ただただ、他者を思い生きること 〜 2021年1月1日

私は、夢を見ました。

それはどこか工場のようなところで、ほこりっぽく、あまり衛生的とは言えない閑散とした場所でした。そこにビニールのようなものに包まれた、卵よりも二回りほど大きな水のかたまりが、ほこりにまみれて、いくつか転がっていました。それはどこからか現れて、少しずつ増えていきます。そして増えるごとに、その場が幸せになっていくのです。
その感覚を、言葉でどう説明したら良いのかわかりません。そこは美しく整っている場でもなく、近代的な設備もないのに、まだ未完成のその工場を稼働させ、実験を繰り返していると、不思議と幸せな気分が満ちていくのです。何かを創ろうとしているけれど、何を創ろうとしているのかわかりません。何かのエネルギー源がそこにあるのかというと、そういうわけでもない。ただ幸せな気分が生産され、広がっていく。生産の仕組みはよくわかりませんが、そこにある原理は、「ただただ、他者を思って生きなさい」ということでした。
もしもこんな世界があるのなら、これを最終到達地点としていいのではないか ——— そう思えるほど、その場は不思議な満足を与えてくれました。大きな卵のような水の玉が、その空気を生んでいるようでした。そこには美味しい食べ物が並んでいるのでもなければ、快適な空間があるわけでもない。何もたいしたものを生産していないのに、こんな気分ならもう何もいらない、これでいい ——— そう思いました。

先日、木の花ファミリーではクリスマス会がありました。会の最後に、大人も子供も一緒になって、木の花楽団の新しい歌を合唱しました。その歌はまだ不完全で、私は初めて聴いた時から「この歌には何かが足りない」と感じていました。ところがいざ合唱が始まると、小さな子供からお年寄りまでがひとつになって、みんながその場を良い場所にしようと歌っていました。みんなはこの日に向けて練習をしていましたが、それで何か得をしようとか、見返りを求めていた人はいなかったでしょう。ただ誰もが、人を喜ばせようとして歌っていました。
その時私は、次の世界を見たような気がしました。そうすると、何かを得ようとする心が消えていくのです。もっと少ないエネルギーで、満足して生きていける。そういう世界を味わったのです。
夢の中の工場はまだまだ未完成で、さらにレベルを上げるために探求をしていました。ちっとも美しい場所ではないのに、そこには「なぜだろう。どうしてこんな気分になるのだろう」と不思議になるほど、幸せな気分が満ちているのです。まるでこれまでに体験したことのない麻薬でも使っているかのようでした。そのベースにあるのは、ただただ、他者を思って生きること。それがその場の原料となり、自らの幸せの元となり、新しい時代を創っていく原動力となるだろう、と感じたのでした。

今、新型コロナウィルスの感染拡大や地球温暖化など、世界が大きな行き詰まりに直面する中、それでもなお、人々は現在の暮らしの延長線上に未来を描き、それを維持することでしか先が考えられない状態になっています。しかし、過去を振り返ってみれば、現代の私たちの暮らしは、人類が歴史上経験してきた多様な歩みの中のたった一つである、ほんの一瞬のものに過ぎません。現代の人々は、そのたった一つの生き方に縛られ、社会の先行きに不安を感じながら、今なお同じ生き方のままで突き進もうとしています。しかし、それは進めば進むほど、さらに無理のある世界を突き進めていくことになるのです。
その進んできた道を振り返り、冷静になり、本当にこれしかないのかを考える時が今、来ています。視野を広げ、客観的に捉えてみれば、これまでの延長線上を突き進むのとは違う、新たな方向が観えてくるはずです。

世界はもともと、調和で創られています。調和が表現されれば、そこには自ずと持続可能な世界が現れてくるのです。人間以外の生命は、すべてが調和し連鎖していく大生命生態系の循環の中にあります。近年、私たち人間がより豊かでより幸せな暮らしを追求してきた結果、現在の世界が持続可能でなくなっているとあなたが思うならば、私たちはもう一度、豊かさとは何か、幸せとは何かを捉え直す時に来ています。
現代の人々は、何かしら心に不安を抱えて生きています。不安であるが故に、人と同じになることで安心を得ようとし、一律に同じものを求めてきました。個性の違いを無視し、一律な尺度で人と比較することで優劣を生み、人より豊かになろうとして争うようになったのです。そして自らが得することばかりを考え、その優越感を持ち続けなければ不安を感じるようになりました。その一方で、他者のことを顧みず、自らの好きなことだけで日々を送る人々も増えています。そのどちらも、根底にあるのは「自分さえ良ければいい」という心です。その結果、地球の本来の姿である大循環生命生態系とは程遠い世界を創ってしまったのです。
しかし自然界の生き物を見れば、一見自らのためだけに行動しているようでありながら、その行動には節度があります。ここまで得たらそれ以上は求めない、即ち「足るを知る」ことを本能的に知っており、生態系のバランスを崩すことなく、自らの必要を満たしているのです。かつて人間も、他の生命たちと同じように、自らの命をつなぐために必要な分だけを生態系の循環の中でいただき、その仕組みから逸脱することなく生きていました。ところが産業革命以降、科学技術の発展によって自らの願望を叶える快感の虜となっていった人間たちは、際限なく欲望を膨らませ、他の生命を犠牲にしてまでも、自らの豊かさを追求するようになりました。

現代を生きる私たちは、とても豊かな暮らしを享受しています。日々働いてお金を稼ぎ、そのお金で物を消費し、食べ物を食べ、余暇を楽しみ、何も悪いことはしていない、当たり前のように思っている私たちの毎日の暮らしが、他の生命の犠牲の上に成り立っていることを認識している人々が、世界にどれだけいるでしょう。

人間は、多種多様な地球生命の長い進化の物語の末に、地上に誕生しました。その命は、自然から与えられるものによってつながれてきました。今もその仕組みに変わりはありません。ところがその仕組みの中にあって、人間はいつしか自分のことだけを考えるようになり、人間のためだけの社会が地球上に異様に展開するようになりました。
その行き過ぎた人間の行いに対し、地球は今、警告として様々な現象を起こしています。他の生き物たちは、人間の行いの犠牲となっていくことはあっても、それを危機だと騒ぎ立てることはありません。ただ人間が気付くように、自らが絶滅するといった現象を通して、メッセージを送っています。それは、声なきメッセージです。そのように、強いメッセージを発することのできないもののことを思う心が、これからの時代を生きる人々には必要です。自己主張のできる人間のことばかりを優先することは、もう終わりにしなければなりません。それが、他者のために生きるということです。

今、新型コロナウィルスには外出規制や治療薬の開発、温暖化にはリサイクルやクリーンエネルギーの推進というように、世界中で起きている様々な現象を、人々は物理的な対処によってのみ解決しようとしています。しかしその物理的現象はすべて、人の心が元となり、発生しています。「自分さえ良ければいい」という根本に不調和を生む人間の心を変えることなく、テクノロジーの力で問題ごとの表面的な解決を図っても、その根本的な解決を先送りすればするほど、さらなる問題が現れてくるのです。
人間は楽になることが豊かさであると思い、その高い能力を使い、便利なものをたくさん創りました。しかし、便利なもので身の回りを固めれば固めるほど、自らの生きる力(生命力)を失っていくのです。そして能力を失ったことで、さらなる問題が自らに起き、それを解決しなければならなくなるのです。だからこそ、際限なく求め続けるのではなく、「足るを知る」。そこに気付く必要があります。
それには、既に十分であることに気付くことです。私は既に、十分与えられている。自分で獲得したと思っていたものも、実はすべてこの世界の大いなる循環の中で与えられたものであり、私がこうして存在していること自体が、生きることを与えられている。存在することを与えられている。ありがたい。そのような謙虚な心になった時、初めて、これまで追い求めてきたものとは違う豊かさに出会うこととなるのです。それは、心の豊かさから生まれてくるのです。

人間がこれまで築いてきたものを否定し、返上しようということではありません。この世界が循環によって成り立っているならば、循環とはすべてを肯定することです。これまでにあったことはすべて、それが必要な時代だったから存在したのであり、それが行き過ぎた結果様々な矛盾が現れてきたということは、私たちは自らの姿勢を振り返る段階に来たということであり、それは次のステージへ進むために大切なことです。否定ではなく、肯定し、そこから学ぶ。そうすることによって、私たち人間は進化することができるのです。
有史以来の6500年の歴史の中で、地上には様々な文明が生まれては消えていきました。その消滅の原因は、行き過ぎた文明の発達によってバランスを欠いた環境破壊であったと言われます。産業革命以降の急速な科学技術の発展により栄えた現代文明は、過去に類を見ない速度で環境を破壊しながら、その高度なテクノロジーにより文明を維持し続けています。しかし、矛盾の根本にメスを入れることなく、矛盾を生み出す元である現代文明を人工の力のみで保ち続けることは、さらなる重大な結果をもたらすことになります。だからこそ、その根本の原因に気付くことで、偏った豊かさを突き詰めてきた鋭い矛先を収め、破壊の手を止めなければなりません。
右肩上がりの経済から一歩引き、本当に必要なものは何であるのか、余分なものは何なのか、その仕分けをする時が来ています。今まで通りの生活を維持することから、求める心を少しだけ引いて80%にしてみれば、足りないものはみんなで共有するチャンスを得ることができるのです。それが難しければ、まずは90%から始めてみる。やってみて大丈夫なら、今度はさらにその90%にしてみる。そうやって少しずつ慣らしていくうちに、みんなで助け合い、無駄がなくなり、生きることの新たな方向性に出会えるのです。

それは難しいことのように思えるかもしれません。しかしこれまで他の生命の犠牲の上に成り立ってきた私たちの欲望は、100%でも飽き足らず、さらに120%も200%も求めてきたのです。その矛を今収めなければ、鋭い矛先がいずれ、自らに向かうことになるでしょう。
新型コロナウィルスは、その行き過ぎた人間の行いに歯止めをかけました。今はコロナウィルスによって無理やり強いられているように思えることを、私たちが自らの意志でできるようになったなら、コロナウィルスが現れることはなくなるかもしれません。その力を借りる必要がなくなるからです。それが次の時代に求められる私たちの生き方です。
人間は失ってから気付くものです。だからこそ今、これまで当たり前であったものが失われようとしていることで、世界は私たちにメッセージを送っています。しかしそのような痛みをもらわなくとも、私たち人間には、これまでの行き過ぎた行いを振り返り、そこから学び、傷付いた世界を再生させ、新たな方向性を見出す能力と可能性が秘められています。その道の始まりとなる心が、他者を思うことです。

世界は、共有のもとに成り立っています。私たちはすべての生命と、太陽や水や大地や空気や風を共有しながら、大いなる命の循環の中で生かされています。その中で、他者を思い、他者のために生きることは、私たち生命にとって当たり前の姿なのです。
私たち人間の本質は、愛や絆によって、みんなで力を合わせて生きることが幸せな世界を生む元になると、どこかで知っています。ところが自我が膨らみ、自分のことだけを考えるようになった人々は、他者のために生きることがまるで自らの自由を阻害されるかのように感じるマインドコントロールにかかっています。しかし、他者のために生きることは、本来とても心地良いことなのです。
これまでの価値観では、人に何かをしてあげることは、「自分がしてあげた」とある意味優越感を持つようなものでした。或いは、人にしてあげることで自らのものが奪われるように思う人もいます。しかし人に何かをしてあげるということは、こちらが人に対して何かをさせてもらえる、ということです。そこには、人のために生きたという価値が生まれます。そうすると、「してあげる」ではなく「やらせていただく」という心になります。ただ他者のために生きる、という、生命の定めを表現した時に、その人は自ずと、自らの価値を上げていきます。そして自らの行うことが、世の中を良くしていきます。そういった仕組みがこの世界には流れており、自らが生きることで、その仕組みが現象化するのです。
それは何も難しいことではありません。高度なテクノロジーやコロナウィルスのワクチンを開発することの方が、ずっと難しく、お金やエネルギーもかかることでしょう。それは誰しもの心の内に秘められた、世界の掟です。自分のことばかりを考えて生きて、そのことがわからなければ、その大いなる仕組みを感じ取り、寄り添おうとすることにこそ、自我を発揮しなさい。「私の目的は、この世界の仕組みが健全に表現されることであり、それを喜びとするのが私の自我です。」そして、この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる —————

私は、夢を見ました。それは、いとも簡単にその世界へ行ける夢でした。
そこでは、何かを求める気持ちは消え去り、ただ心が満たされていました。今の現実の中では、それは本当に夢のようで、程遠い世界に思えるかもしれません。しかし、心がその意識に目覚めれば、可能なのです。
この世界には、様々な可能性が秘められています。一人ひとりの人間が、どのような精神状態で生きるかによって、それにふさわしい世界が目の前に現実化してきます。そのたくさんの可能性の中でもっとも大切なのは、世界が幸せという生産物で満たされることです。それは目には見えないものですが、心身ともに健康な世界を創ってくれます。その原料は、他者を思う心。他者の幸せを願い、他者のために生きていけば、実現できるのです。
そこには、幸せになるための音楽が流れ、幸せになるための食べ物があり、幸せになるための会話が交わされ、幸せになるための日々の暮らしがあるでしょう。そして欲しがる心は満たされて、多くを必要としなくとも、少しのエネルギーでたくさんの幸せが生まれるでしょう。それはどこにあるのかというと、人の心の中にあります。そのスイッチを、あなたが入れればいいのです。

そのような世界があることを、私は観たのです。

 

 


美しく生きる覚悟の先にあるもの

先日、ある大学の学生さんと指導教官が、フィールドワーク実習の一環として木の花ファミリーを訪れました。研究テーマは「日本でのエコビレッジ進展について」。「日本でエコビレッジ活動が広まることの利点を調査する」ためのアンケートが渡された翌日、二人はいさどんのいる養蜂場を見学しにやって来ました。そこでいさどんは、こんなことを話し始めました。


 
今日、あなた方は養蜂場に来ています。僕は、我々人類の未来のあり方の見本がこの蜜蜂の生態の中にあると考えて、蜂を飼うようになりました。その一番の目的は、蜂蜜が欲しいからではありません。この生態の中に、我々の体の構造と同じ仕組みがあるのです。
近ごろは医療の世界でも、細胞の一つひとつに意志がある、ということを言うようになりました。「全身全霊」という言葉があるように、それは細胞の一つひとつがパラボラアンテナのように開いている状態です。そのような状態になると、人間はこの世界の奥にあって、この世界を動かしている様々な仕組みを感受できるようになります。それだけの能力が人間にはあるのです。

地球にも、そこで営まれる生態系のネットワークにも、もともと無駄なものは何ひとつありません。ところがそこに人間が現れて、ゴミを生むようになりました。宇宙はプラスマイナスゼロの世界なのに、人間が現れて、人間の叡智が偏り、プラスを過剰に求めるようになりました。だから今地球上にはプラスのエネルギーが蔓延していて、ゴミも発生し、ある意味熱中症のような症状になっています。
だからそういった矛盾を解消するためには、我々人間一人ひとりが何を考えて地球上に生きているのかということが、とても重要です。それが地球の未来を創っていくのですから。今は世界のリーダーも、学者も、自分が何を発しているのかということよりも、一般の人々が何を求めているのかというニーズに基づいて活動をしています。政治家はひとりひとりの一票によって選ばれる仕組みの中で、結局は、人々の意志がどのような世界を求めているかによって、世界は動いていくのです。リーダーがこの世界を動かしているわけではなく、地球の細胞である人間の意志が集まって、世界の現状を創っているのです。
ならば時代とは、本来特別なリーダーが現れて革命を起こすのではなく、一般の人々 ─── 自分の存在なんて大したものじゃないと思っていた普通の人々が革命を起こすのだと、僕は感じています。蜜蜂はまさにそのモデルです。私たち一人ひとりのわずかな想いが、どのような意志に基づいているのかによって、世界がどのような方向に進むのかが変わっていくのです。ですから、私たち一人ひとりの意志はこの世界にとって大変重要なものなのです。

今ここを飛び交っている蜂は、大部分が働き蜂です。働き蜂1匹の能力は小さなものです。寿命も短い。花が多い時期がもっとも寿命が短く、成虫になってから40日しか生きられません。
働き蜂はみんなメスですが、巣箱の中にはオス蜂もいます。オス蜂の寿命は3ヶ月です。オス蜂は働かないので、12月にもなると働き蜂から巣の外に追い出されます。冬の間ただエサを食べるだけで、必要のない存在だからです。しかし春になり新しい女王が出ると、女王が卵を産むために交尾の相手が必要になるので、働き蜂はオス蜂を育てるための部屋を用意します。
「女王蜂」というと、群れ全体を支配している存在のように思うでしょうが、それは人間の発想です。実は女王蜂は、働き蜂の奴隷とも言えるのですよ。女王蜂がどこにどれだけの卵を産むのかは、すべて働き蜂の指令に基づいているのです。
働き蜂は、私たちの体の細胞と同じように、次から次へと生まれては、働いて、死んでいきます。その蜜蜂たちのDNAの中に、代々受け継がれてきた情報が刻まれており、それを使って蜜蜂たちは生きることの全てを読み解いているのです。天候の先行きが悪いと感じれば産卵を控え、天候が良く花がたくさん咲きそうなら産卵を進めるよう女王蜂に指示します。一番寿命の短い働き蜂が、群全体の行く末をコントロールしているのです。

私たち人間の感覚は、自分が学習して記憶したことをやるというものであり、自分が体験したことのないことは知らないことになっています。例えば女性が妊娠すれば、出産についての本や子育てについての本を読んで学習します。だけど、以前ここではヤギを飼っていましたが、ヤギのための出産の本というのはないですね(笑)。ヤギは家畜ですから人間が介在しますが、自然界の生物はそれもありません。しかし彼らは、先祖からずっと受け継いできたように出産し、ちゃんと子育てもします。
群れで暮らすとは、それと同じことです。今、ひとつの巣箱の中に1万匹ほどの蜜蜂がいます。最盛期には巣箱が3階建てになって、5万から10万匹にもなります。それがたった1匹の女王のもとにいるわけですが、それは女王蜂の意志で動いているわけではないのです。どんどん生まれては死んで新陳代謝していく働き蜂がその指令を送り、群全体を維持しているのです。
さらに、働き蜂はいろいろな役割をしています。幼虫から成虫になったばかりの働き蜂は幼虫の世話や巣の掃除をし、ある程度成長して一人前になった働き蜂は外へ出て蜜を集めます。成長に応じて役割が変わっていき、分業制になっているのです。そこでは、とても流れの良い循環の仕組みが自然に流れ、ものごとが滞りなく進んでいくのです。

昨日、あなたから渡されたアンケートを見ました。ここはとても特殊な所です。地球に現れた人類の変態というか、奇跡というか。こんなことを僕が言うのは変かもしれませんが、僕は少しヘンな発想を持っています。しかしこのヘンな発想は、世の中の価値観が変われば当然のことなのです。
今、1組のカップルがゲストとしてここに来ています。男性の方は統合失調症で、女性の方は精神が不安定です。彼らは親がとても裕福なので、お金には苦労していませんが、人生には行き詰っています。「僕は生涯薬を処方されながら精神障がい者として生きるんだろうか」と彼は言います。彼女はそんな彼に同情して一緒に暮らしていますが、人生に見通しは立っていません。
彼らは1週間ほど前に、男性の方の両親と一緒にここへやって来て、僕と話をしました。今回二人で来たのは、ここの取り組みにかけて、自分たちの人生を立て直そうと思ったからです。

ここは治療院ではありません。医者は彼に「薬がなくなったら混乱を起こして入院することになる」と言って薬を処方し続けています。ある意味、脅されているようなものです。そして障がい者年金を受給しながら、この病院の患者であり続けなさい、ということを言っているようなものなのです。
先日彼が両親と来た時に、僕は、なぜ今彼は病気になっているのかという、病気の仕組みについて話しました。そして彼女に、どうしてあなたは彼と付き合っているのかと聞きました。それは、彼女自身の中にも歪みがあるからです。そして傷口を舐め合っている。お互いに依存しながら、苦痛を感じているのです。それは薬では治りません。
ここは、薬を使わずに治すところです。なぜなら、それはもともと薬で治すものではないからです。それは「正常に戻す」ということです。今、地球上では「お金がなければ幸せになれない」「お金があるのが成功者だ」という価値観が蔓延しています。それは狂っているでしょう?僕はそこを今の社会に問いたい。だからこの暮らしをしているし、蜜蜂を飼っているのです。

この話と蜜蜂の話をつなげることは、とても深いことです。しかしあなたからのアンケートには自分の発想から出た質問が並んでいて、それに答えてくださいと言われれば答えられますが、そこで問いかけているのは表面的な仕組みについてのことだけです。けれども実際は、なぜ木の花ファミリーがあるのかといったら、そこにはもっと奥の深い物語があります。同じように、なぜ今地球がこのような状態であるのかということにも、わけがあるのです。

そこで僕は、(先生に向かって)先生であるあなたに伝えたい。なぜなら、あなたがどのような投げかけをするかによって、学生たちが目を向ける方向が変わってくるからです。
この深い宇宙観を今の人々に語ることは、無理なことかもしれません。無理かもしれませんが、そういったことを大事だと感ずる人には、またその機会が与えられるでしょう。これは社会運動です。大学という現場は本来、優れた人材を社会に輩出するためにあるはずなのですが、今は既製品のような人材を育て、それも知識の漬物のようにしてしまっている。知識というものは、生きることには大きな力にはなりません。大切なのは、瞬間瞬間状況が変化していく中で、智恵を持ってそこを乗り越えていく生命力です。
近代物理学の世界は今、行き詰っています。物理学の行き詰まりの先にあるもの ──── 宇宙をどう解釈したらいいのかということについては、ここにヒントがあります。しかし物理学者は、現象をもってしか真実としない。現象の中にしか真実を見ようとしないのです。それでは、私たちの心はどうなるのでしょう。心は、目で観察することはできないのです。

昨日、僕の中学の同級生が遊びに来ました。彼は、これまで自分の心の中にずっとあるものを抱えていました。
彼は小学校に上がる前に、友だちが持っていたナイフが目に刺さって、片目を失いました。そのことで大変なハンデを持って生きてきました。そして今も、5つほどもの病気を抱えています。彼はいい人なのに、どうしてそんなにたくさんの病気を持っているのでしょう。
「病気」は、「気が病む」と書きます。病気になるということは、心に歪みがあり、矛盾を抱えているということです。では、あんなにいい人がなぜ病気になるのかという原因については改めて分析する必要がありますが、そう思っていたら、彼の方から僕に話してきました。

僕は子どものころ、友だちの傘が刺さって彼の目はああなったのだと聞いていました。ところが実際はそうではなかった。子どもの僕たちにとっては、彼はただ単に片目が見えないというだけで、それ以上のことは何もなかったのですが、その後彼は社会の中で大変なハンデを背負うことになりました。免許を取る時でも、就職する時でも、そのハンデによってたくさん辛い思いを体験したと語りました。何度自殺したいと思ったことか。そうやって自分が辛い思いをした分だけ、彼は人に対してやさしい人になりましたが、その分心に矛盾を抱え、気を病むようになりました。それが病気になって現れていたのです。
昨日、彼はその矛盾を吐き出しました。66年間生きてきて、やっと吐き出せた。そして自分がこれまで闇雲に生きてきて、どれだけ矛盾を抱えていたかということに気付いたのです。そこで僕は彼に伝えました。「これであなたの中にあるガンは改善に向かうよ」と。
彼は自分の中に溜めていた思いを、外に吐きだしました。彼はいい人ですが、中には苦痛を溜めていたのです。その苦痛の上に、「いい人」としての彼がいたのです。そして本当のいい人になるために、その苦痛を吐き出した。彼はこれまでは自分の目にコンプレックスがあって、女の人の顔を真っ直ぐに見られなかったそうですが、思いを吐き出した後、初めて女の人を正面から観られるようになったと言いました。「見ていろ。あなたの病気は絶対に回復に向かうから」と僕は言いました。「よかったなぁ」と。ここの存在が、人の人生を変えるのです。

先日、昔からの知り合いの、今は96歳のおじいさんがここに来ました。娘と婿とおばあさんと一緒に来たのです。そこで僕は、生きるとはどういうことかという話をしました。特に死のお迎えが近い人は、どう生きて、どう死を迎えるべきかという話をしていたら、途中でおじいさんが、山形弁でこう言い出しました。

─── ちょっと待ってくれ。わしは今、あなたの話をずーっと聞いていたが、話が耳から入って、反対の耳へ抜けていってしまった。だけど、自分の中から湧いてきたものがあるから、それを話させてくれ ───

そこで彼は、「わしは第二次世界大戦のミッドウェー海戦の生き残りだ」と話し始めました。戦艦ではなく護衛艦に乗っていて、その護衛艦はポンコツで小さくて足も遅かった。それでアメリカ軍も爆弾を落とすのをもったいなく思ったのか、他の船が次々と攻撃される中、その護衛艦だけは無傷だったのです。
そして戦いが終わった後、海にはたくさんの死体と、まだ生きている人々が浮いていました。そこでまだ生きている人たちを、一生懸命船の上に引き上げた。ところがふと気づくと、甲板が負傷者でいっぱいになっていました。そこで彼は「こんなことをしていたら全員がダメになる」と思い、何を始めたのかというと、助ける人と、助けない人の選別を始めたのです。「この人は助かりそうだ」「この人は助けても死ぬだろう」と選別し、助かる見込みのない人たちを、海に捨てました。それは上官に指示されたのか、自分の意志だったのか、記憶にないと彼は言います。そのくらい必死な場所だったのです。
「どれだけの人を捨てたかわからないが、30人は捨てただろう」と彼は言いました。その時に、捨てられる人は、自分の命がもうないことがわかっていても「助けてくれ!」と叫ぶ。それを捨ててきた、と彼は語りました。そしてそれは、心の奥にずっとしまわれてきた重りとなっていたのでしょう。

彼はそのことを、これまで誰にも語ったことはなかったと言いました。その話を始める前、彼は「わしはまだ死にたくない」と言うので、僕は「どうして96歳にもなってまだ生きたいの」と言いました。人間は毎日を充実して生きていたらいつでも死ねるよ、僕なんか毎日わからずやの人間たちを相手にしていて面倒くさいからすぐにでも死にたいけど、まだやることがあるから仕方なく生きてるよ、と僕は言いました。だけど96歳にもなったら、土星が太陽の周りを3周も回っているのです。最初の30年で自分を知り、その次の30年でそれを経験して、最後の30年で死ぬ準備をし終末を迎えるところを、そこから6年も余分に生きてるのにまだ生きたいだなんて、どうしてそんなに生きることに未練があるのだろうと思っていたところ、彼はその話を初めて語り出したのです。最後に彼は、「ありがとう、心が軽くなった」と言いました。そしてこう言ったのです。「わしもこの話が話せたから、もう逝けるかな。」

それは、本当にいい話でしょう。あの96歳のおじいさんが、そんな人生を生きてきて、旅立つ前にこんないい土産を我々にくれた。
心の中にずっと重いおもりを持っていた人が、ここに来て、それを手放せた。それがここの醍醐味です。思いというのは、重い。その思いを手放すと軽くなる。旅立つ時には人は物理的な質量をなくし、肉体から解放されて天へと昇っていきます。しかしいくら質量のある肉体を手放しても、思いが重ければ地に居続けることになり、その魂は地獄を生きることになるのです。そのおもりを吐き出せる場所 ──── それがここの本質です。

生きるということは、大事なことです。美しく生きて、そして未練のない状態で死んでいかなければいけない。そうでなければ、人間はこの世界に、執着という心のゴミを残していくことになります。
今、人間は欲ばかりになってしまって、美しく生きるということを忘れてしまいました。だから木の花ファミリーは、美しく生きることを目指すのです。美しく、人のために。自らを美しくすると、人のために生きるようになります。そしてそういった人たちが多くなると、世の中は美しくなります。この世界はすべてが生命ネットワークの中にあるのですから、どんなに小さなミミズでも、微生物でも、すべてが役割を果たして無駄がないようになっています。そして自らが存在するために役割を果たしてこの世界に貢献すると、自分自身がその美しいネットワークの中で生かされるのです。

それを表現したのが、ここの生き方です。世界のエコビレッジの生き方といいますが、そんなものよりもずっと重くて、深い。でもこれが完成したら、21世紀の人類の見本になります。その見本の見本が、これ ──── 蜜蜂です。
巣箱の外に、蜜蜂たちの死骸があるでしょう。これは無駄になってはいません。存分に群のために働いて、そして終わっていく。個が全体のために完全燃焼するのです。その生涯は決して無駄にはなりません。それによって、群全体が次へとつながっていくのです。

私たちはとても大切なことをやっていると思っています。それは、誰かの評価を求めているわけではありません。重荷を秘めていた人がそれを吐き出し、当たり前に人々が軽くなって、癒されていく場を創ること。その自分の中で大切と思うことを、人生を通してやり切れるかどうか。その覚悟が本物であることの証として、今の社会からは評価されるばかりではない道を歩んでいます。それが真実であるためには、評価を求めるものではないのです。たとえ何の評価がなくても、自らの心は、濁ることがない。
その覚悟のもとに創る場の空気は、社会に多くのものを還元します。そして人々を、その存在の最終目的地である、悟りの地に導くのです。

 

 


3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ

2014年7月26日のマヤ新年の祭典

7月26日はマヤの新年です。3年前の2014年7月26日に、メキシコの太陽マヤ族最高司祭である尊母ナーキン氏が木の花ファミリーを訪れ、富士山を望む聖地・宮ノ下広場でマヤ新年を祝う祭典を行って以来、木の花ファミリーでは毎年この日に地球を祈りのウェーブで包む祭典を行ってきました。
2017年7月26日早朝、霧雨の降る中、宮ノ下広場にファミリーメンバーが集い、カタカムナのウタヒや舞を奏上した後、いさどんは次のように語りました。

 

3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ

ー 人生の中で出会うことはすべて、私たちの生きた証 ー

 
今、この祭典に立ち会い、曇り空の下、ミストのような雨が降る中で、頭の中にある映像が浮かびました。それは、宇宙空間に浮かぶ地球の姿です。

地上に雨は降りますが、地球そのものに雨は降りません。それは、地球が宇宙空間にあるからです。今この場所には、天の配慮のような霧雨が降りそそいでいます。これは、私たちが地球に生きる証である、生命の水です。それを不愉快なものと捉えれば、不愉快な世界が地球上に展開されてゆくでしょう。しかし、命の潤いを与えられているのだと思えば、そしてそれを「いただきます」という心で浴びるならば、それはとても尊いものをいただいていることになります。その恵みがあるから、私たちは命を紡いで生きることができるのです。

今日は7月26日、マヤの新年です。なぜ私たちはこのような祭典をしてマヤの新年を祝うのかというと、そのようなことに出会う生き方をしてきたからです。それは、私たちが生きた証でもあるのです。

私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。

この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。

私たちが今日ここに集うのは、そういったことを理解した者として、自らの人生にそれを現象として顕わす自覚があるからです。そこには損得勘定や、より良い人生を生きたいというような願望はありません。ただひたすら、時代が要請するままに、宇宙が成り立っていくように生きる。そのことによって、この大きな節目の時にあたり、その先の時代を人々はどのように生きるかを明快に示すことができます。それを自覚した者として、皆さんはここに立っているはずです。

今、雨が降りそそいでいます。祭典の日はカラッと晴れるのが天の恵みなのかというと、それは人間の勝手な都合の思いであり、欲です。もしもずっとカラッと晴れ続けたら、私たちは生きていけないでしょう。今のこの恵みの雨は、そういったことを示しています。宇宙空間から見れば、これは地球の生命循環の作用です。こういった仕組みを私たちは生きていることの証として理解し、愉快なことも不愉快なこともすべてが命の仕組みの中にあることを理解する必要があります。そのことを理解した者たちは、自らにとって都合の良い心で生きることはありません。それが、宇宙の法のもとに、欲望を断ち切った美しい生き方をするということです。

毎年が特別な年であり、毎日が特別な日です。私たちは毎日毎瞬、未知の場所へと進み続けています。その中でも、今年2017年の7月26日は特別な日です。個人的に僕には「来る時が来た」という心境です。というのは、今この祭場の四隅に、樫の幼木が植えられています。つい先日植えたものですが、僕は何も意識していませんでした。ポットに種を播いて、春が来て、梅雨が来て、ある程度育った幼木がポットの中のままで夏を過ごすのは苦痛だろうなと思い、ではこれをどこに植えよう、と考えた時にふっと閃いたのが、この宮ノ下広場の祭場の四方に植えることでした。そしてここに植えることにより、この祭場の意味が完成したのです。

ヒマラヤ樫の幼木

この樫は、ヒマラヤ樫です。この名前は僕が付けました。というのは、3年前にヒマラヤのハルトラビレッジから招待を受けてそこを訪れた時に、何か記念になるものをと思いながら村を歩いていたら、樫の木がありました。そこにまだ熟していない青い実がなっていて、僕に「持って行きなさい」と言うのです。そして木の根元を見ると、その青い実が落ちていました。未熟ですが持って行けというものですから、いくつかを拾って持ってきました。そしてその実を播いたら、その中の4つだけが育ちました。そしてその4本の幼木を、この祭場の四隅に植えたのです。

物理的には何の根拠もありませんが、ヒマラヤは僕の魂のふるさとです。僕が今から1000年ほど前に地球に降り立った時に、最初に暮らした地です。そして3年前にインドの友人から招待を受けてヒマラヤを訪れ、ヒマラヤの山と対話してきました。「戻ってきたよ」と。それは自分のルーツを確認する旅でした。その証として、今は日本の富士山麓にいます。富士山は、地球上で最も霊的に高い山です。プレートとプレートがせめぎ合い、高い地球の波動を発する中心点にあるのが富士山です。それはもっともエネルギーが高いところであり、地震や噴火など天災が起きる場所ですが、それは命の再生が激しいというこというです。それは宇宙の実体を表しています。破壊と再生をくり返し、生きるということです。

命とは、常に変化・変容・変態をくり返し、循環し、巡り巡って、未知なる未来へ進んでいきます。私たちが、10年、20年、30年、40年と生きていく中で、同じところに立ち止まったことは一度もありません。赤ん坊としてこの世に誕生し、そこからずーっと人生を刻んできましたね。そのことを、どこかで忘れています。私たちは二度と同じところに存在することはできません。それは、命だからです。私たち人間だけではなく、地球もその旅をしていますし、宇宙全体もその旅をしています。私たちは、その命の物語を地球と共に、太陽と共に、銀河と共に刻んでいるのです。

さて、今の地球上の人々に、そういった意識が日々の中であるでしょうか。ないでしょう。ないから、意識が人間意識であり、自我に囚われ、感情や欲望のままに生きているのです。

すべての出来事は、そこに関わる人の意識がどのレベルにあるのかによってふさわしく出会うようになっています。これは宇宙の仕組みです。今の人間社会がなぜこのような状態なのかというと、日ごろの意識がそこにあるからです。そして、その意識にふさわしい現象が起きているのです。そう言うと罰を与えられているかのように聞こえるかもしれませんが、この仕組みの真実を知ると、「なんてありがたいのだろう」という想いが湧き上がってきます。それは、人生は自らの意識のままに、思いのままになるということです。すべての出来事は、そのことを教えてくれているのです。

3年前、僕の魂のふるさとであるヒマラヤから樫が来ました。富士山が、天から宇宙の法が降りてくる天教山なら、その教えが天教山を通って地球へと入り、マグマを経て再び地上へと吹き出す地教山がヒマラヤです。そのヒマラヤへの旅の前に、日本の地教山、即ち世界の高天原へ挨拶をするために、富士浅間木の花祭りの舞の奉納に行きました。その地が熊野です。前日は、930hPaの台風が直撃するという予報の中熊野へ向かい、一度も暴風雨に出会うことはありませんでした。そして早朝に熊野三山奥の院である玉置山の玉置神社へ辿り着いた時には、辺りはとても清浄な空気になっていました。無事に舞を奉納し、帰りに辺りを散策していた時に、神代杉に出会いました。そして「この種を持って帰れ」と言うのです。それを持って帰って播いて育ったのが、祭場の中央に植えられているこの木です。

これを植えた時に、木の花の神主であるひろっちに「200年後にあなたがここで祭典をする時には立派な熊野杉になっていますから、それを楽しみにしてください」と言いました(笑)。今は幼木ですが、その命は確実に、地球の高天原である熊野の神代杉から受け継がれ、ここに定着したのです。

熊野と言えば、国之常立神の地球の住まいです。その艮(東北)の方角には富士山があります。地球のへそと言われるインドから艮の方角を見ると、日本があります。日本という地には富士山という山があります。天の教えが富士山を通って地球の中へと入り、マグマを経てヒマラヤから地上へと吹き出し、それがガンガー(ガンジス河)を通って南へ流れ、インドの南端であるポンディシェリに辿り着いて、インド洋から世界へとその教えが広がりました。それは6500年の歴史です。そして今、その文明がこういった形で地球上に広がっています。2012年12月21日に銀河の冬至を迎え、その文明のリセットの時が来たのです。

私たちはその文明の次を生きる時に来ています。「私たち」とは、すべての人間のことです。幸いなことに、チバニアンの発見によって地球の磁場が逆転するということが立証されました。これまで何の根拠もなく磁場の逆転を語ってきましたが、それが立証される時代が来たのです。磁場が逆転するということは、ものの価値観が逆転するということです。

これまでは、命をないがしろにする時代でした。命を壊していくことによって、物理的な豊かさを求める時代でした。これからは、命の尊さに沿い、命をつなぎ、調和を表現していく時代です。私たちの命のもとは太陽です。それを現象化し、顕わすのは地球です。次のサイクルは、自らの自我によって命を壊し、欲望を満たして豊かになろうとするのではなく、命の法、即ち宇宙の法に則り、連携し、調和して、愛豊かに生きる時代が始まりました。これまでは、こんな簡単なことが、自らを自我で愛することによって、表現できない時代だったのです。 

まだまだ世界の人々は、欲望と競争と怒りと争いの中で豊かさを求めています。エネルギーとエネルギーをぶつけ合ってそれを消耗させて、豊かになるわけがないのです。地球生態系は、つながることによって豊かになっていきます。それは無限なのです。命は形を変えながら次へ次へとバトンをつなぎ、そこに破壊はありません。そして命のネットワークを築いて、より世界を豊かにしていくのです。それはまさしく、太陽と地球、惑星たちの関係そのものです。それによって私たち人間も生きているのです。

皆さんは、縁があって木の花ファミリーへやって来ました。特別な決意を持ってここに集っているのですが、毎日の生業に没頭してはいませんか。それでは、本当の豊かさは現象化しません。縁があって集い、生涯を通じて決意したことを毎日自らのベースとして意識しながら、日々与えられる出来事をいただいて生活していく。そうすると、天体が織りなす無限で持続可能なエネルギー、即ちフリーエネルギーが、生活の中に顕れてきます。人類はまだ、その豊かさを知りません。人々がすべてを分かち合い、自然と一体で、命はひとつであることを表現した時に、地球上に、今は想像もできないような豊かさが顕れてきます。それを私たちはこの地に顕わし、もうすぐそこまで来ている新たな時代の先駆けとして、その見本とならねばなりません。

2014年に、ここ宮ノ下広場で、太陽マヤ族の最高司祭である尊母ナーキン氏と共にマヤ新年10OCを祝いました。今日はメキシコのトニナ遺跡でマヤの祭典が行われています。今は午前6時40分です。2017年7月26日の早朝にあたり、地球を祈りのウェーブで包む儀式の始まりがここです。こんなふうに地球を常に意識して、私たちは地球人としての意識を持って宇宙を生きていく。そういった意識を持った人々の地球規模の祭典の始まりです。

もう一度、始めの話に戻ります。

日ごろどのような意識を持って生きるかによって、私たちは未来に出会う出来事の縁を紡いでいます。ですから、出会ったことに不満を持ってはいけません。それは忠実に、あなた自身が持っている意識を現象化してくれているのですから。それに不満を言うようでは、自らの姿を見ずして他者に文句を言っていることになります。出会ったことを潔く受け取り、自らの姿勢を正したならば、一人ひとりの人生はより豊かで、優れたものになるでしょう。我々はそれを自覚して生き、見本となるべき者として生きてきたのです。

僕は、多くの人にとって意味のわからないことをたくさん語ってきました。富士山という山を艮の方角にいただいて、地教山の樫の木と、地球の高天原の神代杉がこの地に根をおろしました。僕の語ることに、根拠はありません。地球上で磁場が逆転するということを語ってきたのも、そこに暮らす人間や生命の価値観が変わっていくよ、ということを語っていたのです。そこに根拠はありませんが、湧いてきたこと、降りてきたことは、真実です。

損得勘定を持って邪な思考で考えたことは、その人だけの思い上がりです。しかし本来私たちは、宇宙の法のもとに顕わされた生命なのです。自らの心が美しければ、宇宙の智恵が自然と降りてきます。自らの心が美しければ、生命の始まりから未来まで、無限なる智恵が自らの中から湧き出します。ですから、自らを磨かなければなりません。どうやって磨くのかというと、今自分が何を思って生きているのかということを、常に観ていくこと。そしてそれは誇れる意識かどうかということを、常に意識して生きること。そして毎日の役割を果たしていくのです。

そうすると、宇宙があなたの生き様に顕れます。地球生態系という、無限なる命の連鎖があなたの生き様に顕れます。それは愛ある、優れた、豊かな生活を私たちにもたらしてくれるでしょう。

長く話していたら、ミストのような雨がやみましたね。このミストは本当に、私たちの命をつくってくれている元の波動です。今日を機会に、思いが本当に現象化するのだということを、しっかりと認識してください。それは恐ろしい事でもあるのです。ろくでもない思いを持って生きれば、それが現象化するのですから。だからこそ、自らをしっかり監視すること。監視するべきは自らの心です。

2017年7月26日早朝。マヤの新年ではありません。地球意識の夜明けのセレモニーとして、ここにいる人々と共に、3000年に向けて新たな時代を生きる人々へのメッセージを確認しました。

宇宙は無限なる世界を、私たちに命として示してくれています。それを汚すことなく、忠実に表現していきたいものです。

 

2017年7月26日 ー 熊野の神代杉とともに

 

 


地球は真釈天技場

いさどん:
みんなはこの生き方を楽しんでいるだろうか?

ともこ:
楽しんではいるだろうけれど、まだまだ楽しみきれていない。

いさどん:
充実はしていると思うが、楽しめてはいないだろう。これが楽しめるようになったらいい。

ともこ:
楽しめたら桃源郷だね。この間ここを訪れたある人が「もっと楽しむことですよ」と言っていた。

いさどん:
しかし、楽しむにもレベルがある。どのレベルで楽しんでいるのかという度合いがあるから、一概に言うことはできない。
目指しているものに到達しなければ楽しむことはできないが、それは目指しているものがどのレベルにあるかによって変わってくる。目指すものが高くて到達できずに楽しめていないこともあれば、目指しているものが低くて到達しているから楽しんでいるということもある。どこを目指すのかによって変わってくる。それはつまり、その者の目がどこを向いているのか、旬がどこにあるのかということだ。
そこで、無理に高いものを目指して楽しめていないことも問題だが、低い所で楽しめているからそれでいいというものでもない。自らがどの位置にいるのかということが客観的に観えていないと、楽しめているのかどうかもわからない。

先日ロータスカフェで「経済革命」のプレゼンテーションをしながら、皆は話についてこれているだろうか、と思った。彼らが考えたこともないような話をしているのだから。考えたこともないような話だからこそ聞いていられる、ということもあるのだが。
我々が無意識に毎日行動していることがこの世の中の混乱になっていたり、格差を生んでいたり、現代の様々な問題の原因になっていませんか、と問いかけると、そこについてはみんな理解する。道理が通っているから、「そう言われればそうだな」とわかる。では自分の生き方を今から変えるかというと、そうはならない。

ともこ:
ならないね。昔自分が会社勤めをして暮らしていた時も、これではいけないと思いつつ、どうしたらいいのかがわからなかった。結局は心のことだから、一般社会にいようとどこにいようと本当はできることがあるんだけど、わからなかったな。

いさどん:
社会にいてもできることはあるが、社会にいてはできないということもある。仮に頭でわかったところで、社会にいる限り、自分一人がそんなことをしても世の中が動くだろうかというと、動かない。だから少なくとも、その理解が確実に現象化して大きなうねりになる動きを見付けるか、もしくはその中に入ることをしないと、結局はその理解もただの知識として持っているだけになる。そして何も変わらない。
しかし、生きているということは、自動的にその動きの中にいるということでもある。自分がそういった行動を取ろうが取るまいが、確実に世界はその方向へ向かっているのだから、生きていることによってそこに参加していることは確かだ。大事なのは、そのことをよく理解して行動しているかどうかということだ。
自分一人が行動したとして、世の中に対しては大した力になれないとしても、世界の流れには呼応しているのだから、それを自らの人生の結果につなげたければ、その意識を常に持って生きていくということだ。

何かが成就するかどうかは、結局時代の側が握っており、それは自らの手の届かないところにある可能性がある。今回の人生でそこに旬がなく成就しなかったとしても、それに対して道理をしっかりと積み上げて旅立てば、次にそれが起きる旬に生まれてくる可能性もある。そしてそこで事が成る。だから、ここで終わりとしないということだ。

ともこ:
自分の思考が二元論的であることを日々感じている。そうではないと思いつつ、無自覚のうちにものごとを「これはいい」「これは悪い」と判断している。今の話のようにずっと先までつなげて捉えるのではなく、今だけを見ているからそういう判断に陥りやすいのかな。

いさどん:
そこだよ。二元的な教育を受けてきた現代人は二元論に慣らされている。だから、ついついそこで結論を出したがる。しかし実際は、二元論ではなく、三元でも四元でもないところに世界の実体はある。我々は形の世界にいる。そこは本来三元の世界だが、現代人の思考は三元にすらなっていない。
しかし、世界の実体はもっと多次元の中にあり、いいとか悪いとか単純に決めることのできないものなのだから、この世界に存在するあらゆることはすべて認められることだ。どんなに理不尽なことであっても、現象化が可能だということは、認められることなんだよ。そのことを理解すると、ものごとを「これはいい」「これは悪い」と判断して固定する視点に囚われなくなる。しかしそこまで悟ってしまうと、人はそれぞれ他者にはないオリジナルな個性を持って役割を果たしているのだが、その役割もなくなってしまうことになる。
例えば道を極めて聖者となった者に対して、本来、そこに御利益を求めるということ自体があり得ないことだ。聖者とは、何人の側にも立たない者。そこに御利益があるのではなく、己の側に立たず、単に宇宙の法則と同化しているにしか過ぎない。元々の仏教の世界観は、そこにすがって御利益を求めるようなものではなく、ただ人として生きることの道しるべとしてあるものだった。ところがその境地まで至らぬ者たちが、自らの飯の種としてそれを利用した結果、現在の御利益宗教や葬式仏教につながっていった。
寺院には仏塔や仏像があるが、それに対してどんな心で向き合うべきかといったら、本来、そういった仏教的建造物は、この世界の実体をわかりやすくひも解くための道具にしか過ぎない。そんなものに向き合わなくとも、直接自然と向き合い、その奥にある仕組みや法則、即ちこの世界の実体を感じることができれば、それで道は開かれる。この世界は真釈天技場(しんしゃくてんぎじょう)なのだから。

ともこ:
真釈天技場?

いさどん:
昔僕が田舎に創ろうとしていた道場の名前だよ。それは地球のことだ。だから、我々が地球上に肉体を持って人として生きるということは、地球という心の道場に修行に来たようなものなんだよ。真釈天技場の「真」は真実の真、「釈」は解釈の釈であり、お釈迦様の釈でもある。仏教の真理とは「天」を理解する「技」である、というのが真釈天技場の意味であり、その道場が地球なんだよ。
僕が「私は特定の場所を指定してそこに人々が道を求める場を創ろうとしているが、本来人間が真実を理解するための場所はどこなのか」と天に問うたら、「真釈天技場」という文字が降りてきた。その5文字の示す意味を解釈していくと、そのために地球は創られているのだから、地球上すべてがそうだということだ。ということは、宇宙空間はそうではないということ。もともと宇宙には、地球のような三次元生命世界がなかった。そして宇宙の魂たちは、コンパクトにかつ短期間に宇宙の法則を学ぶ世界を求めていた。だから、その総意によって地球が創られたんだよ。地球上には、これほどまでに多様な生命が無限のネットワークを織りなし、宇宙の法則が凝縮して表現されている。宇宙中を探しても、こんな世界はない。

ともこ:
私たちは真釈天技場に生きてるんだ。

いさどん:
だから地球上ならどこでもいいのだが、南極と北極のような極地に近い所はあまり適さない。一日を体験するのに理解し難い場所だから。赤道に近い所は生命力旺盛で変化は激しいけれど、その変化は常にワンパターンで四季の移ろいもあまりないから、ここも適地とは言い難い。大陸の中は、海の影響がなく変化が極端で、四季の微妙な機微に欠ける。
そういう意味で言うと、中心から斜め45度上にある日本の環境はいい。四季があり、海に囲まれて変化に富んでおり、極めて真釈天技場として相応しい場所にある。

ともこ:
日本はある程度南北にも長いから、日本国内でもバリエーションがあるね。

いさどん:
斜め45度は艮の方角であり、人間の体で言うと心臓の位置だよ。インドを地球のへそとか子宮だとすると、日本は心臓の位置になる。
人間の体のどこかに問題が起きると、その問題は血液を通って心臓に戻ってくる。送り出した血液が問題のある場所で汚染されてまた戻ってくるのだから、心臓は情報が集約される場所だ。本来日本はそのような位置にあるのだが、それだけの役割がありながら、現代の日本人は本来の大和心を忘れ、アメリカボケしている。
現代は、文明800年周期説で表されているように、この800年間世界をリードしてきた西洋文明に代わって、東洋文明が台頭してくる切り替えの時にある。その時に、より多く矛盾が発生するのは東洋の社会だ。西洋文明が西洋文明であるのは当然のことであり、それは800年ごとに東西の盛衰が入れ替わる文明のサイクルに沿い、ごく自然にこれから低調期に入っていく。ところが、これまでの東洋は東洋でありながら西洋かぶれをしていたのだから、本来の東洋的傾向が台頭してくる時に、そのギャップを埋め合わせる分だけ、より多くの矛盾が発生することになる。これから真実が紐解かれていく中で、東洋はより激しく変化するが、その激しい変化の中に、新たな時代への指針が生まれてくることになるだろう。

ただ、こういったことを語れば語るほど、ある意味孤独を感じるものでもある。なぜこのような思考が湧き出してくるのかというと、そういった思考の次元に意識がアクセスしているから話すのだが、それに共鳴する者は限られている。そういった解釈に触れれば人々は「なるほど」とは思うだろう。道理が通っていれば、否定はしない。実際に起きている現象もそれを明らかに裏付けている。しかしだからと言って、そういった刺激を受けて人々が生き方を変えるかというと、そこまではいかない。
今は、ピコ太郎が世界的にウケるような時代だ。今朝、福島と熊本の被災者がくまもんを通じて支援し合うということがテレビで放送されていた。NHKが視聴率を上げるための物語で、とても浅い話だが、そういった話題は人々にはウケるだろう。しかし、それでは今の社会の根底にある矛盾を根本的に解決することにはつながらない。

ともこ:
私はよく動画を編集するけれど、その時に思うのは、映像というのは編集者のバイアスがかかることなしには成り立たないということ。数ある情報の中でどれを採用するのか、長いコメントのどの部分を切り取るのかは編集者にかかっていて、その情報も嘘ではないけれど、一つの作品として仕上がった時に、それは完全に編集者の意図による寄せ集めになる。もっとも、編集者の意図も時代の流れだとも言えるけれど。

いさどん:
それを言うならば、今の情報はすべてがそうだ。本来そういったことは、自らの意図を乗せているということを自覚して行うことが大切だ。そこに気が付かなければ、自分が正義の旗印のもとにいるかのようになり、その時点で情報提供ではなくなってしまうことになる。
編集者の意図が乗るのは仕方がない。どこかで意図を持たなければ単なる出来事の羅列になってしまい、物語として成立しないことにもなる。それではわかりにくいから意図が乗るのはよいとして、そこで編集者が自らの感情が入っていることを理解し、そのことに配慮すると、フリーな映像になる。
先日、アニメ映画『この世界の片隅に』についてのクローズアップ現代を観たが、あれは極めて表面的な作品だった。それを時代の風潮として取り上げる番組には意図が働いていた。しかしその意図が観えない視聴者は、テレビの中で語られるミーハーな感想に乗っていってしまう。

なぜそうなってしまうのかというと、日頃から自らの意思をよく表現していないし、物事をよく観ていないから、出来事の奥にあるメッセージを感じ取るような思考を巡らせていない。思考を巡らせるとは、やりくり算段をするということではない。それは自動的に湧き出してくるものだ。例えば目が自動焦点になっているように、心の焦点をぐっと絞って観る。意図してやるのではなく、瞬間瞬間の状況に合わせて自動的に思考が巡る。そうすると気付きが湧いてくる。それは、人智を回して出てくるものではない。
その気付きの自動焦点機能が働くようになるためには、どうしたらよいのか。それには自らの精神を研ぎ澄ませて、無我の状態でいることが最もふさわしい。研ぎ澄ませて無我の状態でいるということは、緊張も一切ないということ。リラックスして自由自在に物事に対処できるということ。それができていない状態で生きることは、人生の奇跡に滞りを発生させることになる。滞りの種を播きながら生きているようなものだ。自らの人生にも、世の中にも。

この世界には流れがある。自らが常に流れと共にあれば、滞りは発生しない。流れに沿って動けばよいだけだから、難しくもなく、とても効率的だ。エネルギーも少なくいける。そのためにはやはり、自らを研ぎ澄ませることだ。
本来、地球上に生きるということは、宇宙の精妙なる法のもとに存在することを、極めて短期間に、そしてコンパクトに体得できる道場に生きるということ。それは、我々人間が生命として地球上に生まれ、生命ネットワークの中で役割を果たす(他者のため)ということと、自らを磨き高次の存在として目覚めていく(自らのため)ということの、二つの生きる目的を果たすことだ。それを同時に達成できる宇宙に存在する唯一の場所が地球であり、それが真釈天技場なのである。

 


 

「自分」という囚われを解き放ち

地球に生まれてきた本当の意味を知りたい方へ

2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

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囚われを外したら

そこは宇宙だった

 
何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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ヒトイズム

─ ヒトという存在の実体は 何ものなのか ─

 
いさどん:
出口王仁三郎聖師がこの世界の仕組みを説いていたのは、今からおよそ100年も前のこと。今解明されてきているようなことがわかっていたかどうかは別としても、人としてあるべき姿勢はとっていた。それが「宗教」であってはならないということで、彼らは「大本」と名乗った。当時の日本の人口は5000万人ほどだったが、日本人の約4割が信者だったという説もある。

当時は、天理教などの宗教が世の中をリードしていた時代だった。そういう時代だったということなのだろうが、様々な教えを説く人が現れて、どれも宗教になっていった。王仁三郎聖師の弟子であった岡田茂吉氏は、独自の宗教観を持つに至り、世界救世教を立ち上げた。同じく王仁三郎聖師の弟子の谷口雅春氏は生長の家を立ち上げ、そこから影響を受けた五井昌久氏は白光真宏会を立ち上げた。みんな組織宗教となり、それが今も存在している。そういう時代だった、ということでもあり、そういった人々は、今に至る組織宗教の道を創ってきた張本人たちだとも言える。
彼らは、人として外れた心をしていたわけではない。だから、このような結果になって申し訳ないというか、本人たちも不本意なことではあるだろう。歴史を振り返れば、空海や最澄が出てきた時代もあれば、親鸞や日蓮が出てきた時代もあり、世界的な音楽家が相次いで誕生した時代というのもあった。時代がそういったものを生み出しているのだ。時代の要請を受けて出てきているのだからやむを得ないとはいえ、彼らの教えは見事に組織宗教への道を歩んできた。

ともこ:
そう思うと、本当に時代の意志を感じ取ることが大事だね。時代が今どう進もうとしているのかを感じ取り、それに沿って生きる。だけどそう考えると、「時代を創る」ということは果たして人間に可能なことなのかな。

いさどん:
時代には、骨組みがある。それは星と星との関係や、太陽系が銀河を何周回ったとか、らせんをどれだけ描いたかということによって変化していく。星々の振動や自転や公転によって、大枠が決まっていくんだよ。
その大枠の中を、トキが進んでいく。そして星々の振動や回転によって、打ち出の小づちのように、現象が振り出される。その振り出される時に、この世界へのひとつの味付けのような形で、そこに存在する者たちが何らかの形で関わることはできるかもしれない。星々が紡ぎ出すサイクルには様々なものがあり、例えば今の人間の寿命なら80年だ。それは宇宙からしたらほんの一瞬のことだろう。そこについては、もしもこの仕組みを理解したならば、自らの意志によって何らかの影響を与えることはできる。
しかし大枠については、例えば惑星や恒星の動きのような全体のリズムに至っては、コントロールすることは不可能だろう。それはもっと大きな意志に委ねられている。明らかに宇宙は生きていて、意志を持っているのだから。ただ、もしも我々の魂の次元が高くなり、視野が拡大して魂が完全に巨大な宇宙にちりばめられ、その巨大な宇宙に存在する司令塔のようなものに組み込まれるとしたら、大枠の動きとなって全体のリズムに関与する側になることも可能だ。そこまでの可能性が、人間には与えられている。

大切なのは、そういった領域を想像し、そこに思考が関わっていること。それによって初めて可能性が開く。まったく考えもしないような世界には、絶対に関与することはできない。固定概念に囚われず、いかにフリーにものごとを考えるかということだ。
しかしそのフリーな思考が、何の根拠もないものでは意味がない。そこにはやはり道理が通っていなければならない。その道理のスケールが大きいか小さいかというだけの話だ。

スケールを広げて、何億年という単位で時間軸を観てみよう。何億年というのは星の生死のサイクルだ。我々人間は、1年というサイクルを紡いで、およそ80年という寿命を持っているが、星々は何億年というサイクルを紡いで、何十億年、何百億年というサイクルで存在している。
太陽や地球はおよそ46億年前に誕生し、今日まで来ている。そしていずれは賞味期限を迎えて消滅していく。太陽の生命活動は、「誕生」して「維持」して「破壊」して、そして「空」になるという「成住壊空」のプロセスを辿っており、それで1サイクルだ。その太陽に惑星として関わる地球のサイクルは、もっと小さい。その地球に関わる生命のサイクルは、それぞれもっと小さく、微細だ。そこで何十億年というサイクルの意識を持っていたら、地球のサイクルに関わることはできるわけだ。

そういったスケールで考えてみよう。いつか地球が三次元生命を維持することができない状況に陥る時、生命の種を新たな場所へと移住させる。物理的に言えば、例えば元素のような生命の一番元となる単位のものを移住させる。霊的には、魂を引き連れていく。物理的要素を束ねている魂たちがいて、それを引き連れて新たな場所へと移住する。これはまさしく、宇宙版ノアの箱舟だよ。
それは、例えばこの地球上で木の花ファミリーを束ねて引き連れていくのと同じこと。スケールが大きいか小さいかだけで、仕組みは同じだ。宇宙を旅して新たな銀河へ向かい、そこに三次元生命を発生させる。その次元の発想を持っていれば、将来そこに関わることができる。何億年というサイクルを意識の中に持っていれば、十億年単位でそれを表現していくことができる。この宇宙空間で新たにそれをやろうとすることは、不可能ではない。なぜなら、地球にこういったものがいつしか始まったということは、どこかにあったものが移住してきたということになるのだから、地球が既にそれを立証しているのだ。

───── すごいね。今ね、目の前で、ブルーの光が点滅していたんだよ。いつも目の前にブルーの光が見える。その光というか、雲のようなものが、ぽわっ、ぽわっ、と暗闇の中で点滅していた。それが今、だんだんゆっくりになって、ゆっくりになって・・・・ああ、今、消えようとしている。
最初はブルーで、中心が白かった。その青白い光がだんだんブルーになって、ゆっくりになるに従って紫になって、それでだんだん・・・・光が小さくなっていく。紫の中心は明るいね。とても点滅がゆっくりになっている。ぽわっ、ぽわっ、と、終わっていく。何か、銀河雲の中に消えていくようだ。

ああ、そうか ───── 。

ある星が光っているということは、生きているということだ。それが終末を迎えると、光が強くなり、やがて消滅していく。そして完全に光が消えて、生命活動をしていない星が、宇宙空間にはたくさんあるそうだ。それは、見えないんだよ。存在がわからないんだよ。闇の中にあるものだから。
人間は、生命活動が活発な星だけを確認している。しかし実は、ダークマターと言われる闇の中にも、生命活動を終わって休止している存在があるそうだ。

ともこ:
それって、すごい数なんじゃない?

いさどん:
すごくいるんだよ。ひとたびある星が強い光を発すると、その光が休止している星々に当たり、それがたくさんあるから雲のように見える。太陽の光が降りてきた時に、水蒸気の粒がたくさんあると、それに光が当たって雲に見えるでしょう。それと同じだよ。今突然、そんな風景が目の前に現れた。

大切なのは、どこまで思念をフリーにして広げられるかということだ。フリーになれば、思考は自動的に湧き出てくる。例えば目が自動焦点になっているように、焦点をぐっと絞って観る。それを意図してやるのではなく、瞬間瞬間のニーズに合わせて、自動的に焦点が絞られていく。だから、気付きは自動的に湧き出てくる。それは自分の頭であれやこれやと思考を回して出てくるようなものではないんだよ。
その気付きの自動焦点機能が働くようになるためには、どうしたらよいか。それには、自らの精神を研ぎ澄ませて、無我の状態でいるということだ。研ぎ澄ませて無我の状態でいるということは、緊張も一切ないということ。リラックスして自由自在な状態だ。その状態で、思考を巡らせてみる。

「人生」というと、地球上で人として生きるという意味だね。しかし「人存」というと、人として存在するという意味になる。それは、人生よりももっと永遠なるものとして存在し、スケールもずっと大きい。人間は今、80年まで寿命を延ばして人生というサイクルを持っているが、人存というサイクルは、それこそ星と同じように、何億年というスパンで存在する。それだけのスケールのサイクルを、人として存在する。

ともこ:
人生っていうと、そこには生死があるよね。人存には、死がない?

いさどん:
宇宙創成のプロセスは、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ・コ・ト」という数理で表すことができる。その始まりである「ヒ」から最終の「ト」までのプロセスを理解し、それらを統合して成り立つ存在が、ヒトだ。それが時代人(じだいびと)であり、時代主義(Eraism=エライズム)を生きる存在だよ。
英語には” humanism(ヒューマニズム)”という言葉があるでしょう。超自然的な存在よりも人間の理性や尊厳を重んじる人間中心主義のことで、その元になっているのはhuman(人間)だ。それに対して、人間が魂だけの状態になり、宇宙の始まりから終わりまでの仕組みをマスターした存在をヒトというのだから・・・・ヒトイズム!これはヒトイズムだよ!

やはり、世の中がここまで行き詰まってくると、人々に新たなフロンティアの夢を与えなければいけないね。新たなフロンティアとは宇宙時代にあり、それは次の時代を語れる人でなければ与えることはできない。
今、社会は欲の渦に巻き込まれて成り立っている。それは自制心でコントロールできるものではなく、どこかで振り切ることが必要だ。しかし、個人は既に、こんな社会はおかしいと感じ始めている。そして社会と一線を画しながら、それを止められずにいる。だから、社会よりも先に個人が目覚めていくだろう。

ともこ:
この世界の仕組みをマスターするのに、やっぱり星ではなくて、人としての形態をとる必要があるの?

いさどん:
ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。

昔、人々は天の星々を見て、今自分はどこにいるのか、季節はどのように巡っているのかを知っていた。まず、太陽を見る。次に月を見る。そして星を見る。命と天体が直結し、それによって自分たちが生かされていることを理解していた。それは思考を超えたものだ。人間の中にはそれを感受する受信機のようなものが内在していて、その時代にはそれがまだ生きていた。今は全て携帯などに置き換わってしまったけれどね。

ともこ:
カレンダーができて、時計ができて、そういうものを頼りに今の人間は生きている。だけどそれも元をたどれば、すべて天体をベースにして創られている。

いさどん:
だから、すべては星なんだよ。天体なんだよ。すべては天の意志だ。どうしてそんな当たり前のことを忘れてしまったのだろう。今もそれによって生かされているのに。
我々が天体の動きを感じるのは、目や耳などの五感で感じる程度のものだろう?それを眼耳鼻舌身意という五感+一感、つまり六感で解釈していくのだが、その奥に、それを統括しているものがある。その統括しているものが、受信機になっている。それが我々の体だ。体は全細胞の集合体であり、細胞の一つひとつが受信機だ。その受信機が星々と対話して、我々は生きている。それがヒトの本当の姿だよ。それなのに、そのことをまったく考えもしないのは、ある意味退化している。それを復活させるのが、目覚めるということなのだろう。それが時代人であり、ヒトなんだよ。

昔はそういった位置に行った者を聖人と呼んだ。するといつしか神格化されてしまい、仏像のように祭壇に祀られて崇められ、身近な存在ではなくなっていった。しかし本来、すべての人がその領域へ行く潜在能力を持っている。その時代が始まった。誰かを崇めるのではなく、日常会話の中でそれが語られたり、表現されていく時代だ。

人間は何か滞りに出会うと、それを不愉快なものだと捉え、滞りを避けようとする。しかし滞りを乗り越えた時、そこでは必ず一回り進化した新たな世界に出会う。つまり滞りとはとても大切なものであり、我々にはその滞りの正体を見極めるだけの余裕が必要なんだよ。
それには、0.5秒待てばいい。どういうことかと言うと、地球46億年の歴史を1年に例えると、イギリス産業革命が起きたおよそ250年前から現在までは、たったの2秒間だ。その2秒の間に人間社会は劇的な変化を遂げたが、それも宇宙の歴史からしたらほんの一瞬のことであり、時代は常に先へ先へと進みながら、確実に変化し続けている。そしてそれはひとつらなりの物語となって、永遠に続いていくんだよ。そういった大きな視点を持てずに自らの物理的寿命に囚われて何とか解決しようとすることは、とても気の短いことだとも言える。
そこで、0.5秒待てるかどうか。その余裕がなければ、宇宙の実体は観えてこない。

例えば、医者が病気について「今病気はこのように進んでいて、それをこういう風にすればこうなって良くなりますよ」と言うのは、科学的分析の結果の話であり、人間が理屈で理解して納得できる世界だろう。しかし、この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。

宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。
それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。

さて、それがこれからどのように世界に現れてくるのかが、楽しみだ。

 

 

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