「血液」からこの世界を探求していく~献血・輸血編~

タイから木の花ファミリーの暮らしのあり方を学びに来ている高校生のマインちゃんとナッちゃんに対して、身近な「食」を切り口として世界観を広げるプレゼンテーションが行われてきました。その最終回のプレゼンテーションが終わったところで、マインちゃんから献血について、いさどんに質問がありました。

 

マインちゃん:
日本では献血をしますか?

いさどん:
本来、一人ひとりの魂は独立したものです。ですから、一人ひとりの生命の性質を示す血液も、霊的には独立した存在です。つまり、親子兄弟といった血縁は関係なく、血液は独立したものと言えるのです。

たとえば体の臓器を移植することは可能ですが、マインちゃんの心とナッちゃんの心を混ぜることはできないでしょう?ですから、心臓という心の臓器は血液を通して栄養を運んでいるだけではなく、心も運び、わたしたちの体をひとつのネットワークとして束ねているのです。血液は、心の通り道ですからね。それは、太陽系の太陽磁場が星々を連携させ、束ねているのと同じ構造です。ですから本来、血液は交ぜてはいけないものなのです。

今は日本でも医療が進み、輸血をするようになりましたが、そういった行為は霊的には混乱をもたらすものです。ただ、近代的な技術を使って輸血をしても、血液もいずれ循環して変わっていくでしょう?たとえば血液がすべて入れ替わるのに4ヶ月かかると言われていますが、その間は霊的には混乱が生じるということです。ですから、血液はなるべく交ぜないほうがいいのです。

マインちゃん:
では、輸血をしないほうがいいということですか?

いさどん:
輸血をするということは、すでに輸血をしなければいけない状態に自分が人生の中で出会ったということです。そのような状態に出会わない人生を生きていくことが、大切なのです。そのために、美しい心で生きることのほうが大切ですね。

人は「死にたくない」という心があると、生きるために何でもしたくなるものです。しかし、覚悟があると、「いのちはいただいたものですから、わたしは充実した人生を生き、いつでもお返しできます」という心になり、輸血などに頼らなくても、寿命があればいのちは復活します。しかし、そういった心がなければ、ただ生きたいばかりですから、輸血でも何でも手段を選びません。その心は汚れたものです。

輸血の技術がないときには、人々は覚悟を持っていのちを返してきました。そういった意味では、今の人間の心が死に対して潔くなくなったのは、輸血に限らず、他の医療技術に対しても依存するようになったからです。それで、日々を真剣に生きなくなったのです。日々を真剣に生き、自らの心を磨いていれば、毎日が充実しているので、いつ死んでもいいという心になるものです。

科学やテクノロジーの進化が進み、人々の生活が豊かになっていくにしたがって、人々の心はそういった物理的な豊かさを求めることを優先してきました。そして、物事の本質を捉え、生きていることの意味を見失い、一方的に延命することだけを求めるようになりました。

本来、わたしたちが肉体をいただき生きていることの意味は、物理的なものに惑わされることなく、自らの霊的な意識の高まりを目指し、霊的な世界から生まれ霊的な世界へ還っていくことを悟り、そしてこの世界へ生み出された目的を達成することです。

ですから、現代人のようにそういったことを忘れ、物理的なことを優先する意識が強くなれば、社会にも混乱が生じるのです。

わたしたち生命は皆、いずれに死に至る約束のもとに生きています。ですから、死に到達するという絶対なる約束事のもとに、日々を生きていくことが大切なのです。

輸血をしないということは、いのちに対して覚悟がひとつ余分にあるということです。本来、人は肉体という物理的な存在ではなく、霊的な存在です。死んだ先の世界にいのちをつなげて捉えていれば、死は恐ろしいものではないのです。魂は一人ひとりオリジナルであると考えられます。以前、血液は汚れているものを回収してろ過する経路だという話をしましたね。血液は心の運び道ですから、他の血を取ると霊的にも血液は汚れていくのです。

近代医療のテクノロジーが優れていて、生きることに対して恩恵をもらえるとしたら、いのちが永らえるということです。しかしそれは、輸血によって他の霊的・物理的汚れを自分に取り入れることでもあるのです。僕は、そういった行為を否定しているのではありません。

大切なことは、そういった仕組みを知り、自らの心を綺麗にしていくことです。そして、生活も綺麗にして、血液を浄化していけば、常に美しい人で生きられるということです。

ワンちゃん:
今、タイでは献血のキャンペーンを行っています。それは、「献血によっていのちを助けましょう」という活動です。

いさどん:
それは、いのちの質や人生の質を問わず、ただ永らえることだけが大切だという現代医療の考え方です。ですから、そうした考え方が進めば進むほど、混乱した社会が広がっていくのです。

ワンちゃん:
今まで、献血は良いことだと思っていました。

いさどん:
それは、表面的ないのちの捉え方なのですよ。

それよりも、いのちに対して覚悟を持ち、潔く爽やかな人生を生きることは、その人の人生が健やかで、それこそ神人(天人)が地上を生きるというようなことにつながります。これは新たな時代を生きる人々の考え方です。

ワンちゃん:
タイで献血のキャンペーンを行うとき、「これは他の人たちのいのちを永らえるために、あなたが出来る最善の行為です」ということで広まっています。

いさどん:
それは、現代的な浅い医療の考え方です。それでは、問題事は根本的に解決せず、医療行為がどんどん広がっていくことになります。

ワンちゃん:
ただ、わたしは低血圧で献血ができません。だから、それを喜びとすべきですね。

いさどん:
あなたが低血圧だとしたら、それを喜びとする部分とそうでない部分があります。その低血圧はあなたの心の現れなのです。その状態を改善するためにまずは心の持ち方を改めると、食生活が変わり、生活が変わり、あなたは低血圧ではない健全な状態になるのです。ですから、低血圧であることは喜びにはつながりません。

ワンちゃん:
タイにも血圧を上げるような食養生プログラムがあります。

いさどん:
それは体の健康のためにやるのではなく、心のバランスを取るためにやるべきですね。健康は心のバランスの現れなのです。「健康になろう!」と思って取り組んだ結果、心が不健全なのに体だけ健康になったら、別の意味で人生に問題をもたらします。ですから、常に自分と向き合って生きることが大切です。いろいろな滞りは自らの心の実態を見せてくれているのですから、そこから逃げないことです。それはある意味、出家者の心構えのようですが、今、お坊さんたちでもそこまではやっていませんね(笑)。

ナッちゃん:
今、わたしたちの精神は健康ではありません。ですから、多くの人たちが異なる病気を抱え、不健康な状態でいます。そこで、どのようにしてその病気の原因を知り、どのようにその状態を改善していったらいいのでしょうか?

いさどん:
まず、人間の不健康は地球の病気です。それは社会が病んでいるとも言えます。病気になった人のことをかわいそうだと思いませんか?ところが実際は、病気になった人は世の中に問題をもたらしている人なのです。

世の中に問題があると、喜ぶ人がいるのです。生きることに不安な人がいると、喜ぶ人がいます。それは保険屋さんです。人が争うと、喜ぶ人がいます。それは弁護士です。裁判官も、人が争うことによって自らの仕事が充実します。人が欲深くなって不要なものまで欲しがるようになると、喜ぶ人がいます。それは物を作る人です。病人が増えると、喜ぶ人がいます。それは、その人たちによって支えられている製薬会社や医者です。ですから、この世界は、混乱や問題事で成り立っているのです。

ナッちゃん:
いさどんは、皆それぞれオリジナルな魂を持っていると言いましたが、科学は血液型をいくつかに分類しています。それはどういうことなのでしょうか?

いさどん:
血液型はとても大まかな人の性質の傾向を示していますが、それは環境、時代など一人ひとり様々な要因が違うので、同じ血液型の人でも厳密に言えば違う人なのです。心の臓器から送られる血液はいのちの通り道であり、血液自体はまさに霊的なものなのです。ですから、血液型でもその霊的なものが分類できるのです。輸血が始まった頃は、血液型の分類がない時代でしたから、そうしたことに構わず他人の血を入れていました。そこから科学によって血液が分析され、その違いがわかるようになり、一人ひとりがオリジナルな存在であることが観えてきたのです。ですから、最終的には血液は交ぜてはいけないというところに到達するのです。血液型で人格を観る場合も、大まかな傾向は観えますが、それを厳密に観ていくと、最終的には一人ひとりがオリジナルであることに行き着くのです。

今の医療は人のいのちを生かすことばかりを優先していますが、死ぬことの大切さがあるのです。長く生きてとても見苦しい人生よりも、短くても美しく素晴らしい人生がありますよね。人々が医療に頼って長生きしようと思うようになったのは、人々が自らと向き合わなくても、医療がいのちを救ってしまうようになってしまったからです。

大切なことは、病気に限らず、どのような問題事に出会ったときも、それに出会った自分を振り返り、その原因を突き止めることです。ある意味医療は、病気という自分が出会った問題事から振り返るチャンスを、人々から奪ってしまったのです。それは、医療自体が本来の目的から外れ、お金儲けのためにまわるようになってしまったからです。ですからその行為は、人間が生まれてきた目的を奪ってしまうようなことでもあるのです。

人間は生まれてからいろいろな出来事に出会い、その出来事から自らの実態を知って、そして高まっていくために生きています。そして高まった結果、執着を一切持たず、自らの霊的な価値を持って旅立っていくのです。それが生きることの本当の目的です。

そういったことがわかると、一人ひとりが生活の中で出会う出来事だけで学び、成長することができるのです。そうすると、宗教も指導者もいらなくなるのです。そういった時代の扉が今、開いたのです。

ナッちゃん:
今の学校に入る前、将来わたしは大学に進学して心理学を学ぼうと思っていました。それは、心理学者になって精神的な病を持つ人々を助けたいと思っていたからです。ですから、自分と向き合って自らを改善していくために、心理学ではふたつの方法で患者を助けることができます。ひとつは患者の問題をしっかり聴き、導く方法です。もうひとつは薬を処方して、たとえば夜眠れるように睡眠薬を、一般社会で普通に機能できるような薬を処方するという方法です。人気のある学部について調べてみると、以前は医学部、工学部、文学部、商業芸術学部などが人気がありましたが、現在は心理学部が人気があります。わたしが思うに、それは人々を助けるために心理学者になりたいのではなく、心理学者になると良い収入を得られるからです。

また、タイの国王は満ち足りた経済を提唱しようとしています。満ち足りた経済を理解するためには、まずどのような状態が満ち足りているのかを知ることだと言われています。それは、衣食住において足るを知るということです。しかし、わたしたちの教育センターに満ち足りた経済について学びに来る人々は、何が足りている状態なのかを理解する心の状態にはありません。彼らはただ欲が深く、お金儲けのために何かを学び、自給自足しようとしているのです。わたしはそういった状況に対して、嬉しくありません。

いさどん:
それは、あなたの中に時代を先取りした想いが湧いているということです。今、時代は欲ばかりかけて生きていると、必ず行き詰まるようになっています。今、拡大・発展の時代から、不要なものをそぎ落とし、必要なものだけを選ぶ時代に入りました。それは物理的なものだけではなく、心も同じ流れです。ですから、あなたが考えていることは次の時代のことなのです。そのままその考えを進めていけば、あなたは世の中が必要なことをやっていることがわかってきます。それは、木の花ファミリーが実践していることであり、心理学の先を行くことなのです。

あなたはこれから一生懸命英語を勉強して、来年の2月に開催される「1ヶ月間の真学校」を受けるといいですよ♪そうしたら、医療や心理学を超えた世界をマスターできます。また会いましょう♪

 

瑞々しい感性でたくさんのことを吸収したナッちゃんとマインちゃん。「1ヶ月間の真学校」で再会なるか!?
瑞々しい感性でたくさんのことを吸収したナッちゃんとマインちゃん。「1ヶ月間の真学校」で再会なるか!?

 


「血液」からこの世界を探求していく~宇宙の仕組み編~

タイの代替教育学校の高校生である、ナッちゃんとマインちゃん、そして先生のワンちゃんは5月27日より3ヶ月間、木の花ファミリーに滞在しています。世界観を広げるプログラムの一環として、身近にある「食」について深めていく時間が4回にわたって持たれました。その最終回では、「霊的な進化」というテーマから、この世界の「血液」について深く探求していく時間が持たれました。
(写真右より、ナッちゃん、マインちゃん、ワンちゃんです。)
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いさどん:
英語でも心臓のことを「心の臓器」とは言いますか?

ようこ:
心臓は英語でハート(heart)と言います。

いさどん:
ハートというのは心もハートですね?

ようこ:
英語では心も心臓も同じハートという単語が使われます。

いさどん:
同じなのですね。タイ語では心臓は何と言いますか?

ワンちゃん:
心は「チッウィンヤン」と言って、心臓は「ワチャイ」と言います。心臓の「ワチャイ」という言葉は心と関係しています。

いさどん:
ということは、日本語でもタイ語でも、心と心臓のどちらも、「心」が関係しているということですね。英語でもこの二つは共通しています。

心臓は臓器の中心という意味でもあり、それが体の隅々まで血液を送り体が運営されています。これは地球も太陽系も宇宙も同じ構造なのです。太陽系でいうと、太陽は心臓の役割をしています。ですから、太陽が何を発するかによって、その指令を受けて他の星たちがどう動くのが決まるのです。そのようにして太陽系は成り立っています。

わたしたちの体でも、例えば感情が高ぶれば心臓がドクドクしますね。ですから、わたしたちの感情が高ぶったり冷静であることによって、心臓に指令が行き、血液をどのように送るのかによって、わたしたちの行動が変わってくるのです。偏った食生活や偏った心によって血液を悪いものにし、心臓に負担をかけることは、その人の生命を汚染することであり、人生を間違った方向に持っていくことになるのです。

マインちゃん:
ワン先生が補足的に、「健康な暮らしをするためには、善意で平和な心である必要があります。怒ったり、イライラしたり、感情の起伏が激しくなると、健康もジェットコースターのように上がり下がりが激しくなり、それでは健康にはなれません」と説明してくれました。それを聞いてわたしは、頬をはたかれたような気分です・・・

いさどん:
体に負担をかけないために冷静に正しい食べ物を選び、そして感情的にならず冷静な心で常に正しく物事を判断できることが大切です。どちらにしても血液を汚すことは、血液を汚すような生活習慣をしている「心」に原因があるのです。血液を汚すことによって、他の臓器や体のいろいろな部分に問題が生じて不健康になっていき、最終的に人間は心臓が停止することによって死を判定されます。ですから、血液を汚さない美しい体、血液を汚さない美しい心、そして血液を汚さない美しい生活を心がけることが大切です。

人間の血液は生命そのものです。そしてそれが生命を循環させ、すべてのところへ平等に行き渡るようになっています。血液が汚れていたら、すべてのところへ汚れが行き渡ります。そして、血液の通り道である血管がどこかでつぶれていたら、そこから先は腐っていきます。

ナッちゃん:
とてもわかりやすい結論ですね!

いさどん:
実は、人間社会にも血液のように循環し、すべてを平等につないでいるものがあります。「人間社会の血液」は何だと思いますか?

ナッちゃん:
いさどんはとても良い質問をしますね!

いさどん:
ハッハッハ。

ナッちゃん:
社会ではわたしたちの行動やコミュニケーションによって、お互いに影響を与えています。社会のあるグループの人たちが幸せでなければ、その不幸せな波動を言葉や行動によって放ち、それが他のグループに伝わり、そうやって今の不幸せな社会を創っていると思います。それは、わたしたちの考え方や行動が原因です。ですから、わたしたちは悪い波動を社会に発しないように、意識的に思考し行動する必要があります。

いさどん:
それをわたしたちの体で例えるならば、血液が癖という自らの心を運び、それを表現しているのです。そうすると、人間社会はひとつの生き物ですよね。そこに平等に行き渡っている血液のような役割をしているものは何だと思いますか?

今、ナッちゃんが表現したのは、血液の汚れということです。そうした汚れや美しさを運んでいくものが、人間社会にはあるのです。それは、人間の心によって汚れたり美しいものになります。わたしたちの血液も、自らの心によって汚れたり美しくなったりするでしょう?

タイの3人:
(しばらく3人は考えました。)降参です!!

いさどん:
では、答えを言いましょうか(笑)。それは、「お金」です。

ワンちゃん:
わたしは、その答えは「自我」とも思っていました。

いさどん:
自我は、お金に乗っていくものです。本来、お金は皆に平等に行き渡る社会システムとして存在していますが、一箇所に貯まってしまって皆に行き渡らないお金もあります。わたしたちの体で血液が汚れると、腎臓や肝臓で洗浄しますね。同じように、犯罪や戦争に使われ、汚れたお金がこの世界にはあるのです。そうしたお金を綺麗にするのは、人の心です。

ナッちゃん:
なぜ人々がマネーロンダリング(資金洗浄)をするのかがわかります。

いさどん:
そうですね。では、次の話をします。「地球の血液」は何だと思いますか?地球の生命の循環のために最も重要なものは何だと思いますか?

ワンちゃん:
空気か水ですか?

マインちゃん:
わたしは水だと思います。

ナッちゃん:
わたしは自然の仕組みだと思います。

いさどん:
それは、「水」です。水が自然の仕組みを健全に運びます。それはわたしたちの体の血液と同じですね。

マインちゃん:
わたしたち人間一人ひとりが地球の細胞のような存在ですから、水がなければ地球も死滅しますし、まず、細胞であるわたしたちも死んでしまうのです。

いさどん:
それでは、自然生態系ネットワークも維持されませんね。水が汚染されたら、すべてのいのちに汚染が広がるのです。

ワンちゃん:
わたしたちの国王も、「水はいのちである」と同じことを言っています。

いさどん:
では、ネクストクエスチョン♪その地球の血液である水を循環させる、心臓の役割は何ですか?

ナッちゃん:
いさどんの質問がどんどん難しくなってきているので、集中して考えないと答えられません!大学受験のための国の一斉試験よりも難しいです!!

いさどん:
大切な質問ですから、真剣に考えてくださいね。これは、とても重要なことです。

ナッちゃん:
いさどん、ヒントをください!

いさどん:
それは、すべての生命に平等に与えられるものです。

ナッちゃん:
時間ですか?

マインちゃん:
土ですか??

いさどん:
土の前のものです。

マインちゃん:
微生物でしょう!

いさどん:
それは、そのものによって生命が循環し、育てられていくものです。
ヒントです!それは空から降ってきます。

ナッちゃん:
雨ですか?

いさどん:
雨もそれによってつくられています。それは、いのちにとって最も大切なものです。

マインちゃん:
魂ですか?

いさどん:
地球の血液が水であるならば、血液である水は循環するでしょう?わたしたちの体で血液を循環させるシステムは心臓ですね。では、地球の血液である水を循環させ、その心臓の役割をしているものは何ですか?それは、空から皆に平等に降ってくるものです。それは、いのちにとって最も大切なものであり、水より重要なものです。

ワンちゃん:
エネルギーですか?

いさどん:
エネルギーです。エネルギーですが、そのエネルギーの元のものです。

タイの3人:
わからない~(笑)!

いさどん:
ギブアップですか(笑)?それは聞いたら、「なるほど!」と思う答えですよ♪それは、すべての生命の元です。それは、太陽です。

ナッちゃん&マインちゃん:
あ~!(笑)

ワンちゃん:
でも、太陽は地面に落ちませんよね??

いさどん:
太陽の光が大地にあたり、太陽が水を循環させているのです。太陽の光自体が汚染されることはありません。その太陽の光を受けて循環する血液である水や空気、土が汚れるのです。わかりますか?

さて、次の質問があります!地球の血液が水であり、その心臓が太陽であるならば、「太陽系の血液」は何だと思いますか?

マインちゃん:
一生懸命考えてみます・・・

いさどん:
考えると難しいですよ。太陽系がどのような構造になっているか、想像してみてください。

マインちゃん:
星ですか?

いさどん:
それは、星を連携させ、循環させるものです。

ワンちゃん:
一つ一つの惑星の動きですか?

いさどん:
それを連携させ、創る元となるものです。皆さん、ギブアップですか(笑)?

マインちゃん:
わたしはギブアップします!

ナッちゃん:
磁場の力でしょうか?

いさどん:
そうです!それは、「磁場」です。太陽磁場が、太陽系を連携させ循環させているのです。それでは最後の質問です。「宇宙の血液」は何だと思いますか?

宇宙全体を束ねているのは、「スピリット」です。スピリットはある意味、精霊の巨大なものであり、魂の存在、つまり神のことです。

今日は、人間の体の血液から、人間社会の血液、地球の血液、太陽系の血液、そして宇宙の血液の話をしました。人間社会の血液はお金であり、地球の血液は水であり、太陽系の血液は磁場であり、そして宇宙の血液はスピリットです。

この世界と人体の関係
この世界と人体の関係

そのスケールが大きくなればなるほど、物理的なものは消えて、霊的なものだけになります。それがわたしたちの体のスケールまで小さくなると、密度が濃く、物理的なものになります。そしてそのスケールがさらに小さくなればなるほど、物理的なものは消えて、霊的なものだけになるのです。宇宙の最極小微粒子であるカに戻ると、現象としての存在はなくなります。

ということは、わたしたちの体の状態が一番心の状態を見やすく表してくれているということです。わたしたちの血液がどのような状態であるのかということは、まさにわたしたちの心の現われです。血液の汚れには、物理的な汚れと霊的な汚れがあるのです。社会の血液であるお金にも、物理的な汚れと霊的な汚れの両方があり、すべて同じ仕組みになっています。

ですから、心が綺麗な人は血液も綺麗であり、体も健康で、良い人生を生きることになるのです。

 

 


ポケモンGOに熱狂する人々がロシアのドーピングを批判できるのか

今、ロシアのドーピング問題が世界中で批判されている。そもそも、ロシアのドーピング問題というのは旧ソ連の時代からあった。その極めて極端な事例が旧東ドイツの事例だ。
東ドイツという人口も少なければ国力も弱い国が東欧の中にあり、優秀でプライドの高いドイツ人は国威発揚のために、ソ連の方針に沿い、スポーツを利用して国をまとめようとした。プロパガンダのひとつの手法としてスポーツ振興を図ったのだ。しかし今、東ドイツという国はなくなり、その実態が暴き出されて、いかにひどいドーピングが行われてきたのかが明らかになってきた。それは国威発揚のため、国策として行われていた。
その根本には、共産主義国の人々が自らのイデオロギーこそが優れているということを訴えたい、もしくは国家を存続させるために国民の結束を図るという国家的な意図があった。
90年代に陸上女子で一世を風靡した中国の馬軍団も、組織的なドーピングがあったことが告発された。女性が異常なまでの筋肉を持ち、大会に出れば出るほどメダルを獲得していくという時代が一時あったが、ある時にふっと消えてしまった。本当に純粋な指導力によって成績を残していたのであれば、そのような現象はあり得ないはずだ。
スポーツの世界であっても、国家的欲望の延長線上にルール違反を犯す。そこは問われなければならない。しかし、それは一種のトカゲのしっぽ切りのようなものだ。人々は表面的にものごとを捉え、誰かを悪者に仕立て上げて、批判している。ではなぜそれが起きたのかというと、その根本的な原因はもっと奥の深いところにある。今、西側諸国を中心に世界がロシアの行為を批判し、裁定を下しているが、検証すべきはその行為の奥にある、根本的な原因なのだ。

もともとオリンピックとは、アマチュア精神に基づくものだった。お金とは無関係のものであったはずだが、それがいつしか商業主義になってしまった。
例えばかつての東側諸国や北朝鮮のような国では、国威発揚のために良い成績を残した選手には、一生食うに困らないよう特別な配慮がなされる。では西側諸国はどうなのかと言うと、アメリカがその最たる事例だが、スポーツ選手がタレントになってしまった。そして異様なまでのお金を稼ぐようになった。そういった人々を周囲は持ち上げ、芸能界と同じように人気商売になってしまったのだ。
日本の相撲界でもそうだが、結局はお金が目的になっている。欲をくすぐり、お金を獲得しようとする欲望を満たすためのエネルギーが、スポーツの記録を上げている。お金に釣られているのだ。
相撲はもともと日本の国技として、神事であったが、今の力士の精神からは、そんなものは消えてしまった。相撲は厳しい稽古を究めなければ地位も上がらず、大きな怪我をすることもあり、その真剣さの中に神が降りることもあっただろう。しかし、今現在横綱に日本人がいないことも、今の相撲界の状態を表している一つの現象と言える。モンゴルの力士は出稼ぎに来ているようなもので、懸賞金が目的になっており、本来の国技としての、神事であることが忘れられたように見受けられる。

かつてヒトラーは、国威発揚のためにスポーツを利用した。スポーツで自国を応援するということは、そこに敵と味方を創るということだ。それを競わせて、自分の側が勝つことを国民の共通の喜びとしてきた。それはある意味、プロパガンダとして利用できる手法でもあった。
日本でも、日ごろから大して日の丸を大事にしていない人でもオリンピックの表彰台に日の丸が上がるととても喜ぶ。スポーツを通して競争心をくすぐり、それが高ずることによって対立を生み出してきたのだ。
国を率いるリーダーたちは、人が共通の目的の元に群がることによって、自分たちを正義とし、対象を悪とすることで国をまとめてきた。人は、自らに近いものを支持する。しかし本来、近いものも遠いものも一緒になって考えることによって、健全な世界を求めていかなければならないのだ。

スポーツをプロパガンダとして利用する要素は今も残ってもいるが、多くの人々にとっては、最終的にはお金を求める手段となってきている。スポーツ自体が、人々や地球社会に良いものをもたらすとは限らなくなってきているのだ。
現代は、優れた能力を与えられた人が、その能力を自らのためだけに使って異常なまでのお金を稼げるようになっているのだが、本来、そういった能力は天から与えられたものとして、世の中に貢献するためにあるものである。そういった精神を忘れてしまった今の世の中の仕組みは、物事の本質を忘れ、狂っている。スポーツの世界で言えば、勝ち上がることができるのは、たくさんいる中のほんの一握りどころか、ほんの一粒の人たちだ。それを子どもたちの夢だ何だと言って世の中が称賛し、そのほんの一粒をみんなが目指そうとする世界を創っている。その構造自体が、不正をしてまでも獲得したくなるようなものになっているのだ。
本来、優れた能力とは、自らの利益のために使うのではなく、社会に還元するためにある。しかし現代は、人間が個人の欲望を満たしていく時にそれを独占しようとする醜い心を持っており、その心によって生み出される現象が極みを迎えている。お金が目的の世界で起きることと、お金が目的ではない世界で起きることは、エネルギーの使い方が違う。しかし今では芸術すらも、絵がいくらで売れたかとか、曲がどれだけの人に買われたかというように、お金が目的になってしまった。本来、音楽を創るとは、ただ世の中にその曲を提供するということだけでいいはずなのだ。その結果、それにふさわしい生きる手段が得られれば、それ以上を求める必要はない。ところがそれが人気商売となり、異常なまでのお金が集まるようになった。与えられた能力を自らのために使い、自分だけが富を得ることが当たり前になり過ぎてしまったのだ。
そして多くのお金を得た人は有頂天となり、醜い姿になっていく。しかしマスコミはそういった人々を人格者のように捉え讃え、そのような社会現象を先導しているのが現状である。世の中の基準が根本的に狂っているのだ。世の中全体がそうなっていることに対して、その中に生きる人々はその矛盾に気付くことができないだろうが、そのような風潮がある限り、世の中が本当に平和で差のない、豊かな世界へと歩き出すことはできない。

みんなで豊かになろうと言っていた共産主義が崩壊し、資本主義が勝ったかのように思われていたが、資本主義とは、欲望を勝ち取った者が支配する世界だ。これはある意味下剋上であり、弱肉強食の世界だと言える。共産主義が衰退し、資本主義一辺倒の世の中になった今、その矛盾がピークに来ている。これがひっくり返らなければ、次の時代は訪れない。
今の社会は、いくら獲得しても、満たされないようにできている。ところが世の中は、獲得することを奨励している。そしてその矛盾から、格差が際限なく広がっていくことを先導していることにもなる。それは、何かを批判している人々が、実は自分たち自身がその批判しているものを創り出しているというカラクリを、まったく知らないからだ。自分たちで創り出しておきながら、その創り出したものを悪者にして、自らは正義の側に立ってごまかしているような、極めて複雑で歪んだ構造になってしまった。それは、自己中心的なものの観方をしていては、見抜くことはできない。

確かに共産主義国は、国威発揚という国策のもとにドーピングを行ったかもしれない。しかしそれは、お金を稼ぐためには何でもするという西側諸国の風潮が、同じように共産主義国の間にも広まり、ただ少し国の体制が違うために、国家レベルでそれを行ったのだとも言える。
それを西側諸国は、国レベルでやったからひどい問題だと批判しているが、では個人レベルならひどくないのかと言ったら、ドーピングはもともとアメリカが発祥のようなものであり、欲望を満たしたいがために隠れてルール違反をすることは、アメリカのスポーツの世界にもいくらでもあったのだ。それがオリンピックのようなアマチュア精神の場ではなく、お金を稼ぐためのプロの世界では、昔は問われなかった。今は問われるようになったかもしれないが、オリンピックのような場でない限り、そこまで厳しく問われることはない。

そもそも、異様なまでに体を鍛え、記録をどんどん伸ばしていく現代のスポーツのような世界は、本当に求められるべきことなのだろうか。それを追い求めることが果たして美しいことなのかということを、問わなければいけない時が来ている。
2012年12月21日の銀河の冬至というターニングポイントを越え、世の中の価値観がひっくり返る時代が始まった今、これまでのように特殊な物理的能力を持つ人々がもてはやされる社会の、奥に潜んでいた問題が、明らかになり始めている。
特別な能力を評価されることはいいだろう。しかしそれによって、異常なまでのお金を得るスポーツの世界ができあがった。東側諸国の人々は、そこまで物理的に豊かではなかった分だけ、個人の欲望に目覚めてくると、より顕著にそれが現れるようになった。国家のためというよりも、個人の欲望をくすぐることを国策として行ったのだ。それは西側諸国のモノカネ優先の価値観の延長線上にあったことであり、そこには、国策として個人の欲望をくすぐったのか、個人の欲望を野放しにしていたのかの違いがあるだけで、西側も東側も、人間の業の深さが国レベルで現れている。そして今や国家のリーダーたちでさえ、欲望にまみれて国の代表をやっている。
そのような世の中の傾向を観ると、やはりトカゲのしっぽ切りのように、ドーピングをやった人、或いはドーピングを国策として行った国だけが批判されているようでは、問題は根本的に解決しないことがわかる。スポーツ仲裁裁判所はロシアのリオデジャネイロ五輪出場を認めない裁定を下したが、それは病気の症状だけを押さえて根本的な原因を解決しようとしない現代医療の対処療法と同じだ。

現代の人々、特に芸能界や政治の世界では、人気取りが目的になっている。人気取りとは、真実を伝えるよりも大衆の支持を得るのが目的だということであり、真理の柱を世の中に立てていくということがない。自らが批判されるような言動は避け、常に差しさわりのない立ち位置で、他者を批判し、そしてそれを飯の種としている。つまりこれも、体制の側にいて、世間に媚びを売り、お金を得られる立場にいたいという心がベースになっているのだ。
世も末とは、こういった世界を言うのだろう。それに対し、ある意味天誅だとも思えるような出来事が、今世界中で起きている。解決しようにもできないテロの問題は、モノカネが目的ではないと訴える人々による命をかけた反発が、世界中に蔓延しているとも捉えられる。彼らを支持はしないが、こういった出来事を奥深くから検証しない限り、人類全体が進むべき方向をまったく見出せずにいることは確かだ。

現代社会には山ほどの矛盾があり、事例を挙げるのに何の苦労もいらない社会になってしまったが、その延長線上に、さらに滑稽なことに、ポケモンGOの大流行がある。
アメリカという国はもともと、ゲームのようなものが日本ほど熱狂的には流行らない国だった。それは個人主義で独創的な生き方を良しとする国民性があったからだが、その国で、ポケモンGOのようなゲームに没頭する人々が現れ始めた。それはアメリカの良い意味でのプライドが失われてきているということだが、金満主義が蔓延している社会はそれを経済効果として歓迎し、まったく批判しない。あのバーチャルなゲームの中で人々が揺れ動いている姿を、マスコミは微笑ましいものであるかのように報道し、日本人は日本の企業の製品がこんなに受けたのだと喜んでいる。
そして日本では、異常なまでに任天堂の株価が上がった。先日LINEが上場した時に異常な金額が投資されたのと同じように、ゲームが発売されただけで、莫大な額の欲のお金がそこに集まる。それがあたかも成功者を讃えるかのように報道され、それに没頭する者たちに対して何も危機感を感じていない。危機感があるとしたら、歩きスマホによる事故が懸念されるという程度のものだ。
これらのゲームは、スマホという既に世の中に浸透したものを利用しており、ゲームの権利を買うだけで使うことができる。既にあるものに寄生して、何も生産しなくても、何千億、時には何兆円というお金を稼ぐことができる。そういったものを微笑ましく報道し、その根本に何があるのかをチェックする目は、社会から完全に失われてしまっている。世も末というが、ここまで来るとあきれるより他はない。

それに対して、どこかでおかしいと思っている人々もいるはずだ。しかしマスコミも、社会全体も、国のトップの政治家すらもこの現象を歓迎するようなコメントをしている。世の中はいよいよ、逆さまの極みを迎えている。この現象がどこまで行くのかはわからないが、このような愚かなことにエネルギーを費やし、その結果地球環境に負荷をかけ、人間社会に歪みを発生させ、人々は苛立ち、最終的には対立を生み出している。テロが止まないことも、そういった社会の表れだろう。現代の対立とは、戦争のようなわかりやすい形だけではなく、社会の金満主義の中から生まれる格差や差別が、極みを迎えているということだ。
これは物理的に言えば、マイクロプラスチックが海に放たれて、一切回収できない状態になっているのと同じようなものと言える。それが今後どれほどの環境破壊や生命への危機をもたらすのかという深刻なものでありながら、取り返しのつかないほど蔓延してしまっているのと同じ現象だ。
人間の心の中にゲームがあのような形で広まっていくのも、ある意味、覚せい剤の依存症が広まっているのと同じことだと言える。それを経済効果だと言って、国のトップたちが微笑ましく眺め、マスコミも歓迎すべきこととして報道している。

僕が今こうして語っているのは、一つの視点から分析し、批判をしているのではなく、人類はここまでものが観えないところに陥ってしまったのかという、嘆きだ。
本来人間は、生命感というものを感じて生き、現実の世界の中にそれがあり続けることによって充実し、希望のある状態でなければならない。生命感を感じるとは、生きることが生命活動に直結し、常に意識が自然や社会の成り立ちとコミュニケーションを取りながら、生命が身近な生命を司るものと連携していることを実感して、充実している状態のことを言う。しかしポケモンGOは、バーチャルの極めつけの世界だ。そしてそれに取り込まれていることを、歓迎している社会がある。
そんな資本主義社会のバーチャルな金満世界に憧れて、共産主義的体質から生まれた国民性を持ちながら、資本主義的欲望の蔓延する社会の中で、人の生きるべき道を見失っている人々が、今、地球上に存在している。そのような中に生きる人々が、必死に豊かになろうと思い、そしてまた国をまとめようとしてドーピングまでやってしまったことを、そういった種をまき散らした側の人々が批判する資格があるのだろうか。
ロシアの愚かしさよりも、ポケモンGOにとりつかれている人々や、それでお金を儲けようと株式市場に群がる人々の方が、今の地球上に混乱をもたらしている罪は、はるかに大きい。覚せい剤を使用したり、野球賭博をやって追放された選手たちを責めている場合ではないということだ。そういった選手たちも、混乱する今の社会の犠牲者とも言えるのだ。

社会には金満主義が蔓延し、それを主導する人々が優秀で賢いとされている。大学の勉強でも何でも、いかに金を稼ぐかということに能力を使い、それを成し遂げた人間が優秀だということになる。こんなにおかしな世の中はない。本来の生命感を有する目で観れば、今の世の中は本当に異常だということが観えてくるはずである。
覚せい剤をこれだけ厳しく取り締まり、それを使用した人をバッシングしながら、自分たちはお金の麻薬漬けになっている。世の中が混乱の極みに来ているということだ。

 

Source of photo: @WSJJapan

 


2016参院選とイギリスEU離脱から時代を読む

今回の参院選では、投票者数を上げるために、18歳以上の若者たちにも選挙権が与えられた。投票前はそれが希望ある話のように捉えられていたが、結果として、まだそこまでの社会的意識が育っていない者たちに何を持って投票意欲を起こさせたのかと言ったら、損得勘定だ。

人間は損得勘定を持つと、意欲が生まれる。本来、意欲というのは、生命力から生まれてこなければならない。それは損得勘定とは違い、自らがこの世界に生まれてきて役割を果たすことの意味が見つかった時に湧き出してくるものだ。
最終的には、自らの生命を完全燃焼させ魂の成長が成された時に、本来の生命としての目的が達成されたかどうかという意味での損得勘定はあるが、生きている間の学びの材料である一つひとつの出来事に囚われて損得勘定をしているようなことでは、人間の創る社会が本来の目的を現せないのは当たり前のことだ。
しかし、欲望の漬物のようになってしまっている今の社会では、損得勘定ですべてが進んでいくのも仕方がない。そうすると、損得勘定が人々の意識の元にあり、その上に社会ができるという非常に貧しい世界ができる。

これは極めて重要なところを突いているのだが、さて、損得勘定が巨大に膨らんでしまった今の世の中で、人々はどこまでその損得勘定の魔の手から離れて目覚めることができるだろうか。現代の人々は、ものの本質を観ようとするのではなく、損得勘定だけで結論を出そうとしている。国民は経済成長を支持したと言うが、そもそも経済とは何であるのかという実態がわかっていない。支持をされる側も、これを言ったら支持されるだろうということが当たっただけのことで、やはり実態がわかっていない。

イギリスがEU離脱を宣言した理由の一つに、雇用の問題がある。豊かな国イギリスにEUという国の垣根を外した制度が入ったことで、イギリスに雇用を求めて貧しい国々の人々が流入し、それによって移民と仕事の内容がバッティングする一部の人たちが職業を奪われたと訴えている。それに対して、EUを離脱すれば5億人の市場を失うことになり、世界の金融センターとしてのイギリスの立場を失うことになると訴えている人たちがいる。
そこで多数決を取った結果、移民によって職を奪われていると主張する労働者階級が人数として勝り、そちらの意見が採択された。どちらの側も、自らの利益のための主張の延長線上にある。そうやって主張していることが自らの心の貧しさを表していることに気付き、振り上げた拳を下ろすということがない。
それでも形だけは民主主義だと言って、多数決の理論で自らの主張に支持を集めようとする。では民主主義が、民衆に正しい世の中をもたらすかというと、そうではないことはこれまでの結果を観れば明らかだ。それは今回の日本の参議院選挙でも、イギリスのEU離脱を問う国民投票でも、同じことが言える。損得勘定がベースの民主主義によって得たものが、後にしこりを生み、損得勘定の議論の上にまた議論が積み重なっていくということを延々と繰り返している。

EUの前身であるECは、第二次世界大戦のトラウマから始まったのだが、それも一種の損得勘定だ。本来トラウマではなく、学びから始めるべきだった。なぜあのようなことが起きたのかということを冷静に分析する学びから始めて、新しい時代の見本となるべきだったのに、「もうあんな体験は嫌だ」というトラウマ的反応からある意味パニックのようになって始まっているため、発展的ではない。人間は常に冷静な判断ができる意識状態にいなければならないが、損得勘定がひどくなるとパニック状態になり、正常な思考ができなくなる。その上に正義だの悪だのをいくら語っても、秩序ある世界を築くことはできないだろう。
そこをもう一度立ち返り、発展的にEUの在り方を考え直さない限り、イギリスのようにエゴの延長線上に自国の利益を主張してEUを離れる国が出る。国どころか、イギリス国民一人ひとりもそれぞれの立場から自らの損得を主張し、てんでバラバラの状態になっている。イギリス国内もバラバラ、EUもバラバラ、世界もバラバラの状態だ。
そこで日本は、深い洞察のもとに日本人はどうしていくかを考えるべきところに賢さがあると思うのだが、日本の国民もまた、世界の混乱が株や為替に影響していかに個人が損をするか得をするかということばかりに興味があり、日本全体のことすら考えていない。マスコミも、そういったことのみを国民に意識させるような情報ばかりを取り上げている。
中には、国民投票などをして国民に結論をゆだねたら、感情的な国民がよく考えないで決断してしまうのだから、大事なことは知識人に任せて国民はそれについていけばいいのだと言う人もいた。それでは民主主義の後退だろう。そうではない。一人ひとりが愚かだからこそ、一人ひとりが目覚めて国のことも地球全体のことも考えていく。その大調和への気付きこそが、次の時代を生む。そう捉えれば、この世界の混乱は次の地球をどうしていくかということのメッセージと取れる。

今、およそ250年前のイギリス産業革命から始まった物質至上主義の価値観に賞味期限が来て、いよいよ解体が始まった。冥王星が太陽を1周する248年のサイクルを経て、再びイギリスから、その変革の波が始まった。時代を宇宙視点で観れば、実に興味深い、有意義な時代を我々は生きている。
だからこそ我々は、この非常に面白い有意義な立場にいることを、自覚して生きていくべきなのだ。自覚とは、自らが目覚めると書く。目覚めるとは、新しいものに目覚めるのではなく、絶対に存在し揺るぎないものを、常に忘れずに生きていくということである。

 

Source of photo: www.youtube.com/watch?v=QsS4PDAgn9w

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7月16(土)〜18日(月/祝)
第10回大人サミット
「地球会議 in 木の花ファミリー」開催!

時代が大きな転換期を迎えている今、年齢、職業、国籍、宗教、ありとあらゆる枠を超えて、地球の未来を真剣に想う真の「大人」たちが集い、語らい、新たな時代の幕開けを発信する「第10回大人サミット」が木の花ファミリーにて開催されます。より良い未来を築こうとする意欲さえあれば、どなたでも参加OK!ブログで語られていることを現実の世界で実践し、人類史上に新たな1ページを刻むかけがえのない3日間を、ぜひ共に過ごしてみませんか。

第9回大人サミットより
第9回大人サミットより

*詳しくはこちら!
 → 第10回大人サミット開催のご案内

日帰り参加や部分参加も受け付けています。
ご関心をお持ちの方は、どうぞお気軽にご連絡ください!

 


イスラム教徒は何を伝えようとしている?~ダッカ人質テロ事件から時代を読む

バングラデシュで、日本人7人を含む28人が死亡するテロが起きた。マスコミでは多くの報道がなされていたが、この出来事の背景を観ようとする視点がどこにもない。ただ「テロは悪い」ということばかりがニュースから流れてくる。

バングラデシュの高学歴で裕福な若者たちが、なぜテロを起こすに至ったのか。
バングラデシュは新興国として今、著しく産業が発展していく過程にあり、これから中国に代わる発展途上国の代表的な国として、希望に燃えているはずだ。そこでこのようなテロが起きているということは、今のモノカネ重視の価値観に矛盾を感じ、キリスト教国に代表されるような現代社会の価値観に異議を唱えるイスラム教徒の存在があるとも捉えられる。
実行犯は、わざわざシリアやイラクへ行ってISに参加したのではなく、バングラデシュ国内の組織からの支援で犯行に及んだと言う。若者たちが自国にいながらインターネットで刺激を受けてテロリストになっていく事例は、アメリカやフランスでも起きている。それはなぜかと言うと、彼らはISに共鳴しているというよりも、自国の体制に不満があるのだ。

バングラデシュは今、目覚ましい経済発展を遂げているが、その中には必ず近代化していく社会にひずみがあり、貧富の格差も生まれている。若い世代の中には、そういったことを許さない純粋さがある。「黙って働いて金を稼ぎ、豊かに生きればいいのだ」という発想に対し、命をかけて金ではないのだということを訴えているとしたら、この金ばかりの世の中がおかしいのだという反感を持っている人間が今の世の中にはいるということだ。
ところが日本人は、なぜ日本がこんなに貢献しているのにテロリストの犠牲になって死ななければいけないのかという視点一辺倒になっている。ではその貢献とは何かというと、JICAの支援の下に企業に携わる人々がプロジェクトを組み、ダッカの交通網を整備して、経済を発展させることが目的だった。その背景にあるのは、個人は個人の、企業は企業の、国家は国家の利益を求める心だ。中には途上国を支援したいという純粋な想いもあるが、そうやって途上国を支援した結果どうなるのかと言ったら、今のアメリカやヨーロッパや日本のような国がもう一つ増えるということだ。
新しい世代の人たちは、もうそれでは駄目なのだということを理屈ではなく感じている。そういう人間があのような行動を起こしているということを、考えていかなければいけない。それは時代を感じるということだ。

彼らも、ISも、これまでの世界の矛盾を表現している。もしくはこれまでの時代の終焉を示していると捉えられる。そのように、時代の流れを感じ取りながら、ものごとをバランス良く平等に観ていくことが必要だ。
昔は、今よりもまだ双方を見るということをしていたはずだが、今は極端にテロだけが悪になっている。確かにテロを引き起こしている人々は問題だ。しかし逆に言えば、この社会という器の中でテロが起きているのだから、自分たちが構成している社会がそれを創り出しているのであり、誰もが自分のせいであるとして振り返らなければならない。そういった世界観が、現代社会に欠けている。テロを起こす側を一方的に悪として、自分たちを正義の側に置いている多くの人間たちの体質が問題なのであり、それが現代社会の様々な歪みを生み出しているのだが、そのことに気付いている人はほとんどいない。
だからこそ、バランスよく内外を観て、特に自らの内を先に観るということをしなければならない。すべてを一度リセットし、内外をなくして、人間とは何ぞやということを探求する必要がある。そこにこそ、次の時代への希望がある。

イスラム教徒の正義や真剣さは、どこから来るのだろうか。

現代のイスラム教徒は、キリスト教徒などに比べ、どちらかというと虐げられる立場にある。しかし、最初から差別があったわけではない。差別を受けているということは、結果としてそうなっているということであり、そこに至るようなそもそもの彼らの在り方があったからそうなっている。彼らが命までかけてやろうとしている、他と相いれない部分があるということだ。

何かを正しいとして固定してしまうと、それと相いれないものとの間で対立が起きる。もしも地球上に一つの価値観しかなく、すべての人が人間はこうあるべきだという共通認識の元に生きていたら、そこにはそれしか価値観がないのだから、正しいも正しくないもなくなる。ところが、現実には価値観はいくつもある。
しかし一方でまた、人間は実に単細胞であるとも言える。グローバル化だと言って、お金でほとんどのことが解決されるような一辺倒の価値観に世界中が染まってしまった。例えばライオンはアフリカだけに生息しているが、その中でも土地によってたてがみが多いものもいれば、少ないものもいる。雄が協力して狩りをするものもいれば、しないものもいる。その土地ごとの自然に合わせてそうなっている。それは天と共に生きているということだ。それに対して人間は、世界中がモノやカネを優先する価値観で単一化され、自然の中で大らかに暮らしていた遊牧民や先住民族たちもお金を欲しがるようになった。
その中で、イスラムの人々が命をかけてまで訴えようとしていることの原動力は何なのか。イスラム教にはジハードという概念がある。そもそも、生きるということの意味が違うのではないか。

彼らは信仰を一番にして生きている。物理的なものを最優先にするのではなく、生きる上での信条や意味を大切にしようとする。だから死をも覚悟している。彼らはそういったことに共鳴する魂たちであり、それが基準でスタートした者たちにとっては、それが当たり前なのだろう。
例えば、グチグチと被害妄想ばかり言っている人がいるとしよう。一般的な健康を基準にして見たら、そんなに愚痴ばかり言うのは間違っているよ、ということになる。しかし、グチグチ星や被害妄想星に住んでいる人にとってはそれが基準であり、それをベースにして生きているのだから、その通りに生きるのがその人らしいということになり、当たり前のことである。それを別の価値基準から見て「あなたは間違っている」とは言えないものだ。

今の社会に対して、イスラム教徒たちが、彼ら流の価値観で何かを訴えている。一口にイスラム教と言ってもいろいろあり、さほど過激ではない人々は、過激とされる人々と同じような思想は持ってはいても、それでは世界全体とうまくやっていけないからほどほどのところで妥協をしているところがある。妥協しない人たちは過激思想と言われ、彼らは自らの信条に則ってとことん社会をイスラム化しようとした。そこで、彼らの思想と相いれない、自分たちの価値観こそが絶対だと考えている者たちがいて、互いに相手が間違っているとして対立が生まれた。
そこには、どちらが社会的にメジャーなのかという違いがあるだけだ。イスラム教が世界の主流になったら、今のモノやカネや酒などに溺れている人々は、間違っていることになる。基準がどこにあるかによって、排除される側と排除する側が変わるだけだ。
例えば、キム・ジョンウンを世界の基準にし、外からの情報がなくなれば、それが当たり前の世界になる。違う秩序があるからあれが異質なものとされるだけで、それしかなくなればそれが秩序になる。

そういったことをすべて超えて、もう一度価値基準を組み換えられないだろうかと考えた時に、何を基準として取り入れるかと言ったら、自然の成り立ちだが、今の自然はずい分人間に汚染されておかしくなってしまったので、やはり宇宙の法則に沿うということだ。星と星との関係やその成り立ちを、もう一度地上に降ろす。
その昔、この世界には地球という意識はなかった。我が星という意識はなく、宇宙そのものだった。ところが、人類の歴史の中で「所有」という意識が発達してくると、「自分の星だ」という見方をするようになり、天動説のような世界観が生まれた。そのうちに、人間は世界を自らの都合のいいように捉えるようになり、自然も何も、すべて人間の都合のいいようになることが便利で豊かであるとされるようになっていった。それをもう一度本来のところへ立ち還らせなければ、今の人類は生きることの意味すら見失ったままになる。

今の日本では、介護殺人が社会現象化している。見えないところでは昔からあったのかもしれないが、今ほどではなかっただろう。少し前まではうつ病や自殺者やニート、引きこもりがいて当たり前の社会だったが、今度は介護殺人が社会現象化するという異常な状態になっている。
日常生活の中で、他者と円滑なコミュニケーションが取れて自己責任で生きている状態を正常とするならば、他者とのコミュニケーションが円滑ではない、もしくは円滑でないことを認識できていない状態というのがある。それは精神的に異常をきたしている場合もあれば、肉体的に異常をきたして他者に委ねなければいけない場合もあり、そういった状態の人を補助するのが介護だ。
本来、そのような状態では自然界では生きていけない。しかし人間は情が強く、補助をするようになった。ところが最初は愛情を持ってやっていても、コミュニケーションを取る意味がだんだん感じられなくなってくると、ただ義務的にやっているだけになり、そのうちに強制的にやらなければならない状態になって、苦痛になっていく。そして思考が極端に狭くなり、苦痛を排除しようとして突発的な行動に出たのが介護殺人だ。
社会には、対処療法的ではあるが、介護施設などの社会福祉が昔よりは遥かに充実している。そういった何も生産しない産業が発展し、それが経済効果となって社会がまわっている。しかし、社会の義務や豊かさの表れとしての福祉制度も、結局はそういったものを必要とする人々の面倒を見切れていないのが現状だ。

現代は、生きるということの意味がとても表面的になっており、生きることがすべてお金のためになっている。その結果、生きることの本質である生命の基軸が狂っているのだが、まだ誰もそれに気付いていない。人々はもっぱらお金があれば余裕ができて心が楽になるという幻想に囚われているが、今の世の中はどうしても豊かな人と貧しい人の差ができるようになっており、その矛盾のしわ寄せが必ず人間の性質のひずみとなって、社会に還元される。人間が心を病むと体の弱い部分に症状が現れるように、社会が病んでいることの症状が、弱いところに現れてくる。それは社会全体が病にかかっているということだ。
死とは、人生の終末のもっとも肝心なところだ。そこに介護殺人のような混乱が起きているということは、生きることそのものに混乱が起きている。

そこで、木の花で生きる年よりたちのことを考える。生きることに対する充実感という意味では、木の花で生きる年寄りたちは毎日やることがあって、それぞれにふさわしい役割を与えられその人らしく生き生きと過ごしており、年寄りという意識がない。そして個人的な欲に執着していない。先日ここを訪れたゲストが、「なぜここの人たちはこんなに穏やかな空気で生きているのか」と聞いてきた。彼は会社の経営者であり、毎日社員と仕事で顔を合わせているが、そこに見るチームワークや人々の人間関係には、そういった木の花のような空気は異質なものに感じられたようだ。そこで僕は「それはそうですよ。給料のために働いていませんから。だから、あなたの会社の社員にも、給料を払わなければいいんですよ」と答えた。
木の花の年寄りも、将来具合が悪くなったら若い人たちのサポートを受けるかもしれない。しかし、役割を与えられて生き甲斐を持って生きている人が、介護が必要な状態になるだろうかと考えると、それは先へ行って確認することだが、少なくともボケるような兆候は木の花のシルバーたちには一切見られない。そういった姿勢で毎日が過ごせる人々の人生に、介護の必要が極めて少ないことが当たり前に感じられる。そう考えた時に、僕は改めてこの生活の重要性を確信した。この生活にこそ、その隅々にまで新たな時代を迎えるための解決策がちりばめられていると再確認した。

現代の人々が平和だと認識し、守ろうとしているものは、歪んでいる。今の世の中を見て、それでは平和とは言えないだろう。ではいつ平和だったのかと考えると、人類の歴史上、平和な時などあっただろうか。
もしもあったとしたら、今の文明が始まる以前の、もっと原始的で自然のままに生きていた頃にはあったかもしれない。かもしれないと言うのは、価値基準があまりにも違い過ぎて想像できないのと、資料が十分ではないので、あくまでも仮定の話だということだ。そしてそれから時が進み、時代は対立と混乱の方向へと向かった。それはまさしく闇の時代へまっしぐらだったのだ。

イスラム教徒がいかに熱心に信仰をしていても、ある特定の境地を絶対としてしまうと、結局は対立の原因になる。何かを特定すれば、それとは別の何かを特定したものと相いれることができず、対立するのだ。
そこで、木の花ファミリーはイスラム教徒と同じように過激思想を持っているかというと、そうではない。ここでやっていることは、そういった特定のものから離れて、囚われの位置から自らを解放する宇宙視点を持ちましょうということだ。それはその境地に到達した者にとっては奇抜でも何でもなく、当たり前のことになる。それは、遥か昔はみんなそうだったということであり、気付けば今現在この瞬間がそうなのだから。

そこにいつ人類は気付くのだろうか。時代はすでに、社会の行き詰まりをもって次の時代へといざなっている。今の世の中、政治も経済も宗教も医療も教育も、矛盾のないところはない。
戦時中、マスコミはプロパガンダに利用されていた。今は、例えば日本のマスコミ関係者は、何ら罪の意識を感じることなく、自分たちは自由に報道をしていると思っているかもしれない。ところが実は極めて偏った、世界観の狭い報道をしている。そういったマスコミの報道姿勢の背景に、お金がすべての価値観がある。視聴率という数字の元に、お金に翻弄されている人々が支持する情報だけを報道することを繰り返すマスコミによって、世界が動いている。それはある意味、悪魔的現代社会の主役だ。マスコミに登場する人々は知識人であり、優れた人々であるという印象の上に、そういった社会的マインドコントロールが密かに進められているのが現状である。

今の過激思想として捉えられているイスラム教徒たちの訴えている世界は、お金ではない世界だ。彼らは命をかけている。しかし、お金ではない価値観であることすら、結局は対立の原因となっている。お金が基準となって混乱している世の中を間違っていると言って、お金よりももっと大事なものがあるということを命をかけてまでも訴えながら、さらに世の中を混乱させている。
それはある意味天のメッセージではあるが、ではあのやり方でこの世界に秩序をもたらし、新たな時代が来るだろうかと考えると、仮にそうなったとして、それが正しいと世界の価値観が統一されれば、それはそれでそのような世界が現れてくるのだろう。しかし現実には、これほど地球全体がモノカネ優先の価値観に汚染され、そういったマインドコントロールにはまっている人々が膨大に存在する現代の社会を、すべてイスラムの価値観に染めようとすれば、そこには大変な破壊や混乱、痛みが発生することになる。だから、そうはならないだろう。

やはり、そういった特定の価値基準を超えた、新しい秩序が必要だ。それが自然の姿であり、宇宙視点だ。我々は宇宙人であるという認識を持ち、外側の視点から、自らの立ち位置を捉え直す必要がある。それは、自らの外にある大きな価値基準と、日常の自分の中にある個人の意識とが一致しているということだ。
これは僕の考えではなく、時代が人類をそのようにいざなっている。いつの時代にも、時代の転換期には新たな価値観のメッセンジャーが現れる。それは古い価値観を破壊するためのメッセンジャーであったり、新たな秩序を示すためのメッセンジャーであったり様々だが、今はまさにその転換期に来ていることの証として、そういった役割を果たすためのメッセージを持った人々が現れてきている。

木の花ファミリーは22年前に、この生き方の目的が何であるのかわからないまま、スタートした。世の中のコミュニティの多くは、こういう場所を創りたいという自らの理想が先にあり、その願望を叶えるために立ち上がった。しかし、我々には願望も何もなかった。ただその現場を生き、未熟なら失敗をして、その時々に出会うことに対処しながら変化してきた。それは確実に体験を活かし、確信に変換する歩みだった。
自らの願望を叶えようとして進めば、それが叶った分だけさらに自らの願望に囚われていくことになる。そして自分のやっていることが正しいと思うようになり、他者と共に世界を築いていくことができず、結果的にそういった人々は、調和的な世界を創ることができない。
他者と共に築いていくということを実際にやったことのない人間は、自らの姿勢が具体的にどんな現実をもたらすかということを体験していないため、頭の中だけでそれを考え、それこそ単なる創作のようなバーチャルな世界で理想を追い求め、実体の伴わないことを語っていくことになる。しかし、現代社会のように言っていることとやっていることのギャップが多くても成り立つ社会構造の中では、バーチャルなことを語っていても評価される。そうして評価されることによって自らが正しいと思い込んでいることが多いのだが、そういった人々こそ、多くの人と共に生きる現場に実際に立ち、他者との関わりの中で自らの性質がどんなことを引き起こし、結果、どのようなことと対面するのかを体験し、自身の人間性の実態を思い知る必要がある。そうでなければ、何も現実にはやらないまま、表面的な支持を得て自らが正しいと思い続けることになり、そのような人々の姿勢こそが、今の行き詰った社会を創ってきたのだ。

生きるということを、人間の側からのご都合主義で実現していくと、それは人工の世界のオンパレードになる。生きるとは、宇宙の法のもとに生かされているという現実を理解することが、本来の順序だ。
実は人間には、宇宙の構造や、宇宙そのものとしての自分自身の在り方がすべて、自らの内に情報として眠っている。我々がエゴという囚われを手放し、大いなる宇宙の法のもとに自らの意識を解き放った時、これまでの物理的発展を支えてきた二次元的発想の時代から、いよいよ三次元的時代への進化が始まる。
それは、これまでのような善悪や損得、我良しの発想で捉えていては、とても解釈できない世界だ。我々はすでに三次元的脳を持っているが、発想が二次元的であり、二元的損得勘定に囚われているため、脳の三次元的解析能力を活かすことができていない。もしくは、そこの部分が退化している。そこで、その二元的損得勘定を離れ、自我を超えた発想ができるようになると、極めて奇抜な発想が生まれてくるようになり、地球上にいながらにして宇宙の実体が瞬時に理解できるようになる。
その進化を前にして、人類のこれまでの二元的発想が、すべての面において行き詰まりを見せていることは、現代社会に起きている様々なことを冷静に分析すれば明快なのである。従って、人類の内面の精神構造にメスを入れ、その発想の転換をすることが、現代の行き詰まりの突破口を開くことになるのだ。

どの切り口からも全てひっくり返らなければいけない時が来ている。現代社会につながる文明的価値観がすべてひっくり返る時が来ている。そのためには、まず一番に、自分自身を例外としてはいけない。誰もが、自分自身を例外としないで取り組んでいく必要がある。
これは明らかに時代の転換点だ。今までの価値観が終末を迎えている。実は宇宙的には完全にそれを超えて、次の時代に入っているのだが、地上はまだ闇のピークを越えたばかりで、徐々にそれが明らかになって来ている。
イスラムの問題からも、イギリスのEU離脱からも、アメリカ大統領選からも、世界中で暴き出されている政治的社会的不正からも、そして介護殺人からも、現代社会の人類の営みのすべてから、時代が我々を新たなステージへといざなおうとしていることが観える。

 

Source of photo: jp.sputniknews.com/

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7月16(土)〜18日(月/祝)
第10回大人サミット
「地球会議 in 木の花ファミリー」開催!

時代が大きな転換期を迎えている今、年齢、職業、国籍、宗教、ありとあらゆる枠を超えて、地球の未来を真剣に想う真の「大人」たちが集い、語らい、新たな時代の幕開けを発信する「第10回大人サミット」が木の花ファミリーにて開催されます。より良い未来を築こうとする意欲さえあれば、どなたでも参加OK!ブログで語られていることを現実の世界で実践し、人類史上に新たな1ページを刻むかけがえのない3日間を、ぜひ共に過ごしてみませんか。

第9回大人サミットより
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