年も運営されてきたのと同じように、地球にも無限の世界が生まれることでしょう。
今日は、私たちがそのことに目覚める区切りの日です。124年ぶりのメッセージを受け取り、心はとても晴れやかです。しかし一人で晴れやかになっていても仕方ありません。皆で和やかにそういった日々を送り、世の中へ広げていきましょう。世の中がどんどん難しくなっていくようなことでは、本当に求められるマツリの精神で生きることとは違うのです。だからこそ気付いた者たちは、それをやり切る。その動きは小さいですが、その響きはこれから、世界中どころか宇宙中へと響き渡ることでしょう。

僕は今、宇宙の響きをいただいてこの話をしています。それは、天地一体の世界を築くということです。我々は太陽の光をいただいて命があるのですから、まず始めに天があります。その光を受けて地上に食べ物ができ、それをいただいて、その循環の中で地球に命が表現されるのです。その物理性を本当の豊かさとして顕す、その自覚をもっていきたいと思っています。
今から、お神酒で乾杯をします。ここのお神酒はアルコール度数がありません。それは、お酒で酔っ払っていくのではなく、飲む点滴と言われるほど滋養のあるお神酒をいただき、本当に健康で豊かに、そして正気で、時代を生きていこうということです。正気でなければ、本当は創れないのです。
「カ」が満つって(ミ)現象化することを神と言います。人間も、他のどんなものも、「カ」が満つって存在しています。我々がめでたいと思う心も、乾杯をしてお神酒を飲むことも、すべては「カ」が満つった現象がそれを味わっているということであり、味わうことで神様と直会(なおらい)をしているのです。

立春正月を迎え、これから新たな農の一年が始まります。124年ぶりの地球規模の新しい門出を祝い、魂からの目覚めとして日々を生きていくことを、皆さん、どうぞよろしくお願いします。おめでとうございます。乾杯!

 

 


地球の新たな再生を宣言します ~ 2020年7月26日マヤ新年の日に

7月26日はマヤの新年です。木の花ファミリーでは、2014年7月26日にメキシコの太陽マヤ族最高司祭・尊母ナー・キン氏らと共に地球の新たな時代の幕開けを祝うセレモニーを行って以来、太陽マヤ族の人々との連携のもと、毎年7月26日にセレモニーを開催しています。

2014年の太陽マヤ族との合同セレモニーより

2020年は、カタカムナ第5首、第6首、アマウツシミチ、そしてカタカムナ第63首を奏上しました。

カタカムナ第63首は、宇宙のヘリに満ち満ちている、世界に現象化をもたらす創造エネルギー(カムミ)を、私達の胸に収めることによって圧縮し、質的転換を起こし、心に乗せて世界に発することで、世界の事象を正常化して元気にする歌です。2014年の太陽マヤ族との合同セレモニーで木の花ファミリーが奏上して以来、毎年太陽マヤ族が世界に向けて発信するセレモニー・ガイドでも、各地で行われるセレモニーをこの歌で締めくくることが推奨されています。

この日、会場であるおひさまハウスひまわりの周辺は、朝からスコールのような雨が降り続いていました。そしてセレモニーの最後に、ジイジは以下の挨拶をしました。

 

地球の新たな再生を宣言します
 
~ 2020年7月26日 マヤ新年の日に ~

今日は、2020年の7月26日です。この時をマヤの新年の儀式で迎えられることは、とても意味深いと感じています。私達が初めてマヤの人々と出会ったのは、2014年です。世界の平和を祈るということで、マヤの皆さんがこの富士山麓を訪れ、私達と共にセレモニーを行いました。

私たちが住んでいる地球は、宇宙の中にあります。その、宇宙の中にあるということを認識して生きている人々が、今の地球上にどれほどいるでしょうか。ほとんどの人は自らの自我に囚われ、カルマのままに生きているのが現状でしょう。その証として、人間の地球上での活動は、地球の生態系、即ち宇宙の大調和を乱し、今現在、今日この日も、日本中で大量の雨が降っています。今年は観測史上まれに見る長雨となっていることは、人間の行いの結果を示しています。さらに、新型コロナウィルスによる感染症が世界中に蔓延しています。私達人間は、自分たちの幸せや、より良い社会を築くことを願って活動をしているはずですが、その結果として、自然から、つまり天から、このような現状をもらっているという事実を認識しなければなりません。

2012年12月21日に、太陽の1螺旋である25800年ぶりの銀河の冬至を迎えました。私達が毎年地球上で出会う冬至も、1年で最も太陽の光が少ない時です。それは、新しい季節を迎えるためのけじめの時でもあります。
それに対し、銀河の冬至は、天の川銀河の中心であるセントラルサンから注ぐ霊的な光が、最も少ない時です。それが25800年ぶりに訪れました。そして、その反対側にあたる12900年前の銀河の夏至から霊的な光がどんどん少なくなっていき、今、霊的な闇のピークを迎えたのです。
私達がこの闇のピークへと加速度的に向かうきっかけとなったのが、銀河の夏至から銀河の冬至へと向かうちょうど中間地点にあたる、およそ6450年前の文明の発祥です。そこから近代文明へと向かうに従い、世界はどんどん闇を増していきました。

私達の文明というものは、世の中を発展させ、豊かで幸せな社会を創るものと思われてきました。その豊かで幸せになるための発展が、実は闇の時代を形成してきたのです。25800年ぶりの闇のピークを迎えた今、私達は自分たちが行ってきたことの実体を知る時に来ています。つまり、これまで自分たちが正しいと思いやってきたことが、実は闇の時代の中にあったのであり、銀河の冬至を越えた今、その闇を越えて光へと向かうターニングポイントを迎えたことを、私達人類は認識しなければなりません。これまで正しいとされてきたことを間違いとし、これから本当に光のピークへと向かうための光の意識を、私達は持たなければならないのです。
2012年12月21日に闇のピークを迎えてから、7年が経ちました。7は「質的転換」の数字です。そして今、8年目の2020年を迎え、時代は確実に質的転換しています。闇の奥を観て、真実に目覚め、私達が行うことがこの世界に光をもたらし、正しい循環の正常な地球へと戻していく。それが、私たち人間の中でもそのターニングポイントを認識する者達に託された、最も重要なことであると理解する時が今、来ているのです。

このマヤの儀式は、私たち人間一人ひとりに内在する尊い宇宙の精神を目覚めさせるものです。その光はどこから来るのかというと、銀河の中心であるセントラルサンから、私たちに常に降り注いでいます。そしてその光の種は、生命である私達の体の中に、既に根付いています。それを目覚めさせるのです。一人ひとりの目覚めによって、その種が芽吹くのです。
これまでのように、誰か特定の人がリードしていく時代は、終わりを迎えました。私達一人ひとりが自らの中に光の柱を立て、銀河の中心であるセントラルサンと呼応し、それが光の束となってこの世界を包んでいく。そういった意識に一人ひとりが目覚める時が来たのです。
それは、これまでのように個人の自我に溺れ、欲望によって自らの魂を濁らせ、その延長線上に幸せを求めてきた時代が終わりを迎えるということです。そして高く優れた意識に目覚めていく、そのきっかけに、私たち一人ひとりがなるのです。

私達がこの富士山麓の地に根付いてから、27年目に入りました。質的転換を迎え、様々な自然の変化や更に厳しい天変地異が訪れるであろう時に、マヤの人々と呼応し、地球上で最初に太陽が昇る国の霊地、富士の麓で、このセレモニーをスタートさせることは、とても重要なことです。
そういった自覚を一人ひとりがしっかりと自らの中に持ち、そして一人ひとりは独立しながら、地球生命生態系のように連携し、調和し、本当の美しい世界を創っていく。その始まりが今日、この富士山麓のセレモニーにて、宣言されます。そこに立ち会うということは、それだけの責任が、そういった立場の自覚を持つ私達にはあるということです。
この地球を包むウェーブの始まりのセレモニーにあたり、私達はその自覚を持ち、これから来るであろうたくさんの困難を乗り越えていく ———— それは苦しいことでもあるかもしれませんが、希望でもあるのです。その自覚の下に、地球を宇宙の法にふさわしい星へと切り替えていく生き方をしていきたいと思います。

今日この日の、この場所をもって、地球の新たな再生の道が始まったことを、ここに宣言致します。このマヤの新年を祝うセレモニーを提案して頂いた尊母ナー・キン、そしてマヤの人々に感謝すると共に、私達一人ひとりが宇宙と共にある銀河人であることの自覚を持って、どうぞ皆さん、共に歩んでいきましょう!

 

セレモニー終了後、スコールのような雨がピタリと止んで太陽の光がさしました

 


新型コロナウィルスは、やさしいメッセージ

現在、新型コロナウィルスの拡散により、世界各地でも日本でも異例の措置が取られる事態となっています。この状況を心配する海外の友人たちより木の花ファミリーへメッセージが届き、その中に「この事態をジイジはどのように捉えているのかを聞きたい」という声がありました。これに対し、ジイジは以下のように答えました。


新型コロナウィルスの登場は、劇に例えるなら、物語のクライマックスとなる役者の登場のように感じます。それは、その劇を観ている観客達や、劇を演じている登場人物達が待ち望んでいたものですが、皆それまで劇に浸りすぎていたので、それが待ち望んでいた人物の登場であることを忘れてしまっていたのです。
これは、新たな劇の進行の予言のようなものです。そこで私たちは、なぜそれが登場したのかを理解し、その登場したものに対して敬意を表すると同時に、今までその存在を忘れて敬意を表さずにいたことを振り返る必要があります。忘れていたことに対する振り返りをしなければ、敬意を表することはできないのです。

今回の新型ウィルスは、非常にデリケートな形で登場しました。これは明らかに、人類を滅亡へと追いやるような、過激なメッセージは持っていません。過激ではなく、とてもソフトな形で登場しましたが、目に見えないからこそ、人々は恐怖を感じています。では、その見えないものに対して何を恐怖に感じているかというと、これまで人間は自分たちの力で全ての出来事を克服できると思ってきましたが、それが通用しない事態が発生していることに恐怖を感じているのです。

本来、人類が存在すること、生命が生きることは、私たちの手の内にはありません。そのことを理解するために今回の出来事が起きていることに気付いたら、この出来事は、私たちが生きていることは、この世界を創造する大いなる存在との連携の元にあるのだという、生命としての本来の立ち位置へ、人間をいざなってくれることでしょう。そのように捉えれば、私たち人間は今、このささやかな投げかけを厳粛に受け止めていく姿勢が必要なのです。しかしながら現状は、各国の政府も、個人個人も、そのことに気付いている人はほとんどいません。このまま人間達が気付かなければ、第二弾、第三弾として、世界は単なるウィルスだけではなく、様々な環境の変化を起こし、人類にメッセージを与えることでしょう。

今大切なことは、この現象を私たちのこれまでの営みに対するメッセージとして受け取ること、そして生きることについての視点を根本的に転換する必要があり、そのための予告としてこの現象が起きていると捉えることではないかと考えます。そもそも人間は、この世界を創造した創造主ではなく、創造主によって生み出された創造物なのですから、創造主の側のルールに則り存在するべきであり、もう一度そこへ立ち返る必要があるのです。それは今だけのことではなく、人間は本来常にそのように生きることが当然であり、そのことに気付かなければ、世界は第二弾、第三弾と、人類への困難としてメッセージを繰り返し与え続けることでしょう。

この新型ウィルスの現象は、極めてやさしい形であると思いませんか?それは、人間へ気付きを促している状態です。これは試練ではなく、もっとソフトなものです。もしももっと過激なメッセージであったなら、核戦争が全面的に起きてもおかしくありませんが、そうはなっていないのです。

自然界の動植物は、例えば今オーストラリアで起き続けている森林火災がそうであるように、人間の行いに対するメッセージの犠牲になったとしても、何ら苦情も言わず、潔く消えていきます。しかし人間だけが、自らが問題を引き起こした原因でありながら、その問題に対して苦情を言い、悩み苦しみ、その問題の奥にあるメッセージを受け取ろうとしないのです。客観的に観れば、滑稽とも言えるでしょう。これは人間の自我が膨らんだ結果、客観視点を失ったことに原因があります。このことに対し、国際機関や国家の中枢を担う人々、そして私たち一人ひとりが真剣に考える時代が来なければ、問題の根本的な解決にはならないのです。特定の国に意識を特化するのではなく、これは人類に与えられた、次の時代へ進むための目覚めを促すものであると捉えれば、この出来事をありがたいものとして受け入れることになるでしょう。

宇宙的には奇跡であるこの星に降り立った数多の生命の中で、その代表として最も優れた人間たちに、本来の価値あるものとしての目覚めを取り戻してもらうことを、期待するものです。