1994年、2004年、2014年の地球暦から観る木の花ファミリーの歩み

木の花ファミリーでは、「地球暦」という太陽系の惑星配置図から個性や天命を読み解くということを行っています。この地球暦を使い、今年3月21日に創立20年を迎えた木の花ファミリーの歩みをふり返りました。

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1994年の木の花ファミリー誕生日の地球暦
1994年木の花ファミリー地球暦

今から20年前の1994年3月21日、木の花ファミリースタートの日の地球暦を観ると、天の意志を直観で受け取って、新しい時代が世の中に開かれる為に、それにふさわしい雛形となる道を歩み始めなさい、と読み取れます。そして実際に天が後ろ盾となり、未知なる航海をスタートさせたのです。
そこはみんなで創る愛ある豊かな場所、みんなで集う女性性をベースにした場所です。その為の心構えとして、己の目的(自我)は置いておきなさい、形や組織を創るのは二の次にしなさい、ただ理想郷の建設に向かって、道が見えなくとも、未来を信じて進みなさい、ということが、地球暦に表れています。

そして10年が経ちました。

2004年木の花ファミリー地球暦
2004年木の花ファミリー地球暦

2004年3月21日の地球暦を観ると、現実の生活に意識を向けて、木の花創りをするようになっています。
そこでもやはり、己のことは二の次にして、直観を持って天の意志をみんなで顕わしなさい、大きな長期のビジョンの目標を置いて、現実的な体制創りに専念しなさい、ということが読み取れます。その体制創りのベースになるのは、精神性でした。

そして2014年の3月21日、20年が経ちました。
この日の地球暦からは、改めて、己をなくして道を歩むことを確認しなさい、と読み取ることができます。そして、来るべき新しい時代に向けて、一人一人が雛形とならんことの決意を求められています。そして、天より安定した組織が降ろされました。

2014年木の花ファミリー地球暦
2014年木の花ファミリー地球暦

今、時代は新たな仕組みを求めています。そしてその延長に、地上に理想郷をもたらそうとしています。それは、女性性をベースにした豊かさです。そのモデルとなることです。その為に、一人一人をさらに磨きなさい。そして一人一人が自立し、意識が高まることによって、新しい時代は開かれるでしょう。
「みんなで」の意識は二の次にして、一人一人を大切にしなさい。目覚めた者から顕わしなさい。その上でつながりなさい、という指針が、2014年の地球暦に表れています。
  

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1994年の3月21日、天の縁によって紡がれた人々が、心を学び、共に生きることの意味もよくわからないままに、この富士の地に時代を開く新たな生き方として、木の花ファミリーの生活をスタートさせました。そのときの私たちの想いは、この全く未知なる歩みが未来にどのような花を咲かせるのかもわからず、その目的すら観えないものでした。私個人としては、ただこの未知なる歩みが世の中にとって必要とされるものであり、時代が刻まれていく為に大切なものであるという直観があるだけでした。そこに集う仲間たちにとっては、これから始まる生活が何であるのか見当もつかず、ただお互いの絆を信じ歩むだけの心細いものでしたが、振り返ってみれば、その過酷とも思われる生活は微笑ましく、楽しいものでもありました。そうやって、目的地の観えぬまま、自らの望みを持たず、ただ感じるままに理想郷を夢見て歩んできました。

その結果、これが地球に暮らす人々の持続可能な生活のモデルとして社会に発信されるようになりました。そして、その精神性を裏付ける農や歌が訪れ、時代のニーズ(健全な農・環境に対する意識・現代社会の中で行き詰った人の心のケア)に応えて、現代社会の行き詰まりを突破する為の新しいライフスタイルとして、この暮らしを世の中に示すようになりました。そして木の花ファミリーのライフスタイルは、いよいよ21世紀の大変革のモデルとなる道を歩み始めたのです。それはこれまでの男性性(陽の時代、モノやお金、競争、対立の二元論)の時代から切り替わり、女性性をベースにした時代が始まるということです。

時代は21世紀を迎え、社会に共働が求められるようになってきています。多くの人々が単に表面的・二次元的な仲良しグループを目指す中で、木の花ファミリーの共働とは、己をなくして他者と一つになり、世の為人の為に生きることの出来る菩薩の精神を求められるものでした。それは、個人の欲望を叶え、個々にとって都合の良いことだけを共有するものではなく、自然生態系のように全てのいのちが連なり、さらに大きないのちを紡いでいくものでなくてはなりません。それは、自らのいのちを賭け、その延長にそれぞれの個性が花開き、活かされるネットワークです。それは、流行のように追いかけるようなものではなく、一人一人のいのちを真剣に賭け切った延長に、自我を超えて創り上げられる共働の世界です。その世界を実現する為には、恐れず己と向き合い、内なる汚れを超えていくだけの真剣な心構えがないと出来ないものです。

近年の人間の営みは、自我を満たすことを優先し、この地球世界の秩序を乱すものとなっています。そのことに対し、自然界が人類に突き付けている困難を乗り越えていくことは、私たち人類にふさわしい緊張感を与えてくれるでしょう。そして、モノや金・善悪の二次元的思考を突破し、この宇宙との共働作業である三次元的思考に目覚めなければ、地球に人類が降ろされた目的を見つけることはできないでしょう。

20年の区切りを迎え、新たな時代のモデルとしてこれからもこの道を歩み続けながら、木の花ファミリーは次の時代へ進みます。その精神は、常に結果を求めず、ひたすら世の為人の為を想うことから生まれる直観、「いただく心」から生まれてくるものです。私たちは、これから何ができるかをわかる必要もなければ、考える必要もないのです。しかし、常に時代を読みながら、時代と共に、世の為に変化し、傍楽いて(傍を楽にする=働く)いくことは確かです。

木の花ファミリーのベースである農は、土と共に、天の気と共に、常に生かされ、いただいていくものです。現代社会の物質的豊かさからいえば、それは豊かなものとは言えないかもしれません。物理的生活を優先し農に生きる者は、世間が狭く、人も委縮し、生計を立てることに奔走して、世の為に生きることは出来ないでしょう。しかし、本来の自然と共に生きる百の姓(百姓)を得る生き方は、常に天の意志をいただき、天の気と共に、自らを磨き高め、宇宙の法を体得し、世に真実の美しさをもたらす最高の生き方なのです。

それは、人々が自らの個性に目覚め、自他を超え、共働しつながる自然生態系の姿、宇宙の星々の成り立ちの姿なのです。人類がその目的に目覚めたときに、その理想は地上に顕されることでしょう。21世紀はそれが地上世界に降ろされ、実現される時代です。

木の花ファミリーはその雛形として、これからも独自の歩みを続けるものです。


もしも今ここに全人類がいたら

ともこ:
いさどん、もしも今ここに全人類がいたら、何を話す?

いさどん:
「あなた方は今、大地の上に立ち、あなた方の意志によって生きていると捉えているかもしれませんが、そのあなた方が大地だと思っている場所は、地球という星なのです。
地球という星は、もっと大きな星と星の関係の中で役割を果たしながら、そこに存在しています。そして、それはさらに大きな仕組みの中にあります。あなた方は、自分の意志でこの大地の上に生きていると思っているかもしれませんが、あなた方はあなた方をいくつも超えた大いなる仕組みの元に、生かされているのです。そのことに気付かない限り、本当のあなたに出会うことはできません。
それはあなた方の中に存在する意志でもあるのです。ですから本当は、あなた方の内から湧いてくる意志によって生きているのでもあります。あなた方を取り囲んでいる意志によって役割を与えられ、生かされている。そして、それは内にある意志と同じなのです。
その視点を持たない限り、あなた方は自分のことを知らない者だということになります。生きることは、自分を知る為にあります。そして自分を知るということは、この世界を知るということなのです。」
そう伝えるよ。

ともこ:
でも世の中の多くの人は、自分は自分の意志で生きていると思っているよね。木の花では「自分をなくす」ということを大切にしているけど、自分をなくすなんて言ったら、それこそ拒否反応を示す人たちもいる。

いさどん:
ここでは自我を超えることの大切さを伝えているのだけれど、彼らにとってはその自我がとても重要なものになっているんだよ。僕が話すことは、彼らも記憶のどこかで知っている話で、いずれ理解することとして魂のどこかでは想っているだろうね。しかし、それを超えたら自分がなくなってしまう、という恐怖も持っているんだよ。だから、水戸黄門の印籠のように「自我を超えなさい」と言われると、悪代官のように黄門様をやっつけてしまいたくなる。しかし、真実は水戸黄門の印籠の方にあるんだよ。

ともこ:
木の花を始めたときから、ずっとそう想ってきた?

いさどん:
そう想ってきたというよりも、それがすべてのベースだからね。つまり、世の為人の為に生きるということは、自分をなくすということ。そして、この道は天からいただいたもの。そうすると、自分は自分である前に、天の意志によって生きる者、つまり我々は全て天のマリオネットなんだよ。天の意志と共にあるためには、自らの意志でいかに自分をなくすかが大切になる。それは、「あなたはわたし、わたしはあなた」という世界の表現につながる。最初からそう想っていたというより、それがすべてのベースなんだよ。

人間は、己を超える為に生まれてきている。この世界には「無明界」「地獄界」「人間界」「菩薩界」「仏界」という魂のランキングがあって、「人間」という位置から菩薩になり、仏になり、最終的には神と合一するために生まれて来ているんだよ。そして生まれて来ても、己にこだわっている者は、仏になるどころか、逆に地獄へ落ちていく。どんなに理想郷を夢に描いたところで、自我を超えなければ、愛・調和・善・美・真実には到達できないものなんだよ。

おもしろいのはね、今の時代の二元的脳を使っている人は、知識や学問的には賢いんだよ。しかし、賢い分だけ自分に囚われている。それは、自分が賢いと思っているから。それがお釈迦様の一番弟子の舎利弗(しゃりほつ)の落とし穴で、自分が賢いと思った時点で、生まれてきた目的である、己をなくして自らを美しくし悟りを開いていくこと、つまり、神と合一することから遠ざかってしまうんだよ。

しかし、同じくお釈迦様の弟子の鳩摩羅什(くまらじゅう)は、舎利弗とは違う脳を使った。彼は、自分は頭が悪く物覚えも悪いことに気付き、賢くないのだから、賢い者を見つけてそれに全てを委ねよう、と考えたんだ。そして尊師の言われるがままに生きた。そうしたら、弟子の中で一番最初に悟ったんだよ。

ともこ:
だけど現代人は、それでは嫌なんだよね。何かに委ねるよりも、自分で理解してから進みたがる。

いさどん:
法華経では、学びの時代を「正法」「像法」「末法」と説かれている。お釈迦様の時代は「正法」と言って、正しいことを正しいと言えば、その善悪がわかる人々の時代だった。人々は愚かであったけれど、素直に正しいことを受け取ったんだよ。
ところが、「像法」の時代になると、その精神はまだあるものの、人々はそれがわからなくなってしまった。
そして、今は「末法」の時代。それはどういう時代かと言うと、正しさが歪んでしまい、みんな二元論的に知識や仕組みで賢い者になってしまったので、その奥の真理を受け取れなくなってしまった。つまり、信じるとか、自分をなくすとか、いただくという精神が失われてしまい、全て自分でつかんでやろう、わかってやろうという精神になってしまったんだよ。だから、真理がわからなくなってしまった。

ともこ:
木の花に批判的な感情を持っている人たちを見ると、魂の本当のところでは求めているのだろうけど、そもそも宇宙と合一したいとか、そういう高い視点の望みはなさそうな気がする。

いさどん:
それは、自らの目指す世界への思いや損得勘定が強くて、「いただく」精神がないから、自分目線だけの二次元思考になっているんだよ。だから学ぶことについても、知識的に学ぶことや形的に豊かで幸せな世界の価値観に留まっていて、せいぜい地球環境とか原発問題の意識で止まってしまっている。ところが、本来の人間の姿には魂のランキングがあるんだよ。世の中の為を想うことが結果として自らの価値になるわけだけど、その「世の中の為」というのがどのランクでどんな価値観を秘めているかなんだよ。

二次元思考では、この「現象世界」しか捉えられない。しかし、その目に見える現象世界の奥に、目には見えない自然や心の世界があり、その「見える世界」と「見えない世界」を合わせると三次元世界になる。それが「ある世界」を成り立たせているんだよ。
そしてそのさらに奥に、「ある世界」を支えている「ない世界」があり、そこに仏や神(宇宙物理の世界)の存在がある。そこは四次元、五次元、それよりはるかに高次元の世界。人の意識はこれからそこに目覚めてくるのだろう。
「宇宙視点」というのは物理的宇宙のことであって、その奥に星と星がなぜこのような関係を何十億年も何百億年も保てるのかとか、そこには星と星の対話があって星の配置から人間の人生が読み解けるとか、そういったことは人間の物理学を超えた世界の話でしょう。そこが観えないんだよ。しかし実際の三次元は、その見えない世界によって見える世界が支えられている。さらに、見えない世界と見える世界が「ある世界」を創っていて、「ある世界」の奥にある「ない世界」が、この世界を動かしている。それは、普通の視点の人たちの脳ではとても解析できない世界だよ。

ともこ:
さっき、脳科学のテレビ番組を見ていて、すごく何かが足りない感じがした。いろいろ最先端の研究が語られていてなるほどと思うんだけど、何か根源的な部分がすっぽり抜けたまま科学者たちが話し合っている気がした。

いさどん:
そうだね。浅いでしょう?脳の神経細胞の構造を見て、奥が深いとか素晴らしいと言っているんだけど、その素晴らしい小宇宙の奥に、誰がいつ、あのプログラムを組んだのか?誰がいつ、何の目的でそういった生き物を当たり前のように地上に配置したのか?そして、それは何の目的で創られているのか?そこを観ていかないといけない。それはアインシュタインが突き当たった世界だよ。つまり、神の領域だね。そこに意識が行かない限り、木の花で行われていることは理解できないだろうね。
わからないことをやっているということは、「わかっているけどなかなかやれない」という一歩先の世界の、さらに先の世界をやっていくことだから、それは理解されるのは難しいよね。それを「世の中の二歩先」と言っているのだけれど、そこがわからない人からすると傲慢に見えて腹が立つのだろうね。しかし、観えた者の責任として、役割を果たしていかないといけない。

ともこ:
彼らは彼らで、自分たちも世の中の為に生きていると思っているんだよね。

いさどん:
みんなそうなんだよ。それはそれでみんな正解なんだよ。

ともこ:
心のランキングの、仏界・菩薩界・人間界・地獄界・無明界でいうと、彼らは人間界で生きていることになるの?

いさどん:
人間界の中の優れたことをやろうとしているんだよ。つまり、自らの価値観の善悪二元論の善にとらわれている状態なんだよ。

ともこ:
その人間界レベルの「世の為人の為」で、これからの世の中のいろいろな問題を超えていけると思っているんだろうね?

いさどん:
それは思っているだろうね。でも自然は、人間が考えることよりももっと上の学びを与えてくるからね。つまり、人間の受け取れないことを与えてくるんだよ。なぜかと言うと、自然は、人間の世界を包括しているものでしょう。だから人間だけのわがままを許さないわけだよ。
そしてさらに天は、人間を育てて、自らの意志を地上に反映させて人間と共にこの世界を築くことを望んでいるわけだから、人間に都合の良いことは与えないんだよ。人間にわかる範囲内のことを与えていても、そこに人の成長はないでしょう。だから、理解できないことを「いただきます」という精神になって受けとらない限り、人間がそれを解釈することはできないんだよ。
ところが、「わかってからやろう」的な人間のご都合主義の考えが世の中では一般的になっている。自然農法は、自然のメカニズムを解明して、自然の仕組みで収穫を上げ、社会の健全をはかっていく農法でしょ。それに対して有機農法は、自然からいただくのではなく、「作ってやろう」「取ってやろう」「収入を上げよう」という思考がベースになっているんだよ。
そして今、我々が取り組んでいる「天然農法」は、自然のメカニズムの奥にある波動によって宇宙が創造される磁場を調整し、それによっていのちをいただくもの。例えば神社のイヤシロチは、その波動によって創造されている。それは、作るとか作らないとかいうことを超えて、「波動の心地が良いから成る」というような、道理を超えたものなんだよ。

ここでひとつ厄介なのは、脳科学の世界では、賢い人間が優れていると思われているわけだよ。ところが、その賢いというのが曲者で、自分が賢いと思えば思うほど、お釈迦様の一番弟子で悟れなかった舎利弗になってしまうんだよ。そうかと言って、馬鹿ではいけない。大切なのは「いただく精神」。この大いなる世界に命をいただいて、そして役割として働かせていただきます、というように、謙虚で、常にいただく精神が大切なんだよ。
だから、知識的なものを組み立てていく脳が発達していることが大事なのではなく、心を司るところとつながることが大切だよ。直感が閃いてくる脳の働きがあるんだよ。直感というものは、何も考えなくても湧いてくる。もしくは、想いが降りてくる。思念なんだよ。だから、物理的に賢い人たちには科学的・物理的直感は湧いてくるけれど、天からの思念的直感は湧いてこない。

これまでは、物理的賢者たちが世の中を治めてきたんだよ。それで今の世の中ができた。そうして今の時代にたどりついたんだよ。では、どのような人々がこれからの世を治めていくべきか、わかる?

ともこ:
馬鹿でもなく、賢いでもなく・・・

いさどん:
そうだね、それは「尊い者」だよ。尊い者というのは、己を捨てて世の為人の為に生きる者。つまり、菩薩精神を持つもののことさ。
賢い者が創る世界は、人間の領域なんだよ。そこには損得勘定がベースとして常にある。だから、これからの時代は自我を超えた精神の尊い人たちが世の中を運営しないと成り立っていかない。
しかし本当はね、尊い人たちの世界では、世の中の運営なんてしなくてもいいんだよ。その人々の存在だけで調和的な世界が創られていくことになるから。

ともこ:
そうか。

いさどん:
天とつながる直感の窓口が、今まで人々が使って来なかった脳の中にある。そこが働く者が尊い者。そして、これからはそういった人たちが目覚めてくるんだよ。
1万2千年前、カタカムナ(日本の古代文明)の人たちはその直感が働いていた。そして、天上の尊い魂とつながって日々の生活が営まれていた。そこでは人々の間で言語が統一されていて、今のように言霊ではなく、音霊で会話をしていた。だから、みんなが阿吽の関係だった。ぱっと相手を見れば、真実が一瞬で伝わった。
その時代は、人間は体も貧弱で、自然に対しても他の動物と比べてはるかに弱い存在だった。しかし直感が働く人々は、天候も読めるし、身の危険もすぐに察知でき、生きながらえることができた。人間は、生命の中の最高傑作として創造されている。だから本来他の生命たちが持っている能力が人間に内在しているはずなんだ。しかし、自我が強くなればなるほど、その能力が衰え汚れていくんだよ。今の人間は知識を得るようになって、ある意味感覚的には馬鹿になってしまった。それどころか、テレビや携帯電話などからの垂れ流しの情報がたくさん入ってくるおかげで、その情報に翻弄されて考える力や直感力が退化してしまっているんだよ。

ともこ:
あのテレビ番組の科学者の人たちも、直感を磨くことを大切だとは思ってないだろうね。

いさどん:
そうだね。解明してわかっていこうという脳が優先して働いているからね。

ともこ:
それって二次元的思考を司る15%の脳だね。
この間ここに来た人が、いさどんの話を聞いて「言われることはすごくわかりますが、組織としてはこうしないといけないのです」と言っていたでしょ。その人個人としての願いと組織としてやらなければいけないことに矛盾を持って生きている。でも、木の花の生活ではそういうことがないでしょう。創立からずっと、個人の想いと全体の動きが一致してやってきているよね。

いさどん:
ほとんどの人間は「けど」「でも」と言いながら生きているんだよ。

ともこ:
木の花にその矛盾がないのは、自分がどうしたいという個人の願望で動いているのではなくて、最初から天意に添って動いてきたからだよね。

いさどん:
そう。つまり、いただいてきただけなんだよ。そこには自分たちの意志はどこにも反映されていない。その結果、このような歩みになった。そこが一般の人たちと根本的に違うから、例えば今のエコビレッジ活動をしている人たちには、その意識がわからないんだよ。
命はいただいているもの。実際に毎日の生活でも、我々の体の機能でも、自然の仕組みでも、我々が生きる中で自分の想い通りになることは何もないんだよ。食べることだって、排泄することだって、眠ることだって、何一つ自分の想い通りになることはない。生まれてくることも、死ぬことも同じことだよ。
その過程の中で、人間は自分が想った通りに生きていると思っているかもしれないけれど、そのように思えば思うほど自我が大きくなって、自らを自我の枠の中に閉じ込めていくことになる。それは本来の、命をいただいて悟っていく、ということに対して逆のことをしていることになるんだよ。人々が地上的人間的概念で生きれば生きるほど、人間は地球にはびこっている状態で、結局社会にも地球にも害をもたらしているでしょう。そういった矛盾に、今の人間は気付けないんだよ。もしくは、気付いていても執着が強くて、それを改められないんだよ。

そのことに気付くことが、21世紀の人々の進化なんだよ。しかし、21世紀に入っても多くの人々はその大事さに気付けない。それでそれを伝えようとすると、傲慢だとか高飛車だとか言われるのだけれど、それは観えているから伝えているだけのこと。
それでも、こういった役割を与えられた者として、時代と共に粛々とやっていく。それは、天が指示してその流れを創っているのであり、地球がそういう時代を迎えているのだから、時代の流れはそのようになっていく。だから、恐れず、臆病にならずに、粛々とやり続けていく。

始めに話した人類へのメッセージの通りだよ。
「あなた方は、自らの意志で大地の上に生きていると思っているかもしれませんが、実はあなた方をいくつも超えた大いなる仕組みの元に、役割を与えられ、生かされているのです。」
21世紀は、人類がそのことに目覚め、役割を果たしていく時代だということだ。
  
 


心のランキング

仏界  あってあるもの なきてなきもの

菩薩界 他者の喜びを自らの喜びとする

人間界 いつも自分のことを考えている

地獄界 悪い結果をもらってもやめられず、やり続ける

無明界(無間地獄) 光のない世界・マグマの世界にはまりこんでいる

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この世界には「心のランキング」があります。
1番下から「無明界」「地獄界」「人間界」「菩薩界」「仏界」と5つの段階に割ることができます。「人間界」は我々がいる人間の世界ですが、「人間界」と言っても下に近いものもいれば上に近いものもいるのです。「人間界」はいつも自分のことを考えている心の状態であり、自分や自分に近いものの健康や幸せを願うもの、例えば会社で一生勤めあげて「いい人だったね」で終わるのが、一般的な「人間界」の人の一生です。

「地獄界」は悪い結果をもらっても止められずやり続ける心の状態であり、例えばお酒やタバコで依存症になってしまうとか、また自分の嗜好に捉われ食べ続けて生活習慣病などの病気を発症するとか、考え方がコントロールできず鬱などになるという世界です。これは生きている世界の話ですから、「地獄」は死んでから行くところではなく、このように人間としてこの世に生きていても、「地獄」の心で多くの人が生きているのです。

そうしたことをやり続けた結果、身につけた汚れを美しく再生するために、魂は輪廻して再生するのです。死ぬというのは「地獄界」や「人間界」にいても、1回リセットしてもう一度きれいにするためであり、そのプランを練って生まれてくる時に、ベースになる親や兄弟、結婚する相手、子どもを選ぶというように、人生の骨格に当たる設計をしてきます。だから生まれて来て、「あんな親の元に生まれて来て!」と文句を言う人がいますが、そうではないのです。自分が選んできているのです。逆に親も自分を選んで生んでいるのです。

「地獄界」というのは本来救われる世界なのです。問題事を振り返らないでやり続けると、痛みが発生しますから、その痛みから問題事の種に気付いて、「人間界」に戻っていく作業をしているのです。
しかし、それを忘れてしまう魂もいます。欲にまみれて、癌細胞のように自らも他者もこの世界も破壊し、その出来事を学習できないものは、「無明界(無間地獄)」という光のない世界にいることになるのですが、その状態が長く続くと、いずれはこの地球の中心に封印されるので輪廻しなくなることになります。

次に、人間から少し上に行って「菩薩界」の話をします。
これはブッダと言われる精神状態のことで、我々の知っているブッダはお釈迦様のことです。お釈迦様は、地獄界、人間界から菩薩界、仏界と全てを生きて、我々に仏道という仏界に行く道を示してくれました。キリストもガンジーもマザーテレサも、みなブッダと称される人々でしょう。
菩薩にもランキングがあって、上の方の菩薩と下の方の菩薩がおり、人間に近い菩薩もいます。例えば人間界の精神の者が喜びを求めて、常に自らのことを喜ぼうとする。それが自らの子ども、家族、一族、日本人と枠が次第に広くなっていって、喜びの枠が大きくなっていくのです。その枠が大きくなっていって、他者のことを喜びとする。自らの喜びが他者の喜びになる状態のことを一般的に菩薩心と言います。

人間は喜怒哀楽の感情を持っています。その中で喜びを持っていることは、内に反対の心が存在しているからこそ、喜びを表現するのです。
しかし、宇宙はそうではありません。ただあるだけなのです。そこで一方に偏ると喜びがあって、反対に偏ると不幸や怒りがあるだけというように、宇宙は情報なのであり、根源は音なのです。肉体を持っている菩薩が肉体を返上して、それが宇宙天然界の中に入り、魂も喜びもない状態になる。それが「あってあるもの、なきてなきもの」の状態です。あるからこそこの世界はありますし、しかしそれはない世界なのでどこにあるか特定できないものです。地、水、火、風、空はありますが、自らを主張しません。あるけれど、他者のためにしかないのです。土は土のために存在しているのではないのです。土としてあるだけです。そういったものがつながって、生命世界が成り立っているのです。

この世界には、宇宙秩序や生態系秩序という法則があります。植物は二酸化酸素を吸って酸素を出し、動物は酸素をとって二酸化炭素を出し、お互いに関係し合って太陽のエネルギーをもらうように、無限の法則のもとに生命は存続しています。このような法則があって意思があるのです。それは、あるのに、どこにあるのか観ようと思っても、観えないものです。それが「仏界」という世界で、神様の存在です。神様の存在は、宇宙の法則であり、ひとつなのです。みんな約束通り一連なりになっています。それを地球上に表現したのがこの生態系であり、地球の姿です。

それが「仏界」に精神が到達したものの姿です。それは、神、宇宙の法則と一体となったものです。仏界に座るものです。仏は人間の姿で形どります。神様も人間の姿に形どりますが、それは我々の体の無限なる調和の姿を表しているのであって、観えないものでもあるのです。私たち人間もそのままで神の姿なのです。絶対調和の小宇宙がここに隠れているのです。
 
 
【お知らせ】

4月13日(日)、千葉県船橋市にて開催される「出張木の花塾」にて、いさどんが大いに語ります!木の花ファミリーのお弁当やおやつを持参し、参加者のみなさんとの語り合いの時間もたっぷり設けています。皆さま、どうぞお越しください!

→ 出張木の花塾 詳細はこちら!
 
 


すべては善への旅である

どんなに真理を得ようと思っても、どんなに真理を生み出そうと思っても、それを受ける器がなければ真理は降りてこない。真理への道は無限にあるが、そこに行く意思がなければ意味がない。道を語ろうと思っても、聞く者がいなければ語れない。信じる者は救われる。求める者に道は開かれる。歩む者に目的は現れる。
世界に痛みの伴う秩序があるのは、まっすぐ立つことへの指針である。道があっても目的地のない道は無意味である。曖昧な道を歩んでは目的地には到達しない。
  
世界に秩序があるのは目的地に人をいざなう為にある。秩序に溺れて漂う為に秩序があるのではない。世界の秩序を感じなさい。それはあなたを目的に導く道である。秩序が観えない者は目的地に行くことができない。秩序は世界の法である。秩序は世界のすべてに喜びを与える。世界は秩序の海である。秩序の中にあって内から自我を発する者は、法に反する者である。
  
内なる自我に捉われず、外の秩序に従うこと。内なる自我を取り去ることで内なる鏡が磨かれて、外の秩序が映し出される時、外の秩序が内の秩序になる。自我を捨てることではない。それは、自我を描くこと。そして自我の鏡に外なる秩序を映しなさい。そうすれば自我は消え、内なる秩序は無限の秩序となる。
世界には秩序が蔓延している。道があることを知らぬ者に道はない。道を歩まぬ者に道はない。道を求めぬ者に道はない。道を待つ者に道はない。道を観る者に道は観える。道を歩む者に道は開かれる。道を歩む者に目的は観える。この世界には秩序がある。
  
この秩序が観えるか?すべてを繋ぐ秩序。織物のように紡がれ、無限に連鎖する。連鎖とは繋がり。目的はひとつ。すべてはひとつであること。ひとつであることは区別がないこと。その元には善意、愛、調和。その姿は真、善、美。世界を紡いでいるのは善意。愛に基づいた善意。美に基づいた善意。それが真理。
世界に善を見いだせない者は内に濁りがある者。世界に悪を見る者は内に悪を持つ。世界の実相は善意。世界のすべてに善を観なさい。出来事は世界の真理、善を見るための情報。すべてに善を観ぬ者は内に悪を持つもの。すべてに善を観なさい。世界のどこにでも善を観なさい。
  
世界に善を観ない者は内なる悪を持つもの。汚れを取り去り、美しくしなさい。それを鏡としなさい。そして真理、善を内に映しなさい。その者は世界を照らす者。内なるものも外なるものも善を創るもの。この世界に悪などありはしない。悪があるとするならば、それは善への道しるべ、善を顕す為にある。すべては善の為にある。善という美であり、真理である。すべてに善を観なさい。
  
計る心に悪が生まれ、計る心に善が生まれ、計る心にすべてが生まれ、計らなければすべてが消える。
  
愚か者に悪が生まれ、光への旅に善が生まれ、光への旅に喜びが生まれ、光への旅に愛が生まれ、光への旅に調和が生まれ、光ヘの旅に真理が生まれる。
  
見えぬ者は内なる鏡の汚れに気づき、自らの盲目に気づきなさい。
  
真理を観る目を育てなさい。真理を観ようと努力しなさい。そして信じなさい。世界が善意で創られていることに目覚めなさい。愚かしいと思えることのすべては善の為にある。
  
すべては善への旅である。すべては善への旅である。すべては善への旅である。
すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。
すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。
  
その心が世界を美しくするのです。有難いことです。有難いほどの真理の元に、この世界の秩序がある。それに気づいたならば、どうして世界に不足など生まれましょうか。ただ有難いと思って生きるのみ。有難いことに気づいたならば、有難い神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる。有難宇御在益。
  
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
 
 


神の食べ物は喜びである

木の花ファミリーではこの1ヶ月間、エコビレッジ・デザイン・エデュケーションを開催していました。
以下は、ある日の講義の中でいさどんが語ったものです。

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宇宙は陰と陽でできています。そして、相反するもの同士がお互いの存在を証明し合っているのです。

神様は光の中におられて、光の世界から我々の世界を見ておられる。光は全ての元であり、そこには相反するものはありません。光だけの世界では現象は起きません。それがこの世界の最初であり、最終到達地点は光の世界ということです。
そこで人間の世界を見てみると、問題事が多いです。個人の中にも光と闇が常にあって、楽しい時もあれば悲しい時もあります。そうすると人はもっと楽しいことばかりならいいのにと思って、楽しくないことは受け入れられない。こっちはいいけど、こっちはだめというように選別していくものです。それは自分の癖が出ているのです。

それである時、僕は神様に問うたのです。「この世界をあなたの世界とします。そうすると、これは全てあなたの仕業ですね。しかし、あなたの仕業というわりには、人間の歴史を観ると、血で血を争う醜い世界が展開されています。全ての元であるあなたは、人の親であり師匠です。『親の因果が子に報い』とか、弟子のできの悪さは師匠の責任ということからすると、人間の愚かしさはあなたのせいではないですか。あなたが人間をこのようなものとして地上に降ろしたから、人間はいつまでたってもこのようなものなのではないですか」と問いかけました。そうしたら、神様は「私は全てであり光である」と答えられたのです。

それは、今の人間達の世界も私の現れであり、そして光である、ということなのです。僕は意味がわかりませんでしたが、そんな僕にわかるように説明してもらいました。
光の中では光は見えない。闇の中では闇は見えない。光の中で光を見ようとしても、闇の中で闇を見ようとしても、対象がないと光や闇の概念が生まれない。我々は明るいとか暗いとか、ものを見て近いとか遠いとか、特定の基準があると、そこから対象のものとの区別が生まれ、すぐにセンサーが働いて判断をします。闇の中では闇を認識できないのです。反対に光の中では光が認識できないのです。始まりの光だけの世界に神様はおられて、「私は光であるが、その世界では私が認識できない。私は決して人間を愚かしいものとして降ろしたのではない。私が何であるのかを知りたかったのだ。始まりでは、私はあってあるもの、なきてなきもの。そして、私に対して私を認識するものを創ることが、私を理解することであった。光に対して闇を創ると、そのギャップの分だけ光を認識できる。天に対して地を創ることによって、天地が理解できる。その私の想いから世界が生まれた。それは私を割って、私でないものを創ったということだ」と言われたのです。

それがこの世界の元の命の仕組みです。命は「みこと」と言って、神のことです。「私を割って私でないものを創る」。それは、光を分けて、光ではない闇を創った。そうして互いの位置に置くことによって、互いの存在がわかるということです。それが陰と陽の仕組みです。
陰はかげですから、見えない世界です。それに対して陽は、見える世界です。だから、始まりは見えないところから産まれたのです。我々の認識で見えるものは、こうして顔を見て、言葉を交わしてみなさんと認識し合いますが、その言葉を聞いて頭で解析します。例えば光の話をすると光の想像をしますし、闇の話をすると闇を想像します。このように頭では見えていますが、語ろうとする想いは見えません。想いを思考にし、それを言葉にしてみなさんに伝えています。その解析の繰り返しによって今、みなさんはそのような表情をしてこの話を聞き、知識として取り入れ、それを活かし、自らの人生に当てはめて形として現していきます。それが陰陽の表われの姿なのです。そこでは見えない世界が見える世界に表われているのです。

今も始まりもそうだったのです。神様は見えない想いの奥の世界においでになります。その神様の想いの圧が高まっていくと、世界が創られていきます。
IMG_0502私たちの現象世界でも同じようなことがあります。例えば、僕は昔は視力は良かったのですが、歳を取り、老眼が進んできました。老眼の部分と度のない部分がある遠近両用の眼鏡はとても便利なものです。けれどこれは始めは誰かの頭の中にあったのです。こういった便利なものを想像していた時には、形のないものでした。しかし、その想像のものがここに現われています。これは誰かのイメージから生まれ、形になったものです。
この世界(現象世界)は、ない世界=神様の世界(潜象世界)から、見えない世界=想念の世界(現象世界)に産まれ、そして見える世界(現象世界)に産まれてきているのです。

当時僕は神様に文句を言っていたのです。人間の在り様を見ているとがっかりします。「この世界は全てあなたの現れだとしたら、あなたが問題だからこういった問題のある世界が表われているのではないですか」と責めたのです。そうしたら、「だめか?」と答えが返ってきました。

私が私を認識するために、一つだった私の世界の陰から陽を産み出し、互いの側から互いを認識する仕組みを創ったのだ、と神様は言いました。それでこの世界ができたということです。始まりの一方だけでは、「ない世界」があるだけになります。「ない」ところから「ある世界」を創るためには、見えない世界と見える世界を現象界として、「ない世界」から産み出すことをされたようです。それで、「私もあるものになった」と言われたのです。

次に、あり続けるためにはエネルギーが必要になります。私たちも存在するためにはエネルギーを必要とします。空気や食べ物など、そのエネルギーによって成り立っていくのです。そして、あるためには「何のため」という意味も必要になります。そのあるための意味にのっとって、例えば僕だったら少しウエイトがオーバーしたらエネルギー摂取量を少なくしようかとか、足りないと思えばエネルギーを多目に摂取しようとかいうように、存在する全てのものに目的を持つものです。

それで、「あるものである為には、私にも食べ物が必要である」と神様は言われたのです。「神様にも食べ物が必要なのですか。その食べ物は何ですか」と僕は尋ねました。すると、「私の食べ物は喜びである。喜びが、この世界を推進するエネルギーである」と答えられました。「喜びを発生させるためにこの世界を創った」と言われるのです。喜びの反対は悲しみですが、悲しむ目的でこの世界は創られていない、というのです。
これを先入観念抜きにして聞くと、全ては喜びのためにある、全ては善きことのためにある、ということになります。信じられませんでした。問題事がいっぱいあって悲しいことだらけの人間の世界が、喜びの生産工場だと言うのです。被害妄想の人なら、この世の中には何もいいことがないと鬱になってしまいます。それを神様は、喜びの畑だと言われるのです。

つまり、始まりの何もないその完全なる世界は、完全であるから不完全になれず、それゆえその完全なる世界をさらに完全にするために、世界に不完全を散りばめた、と言われたのです。すると、完全から不完全への道ができ、この世界が動き始めたのです。

不幸や悲しみという世界から、完全なる光の世界に向かう道が開かれて、そこに向かっていくことによって少しずつ光が見えてきます。だんだん明るくなっていく喜びの道を通って、私たちが元々いた、神様のところに戻っていく。神様のおられる元の位置は完全の世界なのですが、それでは不完全なのです。だから、完全の世界に不完全を置くことで、その完全を認識する道ができました。そして、始めは不完全な所に身を置き、そこから完全に向かって歩むようにしたのです。つまり、善きことのために歩むように道を創られたのです。

そうすると、その道を行くことは喜びが産まれるばかりです。「その喜びの種を人々が人生の畑に蒔いて、その喜びを収穫物として収穫していく。そこで発生する人々の喜び(収穫物)が私の食べ物であり、この世界を創っていく推進力である。その為に人を地上に降ろし、私の代理(命)とした」ということなのです。さすが神様、賢いですね。
つまり、完全は不完全の裏付けによって成っているのだから、その完全をさらに完全なる世界(絶対完全)に創ったと言われたのです。それは、「完全に不完全を散りばめることによって成った」のであり、「そこに人を介して喜びという収穫物を産み出し、その喜びを収穫していくことを、私がこの世界を創っていく推進力とした」ということなのです。それは天の神と地の人の共同作業ということです。

私たちは命(みこと)としてこの世界を生きています。その中で、喜びの種(出来事)を人生の畑に蒔きながら、その結果を学び、収穫(喜び)していくことが私たちの人生の目的であり、それが神様がこの世界を動かしていくことになるということです。これは、私たちが生きることが直会(なおらい)であるということです。

この世界に問題事はたくさんあるけれど、それは豊かな世界を創っていくことなのです。問題事はそのまま放置しておくと問題だらけになります。それがなぜ起きているのかを、考えることです。そして、それを学ぶと、その奥にある神様の意志を受け取ることになり、喜びの人生となり、天と共にこの世界を豊かにしていくことになるのです。有難いことです。有難宇御在益。ありがとうございます。