宇宙が何ものであるかを知るために

この世界は、性質の異なる二つのものが向き合い、共同作業をし、ひとつのものを成立させる「対向発生」によって成り立っている。例えば、原子は原子核と電子で対向発生している。上があれば下があるように、男がいれば女がいるように、個人がいれば社会があるように、必ず相反する存在が互いを成立させる対向発生の原理により、この世界は成り立っている。

ところが、現代は個人が強くなりすぎて、対向発生をしなくなった。自らの存在が他の存在によって支えられていることがわからなくなり、個人のことばかり優先して考えるようになった。そして、家庭が孤立し、個人が孤立するといった現象が起きるようになってしまった。これは、人間が「自我」という自らの我を優先するようになった結果だ。他者によって自らが生かされていることを忘れ、助け合うということをしなくなった。
現代は、若い人が子どもを作らなくなり、少子高齢化が進んでいる。個人の自我が強くなり、自分のために生きるようになった高齢者たちが、医療にすがって長生きをするようになり、そのニーズに乗り、医療は一大産業となった。若い人々は、そのような不健全な社会の中で生きることが嫌になっている。生きることが嫌だということは、子孫を残す希望が持てないということでもある。生きることに意欲があると、子孫を残す。しかし、生きることへの意欲を失った現代の人々は、子どもを作らない。結婚もしない。その背景にあるのは、この世界に命をもたらす対向発生の神聖なる仕組みであるはずの性が、ただエロいだけの卑しいものとして行われてきたということ。その結果が、現在の現象をもたらしたのだろう。これがすべての間違いの元である。生命の発生原理である性が歪められたことで、世の中のすべてが歪むこととなった。

現代物理学は、物質が発生する時、そこには必ず、その物質を存在させるための「反物質」が発生すると言う(対向発生)。面白いことに、その反物質の存在は、確認できていない。そして、物質が再び反物質と出合うと、光となって消えると言う。ということは、すべての大本は光だということ。光から発生して物質と反物質になり、その分かたれたものが再び出合うと、光になって消える。とても興味深いこと。そこに行き着いた物理学は今、行き詰まりを迎えている。
物質に対し、反物質という存在がある。それは、現象界(ある世界)に対する潜象界(ない世界)を紐解くカタカムナ物理学では説明がつく。しかし、科学者たちは見えないものを否定する。現代の科学は、「ない世界」どころか「見えない世界」をも否定するから、限界を迎えている。
物質と反物質が同時に発生するということは、必ず相反するものの対向発生によって世界が成り立っているということ。そうすると、「ある世界」に対して「ない世界」があるという理論を持たなければ、この行き詰まりは突破できない。物質世界に存在する我々は、物質は「ある」ものだから、「ある」ものだけを肯定する。だからその先に進むことができない。

現代物理学は行き詰まっていると言うが、もともと物理学は行き詰まっていた。物理学は、この世界をひとつの世界と捉えている。しかし、我々が知っているこの宇宙をAとしたら、それと対向発生するBという宇宙があるはずだ。世界が対向発生によって成り立っているとしたら、Bという宇宙があるから、我々のAという宇宙があるという理論だ。
そこで、我々のA宇宙が何ものであるかをわかるためには、B宇宙へ行き、そこからA宇宙を見る必要がある。光の中にいては光は見えず、闇から光を見て初めて光が何であるのかがわかるように、或いは、低い所にいるだけでは低いということがわからず、高い所から低い所を見て初めて低いとはどういうことかがわかるように、その存在を本当に理解するためには、必ずそれと対向する存在へ行って見る必要がある。
しかし現代の科学は、物理的な発想のみで宇宙を探索するため、A宇宙全体からすると塵のように微小な太陽系の観測すら、まだまともにできていない。現代科学が考え得る最速の乗り物は、秒速30万㎞で進む光子ロケットだ。しかし、我々が存在する天の川銀河の直径は10万光年と言われており、光子ロケットをもってしても、銀河の端から端までを観測するのに10万年かかる。そして、宇宙には約2兆個の銀河が存在すると言い(誰が数えたのか)、銀河から銀河へ行くのは更に遠い。
光子ロケットは、現実にはまだ作られていない。しかし、我々は光を基軸にして生きるものだから、光を超える、もしくは光と同じ速度で飛ぶということは、時間が止まることになる。時間が止まった世界で我々が存在できるかというと、存在できない。ということは、光子ロケットは実現不可能だということになる。つまり、物理的探査では、我々はこのAという宇宙を観測し、理解することはできない。ましてや、Bの宇宙へ行くことはできない。即ち、我々物質人間は、この宇宙が何であるかを観測し、理解することはできないところに至る。これが現代物理学の限界だ。

物理学者たちは、形あるものだけを見ているから、宇宙を解明することができない。しかし、カタカムナ理論は、現代の物理的理論を超える。それは、人間には「思念」があるということ。
思念は光より早く、それはアマハヤミと言い、光の速度の10の64乗倍で宇宙を駆け巡ると、カタカムナ理論は言う。人間は思念を走らせ、宇宙を瞬時にして観測することができる。つまり、物質を超える能力を人間は持っており、その能力を発達させることで、この無限なる宇宙がどのようなものであるのかを解明することができると言う。
その視点に立った時、近代物理学は、物質物理学を超えることが、初めてできる。

 


アメノミナカヌシからの言葉

意識を中空上に向け、日頃のあなたの思考の位置から離れることをまず勧めます。
そのように意識を頭上に持ち上げることが出来れば、自らの日頃の生き方、姿勢を俯瞰してみることが出来るのです。
さらに意識を上空に持ち上げることが出来るなら、あなたは、この生命の星である地球を俯瞰してみることが出来るのです。
その誘導についてこられるなら、さらに天空に向かい意識を上げ、そして自らの存在を天空に向かい発信する、つまり、自らの存在を認識していただくことをお願いすれば、宇宙の根本、我々の銀河生命としての大本に、あなたの意志が届くことになります。

それは、自らの中から湧き出す自我や欲望から生まれる低くて狭いものであっては出来ないことであります。日頃の思考の回路に気づき、目覚め、コントロールすることにより、それを繰り返し、繰り返し、反復し、身に付けたとき、この手法はあなたの中に確信となり、手ごたえのあるものとして芽生えてくるものです。

そのような精神状態になれば、内からの閃きと天より降りる直感により、あなたは常に人間としての意識を超えた宇宙意識となることが可能となります。この人間の可能性はどの人の肉体にも精神にも種となり有するものであり、このことが人々に理解されたとき、時代は次の時代の幕開けを宣言し、人間社会の矛盾はたちどころに消えてゆくことになります。

今のような物理的解決をもって矛盾の解消に奔走すればするほど、それは報いとしての現象に翻弄され、益々ことはむずかしくなるばかりになります。そのことよくよく自らに戒め、根本的な解決、つまり意識の大転換をしなければならない事を、戒め、戒め、戒めて下さることを願うものであります。

これは、時代の扉が開く証として、人間の作る社会の改革と、今まで人間がもたらしてきた矛盾、汚染、そういった汚れを物理的に解消するための最も大事な第一歩である事を、くれぐれも肝に銘じてことを進めるべきであるという事であります。心構えの心の位置が下にあるのではなく、横にあるのではなく、真実の真心になければならないということであります。

くれぐれもよろしくお願いします。そもそも、このような悟りは誰かが語らなくとも、人が真実に目覚めるための目が開きだしさえすれば、一人ひとりの中にそのメが出るのであります。そのメ、全ての始まりのメをアメと言います。そのメの中心に、柱としてしっかりと不動のものが下りたときに、それは全ての命の原点、ミコトの柱となり、そのものも正しく祭りを地上で行うものとなるのです。

この柱のことをアメノミナカヌシと申します。それが地上に降り、そのメがこの無限の大循環の中で自らの役割に目覚め大いなる役割を果たすとともに、その生命の尊さを自由自在に表現したとき、命が地上に無限に生まれ、大循環の仕組みが地上に流れ、螺旋となり、無限に連鎖します。それをクニノトコタチノミコトと申します。

わたしたちは、宇宙の大いなる柱であるアメノミナカヌシノオオカミのもとに、クニノトコタチノミコトの分身分霊として存在するという事であります。さすれば、一人ひとり自らの価値がいかに尊い者であるかという事が自覚され、自ずとこの宇宙大循環の法則から外れるような行いはしなくなるものです。

つまり、この世を良くし、理想郷を築こうとする者は、形を先に考えるのではなく、この宇宙創造の仕組みに則った相応しい精神を体得するだけで、自ずとそれに相応しいものとして目覚め、それがこの世界に桃源郷を現す事につながるのであります。

これは個々の自我が行うものではないのです。私たち一つひとつの生命が、その大いなる物理性、霊性により成り立っている事の真実につながる分析であり、ただただその目覚めの位置に、自らの悟りの位置を求めるのが大切であるという話なのであります。全てはその法則のもとにあり、我々は学びを深め、そして大いなる法則がわたしたちを良き方向に導いてくれている事を悟る事なのです。

 


希望の風を世界へ吹かせましょう

昨日、2020年12月13日の13時より、木の花ファミリーでは、メキシコの太陽マヤ族が主催する世界的イベント「人類昇天の世界宣言」のオープニングとして、「希望の風セレモニー」を行いました。
このイベントは、すべての人類の精神を解放し、誰もが豊かさと尊厳をもって幸福に生きられる世界を築こうというイベントの趣旨に共鳴した世界各地の人々が、それぞれの地で人類の精神の解放を祈る儀式等をリレーのように行っていくもので、「日出ずる国・日本」の木の花ファミリーはその第一番目として、オープニングセレモニーを担いました。奇しくも、2020年12月22日より、宇宙的には「風の時代」が始まると言われ、セレモニーの名は「希望の風セレモニー」となりました。(セレモニーの詳細はページ下部をご覧ください。)

以下は、セレモニー冒頭のジイジのお話です


 

希望の風を世界へ吹かせましょう

「希望の風セレモニー」オープニングより

2020年12月13日、日本時間13時をもちまして、地球人類の目覚めのための「希望の風セレモニー」が始まりました。

私たち人類はその叡智により、これまでにたくさんの文明を築き、大きな影響力をこの地球上に示してきました。このような高度な文明を築いた星を、私たち人類は今、宇宙観測によって他に確認することはできません。これから先の未来においても、このような文明を築いている星に人類が出会うことはないかもしれません。私たち人類が繁栄しているこの類まれなる星は、宇宙の中でも特別な状態になっています。それは、今周りを見渡してもわかるように、生命の星であるということです。

地球上にこのようにたくさんの生命が無限に展開することは、宇宙の奇跡です。そしてこの生命の特徴は、互いに調和し、協同し、地球というひとつの生命をみんなで表現することです。宇宙が善なる愛なる調和で表現されているように、地球の生命生態系も、大調和でなければ成り立たない表現なのです。この美しい生命の大循環が地球上に広がり、これから未来を歩んでいこうとしています。

しかしながら近年、私たち人類の営みによってこの大循環が壊され、汚染され、私たちが創る社会に暗い影を落としているのも事実です。今世界中に蔓延する新型コロナウィルスも、温暖化による自然災害の多発も、私たち人類がその叡智を使い、豊かな暮らしをしようとした結果起きていることです。なぜ豊かで幸せに暮らそうとした結果、このようなことが起きているのでしょうか。それは、私たち人類が他の生命のことを忘れ、大調和の精神を忘れているからです。

この現象は、近年に限ったことではありません。地球上に人類の叡智による文明が発生してから、6500年になると言います。私たち人類の側から見れば、それは発展であり、希望でもあったのです。しかしながら、その文明が現在に至った結果もたらす現象は、地球全体の生命に暗い影を落としていると言えます。

私たちは今、何をしなければいけないのか。新たな希望を見出すために、何をするべきか。

私たち生命の本質は、自分である前に、全体のために存在しているということです。国家は、その国を構成する人々の調和の上に成り立ちます。そして人類は、他の生命が健康で健やかであるよう、大循環の世界を表現するために存在しています。その心の根底にあるのは、他者を思うことです。そしてつながるということです。その精神が調和を生み、平和な世界を築きます。

その心の大本はどこにあるのかというと、大宇宙にあります。現在のように資源を奪い合い、争い、格差を生み出すような時代から、宇宙の星々が織りなす美しく無限なる調和の世界、そして地球生命が織りなす美しい生命世界のように、私たちは今、その精神に目覚めるべきなのです。

それは、簡単なことです。自らを大きく捉え、他者を自分自身だと思うのです。私たちは地球であること。そして宇宙にいること。そのことを自らの中に目覚めさせれば、今の社会の矛盾を解決するのは、いとも簡単なことです。

今はまだ、多くの人々はそのことに気付いていません。しかしまた、そこに気付き始めた人々が今、地球上にたくさん現れてきています。私たちは日本の富士山の地より、その始まりの宣言をします。そして希望の風を吹かせます。この風のウェーブは、地球を回り、この星全体を調和の響きで包みます。それは、努力をしなくてもいいのです。一人ひとりが人間の本当の姿、地球の真実の姿、それを思うだけで、その思いが人から人へつながり、響き渡り、地球を包むことでしょう。

これまでそれができずにいたのが、なぜこれからはできるようになるのでしょうか。それは、この2020年の12の月をもって、新しい風、宇宙の風が吹き始めるからです。その始まりのセレモニーに、こうして皆と共にその意識を持ち、この場に立てることをとても喜びに思います。この小さな響きは、いずれ地球全体を包むでしょう。そしてこの奇跡の星地球を、本当に美しい世界にしてくれることでしょう。その役割を担えるのは、地球生命の中で最も高い能力を持ち、最も尊い、私たち人類の目覚めなのです。

本日、12月13日13時をもって、その始まりのセレモニーを日本の富士山の地よりお届けします。人類の目覚めのための希望の風を、世界へ吹かせましょう。そして、地球全体に広げましょう。ありがとうございました。

 


 

セレモニーでは、木の花楽団の新曲「希望の風」が歌われました。

 

希望の風

暗い宇宙の 水平線に
かすかな光が 広がり始めている
どんな時代が 始まるのだろう
重い扉が今 ゆっくりと開いてゆく

希望を失った人々よ
絶望の淵から光へ向かおう
不安と恐れの向こうへ
忘れた羽を取り戻して
今羽ばたいてゆこう

未来があなたを 呼んでいる
失った希望が ここにあると
本当は誰でも そのことを知っている
今ここから 歩き始めよう

暗い宇宙に 広がる叡智
何故人々は 知ることが出来ないの
どんな暗闇が 心を覆っても
扉を開けば 光は流れて来る

希望を見出した人々よ
真実の道を歩み始めよう
不安とおそれを乗り越えて
今羽ばたき始めれば
星々のエールが聞こえる

未来があなたを 呼んでいる
この道をまっすぐに 行けばいいと
天と地をつなぐために生まれた者たちよ
手を取り合って 共に行こう

愛を知るために 憎しみがある
光を知るために 暗闇がある
闇に秘められた たくさんの想いを
手放すと決めるのは あなたの意志(こころ)

今やっと 新しい風が吹いてきた
みんなの心を つなぐために
希望の風がみんなを つないでゆけば
世界に奇跡が 起こるだろう

全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある

 

*セレモニーの一部始終の動画を、フェイスブックのライブストリームにてご覧いただけます。

動画を見る

 


カルマよ、ありがとう。私は次のステージへ行きます。

これは、自我が生み出すカルマに翻弄され自らを見失っている人々へ、そのカルマを階段とし、新たなステージへ進むためのヒントとなるお話です。

まず、自我とは何かについてお話ししましょう。

遥か昔、神様(宇宙根源法則の成立)は完全なる自らの体を分けられ、その後、多種多様な生命をこの世界に生み出しました。そして、一つでは不完全な数多の生命が、互いにつながり、ひとつらなりの命となって生命の大循環を引き起こすことで、神様はそこに完全なる自らの姿を映しました。それは全てが神の意思のままに循環し、決して外れることのない、完璧な秩序の下にある美しい世界です。しかしその完璧な世界では、一つひとつの生命はただその一部としての機能を果たすだけで、全体を捉えて認識する能力のあるものがいませんでした。

世界は、認識するものがいて初めて意味がある。
認識するものがいなければ、そこにある意味もない。

認識をするためには、そこから独立した意識を持ち、全体を俯瞰できる能力が必要です。そこで神様は、人間を地上に降ろしました。そして、この世界から自らを切り離して捉える自己認識能力、即ち、自我を与えたのです。
しかし人間はその能力ゆえに、物理的にはこの世界の構成物のひとつであるにもかかわらず、意識だけがそこから分離し、世界を自らの思い通りにできるかのような錯覚を持ち始めました。物理的には世界の成り立ちの中にあり、世界とつながっている状態でありながら、意識だけが世界と連携しないのです。そして世界の実体とは関係なく、思考だけを膨らませるようになりました。物事を進める時に、まだ起きてもいないことを想像して心配している人がいるように、現実を見ることを怠り、実体とはかけ離れたところまで自らの思考を膨らませてしまうのです。しかし本来、エコノミーとエコロジー、即ち経済と自然が常に連携しているべきものであるように、思考と現実も、常に連結してあるべきものなのです。
冷静に物事を観れば、省エネになります。出来事に対して過剰に驚いたり、自らの体験を重ねて感情的になったりすると、余分なエネルギーを使うことになり、その過剰な表現の分だけ余分な行動や現象を起こします。それが現代の経済を膨らませ、自然のキャパを超えた人間の活動が際限なく広がっていることを、直視しなければなりません。それは世界の実体に沿っているのではなく、実体から離れた思考を膨らませ、その自らのつくり出したものに反応しているに過ぎないのです。それは人間の枠の中のことだけであり、今や自然界の生態系のキャパを超えたものとなっています。人間の行いが多くの矛盾を生み出し、未来に暗い影を落としている今、これからの人々は、もっと正しく自らの行いを直視していく必要があるのです。

思考を膨らませるのは、世界の実体から離れ、全体を俯瞰して観ることができる能力にもつながります。それは本来、この世界を解明するための能力として与えられたものです。さらに、私たち人間は、思考の奥に思念というものを持ち合わせています。では、思考と思念の違いとは何でしょうか。

思考は、自我から生まれるものです。それは、思い、考えるものであり、自我が巡ることにより膨らみ、形成されていくものです。
これに対し、思念とは、私たちが生命である人として成立する上での原点にある真我から湧き出すものです。それは、大本のひとつから分かれ単独で肉体を与えられた私たち人間が、その大本のことを忘れないための、私たちの中に内在するチャンネルのことです。それは自我によって思い巡らせるものではなく、宇宙を運営する大本の源泉へ思いを発することで、自らの内から湧き出してくるものであり、それによって私たちはその源泉へアクセスすることが可能となるのです。
そこへつながると、宇宙の根本秩序が常にもたらされ、それが柱となり、自我に翻弄されることはなくなります。人間はこの現象世界に居ながらにして、その大本にアクセスする思念を常に持ち合わせて生きるものなのです。しかし現代を生きる人々は、そういった人間の最も重要な立ち位置を維持するための能力の使い道を誤り、生まれてきた目的を見失っています。そして日々の中で大本へと意識を向けることを忘れているから、自我が暴走するのです。

では、思考の役割は何かと言うと、それは人間が思念に立ち返るためのガイドです。思考を巡らせ、探って探って探っていくことで、ある時ふっと思念が湧き出します。その時に人は、「ああ、そういうことは考えるのではなく、ただ意識を向けて発すれば返ってくるのだ」ということに気付くのです。それが、生きることを「いただく」ということです。そして最終的には私たちは大いなるものと一体であるというところに辿り着くために、思考は私たち人間が自らを導くためのガイドとなるのです。
人間以外の生命は、思考する能力を持ちません。本能という、大本の秩序と直結するものだけで生きているので、人間のように余計な旅をしないのです。つまり、それだけ自我が少ないということですから、大本の仕組みから自由に独立した状態で、全体を俯瞰して捉えることもできないということになります。それは大本の側にいるものであり、その場合、そこから分離して、大本と対向発生するという形が取れないのです。
神様はこの世界に自らの姿を表現し、その自らと対向するものの視点を通し、自らを認識できるようにしました。自らの側にいるものばかりでは、その自らの姿を認識することはできない。ですから神様は、自我を持つものとして、人間を地上に降ろしたのです。
大本と直結している人間以外の生命は、例えば微生物のように無数に存在するものでも、個々がバラバラに働くのではなく、秩序をもってまるで全体がひとつの生き物であるかのように仕事をします。微生物から宇宙の星々に至るまで、個々に分かれた無数の存在の一つひとつに宇宙の大本の柱が立ち、全体が同じ秩序の下にネットワークを築いているのです。人間には、大本とつながることで、そのネットワークの中で自らに与えられたポジションをしっかりと担い、役割を果たすための気付きが常に与えられています。ところが近代になると、人間たちはそのことを忘れ、日々の中でまったく大本に意識を向けなくなり、自我が暴走し始めました。そして自我から湧き出す思いに囚われ、余分なことを起こすようになったのです。

自我というものは、現実の損得に関係なく、その状態に自らを保っておきたいという奇妙な願望の元に、自身を凝り固まった状態で固定しようとします。今の状態でい続けようとする自分が、もっと自由であるはずの自分の動きを止めてしまうのです。そこから次の段階へ進むためには、自我から自らを開放することが必要ですが、その次の段階へ進もうとすると、自我は意志を持ち、自らが次の段階へ行くことを阻止するのです。
そこには、真我とは別の、囚われのかたまりが存在しています。それは、自身のカルマが成長し、人格を持ったようなものであり、本来は個性であるものが、癖・性分として凝り固まり、コントロールを失った状態です。人間が自我を持ち、自我の暴走による自己コントロールを失った状態では、それが長年のうちにこびりついてかたまりのようになるのです。そしてそのカルマが人間から学習して自我を持ち、囚われのかたまりとなって人格を形成するのです。それは、生きている状態ならば生霊になります。そして仮に人間が昇天してもカルマだけが独り歩きし、存在を保ったまま、うようよと辺りを漂うようになるのです。それはまるでウィルスのように、生きている人間たちを汚染していきます。そういった存在が実際にいることを、私たちは知らなければなりません。

自らの人格がカルマを持つことにより、それがこびりついて、カルマそのものとしての人格を形成する。それが、自らの本来の美しい状態である真我と対等の存在となり、どちらを選ぶか、あなたに選択肢を迫るようなものとなります。その時に、あなたは主導権をどちらに託すのか。
カルマの人格に飲み込まれないためには、この世界の成り立ちを良く知り、大本に意識を向けることで自らの中心に一本の柱を立て、しっかりとした立ち位置を持つことです。現代社会に生きる人々の多くが、本来の人としての立ち位置を忘れ、その人々が創る社会や地球規模の矛盾が溢れている現実を観ればわかるように、この世界を創造した神様の意思を忘れれば、柱のない邪に流れることとなり、カルマが創り出した人格に取り込まれ、こういった現象に出会うことになるのです。
私は人に語りかける時に、カルマの人格ではなく、真我に向かって語りかけます。なぜならカルマの人格に語りかけたとしても、それは聞く耳を持たないからです。ですから、本来の聖なる人間としての真我へ向かい、目覚めるように語りかけます。そして内なる真我が目覚め、自らにこびりついたカルマと対峙した時、その人は自らの力でそれを切り離す作業を進めていくのです。

しかしその切り離された、人格化したカルマにも、癒しを与える必要があります。なぜならば、それもあなたを代表する人格であったからです。

ガンが現れるのは、そこにガンが現れるべき理由があるからです。それをただ「これは要らないものだ」と切り捨て、正常な体に戻れば良しとするのが、現代の医療です。しかしガンが現れるには、私たちの側に何かしらの原因があり、ガンはそれを伝えるためのメッセンジャーとしての役割を果たしたのですから、切り取られたガンにも「ガンさん、ありがとう。ご苦労様」と言って、ガン供養をする必要があります。
それと同じように、カルマに対しても、カルマ供養をする必要があります。カルマにはカルマの発生した理由があり、カルマはカルマのように、自らへの自我的執着を形成したのです。それを解体して収めてあげるためには、「役割ありがとう、ご苦労様」と言って、その存在の意味を認めてあげることです。そうすると、カルマはスルスルと解けていきます。
人間は、人生の中でカルマと対向発生することで現象化を起こし、役割を果たしています。カルマと対向発生するということは、そこに何かしらの目的があるということです。その目的を現象化し、役割を果たした時に、優れた人格は切り離したカルマへ「ありがとう」と伝え、自らが美しいものとなり次のステージを迎えるのです。カルマも、必要なものとして存在していたのです。

視野を広げてみれば、この世界の政治にしても経済にしても、これまであったものはすべて、時代の要請により発生し、人間の歩みと共に、その仕組みが表現されてきたのです。そして時代の要請により、人間が次のステージへと進む段階を迎えた今、私たちはこれまでの仕組みに「ありがとう」と言って、それを供養する。そうして初めて、次の仕組みへと意識が向かうのです。その心に目覚めた人々が、これからの新しい時代を進めていってくれることでしょう。

こういった次のステージへ向かうための話を聞く時に、カルマは自身が崩壊しないよう、その話を自らが受け入れられる情報だけにしてしまいます。すべてを受け入れては自身が崩壊してしまうから、まず自らを守ろうとするのです。つまり、次のステージへと行かないようにするのです。それが自我です。
だからこそこういった仕組みを学び、自我ではなく真我を育て、真我が自我にメスを入れられるようにするのです。そして手放したカルマに向かい、「カルマよ、ありがとう」と慰め、これまでの自分に「ご苦労さま。私は次のステージへ行くからね」と言って、新たなステージへと上がるのです。
そうすると、カルマは捨てられたのではなく、その人間が上へ登っていくための階段になります。その人間が成長し、進化していく物語の中に組み込まれるのですから、捨てられたものではなくなるのです。こうしてカルマも納得し、新たなステージへの踏み台となるのです。

そのようにして人生を歩み、振り返ってみると、「ああ、いろんなことがあって、いろんなカルマを通してここまで来たんだな」と、みんなを認められるようになります。それは、カルマの階段です。今のカルマに役割を果たしてもらい、それが、次のステージへ上がるための一歩となるのです。

カルマよ、ありがとう。

 

 


「私の代わりに味わってほしい」~2020年直会の神事にて

木の花ファミリーでは毎年秋になると、春にファミリー皆で田植えした田んぼで「稲刈り神事」を行い、その後、収穫したお米をみんなで味わう「直会(なおらい)」の神事を行います。2020年は、秋分前日の9月21日に直会が行われました。まず始めに田んぼ隊が挨拶をし、続いてジイジが以下の話をしました。

 
ジイジ:
今日は年に一度の「直会(なおらい)」の日です。「直会」とはどういう意味か知っていますか?

今日は、今年採れた新米をいただく会です。毎年この日がやって来ます。地球は宇宙の中を、ものすごいスピードで太陽と一緒に移動しています。そして、二度と同じ場所へは行かないようになっています。ということは、地球の上に住んでいる私たち人間も、去年とはまったく違うところにいるということです。
去年と違うどころか、昨日とも違います。地球は秒速約30㎞で移動していますから、1日で約2,592,000㎞移動します。それだけの距離を、さらに自転し、振動しながら移動しています。それが地球の実体です。その上に私たちは住んでいます。
明日は秋分ですね。ということは、1年の4分の3が過ぎるということであり、太陽の周りを4分の3周したということです。もっとも、地球の1年の始まりは、本当は元旦ではなく春分ですから、そこからすると秋分は太陽の周りをちょうど半周したことになります。そしてその中心である太陽も、螺旋を描きながら銀河の中心の周りを回っています。その太陽の周りを地球が回り、その周りを月が回っています。そうして地球上では、太陽の陽の働きと、月の陰の働きによって海に満ち引きが起こり、それによって海に生命が誕生し、今、地球上はたくさんの命でいっぱいになりました。

今、田んぼ隊が今年の作柄について話をしてくれましたが、今年の7月はずっと雨が続いて「今年のお米はどうなるのだろう」と思っていました。今、ほとんどのお米農家は、化学肥料を使っています。そしてたくさん収穫するためにたくさんの種を播き、密植と言って苗を詰めてたくさん植えます。そうすると、雨が続くと茎が弱くなります。そして夏になり、ぐっと暑くなると、今度は実がたくさん実ります。そうするとどうなるかと言うと、頭は重くなるのに体は弱いので、稲が転んでしまうのです。今年は日本中でそういう田んぼがたくさんありました。
昔はお米が生活の糧でしたから、とても大切に育てていましたが、今ではお米の値段も下がり、親や先祖が残してくれた田んぼを受け継がなければいけないという義務感でやっている人も多く、あまり丁寧にお米を育てていません。しかしここは農的共同体ですから、お米が生活の基盤です。ですから木の花ファミリーの田んぼ隊は、お米を大切に育ててくれています。毎年気候はいろいろに変化しますが、木の花ファミリーの田んぼで稲が転ぶのを見たことはほとんどありません。それだけ体がしっかりしているということです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言うように、たくさん実るほど頭が重くなります。そのたくさん実ったものをしっかりと支えるだけの体を持っていなければいけません。今年もお陰様で新米を収穫することができましたが、まだこれからも大きな台風が来るかもしれません。地球温暖化などが原因で巨大台風が増え、これからお米が採れなくなることもあるかもしれない。そういった意味では、人間の生き方を考えなければならない時代が来たということです。

さて、1年が経つのは、地球が太陽の周りを回っているからですね?春分、夏至、秋分、冬至というのは、宇宙と太陽と地球の関係によって生まれるものです。その宇宙の仕組みのことを、天の仕組みといいます。何故でしょうか。
今、私たちはここにこうして立っています。そうすると天が上で、地は下ですね。では、地球の反対側にいるブラジルの人たちにとっては、どちらが天でどちらが地になりますか?そう、日本にいる私たちとは反対になり、私たちにとっての下が天で、上が地です。つまり、地球の外側は宇宙ですが、宇宙はすべて天だということです。
そしてその天は、どんどん移動します。地球は、約7分間で地球1個分を移動しています。全然感じられないでしょう?この新米をいただく会が始まってから10分ほどが経ちましたが、もう既に地球1個分以上を移動しているということです。それでも宇宙のスケールからしたらとてもゆっくりなのですが、地球上の私たちの感覚からするとものすごい速さでしょう?それなのに、それがまったく感じられない。だから人間は、自分たちがそういった宇宙の仕組みの中で生きていることを忘れてしまったのです。

宇宙と連動している地球の動きが、地上に春夏秋冬をもたらしています。その中で、私たちは春の訪れを喜び、田植えの時には豊作を祈願し、秋には実りに感謝して収穫をします。その恵みをいただくことで私たちの命はつながり、そのことへの感謝を捧げるのが神事です。
作物とは、天の仕組みが地上に顕されたものです。人間もそうです。天の仕組みが地上に顕され、食べ物ができ、それを食べることによって自らの命がつながっていく。もしくは、新しい命が生まれてくる。寿命を迎えれば肉体は消滅しますが、魂はまた新たな人間として生まれ、この地球上で命をいただいていく仕組みになっているのです。
それは天の仕組みですから、神様の仕組みです。それが宇宙の法則です。神社へ行って合格祈願をする神様とは、ちょっと違いますね。この宇宙を運営している仕組みのことです。
神様は地球という場所を創り、それを宇宙の見本としました。宇宙の見本とはどういうところかと言うと、みんなが仲良く、助け合い、つながり合って生きる場所です。それが地球の生態系です。いろんな生き物がつながり、いろんな出来事が重なり合い、それによって地球という星ができているのです。宇宙中を探しても、こんな星は他にありません。

命は、「みこと」と言います。神様が人間になろうとして降りてくる最初の姿を「みこと」と言います。イザナギノミコト、イザナミノミコトなど、神様の名前には「みこと」が付いていますね。
「みこと」は「命」と書きます。それが生の状態、つまり生きていることを、「生命」と言います。生命とは誰のことですか?そう、みんな生命ですね。動物も植物も微生物も、みんな生命です。「みこと」が生の状態であるのが生命であり、その中でも人間は、こういった宇宙の仕組みを紐解き、考えることができる能力を持った唯一の生命です。何故なら人間は、神様の代理として地上に降り、その役割を果たすものとして生まれてきたからです。
ところが今の人間は、自分のことばかり考え、天のことを忘れてしまいました。1日が経つのは地球が自転を1回したからですが、そういうことも考えないのです。1年が経つのは地球が太陽の周りを1周しながら宇宙を旅していることを、考えないのです。しかし命をいただくということは、そこに宇宙の法則が働いており、神様の代理という役割として生まれてきた人間が、神様と共にそれを表現していくことなのです。
その時に、神様には体がありません。生の体を持っていないのです。そこで神様は、自分もその生命の仕組みを感じるために、自らの代理として人間を地上に降ろしたのです。

神という字は、旧字体で「神」と書きます。神様は地球に様々な生命を生み出し、その進化の過程で、私たちの先祖はある時サルに至りました。その時に神様は、「あっ、我らの受け皿をあれにしよう!」と思ったのでしょう。あれを受け皿として私たちの魂(みこと)を降ろし、地上を生きることにしよう。こうして神様は、「申(サル)」を自らの魂の「示し」としました。それが「神」です。
ですから人間とは、生命の中でも特別な存在です。サルにみことの魂が降り、生で生きている状態  ——— それが人間なのです。ですから人間は、他の猿とも違い、地球上で特別な存在でしょう?
では神様はなぜサルを器として自らの魂を降ろし、人間の世界を創ったのかと言うと、この宇宙の仕組みを地球上に表現するためです。みんなで仲良く調和し、美しい世界を創ろう。すべてがつながり循環する、命の世界を創ろう。そう考えたのです。そして今も、地球はその法則のもとに運営されているのです。

みんなは、神様から地球上の運営を託されています。その時に人間は「カキクケコ」なのです。
「アイウエオ」には、宇宙創造の原理が示されています。でも今日は直会ですから、「カキクケコ」をカタカムナで紐解いてみましょう。
「カ」は宇宙の最極小微粒子です。これが質的転換を起こし、土になったり植物になったりして、お米もできます。人間もすべて、元は「カ」からできています。その「カ」が、「キ(起・気・木・生)」、つまり生命としてビシッと立ち、繁栄している。そしてそれが「ク(自由)」の渦となり、「ケ(気配)」となって「コ(転がり出る)」となる。気配とは生命の元です。何になるかわからないものが、様々な縁によって転がり出ることで生命となる。「カキクケコ」とは、直会の仕組みを表しています。
お米を食べない、つまりご飯を食べないと、力が出ませんね。ですから「カ」=宇宙の原料が、「キ」=起動したものを、「ク」=食うのです。「ク」には「ウ」が隠れています。そして「キ」とは、気のことです。それは生命エネルギーです。

天はこのような仕組みを創り、人間に与えました。なぜ人間に与えたのかと言うと、自分も一緒にそれを楽しみたいからです。「私の代わりに、おまえたちにそれを味わってほしい。」そのために神様は、人間に肉体を与え、地上に降ろしました。
ですから食べ物を食べる前には、「いただきます」と言って感謝をします。そして味わいます。食べ物を噛み、味わうと、天の神様はその人間の味覚を通して「ああ、こういう味か」と味わうのです。神様は体がなく、味覚もありませんから、自分では味わうことができません。ですから神社では、新米を収穫した時などに直会会を開きます。そこでは、五穀や旬の野菜をお供えします。そして「神様、あなたに感謝し、今からこの恵みをいただきます」と祈りを捧げます。そこでただお祈りをしただけで片付けてしまっては、意味がありません。それを調理し、みんなが「美味しい、美味しい」と味わうことで、神様はみんなの体を通して、一緒にそれを味わうのです。「食べ物をいただく喜びとはこういうものか。私が願っていたことが、人間を通してこうして実現でき、よかったよかった」と神様も一緒になって喜ぶ。これが天地一体の人々の生き方です。

直会とは、神様と直接会うということです。ですから私たち人間は、お供えしたものを神様と一緒にいただくのです。
今日は新米をいただく会ですから、収穫したお米をみんなで一緒にいただきます。いただくのは、お米だけではありませんね。そして、今日だけでもありませんね。直会の神事は1年に1回だけのことですか?本当は違うでしょう?毎日毎日、私たち人間は神様の一部として、直会をしているのです。
いつも感謝し、毎日を直会の心で生きていくと、人間は謙虚になり、みんなで助け合うようになり、調和の世界ができることでしょう。そうすると、今地球上に起きているたくさんの災害が、穏やかになります。
今は人間がこういった宇宙の仕組みを忘れ、自分のことばかり、モノやお金のことばかり考えるようになりました。しかしこの世界は「カキクケコ」、つまり、宇宙の仕組みによって命の原料が様々に変化し、まるで生命の海のような、とても豊かな星を創ったのです。宇宙中を探しても、こんな星は他にないのです。

そのことを人間が理解せず、感謝を忘れ、これ以上命の仕組みを無視していけば、天の神様は望んでいないことですが、これからさらに生き辛い世界が人間に与えられることでしょう。それは、人間に大切なことを伝えるためです。今ここにいる人たちは、そのことを知っているのですから、これからそれをもっとたくさんの人々へ広げていきましょう。そのことをしっかりと心に刻む日として、私たちは今日、今年の直会の神事を迎えたのです。
新型コロナウィルスによって経済が揺らぎ、世界が大きく混乱している世の中のことを思うと、今年の直会の神事を特別意義深いものにしなければならないと感じながら、お話を終わりたいと思います。

 

命に感謝し、天の恵みを「いただきます」