『人間』という宇宙的実験 〜 2022年冬至のメッセージ

「夜明けは近い」という印象的なフレーズが繰り返される『友よ』という歌があります。この歌は、1960年代末の学生運動が盛んだった時期に、社会変革を訴える歌として世の中に受け止められ、ベトナム戦争の時にも反戦歌としてよく歌われていました。あれから半世紀が過ぎた今、夜明けが近くなるどころか、世の中の闇はさらに深まっているように観えます。
現代は、一人ひとりの個人も、地域社会も、世界全体も、大きく滞っています。その根本は皆共通しており、そこから腐敗が発生し、広がっていることが感じられます。今、現代の地球上にこの事を発しなければならないという思いが湧き、それが言葉となって湧き出してきています。2012年12月21日の銀河の冬至から10年となる今日、2022年12月22日冬至の日に、その事を皆さんにお伝えします。

地球生命の歴史の中で、時を経て、人間は他のいかなる生命とも違う歩みをするようになりました。その最大の特徴は、個の喜びを追求するようになったことであり、それが自我の増幅を際限なくもたらしていることです。
生命の成り立ちとは、元々、個の喜びを追求し、自我を表現することではありませんでした。人間以外の生命は、人間のように強い自我による意志を持たず、地球生態系の大調和を定めとし、その大いなる循環の中でそれぞれの位置を与えられ、役割を果たし、全体の調和を表現してきました。それは絶対的で、揺るぎのないことです。不調和をもたらす目的で地球上に生まれてきた存在はいないのです。
そのような生命世界に、人間は誕生しました。そして、自我を持つことにより、『人間』という生命は、宇宙的実験を使命付けられました。

人間は、個々の目的を達成することを喜びとする特殊な生き物です。それは、探求心を持ち、過去の経験を現在に繋ぎ、未来に向かって自らの意志で現在の状況を変えていくことができる、特別な能力を持っていることでもあります。しかし現代の人間は、その特別な能力を、自らに都合の良い未来を想定し、全体を無視して自分だけの利益を追求することに使うようになりました。それは自我から生まれる自己実現の欲望をくすぐり、欲望が満たされれば満たされるほど、人間はその虜となっていきました。それを可能にしたのは、自らを他と区別し、差別するようになった人間の心です。
区別とは、自分と他との違いを認識し、その違いを個性として互いに補い合い、全体を繋いでいくものです。ところが人間は差別をすることにより、自分と他とに差を付けて違いに優劣を生み、違いを生かすのではなく、違いによって優越感を見出したり、反発したりするようになりました。そして、自らが他のために存在するという、生命の根幹たる姿勢が失われていったのです。

現代の人間社会の営みは、すべてがゲームやスポーツのように、地球生態系の大調和の中にある生命本来の在り方とはまったく違った感覚で行われ、自然界には決して無い生き方を貪るようになりました。そして自我から生まれる欲望の自己実現をすることが、当然のこととして、代々伝承されるようになりました。生命として生まれ、新鮮な欲求が新たに湧いてくるというよりも、DNAに刻まれた欲望の心が自動的に湧き出してくる状態です。それがあまりにも身近にあり過ぎて、そのことが何をもたらしているのかが観えないのです。
欲望を叶えようと、誰もが当たり前にするようになった結果、大調和の下にあった地球の生態系は大きく乱れました。今や人間というひとつの種が、地球上に汚染をまき散らし、まるで地球のガン細胞のように、全体の生命バランスを破壊するところまで来ています。人間が欲望を叶えるために創った経済システムは、自然界とはまったく異なる「人工」という世界を構築しました。それは一見、人間の特殊能力である探究心や創造力、テクノロジーによって豊かさが表現されているようでありながら、その実態はこの世界の秩序を無視し、自然を破壊する力を持ち、地球全体を貧しくして危機的状況に陥らせる驚異の源泉となっています。
近年の地球規模の危機的状況は、多方面からの情報によって多くの人々の知る所となりました。ところが、特別な能力を持つ賢い生命であるはずの人間は、その深刻な事態を知っているにも拘らず、自らの欲望を満たす快楽の方が勝ってしまい、危機的状況の源泉である自らの生き方を改善することができない状態に陥っています。それは、個人という小さな単位の生き様に現れているだけではなく、国という単位の国家エゴにも如実に現れています。それぞれが自らの欲望の延長に生きた結果、他者との不調和を生み、最終的には自分自身の健康や生命としてのバランスさえも脅かし、自らの行いが自らを破壊する自己矛盾を創り出す生き物となったのです。

宇宙は、極めて道理の通った世界です。その宇宙において、人間が道を踏み外し歩んできた結果、地球上にしかない矛盾に満ちた現象が、問題ごととして発生しています。歴史を紐解き、世界観を広げ、高い視点から未来までを見通して現在の実体を捉えてみれば、今地上で起きている現象は、時代の流れの奥にある時(トキ)からの大いなるメッセージであることが感じられます。それは、宇宙の始まりから常に世界をひとつの方向へ導き続け、壮大なる生命進化の物語の果てに人間を地上に降ろした「宇宙的意思=大いなるもの」からのメッセージです。
21世紀に入り、25800年ぶりの銀河の冬至(2012年12月21日)から10年の「統合」を迎えた今、道を踏み外して物事が観えなくなっている人間たちに対し、時の物語は様々な現象を起こし、メッセージを送っています。しかし、自らの側だけに立ち、欲望を叶えることの虜になっている人間には、そのことがまったくわからず、気付こうとさえしないのです。そこに、地上に理想世界が生まれないすべての原因があります。
ネイティブアメリカンの言い伝えにもあるように、人間が本当に馬鹿になってしまったように見える闇の時代の局面を今、私たちは生きています。銀河の冬至が明け、霊的な光が差し始めたことで、これからさらにその闇が浮き彫りとなってくることでしょう。それでも真実に向かうことを諦めず、歩んでさえ行けば、その先に確実に光が観えてきます。

地球の生命進化の歴史を振り返ると、過去6億年の間に、6回の大量絶滅が起きています。時の意思と共に進み続ける進化の物語にそぐわないものは淘汰され、その度に質的転換が起き、新たな種が誕生してきました。
近年、人類という種の営みは、地球生態系の調和を破壊する特に見苦しいものとなっています。その愚かしさの極みを、時のメッセージを受けて自ら振り返り、それを痛みとして善きものに転換する能力を、人間は発揮するべきなのです。このまま7回目の大量絶滅に向かうのか、それとも、人間の叡智がそのことを学習し、絶滅を伴わずに次の進化へとソフトランディングするのか。それは、次の時代を生きる人間の新しい姿がもたらすものです。
有史以来の6500年間、人間は文明を築いてきましたが、それは人間の地球上での身勝手で我儘な振る舞いを表現するためのものでした。自我から生まれる願望が、たとえどれほど他を傷付けるものであったとしても、一たび勝利者となってその願いが叶えられれば、それが正義となり、その有利な立ち位置に立てば何をしても良く、それこそが正義であると称えられる時代でした。しかし本来、他の生命にはない特別な能力を与えられた人間は、この多種多様な生命の大循環の中でコンダクターとしての位置を与えられ、宇宙の奇跡として創られた命あふれる星、地球を、その大調和の法の下に、より美しく、より優れたものに仕上げるための存在でなくてはならないのです。
人間は元々失敗作であったのか、それとも宇宙的実験の結果、失敗に至ったのか。或いは、大いなる宇宙的意思の下、本来の尊さへ向かうための物語を今、歩んでおり、現象を通して気付きを得ることで、その広く高い視点から世界を観ることを学ぶプロセスの中にいるのか。前者であれば、人間はこのまま気付くことなく、自らの矛盾によっていずれ破壊を生み、地球生命進化の歴史の中で7回目の大量絶滅のプロセスを迎えるのかもしれません。その結論を今出すことはできませんが、できれば後者でありたいものです。その可能性を、示したい。

過去から現在の自分へと連なる人類の歴史を理解し、それを学びとして自らを転換すれば、現在の自らが浄化されると同時に、結果としてその先にある未来も、そしてその元となった過去も、すべてが浄化されます。「あれがあったから、こうして今気付くことができた」と、過去の愚かしい出来事が、気付きへと繋がる尊いことに変わるのです。あなたのベースを築いた祖先が愚かであったとしても、あなた自身が目覚め、優れた者となることで、そのあなたにつながる祖先もまた尊い者となるのです。
これまでの人類の歩みは、浄化どころか、更なる愚かしさを積み重ね、次世代へ負のカルマの連鎖をもたらすものでした。しかし、銀河の冬至が明けて宇宙的ターニングポイントを迎え、時代は闇から光へ、即ち浄化の方向へと舵を切りました。ですから、この事を理解した者は、信念の下に、誰もがそれをやり切らなければなりません。時代がそれを後押ししています。それは、このターニングポイントに生まれてきた者としての一番の醍醐味と喜びにするべきことです。現代人は、お金を稼ぐことや、物に執着することを生きる上での最優先事項にしていますが、それは本来、生命として最も大切なことを育む時に付随するものでしかなく、最優先事項ではないのです。

過去、人(ヒト)である事の尊さを探究する道は、狭い視野での修行や、そういったことを行う人々が組織となった宗教などによって探究されてきましたが、それはまだまだ宇宙的存在としての人間の実体を掴んでいなかったがために、人類の歩みを訂正して人間を尊き者へと導き、この惑星を本当に美しいものとする能力を人間にもたらすことはできませんでした。人間は、個々の自我が持つアイデンティティを自らのためだけに積み上げてきたのであり、人類という種としては、地球上における宇宙的な役割に対して何も積み上げてはいないのです。それが、人類がどうしても大局に立てない原因となっています。どれほど自己矛盾を生んでも、地球や、宇宙にまで汚染をもたらしていても、それに気付くことができず、そのことの重大さについていくら語って聞かせても、その道理の響きが響かないほど、汚染が蔓延しているのです。
そこで今、なぜこの話が湧き出しているのかというと、現在のその実態がようやく人々にも観える時代に来たからです。そして私たちがこの生き方をしてきたのは、そのことに気付いてもらうためなのです。
残念なことに、現在は個々の人間の霊的な価値があまりにも低くなっています。願わくば、こういった気付きを持つ者を、天から多く地上に降ろし、真理の気付きのウェーブを人類にもたらす、風を起こしたい。事実、天はそのような気付きを持つ者を少しずつ降ろし、時代を現わしていることが感じ取れます。その時代の流れの中で、こういった気付きを体系化し、語る者が地球上にいることも、また事実です。ここに道理があるということは、それがほんの小さなものであっても、今その動きが始まっているということです。そしてそれは、大局の視点に立ち、大いなるものの側から観た道理であるから、時代は必ずこれを進めていくのです。
その時に、願わくば人間一人ひとりが自らの自我を超えてこの視点に立ち、その延長に生きることを少しでも早く成し遂げることを望むものです。

個人の希望はどうでもよいのです。個人の小さな使命や願望の下に、大いなる使命を果たすのではないのです。個であっても、大局の使命は持てます。それは、私たちは皆、この大いなるものの一部であるからです。
物理的には人間には限界がありますが、霊的には無限の存在です。なぜなら、私たちはこの大宇宙の中にあり、大宇宙と共にあるのだから。そのことを、霊的には悟ることができるのです。一日の些細な行いであっても、人間がその姿勢を改めることで、大いなる宇宙と共に世界を生き、救っていくことができます。人間にはそれだけの能力があるのです。
その揺るぎない心をもって、互いの違いを生かし、補い合い、その喜びを分かち合うパートナーシップを組む。それこそが大切であり、私たちが生まれてきた意味です。それは、過去に個として修業を重ねた者たちには到達し得なかった境地です。
どれほど歩みが外れたとしても、人間の成り立ちの根本は、その尊き仕組みの下にあることを忘れてはなりません。そこに気付けたことの喜びを持ちたいものです。そしてそれは、ひとりの者が気付きとして発しても、あまり意味がありません。これを発するためには、同じ価値観をもってそれを受け取る対極の受け皿がないと、発する響きは微細なものにしかなりません。そして、その対極の受け皿が無限に連鎖していけば、世界は変わるでしょう。人間は個人ごとを離れ、大局を生きることを求められる時代に立っています。かつて孔子の語った「大同世界」は、古い時代の話であり、人間の生き方に限定されたものではありますが、大局を歩むための悟りの出発点でもありました。

人間は魂を与えられ、自らの手の中にはない世界に降ろされました。肉体を返上した魂はどこへ行くのかも、自らが選ぶのではなく、自らに相応しいところへしか行くことができません。しかし逆に言えば、自らに相応しいところへ行ける、ということでもあります。
その最終段階の結果は、日々の生活をどのように積み上げてきたかという、それぞれの人生の道のりの先にあります。ですから、日々を怠ってはなりません。この尊き道には、特別に美味しい食事もなければ、お金が山と積まれているわけでもありません。この世界において最優先するべきことに歩みを進めるからこそ、そこに価値が生まれるのです。
その人生の過程で、自らの事に限定し、心がうきうき、わくわくするのは、心が低い位置にあるからです。自然療法プログラムを受けている人の症状が良くなっていくと、主治医としての私の心はうきうきわくわくしますが、自分自身のことに対しては常に冷めています。人間は、自らが低い位置にいて、高い所を目指す時に、うきうきわくわくするものです。そこに差があることで、そうなります。それはある意味、そういった美味しい餌(高揚する心)で、天は人間を釣り上げているのかもしれません。

天に近い所に意識があると、特別にうきうきわくわくすることはありません。意識が低い位置にあると、例えばカジノやゲームなど、人の心を刺激するものの依存症にもなります。それはうきうきわくわくするものですが、同時に落とし穴も常に伴うものです。今や、人間は皆、欲望の依存症になっています。その結果、欲望が人間を支配するようになりました。その依存症に陥っている自らを取り戻し、自己コントロールすることによって、初めて自らを有効に活かせるのです。それには、己を離れ、高い位置から俯瞰して捉える目線を持つ必要があります。それは、現代を生きる人々には難しいことであるとも言えます。
得をしようと思えば、「何か得するものは落ちていないか」と目線が下を向き、視野が狭くなります。その目線の違いを自ら認識し、心次第で自分はどちらを向いているのか、判断する必要があります。その時に基準となるのは、物理的な上中下ではなく、霊的な目線です。今日一日自分はどこを向いていたのか、その目線を振り返れば、自ずとわかるはずです。
私は近ごろ、日々の作業の中で、充実した時間を過ごしています。それは、作業を目的としているのではなく、今ある流れに乗っていこうという、その姿勢の延長に作業があるからです。それは、自我で算段をするのではなく、流れに沿い、今するべきことを淡々と進めていくことになりますから、結果として良い時間を過ごすことになります。自然療法プログラムを通しても、心身を病んだ人々と向き合うことで、不要な思いを乗せない、ある意味冷めた視点を育ててもらいました。私がどれだけ相手を治そうと思っても、私の誘導に乗らない人もいるのです。ですから、そういった人々と出会った時には、「可能性は彼らの中にしかない」と、相手を治そうとする自らの欲を捨てるのです。

人間という種の歴史は数百万年、猿人を含めると一千万年の歴史があるそうです。その種としての歴史を紡ぎながら、人間は今もこの世界で個として地上に降ろされ、生まれてきます。他の生命は種として地上に降ろされ、その種を存続させ、大いなる生命の大循環を表現するために存在しています。
人間は、強い自我を持ったがために、自我の欲望に囚われて大循環を破壊する存在にもなれば、自らの自我と対峙し、それを超越することで、この世界の全容を捉える広く高い視点のもと、世界をより良き方向へと導くコンダクターの位置にも立てるのです。
古の中国の「天盤の巡り」では、文明の発祥からおよそ3000年間の「青陽期(王の時代)」、その後約3000年間の「紅陽期(聖人の時代)」を経て、1927年より「白陽期(民衆の時代)」が始まることが予言されていました。それは、これまでのように王や聖人が人々をリードしてきた時代から、個々が自ら宇宙と対話することによって真理に目覚める「個の悟り」の時代に入ったということです。
「個の悟り」とは、特定の経典を学ぶように、個の救済を目的としたり、個々の満足を得るためのものではありません。個が悟るということがウェーブになると、人間の価値が本来の位置へ戻り、人類の種としての役割を果たすことになるのです。

今、あるイメージが浮かんでいます。それは、女性のお腹の中に卵があり、そこに魂の種が入り、子宮のベッドで新しい命として育まれるのと同じように、個々の人間もまた、人として生まれてきた本来の役割や尊さを自らの中に表現するため、長い時をかけて築かれてきた生命の土台の上に、肉の身体を与えられ、そこに魂を宿らせて、地球上で育まれてきたということです。
今も私たち人間は、ここ地球上での様々な修行の結果もたらされる、個の悟りのために生きています。個の悟りがウェーブとなり、連鎖すると、初めて人類としての悟りがもたらされます。それはつまり、「コミュニティの悟り」です。
お釈迦様の時代は、「個の悟り」の探究でした。その後宗教は「個の悟り」をご利益のように扱い、その本来の目的を見失ってきました。21世紀の悟りは「コミュニティの悟り」であり、それはお釈迦様の時代より宇宙的に進化したものとして、私は語ってきました。しかし、今私が語っているのは、21世紀から30世紀(3000年)に向けての悟りとして語られているものです。いずれ人間がもっと大局に生き、魂が進化していくと、肉体を超越してこの宇宙を運営していく存在となります。
私たちが肉体を持って生きるこの物理的世界は、背景にある霊的世界が運営しています。我々人類も、役割として、そこに立てる時が来るのです。今は、地球生命生態系の中の一生命である、人類という枠の中での役割を果たしていますが、この間違いが一体どこから始まっているのかを、徹底的に紐解いたなら、それは「30世紀の悟り」へと到達するのです。

個々の悟りは、宇宙の大樹に、花を咲かせます。その一つひとつの花は小さくとも、一たびそれが連鎖し、無数の花々が咲き出せば、それは乱舞の如く宇宙に花開く、満開の大樹となるでしょう。そしてその大樹に、個の花が咲き切った時、この宇宙の実体である大いなる精神の花 ——— 宇宙生命曼荼羅が誕生するのです。

 


いずれまた あなたのもとへ

私はいつも意識があなたの方を向いていることに気付きます。それは、私がこの世界に存在することの原点を感じるからであります。そのあなたを感ずる私の力は微妙なものであります。私が肉体的意識をセンサーにして生きれば、あなたの存在を感じることは難しいものですが、たびたび意識の隙間からあなたの存在する世界にセンサーがアクセスすることがありますので、存在を感じるのです。私はあなたの存在を感じたとき、不思議な気持ちになります。それは私の存在する世界で、どのように喜びを発掘しようと思っても得られないものです。そのあなたのおいでになるほうに意識を向け、あなたの存在の息吹を感じたとき、なにかしら言いようのないすべてのふるさとのように感じられる響きの世界があることを感じ、私が存在するこの現象世界で得られるであろう喜びのすべてを超越した満足が、そこにあることに気付くのであります。

ですから、私は時々この世界にいることを空しく思い、そしてあなたの方に旅立つことを望むのであります。どちらにしても、あなたのもとから来た私にとっては、いずれまたあなたのもとへ還るのですから、私は十分に満足なのです。

毎日、瞬間瞬間の時の旅を留まることなく永遠に歩んでいますが、この永遠は私個人の体感する枠の中では有限なのです。私はそのことがわかっているので、永遠に続くように思われるこの現象世界の中にいても、至福の心を持ち続けることを可能にするのです。

私は赤子のように物理的なすべてを取り去って裸になり、霊的にすべてのこだわりを取り去り魂だけになったとき、この境地に浸ることの喜びに至るのです。

 


人間が本当に進化するために

僕は30歳の時に、お釈迦様に出会いました。
30歳の12月26日に、ふと気が付くと、頭の上に黒い男の人の姿がありました。それは、お釈迦様でした。以来9年間、僕はお釈迦様から心の学びを頂いてきました。

最初の2年間は、泣いて暮らしました。それは自分を否定していく道だったからです。自分の中に、ああしたい、こうしたい、という自我の欲求が湧いてくる。でもお釈迦様が説かれることの方が、自分の中から湧き出す思いよりもはるかに優れている。ならばその優れた方を選ぶしかない。
そうして自分の思いを否定していくうちに、まるで自分が消えて無くなってしまうかのような淋しさに苛まれ、そのように未熟な自分が情けなくて涙を流し、それでもその自らの思いを超える、より優れた方、より道理の通った方を選び、歩み続けました。
そして9年が過ぎたある日、お釈迦様は「私の役割は終わりました」と、僕のもとを去られました。その時僕は、自分はまだ未熟であなた無しでは歩むことができません、行かないでくださいと懇願しましたが、お釈迦様は「あなたは十分に育っています。歩んでみなさい。歩めるから」と言い、天へ昇っていかれました。そう言われたら、自らの思いを否定し、その命に従うのが僕の常の姿勢です。ならば私は歩みます、と心に決め、自分はもう霊的な存在と対話することはないのだろうと思っていると、その直後に、日の本の神様が現れ「これからは我がそなたを守護する」と言われたのです。

*ジイジの霊的な歩みについては、「木の花記~金神様の巻」でご紹介していますので、より詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。

その後、僕を守護する神様は七度替わられました。そして最後に現れたのが、「あってあるもの、なきてなきもの」です。
日の本の神様に出会ってからの1年間、僕は神界というものの多様性を学んできました。そしてある時、故郷の氏神様である滝神社の262段の階段を降り、実家に向かって歩き出したところで、上に何ものかがいることに気付きました。その日は快晴で、空は高く澄み渡っていました。僕はその何ものかに向かい、「どなた様ですか」と尋ねました。神々様には皆名前が付いていたので、僕は新しい神様に出会う度に名前を聞くことが癖になっていたのです。しかしその上にいる何ものかは、何も答えませんでした。そこで僕はもう一度「どなた様ですか?」と尋ねました。するとその存在からは、こう返事が返ってきたのです。
「名などない。」
僕は、困ったなと思いました。名のない存在をどのように認識したらいいのだろう?そう思っていると、その存在からは続けてこう返ってきました。
「我は、あってあるもの、なきてなきもの。」
そう言われても、僕にはさっぱり意味が分かりませんでした。その時僕は40歳か41歳。富士山麓へ移住する前のことです。

その後富士山麓で木の花ファミリーを創立し、人々の心の目覚めを促す活動を続けながら、その暮らしは常に「あってあるもの、なきてなきもの」と共にありました。そして19年が過ぎたある時、縁あってカタカムナに出会いました。そこで「ある世界」と「ない世界」という、この世界の構造を解き明かす概念に出会った時に、初めて「あってあるもの、なきてなきもの」が何であるかの裏付けを得たのです。
この世界は「カタチサキ」、つまり、物理的肉体を持って現象世界を生きる私たちは、まず物理性であるカタチから物事を認識します。それが「あってあるもの」です。そしてその奥に、その物理的現象世界を成り立たせる、根源的な世界が存在します。それが「なきてなきもの」の座する場です。
カタカムナに出会い、僕は初めて、あの時自分のもとに現れた存在は宇宙の実体そのものだったのだということを理解しました。それは、人間のように名を持ち、特定の意志表示をするものではなく、この世界の全て ——— 「ある世界」だけでなく、その奥にある「ない世界」までも含めた、この世界の実体を示されたのです。

出会った時にはさっぱり意味が分からなくても、分からないからと否定するのではなく、そのままを頂いて、歩んでいくと、その歩んでいった先に解答が出ます。そしてこの姿勢は、行き詰った現代の物理学を新しい世界へと導きます。
現代科学は、物理的な現象をもって証明できることだけを真実とする、現象一辺倒の世界です。しかし、現象だけでは解決できないのがこの世界です。私たちは一人ひとりにそれぞれのオーラがあり、響きがあります。そして心があります。そういったことをどう捉えるのか。科学の世界の人々も、アインシュタインがそうであったように気付いてはいるのですが、結局は物理的に立証できることだけを真実としなければ、怪しい世界がいくらでも広がって秩序が取れないのです。
だからこそ、もっと広い世界から、世界の実体を捉える必要があります。対向発生という仕組みから世界を捉えていけば、もっとこの世界の成り立ちが理解できるはずです。しかし、広い世界ではなく、自分の見えるところから探求していくと、自分が見えること、自分が理解できることのみを真実としてしまうのです。そうすると、限界が生まれます。自分の度量によって見える世界は違ってくるのに、見えないものを無しにしてしまったら、その先へ進むことはできないのです。

多くの人は、自らの心のキャパシティを超えるものを認めない傾向があります。そうすると、人間が進化しません。物理化学の世界は、その分野としては進化したかもしれませんが、人間の本当の進化を妨げています。そういったことを、物理化学の世界の人々は、理解しなければなりません。
自らの価値観を取り払うことによって、新たな価値観が入ってきます。排泄せずに、食べ続けることができますか?息を吐かずに、吸い続けることができますか?それと同じことです。
この当たり前の事実が通用しないのが現代の世の中です。それが人間の限界を作っています。人間がその自我の枠を越えた時に、本当の進化が始まるのです。

 


みんなが仲良く暮らしてくれれば、それで良い ~ ジジからの遺言

ある日、ゲストの方が「ジジに聞きたいことがある」ということで、話をする時間が持たれました。それは、インターネット上に木の花ファミリーについての良くない情報が流れていることについて、今後自分がファミリーのプロジェクトに関わっていく上で、そういったことに関しても何らかの形で責任を取る必要があるので、確認をしたいというものでした。
これに対してジジは、次のように話しました。


今、あなたがここに来て、実際に感じていることが真実です。
ネットの世界は、情報が一度解き放たれたら、それが削除されない限り、ずっとそこに残り続けます。そして、人を貶めるような情報の方が圧倒的に人々の興味のネタになります。そこで、私たちの側にある真実を反論として訴えましたが、その真実は捻じ曲げられた情報を修正するほどの力にはなりませんでした。当時ここには、表面的な興味で訪れる人々がたくさん来ていて、とても多忙で我々の本来の目的とは違う方向性の日常が展開されていたのですが、そのことがきっかけとなり、訪問者やマスコミの取材が減って充実した毎日を送れるようになったので、そういった意味では強がりではなく正解だったという思いもあります。
真実がどこにあるかは、実際にここへ来てみたらわかるでしょう。残念ながら、来てみて感じる前にネットだけで結論を出す人が多いのですが、真実は一つです。ですから、そういった情報を流して結論付けている人たちやネット社会には、いずれ問題が起こるでしょう。今の環境問題やエネルギー問題然り、核爆弾が使用されるかもしれない、そんな見通しが立たない世界において、私たちが提唱している理想社会はもうちょっと先にあります。そういった新たな社会を創造するための芽が出ないといけません。それに対し、8人娘以降の若い人達はとても明快です。
ですからこのプロジェクトは、あなた達に対してお願いしますとか、大いに期待していますというものではありません。それは時代が答えを出すのですから、人間の思惑で行うことではないのです。ただ、そういったことを考えた時に、この動きはとても重要だよ、と言って促しているだけなのです。


その翌朝、ジジは自らの中に湧いてきたイメージを言葉にしました。


ジジ:
これは、今の僕の総合的な心境ですが、それは僕の考えというよりも、ここの人たちみんなが歩んでいく方向性を示すものですから、このことをみんなに共有し、みんなの中にその意識を再確認するべきことだと思います。

こういった指針を示すことは、僕の遺言として残すようなことでもあります。それは、僕が亡くなった後に、みんなが仲良く暮らしてくれればそれで良い。内容については、極端なことを言えば何でも良い、ということです。

みんなが仲良く暮らす暮らしが出来上がって、外に発信するようになると、現代人はそういった理想的なことは宗教のような固定されたものに汚染された者達がやっていると観るのですが、それは今までの事例が悪かったからです。つまり、今の我々の世代がベースを作ってそれを子どもたちに渡した時に、我々の世代が作った垢も、次の世代に引き継がれてきたということです。
そうした流れはなるべく払しょくしたいものですが、世の中がそういった体質から脱していない段階で、例えば8人娘が新たな社会的取り組みを展開しても、穿った見方をする人はいくらでもいます。世間は、一度物事に色を付けて見ると、その真実がどうであるかを確認することなしに、これはこういうものだと固定して捉えてきました。この取り組みを、そういった過去からの囚われを払しょくする機会とし、今の真実の見えない人間社会の在り方を根本からひっくり返し、人間の活動がこの星の上で有益なものとなるための第一歩となれば良いと思います。

僕はあくまでも土台を築く者であり、それが社会から支持される段階になるのは次の世代においてだと言われています。ですから、僕が旅立つまでのあと10年弱の間に、そのベースとなる思いをしっかりみんなに伝えていきます。そしてそれを、次の世代の人たちがいよいよ現実に示していくのですから、現時点で世の中の無理解な目があるのは当然です。
一つ確かなのは、2012年12月21日に銀河の冬至を越えた今、その前と後とでは環境が大きく異なっていることです。銀河の冬至以前は闇が増していく時代でしたが、闇のピークである銀河の冬至を越え、光が差してくる時代に入りました。光が差してくるということは、それまで闇に紛れて観えなかった様々な問題が照らし出されて見えてくる、つまり、真実が明らかになる時代に入ったということです。ですから、これから、その新たな取り組みが本当に社会を改革するために必要であるということを理解するための興味を、世の中が持ち始めるでしょう。

そのように大切な動きに対して、いつも影のようにのしかかってくるのが、ネットに氾濫している情報です。それが何なのかというと、今も誰かが頑張って反対運動をしてその情報を発信し続けているわけではありません。それは過去に放たれたものでありながら、世の中にはびこり続ける有害なスモッグのようなものです。そのスモッグによって、世間は大事なものが観えなくなっています。
そのような中で、このプロジェクトは、野心を持って何かを成し遂げようとするものではありません。自らの野心で事を成すのではなく、そういった曇りが自然と取れていく流れが来ることを待っています。つまり、人の目が曇っている状態では、嘘を帯びた情報の方が大いに人々の興味をそそり、魅力的で、支持を得ます。そういった時代にあって、それを取り除いて本物を見せようとすることは、実は無意味な努力なのです。

私たちは、この重要な取り組みを、「新たな事業を起こしてお金儲けするぞ」というような野心でやるわけではありません。ただし、世の中の見本になるためには、経営的にも帳面が合うことは大切ですから、そこはきっちりとやる必要があります。そうして野心のないところで続けながら、次の時代を迎え、自然にその雲が晴れていく時が来るでしょう。そのように考えると、気にすることは何もありません。理解できない者に理解しろと言うことの方が、無意味で馬鹿馬鹿しい努力なのですから。そして世の中の流れを観れば、この分析の方がはるかに流れに沿っている。時が来れば、社会も自然とこの流れに沿っていくようになり、ネットの情報も自然に取れる流れが来るでしょう。その流れが来ないのに、コイコイコイ、と言って来るのは池の鯉だけです。(チーン♪)

今ここで、僕とピピとゆうこという3人の人が語り合っています。この関係には、濁りが全くありません。僕たちは、個々の立ち位置から自己主張をしないでしょう?それは自分のカルマを通して物事を見るのではなく、そのままを観て、そのままを受け取る関係だからです。
こういった人と人との関係は、現代の人々にはなかなか難しい、とても珍しいことです。互いが発するものを誠意ある正直な心で受け取り、誠意ある正直な心で返すということを徹底しなければ、そういった汚れのない関係には至りません。ここまでの信頼関係を築けたということは、とても価値のあることです。人間が本当にそのような関係で地球上に社会を築けたなら、他の生き物からも歓迎される社会を私たちは創ることができるでしょう。

僕は、そういった夢見がちなことをいつも思っています。夢見がち、というのは、あまりにも現実がそこから遠いからです。ここ全体の在り方も未だ十分とは言えませんが、それをみんなで実現したい。そのことを示すためにも、このプロジェクトの立ち上げを提案しました。
僕は、キックオフミーティングに参加した二人のゲストにも山ほど伝えたいことがありますし、伝えようと思ったらいくらでも情報は出てきます。彼らは、ここの世界観についてのプレゼンテーションを是非受けたいと言っていました。本当にこのことの意味が理解できたら、支援するというよりも、自らの活動としてこれに参加すべきです。それは、人生を生きる上で最優先にするべきことなのですから。

ピピ:
今までの時代と違って、8人娘は応援される世代だと思います。彼女たちの人柄を見てもそう思うし、実際にかき氷処木の花庵のスタッフとして働く彼女たちはお客さんからも評判がよく、応援したいという声が多かったです。

ジジ:
僕が口を出さなくても、良い集まりが出来るといいですね。僕は有名人になることを望んでいません。僕は自分の口から出てくる話を受けて、とても共感し、その通りに生きていく人なのですが、それを他者から評価してほしいとは思っていません。もしも評価が広まっていくと、忙しくなって困るからです。ですから、みんながここに集うきっかけは僕の話だったかもしれませんが、みんながそれを自分のものにしてくれればいいのです。それはとても大事なことで、ジイジがアレンジすることで仲が良い場所ができるようなことでは困ります。ある人がいなくても、誰と誰との組み合わせであっても、仲の良い場所であることが大切なのです。

キックオフミーティングに参加したゲストの人たちに、今の僕の内面を語るとしたら、どれくらいのエネルギーと時間がかかることでしょう。彼ら自身がその重要性に気付き、自ら掘り進んでいってもらわないことには、語り切れません。こちらがいくらその人に分かるように分かるようにと説明したとしても、みんなが自らの自我の枠の中でそれを解釈しているようなレベルの目覚めでは、結局は僕が描いているレベルのことではないということです。
ですから、僕がいないところでそれを達成することができたら、それはみんなの力です。それができたら、本物です。今後このプロジェクトが進んでいく中で、僕はだんだん手を引いていくのが良いと思っています。特に、8人娘以下の人たちに自覚ができてくれば、事は自然に動いていくでしょう。前の世代の人たちも、新しい世代に刺激を受けながら、自覚を持って共に実行していけば良いと思います。
自分から率先して、全体に溶けていくような心になる。そうすると、個性がみんなのために活かされる。個性をみんなのために活かしていくことが、どんなに自分にとって良い事なのかに、気付けば良いのです。
そういう空気の下に全体が一つの生き物のようになって動き出したら、僕はもう、何も注文はありません。何をやったっていい。人間が地球上で生きていくことの結果が、他の生命に害をもたらさないものとなるように、現代人の生き方が正されたなら、あとはみんなに託すだけで何も言うことはないのです。世界には巨大な渦が渦巻いて、こんなにも分かり合えない世界を創ってしまいました。それではだめでしょう、と言いたいだけなのです。

僕が願っていることは、ただみんなが仲良く暮らせば良い、ということです。
それは、ただここの人たちが仲良く暮らせば良いということではなく、もっと大きく、地球にみんなの仲良い暮らしがあれば良い、ということです。
それがいつか成っていくことを夢見て、自分の人生を終わりにしようと思っています。それだけです。僕はそのために自らの存在を使い、みんなが喜んでいる調和の世界が見たいだけなのです。

それ以上に、何があるというのでしょう?

 

 


2022年は「カオスの幕開け」~ 星の意識との対話より

2021年冬至の日の、ジイジと星の意識との対話、そして、それを受けての木の花ファミリーメンバー達との会話をご紹介します。

*星の意識とは
私たち生命は、現象世界において、物理的肉体の成り立ちと霊的な生命の成り立ちを並行して稼働させながら、日々を生きる構造になっています。物理的人類が観察できる地球上から宇宙までを含めた世界には、物理的には見えない霊的法則が反映されているからこそ、その巨大な世界が保たれていると言えます。ですから、私たち一人ひとりが、霊性を織り交ぜた物質生命として存在しているのと同じように、万物が相似形で成り立つこの世界では、星々もまた、物質性と霊性が織り交ざって存在していることは容易に想像できます。ミクロからマクロまで、大小様々な存在がそれぞれの宇宙的ポジションにおいて霊的な意識のもとに存在しており、私たち自身の霊的意識を鋭くすることで、それらの存在と霊的な対話をすることが可能となります。以下にご紹介する会話は、シャーマニズムと言われるような霊的体質が鋭いメンバー、ピッピが感受する星の意識と、ジイジの宇宙的意識との対話によりもたらされたものです。


ジイジ:
天は、「僕と同じような役割をする存在が地上にいる」と言っていたけれど、実際にはそんなものはいないのではないか、と最近は思う。みんな視野が狭い。ロケットを打ち上げて宇宙へ行ったと言っても、宇宙全体のスケールからしたら、それはほとんど地球の表面でしかない。月へ行く事も、地球の一部に行くようなものだ。宇宙に行くと言ってもその程度の事しか、人類はまだやれていない。それでも今は宇宙時代だという。人間は、地球の引力を定めにもらっている。それはなぜかというと、肉体は物質だからだ。つまり、そのことで想像できるメッセージは、「地上に留まり、何かを表現しなさい」という事だ。

ピッピ:
さっき、ジイジは『自分と同じような役割をする魂が他にいないのではないか』と言ったけれど、星の意識は、『いますよ』と言っている。

ジイジ:
そういった存在とそろそろ連携することを求める。

星の意識:
その存在とは、会わないようになっている。隠してある。

ジイジ:
という事は、今のところ、その魂たちは表に出ないようにしてあるということか。

星の意識:
それぞれ役割があって、必要な時には会う。

ジイジ:
そうであるとしたならば、縁があって集うという事は天の采配だとして、ここに集っている者たちはそれぞれ役割があるというレベルの者なのだろうか?

星の意識:
ここにいる人々は、一つの身体的なものであり、あなたの役割や、その他の隠してある役割のようなものとは、別のものです。

ジイジ:
そうであるならば、私の役割は精神を生み出す役割であるとして、他の者は身体で言うと、色々な部位を表現する役割であり、頭脳や精神の役割は一人だけでよいという話だろうか?他の者に頭脳の役割をすることが困難なのだろうか。そうであればこの集団の肉体は、本来は頭脳のままに動く筈なのに、よほど不便な肉体ということになる。肉体のような頭脳のままに動く機能を持って、各部位が自己主張したり怠けたりせずに、一つの生き物のように動いて、全体が機能する事を目指す。そういった姿を人間たちが目指す理想としたい。

星の意識:
あなたは、人間の身体に例えていますけれど、一つの例として人間の身体という事で例えるのは理解できますが、先ほどあなたからの投げかけによって私が答えたのは、そうではなく、小さな細胞の一つが例えば何かの目的の為に集まり、その寄り集まったものの集合体が、変化変容を起こすタイミングで変化し、それが何に変化するかは未知数のものであるという事です。

ジイジ:
解る。そちらへきたか。(天からの視点の違いを痛感する。)

星の意識:
いくつかの可能性がそこに秘められていて、それを私たちは観ているのです。

ジイジ:
模索しているということか。そうすると、この取り組みは人間の身体の機能のような、もしくは生命の身体の機能のようなDNAのようなもので、方向付けられたものではなく、ある意味大いなる宇宙実験のようなものであるという事か。

星の意識:
ある程度の方向付けは、されています。凝り固まったものではないという意味です。

ジイジ:
解った。自由があるというか、可能性がそこには秘められているという。

星の意識:
そうです。

ジイジ:
そうであるならば、一つの提案のようなものとして、地球の現状を考えると、どういう風になったらいいかという決定事項を持っているつもりはないが、人類が将来滅亡するとか、さらに地球生命が大絶滅するとか、そこに繋がる可能性だってある。人類の行いが原因にならなくても、他のいくつかの要因によって生命が絶滅する可能性もある。単なるネガティブな意味で憂いているのではなく、今の地球の状態や、人類の目覚めの現状からすると、できれば、善き事の方へ行くようにと考える。善き事の方というのは、宇宙が創成された地点に向かい、それを目指して還ろうとする動きを元にして、このように考える。

今その事を語りながら想うのは、地球上でどんなに殺戮が起きようと、人間自身が自滅していこうと、長い地球上の歴史の中では、それはある意味過去にそういった事が起きたというだけの事であり、何かに到達する為の一つのプロセスに過ぎないという事か。つまり、宇宙法則や大いなる魂を神と呼ぶならば、神の導き給うプロセスや思惑というものはないのだろうか。

星の意識:
その大いなるもの、私たちの親である「神」と呼ばれるものは、あなた方人間の言い方でいう親のようなものです。私たちは、その未熟な子供達が目覚めるように、いつも見ており、その子供がどのようになっても、ある意味大きな手の内にいるものとして観ています。

ジイジ:
その手の中は、常に可能性で満ちている。

星の意識:
例えば、一つの色を作る時に、ある程度混ぜる色の予想を立てて選びます。いくつか方向性を立てて作り出します。それは作る時に、いくつかの方向性を持たせて作り出されていき、それを元に揃えられたり、作り出されているので、そこには、目的のようなものがあるわけです。ただ、それが結果、どのようなものになるのかは限定されていないのです。

ジイジ:
それは私の地球上での生き方と同じです。

星の意識:
あなたと同じだと思います。ただあなたと私たちの違いはというと、あなたはジレンマというものを持っていて、私たちは持っていないという事です。

ジイジ:
なぜ私がジレンマを持っているかというと、この地球の物理的、霊的現状を観るからです。

星の意識:
それは、仕方がないのです。理解できます。それはそうでしょう。

ジイジ:
宇宙視点というものを自らが語りながら、ジレンマを持たない立ち位置にいけないでいる現状にあるにも関わらず、そういったジレンマ的要因を観て行くということは、地球上で起きている色々な問題点も大いなる親心のように観ていくべきですか?

星の意識:
いいえ。あなたが足りていないという意味ではないです。要はあなたはそれを持っているのですが、私たちと違いがあると言ったのは、足りないという意味ではないのです。

ジイジ:
立ち位置の違いか。

星の意識:
そうです。違いがあるという意味だけです。その違いは、必要なことでもあるという意味です。

ジイジ:
そうですね。大いなる精神に則って、ただニコニコしていたら、何の役割もできない。

星の意識:
それがないとあなたの役割はできないのです。

ジイジ:
ということは、今の私の立ち位置も、役割として必要な事ということか。若い人たちに次の役割の期待をかける事は、ジレンマがあるからそうするのであり、なかったら「なんでもいい」という事になります。

星の意識:
その事に対する一つのポイントを伝えますが、あなたに不必要なジレンマが起こっているとは思わないでください。

ジイジ:
解ります。

星の意識:
この時代や現象の中に、それが必要で起こっているという風に捉えるべきです。あなた個人のものではないのです。

ジイジ:
解っています。私はそれを個人のものとは捉えていません。ただ、それを情報として捉えた時に、憂える心があるので、このように申し上げているだけで、だからと言って、中国の指導者たちのように人間的力や立場を使って、それで何かを捻じ曲げ、自らの思惑へ持っていこうとはしていません。あくまでも個々の目覚めを促している立ち位置にいます。

星の意識:
あなたが感じているジレンマと呼ばれるものも、私たちは情報として記録しています。

ジイジ:
その状態は、私の立ち位置に特別に発生するものだと思っています。

星の意識:
それを元に次なることがまた、判別されて行きます。

ジイジ:
そうすると、「このままで続けなさい」ということか。つい二日前に木の花祭りの花宿について、現状で進めて行こうと提案したことや、コロナワクチンを打つことに対して、世の中の流れに沿っていこうと決定した事と同じ事になる。

星の意識:
そしてあなたの他にもいくつかの役割は降りています。ただ、それが解らないようにしてあるのです。

ジイジ:
昔、山田有子(スミコ)さんに出会った時に号泣したけれど、あの出会いは何だったのか。そういった存在と出会いたい。
(ジイジは39歳の時にシャーマンの女性と出会い、その女性は人格的には不完全な人であったけれど、一般的な物理的出来事を背景とする価値観だけで物事を見る世の中で、霊的な存在に出会ってしまった人の持っている孤独を互いに確認し合った。)

星の意識:
肉体がないところでは出会えています。

ジイジ:
ですから、肉体を返上することにどこかで憧れるのです。

星の意識:
あなたに時々会いに来る者たちは、肉体がないから自由に会いに来るでしょう?

ジイジ:
そうでした。どうも失礼しました。

星の意識:
現象界を生きる現状の人間の意識では、それは難しいことの方が多いのです。

ジイジ:
そうですね。対象の数は78億程いますが、全ての人々に、その目覚めの可能性はあるのです。

星の意識:
物理的な数の問題ではなく、現象界で出会うという事は、そこで現象化が起こってしまうので難しいことがあるのです。

ジイジ:
流れのままに物語を遂行する時に、そこに特別な場が出来てしまうと流れが歪むことがある。

星の意識:
そうですね。特別な役割を持ったもの同士が出会うと既に完成している為に、現象に影響を与えてしまうとそれが意味をなさなくなる事が起こりうるので、それは、現時点においては、出会えないようにしておく必要があります。

ジイジ:
大変、勉強になります。今気づいたのですが、この憂える心が時々波のピークのようになった時、この心を持って投げかけることがこの叡智をいただくチャンスとなるので、やはり憂えることは必要だということでもあります。あなたたちと通じる為にも。

星の意識:
そうです。それは信号のようなものの波動、パルス(極めて短い時間だけ流れる電波・メッセージが秘められている信号)のようなものです。波に強弱はあります。そして、その強弱によって起こるべき事柄が発生してきます。地震や津波でも被害が起こる時もあれば、起こらない時もあります。それによって人々の心に変化が生じる時もあれば生じない時もあります。受ける者の位置によってもそれは違います。ただそのように揺さぶりが起こるようにこの世界は創られているのです。

ジイジ:
それと、その揺さぶりに敏感に反応する者もいれば反応しない者もいる。

星の意識:
そうです。その者の位置、目覚めにもよります。

ジイジ:
ありがとうございます。大変参考になります。心をきちんと保っていく為の微妙なコントロール操作に役立ちます。ありがとうございます。ピッピ様。役割ご苦労様です。

ピッピ:
いえいえ、ありがとうございます。

ジイジ:
魂は、今縁があって出会っているとも言える。しかし、若い人々は、あんなに固くない。集い語り合え、語り合うことから真理が生まれる。これは天から示された言葉だ。このコミュニティは、リーダーシップを誰かがとって引っ張っていく場所ではない。そうすると宗教になってしまう。そこで自らの役割や性質を活かし、お互いを生かし合う為には、語り合わなければいけない。「集い語り合え、語り合う中から真理が生まれる」という。そういう風に物事が、より円滑にスムーズに調和的に進む為には、「集い語り合え、語り合う中から真理が生まれる」という事すら一方的に聞いていく場所になってしまわないように、誰もが大いに語り合え、そこにこそ真理が生まれる。それぞれに個性を与えられているのだから、智恵を吐き出すものもいれば形で表すものもいる。そこはネットワークしていけばいい。よろしく。日頃思っている事、こんな事を思っているという事を発表する場になればいい。

ピッピ:
日常で起こったことをそのまま正直に言い合ったり、シェアしたり、そしてまたみんなの意見を貰ったりすること。

ジイジ:
そして、全体が醸し出す一つの響きとしての流れを創る。そういったものが場の柱となっていく。

ピッピ:
日常と一緒だよね。特に大人ミーティングの場所だけでなくて、いつもそうなっている。そして大人ミーティングでは、さらに洗練されたものを持ち寄って、ジイジの高い視点が入るからもっと高められる。

ジイジ:
みんなにもその視点が入り、気付きとして、これか!と解るようになる。

ピッピ:
全体で確認する場だものね。特に日常の方が頻繁に活性化してやりとりが行われる。

ジイジ:
相性の良い関係の場合、こちらから「どう思う?」と切り出したことが「それ丁度欲しかった」となり、受け取って完結する。相性が良くない場合、こちらから切り出したものに対して「それはあるから要らない」となり、協議をすることで、その余ったものをどこへ持っていくべきかというような調整も必要となるわけだ。沢山話し合って調整しなければいけない関係もあれば、何もしなくても、表現しただけですっと収まり、あうんで完結する関係もある。

ピッピ:
業(カルマ)や我が強いと、自分の中の狭い固定されたものでいっぱいになってしまっていて、外からのものが入らない状態になる。

ジイジ:
カルマか。それはそうだ。人間はカルマの垢を持ち過ぎているから。人の表情を観ていると、強いカルマの存在を感じる時がある。とてもきれいで、そういったネガティブさを感じられない人もいる。しかし、きれいだと、汚れの中にいると激しく汚れる場合がある。汚れたら、それこそ心の風呂に入り、きれいにしないとこびりつく。常に磨いていく事を課せられているという事が、そういった純粋な思考を貰っている証となる。
それらを紐解いて、こういった方向に進めば良いという取り扱い説明書はできない。そこで取り扱い説明書を作ってしまうと、人生の方向が決定されてしまう。地球の未来もそうだが、最終的には宇宙の未来すら、カオスなのだから。
これで解った!(メンバーの)ゆうこは、僕といる時には「ジイジゆうこ」になるが、母親と一緒にいると「おっかさんゆうこ」になる。つまり、僕といる時には、ゆうこの中ではジイジ的思考が優先する。しかし、母親と一緒にいると、そのカルマが優先しておっかさんのDNAが表れてくる。

星の意識:
そうです。家族からのカルマの伝承は大きな影響をその人に及ぼしますが、赤ちゃんの時におなかの中で変化したり、生きていれば顔も変わったり、どの部分がその存在に出て来るかは、遊びの部分として表現されています。

ジイジ:
それではカメレオンのようだ。肉体と比べて心や魂というものは、カメレオンのように常に変化し、現象に影響を与えているということだ。

星の意識:
それが無意識下で起きてしまうコントロールできない状態もあれば、人間がコントロールできる意識レベルもあります。魂のレベルが、コントロールして出せる意識にあれば、むしろそれは善き事のため(ポジティブ)に使えるものです。

ジイジ:
解る。そういう事だ。そこである程度コントロールできるようになるためには、構造や性質に影響を受ける自らの取り扱いをマスターする必要がある。ただ湧いてくるものに翻弄される状態では、今の世の中の人たちのように乱れたり、荒れ狂ったり、命を絶ち切ってしまうような行為にもなるのだろう。

星の意識:
人間たちは、科学技術、AI技術のような、機械的、物理的なものを発展として捉えていますが、それはとても小さな領域の現象の一部に特化した事であり、本来生命の進化とは、精神の進化に真の目的があるわけです。ご存じだと思いますが。

ジイジ:
解っていますが、そう言われるとなお、確認できます。我々生命というものは、肉体と魂がセットとして成り立っており、それを誘導するのは精神の方です。

星の意識:
過去にもその事に気づき、目覚めた覚者がおり、そして同時に、それを理解しない者たちもいましたが、現代では、人間が進化と捉えている、私たちが捉える狭き視点が有象無象にあり過ぎて、本来人間に与えられた真の目的である精神の進化への道に気づき、歩む者が非常に少なくなっています。

ジイジ:
物質的には多様な世界に行きついたが、精神的には大変狭い状態に陥り、凝り固まっているということだ。幅が狭く凝り固まっているから、多様な現象に対しても同じような反応を示し、世界に大らかさが失われた。

星の意識:
一定期間地球にある種の振動が続き、そのサイクルが続いていく中では、物理的なものに埃が溜まっていくような状態となり、重たくなることにもなります。

ジイジ:
上手い事をいう。精神的な意味ではカルマの蓄積という事だ。

星の意識:
そうです。ですから当然そういった現象が起こりうるわけです。その中で、自らの意志により魂をクリアにしていける者が現れるのです。それが本来の進化、我々が望む目覚め、真の進化なのです。その中で差が生まれ、選り分けが行われていきますし、そのように埃が溜まっていくことにより、結果的にクリアなものが発生していく仕組みなのです。

ジイジ:
その言葉を聞きながら、既にそういった存在が現れて来ていると思ったのですが、それはあなた方が派遣しているのか、もっと大いなるところの意向として派遣されているのか、どうですか?

星の意識:
派遣されているのではなく、先ほども言いましたが。

ジイジ:
自動的に発生しているのか。

星の意識:
そうです。ある目的はありますが。

ジイジ:
そういう構造をしているのか。そうか、宇宙が自動的に生み出していたのか!

星の意識:
そうです。何か一つの可能性しかない目的を持って創られているわけではないのです。

ジイジ:
そうか。解った。目の前の霧が晴れたように。

星の意識:
愉しみでしょう。それが行われるのが。

ジイジ:
いやいや、説得されてしまった。そうすると、それが宇宙の実体で掴みどころがないとも言えるけれど、掴みどころがないところの可能性がいかに愉しみであり、大いなる仕組みであるのか。奇妙に何か約束されて安心するのとは違う可能性の偉大さや歓びが、そこにはある。

星の意識:
でも、あなたにもそれを与えたいと思う心があるでしょう。私たちと一緒です。

ジイジ:
ただ今、私は不自由なのです。それは、肉体を持っているからです。ジレンマ故に肉体を返上するという事も浮かぶのですが、それは本当にすることではなく、いつかそこへ還ろうと郷愁を感じているだけなのです。しかし、身近に派遣されている者もいる。確かにそういった配慮を感じている。湧き出してくる者を身近に知っている。そういった会話を、このようにして地上の者と出来たらいいと欲のように思うけれど、まだその存在は幼い。今はそういった会話はできないけれど、『バナナ欲しい』とは言って来る。その存在は、当たり前にそのように語る一言に、人を動かす力を秘めている。

星の意識:
先ほど言った隠してあるカードに関してですが、それに対してイサナという者は近くにいる者です。それは偶然とも言えるし、必然とも言える、あなたの近くにいる、近い者です。

ジイジ:
それは、生きていく為に必要な長い間使う道具のようなものを、少し不自由だから、与えられたようなものです。

星の意識:
この世界には、あなたとは全く違う役割をする為に隠されている者もいます。それは比べるものではなく、どれも必要なものです。同じように隠されて現わされています。

ジイジ:
いや、参った。僕は内に秘めたる想いを語ると、このような想いがある。
いずれ肉体的に去っていく時が来るから、次の段階が来る前に、どの人もみんな新しい歩みの方向に向かって行くことになる。いつまでも、この状態が続くわけではない。どこかで次の道を歩む時に、自らの決意として、逞しく歩み出すのだろう。それまでは、寄り添っていく縁がある。それはこの魂(星の意識)との会話の中で示されたけれど、決定されたものではない。それは常に流動的に表現されながら動いていく。だから楽しみでもある。決定されたレールの上に乗っているものではないのだから。決定されたような表現をすることがよくあるのは、そこには確かにレールがあるからだ。
悟れない者がこの道を知ると、不幸を感じることにもなる。また、僕のように憂える心がある者がこの道を知ると不幸だとも言うが、レールの延長に何があるかと言えば駅がある。この世界のダイヤのように決められた駅に着くのではなく、その都度レールが敷かれていき、そこを走って行くと、霧のような道を進んで行った先に、予測できない所に駅がぽつんと現れて来る。それは楽しみでもあり、時にはその出会いに望みを持ったり、結果をいただくという尊さの発見にも繋がる。

ピッピ:
人間はショックを受けたりもするが、ポジティブな思考がベースにあれば、駅が現れるのも現象化だから、歩んでいくと楽しみがある。

ジイジ:
そういえば、みかこが来年のテーマについて話していたが、そもそもテーマは年を明けて出ることが多いのに、前もってそんな事を言っていた。今年も年末で来年もすぐそこに迫っているという事で、夕べの憂いの状態や、その延長に今、この尊き存在との出会いがある事が解った。これが来年のテーマだ。

ピッピ:
え?この状態にあることが?

ジイジ:
この状態にあるという事が、来年のテーマだ。言葉に表すことがなかなか難しく、生まれてこないけれど。カオスとはそういう意味である。

みかこ&まりねえ:
混沌(こんとん)。

ジイジ:
そうだろう。いよいよカオスの中に道が入っていく。カオスの扉が開く。解らないか?

まりねぇ:
カオスの扉。混沌とした中に扉が開く?

ジイジ:
先生、違うよ。そんな風に言葉を繋げて解り易くしてはいけないんだ。そこで解り易くしてしまったら面白くないだろう。

まりねぇ:
すみません!

ピッピ:
先生だったから、解り易くしちゃったね(笑)

ジイジ:
霧が立ち込めている中にレールが敷かれていて、先は枕木の上に線路が観える。列車でもない、こちら側にあるもの(意識)がそこを走って行く。走ってというのは、足を二本使って走るのではなく、ただレールの先に向かって動く、霧のようなものに乗って進んでいる意識。

星の意識:
人間の言葉では解りませんが、通りというか、道でもないし、通っている状態ですよね。動いている空間を現わしているから。言葉にはできないのです。

ジイジ:
そうです。イメージすると今のような表現であり、その状態に向かう人類の悟りの目的は、「その境地で未来をいただいていけ。そういった時代にこれから入ります」という事だ。

あき:
カオスという言葉を調べたら、「様々な要素が入り乱れ、一貫性が観えない、ごちゃごちゃした様子。そのような様相を形容するものとして用いられることが多い。これは元々、宇宙(コスモス)が成立する以前の秩序無き状態を意味する」と書いてある。

ジイジ:
それは、宇宙が形成される事自体も一時的なものであり、そこで文明が発生した時に宇宙がカオスではなくなった。矛盾しているようだが、人間たちが「こうなったらいい」、「ああなったらいい」と思惑の中で歩んできたことも、人間の進む道が宇宙へ還っていくきっかけとなるように、簡単に言えば「すべては頂く上にある」という事である。それは世界がある事、起きている出来事を頂くという事。そういった事かと納得しようとする想いが、湧き出しそうになった・・・・ああ、消えてしまった。

ピッピ:
カオスだから頂くという事なんだよね。

まりこ:
頂かざるを得ない。

ジイジ:
そう。もう一つあったのに、機能が大分退化してきた。しかし、これは機能の退化なのか、単に物理的機能の退化の結果に、これが起こっているのか。時々消されている可能性もある。

まりこ:
ここだけではなく、世界全体にそういった事が起きている気がする。

ジイジ:最近、こういう事がある。思惑を持ってすることが、すべて外れる。思惑を持って行えば、それはすべて壊れる時代に入った。それはカオスの時代に入ったので、テーマは「いただく」。そういった時代に入ったという事だろう。

まりこ:
世界は、頂かざるを得ない状況になっていく。

ジイジ:
これはもしかして、テーマが毎年固定して一年二年という区切りで出て来るのではなく、今までは、人間が文明の時代に入ったなどの大きなくくりがあった。そこで銀河の冬至を越えた結果か、いよいよ光や真理に向かって進む上昇気流に乗り出した今、ここからは人間の叡智で組み立てていく事ではなく、「人間は受け皿として頂く姿勢を取って行け」という事なのだから、そこでの頂くという事は、この大きな時代の節目において、思惑を捨てて頂いていく時代の幕開けとなる。その幕開けは、6450年の太陽圏サイクルの四半世紀の幕開けという事だ。『幕開け』!

ピッピ:
幕開け!

あき:
だから天に心を向けていくのか。

ジイジ:
いろいろなテーマが浮かんできたが、結局テーマは・・・。

みんな:
幕開け!

まりこ:
思惑通りにいかないんだね。

ピッピ:
でも、ただ幕開けって言っても理解できないね。

ジイジ:
だから、『混沌(カオス)の幕開け』。「カオスの中に突っ込んでいく事を、覚悟して行け、その覚悟があるか?バカたれー!」という事だ。

みんな:
笑。

あき:
でも面白いね。

ピッピ:
今、生み出すのになかなか捻ったね。生みの苦しみ。

ジイジ:
そう思うと6450年の下降線は、これを生み出す為の苦しみだったのか。

まりこ:
いよいよ形として壊れていく事に出会う覚悟が、必要な時が来たということかな。

ジイジ:
結局、みんな頂いているんだよな。僕は正月が近いわけだと実感した。心の大掃除、整理整頓をして正月を迎えなければいけないのだと想い、心が急かされ、これを今やっている。これで準備ができた。あとは、お節を作るだけ。300食作って、余ったら僕が食べるんだ。

まりねえ:
余らない!

ジイジ:
余ったら食べる。

まりねえ:
余らない。僕の分は余るよ(笑)

ジイジ:
今度の子どもは、あまるくん。カオスとか、マクアケちゃんとか、コントンとか。イタダクとか。

みんな:
笑。

ジイジ:
カオスを頂くという事、つまりカオスは霧のような掴み所のない宇宙雲という事だから、宇雲(ううん)なんだよ。宇宙雲は人間が観る地球上の雲とは違い、霊的に漂っている。すべてに遍満して漂っている。宇雲。宇宙雲の実体は神だから。雲のように形作ってこれと言って示さない。しかし、すべてに遍満し漂っている。宇雲。

あき:
今更ながら、ジイジが「宇宙雲は神の実態。漂って遍満している」と言った時に、「ジイジすごいな」と思っちゃった。さらさらさらと出て来るんだもの。

ジイジ:
僕の思考は今、遍満しているんだ。そういう景色を観ながら、肉体を持たない状態で思考が漂う。そうすると漂いながら宇宙雲に触れると、何というか・・・それを叡智とは言わない。叡智とは、人間が生きていく上で湧き出してくるその術を収穫しているようなものだが、そんな限定的なものではなく、この雲はそれがありとあらゆる宇宙に配置されているからこそ、この秩序がある、という実体そのものだ。そこに、肉体ではなく、魂を泳がせると、今のように言葉が出て来る。

あき:
ああ、いいな。

ピッピ:
いいな?

あき:
いや、この湧き出してくる感じがね。

ジイジ:
湧き出してはいない。湧き出しているのは、昔の宇宙図書館だ。あれは確かに湧き出してくる。考えると湧き出してくる。これは、ふわーっとした宇宙雲に触れると、出て来る。既存の表現では示せない。言葉に乗って出る言霊でもない。響きになって、ここ(クチ:自由が持続する所)から出て来る。

まりねえ:
だから、時々消えちゃう。

ジイジ:
なぜか消えてしまうから、これは加齢的現象の結果かなと思うのだが、そのタイプとは違う。消えた時は残念だけど。つまり何故それが起きるかというと、湧き出す言葉を組み立てる時、三文字陽性的な癖があって、方向性を観ながら順番に組み立てるという事をやっていると、その思惑が外れて消える。そうではなく今のような肉体も思考もない意識状態で、雲に触れていくと出て来る。肉体を持ちながらそれをするのは難しいが、それを天は「理解できます」という。それを、宇宙的痴呆と言ったりして(笑)。

みんな:
宇宙痴呆(笑)。

ジイジ:
おい、仕事いくぞ。のんびりしている場合か。この話は相当人材が揃わないと出来ないよ。

ピッピ:
揃った。見て(笑)。

ジイジ:
これはカオスであり、約束しない所で出て来る。

ピッピ:
カオス・・・。

ジイジ:「今日から始めます」とか、「映像観て喋ります」とかいうのでは絶対、出てこない。これだよ。来年は。

あき:
なんかいいね。人知でなく、決め事じゃなくて。

ジイジ:
ところでテーマは、なんだっけ?

みんな:
カオスの幕開け。

ジイジ:
宇宙は多次元構造になっているので、多次元構造になっている事をリアルに理解する時代が来たという事だ。宗教は、多次元構造の中にはない。この世界にしかない。そうではなく、実際に多次元構造である事を人間が解って生きていく時代に入ったという事だ。だから「混沌(カオス)」。幕開け祝い、踊ろうぞ。

ピッピ:
だから、ツイスト。ツイストとは、複数のものが寄り合い一つになる、そして質的転換を起こす、という意味がある。

ジイジ:
これは、とても大きな異次元からのメッセージだ。

まりこ:
今日、冬至。

みんな:
今日は冬至!すごいね!!

ジイジ:
それで正月が近いのを感じたんだ。そういうことか。

すべては善き事の為にある。どんなに過去の延長の経験が、「外れた」と思うような出来事や日常であっても、すべては過去の事である。過去をトラウマのように引きずる者にとっては重要となるが、過去を未来への延長に、未来に新たなものを気付(築)いて、常に自由自在の進化の旅を続ける者にとっては、それはあくまでも踏み台であり、自由自在に羽ばたくエネルギー源となる。そのように捉えることが肝要である。すべては善き事の為にある。仕組みはその者の姿勢がもたらすものであるならば、個人にもたらされることだけではなく、この世界にも同じようにもたらされることである。そのような境地に至った者にとって、大いなる者の存在は、すべては善き事の為にある。

 


 

カオスの時代を乗り越える ただひとつの方法

2022年元旦のジイジの挨拶

新年明けましておめでとうございます。
12月31日から夜が明けると、世界が新鮮で違ったように感じます。そこで、新たな年を迎えたような気になります。それは、地球は常に同じように回り、自転公転を繰り返し時が経っていく筈なのですが、その時というものには節目があり、1年の始まりの日には、その始まりを新たな気持ちで迎えるという私たちの意識と連動する何かが、この空間というか、この場にそういった響きとして感じられるからです。
この新しい年のテーマは、「カオスの幕開け」です。「カオス」とは、「混沌」という意味です。何が混沌かというと、時代が難しい時代に入り、先行きが見えない。表面的には同じ時間を過ごしていくように見えても、政治、経済、産業などの世界情勢は混迷を極め、環境問題がいよいよ顕在化し、天変地異を始め、世界中で様々な災害が起こることが予測されています。さらに、私たち人類が考えられる範疇を超える想定外の出来事が、これからの人間社会にのしかかってくることが予測されます。これまででも、地球の営みに人類が付き合ってくる中で、予測不能な出来事には出会ってきましたが、人間たちが、過去に起きた出来事を未来に当てはめていくことによって、人類の進化がもたらされてきたのです。過去のことをデータとして未来を読み解き、それに基づいて進化してきたことで、人間は「自分達はわかっている」とする傲慢さがもたらす特殊な能力の上に支えられた進化は、予測不能なことに対して無防備であることを、今時代はこの混迷を通して伝えてくれているのです。
そういった今までの人間の姿勢が、まだ改まらない中で、私たちはこのような、自然と共に生きる農的な暮らしを営んでいます。今、自然は人間に対し、何かメッセージを伝えようとしていますが、それがどんなメッセージかという事が人々にはまだよくわからない中で、ついつい自分達の都合の良いように日々が進んでいくことを想像してしまうのです。しかし、実際に過ぎ去った過去を振り返れば、たくさんの想定を超えた出来事に出会ってきました。自然災害だけでなく、人間のつくる人工の世界の中では悲惨な出来事がたくさんあり、相変わらず自殺者も多いのです。

そういった中で「混沌」が何を示すのかというと、混沌には二つの意味があります。
混沌として先が見えないという事は、ネガティブに捉えれば、不安の発生源であります。しかし、先が見えないからこそ、混沌の先に何が起きるのかという事をポジティブに捉えれば、私たちが想像できることを超えた新しい時代を迎えるという事が言えるのです。
その新しい時代は、新たなものを与えてくれるだけでなく、ネガティブな出来事が起きても、なぜそれに出会ったのかを考えれば、自らの想像を超えた出来事を頂く精神を育ててくれる機会となり、それは、私たちが生かされているという生命としての原点を学習する機会でもあるのです。そこで人々は、自らが陥っている、進化を妨げる自我を乗り越えていく事ができるのです。その時点で、次の時代が観えてくるのです。つまり、混沌とは、私たちの現状の能力を超える可能性を秘め、次へといざなう希望にもつながるのです。
「カオスの幕開け」とは、そういった先の見えない難しい時代に、世界中が入ったという事です。世界中がそういった時代に入った時だからこそ、智恵を湧き出させる。私たちが智恵の湧き出す器になるためには、美しい心でいなければなりません。正直で、みんなが信頼できる。そういった場所を創るからこそ、みんなの力が集結し、無駄なく一体となり、それを乗り越えていけるのです。

混沌の時代に、嘘をついて、人とつながらない、正直でない人々は、互いを疑い、ますます孤独になり、不安が増していくことでしょう。孤独というのは、最後には自分自身を行き詰まらせます。それが今の時代、社会に様々な形で現れています。そういった、私たちを不安に貶める因子を突破するためには、いつも自分のお腹の中にあることを正直に外に出し、人と通じ合い、信頼できる関係を創ることです。
その信頼できる関係を創る時に、一人では、いったい誰と信頼関係を創るのかということになります。たくさんの人が集まり、信頼できる豊かな場所を創る事こそが、このカオスの時代を乗り越える唯一の方法なのだと思います。時代が難しくなればなるほど、その厳しい時代を乗り越えるために、豊かさを表現する。その豊かさとは、みんなで助け合って生きていくこと。それが今、私たちに求められていることだと思うのです。

今年は、去年よりももっと厳しくなることは、まず間違いないでしょう。そんな中で唯一、こういった生き方を大事として始まったこの暮らしは、今年で29年目に入ります。この暮らしをしてきたことの意味がいよいよ示される時代が来た事を思うと、ますますこの生き方の大切さを感じます。皆さんと共に、その理想をぜひ実現しましょう。そして、自分達だけのためではなく、世の中のために、見本となっていく時が来ている事を実感しています。
今ここで、こういった生活の発起人としてこの話をしていますが、それはここにいる一人ひとり、老いも若きも皆が自覚し、自分発でその発信をしていく人になって頂きたい。そのネットワークをもって、ここの理想を表現し、世の中の模範としましょう。
そういった意味で、昨日から今日への区切りを越えただけではありますが、とてもめでたいと感じます。本当にめでたい生き方を表現する時代が来たのですから、「難しかったけど、良かったね」と、みんなで未来に言えるような決意のもとに、改めて、新しい年のスタートを切りましょう。
本当に、おめでとうございます。そして、ありがとうございます。