人生は一本道

農業高校の先生を目指していた24歳のカトケンは、昨年1年間自然農法センターで学び、今年の1月からは1年間の予定で木の花で農業研修を受けていました。2月下旬のある日、「自分について知りたい」ということで、いさどんと面談の場がもたれました。

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カトケン:
今日は「自分のことを知りたい」と思って面談を申し込みました。あと、「心を磨くというのはどういうことなのか」と「家族関係について」も聞きたいと思っています。よろしくお願いします。

いさどん:
まず、自分のことも、心を磨くのも、家族についても、なぜそういうことについて知りたいという発想が生まれてくるのかということです。自分の内から湧き出てくる感情や欲求は、理由があって湧き出てくるわけです。人間というのは思考を持っているものです。その中で賢明な思考を持っている人はなかなかいません。たいていは不健全な思考を持っていて、それを外に出すことと内に秘めておくことを使い分けて生きているのです。だから、人間は高い能力を嘘つきの方に使っている人が多いことになるのです。

カトケン:
嘘つき・・・?

いさどん:
普通の人間というのは本音と建前を使い分けて生きているということです。そうやって、日々ひとりひとりが自分の物語を生きているわけです。持って生まれた魂にふさわしい自分自身を出していくことが正直ということです。それに対して、正直を出そうとした時にそれを許さない環境をもらっている人もいます。

例えば、あなただったら「賢太」という陰性で物事に対して積極的に行動をとれない人が、陽性の父親と母親のもとに生まれました。父親は「物事はこういうもので、こうすれば良いのだ」と自分の世界で自己満足に生きる傾向の人です。こういう人は頑固者で自分の考えを曲げない人です。

カトケン:
そうですね。

いさどん:
他人のことを見れば、「あれはああだから、こうなんだ」と決めつけるくらい、自分が強く頑固者です。そういう人と、あなたの母親のような自分が強いタイプの人が一緒になっていること自体がストレスです。どんな事情があっての結婚なのかは知りませんが、これは珍しい組み合わせです。62歳と61歳で僕らの時代だから、恋愛もOKの時代だったからね。団塊の世代だし、神田川や同棲時代が流行っていた頃だから、意外と自由だった。そういう時代にこういう組み合わせで結婚をしたということは、何か事情があって結婚したということだと思います。今、父親が62歳で母親が61歳で3人兄弟の長男のあなたが24歳だから、これを計算すると、あなたは父親が38歳の時の子どもです。そうすると、結婚が遅い。子どもが出来ない期間が長かったのではなく、結婚するのが遅かった。だから、「歳が来たからということで結婚しよう」というように結婚をした人たちだと考えられます。

それから、お父さんは魂がごついタイプの人にも関わらず、次男坊で三人兄弟の末っ子です。お父さんが家の後を継いでいるのですか?

カトケン:
酒屋があるのですが、一つではなくて二つあるのです。

いさどん:
そうすると、長男と次男で別々に後を継いでいるということ?

カトケン:
そうです。

いさどん:
お父さんは次男だけれど精神的にはリーダー的タイプです。魂の形を観ると、本来長男、次男が逆であるべきなのですが、そうすると、お父さんのようなタイプの人は「俺は次男だけれど兄貴よりは筋が通っているし、家を継ぐこともふさわしい」という自負心があるのです。自分が強く、他者の側に立ってあまりものを見ないタイプです。

それに対して、お母さんは理論的でおせっかい焼きなタイプです。どういうおせっかいを焼くのかというと、「こういうふうじゃないとダメ、ああいうふうじゃないとダメよ。こういうふうにしたら、ああなってしまうから、こうしないとダメよ」というふうです。その心が特に強く現れるのは子どもに対してです。パートナーが自分の思い通りにならずに対立関係にあるから、そのはけ口が子どもに向けられることになるのです。そうすると、第一子で長男として生まれたあなたは、子どもの頃から母親の思うがままに育てられる対象でした。あなたは親が言うことに対して応えてきたけれど、この場合親の能力が高いので、ある時あなたが親の意向に沿わないと気づいた時に、「これは仕方がない。子どもには子どもの人生があるのだし、私たちのことは私たちで考えましょう」という結論に到達します。つまり、親は他人に対して依存しない体質なのです。

しかし、親が子どもの頃からあなたに対して期待をかけてきて、それに対して応えようとしてきたあなただったから、あなたの中に本当の自分を表現出来なかったという感情が残っているのです。

カトケン:
・・・そうですね。

いさどん:
今、弟たちふたりはどうしているの?

カトケン:
ふたりとも東京に住んでいて、東京農業大学に通っています。

いさどん:
なぜ、農大なの?

カトケン:
お父さんが「これからは農業が大切だ。今後環境が悪くなっていくから、そういうことを学んでいきなさい」と言っていたからです。

いさどん:
「もう、俺たちの頃のような仕事の時代じゃないぞ」ということか。

カトケン:
はい。それは小さい頃から言われてきました。

いさどん:
ただ、親が考えて親の言う通りに進んでいく人生というものは、誰でもある時気づく時が来るのだよ。「俺って本当にこれがやりたかったのだろうか?」と。お父さんからしてみたら、「これからは時代を読んで、こういうふうだから、こういうふうにしなければいけない。俺の言うことは間違いないから、こうしなさい」と言うのだろうけれど、それだけで子どもは納得がいくのかといったら、無駄もやりながら成長していくんだよ。

あなたは真面目に親の言うことを聞いて、大きくなってきた。真面目なのだけれど、自分流の道の探し方、それは親というものと距離を置いて自分の道を探そうという心が出てきているのだろうと思う。それはなぜかというと、親の方からしたら親の思う通りになっていないという感情があるからです。

カトケン:
それは僕に対して・・・?

いさどん:
親からしたら子どもであるあなたを見て、「俺たちの思う通りになっていない」という感情があるのです。しかし、この親は能力が高いから、「まあ、仕方がないか」というところで納得しているのです。そこで親子の気持ちにギャップがあります。しかし、それよりもあなたの中には今までずっと親の存在が大きかった。それに対して、すっきりしていないあなたがいるのです。いつも自分のどこかに親というものの存在があって、そこから自立出来ていないあなたがいたということです。今後も、彼女が出来たり、結婚して家庭を持ったり、いつも人生の節目の時に親というものがあなたの頭の中に浮かんでくるのでしょう。

カトケン:
浮かんできますね。

いさどん:
しかし、親はあなたの希望がわかってきたから、もうあなたを自分たちの思い通りにしようと思っていないのです。ところが、特に身近な他者(親)に影響されてきたあなたが今もいるのです。親との気持ちにギャップがあるということです。それはあなたが親に対して依存しているからです。そういう気持ちがなければギャップなんて気にせず、距離が出来てくるから問題ないのだけれど、それだけ親との関係が深いからギャップを感じるという状態です。つまり、親から自立出来ていないということです。それが今のあなたの状態です。

本当はそろそろ自立して、「自分がどう生きるのか?」ということを捉えていくことが大切だと思いますが、どうですか?

カトケン:
何かを決めようと思う時にやっぱり親の顔が浮かんできて、自分で考えていてもどこかで親に方向を変えられるのではないかと思ってしまいます。それで今やるべきことに集中できなかったり、苦しい時があります。

いさどん:
あなたはずっとそうやって育てられてきたのです。さて、ではこれをどうするのかということはあなたの意志です。自分の本音のところを出したらいいのです。今まであなたは本音のところに問いかけるということをあまりしてこなかったはずです。どうしても他人の顔色を見て行動してきたあなたがいるのです。自分の奥にあるものに「本当に自分がどうしたいのか?」ということを問いかけ、それを引き出すことが出来るかどうかです。

カトケン:
僕は正直に生きたいです。

いさどん:
そういう意味では、今まであなたは嘘をついて生きてきたのです。今まで嘘をついてきたから、「正直に生きたい」と思うのです。今まで人の顔色を見て育ってきたから、正直を出せずに生きてきたということです。では、正直に生きるというのは具体的にどういうことですか?

カトケン:
例えば、その時その時で進路を決めていきたいなと思います。

いさどん:
そういう抽象的な言い方ではなく、人によっては精神性の熟し度が色々だから一概には言えないけれど、例えば「自分はこういうふうに生きていきたい」という方向性がすでにあるのかどうか?

カトケン:
まだ具体的にはありません。

いさどん:
でも、今ここで暮らしているよね。これももしかして、親が「これからは農業の時代だ」と言う延長にあること?

カトケン:
いや、自分の意志でここにいます。

いさどん:
ということは、親が言ったこととあなたの中にある目的は一致しているから、今ここで生活していると思うのです。

カトケン:
ここに答えがあるというのはわかります。

いさどん:
ここに答えがあるというのは、ここというものをあなたがどう捉えるかによってここに答えがある場合もあれば、そうでない場合もあるのです。そうすると、あなたにとってここに答えがあるということでないといけないのです。

カトケン:
僕にとってここに答えがある・・・。

いさどん:
私たちはここに答えを見出しているからここで生きているけれど、人によって価値観は色々あるのです。だから、その答えをここに見出した人にはここに答えがあるのです。あなたがそれに共鳴して、自立した個人としてここに答えがあると思うのであればいいのだけれど、「何だか楽しそうだから」とか「自分にとって都合がいいから」ということで駆け込み寺のようにここにいるのだとしたら、ここに答えはないわけです。ここの人たちは常に自立した人たちで、誰かについてきたり、親が言うから生きてきたということではないのです。そうすると、ここに答えがあるというのはあなたが自立して誰にも影響されないところで、「自分の人生の答えがここにある」と考えるのであればいいのです。

カトケン:
はい。こういう生き方が自分の目指している生き方だなと思います。

いさどん:
あなたは真面目だからね。それを「不真面目になりなさい」とは言わないけれど、これが大切な道と判断した場合はそれでいいわけです。それも個人の意志だから。僕の場合は30歳まで色々やってきて、この道に出会い、40歳から今の生き方を歩んできました。でも、あなたのように24歳にして大事が見つかって生きていくことは無駄なエネルギーを使わなくて済むし、それはそれでいいと思う。

僕の解釈からすると、この道は最終到達地点のようなものです。ここに到達するために、人は一般社会の中で色々なことを経験しながら、ここまで歩んでくるのです。ここからまた外れていく人もいます。自分の気持ちに正直というよりも、憧れのように他人に影響されてこの道に踏み出したものの、まだ十分に嘘も欲望も処理しきれていない人は、もう一回社会に戻らないといけないことにもなるわけです。それについてはどう思う?

カトケン:
社会に戻らないといけない・・・?

いさどん:
一般社会では会社のニーズに応えていれば、いい加減でも認めてくれるわけです。しかし、いい加減というのは本来それが社会の中の色々なトラブルの種になるのだから、賢明なものはそこを綺麗に処理していきたいものです。ところが、人によってはトラブルの種が魅力的に観えるわけです。タバコを吸うことでもパチンコをやることでも、低いレベルの恋愛をすることでも、意識の段階によっては魅力的に観えるものです。この道はそこのところを超えた学びの最終ステージみたいなものです。つまり、自分というものを超えて、世のため人のために生きていこうとする道だからです。

そうすると、その生き方を24歳で歩んでいこうとする時に、あなたは今までずっと真面目にきたから、不真面目をやらないで悔いがないかどうか?後から、「やっぱりもう一回不真面目をやりたい」とやり直すようなことはないかということ。それについてはどう思う?

カトケン:
不真面目というのはタバコとかパチンコとかそういうことですか?

いさどん:
それは何でもいい。それは人によっては真面目なことにもなること。例えば真面目にニコチン中毒になってタバコを吸いたいということもあるのです。でも、不真面目を全くしないで、ストレートに大事を歩む人がいてもいいわけです。それを確認しているのです。確認といっても、僕が今あなたの採用試験をやっているわけではありません。あなたが自分に問うてどうなのかということです。本当はあなた自身で知ることが出来ればいいのだけれど、「自分のことを知りたい」ということで今日の面談があるから聞いているのです。本来は、あなたが自分の中で自分に問えばいいことです。ところが、あなたにそれが出来ないということから、僕が代わりに親との関係を分析しながら聞いているのです。

あなたは親からのプレッシャーを受けながら、それでも心が歪まないで真っ直ぐ生きてきた。それで、そのまま最終ステージのような生き方にたどり着いた。それを今、「自分の道だ」と言っているあなたが、「本当にそれでいいのか?悔いはないのか?」と自分自身に問うてみるということです。ひょっとして先に行った時に、「恋に溺れてしまったから、ちょっとこの道を外れます」というようなことがあるかもしれない。それはそれとして、今自分の心を観てみてそういう気持ちがあるかないか?

カトケン:
自分の心の中に「農業高校の先生になりたい」という気持ちがあります。

いさどん:
それは前から言っていたよね。

カトケン:
それで自然農法センターで勉強していたのですが、頭に知識を詰め込むのではなく、心を磨いていった方が気持ちいいし楽しいなと思ったのです。心を磨いた後に勉強して農業の先生になって、心を伝えていきたいなという想いがあります。

いさどん:
公立でも私立でもいいけれど、農業高校の先生というのは一般の人です。そうすると、心を磨くことと農業高校の先生になるということは、あまり一致しているわけではないのです。心を磨かなくても農業高校の先生になれるわけです。農業高校の先生は文部科学省がつくったカリキュラムにのっとって教えることだから、そうすると今まであなたが歩んできた農業の現場とはちょっと反するかもしれない。コスト面を考えるような国の農業政策に合わせた農業を教えることになります。そういうことは妥協していくつもり?

カトケン:
以前に講師をしていた時に、「農薬や化学肥料を使った農業は自分が教えたいものではないな」と矛盾を感じていました。

いさどん:
確か1年前ここに来た時にみんなとその話をして、「道は農業高校の先生だけではないね」という話になったと思うんだよね。昨日の大人会議であなたが心のシェアを出した時に、こうちゃんが「昨年も同じことを言っていたよね」と同じ話です。ということは、昨年のみんなからのアドバイスが全然生きていないことになる。農業高校の先生になるということは、今のところ、ウエートは99%一般の農家、つまり国の政策の受け皿になる農業を伝える先生ということです。これから将来のことはわからないけれど。

例えばこれから世の中が急激に変わっていくと、有機農業や新しい代替農業が必要になってきます。その時にあなたがそういった技術を身につけていて、農業高校の先生の免許を持っていてそれを売り込めば、そういうノウハウを持っている先生はなかなかいないのだから、これは非常に評価されることになると思います。ただ、有機農業や代替農業を教えられる先生が、職員室で心の話は出来ないということはあると思います。

さらに展開していくと、ここのメンバーでありながら、外に働きに行って農業高校の先生をやるということはあり得るかもしれない。そうすると、ここで心を磨きながら学校で教えることができ、色々なことが満たされる。今考えられることをいくつか展開すると、そういうことが挙げられます。

さらに、農業の先生という意味では、高校じゃなくても今たっちゃんがやっているようにここで伝えることもできる。これからこういう農業はすごく重要だから、それを伝えられる技術者が沢山必要になってくる。だから、現場でマスターしたものをここでも伝えていくことが出来るし、こういったエコビレッジの動きの場でこういったことを伝える役割を私たちが担っていく可能性もあるのです。そうすると、敢えて教員という立場を取らなくても、農業を教えるという道は開かれるのです。そして、心を磨き、それを伝える場がある。

あなたがここで何をしたらいいのかというのは、ひとつは目標を持ってそれに向かって進んでいくということ。そして、もうひとつはここのみんなのように、「自分が生きていることは私の意志にあらず」という道。

カトケン:
私の意志にあらず・・・?

いさどん:
「自分が生きていることは私の意志にあらず。私の目的はあなたにあります。世のため人のためなのだから、与えられたことは何でもします」という精神になれば、目の前にあることをやっていくと自然と自分の活かし所にはまっていく。でも、「結果はいただきます」ということ。この世界の仕組みからしたら、私たちは自分の意志でこの世界に生きているのではなく、この世界があり仕組みがあってその中に組み込まれて私たちは生かされているわけだから、そちら側の意志で生きることが一番目的に沿うわけです。それが私たち流に言う、「神様の意志で生きる」ということです。人間には自由が与えられているから、一般の人はそれをやりません。それで右往左往したり、問題事を引き起こすのです。

その一方、自然はすべてスムーズで事が成っています。それはすべてが自然の仕組みの中で生かされていて、必要なところにはまっているからです。ところが、人間はそこで自分で何とかしようという我があるものだから、自然の仕組みから外れた分だけトラブルをもらうのです。それは病気でも人間関係でも何でもそうです。人生の中で自分が予定を立てたことがならないということでもそうです。

それでまたあなたに問うのだけれど、自分の心を観て、あなたはどういう歩み方を望むのか?つまり、自分でああだこうだと考えて目標を設定するのであれば、さっきいくつか挙げた選択肢から自分で選ぶこともできる。これが人生計画というもので、誰でもそうして生きてきたわけだ。

しかし、もうひとつの道は神様の意志に任せて、「私を使ってください。私の存在はあなたの意志にあります。あなたの意志に沿うことがこの世界に生み出された目的にふさわしいのですから、あなたの意志でお使いください」という道を歩むのかどうか。

カトケン:
自分でやろうという気持ちがあると、エネルギーを浪費してしまうと思います。

いさどん:
それは当然そうです。だから、人間というのはこういう修業の場をもらって学んでいくわけだから、より優れた道を歩むということが大切なのです。あなたが心の道を大切にしたいと思うのであれば、そちらを選べばいい。24歳でもそろそろそういう人がいてもいいと僕は思っています。僕には30歳からこういう心の道が始まり、そのあとすごくガタガタしたし、結果40歳まで一般社会で生きてきた。でも、次の時代の人は24歳からこういう道を始めてもいいと思うし、例えばここで生まれてくる子どもたちは今からこの道を生きているわけだ。あなたは時々心が不安定になったりするけれど、そういうことが定まらないから不安定になるとも言える。そうすると、道がしっかりと定まったら、もう揺るがないでそこを歩んでいくことが出来る。

僕は情報として提示するだけのことで、選ぶのはあなたです。神様とあなたの契約です。ここで言う神様というのは、自分が生きていることの証として、生きている目的は何なのかということを探究する結果、この世界にある法則のこと。現象としての事実の連鎖の中にある法則性の中に見出される意志。これがこれからの時代の大いなるものとの接点の仕方であり、ここでは何も人間の欲の心を揺さぶるような宗教性はないわけだ。私たちはこの世界の一物であり、この世界は宇宙の法則の中にあって、そこに法則がある限り意志があるのだから、その意志のもとに私たちも存在しているということです。私たちは非創造物であって、そこには私たちを生み出し生かしているものの意志が働いているのです。

カトケン:
普段作業をしていても、そういうふうに感じでいます。

いさどん:
それならば先ほどの話に戻るけれど、親の影響を受けてきたこともとりあえず事実だし、その呪縛みたいなところから自立した意志で新しい道を歩むということにしたらどうですか?「木の花という環境にいることで素晴らしい人生をいただいた」なんてせこいことを言っていないで、この場所を創り上げる原動力になればいい。私たちは血縁の親の子どもというよりも、大地の子であり、光の子どもであり、すべての生命が家族であるのです。過去世があり来世があるとしたら、そのたびに親も子ももらうのだから、今たまたまこの親をもらっているだけのことです。

そういったことを悟り、揺るぎない意志のもとで生きていけば、何の目的で生きているのかということを認識し、非常に充実した人生を生きることになるのです。人間は色々な出来事をもらい垢の部分をそぎ落としながら綺麗になっていく。生きるということはそういった作業をしているわけです。そうすると、垢があるうちはパチンコをやりたいとか恋愛をしてみたいとか言って世間に戻っていくのです。でも、それはやってみた結果痛みや苦しみをもらいながら、そこから学んでいくことになるのです。その段階ではこういった生活を見て、「あんなに窮屈なことはやれない」と思うのだけれど、さらに次の段階に進むと「あの時は馬鹿な時代を過ごしていた。あんなことで喜びを感じていたのか」ということにもなるのです。それはその人の魂の位置によって求めるものが変わっていくということです。

そうすると、あなたは過去に色々なことを学んできた結果、この年齢ですでにそういった心を持っているのです。僕の不真面目からしたら、あなたはすごく真面目です。それだったら、とことんその真面目を極めたらいいと思います。多少柔軟性はあってもいいかもしれないけれど、それはその時その時の余裕、遊びのようなものだから。もしこのまま進むのであれば、真っ直ぐ行けばいい。その時にはこの道を歩もうとするさらなる原動力、気づきが湧いてこないといけない。しかし、今のあなたにはなかなか気づきが生まれてこない。生まれてきたとしても他人に聞いてみては「ああなんだろうか、こうなんだろうか?」と考えをまわし、昨年話し合ったようなことでも今また出てくるということは、あまり進歩していないということです。

だから、心磨きが大切なのです。あなたは自分というものに執着が強い。「自分がどうするのか?」という心が強いのです。悟りにも色々な段階があるけれど、あなたにも「私のいのち、私の人生はあなたの意志です」という心が出来たら、もう自分がどうしたい、こうしたいという心はなくなってくる。逆に言うと、「私にも意志があります。その意志はあなたの示される意志。そして、それは毎日起きてくる現象、湧いて出てくる気づきに現れてくるのです。それは特定した自分にとって有利かどうかというところにあるのではありません。」そういう心にならないと、そのままの真っ直ぐな道にふさわしい気づきが湧いてきません。磨き切るということの大切さやこの道を生き切ろうとする心はその奥にあるものだから。汚れや垢は表面にあるからすぐに出てくる。しかし、大元にある絶対真理は一番奥にあるから、まわりにある垢や我に捉われていると、その一番大事が観えてこない。だから、自分が生み出された本当の目的のもとに生きていきたいと思うのであれば、まずはその我を取っていかないといけない。それが心を磨くということです。その大切に気づいた人がここでこういった暮らしをしているのです。それがあなたの質問にあった、「心を磨くとはどういうことか」ということの答えです。ひとりひとりが尊いのだから、あなたの中から気づきが湧き出てくるように心を磨いていかないといけない。それが心磨きです。あなたの中にもブッダやイエスのような精神があるということです。

さらに、「家族関係について知りたい」ということであなたの血縁の家族について分析してきたけれど、では家族とは一体何なのかということです。血縁を超えた家族という捉え方が木の花にはあります。この捉え方は宇宙生命としての捉え方です。地球生命というと一般的に私たちが言う自然のことだけれど、もっと大きく捉えれば宇宙生命と捉えることができます。宇宙生命というのは宇宙に存在するすべてのいのちのことです。これを言いかえると、宇宙に生きている神ということです。過去生にご先祖様も子孫もあって、来世にもご先祖様や子孫がいるとしたら、今の特定の家族に執着する必要があるのかということになります。

カトケン:
いや、ないです。

いさどん:
万人が家族であって、すべての人の幸せを願うことが世のため人のためという生き方になるのです。あなたがそういう視点を持つかどうか。心を磨くということはそこに到達することが目的なのです。そうすると、あなたの最初の質問に戻って、あなたは「自分のことが知りたい」と思った。その問いを探究してきた結果、私たちは宇宙生命の一部であり神の一部分となります。そしてそのことをより明確にして、揺るぎのない自分でありたい。人間として生まれてきたということは汚れがあるわけです。だから、「心を磨く」ことが必要で汚れを取り去っていくと、この世界すべてが一体の生命であり、宇宙のいのち、神の「家族」であるということです。これがあなたが聞きたかった「自分のこと」「心を磨くこと」「家族関係のこと」についての答えです。

この道は狭い道です。高くなれば高くなるほど、富士登山でも道が狭くなっていくのです。下に行けば登り口はいくつもあるけれど、上に行ったら頂上はひとつしかない。それが本当の目的なのです。すべての生命の目的です。そこを今、あなたは目指すかどうかです。

カトケン:
僕は悔いなく生きたいので目指したいです。

いさどん:
「悔いなく生きたいから」ということで、好き勝手に生きてみてもう一度戻ってきてもいいんだよ。そういう道もある。しかし、逆に言えばそういう無駄のない道をとことん歩み続けたいという人がいてもいいわけです。僕もこの道に出会ったばかりの頃は、自分の中にずるい性格や欲深い人がいて、それを目指す自分が苦しんだ。しかし、消去法をやっていくと幾つもの人生を生きられない。人生は一本道であることがわかる。「あっ、そうか!」と。今ある心は順番に消していくものであって、それを持っていくものではないと気づいてくる。だから、ウッとしながら自分を消してきた。その時はそのしようもない自分が大切なように思える。そちらの方が誘惑的だし、心をそそられる。それをあえて消してきたけれど、考えてみたら最後に残るのはこの心の道しかないことに気づく。この道は死んでも消せない道なのです。宇宙真理、探究の道だから。それである時気がついた。「もうつまらない考えは捨てて、これだけ、一本で行こう」と思った。そして、24歳にしてそれに気づく人がいてもいい。それはあなたの意志です。ここで「どうする?」と僕が質問すると、かえっておかしいでしょう。あなたの人生ではないみたいだから。だから、あなたが自分で考えてみんなに宣言するなり、自分の中で決意するなり、それは自分で決めればいい。神様とあなたの契約だから。ただ、ぐだぐだして昨年と今年で同じことを言っているようなことは、そろそろ卒業したいものだね。

それに対して親が何と言うかは親の考えだけれど、あなたの親は生活力もあるのだからあなたの道を歩ませてくれると思う。ひとりひとりは自分の魂の位置でものを判断して行動しているものです。しかし、どんな魂も最終的には行き着くところは一緒です。そうであるならば、必ずいつかは、「うちの息子の道はこれだったのか」と理解する時が来ます。今、木の花のことを理解できる人が世の中にどれだけいるのだろうと思ってみると、1000人に一人はいないと思う。しかし、志が高ければ、まわりから理解されなくても歩んでいくことが出来る。それは自分の価値です。世の中の先頭を歩んでいる道だからこそ、まわりの評価を一番に求めるようなことでは、このような道は行けないのです。だから、志を高く持たないと歩めないのです。

あとは自分で考えて、こうやって面談をしたのだから、大人会議で皆に報告できるのであれば発表してもらえればいいと思う。こういう話を聞きましたが、今後の課題として取っておきますと報告してもいいのです。それはあなたの人生だから。しかし、ぐだぐだ先延ばしするのはエネルギーがもったいないからやめよう。

カトケン:
わかりました。ありがとうございました。

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その数日後、カトケンは大人会議で「いさどんとの面談を終えて決意したこと」という心のシェアを発表しました。

カトケン:
いさどんとの面談を終えて、自分なりに決意したことがあります。今までは農業研修生としてここで生活していましたが、7月から仮メンバーとしてやっていこうと思います。なぜ7月かというと・・・。

たっちゃん:
はい!答えは僕の誕生日があるからです(一同、笑)。

カトケン:
(苦笑いしながら)7月5、6日に地元のお祭りに参加したいと思っています。今までお世話になった人たちへの感謝の気持ちを表現できるよう、悔いのないようにやってきたいです。それから、6月下旬に足の不自由な知り合いの方の草刈りを手伝いに行こうと思っています。

なぜ仮メンバーになろうと思ったかというと、ずっとここの生き方に共感していて、僕の生きる道だと思ったからです。ここでこの道を生きていきたい!昨年の数ヶ月の滞在からかなりの時間が経ったのに、なかなか自分の気持ちに踏ん切りがつきませんでした。僕が進路を決断する時にいつも思い浮かぶのは両親のことです。いつも彼らの顔色をうかがって生きてきました。でも、今回は自分で決断しました。
その決断を両親に伝えたところ、母親は賛成してくれました。父親は、「新潟は過疎化しているのだから、木の花で学んだことを新潟で広めてもらいたい」と言いました。それを聞いて少し動揺しましたが、「こうでなくてはいけない!」という親の顔が浮かんだ時に、光輝くいさどんの姿が見え(一同、笑)、父親の顔がかすんで見えました。その時に「やっぱり僕はこの道で行こう!」と思いました。

ひろっち:
僕も親とのことで同じような経験をしています。その時に考えたのは、神様はどういう決断を喜ばれるのかということ。ここで世のため人のために生きることこそ喜ばれることだと思って、この道を選びました。それで親子関係が切れるわけではないし、ここでしっかりやっていけばいいと思います。

あっちゃん:
私も3年前、メンバーになるかどうかの決断ができずにいました。その時じゅんじーに「ファーストインスピレーション!最初に感じたことを真と思って進んでいったらいい」と言われたことを思い出し、メンバーになる決意をしました。カトケンの決断は素晴らしいと思います。

ちなっぴー:
カトケンが心を磨いていけば、それが親孝行になり先祖供養になると思います。

いさどん:
カトケンの両親は賢明な考えを持っているので、最終的にはカトケンの決断に委ねるだろうと思います。地球人として、地球のためにみんなで生きていけたらと僕は思います。

なかのん:
仮メンバーには今日からでもなれるんじゃないかな?みんなはどう思う?

いさどん:
僕もそう思ったけれど、カトケンにも思うところがあるってことだし・・・。

カトケン:
では、今日から仮メンバーになってもいいでしょうか?(一同、拍手)

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こうして、木の花大人最年少メンバーは28歳のりょうちんから、24歳のカトケンにバトンタッチされました。

それから2カ月半が過ぎ、田植えの時期が訪れました。自らの希望で田んぼ隊チームに入り、木の花での初めての田植えを経験しているカトケンは、いつも嬉しそうに作業に出掛けています。「今、悔いのない生き方をしています。みんなと一緒に。では、行ってきます!」


宇宙の仕組み

3月21日春分の日、いさどんとみちよちゃんがヤマギシの春日山に向かう車中にて話した内容をブログにまとめました。

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み:宇宙的に観た山岸巳代蔵さんについて、いさどんに聞いてみました。

い:昨晩は、今朝早く起きることを意識して、早めに床に着いたが、眠りにつくのに時間が掛かった。その時に、山岸さんの気配を感じた。最近、特講の時に始めた瞑想をやっている。特講のときに、咳が出たので特別室(一人部屋)にいて毎晩寝る前にやっていた。それは、太陽系神、地球神、それから地球の聖者達、宗教の教祖達などの名前を順番に挙げながら、そういった御魂がこれから力を合わせて地球人類を導いていくことを意識して行っている。この世界に存在する全てのものは意識を持っている。
銀河も太陽系も意志を持っている。その意志が我々を創造しているからこそ我々も意志を持っている。その意志に通じたもの達は、銀河や太陽系や地球の運行に関わっている。それがあるということに確信を持って呼びかけると、その呼びかけは、我々が対話するのと同じように通じている。しかし、信じない人にはそんなことは不可能である。すなわち、この世界は、その人の思いが、どのレベルかによって、それに相応しい世界に生きることになる。その意識レベルによっては、物理的世界の背景にある我々が見ることの出来ない世界に通じることができる。
今、そういった世界に通じる瞑想をしている。昨晩、1時半過ぎに寝ようとしたが、全く眠れなかった。その時に、今日の日の意味を思っていた。やはり山岸さんのことを思ったし、そこに彼がいるのを感じた。ということは、僕が考えていることを彼も考えていたから、互いの周波数が合っていたといこと。朝、そろそろ時間かなと思って目が覚めた。外はまだ暗い様子。もうそろそろ起きる時間かなと思っていた。7時に起きる予定だったけど、一向に誰も起こしに来ないし、目覚まし時計も鳴らないので、そのまま考え事をしていた。今何時だろう?と思って時計を見たら、5時45分だった。まだ時間があると思って寝ようとしたが、目が冴えて眠れない。その時に、やっぱり山岸さんの存在を感じた。ということは、僕の今持っている意識レベルに彼もいるということがわかる。そして色々な彼の残した書物、「実践の書」など資料を見ていると、彼には癖があって個性的である。人間としては、癖があるからわかりづらい人。そのわかりづらさの原因は、色々なところで、話の中にフェイントが掛かっているということ。フェイントというのは、あえて話をわかりづらくしているということである。そのわからないところで、あえて人々が考えていくように表現が打ち出されている。それで、ヤマギシ流世界を表現しようとしている。しかし、そういうわかりづらい表現をしながら、ポイント毎に目的の意思がしっかりと示されている。特に戦後間のない時代だったから、人々は争いに懲り懲りしていた。だから戦争のない世界、「仲良し社会」、それから物理的貧しさから「豊かになる」、そういったことを打ち出しながら、もう一方では、それを否定して、精神性の重要さを最後に置いている。常人ではわかりにくい巧みな表現をしてヤマギシズムの表現にしている。これは、普通の人間では中々やれないこと。単なる山岸巳代蔵という、情欲が深く、駆け引きのある人ではやり切れない。こういう人が普通に人生を生きたら、ある程度の財は成すだろうが、それを大盤振る舞いしたりして、そうしたものを無にしてしまったり、親分肌で波の大きい人生になる。そうしたことを考えると、ある意味超人的な人である。やはり宇宙人。少なくとも、僕の意識の周波数にいる存在。僕は今、宇宙を意識して生きている。それは、地球の外側に地球をつかさどる神界(神々の世界)というところがある。そこに所属する魂意識があって、それが地上に降りて、地球の意志として、人間の本来あるべき境地を語る位置、つまりインドのグル(覚者)の意識、そして今、日本で普通の人間として人々に語っている、これは宗教で言えば教祖的立場、それから、普通の戸籍で生まれてきた自分、そういう立場をいくつも持っている。山岸さんは、そういうことと同じような立場の人ということ。だから、ここのところではこういう人、ここではこういう人という風に立場、立場で色々な表現をする人であった。
山岸さんが書いたものを読んでみると、そこにヤマギシズムの中での夫婦について語っているところがある。夫婦というものを1組にして考えていくというものである。しかし、我々は既に夫婦というものを1組ではなく、一人の人間として独立して考えて行く考え方になっている。それは時代背景からして、次の時代の考え方。それは、夫婦という単位を否定していることではなく、既に夫婦単位で取り組む段階を超えているということである。これまでヤマギシでは、夫婦が1組で取り組むことでやってきたが、その中には相性とか縁を無視して夫婦にしてしまうという「結婚調整機関」と言う組織が山岸さんの発案として出されている。これ自体は山岸さんの発想なのだろうが、今ではそれが、色々な乱れや矛盾を生んできている。そういう時代に合わないものが、丁度彼が亡くなって50年。賞味期限が切れようとしている。本当にこれは賞味期限だと思う。だから、彼は僕のところに来て、僕の手を握って、バトンタッチしたことは、色々なことを調べていくと本当にそうだと思う。それで、今の僕の立場があるのだと思う。これからそれがどうなっていくかと言うことに対して、昨晩、彼と話をした。
仮に、ヤマギシを僕に託すとして、「一体全体、この理念にほれ込んで、踏み込んだのは良いが、理念だけに没頭して個々の人間を磨くことを忘れてしまっている人々をどうやって、導けと言うのか?あなたはどう考えるのか?」と問いかけをした。
そうしたら、「人間の世界は、こちらの世界(彼が今いる世界)に比べると時間が掛かりますが、流れはできておりますので、しばらくこのままよろしく」というようなことを言われた。
まぁ、そういうことなのだろうな。大本教の出口王仁三郎聖師にそういう話をしても同じことを言う。でも考えてみたら確実に時代はそちらの方に進んでいる。だから常にスタンスとしては、目の前に起きることをやっていく。一切戦略を持たない立場で、今日もいる。先にどうなるだろうと考えたら、私心が入ってしまう。

み:話を聞いていていくつか質問がある。今のヤマギシは日本の縮図的なところがあると思う。戦略的で対立があり、鬱の人がいて、自殺者がいて、と言う風に、日本社会が凝縮されている感じがある。いさどんは、今年からおやじの館を正式にオープンして自殺者を減らそうという話をしていたでしょう?でも、最近来るケアの人たちは、ヤマギシの人たちが多くなってきたよね。そこを手始めに、日本全体の問題も解決されていくのかな?それは、ヤマギシから来るケアの人たちへの対応を通して出来た実績を元に、日本全体の問題にも、ノウハウが応用されるような印象を受けたのだけど、その辺はどう思う?

い:その質問に対しては、わからないから答えない。それは、この国の未来が、そして世界がどうなっていくかは、僕の思考や興味を超えたものだからだけど、僕が5月3日の葬式(生前葬)後に一番大切にしていくことは、自殺者をなくす活動をすることは事実。これは、そういう風に決意していることだし、それがこの国にとって最も大切なことであって、最も難しい問題。昨秋にヤマギシに出会う前は、対象は一般の人だった。そういう人たちが口コミで来るのだと思っていた。そうしたら、ヤマギシとの出会いがあって、今、こういう話が進んでいる。ここで事実として挙げられることがいくつかある。ヤマギシは日本社会の縮図であり、そして日本という国は調和の高い理想の国だが、現実には全くそこが生かされておらず、精神性より経済的な発展を優先させてきた国であり、本当にヤマギシは、そのミニ日本。そこに凝縮して自殺者やうつ病が出ていると言うことである。そして、それが改善されていくと、そこに実績ができる。ヤマギシの中の実績が、今度はヤマギシの中でそういった改善のケアが出来るようになる。そのためのノウハウは、全てヤマギシに伝えられる。あの人たちのように心一つで団結できる人たちは、それこそ色々な分野の人たちがいるから、それをマスターしたら、将来には統合医療の見本となる可能性がある。それは、新たなヤマギシの社会貢献に繋がることになる。そうすると、今、ヤマギシは世の中から偏見を受けている状態にあるが、それは世の中にもう一度認められるチャンスでもある。それがどこから来たかというと、木の花であり、僕がきっかけでもある。そうすると、我々の取り組みも、そこを通じて広がっていくことを考えると、昨秋、ヤマギシとの出会う前に考えていたことは、ずれていることではなく、僕が予測していなかっただけのことで、ヤマギシを通しても、それが広まっていくことになる。ばらばらで取り組むよりも、ヤマギシがこれからそれに取り組んでいくと、集中的に色々な実験もできる。だから僕は想像していなかったことだが、これは与えられた道かと思っている。そうすると、今回の春日山行きの目的は、柿谷さんとの話だが、その後に、現在預かっているヤマギシからのケアの人たちの話もあるから、春美さんやよりどんたちと話をする。その中で、この話は出る。そしてこれから、そちらの方が大切な取り組みになって進んでいくだろう。しかし、これは見通しであり、ヤマギシの人たちの心にかかっていることだから結果は常に決めない。

み:ヤマギシのピンチをチャンスにという感じがする。

い:どんなことでも、全て活かすつもりになれば活かせる。それを問題ごととして決め付けてしまえば、問題ごとで終わってしまう。しかし問題ごとは確実に活かすためにある、それを活かさない限りは目の前にあり続けることになる。

み:今、ヤマギシは結構畜産系の仕事が多いでしょう?やはり世界的な動きや環境のことを考えていくと、そうした畜産系の仕事は環境に負荷が大きいじゃない。

い:環境に負荷が大きいことも勿論だけど、畜産というのは、経済ベースで捉えると農業経済ではわかりやすいが、エネルギー的にすごく非効率である。そして何より人間の心を食としてそそる。人間の心をそそるということは、心を躁的にしていく。それは、収めしずめるのではなく、激しく活性する効果がある。経済効果を目的の人たちにとっては、魅力的なものである。これからの時代を考えると、そのところがどうかということになる。畜産自体が経済効果が高いから進められるけど、それ自体が地球環境や人間の精神性にとっては良くないということで、見直していく必要があるのだが、そのことにいつメスを入れる決断をするかということについてだが、それは霊的なことにも深く関連する。現在、木の花では光の瞑想をしている。我々人間が、どれほどたくさんの無念の魂を地球上で発生させているかということを理解する必要がある。その魂は確実に地球の霊的な環境を汚染している。それを浄化するとしたら、まずは発生源を断たなければならない。それこそイヌイットなどネイティブな人たちが生存のために動物達の命を食べていくことは、全く問題はない。それは命が伝播されているだけで、自然界のシマウマとライオンの関係と同じである。ところが、現在の人類の営みの中で、畜産の現場で起きている命の扱い方を観たときに、膨大な数の無念の魂を生み出している。それは見えないところに、大きな影響を与えている。ヤマギシが特にこの社会の縮図として負の部分が多いのは、動物をそういう形で屠殺していることが大きな原因でもある。いつここにメスを入れるかということは大きなことであり、勇気のいることである。そのことは、何よりも重要だが、結局はハードルの低いところから取り組んでいくから、重要なことは結局最後になる。本当は気付いたら、重要なところからサッと取りかかると他はあっという間に切り替わっていくのだが、一般的には下から順番にやっていくわけで、どちらになるかは、結局は上(神界)の意向であり、そこでもヤマギシの人たちの心意気にかかっているのだから、僕は知らない。今僕に必要とされていることをやっていきながら、僕自身も結果をもらいながらやっていくということになる。

み:ふと思ったのは、どこかの小規模な実顕地の1つを、実験的に健康上の観点からベジタリアンにしてみて、例えば、成人病(糖尿病や精神疾患)の人たちがどのように改善されるかを実験データとしてきちんと取って、それを活かしていくと、霊的なという話がヤマギシの人たちにわかりにくくても、健康を改善していくという切り口であれば、結果を見ながら、他の実顕地でもそれを取り入れていくことは出来るのではないかな。

い:霊的なというとわかりにくいが、人間の心も霊的なこと。そうすると人間が対立的、疑心暗鬼、悩む、愚痴る、そういうことも全て霊的な作用なわけで、肉食や屠殺による影響でそういうことも生み出している。そこの重要さをまず知るということ。いつ頃それに気付き出すかと言うことだが・・・。
どこかの実顕地でそういった取り組みをすると言うのは、すごく良い提案だよ。本来、ヤマギシ自体が試験場だから、どこか手ごろな実顕地でそういう取り組みをして、モデル化する。それは大いにやるべきことで、今後、何かの形で提案をしていくと良いと思う。ヤマギシと昨年出会ってから、いくつかの問題点が見つかった。例えば、特講の内容にしても、青本すら、日本語だけど、もう古くてなじめない日本語になっている。もう50年たっているから賞味期限が来ている。これからの時代に合うように直す必要がある。そうすると当然研鑽学校の内容も変わってくる。そういったことをやろうという一部の人の機運もあるが、さて、いつ頃これをやりだすか?というところである。もうやらなければならないことはわかっている。だけど、やらなければいけないことはわかっているけど、ヤマギシの人々の中に「けど・でもウィルス」が蔓延していて進まない。全人幸福という大儀に向けた、零位に立つ心の覚悟ができていない人が多い。
このことは霊的には、山岸さんに伝えている。「あなたの責任上の問題として、いつそれがなるのか?」と伝えると、「我々のところ(神界)では、それはすでに成っていることですが、人間の世界では時間が掛かりますから。」と返ってきた。
改革ということをもし必要とするならば、もう取り掛かっていかなければならない。これを我々から投げかけるという点では、今の話はすごく良いね。健康とか、環境とか、新しいモデルとかをいくつかのテーマとして、それを実際に顕現する、つまり実顕地(実験地)として一つ指定してやろうという提案は大いにしていくべき。

み:特講に行く前に春美ちゃんからもメールが来たときに、「ヤマギシも食生活を見直していきたいから、相談に乗ってね。」って書いてあった。わたしはそういうことに興味があるから、いくらでもそういう話をしましょうと言っていたが、その後進んでいない。今日、また春美ちゃんとも会えるから、そういう話をまた出してみようかな?

い:春美さんにはそういう意向はあるみたいだが、中々きっかけがないと難しい。あの人たちは、きっかけがあればやると思う。そうすると任しておくといつまでたってもやらない可能性もある。

み:じゃあ、きっかけは木の花が作ってあげるのがいいのかな?

い:そこらあたりが、色々なんだよね。きっかけを木の花が作りすぎると、ヤマギシの人たちって、プライドが高くてへそ曲りなところもあって、自負心が強いから、「俺達には高い理想があるのに、何でよそからそんなものをもらわなければならないんだ!」と言う風になる。だからやはり、自分たちで研鑽して立ち上げたと言うことなら、納得する。今の中央本庁の一部の人たちが動かしていることに対してもみんなで不満を言っている。そういう意味では、全体に投げかけてどうするかを、みんなで出し合って研鑽する。我々はきっかけの提案はするけど、取りまとめはしない。それとも本庁ではなく、新しいプロジェクトチームを立ち上げて、そこが投げかけるのか。何しろヤマギシの内部から投げかけることが大切だと思う。そして、そのきっかけは木の花でもいいと思う。

み:前から聞いてみようと思っていたんだけど、いさどんは金星から来たのでしょう?そうした宇宙的な目で見たときに、山岸さんとかはどこから来たのかな?って思うのだけど。

い:僕の感覚では、山岸さんは金星から来ているのだろうと思う。だから周波数が僕と合う。これは確かではないけど、ほぼ間違いない。

み:それはいさどんの肉体が無くなって、宇宙に戻ったときに同じ星から来たってわかるの?

い:肉体が無くならなくても、これからこの流れが進んでいけばいずれ分かると思うよ。でも、そのことについては、肉体が無くなったときに、わからなくたっていいんじゃない?僕は今、自分の中で、とりあえず金星のことは大きな意味を持っていないと思っている。僕は、銀河全体のことを今は考えているから、先は銀河の旅に行きたいと思っているくらいだから。とりあえず太陽系のことは、今までの自分のグラウンドだったからね。何となく感じるのは、今回こうした役割をもらってここに来たけれど、役割を果たすことによってこの太陽系というところから自分が解き放たれて、次のフロンティアに旅立つのだろうというイメージを持っている。それで、人々(地球人)にとっては、こういうことはとんでもない絵空事のように思うかもしれないけど、実はこれは真実なんだよ。人間の想念と言うのは、全てこの世界の現象の背景にあるものでしょう?人間があんぱんが欲しいと思えば、あんぱんを創り出すのだし、鬱的なネガティブスパイラルを持っていれば鬱が発生するのだし、全部そういう風に想いによってなっていることが理解できたら、今僕が語っていることは事実だよ。
ただ、肉体に縛られて、そこからしか物が観えないと理解できない。この間、僕は金星の精神性の完成度について話をしたことがある。そうしたら杉山開知君(地球暦の開発者)が来て、金星が太陽系の中で最もバランスの良い星、ということを彼が伝えに来た。そうやって真実は必ず証明されるわけだ。だから真っ直ぐぶれない想念をもって表現しきると、常に真実の上を歩んでいくことになる。

み:地球が未熟だから、今、色々な星から色々な魂が降りてきているの?

い:それがね、僕も一時そういう風に考えていたのだけど、この間の開知君のデータを見るとね、水・金・地・火は、硬い岩石で出来ている惑星だということだった。そして太陽は全く異質のものであり、太陽系全体をまとめつなぎとめる役割、太陽系そのもの。その次の木・土・天・海・冥はガスで出来ている星だと言っていた。そうすると、木・土・天・海・冥は水・金・地・火とは違う役割のものなんだよね。そこにも霊的世界がある。それは役割が違う霊的な世界だと思う。そして水・金・地・火は、地球人類のような霊的なものを持っている。その中で、水・火については、ぶれが大きい。特に水星のぶれが大きい。地球はそれに対して、どちらかというと金星に近くぶれが少ない。金星はみごとにぶれが無い星であるけれど、地球は微妙にぶれている。この人類のぶれを、ここの世界で見ていると、本当にわからん連中だなと思う。そして、ヤマギシをこの世界の縮図だとして見たときに、ヤマギシの人たちはいがみ合っているけれど、ちょっと大事を伝えるとすぐに気がつく。それと同じことを地球人に感じる。人間たちも戦争をやっているけど、痛い思いをすると気づくというレベルだと思う。この太陽の周りを回るぶれはほんのちょっとだけなので、意外とアホそうで、アホじゃないと思う。でも、これは太陽系の多様性なのだろうけど、水星とか火星のようにぶれてしまうと、これはもうどうしようもないじゃない。そうすると金星がひとつのモデルで、地球はそれに近い存在。その近い存在に、肉体と言う物質を持たせ、セットにすることによって何か実験しているわけだよね。だから、地球というのは、さっき話をしたヤマギシのどこかの実顕地において、問題点を改善するための実験場という意味合いもある。ヤマギシでいうならば、実顕地のようなもの。そういう風に捉えると面白いと思う。
今まで僕が思っていた印象の地球は、幼いという捉え方をしていたけど、意外と地球は幼いのではなくて、それは観えていないから幼いだけであって、観えたらたちどころに目覚める存在。そうすると、土星とか木星とかの外側の星は、地球のぶれに影響を与える存在。つまり、木星であれば木星の表現がある。土星自体も、それ自体が複数の霊的な魂のかたまりとしての特徴を持っている。例えば、人間の魂だったら、肉体の中に入れてやると一人の人格が出来あがる。そういう種類の魂の分類からすると、木星以降の魂の分類と言うのは魂のパーツのかたまりなのだろう。

み:パーツ?ちょっとわかりにくいんだけど?

い:一人の人間は、百八つの煩悩(カルマ)を持っていて、その組み合わせによってその人を表現している。そうするとその土星以降の惑星の霊的な表現は、百八つのなかのパーツ、つまり、愛とか怒りとかが部品のように個別のカルマとして分類されてあるのだろうと思う。わかる?

み:じゃあ、一つの人格的組み合わせになっていないということ?

い:一つの人格のように組み合わせになっていなくて、パーツごとにそこに存在している、いわば倉庫のようなもの。それが、惑星のラインが整ったりすると、太陽の刺激によって、そこから邪悪なものが地球に降り注いだりとか、愛が降り注いだりとか、人類が戦争を始めるとか、ヒットラーみたいなものを存在させるとか、そんな影響を与えているのだろう、そういう捉え方をするようになってきた。
だから水・金・地・火と木・土・天・海・冥はタイプが違うんだよ。

み:それぞれ今、地球に来ている魂は、目的が違うの?

い:地球に存在している魂のほとんどは、元々地球由来の魂で、太陽系の第三惑星を、現在の地球にするための地球化計画に基づいた目的が最初にあったはず。そうすると、地球のために生成された魂と、それからそれを指導するための役割の魂という分類はある。だから、元々、地球化計画のためにつくられた地球人類、肉体人間のレベルだけではなく、地球には霊的な状態で存在していて、外から刺激を与えて地球の運行を支えているものもあれば、まだ未熟なものとして迷っているものもいる。それが受け皿としての肉体に入って、肉体人間として地上にいるものであるから、人間には色々な魂の形態がある。

み:では、指導的な役割で来ている魂は、金星から来ているの?それとも他の銀河系の星からも来ているの?どれくらい広い範囲から来ているのかな?

い:指導的と言ってもタイプがある。現人神のように人間の肉体に入って、役割をする為に来ている魂は、金星からだけだよ。それ以外に、霊的なメッセージとして、他の星から、これは太陽系だけではなく、他の銀河からもチャネリングのような形で人類にメッセージを降ろしてきているものもある。だから、肉体人間として降りてきているのは、殆ど金星からだけだと思う。後は、太陽系の星々からパーツとして、いわば原発事故があったときに放射能が降って来るのと同じように、太陽の活動の結果として、他の惑星から霊的な作用が地球上に降ってきて、それが人間に影響を与えて、人間の世界の中の争いであったり、調和だったりという様々な作用をもたらしている。

み:他の星からのパーツを降らせる、降らせないという、その辺の采配は、やはり宇宙の意思?

い:大きな捉え方をすればそうだけど、厳密に言えば、それは太陽の意思だろう。だって、ここの世界は太陽系だもの。太陽(光)が元になって命が成り立つ世界だから、太陽が全ての惑星の心臓部、魂で言えば丹田だから、これは太陽の意思だよ。太陽系の範囲は、太陽の光が届いて、太陽のご意向によって成り立っているわけだから、これは当然のことでしょう。

み:じゃあ、わたしたちが神さまとか光をイメージするときには、太陽のイメージをすることが多いのだけど、それは、そういうことから来ているの?

い:そう。全ての元は太陽の意思だからね。

み:でも私が感じてきたのは、いさどんが言っているところの神というのは、それよりももっとずっと大きいものだと言う印象があるのだけど、そことの違いを話して欲しい。

い:太陽系をつかさどる神は、守備範囲としてあくまでも太陽系を任されている。その外の天の川銀河とか、さらにもっと大きな広大な世界をつかさどる神という存在も同然ある。それは、役割分担というか守備範囲のこと。今、僕が知っている天(あめ)の〇〇と言った「天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」とか、「天之常立命(あめのとこたちのみこと)」とか、仏教的に言うと大日如来とかは、全て太陽系をつかさどるもの。一般的に地球人が認識していた宇宙は太陽系のこと。しかし近代に入って、人類がこの世界を物理的に解明していった結果、太陽系の外に天の川銀河があり、更にその外に広大な宇宙(銀河群)があることがわかってきただけのことで、我々が霊的な影響を受けて、人格を含めた生命の仕組みを一つの法則としていただいているのは、太陽系が基準になっている。これは、一つのいわゆるコミュニティで、大きなコミュニティが銀河だよね。だから銀河は、地球で例えると国家のようなものだ。国家の中にあるコミュニティが太陽系で、木の花やヤマギシは、地球上の国家に当たるものになる。更に外に、宇宙と言う世界があるわけでしょう?

み:ふと思ったのは、太陽系が小さなコミュニティだと言われると「へぇ、そうなんだ」と思う。今のこの立場から言うと、地球だけでも世界全体で70億人の人がいて、相当大きなコミュニティだなって思う。でも、今の話のスケールに思いを馳せると、次の社会を作るための代替的なエコビレッジのような活動をしている人たちの中で、世界で活動している人たちはほんの一握りで、一歩海外に出てそういう人たちと会おうと思うと、みんな繋がっていて友達。数えられるくらいしかいない。案外小さいんだなと思う。そうやって考えると、太陽系が小さなコミュニティだなというのは、すごくよくわかる。わたし達エコビレッジ関係者の人たちの背後にも見えない広大な世界があり、その存在の全てを含めてコミュニティなのだと思うと、何となくイメージ的にわかったような気がする。
い:エコビレッジの運動をしている人たちは、何故そういう考えを持ったかということ。背景として環境を無視している人間のあり方や、人が繋がらないで対立しているような不幸があるからでしょう?その不幸があるからこそ、そこでエコビレッジ運動をする意味がある。ところが、金星のような世界は、既に完成されているのだからそれは必要がない。そこで僕は問うた。「この世界はあなたの意志によって動いている世界です。そうすると、人間は全てあなたの子供と言えます。ところが人々の歴史を見ると、血で血を洗うような歴史が営まれてきました。子の出来の悪さは親の愚かしさ。弟子の出来の悪さは師匠の力量不足とも言います。あなたはもっと優れた魂を地上に降ろし、もっと完全なる世界を創ればよかったのに、なぜこのような未熟な人間を地上に降ろしたのですか」と。それに対して神様が答えられました。「私はこの世界において唯一ひとつのものである。それは完全なる世界と言える。それは私だけの世界である故に、孤独な世界でもある。私にも食べ物がある。それは喜びである。喜びが私の食べ物である。私一人の孤独な世界では、絆もなく愛のない孤独な世界である。それ故に、光には闇を、善意には悪意を、愛には孤独を、調和には対立など、それら私の存在と反するものを生み出し、私の存在の表現とした。それにより、私の世界にいのちが生まれ、悪意から善意へ、孤独から愛へ、対立から調和へといういのちの流れが生まれ、その流れの中からこの世界に喜びが生まれるようにしたのである」と。ということは、今の社会に問題を感じて活動をしている人たちが、現代社会のあり方に対して間違いだと言うこと自体が、神の意思に背いていると言うことでもあるということだよ。わざわざ問題を作って変化を持たせたのだから、それを「問題だ、もっと理想の世界にしろ」という主張は、ある意味、この世界の多様性や自然の流れに反することになるわけじゃない?でも、背いているわけではないのだよ。問題を作ったのは、それを改善していくことによって、そこに喜びを発生させると言うメカニズムが目的なのだから、問題を作ったままにしておくのが目的ではない。問題を作るのが目的だった、更にそれを改善していくのが目的だった。改善して、更にそこに喜びを発生させることが目的だった。ということを考えると、問題自体もそれをノーだと言って、反対して騒ぐ人たちも、やがてそれが改善されていくことも、全てプロセスの上にある。つまり全てが目的で、順調よく行っているというわけだよ。
そうすると、我々は何をやっているかと言うと、争っていることも、調和していることも全て神さまの意思なんだよ。道代ちゃんがさっき、「自分から見たら70億の人間とか、地球から見たらこのコミュニティが巨大だと思った」と言っていた。それは、道代の物理的スケールと魂的スケールを基準にするからそうなってしまうのだよ。ところが、そのスケールを一回ご破算にしてフリーにこの世界を観て行ったら、僕の話なんか簡単に理解できる。

み:いさどんの話を聞いていると、その通りだなって思えるんだけどな。

い:ところが道代のスケールに戻るとそんな風になるんだよ。そこが、人の心が自由自在になれるという証拠なんだよね。そしてもう一つ表現していた、この世界の善悪、例えば、今までのようなあり方、ヤマギシで言うと拡大路線とか、人類が物理的な進化の延長に、偏ったテクノロジーの発展を進めてきたことも含めて、それ自体が曲がり角に来ている。しかし、その前の貧しい時代からしたら、それは問題ではなく、産業革命というテクノロジーの夜明けを迎えることになった。それは200年~300年続いた後、今、次のステージに進もうとしている。そうすると、その背景により物事の基準が変わるから善や悪になるだけのことで、善悪などはこの世界にありはしない。だから人間がいつでもフリーに、今出会っているものは何なのかを理解していければ、たちどころに問題ごとは消えていく、そういった自由自在の世界にいるということになる。しかしそれが人々にわかってしまうと、痛みを味あわせては、そこを乗り越えることによって喜びを発生させ、神さま自身も喜んでいるという、神さまが人間に対してゲームを仕掛けていることがわかる。これってゲームの世界でしょう?バーチャル(仮想的)に作っては、勝った、負けたと言って喜んでは、またご破算にして、ゲームをやっているようなもの。それがわかってしまうと人間は、人間の側でなく、神の側(宇宙の仕組み)に立つことになる。

み:なるほどね。最近、自分のトピックとして、二元論で考える自分がいて、何でも「良い・悪い」で判断していることに改めて気付いて、そのどちらかに分けようとしている自分に気付いた。それにはどちらもそれぞれ長所・短所があって、本当は決め付けられない。しかし、今、いさどんが言ったように、その背景や状況によって「こうだ」と決め付けてしまいたがる。そこに何があるかと言うと、決め付けることでそこに「安定」みたいなものをもたらしたいと思っている自分がいる。でも、そこに安定を求めていくと、水が流れるような自然な動きが無くなって、澱んで腐っていく。だから、宇宙は本来そういう風に出来ていないということだよね。

い:宇宙は限りなく循環し、巡りめぐって変化する。それは、一定のものであって、特定のものが繰り返し回っているだけの世界。その循環して巡りながら変化することを「生命」と言うんだ。だから、我々もまさしくその中にいて、自然に帰ったり、自然から戻ってきたり。大きく捉えると、それ自体が自分なのであり、一つの生命であることがわかる。
(宇宙=生命=循環して巡りめぐって変化するもの、増えもせず減りもせず)

み:だとしたら、人間が安定したいと思うその心って何なんだろう?

い:それが、自分への執着なんだよ。だから二元論って言ったよね。この世界は究極の二元の世界なんだよ。つまり、陰と陽で出来ていて、すごく単純さ。そして我々は自分と言うものが無い限り、こういう解釈はできないわけだ。お釈迦様も「自分と宇宙」、「自分と世界」という対比でこの世界を観たんだよ。それは、自分が無い限り、この世界もないんだよ。究極は自分とこの世界が対等、すなわち「自分=宇宙」であって、自分が無くなれば宇宙もなくなるという世界。だから、自分という存在を持っているところに、それがあるわけで、自分を越えたものに、それは無いわけだ。

み:ということは、宇宙を観たいと思っていると、その安定を欲しいと思うのね?

い:いいや、自分を発生させると安定が欲しいと思うわけだよ。自分という基準があると、自分の心地良さや自分の納得とか、自分で測るということになるものだから、自分の範疇の中にこの世界を置いて、特定して観ようとするわけだ。それで、自分を消せば消すほど、自分のスケールは大きくなっていくわけだ。例えば、自らを「自分」という特定にする、「家族」という特定にする、組織だったら「木の花」という特定にする、それから、「日本」、「人類」、「地球」、「太陽系」という風に特定するでしょう?そして「銀河」「宇宙」、それを「全体」と特定したら、「自分」の存在は消えていくわけだよ。つまり、自分という認識は、いくらでも増えたり減ったりするわけだよ。その意識がどの位置にあるかによって、対するものに対して特定しようとする欲求が生まれてくるわけだよ。それだけのことだ。それを自分を持ちながら、かつ自らは宇宙全体という認識を持っていたら、これは、ある意味、究極の世界に踏み入っているよね。そういうものは最終的に、肉体を返上したときに宇宙にその魂が微細に遍満して、宇宙そのものになるのだから、そうなったときには、特定する人間とかには囚われないわけじゃない。それが、悟りであったり神との合一であったりする。
そうすると地球を掌る神がいるとしたら、そのレベルの神とは、地球に囚われているということになる。だから、どこに意識のレベルを置くかということで、道代ちゃんが、一人の人間としての「道代ちゃん」に囚われていれば、その位置の現象が明快にあなたの人生に現れるということ。

み:最近わたしも寝る前に瞑想をするの。それで、その時に繋がるのが自分のハイヤーセルフ(神我)みたいなものと繋がるようにしているのだけど、そうやって考えると、もっと大きな存在と繋がった方がより宇宙的に物事を捉える役割をいただく人になれるのだろうか?

い:確かにその通りだけど、その構造が知識的にわかったとしよう。その時に、自分の魂がそのレベルに達していないのに、想うだけ想って、「わたしはそういう意識に繋がりたい」という意識では、アンバランスじゃない?

み:それも、神さまからいただいたことではなくて、自分の作り上げているエゴみたいなところもある、とも思うんだよね。

い:そう。エゴ的、知識的。自分の意識のレベルということになるわけだから、それだったならば、そういうことは一切抜きにして、明らかにこの世界には秩序があるのだから、その秩序に向かって呼びかけたほうがふさわしい。変にその構造的知識を知って、そこの位置に自分をもって行きたいというのは、よく行者が自らの欲求を達成したいがために、裏づけにする守護霊とか守護神を降ろしてきて、その背景によって道を説いていくようなご利益宗教になってしまう。それは、求める人にとっては尊いものであっても、真理に向かっての道からは遠ざかってしまうことにもなる。

み:何か、それも意図的かなとも思って。だから食事の時にするお祈りでは、神さまのレベルはわからないけれど、「神さま、どうぞわたしをお使いください。神さまが使いやすいわたくしでありますように、お導きください」と語りかけている。

い:「常に私はそのようでありたいと思っているものです。どうか私を相応しい役割に使ってください」だよね。でも、使ってくださいと言っても、向こうからすれば、「始めからそういうものとして、わたしは使っておる。改めて頼まれるような話ではない」ということになるんだよ。
だから、わたしとあなたという意識が存在している限りは、まだ途上ということになる。「既にお前と私は一体であって、お前はわたしの意思によって相応しいところで使っておる。お前の認識している意識は、お前がそのレベルに保っているとも言えるが、逆に、わたしがそうしているとも言えるんだぞ。」
そのことを理解すると、それって「私が今与えているレベルより、上がっていったから、役割を上に上げようか」とか、全て神の意のままの話ということでもある。そうすると、人間の思考っていうのは、何だろう?ということになる。

み:そうなの。そこで、自分なんかいらないとしたら、今までの自分を振り返ると、木の花に来て日々、自分の心の中を観ていくことをやり始めて、自分のエゴがあったりして、気付いていくわけじゃない。なかなか自分で気付かなかったり、改善できなかったり、意識が上がらなかったりするけれど、それも含めて全部神さまが、「いつまでも意識のあがらない道代ちゃん」を作っているというわけでしょう?

い:そうすると、つまらないじゃない。我々に意思が無くて、全部神さまのマスターベーションになってしまうわけでしょう?そこでは神さまもひとりでゲームをやっているのだから、つまらないわけだ。そうすると、自分というものを分割して、「自分 対 〇〇」という相手を創って、自分の範疇を超えた遊びの部分を作る。それが、我々に与えられている自由なわけだ。それをどうするだろう?これは、実験室でビーカーなどにこうした世界を作って、そこに地球世界を培養して、さてどういう風にこれが繁殖していくかを研究して楽しんでいる。それこそ麹でも培養して、発酵具合を見ているような世界でもあるんだよね。だから我々には、神を無視して、神の存在を全く信じない、自分達だけの思考でこの世を作っているという人々すらも認められているということなんだ。それを無神論者というのだけど、本当にそうなのだろうか?あなたはこの宇宙の中の一つじゃない?ということに気付いた時に、もう神の手(この世界の仕組み)の中に無い存在なんて有り得ないということになる。この世界を広くおおらかに捉えると無神論者も神さまの手の中にあって、それは遊びの中に与えられているということになる。

み:そうするとその自由をうまく使うことによって、神さまを結構喜ばせることが出来るね。

い:その遊びがあるからこそ、我々は神を認識することが出来るのだし、人間というのは、神の領域まで到達することができる者になるんだ。神はこの現象世界(三次元世界)を創造されたわけだけど、どうしてこの世界を創ったかというと、その中の殆どの存在は、神の意のままの存在であるわけだ。しかし、人間は、そこの中で唯一自由意志を与えられたものとして創られている。中にはその元本を理解できない無神論者までいるわけだ。つまり、人間という神(命)から隔離して、神から意識が離れていたものが神に近づいていく、そのプロセスを人間に味合わせて、その喜びを神自身が味わっている。だから人間は神の名代として命を生きて、生命としての自らに気付いていくことを目的として生きているとも言える。それに対して、他の植物動物などの生命は、神(宇宙ルール)の意のまま、ルールに則って存在している。人間の存在も神の意思そのもの。最終的には、全てこの世界は神の意思そのものということ。そういう風に考えていくと、またまたつまらなくなる。だから神さまに聞いたんだよ。「この世界にあなたは遍満している。そのあなたの支配する宇宙はあなたの個性ですね。すると、あなたの隣には、あなたの個性とは違うルールの世界があるのですか?」と尋ねた。そうしたら、「それを聞いてどうするのだ?」と言われた。「お前は私のルールの中に存在するものである。その隣の世界があるとして、それを理解しようとして理解できるのか?」と言われた。「それは、理解できません。」と答えると、「では、理解できないものを聞いてどうするのだ」と言われた。「あ、不必要なことなのですね」ということになるわけだが、では、それに対して「隣があるのか、ないのか?」ということに対しては、「あるが、理解できないものである」と言われる。それをどうやって理解するかというと、この世界は全て二元で成り立っている。ということは、「この世界」を認識したら、この世界を存在されるもう一つの世界があるわけだ。それは、物理学でも常識のことである。

み:いさどんが言っている「この世界」というのは、太陽系だけではなく、もっと大きなものを指しているの?

い:そう、宇宙全体のこと。この神が掌っている世界。物理学でも極められない世界。そして、この世界が存在するということは、その対極があるからこそこの世界があるということになる。それは、想像の世界になる。この世界のスケールは、何百億光年という世界だと理解している。それは行ってみてわかっている世界ではない。そして、この宇宙世界を一つの世界と捉えたら、これを存在させる一対がある。これを陰としたら陽、陽としたら陰があるということだ。こちら側を離れて向こう側に行き、向こうからこちらを見たときに、初めてここの世界がわかる。そうすると、物理的には対極に行けるかどうか考えるわけだ。そうしたら「行けない」という結論になってしまう。光を越えて、この四十数億年の、我々の宇宙を超えた世界、その百何十億光年の世界を我々は認識しているわけだ。この我々が存在する太陽系や銀河を作っている四十数億年を超えた世界がある。それすらも理解できないのに、その無理解の更に対極があるとしたら、もうどうしようもない。お手上げだ。それで、物理学では、この探求については諦めたが、僕は諦めていない。そこで、これを認識するにはどうしたらよいかと言うと、この物理的人間を超越して、自らの思考が宇宙意識まで行ったもの、つまり神のいる側 — あってあるもの、無きて無きもの — そこの世界に合一したら理解は出来る。つまり、神さま(宇宙真理)と一緒になったら理解は出来る。しかし、そこまで一体になると面白くないじゃない。何にも無くなっちゃうんだから。その手前のところで銀河でも旅をしようかというところに今の思考が働いている。

み:でも結局は、一般のわたし達みたいに、神の世界と一体にとても成り切れない人たちこそ、楽しみがあるということでしょう?

い:そう!だから、金星のぶれの無い世界に対して、地球のぶれのある世界というのは素晴らしい世界ということになる。その時に、何で地球に完全な世界を表現しなかったのかを神様に聞くと、「完全は完全であるのか?」と言われて気付いた。ということは完全は不完全によって表現されるのであって、完全なる世界とは不完全であると言っている。完全が不完全からできているとしたならば、その完全の世界に不完全を下ろし、そこで完全を超えた完全を創った。つまり、地球という世界は、完全を超えた完全の世界だとわかった時に、何とすばらしい世界がここに創られているのかということに気付いた。

み:今の話は、地球のこと?それとも宇宙のこと?

い:宇宙とも言えるし、地球とも言える。それほどの配慮の世界を創られたとわかった時に、僕は、神様は今まで偏っていて未熟なのではないかと思っていたけれど、そうではなかった。その偉大さに敬服し大拍手を送った。
「素晴らしい!」

み:そんな風に思ういさどんって何者なんだろうって思うんだけど。

い:僕はいつも、そのように対話しながら遊んでいる。面白い世界だ。この世界は想念の世界。想念こそが世界を創っていく。この物理的な世界は、解釈によってどうにでも解釈が変わる。だから物理的な世界も面白い世界だよね。
先日の地震や津波でたくさんの人が亡くなっていった。死を迎えることは誰にでも確実に訪れることである。それは生の学びの卒業でもある。そして修行からの救済でもある。生命として存在することから生まれる苦痛からの救済でもあるのだよ。逆に言えば、津波にもまれながら助かった人もいる。大変つらい経験をして助かった人々。その人々が本当に助かったのかどうかとは、その後の生き方によるのである。人によっては苦痛の世界に逆戻りしたことになる人もいる。それはゲームのようなものでもある。死ぬも生きるもその人の心の持ち方にかかっている。そのことがわかると、自由自在に楽しみ、生きられる。だからどこの位置に心をシフトするかによって、この世界は、喜びでもあり、苦痛でもあり、どんな世界にもつなげられる。そういったところから捉えると、うつ病になってみるのも善し、喜びを感じるのも善し、もう好きなようにしなさい。自由自在の世界なのだから。そしてそこまで意識が行くと、いかに我々が自由な世界にいるかがわかる。自らを特定してしまうと、たいへん不自由な世界に生きることになる。

み:わたしの心の癖だけど、ふと思ったのは、「あぁ、いさどんくらいに思っていたら、神さまは可愛くて仕方ないだろうな」って思ったの。

い:過去に僕がまだまだ目覚めの途上のころには、苦痛を感じたときに、「私に与えられたこの問題は何ですか?これをわたしに与えて、どうされようと言うのですか?」と想い、上を観上げると、いつも神様は「何も問題は無いぞ。滞りなど、どこにも無いぞ。全て順調にいっているぞ」と言ってニコッと笑っている。「そうですね、それを理解できない私がいるのですね」という対話をいつもしていた。ウッとして上を観るたびに、滞りなどどこにもないと癪に障るくらい、いつも言われていた。その当時は、神さまとのゲームにいつも負けていた。ウッとして上を観て、その存在に気付いたときには、「あっ、このゲームを引き分けにしよう。」と思うようになった。

み:わたしが思ったのは、いさどんみたいに出来のいい人は、神さまは可愛いだろうなと思ったの。でも、わたしやみんなみたいに色々と問題を抱えている人たちは、どうかな?って思ったときに、「あぁ、それでも神さまは愛してくださっているな」とすごく思ったら、出来の悪い子ほど、神さまは喜んでくださるなと思った。

い:だって、今ここにいる道代っていう存在こそ、神の目的そのものなんだよ。僕のようになると、心が通じた人ということになるけど、「おまえは、だんだんわたしの方に意識が近づいてきて、ある意味では、わたしの目的から外れている」つまり、僕のようなものが増えてきたら、この世界を創っている意味が無いということにもなる。

み:つまらなくなってしまうよね。ということは、わたしのできの悪さも神さまを喜ばせるという意味では、大事なの?それで、開き直っちゃいけないけど。(笑)

い:そうそう。それでも神様は、苦痛ばかりの中にいて、その意味が全くわからない人も、神さまが創られた仕組みの中の出来事として認めておられる。出来の悪い人ほど可愛いっていうじゃない。

み:うちにケアで来ていて、時間が掛かりそうだなという人たちが、どんどん変わっていくよね。それは、何かある意味、神さまが嬉しいと思うような感覚を、わたし達も味合わせてもらっていると思う。

い:そう、だからそういった人達が木の花に来ることは、我々のためなんだ。我々が何かしてあげているのではなくて、それが我々の存在の生きた証なんだ。してあげていると思っているうちは、まだまだ本当を理解していない未熟なものである。

み:今回、ケアのサポーターをさせてもらって、すごくそれを思った。楽しかったし、すごくありがたかった。

い:僕なんかいつも思う。この人は何でわからないのか、僕の言うことを聞きさえすれば、たちどころに良くなるのに、と思う時がある。何でこの人は自分の矛盾に気がつかないのかな、と思ったときに、この人はこの人で役割として、それを表現しながら歩みとしている。だから、治らないのもプロセスということになる。そうすると、場合によっては、治すことばかりが良いわけではない。だからといって、治さないのも良くない。という我々は大変面白い世界にいる。これは何なんだ?物事の奥にある意志を観る、表面に見える形に囚われるなということ。

み:それも全てお任せしなさいということ?

い:それはそうとも言える。しかし、お任せしてしまうと変化がなくなってしまう。だから結論が出せないところに、我々は存在しているわけだ。山岸さんの青本を読んでいくと、そういうところが出てくる。物事を特定してはいけない。色々なものがいて、それで良いのだとする。でも、この世界に問題ごとはたくさんある。昔は貧しかったし、そうするとその貧しさは解決しなければならないが、どの落としどころが正しいというところにあってはいけない。それを特定したら道は外れる、と彼は言っている。この方はそこの意識レベルの人だから。そして彼は、そこへみんなにおいでということを言っている。行ったらわかるぞ、行かなければわからんぞ、という世界。

このことをなかなか世の中に出せなかった。今回のこの旅はひょっとしてこの時間が目的だったのかもしれない。最近、僕の中にフラストレーションが溜まっていた。出版のプロジェクトも滞っていて、自分の中にあるメッセージが、出せないでいた。これも全て神の意思。しかし僕の中にはさらに色々あるのに、何で出せないのか、とフラストレーションが溜まっていたところだった。
今回の旅は、当初陽子ちゃんが出張するつもりでいたが、結果は陽子ちゃんではなかった、道代ちゃんと行くという風に考えていたら、みかちゃんも行くと言った。みかちゃんに行きたい心があるのならそれもいいか、と思っていたが、結果として、みかちゃんは行かず、二人だけだった。道代は来るけど、向こうの録音だけのつもりで来るのだろうか。僕は車の中の話も重要だと思っていた。そうしたら用意されていた。だけど、その心構えを道代ちゃんがしているかどうかは、僕にはわからなかった。そして道代ちゃんはその大事を心得ていた。そして、そのことで質問もあると言う。そしてこの場が持たれた。それで、僕のフラストレーションも解消した。

み:良かった~♪わたしにはわからないけど、自分が役割として行くと言ったけど、果たせるのか疑問に思った。だけど、どう考えても陽子ちゃんが行けなくて、この役割は運転のことも含めて、わたしが行った方がいいと思った。

い:運転などは、神さまに任せていると全く疲れない。自分の肉体の中に神の意識が入って、そうすると一応ハンドルを握っているけど、さっきからずっとここまでの間、全く運転している意識が無い。あぁ、こんなところまできちゃった。

み:いいなぁ、わたしもそんな風に運転できるようになりたいな。わたしもしてみようかな。

い:一応、もう少し行くと御在所サービスエリアだから、そうしたら道代ちゃんに代わってもらわないとね。ヤマギシの人たちには、いさどんは運転が出来ない人という認識を持ってもらう必要があるから。それは、いさどんが何者であるかという認識を、とことんわかってもらわなければならないから。

み:この間の電話での会話の様子を聞いていると、よりどんはわかっていないんじゃないかな?

い:でもそれは、同時に僕も充分自分のことがわかっていない。それは、時間と共に、自分の言葉に出会うと共にわかってくる。そういう状態だから。


まだまだです!は順調な証

2泊3日の滞在ですっかり病気が良くなり元気になったけいくん(詳しくは、「2泊3日の滞在でも」をご覧ください)。そのけいくんから、「僕はもう元気になったから、今度はお姉ちゃんの番だよ。お姉ちゃんが木の花に滞在してきたら?」と言われたお姉さんのゆうちゃんが、ここで1ヶ月と少しの間ケア滞在をしました。今回のブログでは、ゆうちゃんのケア滞在記と「主治医」であるいさどんからのコメントを紹介したいと思います。

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「木の花ファミリー ケア滞在記」

2011年2月の中旬から40日間、木の花ファミリーでお世話になりました。最初は弟の病気の相談で弟と母と一緒に木の花ファミリーに来たのですが、私には何かがあり、色々と行き詰まっていたのです。それで、私は木の花ファミリーにケアをお願いすることに決めました。きっかけだった弟の方は、いさどんと面談をして数日滞在しただけで、すっかり統合失調症が良くなりました。だから、自分の方も簡単に良くなるものだと甘く見てケアを受けたものの、なめていた自分がいて、本当に滞在中は苦しみました。

そんな中、ファミリーの人たちは毎日温かく優しく接してくださって、私のうつ的な状態を全身全霊で治してあげよう!という気持ちがいつも温かく伝わってきて本当にありがたかったです。しかし、その反面、私は我が強くて自分のことは棚に上げ、「人を正したい、自分はいつも正しい」という思いがありました。他人の言うことを素直に聞けないので、同じくケアで滞在している人に怒りを感じたり、おせっかいをしてみたり、ケンカをふっかけたりと、以前からの癖がここでも繰り返し出てきました。ファミリーの優しさに心を閉ざし、「早く家に帰りたい」と思ったことは何度もありました。こんなに長い時間をかけて自分の心をみつめる機会はなかったので、挫折して逃げ帰りたいと何度も思った自分でした。そんな我の強い自分も、「自分のやり方で良くしたい、治したい」という思い(この考え方は私の昔からの癖)も滞在中にとうとう底をつき、苦しくて号泣していた時に、やっと主治医であるいさどんの厳しい言葉が心に素直に入ってくるようになりました。親にも言われたことがなかった自分なだけに、直したほうがいい性格上の癖をいさどんに言われた時には辛くて受け入れがたかったです。しかし、そこを受け入れたら、病気になるほど頑固で見栄っ張りでかっこばかりつけていた自分に気がつきました。そうやって自分を正しく捉えることが出来た時に、いさどんの愛情を感じることが出来るようになりました。

その後は毎日作業が楽しく、自分が思っているより自分が小さい器で、情けないところが沢山あることを受け入れたら、ファミリーの人たちと自然の中に囲まれたここでの暮らしが本当に楽しくなりました。毎日目の前のことを集中してやっていく。無駄な考えが湧けば切り替えて、目の前の作業に集中することが健全な心なんだと教わりました。歌をうたって、笑って、みんなと食事をして、クタクタになるまで畑のお手伝いをさせてもらって、美しい富士山や木や花を眺める日々がいただいたものだと思えて、幸せな気持ちをいっぱい味あわせてもらい、いつのまにか苦しい道を抜けて、豊かな心をいただいていました。ここに来る理由となったのは家庭環境のトラウマだったのですが、木の花ファミリーで教えてもらったことは、苦しかったトラウマ時代も実は私にとって必要な経験であったこと。来るべきタイミングがやってきて、木の花のみんなに助けてもらえたこと。すべて与えられ、必要な経験だったのだと学ばせていただきました。

まだまだな私ですが、これからもいただく謙虚な気持ちで、ファミリーのみなさんと学ばせてもらいたいと思っています。今回は体験を書く機会を与えてくださって、本当にありがとうございます。ありがとうございました。

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そして、ゆうちゃんがここを出発する前日の大人会議で、いさどんはゆうちゃんに次のような言葉を送りました。

いさどん:
ゆうちゃんは最初、ケア相談で訪れた弟の付き添いでここに来ました。その時は、「ちょっと落ち着きのない人だな」とは思ったけれど、まさか彼女がここへケアで来ることになるとは思いもしませんでした。弟は短期間の滞在で奇跡のように回復し、それでお姉ちゃんにもケアを薦めてくれたようたようでした。

その後、ゆうちゃんがうつ病ケアを受けにここに来た時には、「この子は難しい子だな」と思いました。というのは、自分で自分の状態を判断していて、「私はそんなに重くない。1週間くらいで良くなる」という判断をしていたからです。それはよくあることで、そういう取り違いをしている人は逆に難しく、時間がかかるケースです。

今は持って生まれた魂のように、謙虚で人に力をもらいながら、そしてもらったことを今度は人のために生かすという人になりました。あなたは陰性だから、人からいただきながら、そのいただいたことを感謝して人に生かしていくというタイプなのです。ところが、ここに来た当初は逆のエネルギーが沢山出ていました。自分のことを自分で判断し、エネルギーもちょっと雑な感じで、ガンガン押し通すような雰囲気でいました。「これは逆転現象が起きているから、このことに気づくのにちょっと時間がかかる」と捉えていました。

しばらくはそういう状態が続いていたのですが、1週間が経って面談をした時に「どう?あなたが予定していた1週間が経ったけれど、これで良くなったと思う?」と聞きました。そこではすでに素直になってきていて、「ダメです!どんどん自分のダメな部分が観えてきました」と言いました。ケアで預かる場合、だいたいいつも最初の1週間をフリーに過ごしてもらい、それからこちらから観える景色を伝え、本人に1週間を振り返ってもらって感想を聞き、その時点で今後の見通しを立てていきます。彼女の場合は、この時点で1週間でいいと思っていた自分の間違いに気づけたので、ようやくここでケアのスタートラインに立てたのです。

その後は、少しずつ自分の実態を認めていく作業に入っていきました。自分を実態とは違うように思いたい、そういう理想を自分にダブらせているとその分だけ余分な時間がかかりますが、彼女はどんどん自分を認めていくという作業に入っていったことを覚えています。

そして、1ヶ月が経った時に僕としては、「今、卒業するのにはちょっと厳しいな」という見解を持っていました。ただし、これはこちらから「ダメだよ」と伝えるのではなく、本人に聞いてみて、本人がどれだけ自分自身を正確に捉えているかということが大事なポイントでした。そこで、「どう?自分で良い状態だと思う?」と聞いてみたら、「まだまだです」と言いました。これが順調だということです。それで、「まだまだです」という言葉を聞けた時に、「卒業はそんなに遠くないな」という見解を持ちました。

それから1週間は、ゆうちゃんがここに滞在していることが気にならなくなっていました。それは何かといったら、ここもひとつの社会ですから、社会の中にいるその人が違和感を発しないという状態です。つまり、調和の生活が出来るようになったということです。調和の原理というのは、まずは謙虚であること。そして、そこで自分が学んでいること。学ぶということは成長しているということです。そういう人は社会では違和感を発しないのです。自分が特別に良くみてもらいたいとか、自分を主張したいといったことがなくなっている状態です。謙虚で学んでいる状態というのは、社会全体を良くすることが出来ているということでもあります。彼女の存在に違和感を感じないと思ったので、急遽面談をすることになりました。それで、「自分のことをどう思う?」と聞くと、本人は「毎日楽しいです」と言いました。そこで、「そうだね、もう卒業の時が来ているね。あとはお母さんと段取りをして、帰る日にちを決めよう」ということになったのです。

ここにケアで来るひとりひとりはその人流に歩んで、その人流に卒業を迎えていきます。歩みも期間もすべて別々ですが、今回も良い物語を見せてもらいました。こういう形で送り出せるということは本当に感謝です。良い勉強になりました。本人にとっても希望のある充実した期間だっだと思うのですが、それが昨日からだんだん不安が出てきて、今日のお昼には僕のところに来て、「私、このままここを離れて大丈夫なのかな?」と不安そうに言いました。「それは当たり前だよ。最後の面談でも伝えたけれど、今の点数は70点だ。だいたい70点取れば合格点。でも、満点にはあと30点足りないよ。この30点をなぜ残して卒業なのかというと、自分の道は自分で歩み、築き上げるものだからです。仮にここで90点や100点をもらったとしても、その点数は仕上がれば仕上がるほどここで与えてもらったものになる。それは木の花依存症やいさどん依存症にもなりかねない。だから、不十分であっても合格ラインがもらえたのだから、そこから社会に出て、自分で築いていく。そうすると、それが自分の人生になるんだよ。あなたらしい人生を歩んでいくことが大切で、自覚のもとに自分の人生を積み重ねていく。だからこそここでの経験をもとにして次もやっていける自信も身につくのだし、それが自分の気づきだからこそ人の役にも立つ人になれる。それがここのケアの原則です。そういうことが本人にとっても大事だからね」と伝えました。

これからの歩みも順風満帆に行かないこともあるでしょう。今は、自分が今までどのように歩んできたのか、なぜ今まで迷いの道にいたのかということはマスターしています。そうしたら、これからは色々な問題事に出会ったとしても、それをチャンスとして活かしていくことが出来るようになっています。最近ゆうちゃんが「ありがたいです」と言うように、問題事によって自分の中にある種を表現させてもらい、自分の行動を振り返って自らを見直すチャンスなのだと気づいたら、問題事は人生を生きていくための糧になるわけです。

そして、私たちは世の中で行き詰まった人たちのために、ここでこのような暮らしをしています。そういう人たちのおかげで私たちも育てられているということでもあるのです。やはりこういう精神性に基づいた仲間を増やしていきたいと思っています。私たちの生き方がそういったきっかけとなることを望んでいるのです。人生はいつどこでどうなるのかはわかりません。これからゆうちゃんは僕たちとちょっと距離を離れて生きていくことになりますが、私たちと同じ志を持って生きていってもらいたいと思います。離れていても、同じ志の仲間として生きていけるということです。

ゆうちゃん、卒業おめでとう!そしてありがとう!

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そして、ゆうちゃんが卒業してから数日後、ゆうちゃんのお母さんからファミリーに電話がかかってきました。

「本当にどうもありがとうございます!ゆうがこんなに変わって、変わって。人はこんなに変われるものなんですね!みなさんのおかげです。本当にどうもありがとうございました。いさどんさんにもよろしくお伝えください。」

けいくんが元気になり、ゆうちゃんも元気になり、お母さんもこれからは安心してご自身の人生を歩まれていくことでしょう。自分の健康はまわりの人も幸せにしていきます。「まだまだです!」は順調な証。けいくん、ゆうちゃん、これからも共に謙虚に学びながら歩んでいきましょうね。


「おやじの館」から「心の湯治場」へ

2009年7月から始まったいさどんブログ「おやじの館」。ブログが出来たきっかけは、「いさどんの話をひとりだけで聞くのはもったいない!」と思ったようこが、まずは大人会議でその話をメンバーとシェアするようになり、さらに多くの人と共有するためにブログ上で公開することになったのでした。この「おやじの館」という名前はいさどんがつけたものであり、当時58歳のいさどんは、「僕は20年ごとに人生の節目を迎えており、60歳からはうつや自殺者をなくす活動をしていきたい」と語り、そういった人々に心の道を伝える場を「おやじの館」と称したのでした。

それから約2年が過ぎ、この5月3日には60歳の節目として生前葬が行なわれることになりました。生前葬まであと数日となったある朝、いさどんから「5月3日を迎えるにあたって、おやじの館の看板を改めたい。もう僕の体は僕のものではなくみんなのものだから」という話がありました。30数年、色々な人の相談に乗ってきたいさどんですが、これからは世の中の行き詰まりや問題のある人の相談にますます専念していくことになるのでしょう。

うつや自殺願望など心の問題のみならず、親子関係や夫婦関係の不和、子育て、進路の悩み、職場での行き詰まり等、どんな悩み事でも相談にのります。そういった今目の前にある問題事から、「生きる目的は何なのか」、「どうやって精神性を高めていけばいいのか」、「宇宙はどうやって始まったのか」といったスケールの大きな質問までお答えします。

以前いさどんは、「僕の中には5つの存在がある。1宇宙人ピトピ、2御中主命(ミナカヌシノミコト)、3聖者イサジ、4人間いさどん、そして5古田偉佐美」と言っていましたが、相談者がいさどんから何を引き出すかによって、現れてくる存在が違ってくるようです。そして、5月3日以降はさらに多くの存在が引き出されることになる予感がしています。

みんな一人一人の心に平穏と喜びが訪れ、地球上、さらに宇宙全体が愛・善意・調和で満たされますように。一人一人が真理に目覚めるようサポートしていく場、それが「心の湯治場」です。


自らの経験を他者のために生かす

31歳のすーくんは仕事のストレスと昼夜逆転の生活が原因で25歳の時にうつ病と診断され、仕事をやめて母親のもとに戻って生活していました。そんなすーくんが母親と一緒に初めて木の花を訪れたのが2月の下旬。その時は木の花に1泊し、いさどんと面談をして母親の暮らすヤマギシに戻っていきました。その約1週間後、ヤマギシの地でいさどんはすーくんと再会し、その時のことをこう語ってくれました。

「1週間後彼と再会したら、『調子が悪いんです』と汗を額から流している。『どうしたの?』と聞いたら、『いさどんが健康になるためには木の花でケアを受けて、薬をやめなさいと言ったし、太りすぎの体は食べ物の食べ方が間違っていて、肉も食べすぎている。それでは体に悪いよと言われたから、帰ってきて薬をやめました。火曜日にお医者さんに行って薬をもらう予定だったけれど、お医者さんにも行かなかったし、肉も食べちゃいけないといさどんが言うから食べなくなった。それで体重は2kgやせたんだけれど、調子が悪くて』と言うのです。『それは当たり前だよ。薬をやめるのは将来の話だし、仮にやめたとしても心を安定させるサポーターがいてやるべきだ。医者に通っていた人が急に自分の判断でそんなことをしたらおかしくなるよ。でも、僕はあなたの言うことを評価する。良くなりたいとそこまで思ってのことだから。その心を忘れないで、とりあえず明日薬をもらいに行きなさい。それからまずは薬で不安定な心を安定させて、木の花においで。そのやる気があれば良くなるから』ということで今度木の花に来ることになりました。」

その数日後、すーくんは「今の自分を変えたい」ということで木の花を訪問しました。ケアサポーターのいさおちゃんと同室になり、ケア滞在がスタートしたのでした。ケアがスタートしてからも紆余曲折がありましたが、薬とタバコの量を少しずつ減らしていき、10日後にはどちらもやめることが出来ました。ゲーム依存や引きこもり的な姿勢も解消され、1ヶ月後には見事ケアを卒業。以下に、すーくんが書いてくれた「木の花ケア滞在記」をご紹介します。

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「木の花ケア滞在記」

自分は自分をどうにかしたくて3月11日に木の花に来た。でも、1週間で帰ろうと思っていた。治したくて来たのに、治らなくても良いと思っていたんだと思う。社会復帰がしたくて社会適応訓練事業に行っても、しんどいからやめるというのを何度も繰り返していたのと同じだと思う。したいことをしてみて、辛かったらやめれば良いというのを何度も繰り返して、自分はダメ人間だと思うことに慣れてしまったんだと思う。

それで、今回もダメだったから帰ろう、辛いから帰るのもダメな自分では仕方ないと思って帰ろうとしたら、母さんに「治るまでは帰ってきても受け入れない」と言われて目の前が真っ暗になった。帰りたくても帰れないから、仕方なく木の花に残ることにした。泣くだけ泣いて、半分ヤケになって「やってやる!!」と思った。     (3月19日)

それでも何回も脱走を考えた。どのルートをどの時間に行けば良いか。だけど、どう考えたところでホームレスになるだけだと思って、もう少し頑張ろう、もう少し頑張ろうと思って目の前の事に集中するように努力していったら、「自分にも出来る」と思えるようになっていった。この時から少しずつ明るくなっていったんだと思う。  (3月23日)

次に、薬の離脱症状が出てきた。(22日から断薬)めまいや吐き気、偏頭痛で作業が出来ないくらい辛かったけど、せっかくケアに来てここまで頑張ったのに薬を飲んだらまたふりだしに戻ってしまうと思って、薬だけは飲みたくないと思って耐えた。キッチンスタッフの皆にも、「それは良くなる為に必要な苦しみだよ」と声をかけ続けてもらって頑張れた。26日に母さんが来てくれたのも、すごく励みになった。母さんに元気な姿を見せたくて頑張れたという部分が実際に沢山あったので、来てもらって良かったと思う。

あと、「怠けたいから休む」のと、「体調が悪いから休む」の違いに悩んだ。自分の中の怠けたい心が「体調が悪い」と言っているのかどうかに悩み、「とりあえずやってみて、無理だったら休む」というふうにすることで、朝7時に起きるという生活リズムだけは崩さずにすみ、自信がつくことで気持ちがどんどん明るくなっていった。

だけど、薬の離脱症状で食べられない日が始まって、食事の時間は憂鬱になってしまった。さらに、そこに食養生が始まり酵素玄米を食べるのが辛くて、結局食養生は途中でやめた。

あと、離脱症状が峠を越えたぐらいから咳がひどくて喉が痛くなり、同時に頭痛も来て休むことがかなり増えて、「風邪だろうなぁ」と思っていたら、ケアサポーターのいさおさんに「離脱症状で喉も痛くなるよ」と言われて、自分はもう離脱症状は無くなったと思っていたから驚いた。そして、結局寝込む日が何日も続いた。

何日も寝たり起きたりで段々「すーくんは怠けている」と周りの人に思われているのではないかという気持ちも出てきて、自分にイラついて早く治したくて、いさおさんに「医者に行きたい」と言ったら、その日の午後に面談で「休むのが必要な時に休むのは悪いことではない」と言ってもらって楽になった。それと同時に、「引き篭もるのは自分をいじめること」とも言ってもらって、本当に自分の気持ち次第というか、自分を冷静に見つめる大切さを考えながら休んだ。

あと、後ろ向きな「けど、でも」が自分の口癖になっていることを何度も指摘されて、それは結局何でも悲観的に考えてしまう自分の癖だったり、「自分には出来ない」とすぐ諦めてしまう癖なんだろうなぁと思って、「どんなことも良いことがあるし、どこからでも良い方向に持っていけるんだから、悲観する必要は無い」と思ったら、気持ちが楽になった。

体調が悪い次の日は、皆が「体調はどうですか?」と聞いてくれて、「悪いです」と答えるのもなぁと思って、「良いです」と答えたら嘘をついている気になって、やっぱり「あんまりなんですよねぇ」と答えていたら段々気持ちまで暗くなってきて、薬の離脱症状は短くても3ヶ月続くと言われたからどうしたものかと思っていたら、体と心は別なんだからそう言えば良いだけだなぁと思って、「体はしんどいですけど、心は元気です!」と答えるように変えたら、楽になった。

10日の座談会でいさどんに「すーくんは賢いから、その時求められている答えを判断して出すところがあると思う」と言われて、それは自分でも自覚していたのでどうしたものかと考えていたら、「答えを考えるだけの時間を自分に与えなければ良い」と思ったので、10日のミーティングで出す時も卒業コンサートのコメントもあえて考えないで話して、このケア滞在記も考えずに思ったことを書いています。「正直・素直・相手を信じる」というのをやったら、そういうのも無くなっていくだろうし、評価されたい気持ちは置いといて、自分の良くない所もポンポン出していこうと思う。

これからの抱負としては、11日の晩に「やっていけるかなぁ?」と不安になったりもしたけど、「やれることを一つずつやっていく」だけなんだから、何も不安になる要素なんて無いなぁと思った。やれないことをやれと言われているわけじゃなくて、やれることをやるだけだから。

いらない薬はいらないし、タバコもやめられた。ゲームは使い方次第では有用なものになると自分は思っているから、冷静な自分を常に立てて上手に付き合えたらと思っている。面白くても何の役にも立たないゲームも世の中には沢山あるので。

まずやることは毎朝7時に起きて運動をして、出来ることを一つずつやってリハビリにしていくことだと思っているので、確実に淡々とやって実力にしようと思う。あとは「正直・素直・相手を信じる」を心に置いて、周りの人と沢山話をして沢山言ってもらって、皆から愛される人間になっていく。

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そして、すーくんが出発する前の晩卒業コンサートが開かれ、いさどんは次のように語りました。

「問題を持って来た人が卒業していくことは本当に嬉しいことです。ひとりひとりのことをその人が卒業する度に振り返るのですが、すーくんも途中ではやっぱり大変だったよね。1週間も経たないうちに帰りたい、帰りたいと言い出して(笑)。

初めに、お母さんからすーくんが引きこもっていることを聞いて、何とかしてあげようというところからこのケア滞在が始まったのですが、すーくんはそういった生活を卒業すると同時に、今回はいくつものことを卒業しました。まず、一番良いことは病気が卒業出来ました。だから、薬がやめられたし、ゲームもやめられました。当初すーくんにゲームのことを聞いたら、「絶対に手放せない」と言っていました。布団の中にもぐってゲームをするようなゲーム依存生活でしたね。それから、今はちょっとだけウエートオーバー気味ですが、ここに来てから9kg減量出来ました。そういう色々なことをここで卒業出来ました。そして何よりも、魂の形通りとても愚痴っぽくて前向きではなかった人が、今は客観的に自分を見てそれを語れるようになりました。これは大変大きな変化です。

今回はヤマギシの春日山からケアサポートチーム立ち上げということで6人の人が来てくれて、1週間をすーくんとともに過ごすことになりました。すーくんの変化をみんなで振り返りながら、こういった人たちをサポートし、社会でしっかり通用する人に変えていくという取り組みのためにここを訪れました。これはヤマギシの中だけの問題ではなく、ちょうどこの間大きな震災がありまして、これから色々な意味で世の中が行き詰まることになります。日本中で行き詰まった人を支えていかないといけない時に、私たちのような血縁を超えてみんなで助け合う社会というものがこれから必要になってきます。そういった中で、ヤマギシという大きな組織がそういった世の中の行き詰まりを解決出来るところになるということは非常に大切なことであり、これからの世の中にとってたいへん必要なことだと思っています。そういった意味では、今回はケアの当事者ということだけではなく、すーくんにもその経験者として今後行き詰まった人のためにも生きていってもらいたいと期待しています。これからどうやってすーくんをサポートしていくのかということもありますが、サポートされる側はいずれ卒業して、そういった人たちのために生きていってほしいと思っています。

その人が本当に生き生きとするということは、本人も生き生きですが、他人にも生き生き、喜びを与える人ということです。ですから、自分の存在が自分にも他者にも喜んでもらえるような生き方をしてもらいたいと思っています。それが人の生きている価値なのだと思います。他人の荷物になっていくのも生き方なのかもしれませんが、それはあまり喜ばしい生き方ではありません。ぜひ前向きに生きていってもらいたいと思います。

ケアの人が卒業する時にはいつも言うことですが、私たちに一つの事例を与えてくれ、卒業することによってここの取り組みにまた一つ実績をつくってくれました。そういう意味でいつもありがたいことだと思います。卒業するということは新しい旅立ちですから、気を緩めずに今の気持ちをしっかりと持ち続けて、今の姿勢のもとに今後もしっかりと生きていってもらいたいと思います。

まずは卒業おめでとう!私たちにも良い勉強をさせてくれました。ありがとうございます。これから100点満点というふうにはいかなくても、大変な時にはここで学んだことを思い出したり、アドバイスが必要であればまた連絡をしてください。縁があって出来た家族がここにもいるということですから、また遊びにも来てください。それから、ヤマギシの方にも自分を支えてくれる沢山の家族がいるのだから、そういった人たちと仲良く暮らしてもらえればと思います。

卒業おめでとう!そして、ありがとうございました。

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そして、すーくんが卒業してから1週間後、すーくんの近況を教えてくれるメールがヤマギシのケアサポートチームから届きました。「お母さんが近くにいると甘えてしまうから、お母さんのいる場所から離れたところで自立したい」というすーくんの希望が叶い、新たな場所で新しい仕事に取り組み始めているそうです。そして、ケアサポートチームの勉強会にも参加しているということで、今後自らの経験を他人のために生かしていく人になっていくのでしょう。

すーくんの活躍をみんなで応援しているからね!すーくんが帰ってくる時には、大好物の特製おやきを作って待っているからね。