いさどんの七夜物語 – 第二夜 「みんなで」

第二夜は、大人ミーティングの冒頭にあきちゃんが、心が通じ合わない畑隊の現状をみんなにシェアしたことから始まりました。本当に心を一つにするためには、一人ひとりに明快な意志がないと現実にはならない、というあきちゃんの投げかけに対し、みんなで話し合っているところへ、いさどんがやって来て、語り始めました。

 

9月25日 「みんなで」

いさどん:
今、みんながここで何を話し合っていたのかを聞いていたわけではありませんが、まったく理解していないわけではありません。僕は昨日久しぶりにミーティングに出て、明日も来るからねと言ったから、今日も来ました。僕は嘘はつかないから。
ただ、昨日そう言った時には希望がありましたが、生きるということをするといろいろなことに出会います。今日もいろいろなことがありました。それをただぼんやりと生きているだけでは、昨日の話に出てきたピーーーッと一直線の状態です。何も変化がなく、刺激がなければ死んでいるのと同じです。
生きていく中で刺激をもらう。その刺激を受けてさらに上へ上がっていく。または、思わぬことに出会って落ち込む。落ち込んでも、その理由がわかればそれをひっくり返してバネにすることもできます。生きるとは変化・変容・変態を繰り返すことであり、それは希望を生み出す種のようなものです。生命は進化するものです。進化せずに環境に適応できないものは、淘汰されます。進めば進むほど、いろんな環境に適応したDNAが伝承されて、優れたものが残っていくようになっています。

人間は今の時点で、地球上の生命の最高傑作です。かつ、過去の30数億年の生命の歴史からしたら、不完全なものを修理しては残り、修理しては残ってきた結果の産物ですから、現在もその途上を歩むものです。今地球上にいる生命の中では人間は最高傑作ですが、同時に他の生命も同じように選りすぐられてきたものですから、最高のものですよね。みんな、変化・変容・変態を繰り返しながら進化してきたのです。
そうすると、進化するということは、図に表すとだんだん上がっていくということですよね。ところが、人間の中には昨日も今日も明日もピーーーッと一直線のままの人がいます。中には物事に執着して、何かの出来事に出会うとそこから落ちていく人もいます。霊的には、そういった魂というのは地獄というところへいきますが、地獄にもランキングがあり、地獄から地上に復活することもあれば、再生処理ということでマグマの中に処理されていくものもいます。

僕は、夏至から秋分までの約3ヶ月間ミーティングに出ませんでした。1年の4分の3を過ぎて、第4コーナーに差し掛かりました。今年の仕上げです。

今年はどういう年だったかというと、木の花も社会も激動の年でしたね。安倍さんは相変わらず経済最優先の政策をとっています。視点のベースがそこにあるので、良いことと言ったらそれしか考えられないのでしょう。もっといろんな視点から捉えたら、その経済効果をもたらすためにこれまで努力してきたことが人間の欲を膨らませ、それを叶えることが自由であり豊かさなのだと思ってやって来たことが地球温暖化を招き競争社会を生んできたことがわかるはずです。そして、コンピューターを操作するだけでお金儲けができるような人々が蔓延する、おかしな世の中を作り出したのです。お金を持っている人ほどお金が儲かるなんて、こんなおかしなことはないでしょう。
このシステムを作ったのがアメリカです。日本はそのアメリカのポチになって、何かあったら助けてもらおうと安保法が成立しました。これは自然界からいったら非常に矛盾した法律ですが、人間の考えの中でしかものが考えられない人にはわからないのです。わからない人にわかっている人が伝えても、わかっている人が間違っていることになります。それは、まだそういったことを理解するトキが来ていないからです。
けれど、時代の扉は開きました。我々はそのことを知っています。宇宙的にもトキが来ましたが、地球の現状を見ればトキが来ていることがわかります。

こういった話を聞くとみんなはうんうんと頷きますね。でも僕は、そのトキを自分自身にもたらしたらどうですかという話をしているのに、みんなはそれを人に頼り、いい話を聞いたなぁと言って自分に何も変化をもたらさずに終わっていくのです。
昨日、僕がここに来ていい場が出来上がりましたね。ただぼんやりと一直線で進んではいけませんよ、上がっても下がってもそれはエネルギーですから、学べばどちらでも進化、変化をするために使えるのですよ、だから毎日が新鮮なのですよ、という話をしましたね。そして、今日の学びを明日につなげていきましょう、と言いました。
その学びの延長に今日があったら、今日は昨日とは違うはずですし、昨日よりも今日の方が成長していれば、それだけ希望が生まれますから、今のこの場のような重たい空気にはなりません。
ところで、昨日の話を受けて、昨日の自分と今日の自分は違っていた、という人はどのくらいいますか?今日一日それを意識して過ごし、その結果昨日までとは違う一日を送ったな、という人。
(8人が手を上げる。)
ここに、確か54人のメンバーと長期滞在者やゲストを合わせて60人強の人がいますね。そのうちの8人ということは、ええと・・・六六、五十六?

みちよ:

八七、五十六。

いさどん:
え?七七、五十六?(みんな:笑)

みちよ:
八×七です!

いさどん:
こうやってね、ちょっとしょうもない時間を作って、みちよちゃんは「この人何言ってるんだろう」という顔をしていますが、こうやってわざとはずして、話について来られていない人にも付き合いながら、みんなの足並みがそろうのを待ってるんですよ。
まあ、八七、五十六だそうですから、ここの約7人に1人が昨日の話を意識して今日を過ごしたということになります。逆に言うと、7人中6人の人は意識していなかったということです。7人に1人ということは、全体の約14%ですね。僕は計算が早いでしょう。なぜだか知っていますか?

さちよ:
頭がいいから?

いさどん:
頭がいい?(笑)それはそうですが、頭がいいというのは、そういうことを積み重ねてきた結果そうなったということです。それは僕の性分なのです。何かと言うと、欲が深いのです。
僕は欲が深いから、すぐ計算をします。なぜ欲が深いかというと、どんなことでも無駄にしたくないからです。何でももったいないから、自分のかけたエネルギーはちゃんと回収します。回収どころか、プラスαで返ってくるようにします。逆に、マイナスは起こしたくないのです。一生懸命やったことだから、大事にしたいのです。

どんなことでもそうですよ。人間関係でも、仕事でも、畑で作物を作ることでも。
だけど、計算通りにはならないですね。計算通りにはならないからこそ、どうしたらそうなるんだろうということを考えるのです。それで、いつも計算をしています。だから計算力が身に付いたのです。これは学校で学んだのではなく、性質がもたらしたものです。頭がいいと言えばいいし、欲が深いと言えば欲が深いですが、もったいないから大事にしよう、生きていることを一つひとつ大事にしよう、という心がそこにあります。

昨日ここで学んだら、その延長線上に、リニューアルした今日があるはずです。そうしなければもったいないでしょう。何でも活かさなければいけない。だからおじいちゃんでもおばあちゃんでもどんな出会いでも活かしてきたのです。
この場を見てごらんなさい。ポンコツだらけでしょう。(みんな:笑)こんなガラクタを集めていったい何をしようというのでしょう。だけど、僕には夢があるのです。ある時に気が付いたのです。これが僕の人生だ、と。

それまでの人生は、いろんなことに出会って、次はこれ、次はこれ、と、年代と共に変化してきました。人生とはそういうものです。今でもそうですよ。今まではこうだったけど、これからはこう、と、いろいろなものに出会って変わっていくのです。
以前は、自分の性分からくる性質のままの生き様でした。出会いのままに、想いのままに、流されていたということです。今でも、何かに出会うと、この場合は相手を尊重してこうしよう、今回は相手を尊重しながらこちらの意志も尊重してこう伝えよう、というように、その都度流れを観ながら進んでいます。そこで昔と違うのは、方針が変わったということです。
その方針とは、世の中に幸せをもたらすこと。自分の存在が世の中に善きものとして反映していくようになること。

僕には、安倍首相ももう少しものごとを深く考えられたらいいのに、という想いもあります。けれども「晋三」という名前を読み解くと、怖がりで、もともとものごとを深くとらえるような人ではない彼の性質が観えてきますね。そこで、今の時代のトップとしては、晋三さんが相応しいのでしょう。しかしこれからの時代のトップは、晋三さんではダメですね。
人はみんなそれぞれに自分の心で夢を描いて、自分の心の思う幸せを願い、自分の心の思う豊かさを求めて生きています。みんなそうですよ。
安倍さんは政権誕生から1000日間の区切りを迎え、安保法も成立して、一大事を成し遂げたという感じで語っていました。僕は彼の言っていたことで、ひとつだけ共鳴したことがあるのです。それは、インターネットなどで安保法を「戦争法案」などと書いている人がいるけれど、それは間違っている、ということです。
もしもこれが戦争法案であったら、世界中の国が非難するでしょう。しかし明らかにこの法案ができることによって多くの国から賛同をもらい、支持されていると安倍さんは言います。そして、私はその立場に立ってやっています、その立場に立った平和を目指しているのです、と。
そうすると、彼自身は気づいていませんが、こうも言っているわけです。違う立場の人から見るとそれは戦争法案になるんですね、と。

彼は、戦争法案などと言われるのは言われなき誹謗中傷であり、ネットを使った暴力であるというようなことをバシッと言っていました。その通りです。安倍さんは戦争をしたくてこの法を作ったわけではありません。自民党の誰一人として、そんなことを考えている人はいないでしょう。しかし浅い人から見ると、軍備を備えたら戦争に行くという話になるのです。
僕はそれを聞きながら思いました。今、多くの人が安保法に反対していますが、選挙の時には国民はアベノミクスという目の前のアメにつられ、みんなこぞって自民党と公明党に投票し、記録的な議席数を与えたわけです。そして、それをベースにして安保法が成立したのです。

安倍さんは、多くの憲法学者がこれは違憲であると言っていますが私はそうは思わない、だからこのねじれを取らなければいけない、と言っています。そのために何をすると言ったか知っていますか?

なかのん:

憲法改正。

いさどん:

違憲を違憲じゃないようにするには、憲法を変えればいいわけです。国の正義なんて、憲法次第でどうにでもなります。そういうことなのです。
だけど、僕が言いたいのは不動のものです。今「戦争法案だ」と言って反対している人たちの根拠は「戦争に行きたくない」「平和な世の中で安心して豊かに暮らしたい」ということでしょう。安倍さんも戦争をしたくないからこそ、軍備を整えて外国と手を組むことによって、敵対する国が現れたとしても攻撃されることを防げるという専守防衛の観点を少し超えて、場合によっては、攻撃を受ける危険があれば自国を守るために先制攻撃も辞さない、ということを言い始めたわけです。それは戦争がしたいからではなく、したくないから言っているのです。

けれども、この世界は一つで、地球も一つで、自分も地球なのです。空気は自分です。水も自分です。土も自分です。みんながそれを共有して暮らしているのです。この世界は自分であり、万人が自分なのです。意識が広がれば、そういうことなのです。

意識が狭いから、自分と考えの違うものを非難します。地球談話を安倍さんにも送りましたが、見ていないのでしょうか。昨日もあわちゃんが、安倍さんに送る大人サミットへの招待状の原稿を持ってやって来ました。安倍さんのもとにはたくさん陳情が届くでしょうから、昔の僕ならこんなことをしても無駄だと思ったかもしれません。だけど、何もせずにいてはいけないですね。もしかすると何万通と届く中から・・・いやひょっとしたらみんなそう考えて誰も出さなくて意外と穴場だったりしてね(笑)。どうなるかはわからないのだから。何万通も届いていても、もしかすると、秘書が片付けようとした時にふっと目に留まって、安倍さんに渡さないとも限らないでしょう。だから、決めつけちゃいけないのです。
あわちゃんは、「安倍総理大臣」とは書かずに「安倍晋三様」と書いて、一市民として参加するように誘っていました。それがいいですね。

ネット上で「戦争法案だ」と批判している人たちには、つける薬がありません。自分たちの毎日の生活は、安倍政権が進めている政策の恩恵を受けているのに、そのことを忘れて批判しています。実際に、日本の安全保障はアメリカの恩恵を受けているでしょう。その事実を無視して、自分が戦争に行きたくないからと批判をしているのです。
僕は、戦争を肯定しているのではありません。そういった構造をわかることが大事だと言っているのです。そうやって批判をしあっている土俵から離れるということです。

今日もあきちゃんが、本当にエネルギッシュにみんなに「このままではダメでしょう」と伝えていました。わからない人からしたら「うるさいなぁ」とも思うでしょう。だけどそれがこの人の役割であり、こういう人が一生懸命言っていることを大事にして、それを言わせなくても済むような場を創らなければいけません。
あきちゃんからみんなの話を聞いていたら、僕はミーティングに行きたくなくなりました。だけど昨日、みんなに「明日も来ます」と約束しました。僕が行きたくないと思ったからと言って行くのをやめたら、それは自分の心に翻弄されている状態です。僕は自己コントロールをして、天の意志で生きている人です。ここに3ヶ月間来なかったのも天の意志。昨日来たのも天の意志。明日も来ますと言ったのも天の意志。そうしたら、そこに僕の感情は介入する必要はありません。だから今日も来ました。
ただし、昨日想っていたことの延長線上の話はできません。なぜなら、昨日僕が伝えた話をほとんどの人は反映させないで今日を生きたからです。情けないですがそれが現状です。それでも、やっぱりこんな大切な学びを毎日している人たちは大切な存在です。世の中はそんなことに気付きもしないで毎日を生きている人がほとんどですから。

それで、僕も振り返りました。僕の中にある揺るぎない意志は、何がしたいのだろうか。僕という個人のカルマが何を想ってこの生き方をやり続けているのだろうか、と探ってみました。
それは「みんなで」ということです。
みんなで喜ぶ。みんなで分かち合う。そしてそこに豊かさが表れて、それをみんなで味わう。幸せとは、分かち合うところにあるものなのですよ。表現しようと思えば、いろいろな表現がありますが、そういうことです。

そこには、争いはありません。平和なんて考えなくていい。自分のことも考えなくていいのです。「みんなで」というのは、人と自分の区別がないということです。
そういう所を創ってどうするのかと言ったら、その先はわかりません。ただ、時代がそれを求めていることを感じるのです。だから、まずそういう場所を創りたい。いつもは「たい」を「ます」にしよう「(「~したい」ではなく「~します」にする)と言いますが、今僕はあえて「たい」と言います。どうやっても「創ります」と言うことは不可能です。なぜなら、それは僕一人ではできないから。「みんなで」と言った時点で、それを成就するためには、人に託さなければいけないのです。
その時に、相手が必要です。自分が大事だからその願いを叶えようとします。それには相手が必要だということで、相手と自分が一緒になるのです。
それをベースにしてものごとにあたったら、いつも人の存在を意識するでしょう。そしてそこに輪ができたら、いつも全体のことを考えるでしょう。

その時に、一人ひとりに個性があります。人間というものは、長年生まれ変わりを繰り返す中で、いいことも身に付ければ汚れ(個性のひとつ)も身に付けていくものです。ただし、本当に目覚めるということが進んだ人には、汚れはないですね。けれどもまだこれからという人には、汚れがたくさんあります。それが今の世の中で、すべての人が悟っている世の中になったら、きっと味気ないでしょうね。
そうやっていろんな人がいて、生きている意味をわかって、みんなでその目的に向かっていくことが大切です。その時に、幸せが感じられるのでしょう。ある意味、この真実が観えない混沌とした時代を生きるということは、みんなでこぞって道を踏み外す時もあるということです。今の日本も、リーダーを始め国民がこぞって真実がわかっていません。

これはすごく生意気なことを言っているように聞こえるかもしれません。けれども僕はその人たちを蔑んで言っているわけではなく、今の時代が示している本当のことが観える視点の位置にいるだけなのです。だからみんなでそれをわかろうよと伝え続けているのです。
それでもわからない人たちにとっては、これも間違いであったり攻撃の対象になったりします。だからこそ、その立場に立つものは、信念を持っていかなければいけないのです。

みんなの中にあれが問題だのこれが問題だの心が伝わらないだのといろいろな感情が湧いてきているのを眺めていると、自身と向き合っていないことから、自分の心に翻弄されているのがわかります。そこで本気で自分と向き合い、本当にその通りだということがわかったら、自分自身を変えることに最初に取り組むはずです。だけどみんなは、形ばかりの結果を出して、どこかそれを避けていますね。
それでは、大事な道を歩んだつもりでも、次の時代へバトンタッチしようとした時に、誰も待っていませんよ。大事な道というのは、次の人が「土台を創ってくれてありがとう」と言ってバトンをつないでいくものです。

僕はみんなに説教をしているわけではありません。ものの道理の話をしています。自分の中に天に通ずる柱を立て、それを常に一番にして生きていく。そうするとその柱は、自分の心のクセを個性に変えてくれます。すると、自分が自分の心を表現した時に周りの人を困らせません。ひんしゅくを買うこともありません。問題ごとも起きません。自分が生きた結果、みんなが喜ぶ世界がそこに生まれていきます。
ところが、自分が生きた結果、周りからクレームが来る、問題ごとが起きる、ということがあります。周りからクレームが来るのは、人間界のみんなの意識が近いからです。あなたのことを自分のことだと思うから伝えますよ、ということです。どう生きても周りから何もクレームが来なくなったら、それは独居老人と同じで天涯孤独でしょう。

出来事に出会うということは、天の意志(この世界の法則)です。これは困った、こんなことは嫌だと思うかもしれませんが、それは天が「宇宙はフリーエネルギーで、少ないエネルギーが有効に働いてとても効率がいいのに、おまえのやっていることは無駄だらけだ」ということを教えてくれているのです。「忙しい」という字は、心を亡くすと書きます。忙しい忙しいと言って、人は天の心(存在)を忘れているのです。
逆に、天の心を忘れていなければ暇はありません。ちゃんと必要な分量だけ、自分がパズルのピースとして活かされるようにピタッとはまる役割を与えられるのです。そして充実した毎日を送れるはずなのです。

我々は、そういった人になるための修業を毎日しています。昨日そんな話をしましたが、今日は少し違った話をしようと考えていました。それは何かと言うと、自分は何を考えて生きているのか。その不動の柱について話したい。
それが、「みんなで」ということです。みんなで喜ぶ。みんなで喜ぶということは、人と分かち合うということです。調和も豊かさも幸せも、みんなそこから生まれてきます。
だけどね、「みんなでいがみ合う」というのはどうですか。

さちよ:
いやだね。

いさどん:
そうですか?今までそれをやってきたのではないですか。いやだと言いますが、「みんなでいがみ合う」というのは、とても変な世界ですね。いがみ合うというのは、人と自分を区別して対立することでしょう。それを「みんなで」ということ自体がおかしいですよね。
みんなで豊かになろうね、みんなで力を合わせて幸せになろうね、という表現は自然です。しかし、いがみ合うのはもともと「みんなで」という意識がないということですから、その表現自体が不自然なのです。
だけど今は、飾り言葉のように不自然な表現をしていることがたくさんありますね。言葉の意味を意識せずに生きている人がたくさんいますから。

自分から湧き出てきた心をよく観てください。それはどこから湧いてきたのか。湧いてきたことを観ると、自分の心にある歪みや汚れがよく観えてきます。それをチェックすることです。
自分をチェックしていないと、自分に問題があるとは思わず、相手のせいにします。自分は悪気がないのになぜ悪意が返ってくるんだろう、なぜうまくいかないんだろう、と言っている人がいます。そして世の中が悪いんだと言い出します。
しかし、明らかにそれを受けたのは自分なのですから、そういった現象を引き起こす自分自身を観るチャンスなのです。自分をしっかり観て、歪みも汚れもないことが確認できて初めて、相手の問題点を客観的に捉えることができます。それを相手に伝えて相手が受け取らなかったとしても、こちらにはそれは返ってきません。何かと言ったら、その人は今度は別のところにベクトルを向けるのです。そしてそこでまた災いが生まれます。この世界の混乱は、そういった仕組みから生まれています。だから、どんなことでも細かくチェックしなければいけません。

昨日の話の続きですが、それぞれがそれぞれの役割を担当し、田んぼは田んぼ、畑は畑、キッチンはキッチン、子育ては子育てというように、ここは社会を形成しているでしょう。

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それは一般社会も同じです。ただし、ここが違うのは「みんなで」を実践していくところだということです。

出来事に滞りが起きたら、みんなでそれを観て、解決します。一人の人が自分だけで生きていると、自分の心のクセのままにものごとを見てしまいます。けれどもそれをみんなで、人のことも自分のこととして観合い、お互いに観えることを伝えあって「ありがとう」と受け取る心が整えば、滞りはたちどころに消えていくのです。そのうちに滞りも起きなくなって、ものごとがスムーズに進むようになります。それが、「みんなで」の定義です。
「みんなで」というのはこの宇宙の実相であり、それが表現されたのが地球生態系であり、我々生命の構造なのです。

かずこ:

さっきいさどんが来る前に、畑隊の話をしてました。今はなかなか心が通じ合わなくて、畑の作物もうまくできなこともあったけど、やっぱりもっと、みんなで収穫を味わって、喜び合いたい。

いさどん:
種を蒔いたり、苗を入れたりする時にはいつでも希望があります。僕も百姓を始めたばかりの頃は欲がありました。けれど作物を育てるうちに、種には種の、苗には苗の都合があることがわかったのです。その種や苗の都合を聴いて、心配りをしていく。ダメな時はその原因を探って、ダメになる元を消していきます。次もダメならまたそのダメの元を消していく。そうすれば、どこかに当たりがあるのです。
その時に消すのは、「これでいいだろう」という自分の心です。つまり、我を取るということです。
今の農業は、ダメでも農薬をかけて、ダメでも肥料をやって、環境を無理やり曲げて収穫をしています。生命力を曲げて生業にしている、人の欲を満たすのが「農業」です。
けれども、百姓は違います。作物の生命力を感じ取り、それがご機嫌で育つように、お手伝いをするでもなく、サポートするでもなく、仕向けるわけでもない。何かと言ったら、調和するのです。寄り添うのです。そして向こうが実らせてくれたものを、こちらの命としていただいていくのです。

では心ができたら全てとんとん拍子に行くかというと、そうでもありません。人間の想いと自然の仕組みは深すぎますから、ダメな時もありがとうございますといただいていくのです。そしてその体験を次に活かす。そのためには、ダメだった自分ととことん向き合います。そうすると、生きることをもって学び、成長することを与えられます。そういったことをしていない人は、滞りを生み、無駄な時間を使います。
天は、我々が道理に合わないことをすると問題ごとを起こして気付きを促します。問題ごとが起きるのは、すべて天のはからい(法則)なのです。

今日は、8人の人が昨日と違った意識で過ごしたと言っていました。明日はもっと増えるでしょうか。8人ということは全体の約7分の1ですから・・・ちょうど1週間で全員が変わることになりますね!(みんな:拍手)
ここで僕はみんなに言いたい。7日で全員が切り替わるんだということがわかったら、1日で切り替えればいいのです!
カルマ読みも地球暦もカタカムナも、自分の実態を正確に伝えてくれています。実体がわかったら喜ぶべきことなのに、それがよくなかったからと言ってがっかりする人がいます。しかしそれがあなただということを受け止めるのです。それを逃げずに受け止めて、そこから一歩ずつ上がっていくべきなのに、がっかりして動かないのでは本末転倒です。
悟れば、切り替わります。「悟る」とは「差を取る」ことです。人との差を取れば、人のことが自分のことと思えます。別の意識になるのです。それは、時間をかけてやることではないのです。七日七夜と言いましたが、1日に7分の1ずつ切り替わるなんてことをしなくても、1日で全員が切り替われば7倍勉強できるのですよ。

あなたが発している波動は、どんなものをこの場所に、この世界にもたらしていますか?その結果、それはあなたの価値としてどんなふうに積み上げられていきますか?
一人ひとりが真剣にそういうテーマに向き合っていたら、人が増えれば増えるほど自ずと豊かになっていきます。
そこが出来ていないと、人が増えれば増えるほど、難しい世界になります。現代社会のように、人間が他人のことを考えずに自分のことばかり考えていたら、人が集まれば集まるほど難しい世界になるのです。

調和の心を作らなければ、コミュニティの暮らしは出来ません。それで多くのコミュニティが崩壊し、或いは、中途半端に存在し続けています。そして、やっぱり人間には難しいと曖昧に結論付けて、表面的な対策で終わっているのです。
けれども、この世界は元々、コミュニティとして創られています。しかし、アダムとイブが禁断の果実を食し、イザナギとイザナミが喧嘩した時から、人間にはコミュニティから外れる道も与えられてきました。そしてそのピークを迎えた今、人間がつながらないと生きていけない時代が来ています。木の花ファミリーの暮らしはその先がけとしてあるのです。

豊かさとは、宇宙の構造と同じです。一人ひとりの単独の動きが集まれば集まるほど、より複雑で緻密になり、それがひとつのハーモニーとなってとても豊かな世界が生まれます。それは一人では成し得ないものだからこそ、喜びが何倍にもなるのです。

人がたくさんいることで問題が起きるのではなく、人がたくさんいるからこそさらに豊かになる世界を表現したい。

みんなで喜ぶ。みんなで楽しむ。みんなで豊かさを味わう。そういう場所を創りたいのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。

なぜなら、こんなに素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから。

僕の願いは、たったそれだけです。

 

 

 


いさどんの七夜物語 – 第一夜 「思い出す」

七日七夜でこの場に質的転換を起こします ーーー
そんな想いから始まったいさどんの七夜物語、第一夜です。
(詳しくは「序章・秋分前夜」をご覧ください。)

 

9月24日 「思い出す」

いさどん:
今日は9月の24日です。昨日は秋分でした。1年の4分の1を残して、いよいよ最終コーナーに入ろうとしています。春分を起点とする地球暦で言うと、1年の半分が過ぎたところです。
四半分、半年、1年という区切りがありますが、毎日が区切りです。毎日その日にあったことを振り返り、次の日に生かすと、我々が生きている意味を毎日自覚することができます。

では区切りという意識のない人はどうやって生きているかというと、また同じ日が来たと思っているだけで、毎日起きている新鮮な出来事を振り返らないのです。それはどういう状態かと言うと、上がりもせず下がりもせず、ピーーーーッと一直線に進んでいる状態です。
そこに出来事が起きたとします。それがその人にとっていいことだったとしましょう。それで一時的に上に上がっても、必ずそれを帳消しにする何かが起きます。なぜかと言うと、宇宙は±0だからです。
それは、日ごろの意識がピーーーッと一直線で、昨日も今日も明日も、1年前も1年後も変わらないまま生きていて、生きている目的について何も考えていない状態です。
しかし、生きているといろいろなことに出会います。そこで何故だろうと考えます。ピーーーッと一直線の意識の人は、辛いことがあるとへこみます。そしてそれを忘れるために、何か別のことを考えたりします。そううやって帳尻を合わせて、へこんだことを忘れていくのです。するとまたへこむことが起き、また帳尻合わせを考えます。そしてトータルで見ると、ピーーーッと一直線になって何も進歩していない状態です。
そういった毎日を人間は送りがちになるので、区切りというものがあるのです。

春分と秋分は、1年の中で昼(光)と夜(闇)の長さが同じになる日ですね。その日に、人はなぜかお墓参りをします。
「彼岸(ひがん)」という意味を知っていますか?彼岸とは彼の岸と書き、あちらの世界を指します。それに対して「此岸(しがん)」という言葉があります。此岸とは此の岸と書きます。つまり、ここが此岸です。
川を渡って向こう側に渡ると、彼岸になります。人生は修行ですから、此岸でいろいろなことを経験し学び、そして川を渡って、彼岸という理想郷にたどり着くことになります。仏教では、此岸に生きると四苦八苦に出会うから、そういったことに囚われないようにこの世界のことを悟りなさいと説いています。ピーーーッと進むとポコンと落とし穴に出会います。そして、落ちたところから上がるために帳尻合わせをします。そしてまた上に上がる。それを繰り返しながら進んでいくと、何かに似ていませんか。

みんな:
心電図。

いさどん:
そう、心臓の鼓動ですね。それが帳尻が完全に合ってピーーーッと一直線になると、現象界からあちらの世界へ行く、つまり死ぬということです。生きているということは、へこむこともあれば、上がることもあり、それがどういうことなのかを悟っていくということです。

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苦楽という言葉があるでしょう。楽の前に苦がありますね。この世界は、発生し拡大していくことを陽だとしたら、収縮して消滅していくことを陰と言います。多くの人は、陽しか見ていません。しかし、この世界の仕組みは陰が元になって陽が発生しているのです。苦楽でも、苦しいことがあって楽があるのです。楽があって苦しいと示しているのではありません。苦しいことがあるからこそ、楽がわかるのです。私はなんて不幸なんだろう、と思うのは、不幸しか見ていないからです。苦しいをとことん感じたら、あとは楽があるばかりです。

もっとも、それはゲームのように考える話ではありません。幸せに生きるためには苦しいを最高に経験したらいいんだ、ということかというと、そうではない。この世界に生きていると、苦しいことに出会います。お釈迦様はそれを「四苦八苦」と言いました。この世界に生きる人間の性分のことです。人間の中にそういったことに出会う種があるということです。
この世界には仕組みがあります。苦しい経験は、それを起こす仕組みがあるということです。その仕組みを学習できたら、その奥には楽が現れる仕組みがあるのです。そうしたら、苦しいということは楽への旅であるというこの世界の道理がわかった時に、苦しいことは楽しいことを湧き立たせる元となるのです。

中には、苦しい修行こそありがたいのだと、滝に打たれたりするでしょう。嫌だと思うこと、辛いと思うことに向かいなさい、と言うけれど、そういったことも極端な話ですし、誰もが行うべきことなのかわからないですね。それはそれでその人の道として尊重しますが、大切なのは、誰もが当たり前に生きる中で、当たり前にいろいろと起きることを通して、その人にそってその現象が何であるかを知ることです。

僕が6月の終わりから大人ミーティングに出なくなって、3ヶ月が経ちました。今日ここに来たのは、喪が明けたからではありません。このままではいけないと思ったからです。このまま放っておくと、「全人幸福」という看板を掲げながら実際の生活の中ではそういった意識を全く持っていないヤマギシ会と同じ道を歩むことになります。
今日はヤマギシ会からゲストも来ています。今そこで笑っていますが、僕はよくあのようなところで生活ができると思うのです。ここはまだ入り口ですが、そういった日々の中に浸かってしまったら、自らの本当の姿は見えなくなるものです。そこまでいくと重症です。だからまだわかるうちに、このままいくと同じ状態になるということに気付くべきです。これは、たまたま先輩がいてその先の姿を見せてくれているから、そういったことはわかりやすいですね。このような状態に、人間は陥りやすいのです。楽ばかりを求めて、欲しいものが得られればそれで満足して、苦を大事にしない。

ですから、楽ばかりを求めていくと、ちょっとしたことでも苦になるのですよ。そうかといって、わざわざ苦ばかりを求めることも必要ないですね。苦が何であるかを知り、その苦を示しているこの世界の仕組みを知ると、楽がどういった仕組みで発生してくるのかがわかり、楽に溺れなくなります。これを知ることが生きることの目的です。
生きるとは、自主的なことですよ。ピーーーッと一直線の心電図では、ただ日にちが経って年を重ねただけで、生きている目的を果たさず、その人の価値は何も変わらないのです。ただ感情のままに思考が湧いて、その思考のままに行動し、そのまま年月が経ったら寿命が来て死を迎えることになります。
それは、生きていくものの本来の姿ではありません。この世界(宇宙)は変化・変容・変態を繰り返しています。別の言い方をすれば、進化・発展・成長をしているということです。ですから、変化しないということはその法則から外れているのです。それを意識せず、同じことを繰り返していくと、希望を失い、生命力のない存在として死を迎えることになります。

なぜこのような話を始めたのかというと、ここの人たちにもそういった兆しが観えてきたからです。このまま放っておくと、本当にヤマギシ化します。
これは、今日ヤマギシ会からゲストが来ているから言っているのではありません。僕は(ヤマギシ会の創始者である)山岸巳代蔵さんから「あとはよろしく」と託されたのです。しかし、現状のヤマギシ会の人々は「全人幸福」という理想を掲げながら、本来の目的を果たすことを忘れています。ヤマギシの人たちが木の花に出会った当初は「自分たちの目指していたものはこれだった!」と思い出し、刺激を受けて、この精神をもう一度取り戻そうと思っていたこともありました。しかし、本来の目的を何よりも優先することを怠っていたものだから、本来の目的を思い出し、こうやっていかなければならないと思ったとたんにそれを負担に感じて、そこから目を背けるようになりました。当初はとても熱心だった人たちも、今ではそんなことがあったことも忘れ、日常の生活に漬かり、ピーーーッと一直線の状態で生きています。
このまま放っておくと、ここもそうなりかねません。しかし、ここはそうはなりません。なぜだかわかりますか。

みんな:
いさどんがいるから。

いさどん:
そうです。僕がいるからです。だからこの3ヶ月間、僕がいない実験をしたのです。いないと言っても一緒に暮らしていて何か特別なことがあれば口を出すわけですから、実験と言ってもソフトなものです。みんな、本当に僕がいなくなったらどうしますか?

さちよ:
困る。

いさどん:
困るという話ではないでしょう。こまるのはカタカムナの八鏡文字の小丸だけです。(チーン♪)
カタカムナは、宇宙物理です。ものごとの表面しか見ていない近代科学や物理学が解き得ない世界の捉え方です。この広大な宇宙の実体もそうですが、カタカムナは、この世界に存在している我々の命や、細胞や、原子、素粒子、その元となる極小微細単位である「カ」までを解き明かします。その「カ」はどこから来るのかと言うと、潜象界という現代人が認識していない世界からやって来ます。
この世界は陰陽から成り立っています。我々は形を先に認識するので、形が先にあるものだと思っています。しかし実は、我々が現象界にいるから形を先に認識しているだけのことなのです。

ある人にとって、その人が満足の状態でいる位置があるとします。しかし世の中の人々がそれよりもさらに満たされている位置にいれば、これでは足りないと思うようになるでしょう。しかしそれよりもっと低い位置にいてその世界しか知らず満足していれば、そこで十分だと思うものです。
先ほどの心電図で表すと、問題ごとが起きた時に下がるとしますね。すると少し上がっただけでも、ああ楽になった、と思うものです。それが何かによって与えられたものだとしたら「ありがたい」ということにもなります。
しかし、その先にはもっと楽があるのです。それなのにそこで満足してしまう。人には自らの性分と価値があり、そこから湧いてくる感情のままに思いを巡らせ、行動していると、ピーーーッと一直線の変化のない人生を送ることになります。人生には必ず上がり下がりの刺激があるのに、それを無視しているのです。

しかし、学ぶとか、成長するとか、進化・発展するという視点に立つと、自らの物理的かつ精神的願望を叶えるための変化ではなく、意識を高め、視野が広がることに生きる目的が移行していきます。ピーーーッと進んでいって下がった時には「そうか、こういうことがあると下がるのか」と学習し、それがどうすれば上がっていくのかがわかるようになる。その客観的な視点に立てば、出来事や欲望に翻弄されることなく、冷静に物事に取り組めるようになり、その人の精神的価値が上がっていくことになります。そのことを意識しないで日々を送るということは、その人の価値はどんどん下がっていくことになります。しかし、価値が下がることは捉え方によってはありがたいことになりますね。どんどん苦しくなっていくわけですから。そこには「気付きなさい」というメッセージが隠されているのです。

何かあった時に「大事にならなかったからまぁいいや」と出さずにいると、それはピーーーッと一直線の人生を歩むことになります。いいことも、みんなと共有し、進化発展していく。悪いことならなおさら出して、みんなの知恵をもらい、学び、発展していく。そして周りの人たちはそのことを通して「ああ、自分もそうだ」と学びの輪が広がっていく。
みんながそういった意識を共有すると、これが新しい時代のモデルだと、微笑ましい場をイメージすることができます。それを観ているのは、私たちだけではありません。この世界を私たちに託している天も観ているのです。そのために、天は私たちに上がるも下がるも与えているのです。
ピーーーッと進んで、下がって、上がる。元に戻り、またピーーーッと進んで、下がって、上がる。これが生きるということですね。心電図もそうでしょう。それがピーーーッと一直線になったらご臨終ということですね。それは、誕生・発展・進化から、収縮し、消滅するプロセスが一区切りついたということです。さらに、死を迎え、魂が肉体から離れると、生きていた時の人生は何だったのかということを振り返ることができ、次の大きなサイクルの中にあることが観えてきます。人生とは、大きくも小さくもその繰り返しです。

ピーーーッと一直線のまま1日が過ぎ、1年が過ぎ、そのまま80年経って死んだとしたら、何をしに地球に生まれて来たのでしょう。それでは、人間の持っている可能性を存分に使わず、脳の大部分は働かないままです。
感情が湧いてくるのは、心が欲に翻弄されているからです。愛情の情とは欲から生まれる執着のことです。自分の子どもに愛情を持つのは子どもに欲をかけるということで、親の情で汚れをつけることになるのです。
脳は、本来それをチェックする働きをするためにあるものです。私たちには日常的に、楽したい、得したい、これは嫌だ、あれがいいという感情が自然に出てきます。それをわかっているつもりになっていても、多くの人は無自覚に感情のまま生きているのです。なぜならカルマ(=垢)にまみれていることを自覚していないからです。
アカの思念をカタカムナの単音で読み解くと、「カ」は宇宙の極小微細単位です。

      ア
      ア
      カ
      カ

 

 

 

 

「カ」は「ヒ」と同じ始まりの位置に小丸がありながらトコロ軸(横軸)が突き抜けているので、現象界の奥にある潜象界を構成する最小単位です。「ア」は高次元の響き。ですから、アカとは、宇宙の極小微細単位が構成していたものから分離し、新たな可能性に向かうことです。垢が落ちるということは、その垢自体も新たなものを構成するし、元のものも、垢が落ちたことによってきれいになり、リニューアルする。その行為自体が高次の生命活動であり、生命の元になる現象(新陳代謝)を示しているのです。それが現象界を創り出しているのです。すごく大事なものでしょう。それは、私たちの心の垢の性質も同じことです。

私たちの太陽は、約27日をかけて自転します。そして25800年ごとに一つのらせんを描きながら、2億2600万年をかけて天の川銀河を一周しています。その太陽の周りを地球が周っています。周りながら、春分、夏至、秋分、冬至という時を刻んでいます。地球の動きは、単に同じ場所にいる太陽の周りを周っているのではなく、らせんを描く太陽の周りを周りながら進んでいるのです。
星という現象界の形に現れたもので捉えると、わかりやすいですね。それと同じ構造で、宇宙の創世がカタカムナの八鏡文字に表されているのです。私たちの体の設計図であるDNAも同じ構造をしています。この世界は相似形でできていますから、地球生態系も同じ仕組みで成り立っています。

5-6
カタカムナ第5首

カタカムナの八鏡文字の小丸は、ヒフミヨイムナヤコトと進むに従い移動していきます。それはこの世界が発生する物理性を表しています。「ヒ」は地球暦で言う春分の位置にあり、「イ」は秋分の位置にあります。私たちは、1年で見ると、今「イ」の位置にいます。

      イ
      イ
     匕
      匕
地球暦で見る春分点と秋分点
地球暦で見る春分点と秋分点

惑星の動きで見るとわかりやすいですね。それは現象界に現れていて、我々の目や想像力で確認できることだからです。しかし、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトのプロセスは、目には見えません。「ヒ」は潜象界、つまり我々現象界の人間にとっては「ない世界」の段階でのすべての始まりを表しています。「イ」が現象界の入り口。それがムナヤと進んで準備ができて「コ」で転がり出て「ト」で統合し、次に「ア」となったら現象が始まるので、ヒフミヨイムナヤコトはすべて現象が始まる前の潜象過渡の状態です。そしてそれは平面ではなく、球体の中で、春分、夏至、秋分、冬至と立体的に巡ってくるものです。
ちょっと難しいですね。現代の人間の頭では、それが理解できないのです。13000年前のカタカムナ人は、それを直観で理解していました。それがだんだんモノ・カネを求める自らの欲望に支配され、その結果情に翻弄されて、天と共に生きることを忘れてしまったのです。

6

12900年前の光のピークから、闇のピークである2012年12月21日の銀河の冬至へ向かう中間点の6450年前と前後して、メソポタミア文明などの現代文明の始まりとなる文明が台頭してきました。その遺産として紙が発明され、文字が発達したのです。それから、みんなが紙に書くことで物事を伝えるようになり、脳が物事を二次元で捉えることに慣れてしまいました。
私たちの脳は本来、八鏡文字で示される宇宙の構造を立体的に捉えられる能力を持っています。しかし、近代において人類は、紙のような二次元で物事を捉える脳だけを発達させてきたのです。だから、損か得か、良いか悪いか、多いか少ないか、という二元論で物事を解釈するようになってしまいました。般若心経の色即是空、空即是色のような世界観が真理の主流になり、ただ境地を求める表面的な物事の捉え方になったのです。

今まで、私たちはそういった意識レベルにいたのです。僕もそうでした。そしてそれに翻弄され、表面的な結論を出してきました。もしも人生を勝ち負けで表現するとしたら、負けとは、自らに囚われた思考に翻弄されることです。それは、自分のクセのままに思考して、それが実現するようにと願い、行動している状態です。それは、我のままに生きているということです。

その精神状態では、宇宙の構造を理解することはできません。それは自分の頭で思考を回すのではなく、上から降りてくるものを受け取っていくことによって理解できるものだからです。ですから、自らに囚われた思考を回しているようでは、上から降りてくるもの受け取ることはできないのです。直観を研ぎ澄まし、この世界に遍満する法則(メッセージ)を感じ取ることで、瞬時に物事の道理を捉え、「そうか!」とか「なるほど!」とか「これだ!」と合点すると、それまで自分がやって来たことのずれが観えてきます。そういった思考が回り始めると、宇宙の法則と共に生きることになるのです。

先日、大町ビレッジへ行った時に、カトケンがネギの種を蒔いていました。レイキで畝に線を引いて、手で細かく蒔いている。家庭菜園ならそれでもいいけれど、うちは農業法人ですよ。権兵衛(播種機)を使えばもっと早くきれいに蒔くことができます。それは昔僕が畑をやっている時に始めたやり方です。玉ねぎの種でもきれいに蒔けます。
うちは除草剤を使わないので、玉ねぎの芽が出たら今度は除草が大変です。昔は手で草取りしていましたが、とても手間がかかるし腰も痛くなるので、何とかいい方法はないだろうかと考えて生まれたのが太陽熱消毒です。あれは、最初は失敗から生まれたんですよ。とびっきりいい苗をつくろうと思って、7月の暑い時期に畑にたくさんボカシを入れたんです。それからしばらくしてキャベツの苗を植えたら、全部しおれてしまった。なぜだろう、と思って畑に近付くと、ブワーッと熱気が来たんです。びっくりして土に触ったら、60℃以上ありました。ボカシの量が多くて、発酵したんですね。
これは大変なことをした、こんなところに苗を植えちゃいけない、と思い、しばらく置いておいて、9月になってから玉ねぎの種を蒔きました。その頃になるともう熱は収まっていましたから。その時に、あっと思いました。熱のおかげで、雑草の種がみんな枯れていたことがわかったのです。おかげで草取りはほとんどしなくて済みました。その上、土が完熟していたのでとびっきりいい苗ができました。だけどその苗で作った玉ねぎは、みんなトウ立ちになりましたね。そこでまた、玉ねぎは小さいころに肥料を吸い過ぎるとトウ立ちするということがわかりました。そんな試行錯誤の中で、太陽熱消毒の智恵が生まれたのです。
その後も、畝は東西に向かって立てるものだと思っていたら太陽熱消毒の場合は南北の方がまんべんなく光が当たっていいことがわかったり、まだ熱が落ち着かないうちに人参を蒔いて失敗したりということを繰り返しながら学んでいきました。
そういうことは、どこかで勉強したものではないのですよ。ものごとを単体で見ていると、つなげることはできません。何かをやる時にふっと湧き出したものが、こちらにも応用できるぞ、あちらにも応用できるぞ、とつながっていく。それは、ヒフミヨイ、マワリテメクル、ムナヤコトと潜象界から進んできて、次のアウノスヘシレの「ア」が発生したところから自動的にいろいろなことが起きて、教えてくれるのです。

その時に、その起きたできごとをよーく観ることです。それはメッセージですから、「いただきます」の精神でいただいていくと、物事はとんとん拍子につながって滞りなく進んでいくのです。
いいと思うことは、そのままやっていけばいいですね。失敗の場合は、失敗の可能性が10あるとしたら、その失敗によってまずは最初の1つが消えるということです。学習すれば、失敗の可能性を確実に1つ減らせます。2回失敗すれば、2つ消せますね。どんなにカンが悪くても、10回失敗すればあとは当たりがあるだけです。

ダメなことの奥には、必ず学びがあります。学ぶ意志のある人は、心電図の下がったところでも学びます。そして、それを次につなげていきます。それが、現象と対話をする人です。
そのコツは、直観で感じ取ることです。そうしたら、物事がつながり、スムーズに事が進みますから、毎日が楽しくなります。自らの考えに囚われ、同じところに引きこもっていたら、同じような毎日が過ぎるだけですね。引きこもっていたら、太陽が周っていることも意識できません。まこっちゃんなんて3年も引きこもっていたのですから、もったいない時間でしたね。それはその人のカルマです。そのカルマに相応しい学び方をしたということです。「マコト」をカタカムナの思念で読んでみましょう。

ちなつ:
まこっちゃんいないよ。

いさどん:
いいんです。それがその人の徳だということです。大事な場面にいないということが、今のその人の人柄を表しているのです。

みかこ:
だけど何でこんなに大事な日にいないの?

いさどん:
そうやって「それじゃダメでしょう」と言うのが、人の欲というものです。この人はこうやって大事なことを逃すんだということを理解したら、だからこそ逃がしてはいけない、ということを自らに対して思えばいい。それは頭を回して段取りを組むのではなく、今を「いただく」ということです。
ここは、自分と人を区別しない場です。人に対して「ここが問題だよ」と伝えることは、本当に愛のある場として、相手のことも自分のこととして伝えるということで、それはとても大事なことです。自分の能力には限界があります。しかしすべてをいただきますという心になったら、人の力も自分のものとして備わるということです。

八鏡文字も同じです。一人の人間の名前を読むと、小丸の位置に偏りがあります。一人では、この世界を受け取るには限界があるということです。そしてその性質によってもたらされる縁を「カルマ」と言います。しかし、様々な偏った者が集まり、群れる(調和する)と、全体ではバランスが取れていくのです。
この世界に命が発生する時、完全な潜象界に不完全が生まれ、ものとものの差ができるからこそ、現象界に転がり出てくるのです。その不完全な者たちが集まり調和し、内も外もない世界ができたら、そこは完成された美しい世界になります。

ここは完成された世界ですか?まだまだ、そうではないですね。それは、みんなの心が一つになっていないからです。そしてこの道を歩むことの本当の目的が、まだ十分にわかっていないからです。それで自らの心に囚われ、不完全なままの自分を大事にしているのです。
自分に足りないところを人からいただき、また、自らの能力をみんなに与え、ありがとうございますという心になったら、すぐに美しい場所ができますよ。

(ここで「マコト」、続いて「リュウシロウ」がカタカムナで読み解かれ、それぞれの特徴が明快になる。)

いさどん:
自らを所有していると、自分の性質を客観的に伝えられても、自らの思い描いていたイメージと違うことから、それを受け取ることができません。そしてカタカムナや地球暦の捉え方に疑問を持ちます。しかし真実は、宇宙の法則に従い、今のあなたがその性質で存在しているということを示しているだけなのです。
それを理解すれば、今あなたがいる位置が客観的に観え、そこからどのように歩んでいけばいいのかということがわかり、自らの意志によって未来を創造していくことも可能となるのです。

私たちは、日本という国に暮らしています。「クニ」とは自由が定着したところ、という意味です。それがわかると、クニに生きるということは、自由自在に生きるということになるのです。
そういったことを自らの人生に表していくためには、どんな時でも自らを緻密に観て、その性質がどのように周りに反映されているかを観ていくことが大切です。それは畑で作物を育てる時でも、ご飯を作る時でも、日常の中のどこででも必要な、大切な姿勢なのです。

のんちゃんが毎日酵素玄米をとぐ時に、カタカムナのウタヒをあげていますね。あの姿には欲がないのです。その心がいいですね。
でもね、欲はあってもいいんですよ。カタカムナの48音の思念には、実は大変なパワーがあります。その48音がこの宇宙を創っているのですから。正しい、美しい、濁りのない欲を持ったら、この世界を美しくすることができます。欲の奥にどのような意志を持っているかによって、世の中を良くもすれば悪くもできるのです。だから自分を磨かなければいけないのです。
だけど人は我欲にまみれたまま、良くなりたいと言います。それでは良くはなりません。当たり前のことです。
そのことが理解できたら、そこにはたちどころに気持ちの良い風が流れ、物事はスムーズに進み、誰かがそこを訪れた時に「なんて気持ちの良い場所だろう」と思うことでしょう。長年病気だった人も、そこに行くだけで治るでしょう。

そんなふうに美しくなるための根源は、どこにありますか?
そう。一人ひとり、自分の中にありますね。

一人ひとりが自らと向き合い、自らをきれいにして、いつも自らを観察して正しくコントロールできたら、どんな場所に行っても物事はすべてスムーズに進むでしょう。それどころか、地震も火山の噴火も起こる必要がなくなるでしょう。なぜなら、私たち一人ひとりの心に地球が連動しているからです。

これから、七日七夜をかけて、心の質的転換をします。
なぜ心を磨く必要があるのか。先日の3日間の「宇宙おじさんの人生講座」でも、冒頭にその話をしました。もしもその意味が理解できたら、もう講座は必要ないのです。けれどもなかなか理解ができないから、繰り返し繰り返しその心に触れる必要があるのです。一時変わったからといって喜んでいてはいけません。一生自分と向き合っていくのです。なぜなら、この世界(宇宙)は、永遠に変化・変容・変態を繰り返しているからです。

誰もが心の中に、宇宙の情報の源(宇宙図書館)を持っています。誰かの考えをもらおうとか、新しい知識を仕入れようという意識の人は、みんなメモを取ります。そうではなく、もともと自分の中にあるものにアクセスし、「ああそうだった」と、その情報を思い出すということです。誰の中にも、そのメモがあるのです。それが生命の姿であり、そして、人間の本当の姿なのです。

 

 

 


いさどんの七夜物語 – 序章 「秋分前夜」

木の花ファミリーは、現代社会の行き詰まりに突破口を開く次世代の生き方を探求する場として、創立以来、時代と共に変化しながら、メンバー一人ひとりが心を磨くことをもっとも大切にして歩んできました。その結果、皆が心から安心して暮らせる豊かな場を築いてきましたが、いつしかその豊かさに甘んじ、一人ひとりが真剣に自分と向き合い変化し続ける意識が薄らいでいく、ということが起こりました。このことを感じたいさどんは、今年6月、1年でもっとも光の多い夏至のころから、毎晩の大人ミーティングに参加しなくなりました。
そして3ヶ月後、光と闇がちょうど半々となる秋分の前夜に、いさどんは久しぶりに大人ミーティングに姿を現しました。

1年で闇のピークとなる冬至を越え、今年も残すところあと3日。2015年「船出の年」最後のいさどんブログは、大人ミーティングに出ない間もずっと皆の成長を見守り続けていたいさどんが、秋分前夜を皮切りにあふれるように語り続けた七日七夜の物語をお届けします。無限にあふれ出す宇宙の叡智を浴びながら、この世界の真理を探求する7日間の旅へようこそ!
(写真は、秋分の日の朝日です。)

 

9月22日 秋分前夜

いさどん:
皆さん、遠くに座っていても、下を向いて何か作業をしていてもいいですが、意識はこちらへ向けていてください。

今朝、すごく大事な話をしました。どんな話だったのかというと、今は全くそれが出てきません。ただ、大事な話であったことは間違いありません。
では今日僕が何でこの場に来たのかというと、語り出せば出てくるからです。語り出せば出てくるということは、僕の中に確固たるものとしてそれがあるということです。しかし今何だったのかと考えても出てこないということは、考えて出てくるものではないということです。それは、時が来れば湧き出してくるものです。

僕は40歳でそれまでの仕事をやめました。今は64歳ですから、あれから24年経ったということです。
僕の人生は、とてもおかしな人生です。僕は30歳でこの道をいただきましたが、始めの頃は上からのメッセージを疑っていました。それこそ悪魔か何かが僕を騙そうとしているのではないかとも思いました。しかしそのメッセージはその都度、道理が通っているのです。だから疑いながらも、道理の通る方を選んできました。

始めの頃は、その道理は僕の意志とは別のところにありました。ですから、どちらかというと、それは僕にとっては自らを否定する方にありました。それでもそちらの方が道理が通っているから、常にそちらを選んできました。
だけど、みんなは違いますね。そちらの方が道理が通っているとわかっていても、自分の意志の方を選ぶ。そうすると、結果的にバカを見ます。
自らの意志とは違うけれども道理の通る方を選んできたのが僕の人生です。その結果、今こういった暮らしが出来上がりました。

一昨年、ある女性と22年ぶりに再会することがありました。
彼女は、僕ととても深い縁があった人です。しかし僕がここに来てから22年間はまったく縁がありませんでした。ところが一昨年再会しました。縁が深いと、22年も経ってからでも復活するのです。

彼女は僕と再会する前に、こんな夢を見たそうです。宇宙人がやって来て、彼女をさらっていこうとしました。彼女は、自分は地球から離れるんだ、それもいいか、と思い、仰向けになったまま、体がどんどん宙に浮いていくのに任せていましたが、最後に街が見たいと思って、体をひっくり返して下を見ました。その時、地球から離れる前にもう1度いさみくんに会いたい、と思ったそうです。そうしたら体がくくっと下に降りて、元に戻った。彼女は結婚して子どももいるけれど、その時、夫や子どものことはまったく頭に浮かばなかったそうです。そしてその後、偶然インターネットで僕を見つけて、再会することになりました。
普通、20年も経ったら互いの気持ちは変わっているものでしょう。ところが彼女は22年ぶりに再会してここに来ても全く違和感がありませんでした。そして彼女の心は、ここにどんどん定着しています。家に帰れば普段の生活があるわけですから、ギャップを感じて苦しくなるものですが、彼女は苦しい感じがまったくしないのです。それは、「道」があるのだということに気付いたからです。

それを聞いた時に、僕という人は一体どういう存在なのだろうと考えました。すると、カタカムナの単音の思念が浮かんできたのです。
「イサミ」をカタカムナで表すとこうなります。

      イェ
      イェ
      サ
      サ
      ミ
      ミ

 

 

 

 

「偉佐美」のイは、「ヰ(イェ)」の方です。まっちゃん、これを単音の思念で読み解いてください。

まっちゃん:
3文字の場合は、普通、真ん中の文字から読みます。まず「サ」にはいろいろな思念があるけれど、「心の隙間」「狭い隙間」「動きの始まり」という思念があります。

いさどん:

なぜ始まりかと言うと、「サ(差)」ができることによって現象化するから。もしもまったく差がなかったら、それは「サトリ」の状態だから、始まらないのです。
「ミ」は「満つる」。満つっているけれど、これはまだ現象界に現れる前の、潜象過渡の状態です。

59

みかこ:
「ミ」は「観る」。心で感じるもの、ということでもある。

いさどん:

「観る」とは、奥にあるものを観るということ。この目では見えないのです。

みかこ:
「ミ」には「みつご」という意味もあって、電気、磁気、力が満ちていること。でもそれは目には見えないでしょう。

いさどん:
電気、磁気、力というのは、この現象世界の物理的原理。何かの現象が起きるのは、その3つの働きがあるから起きている。だけど、現象は目に見えても、その奥にある3つの働きは目に見えない。だから、浅く見ている人にはわからないのです。

まっちゃん:
「ヰ」は、「サ」と「キ」の重合した状態。重合とは、七重、八重、九重を超えて十重に至ると、八鏡文字で表されている大円が溶けて一体化する、つまり悟りの状態になるということ。

みかこ:
八つの小円も、この次元まで来ると小円も溶融し、境界面に密集していた高密度の小円の密度差が取れる。それが悟り。

いさどん:
カタカムナで言う精神位置の、一番高い、仕上がったところだということ。

みかこ:
この形は鳥居の形を表し、悟りを意味する思念を持つ符号であるとも言っている。

いさどん:
そうすると、この「イサミ」という名前は、まだ隙間にあって、そろそろ動きだそうとしている状態で仕上がったもの、奥にいて満つっているものを表している。現象界にはまだ現れていない。
どこにいるかというと、ここに現象界と潜象界の間の壁があって、現象界に現れる少し手前のところで、準備ができている状態。その位置にいて、現象界の人からは見えない。見えないところで、完成された心を持ってそこにいるということです。

かつて、僕はこういう道をいただいて、いったいどんな役割があるのでしょうかとお釈迦様に聞いたことがあります。なぜかと言うと、いろんな人に心の道を語ってきましたが、いつも手応えがあるようなないような状態だったからです。
表面的にその人が楽になるという意味では、手応えがありました。だけど僕は、楽になってもらうためにやっているわけではないのです。あなたが、楽になる前に苦しかったことの意味を理解しなさい。苦しいとは尊いことであり、苦しさがあったからこそ、楽になった時にこの世界の有り難さに気付くことができた。そのことをわかるために伝えているのに、みんなは楽になることだけを求めて、それで終わりにするのです。
だから多くの人は、自分が苦しみから解放されると「ありがとうございました」と言ってそれ以上学びに来ませんでした。それで僕は、孤独になっていました。

大事なことは、どこからでも理解できます。四方八方どこでも自分の鏡ですから、どんなにありがたいことからも愚かしいことからも学べるのです。全てはそのためにあるのに、人は自分に都合のいいことだけを受け取って、苦しみが取れたらそれで良しにして、その苦しみの本当の意味を理解しないで終わっていきます。それではいけないでしょう。中には、「ありがとうございました」と言ってお礼を置いていこうとする人もいました。だけど僕は、そんなことが目的で語っているわけじゃない。だから、お礼は受け取りませんでした。

そんなふうに矛盾を感じていた時に、お釈迦様に聞きました。「私はどういう者なのでしょうか」と。その質問の奥にどんな心があったかというと、「私は理解されたい」という想いがありました。それは、僕を理解してほしいということではなく、僕が語っていることを理解されたい、ということです。それは、本当に人が楽になる道だからです。
だけど人々は、浅く受け取って「ありがとうございました」と言って帰って行きました。だから、ものごとの奥をずっと観続けて、生きるとは何であるかを知っていくということを忘れるのです。清涼飲料水を飲んだように一時的にはスカッとして爽やかになっても、その後が続かないから、また清涼飲料水が必要になるのです。
僕はそれが不可思議で仕方ありませんでした。それで「私がやっていることはいったい何なのですか」とお釈迦様に聞きました。僕が理解されたいとか、評価されたいとかいうことではなく、かけたエネルギーが無駄にならずに相手の中で生きるように。そしてその人が自分の愚かしさに気付いて大切な生き方をするようになるように。簡単に言えば、幸せになるように。もっと言えば、本当の価値が上がるように。そういう想いがありました。でもなかなかそうはなりませんでした。

本当ならば、同じことをグダグダと続けなくても「やめた!」と言ってサッと切り替えれば、別の人生があるのです。それなのに同じことを繰り返すのが、その人の癖、性分、つまりカルマです。
そのカルマからの解放を表すのが、「ヰ」の文字。僕は今、肉体を持ってこうやって生きているのだから、それを人々に伝えることで本当に成っていくのだろうと思っても、いっこうに動きが進まない。
それでお釈迦様に質問をしたら、こう返事が返ってきました。
「おまえが生きているうちは、おまえが伝えたいことは世の中に理解されない。」
それは、おまえのやっていることは効果がないという意味ではありません。おまえはそれだけの覚悟を持って、それをやる気があるか?ということを問われたのです。

一昨年、不二阿祖山太神宮へ参拝した時に、天から「難しいことを与えておるゆえ心していけ」というメッセージがありました。わかっております、とその時は思いましたが、その後にいろいろと起きたことを考えると、改めて、本当に難しいことを与えられたと思います。僕が伝えようとしていることと、相手に伝わることがまったく真逆になることもあるのですから。面倒くさいったらありゃしないし、いい加減わかりなさいよという気にもなります。
それでも、何度も同じことを繰り返す人に対しても、もう知らないとは言わずに付き合ってきました。わかってほしいのにわからない者たちだな、と思いながら。

その時に僕はどこにいるのかというと、潜象界と現象界の間に壁があって、その壁の手前にいる。潜象界から現象界に語りかけても、それは現象界の人間にとっては「ない世界」からのメッセージだからわからないのです。
「イサミ」という名はすべて潜象過渡であり、「サ」は現象界に入っていく始まりを表しています。「ヰ」は、現象界ですべてのことが起きた後の最終到達地点。僕は潜象界の側にいて、満つっている状態です。ムラムラムラというのか、モコモコモコというのか。だけど、人間の体を持っているから、それを語ります。「サ」から「ヰ」まで、つまり始まりから仕上げまでを語ります。だけどみんなは、僕がいくら高い視点のことを語っても、自分の足元しか見ていない。いくら僕がこっちだよと言っても、足元の低いところにしか興味がないのです。

それで僕は、お釈迦様にさらに質問をしました。私の道はどのような道なのでしょうか、と。そうしたらお釈迦様は、こう言われました。

「おまえは今、一にいる。あるいは二にいる。しかし、道は十への道である。そのおまえが、私の道はどこにあるのでしょうかと十を聞いている。
私は、その問いには答えない。なぜなら、肉の体を持って生きる人間は、答えをすぐに求めたがるから。形をすぐに求めたがるから。もしも私が十を答えたら、おまえは一にいれば三に行きたがり、三にいれば五に行きたがり、七に行きたがり、十を求めるだろう。もしくは、いきなり十に行きたがる者もいるだろう。
しかし、一は必ず二に通じ、二は必ず三に通じ、三は必ず四に通じる。そして九まで行けば、自ずと十になる。
今、おまえは私に問うている。それは、私に通ずる道にいて、私の道はどこにあるのでしょうかと問うているとのである。ならばおまえのすることは、今一にいるとしたら、二に進みなさい。二に行ったら、三に進みなさい。三に行ったら、四に進みなさい。次の場所は必ず観える。しかし一にいては、三は見えない。
一つずつ進んで九まで行けば、自ずと十は観える。それが道だ。」

そしてお釈迦様は、「おまえは八十にして滅する」と言われました。なるほどと思いました。僕は四十で仕事を辞めると決意していましたが、それは折り返し地点だったのです。
そしてこう言われました。
「おまえが生きている間は、おまえの言うことは世の中に理解されない。つまり、世の中に道は開かれない。しかし、おまえが滅したら、世の中にそれが広がり始める。」

僕が八十歳ということは、2031年です。2031年に、世の中がそういう時代の扉を開けるということです。
2012年の12月21日に銀河の冬至があり、宇宙の扉は開きましたね。そこから2031年までは、19年間のギャップがあります。その間は理解されないということは、世の中が本当には動き出さないということです。お釈迦様は、それを覚悟して行けということを言われたのです。
僕は、世の中の扉が開く前の土台をつくる人間です。そういう役割なのです。そう思っていたら、ちゃんと扉を開ける役割の魂が生まれてきましたね。銀河の冬至を越えて、世の中に質的転換を起こして成す役割の魂たちが生まれて来ています。

6月の終わりから、ずっと僕は大人ミーティングに出ていませんでした。このわからない話をみんなにどうやって伝えたらいいだろうと考えていました。わからないはずです。理解されないという役割で生まれてきているのだから。
本当は、安倍総理でもパン国連事務総長でもアメリカ議会でも、この話を聞かなければいけないのです。今度アメリカで、日本とアメリカと韓国が話し合いをしますね。今年、日中韓で話し合いをする前に、アメリカの意向を聞かなければいけないということで集っています。名目上は北朝鮮対策ですが、本当の目的は中国対策です。そんなことをやっている限り、いつまでもこの状態は続くでしょう。だからこそ、彼らは僕の話を聞かなければいけないのです。それは、僕の話ではなく、僕を通して湧き出てくる天の意志を聴くということです。

だけど、まだそういう時は来ていません。でも少なくとも、ここの人たちは僕の話を聞かなければいけない。この不可思議な生き方は、「なるほど!そういうことか!」というとびっきりの合点がないと生きていけないでしょう。では世の中はなぜ合点がなくても生きていけるのかというと、欲と我にまみれているからです。汚れているからです。
だけどここではこんなにも汚れを取ることを大切にしているのだから、それを取らずにいて、何を目標にして生きるのですか。目標を見失ったまま、どうして前へ進めるのですか。

僕の役割は潜象過渡ですから、まだ世の中からは観えません。しかし宇宙は既にそうなっています。宇宙はそうなっているけれど、現象化されるにはまだ時間がかかりますから、その間に新しい時代を迎え入れる心の準備をみんなができるように、僕はこれをやっています。ものの奥を観ようという意志を持った人にだけ、初めて通じるのです。
潜象過渡から伝えられることは、汚れが取れないと観えません。だけど僕は肉体を持って、現実に現象界に現れています。だからみんなは、僕を利用しようと思ったらいくらでも利用できるのです。だけど、利用する意志を示さなければ、利用できないですよ。観ようとする心、引き出そうとする心、学ぶ心がなければ、利用できません。それではもったいないでしょう。
利用しようという意志があれば、僕はどこまでも出ていきますよ。それは、みんなが僕に対してどうするということではなく、あなたはなぜ今ここにいるのか、自分は何者なのか、どうしてこの道を選んでいるのか、ということを明快にするということです。

昔僕がお釈迦様に、私の人生は何なのですか、どこへ行くのですかということを聞いた時に、答えをいただきました。どこへ行くのかという答えはなかったけれど、そこへ行く姿勢を教えられました。それが答えです。そして歩んでいけば、ちゃんと形は観えてくるのです。

明日は秋分。いよいよ今年も第四コーナーです。来年の指針も出ました。着々と天は用意されています。
700年の伝統を持つ奥三河の花祭が、ここに「富士浅間木の花祭り」として継承されました。花祭は国の重要無形民俗文化財ですが、今やここには世界各国から祭りのための聖水が集まって来ています。いったいどこまで進化していくのでしょう。
カタカムナ勉強会は、今年からカタカムナ研究会になりました。そうしたら、それに参加したモンゴルの青年が、ここを人類の歩むべき新たな道を探る研究所にしましょうと言いました。
僕はかつてお釈迦様から、名前から人のカルマを読み解く「カルマ読み」をいただきました。さらに3.11と共に、惑星配置からその人を読み解く「地球暦」がやって来ました。それでより深く人を読み解けるようになり、自然療法プログラムが進化しました。そして一昨年カタカムナと出会い、カタカムナの思念から読み解けるものがカルマ読みや地球暦とぴったり一致するのです。地球暦の太陽から冥王星までの九つの惑星は、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトで十で悟りに至る道とぴったり符合します。そんなことを、いったい誰が考えたのでしょうか。

ヒフミヨイムナヤコト

地球暦は、ここで進化、発展しています。カタカムナも、いよいよこれまでの熟成期間を経て、これまで潜象界にあったものが現象化していくのです。これから独自のカタカムナ理論ができあがっていきます。まっちゃんをどうやって活かしたらいいだろうと考えていましたが、活かしどころが見つかりました。少し前まではずっとグダグダしていて、もう好きにしろと言いましたが、これからは好きにしろではなく、ちゃんと役に立ってもらいます。

まっちゃん:
そうします!

いさどん:

地球暦に出会ってから、僕とみかちゃんで力を合わせて読み解きを進化させてきました。これからは、まっちゃんと力を合わせてカタカムナを深めていきます。そうやって、ことが成っていく時に一人ひとりに役割があるのですよ。今、新プロジェクトの計画がありますが、全てそこにふさわしい人がはまっていくのです。現世的には仕事としてですが、霊的には、自分の魂のはまりどころにパズルのピースのようにはまるということです。
そうやってみんなが活かされて、それが社会にメッセージとして発信されていく。これから、今の社会にはまることのできない人材がたくさん集まってくるでしょう。そういうことを、我々は真剣に考えなければいけません。それは、損得勘定で考えることではないのです。宇宙はフリーエネルギーであり、潜象界から無尽蔵にエネルギーが供給されています。道理に沿ったものには、必要なエネルギーが与えられます。その心になったら、何でも可能になるのです。

僕は今日、大事なことをみんなに伝えました。みんなはそれを聞いて、この現象界でどうしたらいいと思いますか。

ヒロッチ:
ありきたりなことだけど、ここの役割を世の中に対して果たしていく高い自覚を持つことが一番だと思います。

なかのん:
ものごとの奥を観ていく。

いさどん:
その結果何を求めるのですか。

なかのん:
宇宙の意志を感じる。それでどうなっていくかはわからないけれど。

あや:
世界を清浄の地に導くということをする。

いさどん:
そういう目的のために我々はこの道を歩んでいるわけですから、それはこの先にある結果のことでしょう。それがいつ来るのか、どういう形になるのかはわかりません。けれども、揺るがない目標です。この道を知ってこの道を歩み出した者は、本来そこから外れるということはないはずなのです。

えいこばあ:
意識していく。

みちよ:
天意を感じて生きていく。

いさどん:
その目的は?

みちよ:
天の意志を現象化して、調和的な社会を創ること。

いさどん:
あなたが創るの?

みちよ:
天のプロジェクトのもとにみんながやっていく。

いさどん:
そのプロジェクトを感じるためには、何が必要なの?

あや:
我を捨てる。

まっちゃん:
我を超えるじゃない?

あわ:
自らの役割を果たす。

あつこ:
人のために生きる。

やじー:
道具になり切って使っていただく。

いさどん:
みんな正解ですね。外れている人はいない。それをまとめて言うと、大切な道を生きているという自覚を持つということです。それができたら、今みんなが言ったことは自動的に成っていきます。簡単でしょう。大事を生きている。だから大切に生きなければいけない。忘れちゃいけないんだ、ということです。

それだけ大事だということは、いい道を生きてありがたいな、得したな、ということではないのですよ。僕がみんなに伝えたいのは、責任があるということです。ここがやり切らなければ誰が扉を開けるのか。

そういったことを想って生きれば、具体的なことは自動的に成っていきます。大事だということがわかったなら、すべてのことの一番にこれを置いて考えることです。そうしたら、良い世界ができるでしょう。

 

 

いさどんの七夜物語 – 第一夜「思い出す」へ続く

 

 


みなさん、宇宙創成プロジェクトへようこそ!

地球上に人としていのちをいただいた限り、いつもお天道さまの下を堂々と歩める人生でありたいものです。なぜお天道さまの下なのかというと、地球上には昼と夜があります。しかし、実際は地球がまわっているから昼と夜があるだけのことで、太陽はいつも光を降り注いでいるのです。ですから、わたしたちが地球から離れ宇宙空間に出て、太陽を向けば、いつも太陽の光が当たっていることになります。

わたしたちはいつもお天道さまの下にいるのです。そこで、いつもお天道さまの下を堂々と胸を張って歩んでいけることが大切です。

夜があるのは、地球がまわっているので、昼と夜というサイクルを地球生命に与えただけのことです。生命にとって酸素がなければその機能が壊れてしまうように、夜がなければ生命は今のように機能しなくなることでしょう。そうした陰陽をつけるために、地球はまわっているのです。しかし、地球上が昼であっても夜であっても、お天道さまの下にいることに違いはありません。

そこで、地球を丸くせずに、パラボラアンテナのように平らにして太陽のほうにだけ向いていたら、ずっと昼間でい続けることになります。しかしそれでは、その裏側は永遠に夜であり続けるのです。この世界に物質が存在する限り、そのような構造になっています。約13000年前に東アジアに存在していたカタカムナ人は、この世界の響きを48音に分類し、宇宙の創成・発展・消滅について体系付けました。ですから、カタカムナの第5首で「ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト」とうたわれているように、この世界のありとあらゆる物質は回転し、公転し、振動し続けているのです。

第5首
            《カタカムナ第5首》

フラクタル

今、ここでは様々な新たなプロジェクトが立ち上がりましたが、僕にはその宇宙創成プログラムを検討した記憶があるのです。たとえば今、サダオ(タイ語でニームの意味)プロジェクトで今後の計画についていろいろと検討しているように、宇宙を創成する段階で、この世界の構造をどのようにしていこうかと考えた記憶があるのです。

一番はじめに星の運行について考えた時、これから創る生命もすべて相似形で同じ構造になるので、どのようなものにも共通するしっかりとした仕組みを創らないといけない、とすごく考えた記憶があります。すごく考えて創ったのですが、あの頃、ノーベル賞はなかったですね(笑)。

21世紀に入り、大いなるターニングポイントを迎えている今、人類はそういった記憶を呼び覚ます時が訪れています。わたしたち一人ひとりの中に、この宇宙創成から現在に至るまでの情報が内在しているのです。人間の脳の90%はまだ使われていないと言われています。わたしたちの内面に眠る未開発の能力が開花すれば、宇宙の意志・時代の流れを感受する直観が働き、地球にいながらにして宇宙を理解することが可能になるのです。そこでは宇宙を探査するテクノロジーの可能性は大いに広がることでしょう。新たな時代を生きるわたしたちは、近代的テクノロジーと物質的豊かさに加え、高い精神性とともに進化していくことができるのです。

21世紀はわたしたちが地球人として、さらに宇宙人としての意識に目覚め、この世界に貢献していく時代の始まりです。わたしたちは、宇宙全体を認識できる能力を持ち合わせているだけではなく、宇宙を運営する側に立ち、宇宙そのものとして生きていくこともできるのです。

みなさん、宇宙創成プロジェクトへようこそ!プロジェクトメンバーは、あなたを含めた全人類はじめ、すべての宇宙生命です。これから宇宙がどのように創成されていくのか、その鍵を握るのはわたしたち一人ひとりの“意識”です。

宇宙創成プロジェクトへようこそ

 

 

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2016年2月14日〜3月12日
木の花塾「1ヶ月間の真学校」を開催します!

私たちがこの世界に生きる真の意味を学ぶ、かけがえのない1ヶ月間を過ごしてみませんか。それはきっと、あなたの人生を豊かにし、この世界を豊かにします。下記サイトより、前期受講生の体験記をご覧いただけます。自分を変え、世界を変える1ヶ月間の旅へ、皆さまのご参加をお待ちしています!
( → 1ヶ月間の真学校 受講生の体験記へ )

【 日 程 】
2016年2月14日(日)〜3月12日(土)

【 会 場 】
木の花ファミリー
静岡県富士宮市猫沢238−1

【 対 象 】
■ 自分を変えたい人
■ 世界を変えたい人
■ 今の世の中をどこかおかしいと感じながら、どうすればよいかわからずにいる人
■ それまで知らずにいた本当の自分自身を知り、真に人生を謳歌したい人
■ この星に生きる人 すべて
☆ その他、2015年度受講生からは以下の人に薦めたいという声が上がっています。

■ 漠然とした不安がある人
■ 自分も他人も責め続けている人
■ 人を信頼したいという思いはあるが、できない人
■ 未知の世界があることを知りたい人
■ 出会った人 すべて
(詳細は受講生アンケートにてご覧頂けます。 → 受講生アンケーヘ)

【 内 容 】
講座は「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多岐に渡りますが、全講座に共通して学ぶことは、物理的な現象の奥に流れる深い精神性です。それまでに考えたこともない新たな視点に出会うことで世界観を大きく広げ、今社会はどのような状況にあるのか、その中で自分は一体どういう存在であるのかを紐解いていきます。
〈 講座一例 〉
人格を学ぶ講座(カルマ読み・地球暦・カタカムナ)/天然循環法の畑作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/性と宇宙/自然再生と災害復興/持続可能な心の持ち方

*その他、誕生日会や季節の祭事、地域の食事会などのイベントも盛りだくさん!生活の様々な場面を通して、互いに助けあいながら宇宙の流れにそって生きる豊かなコミュニティの暮らしをリアルに体感できます。
*上記講座はあくまでも一例であり、プログラムは固定されていません。受講生との双方向の掛け合いにより、その時、その場で、もっともふさわしいものが提供されていく、誰にも予測不可能な世界に二つとないプログラムです。
(→ 2015年度レポーをご覧ください。)

【 主 催 】DSC00081
NPO法人ぐりーんぐらす

木の花ファミリーを母体として様々な社会貢献事業を行っているNPO法人です。

【 共 済 】
木の花ファミリー

詳細は、こちらをご覧ください!
「1ヶ月間の真学校@木の花ファミリー」

150313-225932
2015年度「1ヶ月間の真学校」卒業生による修了パーティー

 

 


あなたはこの世界のために生まれてきています

 ~21世紀の癌の処方箋・「囚」から「閃」へ~

 
僕はこの世界の観察者です。世の中のあり方や人のあり方、自然のあり方を常に観察しています。そうすると、そこにはいろいろな法則があることが観えてきます。ところが、ほとんどの人々は自らの中に湧いてくる欲望や興味を優先させているため、そこに法則があることを気付けていません。ですから、人間が創り出した世界はその法則を無視しているために、地球上に矛盾を発生させることになっています。今、人間社会はその矛盾のピークを迎えています。それはある意味、人間の能力の高さの証明でもあります。しかし、能力が高いからといって、その能力は常に良い方向に表現されるとは限りません。その能力の高さを、戦争のような極限に負をもたらすために使うこともあるからです。

そういった現状の中で、わたしたち人類はとても不健康な日々を送っています。その不健康な現象の一つが病気の蔓延です。今、日本人の死亡原因の一位は癌です。そこで、癌細胞の気持ちを僕は考えてみました。彼らはある意味能力が高く優秀な細胞です。自分たちの適切な範囲を知っており、その環境が整うと爆発的に勢力を拡大します。どこに勢力を拡大するのかというと、他の生命の中に寄生しながら広がっていくのです。ですから、この世界で癌細胞だけが独立して生きることはありません。常に何かに寄生しながら存在しているのです。このような話をすると、地球という器の中にいる今の人間の現状を想像できませんか?

癌細胞は自分たちが活動するエリアをつくり、その枠の中に入っています。人が自らの考え方の中に囚われている状態を、漢字で「囚」と書きます。これは、枠の中に人が入っている状態です。この枠の下の部分を取り去ると、玄関ができて外からの情報が入ってきます。そして、上の部分も取り去ると、上からは天の法則が入ってきます。そうすると、「囚(とらわれ)」が「閃(ひらめき)」になるのです。

囚われの状態とは、頭の中で思考がぐるぐるとまわり、自らの価値観から生まれる考えだけで生きている状態です。それに対して、閃くという状態は上から降りてくる直観と、内から湧き上がる想いの両方によって生まれます。この閃きの状態を「縦」の思考と呼びます。それに対して、囚われの状態を「横」の思考と呼びます。横の思考は、縦の思考に沿うと、健全に働くようになるのです。そして、この縦(Ⅰ)と横(一)の両方を合わせると十(重合)となり、これは地球の構造と同じです。わたしたちの体も同じ構造でできており、太陽系、銀河、さらに宇宙も同じ構造になっているのです。キリスト教の十字架も同じです。カタカムナでは、これを一(ヒ)から十(ト)までの道ということで、それを十(ヒト)と読み、完成された人間の姿を表します。それは、悟りに至ったヒトの姿です。

名称未設定

癌細胞は、自分たちが活動するエリアを見つけると、そこで自分だけの世界をつくります。しかし、人間の胃の中に癌細胞が増殖する環境が整ったとしても、通常、癌細胞は広がりません。なぜなら、人間の体の中には癌細胞を抑える免疫力があるからです。そこで癌細胞は、自分たちの存在するエリアの法則に従い、門を開き、「閃」という状態で役割をするようになったら、正常細胞として働くようになるのです。

しかし、「癌」という漢字を紐解くと、「品」物を「山」のように抱えると「病」気になる、という欲深な性質を示しています。癌細胞は能力が高く、自分たちのエリアをどんどん広げていく細胞ですから、自らが胃の中の役割に徹することよりも、いろいろな役割を持つ細胞を癌細胞に変えてしまうのです。そうして、癌細胞一辺倒の世界をつくり上げていきます。そして、癌が増殖していったエリアの機能は壊れてしまうのです。結局、わたしたちの体の中の重要な機能が停止すると、いずれ全体の生命機能は停止することになります。その結果、癌細胞も共に死滅するのです。癌細胞は本来、その癌細胞が寄生している全体が健全であると、癌細胞も共に存在していけるのですが、それを無視して自分たちだけの世界を広げるために能力を使うと、自分たちも消滅するはめになるのです。

しかし、癌細胞だけが問題なのではありません。本来わたしたちの体は、癌細胞と正常細胞がバランスをとるようになっています。ですから、癌細胞が増殖するということは、必ずわたしたちが自らの体の生態系を乱すような原因を持っており、それが癌細胞の増殖を手助けしているのです。たとえば癌細胞がより増殖するような食べ物を取り、環境をつくっていたり、癌細胞と共鳴するような心の状態を保っていることが挙げられます。癌細胞は品物を山のように抱える欲深な状態に共鳴する細胞です。その考え方は自らに囚われ、まわりに対して門を開かない状態です。そうした状態は、まわりのものたちと調和し、連携しない性質を示しています。

元々、癌細胞は癌細胞として存在していたのではありません。条件が整うと、正常細胞が癌細胞化するのです。このように癌細胞を捉えていくと、地球上の今の人類の姿に観えてきませんか?人間も、元々自然から発生したものであり、生命の循環の中にあったものが自我を得て、ある条件のもとにエゴを優先させていった結果、地球にとって癌細胞化するのです。まさしく、今の人間は地球上の癌細胞として存在しています。そういった意味では、地球に対して負荷をかけ続けている現代社会のリーダーたちは、癌細胞のボス的存在とも言えます。本来、人類は地球生命と共存・共栄する立場にいると捉えると、新しき人類のリーダーたちはその考え方を今までの価値観とは全く逆転させる必要があるのではないでしょうか。

そのような姿勢を人類が取り続けるようであれば、今後も宇宙や地球生態系はそういった行いに対し様々な現象を通して問題という形で、気付きを与えていくことでしょう。それは、「他者とつながりなさい。そして調和しなさい」というメッセージです。さらに、「あなたはこの世界のために生まれてきています。この世界があなたを生み出したのです」と伝えてくれているのです。

昔の人々は、それほど癌にはなりませんでした。しかし、今の人々に癌はとても多いのです。最近の統計によると、日本人の三人に一人は癌で亡くなっており、一生のうちに二人に一人は何らかの癌にかかると言われています。そこからは、今の人々の自らのことを優先して他者のことを思わず、お金や物に執着し抱え込んでいる姿が観えてきます。それはなぜかというと、人と人がつながらず、生きることに不安を感じながら生きているからです。今の人々はお金や物が沢山あることが幸せであり、そのことが社会で成功したことだと錯覚しています。しかしそれは、本来人間があるべき尊い存在としての姿からは逆の姿なのです。

そういったことを癌細胞はわたしたちに教えてくれています。癌細胞は、「あなたの生きる姿勢がまさに癌細胞のような存在なのですよ」と教えてくれているのです。そして、あなたの心が開かれ、調和的になると、癌細胞はその役割を終え、自ずと消えていくのです。

21世紀に入り、人類は多くの面で行き詰まりを迎えています。しかしそれは、この世の中が問題なのではありません。あなたのほんの小さな日常の囚われが大きくなって、連鎖し、地球規模の現状となって、この世界全体を形成しているのです。それと同時に、わたしたち一人ひとりの身近な問題や悩みも、同じ延長としてこの世界は示してくれているのです。ですから、そうしたすべての問題を解決するためには、一人ひとりがそのことに気付き、まずは自らのほんの小さな囚われから解放されていくことが、問題解決の鍵となるのです。皆さん一人ひとりの手の中にその鍵は託されています。

誰一人として、自らが癌細胞のような存在ではありたくないはすです。わたしたちは本来、この世界のために生まれてきたのですから、この世界のために貢献し、誇りを持って人生の終わりを迎えることが真のヒト(十)の生きる目的であり、人としてのあるべき姿なのです。もう一度、あなたも自らと向き合い、人はどのように生きるべきなのかを考えてみてください。

 
まずは、あなたの「囚」を「閃」へ。